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世界経済の現状(168) 1995年に1ドル=79円の最高値をつけていますが、その前年94年に1ドル=85円の時期がありました。2005年を100として比べると、現在の為替レート1ドル=85円は、102程度なのに対し、94年当時は150近くをを示しています。つまり、現在はなお、94年当時に比べ、3割以上も円が安い水準にあります。念の為。購買力平価を考えて見ましょう。この考え方は、世界各国で共通の商品を例えば100ドルならどれだけ買えるか、100ユーロならどれだけ買えるか、100元ならどれだけ買え、1万円の場合はどうかなどを比較するものです。そして購買力と比べて、実際の為替レートは妥当なのか、どちらかが割安なのかを見るのです。この購買力平価を検討する上で、最も気をつけるべき点は、世界各地に同じように愛好されている世界商品を見つけることにあります。ただし、原油のように、政略や戦略に利用され、投機の対象にもなるような商品は、世界商品であっても利用できませんから、注意が必要です。そうした点で、現在最も良く利用され、その信頼性について一定の評価がなされているのが、世界展開に成功したハンバーガーショップ、マクドナルドの戦略商品ビッグマックです。ロンドンエコノミスト誌が開発したビッグマック指数を覗いてみましょう。話を単純化するために、米ドルと円を比べてみます。現在米国でのビッグマックの価格は1個3,73ドル、日本では320円です。従って1ドル=85円程度で推移する昨今の為替相場は、ビッグマック指数からすると当面妥当であることを暗示しています。しかし、ここで問題があります。日本マクドナルドは、先ごろ大都市圏限定、1週間限定と銘打って、先ごろビッグマックを1個200円に値引きして販売していました。同社は、新しいサービス、新しい料金体系を導入する際、先ずは期間限定サービスとしてテストし、結果を見て判断するクセを持っています。ですから、日本におけるビッグマックは、近く何がしかの値下げが行なわれる可能性が高いのです。1個200円は極端だとしても、1個250円に値下げすることは、十分ありうるように思います。とすると、1ドルは67円となります。因みに1個200円となると、54~55円ということになります。EUや米国の経済状況は、ずっと指摘してきたようにかなり深刻で、ドルとユーロは円に比べて信認を得られていないからこその、現在のドル、ユーロ安は、円の相対的価値をずっと高めてきています。対ドル、対ユーロで、円が史上最高値を更新する可能性は、非常に高いと私は考えています。それでも日本の輸出企業は十分耐えていけるはずです。円高は日本にとって、とても良いことなんですが… この稿 なお続く追記 昨日同じような時間に8割がた既述したところで、誤ってESCキーを押してしまい、全てが消えてしまい、1日遅れになりましたことお詫びします。 ザビ
2010.08.31
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19世紀のアメリカ(111) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…17 ネ・ベルゼ族の酋長ジョセフは、直訴のために訪れたワシントンの議会で、次のように訴えました。「この大地は、全ての人間の母であり、そこに住む全ての者は、平等の権利を持っている。そう白人の先人たちは語っています。自由に生まれた人間が、囲いの中に押し込められ、好きなところへ行く自由を、取り上げられてもなお幸福でいられるとしたら、川だって逆に流れることだろう。」「柱に繋がれたままの馬が肥え太るだろうか。わずかばかりの土地にインディアンを押し込め、そこに留まるように強制するならば、インディアンは決して満足しないし、成長し繁栄することもないであろう。私は白人の大酋長達に、『白人は自由気ままに動き回っているのに、インディアンは一箇所に留まっていなければならないと命じる権限は、どこから得たものか?』と、尋ねてみた。誰からも答えはなかった。」「私が政府に求めるのは、『我々インディアンを、他の人々と同じように扱って欲しい』と、言うことだけだ。どうしても、自分の土地に行ってはならないのなら、我々の一族がこれほど次々と亡くならずに済む土地を、どこかに与えて欲しい。私の希望としては、ビター・ルートの谷へ移りたい。あの土地でなら、我々の一族は健康でいられるだろう。現在の土地では、我らの仲間は死にかけている。私が、ワシントンを訪れるために、キャンプを出てから、既に3人が死んでいる。」「我々の現状を思うと、私の胸は張り裂けそうになる。我らの仲間たちは、無法者として扱われ、この地からあの地へと駆り立てられたり、動物のように撃ち殺されているのです。」「私の種族が、変わらなければならないことは、分かっています。今のままでは、あなた方白人に対抗できない。我々が求めているのは、他の人々と同様に生活するための、平等の機会を与えて欲しいと、いうことだけだ。そして、我々を人間として認めて欲しい。全ての人間に、同じ法律を適用して欲しい。インディアンが法律を破った場合も、リンチではなく法律に基づいて処罰してほしい。そして白人が法を破った場合も、同じように処罰してほしい。」離し終えたジョセフに、議場は大きな拍手を贈りました。しかし、彼らの願いは叶えられず、僅かな指定居留地の拡大しか、実現しなかったのです。 続く
2010.08.31
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クロニクル ジュリアナ東京閉店1994(平成6)年8月31日もう16年になるのですね。ディスコのメッカ、ボディコン姿の女性たちの憧れのお立ち台で一世を風靡した、ジュリアナ東京が、この日閉店しました。ジュリアナ東京の営業開始はバブル崩壊後の、1991(平成3)年5月15日でしたから、わずかに3年4ヶ月弱の営業だったのですね。
2010.08.31
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19世紀のアメリカ(110) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…15 オレゴンの山間地に住むネ・ベルゼ族は、争いを好まない、平和的な集団として知られていました。そんなネ・ベルゼ族の生活空間にも、土地獲得に血眼になった白人達が、勝手に入り込んできたのです。酋長のジョセフは、それでもなお、白人との争いを避けようと、故郷を捨てて移動する事で、平和を維持しようと考えました。彼は一族の戦士や女子どもに老人まで、約700人を率いてオレゴンからモンタナ、さらにアイダホ、ワイオミングを経て、再びモンタナへと、総延長3,200kmに及ぶ、見事な逃避行を行なったのです。この間75日間の逃避行の末に、1877年力尽きたジョセフの一行は、白旗を掲げたのです。その後は、インディアンの指定保留地に、押し込められる生活を続けたのですが、やがて、白人の進出は指定保留地をも脅かすようになり、丁度20年後の1997年ジョセフは、再び行動を開始したのです。と言っても平和を好むジョセフの取った手段は、首都ワシントンに出かけて、大統領に直訴することでした。彼の行動は、ワシントンの議会人や新聞人に感動を呼び覚まします。議会は彼に議場で議会に対する陳情の機会を与えました。そして、マスコミはm、彼の演説を紙面を割いて伝えたのです。明日は、ジョセフの演説の要約を記すことにします。 続く
2010.08.30
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クロニクル YS11初飛行1962(昭和37)年8月30日48年前のこの日、戦後初めての日本の国産飛行機YS11の試作1号機が初飛行に成功しました。製造元は日本航空機製造です。同社は運輸省の肝いりで、三菱重工、川崎重工、富士重工、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機、住友精密の7社が協力して出来た会社でした。その後、改良を重ね2年後の東京五輪の際には、日本に運ばれた成果を日本国内各地に運ぶ役割を果たし、全日空はその後導入した全てのYS11機を、オリンピアの愛称で呼ぶことにしました。1965年から量産体制に入り、海外からの受注も好調でしたが、71年の円切り上げとその後の変動相場制への移行で、多額の為替差損を出したこと、運輸省からの天下りが多く、経営の機動性に欠けた事から、多額の赤字を抱えて、生産から撤退。会社は解散に追い込まれました。
2010.08.30
