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政治を斬る(68)郵貯の預け入れ限度額は2倍の2千万円に、簡保の保証上限は2千5百万円に引き上げられる政府案が、昨夕発表になりました。簡保の宿の売却中止と共に、これは明らかな政策ミスでしょう。郵貯は、政府保証から、子会社との取引に関する消費税の免除等、様々な手厚い保護を政府から受けています。まさに国策会社そのものです。かつて、郵貯の貯金は、そのほとんどが財政投融資に注ぎ込まれていました。その結果非効率を絵に描いたような無駄の多い、赤字垂れ流しの施設が産み落とされ、それを運営する経済観念のない特殊法人が、雨後のタケノコのように次々に誕生して、天下りの受け皿となってきました。事実上の再国有化と郵政関連の肥大化は、財務省、総務省(とりわけ旧郵政省関係)、そして郵貯のファミリー企業関係者にとっては、願ってもないことでしょう。しかし、それでは、貯金も保険も郵便も含めた、郵政全事業の経営効率化は、とてものことに無理となってしまいます。インターネットの普及で、郵便事業はしばらく前からジリ貧を辿っています。 そして、2倍の貯金を集めることが可能になった郵貯に関して言えば、鳴り物入りで誕生した東京都の「石原銀行」(「新銀行東京」)の体たらくを想起していただくだけで十分でしょう。官営銀行がうまく行ったケースは過去にありません。融資のノウハウのない郵貯は、やがて不良債権を山と積んで、税金による穴埋めが必要となる事態に陥るでしょう。しかも官業に圧迫されて利益が伸び悩むであろうメガバンク外の金融機関は、その利益が伸び悩むことによって、税の支払いを大きく減じるでしょう。即ち、郵貯や簡保の肥大化は、日本経済の一層の非効率化、競争条件の阻害要因として働くでしょう。1960年代~70年代にかけ、極度の経済不振に陥って英国病と揶揄されたイギリスは、経営不振に陥った企業を次々に国有化して、救済しようとしましたが、結果は無残な失敗に終りました。確かに「市場の失敗」は資本主義にはつきものです。こうした「市場の失敗」を大事(おおごと)にしないために、最低限度の規制や政治の介入はあっても良いでしょう。しかい、官が主導するような愚は避けなければなりません。「市場の失敗」よりも「政府(官僚)の失敗」の方が、はるかに問題が多いのです。日本のバブル崩壊による大掛かりな金融危機は、政治の判断ミスによって、大きく拡大したのです。民主党のというべきか、亀井大臣のというべきか、今回の郵政改革の播き戻しは、日本経済に禍根を残す大悪政となる可能性が強いと、私は見ています。何より公務員改革を叫ぶ民主党が、その看板を掲げ続けながら、官の肥大化を平気で招く矛盾に気付かないところが、不思議でなりません 続く
2010.03.31
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ハイチに贈る(72) ヨーロッパ大陸の覇権を握った、あのナポレオンから独立を達成したハイチは、当時の大西洋世界(南北アメリカとヨーロッパを含めて、こう呼びます)から、どう見られ、どんな扱いを受けたでしょうか。現在のハイチに、世界遺産に登録されて観光名所にもなっている2つの建造物が残っています。場所はハイチ第2の都市カパイシアンの近郊です。そこは「ハイチ黒人の過去の栄光を示す記念碑」と評されています。その一つ「ラ・フェリエール要塞」は、標高970メートルの山頂に聳える高さ40メートル、外壁の厚さ3メートルという堅牢な要塞です。現在でもここには当時の200門の大砲と、大量の砲弾が積まれたままの状態で、保存されています。この要塞は、ハイチ北部を統治したアンリ・クリストフが建造したものです。下の写真をご覧下さい。1万人以上の兵士を収容できる巨大な要塞は、多額の費用と多大な人出を必要とし、13年の歳月をかけて完成したことがわかっています。実は、この要塞の姿と、そこに運び込まれている兵器の量に、独立後のハイチがおかれた困難な状況が、象徴的に示されています。お分かりと思いますが、この要塞はフランスや欧米列強によるハイチ再攻撃に対する備えとして建造されたものです。建国期のハイチは、フランスが再侵攻を企て、再びハイチに奴隷制を復活させるのではないか。またフランスに替わってイギリスやアメリカ合衆国が侵攻して、奴隷制度を復活させるかもしれないという、強い強迫観念を持ち続けていたのです。初代元首となったデサリーヌは、その就任演説で次のように語っています。「市民諸君、永年にわたって我等の国土を、血で汚してきた野蛮人どもを放逐しただけでは足りないのだ。…(中略)…これまで我等の魂を、この上なく屈辱的な状態に押し込めてきた、非人道的政府から、我等を再び奴隷化するが如き野望を、奪いさらなければならない。けだし『自由に生きるか、しからずんば死を』でなければならない。我等が隣国とは平和を。だがフランスには、永久の憎悪を…」ナポレオンのハイチ政策への不信は強く、フランスやヨーロッパによるハイチ再征服への警戒は、極めて強かったのです、そして、独立後のハイチを巡る国際情勢は、ハイチ人の再征服に対する強めこそすれ、弱めることはなかったのです。 続く
2010.03.31
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クロニクル ピンク・レディ解散1981(昭和56)年3月31日29年前の今日、ピンク・レディが、当時の後楽園球場で解散コンサートを行い、この日を最後に解散しました。29年前のこの日は、みぞれの混じる雨の日という寒い1日でした。3月末が寒いのは、今年に限ったことではないようです。ピンク・レディは、1976年8月25日に、シングル盤「ペッパー警部」で歌手デビューした女性デュオで、歌って踊っての2人組です。作詞は阿久悠、作曲は都倉俊一のコンビによって育てられました。芸名のピンク・レディは都倉俊一がカクテルのピンク・レディからとって、名付けたのでした。彼女たちの振りを、先ず当時の小・中学校の女の子たちが真似し始め、いかに完璧に演じるかを競い合ったことから、2人の人気は急上昇し、爆発的な人気を得ました。人気絶頂は77年~78年にかけての時期で、「渚のシンドバッド」「UFO」「サウスポー」などのヒット曲を連発しました。
2010.03.31
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政治を斬る(67)小泉改革改革については、賛否両論がありますが、私は少なくとも規制緩和や撤廃の方向にあるものについては、基本的に支持しています。とりわけ、竹中大臣が関わった金融機関の不良債権問題に対する徹底した金融検査による膿だし、小泉ー竹中コンビによる郵政民営化は、高く評価しています。「郵政の民営化すら出来ないようでは、日本の未来は暗い」とする立場に、全面的に賛成するからです。郵政とりわけ郵貯と簡保を巡る問題は、単純化して言えば、日本における資金配分を官が決めるのか、民に任せるのかという問題です。郵政民営化以前の日本では、郵貯と簡保という官製金融が国民のお金を吸収し、それを財政投融資という形で、国会の承認を求める必要もない官が割り振った支出として、特別の出口から流し続けていたのです。それは、まさしく第二の予算とも言うべき巨大な金額でした。そして霞ヶ関の官僚たちは、自分たち官は、民に任せるよりもずっと適切に巨額の資金を配分できると自惚れていたのでしょう。一部には、民に任せると採算の観点で、切り捨てられてしまいかねないけれども、そうしてはならない主体にお金を回すという考えもあったでしょうが、それは少数でしょう。確かに、日本の民間銀行、とりわけメガバンクが大きな問題を抱えていること、特に経営幹部の質は、なんとも情けないレヴェルにあることは、私にも想像がつきます。しかし、官による資金配分という考え方は、国際的な金融自由化の流れの中で考えれば、時代遅れも良い所のアナクロニズムであり、到底許容できるものではありません。確かに社会的弱者をどう救うか、セーフティネットをどう張るかを考えることは重要です。しかし、潜在成長率が低下している日本の状況をどう変えていくかという、成長戦略を意識するならば、競争力のある主体に資金を流す一方、競争力を失ってしまった主体への資金の流れを止めて淘汰を促し、新たに競争力を持ちうる可能性のある分野に、資金を振り向けていくメカニズムを作ることが、喫緊の課題です。競争の敗者と弱者とは別物です。敗者には速やかな退場と、新たな別の土俵での再起を促すことが大事なのです。技術力のない、地方の中小の土木や建築業者に仕事を提供するなど、敗者を淘汰せずに温存する政策が、いかに日本の財政を蝕んできたかを考えれば、進むべき方向は明らかです。そして、こうした淘汰を進めることは、採算を重視する民の方が官よりもはるかにノウハウを持っています。官製の資金の蛇口は極力絞り、民間に委ねていくことが、何よりも求められているのが、現在です。郵政民営化は、この点から見て譲れない一線です。こう見てくると、郵政民営化の後退は、日本の将来にとって、極めて不吉な由々しき問題なのです。その上になお、郵貯の限度額を2倍に引き上げるなど、とんでもない発想だといわざるを得ません。もし、鳩山内閣の下で、この政策が実行されるなら、私は7月であろう参院選挙で、民主党候補への投票を取りやめるでしょう。 続く
2010.03.30
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ハイチに贈る(71) 1818年3月、南部の終身大統領ペティオンが後継者を指名せずに死去すると、南部の共和国議会は、後継大統領に大統領護衛隊司令官のジャン・ピエール・ボワイエを選出しました。ボワイエもまたムラートの出身でした。続いて1820年10月北部のアンリ1世が脳卒中で倒れ、軍の統率が出来なくなり、間もなく死去します。やり手で人心掌握術に優れた野心家のボワイエは、この政治空白を利用して北部にも進出します。そして北部の軍指導者の間に食い込んで支持を広げ、ハイチの再統一の合意を取り付けたのです。こうしてボワイエは、南北に分かれていたハイチの再統一に成功し、ハイチ全土を統治することになったのです。しかし、ボワイエはここで満足するような小さな野心家ではありませんでした。スペイン領ラテンアメリカ世界が、次々にスペインからの独立を達成していることを知ったボワイエは、陸続きのスペイン領サント・ドミンゴを併合しようと考えたのです。1822年4月、東隣のサント・ドミンゴに侵攻を開始したボワイエとハイチ軍は、瞬く間に各地を席捲して、サント・ドマング全土を占領したのです。このハイチによる占領は、ハイチの支配を脱したスペイン領サント・ドマングが、ドミニカ共和国として独立する1844年まで続くことになります。1804年1月1日に独立を宣言したハイチの、1844年までの40年間の国際関係はどうだったのか。何が栄光のハイチを追い詰め、世界の最貧国の一つにしてしまったのかを、これから考えていきたいと思います。 続く
2010.03.30
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クロニクル 米国アラスカを購入1867(慶応3)年3月30日時期は幕末の動乱の最終段階、翌年には明治新政府が」誕生するというそんな時でした。米国では、南北戦争が終って、廃墟と化した南部各地の再建に向けた動きが活発化している、まさにそんな時でした。そんな中で、この日、米国国務長官ウィリアム・スワードが、ロシアからアラスカを720万ドルで購入する計画を結んだのです。1エーカー(約1200坪)あたり2セントでした。この購入契約は当時は「スワードの愚行」と呼ばれ、愚かで高い買い物であると酷評されたのです。アラスカの天然資源のことなど、当時は創造することすら出来なかったからです。時代が変わると評価も変わる事例の一つです。
