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先週行われたパレスチナ評議会選挙で、ハマース(現地の発音はこちらの方が正しいらしい)という組織が過半数を制し第一党となったことで、世界中のマスメディアが騒いでいる。 とはいえ大抵の人は主に日本のメディアから情報入手しているだろう。それによると、ハマースは「危険思想の極右政党」であり、「イスラエルに対して最強行派」であり、「これで中東情勢は混迷の度を深める」という報道が殆どだった。 日本の新聞・テレビの報道では、40年間政権を握っていたファタハがなぜ下野しなければならなかったのかが良く分からない。繰り返されるのは「ハマースは武装闘争支持の極右政党」というものばかりで、これらの報道ばかり聞いていると「一体何故パレスチナの人々は極右政党なぞ選んだのか?そんなに戦争を望んでいるのか?」と思わされてしまう。 しかし、私の読んでいるメルマガに「レバノン通信」なるものを発行しているNGOの方の寄稿があり、これを読んで非常に納得がいった。 その方によると、ハマースは確かに武装闘争を継続してはいるものの、その活動は学校・病院・保育所・薬局等広範囲にわたり、自前の資金調達も豊富、かつ地域での活動が非常に密で人々の信頼が厚く、今回の選挙は勝つべくして勝ったのだと言う。 これに対し、ファタハという政党は40年間政権にあり、先進諸国から湯水のような開発資金援助を受けているものの、政権内の汚職が続き、貧困問題も一向に解決していないということで、今回の選挙では「対イスラエル」という争点と「国内問題解決」という争点が存在し、ファタハはその両方に敗れたとみるべきなのだろう。 今回の選挙結果を受けてアメリカは早速神経質な対応を見せている。それと同時に「ハマース=危険な集団」という論評だけが世界中をまかり通り、またもや世論を間違った方向に誘導してしまうのではないか。 どんな局面にも複数の見方が存在する。今回のハマース勝利報道は、もっと慎重にされるべきだと改めて感じた。「レバノン通信」リンクはこちらですhttp://www.geocities.jp/beirutreport/
2006年01月31日

木村直己の「天涯の武士」第一巻が発売された。幕末の幕臣・小栗上野介の生涯を描いた異色作品だ。 幕末を描いた漫画は非常に多い。しかしそれらは大別すると「新撰組物」と「薩長土」連合側の物語が多く、「賊軍」なった幕臣側を描いた作品は非常に少ないようだ。 「幕末」は日本の歴史上いうまでもなく非常に重要な時代であり、今もなお続々と新しい研究結果が発表され、多くの人々の関心を集めている。西欧列強によってアジアの殆どの国々が植民地となる中、どちらの側であるかは関係なく、思慮深い武士たちは皆日本の行く末を案じていたのだ。 にも関わらず、「負けた側」の悲しさか、はたまた本当に人材がいなかったのか、勝海舟を除いてこれまで幕閣の要職を務めた人間の漫画作品はなかった。 小栗上野介は日米修好通商条約締結のために開国早々米国に渡り、その巨大な国力をつぶさに観察し、幕府の中から日本を西欧列強に伍する強国に育てようとした。横浜製鉄所(造船所)の建設、陸軍伝習所の創設、仏語学校の建設等、彼の功績は幕臣という枠を遥かに超えて、その後の日本の礎になったものばかりだ。 しかし小栗は幕臣であったがゆえに、その開明的思想を生かしきる事が出来ず非業の死を迎えることになる。その理想半ばに倒れた彼を指して「天涯の武士」とはまさに素晴らしいネーミングではないか。連載ではようやく生麦事件まで来たところで、彼の活躍が描かれるのはまだまだこれから。大変楽しみな作品だと思う。こちらです 天涯の武士幕臣小栗上野介(1之巻)
2006年01月30日

Simon Le Duc という作曲家をご存じだろうか。フランス人で、1742年に生まれ、35歳で夭折している。 モーツアルトが1756年から1791年まで生きた人だから、多少はかぶっているものの、どうやら特に交流はなかったようだ。 この名はサイモン・ル・デュクとでも表記すればいいのだろうか。死の直前の1776年と77年に交響曲3曲を残し足早にこの世を去っているが、なんとこの3曲がモーツアルトの作品に似ている良く似ているのだ。ある音楽評論家は「モーツアルト以前のモーツアルト流」と評しているらしい。 この時代、もちろんモーツアルト以外にも作曲家は掃いて捨てるほどいたわけで、皆それぞれの宮廷向けに様々な作品を発表していた。しかしそれらの作品の多くは明確な主題がなく、特に感動を覚えない旋律をただただ繰り返したり、どれもこれも似たような作品が非常に多い。 その中で、このサイモンの交響曲は3曲とも三楽章制ながら、実に典雅で光り輝くような旋律が次々に現れては発展し聞き手を飽きさせない。中間部のアダージョやアレグロ楽章など夢見るような美しさだ。なんでこの作品が埋もれたままになっているのだろう? 死の直前に交響曲だけを書いて世を去ったために全く忘れられた作曲家になってしまったらしいが、こういう作曲家はまだまだ他にもたくさんいるのだろうか?私の守備範囲?はもっぱらロマン派以降なので、ちょっとこのあたりは疎いのだ。 このCDを購入したのはもう10年以上も前だが、HMVの謳い文句も「まるでモーツアルト!?」という類だったような気がする。確かにそのまま黙ってかけていれば、モーツアルト初期の交響曲かと錯覚するほど素晴らしい曲なのだ・・・ これだからCD漁りはやめられませんね。こちらです。現在は廃盤かも ARION ARN55408
2006年01月28日
