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政治を斬る(116) 早くも、衆参ねじれ国会の成果が出てきたようですね。議会政治の妙は、知恵の発揮にあります。数に物を言わせるというのは、代議政治のあり方からすれば邪道に過ぎません。いかに一致点を見つけるかが、基本です。今回の成果は、参院の改選議員の歳費の件です。国会召集日以降の日割りとするか、1ヶ月分を丸々払うかの問題でした。参院の少数政党から提案があがった段階では、否決確実の雰囲気でしたが、民主、自民の2つの大政党が共に小党との協調に活路を見出そうとした結果、そして世論の反発を恐れた結果、見事に日割り法案が今国会で成立、遡及適用の運びとなりそうです。妥協であっても、一致点を見出す努力が続けられるので、議員歳費の引き下げや、議員の定数減でも成果が期待できるかも知れません。ある政党が何でも思い通りに出来る政治は、ロクな政治になりません。ねじれ国会、やり方によっては実に快適なシステムです。そして国民にとって悪くないシステムです。大いにねじれ現象に期待している神父でした。 続く
2010.07.31
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19世紀のアメリカ(84)第3章 南北戦争と再建…10最終的に南部連合に加わったのは、11州でした。これに対して一般に北部連合と呼ばれる合衆国に残ったのは23州です。実はこの23州には、ミズーリ、ケンタッキー、デラウェア、メリーランドと、自由州との境界地域にあった4つの奴隷州が含まれていました。4州は、奴隷制度を抱えていましたが、北部地域との経済的繋がりを重視して、分離独立の道を選ばなかったのです。また、南部連合に加わったヴァージニア州では、後にウエストヴァージニアとして独立の州となるウエストヴァージニアもまた、ヴァージニア州に反旗を翻して、合衆国に残る道を選びました。こうして南北戦争は、南部連合の合衆国からの分離独立の是非を争点に、始まりました。子の戦争は4年を越える大規模な内乱として、戦われましたから、大変な消耗戦になりました。時あたかも幕末の日本です。日本の鎖国の扉を開いたパリーやハリスのアメリカが、幕末維新期の日本の政争に、ほとんどその影を記しません。出てくるのはパークスやオールコックのイギリスと、ロッシュとサトーのフランスばかりです。そのわけは、この南北戦争にあるのですね。米国にとっての不幸な戦争は、幕末維新期の日本が独立を守る上で、実はかなり大きな意味を持っていました。さて、開戦時の南北の実力を比較してみましょう。人口は北部側が2400万人、南部側は350万人の奴隷を加えても900万人に過ぎません。北部は約2,4倍です。動員兵力は北部の200万人に対して、南部は85万人に過ぎません。およそ7:3です。工業生産力に至っては、北部の15億ドルに対して、南部は1,5億ドルとようやく北部の10分の1です。鉄道の建設キロ数でも北部と南部は69:31の差があり、銀行の預金残高の比も4:1と大きく開いていたのです。南北の力の差は歴然としていました。そんな中で、南部が独立の希望を捨てず、大きな力の差がありながら、健闘を続けたわけは、ヨーロッパの大国イギリスとフランスの口添えや介入を期待したからです。産業革命を終え、この時期には世界の工場と呼ばれたイギリスでは、なおランカシャ綿業が中心産業の地位にあり、その最大の原料提供地が、南部連合特に低南部と呼ばれた綿花生産地帯でした。そして、フランスもまた南部諸州との付き合いが深かったのです。このイギリスやフランスとの親密な付き合いに南部連合の指導層は大きな期待を持っていたのです。そして、イギリスやフランスもまた、アメリカ合衆国の分裂に期待を寄せていました。1815年、ナポレオンの最終的な失脚後にヨーロッパに成立したウィーン体制は、勢力の均衡を基本とする体制でした。勢力均衡による平和になれたヨーロッパ諸国にとって、北米大陸に出現した巨大な合衆国の存在は、可能なればいくつかに分裂させたい存在でした。それ故に英仏両国は、どこかで米国の内戦に介入し、円満な形で南部が独立できるよう、北部を説得することにありました。この状況をリンカンの政府の側から見ると、ヨーロッパ列強、とりわけイギリスとフランスの介入、南部支援を封じることが、喫緊の課題として意識されることになります。さて、リンカンはどうしたでしょうか? 続く
2010.07.31
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クロニクル 日本テレビが予備免許取得1952(昭和27)年7月31日58年前になります。7月末のこの日、日本テレビが、テレビ放送のための予備免許を取得しました。日本の民間放送としては、はじめてのことでした。
2010.07.31
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クロニクル 「モスラ」公開1961(昭和36)年7月30日49年前になります。この日東宝映画「モスラ」が公開されました。ゴジラ、ラドンに続く、東宝の3代怪獣がここに揃ったことになります。制作費2億円をかけ、アメリカのコロンビア映画との日米合作として企画、実行された映画です。円谷プロの特撮技術が、アメリカで如何に高く評価されていたかが、伝わってきます。「モスラや モスラ……」というザ・ピーナッツの歌声、覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。先ほど、ケータイは電源を切ってロッカーへ、PC接続なし、テレビなし、あるのはラジオのみという、アナログ的研修施設から、戻りました。集中して議論したり、作業したりするには、良いものですね。すっかり気に入りました。でもしっかり疲れました。フー。 ザビ
2010.07.30
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クロニクル 国王亡命1830(天保元)年7月29日一昨日記したフランスの七月革命、「栄光の3日間」の最終日です。この日、午後、国王シャルル10世は、遂に王位を捨て、国外に亡命しました。ここに革命の勝利が決定しました。時代を読めず、立憲君主の地位に飽き足らず、専制君主を目指した時代錯誤の国王は、僅かに2日少々の抵抗で、ブルジョワと民衆の手で、追放されたのでした。もう時代は、18世紀とは違っていたのですね。皆様へ、明日の夕方まで、PCと接触できない場所に缶詰になります。皆様へのご訪問、お返事等、全て明日の夜まで失礼致します。 ザビ