2010.03.30
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政治を斬る(66)このテーマは、1週間振りでしょうか。この間郵貯問題が再び脚光を浴びています。郵貯の預け入れ限度額を2千万円に倍増すると、亀井大臣が言い出したからです。そんなことは聞いていないと、鳩山首相、官蔵相、仙谷国家戦略相らが言い出して、言った言わないの内ゲバ騒動になってきました。聞いたか聞かないかではなく、そんなことは認められないということでなけらば、話になりません。これはやらせてはならないことです。鳩山内閣は、民営化した場合の郵貯の株式について、その過半数を国が握り続けることを表明しています。これは事実上郵貯が国有銀行であることを示しています。つまり郵貯の貯金については、国の保証がついていることになります。他方で民間銀行はというと、ペイオフが解禁になっていますから、預金保険機構による保証は1千万円までで、1千万円を超える部分には保証がありません。郵貯の預け入れ限度額を拡大すると、明らかに競争条件が不平等になり、郵貯が断然有利になります。しかも、郵貯は子会社との取引については、消費税を免除される特典までついています。何のことはない、これは事実上小泉改革以前の状態への引き戻しに過ぎないことになります。実はこれは大変な問題です。中国。インド、ブラジル等の台頭で、国際競争が厳しくなっている状況で、こんな後ろ向きのことをやっていて大丈夫なのかが、大変心配になります。加盟大臣の首を切るくらいの姿勢を示して欲しいところですが、そこは八方美人の鳩山首相、どうするのでしょうね。明日もこの問題の続きを記します。 ザビ
2010.03.29
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ハイチに贈る(70)ここで、独立から19世紀半ばまでのハイチの政治変動の大まかな流れを見て起きましょう。初代元首となったのは、トゥサン後に総司令官の地位を継承したジャン・ジャック・デサリーヌでした。1903年に独立100年を記念して作られた現在の国歌、「ラ・デサリエンヌ」はハイチ建国の父デサリーヌの名に由来しています。デサリーヌは初代総督となり、その後間もなく執心総督となり、さらに1804年10月8日には、ジャック1世と称して皇帝位に就きました。翌1895年5月に最初の憲法を制定したのも、デサリーヌでした。デサリーヌは皇帝として即位したのに、1806年12月27日制定の新憲法は共和制を宣言しています。なぜそうなったかというと、デサリーヌが1806年10月17日に死去したからです。それも反対派のテロによって、暗殺されたからです。デサリーヌの死後、ハイチは南北に分断され、2人の人物が1人は北部、1人は南部を統治したのです。1806年12月~1820年10月までの14年間、北部を統治したのはアンリ・クリストフ。1807年3月~1818年3月までの11年間、南部を統治したのはアレクサンドル・ペティオンでした。2人はいずれも、当初は大統領と称していましたが、北部のクリストフは、1811年にアンリ1世を名乗るようになり、以後の9年間は王制を敷いています。1方のペティオンは、1816年に新憲法を制定して、自ら終身大統領に就任しています。この分割体制は1820年まで続きました。なぜこうなったのか。(68)に記したように、クリストフもペティオンも共に、デサリーヌと共に誓約に加わった将軍であり、共にハイチ独立のために戦った盟友です。違いは2人の出自にありました。クリストフは黒人奴隷の出身であり、ペティオンは黒人の母とフランス人宝石商の父の間に生まれたムラートだったのです。この2人の出自の違いが、南北の地域的経済的な違いに重なります。北部はフランス人の入植が比較的早くから始まった地域でした。ここは海岸線の平野部が比較的広く、大勢の黒人奴隷を使役したサトウキビプランテーションが発達した地域でした。それに対して南部は、海岸近くまで山地が進出していて平野部が少なく、広い農地を必要とするサトウキビプランテーションを展開できない地域だったのです。そのためこの地は、より小規模な農地でも展開しうるコーヒーやインディゴのプランテーション地帯となったのです。それゆえ、南部ではムラートを中心とする小規模な農業経営も存続しえたため、南部は奴隷出身者が少なく、ムラートが優勢な地域となっていたのです。こうして元黒人奴隷中心の北部と、ムラート中心の南部という構図は、次第に政治的な対立も孕むようになったのです。この対立の構図は、トゥサンに続いてカリスマ性を帯びた指導者として期待されたデサリーヌが、南部のムラートの青年によって暗殺されたことから、増幅されていったのです。独立戦争の過程で、解消されたかに見えた黒人奴隷出身者とムラートの反目は、デサリーヌ暗殺を機に、再び顕在化することになったのです。 続く
2010.03.29
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クロニクル 米軍南ヴェトナムから撤退1973(昭和48)年3月29日37年前になります。この日米軍の最後の兵士が南ヴェトナムから退去しました。これにより、宣戦布告無き戦争と呼ばれた、米軍の南ヴェトナク解放民族戦線、並びに北ヴェトナムに対する、無法な攻撃は終わりを告げました。南ヴェトナム解放民族戦線の活動に対する米軍の介入は、一般に南ヴェトナム戦争と呼ばれる戦争を惹起しましたが、この戦争に世界の眼をひきつけたのは、米国のごり押しによってこの地に誕生したゴ・ジン・ジエム政権に対する、高僧の抗議の焼身自殺という衝撃でした。そしていち早く南ヴェトナム戦争の実態を、世界に向けて発信したのは、日本人フリージャーナリストの岡本昭彦でした。後にビアフラにて取材中に犠牲となった岡村は『南ヴェトナム戦争従軍記』を世に問い、1昨日訃報が流れた毎日新聞の大森実、朝日新聞の本多勝一らの優れた報道を引き出しました。そうした意味で、ヴェトナム戦争報道について、さらにはヴェトナム反戦運動の戦列において、まさしく日本が世界の世論をリードしていたのです。
2010.03.29
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ハイチに贈る(69)国名は「ハイチ」としました。先住民だったアラワク族の言葉で、「山の多い土地」と言う意味の言葉です。フランスでもアフリカでもない、現地の先住民の言葉を選んだことに、独立宣言を発した指導者たちの、強い決意が伝わってきますね。人口は約40万人程度。そのほとんどが黒人とムラートでした。革命の過程で黒人・ムラートを合わせておよそ10万人が犠牲となっています。また革命前のフランス系白人の数は、約3万人でしたが、彼らの一部は死亡し、大部分は本国へ戻ったり、スペイン領のキューバ、イギリス領ジャマイカ、そしてアメリカ合衆国南部などへ避難したのです。独立を宣言したハイチは、翌1805年5月20日に憲法を制定しました。この憲法は、第5条で黒人奴隷制を永久に廃棄することを定めました。ここにハイチ憲法は、独立国家の憲法で奴隷制の廃止を明記した一番手となったのです。憲法はまた、外国人が奴隷所有者としてハイチに入国することを禁じ、同時に彼らがハイチに財産を所有することも禁じたのです(第12条)。そして、1806年12月27日、国家体制として共和制を採用することを決めています。 続く
2010.03.28
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クロニクル 「プロジェクトX」放送開始2000(平成12)年3月28日丁度10年前の今日、NHKTVで「プロジェクトX~挑戦者たち~」の放送がはじまりました。この番組は、戦後のさまざまな開発プロジェクトなどが直面した難問を、どのように克服したかを紹介するドキュメンタリーでした。終了は2005(平成17)年12月28日でした。中島みゆきの歌った主題歌も、ヒットしましたね。「風の中のスバル…砂の中の銀河…」
2010.03.28
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ハイチに贈る(68) 1804年1月1日、ハイチでは、総司令官デサリーヌを筆頭に、フランスとの戦いを指揮したクリストフ、ペティオン、クレルヴォら6名の司令官外計37名の軍幹部が、互いに誓約する形式の文書が、発表されました。「現地軍総司令官は、ハイチの住民に永続的で安定した統治を確保することが焦眉の急であること、独立国となることを決意している旨を諸外国の勢力に伝える意向であることを、伝えた。総司令官はまた司令官たちの意見を聞いた後に、司令官1人1人にフランスを永遠に放棄すること、フランスの支配の下で生きるよりも死を選ぶこと、そして独立のためには死ぬまで戦う決意であることを、誓約するように求めた。」「この神聖な原理を深く確信した司令官たちは、独立を宣言することに、全員が安政であることを表明した。そしてフランスを永遠に放棄すること、フランスの支配の下で生きるよりは死を選ぶことを、後世の人々と全世界に向かって誓約した。」この文書がハイチの独立宣言でした。こうしてハイチは西半球では、アメリカ合衆国に次いで、第2の独立国になったのです。ここにラテンアメリカ世界においては、最初の独立国が誕生したのです。しかもハイチは、近代世界では最初の黒人の独立国家になったのです。 続く
2010.03.27
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クロニクル ガガーリン氏事故死1968(昭和43)年3月27日42年前の今日、人類で最初に宇宙に旅立ち、外から地球の全体を見た人物、ソヴィエト連邦の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリン氏が、航空指揮官となるための飛行訓練中に、突然の機の故障で墜落、同乗者と共に死去しました。34歳の若さでした。彼は1961年に、人類で始めて宇宙に旅立ち、帰還に成功しました。帰還後の第一声、「地球は青かった」は、当時大変有名になりました。
2010.03.27
