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ユーロの憂鬱 (26) 第2の問題。財政統合を巡ってはどうでしょうか。ユーロ圏諸国は、財政面での統一的な施策を打てるのでしょうか。さらには、もう少し輪を広げて、EU全体として、財政を共有することは可能でしょうか。1つの通貨、1つの金融市場を持つような経済圏のなかで、複数の財政政策がバラバラに展開されるというのは、どう考えてもおかしな話です。それが分っているので、今までもEUは、どうすれば財政統合を実現できるかについて、様々な模索を続けてきました。しかし、ここでも金融行政の問題と同じく、堂々巡りに陥っているのが実情です。要するに、一方で統合が進めば進むほど、そうした統合の進展自体が、個別対応の必要性を強める方向に働くのです。この場合も、加盟国の経済活動が順調であるうちは、さしたる軋みを生じません。ところが、ひとたび厳しい経済状況が出来すると、ただちに状況が変わります。いずこの国も、自国を守ることに必死となり、全体のことを考えなくなるのです。どの国もEUとかユーロ圏といった合体ロボット全体のことは考えず、合体ロボが機能不全に陥っても、自国のことが守れればそれで良いという態度になるのです。「必死で国民を説得して、財政緊縮策を打ち出している時に、その苦しい財政の中から、他国のためなどに金が出せるか」と言うわけです。金融面での統合が進めば進むほど、いざという時の衝撃を少しでも緩和したいという、気持ちになるのです。そのために、財政面の自由度は何としても確保しておきたい。どの国もこのように考えるのです。一例を挙げておきます。既に記しましたが、EU内の後発国には、インフラ整備のためのEUの補助金がありました。補助金の受け手は、ポーランドや東欧諸国、そしてギリシアやアイルランド、ポルトガルなどです。出し手は独・仏・英・伊にベネルックス諸国などです。受け手の国は、経済不振に喘いでいますから、最低限従来通りの補助金をえたい。しかし出し手側は、財政再建のために、あちこち予算を削って節約に努めている時に、他国のための補助金を従来通りだせと言われても…と、補助金もまた減額する姿勢を譲りません。加盟国の間で、やりあっている様子が、時折報じられるのは、このことなのです。こうして財政の一元化問題も、全く前に進まないでいるのです。 続く
2010.12.31
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クロニクル 紅白初の公開放送1953(昭和28)年12月31日今年も大晦日ですね。途中40日ほどブログを休載しましたが、今年も1年間お世話になりました。厚く御礼申し上げます。有難うございました。さて、昭和28年というと、57年前になりますね。この年2月にNHK東京が、テレビの本放送を始めています。そのため、この年4回目を迎えた紅白歌合戦を、ラジオだけでなくテレビでも放送することになったのです。当時はビデオ録画して後に放送するという技術はありませんから、テレビは全て生放送です。そこで、どうせならなるべく大勢のお客様に見ていただこうと、大晦日の晩の日劇のホールを借りて、公開放送としたのです。実は、3回までの紅白は、全てお正月の2日に行なわれていたのですが、第4回にして初めて大晦日に行なわれました。それは、日劇のような大ホールは、正月は全て正月公演のために満杯で、入り込む余地がなかったからでした。大晦日は、どこも公演はなく空いています。そこで仕方なく大晦日に実施することになったのが、真相でした。ところが大晦日の実施には、とんでもないプラスがありました。それは第3回までは、正月公演で時間がとれず、出演を辞退していた大物歌手たちが、大晦日なら都合がつくと、出演してくれるようになったことです。淡谷のり子や小畑実が出演するようになったのは、この第4回紅白からでした。思わぬ効果に喜んだNHKは、以後紅白歌合戦を大晦日に固定したのです。大晦日の風物詩が、こうして誕生しました。なお、この日の放送時間は、21時15分~22時45分までの1時間30分でした。さて、1953年は1月2日に、第3回の紅白歌合戦をやっていましたから、1年に2回の紅白があったことになります。過度期の産物ですが、これも1回きりのことでした。
2010.12.31
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ユーロの憂鬱 (25)リーマンショックの衝撃を経験したユーロ圏諸国は、共通の金融行政を追求するのとは逆に、独自の金融行政を展開する権利を守ろうとするようになったのです。事情はこうです。大規模な金融危機に見舞われ、自国の金融機関が次々に取り付け騒ぎに巻き込まれたり、預金の大量流出に見舞われたりと、預金者の金融資産が危機にあるときに、手をこまねいて見ているしかないような、そんな事態になることは、何としても避けたいと、考えるからなのです。EUレヴェルの金融監督機関を設けるとなれば、危機に際しての金融監督や金融行政の展開の全てを、新たに誕生する全EU的な機関に委ねなければなりません。そうなると、自国本位の独自の救済策に乗り出すことは出来なくなります。つまり、いざという時に国益を守ることが、出来なくなるのです。当然そんな状況になることは避けようと考えるのが普通です。加盟各国に国民国家としての実態を残すのだとすれば、統一的な金融監督体制を構築することは難しくなります。つまり、金融行政を1つにするためには、ユーロ圏諸国が実質的に一国家になるしかないのです。通貨も1つ、市場も1つだとすれば、当然行政もまた1つになる。。これが普通のあり方です。ところが各加盟国の考え方は、逆の方向に向かいます。通貨と市場が1つだからこそ、その統合空間で起こることから、各国とも国民の利益と国益とを守る体制が必要となるのです。ですから、そのために機動的に動ける自由度を確保しておかなければならないと、彼らは考えるのです。 続く
2010.12.30
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クロニクル フセイン処刑2006(平成18)年12月30日4年前のことです。この日、サダム・フセイン元イラク大統領が、「1983年にイラク中部のドゥジャイル村で、住民140人以上を殺害した罪」で、処刑されました。サダム・フセインは確かに独裁者でしたが、彼の支配の下で、イラク国内の党派対立(スンニー派、シーア派、クルド人グループ)は抑え込まれ、一定の平和と秩序は保たれていました。この独裁下の安定をぶち壊したが、2003年に始まるアメリカの強引なイラクへの攻撃でした。国連の反対を押し切って、強引な介入を試みた米軍の攻撃によって、イラクの政治秩序は破壊され、フセイン大統領も、2003年12月13日に逮捕されました。そして、アメリカの傀儡として誕生したマリキ政府は、自らの求心力を高めるために、上に記した罪状で、フセイン元大統領を起訴し、処刑に持ち込む方針を固めたのです。こうして2006年10月19日に、バクダードの高等法廷で初公判が開かれたのです。死刑判決を出すことが、事前にすりあわされている裁判は、猛スピードで行なわれ、1審は11月5日に、2審も12月26日に、死刑判決を出し、判決確定の僅か4日後に、絞首刑が執行されたのです。それは、辛うじてイラク人の手で行われたましたが、当時のマリク政権は、アメリカの強い肩入れを受けて、成り立っていた傀儡政権であり、強引なフセイン処刑を批判されて、その後は政権の座を追われています。
2010.12.30
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ユーロの憂鬱 (24)EUには、一元的な金融監督の体制はありません。加盟国の過半数が共通通貨ユーロを使用し、全体として単一の金融市場の構築を目指しているのに、金融行政には統一的な司令塔がないのです。ユーロ圏の金融政策はECB(欧州中央銀行)が司令塔の役割を担っています。従って、ユーロ圏の政策金利は、ECBが決定します。通貨供給量をどうするか。経済危機時にどのような金融政策をとるかなどについても、ECBが責任をもっています。しかし、金融政策は金融行政の一部に過ぎません。金融行政全般ということになると、ユーロ圏においてさえ、一元的名責任体制がないのです。この点は、参加国が夫々独自の方法で対応しているのです。今まではそうしてきました。しかし、さすがにリーマンショック後の抜け駆け競争を見て、さすがに「これはまずい」と思ったのでしょう。昨年来オールEU的な金融監督の必要性に関する議論が、ある程度の進展を見ることになったのです。外から見ると、遅きに失したの感が強いのですが、ようやくEUをして、このテーマと向き合おうと言う事になったのです。こうして、この問題を議論する場として儲けられたのが、「金融監督に関するハイレベル委員会」でした。委員長には、元欧州復興開発銀行(EBRD)総裁のジャック・ドラロジェール氏が、三顧の礼をもって迎えられました。ドラロジェール氏は、知る人ぞ知る欧州金融界の重鎮です。大物の登場で、建設的な議論が続き、包括的な金融監督の必要性を認める提言がなされたのです。金融、証券、保険の各分野について、夫々EUの全体を束ねる監督体制の構築が提案されたのです。そしてその上で、分野別の監督体制を、さらに横断的に管理する、包括的監督組織をも設けるべきだとしたのです。しかし、残念ながら現在に至るも、この提言は生かされていません。、金融監督体制の一元化は、何も進んでいないのです。夫々の国が、どこも独自の金融監督権を手放そうとしないからです。リーマンショックの衝撃を経験した各国は、逆に独自の金融行政を展開する権利を、手放すことを躊躇するようになったのです。 続く
2010.12.29
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クロニクル 清水トンネル貫通1929(昭和4)年12月29日清水トンネルは、上越線の群馬県と新潟県の県境にある谷川岳を貫通する全長9,702mのトンネルです。1922(大正11)年に着工し、この日貫通しました。その後、線路の敷設等の工事を行い、上越線の上野~新潟間の直通運転が始まったのは、1931(昭和6)年の9月1日でした。清水トンネルの開通以前、関東と新潟を結ぶ路線は、碓氷峠を越える信越本線の長野、直江津を経由するルートがメインで、とても不便だったのです。1914(大正3)年には、郡山と新潟を結ぶ磐越西線が全線開通し、東北本線経由の迂回路が出来ましたが、やはり遠回りには替わりありませんでした。工事は、トンネルの掘削区間を出来るだけ短くするように工夫され、谷川岳の中腹を貫通する形で進められたのですが、東海道線の丹那トンネルと違って、地層が硬い岩盤となっていたため、掘削部分の崩落の心配がなく(地層が軟らかいほど、トンネルは掘りにくいそうです)、工事は順調に進みました。トンネルの開通によって、上野~新潟間は距離にして98km、時間にして4時間短縮され、新潟と首都圏の交通事情は、大幅に改善されました。「国境の長いトンネルを越えると、雪国だった」と書き出された川端康成の『雪国』が執筆されたのは、トンネルの開通から数年経った1935(昭和10)年のことでした。
2010.12.29