2010.07.29
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クロニクル 小泉ブームで自民大勝2001(平成13)年7月29日9年前のこの日は、第19回参院議員選挙の投票日でした。小泉ブームに乗って、自民党は64議席を獲得、連立与党も健闘して総計78議席の圧勝でした。しかし、時節は巡り、それから6年後の同じ7月29日、安倍内閣の下で行われた第21回参院選挙では、今度は37議席しか獲得できない大敗を喫し、自民転落の原因を作りました。奇しくも同じ日だったのですねぇ
2010.07.29
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19世紀のアメリカ(83) 第3章 南北戦争と再建…9 リンカンが大統領に就任したのは、1861年の3月でした。彼の就任に先立つ2月初旬に、連邦離脱を表明した南部の7州(サウスカロライナ、ジョージア、アラバマ、ミシシッピー、ルイジアナ、テキサス、フロリダ)は、アメリカ連邦を結成して、アメリカ合衆国からの独立を宣言したのです。連邦という表記が紛らわしいので、以下南部連合と記します。当然、大統領就任式でリンカンは、南部連合の行動に対する大統領の立場、そして合衆国政府の立場を、明確に表現する必要がありました。テレビは勿論、ラジオもない時代です。新聞の重要性は、過去にないほどに高まっていたのです。就任式でリンカンは、南部の独立を断乎として阻止すると表明しました。「わが国家は、アメリカ合衆国人民を主権者とし、連邦政府は人民の代表である」と。彼は主張します。「合衆国政府は、州によって組織された連合体ではない。それゆえ州は連邦から離脱する権限を持たない。連邦それ自体が、独立した国家組織なのである。」と。リンカンは、このように主張することで、連邦離脱派が根拠とした「夫々が主権国家である諸州の契約に基づく連邦」という主張を、明確に否定したのです。リンカンの予想以上の強硬姿勢に、南部は実力行動で応えました。4月に入ると南部は、サウスカロライナ州にある連邦海軍のサムター要塞の明け渡しを要求しました。当然リンカンが応じるはずがありません。4月12日、南軍は要塞を砲撃し、守備隊はしばしの抵抗の後に降伏しました。以前に指摘しましたが、第二次世界大戦までの米国の常備兵力は、最小限に抑えられており、有事の際に必要兵力を徴募する形が取られてきました。リンカンは、要塞防衛の困難を知りつつ、あえて南軍の攻撃を誘うことで、北部に属する人々に、南軍の無法を印象付け、連邦防衛のための徴兵をスムーズに行えるようにしたのです。要塞攻撃の3日後、リンカンは7万5千人の志願兵を募って、目的を達成すると7月までには追加の徴兵で、18万人の兵士を動員できたのです。南部連合では、5月に入って、ヴァージニア、ノースカロライナ、テネシー、アーカンソーの4州が合衆国を離脱して、連合に加わりました。ここに、南部連合は11州となり、首都はジョージア州のモンゴメリーから、ヴァージニア州のリッチモンドに移されました。合衆国の首都ワシントンと、南部連合の首都リッチモンドは、150kmも離れていません。上野から宇都宮に行くよりも近い。そんな目と鼻の距離で、両軍が対峙することになったのです。 続く
2010.07.28
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政治を斬る(115)民主党政治の混迷が続いています。最近私が1番アレッと思ったのが、国家戦略室の格下げです。国家戦略室こそ、官僚主導政治の打破を掲げた民主党が、鳴り物入りで打ち出した目玉中の目玉でした。そしてその実現に最も熱心だったのが、当時の菅副代表でした。鳩山内閣で入閣後も、国家戦略相に就任し、意欲を見せていたのですが、首相に就任し、選挙に負けた途端に、格下げとは呆れてしまいました。財務大臣を経験して、官僚群にシャッポを脱いだのでしょうか。自民党政治が批判されますが、あの政治は自民党プラス官僚政治でした。それを承知しているからこそ、官僚政治の抜本改革、公務員改革の旗を振る民主党をに支持が集まりました。今回の選挙で、無党派層の票がかなり「みんなの党」に流れたのは、同党が公務員制度改革に最も熱心だからです。国家戦略室を縮小し、公務員制度改革に後ろ向きの姿勢をとり続ける限り、民主党への支持は、回復しない。私はこのように考えています。 続く
2010.07.28
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クロニクル 劇団『民芸」の誕生1947(昭和22)年7月28日63年前です。この日、滝沢修、宇野重吉らによって、民衆芸術劇場(略称民芸)が結成されました。第1回公演は翌48年1月に、有楽座で上演した島崎藤村の「破壊」でした。この第一次民芸は、2年後の1949年7月に解散、翌1950年に第二次民芸に編成替えされました。奈良岡朋子、森雅之らが加わった、この第二期民芸が長く続き、親しまれてきました。
2010.07.28