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ハイチに贈る(67)独立後のハイチに戻る前に、もう1点どうしても記しておきたい点があります。ハイチ革命で最も得をした国、具体的には漁夫の利を得た国はどこかという点です。結論を先に申し上げると、実はアメリカ合衆国です。この点は衆目の一致する所で、誰も異論を差し挟みません。何か、ナポレオンから二束三文でフランス領ルイジアナを買い取ることに成功するからです。ルイジアナ、それはミシシッピー河の西岸に広がる広大な土地でした。河口の港町ニュー・オーリンズは、新しいオルレアンとしてフランス人が築いた都市です。マダム・リンダのご要望で記した南海バブルの一つとして記した、フランスのミシシッピー・バブルが対象としたのは、この地域です。フランス領ルイジアナは、当時のアメリカ合衆国のほぼ全領土に等しく、現在の合衆国領土のおよそ4分の1に相当する広い土地です。この地を合衆国は、僅か1,500万ドル(6,000万フラン)で買収できたのです。ナポレオンは、1エーカー(1エーカーは1,200坪です)当たり6セントという超破格値で、手放しているのです。売却話がまとまり、契約書にサインがなされたのは、1803年の4月30日。ハイチの黒人たちがフランス軍を追い出すおよそ7ヶ月前です。そしてルクレール将軍が黄熱病で死去した半年後のことになります。ナポレオンは、ルクレールの死の報に接した時点で、サン・ドマング作戦の失敗を覚悟していたことが、読み取れます。ナポレオンは、当時スペイン領だったフロリダにも目をつけており、サン・ドマングを足場に、フロリダとルイジアナを結んだ一大植民帝国を築くことを構想していたのですが、サン・ドマングの喪失でその夢を諦めたのです。その点は、さすがに状況を読んで、不利と悟るとさっと引き上げる機敏さを持っていました。そしてナポレオンは、サン・ドマングを失った後のルイジアナ確保は、費用と効果を考えると無意味かつ無価値であると考えたのです。そこから、その地を海軍力に勝るイギリスに奪われるよりは、フランスとの関係が悪くないアメリカ合衆国に譲る方が得策であると、判断したのです。さすがに慧眼というべきか、ナポレオンは将来米国は、必ずやイギリスのライヴァルになると見たてていたのです。当時の米国大統領は3代目のトマス・ジェファソンでした。彼はハイチの黒人革命の動向を分析して、フランス軍の敗北を予測し、いかに上手くフランスにルイジアナ売却を働きかけるかについて、知恵を絞り、資金を用意して時期を待っていたのでした。ジェファソンの思惑は、うまく当たったといえましょう。そして、19世紀初頭にルイジアナを得たことが、合衆国をして西海岸までの大陸を横断する帝国の形成に向かわせるき契機となったことも、また確かです。しかし、フランスがハイチ革命の鎮圧に成功していたら、今日のアメリカ合衆国はなかったかも知れないと考えると、歴史にタラ、レバはいけないのですが、少々複雑ですね。 続く
2010.03.26
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クロニクル 多摩ニュータウンで入居開始1971(昭和46)年3月26日最初の入居から39年ですか。どうりで高齢化が進んで、活気が薄れてという話になるのですね。多摩ニュータウンは、東京都の稲城市・多摩市・八王子市・町田市にまたがる多摩丘陵に計画・開発された日本最大規模のニュータウンです。多摩ニュータウンは、1965年に都市計画決定し、翌年に事業計画の認可を受けて、建設が進められ、1971年3月26日多摩市諏訪・永山地区において第1次入居が開始されました。
2010.03.26
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ハイチに贈る(66)ナポレオンがサン・ドマングに派遣したフランス軍は、ハイチの黒人軍に完璧に打ちのめされました。ハイチ軍は確かに黄熱病に助けられた面(フランス軍死者の6割が病死と推定されています)もありましたが、士気の高さとトゥサンを受け継いだ将軍たちの的確な指揮、軍律の届いた部隊編成の面でも、フランス軍を圧倒していました。敗れたナポレオンは、自分の栄光に傷をつけてはならじと、すぐに責任転嫁を図ります。ルクレールの死去の報に接した時は、次のように語っています。「ルクレールが余の指令に従っていれば、災厄を免れていただろうに、彼は正反対のことをしてしまった。」ルクレールは、ナポレオンの指示に従ったがゆえに、苦境に追い込まれたことは、既に記しました。ここに責任転嫁の一端が示されています。その後は、ヨーロッパの戦争の連続の中で、ハイチに関する発言は翳を潜めますが、1815年セント・ヘレナに移送された後の、有名な『セント・ヘレナの回想』の中に、次の一文があります。「余が執政であった時に、この植民地に対してとった企てを自ら咎めねばならぬ。力ずくで服属させようとしたのは、大きな誤りであった。トゥサンを仲立ちにして支配することで満足すべきだった。…」「サン・ドマングへの派兵は余が犯した大きな誤りの一つだった。余に派兵を思い立たせたのは、ジョゼフィーヌである。」確かにジョゼフィーヌはカリブ海のマルティニク島の生まれです。しかしナポレオンは、数多くの女性遍歴で知られるのですが、政治的軍事的決断には、一切女性の口出しを許さない点でも、稀有の軍人であり政治家でした。その点はジョゼフィーヌといえども、例外ではありません。ここでもジョゼフィーヌに責任を押し付けようという意図が見えています。そのジョゼフィーヌのメモワールには、「トゥサンを仲立ちとして支配することで満足するよう」ナポレオンに進言したこと。しかし、ナポレオンはその進言に耳を貸さず、「トゥサンを罠にかけるぐらい、造作もないことだ。彼をフランスに連行して、要塞に投獄してやる」と言い切ったことが、記されています。セント・ヘレナのナポレオンは、再起を諦め、自らを伝説化することに全力を傾け、自ら「ナポレオン伝説」の創作者たらんとしていました。サン・ドマングの失敗に対する責任転嫁も、その一環でした。いつの世も、指導者の失敗のツケは、一般の兵士を含む民衆に回ってくることに替わりはないようです。ハイチの黒人は、革命の成就と独立の達成に沸いていました。 続く
2010.03.25
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クロニクル ハウステンボス開園1992(平成4)年3月25日18年前なのですね。この日長崎県佐世保市に、オランダの街並みを再現したテ-マパーク、ハウステンボスが開園しました。徳川幕府の「鎖国政策」の下で、西欧諸国の中で唯一対日貿易を許されていたのが、オランダでした。ということから出来上がった、歴史を踏まえたテーマパークでした・しかし、来園者は期待したほどには集まらず、11年後の2003年には、早くも会社更生法を申請して倒産の憂き目を見たのです。その後野村系が後を引き継ぎましたが、再び頓挫し、今年再び格安旅行者のHISが支援の下で、再建が図られることになりました。うまくいくと良いのですが……
2010.03.25
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ハイチに贈る(65)ルクレールの死去の報に接しても、なおナポレオンは力によるハイチ制圧に固執しました。新たに総司令官に任命されたロシャンボ将軍は、2万の増援部隊を率いてハイチに乗り込みます。しかし劣勢を覆すことは出来ず、亜熱帯のジャングル、特に雨季の戦いで大きな損害を出します。そして相変わらず免疫を持たないフランス兵たちは、次々と黄熱病で倒れます。フランス軍の体制の立て直しは、絵空事に終ったのです。こうして、ルクレール将軍の死から、およそ1年後、1803年の11月、機が熟したと見たハイチの革命軍は、フランス軍が拠点としていたポール・レピュブリカン、ル・カップ、ヴェルティエールなどの要地に、次々と波状攻撃をかけたのです。作戦は成功し、フランス軍はあちこちで拠点を放棄して敗走します。11月29日、黒人革命軍を指揮したデサリーヌ、クリストフ、クレルヴォの3人の将軍が、連名で「サン・ドマング黒人の独立」を高らかに宣言したのです。万策尽きたロシャンボ将軍は降伏し、12月4日、フランス軍は最後の拠点としていた、モール・サン・ニコラからも撤退します。ここにハイチの独立戦争は、黒人の元奴隷たちの勝利で終結したのです。このことはアフリカ大陸で捉えられ、奴隷として売られてきた黒人たちにとって、自らの力で自由と独立を勝ち取った偉大な戦いでした。そして年の改まった1804年1月1日、ゴナイーヴに終結した革命軍の指導者たちは、「フランスを正式に放棄する宣言」を発表しました。それは栄光の瞬間でした。敗れたナポレオンはどうしたでしょうか? 続く
2010.03.24
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クロニクル 結核菌発見1882(明治15)年3月24日128年前になります。その後も長く死病と恐れられてきた結核菌ついて、この日ドイツのロベルト・コッホが、遂にその正体を突き止めたことを学会で発表し、大いなる関心を集めました。
2010.03.24
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ハイチに贈る(64) フランスの植民地派遣軍の戦況については、派遣軍総司令官のルクレールが本国の知人に宛てた書簡から、読み取ることが出来ます。彼は日を追うごとに悪化する戦況を、赤裸々に記述しています。その一例として、1802年9月19日付けの書簡の1部を次に記します。「流行病(黄熱病は当時はまだ知られていませんでした)が再び猛威を振るいだし、毎日100~120人が犠牲になっています。…… 防衛のためには、全ての糧食を放り出し、大半の労働者を抹殺せざるを得ないでしょう。つまり、多数の兵力の損耗を覚悟して、殲滅するか、されるかの殲滅戦を展開せざるを得ないのです。」「我が植民地部隊の大半は、脱走して反乱軍側に寝返ってしまいました。約束済みの援軍とは別に、1万人を派遣するよう政府に伝えてください。…… さもなくば、植民地を失うことになるでしょう。私は真実を申し上げております。…」「グァドループで奴隷制が復活したというニュースによって、黒人たちに対する私の影響力はすっかり無くなってしまいました。私の後任問題もお忘れにならないで下さい。… 私はこの国を離れることを真剣に考えております」「私は、これ以上ここに留まりたくありません。この不幸な土地に赴任して以来、私には心休まる時は、全くありませんでした。」これが、フランスの植民地派遣軍の最高司令官の言葉なのです。ここまで総司令官が弱気になっているのですから、戦勝などは既にして遠い夢となっていることは、疑い用のない事実だったのです。そして、ルクレール将軍自身も、1802年11月2日に、黄熱病に罹患して死去しています。ナポレオンのハイチ革命抑圧方針の破綻は、もはや誰の眼にも明らかでした。 続く
2010.03.23
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米国の医療保険制度米国の医療保険制度は、基本的に公的保険制度はありません。公的保険制度としては、高齢者と障害者対象のメディケアと、最底辺層を対象としたメディケイドという、大変限定的な制度があるだけです。一般的には個人が民間の医療保険会社と契約するのです。大多数の国民は勤務先の会社、役所などが福利厚生の一環として、1部保険料を負担してくれる保険に加入しています。また米国では、保険は州ごとに運用されるため、現実には夫々の州での保険会社の新規参入はほとんどなく、保険会社はほとんどの州で、独占または寡占の状態になっています。ですから、保険料は高止まりするどころか、毎年のように値上がりしている状況にあります。こんな形ですから、中小企業ではとても保険料の負担は出来ません。そうした従業員も、個人で高額な保険料の全額を支払うことなど、とても出来ません。個人営業の商店なども同じです。ですから米国の場合、日本で言う生活保護世帯は公的保険の恩恵を受けるのですが、保護を受けずに頑張っている低所得世帯が、医療から見放された悲惨な状態に置かれているという、おかしな逆転現象が生じていたのです。医療保険の1部公的負担が導入されたのは、1930年代です。総合的な公的医療保険制度の導入を、最初に提起したのは、セオドア・ローズヴェルトでした。彼は1912年の大統領選に、公的医療保険制度の創設を公約して立候補したのですが、国民の支持を得られずに敗北しました。以後数多くの候補者や大統領が、この問題を提起しては、国民の反発を受けて挫折してきました。最も最近では、ビル・クリントン大統領が、果敢に挑みましたが、やはり国民と議会の反対を崩せず、失敗しています。今回実現した改革案でも、政府が運営する公的保険(日本の国民健保のような)はありません。反対が強く断念したためです。その他様々な点で政府が譲歩して、ようやく僅差で通したというのが、今回の改革案です。結局、今後10年間で政府が総額9400億ドル(約84兆円)を支出して、現在約4千万人と推定される未保険者の多くの保険加盟を推進すること、一定の年収以下の無保険者に補助金を支給する、保険加盟を原則義務化する、州で独占となっているような保険会社の無競争状態を是正するよう、州際の参入障壁を排除して保険会社の競争を促すこと、既往症を理由とした契約拒否を禁じること、などが定められたのです。保険会社が強く反対したのは勿論ですが、この問題が1912年に提起され、100年近くも何も決まらずに来たわけは、中産階級を中心に、自己の生活の向上は自助努力で果たすべきことという、フロンティア時代からの通年が、現代にまで延々と脈打ってきたことが大きいのです。この法案への反対が、高額所得者ではなく、中産階級それも中・下層の中産階級を中心に広がっていた事実が、このことを物語っています。法案は成立が確実になりましたが、前途にはまだ問題がありそうですね。 しかしようやく、100年間開けることができなかった、重い扉が開いたことも事実です。どんな形でさえ、開けば動き出します。今後のアメリカの変化には、注目する必要がありそうです。