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ユーロの憂鬱 (23)ここまで記してきたように、EUの本質は、いわば「結束なき統合」と言いうるものでした。緊急時における支え合いの枠組を用意しないまとまり、こういう点にありました。枠組みを作ろうとすると、協調の絆そのものが危うくなり、蜂の巣を突いたような大騒ぎになるのが確実な団体。それがEUなのです。ですからEUは、「触らぬ神に祟りなし」の精神を発揮して、本格的な一体化には踏み出さないできたのです。これがEUの構成メンバーが編み出し、合意した知恵でした。本格的な統合を求めないことが、EUが統合の体裁を整える上での最大のポイントだったのです。こうしたEUの素顔が、今回の危機によって、誰の眼にも明らかとなったのです。白日の下に晒されたEUの素顔、それが形振り構わぬ抜け駆け合戦に見られる、イザとなればわが身のみを守ろうとする、身勝手な行動となって表面化したのです。バブルの狂乱という宴の後に、「結束なき統合」の無理と限界が、一挙に噴出したのです。今や「結束なき統合」というEUの知恵そのものが、EUの最大の弱点となってしまっているのです。こうしたEUが解決すべき問題点は、3点あります。第1が金融監督問題。第2が財政統合の是非を巡る問題。そして第3番目が、ユーロ圏の求心力を巡る問題です。先ずは金融監督の問題を考えて見ましょう。 続く
2010.12.28
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クロニクル 余部鉄橋から列車転落1986(昭和61)年12月28日24年前になります。余部鉄橋は山陰本線の鎧駅と餘部駅間にあります。この日13時25分頃、香住駅より浜坂駅へ回送中のお座敷列車「みやび」が、日本海からの突風にあおられ、7輌編成の全車両が台車の一部を残して、橋の中央付近から転落したのです。回送列車でしたから、乗客は乗っていなかったのですが、転落した客車が鉄橋の真下にあった水産加工の工場と民家を直撃したため、工場は全壊、民家も半壊しました。その結果、工場のパート従業員の主婦5人と列車の車掌さんの6人が死亡、客車内にいた日本食堂の車内販売員3人と工場の従業員3人の6人が重傷を負う、惨事となったのです。列車の運転士は無事でした。それは、機関車は客車に比べて重量があるために転覆を免れたからでした。国鉄が民営化される前、最後の大事故でした。事故の調査報告に基づき、風力計が一定の風速を超えた場合、人間の判断を加味せず、自動的に列車の運行を停止するシステムが導入され、現在に生かされています。
2010.12.27
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ユーロの憂鬱 (22)前回に記したような事情で、後にPIIGSと揶揄されるようになる国々は、それまで夢想すらしなかってであろう好条件で、国債を発行することが出来る(=借金することが出来る)ようになったのです。これが災いの元となったのです。低利で融資を受けることが出来るようになった喜びで、融資枠いっぱいの刈り入れを行なう、借金依存型の経済に傾斜してしまったのです。バブル期の日本企業が、低利で資本調達ができるのを良いことに、債券を発行して資金を手当てし、それを土地や株式など本業とは関係のない、土地や株式などの売買に注ぎ込み、結果的に自分の首を絞めたのと同じ構図です。その結果、どの国でもインフレ体質が定着し、財政赤字が慢性化することになったのです。結果はバブル崩壊後の日本以上に悲惨なことになりました。日本とこれらの国々では、経済的な地力が大きく違うからです。東欧のブームとその行き過ぎ、IT金融の盛況と暴走、補助金ブームから派生した資産インフレ、そしてユーロ導入による低金利融資に依存した借金体質。こうした四つの要因によって、統合欧州は、バブルに酔っていたのです。結束は弱いけれど、統合は進んでいた欧州だから、バブルはEUに加盟していないアイスランドのような国まで含んで、全欧州を巻き込んでいったのです。金融取引、物の売買、人の移動、どれをとっても、単一市場化がここまで進んでいなければ、バブルがここまで広く浸透することはなかったように思います。単一市場化の素早い浸透によって、いわば、崩れる時はみんな一緒の、一蓮托生の世界が出来上がっていたのです。そうであれば、一朝有事には、団結して事に当たることが求められます。一致団結があってこそ、危機回避の知恵や可能性が生まれるのです。しかし、既に何度も指摘したように、EUには「いざ鎌倉」に際しての団結の核がありません。そうした求心力の形成を避けることで、みせかけの団結をやっと維持してきたのが、EUだったからです。 続く
2010.12.27
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クロニクル 第1回日本レコード大賞発表1959(昭和34)年12月27日51年も経つのですね。この日文京公会堂で、第1回の日本レコード大賞の発表会が開催されました。大賞に選ばれたのは、この年デビューしたばかりの故水原弘の『黒い花びら』でした。> 黒い花びら 静かに散った あの人は帰らぬ 遠い夢 俺は知ってる 恋の悲しさ 恋の苦しさ だからだから もう恋なんか したくない したくないのさ <と新人らしからぬ堂々たる歌いぶりでした。 永六輔の詞が中村八大の曲調に良く会い、ポップスのリズムが新鮮だったもので、高校2年の仲間の間でも、良く歌われました。新人歌手の大賞となったため、この年は新人賞はなしとなっています。
2010.12.27
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ユーロの憂鬱 (21)その上、アイルランドにギリシア、そしてスペインとポルトガルも、共通通貨ユーロの加盟国でした。この4カ国に共通する特徴は、EUの中の発展途上国の位置にあることです。当然、発行する国債の金利は、かなり高いものにつきました。ドイツやフランスに比べ、債券市場での国家の信用力(=ソブリンリスク)に差があるのですから、それも当然でした。「ドイツさんなら、3%の金利でも金を貸しましょう。不渡りの心配がありませんから…」投資家たちはこう判断します。しかし、ギリシアやアイルランド、ポルトガルが相手となると投資家の態度が変わります。「あんたに金を貸すとなると、3%ってわけにはとても行かないよ。ま、少なくとも12%~13%の金利をいただかなきゃ、とても貸せません」と、なります。これが、国家間の信用格差、経済力の差でした。ところが、ユーロを導入したことで様子が変わりました。 経済後発国の国債の金利が急速に低下したのです。理由は、ドイツもアイルランドもその他の国も、どこも皆ユーロ建ての国債を発行することになったからです。個人が銀行で借金をしようとする場合、勤務先が社会的に名を知られた大企業か、名前も知られていない中小零細企業かによって、金融機関の扱いは大きく変わります。怪しげなインチキ商法を生業とする連中が、有名企業に良く似た名を名乗るのも、詐欺師が有名企業の名を騙るのも、同じ理屈です。アイルランドやギリシアは、ドイツの名を騙ったわけではありません。ドイツと同じ通貨を発行できるようになったというだけで、投資家の見る眼が変わったのです。理由は2つありました。1つは、ユーロ圏入りするためには、厳しい条件をクリアする必要があったことです。財政赤字やインフレ率について、かなりきつい数字をクリアする必要があったのです。財政規律を守れず、慢性的にインフレ率が高い国は、ユーロ圏の仲間に入れない。こういう大原則がありました。多少甘く見てもらったにせよ、この条件をクリアしたからこそ、仲間入りが出来た。投資家たちは、この点を評価したのです。ユーロ圏に留まるための努力もするだろう。こうもみなされたのです。2つめに、いざというときには、ユーロ圏の仲間が支援するだろうという思惑が働いたのです。アイルランドやギリシアなどが、財務体質の改善に失敗して、債務不履行の状態になったとしても、同じユーロ圏の一員なのだから、ユーロの信用を無くすわけに行かない、ドイツやフランスが、支援に乗り出すに違いない。投資家たちはこう考えたのです。こうして、アイルランドやギリシア、スペインやポルトガルの国債に対する評価は、大きくところを変えたのです。本人は信用が出来なくても、金持ちの親がいるとなると、金を貸す側の判断は、変わってくる理屈が、ここでも働いたのです。 続く
2010.12.26
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クロニクル インド洋大津波2004(平成16)年12月26日6年前です。丁度私が頚椎ヘルニアの大手術を受け、50日を越える長期入院を終え、退院したのが10日前の16日でした。退院10日後のこの日、インドネシアのスマトラ島沖を震源とする、マグニチュード9.3の大地震が発生。丁度満潮時と重なったことと、震源が近かった割りに、津波のやってくるスピードが遅かった震源の東側に当たる、スマトラ島やマレーシア、タイ南部などで、特に大きな被害が出ました。また、津波の到着が予想以上に早かった、震源の西側にあたるスリランカ、インド、アフリカ東海岸の国々でも、夫々数百人に及ぶ犠牲者が出ました。
2010.12.26
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ユーロの憂鬱 (20) ECやEUの補助金を使って、社会インフラの整備が進んだ結果、アイルランドへは外資にとっての恰好の投資先として、次第に脚光を浴びる存在になって行きました。1990年代には、主にアメリカの!T産業が、アイルランドをインドと並ぶ国外の生産拠点とするようになったのです。アイルランドは英語が通じます。しかも国が貧しかったがゆえに、低賃金での雇用が可能です。そしてインフラの整備は進んでいます。アメリカのIT産業にとって、これ以上ない願ってもない好条件の進出先だったのです。こうして外資の流入が急増した結果、アイルランドのGDPの規模は、GNPを大きく上回るようになったのです。GNPはアイルランド国民が生み出す付加価値(国民総生産)ですが、GDPは、ある国の国内で生み出された付加価値の合計です。ですから、GDPがGNPを上回るということは、海外からやってきた企業などの生産者による生産活動が、とても活発であることを示します。外資の進出による生産の増加によって、アイルランドのGDPは大きく成長しました。これだけで済むなら、何も悪いことはありません。外資による雇用の結果、アイルランドは次第に貧しさから脱してゆきました。しかし、好事魔多しの例えの通り、外資の進出による事務所や作業所の増加、外国人宿舎の増加は、建設ラッシュを生み、次第に土地や建物の価格が吊りあがり、お決まりの資産バブルの様相が深まったのです。こうなると、投資先を鵜の目鷹の目で探している、怪しげな投資(投機?)ファンドまでもが次々に流入して、不動産や株式が上がるから買う、買うからまた上がるという、ユーフォーリア状態に陥ったのです。ブームがブームを呼ぶ、80年代末に日本が経験したのと同じ、大型バブルに酔いしれる状態になったのです。ご承知の通り、そこに訪れたのが、アメリカの住宅バブルの破綻であり、それに続くリーマンショックの嵐でした。アイルランドだけではありません。EUからの補助金を得て、開発ブームに火がついたのは、ギリシアにしても、ポルトガルやスペインにしても、程度の差はあっても同じでした。 続く
2010.12.25
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クロニクル エジプトとイスラエルの和解への1歩1977(昭和52)年12月25日33年前の今日、エジプトのサダト大統領は、イスラエルのぺギン首相の招きに応じてエルサレムを訪問、ぺギン首相との会談によって、両国は和平への道を歩み始めました。サダト大統領は、1970年のナセル大統領の急死を受けて、2代目の大統領に就任。1973年の第4次中東戦争で、イスラエル軍に大打撃を与え、イスラエルの不敗神話を撃ち破って、国民の支持を固めると、その後は一転して、イスラエルとの関係改善に勤めました。その結果が、この日のイスラエル訪問となったのです。この訪問がきっかけとなって、翌年のキャンプ・デービット会談での、両国の歴史的和解を実現して、第三次中東戦争でイスラエルに奪われたシナイ半島の無償返還に成功しました。イスラエルは、エジプトにシナイ半島は返還しましたが、ヨルダン川西岸、ガザ、ゴラン高原は、パレスティナ人やヨルダン、シリアと抗争を続けており、なお中東全面和平には遠い状態が続いています。