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世界経済の現状(167)1995年の1ドル=79円の実効為替レートは、2005年を100とした時、150程度と大変な円高を示しています。これに対して今年8月の1ドル=85円は、102程度とほとんど横這いです。決して円高と言える水準ではありません。同じ80円前後のレートにありながら、実効レートは大きくことなっていることが分ります。もう一つ例を出しておきましょう。これはIMFの資料を、ロンドンエコノミスト誌が、加工したものです。それによると、過去20年間(1991~2010年)の円の実効為替レートの平均値は、ここでも2005年を100とした時に、110前後を示しているのです。ここから、現在の1ドル=85円に対応する実効為替レート102は、過去20年間の実効為替レートの平均値よりも、なおかなりの円安水準にあることが分ります。理由は簡単です。1995年以降、ITバブルや住宅バブルなどを経験したアメリカ経済は、2008年の住宅バブルの崩壊まで謳歌し続けました。その間の物価上昇の合計は、年平均2%としても、18年で36%に達します。これを1995年と2010年で比べると、15年で45%程の上昇率に成ります。これに対し、バブル崩壊の後遺症に悩んだ日本は、この間ゼロ成長やマイナス成長を続け、物価も緩やかに低下しました。日本の物価は合計で5%近く下がっているのです。この15年間で日米の価格差は50%近く拡大したのです。アメリカでは物価は上昇し、日本では下落したのです。それゆえ、1ドルが85円になったからと、単純に騒いでも意味はないのです。 明日に続く
2010.08.29
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19世紀のアメリカ(109) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…15シティング・ブルとスー族が戦場を去った後、インディアンの抵抗はアパッチ族に引き継がれました。アパッチ族は、アリゾナを根拠地としながら、シェラマドレ山脈から、ロッキー山脈にかけての山岳地帯を縄張りとする、山岳狩猟民で、バッファローを主食としていました。ジェロニモは、アパッチ族の酋長ではなかったのですが、狩猟民のアパッチ族にあっては、狩りの指揮官は、時に酋長を凌ぐ力を持ったのです。勇敢で常に狩りの先頭に立ち、若者の面倒見も良いジェロニモは、部族の支持を集めていたのです。アパッチ族は、メキシコとの国境を超え、メキシコ北部の牧場地帯まで、悩ましていたため、メキシコ軍と米軍は、互いに情報を交換しては、ジェロニモ逮捕を目指したのですが、山岳地帯の地理に明るい、ジェロニモの部隊を捕捉することは出来なかったのです。アパッチ族との、いつ終るともしれない戦いは、1850年代の末から20年以上も続けられました。ジェロニモたちアパッチは、1858年にメキシコ北部の州政府の和平の申し出を信じ、部族の仲間達300名以上(その多くは、老人や女子どもでした)を殺された経験があり、休戦の申し出でおびき寄せる、いつもの手段には、全く引っかからなかったのです。困った騎兵隊が実行に移した最後の手段が、アパッチ族の主食バッファローの絶滅手段でした。騎兵隊は、西部各地の荒くれ者を集めて、バッファロー1頭に付きいくらと、バッファローに懸賞金を懸け、アパッチ族を兵糧攻めにしたのです。草原のバッファローは見る見るうちに激減し、さすがのアパッチの勇者も、これには参りました。1886年投降を決意したジェロニモは、老人、おんな子ども達の、指定居留地での安全な生活を見届けた上で、騎兵隊に投降したのです。その後ジェロニモは1909年まで行き続けます。「虜囚」の立場にある自分は、白人の要求に従うとばかり、指定居留地内のインディアン物産店の一郭に、虜囚ジェロニモとして毎日立ち続け、自ら手先の器用さを生かして作った木工品を客に販売して生計を立てたのです。そんなジェロニモの姿は、心ある白人の感動を誘います。「ジェロニモの目は敗者のそれではなく、インディアンを見物する白人の驕りを哀れむように、我々を観察している。彼は先住民の誇りを失ってはいない」と。囚われの身にありながら、彼はインディアンの誇りを失うことなく、生き続けたのです。 続く
2010.08.29
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クロニクル ツェッペリン号世界一周に成功1929(昭和4)年8月29日2ヵ月後には、アメリカ発の世界恐慌が始まる。81年前の今日は、そんな時期でした。そんな中で、この日、ドイツの飛行船LZ 127(ツェッペリン伯号)が22日間での世界一周飛行に成功し、帰還しました。
2010.08.29
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世界経済の現状(166)民主党の代表戦でも、円高対策が話題となっているようですが、現在は本当に円高なのか?と、ちょっと疑ってみませんか。皆さんもお感じになっていると思いますが、初任給が1万円程度だった時代の1万円と、18万円程度の時代の1万円は、同じ1万円でも、持っている価値は違いますね。その間物価が違ってきているからです。ですから、名目的に1ドルが85円程度となり、1995年の史上最高値79円に迫っているという数字をそのまま信じては間違えてしまうのです。これが数字のトリックです。実際に1ドルで何が買え、85円で何が買えるかを比べてみる必要があるのです。これを購買力平価と言います。この購買力平価を基にして計算した実効為替レートで考えると、次のようになります。これはIMFが調査したものです。その中のドル・円の部分を抜いてみます。IMFは2005年を100として、計算しているのですが、この場合2010年8月20日時点の実効為替レートは102となっており、2005年の水準とほとんど変化がないのです。ちなみに2005年当時の円相場は1ドル110円から120円程度でした。それなのに1ドル85円の現在と、購買力の点では、ほとんど差がないのです。ちなみに実効為替レートは100を超えると円高を意味し、100を切ると円安を意味します。IMFの計算では、2005年当時の80円割れの水準では、2005年基準の実効レートは、150近くにまで急騰しています。当時の80円割れの水準は、現在の水準に比べると、はるかに円高だったのです。何故、これほどの違いが出てくるのでしょうか。明日はその点を記したいと思います。
2010.08.28
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19世紀のアメリカ(108) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…14 コロラド州の草原は、アラバホ族とシャイアン族の生活圏でした。2種族はサンド・クリークと呼ばれる指定保留地に押し込められ、大きな不満を持っていました。不穏な情勢を察知した陸軍は、彼らを力で抑え込もうと、騎兵隊の増強を図りました。怒った先住民が駅馬車を襲ったのを口実に、陸軍は一斉攻撃を計画します。連邦政府と議会の方針を知る州知事は、穏健派のインディアンに対し、抗戦前に陸軍の砦に避難するように勧め、約300人のインディアンが勧告に応じました。しかし、陸軍は知事の命令を無視し、この300人を皆殺しにしたのです。怒ったアラバホ族とシャイアン族に、スー族も加わり、3種族はスー族のシティング・ブルを指揮官に選んで、共同の復讐戦を決行することを誓ったのです。シティング・ブルは約2千人の騎馬隊を編成して、モンタナ州のロッキー山麓で、対騎兵隊戦の徹底した訓練を行なったのです。南北戦争後の10年間で、隊インディアンの戦闘は、約200回が記録されているのですが、その中にカスター連隊の全滅の記録も残されています。1874年、サウスダコタのスー族の指定保留地ブラック・ヒルズで金鉱が発見されました。当然白人の立ち入りが禁止されてる地域ですが、欲に目のくらんだ白人達が次々に白人の法を無視して、入り込んできます。当然の権利としてスー族は、次々に闖入者を銃や矢で殺害します。騎兵隊は、シティング・ブルとその部隊の討伐を考えます。1876年6月のことでした。司令官のテリー将軍は、カスター中佐を隊長とする騎兵第7連隊に、スー族の背後からの攻撃を命じました。位置についたカスター連隊は、本隊の行動を待たずに行動を開始し、逆に百戦錬磨のインディアン騎馬隊に包囲され、殲滅されたのです。テリー将軍の本隊が駆けつけた時には、シティング・ブルの本陣は退却した後で、カスター中佐以下、264名の兵士の死体が横たわっているだけだったのです。騎兵隊とシティング・ブルとの戦いはその後も続きましたが、騎兵隊は遂に彼を捉えることが出来ず、5年後の1881年、遂に自ら申し出て彼と和解する道を選びました。 続く
2010.08.28
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クロニクル トヨタ自動車工業株式会社創立1937(昭和12)年8月28日この年7月には、盧溝橋事件を起し、日本政府は日中全面戦争へ突入しています。それから1ヶ月余、トヨタ自動織機製作所は、社内の自動車部門を切り離して独立させ、トヨタ自動車工業を設立しました。トヨタ自動織機製作所は、1933年9月に自動車部門を開設、35年には実際に自動車の製造をはじめ、その集大成として、73年前の今日、自動車部門を本隊から切り離し、独立したのです。
2010.08.28
