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クロニクル サンタクロースは実在するのか1897(明治30)年9月21日休載直前のブログに相応しいと、この内容に決めました。標題の「サンタクロースは実在するのか」は、113年前の今日、アメリカのニューヨークを中心に、発行部数100万部を誇った『ニューヨーク・サン』紙の1面に掲載された、同紙の社説の標題です。この社説が掲載された経緯は、8歳の少女から同紙に送られた投書というか質問状というかがきっかけでした。彼女は、サンタクロースがいないと主張する友達と論争になり、本当はどっちか知りたくて、親の勧めもあって、新聞社に教えを乞うたのです。これに、同紙の論説委員フランシス・チャーチが答えたのが、「サンタクロースは実在するのか」と題した社説でした。彼は、投書に対するお礼を述べ、彼女の質問の要約を載せた後、ヴァージニア、あなたの友達は間違っています」の書き出しで始まり、「そうです、ヴァージニア、サンタクロースはいるのです」の一節を含む、有名な一文を草したのです。彼は、目に見えるものしか信じない悲しさと、目に見えないものの確かさ、不変さ、そしてそれを信じることの素晴らしさを説いたのです。サンタクロースの存在を支持するこの社説は新聞のトップ記事となり、大きな反響を呼美真下。その結果ニューヨーク・サンは、この社説を同紙が発行されなくなる前年の1949年まで毎年、クリスマスがくる度に掲載したのです。
2010.09.21
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皆さんへ ブログ休載のお知らせ皆さん今晩は。大変驚かせて申し訳ないのですが、今夜半に更新する、明日のクロニクルを最後に、当分の間ブログを休載させて戴きます。連載が何本も中断することになりますが、どうぞお許し下さい。明朝入院して、肝臓の3cm大の腫瘍の摘出手術を受けるためです。自覚症状はなく、食欲も旺盛ですから、自分でも唖然としています。11日土曜日に、毎年の健康診断で膵臓、腎臓、前立腺と共に肝臓のエコー検査を受けたのですが、そこで引っかかりました。そこですぐにツテを手繰って、信頼できる病院に紹介状と共に出かけたのが14日、その日の内に、21日の空きベッドと、24日の手術台の確保と、あれよあれよという間に、話が進みました。その時の話で、社会復帰まで3ヶ月のつもりで、仕事の穴の手配を済ますようにと指示があり、それから今日まで、嵐のような忙しさで日が過ぎました。本業は勿論、その他あちこち引き受けていた仕事のキャンセルや、雑誌原稿の先行仕上げ、地元のボランティア関係の引継ぎなど、バッタばったと片付けて、ホットしたのが、この時間です。私にとって、このブログでの皆さんとのやりとりは、程よい息抜きでした。退院し、自宅療養が順調に進みましたら、先ずはボチボチ、ブログを覗貸せていただくことから、そろそろと復帰したいと思っています。それでは、しばしのお別れです。皆さんどうぞお元気で… ザビ
2010.09.20
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19世紀のアメリカ(131) 第5章 アメリカ文化の諸相…12 金銭万能主義の風潮は、アメリカ文化発展の要となった大陸横断鉄道の建設事業に、最も典型的に見て撮ることが出来ます。1869年にネブラスカ州オマハから西へ伸びるユニオン・パシフィック鉄道と、カリフォルニア州サクラメントから東へ伸びるセントラル・パシフィック鉄道が連結することによって、最初の大陸横断鉄道は完成しました。この建設のために、鉄道会社は議会に盛んに働きかけて、積極的なロビー活動を行い、膨大な土地を獲得し、その上補助金まで得たのです。会社は低賃金で使えるアイルランド系移民や、中国から導入した苦利(クーリー)を酷使して、ロッキー山脈や大草原に連なる砂漠地帯を横切る難工事を、大変なスピードでやり遂げたのです。ですから、大陸横断鉄道は、アイルランド移民や中国人移民の屍を、枕木にして出来上がったとまで、言われたのです。スキャンダルまみれと言われるこの事業も、民衆にとっては、アメリカの栄光を証明する、誇りうる事業だったのです。南北戦争後に登場し、大変リアルにアメリカの現実を見て取ったマーク・トウェインは、1873年に友人との共著として、時代を風刺した小説『金メッキ時代』を書き、その前半で、ミズーリ地方に伸びる鉄道を巡って、利権に狂奔する人々を描き出しました。後半は舞台をワシントンに移し、同じ連中が政府に土地を買い上げさせて、一攫千金を実現することに没頭する物語となっています。中には贈収賄は勿論、色仕掛け工作まで出てくるところが、笑わせます。しかし、トウェインのこの小説も、金銭万能の時代風潮を批判しながらも、金銭的富に代わる何らの価値も示していないのです。「自分の汗と苦労で富を築くこと」というのが、この作品の最終的なモラルなのです。トウェインは、西部の開拓者のなかで育ち、作家になった人物です。その彼も、新しい時代の子として、富の獲得に取り付かれていたのです。それほどに金銭万能主義の風潮が、この時代にはびこっていたのです。 続く
2010.09.20
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クロニクル マゼラン出航1519年9月20日489年前になります。日本は戦国時代前期の混乱期にありました。そんな時代でしたが、遠くユーラシア大陸の西の果てでは、コロンブスやガマの航海の成功から、大西洋を往来したり、アフリカ南岸経由でのインド交易などが、冒険野郎達の血を滾らせていました。そうした中でこの日、世界一周航海でお馴染みのマゼランの一行が5艘の船団を組んで、265人の仲間と共にスペインの港を出発しました。インド貿易でポルトガルに名を成さしめたスペイン王家に対し、ポルトガル人のマザランは、大西洋経由で、噂の高い香料諸島に向かうという、野心的な計画を提出。ようやくその実現にこぎつけたのでした。一行は南アメリカ大陸を南下し、マゼラン海峡を通過して困難な旅を続けました。マゼランにとっての誤算は、大西洋の数倍に及ぶ太平洋の広さの知識がなく、旅の途中で壊血病により、多くの仲間を失ったことでした。隊長のマゼランをも失った一行は、なおも航海を続け、旗艦のヴィクトリア号1艘だけとなったのですが、1522年の9月8日にセビリャの港に帰還したのです。265人の乗員のなかで、生きてスペインの土を踏んだのは、僅か18名だけという、犠牲の多い旅でしたが、確かに世界一周の航海でした。
2010.09.20
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世界経済の現状(174)15日に、政府は円売り介入に出ました。日・米・欧3地域での介入で、合わせて1兆8千億円の介入だったと報じられています。ここでの介入はないだろうと考えていた市場参加者は、見事に虚を突かれました。その意外性が警戒感を呼んで、第1ラウンドは、財務省の作戦勝ちとなりました。しかし、世界の外為市場の1日の総取引高は、レバレッジ分を含むと、およそ400兆円と言われます。財務省の使える資金量を考えると、かなり分の悪い勝負のように思います。政府がレバレッジ売買をするわけにはいかないのですから…。では、日本政府に使える資金は、いくらなのかです。この点については、以下の記述を見つけました。「「政府短期証券(為券)」の2010年度の発行限度額は145兆円。既に発行済みの借り換え分104兆円、15日の介入相当額約2兆円、残金39兆円が今年度介入可能額。1日2兆円の介入なら、19日程度。後は外国為替資金特別会計の補正予算を組み、「ねじれ国会」で予算案を成立させる必要がある」私が予想していた30兆円よりも、約10兆円多い事が分りました。今回の介入に接し、様子を見ている投機筋がどう動くかで、変わってくきますが、国際協調に寄らない、単独介入の成功確率は低いように思います。指摘してきたように、ドル安、ポンド安は、経済事情からいって、避けられないのですから… 続く
2010.09.20
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19世紀のアメリカ(130) 第5章 アメリカ文化の諸相…11 アメリカ文化史を語る上でも、南北戦争は大きな画期となっています。この国を二分した内戦を通じて、国よりも州に向いていた住民の意識に、広く国全体を考える習慣が強まったのです。従来は、ニューイングランドの人々の意識が、ニューイングランドの外に広がることは、ほとんどなかったのです。同じように、ヴァージニアの住民もまた、自分達をアメリカ人としてよりも、ヴァージニアンと考えていました。激しかった内戦が、彼らの意識に変化を齎し、アメリカ全体を見る眼が開かれたのです。内戦は、方部の産業資本の勝利に直結しました。といってもアメリカが、太平洋にまで広がる広大な農地を持つ、農業国家であることが変わるわけではありません。そうした高い農業生産力を、さらに上回る形で、工業生産力が発達し、アメリカが世界有数の工業国に成長したということです。国家的な統一が進み、作業資本主義の支配が強まると、そこに政治と実業家との繋がりが、公然と強化されるようになります。ここに人々は、利益追求に狂奔するようになり、投機業者が跋扈し、贈賄や収賄といった腐敗が横行したのです。こうしてアメリカ史で「金メッキ文化の時代」と呼ばれる、金銭万能主義の時代が生まれたのです。 続く