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本日はモーツアルト生誕250周年記念日。朝日新聞に別刷りで特集が組まれていたし、天声人語でも取り上げられていた。 マーラーやブルックナーは嫌いだという人は結構いるし、他の作曲家についても好き嫌いは良く聞くのだが、モーツアルトが嫌い、という人にはついぞお会いしたことがない。あの優美な旋律を一度聴いてしまうと、なかなか文句をつけられなくなるのだろうか。 モーツアルトの楽譜には推敲したり書き損じたりした跡が殆どないという。他の多くの作曲家が何ヶ月も部屋にこもり、髪の毛をかきむしりながら必死になって音符を脳髄から搾り出すのに四苦八苦するのに、モーツアルトはまるで頭の中に出来上がっている音符をただすらすらと書き写していただけのように見えるらしい。 多くの作曲家は、師事した先輩教師や友人仲間の影響を受けるため、「他の作曲家に全く似ていない音楽」を書いた人は意外に少ない。ベートーヴェン、ブルックナー、ワーグナーあたりは図抜けてオリジナルな人達だが、マーラーやシベリウスあたりになるとかなり同時代の作曲家に影響を受けている。 そのなかでモーツアルトのオリジナリティは群を抜いている。その優美さ、美しさを後世の作曲家が真似をしようとしても誰も実現出来なかった。モーツアルトの「霊感」は常人のものとは全く異なり、その死まで全く枯れる事がなかった。 シベリウスはあれほど偉大な交響曲を7曲書いた後、突如作曲をしなくなり、以後死去するまでの約30年間作品を発表しなかった。エルガーも死ぬ直前に書いていた交響曲3番は、その前に書いた2曲に比べると悲しいほど旋律の美しさに衰えが見えた。作曲家にとって「霊感」を保持し続けることは相当困難であったに違いない。 例えばベートーヴェンを「努力の人」、ショパンを「天才」、マーラーを「奇才」というふうにあだ名をつけることはたやすいが、モーツアルトにはなんとつけたら良いのかよくわからない。彼の音楽は唯一無二、その人間離れした才能を単に「天才」という一言で表せるとは到底思えない。ロマン派以降の作曲家の中で、人智を超えた「宇宙人」のような存在であると私は感じている。 それにしてもこの250周年での各社のはしゃぎっぷりはすごい。どのレーベルも「モーツアルト」に関連した商品をガンガン出しているが、その中でもユニヴァーサルが発売している「モーツアルト大全集」が凄まじい。CD180枚組みで各種特典がつきで約25万円なり。その特典は以下の通り。<大全集のみの5大特典>1モーツァルト読本(A5版ハード・カヴァー約200頁)2モーツァルト作品目録(旧全集、新全集を対比できる作品目録)3特典CD:管楽アンサンブルで聴く《フィガロの結婚》《ドン・ジョヴァンニ》4特典DVD:モーツァルトの旅5全巻収納木製キャビネット(高さ346mmx 縦491mm x 横209mm)総重量:30kg強その他の特典モーツァルト生誕250年 特製皮手帳 いやぁ~25万円も払うならこれくらいの特典は当たり前というか、何をつけてくれれば嬉しいのかもはや分からないが、こういう商品って個人で買う人がどれくらいいるのだろうか?学校とかで購入したりするものなんだろうか?余計なお世話だが、この手の大全集物(そういえば数年前バッハ大全集という企画もあった)いつもそんなことを考えてしまうのだ。普通の人はこれで十分でしょう【ポップ・クラシック】どこかで聴いたクラシック モーツァルト名曲ベスト101 (CD)
2006年01月27日
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昨晩NHKで小田和正のコンサート活動ルポをやっていた。昨年アルバム「そうかな」が大ヒットしたときに、この場で「57歳なのにすごいパワーだ」と書いたが、その後彼は全国で50回に及ぶコンサートを繰り広げていたのだ。 オフコース時代の小田のコンサートはまるで「歌の求道者」のようだった。武道館で何回か見たが、とにかくMCがなくて、ひたすら歌い続ける。満員の観客相手ににこりともしない。「歌さえ聴いてもらえればいいんだ」そんな感じだった。 番組中、「昔はひどかったな~。愛想がなくて、聴きたい人は聴けば、みたいな感じだった」と本人も述べていた。それが昨日は全く変化していた。 とにかくコンサート会場内を走り回り、観客に手を振り、よく語る。昔を知るものには驚きだった。本人は、「年をとって、ありのままの自分を見せられるようになった。特に同じ団塊の世代の人達に、僕も頑張っているから、みんなも頑張れ、みたいなメッセージを届けたい」と語っていた。 小田の歌の特徴はあの透き通った高音だ。毎日蒸気を喉にあてても、さすがにもうあの声は昔と同じようには出ない。だからリハーサルでは声をはりあげない。 「ごまかしの効かない歌ばかりで、声が出なくなったらどうしよう、といつも悩んでる」とも云っていた。それでもコンサートではあの声が戻り、観客を魅了する。しかし体を酷使していることは事実だ。 番組中に東北大学の同期が出ていたが、普通の企業では58歳といえばもう定年間近、大きな節目の年齢である。残念ながら体力も気力も若い頃よりは衰えてくると云わざるを得ない。そんな中で、自分の限界まで体と喉を酷使してコンサートを続ける小田の姿は感動的だった。 若い頃は、自分の歌に絶対の自信を持ち、TVの歌謡番組やバラエティーには滅多に出演しなかった。しかし年をとり円熟味が加わり、自分が歌を歌い続けることが、同じような年齢の人々の励みになっていることが分かるようになってから、小田の中で何かが確実に変わったのだ。 昨年はコンサートに行けなかったが、今年はまたやってくれるのだろうか?今年は是非、頑張る小田の姿を見に行きたいと思った。57歳の最新アルバムです 小田和正/そうかな
2006年01月23日