2010.03.23
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クロニクル 中国縦貫自動車道全線開通1983(昭和58)年3月23日27年前になります。この日中国縦貫自動車道の最後の区間が完成しました。総延長は540,1kmで、東北自動車道に次いで、日本で2番目に長い高速道路です。1964年に、建設が決定した際には、中国地方で1本のみの高速道路と考えられましたので、山陽側からも山陰側からも、ほぼ等距離の中国山地沿いに計画されました。しかし、当時の土木技術では(建設着工は1970年)、長いトンネルを作ることが難しかったため、山肌をぬうように建設されたため、高速道路にしてはアップダウンやカーブが多く、そのため延長キロ数が長くなった経緯があります。その後計画が変わって、山陽道と山陰道が相次いで建設されたため、現在はお盆や正月を除けば通行車輌は非常に少ない閑散道路になっています。関東方面から山陰へ抜けるには、便利な道路ですが、最初から山陽道や山陰道が計画されたのであれば、この道路は作られなかったでしょうね。
2010.03.23
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政治を斬る(65)医療保険制度改革案可決米国議会(下院)が異例も異例、日曜日にまで持ち込んで審議を続けた「医療保険制度改革法案」が、辛うじて可決したという報道が飛び込んできました。下院の票決は賛成219票に対し反対21票、僅か7票という僅差での可決でした。この後上院の審議が残されていますが、下院共和党のあらゆる手段を講じての抵抗が全て失敗して、外堀は埋まっていますし、オバマ大統領自身が、上院での審議を急ぐために、「予算調整案扱い」という特別扱いをする手続きを済ませていますから、上院での審議はさほど手間取らないものと思います。医療保険制度改革法案の審議が、なぜこれほど長引き錯綜したかというと、保険料収入で賄いきれない医療費の支払いが、どのくらいになるかが読みきれないため、何処まで赤字が増え、どれだけ税負担が生じるかが分からないという、不安と疑問が広がり、共和党の国会議員ばかりでなく、民主党議員の間からも法案に反対する議員が出たからでした。今回下院を通過した法案は、昨秋の提出時からは、大きく修正されています。原案のままでは可決不可能と踏んだ政権側が、様々な譲歩を繰り返したからです。特に、オバマ大統領が法案可決を最優先して、最後になって「連邦の資金は、一切妊娠中絶費用に使わない」と約束したことは、これで中絶反対派議員からの賛成票を確保して今回の結果に繋がったのですが、この先にどんな影響がでてくるのか見えていません。そして、医療保険未加入者はこれでいなくなるのですが、その結果どれだけの赤字が出てくるのかは、まだ誰にも分かりません。しかし、この結果、米国民はようやくにして、誰もが医療保険に加入できることになり、医療保険を手に入れることが出来たのです。永年の米国にとっての最大の課題が解決したのです。実際の医療費のコントロールなどについては国民皆保険を達成している日本が、良いお手本になるはずです。こういうときこそ、医療保険制度の運用ノウハウを積極的に米国に伝授して、日米同盟の有難味を米国政府に味わわせるくらいのことは、やるべきでしょう。それでこそ、普天間問題での交渉でも、強気に出られるというものです。 続く
2010.03.22
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ハイチに贈る(63) さらに、対仏融和派だったトゥサンが囚人扱いでフランスへ護送されたことから、黒人たちの間にフランス人に対する不信は高まり、黒人奴隷制の復活が信じられるにつれて、それまで必ずしもしっくり行かなかった、元黒人奴隷たちとムラート(白人と黒人の混血)たちの、大同団結をも可能にしたのです。ムラートと黒人の指導者の会談で、黒人のデサリーヌを総司令官とすることで、合意が成立したのです。こうした黒人勢力の大同団結と、指揮命令系統の一本化は、彼らの神出鬼没なゲリラ闘争の制度を高め、フランス軍を大いに悩ませたのです。20世紀後半の科学の粋を集めた武器を携行した米軍が、ヴェトナムのジャングルで解放戦線の攻撃に脅え、遂には敗退して去った現実を我々は見聞きしています。ハイチの山岳地帯のジャングルで、実はヴェトナムと同じことが起きていたのです。ハイチに限りませんが、カリブ諸島は1年を通じての平均気温が25℃~29℃の亜熱帯地域です。フランス軍の装備は、軍服を含めていずれも地域特性に適したものではありませんでした。そこへ持ってきて、不慣れなジャングルでのゲリラ戦を強いられたフランス軍は、時間と共に苦境に追い込まれていったのです。加えて、黄熱病を中心とする伝染性の疾病がフランス軍を悩ませました。黄熱病研究の第一人者は日本の野口英世でしたが、野口自身も黄熱病で帰らぬ人となりました。黄熱病は高熱に黄疸を伴って死に至るウィルス性の肝炎です。病気を仲介するのは、和名で「ネッタイシマカ」と呼ばれる蚊です。元来は熱帯アフリカの風土病で、カリブ諸島や南北アメリカ大陸では未知の病気でした。それが大西洋奴隷貿易船に乗船して、船と共に海を渡ってきたのです。人の血と共に糖分を好む蚊にとって、砂糖プランテーションの世界は、実に住みよい恰好の繁殖地となったのです。そして、黄熱病と長い付き合いのある黒人たちは、黄熱病に対する免疫を備える体質に替わっていたのですが、インディオや西洋人には、何の抵抗力もなかったのです。いつ攻撃されるか分からないジャングルでの戦い。そして自分もいつ侵されるかもしれない未知の病に倒れた数多くの仲間たち。フランス遠征軍の戦意は、日1日と落ちていったのです。 続く
2010.03.22
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クロニクル 日銀本店落成1896(明治29)年3月22日114年前の今日、中央区日本橋本石町の日本銀行本店が落成しました。日銀は1881(明治14)年に創設、それから15年して、現在もその地にある堅固な本店を持つに至りました。政治の圧力に屈しない、通貨の番人の強さを、その建物のように持ち続けて欲しいものですね。現在の白川総裁は、自民・民主両党の衝突の中で、両党の政治的妥協の産物として。ハプニング的に誕生した総裁でしたが、意外というとご本人に失礼に当たりますが、柔らかな物腰と学究の雰囲気が漂う穏やかな人物ながら、実にシンの強い市場へのメッセージも明確な、掘り出し物の総裁のように思えます。そう思ってウォッチしてみると、日本国内より、世界各国の金融関係者の評判がすこぶる良いですね。
2010.03.22
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ハイチに贈る(62) トゥサン・ルヴェルチュールは、こうして亡くなりました。彼の失敗は、フランスとの妥協の必要に固執しすぎた点にありました。会ったことがないゆえに、ナポレオンの人となりを正確に掴むことが出来ず、彼の飽くことのない権力への終着を見誤ったことにありました。それ故に、トゥサンと一時的に袂を分かった急進派を孤立させ、フランスのサン・ドマング派遣軍に、彼らを蹂躙する余地を与えてしまったのです。孤立した急進派もまた、サン・ドマングの元黒人奴隷たちでしたから、トゥサンは彼らを救うために、フランスの派遣軍の司令部を訪問する決心をし、そこで騙まし討ちにあって捕えられたのです。こうして、稀代の指導者であり、優れた政治的リーダーであったトゥサン・ルヴェルチュールを失ったサン・ドマング(=ハイチ)革命は、一時的な危機を迎えました。しかし、その危機は長くは続きませんでした。トゥサンがフランスに連れ去られて間もなく、サン・ドマング周辺のフランス領植民地で、次々に奴隷制が再建、復活されつつあるという情報が、サン・ドマングにも届きます。フランス軍に妥協的態度をとってきた黒人部隊も態度を変え、黒人蜂起は再び勢いを増して、全土に広がりを見せたのです。トゥサン健在の日々のサン・ドマングでは、黒人軍は青・白・赤のフランス国旗にフランス共和国(レピュブリーク・フランセーズ)の頭文字RFをあしらって軍旗としていたのですが、1803年5月には三色旗から白を取り去り、現在のハイチ国旗の原型となる青と赤の二色旗とし、RFに変えて「自由かしからずんば死を(リベルテ ウ ラ モル)」の文字をあしらった軍旗に変えたのです。トゥサン亡き後、黒人軍の総司令官に推されたデサリーヌは、「戦争には戦争を、犯罪には犯罪を、そして残虐行為には残虐行為を!」を合言葉に、復讐のための団結訴えて、支持を固めたのです。このトゥサンの復讐をというデサリーヌの訴えは、元奴隷だったハイチ(三色旗を捨てたサン・ドマングは、もうハイチと呼ぶ方が良いでしょう)の黒人たちの共感を得、彼らは亡きトゥサンを懐かしみ、フランスとナポレオンへの復讐を誓ったのです。死がトゥサンを真の英雄の座に祀り上げたのです。ここに図らずも「死せるトゥサン、生けるナポレオンを走らす」の図が、出来上がって行くのです。 トゥサンを捕虜にしたことは、フランス軍にとっての状況の改善をもたらさなかったのです。 続く
2010.03.21
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クロニクル 国産初のカラー映画封切り1951(昭和26)年3月21日同じ昭和26年の昨日は、国産LPの発売の日でした。続いて今日も国産初です。59年前の今日、日本映画で最初の総天然色映画が封切られました。松竹大船撮影所製作の『カルメン故郷に帰る』です。主演の高峰秀子演じるリリー・カルメンに、佐野周二(関口宏の父)、笠智衆、望月優子らが絡むキャストに、監督は木下恵介でした。この映画は、フィルムもフジフィルム製という、すべて日本製で挑んだ作品でしたが。白黒フィルムと違って、光量が十分でないと発色に問題が生じるため、全編を浅間山麓でのオールロケで撮影した作品となりました。また、フジフィルムも自社の技術に全幅の信頼が置けなかったらしく、松竹、木下監督と3者で、もし完成したフィルムに問題があった場合に備え、従来の白黒での撮影も行なっておいて(つまり、カラーと白黒の2作品を撮っておく)、試写を見てどちらを上映するか決めるという、用心をしていました。結局、不満は残るがカラー作品で上映することとなり、初の総天然色が話題となって、映画は大ヒット、高峰秀子が歌った同名の主題歌もヒットしました。これが国産カラー映画の事始でした。なお、長らくその行方が不明なままだった白黒作品の方は、木下監督の死後、その遺品の中から発見されて、話題となりました。