2010.09.19
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クロニクル アイスマン発見1991(平成3)年9月19日この日、ヨーロッパアルプスの氷河で、約5300年前の男性のミイラが発見され、「アイスマン」と名付けられました。発見場所のエッツ渓谷は、オーストリアとイタリアの国境地帯に当たりますが、発見されたのは、国教を僅かにイタリア側に入っていたことから、ミイラはイタリア側に引き渡されました。
2010.09.19
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19世紀のアメリカ(129) 第5章 アメリカ文化の諸相…10さて、生活の基盤が整い、社会組織も整備されてくると、どこでも男女の役割分担がはっきりしてきます。つまり女性の役割が明確化してきます。男たちが、実際的な事柄に注力する一方で、女たちは、家庭に秩序と温かみを齎し、ちょっとお洒落な雰囲気を漂わせることが、仕事とされるようになったのです。しかしまた、女性が教育をひけらかそうものなら、男たちの猛烈な反撃を受け、「女らしくない」と非難されるのがオチでした。女性は慎み深い文化の担い手にされたのです。そうした制約はあったのですが、女性が家庭の主役と意識されたことから、女性向けの雑誌が誕生し、定着するようになります。最初の女性雑誌は、1792年創刊の『レディース・マガジン』でしたが、時期尚早だったのでしょう、僅か1年で消滅の憂き目を見ています。時満ちた1830年に創刊された『ゴーディーズ・レディース・ブック』は、大成功となり、数多くの読者の支持を得ました。色刷りのファッション図版を収め、当代の人気作家の作品を載せ、また漸進的な社会改革を求める姿勢を示して、文明化したレディたちにアピールした姿勢が、多くの読者の獲得に繋がったのです。同誌の発行部数は、1860年には15万部に達していたとする報告もありますから、これは大変な売れ行きでした。当然、同誌を後追いした雑誌も次々と登場したのですが、ライヴァル誌に成長したのは、『レディース・ナショナル・マガジン』1誌だけでした。そして、この頃から、女性読者を対象とした、女性作家の家庭小説も、大いに読まれるようになったのです。スーザン・ウォーナーの『広い、広い世界』(1850年刊)やマライア・カミンズの『点灯夫』(1854年刊)は、大ベストセラーとなりました。筋立てはどれも共通していて、身辺の不幸や逆境を乗り越えて、自己を高めて幸せな家庭を実現する女性を描いています。キリスト教信仰を指針とした、道徳的教訓に満ちているいるのです。辛口の評でならしたホーソンが激賞したファニー・ファーンの小説『ルース・ホール』は、夫に先立たれた後、子供を育てながら、苦境を凌いで作家として自立しようとする、作者自身をモデルとした女性の物語でした。この作品は8ヶ月で5万部を売り上げる大ヒットになりました。こうした小説は、いずれも現代には忘れ去られているのですが、こうした作品の隆盛の中から、今日古典の地位を獲得している、ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』が生まれたことは、記憶にとどめる必要があるように、思います。
2010.09.18
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政治を斬る(121)第2次菅内閣の問題昨日、第2次菅内閣がスタートしました。片山総務相の登用が大きな目玉でしょうか。しかし、私には大きな不安材料の方が目に付きました。前原外相です。彼は、郵政選挙で惨敗した岡田代表の後任として、民主党代表を務め、偽メール事件に連座して退任した過去があります。その代表在任中の言動から、彼がチャキチャキの外交タカ派であり、こと外交に関しては、自民党のタカ派に通じる人物であることが分ります。いわば、民主党内でも親米嫌中の代表格です。実は歴代自民党内閣にあっても、こうした人物を外相に据えることはありませんでした。1980年代央の中曽根内閣以後、タカ派首相は何人も出ていますが、対中関係をこじらせそうな人物を、外相に据えることはしていません。それがこともあろうに前原外相です。思わずのけぞってしまいました。実は、代表選の最中、中国漁船を日本の巡視船が拿捕するという前代未聞の事態がおきました。尖閣列島問題です。ここは50年代から日中の懸案事項になっており、双方の知恵で、「解決の付き添うもない課題は、双方に都合良く解釈できる曖昧な表現で妥協しておく」という、絶妙の手が打たれていたのです。ですから、漁業権を主張する日本も、中国政府が国民との関係でまずいことになることのないよう、巡視船は中国漁船を追い払うだけとして、拿捕することはしないできたのです。それが突然の拿捕、船長の逮捕となったのです。これでは、尖閣列島は台湾領即ち中国領と考える、中国と台湾の民意が沸騰するのは当然です。結果として中国政府は、国民向けに対日強硬姿勢を採らざるをえません。夜中に丹羽中国大使を呼び出すという、強硬姿勢を見せたのは、まさに国民向けポーズです。問題は、何故日本側は中国のナショナリズムを刺激し、中国政府が対日強硬姿勢を採らざるをえないような状況を作り出したのでしょうか。尖閣で中国漁船を拿捕すれば、こうなることは見えているのですから、偶発的な行動だという説明を鵜呑みにするわけにはいきません。ここで私は、海上保安庁が国土交通省に属し、海上巡視船は前原大臣(当時)の指揮下にあったことを、想起せざるを得ません。前原大臣は意図的に中国を怒らせ、その中国に対する反発から、マスコミの誘導で嫌中感情を強めていた日本の世論を怒らせ、日中関係をのっぴきならない状況にすることで、沖縄を除く日本の世論を、親米一辺倒に染め上げ、揺らぎの出ている日米安保体制を再構築し、普天間問題を現行案で押し切り、日本の軍備強化を推し進めようとしているように見えてなりません。ナショナリズムは、非常にエモーショナルな感情に流され、強い主張が常にエスカレートして歯止めが効かなくなる、大変危険な性格を持ちます。それ故に政治は常にナショナリズムの暴発を恐れ、それをコントロールすることに全力をあげるのです。それをあえて解き放ってしまった人物を外相に据えてしまう、菅首相の外交感覚も呆れるばかりです。頭痛のタネがまた増えました。 続く
2010.09.18
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クロニクル カップヌードル発売1971(昭和46)年9月18日この日、日清食品が世界で最初のカップ麺、「カップヌードル」を発売しました。しかし、発売当初は100円という希望小売価格が高過ぎると敬遠され、ほとんど売れませんでした。そこで日清食品は、団体営業を意識し、市場調査も兼ねて今までと違った特殊なルート、夜勤の多い職場、警察署や消防署、東京スタジアムや遊園地などで試験販売が行いました。その結果「簡便性」「完全調理済食品」という点に目を付けた自衛隊が大量購入し最初の大口顧客となりました。11月下旬には、銀座の歩行者天国で、大々的な宣伝販売を行い、僅か4時間で2万食を売り切る人気となりました。そんなカップヌードルを一挙に全国銘柄に押し上げたのは、翌72年2月の浅間山荘事件でした。社長の安藤百福は、すぐさま取り囲んだ機動隊員用にと、湯を注ぐだけで食べられるカップヌードルを、大量に無償提供したのです。寒い戸外で、暑い湯を注いだカップヌードルは好評でした。そして雪の中で機動隊員らが食べるカップヌードルが、繰り返しテレビ放映された結果、一挙に人気が沸騰したのです。社長のカンの勝利だったのですね。
2010.09.18
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19世紀のアメリカ(128) 第5章 アメリカ文化の諸相…9 開拓地域における大衆芸能の隆盛とは別に、定住生活が軌道に乗り、社会的な落ち着きも出てきた東部社会では、1830年代の半ば以降、教育制度の拡充が進みました。マサチューセッツ州議会の議長だったホラス・マンは、1837年自ら望んで同州の教育長に就任します。彼がやりたかったことは初等教育の全面的な改革でした。就任するとすぐに、彼は改革に乗り出し、先ずは初等教育の義務化に乗り出しました。それに付随して、教員の待遇改善、教育設備の充実にも力を入れ、2年後の39年にはアメリカで最初の師範学校の設立にまで踏み込んだのです。マンの活動は多方面に及び、他の諸州にも大きな影響を及ぼしました。ここからマンは、現在でも「アメリカ公教育の父」と呼ばれているのです。合衆国東部社会の成長と共に、デモクラシーの風潮が広まり、それまで抵抗の強かった無料の公教育が、実質を伴う形で各州に広まってゆきます。第1章に記した通り、アメリカでは教育もまた連邦政府ではなく、州政府の権限に属していたからです。こうして、なお東部中心ではありましたが、庶民の識字率が上がり、中産階級の形成が見られるようになると、彼らをターゲットとした出版活動にも商機が訪れます。アメリカでは、西部の開拓地などでも、地域住民を対象とした新聞が発行されています。それがコミュニティの意志統一に欠かせない役割を果たすのです。デモクラシー熱が高まると、政党を基盤とした新聞も各地で誕生しました。民主党系の『ニューヨーク・イヴニング・ポスト』やホイッグ党系の『ニューヨーク・トリビューン』などが、それにあたります。そんな中で、大きな注目を集めたのが、1833年に一般読者を対象に創刊された『ニューヨーク・サン』でした。印刷技術の発達も大きかったのですが、小型4ページの新聞を、何と僅か1セント(=1ペニー)で売り、大成功を納めたのです。その後『ペニー新聞』は続々と刊行されましたが、2年後の1835年に創刊された『ニューヨーク・ヘラルド』は、現在の夕刊紙のような、センセーショナルな紙面づくりで評判をとり、1860年には75000部を売り上げました。これは政治好きの新聞王国、フランスを除くと、当時の世界最高記録でした。 続く