考えてみると先週聴いたカリンニコフとショスタコーヴィチの作品は、作曲をする上での環境(体制)が作曲者にどれだけ影響を与えるのかを非常に鮮明に描き出していて興味深かった。 カリンニコフは1866年に生まれ、1901年に亡くなっている。あと15年足らずでソビエト革命が起きたとはいえ、彼が生きていた時代はまだまだ帝政ロシアの社会だった。この頃は一部の貴族や富裕層以外の国民は貧しかったが、「作曲」活動に「国家」が介入することは無かった。 そもそもこの時代「音楽」は国民を動かす為の道具ではなく、貴族中心の富裕層の「娯楽」的要素が強かった。チャイコフスキーの有名曲も、まだまだ一般国民が楽しんで聴くという状況ではなかったわけだ。しかし作曲で身を立てるという手段は確立していた。 そのような時代を背景に書かれたカリンニコフの交響曲は、ロシアの自然と郷愁を美しく描いており、そこに「思想」だの「国家」だのは登場しない。ひたすら素朴に生の喜びを歌い上げているのだ。 対するショスタコは誰もが知っている、共産党独裁のソ連邦を代表する作曲家。恐怖のスターリン時代を生き抜き、15もの交響曲を残した。しかし共産党から「わざと難解な音楽を書いて人民を愚弄している」「革命に非協力的な危険分子」というレッテルを貼られ、何度も命の危険にさらされた。 ショスタコの生涯は自分が住んでいる国家体制からの圧迫と、自分自身の芸術的欲求との果てしない闘争の連続だったと言っていい。有名な「革命」も初演時は革命讃歌としてもてはやされたが、現在そのような解釈でこの曲を振る指揮者はいないだろう。共産党の意向に沿う曲を作ることが至上命題で、自由に自然を謳歌するような曲など書いても評価されないばかりか、命の危険さえあった。 とはいえその強烈な精神的圧迫から、後生に残る曲を作るのだからやはりショスタコは天才だ。5番や7番交響曲のような巨大なスケールの音楽は、あの時代と体制がなかったら間違いなく生まれていないだろう。 「森の歌」も最終第7曲集結部は合唱と管弦楽が最高潮に達し、聴く者を圧倒し、高揚させる効果を発揮する。そこで歌われる歌詞は「人民万歳、共産党万歳、スターリン万歳」の繰り返し。人々を無理矢理鼓舞する圧倒的な音楽ドラマを書き上げているとき、ショスタコの胸中はどんなものであったのか。 カリンニコフとショスタコーヴィチ。生きた時代が異なるだけで、同じロシアの作曲家。しかしその作風は全く別の国の人間のようだ。そして彼らの音楽は、自由に作曲し発言できる社会の尊さを教えてくれている。
2006年01月22日
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昨日サントリーホールでカリンニコフの交響曲第1番とショスタコーヴィチのオラトリオ「森の歌」という大変珍しい曲目を聴くことが出来た。演奏は東京フィル、指揮はロシアの重鎮フェドセーエフ。 カリンニコフは僅か35歳で夭折したロシアの作曲家。チャイコフスキーとほぼ同じ時代に生き、交響曲を2曲と幾つかの管弦楽曲を遺したが、あまりにも早く亡くなってしまったため、その作品はほぼ忘れ去られていた。 しかしこの交響曲第1番は素晴らしいメロディに満ちあふれた傑作だ。第一楽章から、初夏のロシア平原に吹く爽やかな風のような旋律が聴く者を捉えて離さない。第二楽章の静かな叙情、第三楽章の躍動感、そして光り輝く最終楽章。この曲はもっと聴かれてもいい。 フェドセーエフの指揮は第一楽章が遅く始まり、終楽章が早い。これにはかなり違和感を感じていたところ、隣に座っていた方がなんとこの曲のスコアを持って聴いていたため休憩時間に聴いてみた。 すると、第一楽章の指示はアレグロモデラートだから確かにスコアの指示よりは結構遅く、逆に終楽章はアレグロの指示なのにそれよりも駆け足ですね、とのことであった。彼によればこれはいわゆる「フェドセーエフ流」で、他の曲でも彼は殆どこうしている、とのことだった。そりゃあもはや重鎮ですからやりたいようにやるんでしょうけれども、ちょっと最後はもう少しタメが欲しかったなあ、というのが素直な印象。 そしてオラトリオ「森の歌」。これは第二次大戦後、スターリンの国土改造計画に伴う国威発揚のためにショスタコが無理矢理書かされた、(スターリンが喜ぶ曲を書かなければ命の危険があった)ということになっている「ワケあり」曲。 テノール・バリトン独唱、混声合唱、少年合唱による壮大な「共産党賛歌」はある時は素朴に、またある時は強烈に聴く者の魂を揺さぶる。歌詞さえ差し替えればそれなりの名曲だと思う。(歌詞はショスタコの作ではない) 簡単なあらすじとしては、「戦争で国土は荒廃してしまったが、人民が一丸となり力を合わせて農作業や植樹に汗を流した結果、こんなに肥沃な大地が復活した。共産党とスターリンの指導のお陰です」というもの。 全体は7つに分かれているが、終曲が凄い。大地は見事に復活した、労働者の勝利だ、共産党よ有り難う、スターリンよ有り難う(初演時は固有名詞があったらしいが、彼の死後削除された)のオンパレード。 ああ、レーニンが(この立派な状況を)見ることが出来たなら!という箇所では思わず吹き出しそうになったが、当然この曲の初演時には、演奏者は力一杯、命をかけて歌ったのだろう。そして終曲部分はまるであのレニングラード交響曲のような巨大で肯定的なエンディングとなる。 当然ながら初演は大成功、翌年この曲は名誉ある「スターリン賞」を受賞し、ショスタコーヴィチは再び国家英雄に返り咲く。しかし彼は初演後帰宅し、ベッドに突っ伏して声をあげて泣いた、という言い伝えが残されている。 この曲はその内容からさすがに現在のロシアではもはや演奏されないタブー曲になっているらしい。たしかに歌詞はトンデモな内容だが、曲自体はなかなか聴き応えがあった。フェドセーエフの指揮も熱意に溢れ、曲自体の良さを十分に引き出していたと思う。楽天ではこの演奏で。アシュケナージ/カリンニコフ:交響曲第1番&第2番
2006年01月21日