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19世紀のアメリカ(107) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…13 大草原への白人の進出は、草原インディアンとの間に、激しい対立を生みました。自分達の生活の場、平穏な暮らしの場を奪う白人の行動が、忍耐の限界を超えた時、大草原のインディアンも抵抗に立ち上がったのです。ひとたび抵抗を決意すると、大草原での狩りを得意とする平原インディアンの抵抗は執拗で激しいものでした。アメリカの西部劇でお馴染みのスー族、コマンチ族、シャイアン族、アパッチ族などが、夫々の居住地域で戦いを継続しました。連邦政府や議会は、先住民インディアンとの友好関係の構築を望み、そのための努力もしつつあったのですが、現地に派遣された騎兵隊は、連邦政府の意向を無視して、インディアン狩りに精力を傾注したため、白人とインディアンの関係は決定的に悪化したのです。自分達の生活圏に入り込み、危害を加える白人に対する反感から、インディアンは時に駅馬車を襲い、時に白人の集落を焼き討ちしたりする挙にでます。それは、白人の行為に対する報復なのですが、騎兵隊は近くのインディアンの集落を襲って、焼き討ちするだけでなく、女子どもを皆殺しにする、残虐な報復をして、益々インディアンを怒らせてしまうのです。南北戦争中の1862年、ミネソタのスー族が叛乱に立ち上がりました。その理由は、当地のインディアン事務局が、スー族を騙して彼らの良質な土地を、条件の悪い劣悪な土地と言葉巧みに交換してしまうという、裏切り行為を侵したからでした。スー族は次々に白人の集落を攻撃し、いくつもの集落を焼き払い、住民を殺害しました。米国陸軍は、何度も騎兵隊を増派し、5週間後にようやく鎮圧に成功しました。この事件をきっかけに、西部各地に対インディアン戦争が、広がっていきました。 続く
2010.08.27
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クロニクル 映画フーテンの寅さん誕生1969(昭和44)年8月27日寅さん41歳なんですね。1969年といえば、東大の安田講堂に籠城する学生の排除に機動隊が導入されたり、なお全国的に全共闘運動が広がっていた年でした。そんな夏休み中の本日、山田洋二監督作品の松竹映画、「男はつらいよ」シリーズの第1作『男はつらいよ』が公開されました。以後1995年までに、全48作のシリーズとなる大ヒットとなりました。
2010.08.27
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政治を斬る(118) 8月3日以降、しばらく休載していましたが、小沢前幹事長が総裁選に出馬するという報道に接して、呆れてしまいました。出馬要請があるという報道で、これはポストを巡る駆け引きだなと、踏んでいたのですが、どうやら全面的な党内政争になったようですね。政治の要諦は、いかに敵を少なくし、味方を増やすかにあります。消極的な反対者は中立に、中立の人は味方に引き入れ、反対者を少なくし孤立させる。これが大事ですね。そのためにポストや名誉などなど、政治権力が用意できるものが、徹底的に利用されます。しかしながら,菅首相は小沢グループの処遇を拒否しました。味方を増やし、敵を減らすという権力闘争の要諦をあえて無視した恰好です。小沢グループは妥協をチラつかせてきたにも関わらず、これを拒否した恰好です。検察審議会の議決が決着していない段階にあるだけに、小沢出馬に対するマスコミと世論の反応は厳しいでしょう。選挙地磐の固まっていない若手議員にとって、世論の反発が必死の小沢支持は打ち出しにくいところです。そこを見込んで、強気に出たのでしょうが、問題はその先です。小沢、鳩山の両グループに、2人以外に代表候補(=首相候補)がいないことが分ったことが一つです。それ以上に、菅首相は、小沢グループの提案を拒否し、全面戦争を仕掛けたのですし、小沢グループは受けて立ったことになります。今後、熾烈な票の取り合いが行なわれるのでしょうが、私はそこには関心がありません。代表戦後の民主党は、おそらく分裂に向かうでしょう。時期が年内かどうかは分りませんが…代表戦の結果よりも、菅VS小沢の全面戦争から、民主党の分裂hのシナリオに私は興味津々です。 続く
2010.08.26
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19世紀のアメリカ(106) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…12 中西部から開拓の進む大草原地帯(80年代には、大西部と呼ばれました)にかけての、農業の様子を見てみましょう。大草原の自然環境は相変わらず厳しく、入植農民の生活は大変厳しいものでした。それでも乾燥地に適した小麦品種が導入されるなど、次第に乾燥地農業の生産性も上昇していったのです。1880年における米国の輸出産品を見ますと、原綿、小麦、トウモロコシ、食肉などの農産物輸出が全体の85%を占めて、15%程度の工業製品を圧倒しています。農産物のなかでは、食肉などの加工食品が1億9300万ドル、南部特に低南部に特化した原綿などの原材料が2億4300万ドル、そして小麦、トウモロコシなどの未加工食品が2億6600万ドルとなっています。このうち、食肉、小麦、トウモロコシなどは、西部地域で生産されたものが、大部分を占めていました。生存環境が厳しく、地下水汲み上げ用の風車ポンプをはじめ、農業機械の導入が欠かせなかったこと、厳しい自然環境に共同で立ち向かう必要があったことなどから、この地域では、グレンジャー運動と名付けられた、中小農民の相互扶助運動が組織され、70年代半ば以降、急速に広まってゆきました。運動の支部は、村々に組織され、地域農村を単位とした共催運動を推進したのです。それは農機の共同購入と共同管理の組織作り、共同の穀物倉庫の建設と運営、家畜販売(食肉用)などの出荷事業の共同化から、共同出資による作物や家畜の品種改良などを、実践したのです。そんな中でグレンジャー運動が最も力を注いだのが、農業経営の多角化でした。小麦の単作とせず、豚の飼料となるトウモロコシも大いに栽培して、養豚にも力を注ぎ、さらに都市の消費市場を目指した大豆や野菜の栽培も組み入れたのです。こうした農業経営の多角化によって、特定の農産物の過剰生産による価格下落や、不作による被害を小さくし、農家経営の安定に寄与したのです。 続く
2010.08.26
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クロニクル さよならお化け煙突1964(昭和39)年8月26日東京足立区の、東京電力千住火力発電所にあった4本の煙突、電車に乗っていると良く見えました。高層ビルなど、まだまだの時代、視界をさえぎるものなどなかった時代です。電車が走るにつけ、見る位置が替わり、煙突は2本に見えたり、1本に見えたりしたのです、そこからついた渾名が「お化け煙突」でした。その「お化け煙突」、今はありません。東京オリンピックの都市ですから46年前のことです。前年に完成した豊洲の新型火力発電所が、営業運転を開始すると同時に、旧型炉の千住発電所は運転を中止(63年5月)していました。そして、46年前の今日、遂に取り壊されたのです。
2010.08.26
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19世紀のアメリカ(105) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…11 巡回販売のセールスマンは、行商人と共に、新しい商品と共に、情報の運び屋でもありました。彼らは衣料品や食品、農機具から食器、家具、さらには宝飾品までのカタログや見本を配り、農村地域の注文を集約すると共に、売れ筋商品の情報を本社に送ります。本社は本社で、注文品や齎された需要予測を生かして、必要な商品を地域地域に送り届ける手配を整えるのです。こうして、1880年代には、全国的な流通体系が整えられるようになったのです。ところで、こうした流通の変化は、農村だけに起こったわけではありません。人口密度の高い都市の変化は、さらに大きなものでした。一応人口が2,500人を超える地域が、「都市」とされるのですが、1880年の米国では、農村人国は3602万人と全人口の70%強を占めていたのに対し、都市人口は1413万人と30%弱に留まっていました。しかし、人口が2万人を超える本格的な都市は99都市を数え、さらに人口7万5千人以上の大都市も、23都市を数えていたのです。こうした大都市のなかでも、傑出して大きかったニューヨークの人口は、1870年頃に既に133万人に達していたのです。そのニューヨークの中心街に、ローランド・メーシーが、メーシー百貨店を開店したのは、1870年代の1870年代始めのことでした。また、シカゴのモンゴメリー・ワード社が、1887年に作成した通信販売用カタログは、全540ページに及ぶ分厚さで、総計2万4千点もの商品を紹介していたのです。 続く
2010.08.25
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クロニクル チキンラーメン発売1958(昭和33)年8月25日発売から52年になるのですね。52年前の今日、日清食品は「チキンラーメン」を発売しました。これが世界最初のインスタントラーメンの発売でした。内容量85gで、価格は35円でした。
2010.08.25