2010.09.17
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クロニクル 東京モノレール開業1964(昭和39)年9月17日東京オリンピックの開幕(10月10日)を23日後に控えた時期です。46年前のこの日、羽田空港と都心を結ぶ、東京モノレールが開業に漕ぎ着けました。日本で始めての旅客用モノレールでした。浜松町駅と羽田空港を結ぶモノレールは、その後埋め立てが進んで、今ではビルや倉庫街を進みますが、当時はほとんど海の上を走っていました。10月1日には、東海道新幹線が運行開始。そういう時代でした。
2010.09.17
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19世紀のアメリカ(127) 第5章 アメリカ文化の諸相…8 開拓地では、様々な行事が、選挙集会や巡回裁判までもが、お祭り騒ぎを引き起こしたのですから、行商人の訪れや旅回りの一座の来訪は、それはもう大騒ぎでした。こうした様々なお祭り騒ぎの中でも、やはり演劇が文化の香りの最も高いものでした。文化の香りに浸りたいと思うアメリカの人々は、熱心に芝居を求めました。シェイクスピア劇は、アメリカでも人気でした。どんな田舎の集落でも、村人達はシェイクスピア劇を、自分達の芝居として楽しんでいました。ただし、内容については、自分達の好みに合うように、勝手に改変して上演するケースが、ほとんどでした。リア王は、親孝行娘に救われて、ハッピーエンドに終るストーリーが、ヤンヤの拍手を浴びるなど、これじゃシェイクスピアはお怒りだろうと思えるような改変が、平然と行なわれていたのです。こうしたアメリカの演劇史のなかで、最も大きな成功を収めたのが、ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』をもとにした芝居でした。奴隷制度というアメリカ人の最大の関心事をテーマとしたこの小説は、芝居の恰好の題材でした。しかし、ニューイングランドの著名な牧師の娘だったストウ夫人は、芝居は若者に悪影響を与えると信じて、自らの小説の劇化を頑なに拒否したのです。しかし、旅回りの芸人達は、この大ベストセラー小説を放っておきはしなかったのです。著作権などという考えを持たないのは、現在勃興中のどこかの国と同じでした。ストウ夫人の許可なしに、次々にいろいろな芝居が登場したのです。とりわけ、ジョージ・エイケンの脚色した芝居は、大評判となり、この脚本を上演したハワード一座は、35年もの長きにわたって、この芝居1本で全国を興行して歩いているのです。この時期、大小合わせると400もの「トム劇団」が巡業して歩いていたと言われます。 続く
2010.09.16
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クロニクル 鳩山由紀夫内閣誕生2009(平成21)年9月16日あれから1年なんですね。去年の今日のことです。民主党代表の鳩山由紀夫が第93代内閣総理大臣に選ばれ、民主党、社会民主党、国民新党の3党連立内閣が誕生しました。それにしても、あれから1年ですか。「去年のあの熱気、あれはいったいなんだったのでしょうね」。 そんな風に感じるこの頃です。その鳩山さん、今度の代表選で、またまた評判をさげました。全く「宇宙人」そのものです。
2010.09.16
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世界経済の現状(173)米欧の金融機関は、不良資産の先送りを続け、積極的にリスクを取れないところがほとんどです。そのため金融緩和を推し進め、市場に溢れるほどの資金を提供しても、民間への貸し出しは、日本と全く同じで、少しも増えておりません。米国の住宅ローンに至っては、昨年1年のローン債権の95%を、大赤字で政府の管理下に入っているファニー・メイとフレディ・マックの2社が買い取っているのです。2社が引き受けてくれるか融資する。これが金融機関の姿勢でした。この姿勢は、「信用保証協会の保証つきだから安全」とみなして融資する、日本の金融機関の姿勢と同質のものです。リスクのある融資は、まったくと言って良いほどしていません。ですから市場に資金はあっても、それは国内での融資に回らず、1部は株式市場や商品市場に流れ、多くはアジアやブラジルなどの経済離陸期にある新興国への投資に流れているのです。金融緩和の効果が出てこないのですから、経済失速を防ぐためには、欧米各国は国や中央銀行の資産の劣化を承知の上で、中央銀行の引き受けによる国債発行を続けざるを得ません。中央銀行引き受けを節度をもって制限している日本に比べ、財務の状況が悪いのですから、ドル安、ユーロ安は進んであたり前なのです。本日10時35分に政府と財務省は、為替市場で円売り介入を実施しました。市場の虚を突いた形で、84円台まで円高は是正されましたが、一時の心理的な効果狙いに留まるでしょう。為替介入は、該当する通貨の構成諸国の合意の上での介入でなければ、上手くいかないのが鉄則です。現在のアメリカやEUに、自分達の通貨の為替レートを意図的に修正する力も意志もないことは、ここまで記してきました。度重なる介入は、悪戯に日本の資産を減じる効果しか持たないでしょう。やがてなお円高は進むでしょうから、介入は虚を突くことで成功した、今回ぐらいに留めた方が、日本が蒙る為替差損が少なくて済むでしょう。 ザビ
2010.09.15
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19世紀のアメリカ(126) 第5章 アメリカ文化の諸相…7 西部開拓が進行中のアメリカは、まだまだ圧倒的に農村社会でした。アメリカでは、人口8千人以上の集落を都市と呼びます。独立直後の1790年の都市人口は、全体の30人に1人でした。1820年では20人に1人、1840年では12人に1人と、年々都市人口は増えていますが、それでもなお、全人口の1割に満たなかったのです。それでは、西部の住人数はというと、アパラチア山脈の西に住む人々の数は、1830年で全人口の25%(4人に1人)を超え、1850年には、50%弱にまで増えていました。こうした荒涼とした地方、日本流に表現すると田舎に住む人々は、単調な開拓生活のなかで、生活の潤い、楽しみを求めます。ですから彼ら彼女らは、旅芸人や旅の物売りの来訪を、大いに歓迎したのです。デイヴィ・クロケットの選挙運動、彼のウソ八百を並べた弁舌(トール・テークと言います)も、そういった楽しみのひとつとして歓迎したのです。選挙の演説会も、民衆にとっては、一種のお祭りのようなものでした。旅回りの演説会は、やがてアメリカの選挙運動の特色となり、いまでも大統領予備選や本選における、候補者の全国遊説を巡るお祭りのような騒ぎに、その片鱗を留めていると言えましょうか。似た現象は、アメリカの裁判制度にも見られます。独特の巡回裁判の制度がそれです。法廷を都市に固定していたのでは、荒野の住民にまで法の権威を及ぼせません。そこに裁判官が各地を巡回する必要が出てきます。しかし、裁判官は土地の事情が分かりませんから、土地の事情に明るい地元の人々を陪審員として、理非の判断に参加してもらわなければなりません。住民参加の裁判です。荒野の田舎で裁判を行なうに相応しい場所といえば、宿屋を兼ねた一膳飯屋や居酒屋(バー)しかなく、こうした場所が法廷になります。こうした場所で、検察側も弁護側も、法の知識などないに等しい陪審員の心に響くように、うまく訴えかけなければならないのです。勢い表現は大げさに成り、時には感情に訴えかける名演技が、必要とされるようになります。その様は、まるでドラマを見ているような錯覚を、法廷に押しかけてきた時も民に覚えさせるのです。アメリカの裁判の、こうした傾向は、現在の1部裁判にも残っていますね。 続く
2010.09.15
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クロニクル 麻原彰晃の死刑確定2006(平成18)年9月15日4年前ですね。この日最高裁は、麻原弁護団から提出されていた特別抗告を棄却しました。その結果、ようやくオーム真理教の教祖、麻原彰晃に対する死刑が確定しました。弟子達には、次々に死刑判決が確定していただけに、いたずらに裁判を引き伸ばしていた弁護団の対応には、問題が残りました。それにしても、彼の死刑はまだ執行されていませんね。