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産経新聞社から出ている「モーストリー・クラシック」3月号は「クラシックの新潮流」と題して「のだめ」特集を組んでいる。 ちょっと見ない間に「モーストリー」誌はだいぶ落ち着いた本になってきたような気がする。創刊当時は広告ばかりで、これで1000円もとるのかよ、と思ったが、だいぶ編集も慣れてきたのか読みやすくなってきた。 特集はCD「ベスト・クラシック100」のメガヒットや昨年5月の「ラ・フォル・ジュルネ」、それに「のだめ」の大ヒットは、確実にクラシック音楽界の新時代を象徴しているのではないか、という内容。 のだめ特集は内容紹介、作者インタビュー、アーティストインタビュー、評論家寄稿、そしてKiss編集部インタビューと盛りだくさんで楽しめる。編集部インタビューの中で、「のだめ」が単なる学園コメディーから「音楽」にきちんと取り組む姿勢に転じたのは、千秋がシュトレーゼマンと出会ってラフマニノフのP協を弾いたあたりから、との話が興味深かった。 「のだめ」の凄さは、クラシック初心者にも詳しい人にも、そして玄人(アーティスト)にさえも同じように受け入れられ、支持されていること。クラシックを舞台にした漫画作品は今までもあるにはあったが、専門的になればなるほど初心者には理解できなくなる傾向が強く、なかなかヒットしなかった。 そこを作者の二ノ宮氏が類まれなる?ギャグセンスで口当たりを良くしつつ、内容にもこだわったおかげで大ヒットに結びついた。 今年の「ラ・フォル・ジュルネ」はモーツアルト生誕250周年でもあり、当然モーツアルトづくしの三日間らしい。のだめとの共闘?もあるのだろうか。いずれにしても、クラシックの門戸は確実に拡がりつつある。素晴らしいことではないか。各ショップでも山積み。演奏陣も一流揃いですこれひとつでクラシック名曲はおまかせ!CD6枚組で100曲収録!!ベスト・クラシック 100モーツアルトもあります!●“ベスト・モーツァルト100”CD<6枚組>(2005/8/31)
2006年01月20日

今回のトップページリニューアルで各コーナーをアイコン化したところ訪問いただいている方が増えているようで大変嬉しい。で、実は他にも10人くらいの準備がすでに出来ているのだが、画像は準備できていてもそれをコーナー化する時間がなくて今に至っている。自分にプレッシャーをかける意味でもここで発表してしまおう。 で、今後のラインアップ予定の作曲家の写真を五人分用意したので、誰なのか見ていただきたい。全員分かれば結構大したものですよ。答えは明日。A. B. C. D. E.
2006年01月19日

鬼才ギドン・クレーメルが20年ぶりに「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ 全曲」を再録音したディスクを聴いた。 鬼才と云ったのは、このクレーメルはその才気の赴くままに映画音楽やピアソラなど、クラシックと異なる異業種音楽を非常に積極的に録音してきた人だからだ。 特にモダンタンゴの巨星、アストル・ピアソラへの傾倒ぶりはすごく、早くから「ピアソラへのオマージュ」というCDを3~4枚出している。私は彼のアルバムを通してピアソラを知ったといってもいい。 とにかく早くから天才中の天才として名高い人だったので、早い時期から有名曲は片っ端から弾き、最近は無名曲から現代曲までをあるときはソロで、またあるときはグループを組んで演奏している。毎年のように来日していて、まさに八面六臂の大活躍という感じの人だ。 その彼のバッハ。普通、歳月は人を穏やかにする、という。若いときには硬い音色だったものが、時の経過に伴ってまろやかな、味わい深い音に昇華していく~というのがひとつのパターンだろう。しかし、どうやらクレーメルにはその常識はあてはまらないらしい。 厳しい、彫りの深いバッハだと感じた。技巧は無論完璧である。しかし過剰な色彩感や優美さとは無縁。そして昨今のモダン楽器の響きをも取り入れた、きびきびした音の世界が展開される。 もともとヴァイオリンの聖典とまで称される曲であるから、暖かさとかきらびやかさとは違った、孤高の美しさを要求される曲なのだろう。その点では、(好き嫌いは別として)クレーメルのこの演奏は正鵠を得ていると言えるのではないか。 演奏とは別に、この録音は好き嫌いが分かれるかもしれない。楽器は非常に近く明瞭に聴こえるが、概して冷たいというか、乾いた雰囲気を感じる。しかし演奏は静かに燃えているのだ。 これがクレーメル20年間の到達点なのか。いやいや、彼にとってはまだまだ通過点なのだろう。きっとさらに20年後、また違ったバッハが聴けるのではないか。ともあれこのディスクは、稀代の天才の実力をさらに高らかに宣言した素晴らしい録音であることは間違いない。こちらです。残念ながら楽天にはまだないようです・・・
2006年01月17日
昨日トップページのデザインを変更。同時に、各コーナーをこれまでの縦スクロールからボックス横並び型に変更したら、結構多くの方にご覧いただいているようようで大変嬉しい。と同時にある問題が目立ってきた。 それは、各コーナーに貼ってあるCDやDVDのアフィリエイト・リンク切れ。数ヶ月前にも同じような事を書いた気がするが、今回チェックしてみて軒並みリンクが切れているのには驚いた。(これから順次直します) まぁ確かに古いものは制作して1年以上が経過しているからなのかもしれないが、それにしても多い。これって仕方がないことなのだろうか?日記のように書いたらほぼ顧みないページのアフリは切れてもいいが、常設コーナーのアフリが切れていたら、せっかく見てくれた人に失礼というものだ。 さらにいつも感じているのが、相変わらずのクラシックCD品揃えの貧相ぶり。これでも二年前にこのHPを始めたときよりは格段に良くなったのだが、まだまだという感は否めない。 例えばフルトヴェングラーのバイロイトの第九は、以前には商品写真があったのに現在は一枚もない。さらに正規盤(国内盤=東芝EMI)は一つしかない。 せっかく「のだめ」の活躍でクラシックファンのすそ野がグーンと拡がって来ているのだから、もう少しまともに品揃えをして欲しいと思うが、いかがなものだろうか。