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民衆を導く自由の女神本日のクロニクルに取り上げた「七月革命」というと、この絵が出てきますね。ドラクリワの傑作です。中央に横たわる死者や重傷者の思いを汲取ったように、三色旗を掲げて、後景の人々に進撃を呼びかける、豊かな胸をあらわにした女神の姿があります。まずは、この女神にご注目下さい。女神は勤労に鍛えられた逞しい肉体の持ち主です。ここにある女神は深窓の令嬢とは無縁な、働く女性であることが暗示されています。そしてその女神の脇で、女神の登場を喜んではしゃぎながら、拾った拳銃を振り回してる少年の姿があります。当時のフランス、特にパリ中心の大都会で増えてきた住処の定かでない浮浪少年の姿を、ドラクロワは画幅の中に映しこんだのです。後年ヴィクトル・ユゴーは、『レ・ミゼラブル』の終わり近くに、ガヴローシュとなずけた浮浪少年を描いています。ユゴー以後、この時期の浮浪少年は、ガヴローシュと総称されるようになりました。女神の左手には、青いシャツ姿の傷ついた労働者が、安心したように女神を見上げています。その脇にシルクハットを耳までずらせて、ラッパ銃を手にした市民がいます。この人物がドラクロワの自画像であると、考えれれています。画家は革命に共鳴した自らの姿をも、画幅の中に表現したかったのですね。ドラクロワは、栄光の3日間の体験を通して、王制に対する民衆とブルジョワの勝利、三色旗の勝利を確信したのでしょう。伝統主義者として知られ、貴族の伝統に惹かれていたドラクロワも、動かしがたい歴史の進行に立会い、心の奥深くを揺さぶられたことが分かります。後日談です。ドラクロワのこの絵は、翌1831年のサロンに出品されました。パリを訪れたハイネは、この絵に惹き付けられます。「サロンのどんな絵でも、ドラクロワの七月革命の絵ほど、色彩の光沢のないものはない。けれどもこの虚飾や外観の美のないこと、人物を灰色の蜘蛛の巣ように蔽っている硝煙と埃…これら全てが、この絵に真実と実質と独走を与えている。そして人は七月革命の真の姿を察知する。」(井上正蔵『ハインリヒ・ハイネ』岩波新書より)ハイネは、革命の出来ない祖国ドイツの現実を憂いながら、こう記しています。
2010.07.27
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クロニクル 七月革命始まる1830(天保元)年7月27日日本では、水野忠邦の天保の改革で知られる、天保年間の始めです。この日フランスで、シャルル10世の議会無視に怒ったブルジョワと民衆の同盟勢力が立ち上がり、「栄光の3日間」と呼ばれた、3日間の革命が行なわれ、シャルル10世の政府を吹き飛ばし、国王は29日に国外に亡命、革命派の全面勝利となりました。画家のドラクロワは、この3日間の体験を下に、「民衆を導く自由の女神」の傑作を書き上げました。一面を硝煙で覆われたような色彩で描かれており、その暗さもまたこの絵の魅力になっています。また、作曲家のベルリオーズもまた、「栄光の3日間」の戦列に加わり、この革命から感じ取ったリズムに共鳴して、「幻想交響曲」を生み出しました。
2010.07.27
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19世紀のアメリカ(82) 第3章 南北戦争と再建…8 では、南北戦争は、どのように始まったのでしょうか。そしてどんな戦争だったのでしょうか。アメリカ合衆国は、州の集合体として成立した連邦国家です。ですから、中央政府の権限は弱く、その中央政府権限を、強力なものにしないための仕掛けが、幾重にも張り巡らされていました。そんなアメリカ合衆国では、連邦憲法が定めることは限られており、中央政府が決めない事は各州は独自の憲法によって、定めることが出来たのです。リンカン大統領の登場は、そんなアメリカにとっては、ショッキングな事態でした。何しろ南部からの集票は全く期待できない候補が、大統領に当選したのです。リンカンは、奴隷制度を廃止するとは一言も発言せず、今以上(1860年当時)の奴隷州の拡大は認めない。今後州に昇格する地域は、全て自由州にするとしか発言しておりません。しかし、奴隷制度に立脚する南部諸州は、将来の上院議員の議席数を問題視しました。上院議員は人口に関係なく各州2名(日本の参議院議員もこの制度にすると、94名で済みます値。』或いは全員比例制で100名も良いかもしれません。国土で25倍、人口で3倍弱の米国上院が100名の議員なのですから…)です。すると、今後自由州ばかりが増えていくとすると、南部の主張は、常に上院で否決されかねません。南部はこの点を憂慮しました。その結果、それならいっそ、アメリカ合衆国に留まることをやめて、南部だけで別の連邦を組織しよう。南部の急進派はこう考えました。彼らは、アメリカ合衆国は、「主権国家である諸州の契約に基づく連邦である」と考えていたのです。合衆国離脱論は、セクショナリズムと呼ばれるのですが、その急先鋒サウスカロライナの誘いに、ジョージア、アラバマ、ミシシッピー、ルイジアナ、テキサス、フロリダの6州が加わり、7州が1861年2月1日までに、連邦離脱を宣言したのです。それだけではありません。連邦離脱宣言を発した南部7州は、アラバマ州の州都モンゴメリーで会合を開き、「奴隷制度を承認し、保護する」ことを記した独自の憲法を定めて、アメリカ連邦という新国家の建設を宣言したのです。臨時大統領には、ジェファソン・デーヴィスを選出して、閣僚も選任しましたから、まさしく南北ははっきりと分裂したのです。南部諸州は、「リンカン政権が、新規開拓地への奴隷制の拡大を認めないことは、大統領による不当な権力の行使であり、我々南部は、それに抵抗する権利がある」と主張したのです。リンカン政府は、こうした南部の主張を認めず、「南部の行為は、新国家の建設ではなく、合衆国に対する反逆である。」と断じたのです。共和党の政治家が目指したのは、「西部への拡大を通じて、より強大な合衆国を建設すること」でした。それ故、南部が引き金を引いた連邦の分裂は、なんとしても阻止しなければならない、反逆だったのです。南北戦争は、南部諸州の合衆国離脱、新国家建設を容認するか、阻止するかを巡って始まりました。合衆国憲法は、このような形での実力行使を、連邦政府に認めていたでしょうか。憲法解釈としては、疑問が残ります。皆さんは、どちらの立場に、正当性をお認めになりますが。 続く
2010.07.26
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クロニクル 「天空の城ラピュタ」公開1986(昭和61)年7月26日24年も経っているのですね。この日、スタジオ・ジプリ製作、宮崎駿監督作品『天空の城ラピュタ』が公開されました。映画は不入りで、映画興行としては、当たらなかったのですが、その後のビデオ販売は好調でした。
2010.07.26