2010.03.21
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続タタラ製鉄法の実践最後の砂鉄を投入後、これまた最後の木炭を入れます。送風口から、送風機で空気を送り込むので、ふいごを足で踏んで風を送り込む古式(「もののけ姫」方式)よりも、ぐっと短時間で鋼鉄が取り出せるのです。後はひたすら時を待ちます。3時半60cmの煙突部分の木炭が燃えて無くなりました。それっと煙突を外します。ここは危険を伴うということで、指導のタタラスタッフの方にお任せです。耐火煉瓦の炉から、勢い良く炎が燃え上がります。炎の上から藁を敷いて、熱が逃げるのを防ぎ、温度が下がるのを食い止めます。さらに木炭が燃えて少なくなる毎に、鋼の取り出し口の耐火煉瓦を1枚づつ外していきます。時間を計ると、およそ5分で1枚のペースです。下は取り出し口の耐火煉瓦を全て外し終わったところです。時刻は3時58分でした。ここからが一仕事です。熱せられて厚いのですが、ノロ(不純物)取り出し口の反対側にもノロは媚りついていますから、冷えて固まらないうちに、取り出してしまうことが先決です。この作業を済ませてから、いよいよ出来た鋼の取出しです。取り出した鋼にもノロが付着していますから、これは水をかけて冷やし、木槌で叩いてノロを取り去ります。煙がもうもうと上がります。ノロを取り去って秤にかけると、ほぼ4kgでした。時刻は4時10分でした。これが鉄の塊です。これを改めて熱して、作るべきものの形を整えると、必要な鋼鉄製の道具になります。ところで、投入した砂鉄は25,6kgで、砂鉄の純度は78%でしたから、投入した鉄分の送料は19,9kgです。永田先生のお話では、砂鉄を溶かして鉄を取り出すとき、砂鉄の鉄分の最大4割の鉄が出来るということでしたから、約8kgの鉄が出来るというのです。今回頑張った中学生たちが取り出した鉄は4kgでしたから、およそ半分でした。残りの鉄は、1部がノロに付着して排出され、残りは、なお、炉内の耐火煉瓦の壁や、なお炉内に残る木炭の下にあるということでした。なぜ木炭を全部取り出さずに残したのか。そのわけは下の写真にあります。もうお分かりですね。木炭の熱で、頑張ったご褒美に、ヤキイモを作るのです。この間、10分、高熱が残る分、あっという間にヤキイモの出来上がりでした。30人の生徒たちにとって、充実した総合学習のまとめとなったようで、何よりでした。
2010.03.21
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タタラ製鉄法の実践今晩は。今日は朝から地元の中学校での、「タタラ製法での鋼鉄作り」に参加してきました。中学校の総合学習の一環にと、中学校の校長と社会科の先生が中心となって計画し、30名ほどの生徒が参加して、後期の半年をかけて学習したり、実践してきたことのまとめでした。タタラつくりは、東京工業大学名誉教授の永田和宏先生が「タタラ技術の伝承」を目指したNPO法人を作り、先生が認定したタタラスタッフの資格を得た15人の皆さんが、仕事の休みの土日などに、指導されています。本日は、先生初め4人のスタッフの皆さんにご指導いただいて、集めた砂鉄での鋼鉄つくりに挑みました。事前に、授業時間や放課後を使って、近くの川に出かけては、校長先生を先頭に生徒たちが砂鉄を集めました。ザルで砂をすくい、水分を流しきったところで、棒磁石に吸い付く砂鉄を集め、それを天日で乾かしてから、さらに振り分ける作業を繰り返し、今日までの25,6kgの砂鉄を集めていました。タタラの製法は、ふいごで風を送っては砂鉄から鉄を作る製法で、宮崎駿監督の『もののけ姫』で有名になりました。これは6世紀ごろ朝鮮半島から伝わった製法で、その後日本独自の発展を遂げ、江戸時代に完成を見た日本独自の製鉄法といえるもので、刀剣作りなどに適した製鉄法です。さて、永田先生の計測では、生徒たちの採取した砂鉄は、鉄分78%、酸化チタン9%、シリカ6%、酸化マグネシウム1%と、川崎北部という立地からすると。まずまずの純度のものでした。先ずは、耐火煉瓦で炉を組みます。台の部分が3段、その上に約60cmの炉を組み、その上にさらに60cmのトタン製の煙突を載せます。底に粉炭をギッチリ敷き詰め、その上に木炭をいれて火をつけ、そこに煙突を載せ、煙突のてっぺんまで炭を入れて燃やします。底部の温度が1200℃に達したところで、砂鉄を入れ、さらに炭を加えます。上、炉の組み方を教わっています。下、新聞紙を使って木炭に火をつけます。この後煙突を立て、煙突の1番上まで炭を入れて燃やします。砂鉄は1,5kgくらいづつ入れては、溶けて下に落ちるのを待ち、繰り返して行きます。校長先生も、途中で砂鉄を入れました。途中、最初の砂鉄投入から1時間半後くらいから、ノロと呼ばれる不純物が、排出口に集まってきます。冷えて固まらないうちに取り出します。下がノロ(不純物)の取り出し口です。8時半から炉を組み、火入れが10時39分、温度が上がって最初の砂鉄を投入したのが11時55分、ここで昼食をとってその後も頑張り、最後の砂鉄を投入したのは2時56分でした。ここから、ノロを何度も取り除けながら、ケラと呼ばれる鋼が出来るのを待ちます。陽射しと炉の暑さで3時過ぎには、元気な生徒たちもさすがにへばり気味。完成を待つ生徒たちです。長くなるので、後半は後ほど。
2010.03.20
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クロニクル LPレコード誕生1951(昭和26)年3月20日戦後もまだ5年7ヶ月、まずしさの抜けない時期でしたが、前年に始まった朝鮮戦争の特需のおかげで、景気が上向きの時期でした。そうです今年でもう59年も経つのですから、驚きです。この日、日本コロンビアから、日本で始めてのLPレコードが発売されました。それまでのSPレコードでは、12センチ版でも演奏時間は5分が限度でしたから、演奏時間の長いクラシック音楽などは、何枚もで1セットとなる不便さがありました。LPレコードは、12センチ版で、片面30分の演奏が可能だったたけ、特に長い曲の録音や聴取に優れていたため、初期には特にクラシック音楽の録音に用いられました。日本で最初に発売された日本コロンビアノLPハ。ベートーヴェンの第九だったと記録されています。
2010.03.20
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政治を斬る(64) 続 オバマのアフガン戦争 フリー・ジャーナリストのジェローム・スターキーは、英誌タイムズ、並びにスコッツマンの2紙と配信契約を結び、アフガンの最前線で危険に晒されながら、オバマの戦争を報道してきました。その彼が、「事故」と片付けることが出来ない虐殺の事実を、突き止め報じたのです。記事はこう記しています。「犠牲者は10 人程度の罪のない人々で、ソンミ村虐殺の犠牲者より少ないが、同じ悪臭を放つ虐殺である。12 月26 日、クナル州で、11歳から18 歳の生徒・学生、そして彼らを訪れていた12 歳になる近くの羊飼いの少年が、手錠をはめられ、処刑形式で殺されていた。」と。デープ・リンドルフは、こう記します。「米国人記者の誰もが、1この事件に関するペンタゴンの当初発表を鵜呑みにした中で、タイムズ紙とザ・スコッツマン紙と契約していた粘り強い記者ジェローム・スターキーは、殺された少年たちが通っていた学校の校長をはじめとする町の人々やアフガニスタン政府職員など様々な情報源に聞き取りを行い、この陰惨な戦争犯罪の本当の姿、すなわち米軍が少年たちに手錠をかけて処刑したという事実を明らかにしたのである。」リンドルフはさらに続けます。「ニューヨーク・タイムズ紙など一部の米国メディアは、殺されたのは子どもたちだったとの主張があると報じたが、2 月24 日に米軍が、殺されたのは実際に罪のない生徒たちだったことを認めたとき、ペンタゴンの嘘に疑わずに飛びついて発表したCNN を含め、このニュースのアップデートを報じたメディアはなかった。また、射殺されたときの犠牲者は手錠をはめられていたことを報じた米国のメディアも一つもなかった。」と。米国だけではありません。米軍の明瞭な戦争犯罪行為は、日本のメディアでも全く報じられませんでした。この事実、全く初耳でしょう。私もそうでした。リンドルフは続けます。「スターキーは米国政府が罪を認めたと報じたが、米国のメディアは墓場のように沈黙を守った。ジュネーブ条約の下で、捕虜を処刑することは戦争犯罪である。それにもかかわらず米軍率いる部隊、あるいは恐らく米軍兵士か傭兵は、クナル州で12 月26 日に9 人の捕虜に手錠を嵌めて処刑したのである。」「15 歳未満の子どもを殺すのは戦争犯罪である。それにもかかわらず、この事件では、11 歳の少年一人と12 歳の少年一人が捕虜になった戦闘員であるかのように手錠を嵌められ、処刑されたのである。死者の中には12 歳が他に2人、15 歳が1人いた。ジュネーブ条約のもとで、これらは極刑に値する犯罪である。そして米国はジュネーブ条約加盟国である。犯罪を隠蔽することも、指揮系統の最上層部に至るまで、犯罪である。」「この殺害に抗議して、アフガニスタンでは全国で学生のデモが行われ、カルザイ大統領局は公式に米国に抗議し、アフガニスタン政府は調査を行って罪のない生徒が手錠を嵌められ処刑されたと結論した。このためにアフガニスタン政府はアフガニスタンで民間人を殺した米兵の起訴と処刑を要求している。」アフガンの民衆や兵士は、みなこの事件について、知っています。彼ら、彼女らの静かな怒りは、決して米軍の行動を、そして米軍を増派しているオバマ大統領を、許さないでしょう。そして民衆の静かな怒りほど、戦争の当事者にとって、厄介なものはありません。米軍はソンミと同じ誤りを犯し、アフガン民衆を完全に敵に回してしまったのです。そして、ただいまの所、米国と日本では、この事件の真実を報道する気概を見せたジャーナリストは1人もいないのです。ジャーナリズムは自ら死を選んだのでしょうか。これからでも立ち上がって欲しいものです。
2010.03.19
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ハイチに贈る(61) 最初に昨日は準備が整わず、載せることが出来なかったのですが、ル・カップのフランス軍司令部を訪問して、トゥサンが囚われる場面を描いた絵をあげておきます。ただちにフランス行きの艦船に連れ込まれたトゥサンは、船上のフランス人たちに、次のように告げたと言われます。「私を捉えて、倒したとしても、あなた方はサン・ドマングの自由という樹の幹を倒したに過ぎない。やがて再び根から幹が成長するだろう。自由は今やしっかりと、無数の根を下ろしているのだから。」この予言は、さほど間を置くことなく現実のものとなります。ですが、その叙述は明日に回して、ここでは、フランスに護送されたトゥサンのその後を記します。6月7日に捕えられ、ただちにフランスへ送られたトゥサンは、2ヶ月半後の8月23日にフランスに到着します。到着後ただちにジュラ山脈の一郭に設けられたジュー要塞に収監されます。60歳を過ぎ、しかも91年9月以降、休む間もなく奴隷解放のための革命戦争戦い続けてきた高齢のトゥサンには、もはや苛酷な独房での監禁生活に耐え抜く体力は残っていなかったのです。トゥサンは、監禁からおよそ半年後の1803年4月7日に、この要塞内の独房で脳卒中に肺炎を併発して、亡くなっています。彼の死もまた、ハイチの民衆画家たちによって、何枚もの絵が描かれています。下はその1枚です。トゥサンの遺体は、サン・ドマングには戻されず、ジューの要塞に付置されていた礼拝堂の地下室に碑銘をつけることもなく、埋葬されてままになっていました。彼の遺体がハイチに返還されたのは、没後180周年に当たる1983年4月7日のことでした。こうして、ナポレオンは目の仇としてきたトゥサンを葬り去ることに成功したのですが、これをもって、彼は全ての目的を達成することが出来たのでしょうか。実はそうはならなかったのです。ハイチの黒人革命は、トゥサンの予想を超えて、はるかに大きな根を張っていたのです。 続く