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19世紀のアメリカ(104) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…10米国における工業化の発展は、東部や中西部の工業都市へ、牛や羊そして豚などの乳製品や肉類、さらには農産物といった西部地域の産物への需要を高め、大西部に商業的農業を発達させ、さらには鉄道建設に道を開いたことは、既に指摘しました。そのことは、大西部の中小農民の手元にも、農産物の販売代金という形で、現金が蓄えられるようになったことを意味しました。東部や中西部の商業資本は、このチャンスを見逃しませんでした。大西部に限りませんが、地方都市から離れた農村地帯の村々に、今ならセールスマンと呼ばれるであろう、新しいタイプの職業人が、頻繁に訪れるようになったのは、南北戦争の終了後間もなくの頃からでした。東部ではニューヨークから、中西部ではシンシナティ、シカゴ、、セントルイスといった大都市からやってくる、卸売業者の巡回販売員は、以後20世紀に至る頃まで、合衆国の農村地域に、なくてはならない役割を果たした人々でした。彼らは鉄道を使い。担当地域の最寄り駅まで出向き、そこからは馬車を利用して担当の村々や小さな町を巡り、村や町に1軒だけのことが多い、ヨロズ屋風の小売店を訪問するのです。彼らはこうした小売店に、カタログを配り、同時に今までの注文をまとめて、電信を使って本社に連絡するのです。今風に言う、カタログ販売、通信販売は、大西部という広大な地域に散在する村々の需要をまとめる方法として、誕生したのです。 続く
2010.08.24
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クロニクル ポンペイ最後の日79年8月24日日本では弥生時代前期でしょうか。卑弥呼の時代から遡ること、さらに200年の時代です。現在から見れば、1931年も前のことになります。この日、イタリアのヴェスヴィオ火山が大噴火を起し、吹き溢れた火砕流や泥流で、大都市ポンペイは、完全に埋没してしまいました。そのポンペイの遺跡は18世紀末から、発掘が行なわれ、現在は主要部の一郭が、有料で公開されています。
2010.08.24
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世界経済の現状(165)ヨーロッパ経済は、ギリシア問題で大減速を引き起こしました。その欧州ですが、EUの地域内貿易の比率が、貿易全体の60%~65%を占めていました。そんな欧州経済全体に占めるギリシアのウェートは、取るに足らない程度のものでした。そんなちっぽけなギリシア程度の国の危機ですら、スワ破綻となると、あれだけの危機を招いたのです。これをアジアに当てはめて見ましょう。アジア諸国の経済は、伝統的に米国依存が目立っていました。ですからアジアの地域内の貿易比率は、日中韓にASEAN諸国を加えても、伝統的に高くても40%もあれば良い方でした。それが、米国と欧州の不振から、現在は地域内貿易の比率が50%を超えているのです。ですから、アジアでどこかの国がおかしくなれば、当然ヨーロッパにおけるギリシアの比ではありません。日本の輸出依存度は15%程度に留まっていますが、中国のそれは40%、韓国のそれは50%を超えています。ですから、欧米の不振の影響は、いずれアジアでも大きくなります。そうした影響で躓く国が出てくると、ギリシアでEUが受けたのと同じ影響がアジアでも広がることが予測できます。アジアのどこかで、経済がスローダウン状態に陥ったとすれば、その影響は決して小さなものには留まらないでしょう。輸出比率の低い日本の被害が1番軽く済む可能性が高いと思えますが、それでも影響は受けざるを得ません。 続く
2010.08.23
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19世紀のアメリカ(103) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…9大草原地帯でも、それ以外の地域でも、農民たちは誰もがキリスト教徒でしたから、祈りの場としての教会が必要でした。ですから、1軒1軒のの農民の家屋や農地は、離れ離れであっても、日曜日に集まる教会は、恰好のコミュニティの形成場でもあったのです。開発地域は、数十区画~100区画ほどを単位に、バラバラに作られていました。こうした小社会の集合体が、夫々に自律的に存在する姿こそが、『大草原の小さな家』の姿でもありました。そうした社会が、東部や欧州向けに商品作物を栽培し、列車で出荷する姿が、この地域の経済活動の基本になってゆくとき、出荷によって得た現金を、農民達がどう使うかが、ここでの焦点になります。交通や通信網が発達したとはいえ、大西部の農民達が気楽に列車で買い出しに行けるほど、当時の汽車賃は安くはありません。ですから彼ら彼女らが出かけるのではなく、情報や物が東部や中西部から流れ込み、運ばれてくることが必要だったのです。小さな地域コミュニティには、注文を受けてまとめて買い出しに行く、今で言う便利屋タイプの小さな商店が1軒あれば十分です。そこには、東部で作成された商品の宣伝ポスターのようなものが置かれ、地方農民の消費意欲を刺激する役割を果たしていました。情報のこうした流れが、人々に高価ではないけれど便利そうな物、気の利いた物への関心を生み出していったのです。 続く
2010.08.23
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クロニクル 普墺戦争終結1866(慶応2)年8月23日144年前になります。当時ドイツは、オーストリア帝国を中心にプロイセンを包含した大ドイツを建設するか、プロイセン王国をを中心にオーストリアを排除した小ドイツを建設するか、ドイツ統一のあり方を巡って、なお激しく争っていつ最中にありました。こうしたドイツ統一を巡って、プロイセンとオーストリアとの間に、1866年7月上旬に肘待った戦争が普墺戦争でした。戦いは近代的装備を備えたプロイセンの圧勝に終わり、この日プラハ会談において、終結しました。以後のドイツは、プロイセン中心のお統一へ向けて、統一に反対するフランスとの戦いに備え、さらに軍備強化に走ることになります。
2010.08.23
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納涼祭:写真昨日の納涼祭、無事に終りました。本日は午前中に片付け、午後から打ち上げでした。戻って一眠りして、起きだしたところです。人の出も良く、安さに自信のあるお店の品は良く売れましたし、人出も予想以上でした。1番ハラハラしたのは、売店の利益で子ども達に提供する、詰め合わせのお菓子と花火のセット。余裕を見て350個用意していたのですが、残りが僅か2個。一時は足りなくなるのではと、配っていた役員たちが真っ青に、売店から呼び出されて善後策の相談をしていましたら、辛うじて大丈夫と相成りました。ホッと一息でした。写真をご覧下さい。舞台で踊る子ども達です。上はドラえもん音頭、下はちびまる子ちゃん音頭です。どちらも、子ども達に大人気の盆踊り曲です。舞台に上がりたい子が多く、係りは整理に汗をかきます。舞台の下でも踊りの輪が広がりつつあります。午後7時頃です。この時間からドンドン混んできます。手配師を務めたお店の賑わいです。
2010.08.22
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クロニクル ムンク作品の盗難2004(平成16)年8月22日6年前のこの日、オスロのムンク美術館から、彼の代表作「叫び」と「マドンナ」の2作品が、盗まれました。実は1911年の同じ8月22日は、パリのルーブル美術館から、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」が盗まれた日でもあったので、偶然の一致かと騒ぎになりました。「モナ・リザ」は2年4ヶ月後にイタリアで見つけられ、無事ルーヴルに戻ったのですが、ムンクの「叫び」と「まどんあ」もまた、丸2年と10日後に、オセロ市内で、無事に発見されました。
2010.08.22
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納涼祭昨年は22日の土曜日でしたが、今年は今晩が、町内の納涼祭です。昨日、今日と準備に追われ、ようやく、前準備が終わり、自宅に戻って、朝からの汗をシャワーで流した所です。甲子園を覗きましたら、興南高校が優勢のようですね。島袋君も一二三君も好投手ですが、1人で投げてくるのは、残酷のようにも思えますね。今年もフーテンの寅さんの親分よろしく、ボランティアの皆さんを募って、格安の売店を10店舗ほど、手配しました。まさに手配師さながらですね(苦笑)。これから、最後の準備に、カキ氷用の氷の引き取りに出かけます。本日は、皆さんのところにご訪問できないかと思いますが、お許し下さい。
2010.08.21
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クロニクル ハワイ、州に昇格1959(昭和34)年8月21日51年前のこの日、ハワイ準州が、アメリカ合衆国の州に昇格しました。こうして、合衆国の50番目の州が誕生しました。以来51年間新しい州の誕生はありません。51番目の州の誕生はあるのでしょうか?