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19世紀のアメリカ(81) 第3章 南北戦争と再建…7 かくして1861年、リンカンは大統領に就任しました。そして、歴史年表を紐解けばすぐに出てくることですが、この年1861年に南北戦争が始まりました。ところで、南北戦争は奴隷解放を巡る戦争だったのでしょうか。日本ではそのように語られることがほとんどです。世界史の概説書のほとんどもそのように記しています。アメリカでも北部や中西部諸州では、そのように教えているようですが、南部諸州は違います。日本史で南北朝の対立を描写する時、南朝の立場に立つか、北朝の立場に立つかで叙述の中味が大きく異なるのですが、それと似たような違いがここにはあるのです。今日から数日の叙述で、私は皆さんの持っているリンカン感をひっくり返します。彼を奴隷解放の英雄と考えることが、いかに間違っているかを記します。エッーと驚かれるか、デモーと反発されるかの、2つの反応に分かれると思いますが、出来れば常連の皆さんには、ここ2,3日は、特にお忙しい場合を除いて、率直な感想をコメント欄に、書き込んでいただくと幸いです。まず、第1に、リンカンはこれまでの政治経歴のなかで、奴隷を解放するとは一言も発言しておりません。彼の発想は、奴隷制度を現状に固定すること、これ以上の奴隷制の拡大は認めない。この1点にありました。彼は奴隷制度を必要悪として認めていたのです。ですから、南北戦争が奴隷解放の是非を巡る戦いとして始まることは、100%ありえなかったのです。戦争開始のイキサツは明日の稿で記しますが、この戦争が、途中から奴隷解放の是非を巡る戦いであるかのような様相を呈したわけは、1863年1月1日にリンカンの発した奴隷解放宣言にあるのですが、それは、南部の味方として、南北戦争に介入する姿勢を示していた、イギリスとフランスの政府に対して、英仏の国民世論を動かして、参戦を不能にすることを狙った戦略としてだったのです。考えてみてください。リンカンがもし、真に黒人奴隷の待遇改善を考え、彼ら彼女らの人格的自由を心から保証したいと考えていたなら、奴隷主の支配を脱した奴隷達の生活の保障に踏み込んだ解放を実現していたでしょう。南北戦争と時を同じくして行われた、ロシアの農奴解放では、ツァーリ(皇帝を指すロシア語です)専制下でありながら、農奴たちは有償(30年の分割払いで土地代金を支払う)でしたが、土地付きで解放されました。それに対して、議会制民主主義の発達したアメリカ合衆国の黒人奴隷達は、身分的自由を付与されただけで、今まで奴隷としてただ働きされてきたことに対する、何らの保証もなく、ただ街頭に放り出されただけだったのです。これがリンカンの奴隷解放の現実でした。奴隷には1平方メートルの農地すら与えられなかったのです。西部にはなお広大な未開拓地が残っていたにも関わらず…。もしリンカンの奴隷解放が、もう少し真剣に計画され、周到に用意されて実施されていれば、その後の長期に渡る黒人差別問題は、早期に解決されていたであろう。私はこのように考えています。明日以降、戦争の経過を追いながら、もう少し詳しくこの問題を論じるつもりです。 続く
2010.07.25
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クロニクル 試験管ベビーの誕生1978(昭和53)年7月25日32年前の今日、イギリスで世界最初の試験管ベビーが誕生しました。ルイーズと名付けられた女の子でした。ルイーズの両親ジョンとレズリーは、不妊治療を受けていましたが、レズリーの卵管異常のために、自然妊娠は無理と告げられました。そこで2人は、ケンブリッジ大学のロバート・エドワーズ教授と婦人科医パトリック・ステップトーの2人が、12年に渡る研究の末に完成させたばかりの技術である、体外受精による妊娠と出産を希望したのです。1977年11月10日にレズリーから採取した卵子と、ジョンから採取した精子と体外受精させ、2日半後、受精卵をレズリーの子宮へ戻したのです。その後は母体の中で順調に成長しました。こうした一連の経緯から、ルイーズは、世界最初の試験管ベビーとして知られることになりました。ルイーズの誕生は、1978年7月25日午後11時47分でした。出生地は、イングランド北部のオールダム総合病院。帝王切開により世界初の体外受精児が誕生したのです。出生時の体重は5ポンド12オンス(2608グラム)でした。ルイーズの誕生は、その後の不妊治療に対する大きな希望となり、世界中の注目を集めました。ルイーズ・ブラウンはすくすくと成長し、2002年3月にウェズリー・マリンダーという男性と出会い、2004年9月4日に結婚しました。ブリストルの教会で行われた結婚式には、エドワーズ教授も招待されました。外科医のステップトーは、1988年にこの世を去っていたのです。結婚から2年後の2006年12月21日、ルイーズは元気な男の子を生みます。母にあった卵管異常はルイーズにも、ルイーズの妹で同じく体外受精で誕生したナンシーにもなかったのです。ナンシーは、ルイーズより先に結婚し、ルイーズより先に、健康な男の子を産んでいます。2人の自然妊娠、自然出産は、体外受精に否定的なグループが流した、「体外受精で生まれた女性は将来、健康な子供を産むことができない」という根拠のない中傷を、具体的な事実によって払拭したのです。
2010.07.25
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世界経済の現状(155)日本国債の発行残高は、600兆円を大きく超えています。そしてそのほとんどが、市場で取引されています。その結果、日々の市場での売買が大変活発だという特徴があります。1兆円や2兆円程度の売り物で、売り崩されたり、逆に買い煽られたりすることはないのです。一時的に下がったとしても、また逆に騰がったとしても、数分後には何事もなかったかのように、元の水準に戻ってしまうのです。現在のように、英国債はもちろん、米国債のユーロ債もその基盤が揺らいでる状況で、現時点でデフォルトの心配のない日本国債は、いわば安全な避難所として認識されたているのです。 続く
2010.07.24