2010.03.19
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政治を斬る(63) オバマのアフガン戦争民主党政権下の日本の政治を書いてきましたが、アフガン戦争についての興味深い記事を見つけましたので、オバマの戦争を斬ってみたいと思います。ヴェトナム戦争当時の「ソンミの虐殺」については、日本でも朝日の本多勝一記者の報告で有名ですから、ご存知の方も多いと思います。この事件は、ソンミ村の虐殺事件を聞かされた兵士の1人、ロン・ライデンアワーが独自の調査を行なって知りえた事実を、ペンダゴンと米国議会に報告したことと、ジャーナリストのシーモア・ハーシュが、これまた独自の調査に基づいて、米国のメディアで虐殺を暴いたことで、米国をあげての大騒ぎとなりました。なぜ、こんな古い話から描き始めたかというと、今また当時のソンミ虐殺に近いことが、オバマが拡大してしまったアフガンで起きている事実に気付いたからにほかなりません。アフガン戦争は、9/11の衝撃に怒り狂ったブッシュと米国世論の暴走が招いた戦争ですが「イラク戦争は間違った戦争だ」と、ブッシュを批判して「チェンジ」を合言葉に大統領選に勝利したオバマ大統領が、あろうことか戦場をイラクからアフガンに移す愚挙を犯したために、いまやオバマの戦争として、拡大の一途を辿っているのです。昨秋来、小さく報じられてきたことに寄れば、アフガンでは、米軍の戦闘機が結婚式を爆撃したり、「テロリストを匿っている疑いがある」との偽情報で、市井の民家を爆撃するなど、毎週のように住民に対する虐殺事件を起しています。そうした事件の多くは、マスコミに漏れない場合は秘密にされ、漏れた場合は「事故」として処理されているのが現実です。要するにヴェトナム戦争当時のような、記者魂に触発され、戦地を足で歩いて戦争の悪を暴く記者が、日本にも米国にもいなくなっている。新聞社や雑誌社が、そういう記事を求めなくなっているという、マスコミの堕落が、戦地の実際を我々に届かなくしてしまっています。そんな印象を持っていた時、益岡 賢さんのHPに訳出されていた英国人のジェローム・スターキー記者の報告を見つけました。詳細は後ほど記しますが、オバマのアフガン戦争は、ヴェトナム戦争と同じような、汚れた間違いだらけの戦争になって、まさに泥沼に入ってしまっています。彼はジョンソンの二の舞になるのでしょうか。 続く
2010.03.19
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クロニクル 米英、イラク攻撃を開始2003(平成15)年3月19日7年前になります。この日アメリカとイギリスは、勝手に「イラクの自由作戦」と名付けた、一方的なイラク攻撃に踏み切りました。それは、「イラクが大量破壊兵器を持っているから」という、一方的な言いがかりによるものでした。攻撃後の調査で、この主張がウソの報告に基づく誤りであったことがわかり、米英政府は多方面からの非難の集中砲火を浴びることになりましたが、実はこの主張も間違っています。世界で最大の大量破壊兵器保有国は、現在明らかにアメリカであり、次いでロシアであり、中国です。その最大の保有国に、他国の兵器保有を論難する資格があるかのような主張は、正しいでしょうか。何処から見ても、先ずここが違っています。自分は或いは自分たちは良いが外はダメというのは、理屈として筋が通りません。その意味で、「イラク戦争」は、最初から間違った戦争であり、不正義の戦争だったことを明記しておきたいと思います。
2010.03.19
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政治を斬る(62)国土交通省で首都高の実質値上げ計画が検討されていると、昨日の新聞各紙で報じられました。高速道路無料化計画からも、大都市の高速道路は外されいましたが、値上げとなると益々おかしなことになります。国土交通省、かつては建設省と運輸省の外郭団体だった高速道路公団は、高速道路の料金について、「建設費を償却し終えたら無料化する」と約束し、それを自民党の大臣も是認していました。そのうち、地方に高速道路が伸びるにつれて、そうした赤字路線の建設費負担まで、首都高、阪神高速、東名、名神といった幹線道路に負担させるようになり、あろうことか、償却が進んでいるにも関わらず、高速料金を値上げする愚挙を繰り返してきました。利用者がブツブツは言っても、具体的な抗議行動を取らないが故の暴挙でした。こうして全国に採算の合わない高速道路が雨後のタケノコのように乱立したのです。まさに不要な空港や港湾と同じでした。国道はきちんと全国を回り、全国各地特に北海道から九州・四国まで道路伝いでいけるのですから、利用者の少ない区間などは高速道路はいらないのです。むしろ一般道の拡充の方が、利便性は高いでしょう。ですから、本来は、首都圏、近畿圏そして東名や名神こそ、最初に無料化すべきなのです。そrで、渋滞が生じたら生じたで良いではないですか。私は車を運転しませんが、ドライヴァーの皆さんは、交通情報を参考にしながら、走る道路を決めるのですから、数日も掏れば混乱は収まります。休日千円などという姑息な手段をとるので、休日のみの俄か渋滞が起きるのです。毎日同じなら、走る車の量は、従来と変わらないはずですから、どこかが混めば、どこかが空くのが理屈です。その本来無料化すべき首都高を、長い距離乗るなら値上げするというのです。これは愚挙を通り越した暴挙です。こんなことはただちにやめてしかるべしでしょう。 続く
2010.03.18
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ハイチに贈る(60) ナポレオンは、表面的には現状維持の建前を崩さないままに、直接的な軍事行動を前面に出した介入と、暗号文を使った極秘指令によって、サン・ドマングでの奴隷制の復活を目指しました。ですからここでは、新たな法令や布告によって、奴隷制の復活を目指すという行動は取られなかったのです。1801年10月末、ナポレオンは妹ポリーヌの夫であるルクレール将軍に、サン・ドマングへの派兵を命じます。熱帯のカリブ地域への遠征を渋るルクレールに対し、彼は「金持ちになる絶好のチャンスだぞ」と囁いて説得したと、ナポレオンの側近だったブーリエンヌのメモワールに記されています。ルクレールの遠征軍は、総勢3万4千人の大部隊で、遠征軍には84艘の軍艦と輸送船が従ったと記されています。この遠征軍に対するナポレオンの指令は次の4点を、逐条的に実現することでした。(1)黒人たちに、奴隷制を復活することはしないと約束する。同時にトゥサンと彼の配下の 将軍たちには、その地位と権力は保証すると信じさせる。(2)トゥサンと彼の配下の将軍から、あらゆる権利を剥奪し、彼らの軍隊も解散させる。(3)トゥサンと彼の配下の将軍たち、トゥサンの配下にある全ての将校たちをフランスに送 還し、全住民を武装解除する。(4)奴隷制を復活する。黒人の権利の擁護者とみなされる者は、その地位と前歴を問わず、 フランスに送還する。ルクレール遠征軍に加わったムラートのリーダークラスは、全員マ ダガスカル送りとする。凄いシナリオです。まさにトゥサンら黒人をペテンにかけて始末しようというのです。まさにどんな言葉を用いても、とても足りないように感じられる、卑劣極まりない暴力です。そして、このナポレオンの指示は、用心に用心を重ねたのか、暗号数字を用いた秘密文書として、サン・ドマングに届けられたのです。こうして1802年6月7日、フランス派遣軍のブリュネ将軍は、誠意溢れる手紙をしたため、トゥサンを司令部に招きます。招きに応じ、2名の副官を伴っただけで司令部を訪問したトゥサンは、その場で捉えられると、有無を言わさずル・カップの埠頭に連行され、ただちにフランス行きの艦船に、囚人として連れ込まれたのです。サン・ドマングの革命は、こうして偉大な指導者を失ったのです。 続く
2010.03.18
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クロニクル 明治村開村1965(昭和40)年3月18日もう45年ですか。この日愛知県犬山市に明治村が開村しました。明治村、正式名称博物館明治村は、土地の再開発等の都合で、保存が難しい由緒ある建物を譲り受けて展示する施設として、準備され、この日開村の運びとなりました。当初、東京での開村も計画されたのですが、名鉄が犬山市の土地を無償で提供した上で、資金支援も約束したため。愛知県犬山市での開村となりました。開村当初は、15施設程度の展示でしたが、現在は67施設にまで展示物が増えています。なお初代の村長には徳川夢声、2代目村長は森繁久弥、3代目村長は小沢昭一が就任しています。
2010.03.18
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ハイチに贈る(59) 「フランス領植民地サン・ドマング憲法」を手にして激怒したナポレオンは、ハイチの革命に対して本格的に介入する決意を固めました。1799年のブリュメール18日のクーデタ後、第一執政(統領とも訳します)の座について、権力を握ったナポレオンの語録の中に、次の有名な一節があります。「市民諸君!革命派その発端をなした諸原則に固定される。諸君、革命は終った。」彼はまた「我々は、革命のロマンを終結した」とも語っています。そして、そう語ったナポレオンは、フランス領植民地の黒人奴隷制に対しては、当初現状維持の姿勢をとります。それは、サン・ドマングのように実質的に奴隷制が廃止されている所では、それをそのまま認め、奴隷制が存続していたマルティニークなどでは、奴隷制を認めるのです。言葉を変えると、ナポレオンの言う現状維持とは、奴隷制廃止の不拡大と同義なのです。しかし、これはナポレオンの本音ではありませんでした。彼の本音は以下の言に現れています。「文明というものを持たず、植民地の何たるか。フランスの何たるかさえも知らぬアフリカの黒人に、どうして自由を与えることが出来ようか。国民公会の多数派が、自分のなすべきことを弁え、植民地の事情に精通していたなら、黒人に自由を与えたと思うか。断じてノンだ。自由を与えたらどんなことになるかを予見した人は、ほとんどいなかったのだ。」と。即ちナポレオンは、サン・ドマンサンの黒人奴隷制の廃止を既成事実として認める振りをしながら、虎視眈々と奴隷制復活のチャンスを狙っていたのです。 続く
2010.03.17