2010.12.25
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ユーロの憂鬱 (19)EU加盟国は、実体経済の悪化という現実を前にして、スクラムを組んでEU全体として、危機乗り切りを図る道を選ぶことをせず、自国経済の回復のみを図ろうとしました。自分さえよければという身勝手さが、これだけ深刻な危機においても拭えなかったのです。その結果、どの国の政府も、経済ナショナリズムの傾向を強めていったのです。自国製品の愛用運動が、あちこちで始まりました。当時のブラウン英国首相は、「バイ・ブリティッシュ」と英国製品を愛用しようと呼びかけました。 フランスのサルコジ大統領は、自動車メーカーの工場閉鎖に際して、国内の工場ではなく東欧の工場を閉鎖すべきだと発言し、圧力をかけました。イギリス、スペイン、ギリシアでは、銀行への資金注入に際し、資金の貸し出しは、自国企業に限るという、行政指導に乗り出すなど、露骨な自国企業優先方針が打ち出されました。経済が好調なときには表面化しなかった、各国の手前勝手なご都合主義が、状況の悪化と共に顔をもたげ、協調体制の実現を妨げる要因になったのです。今問題になっているアイルランドを取り上げてみましょう。アイルランドは、EUの補助金を上手に使って、経済基盤の改善を成し遂げたのです。この国では、花崗岩に覆われたやせた土地が、国土の大半を占めています。ですから国土の多くは放牧地となったおり、農地は国土の6分の1以下で、収量も少なく、長くヨーロッパの最貧国に数えられていました。米国にアイルランド系の移民が多い背景に、こうしたアイルランドの貧しさがあったのです。そのアイルランドは、1973年に、EUの前身であるECへの加盟を認められたのです。その結果アイルランドは、EC内の構造不況地帯に与えられる補助金の給付が受けられるようになり(最高時には、アイルランドのGDPの7%近くを、EUからの補助金が占めたとされています)、インフラの整備と産業振興に成功したのです。 続く
2010.12.24
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クロニクル ソ連軍アフガニスタンに侵攻1979(昭和54)年12月24日31年前の今日になります。よりによってクリスマスイヴの日に、ソ連軍がアフガニスタンへの侵攻に踏み切ったのでした。アフガンでは、前年の78年に人民民主党の政府が誕生したのですが、79年春に反政府はが武装蜂起します。次第に劣勢となり窮地に陥った人民民主党政府は、ソヴィエト政府に救援を依頼した結果が、この日の侵攻となったのでした。劣勢となったイスラム系抵抗勢力ムジャヒディンは、同国特有の山岳地帯に籠もって抵抗を続け、ソヴィエト軍を長期の消耗戦に誘い込んで疲弊させて行き、次第にアフガニスタンは、ソ連軍にとってのヴェトナムと化していきました。結局ソ連軍は、10年後の1989年2月に、アフガニスタンから完全に撤退するに至りました。勝利したのは山岳ゲリラとしてソ連と戦った、ムジャhディンの戦士たちでしたが、その後は内部分裂がおき、アフガニスタン各地は、なお内戦で疲弊することになりました。この混乱を平定、アフガンに平和を齎したのがタリバーンでした。しかし、そのタリバーン政権のアフガニスタンを、9.11の仕返しとして攻撃し、再び混乱に陥れたのがアメリカでした。馬鹿なことをしたもので、結果は再び、アフガンに破壊と混乱を齎しただけで、今度はまたまたアメリカが、アフガンで苦戦を強いられているのが、現在の姿です。アフガンの人々に、平和と安定が齎らされるのは、いつになるのでしょうね。
2010.12.24
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ユーロの憂鬱 (18)サブプライムショックに始まり、リーマンショックに至る金融危機の、実体経済への波及が、予想よりも遥かに深刻なことが明らかになりつつあった2008年末頃のことです。当時、EUの自動車産業にも、操業停止の波が押し寄せ、関連産業を含めて、企業倒産や工場閉鎖によって、大量の失業者が生み出されていました。そこで欧州委員会を中心に、各国が協調して、汎EU規模での欧州版ニューディール構想を打ち出そうと、真剣な協議が行われました。EUとして、EU債を発行して資金を調達し、失業対策としての公共事業の役割も兼ねて、全EU規模での鉄道網やIT網などの、インフラ整備を行なおうというのです。各国の経済的な条件を同質化するためには、全EU規模での社会的なインフラ整備は、確かに効果的な策といえます。どうして今までやってこなかったのでしょう。それだけではありません、ギリシアに続く再度のアイルランド危機、そしてアイルランド危機のポルトガルへの波及という危機の進展のなかで、またぞろEU債の発行が話題とされている現実を見てください。即ち、EU債の発行は、未だに実現を見ていないのです。そして今度こそは大丈夫かというと、それもかなり怪しげです。少なくとも私は、実現の可能性は、高くないと見ています。なぜかというと、ドイツ、フランス、イギリスなど有力な加盟国がみな財政難に陥っており、EUに提供する資金的余裕などないし、もし余裕があるのなら、当然自国のためにだけ資金を使いたいと、考えたからなのです。どの国も、単一通貨、単一金融市場が齎す恩恵を享受することには熱心でした。しかし、EUやユーロが存在することで儲けた資金は、EUのために使おうではないかという発想は、受け入れようとしなかったのです。もし、全EU的な資金の使い道を講ずるとすれば、全EU的な存在である欧州委員会が管理する財源が生じます。それは各国の財政主権の一部を、EUに譲り渡すことに外なりません。自国の主権を制限する方向には進みたくない各国にとって、これは到底認めがたいことでした。全EU的なインフラ整備の実行は、確かに魅力的です。それでも各国はその方向に踏み出しませんでした。各国の協調体制の構築が、特に必要とされた大規模な金融危機の最中にあって、これだけ実体経済が疲弊し、失業問題が深刻化している状況にあっても、なおこうした構想が実現するメドは、立っていないのです。 続く
2010.12.23
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クロニクル 営団地下鉄東西線一部開通1964(昭和39)年12月23日今から46年前のことです。丁度東京オリンピックが終った、約2ヶ月後のことです。この日営団地下鉄(現在の東京メトロ)東西線の、高田馬場~九段下間が開通、営業を開始しました。当時早稲田大学に近い、戸塚一丁目界隈は、神田神保町ほどメジャーではないため、値段の安い古書店が軒を連ねており、バイト代が入ると、東京凡太よろしく風呂敷を抱えて古書を漁りに出かけていた私には、馬場から馬場下町(戸塚の古書店街まですぐでした)まで一駅の地下鉄は、何より有り難い存在になったのでした。
2010.12.23
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ユーロの憂鬱 (17)アイルランド政府の、預金の全額保護の決定は。すぐに隣国イギリスに飛び火し、イギリスの金融機関での取り付け騒ぎに発展しました。EUは、単一の金融市場を形成しているのに、金融行政は各国バラバラであることの弊害が見事に露出したのです。困ったのはイギリス政府や金融機関だけではありませんでした。アイルランド政府にとっても、この事態は大変な難題を突きつけたのです。国内の銀行の預金高は、物凄い勢いで増え続け、金融機関が行き詰まった場合の政府保証額は、アイルランドの財政規模では、とても保証しきれない額にまで、膨らんでしまったからです。しかし、EU諸国の「わが身可愛さ」の行動は、これに留まりませんでした。最初はアイルランドの行動を非難していたドイツも、しばらくすると、背に腹は変えられないとばかりに、国内銀行の預金の全額保護を打ち出しました。こうなると、後はどの国も、預金の全額保護に走るしかありません。そうしなければ、ネットバンキングの利用者達によるワンクリックで、預金の大量流出に見舞われることになるのが、明らかだからです。どこかの国の抜け駆けが明らかになるごとに、EUはいつどの国が火達磨になってもおかしくない、そんな混迷の度合いを深めていきました。金融行政は各国政府に権限があるのですから、EUの権限で、預金の全額保護をやめるわけには行かないのです。アイルランドの抜け駆けの被害を受けたイギリスでは、ネットに通じていないがゆえに、預金を国外の銀行に移せなかった人々が、国内金融機関の破綻によって、大きな損失を被り、そこから社会不安が広がって、さらに信用機能が縮み、金融危機を増幅する結果に繋がりました。市場は単一でも、行政権限は各国バラバラというEU的システムの弱点が、危機の現実の前に、赤裸々となった。まさにその一瞬でした。それでもEU加盟国は、ただ1国の例外もなく、自らの金融主権を手放そうとはしなかったのです。いわばEU加盟国は危機に陥ってもなお、自国の国家主権を手放さないという、集団無責任体制から、抜け出そうとはしなかったのです。 続く
2010.12.22
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クロニクル 伊藤博文初代総理に1885(明治18)年12月22日明治18年は、今から125年前になります。4年前の12月に明治14年の政変で、「10年以内の国会開設」が約束されました。その後、自由民権運動の側にあったグループは、相次いで政党を結成、来るべき選挙に備えていました。政府側は、国会開設に備えて、憲法制定の準備に入り、その作業に奔走した伊藤らは、西欧各国の政治を検討して、内閣制度の導入を決断しました。そしてこの日、太政官制を廃止して内閣制度を発足させる旨の通達が出され、同時に伊藤博文が初代総理を拝命、ただちに第一次伊藤内閣が発足しました。伊藤内閣は、 総理大臣 伊藤博文 (長州) 外務大臣 井上 馨 (長州) 大蔵大臣 松方正義 (薩摩) 内務大臣 山縣有朋 (長州) 陸軍大臣 大山 巌 (薩摩) 海軍大臣 西郷従道 (薩摩) 司法大臣 山田顕義 (長州) 文部大臣 森 有礼 (薩摩) 農商務大臣 谷干城 (土佐) 逓信大臣 榎本武揚 (幕臣)の10名で構成されましたが、ご覧の通り藩閥出身者が9名を数え、しかも長州藩、薩摩藩の出身者が4名づつと、完全に薩長閥の均衡人事となっていました。この内閣の時期が、鹿鳴館時代とも言われる、欧化主義の全盛期でした。
2010.12.22