2006年01月16日
今回、10万アクセスを記念して?トップページデザインを大幅に変えてみました。 思えばこのHPを開始して2年間、殆どトップページをいじっていませんでした。その間、コンテンツ(フリーページ)はどんどん増殖し、縦スクロールが異常に伸びていましたが、そのままになっていました。 今日は以前から要望をいただいていた初心者のためのCD紹介やマンガ作品紹介コーナーを作り、併せてフリーページをコンパクトにまとめてみました。しかしやはり素人の悲しさ、なんだかイマイチごちゃごちゃしております。 まぁ今後も試行錯誤して、20万アクセスくらいまでにはすっきりと見やすいHPにしたいな、などと願っております。あくまで願望ですが・・・
2006年01月15日

本日予約していた「のだめ」14巻が到着、早速家族全員で回し読みしました。予約していたのでしおり&ファイルセットもGET! 練習不足のマルレ・オケの常任指揮者に就任した千秋の苦労&のだめの試験話がメインですが、さりげなくギャグが散りばめられていて安心して?笑えマス。 読んでいない方にはネタバレになるのであまり書きませんが、15巻でののだめの活躍が予感される展開になっております。でも欲を言うなら、試験会場でもう少しお馬鹿ぶりを発揮してくれても楽しかったかも・・・まぁさすがにコンセルヴァトワールに通っているのでは、お笑いだけでは試験に受からないですからね。 でも正直、今回家族の話題を独占したのは本筋から外れて、同封されていた15巻のチラシに!! そう、例の限定版15巻、マングース君のチラシが入っていたのですよ!これです~ 完全受注生産!!限定版『のだめカンタービレ (15)巻』<ラプソディ・イン・ブルーを演奏し... いやぁ~この写真を見ればファンならば誰もが欲しくなるでしょう、マングース!やりますな、講談社!しかもおなかを押すと「ギャボ」と鳴くそうです(マンガを読んでいない方には、なんのことかさっぱり分かりませんな)。先日、発売が6月なのに、今はまだ予約する気になれないなどと書きましたが、このマングース君は受注生産品なので申し込み締め切りがなんと2月28日!我が家は早速申し込むことになりそうです、トホホ。14巻はこちらデスのだめカンタービレ(14) しおり付きもまだあるのかな。限定版『のだめカンタービレ (14)』<しおりファイル+しおり5枚付き>
2006年01月14日

リヒャルト・シュトラウスの音楽はどのように演奏されるのがふさわしいかというと、「メタモルフォーゼン」以外はやっぱりゴージャス・サウンドなんだろうな、と常々感じている。 シュトラウスの「アルプス交響曲」「ツアラトウストラはかく語りき」「英雄の生涯」などはいずれもとにかく贅を尽くした音響の世界に圧倒される。ホルンをはじめとした金管吹きまくり、弦引きっぱなしの豊穣な音世界、というのが彼の印象だ。 ラトルの新盤「英雄の生涯」を聴いた。またも圧倒的な職人芸、きびきびしたBPOサウンドは、この作曲家の「金ピカ」な雰囲気よりもどちらかというと純粋な器楽音響のお披露目、といった印象を受けた。無用な派手さはいらない、純粋にシュトラウスの音響世界を再現すればよい、というラトルの意思が働いているのだろうか。 ラトルの解釈をどうこうという前に、シュトラウスの音楽にはそもそも思想というものがあるのだろうか、といういつもの疑問が湧いて来た。「アルプス」も「ツアラ」も「英雄」も、表面的な派手さはもちろん評価できるものの、何回聞いても「すごい音だな」以外はどうにも心に残るものがないのだ。これは私だけなのだろうか? 私にとってその唯一の例外は彼の最後の作品、「メタモルフォーゼン」。爆撃により崩壊していくドイツの街を描写したといわれ、23の弦楽器のみにより演奏される物悲しいメロディーは、金管を多用し派手な演出の多かったシュトラウスが最後に辿り着いた素朴な心象風景として、他の曲よりも私は非常に高く評価している。 ど派手な音楽にはど派手な音色の楽団を、ということであるならばこれはカラヤン時代のBPO録音が一番ふさわしい。炸裂する金管、うなりをあげる弦をあれほどうまく、かつ余裕を持って演奏できたコンビはいないだろう。 そのど派手コンビによる「メタモルフォーゼン」は数種類の録音があるが、お勧めはDVD化もされている最後の録音。滅多に感情移入を見せないカラヤンが悲しみに顔をゆがめるような表情を見せ、演奏も悲しみに包まれる。シュトラウスの派手さ加減に辟易している人は、是非一度聴いてみて頂きたい。こちらです カラヤンの遺産5 R.シュトラウス:交響詩「死と変容」、メタモルフォーゼン
2006年01月13日

大植英次/大阪フィルの新録音がフォンテックから相次いで出ているが、その中から初代音楽監督故朝比奈隆の誕生日に行われた演奏会録音を聴いた。 朝比奈/大フィルのブルックナーといえば日本国内ではまるで聖典のように崇められている録音が多いので、さしもの日の出の勢いの大植も熟慮を要しただろう。 正直言って私はまだ大植の演奏を云々出来るほど彼の演奏を聴いていない。今までは決してアルバムも多いほうではなかった。(先月、マーラー6番・ショスタコ7番と相次いで大曲がリリースされた)ただ、昨年のバイロイトへの登場からしてみても、欧米での評価は非常に高いようだ。 この8番は、朝比奈指揮の大フィルとは明確に違った音がする。朝比奈の時はとにかく骨太、がっしりとした音響を響かせていたが、大植になって(当然ながら)もう少し細部にこだわり、アンサンブルのきめの細かい演奏が聴こえていた。こうした点は、中間楽章の演奏においてより美しい音を生じさせて好感が持てた。 演奏時間は、第一楽章から第三楽章までは両者ともそんなに変わらない。第三楽章アダージョも、十分に祈りの美しさを表現していた。 不満だったのは最終楽章。大植の演奏時間21分52秒は朝比奈の2001年録音よりも2分近く早い。朝比奈と比較して早いからどうだ、というのではなく、それまでの三楽章を悠々と構築したわりに、最後を走り急いだ感じに聴こえてしまうのだ。 ブルックナーの7番は、最終楽章の短さをよく指摘される。8番はその点を考慮に入れ、長大な物語をがっしりとした終楽章が支えている。この部分の造りがあっさり短く聴こえてしまうと、折角の巨大構造物の足元が揺らぐような気がしてどうにも心もとない。今回の録音ではどうしてもその部分が気になった。 しかし、あの朝比奈の後では、どんな録音をしたところでなんやかや云われるのは仕方のないところだろう。今回の演奏は、全体としては堂々として美しい、十分及第点のブルックナーだと思う。最終楽章は、(私には分からなかったが)敢えて朝比奈との差異を表出しようとした大植の深謀が働いているのかもしれない。今後の彼の演奏に期待していきたい。こちらです! 大植英次/ブルックナー:交響曲第8番