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政治を斬る(61)球音が近づいてきました。イチロー選手がマリナーズに入団してから、日本人にもシアトルが身近になりました。そのシアトルの友人から、最近こんな話を聞きました。シアトルの超高級住宅街から海を見下ろす素晴らしい地に、日本の領事館があるというのです。アメリカにはちゃんと大使館があります。ただアメリカは広いですから、いくつか日本外務省の出先機関を設けることは必要でしょう。パスポートを掏られたなんて時に、いちいちワシントンまでというわけにはいかないですからね。しかし、大使館があるのに、領事館を設ける必要があるとは思えません。まして今のシアトルに数多くの日本人がすんでいるわけではありません。実際問題として、無駄な施設でしかないように思えますし、この領事館の人員は不要なように思えます。しかも友人によると、「オマエがこの建物を見たら、烈火のごとく怒ると思うよ」という建物なのだそうです。彼はこうも言います。「オレだって、オマエらオレたちの税金で何をやってるんだと正直思う」と。さぞ、凄い施設なのでしょうね。リンダ夫人はご覧になったことが尾ありでしょうか。こんな施設は早期に閉鎖して売却し、足りない歳入の一部にすることが、民主党に求められているのですが、岡田大臣は知っているのですかね。外務省の無駄を洗い出し、無駄な施設と』無駄な人員は整理する。これも民主党が期待されたことの一つだと思うのです。
2010.03.17
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クロニクル アサヒスーパードライ発売1987(昭和62)年3月17日23年前のこの日、アサヒビールは、スーパードライを発売しました。今までのビールに比べ、苦味を抑え甘さも少なくしたビールで、アルコール度は、それまでの主力ビールに比べ0,5度高い5,0度となっています。このスーパードライは売れました。飲み口の良いビールでした。結果としてアサヒビールはキリンビールを抜いて、ビール業界首位に立ちました。
2010.03.17
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政治を斬る(60)国土交通省という役所は、今まで数えきらないほど無駄な施設を作ってきました。八ッ場ダムのように、計画決定から50年以上が経過しながら完成していない施設(この場合はダム)は、常識的に考えていらないものでしょう。それを作り続けようというのですから、この役所の論理は、世間の非常識と同義のように思えます。ダム問題は、後日に回しますが、日航の破綻処理の過程で明らかになったことに、この狭い日本に何と99箇所もの飛行場があるという事実があります。日本の都道府県の全体は47ですから、単純平均で1県に2箇所以上の空港があることになります。常識的に考えて、こんなに空港があっても、採算に乗るような乗客数があるとは、とても思えません。それでも飛行場は作られ続けてきました。作られては、需要予測に追いつく乗客数を確保できず、大赤字の空港ばかりが再生産され続けてきています。つまり、国土交通省は需要予測を過大に見積もり、さも採算があるように見せかけのては、無駄な空港を作り続けてきたのです。この省の役人にとって、空港さえ出来ればそれで良いのです。予測が間違って、大赤字が出ても、過大な需要予測を提出した役人が責任を取ったとか、取らされたという話は聞いたことがありません。その頃には、移動で別の部署に移っていて、涼しい顔をしているのです。港湾についても同じことが言えます。こうして、日本国内には大型機が発着できない中途半端な飛行場がゴマンと存在し、同じく大型コンテナ船や大型タンカーが接岸できない港湾も数多くあり、さらに大型船が接岸できても、夜間の荷揚げ作業が出来ないという、おそろしく悠長な話が罷り通っています。そのため、航空需要でも、港湾機能でも、韓国や中国に主役の座を奪われっぱなしになって、今日に来ています。必要なのは、予算を無駄使いばかりして、日本の国際競争力を劣化させ続けてきた役人たちに詰め腹を切らせ、彼らの間に自浄作用を働かせることです。間違った需要予測をしたチームなどは、全員に責任を取らせる体制にしなければ、税金という大量のマネーに群がる利権屋手段を向こうに回して、官僚たちが甘い蜜の誘惑に打ち勝つのは難しいでしょう。こうした公務員制度改革こそが、我々国民が民主党政権に期待したことなのですが… ザビ
2010.03.16
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ハイチに贈る(58) トゥサンは、現在流に言えば、極めて現実主義的な政治家でした。サン・ドマングの黒人蜂起以後の彼の行動は、めまぐるしく変転しました。それゆえ、毀誉褒貶の激しい人物だったという評も、いくつもあります。しかし、私は彼の行動の中に、一貫した信念が流れていると受け止めています。ここまで記してきた彼の行動を振り返って見ましょう。1791年8月22日の北部地域での黒人蜂起には、彼は加わらずに、静観する態度を崩しませんでした。1ヵ月後にようやく蜂起に加わりますが、その後はスペイン軍に組しています。しかし、それも一時で、次にはフランス軍に加わり、次いでイギリスやアメリカ合衆国に接近し、さらには自ら憲法を制定して、サン・ドマングの実権を握っています。この間およそ10年です。10年の間にこれだけ立場を変えているのですから、彼の行動の変転を「変節」と捉え、権力欲に囚われた「狡猾で野心満々の政治家」とか、「私利私欲にまみれた虚構の英雄」と言った非難も、彼に浴びせられています。確かにトゥサンの政治を見ていくと、「奴隷解放の英雄」としての側面と、「独裁」の匂いとが同居しているようにも見えます。大事なのは、なぜそのような二面性を持つのかにあります。私は、彼の行動の変転は、本国フランスの動向や国際関係に対する洞察に基づく、小良く大を動かす戦術によるものと見ています。彼の行動に一貫しているのは、本国フランスが「奴隷解放」に積極的であるかどうかによって、態度を変え、組む相手を変えていることです。フランスが奴隷解放に前向きである時期は、フランス共和国の一部であろうとし、フランスが奴隷解放に消極的ないしは敵対的である場合には、状況に応じて第三国(それはスペインであったり、イギリスであったり、アメリカであったりします)と同盟するか、分離独立の方向を目指すかしています。ただし、トゥサンは亡くなるまで「独立」を明言していません。「独立」の語を使うことは、慎重に避けていたように見えます。彼は「全面的な自由」という語は、良く使うのですが、そこにどのような意味を籠めていたのかは、はっきりしません。それでも、ナポレオンの怒りを誘発した「フランス領植民地サン・ドマング憲法」の制定や、プランテーションの再建のその先にあるものを見据えるとすれば、それはサン・ドマング独立への布石だったと見ることは、出来るように思えます。このように優れた状況判断能力をもっていたトゥサンでしたが、そのトゥサンの状況判断能力をも狂わせたのが、ナポレオンでした。ナポレオンにどう対するかの点で、トゥサンは大きなミスを犯します。それが彼の命を奪うことに繋がったのです。さしものトゥサン・ルベルチュールも、ナポレオンの狡猾な術策を見破ることは出来なかったのです。 続く
2010.03.16
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クロニクル 国立歴史民族博物館開館1983(昭和58)年3月16日27年前のこの日、千葉県佐倉市に、国立歴史民族博物館が開館しました。歴史系博物館の設置を求める声は戦前からあったのですが、1966年に「明治百年」(=日本の近代化百年)記念事業の一つとして、歴史博物館の設置が閣議決定となり、この時から建設候補地の選定と、展示内容の検討が同時に始まりました。1971年文化庁内に、基本構想委員会が設けられ、78年にいたって国立歴史民族博物館設立準備室が設けられて、ようやく設立へ向けての体制が整ったのでした。準備室室長には古代史家で東大名誉教授の井上光貞が就任しましたが、井上は明治の元勲の1人井上馨の孫にあたり、歴博の基本コンセプトの設計に大きな貢献を果たしました。国立歴史民族博物館は、1981年に発足し、井上は初代館長に横滑りしました。ただし、博物館の一般公開は1983年3月まで延期され、井上は開館の日を迎えることなく、開館を翌月に控えた1983年の2月に急逝し、開館の日を自らの手で迎えることは、出来なかったのです。
2010.03.16
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政治を斬る(59) 八ツ場ダムの建設中止をぶち上げた前原大臣も、このところ今イチ元気がないようです。それもそのはず国土交通省、このところ問題山積みです。日航の処理についても、国際線の処理を日航自身に任せるという中途半端な措置をとっただけに、将来に大きな問題を残しそうです。そこへ持ってきて、タクシー業界に対する規制の強化で、大きな反発が広がっています。ことの起こりは、昨年10月1日に施行された、「タクシー事業適正化・活性化特別措置法」ならびに「道路運送法9条(運賃規定)の読替措置」にあります。これは、タクシー運賃の自由化とタクシー業界への参入の自由化に悲鳴をあげた、規制に安住するタクシー業界と、タクシー・ハイヤー運転手の労働組合「全自交労連」がタッグを組んだ陳情によって、自公連立内閣時代に民主党も加わる超党派で成立した法律です。それは、規制緩和は行き過ぎだったとして、再び行政指導を強化し、大阪を中心に普及した低運賃タクシーの事業継続を拒否できる権限を国土交通省の機関である陸運局に与えたのです。タクシー事業は免許制で、数年毎に事業の継続を申請し、許可を得ないと営業を継続できない仕組みになっているのです。それは、悪質なタクシー業者を締め出すために考えられた措置なのですが、国土交通省はこれを悪用したのです。その結果、新法の成立した昨年10月以降、この3月上旬までにタクシーの事業継続を申請した業者の中で、大阪を中心に普及が進んでいた「ワンコイン・タクシー」(初乗り500円のタクシー)業者ばかりが、500円運賃のままでの事業継続の許可が得られず、料金の値上げか廃業を迫られているのです。大阪府内の500円タクシーは約2千台と言われ、全車両の1割を占めるまでになっていました。ところが昨年10月以降、国土交通省の近畿運輸局が500円料金での事業継続を認可したのは、個人タクシーの1台のみで、他の業者は軒並み申請を拒絶されています。仕方なくA社は500円料金を590円に引き上げて許可を得たのですが、より台数の多いB社はそれすら認められず、自動認可運賃(中型で640~660円)の枠内での営業を余儀なくされたのです。転んでもただでは起きない、したたかなB社は、そこで1km320円という奇手を打ち出して、顧客の支持をつなぎとめて、対抗しているのです。最も問題なのは、なぜ低価格のサーヴィスタクシーのみを狙い撃ちにするのか。近畿運輸局は具体的な審査基準の開示を頑なに拒み続けています。しかも、東京や名古屋では、タクシー運転手の1日の走行距離(乗務距離)の制限は270kmなのですが、大阪ではこれより20kmも少ない250kmに制限しているのです。規制に安住する大手タクシー業界と、国土交通省がタッグを組んでいる様子が、明らかに透けて見えるのですが、企業努力で安い運賃を提示する企業を排除しようとする業界の味方を、チェンジを標榜する民主党が、自民党と同じように続ける姿勢は、やはり問題です。賃金の減少に悩む国民が、益々タクシー離れを起すとすれば、それは業界にとってもマイナスです。何より、既得権にしがみつく官僚たちに権限を残すことは大問題です。民主党は官の腐敗にメスを入れ、官僚制の改革を目指すとして支持を得たはずです。しっかりsてほしいところですが、この体たらくでは、支持率急落もやむを得ないですね。 続く
2010.03.15
