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10月16日平頂山遺骨館から九・一八事変(「満州事変」)博物館を見学平頂山遺骨館から重い気持ちで、今度は「満州事変」の起こった地点にある九・一八博物館の見学に行きました。柳条湖事件―中国東北部全面侵略の発端となった事件。広い敷地に建てられたこの博物館は、日めくりカレンダーの形のモニュメントがあります。1931年9月18日の日付のページが開かれています。1894年の旅順攻略以来、日本軍国主義が進めた中国侵略の歴史が展示されています。侵略された歴史から、中国人民の抗日闘争を順序立て展示されていて、ここにも平頂山遺骨館から移された遺骨がそのまま展示されています。 柳条湖九・一八博物館この脇には旧日本軍が建設した「記念碑」とそのモニュメントが横倒しになって置かれていました。私たちの「偽満州国」の旅はここ瀋陽で終わりとなります。明日からは北京を見学します。瀋陽19時30分発の飛行機で20時40分に北京に着きました。北京の楽しい夜の報告は後で。
2004年11月10日
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楊 玉 芬(ヨウギョクフン)さんの証言 当時の私の家は3室に分かれていて24人が生活していました。このうち6人が生存しました。 1932年9月15日の夜、寝ている間に叫び声が聞こえ馬賊が来たと思った。逃げ出した人が戻ってきて「日本兵が来た」と言ったんです。 当時の平頂山村は田舎の家と労働者の家と2箇所に家並みがあった。 日本兵が何をしに来たのかわからなかったが、家に入り込んできて村人に山のふもとにある牛小屋に行くように言われた。「団体写真を撮る」と言ったので、服装を整えて外で親戚の人たちと話をしていると日本兵が来て「みんな行け」言われて行きました。 集まってからトラックに積んであるのが写真機でなく機関銃だった。機銃掃射が始まった。叫び声と泣き声、父さんは私をかくまった。お母さんは妹をかばった。「逃げろ」といわれても逃げ場所はなかった。 機銃掃射が始まったのは次の日の午前10時頃、飛行機が上空に来たとき、日本兵が「爆撃は必要ない」というサインを送ったため、私は死体の下で助かった。 日本兵が帰りかかったが生存者に気づき生存者を探しながら銃剣でさして殺したり銃で殺して歩いた。お母さんはその場で亡くなった。お父さんは負傷していて「逃げろ」といったが4歳の妹は「イヤダ」といって泣き出した。母さんはいくら声をかけても返事はない。負傷したお父さんが2人を連れて逃げ出した。日本兵がガソリンを取りに行っている隙に逃げ出すことができた。 逃げた後、村を振り返ると家は焼かれ煙が出て炎に包まれていた。帰るところがない私たちを助けてくれる人はいない。他の村の人たちは、報復を恐れて助けてはくれないのだ。コーリャン畑で一昼夜身をひそめていた。 逃げた後、9月17日になって撫順市内には「平頂山村から逃げたものは殺す」という貼り紙が出されていた。 私たちの家族は、父親、妹、おばあちゃん、など6人が生存していることがわかった。撫順で会うことができた。親戚の家に身を寄せていた。 と証言した楊さんは何度も涙を吹きながら、最後に「8歳の私には、何でこの事件が起きたか知らなかった。殺した人に怒りを感じる。とても残虐な事件だ」と結び、ハンカチで顔を覆いました。 いままで、こうした証言は他の人が行っていたそうですが、みんな亡くなってしまい、生存者は楊さん唯一人になってしまったそうです。証言するのは今回で2回目ということでしたが、証言した時は、当時のことを思い出し2~3日何も食べられなく眠れなくなってしまうそうです。 証言には、お孫さんが付き添っていて傍らで心配そうに見守っていたのが印象的でした。 証言する楊玉芬さん
2004年11月09日
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今日は撫順から平頂山遺骨館を見学。スーツに着替えて出発。撫順戦犯管理所を見学。ここはもともと日本軍が建設した監獄で、終戦後、日本軍戦犯捕虜が収容されるようになり、約1000人が収容され、「罪を憎んで人を憎まず」の精神で手厚く扱われていたそうで、中国人が食糧不足でもここでは食料も十分に与えられ、文化、スポーツ活動なども活発に行われ「人道的思想改造」の場として一人の処刑者もなかったという事に訪問した私たちを驚かせた。 撫順戦犯管理所平頂山虐殺現場跡=平頂山遺骨館を訪問無残に惨殺された遺骨の山が幅5メートルくらい長さ80メートルに及ぶ。私は呆然と立ち尽くして手を合わせていました。涙がこみ上げて「これが日本人の所業か」と同じ日本人として恥ずかしい思いでいっぱいでした。こうした事実をもっと知らせなければ、写真を撮ることを許していただきました。 ガソリンタンクも当時のまま置かれています 逃げ出そうとしたのでしょうか、無念さが伝わってきます平頂山虐殺事件は、1932年9月「満州事変」(中国では9.18事変)の一周年記念行事を前に起こった事件でした。平頂山村がゲリラに通じているとみなし、皆殺しを計画したのです。3000人の村人が崖下に集められ、機銃掃射で惨殺され、ガソリンをかけられ死体を焼き尽くし、息のあるものを銃剣で、拳銃で頭をぶち割り、ダイナマイトで、がけを崩し土砂で埋められていました。当時8歳の少女が妹を連れて逃げ出し、貴重な生存者のひとりとなり、今回私たちに当時の様子を涙ながらに語ってくれました。(内容は後で)
2004年11月08日