2010.09.15
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政治を斬る(120)民主党の代表選がようやく終りました。経済界や訳知り顔の経済評論家、そして地方政界などに小澤待望論がありましたが、つぶさに彼の発言を検討すると、旧自民党それも小泉改革以前の自民党の政策に近いことが分ります。時計の針を逆回しに回し、後ろを目指して走られたのでは、たまりません。今の日本経済の状況は、古い型の財政出動で何とかなる性格のものではありません。一方の菅首相は、参院選挙戦の当時から、良く分かっていましたが、経済音痴で財務官僚の言い成りです。1990年以降の日本経済の停滞は、大蔵省時代を含む財務省を中心としたや経済省庁のミスリードによるところが大きいのですから、官僚支配の打破は喫緊の課題です。それを忘れたような菅首相の官僚依存は、これまた当然に否定されてしかるべきです。その上、菅首相は外交もまた苦手のようです。こうしたことから、今回の民主党の代表選、9月1日の(119)に記した通り、私はシラケタ気分で眺めておりました。結果としての選挙の結果は、まずまず常識的な線だったように思います。国会議員票は僅差(菅氏が6票多かったのみ)。これは「政治家の常識は世論の非常識」という現実を、見事に示してくれました。それが地方議員票になると、6:4で菅首相。党員・サポーター票になると、菅圧勝と出ました。確かに民主党は参院選で負けました。菅首相が不況の中で消費税をあげるなどという、経済音痴丸出しの△△発言をしなければ、あそこまでボロ負けすることはなかったでしょう。それはそうですが、小沢氏の政治と金の問題が、選挙結果に尾を引いたことも間違いのない事実です。ですから、僅か就任3ケ月の代表を、参院選の結果を楯に下ろそうという小沢氏の主張は、常識的に認めがたいものでした。その上に、彼の訴える経済対策は、バラマキ型の時代逆行的な政策に過ぎず、とても魅力的などと言えるシロモノではなかったのです。これはまさに、世論の常識が「非常識極まりない政治家のご都合主義」にきっちりお灸を据えた結果です。その点では、民意はまともだった。私はそんな風に受け止めました。さて、第2幕はあるのか。そちらの方が興味が湧きますね。
2010.09.14
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19世紀のアメリカ(125) 第5章 アメリカ文化の諸相…6 デイヴィ・クロケットは、テネシーの辺境に生まれ、開拓農民兼猟師として成長しました。1810年代のクリーク族との戦いで手柄を立て、やがて民兵大佐に選ばれます(仲間の互選)。1821年にはテネシー州の州議会議員、27年には連邦下院議員となり、勇躍ワシントンに乗り込み、次のように語ったとされています。「俺は、奥地から出てきたばかりの、あの有名なデイヴィ・クロケットだ。半身は馬、半身はワニ、スッポンの血もちょっぴり混じってるぜ。ミシシッピ川を踏み渡り、オハイオ州を一跨ぎ、稲光に飛び乗ったり、サイカチの木を擦り傷ひとつ追わずに滑って降りることも出来るんだ」と。ここで明らかになることは、二つあります。一つは、デイヴィ・クロケットが開拓に従事し、インディアン戦争にも従事した、文明の建設者として評価されたということです。そしてもう一つは、彼は自分を動物や自然現象に擬する自然人で、自らの野生を嘘八百を交えて表現する性向を強く持っていたことです。クロケットは、そういう二重の意味で、奥地の民衆の代表として振る舞い、ジャクソン時代の時流に乗って、政界に進出したのです。しかもクロケットは、1835年の選挙で落選すると、憤懣やる方なかったのでしょう、さらに西部へと旅立って、開拓の最前線に立とうとします。そして翌1836年にテキサスの地で、アメリカ人入植者達の、メキシコからの独立運動に出会うと、その仲間に入り、百数十人でアラモの要塞に籠もり、5千人のメキシコ軍を迎え撃って、玉砕しました。「テキサスの自由のために」、これがテキサス独立運動のスローガンでしたが、そのために壮絶な死を遂げたクロケットは、奇矯な野人のイメージを超えて、一挙に国民的ヒーローの座に駆け上がったのです。 続く
2010.09.14
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クロニクル 金閣再建1955(昭和30)年9月14日1950(昭和25)年の7月に、放火によって焼失した金閣(鹿苑寺舎利殿)が、5年2ヵ月後のこの日再建され、金色に輝く姿を披露しました。落慶法要は10月10日に行なわれました。
2010.09.14
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ギロチン補遺4日前のギロチンの記事に、沢山のコメントを戴きました。三年前になりますが、2007年の7月14日から11月15日まで、120回にわたって、フランス革命について連載しました。その8月中の記事のなかで、ギロチンについて触れています。首切り役人が、首を落とす仕事は、気配で処刑される人間が首を竦めますから、一刀両断に寸時にして首が落ちることは、先ずありません。1日3人の首を落とすのがやっとだと言われるほどの、重労働だったと記されています。当然首を竦めたがゆえに、深手を負って苦しむ死刑囚も、大変な苦痛を味わうことになります。ギロチンは、死刑囚が首を竦めることが出来ないように、うつ伏せに寝かせた死刑囚が首を竦めることが出来ないように、首枷で固定し、その首枷に沿って、かなりの高さに引き上げた頑丈な刃が、高速でストンと落ちることによって、確実に一撃で首を切り落とします。ですから、1台のギロチンで、1日で20人でも30人でも、処刑することが可能なのです。残酷な処刑法には違いありませんが、死にいたるまでに長い時間がかかって、死刑囚を苦しめることはなかったのです。我々の神経からすると、理解しがたい所なのですが、ギロチンに限らず、当時の死刑は全て公開でなされたことです。ですから、1793年1月21日の元国王ルイ16世の処刑も、同年10月16日の元王妃マリー・アントワネットの処刑も、いずれも公開で行われたのです。下の絵2枚のうち上の絵は、処刑直後の国王の首を、死刑執行人が見物人にこれ見よがしに見せているところです。ギロチンの刃をご覧下さい。その下は、刑場に引き立てられ、ギロチン台に上ったマリー・アントワネットです。これから、ギロチン台に寝かされるところです。
2010.09.13
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19世紀のアメリカ(124) 第5章 アメリカ文化の諸相…5しかしながら、ここに問題が生じます。自然人であり続けること(自然志向)と丘の上の町を建設すること(文明志向)事とは、考えてみれば相互に矛盾します。自然人が、自然を征服するということは、結果として文明化することを意味し、自分で自分の足元を崩してしまい、自然人として生きることの出来る空間を狭め、無くしていくことに通じます。しかし、こうした問題は、矢継ぎ早に実行された西へ西への領土拡大運動の継続によって、ほとんど意識されることがなかったのです。フロンティアの最前線は、常に西に移動し、未開の西部の地図上の位置は変わっても、未開の西部は存在し続けたからです。自然人が社会を建設した結果として、文明の秩序や道徳に自己の自由や野生を束縛されるようになったら、彼はフロンティアに出てゆけば良いのです。未開の西部に旅立つことで、彼は自然人の魂を回復し、住民の先頭に立って、新たな建設に挑むのです。このようにアメリカン・ヒーローの伝説や神話は、フロンティアのある限り、自然人の活力と、文明建設者の活力を、いかにも矛盾がないように見せることが出来たのです。民衆もまたヒーローの活躍に、自分達の夢を託すことが出来たのです。こうした民衆のヒーローは、19世紀の初頭から、次々と登場してくるのですが、そうしたヒーローを集大成した形で登場したのが、年配の方なら小坂一也の歌でご存知のデイヴィ・クロケットです。>テネシー生まれの快男児 その名はデイヴィ・クロケット 僅か三つで熊退治 その名を西部にとどろかす…<というあの歌です。まるで金太郎の親戚のような男です。 続く
2010.09.13
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クロニクル 大阪万博閉幕1970(昭和45)年9月13日40年前の今日、3月14日に開幕した大阪万博が、183日の会期を終え、閉幕しました。元経団連会長の石坂泰三氏が会長を務めた、日本万国博覧会協会が目標とした総入場者数は、3000万人でしたから、1日平均で約17万人が必要でした。ところが開幕当初の出足は悪く、開幕3日目の3月16日には、163,857人の入場者しかなく、開幕直後にこれではと、関係者は大いに心配したようです。ところが、この心配は杞憂に終わり、3月16日の入場者数は、会期全体を通じての最低入場者記録として残り、以後春休み、5月連休、夏休みと入場者数は漸増を続け、最高入場者数を記録したのは、会期も終幕に近い9月5日の835,832人でした。結局入場者数の合計は、64,218,770人となり、目標の2倍を超えたのです。この入場者数の記録は、現在までの最高となっています。入場券の売り上げ350億円、食堂や売店の売り上げ405億円を記録しました。一番人気のパビリオンは、アポロ11号が持ち帰った「月の石」を展示したアメリカ館でした。万博会場に敷設された「動く歩道」は、その後各地で使割れるようになり、缶コーヒーもまた、万博会場で販売されたものが評判を呼び、その後ヒット商品になったことが知られています。