2010.08.21
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19世紀のアメリカ(102) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…8 大草原地帯の農業には、固い土を掘り起こす農機が必要でした。しかし、農機は安いものではありません。1863年の1月から適用が開始されたホーム・ステッド法が開拓農民に無償で提供した土地は、1家族160エーカー(64ヘクタール=19万2千坪)でした。この規定は大草原地帯においても同一でした。そこで必要に迫られた農民達は、数家族が共同で1台の農機を購入、利用することを考えたのです。これが大草原地帯における農民のコミュニティをを活発なものとする原因となりました。皆さんからご指摘のあった『大草原の小さな家』の世界が、こうして出来上がっていったのです。1869年の大陸横断鉄道の完成後の、鉄道建設ラッシュは、既述の通り、1880年代の前半までに計5本の鉄道が、大陸の西と東をつなぐ大動脈網を作り上げました。こうした鉄道で運ばれたのは、牛や人ばかりではありません。中西部や西部から、大量の農産物もまた東部やさらにヨーロッパへと輸送されたのです。東部や中西部(シカゴなど)における大都市の発達と工業化の進展は、大西部に商業的農業を発展させたのです。1870年~1900年にかけてのアメリカの国外輸出の76%は農産物でした。そして農産物の輸出額は、この間に2億8千万ドルから8億4千万ドルへと3倍に増えているのです。そして米国内の耕作面積は、南北戦争直前の1860年お1億6千3百万エーカーから、1910年には3億4千7百万エーカーへと2倍強に増えているのです。 続く
2010.08.20
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クロニクル 『智恵子抄』刊行1941(昭和16)年8月20日私の生誕の1年少々前の話になります。今年でちょうど69年ですか。この日、高村光太郎の詩集『智恵子抄』が、龍星閣から刊行されました。『智恵子抄』は処女詩集『道程』に続く、光太郎の第二詩集です。光太郎の夫人智恵子は、この年1941年に亡くなっており、彼女との結婚直前から、死後に至る智恵子との思い出を綴った詩集で、二度の映画化、数度のテレビ劇化がなされています。「東京の空 灰色の空 本当の空が見たいという…」とは、2代目コロンビア・ローズが歌った「智恵子抄」の冒頭部分です。
2010.08.20
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19世紀のアメリカ(102) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…8 水の問題を解決するために考えられたのが、地下水の汲み上げ技術の発達と、乾燥に強く少ない水で栽培可能な作物の開発でした。70年代末から、こうした難問の解決方法が見出されるようになったのですが、それでも大草原における農業には、他では考えられないような、いくつかの危険が残っていました。降雨が不安定であることに伴い、害虫の大群がしばしば発生したからです。さらに、この地方には竜巻の発生というオマケがついていました固い草土を耕すには、農機の利用が不可欠です。そのため農民達は、従来の自営農民よりも多くの資本を必要としました。そのため農民たちは、土地を担保に東部の銀行から金を借ります。こうして、必死に働いている大草原地帯の農民たちは、カウボーイの率いる牛たちに耕地を荒されてはたまりません。そのため農民達は、団結してカウボーイに向かい、問題の解決を目指していたのです。 続く
2010.08.19
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クロニクル 作新学院春夏連覇 1962(昭和37)年8月19日48年前になります。私個人は、1ヶ月の予定で北海道をノンビリと旅行中でした。この日行われた第44回全国高等学校野球選手権大会決勝銭で、北関東代表の栃木の作新学院が1-0で北九州代表福岡の久留米商業を破り優勝しました。作新学院は、春の選抜選手権も制しており、史上初の春夏連覇を達成しました。この当時の出場校は、全30チームでしたから、大会の開催期間は今より短く、決勝まで多いチーム(1回戦から登場のチーム)で5試合でしたが、作新学院の記録がユニークなところは、春の優勝投手だった八木沢投手が、夏の大会を前にして伝染病の赤痢に罹患して戦線を離脱、控え投手だった加藤投手の活躍で、春夏の連覇を達成したことでした。八木沢投手は、そのご早大を出てオリオンズ(現千葉ロッテ・マリーンズ)に入団活躍しました。夏の優勝投手加藤選手は高卒ルーキーとして、中日ドラゴンズに入団、ようやく活躍をし始めた時期のオフシーズンに、自ら運転していた車の交通事故で、若くして亡くなりました。惜しい選手でした。
2010.08.19
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世界経済の現状(164) 結局米政府は、ファニーメイとフレディマックを整理することは、やりたくても出来ないのです。清算すればたちどころに住宅金融は麻痺し、米国の住宅市場は麻痺してしまいます。ですから、今後も赤字を流し続けるであろうこの2社を支援し続けるしかないのです。2社には、既に1450億ドル(13兆円弱)の公的資金が投入されています。さらに、2社が保有または保障している住宅関連の債権は、5兆ドルを超えているのです。この中の健全債権は、いったいどのくらいあるのでしょうね。2008年以前の債権の多くは、焦げ付いているわけですし、2009年以降は、ほとんど2社で住宅金融を維持してきたのです。専門の金融機関が二の足を踏む案件にを、2社が引き受けているのですから、その行く末は推して知るべしです。この状態にあるアメリカの金融情勢の下で、米政府やFRBはどうすべきなのでしょう。効果の程は分りませんが、連銀のバランスシートい目を瞑っても、市場で米国債やMBSなどの債権を買い上げ、徹底した量的緩和を行なう以外に、打つ手はないように思います。FRBのバーナンキ議長は、バブル崩壊の事後処理に悩む日本に対し、「ヘリコプターで、東京中に金を撒け」と強い口調で叱咤したことが知られています。その彼が、国債買取による量的緩和に追い込まれ、連銀のバランスシートを気にせざるをえない状況に追い込まれているのは、なんとも皮肉です。結局FRBは、バランスシートの膨張を覚悟した上で、ひたすら量的緩和を続け事態に追い込まれるでしょう。そのために国債や各種債権をひたすら買い続け、市場に資金を供給し続けるのです。当然財政赤字も益々巨大化してきます。こうなると何が起こるかといえば、当然価値の減じたドルが売られます。短期的な戻りはあっても、当分ドル安が続くことになると、私は考えています。今のアメリカは、バーナンキ議長自らが、ヘリコプターでドルを撒く立場に追い込まれているのです。 続く
2010.08.18
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19世紀のアメリカ(101) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…7 最初の大陸横断鉄道が完成し、1870年代に入ると、合衆国の工業生産は、北部と西部をつなぐ形で大いに発展しました。そうした中でも鉄鋼生産の伸びは著しく、今までは高くて手が出なかった有刺鉄線の価格も、大量生産の結果、80年代に入る頃には、手頃な価格まで値下がりしたのです。一方、地下水を汲み上げる動力ポンプも開発され、100m~150,200mという深い井戸を掘ることも可能となったのです。こうした工業技術の発展が、1870年代末に始まる大草原地帯への農民の進出を可能としたのです。それまで大規模な放牧や、カウボーイたちにしか利用価値のなかった大草原に、農民達が進出することが可能となったのです。放牧されている牛などが、踏み荒らすことのないように、農地を守るためには、播種地を囲い込むことが不可欠です。ところが木材や石材を求めることが出来ない大草原では、今まで高知を囲い込む手段がなかったのです。70年代末、有刺鉄線による柵の設置が普及したことが、大草原地帯の開拓を見果てぬ夢から、現実の可能性に変えたのです。とはいえ、農民にとっては、もう一つの大事な問題がありました。それが水の問題でした。 続く
2010.08.18
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クロニクル ソメイヨシノ米国へ1909(明治42)年8月18日101年前になるのですね。この日東京市は、米国のワシントンDCに対し、ソメイヨシノの苗木2千本を送ることを決定しました。贈られた苗木は、荒川堤のソメイヨシノから丹精した苗で、荒川と姉妹川のよしみを通じるポトマック川の依頼を受けたものでした。こうして海を越えた櫻の苗木は、ポトマック河畔に植えられたのでした。
2010.08.18