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ユーロの憂鬱 (16) 実質を伴わず、形だけ整える。こういうEU存続の知恵は、波風の穏やかな平時には効果を発揮します。しかし、一度リーマンショックのような大型台風が発生すると、その弱点が露になります。巨大ロボットのバーツが、てんでに手前勝手な方向に動き始めるからです。実際の動きで、その点を確認して見ましょう。リーマンショック後のEUでは、加盟国の抜け駆け合戦が大きな波紋を呼びました。その波紋は、アイルランドが一方的に、国内の預金は全額保護すると発表するに及んで、頂点に達しました。2008年の年末のことです。世界的な信用不安の高まりの中で、各国の金融機関は、預金者による預金引き出しが殺到するのではないかと、密かに恐怖を感じていたのです。引き出しが殺到して、1日でも支払いが遅延しようものなら、危ない銀行のレッテルを貼られて、ついには倒産に追い込まれることが、必定だからです。こうした恐怖に脅えたアイルランド政府は、慌てふためいて、預金の全額保護を決定し、発表したのです。確かにアイルランドで、預金の取り付け騒ぎが起こってしまえば、同国の金融機関は次々に倒産し、それが震源となって、EU全体に波及することになるでしょう。そうなれば、EUだけでなく、世界全体で金融メルトダウンが起きることになりかねません。預金の全額保護は、金融メルトダウンに対する予防措置である。アイルランド政府はこう主張しました。一応もっともらしいのですが、この主張を単一の金融市場である、EUの現実の中においてみると、そこに大きな落とし穴のあることが分ります。アイルランドの決定が伝わると、先ずはイギリスの金融機関が大パニックに陥ったのです。イギリスの銀行の大口預金者が、次々に自らの預金をアイルランドの銀行に移し変える行動に出たのです。預金者にとって、自己の資産を守ることは、何より大切です。預金が全額保護されないかもしれないという恐怖感から解放されるなら、預金を移し変えるのは当然の行動です。アイルランドの銀行に預けかえれば全額保護されるのです。そしてインターネットバンキングの時代では、ワンクリックでこの作業は完結するのです。預金者がアイルランドへの預金の移動にかかったのは、当然でした。こうしてイギリスの金融機関は、預金の大量流出という、非常事態に見舞われ、資金ショートによる破綻の危機に見舞われたのです。 続く
2010.12.21
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クロニクル 首都高と東名の接続なる1971(昭和46)年12月21日39年前ですね。この日、首都高速3号渋谷線の渋谷~用賀間が開通しました。これで渋谷線は全線開通となり、首都高速と東名高速とが接続されました。若い頃、都心からこの道を通って、当時住んでいたよみうりランド前まで、深夜のご帰還というのが、随分ありましたので、この道は懐かしい道です。深夜でも渋滞が多かったですね。
2010.12.21
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ユーロの憂鬱 (15) EUは、統合はしたけれど、各加盟国の主権(自決権と置き換えても良いでしょう)は、そのまま尊重するスタイルをとり続けています。言うならば、統合はしたけれども、団結するわけではないと言わんばかりです。建前では団結するけれでも、本音はバラバラ。これがEUの実際の姿です。実は、こういう形をとっているからこそ、通貨統合も金融統合も、何とか様になっている。これが統合欧州の本質といえます。単一通貨ユーロを導入し、単一の金融市場を作りました。にもかかわらず、EUには一元的な財政政策はありません。単一の通貨と、単一の金融市場を持つ共同体が、単一の財政と財政政策を持たないというのは、なんとも奇妙な話です。ところがEUを見ると、金融政策はECBが一元的に管理運営しているのですが、財政政策は国家の数だけあるのです。これで統一的名経済運営をやろうとしても、できるものではありません。しかも、財政を一元化しましょうという話題になった時に、前向きに賛同する国は一国も出てきません。逆に、「何故EUのために、わが国の税収を差し出さなければならないのか」と、猛烈な反対論が、どの国でも噴出するのです。金融監督もしかりです。単一化された金融市場では、統一ルールと一元的な管理と監督が適用されるのが当然です。しかし、ユーロ加盟国間では、そのような約束はなされず、そうした構想も存在しないのです。EUという統合の枠組みを維持するには、一元的な金融監督とか、一本化された財政政策の実現と言った議論に踏み込まないことにする。こうした暗黙の了解なしには、統合の枠組みを保てないのです。肝腎なことはボカしたままにしておくからこそ、統合体としての建前を維持できる。これがEUの特徴なのです。昨年12月1日に発効したリスボン条約で、EU大統領が誕生しました。しかし、名前はEU大統領ですが、その職務権限はというと、欧州首脳会議の常任議長ということに尽きるのです。つまり実権のない名誉職に過ぎないということです。それまでは、各国首脳の輪番制(任期は半年)だった議長職を、2年任期の常任制として、そのポストにEU大統領という名称をつけただけのことなのです。EU加盟国は、どこも国家主権を維持しています。国家の枠を超える問題については、首脳会議等の政府間協議で合意を目指します。ですから、EUとしての方針は、政府間協定として決められるのです。各国はまさに、対等の主権を持っているのです。EUが、そしてユーロが、いかに形だけを整えて存在しているか。ここから理解できると思います。各国の主権を放棄する方向への動きや、そこまで行かなくても各国の主権を制限する方向に進もうとすれば、EUは空中分解するしかなくなってしまうのです。実質を伴わず、形だけ整える。この知恵がいままでEUが存続し続けることが出来た知恵なのです。こうであるがゆえに、今回のような問題が起きたのですね。 続く
2010.12.20
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クロニクル 松下村塾開校1857年12月20日(安政4年11月5日)丁度今から153年前のことになります。この日、吉田松陰は、萩で松下村塾を開校しました。ご承知の通り、松陰は長州藩出身の明治維新の英傑たちの師として知られ、松下村塾の門下生には、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、前原一誠、山田彰義らが名を連ねています。ただ実際に松陰が、門下生を指導した機関は、そう長いものではありません。翌1858年、幕府が朝廷の勅許を得ることなく、日米修好通商条約を結んだことに怒り、倒幕と筆頭老中の間部詮勝の暗殺を主張して失敗、捕えられて投獄、その後江戸に護送され、翌1859年10月に、29歳の若さで刑死しているからです。弟子たちと直接触れ合った機関は、短かったのですが、その若さと改革への情熱が、弟子たちの琴線に触れたのでしょうね。
2010.12.20
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クリスマス会今晩は。今日は、町内会の分会になる、私の住む地区(構成世帯140軒)のクリスマス会兼持ちつき大会でした。朝から午後4時頃まで、1日楽しんでまいりました。と言っても私は子ども担当ですから、子ども達と楽しく遊んできました。餅つき班の大人たちは、8時から釜や蒸篭を出し、火を熾し、臼や杵の準備をしと大活躍。私の出番は9時過ぎからで、ノンビリです。9時半、集まった小学生に、もち米とうるち米と玄米を見せて、違いを勉強です。お母さんたちも含め、どれが餅米かは、なかなか分りません。まして、日常食べているうるち米ではお餅を作れないことは、初めて聞くことだったようです。当然、玄米は知りません。玄米を見た上級生の答えで最も多かったのは、「麦かなぁ」でした。僅かですが、近くに水田が残る地域に住んでいる子ども達でも、玄米を見たことがないのですね。それから、大人の介添えで、餅つき体験。みんな杵をもって、10回づつ搗きました。残念ながら、この部分は写真を撮り忘れてしまいました。自分で搗いたお餅を食べて、11時頃から、地元の手品好きの小父さんの手品、名人芸に興奮しきりでした。手品の最後に、小父さんがサンタクロースを呼び寄せてくれることになったのですが、小父さん1人では、ちっとも効果がありません。そこでみんなで大声でサンタさんを呼んだのです。そしたら、本当に来てくれました。知人のデンマーク系アメリカ人で、身長190cmに近いF氏に、サンタクロースを頼んでおいたのです。F氏はサンタクロースが大好きで、自分でサンタの衣装一式を買い入れ、この時期の日曜・祝日というと、張り切ってサンタクロースのボランティアに徹している好人物なのです。本物そっくりのサンタさんの出現に、32人も集まった子ども達はビックリ。皆息を呑んでサンタさんを見つめます。勇気のある男の子が、僕に頂戴と手を出したのですが、順番を待てない子には、あげるの止めちゃおうかなと、軽くいなされます。これで、一編に皆おとなしく待てるようになりました。それから、ビンゴをして、夫々好きなお土産をもらい、さらに風船遊びをして、1日しっかり遊んだ子どもたちは、どの子も嬉しそうでした。写真の後方は、オモチを切ったり、パックに詰めたりしている女性たちです。
2010.12.19
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クロニクル 日本の第9次越冬隊南極点に到達1968(昭和43)年12月19日42年前のことです。村山雅美越冬隊長率いる、日本の第9次越冬隊が、日本人としては始めて、南極点に到達しました。高度経済成長も後半に入り、日本の工業化の進展の中で、砕氷船その他の性能も、格段に進歩した結果でした。
2010.12.19
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ユーロの憂鬱 (14)1989年の東欧革命と、90年代に入ってのソ連邦の崩壊によって、バルト3国と東欧圏の資本主義経済圏入りが実現しました。資本主義経済にとって、新たな市場が開けたことになります。市場の拡大は、資本主義経済にとって、何よりも大切なことです。しかも当時の市場は、飽和状態に近かったのですから、これは大歓迎すべき出来事でした。とりわけ東欧に近く、地理的優位にある西欧諸国にとっては、他国に先駆けて親密な関係を結ぶことが、何よりも大切であると、認識されました。そして東欧諸国からすると、自国の経済インフラを整備するために、資金力にまさる経済先進国の資金の取り込むことが、欠かせませんでした。こうして、東欧中心に資金ラッシュが起こり、統合欧州の金融機関にとっては、東欧圏への融資競争が過熱することになったのです。しかも、そこには商機を求める米国の金融機関までもが割り込んできます。この点で幸いだったのは、バブル崩壊によって、自己資本を大きく棄損させた日本の金融機関が、姿を見せることがなかったことです。ここで注意すべきことは、競争が激化すれば、ライバル行よりも好条件を提示しなければ、融資案件を獲得できないことです。こうして欧米の銀行は、リスク管理を緩めることで、融資を獲得することを目指したのです。こうして西欧の金融機関は、リスク管理を犠牲にして、レバレッジを高めた非常にリスキーな融資にのめり込んでいったのです。こうした状況が続いている最中に、リーマンショックが襲ってきたのです。当然受ける衝撃の度合いは、米国以上に大きなものとなったのです。ここに、経済条件という足並みが揃わないままに発足した欧州の統合された単一の通貨と金融市場は、金融の暴走というリスクの高まりに遭遇したのです。こうしたリスクに対応するには、加盟国が一致団結して、事に当たることが求められます。逆に言えば、大きな困難が生じた今回のような場合でも、加盟国が従うべき統一ルールが存在しているなら、事態の収拾も迅速に進むことになります。統一ルールがイヤならば、通貨も金融市場も統合などせずに、各国が勝手に動けば良いのです。それを統合は進めたい。しかし、統一ルールで縛られるのはイヤだと、互いに相容れない2つの事柄を、共に手放そうとしないために、混乱を大きくしたのです。EU並びにユーロ圏の今日の迷走振りには、こうした背景が横たわっていたのです。 続く
2010.12.18