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19世紀のアメリカ(80)第3章 南北戦争と再建…6奴隷制度を巡る南部と北部及び中西部の争いは、やがて司法を巻き込むことになりました。連邦最高裁判所が、奴隷制度の存在の正当性を認め、その上でさらに、「奴隷は財産であるから、私有財産の不可侵を定めた憲法の規定に照らして、その存在は常に保障される」と宣言したのです。奴隷制度を否定することは勿論、奴隷制度の存在地域を制限するだけでも、憲法条項の修正が必要であることが、宣言されたのです。こうなると南部での支持は期待できない共和党は、北東部や中西部の要求を積極的に取り込み、支持を広げていく必要が生じたのです。ここに共和党は、内陸部における交通手段の拡充、大陸横断鉄道の建設の推進、関税の引き上げ、そして中西部農民の要望の強い「自営農地法(ホーム・ステッド法)」の推進といった、連邦政府権限の強化なしには、実行に移せない政策の実現を目指したのです。当然、州の権限の擁護を目指す南部は、連邦政府権限の強化には、真っ向から反対でした。南部地域での支持獲得を最初から当てにしていない、共和党という政党が、北東部や中西部での支持を急速に拡大している現実は、いよいよ南北の対立を抜き差しならないものとしたのです。1860年5月、共和党は早々と、リンカンを次期大統領選の候補として指名したのです。これに対して民主党は候補者の1本化に失敗したのです。民主党多数派は、58年のイリノイ州上院議員選挙で、僅差ながらリンカンに勝利したスティーヴン・ダグラスを候補としました。奴隷制の是非は、開拓地住民の意向で決めるという、カンザス・ネブラスカ法の精神を守るというダグラスの主張は、こじれた北部らとの関係を修復しうる可能性を、僅かに残すものでした。しかし南部民主党の急進派は、穏健派の主張に組せず、全ての開拓地に奴隷制を広げるという、妥協の余地の全くない強硬論を唱えたのです。彼らはダグラスを大統領候補とすることを認めず、ジョン・ブレキンリッジを独自候補として、大統領選に臨みました。60年の大統領選挙は、皆さんご存知の通り、共和党のリンカンが大統領に当選した選挙です。歴史にタラ、レバはないのですが、選挙結果は微妙でした。ダグラス候補とブレキンリッジ候補の得票合計は48%に達し、リンカン候補の40%を大きく上回っていたのです(3人以外の候補の得た得票は10%以上ありました)。民主党が分裂選挙を回避していれば、なお民主党ないし、民主党に近い政治家が大統領となり続けていただろうと、私も思います。リンカンは、そして共和党は、この時点では南部の支持をまったく期待できない候補であり、政党でした。そういう大統領が登場する連邦に、残っている必要があるのか。おそらく南部急進派に属する人々は、リンカン勝利の場合、連邦を離脱するという選択肢を、温めていたのかもしれない。私はこんな風に考えています。 続く
2010.07.24
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クロニクル 国定公園の誕生1950(昭和25)年7月24日ちょうど60年前になります。この日、日本で始めての国定公園として、琵琶湖国定公園が指定されました。3日後の27日に佐渡弥彦国定公園が指定を受け、さらに2日後の29日には、耶馬日田英彦山国定公園が指定されました。国定公園とは、国立公園に準じる景勝地として、自然公園法に基づいて環境大臣が指定した公園を指します。国立公園が国の直接管理なのに対し、国定公園は都道府県が管理する点が違っています。国定公園の中で、最も最近に指定された景勝地は、2007年8月3日指定の京都府の丹後天橋立大江山国定公園です。現在までに指定された国定公園は、全部で62箇所ですが、その後に国立公園に昇格した地域もあるため、現在は国定公園は56箇所となっています。
2010.07.24
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19世紀のアメリカ(79)第3章 南北戦争と再建…51856年に共和党に加わったリンカンは、2年後の1858年、イリノイ州共和党の連邦上院議員候補に指名されました。このとき49歳、全国的にはなお無名の存在でした。民主党の候補は、北東部民主党の重鎮スティーヴン・ダグラス。勝ち目の薄い戦いと読んだ新生共和党は、無名のリンカンを対立候補とすることで、不戦敗を避けたのが現実でした。しかし、この時リンカンは、奴隷制の問題を巡って、果敢にダグラスに論戦を挑みました。この論戦を通じて、リンカンは共和党を代表する論客の1人と認められ、大きく頭角を現すことになったのです。リンカンは、ダグラスに対し、「奴隷制度との妥協はもはや許されるものではない。」「奴隷制に対する我々の態度は、根本的には人間の自由を求める精神のあり方、即ち道徳上の問題である。」と詰め寄ったのです。しかしリンカンは、その一方で、「いま共和党が問題としているのは、既存の南部の奴隷制ではなく、新たな開拓地への奴隷制の拡大である。」と主張し、奴隷制の悪を指摘しながらも、既存の南部諸州の奴隷制は、容認する姿勢を明確にしていました。リンカンは、極めて現実的に対応する姿勢を、表明していました。それゆえ、リンカンは奴隷制不拡大論者に分類されます。当時の共和党主流は、皆この奴隷制不拡大の立場をとり、リンカンの立場と基本的に一致していたのです。選挙の結果は、僅差でダグラスの勝利となりました。しかしリンカンは、全国的に著名なダグラスとの論戦で、1歩も引けを取らなかったのです。しかも圧倒的劣勢が予想されていた選挙での大善戦という結果も残したのです。このことがリンカンを、次の60年の大統領選挙における、共和党の有力候補の地位に押し上げたのです。 続く
2010.07.23
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クロニクル なだしお事件1988(昭和63)年7月23日あれから22年が経つのですね。この日、横須賀港北防波堤灯台東約3kmの沖合いで、海上自衛隊の潜水艦「なだしお」と、遊漁船第1富士丸とが衝突。第一富士丸は轟沈しました。第一富士丸の乗客39名、乗員9名のうち30名が死亡し、17名が重軽傷を負いました。死者のうち、28名は沈没した船体の中から、1名は現場付近の海中から遺体で発見されました。残りの1名は救助後病院で死亡したものです。さらになだしおの艦長らが衝突時の航海日誌を後に改竄していた事や、なだしおの軍事機密とされる旋回性能の検証開示を行わせたことでも話題となった。この事件によって瓦力防衛庁長官が引責辞任をしています。