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10月14日ハルピンから長春へ(バスで移動約4時間)10月15日長春市内見学中国最大の自動車工場「第一汽車製造廠」(第一自動車工場)では内部の見学は出来なかったものの膨大な敷地で、トヨタの「プリウス」を2005年から生産を始めるそうです。中国では自動車の事を「汽車」と呼んでいます。ちなみにエレベーター、エスカレーターの事はともに「電梯」電気梯子というわけです。映画の事は「電影」。長春には、中国で最初に出来た撮影所があります。映画都市、工業都市、学園都市として発展しているとガイドの莉さんは自慢気にいいます。 長春には、「満州国」ラストエンペラー溥儀の「偽満州国皇宮陳列館」があります。1932年に関東軍は、清朝最後の皇帝溥儀を添えて傀儡(かいらい)国家「満州国」を「建国」し中国から分離させます。その舞台となったのが、ここ「偽満州国皇宮陳列館」です。溥儀を皇帝に据えましたが関東軍司令官の下にあった傀儡国家だったのです。 「満州国」皇宮 溥儀の応接室、関東軍幹部から支持を受けている様子 旧関東軍司令部。今は中国共産党吉林省委員会私たちの旅は、長春から「旧満州鉄道」で瀋陽へ、約3時間半の列車のたびとなります。瀋陽は、やはり都会的雰囲気の街で夜遅くまで賑わっていました。夕食は、餃子レストラン「老辺餃子」で13種類(食べきれない量)の餃子に舌鼓を打ちました。
2004年11月07日
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731部隊の事をもう少し……。生体実験の事は少し触れましたが、生体実験に使われた「マルタ」は特設監獄に300人ほど収監されていました。 案内の学芸員さんから信じられない説明を受けた。「生きている人間にペスト菌を注射する。そして臓器を取り出すなどの手術を麻酔なしでする。それは麻酔によって菌に影響を与えるためだ」と。「731部隊」の敷地内には、鉄道の引込み線が走っていました。ここから「マルタ」を運び込んでいたそうです。小動物地下飼育室やねずみ飼育室などは当時のまま残されていました。引込み線 ねずみ飼育室 「中国・平和と友好の旅」はハルビンを後に長春へ。
2004年11月06日
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10月14日(ハルピン) 中国の人たちは、「満州」のことを「偽満州国」と偽りの国と呼んでいます。 キタイスカヤ通り北の突き当たりが松花江。松花江の堤防沿いにあるスターリン公園では朝早くからマラソンをしたり、体操をしたり、グループ毎に演舞の練習をしたりで、賑わっていました。 この日は、731部隊施設を見学しました。 途中ハルピン駅を車窓から眺めてゆきました。 1909年10月、この駅のホームで初代朝鮮統監である伊藤博文が韓国青年(安重根)によって射殺された歴史的な場所です。ソウルの高台にある「安重根義士記念館」を思い出していました。 韓国では、安重根が国民的英雄としてたたえられ、小学生の時からこの安重根義士記念館を訪ねて学習しています。 ハルピン駅 「悪魔の飽食」で知られる731部隊は、細菌兵器を研究、製造する部隊として、石井四郎によって本格的に行われました。1933年(731部隊がこの地に移設されてのは、1938年、敷地面積6キロメートル四方の広大な施設が建設された)から1945年8月ソ連軍の「満州」進撃に直面する時まで、3,000人がその犠牲になり、ここに収容された人は一人として生きて出られませんでした。 人体実験では、様々な実験が行われていました。馬の血液を輸血したらどうなるのかとか凍傷になるメカニズムを研究するため、「凍傷実験室」を造り生態実験を繰り返していました。実験に使われた人々を「マルタ」と呼びまるで実験動物のように扱っていました。この施設の入り口には、 「『満州第731部隊』は当時の日本の最高支配者の命令により。中国で設立された一つの特殊部隊である。同部隊は1935年にハルピンの平房地域で生物兵器の開発と実験基地の建設を進め、当時の日本軍が東南アジアの戦場で行っていた細菌戦の指揮中心地になっていた。 この『人間を食う魔窟』と呼ばれていた基地において、『731部隊』は残虐な手段で人体実験を行い、細菌兵器の研究、開発に取り組んでいた。歴史の資料と考証によると、1935年から1945年までのわずかな期間に少なくても3,000余名に達する国内外の抗日半満州の人士と罪のない人々が人体実験に使用され、殺害された。 1945年8月、日本は敗戦で降伏した。そして『731部隊』が敗走する時、その凶暴な犯罪を隠蔽するために、この地域の施設を激しく破壊した。現在発見されている遺跡は合わせて23箇所に上る。」と記してありました。 石井四郎をはじめ幹部たちは、ロシア軍参戦を受けてここを逃げ出したとき、松花江へ惨殺した「マルタ」や細菌をぶちまけ、施設のほとんどを爆破し、証拠隠滅を図って逃げ出したのです。研究データのすべてをアメリカ軍に渡すことで戦犯として裁かれることがありませんでした。 731部隊全景ボイラー室 凍傷実験室
2004年11月03日
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長野市会議員の小林義和さんが企画した「中国平和と友好の旅」に誘われ、参加しました。総勢14名。10月13日 中国東方航空で成田から北京、北京からハルピンへと向かう。 中国東方航空は搭乗してから1時間も待たさて離陸したため、北京での乗り継ぎが滑りこみセーフ、という状況でハルピン行きに搭乗することができました。 ハルピンはロシア人がつくった町並みが今でもそのまま残っている「東方のモスクワ」「東方の小さなパリ」といわれるそうで、ロシア風の面影が残っているきれいな町並みでした。「キタイスカヤ」と呼ばれる石畳の街路は、ロシアから運んできた石材を敷き詰めた街路で、千数百メートルに及んでいます。 この一角にあるロシア料理店で遅い夕食をいただき1日目が終わりました。 ハルピン、キタイスカヤ通り
2004年11月02日
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