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クロニクル スミソニアン協定誕生1971(昭和46)年12月18日39年前の今日のことです。連載中の「ユーロの憂鬱」の中でも触れましたが、この年8月15日に、米国大統領のニクソンは、金ドル交換停止を発表し、米ドルが世界を支えることは、もはや無理であることを表明しました。いわゆる「ドルショック」です。以後、この日まで西側世界=資本主義世界は蜂の巣を突いたような大騒ぎとなりました。その結果、欧州や日本などが米国を説得、各国通貨に対して、ドルを切り下げることで合意し、この日ニューヨークのスミソニアン博物館で開かれた10ヶ国会議(G10)で、各国通貨のドルに対する切り上げ幅を決定したのです。ここに、スミソニアン協定が誕生し、ただちに実行に移されました。この結果円の対ドルレートは。1ドル=360円から、1ドル=308円へ、切り上げられました。参加10ヶ国は、アメリカ、イギリス、西ドイツ、日本、フランス、イタリア、カナダ、オランダ、ベルギー、スウェーデンです。しかし、ここで決められたドルの切り下げ幅は、なお十分な物ではなく、その後もドルの不安定は続き、73年2月から3月にかけて、各国は次々に変動相場制に移行し、今日に至るのです。現在の円は、1ドル80円を巡る攻防になっています。40年で4.5倍。米国の経済的地位はここまで落ちていることを、しっかり噛み締めたいですね。落ち目の国にしがみついていようという、政治家や官僚、そして大マスコミとその御用聞きに堕しているタレント評論家の言説、鵜呑みにするのは、大変危険でだと、私は考えます。
2010.12.18
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ユーロの憂鬱 (13)お金は、通貨としての面と金融としての面という、2つの側面で働いています。2つの顔を持っていると言えます。ユーロという新しい通貨は、金融の側面で様々な問題を抱え、その点で世界的な信頼を、なかなか掴めないで来ました。1980年代末以降、EUは金融市場の統合を進めてきました。国境を越えた資金移動を自由にすることです。人の移動を自由にしたシェンゲン協定のお金版です。EU域内なら、誰が何処で金融ビジネスを行なっても良いようにすることです。銀行は、EUの範囲内であれば、国境に関係なく何処ででも、自由に支店を出したり、預金を集めたり、投資業務を行なっても良いことにしようというのです。巨大な単一の金融市場の形成を目指す。狙いとしては良く分かります。金融市場の統合は、欧州各国の金融機関にとって、願ってもない大きなビジネスチャンスの到来と写りました・自国市場という小さな野原から、広大なサヴァンナで自由に動き回れるチャンスが降ってきたのですから…。しかし、そのことは、うかうかしていると他国の金融機関に、自国の金融市場まで食い荒らされる危険とセットになっていました。今までは、自国の風習に則って、自分たちなりの方針でやっていれば、まず自分たちの領分は守れたのです。ところが、金融市場の統合によって、棲み分けの境界線がなくなったのです。チャンスは同時にピンチでもあったのです。もうノンビリはしていられません。日本の金融機関のように、護送船団よろしく大蔵省(後には財務省や金融庁)の保護下に国内市場にしがみつくわけにはいかなくなったのです。欧州の金融機関は、互いに生き残りをかけた競争の中に、放り込まれたのです。その生存競争の厳しさは、瞬く間に金融自由化の先輩だった米国を凌ぐほどになりました。そしてその結果、形振り構わぬ金融サバイバル競争が、金融機関としての節度を奪い、金融機関の生命線であるリスク管理をないがしろにした行動に、彼らを走らせたのです。そして、ここがユーロの最大の問題点なのですが、こうした金融機関の暴走に歯止めをかけるための、統一的な金融監督機関が、未だに存在しないのです。金融市場は統合したけれど、金融行政は各国にお任せのままですから、所詮バラバラです。このため、欧州単一の金融市場も、世界から支持を集めることは、なお難しいです。しかも、ここに東欧問題が加わり、金融機関の競争を、一層激しくしたのです。 ザビ
2010.12.17
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クロニクル 改正衆議院議員選挙法公布1945(昭和20)年12月17日敗戦の年の年末のことです。タイトルでは何が問題か分りませんよね。憲法の改正は、考えられていたのでしょうが、まだ話題になっていません。実は、この選挙法の改正で、その後の日本に関係する大きな変化が実感されました。この選挙法改正に基づいて実施されたのが、翌1946年の4月10日に行われた衆議院選挙なのです。そうです。日本女性に初めて選挙権と被選挙権が付与されたのです。そのことを定めた選挙法が、65年前の今日、公布されたのです。男女平等の精神が、初めて具体的な1歩を踏み出した日なのですね。この日成立した改正選挙法から、翌年4月の選挙まで4ヶ月もなかったのですが、選挙権と被選挙権を認められた女性のなかから、立候補に踏み切った人も多く、4月選挙で誕生した女性議員数は、かなりの数にのぼりました。現在は小選挙区制に替わっていますが、ここで定められたもう一つの変化が、1選挙区の選出議員数を3名から5名とする中選挙区制でした。
2010.12.17
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ユーロの憂鬱 (12) 昨日は、欧州共通通貨「ユーロ」の誕生についての、フランスの思惑を記しました。それは、EUの誕生の原点でもある、独仏の和解をさらにゆるぎないものとするためにも、欠かせないことでした。独仏の歴史的な和解による独仏枢軸の形成が、EUの誕生から拡大深化にいたる局面を、常にリードしてきました。その関係は「ユーロ」の誕生に際しても、変わらなかったのです。勿論それは、独仏の間の相互理解が完全に成立したことを、意味しません。フランスは、ドイツが大ドイツを形成することを阻み、自国の活力を強化するために、ドイツを取り込むことを狙って、共同体の枠組みを利用することを考えたのです。そしてドイツはドイツで、二度とヒトラーのような独裁者を、わが身内から生み出さないようにするために、フランスと手を組んで、共同体構想の中で、行動する道を選んだのです。表面的には、何百年にも渡って、対立抗争を続けてきた独仏両国の和解は、感動的で美しいシーンでした。しかし、その内実は、互いに同床異夢を抱きながらの政略結婚そのものでした。ですから、この政略結婚をぶち壊さないことが、欧州にとっての大きな関心事になったのです。そしてこのことは、「ユーロ」の誕生に際しても、貫かれた原則だったのです。こうして1999年に欧州共通「ユーロ」が誕生したのですが、誕生して10年少々という若い通過だけに、現在までのユーロは、ボクシングのサンドバックよろしく、あちこちからパンチを浴びては、激しく揺れ動いているように見えます。その結果、通貨市場の動揺が、ユーロの乱高下を通じて、ユーロ圏諸国の経済をかき乱すようになっている。私にはそんな風に見えます。それでは、共通通貨ユーロのもう一つの側面、金融の側面では、どのようなことが起きているのでしょうか。 続く
2010.12.16
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クロニクル ルーマニア革命始まる1989(平成元)年12月16日1989年は、東欧革命の年でした。その白眉は11月の「ベルリンの壁」の崩壊でした。チェコにおける「ビロード革命」の進展とプラハの春の功労者の復権など、嬉しいニュースが続きました。その1989年の最後を飾ったのが、このルーマニア革命でした。この日、ルーマニア西部の都市・ティミショアラで民衆によるデモが発生。治安警察(セクリタテア)がデモ隊に発砲して、多数の死傷者が出たのです。このデモは、人権活動家で、民衆の信頼厚いテケーシュ・ラースロー牧師の国外退去処分に対する抗議デモでした。この弾圧事件がきっかけとなって、全土に民衆の抗議デモが広がり、20日になると、軍部もまたデモ隊に対する支持に傾き、チャウシェスク独裁に対して、国民と軍とが共同戦線を張って対立する形になったのです。軍の多数がチャウシェスク独裁に反旗を翻した結果、21日チャウシェスク政権は崩壊、逃亡を図った独裁者夫妻は23日に捕えられ、25日に特別軍事法廷で死刑の判決を受け、即日処刑されました。
2010.12.16
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ユーロの憂鬱 (11)1989年11月のベルリンの壁崩壊に、私は腰を抜かさんばかりに驚いたのを覚えています。第二次世界大戦後に、米ソ対立の狭間で民族が分断された国家は、南北朝鮮、南北ヴェトナム、そして東西ドイツの3つでした。このうち、南北ヴェトナムは、大国アメリカの妨害を、堂々と払いのけて1975年に統一を達成していました。次に統一を達成するのは、東西ドイツではなく南北朝鮮だと、私は考えていたからです。それが東欧革命の波が及んだ東ドイツの共産党政権の崩壊が、予想外に早くやってきたのです。壁崩壊から、1年も経たず、東西ドイツは合併しました。1990年8月のことでした。統一にあたって、ドイツは大きな犠牲も払いました。高校生か大学生のお子さんのいらっしゃる方は、歴史地図を開いてみていただくと、一目瞭然になりますが、プロイセン王国の発祥の地であった、旧東プロイセンというドイツ固有の領土を、そっくりポーランドやデンマークに譲って、将来にわたって一切の領土要求をしないと、約束したのです。こんな大きな代償を払うことで、実現したのが90年のドイツ統一でした。そして、この統一ドイツの誕生が、共通通貨の誕生に向けての、フランスの態度を大きく旋回させたのです。この時期までのドイツは、日本と同じく国際政治にほとんど口を挟まない国でした。政治的な発言はほとんどしない、いわば物言わぬ経済大国だったのです。そのドイツが統一ドイツとなり、東欧に向けて勢力を拡大するとなると、これは大変だ。フランスやイタリアは、こうした危機意識を持つようになったのです。これも、歴史地図に鮮やかですが、ポーランドを覗く東欧諸国のほとんどが、ドイツの兄弟国家である旧ハプスブルグ帝国(オーストリア)の版図とほとんど重なっているのです。ドイツのみに勢力拡張の機会を与えてはならない。共通通貨を採用して、ドイツ同様のチャンスを他国にも分かち合ってもらおう。そして同時に、ドイツを共通通貨で統合の度合いを強めた、「統合欧州」の中に留めておこう。そのための役に立つのなら、通貨主権を強く主張することは控えてでも、共通通貨の実現を目指して、通貨統合推進派となることも辞さない。フランスもイタリアも、このように態度を替えたのです。それまでの欧州は、共通通貨導入へ向かうプロセズを、経済統合先行型で行くのか、通貨統合先行型とするのか、喧々諤々の議論を続けていたのです。通貨統合のためには、先ず経済統合を進めなければならないと主張する経済先行派に対し、通貨統合先行派は、通貨を統合してしまえば、半強制的に経済実態は1つに収斂してくると主張していたのです。ベルリンの壁崩壊と、それに続くドイツの統一という大事件がなければ、両派の主張は、現在も延々と続いていたかもしれません。つまり、ユーロという通貨は、経済的な条件が整って、月が満ちるようにして誕生した通貨ではないのです。統一ドイツを、ユーロの中に取り込むという、極めて政治的な意図をもって、誕生した通貨なのです。考え方としては、私は経済統合先行派の主張に1票を投じます、加盟国の経済発展段階が一定の範囲に収斂し、互いに類似した経済体質を持つようになってから、1つの通貨を持つに至るならば、リーマンショック後の経済混乱にも、もっと歩調を揃えて取り組むことが出来たと思うからです。 続く
2010.12.15