2010.07.23
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19世紀のアメリカ(78) 第3章 南北戦争と再建…4 カンザス・ネブラスカ法の成立は、住民自治の美名の下に、南部の延長線上にない地域にまで、黒人奴隷制度を押し広げようという意図を隠し持っていました。この事実に危機感を持った北部の議員有志が、自由州の議員たちに送ったアピールがあります。「新しいネブラスカ法案(カンザス・ネブラスカ法を指します)が上院準州委員会を通過した。もし不幸にして、この法案が議会の承認を得ることになれば、合衆国の開発途上地域(当時はテリトリーと言っていました)全てに、奴隷制の侵入を許すことになりかねません。」「我々はこの法案を、わが国の神聖な誓い、貴重な権利を決定的に侵害するものとして糾弾する。 我々はこの法案が、旧世界からの移住者や、わが国各州に住む自由な農民や労働者を、広大かつ未組織のわが国領土から排除し、その地を奴隷主と奴隷が群れるおぞましい専制支配の場に変貌させようとする、悪辣な策謀の一環であると告発する。…」と。サーモン・チェイスの起草したこの檄文は、新聞各紙に掲載され、大きな反響を呼びました。こうした檄にも関わらず、法案は成立しました。その結果はどうなったかというと、南部から遠いカンザスは別として、奴隷州に隣接するネブラスカの開発地域(テリトリー)においては、南部から奴隷主とその支持者が、中西部からは奴隷制反対派の住民が、夫々に大挙して移住して、多数派を制するための争いが激化したのです。ここでは奴隷制支持派と奴隷制反対派の住民が対立し、準州政府をまともに組織することが出来ない状態に陥ったのです。1856年に入ると、奴隷制支持派と奴隷制反対派が、夫々に準州政府を樹立したと宣言して、互いに対立、反対派への相互襲撃や虐殺など、収拾のつかない混乱と武力抗争にまで発展したのです。こうした危機に背中を押されて、相互の経済的な繋がりを強めていた北東部と中西部の政治勢力は、南部に対抗しうる新しい政治勢力を樹立しようと、混迷する政治勢力の再編に動いたのです。こうしてチェイスの檄文が播いた種子は、共和党の結成という形で、実を結ぶことになったのです。共和党は、「奴隷制の拡大に反対する」という1点で結びついた人々にって組織された政党です。共和党の名称は1854年7月から散発的に登場しますが、11月の議会選挙までには、北東部と中西部の各州に、共和党の組織が誕生しています。イリノイ州(州都はシカゴ)の地方政治家、エイブラハム・リンカンが共和党に参加したのは、1856年のことでした。 続く
2010.07.22
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クロニクル 宮沢首相退陣を表明1993(平成5)年7月22日17年前になります。この日、宮沢首相は、「自民党分裂と総選挙敗北の責任を取る」として、首相退陣を表明しました。細川連立政権が誕生するのは、この20日程度後のこととなります。
2010.07.22
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世界経済の現状(154)日本国債の金利は世界1低いのです。国債の発行残高は670兆円を超えているのにです。しかもこの金利の低さは、短期国債に限らないのです。20年満期、30年満期といった超長期債の金利も、1%台半ばという低さなのです。日本の国債は多様な発行形態がとられていますが、期間だけ見ても3年以内の短期国債、5年や7年といった中期国債、10年の長期債、そして15年以上の超長期債に分かれます。このうち期間15年、20年、30年といった超長期債の金利が、春以降コンマ3~4%下がって、現在は1,5%以下の金利になっているのです。日本国債の保有を増やしているとされる中国が、買っているのもこうした超長期債です。マスコミは中国の保有高が1兆円を超えたと騒いでしますが、外貨準備が200兆円を超える中国です。1兆円はのその0,5%に過ぎません。それに発行残高の多い日本国債です。中国の保有が今の10倍の10兆円、20倍の20兆円になったところで、せいぜい全体の2%~3%に過ぎないのです。全く問題になる額ではありません。本論に戻りましょう。長期債、超長期債の弱点は、とりわけ低金利時に発行した際の弱点は、やがて金利が上昇したとき、市場で流通する債券価格が下落する形で、調整されることです。即ち、低金利の超長期債は変動金利でない限り、経験されて買い手が現れないのが普通なのです。ところが日本国債に限っては、相変わらず飛ぶように売れています。そして発行後も調達したい大口投資家が後を絶たず、さらに金利が低下しているのです。少なくとも、マスコミやエセ評論家諸氏と違って、債権投資のプロたちは、日本のデフォルトは当分心配ない。日本では、今後かなり長期に渡って、安定的に低金利が続くであろうし、自転車操業であっても、日本がデフォルトに陥る心配はないと、考えていることが見て取れます。債券を実際に売買している人たちは、日本国債の将来に不安を持っていないことが、理解できますね。 続く
2010.07.21