2010.09.13
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19世紀のアメリカ(123) 第5章 アメリカ文化の諸相…4 独立戦争によって、イギリスからの独立を勝ち取った合衆国にとって、次なる課題は、文化的な独立でした。しかし、そのアメリカ社会は、ヨーロッパ社会と決定的に異なる要素を内包していました。既に何度も指摘してきましたが、白人にとっての未開の西部が19世紀末まで存在したことです。19世紀のアメリカ史は、文明と未開の境界だったフロンティア・ラインを、常に西へ西へと移動させることにありました。開拓地に出かけ、家族揃って額に汗しながら働き続け、その努力の結晶として大きな財をなし、子ども達に高い教育を受けさせて、社会の上層に上りつめることも、決して不可能ではなかったのです。その点で、アメリカ社会の階級の間の壁は、ヨーロッパに比べると、数段低かったのです。アメリカ社会では、家柄や血筋といった伝統的な価値は、ほとんど評価されず、実力主義が幅を利かしていた背景には、こうした事実がありました。アメリカ東海岸に上陸した時から、新しい「アメリカ人」たちには、まさに未開の荒野が広がっていました。この荒野に定着し、何とか生活できるようになり、やがてイギリスからの独立を勝ち取る頃になると、彼らの中に多少の自信が生まれてきます。我々の暮らす大地、豊富な未開の自然こそ、ヨーロッパの堕落した「文明」とは異なる清浄な地、新しい「エデン」であると、彼らは考えました。そしてエデンに生きる自分達は、アダムのような自然人でなければならない。無垢にして自由、ヨーロッパ流の教養や礼儀や社交を無視して、天真爛漫に生きる野性人に、米国人は自分達の理想を託したのです。こうしたアメリカのアダムの特質が、アメリカン・ヒーローの基本的な条件となったのです。しかし、単なる自然人に、「丘の上の町」は建設できません。民衆のヒーローとなるためには、何らかの形で文明の建設に貢献することが必要です。それは堕落した文明ではなく、民衆に奉仕する文明でなければなりません。民衆自身にはとてももてない、大きな力をふるって、荒れる自然を征服し、平和で安全な社会を建設する英雄こそが、アメリカン・ヒーローとなるのです。 続く
2010.09.12
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ラスコー洞窟の壁画 補遺ラスコーの洞窟壁画の写真をアップします。壁画は1点ではなく、数多くの壁画が残されているのですが、動物壁画が数も多く、有名です。
2010.09.12
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クロニクル ラスコーの壁画発見 1940(昭和15)年9月12日ちょうど70年前になりますが、この日、ラスコー洞窟で、動物壁画が発見されました。ラスコー洞窟は、フランス南西部ドルドーニュ県のヴィゼール渓谷にある、モンティニャック村近郊の洞窟です。この日、洞窟近くで遊んでいた近くの村の子供たちが、地下に長く伸びる洞窟の奥深く入り込み、壁や天井に描かれた数多くの壁画を発見したのです。この年フランスは、4月に始まったばかりのドイツとの戦争に記録的な大敗を喫し、6月には、フランス全土の3分の2をドイツ軍に譲り渡すという、屈辱的な講和を結ばされたばかりでした。その後の調べで、15,000年前の旧石器時代後期のクロマニョン人によって描かれてものと判明する、ラスコーの洞窟壁画の発見は、そんなフランスに訪れた束の間の明るいニュースでした。ところで、戦後しばらくは一般に公開されていた壁画は、痛みがひどく、1963年以降は非公開とされ。現在も洞窟は閉鎖されています。
2010.09.12
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19世紀のアメリカ(122) 第5章 アメリカ文化の諸相…3 内村のような感懐を抱いた人は、米国内にも少なからず存在していたのでしょう。実際に戸惑う内村を快く支援した人々も多かったのです。同時にアメリカは、戸惑う人々を無視するような勢いで、産業を発展させ、急速な都市化を進め、機械文明の花を次々に開かせて行ったのです。そして、逡巡し戸惑う内村とは、全く異なる感懐を抱いた旅行者もありました。内村から19年後の1903(明治36)年、近代日本文学の中でも、特異な美意識を持つと評された永井荷風が、アメリカを訪れています。そして荷風は、アメリカ文明への賛美を「アメリカ物語」に書き記したのです。19世紀のアメリカ文化は、良かれ悪しかれ、物質文明の極地を実現し、それを肯定する文化運動として、自己実現を図った者であることも、間違いのないところです。この章では、19世紀のアメリカが、西部開拓をやりつくす形で辿り着いた物質文明の体現者の角度から、分析して見ようと思います。 続く
2010.09.11
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クロニクル 日本で最初の公衆電話設置1900(明治33)年9月11日110年前になります。この日、新橋駅と上野駅に、日本で最初の公衆電話が設置されました。日本で始めて電話局が誕生したのは、1890(明治23)年の12月のことでした。電話局が設けられたのは、東京と横浜でした。このとき同時に、東京に15ヶ所、横浜に1ヶ所の電話所が設けられ、電話回線を持たない人々の、電話利用の便を図っていました。この電話所の電話が、公衆電話のはしりと言えなくもないのですが、設置されているのが、電話局の中でしたから、誰もが自由に使えるという雰囲気は生まれなかったようです。110年前、新橋駅と上野駅に設置された公衆電話は、新橋駅では、中等待合室の前、上野駅では駅長室前と、夫々通路に置かれましたので、電話の周知には役立ったのですが、料金が高めだったために、利用は大きくは伸びなかったといわれています。
2010.09.11
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世界経済の現状(172)7日に「明日書く」と記して、今日は10日。ちょっと忙しかったのですが、約束違反をお詫びします。さて、今回の米・欧中心の金融危機ですが、日本を巻き込んだ事情は7日の(171)に記しました。ところで、リーマンショック後のアメリカは、昨年春に実施した金融機関に対するストレステスト後、小康状態に入りました。欧州も今夏のストレステストの結果、米国と同じく小康状態に入っています。本当に金融機関の危機が、言われるほど深刻でなかったのかというと、そうではありません。日本の金融庁の立ち入り調査も同じですが、調査は市場よ世論を落ち着かせるために行なわれます。特に市場参加者である、プロやセミプロたちは、ストレステストが厳格かつ詳細に、金融機関の不良資産を洗い出してなどいないことを、十二分に認識しています。結果の発表を金融n番人による「問題なし」のサインを、「潰さずに支えるよ」の合図として受け取っているのです。日本の金融危機の絶頂期、欧米当局、とりわけ米国の金融当局は、当初不良資産の簿価評価を問題とし、時価評価に改めることを、強硬に主張しました。しかし、拓銀と山一の頓死、長銀と日債銀の破綻認定の頃から、態度を改め、簿価評価やむなしの態度を替えました。時価評価を強要すると、日本初の金融恐慌発生が不可避であることを理解したからです。そしていま、米欧の金融当局は、かつて日本の金融当局に強く迫った時価評価を、自国の金融機関に求めることなど、とても出来ないことに、気付かされたのです。今FRBもECBも、そして、ニューヨークやシカゴ、アトランタなどの連銀も、フランス銀行やイングランド銀行も、自国の金融機関の不良資産を簿価で預かり、時価評価は封印しているのです。いずれは、金融機関が引き取ってもらった値段と同値で引き取ることになるのですが、一時的に不良資産は、銀行のバランスシートから切り離されるのです。日本であれほど問題視された先送りを、米欧共に実行するしかなかったのですね。 続く
2010.09.10