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クロニクル 映画『風と共に去りぬ』初公開1939(昭和14)年12月15日今から71年前の1939年は、9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻を契機に、第二次世界大戦が勃発した年でした。米国はまだ戦争に加わってはいなかったのですが、ポーランド侵攻後のドイツは、デンマークから北欧の攻略に向かい、フランスの北部国境地帯に築いたマジノセン沿いに展開して、ドイツ軍を迎え撃つ姿勢を築いた仏英連合軍と、ドイツ軍との戦闘は、まだ始まっていない、奇妙な小康状態が続いていた時期でした。こうした異様な雰囲気が漂う中で、この日、マーガレット・ミッチェルの世界的ベストセラーを原作とした、映画『風と共に去りぬ』が、アトランタで初公開されました。主演がヴィヴィアン・リーにクラーク・ゲーブル、黒人のメイド(女中頭)マミーには、ハティ・マクダニエル、監督はヴィクター・フレミングという顔ぶれでした。映画は3時間42分という大長編でしたが、空前の大ヒットを記録しました。戦争中ということから、日本での公開は遅れ、戦後7年経った1952年9月10日に初公開され、その後、何度も上映されています。因みに私は、中学3年だった1957年に原作を読み、映画を見たのは、1960年代に入ってすぐの頃でした。
2010.12.15
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ユーロの憂鬱 (10) リーマンショック後、ユーロの屋台骨が揺らいでいることは、ご存知の通りです。そのいきさつはもう少し後にして、不揃いのバールの集まりであるEUは、何故ユーロという共通通貨を導入したのでしょうか。ここにはいくつかの理由が考えられます。その1つが20世紀に入って、とりわけ第二次世界大戦後は、経済力の点で圧倒された米国に対する対抗心です。1国レヴェルではとても対抗できないので、統合欧州として対抗しようという、特に欧州大陸諸国の意志でした。ドルに対する円高が話題になると、必ず出てくる歴史的事実に、1971(昭和46)年8月15日に、当時のニクソン米大統領が発表した、金ドル交換停止(ニクソンショックとも呼ばれます)があります。この時まで米ドルは、1オンス=35ドルの固定価格で金と交換することが可能でした。世界中の通貨で、米ドルだけが金と交換可能な通貨だったのです。どの国でも、米国にドルを運んで、金に交換してくれと求めれば、米国は無条件で上記の交換比率で、金に換えてくれたのです。この事実があるからこそ、ドルは通貨の王様として大きな顔が出来たのです。しかし、英仏などの経済回復が進み、西ドイツや日本が目覚しい経済復興を成し遂げると、途上国への多額の軍事援助や駐留経費の負担が重い、米国の経常収支は次第に大きな赤字を出すようになり、遂に米国は諸外国の要求に応じて、ドル札を金に交換することが出来ない状態に追い込まれたのです。金とドルとの交換停止は、体面という点では、米国にとって大きな屈辱でした。しかし、金との交換に応じる義務から解放されたことで、米国は好きなだけドル札を印刷することが出来るようになりました。何の制約もなく、ドル紙幣を自由に刷りまくった米国は、70年代を通じてドルを市場に放出し続けました。いわばインフレ傾向を容認して、経済拡張を追い求めたのです。その結果、各国通貨に対するドルの価値は、傾向的に下がり続けました。こうしたドル相場の不安定は、大きく世界を悩ませました。米国は、ドル相場の行方に対して、我関せずと知らん顔をしている。こうした米国の無責任な通貨政策から、欧州を守るには、どうすべきか。考えようによっては、経済覇権を米国から取り返すチャンスでもある。ここに通貨統合という1つのプランが、浮かんできたのです。しかし、異なる国、異なる経済状況にある複数の国の通貨を統合することは、構想が浮かんですぐに実現に踏み出せるほど、簡単ではありません。そこには参加各国の背中を強く押す。さらに別の要因が必要でした。それが1989年のベルリンの壁崩壊と、それに続く統一ドイツの誕生でした。 続く
2010.12.14
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クロニクル 最後のSL定期運行連写走る1975(昭和50)年12月14日SL(蒸気機関車)、懐かしい響きがありますね。電化の進行によって、次第に姿を消しつつあったSLは、1974年11月に本州から、そして75年3月には九州から姿を消しました。それより早く四国からも姿を消していましたので、この時点でなおSLが運行されていたのは、北海道だけとなりました。その北海道のSLも、35年前の今日、定期列車を運行する最後の日を迎えたのです。この日、「さようならSL」のヘッドマークを掲げたC57によって室蘭本線の長万部 - 岩見沢間の定期列車が運行されて、蒸気機関車牽引の定期旅客列車は姿を消しました。それから10日後の12月24日、夕張線(現在の石勝線)でD51による石炭列車が運転され、本線上から蒸気機関車は、消滅したのです。年が明けた1976年3月2日に追分機関区で9600形による最後の入換え列車が運転され、国鉄(現在のJR各社)から蒸気機関車は全て姿を消しました。現在では、保存並びに観光目的として、数台のSLが各地で細々と保存・運行されています。
2010.12.14
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ユーロの憂鬱 (9)ユーロ圏とEUの現実を、継ぎはぎの巨大ロボットに例えたことに、あたったようですね。コメントだけでなく、メールも何通か戴きました。有難うございました。リーマンショック後の各国の動きを、これから紹介してゆきますが、いずこの国も、自国のことしか念頭におかない、抜け駆け行動に走ったのです。個々のバーツが、手前勝手に走り出したのです。それは、今のEUの状態を冷静に観察していれば、起こるべくして起こった行動でした。不揃いの林檎たちならぬ、不揃いのバーツたちの単独行動を避けたいのであれば、巨大ロボットを当初から継ぎ目なしの、一体のロボットとして成形しておく必要があったのです。アメリカ合衆国も、当初は政治も行政も財政も、州ごとにバラバラでした(現在休載中の『19世紀のアメリカ』の前半部分をご覧下さい)が、時間の経過と共に連邦政府の権限を強化して、事実上の集権国家となってきました。ですから、EUもアメリカ合衆国のように、集権化を進めていたならば、その中での抜け駆けが起きたとしても、そこにはおのずと限界があり、周囲と足並みを揃えざるをえなかったはずです。ですが、EUはそうしていませんでした。EUの海千山千の政治リーダーたちは、資質を危ぶまれるどこかの国のリーダーと違って、そのことは百も承知でした。それでも手をつけられなかったのです。何故でしょうか。EUは継ぎはぎ状態だったからこそ、辛うじて繋がりえた組織だったからです。行政も財政も金融も一元化したシームレス化するぞと宣言しようものなら、EUは間違いなく「一抜けた」の状態よろしく、各国が我勝ちに逃げ出して、崩壊してしまうことを、彼ら彼女らが承知しているからです。いつでも独自行動に出られる継ぎはぎ状態だからこそ、各国は巨大ロボットのバーツになることを、認めていたのです。その道が封じられるとなると、話が違うとばかりに、各国は次々にバーツであることを返上すると言い出すでしょう。そうなってはジ・エンドです。今回のような経済危機の到来時に、手前勝手な行動を取る余地が残されていたからこそ、各国はEU加盟国の座に、留まっていたのです。加盟国であることのプラス面はしっかり享受する。しかし、その逆のマイナス面は、可能な限り拒否する。これが加盟国に共通した考え方だったのです。こうした大きな矛盾を抱えた名ばかりの団結こそが、EUのEUたる所以でした。危機に瀕した現在は、この継ぎはぎ構造に大きな亀裂が入り、EUの存続そのものが、解体してしまうかもしれない危機に瀕していると、言うことが出来ます。EUはこの危機を乗り越え、アメリカ合衆国のような一体成形型を目指せるのでしょうか。そうなればまさに「雨降って地固まる」の如く、めでたしメデタシとなるのですが、今回の各国の行動と、その後のもたつき、意思決定の遅さを考えると、それはどうも難しいように思われます。そして、単独行動が次々に実施された結果、確実に見捨てられているのが、雇用難民たちなのです。彼ら彼女らのために何かするという発想は、今のEUにはありません。そのため今や雇用難民問題は、大きな社会問題として爆発寸前の状態にあります。そもそも、何故EUは慎重な審議もせずに、東欧諸国の加盟を受け入れたのでしょうか。慎重居士のドイツまでもが、何も言わなかったのは何故なのでしょう。それは、ソ連邦解体後の東欧圏で、大規模な難民が発生し、そうした難民の巨大な群れが、大挙してEUに押し寄せることを恐れたからだったのです。それなのに、今やEU諸国は、自らの手でEU内部に雇用難民問題を作り出しているのです。当然EUの政治リーダーたちは、こうした行為が愚行であることを承知しています。承知していながら、問題を解決するための対策を打ち出すことが出来ないでいる。ここに現在のEUが抱える問題の深刻さがあります。 続く
2010.12.13
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クロニクル 『兼高かおる世界の旅』1959(昭和34)年12月13日『兼高かおる世界の旅』という番組、覚えておられる方も多いと思います、日曜日の朝9時からの30分間番組として、TBS系列で全国放送された長寿番組です。まだテレビが白黒放送でしたが、普及率が上がってきた51年前の今日が第1回の放送でした。それから30年10ヵ月に渡る超長寿番組(最終放送は1990年9月30日でした)の誕生でした。番組ではジャーナリストの兼高かおるさんが、プロデュースからリポーター役、さらにはナレーション役まで兼ね、時にはカメラを回すことまで担当していました。全放送回数は1586回、歩き回り飛び回った総延長距離は721万キロメートルに達したそうです。海外旅行が高嶺の花だった時代に、休日である日曜の朝に、庶民にささやかな夢を提供するのが、当初の役割であり、見られ方でした。それが次第に、世界にはこんな所や町があるんだ。いつか行ってみるかといった見られ方に変わっていったからこそ、30年を超える長寿番組になったのでした。放映開始から20年余にわたり、パン・アメリカン航空(PAA)が協賛会社だったのですが、80年代に入って同社の経営が傾きはじめたため、協賛会社はスカンジナビア航空(SAS)に変わりました。また、番組のテーマ曲には、最初の頃は映画『80日間世界一周』のテーマが使われていました。カラー放送開始後も、しばらくは白黒での放送が続きましたが、1967年4月2日放送分から、カラー放送となりました。
2010.12.13
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ユーロの憂鬱 (8)現在の世界は、「グローバル化している」と良く言われます。確かに物、金、人の移動を見ても、この事実は否定しようがありません。その限り、誰もが誰でもと繋がっています。誰かが風邪をひくと、みんなに写ります。風邪をひくのが、どんなに小さな誰かであっても、みんなが繋がっている状況にあっては、たちどころにその影響は増幅されて、みんなに波及していきます。リーマンショック後の状態は、見事にこの事実を示してくれました。これがグローバル化時代の現実でした。世界がグローバル化する以前には、国境が一定の防火扉の役割を果たしていました。今や、その効果は期待できません。そして、世界を覆うこうした状況は、EUという連合体の中では、より強烈に現れるのです。物、金、人にサービスまでもが、EU域内を自由に移動するのです。そしてEUの過半数の国が、ユーロという1つの通貨を共有している。ここでは国境線が何の歯止めにもなりようがありません。ユーロという単一の通貨を共有していなければ、ギリシアにしても、アイルランドにしても、さらにはポルトガルやスペインにしても、独自の為替政策や金融政策で、経済的なショックに対処することもできたでしょう。しかし、ユーロという共通通貨を持つがゆえに、これらの国々に、こうした自由度はまったくありません。ユーロ相場の変動の波に、なすすべなく弄ばれながら、欧州中央銀行(ECB)の金融政策に身を預けるしかないのです。どの国も自前の防波堤を用意して、大洪水から身を守ることは出来ないのです。ユーロという1つの通貨を共有したがゆえに、そこに加わった国々は、一蓮托生の怖さを、今噛み締めているのです。そして、リーマンショック後の状況のなかで、一蓮托生の恐怖を目の当たりにしたユーロ加盟国がとった行動が、また傑作でした。どの国もが、自分のことしか考えられないとばかりに、先を争って抜け駆け行動に走ったのです。そこでは、EUの継ぎはぎロボット振りが、くっきりと浮かび上がったのです。EUは1つの巨大ロボットとして、整然と動くのではなく、個々のバーツ(一国一国)が、てんでん勝手に、わが身のみを守ろうとする方向に動いたのです。 続く