2006年01月10日
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今日の高校サッカー決勝、鹿児島実業VS野洲は本当に面白かった。組織サッカーとフィジカルタッチの強さで群を抜く鹿実。鹿実一筋42年の監督の下徹底的に身体能力を鍛え抜き、選手達の体格は他チームより明らかに上だ。全員五分刈り。がっちりと守り、セオリー通りの堅いサッカーが売り物。現在の高校サッカーの、というよりも全世界的なサッカーの主流だろう。 対する野洲は全国大会二度目の出場。しかも県立。こちらは「見せる(魅せる)サッカーを信条に個人技に徹底的にこだわった、ある意味型破りなチームだ。長髪OK、二時間半の全体練習の殆どをミニゲームに使い、ゲームの中で創造性を養うという練習をしてきた。 今日の決勝はいうなれば「柔よく剛を制す」試合ではなかったか。解説の前園(鹿実OB)が、「夏合宿は殆どボールにさわらず、フィジカル強化練習が殆どだった。例えば、ゴールからゴールへの全力ダッシュを50~60本はやってましたね」と語っていた。 私も中・高サッカーをやっていたことがあるのでその凄さは分る。その過酷な練習に耐え体力を磨き、さらにテクニックを身につけた選手が鹿実のレギュラーなのだろう。対する野洲は毎日試合形式の練習を徹底的に行い、いわば実戦感を掴むことに全力を傾けてきた。今日の試合で彼らが見せた再三にわたるヒールパスは、その実戦練習で養えた連帯感の共有がなければ絶対に出来ない技だった。決勝点もそのヒールパスが起点となったのだ。 もちろん野洲はテクニック重視だけではない。全体練習は二時間半だが、その後各選手は個人個人練習を行い、夜十時まで練習に没頭する選手もいたという。90分間プラス20分間のハードな試合に耐えうるだけの体力も当然ながら身につけているのだ。 今回、ここ数年主流となっていた「守備重視」「組織重視」サッカーに明確なアンチテーゼが確立されたことが嬉しい。FWの青木選手は山本監督から「おまえはドリブルのことだけ考えていればいい」と言われ、例えディフェンダー三人に囲まれても突破していく技術を磨いたという。現在の日本代表FW陣に足りないのは、こうした考え方と人材ではないか。この野洲の勝利に触発され、自発性に富んだ魅力的なプレーヤーがどんどん育ってくれれば、日本サッカーの未来も明るいのだが・・・どうだろうか。 今日この試合を見ていて、私は野球マンガの「キャプテン」を思い出していた。全国大会常勝の青葉学園に対し、弱小チームの墨谷二中が努力に努力を重ねて遂に勝利する、という少年マンガの王道。徹底的に組織野球の青葉に対し、そもそもレギュラーが9人ぎりぎりしかいない墨谷は猛練習で個人の能力を磨き、青葉を倒す。野球とサッカーの違いはあるが、なんとなく似たものを感じたのだ。高校サッカーも甲子園も、優勝するのは殆どが資金の潤沢な私立高だ。そこに県立で風穴を開けた野洲の功績は計り知れないほど大きい。有り難う、野洲イレブン。素晴らしいサッカーを見せて頂きました。 懐かしいですね~キャプテン(1)
2006年01月09日
教育テレビで昨年10月のWPO来日公演をやっていたので、途中飛ばしながら見た。指揮者はイタリア人のリッカルド・ムーティー。 演目はシューベルトのロザムンデ序曲、モーツアルトのハフナー交響曲、ラヴェルのスペイン狂詩曲、ファリヤの三角帽子。アンコールがヴェルディの運命の力。 昨年私はこのWPOの来日公演曲目に3万円3千円(だったかな)も払うのはいかがなものか、と書いた。その思いはこの番組を見ても変わらなかった。確かにWPOはうまい。抜群にというか、とにかく一音一音ため息が出るほど素晴らしい。もちろん運命の力などで見せる最強奏の音の幅も凄い。 でも、この曲目、特にモーツルトなどは言っちゃ悪いがWPOだったら誰が振ってもじょうずに聞こえるはずだ。モーツアルトの音楽そのものが常人の作曲とは異なり指揮者の解釈の余地が非常に狭いため、ある程度誰が指揮しても美しく聞こえる。 WPOやBPOならば、指揮者がいなくてもそこらのオケ以上の演奏が出来る、そんな芸達者が集まっている集団だ。その「音」は極上のものだということは聴く前から約束されている。 ではどこに金を払って聴く価値を見いだすのかというと、それは「指揮者」と楽団のかけあい、コラボレーション、もしくは対決を聴くためだろう。ただでさえ極上の音を出す集団が、ある指揮者が指揮することによって更に凄い音を出す。または、非常に難しいとされる曲を完璧に演奏してみせる。または全く独自の解釈による音楽を聴かせてくれる。そういうことにこそ、大金をつぎ込んで(一夜の演奏会料金3万円が大金ではないという方はこのページを読んで頂かなくて結構)聴く価値があるというものだ。 しかしこの曲目は失礼ながら、指揮者とオケの真価を発揮するにはちと物足りないと思うのだ。ベートーヴェンやブラームス、マーラーやブルックナーやシベリウスなど、指揮者の力量が明確に出る曲目を一曲は用意するべきではなかったか、と改めて思った。 