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19世紀のアメリカ(121) 第5章 アメリカ文化の諸相…223歳の青年内村が、渡米前に抱いていたアメリカのイメージは、大変理想化されたものでした。いったい内村青年のこうしたイメージは、どこでどのようにして形成されたのでしょうか。それは勿論、アメリカ合衆国が太平洋岸まで領土を広げ、産業国家として急成長を遂げつつあった1880年代を理想化したイメージとは、どうも違います。全くイメージが合いません。また岩倉使節団の報告書を読んで、膨らませたイメージともやはり合いません。内村は、札幌農学校に学び、既に同校を去っていたとはいえ、同校の教育に多大な影響力を残していたクラーク博士の間接的な感化を受けて、キリスト教に回心したことが知られています。クラーク博士はマサチューセッツ州の奥地にあるアマースト大学で学び、母校やマサty-セッツ農科大学で教鞭をとっていた人物です。内村は、クラーク博士の教えや、札幌農学校で実際に接した米国人宣教師などから、宗教色豊かなニューイングランド、それも「俗化」する以前のニューイングランドの雰囲気を、理想化して伝えられていたのでしょう。そして、そのイメージが、内村の心に、アメリカの実像として焼きついていたのでしょう。確かに建国初期のアメリカには、特にピューリタンの入植したニューイングランには、内村が共鳴した理想主義が息づいていました。ニューイングランドとは違って、金銭的利益の獲得を目指したヴァージニア植民地においても、独立戦争期のリーダーの1人トマス・ジェファソンは、田園に広がる独立自営農民の共和国を理想としていました。彼の主張する牧歌的なイメージは、どこか内村が思い描いていたアメリカ像に、どこか通じているように思えます。しかし、内村が憧れたアメリカ像は、いずれも現実のものではありませんでした。建国から1世紀、現実のアメリカ社会や文化は、大きな変貌を遂げていたのです。 続く
2010.09.10
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クロニクル 最後のギロチン処刑1977(昭和52)年9月10日33年前の今日ですね。随分と最近まで使っていたのですね。この日、フランス革命期に利用の始まったギロチンによる、最後の処刑(首切り刑)が、フランスで行なわれました。それにしても、この12年後の1989年は、平成元年、フランス革命200年の記念すべき年、競売で、何台ものギロチンが外国にわたりました。確か日本にも2台入っているはずです。以前に紹介した明治大学の刑法博物館にあるものは、実物大の模型です。
2010.09.10
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19世紀のアメリカ(120) 第5章 アメリカ文化の諸相…11884(明治17)年、ほとんど無一文に近い23歳の青年内村鑑三は、単身アメリカ留学へと旅たちました。当然前途の多難を思わせるのですが、1895年に刊行された、彼の自伝『余は如何にして基督信徒となりし乎』によると、およそ次のようでした。彼にとってアメリカは、徳高く敬虔なピューリタン的信仰生活を送る人々の国として、イメージされていました。彼は語ります。「…教会堂の聳える小山、賛美歌の響きわたる丘を余は夢見た。実に余の心に描かれし米国の像は、まさに『聖地』のそれであった」と。しかし、現実のアメリカは違っていました。サンフランシスコに上陸してすぐ、内村は掏摸の存在を知る体験にあいます。シカゴで汽車を乗り換えた時には、親切そうに手伝ってくれた人にチップを要求されて驚き、金銭万能主義の現実に直面します。さらに、ホテルの部屋にもタンスにも鍵がかかっていることから、社会の不安を知ります。黒人や中国人に対する人種偏見の凄まじさも体験します。そこから内村は、「嗚呼天よ、余は誤てり! 余は欺かれたり!」と、痛憤し、嘆息しています。そして内村は、こうした幻滅の底から、なおアメリカに生きる真のキリスト教精神を掴みなおそうと、悪戦苦闘を続けることになったのです。 続く
2010.09.09
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クロニクル 「きく1号」打ち上げ1975(昭和50)年9月9日35年前ですか。この日、宇宙開発事業団が、初めての自前の人工衛星として、技術試験衛星「きく1号」の打ち上げに成功しました。種子島宇宙センターの名が、一躍日本中に知れ渡ったのも、この日でしたね。
2010.09.09
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19世紀のアメリカ(119) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…251890年の国勢調査の報告書は、「フロンティアの消滅」を宣言したことで知られています。大草原の開発も進み、1889年には、ノースダコタ、サウスダコタ、モンタナ、ワシントンの4つの準州が、一挙に州に昇格しました。さらに翌1890年には、ワイオミングとアイダホが州に昇格しています。長い間、インディアンの指定保留地となっていたオクラホマは、その周囲が白人によって完全に開拓されてしまうと、土地に飢えた白人の不法を承知侵入に晒されるようになったのです。侵入の初期には、不法侵入者は、発見され次第アメリカ陸軍の手で追い払われていたのですが、侵入者が多くなると、阻止することが難しくなってきます。そこで、連邦政府は1889年に、オクラホマの西半分をインディアンから買い取り、ここを白人に開放したのです。4月22日が、白人の西部オクラホマへの入植の開始日だったのですが、この日だけで、移住者はこの日だけで1万人を超えたのです。こうしてオクラホマは1890年には、早くも準州に昇格したのですが、インディアンの居留地を含んで州とするかどうかに悩み、州への昇格は1907年まで待たされたのでした。ニューメキシコとアリゾナの州昇格は、治安状態の改善が条件とされたために、1912年まで待たされたのでした。モルモン教徒が入植したユタ州の州昇格は、1849年のユタ準州の成立から50年近く遅れての1896年1月のことでした。これは、モルモン教徒が一夫多妻制を取り、この制度を改めようとしなかったためでした。1890年に、一夫多妻制を違憲とする最高裁の判決が出されたことを契機に、モルモン教会の幹部会は、合衆国憲法を尊重し、これに違反しない旨を表明しました。これによって、モルモン教会の一夫多妻制は、ようやく廃止されたことから、連邦政府はこの事実を確認し、96年1月の州への昇格となったのです。 第4章 完
2010.09.08
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クロニクル セロテープ登場1930(昭和5)年9月8日80年前になりますね。米国ミネソタ州に本社を置く3M(スリーエム)社が、この年セロハンテープを開発、発売しました。日本へはGHQが持ち込み、米国からの輸入は時間がかかるため、ニチバンに製造を依頼し、同社が約1ヶ月で製品化したのが、最初です。なお、セロテープという呼称は、その折りにニチバンが登録商標として申請、認められていますので、正確には、ニチバン製品にしか使えない名称なのだそうです。でも、つい使っちゃいますよね。
2010.09.08
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世界経済の現状(171)米国の雇用が予想ほど落ち込まなかったとして、市場は安心感を持ったようですね。イラクからの撤退を正式に発表したオバマ大統領は、11月に迫った中間選挙に向けて、最後の梃入れに出ました、イラク撤退で浮く戦費を利用するのでしょうか、大胆な景気刺激策を発表しました。効果が上がると良いですね。しかし、前途は多難なようです。1998年に始まる日本のゼロ金利、それでも足りずに2000年代に実施した量的緩和政策(資金のジャブジャブ漬け)、いまや米国もEUも、日銀の実験の後追いを続けています。日銀の超金融緩和は、確かにそれなりの効果を生みました。市場に安心感を与え、金融危機が底なし沼に はまり込むのを防いだからです。しかし、量的緩和も景気の回復を齎す効果は持ちえませんでした。金融機関の企業や個人への貸し出しはちっとも増えなかったのです。債権の不良化に恐れをなした金融機関は、超一流企業以外には、金を貸さなくなったからです。それ以外の融資は、ほとんどが政府保証や信用保証協会の保証付きの案件ばかりだったのです。2003年以降の回復期、リスクをとって貸し出しを増やしたのは、外資系のヘッジファンドばかりでした。ですから、サブプライムローンの焦げ付きに始まる、証券化商品の危機が本格化したとき、日本の金融機関の傷は小さかったにも関わらず、日本企業の利益は大幅に落ち込み、株式市場は本家の米国を上回る落ち込みを見せたのです。証券化商品の暴落で大損した米銀が、ヘッジファンドへの貸付を引き上げ、困ったヘッジファンドが、日本企業への貸し付けを。大急ぎで回収したからに外なりませんでした。ゼロ金利政策と量的緩和にも関わらず、日本の金融界は、企業への貸し出しを増やそうとはせず、ゼロに近い預金利息を楯に、安全な国債などの売買で、僅かな利益を稼いでいたのです。米銀はどうでしょうか。彼らも羹に懲りて膾を吹いたのです。その点は、明日記します。 続く
2010.09.07