2010.12.12
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クロニクル 韓国で粛軍クーデタ始まる 1979(昭和54)年12月12日31年前の韓国の話です。同年10月26日、朴正煕大統領が暗殺された後の、韓国の政治的混乱の中で、軍内部の派閥争いも激化していきます。そうした中で、いずれも後に軍をバックに大統領職に就くことになる、全斗煥や盧泰愚らを中心としたグループが、参謀総長公邸を強襲して軍事叛乱を起こし、やがて軍の実権を握るに至ります。ここに、韓国民主化の芽はいったん摘まれ、軍部独裁がなお続くに至るのですが、そのきっかけを作ったのが、ここに取り上げた粛軍クーデタと呼ばれる出来事でした。
2010.12.12
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ユーロの憂鬱 (7)EU加盟国で深刻化している移民問題を考える上で、シェンゲン協定の存在を見逃すわけには行きません。シェンゲン協定の出発は、1985年にルクセンブルグのシェンゲンで、フランス、西ドイツ、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグの5ヶ国が結んだ協定にあります。協定参加国の間では、人の移動に一切の制約を設けず、国境でのパスポートのチェックなど、出入国管理もしないことにしたのです。当時は5ヶ国の参加に過ぎませんでしたが、1997年に署名されたアムステルダム条約で、シェンゲン協定はEUの法に格上げされ、加盟国を縛ることになりました。その結果、現在ではイギリスとアイルランドにのみ例外を認めて炒るのですが、全ての大陸の加盟国を網羅し、25ヶ国がこの協定に加わっています。こうしてEU加盟国の住民は、国境を超えて自由に往き来できるようになりました。それだけではありません。EU圏外からやってきた外国人であっても、1度シェンゲン協定加盟国のどこかに入国したなら、そこからEU域内であれば、何処へでも自由に、何の制約も受けずに移動できるようになったのです。例えば、どこかの国がテロリストの入国を許してしまったとしたら、そのテロリストは大陸欧州の中を自由に動き回ることが出来るではないか。こんな大きな問題をどうするのか?と言った批判もあり、検討もされているのですが、シェンゲン協定という枠組みの存在によって、移民労働者の流入や流出が、極めて容易になったことは事実です。こうしてリーマンショックまでの景気好調時には、シェンゲン協定は、不足勝ちの労働力を確保するために、なくてはならない大事な存在だったのです。その典型がスペインでした。住宅バブルと建設バブルの恩恵を受けて、リーマンショック前夜のスペインは、大幅な人手不足に悩み、大量の移民労働者を受け入れていたのです。安月給で働いてくれる彼らは、まさにスペインの企業家たちにとって金の卵だったのです。対象となった労働者は、中欧や東欧諸国の労働者でした。ポーランドやブルガリア、ルーマニアからスペインやポルトガルへ、数多くの若い労働者が、まるで集団就職よろしく出稼ぎに向かったのです。フランスやドイツでも、同じようなことがありました。こうしてEU内部で、東から西へと人が流れる構図が出来上がっていきました。こうした動きが続けば、やがてEU内の東西格差は縮小し、東欧経済も時間と共にしっかりした基盤を築けるだろうと、一時は考えられたのです。しかし、欧州版右肩上がり経済の夢は、一場の夢と消えました。当然といえば当然のことなのですが、どの国も、イザとなれば自国民の雇用を優先します。好調時は金の卵ともてはやされた外国人労働者は、ひとたび経済不振に陥れば、邪魔者でしかありません。彼らは国民の雇用を奪う、厄介者として扱われることになるのです、実際に、リーマンショック後、企業倒産や工場閉鎖が急造したフランスでは、外国人失業者による大規模なデモや暴動が相次ぎ、各地で騒然たる状況が生まれたことが、日本のニュースでも報じられました。企業経営者が、解雇の撤回を求める従業員に拉致、軟禁される事件も、いくつも起きました。生活基盤を奪われた労働者の怒りが、政府以上に身近な存在である企業経営者に向かったからの事件でした。職を奪われ、さりとて国に帰る金もなく、行き場を失った外国人労働者は、まさに雇用難民です。これが今日のEU諸国にのしかかる難問の1つなのです。 続く
2010.12.11
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クロニクル 三井三池争議始まる1959(昭和34)年12月11日1960(昭和35)年は、戦後日本での最大の反政府闘争だった安保闘争の年として、我々世代には記憶されています。そして安保闘争の影に隠れがちですが、この年はまた、総資本対総労働の対決として、共に財界と労働界が総力をあげて支援した三井三池争議の年でもありました。三井三池炭坑は、「月が出た出た 月が出たヨイヨイ 三池炭坑の 上に出た…」と炭坑節にまでなった、日本を代表する炭坑の1つでしたし、三井三池労組も1953(昭和28)年の争議では、会社側の指名解雇提案を、無期限ストで葬り去るなど、各地の労組から一目置かれる労組となっていました。しかし、石炭から石油への燃料革命の進展と共に、各地の炭坑経営は厳しさを増し、三井鉱山も抜本的な経営合理化による、会社再建を目指すことになり、三池労組との対決覚悟の再建案をまとめることになりました。こうして、1959年8月末、4580人の人員削減を伴う再建案を発表、12月の2日と3日にかけて、1492人の労働者に退職を勧告し、これに従わない労働者1278任に対し、51年前のこの日指名解雇を通告したのです。労働者側は、この措置を予測していたので、この日ただちに無期限ストライキの入り、会社への対決姿勢を鮮明にしました。しかし、経営難に苦しむ会社側の経営再建にかける意志は固く、三池鉱山のロックアウトと組合員の坑内立ち入り禁止措置をとってストライキにに対抗しました。両者の激しい睨み合いの中で、年を越した争議は長期化し、総評からのカンパ以外に収入の道のなくなった組合員の生活は、次第に苦しさを増していきました。その結果は、お決まりの組合の分裂です。強攻策一辺倒で出口に見えない執行部の方針に対し、ストライキの継続に疑問を感じた組合員(全組合員のおよそ半数)は、3月17日に第2組合を結成し、ストライキを離脱します。その後は、分裂した組合員間の内輪もめもおきるなど、争議は泥沼の様相を呈して、組合の敗北に終ります。安保闘争の敗北(6月19日の自然承認)から5ヶ月後の11月11日、三井三池労組は無期限ストを解除、闘争の敗北を認めて、終結を宣言したのです。外部から闘争を支援するためにこの地にやってきた人たちの多くは、闘争の敗北が近付くに連れて、次々とこの地を去っていったのですが、谷川雁、森崎和枝夫妻のみは、深い傷を残した三池労組の組合員との連帯の意識から、長くこの地に留まって、やがてこの地を訪れたサルトルとボーヴォワール女史の2人に、日本訪問で最も感銘を受けた出合いであったと、語らしめています。三井三池争議の敗北と、この時期に加速する高度経済成長のうねりの中で、日本の労働運動は、労使対決型の運動から労使協調型の運動に変わっていきます。そしてまた、この運動に対する反省の中から、左翼政党の中で構造改革論が登場し、次第に勢いを増していくことになりました。
2010.12.11
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ユーロの憂鬱 (6)EUの本部は、ベルギーの首都ブリュッセルにあります。ここに欧州委員会と欧州連合理事会が置かれています。ですからブリュッセルにはEUに加盟する各国の外交官、およそ2500人が常駐し、さらにEU直属のEU官僚3万5千人がこれに加わります。欧州議会も本会議は、フランスのストラスブールで開かれるのですが、会議場はブリュッセルにもあります。欧州中央銀行(ECB)の本部は、ドイツのフランクフルトにありますが、ECBの会議は、各国の首都で開かれることが多いようです。ベルギーは小さな国ですが、小さくても複雑なモザイク国家です。南部はフランス語圏に属し、北部はオランダ語圏に属します。しかもこのどちらにも属さない言語を使う地域もあるのです。これらの諸勢力のバランスを上手く取らないと、ベルギーの国家としての求心力は、保てないのです。この構図は、EU自身が現在抱えている問題と見事に重なっています。ブリュッセルには、欧州各地や、欧州を越えた地域からやってきた外国人労働者や移民が、数多く存在します。欧州経済が好調の間は良かったのですが、米国発の金融大乱で、EU経済も変調をきたした今、立場の弱い外国人労働者や移民労働者が、次々にクビキリにあっています。生活に困窮した彼らが、盗みや凶悪犯罪に走ったとしたら、EU社会の内部矛盾は、さらに深刻さを増すことになりそうです。実際に昨年9月のことですが、EU本部附近の路上で、ドイツの欧州議会議員の1人が、2人組の若い男性から、激しい暴行を受け、重症を負った事件が起きました。日本で言えば、霞ヶ関界隈で、白昼堂々と襲撃事件が起きたということです。路地裏の引ったくり事件とはわけが違います。これが手始めだったようです。その後、各国の在ブリュッセル大使館の多くが、強盗に押し入られる被害を受けているのだそうです。EU行政の総本山での犯罪事件の多発。ここに今日のEU,そしてユーロの抱える困難さが透けて見えます。追い詰められた移民たちが犯罪に走り、そのことに市民が念を抱くとすれば、それはEUに対する反発に転嫁しかねません。事実、ベルギーに限らず、ドイツやフランス、そしてユーロには加わっていないイギリスでも、職を失った移民労働者の存在は、大きな社会問題になっています。増加する移民労働者の存在、それはEUの拡大と無縁ではありません。明日はこの点を見ておきたいと思います。 続く
2010.12.10
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クロニクル 壺井栄『二十四の瞳』出版1952(昭和27)年12月10日『二十四の瞳』、原作よりも、木下恵介監督、高峰秀子主演の映画の方ですっかり有名になりましたね。原作では瀬戸内海の島としか記されていない舞台も、誰もが小豆島だと信じているくらいですから…。 その壺井栄さんの小説、『二十四の瞳』が出版され、販売が開始されたのが、58年前の今日でした。小学校4年の私が、家族と共に疎開先の桐生から東京北区に戻ったのが、この年の10月27日のことでしたから、同じ年だったのですね。映画化されたのは、その2年後、1954(昭和29)年のことでした。私が小豆島の岬の分教場を訪れ、子ども達が大石先生を訪ねて、ぐるりと岬めぐりの道を歩いていき、船で送ってもらったのは、あの方向かと、昔の映画を思い出しながら、感慨に耽ったのは、30代半ばの8月のお盆前でした。 波静かなきれいに澄んだ海も、印象的でした。吉祥天さまのお話では、岬の分教場、現在もしっかり残されているそうです。またいつか行ってみたいですね。