ロザムンデとハフナーは特に印象に残らず、途中他番組を見てしまったため、戻ってみたらもうアンコールの「運命の力」。さすがイタリア人、この曲のツボはよく知ってまっせ~という感じで絶妙な歌わせ方。この選曲はアンコール曲にはもってこいで、終演後ホールはブラボーの絶叫がこだましていた。 私にはどうもムーティーという指揮者がよく分らない。お国のイタリア物は良いとして、彼のチャイコやベートーヴェン、スクリャービンはどうにも肌に合わなかった。彼のアルバムで私が今も大事にしているのは、レスピーギのローマ三部作くらいだろうか。 そうそう、気づいたところがもう一点。ムーティーが暗譜じゃないのには驚いた。バーンスタイン・カラヤンをはじめラトルや小澤など、超一流の指揮者は殆ど暗譜で指揮している。これは別にかっこいいからではなくて、曲の隅々まで理解しようとするならば暗譜するまでの努力と研究が必要とされるし、一流どころの指揮者達はその能力を備えているものだ。 今夜の曲目が初演なら話は違うが、あれだけポピュラーな曲をムーティー程名の通った人がいちいち譜面をめくりながら指揮しているのは逆に新鮮だったが、あれは一体なんでなのだろうか。彼はいつもそうだったのかなぁ。
2006年01月08日
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正月のCMで一番強烈に印象に残ったのはHONDAの企業広告で、あの二足歩行ロボット「アシモ」が子供達と走っている一本だった。 CG映像を多用しているCMを見慣れている現在、あのアシモが走っているシーンを何気なく見逃した人達も多いだろう。が、あれは凄いことだ。遂にロボットが走れるようになったのかと大変驚いた。 ロボットが人間のように二足歩行するのは、実は映画のようには簡単ではない。(人間は全く意識していないが)右足を空中に踏み出すとき、左足には全体重がかかっている。しかも地面の凹凸を瞬時に判断して微妙に体重のかかりかたを微調整している。それをロボットに瞬時にやらせるのは、実は膨大な技術の蓄積が必要になる。 CMの中のアシモは小学生くらいの子供達と広場を駆け回っていた。走っているというよりはすり足でやや早く歩いている、競歩のイメージに近いのだが、とにもかくにも走っているのだ!これはすごい技術の進歩だ。 二足歩行ロボットの技術は日本が世界で一番進んでいるといわれる。また、以前にも紹介したが、例えば足が不自由で全く歩けなかった人にブーツのような装置を付け、健常人と同様に歩けるような技術も実用一歩手前まで来ている。アシモの二足歩行技術は、こうした医療や介護方面に多大な貢献をするに相違ない。 願わくばアシモの技術がアメリカ国防省などに流れないことを望む。彼らは軍需産業にその技術を取り込もうとするだろう。これはやがて深刻な技術移転問題になるのではないかと懸念するのは私だけだろうか。 まあそれはそれとして、正月にアシモが見せてくれた走りは、久々に科学技術の偉大さを実感させてくれて爽快な気持ちにさせてくれた。HONDA技術陣に敬意を表したい。これは面白いですよロボットの新世紀鉄腕アトムは電気羊の夢を見るか解剖!歩くAsimo
2006年01月07日
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来週発売の「のだめ」14巻(初回配本)にまたしおりなどがくっついているらしいので予約するか、と思って何気なくネットでチェックしていると、「15巻初回限定版・予約受付中」という表記があるではないか。 なーんだ間違えてるよ、次は14巻でしょう、と思ってよく見てみると間違いではなく本当に6月発売、次の15巻の予約受注ではないですか! なんでこんなに気が早いの?と思ってよく見てみると、いやはやなんとごついプレミアムが付いていたのですね~(以下宣伝コピーです) 『完全受注生産品! マングースぬいぐるみ付き限定版!今回の限定版特典は、なんと!『のだめ』ファンなら誰もが知っているキャラクター、マングースのぬいぐるみ付き!のだめが学園祭で"ラプソディ・イン・ブルー"を演奏したシーンを再現!(クラシック音楽漫画でマングース?と思われた方、ぜひ『のだめカンタービレ』?巻25話をご覧ください。) さらに、このマングースはただのぬいぐるみではありません!お腹をおすと「ギャボッ」と鳴く機能付きです。ボールチェーンも付いていて携帯やバッグのアクセントとしても◎、デスクに置いて癒やしアイテムとしても使えます!』 確かにファンとしては欲しい!認めますよ!でもこれ、発売は6月ですよ、半年後ですよ!? 今から予約するのも随分気が早いような気がする・・・それにしてもこの異常なほどの盛り上がりはどこまで行くんでしょうか。昨日はついにセブンーイレブンの書籍コーナーにのだめを発見しました。あそこって超売れ筋しか置かないはずだから、のだめってそんなに売れてるんだ、と改めて感心した次第・・・取り合えず14巻の予約をしようかな、と考えました。先ずはこちらで。【予約】 のだめカンタービレ(14)初回限定版マングース付だそうです!【予約】 のだめカンタービレ(15)初回限定版
2006年01月06日