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ハイチに贈る(57)ナポレオンに、サン・ドマングの憲法を届けたトゥサンは、プランテーションの再建を目指した経済政策を導入します。彼は、サン・ドマングの経済生活を見据えて、次のように語っています。「この植民地は農業を基本としている。それゆえ、耕作労働にいささかの中断もあってはならない。」「耕作の再建と増強のためには、必要な耕作者の導入を行なう。」「植民地の生産物と競合する生産物・商品を輸入してはならない。」こう語るトゥサンは、憲法の制定に前後して、次のような施策を打ち出しています。(1)プランテーションで働く労働者たちに対して、耕作によって得られる収入の、少なくと も4分の1を分与すること。(2)土地を60ヘクタール以下に分割することを禁ずる(小土地所有制の禁止)(3)プランターの復帰を奨励する(白人の土地所有の是認と保護)ここには、解放された奴隷を農業労働者として保護すること。プランテーションとその経営者であるプランターを、サン・ドマングの主要産業である砂糖やコーヒー生産の担い手であると認め、黒人労働者との共存を図ること。この2点が強く意識されています。トゥサンは解放された黒人が、農業生産者として自立するには、なおその農業知識が不足していることを、理解していました。それゆえ、彼は闇雲にプランターの土地を没収して、黒人たちに分割する道を選ばなかったのです。これは賢明な措置でした。この点は、1990年代に、人種差別施策を取り続ける白人政権を倒して、黒人国家としての独立をようやく実現した南部アフリカの2つの国を比較することによって、はっきりと理解できます。マンデラ大統領が陣頭に立った南アフリカは、白人との宥和政策を続けることで、比較的短期に経済をまずまずの軌道に乗せることに成功しました。しかるにムガベ大統領支配下のジンバブエでは、白人の土地を没収して細分化し、黒人に分配したジンバブエは。粗放農業のために土地は荒廃し、世界最貧国の一つに転落してしまっているのです。黒人たちがしっかりと農業経営を学び、農業を理解し、農地を大切にする習慣を身につけるまでは、少なくとも農民に土地を分けずに、白人との融和を目指す。このトゥサンの方針は、現代の南アフリカにしっかりと受け継がれたのです。 続く
2010.03.15
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クロニクル ブルートゥスよお前もか紀元前44年3月15日紀元前1世紀の半ばですから、邪馬台国の卑弥呼の時代より300年ほど古い時代の話です。何しろ2054年も昔のことですから…それにもかかわらず、今話題の塩野七生さんの『ローマ人の物語』を待つまでもなく、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』のせいというわけでもないのに、不思議と多くの日本人が知っている話です。なぜなんでしょうねえ。そうなんです。東方のパルティア遠征を決意したカエサル(英語名シーザー)は、この日遠征に出るための挨拶に、元老院に出向きました。事実上カエサル独裁に近い体制が出来つつあったとはいえ、ローマはなお共和政の伝統を守っており、カエサルもそれを承知しておりましたから、元老院の議場に入ったカエサルは、身に帯びた剣を部下に渡し、丸腰で壇上に上がります。その時、カエサル暗殺のチャンスは、この日を逸しては2度と来ないであろうと、意識していた暗殺者グループは、共和政ローマの伝統を無視して、密かに議場に剣を持ち込み、抜き身を引っさげて、壇上のカエサルを襲ったのです。暗殺者に丸腰で対抗したカエサルの目が、信頼する友人ブルートゥスの姿を、暗殺者グループの中に認めた時、彼が発した言葉とされたのが、今日のタイトルとした「ブルートゥスよお前もか。」の一言でした。そして、ブルートゥスを認めると同時に、カエサルの抵抗の意思は萎え、暗殺者のもくろみは成功したのですが、それは、ローマの混乱を長引かせたに過ぎず、やがてカエサルの甥、オクタヴィアヌスを頂点とする、帝政の成立に外なりませんでした。
2010.03.14
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ハイチに贈る(56)1799年11月9日、ブリュメール18日のクーデタで権力を握ったナポレオンは、先ずはフランスにおける、次いでヨーロッパにおける自らの地位の安定に全力を傾けます。それゆえ、植民地問題については、当面現状維持を選択しました。この頃、仏領サン・ドマングでは、トゥサン・ルヴェルチュールの軍勢が力を付け、1800年7月末には、仏領サン・ドマングのほぼ全域を平定することに成功します。ナポレオンは、1801年2月6日にトゥサンを総督に任命して、現状を追認しています。ここにトゥサンは、事実上サン・ドマングの最高権力者となったのです。1801年2月4日、フランス本国で国民公会が「奴隷制度の廃止」決議を採択した、丁度7年目の記念すべき日に、トゥサンは10名の起草委員を任命して、「フランス領植民地サン・ドマング憲法」の起草委員会を設置しています。10名のうち白人の委員が7名、ムラートの委員が3名となっていますから、トゥサンが一部の白人層にまで、支持を広げていた事実が読み取れます。10人の委員は、精力的に作業を進め、同年5月には全文77条からなる成案をまとめ、7月8日にトゥサンの名によって公布されました。この憲法は、上に記した正式名称にもある通り、サン・ドマングをフランス共和国の一部をなす植民地と規定しています。トゥサンはここで独立国を標榜していません。彼は独立を目指さないことを表明して、フランス本国との関係を悪化させない配慮を見せたのです。しかし、植民地が独自の憲法を持つことと、植民地であり続けることには、明らかに矛盾があります。卑しくも、およそ憲法なるものは、政治的主権者のみが作りうるものであり、植民地の植民地たる由縁は、国家主権を本国に奪われていることにあるからです。次いで、憲法第3条は「この領土において、奴隷は存在し得ない」と記しています。憲法と名のつく文書で、奴隷制の廃止を明記したのは、このサン・ドマング憲法が世界で最初のものです。第4条と5条とでは、「肌の色」をはじめとして、「いかなる差別も存在し得ない」ことを明記し、第6条では、ローマ・カトリックを「公に表明された唯一の宗教である」と規定しています。フランス本国との関係で問題となるのは、憲法の制定を含む立法・行政・司法の三権を、植民地に帰属させていることでした。また、植民地行政を1人で担う総督には、植民地議会への憲法改正を含む法案の提案権、徴税並びに植民地財政の管理権、出版物に対する検閲権、地方官吏の任免権、軍隊の統率権などの大権が賦与されていることにありました。その上、トゥサン自身を終身総督とすると同時に、後継総督の指名権すら与えることになっていました。これでは、トゥサンは金日成や金正日以上の権力者の扱いです。トゥサンは、この憲法を自らの側近を通じて、ナポレオンの下へ送付します。どうなるかを想像することは、そう難しくないですよね。次第に権力基盤を固めつつあったナポレオンは、この憲法に目を通して激怒したと、伝えられています。フランス領に自分以外の独裁者は必要ありませんから、これは当然のことでした。 続く
2010.03.14
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卒業生を送る会今日は。昨日は暖かでしたが、南風の強い日でした。一転今日は穏やかな1日でした。今日は地元の百合丘から柿生にかけての一帯の、子ども会連合会のお祭りでした。朝からヤキソバ屋さんとたこ焼き屋さんを、掛け持ち大忙し。おかげで写真も取れませんでした。そこで、先週7日の、卒業生を送る会の写真の何点かをアップします。すべて被写体には了解をいただいています。先ずは10時開会、最初のゲーム大会の組み分けの模様です。6年生から3歳児までが会員、小学生以下は、基本的に保護者付き添いです。一区切りついたところで、6年生の最後のお仕事。ビンゴ大会の世話役さんです。これはあったあったと夢中な下級生たちです。ビンゴになった子から、賞品を選べるので、みなお目当ての賞品があるうちにと夢中です。ビンゴだぁと、元気が良かった子も、賞品選びでは迷います。「ウーン、どっちにしようっかなぁー。ボク迷っちゃう」世話役の6年生は親切に、付き合ってあげてます。こういうシーンを見ると、泣きミソ時代を知っているだけに、良く育ったなぁと思います。そして、最後のフィナーレは、下級生から6年生への記念品の贈呈です。この辺の中学校は給食がないので、5年生が選んだ記念品はお弁当箱だとか。5年生が選んだ品を1年生が渡しました。記念品を受け取った6年生、何となく恥ずかしそうでした。
2010.03.14
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クロニクル 今日は今日は 西の国から~1970(昭和45)年3月14日今年は、上海万博ですね。実は40年前の今日、大阪万国博覧会が開幕しました。会場は大阪府吹田市の千里丘陵(約350ha)。会期は1970年3月14日 - 9月13日までの183日間でした。参加は、77ヵ国(日本を含む)、4国際機関、1政庁、9州市で、当時の史上最大の規模の万博となりました。大阪万博、EXPO'70とも呼ばれました。アポロ11号が月から持ち帰った「月の石」を展示した、アメリカ館が人気でしたね。そして、三波春夫が歌った「コンニチハ コンニチハ ニシノクニカラ コンニチハ コンニチハ ヒガシのクニヘ…」のメロディもヒットしましたね。
2010.03.14
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政治を斬る(58)少子化対策としての「子育て支援」として、「子ども手当て」と「保育所対策」のどちらが有効かを論じて、日が経ちました。もう少し詰めてみますと、「少子化対策」は何のためでしょうか。それは経済が成長しないと財政収入が増えず、財政赤字がコントロール不能になる恐れが生じるので、経済の成長戦略を練る必要があるからと言えましょう。成長戦略を考えるためには、労働人口の確保が欠かせません。そのための少子化対策であることを、失念するわけには行きません。そして労働人口の確保のためには、出生率の上昇と並んで。女性の労働参加率(社会進出と言い換えても良いでしょう)を引き上げることが大切です。この観点からも、保育所問題の解決は焦眉の急であると言えましょう。しかも財政問題が深刻であることは、民主党内閣の閣僚の発言からも、内閣の共通認識になっているように見えます。だとすれば、財政支出は、財政出動の効果の高い政策に集中することが必要です。その意味で、保育所に関する規制を可及的速やかに撤廃し(大幅緩和でも良しとしますか)、保育士の給与を引き上げるための、保育所への補助を増やしていくことが、先ずは大切なように思うのです。「子ども手当て」よりは保育所支援の方が私は重要であり、緊急性が高いと考えています。この問題にからんで、厚生労働省(保育所の監督官庁)と文部科学省(幼稚園の監督官庁)の権限を巡る縄張り争いで、暗礁に乗り上げている幼・保一元化の問題も、早期に解決する必要があります。民主党は、一元化を強く主張していたはずであるのに、政権についた途端に、省庁の利害を調整できない体たらくに陥るとは、なんとも情けない話です。首相はいついつまでに解決できないなら、首相直轄にして内閣府で担当することにするくらいの、気合を入れる必要がありますね。少子化担当の福島大臣、管轄外の沖縄問題に気を取られていないで、文科相と厚労相を招いて話をつけるぐらいの活躍をされてはいかがでしょう。あなたは、子育て時代に、この問題で大いに苦労されましたよね。 続く
2010.03.13
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