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19世紀のアメリカ(77) 第3章 南北戦争と再建…3北西部から分離した中西部の住民達には、オレゴンへの移住熱が高かったことは、第2章に記しました。そうした中西部から太平洋への道、それも可能な限り速い道をどのように開拓するか。それが北西部並びに中西部出身の上院議員にとっては、大きな課題でした。イリノイ州選出の上院議員ダグラスは、そこにカリフォルニアと中西部を鉄道で結ぶ、大陸横断鉄道の建設構想をぶつけたのです。西へ』西への拡大要求は、何も南部だけの要求ではなかったのです。1853年ダクラスは、ネブラスカに準州を組織する法案を議会に提出しました。ネブラスカは北緯36度30分の北にありますから、1820年のミズーリ協定の線に即して、当然そこには奴隷州は建設できません。それ故に、自由州の優越を嫌う南部出身の議員たちは、ネブラスカの近い将来における州昇格に道を開く、準州組織法案を潰そうと図ります。一方、可能な限り早く大陸横断鉄道の建設を具体化したいダグラスのグループは、ネブラスカの準州昇格を急ぎました。南部の議員たちはここにつけ込み、ニューメキシコとユタについての協定であった「1850年の妥協」を、ミシシッピー川以西の旧ルイジアナ買収地全体に広げることに成功したのです。即ち1854年5月に成立したカンザス・ネブラスカ法は、北緯36度30分以北にあるカンザスとネブラスカに関しても、自由州となるか奴隷州となるかの決定は、州を編成する際の住民の意思(投票による)で決めると、定めたのです。これは。ミズーリ協定の線からすると、明らかに後退です。下の地図に示したように、この結果、理論的には奴隷州は、36度30分の線を越えてカナダ国境にまで広がる可能性を獲得したのです。当然黒人の存在そのものを嫌う、北部、北西部、中西部の人たちにとって、これは我慢のならないことでした。 続く
2010.07.21
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クロニクル 『指輪物語』刊行始まる1954(昭和29)年7月21日56年前になります。トゥールキンの代表作、『指輪物語』の第1部、「旅の仲間」が、この日イギリスで発売されました。日本語版の出版は、1972年~75年にかけて、評論社から出されました。
2010.07.21
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19世紀のアメリカ(76) 第3章 南北戦争と再建…2 西方への奴隷州の拡大こそ、奴隷制プランテーションの生き残りに欠かせないと考える南部のごり押しに、北部や北西部の態度も次第に硬化していきました・そうした中で成立したのが、「1850年の妥協」でした。しかし、この妥協には問題がありました。カリフォルニアが自由州として連邦に加わること、その見返りに自由州が逃亡奴隷の取締りを強化すること、この2点には何の問題もありませんでした。問題は第3点、テキサスとカリフォルニアに挟まれた開拓地、ニューメキシコやユタと呼ばれた未開拓地の扱いにありました。この地は、準州や州に昇格する時点で、住民の意思によって自由州となるか奴隷州となるかを選択することになっていました。即ち住民意思によって制定される州憲法の内容によって、決せられることになっていたのです。この規定は、南北の対立の焦点にある問題、黒人奴隷制度を是とする州の増加を認めるか否かという、ホットな政治課題を先送りするという、政治家達のまさに妥協の産物でした。住民主権の承認という言葉が、この妥協をオブラートに包んだのです。しかし、50年代に入ると、先送り出来ない問題が、住民主権に絡んで次々に登場してきたのです。新しい問題は、ユタでもニューメキシコでもなく、その北に連なるルイジアナ購入領土の一角にある、北緯36度30分以北の地を、準州に組織し連邦に加える構想から問題が発生したのです。やがて、カンザス・ネブラスカ法として知られる問題が、ここに登場したのです。 次回は、この問題を記します。 続く
2010.07.20
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クロニクル 祝日法公布1948(昭和23)年7月20日成立して62年ですか。この日「国民の祝日に関する法律(略称祝日法)」が公布・施行され、年間9日の祝日が定められました。当初の祝日は、全体で9日のみ、2月、6月、7月、8月、10月、12月は祝日なしでした。その由緒ある9日は、以下の通りです。1月 1日 元旦 15日 成人の日(全国一斉徴兵検査の日)3月 21日前後 春分の日 太陽が赤道上空にある日 うるう年は日が変わります。4月 29日 天皇誕生日5月 3日 憲法記念日 5日 子どもの日 端午の節句でした9月 23日前後 秋分の日 3月と同じ事情で変化があります11月 3日 文化の日 明治天皇の誕生日、天長節でした。 23日 勤労感謝の日 近代日本は養蚕・生糸産業を中心に資本主義の発達を進めました。蚕は年に2度、繭を作ります、春蚕と秋蚕です。そして、そのピークは水田稲作中心の日本の農業のリズムに無理なく溶け込んでいました。春蚕を終えると、田起こしの時期、稲の借り入れを終えると秋蚕の時期でした。ですから明治の昔から、23日は1年の収穫を祝う日だったのです。ここで一つの問題は、5月5日の端午の節句は、こどもの日として祝日となったのに、3月3日のひな祭りは、祝日とならなかったことです。憲法が男女平等をうたっても、なお当時の日本社会が、男尊女卑の女性差別意識を払拭できないでいたことが、良く理解できる一齣でした。
2010.07.20
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世界経済の現状(153)「日本はこのままでは第2のギリシアになる」と、財務省幹部は口を揃えて菅首相を説得したと、囁かれて」います。本当なんでしょうか。「今、財政を再建しないと大変なことになる」と主張して、大型間接税の導入(当時は付加価値税が構想されていました)を始めて主張したのは、1779年当時の大平首相でした。そして大平首相は選挙で破れ、党内抗争には何とか勝ったものの、こうした心労から翌年5月、解散総選挙の最中に心筋梗塞で倒れ、帰らぬ人となりました。その後5年の長期政権を担った中曽根首相が再提案した売上税構想も頓挫し、結局竹下内閣で3%の消費税として日の目を見たのは、大平構想から10年も経った1989年のことでした。しかし、その3%が5%となっても、一向に財政再建の成果が上がらないのは、不思議ですね。そして成果が上がらない割りに、大変だ大変だと言いながら、一向に日本国債の金利は上がらず、円は79年当時は勿論、日本がバブルの絶頂期にあった89年当時に比べても、なお強いというのは一体なぜなのでしょうか。国債の金利は僅かに1%台前半のままで、世界でもっとも金利が低い、安定度ナンバー1の国債の地位を維持しています。これで第2のギリシアと言われて、信じてしまうというのは、いかにもお人よしが過ぎるように思います。30年も前から、当時の大蔵省、今の財務省は同じことを言っているのです。そして20年以上前から、国際大暴落を言い続けてる評論家もいます。こいう人たちは、まさに「狼が来るぞー」といい続けた少年と同じですね。なぜ、日本円は高いのでしょうか。そして日本国債の金利は、世界最低のままなのでしょうか。本当に危なければ、こんなことはありえません。現実の世界では、近い将来における日本国債のデフォルトを心配する大口投資家はいないことは、この事実から明らかなのです。そして、日本円は世界の投資家に信頼されていることもまた証明されています。この事実を、先ずはしっかりと確認しておきましょう。 ザビ