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3日の朝日新聞の一面記事「就学援助 4年で4割増」という記事を読んで暗澹たる気持ちになった。 記事の内容は、公立の小中学校で文房具代や修学旅行費などの援助を受ける児童・生徒の数が04年度までの4年間に4割近くも増え、受給率が4割を超える自治体もあることが朝日新聞の調査で分った、というもの。 文部科学省によると、就学援助の受給者は04年が全国で約133万人。00年度より33%の増加。受給率の全国平均は12.8%。都道府県で最も高いのは大阪府の27.9%、東京都の24.8%、山口県の23.2%と続く。 驚くのは市町村別トップの足立区。なんと42.5%が援助を受けているのだ。給付水準は自治体によって差異があるものの、足立区の場合前年の所得が生活保護水準の1.1倍以内の家庭。支給額は年平均で小学生が7万円、中学生が12万円。 同区内には受給率が7割に達した小学校がある。卒業文集を制作するため、クラスの児童に「将来の夢」を書かせようとしたが、三分の一の子供が何も書けなかった。「自分が成長してどんな大人になりたいかイメージできない」からだという。 上記は発展途上国の子供の事ではない。経済大国、日本の首都東京の小学校で起きている現象なのだ。解説の苅谷東大教授は「義務教育段階でこんなに差があって次世代の社会はどうなってしまうのか」と驚いている。 国内にいると意識できないが、海外から見ると日本の国は貧富の格差がほとんど無く、治安は良く街は清潔に保たれている。スラムや貧民街も存在しない。これは戦後60年間、貧富の格差を最小限に留め、教育水準を一定に保ち、教育水準の高い勤勉な国家を指向してきたからに他ならない。しかし義務教育も満足に受けられない国民が確実に増大しつつある現在、状況は劇的に悪化しつつあるのだ。 今、過度な自由化や強者だけがますます強くなるグローバルスタンダードが跋扈している。ヒルズ族に代表される勝ち組は確かに存在するが、彼らはほんの一握りに過ぎない。彼らの影に隠れているのが膨大なリストラ化された人々であり、その結果の一つの現われが、この援助の異常な増大ではないのか。 日本の新聞はここ30年程、社会保障を受ける立場の人々の意見を積極的に採り上げてこなかった。社会全体が豊かになり、その割合が相対的には減少していたからだ。しかしこれからは違う。勝ち組は数に置いてマジョリティたり得ない。朝日をはじめ各紙が、真のマジョリティの意見をきちんと採り上げていくよう、我々は強く監視するべきではないだろうか。日本は努力しても仕方ない社会なのか?不平等社会日本国民総背番号制とはなにか?プライバシー・クライシス私たちの豊かさは誰のおかげか?アジア絶望工場
2006年01月05日
本日10万アクセスに到達しました。一昨年の正月4日にこのHPを開設以来あっという間の2年間でしたが、多くの暖かい方々に支えられて一つの区切りを迎えることが出来ました。ご訪問頂いている方々に厚く御礼申し上げます。 昨年年初に幾つかの目標を掲げました。購入した新譜全ての解説を掲載する、メルマガを発行するという項目は残念ながら達成出来ておりませんが、シベリウスやチャイコフスキーの交響曲全集をはじめ幾つかのコーナーを増設することは出来ました。 私がこのHPを開設したときに比べれば、楽天市場で紹介できるクラシックディスクの種類は飛躍的に増えたものの、他の商品に比べればまだまだ少ないのが現状です。紹介したい商品が楽天に無い場合でも、HMVへのリンク等、読んでいただいている方々に利用しやすいページを工夫していきたいと考えております。 また、当初の目的であった「初心者の方にクラシック音楽の楽しさをお伝えしたい」という初心に立ち返り、名曲紹介や小さなお子さん向けのディスク紹介などもきちんとしていきたいと思います。そういえばまだ「私のマンガベストテン」コーナーが完成していないので、まずそこから手をつけなければ・・・ クラシック音楽は決して難しいものではなく、知識が無くても誰でも楽しめます。ベートーヴェンの「運命」もベルリオーズの「幻想交響曲」も、作曲された時には時代の最先端を走る前衛音楽で、聴衆の熱狂に迎えられた様子は現在のロックコンサートとなんら変わらなかったのです。すごいのは、それから200年経ってもそれらが名曲として今なお演奏され続けている事なのです。 その素晴らしい人類の遺産を、このページを訪れて頂いている全ての方々と楽しんでいければといつも願っています。今後ともどうぞ、宜しくお願い申し上げます。
2006年01月03日

大晦日の晩に聴いたのは「日本の旋律」というアルバムだった。本来日本人の大晦日というのは行く年を振り返り、来る年に期待を馳せるという意味で静かに時間を過ごすというのがパターンだったような気がするが、昨今はTVも街も騒々しくて、せめて自分に選択権がある範囲ではどうしても静かな曲に手が伸びてしまう。 もともとクラシック音楽は(特にロマン派においては)今でこそマジメな雰囲気で見られているが、作曲当時はどの作曲家も「これで一発当てて大金持ちになってやる!!」という野心に彩られて発展したのであり、売れれば官軍という構図は現在のミュージック界となんら変わらない。 もちろん名だたる作家が全てそうだとは言わないが、作曲の動機は少なからず金銭欲的・名誉欲な点があったのは紛れもない事実。という訳で、特に協奏曲なんかだと第一楽章でドッカーンと派手にぶちかまし、第二楽章でちょっとお涙を頂戴したり気持ちよくさせて、終楽章でまたもやド派手にかまして聞き手のカタルシスを解消させるというパターンが圧倒的に多い。 もちろん(私を含めて)聞き手もそれを百も承知で聴くわけだからそれでいいのだが、たまにはそうではない曲も聴きたくなる。実は日本人の作曲家による作品は、この純西洋クラシックの王道パターンを見事に無視している曲が結構ある。 今年初めての曲は、そういう意味で私の大好きな吉松隆のピアノ協奏曲「メモ・フローラ」を選んだ。 「メモ・フローラ」とは「花についての覚え書き」という意。オケと独奏者が華々しく対決する協奏曲ではなく、静かな心象風景の中をゆっくりと逍遙するような、美しく静かな協奏曲。特に第二楽章アンダンテの静けさは、西洋クラシック音楽がついに到達し得なかった世界を表出してとにかく素晴らしい。 吉松隆氏は現在ヴァイオリン協奏曲を構想中らしい。今年中に聴くことが出来るのだろうか。こちらですシャンドス MCHAN9652 2600円
2006年01月02日
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