2010.12.10
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ユーロの憂鬱 (5)ECB(欧州中央銀行)の初代総裁、ウィム・ドイセンベルグは、「ユーロ圏は静寂のオアシスだ」と、自慢気に話したことがあります。既に鬼籍に入っていますが、彼は欧州の通貨統合の熱心な信奉者で推進者の1人でした。発言の趣旨は、世界の為替市場がどんなに揺れ動こうと、ユーロ県内には、その影響は及ばないという点にありました。1つの通貨を共有するのですから、加盟国の間で為替の変動があるわけではありません。互いに気心が知れているから、政策協調もうまく行く。だから圏外諸国の間で、どんなに為替変動が乱高下しても、ユーロ圏内には影響が及ばない。そこは常に静寂なのだ。ドイセンベルグはこう言いたかったのでしょう。ですから私は、現在のユーロの混乱を見ることなく、黄泉の国に旅立つことになったのは、彼にとって幸せなことだったのではないかと、考えています。おそらく、今頃草葉の陰で、「こんなはずじゃなかった。何故こんな風になるんだ」と嘆いていることでしょう。現在のユーロは、皆さんご承知の通り、存続の危機に立っています。ユーロ圏の国々には、確かに気心の知れた間柄の国が数多くあります。しかし、それは日常のレヴェルのことであって、一皮向けば、種々様々な駆け引きや思惑が、渦を巻いていますし、例えばドイツとオランダ、イタリアとオーストリアのように、歴史的な緊張関係もしっかり根を張っています。無風状態であればこそ、そうした底流が表面化することはないのですが、ひとたび雲行きが怪しくなれば、一挙に表面化してきます。平時に何事もないのは、むしろ当然です。それだけをもって、オアシスだなどと言うことは出来ません。波乱万丈の環境にあっても、波立たないかせいぜい小波で済む状態であってこそ、初めて本当の意味で、オアシスだと言うことが出来るのです。その意味で、現在の試練に耐え、乗り越えることが出来た時、初めてユーロ圏は本当のオアシスになれるのです。果たしてそれは可能なのでしょうか。 続く
2010.12.09
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クロニクル 「のぞみ」の火星周回軌道投入を断念2003(平成15)年12月9日7年前の今日のことです。この日、宇宙科学研究所(現在の宇宙航空開発研究機構の前身)のプロジェクトチームは、日本の火星探査機「のぞみ」の火星周回軌道投入を断念しました。火星軌道に乗せるための逆噴射がうまく行かなかったのですね。プロジェクトチームは、「のぞみ」が火星に衝突することを避けるために、最後の賭けとして、「のぞみ」に弱い噴射を行うコマンドを送信、これには成功して、「のぞみ」は宇宙を漂流することとなりました。火星の探査には失敗しましたが、飛行中の通信で獲得できた成果も多く、失敗から学ぶこともまた多々ありました。それから7年、金星探査機「あかつき」の金星軌道への投入も、残念ながら失敗に終りました。こういう研究開発は、学問の進化と共に産業の高度化にも大いにプラスになるのですから、こせこせした仕分けの対象などにせず、将来への投資としても、続けて欲しいものですね。研究チームに大いに激励したい衝動に駈られている神父でした。
2010.12.09
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ユーロの憂鬱 (4) 現在のEU加盟国は全27ヵ国、うちユーロ参加国は16ヵ国に及びます。参考までに加盟国を列挙してみましょう。先ずEU加盟27ヵ国中のユーロ導入16ヵ国は、ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグの原加盟6ヵ国に加えて、スペイン、ポルトガル、オーストリア、ギリシア、フィンランド、アイルランド、スロバキア、スロベニア、マルタ、キプロスの10ヵ国です。話題のPIIGS諸国に加えて、旧東欧圏の国や、地中海の島国までもが、構成メンバーに入っています。一方共通通貨ユーロを導入していないEU加盟国は、イギリス、スウェーデン、デンマークの3国に、エストニア、ラトヴィア、リトアニアのバルト3国、そしてポーランド、ハンガリー、チェコ、ブルガリア、ルーマニアの東欧圏5カ国です。こうしてみると、経済規模や経済発展段階の点で、大きな開きのある国々の寄り合い所帯であることが、明瞭に読み取れます。この点は、ユーロの導入国だけに限っても、変わりがありません。経済状態が大きく異なる国々が、既存の自国通貨を放棄して、ユーロという共通通貨を導入したのです。1999年のことでしたから、ユーロは導入10年にして、大きな危機に直面したことになります。慣れ親しんだフランスフランやドイツマルク、オランダギルターを捨てるという、大きな決断がそこではなされました。アメリカドルに匹敵する通貨を、創り上げるんだという、大陸欧州のドルに対する強烈な対抗意識を、当時の私は感じ取りました。恥ずかしい話ですが、当時の私は、独仏などが通貨主権を手放し、共通通貨に群れ集うことなど、とても出来ないだろうから、この話は最終段階で壊れるだろうと、予測していました。ところが、阿にはからんや、様々な条件をクリアして、ユーロの導入は予定通りに進んだのです。そこで私は、特に独仏両国に共通する意識として、米英というアングロサクソン連合に対する、強烈な対抗意識の存在を軽視した非を、悟る破目になったのです。こうして、昨日のno,(3)に記したように、困難な問題は先送りし、合意できる範囲でまとまっていくという独自の方法で、EUの加盟国は広がり続け、共通通貨の加盟国も16ヵ国に達したのです。ですから、共通通貨ユーロは、参加国の合意に基づいて、人為的に合成された通貨なのです。こうした通貨を、複数の国々が共有することは、過去にはありませんでした。共通通貨としてのユーロは、まさに不揃いな部品を寄せ集めて作った細工品(例えばロボット)に例えることが出来ます。しかも、部品の1つ1つが国家なのですから、部品自身も独自に動くことの出来る、ロボットとしての特性を持っているのです。足並みが揃っている時には、目立たないのですが、一朝問題が起きれば、部品の役割を担う単体ロボットたちは、大型ロボットのバーツという役割など無視して、夫々勝手に動きまわってしまいます。今のユーロは、まさにそうした危機に立っているわけです。統合欧州は、こうした極めて危なっかしい均衡状態の上に、成り立っているのです。そこに、米国発のサブプライムショックという大津波が襲い、さらにリーマンショックというより大型の大地震が追い討ちをかけたのです。 続く
2010.12.08
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クロニクル 新宿コマ劇場開場1956(昭和31)年12月8日54年前のことです。日米開戦の1941年から、ちょうど15年。『経済白書』が「もはや戦後ではない…」と書いてから1年。盛り場の賑わいも戻っていた頃ですね。新宿歌舞伎町の外れに、コマ劇場が建設され、本日めでたく開場の運びとなったのです。コマ劇場は、演歌の殿堂として名を成し、演歌歌手は、いつかコマ劇場の客席を埋め尽くしての、リサイタルや座長公演を行なうことを夢見て、修行に励むことで、知られました。また「アニーよ銃を取れ」「努力しないで出世する法」「南太平洋」など、コマ劇場を日本での初演の地に選んだミュージカルも、少なくありません。ドリームジャンボの抽選会の開場にも使われていましたね。そんなコマ劇場も、次第に大入りの続く人気公演が少なくなり、業績の悪化から、2年前2008年12月31日、「第41回年忘れニッポンの歌」の生中継を最後に、取り壊されることになりました。しかし、歌舞伎座と違って、コマ劇の跡地は、未だ再開発のメドが立っていません。
2010.12.08
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ユーロの憂鬱 (3) 今日までの欧州統合の歩みを振り返ると、常に難しいテーマを避けて、比較的まとまりやすい所にだけ焦点を絞って、統合の成果をあげてきたことが、実に良く分かります。意見がぶつかり合い、一致点を見出すのが困難なテーマは、慎重に回避して先送りし続けてきたのです。それでほころびが出ない限り、大変合理的な対応だと言えるのですが、どこかで壁にぶち当たり、問題が噴出することは避けられませんから、こうした対応にも限界があります。現在がまさに、その時というわけです。例えば、経済統合を見ますと、域内関税の撤廃や共通関税の創設などを手始めに、徐々に何度の高い問題に取り組む形で進んできました。通貨統合に関しては、ECB(欧州中央銀行)の創設や単一金融市場化の推進は、比較的取り組みやすいテーマでした。一方で積み残された金融監督の一元化や財政統合などは、遥かに何度の高い問題であるがゆえに、ずっと先送りされ続けてきました。政治的意志としては、何としても欧州統合はやり遂げたいので、失敗は許されないのです。しかし、どの国も国家主権を統合欧州に委譲する気はありません。そのため金融監督や財政自主権を手放すことは、認めがたいのです。しかしながら、金融と通貨の統合にまで進んできたEUにとって、統合を進めやすいテーマは、既にし尽くしてしまっています。残されたテーマは、金融監督や財政自主権、そして欧州憲法など、各国の合意が得にくい問題ばかりなのです。その意味で統合の求心力は失われつつあります。そしてもう一つ、EUにとって深刻なのは、戦後間もなくの時期と違って、現在のEUには、政治的な信念をもって、EU統合を引っ張ってゆこうという、政治的なリーダーシップをとる人物がどこにも見当たらないことです。フランスのサルコジやドイツのメルケルには、かつてのド・ゴール仏大統領やアデナウアー西独首相のような、強い統合への意志と願い、そして強力なリーダーシップの持ち合わせはないようです。合意の困難な問題ばかりが残されている状態で、強力なリーダーシップを発揮できる人物もいないとなれば、欧州統合の前途に疑問符がつくのは、むしろ当然ということになります。 続く
2010.12.07
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クロニクル 東京タワー プレオープン 1958(昭和33)年12月7日東京スカイツリーの建設が、大詰めを迎えつつあるこの頃ですが、52年前の今日が、東京タワーのプレオープンの日でした。着工は、前年1957年の6月でした。地鎮祭が行われたのが、6月の29日、定礎式が同年9月21日に行なわれています。これだけの建物が1年少々の期間で作られたのですから、驚きです。塔頂に80mのアンテナを取り付け、工事が竣工したのは、58年10月14日のことでしたから、地鎮祭から1年3ヵ月半で完成したのですね。その後、最後の点検が行なわれて、52年前の今日がプレオープン。完工式が12月23日に行なわれて、この日が正式オープンとなりました。一般公開は翌日のクリスマスイヴ、午前9時からとなりました。粋なクリスマスプレゼントといえそうですね。この年は、4月にジャイアンツから長嶋選手がデビューして、プロ野球人気が沸騰し、11月には皇太子(現天皇)の婚約が発表され、そして12月に東京タワーのオープンと、めでたい1年になったのでした。60年の池田内閣の登場で本格化する、高度経済成長の助走が始まった時期が、まさにこの頃だったのです。
2010.12.07
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