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世界経済の現状(163) 昨日続きを書く時間が取れず、失礼しました。1昨日の続きです。株価が1ドルを切って、上場廃止に追い込まれたファニーメイとフレディマックが、昨年度の米国における住宅金融の9割を引き受けていた。これは恐るべきことです。民間の金融機関は住宅金融から手を引いてしまっているので、事実上破綻して公的管理化にある2社が、あえて住宅金融を担当せざるを得ない。こんな図式が浮かんできます。そして、この無理は、あたり前のことですが、両社の赤字をさらに増やします。ファニーメイの今4~6月期の決算は31億ドルの赤字となり、財務省に15億ドルの支援を求めました。同じ4~6月期にフレディマックは60億ドルの赤字を出し、財務省に18億ドルの支援を要請しています。2公社をあわせた不良債権は3700億ドル、投じられる公的資金の累計は、最終的には4千億ドルとも1兆ドルとも指摘されています。いずれも市場関係者の推計ですが、日本の例でも分るとおり、最終的には推計値を上回ってきます。資産の劣化は予測を上回るスピードで進むからです。そして米政府は、この2社以外に自国における住宅金融を受け持つ企業が出てこない以上、赤字を垂れ流すことを承知しながら、2社を整理する選択肢をとることが出来ないことになります。住宅バブルの播いたウィルスは、未だに米国経済を蝕み続け、住宅金融部門は、まさに蟻地獄に嵌まっているといえましょう。 続く
2010.08.17
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19世紀のアメリカ(100) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…6 元々、大陸横断鉄道の建設は、カリフォルニア州の成立と共に、真剣に議論されるようになった問題でした。陸の孤島のようにぽつんと孤立状態にあるカリフォルニアを、しっかりと合衆国の中心である東部社会と結ぶためには、鉄道の建設が不可欠であると、考えられたからです。1853年、議会は陸軍省に15万ドルの予算を提供して、大陸横断鉄道の建設ルートの調査を命じました。その結果、北部に1本、南部に1本、中央部なら数本のルートが可能という答申が提出されたのです。答申を見る限り、中央部の建設可能性が高いし、人や物の移動の利用が見込めると判断したのは、鉄道会社の経営に乗り出すことを検討していた資本家たちでした。1862年ユニオン・パシフィック鉄道会社が設立され、ネブラスカからカリフォルニアに至る鉄道の建設が、議会によって認められました。他方、カリフォルニア州では、セントラル・パシフィック鉄道会社に、東に向けて線路を敷くことを認めたのです。2社は共に路線に必要な土地を下付され、建設に必要な資材の使用を認められ。さらに政府や州の無利子融資も受けられたのです。公有地は、1マイルの線路に対し、路線の周囲20平方マイルが下付されました。鉄道に近い一等地ですから、高値での売却が可能です。会社はこの公有地の売却益を原資に鉄道建設を進めることが出来ました。その上。平野部では1マイルにつき1万」6千ドル、丘陵地帯では同じく3万2千ドル、山岳地帯では同じく4万8千ドルの融資が受けられたのです。南北戦争の終了が建設に弾みをつけました。サクラメント渓谷を基点に東へ東へと建設を勧めたセントラル・パシフィック社は、シェラ・ネヴァタ山脈の難工事を進めるために、3千人を超える中国人労働者を移入しました。他方オマハを起点に西へと向かったユニオン・パシフィック社は、主としてアイルランド人労働者を使用しました。最終段階では、2万人の労働者が日に2マイルのスピードで、線路を敷設したと記されています。こうして、1869年の5月10日、両社の路線はユタ州のプロモントリーで、平行することになりました。ここが思案のしどころでした。近距離を2つの路線が通るのは、無意味ですし、無駄になります。こうして両社の代表が話し合い、両者の鉄道は、ソルトレーク渓谷の北端にあたるオグデンで結ばれることになったのです。こうしてセントラル・パシフィック鉄道の代表リーランド・スタンフォード(彼は後にスタンフォード大学を設立しています)が、カリフォルニアの金で作った犬釘を自ら枕木に打ち込み、ここに最初の大陸横断鉄道が完成したのです。この犬釘は、現在もスタンフォード大学の博物館に陳列されています。どなたかご覧になった方は、いらっしゃいませんか。 続く
2010.08.17
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クロニクル 壱千円紙幣発行1945(昭和20)年8月17日敗戦の翌々日のことですから、65年前のことです。インフレの進行が確実視されたため、戦時中から準備されていた1千円札が、この日発行されました。肖像は、日本武尊命でした。新円切り替えに伴い翌1946年3月に失効しました。その後の1千円紙幣は1950年に発行された聖徳太子像のものです。1963年伊藤博文の1千円札が3番目、84年発行の夏目漱石の1千円札が4番目、そして現在は2004年発行の野口英世の肖像が、使われています。
2010.08.17
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19世紀のアメリカ(99) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…5 牛の輸送業務は、水と牧草が確保しやすい、春秋に限られていました。業務のない時期にカウボーイたちは何をしていたのでしょう。カウボーイのボスや幹部は、自分達の根拠地となる牧場を持っていました。そこには牧場主の自宅、カウボーイたちの宿舎、それに自分達の牛や馬のための牧草地が必要でした。ロングドライヴのためには、より大きく広い草地が必要でした。1880年代に入ると、黒人差別を温存した形での南部経済の回復も、ようやく軌道に乗ってきました。こうした景気回復を通じて、牛肉の需要は急増し、牛丸1頭が50ドルを越える高値をつけるようになり、5千ドルの投資が、僅か4年で、4万5千ドルを越えるという、大きな利益を生んだのです。こうした状況が、俄か牧畜業者の乱立が、牛の衛生管理の不徹底を招き、牛の伝染病の蔓延を招き、牧畜王国は崩壊を招きました。この結果、以後は大規模な牧場経営は敬遠され、所有する牛の健康状態に、十分な目配りが可能な規模の小規模な経営が主流となり、カウボーイ野時代も終わりを告げたのでした。ところで、ロングドライヴの始まった1860年代の前半、南北戦争の最中に、大陸横断鉄道の建設を求める声が、急に大きくなったのです。それは、東部、そして中西部における鉄道建設の広がりが、物資と人の輸送における鉄道の優位性を、人々に印象付けた結果でした。西部開拓の促進にも、鉄道建設が役立つことは間違いない。こうした確信が、鉄道建設を強力に後押ししたことも、間違いのない事実でした。 続く
2010.08.16
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クロニクル 帝国大学に女子学生初合格1913(大正2)年8月16日戦前の日本の大学は、現在の世界の大勢に近く、9月入学が主流でした。ですから、入試は8月でした。戦前の日本での女性の高等教育機関の端緒は、1901(明治34)年誕生の日本女子大学校の創設でした。しかし、国立の帝国大学や、早稲田、慶應、立教、明治、法政、立命館、同志社、関西学院といった名門私立大学の扉は、なお女子学生には、開かれていなかったのです、それが、今から97年前の今日、しっかりと開かれたのです。そうなんです、この日東北帝国大学の合格発表があり、3名の女子学生の入学が許可されたのです。東北帝国大学は、1907年創立の日本で3番目の帝国大学ですが、旧制高校出身者以外にも入学資格を解放し、旧制高校出身者以外にも門戸を開放し、女性に対しての門戸を開いたのです。初代総長、沢柳政太郎の英断でした。
2010.08.16
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世界経済の現状(162) 日本の住宅金融公庫にあたる、米国のファニーメイ(連邦住宅抵当公社)とフレディマック(連邦住宅貸付抵当公社)の2社が、住宅バブルの崩壊による広範な住宅ローン債権の焦げ付きにより、経営難に陥り、連邦管理の下で存続してきたことは、このブログでも2008年春以降、何度か指摘してきました。実質国有化されているということです。そして、今年に入っては、株価が1ドルを割り込んだままとなり、株式市場からルールにより退場を迫られ、上場廃止となったことも、先月お伝えしました。アメリカ経済の見通しについて、比較的甘い見通しを報道し続けてきた日経新聞も、13日夕刊の十字路欄では、さすがに両社の先行きを危ぶむ記事を掲載しています。英国のフィナンシャル・タイムズ紙の報道を借りる形なのですが、「米国で2009年に実行された住宅ローンの10件のうち9件が、ファニーメイかフレディマックによって、引き受けられたもである」ことを紹介しています。記事にはありませんが、これらの住宅ローンは、オバマ政権による優遇措置により、異常なほど少ない頭金で借り入れ可能なため、将来的に焦げ付く可能性が非常に高いと言われています。そしてそれより何より、住宅ローンの9割が瀕死の状態にある2社によって実行されている点に注目してください。民間レヴェルの住宅金融がほぼ完全に麻痺状態にあり。政府はファニーメイもフレディマッゥも死に体にあることを理解しながら、なお両社を使わざるをえない状態に追い込まれている。こんな構図が浮かんできます。明日もう少し、続きを書かせて戴きます。 続く