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19世紀のアメリカ(118) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…24教育に関する1887年の総務局の通達には、次のような指示が記されています。「インディアンの言語を、居住地内の学校で教えると、両親と同じような英語への偏見を生むことになる。英語は白人だけでなく、黒人にも役立つ言語なのだから、インディアンにも役立つはずである。」「インディアンの子ども達に、あの野蛮な方言を教えるのは有害だ。この国で、英語以外の言語で、インディアンを文明化するのは、完全には不可能でないにしても、非現実的である。」このようにしてインディアンの次の世代は、総務局の同化政策によって、インディアンらしさを失っていったのです。しかし、「文明化」され、キリスト教に改宗され、英語に上達したインディアンにとっても、なお差別の壁は扱ったのです。かつて白人と戦い、戦い敗れたインディアンの1人、ブラック・エルク(黒い楡の木)は、1886年にニューヨークを訪れた際の印象を、次のように語りました・「われわれインディアンの助けになるような、白人の秘密を手に入れようと思って訪問したのだが、助けになるようなものはなかった。インディアンは、部族が解体されるまでは、みんなが同胞のことを大切にしていた。だが、白人はお互いのことなど、気にしていないことが分かった。」他人から取れるなら、何でも取り上げてしまうのが白人のやり方なのだ。」「だから、何も持たずに植えている人間が沢山いても、もう片方には、使えないものまでたくさん持っている人間がいることになる。白人は、大地が母であることを忘れてしまっている。こんな暮らしが、インディアン古来の暮らしよりよいはずがない。」「町に流れ込む大きな川があった。その河口の島にある刑務所を見た日のことだ。罪人たちは看守に銃を突きつけられて、まるで檻の中の動物のように、あちこち動かされていた。その様子を見て、私はひどく悲しくなった。インディアンもこの島の囚人のような状態に、置かれていることに気付いたからだ。囚人の扱い方が、そのままインディアンの扱いになっていると思えたからだ。」これがインディアンの置かれた現実でした。指定居留地という名の檻の中の生活か、「他人から取れるものは何でも取り上げてしまう」白人社会での生活かの、二者択一がインディアンに強いられたのでした。 続く
2010.09.07
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クロニクル グーグル創業1998(平成10)年9月7日まだ創業12年なのですね。ヤフーを抜いて、検索エンジン最大手に躍進したグーグル。12年前の今日、ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンによって、創業されました。このときペイジとブリンは共に25才。2人は共にスタンフォード大学の計算機科学の博士課程在学中のことでした。
2010.09.07
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19世紀のアメリカ(117) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…23 ところで、アメリカ政府のインディアン政策を担当したのは、インディアン総務局(以下総務局と略記します)という役所でした。当初は陸軍省の傘下にありましたが、1849年に米国政府の6番目の省として内務省が設置されると同時に、内務省に移されました。西部諸州が、陸軍省の管轄下にあったのでは、西部の利益が反映されないと、強く主張した結果でした。以後総務局は、インディアンに関わる事項の全てについて、大きな権限と責任を持つ政府機関として、機能してきたのです。総務局の権限と責任が減少に向かうのは、1980年代以降のことでした。さて、ドーズ法の制定後、総務局の権限と責任は大幅に拡大しました。こうして総務局は、インディアン同化政策を推進していったのです。その政策は、インディアン固有の生活や各部族の個性を無視した一方的で、画一的なものでした。総務局は、自らがインディアンにとって良いと判断したことを、次々に実行してゆきました。そこには確かに、彼らなりの善意があったのでしょうが、インディアンの意志を無視した一方的な善意の押し付けでしたから、インディアンにとっては、無礼かつ迷惑千万の行為となることは、避けられませんでした。何しろ総務局は、インディアンの「後見人」であり「保護者」であると自ら考え、かつインディアンは「保護」と「後見」を必要とする存在であると、手前勝手に決め付けていたからです。一例をあげると、インディアンの子女の教育について、「子どもは、親から切り離して教育することが必要だ。休暇でも親元へは帰さない。帰せば再び文明から野蛮に戻ってしまうのだから。」と、教育担当の職員が、語っていたのです。「インディアンの固有の文化は野蛮そのもの、言語ももちろん野蛮である。だからこそ、インディアンの子ども達には、英語を教えることが第一なのだ。」こうも指摘されていました。 続く
2010.09.06
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クロニクル 第二次印パ戦争始まる1965(昭和40)年9月6日45年前のことになります。この日インド軍がパキスタンとの国境を無視して、パキスタン領内に侵攻しました。ここに、第二次印パ戦争が始まりました。インド及びパキスタン並びにバングラデシュ(旧東パキスタン)は、旧イギリス領インドが、イギリスからの独立の過程で、分離独立した国家でしたが、カシミール地方の帰属を巡って、両国の対立は根深かったのです。そのため、1947~48年という独立直後の時期に、第一次印パ戦争を起していました。このときカシミールは、両国の実効支配に任され、最終的な帰属は、何も決められなかったのです。そのため、その後も両国の衝突が続き、そして、この日に始まる第第二次印パ戦争となったのです。戦争は、国際社会の要請を受け入れる形で、17日後の9月23日に停戦となり、再び以前と同じ停戦ラインへ。両国軍が撤退、今日に至っています。
2010.09.06
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世界経済の現状(170) 先週月曜日、日銀は金融緩和に踏み切りました。それだけ日本経済の先行きが弱いと思っているようです。世界も日銀のサインを受け止めたと思いますが、それでも円高の流れはとまりません。何故でしょうか。ドルとユーロに比べれば、円の安定性が際立っているからです。そのため、安全資産として円が買われているわけです。別に米国や欧州が、意図的にドルやユーロ安を演出しているわけではありません。アメリカのように入超の国では、ドル安はただちに物価高に繋がります。ウォン安の韓国が心ならずも金利を引き上げたのは、輸入価格の高騰に耐えられなくなった民衆の不満を。抑えきれなくなる不安を政府が感じたからに外なりません。給料が上がらない、雇用が脅かされ、失業が増加しているとしたら、物価高は民衆の生活をただちに破壊します。それ避けなければならないのです。 続く
2010.09.05
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19世紀のアメリカ(116) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…22 学校に入学した子ども達は、文明化への第1歩として、髪の毛を短く切られました。長髪を皮切りに、インディアンが大事にしていたあらゆるものが、全て野蛮の名で否定されてゆきました。インディアンの生活習慣のあれこれから、精神世界の拠り所である信仰までが、否定されたのです。白人達は、インディアン独自の信仰を奪い、キリスト教化することに全力をあげました。信仰の押し付けは大きな精神的ストレスと、反発を呼びます。しかし、ジェロニモの戦いを最後に、最終的に白人との武力闘争に敗れたインディアンには、もはや武闘に立ち上がる力は、残されていませんでした。改宗の強要や同化政策の推進に対するインディアンの対応は、およそ次のような対応に分かれました。先ずは、一切をあきらめて、同化政策にほぼ忠実に従った部族。多少の抵抗を示しながらも、仕方がないとして、受容する部族。そして第3に、インディアンらしさを保ち続けようと、表面は同化に協力する様子を見せながら、自らの信仰世界を秘教化して守ろうとした部族と、インディアンの対応は分かれました。強大な圧力に対する多様な対応が、インディアンの団結を難しくしていたのです。 続く
2010.09.05
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クロニクル 「宮本武蔵」の朗読始まる1939(昭和14)年9月5日71年前ですか。1939年ですから、4日前の9月1日、ドイツ軍がポーランドへの侵攻を開始し、それに反発した英、仏がドイツに宣戦を布告、第二次世界大戦が始まったばかりの時でした。もちろんラジオの話です。この日NHKラジオ第一放送が、徳川夢声の朗読というスタイルで、吉川英冶の小説「宮本武蔵」の放送を開始しました。
2010.09.05
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19世紀のアメリカ(115) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…21 ドーズ法の制定を推進した良心的な白人は、同化することこそが、インディアンを文明化し、彼らのためであると、信じて疑いませんでした。インディアンの共同社会と共同生活こそが、彼らの進歩を妨げる根源であると、考えていたからです。こうしてインディアンは、彼ら自身の生活の知恵の結晶である、彼らに独自の社会制度と生活様式を否定されたのです。インディアンは土地の共同所有と収穫物の平等分配を否定され、私有財産制の導入を強制されたのです。人と人との絆を大切にするインディアンの文化と、信仰は神と個人との対話と考える個人主義に立脚する白人の文化とは大きく異なります。とりわけ資本主義経済は、貧しき人々の相互扶助と助け合いの精神を、徹底的に破壊することで、勢いを増し、遂には社会全体を制覇することに成功したシステムです。こうしたインディアンにとって馴染みのない、新しい制度に、即座に順応することなど、とても無理というものでした。苦心して農耕に取り組んでみても、耕作技術の初歩から学ばねばならないインディアンが、白人農民に太刀打ちするのは、まず不可能でした。こうしてインディアンの中には、分配された土地を手放さざるを得なくなった者や、白人に土地をだまし取られる者が出てきたのです。インディアンに分配された土地の売買を25年間禁止する条項が加わっても、抜け道はいくつもあります。名義を変えずに、白人が借地した形を取り、借地料は形式だけとするなど、方法はいくらもあったからです。市民権は付与されましたが、これも名目上のもので、厳しい差別は黒人同様に温存されていたのです。子ども達は、学校教育を通じて同化されることになりましたから、同化の機会は、大人に比べると、ずっと多かったのですが、その分、アイデンティティに悩まされるなど、子ども達の苦悩もまた大きかったのです。一例をあげます。下の2枚の写真をご覧下さい。インディアンの子ども達に対する同化教育の厳しさの一端がここにあります。上の写真は、1886年の11月、インディアンのための寄宿生学校に入学した直後の子ども達です。自由に髪を伸ばし、長髪をたなびかしています。下の写真は、上の写真の4ヵ月後の写真です。いったん白人の管轄する学校に入ると、インディアンの子ども達には、そのアイデンティティを守る自由は、与えられなかったのです。髪型すら自由に出来ず、長髪はご法度だったのです。 続く
2010.09.04
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クロニクル 東京ディズニー・シー開園2001(平成13)年9月4日もう9年経つのですね。9年前の今日、東京ディズニー・シーが開園しました。東京ディズニー・シーの最大の特徴は、世界のディズニーパークで初めての海をテーマにした施設という点にあります。開園翌年の7月7日には、早々と入場者数は1千万人に達し、ディズニー・ランド同様、大変な人気を博しています。今年8月待つには、ディズニー・ランドとディズニー・シーをあわせた入園者数が、合わせて5億人に達したそうで、今なお大変な人気を博しています。
2010.09.04
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19世紀のアメリカ(114) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…201887年に制定されたドーズ法は、指定居留地に住むインディアンに、市民権と土地を賦与することを定めていました。そこから、「インディアン解放法」と呼ばれたことも事実です。しかし、そこにはなお三つの大きな問題点があってのです。第1に、インディアンへの土地賦与は、部族社会にあるインディアンの生活様式を無視して、個人化され、核家族化されたインディアンに対する賦与だったのです。部族を解体し、部族の伝統を切り捨てることが、賦与の条件となっていたのです。先住民にとって、インディアンであることは、部族の一員であることによって保証される性格のものでしたから、個人となることは、インディアンであることを放棄することにほかならなかったのです。個人として土地を持つこと、それは、強制的な白人への同化を意味したのです。第2に、ドーズ法もまた、インディアンの土地を奪っていく側面を持っていた事実を上げなければなりません。1890年の1年だけをとっても、インディアンの所有地、指定居留地の7分の1に達する、1,740万エーカーの土地が、米政府の手に入りました。ドーズ法制定後の20年間に、インディアンに2,100万エーカーの土地が分配されたのですが、米国政府はその2倍半に相当する5,300万エーカーの土地を獲得しているのです。それらの土地は、最初こそ森林要として保存されたのですが、最終的には、貪欲な白人植民者などに払い下げられていったのです。第3に、ドーズ法は、インディアンに分配された土地の売買を25年間禁止しました。それは何よりも、白人によるインディアンの土地詐取を避けるためでした。米国政府と議会は、インディアンの脅威を圧殺した後になって、今度は土地分配によって、インディアンの生活に私有財産制を持ち込み、自分達の制度に同化させようとしたのです。しかし、それはそう簡単に、上手くいくことではなかったのです。 続く
2010.09.03
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クロニクル Bunkamura開業 1989(平成元)年9月3日もう21年になるのですね。この日、東京渋谷の東急本店に並んで、日本で始めての大型複合文化施設Bunkamuraが開業しました。コンサートや剣戟で、私も年に数度は出かけておりあす。
2010.09.03
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世界経済の現状(169) 若い方にとっては、歴史の一部になってしまうのでしょうが、1971年のニクソンショックまでは、円は1ドル=360円の固定相場になっていました。この時のドル危機によって、年末には1ドルは308円に切り上げられ、翌年には変動相場制に入りました。以後、螺旋を描くように波はありましたが、それからの40年近く、長期トレンドで見るなら、円は次第に強くなり、ドルは安くなり続ける道を辿って、今日に来ています。そしてこの間、特に90年代の半ばまでは、日本経済は世界経済に占める位置を上げ続けてきたのです。現在にしても、決して下がっているわけではありません。欧米に比べれば、相変わらず強いのですから。かつての日本のように、追い上げてくるアジアの国々が力をつけた分、二本のウェートが下がっただけなのですから…。何が言いたいのかといいますと、要するに、円高が日本経済の足腰を弱めたことなど、過去に1度もないということです。円高のなかで、日本の株式市場は「日経平均株価」が2000円台から5000円を、1万円を超え、遂には3,9万円という大バブルまで上りつめたのです。40年近くも円高傾向の中でやってきたのに、輸出企業が十分な円高対策を打っていないなんて事があると、皆さんはお考えになりますか? ありえないでしょうそんなこと。そんなアホな経営者は、いたとすればとっくにクビになっているでしょう。それなのに、輸出企業支援のために、円高対策を検討する政府って、一体なんなのでしょうね。きっと裏に何かのカラクリがあるのでしょうねぇ。この点をもう少し考えたいと思います。 続く
2010.09.02
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19世紀のアメリカ(113) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…19アパッチ族のジェロニモの降伏によって、インディアンの白人への抵抗は、ほぼ終了しました。その結果、白人にとっての「インディアン問題」は、軍事的征服と鎮圧から、同化による被保護者化に変化したのです。1880年頃から、先住民インディアンの運命に同情する気運が、心ある白人の間に広がっていったのです。虐殺をはじめとする戦争の残酷さ、転住に次ぐ転住、そして滅亡へと追いやられるインディアンの生活実態が、明らかにされるにつれ、1部の白人知識層の間に、良心の目覚めとでも言える動きが、広まり始めたのです。1881年に出版された、ヘレン・H/ジャクソンの『恥辱の一世紀』は、先住民の抵抗の論理的正当性と、白人の非道振りを告発して、白人の良心や人道主義精神に訴えることに、大きな力となったのです。こうして、いくつかの団体が生まれました。女性が中心となった「全米インディアン協会」、ボストンに生まれた「インディアン市民委員会」、フィラデルフィアに本部を設け、インディアンの実態調査を手がけた「インディアン権利協会」などが、インディアン政策の転換を働きかけたのです。こうした運動と、運動に感化された世論の盛り上がりが、1887年の「ドーズ法」の制定に繋がったのです。 続く
2010.09.02
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クロニクル 科挙廃止1905(明治38)年9月2日105年前になりあす。この日清王朝は、隋代より続いてきた高等文官試験、「科挙」の制度を廃止しました。どんなに名門の子弟であっても、科挙に合格しなければ、高級官僚になる道はなかったのですが、科挙に合格するには、家庭に相当な財力がなければならず、富裕層の登竜門といった色彩を持っていました。
2010.09.02
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