2010.08.15
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19世紀のアメリカ(98) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…4 大草原を中心とした放牧の方法は、メキシコで行なわれていた方法を、テキサス経由で導入したものでした。牛に焼印を捺すこと、投網や駆り集めなどの技術は、すべてスペイン人の技術を真似たものでした。ロングホーンという肉質の良い酒類の牛も、メキシコからの移入でした。60年代の初めから、カウボーイによるロングドライヴは、次第に発達しつつあったのですが、1866年にテキサスのカウボーイたちが、一度に26万頭もの大量の牛を追って北上し、各地で水争いを起しながら、ミズーリ州のセダリアへ牛を運びました。一定の損害もあったのですが、牛は高値で売れましたから、大きな利益が出て、この思い切ったロングドライヴは大成功を収め、その後およそ20年に及ぶ、ロングドライヴとカウボーイの全盛期を生み出しました。カウボーイたちは、牛の輸送業者なのですが、まず数千頭の牛を預かり、所有者をはっきりさせるための焼印を捺してから、出発するのです。途中で仲間と合流して、次第に数万等の集団になって行きます。焼印を捺す仕事は、通常2人1組で行うのですが、かなりの熟練を必要とする仕事でした。カウボーイの装備は、重さ40ポンドの鞍、長さ20メートルの投網、6連発のピストル、チャパラスというズボンの上に穿く皮ズボン、それにお馴染みの広ツバの帽子です。馬を乗り回しながら、牛の大群の進む方向を変えたり、驚いて暴走するのを留めたりしながら、広い草原で星を見ながら野宿する生活は、時に退屈で、時に危険を伴うと共に、かなりの熟練を必要とするものでした。カウボーイの行なうロングドライヴは、広大な草原が必要でした。広い公有地が存在する状況は、彼らには大変好都合だったのです。彼らは土地の所有権ではなく、土地の利用権を求め、主張したのです。80年代に入り、草原地帯に農民達が定住するようになってくると、農民達とカウボーイの関係は、険悪なものとなっていきました。 続く
2010.08.15
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クロニクル ザビエル神父日本上陸1549年8月15日(旧暦天文18年7月22日)今日は、私の先祖の日本での誕生日です。それが1945(昭和20)年の、日本の第3のルネサンス(再生)の日と奇しくも同じであることは、私の誇りとするところです。そうです。私の先祖フランシスコ・ザビエルが、461年前の今日、鹿児島に上陸。日本でキリスト教(ローマカトリック)の布教を始めたのです。それにしても、1945年8月15日。日本人としては老いも若きも忘れてならないこの日。降伏の日であると共に、不戦の誓いの日でもあるこの日、何故「平和の日」として、祝日にしないのでしょう。どうせお盆で休みだからと、政治家連中安易に考えているのかな…
2010.08.15
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佐藤優『国家の罠』を読む夏休みを利用して、積んであった読書予定の大量の著作の中から、佐藤優の『国家の罠』(新潮文庫)を読みました。2005年に出版された『国家の罠』は、同年の毎日出版文化省特別賞を受賞するヒット作となったのですが、今までツンドクリストから拾い上げられることなく、今日に来ていました。佐藤優氏は、外務省のノンキャリア組でしたが、ロシア問題のエキスパートとして頭角を現し、1991年8月19日のソ連共産党保守派によるクーデタ事件では、クリミア半島の保養地に幽閉されたゴルバチョフソ連大統領の生存情報を、世界で最も早く確実な情報として掴み、情報蒐集家としての能力の高さを示しました。しかし、北海道出身の政治家で北方領土問題の解決と日ソの平和友好条約締結に執念を燃やす鈴木宗男代議士と近かったことから、小泉内閣の登場に基づく外交政策の転換に伴い、国策としての鈴木宗男追い落としに絡んで、「国策捜査」の対象とされ、背任並びに偽計業務妨害の罪ありとして、懲役2年6ヶ月執行猶予4年の有罪判決を受けています。2002年当時、鈴木代議士と佐藤氏絡む、様々な「悪事」が湯水のようにマスコミに溢れていましたが、その多くが検察や外務省筋によるリークによるものだったことが、ここでは良く分かります。そしてこの本を読むと、検察と官僚機構が絡み、それに政治権力が了解を与えると、どんなことでも出来る、国家権力の力の不気味さに、背筋の凍るほどの寒気を感じます。日頃、「マスコミ報道は眼光紙背に徹して読み込まないと、良い加減な報道を信じ込む愚を侵す」と喚いたいた私が、鈴木・佐藤事件に関しては、コロリとマスコミ報道を受け入れていたことに気付かされました。検察の権力、国策捜査、政治権力の不気味な力の一端が、この本を読むと理解できます。皆さんにも一読をお勧めしたいと思います。私は、佐藤優氏と、鈴木宗男氏に対する理解を改めました。ただ、佐藤氏は文筆家として昨今活躍しているのですが、私は彼の論理に全面的に組するものではないことも申し沿えておきます。例えば、アラブ・イスラエル問題に関しては、彼の良く使う歴史に対する責任の観点から、私は彼とは180度反対の立場に立ち、イスラエルを厳しく批判し続けます。
2010.08.14
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19世紀のアメリカ(97) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…3 南北戦争の始まる直前、1860年当時のフロンティア・ラインは、およそミシシッピー川の左岸に沿う各州の西域にあり、ネブラスカ、カンザス東部、テキサスの中央部辺りに突き出した形になっていました。この線の西、カリフォルニア(1850年州昇格)とオレゴン(1859年州昇格)に至る広大な地域は、未だインディアンとバッファローの居住地域でした。フロンティア・ラインからロッキー山脈にかけての地域の大部分が、大草原地帯です。この1860年、ロッキー山脈の西側、山脈と太平洋に挟まれた極西部と呼ばれた地域には、カリフォルニアとオレゴンを中心に、既に50万人近い人々が住み着いていたのですが、大草原地帯の開発は、遅々として進まなかったのです。それには深い理由がありました。この地域は雨量が極端に少なく、砂漠や半砂漠地帯の混じる、草は生えるけれども樹木の生育しない一帯だったのです。年間の降雨量が50ミリ~100ミリ程度でしたら、当時の技術では農耕に適さない土地だったのです。大草原地帯や半砂漠地帯には、森林がありませんから、今までのように丸太小屋も作れませんし、雑木で冬場の暖をとることも出来ません。降雨量が極端に少ないですから、川もありません。生活用水の確保にもかなりの苦労が必要だったのです。そんな環境でしたから、この地域の開拓は、鉱山業者(掘削の技術を持っていますから、井戸を深堀して、風車で水を汲み上げることが出来たのです)と、牧畜業者によって行なわれることになったのです。乾燥に強い農作物を栽培しようとしても、木がないので柵が作れませんから、工業化が進んで鉄の値段が安くなり、有刺鉄線が安価で手に入るようになる70年代後半までは、この地域は、牧畜中心にゆっくりと開発が進んだのです。開拓者達は、木材ではなく草土を積み上げた泥の家を作り(下の絵をご覧下さい)、牛たちを放牧しながら、一部になお高かった有刺鉄線の柵を作り、夜間は牛をそこに囲い込んだのです。しかし、この牛はどこかに運び出して売らなければ、生活費が稼げません。零細な牧畜農家は、近在の業者や大きな放牧場を持つ富裕な畜産家に売却するしかないのですが、数多くの販売用の牛を集めた牧畜業者は、大消費地か、大消費地と結ぶ鉄道の最寄り駅まで、大量の牛を運ぶ専門の業者を養成する必要に迫られたのです。この専門業者がカウボーイです。大量の牛を騎馬の人と、牛追い犬で追いながら、長旅を続けるロングドライヴという方法は、こうして誕生しました。昔懐かしい「ローハイド」の世界です。フランキー・レインの「ローレン ローレン、ローレン」の歌声で始まる土曜日夜10時からの番組、フィーバーさんやロイ、そしてジェフに料理番のウィッシュボーンじいさん。思い出される方も多いのではないでしょうか。これが大草原の開発の第1ページでした。 続く
2010.08.14
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クロニクル NTTドコモ設立1991(平成3)年8月14日この日、エヌ・ティ・ティ・移動通信企画株式会社が設立されました。同社は2000年4月に商号変更を届け出、NTTドコモに社名を変更しました。ドコモ、設立からまだ19年なんですね。変化のスピードって、速いんですね。改めて寒心するやら、呆れるやらです。
2010.08.14
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世界経済の現状(161)週始めに米国で、FOMC(連邦公開市場委員会)が開かれました。この会合はFRBが年に8回開く、米国の金融政策の最高意志を討議決定する重要な会合です。日本で言えば日銀の金融政策決定会合がこれに当たります。この会合で、でFRBが満期を迎えたMBS等、債券の償還金を国債の購入に宛てると表明しました。これは、保有債券がMBSから米国債に変わるだけで、市場に提供される資金量には変化がないことを示します。いわば事実上買い替えを表明したということです。今のアメリカ経済の弱さからすると、これでは力不足が明らかなように思います。ですから、FRBの決定に半日だけ敬意を表した株式市場は、翌日から下げ続けています。アメリカの失業率統計は、当てにならないことは以前にも指摘しました。簡単にいうと、サンプル数が大変少ない上に、月に1日バイトをしても就業人口にカウントしてしまっているからです。また諦めて、職探しをやめてしまうと失業者から外されます。ですからアメリカの雇用の実態を掴むには、失業率でなく企業などの就業者数を調査し、雇用人口比率を見る必要があります。労働可能人口に占める雇用者数の比を、雇用人口比率というのですが、この数字を見ると、6月は58,5%、7月は58,4&%となっています。10人のうち4人以上に職がないのです。もっとも働く意志のない人、働きたくても働けない人も混じりますから、もう少し割り引く必要があるのですが、それにしてもこの数字が極めて重いものであることは、ご理解いただけると思います。この経済不振、鳴り物入りで登場したオバマ政権が、大量の資金を投入して、あの手この手を駆使してきたにも関わらず、一向に回復に向かわないですね。オバマ政権としてもこれ以上打つ手のないようにも見えます。そして出口の見えない経済不振が、人気者だったオバマ大統領への期待の裏返しとして、オバマ人気に危うい翳を投げかけている。今のアメリカでは、ごく一部の大企業のみが救済されて回復に向かっていますが、圧倒的多数の中小企業やミドルクラス、そして下層階級には、何の救いの手も差し伸べられていない(差し伸べる資金的ゆとりがない)のです。米経済の先行きは、決して回復に向かっているわけではないこと、危機的状況が続いていることにご留意下さい。 続く
2010.08.13
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19世紀のアメリカ(96) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…2 鉄道の拡大は、路線に沿って敷設された電信という、通信網の拡大を齎しました。また、東部から中西部にけけての鉄道網の発達も促されました。1876年に電話が発明されてからは、電話回線も急速に発達しました。こうした変化が合衆国社会を大きく変化させたのです。電信の普及以前、東海岸のニューヨークと西海岸のサンフランシスコを結ぶ郵便は、到着までに1カ月を要していました。1860年、運送業を営むウィリアム・ラッセルは、連邦政府の許可を得て馬による速達便を計画し、鉄道の終点だったミズーリ州のセント・ジョセフから、サクラメントまでの1966マイルの路に沿って、109の駅逓を作り、そこに買い入れた数百頭の馬を配置し、乗馬の得意な若者を雇い、早馬による輸送を始めました。サクラメントからサンフランシスコまでは、川下りの蒸気船を利用したのです。郵便袋を蔵につけ、馬に乗った若者は、8マイル~15マイル毎に設置された駅逓毎に馬を替え、1人がおよそ50マイルを走るのです。ですから1回の速達便袋を運ぶのに、およそ40人の若者が、リレーの要領で1966マイルを走る計算です。1860年4月3日に、初めて出発した速達便の郵袋は、10日半でサンフランシスコに到着しました。ニューヨークからセント・ジョセフまでが、およそ4日かかりましたから、ニューヨークからの郵便はおよそ15日で到着したことになります。郵便の到着までの日数は、およそ2分の1に短縮されたのです。ポニー・エクスプレスと名付けられたこの事業は、大成功を収めたのですが、事業そのものは長くは続けられませんでした。前述した電信の発達にとって変わられたのです。1844年5月、サミュエル・モースの発明した電信技術が、ワシントン~アナポリス間で実用化されたのです。その利便性が確かめられた電信は、猛烈な勢いで普及し、鉄道の普及と共に、各地に足を伸ばし、さらに鉄道のない地域にまで広がっていったのです。こうして西部へ西部への動きは、90年代のフロンティアの消滅に向け、さらにピッチを上げていったのです。 続く
2010.08.13
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クロニクル ベルリンの壁建設始まる1961(昭和36)年8月13日ベルリンの壁が崩壊した歴史的出来事があったのは、1989年の11月のことでした。あの壁の建設が始まったのが、49年前の今日でした。ベルリンの壁、実質28年間少々だったのですね。28年前の今日、東ドイツ政府は、東西ベルリンの間の全ての道路を封鎖し、有刺鉄線を使った最初のベルリンの壁の建設を始めたのです。2日後には石造りの壁の建設が始まり、最終的にはコンクリートの壁が建造されました。壁の目的は、東ドイツ国民の西ドイツへの亡命を封じ込めることにありました。
2010.08.13
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19世紀のアメリカ(95) 第4章 大陸横断鉄道と大草原の開発…1 1871(明治4)年11月12日に横浜港を出発。米国から欧州へ渡り、スエズ運河を経由して1年10ヵ月後の1873(明治6)年9月13日に帰国した岩倉使節団一行は、大陸横断鉄道でアメリカ大陸を横断した、最初の日本人となりました。使節団に隋行し、後東大教授となった久米邦武の日記により、その詳細を知ることが出来ます。一行は、サンフランシスコへ到着、数日の滞在後に大陸横断鉄道に乗車、途中積雪のため数日間の足止めを受けたりしながら、終点のシカゴまで行き、そこからさらに汽船と鉄道を使い、ボストンを経由してワシントンに到着しました。ユニオン・パシフィック鉄道がオマハから西へ、セントラル・パシフィック鉄道がカリフォルニア州のサクラメントから東へと線路を延ばし、大草原や山脈、そして幾多の渓谷を乗り越えて建設を進めた最初の大陸横断鉄道が完成を見たのは、1969年5月初旬のことでした。開通記念式は5月10日、ユタ準州のプロモントリーサミットで開かれました。完成から2年6ヶ月という、比較的早い段階で、岩倉使節団のメンバーは、当時の近代文明の粋とも言うべき、鉄道の旅を経験したのです。そして、ここに完成した大陸横断鉄道の存在が、南北戦争の傷がなおいえぬアメリカ経済を、大きく変えていくことになったのです。アメリカ経済に与えた大陸横断鉄道建設の効果は、非常に大きかったのです。計量的な数字はあげることができないのですが、その後80年代の半ばまでの15年の間に、立て続けに4本もの大陸横断鉄道が敷設され、5本もの相互に平行する大陸横断鉄道が建設されたことが、効果の程を示しています。即ち、ミネアポリスとシラトルを結んだ最北のグレート・ノーザン鉄道、その南のノーザン・パシフィック鉄道、そしてユニオン・パシフィックとセントラル・パシフィックを跨いで、その南にカンザス州アチソンとサンフランシスコを結んだ、アチソン・サンタフェ鉄道、ニューオーリンズとサンフランシスコを結んだテキサス・パシフィック鉄道とサンザン・パシフィック鉄道の連結線の5本です。そして、この5本の大陸横断線を縦につなぐ、南北縦断線も、次第に作られていったのです。 続く
2010.08.12
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世界経済の現状(160)円高が1ドル=84円台に進み、1995年以来とざわめきが大きくなりました。マスコミの論調は、95年当時に比べ、今の日本経済は体力が落ちているから大変だと、いたずらに危機感を煽っています。実はアメリカ経済の弱さから、いずれドル安が進むことは十分予想できました(この点は、改めて書きます)。そして、日本経済の変化を論じるから、先ず貿易構造の変化に言及する必要があります。95年当時とは、貿易構造が大きく変わっているのですから、単に対ドルでの円高だけを問題にしても、意味はないのです。日本の貿易輸出全体に対する地域別の割合を、2000年と2009年について比べてみましょう。マスコミが問題にする対米輸出は、2000年は全体の30%を占めていましたが、2009年には15%に落ちています。同じく対EU(ユーロ圏+英国など)を見ると、20%が10%(ただし2008年実績)に落ちています。これが対中国貿易(香港を含む)になると、2000年の10%から2009年には25%に急造しています。そしてBRICsに続く、新興工業諸国群であるMINITS(マレーシア、インドネシア、ナイジェリア、トルコ、サウジなど)への輸出も10%から15%に伸びているのです。ドルやユーロに対する円高は確かに進んでいますが、対米輸出や対欧輸出のウェートは、この10年間で50%から25%に半減しているのです。変わって中国やアジア中心の新興国への輸出ウェートは、20%から40%に倍増しているのです。ここに対インド貿易などの増加分が加わります。この10年の日本の輸出貿易は、対先進国貿易からアジア貿易や新興国貿易にシフトして、落ち込みを防いできたのです。ドル、ユーロ安の影響は限定的なものに留まることは、ご理解いただけたと思います。 続く
2010.08.12
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