2010.07.19
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19世紀のアメリカ(75) 第3章 南北戦争と再建…1いったいなぜ、南部と北部の関係は、南北戦争という近代史上最大の内戦を生むことになったのでしょうか。アメリカ合衆国は連邦制をとり、各州に大幅な自治権を与えています。新たに合衆国に加わる州についても、住民の意向を最初から無視するなどということは、まずありません。にもかかわらず、1840年代の後半以降、北部及び北西部中心の自由州と、南部及び南西部中心の奴隷州の関係は、次第に険悪の度を増していました。その原因は南部奴隷州の中核をなす大プランター層の危機感にありました。その原因は英仏を中心とするヨーロッパ諸国での人権思想の発達にありました。そこでは先ず奴隷貿易の禁止法が制定され、次いで奴隷制度そのものが禁止されるに至ったのです。南部のプランターたちは、大小を問わずこの事実に危機感を持ちました。やがてアメリカでも奴隷制度が禁止されるのではないか。それを避けるにはどうしたらよいか。ここから南部や南西部のプランターは、奴隷制度の西への拡大、未開の西部を開拓し、その地に奴隷州を広げることこそ、南部の奴隷制を守るための砦である。彼らはこう考えたのです。そのため、テキサス共和国の合衆国への編入を急ぎ、さらにはメキシコを挑発して戦争を誘発し、太平洋岸にいたる領土を、強奪に近いやり方でむしりとることまでしたのです。しかし、このやり方が北部や北西部の猜疑心を高め、奴隷制度の外的拡大を巡る緊張感を高めたので。ここで、注意して欲しいのは、既に奴隷制度を導入している州の、奴隷制度を問題とする議論は、どこにも存在していないことです。前回の(74)に記した1850年の妥協でも、北部や北西部は逃亡奴隷の取り締り強化を受け入れているのです。北部は、奴隷制度を問題にしているのではなく、黒人を嫌い、黒人と同じ空間に住みたくないという強烈な差別意識から、奴隷制の拡大に反対していたのです。 続く
2010.07.19
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クロニクル 「青い山脈」封切り1949(昭和24)年7月19日61年前のことになります。この日東宝系で製作した今井正監督の「青い山脈」が公開されました。石坂洋二郎の同名の小説の映画化でした。当時の日本は、戦後の悪性インフレを是正すべく導入されたドッジラインいよる、厳しいデフレ政策がとられていたのですが、そうした暗い世相を吹き飛ばす、明るい作風、明るい作品として、大変な人気を博しました。主役の寺沢新子には杉葉子、六助は池辺良、島崎先生は原節子、そして沼田校医に龍崎一郎という顔ぶれでした。 映画の公開に先立って、発売された主題歌は、藤山一郎と奈良光江のデュエットで発売され、これまた大ヒットとなりました。映画はその後、57年、63年、75年、88年にも製作され、都合5回も製作されました。
2010.07.19
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19世紀のアメリカ(74) 第2章 明白なる天命…35南部の奴隷制擁護派も議員たちが、いかにカリフォルニアに奴隷制度を持ち込もうとしても、この地に殺到した新住民は、奴隷を引き連れる奴隷主が新天地カリフォルニアにやってくることを、明確に拒絶していました。州民の拒否することを中央政府や議会が命令することは出来ません。それが米国の建国以来の伝統です。州昇格に当たって、カリフォルニアは奴隷制を明確に拒否して、自由州として合衆国に参加することを宣言したのです。これは、南部の奴隷制擁護派には痛手でした。彼らがテキサス併合に熱心だった理由、そしてメキシコ戦争に邁進した理由は、新たに獲得した新領土に将来できるであろういくつかの州を、全てどれいと州とすることこそが、合衆国における南部の奴隷制を将来にわたって生き延びさせる、確かな道であると固く信じたからでした。いま、その期待が水泡に帰そうとしている。南部には、この頃から連邦離脱論が登場します。しかし、この時はなお両派の妥協が可能だったのです。1850年の妥協がそれです。まず、カリフォルニアは自由州として連邦に加わることを認める。その代わり、メキシコから獲得した領土に出来る他の州については、奴隷制に関する何らの制限も設けずに、準州と名あることを認める。自由州における逃亡奴隷取締りを厳格化する、逃亡奴隷取締法を制定するなどが、その妥協の産物でした。こうして南北分裂の危機は、一応切り抜けることが出来ました。しかし、それは一時的なものに過ぎず、一触即発の状態はなお続いたのです。 第2章 完 明日から第3章
2010.07.18
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クロニクル 光化学スモッグ初見参1970(昭和45)年7月18日17日には、各地で梅雨明けのシグナルが発せられ、今年も光化学スモッグに注意すべき時期となりました。この光化学スモッグが、初めて登場したのが、ちょうど40年前の今日でした。場所は東京の杉並区。東京立正中学校・高等学校の体育の授業中に、突然生徒達が目の痛みや頭痛等を訴えて倒れ、43人が病院へ運ばれましたた。事態を重く見た東京都は、東京都公害研究所に調査を依頼しました。研究所は慎重に検討を進め、この事故は、光化学スモッグによるものと推定、発表したのです。これが、日本では最初の光化学スモッグの発生でした。その後、学校等への指導として、光化学スモッグ注意報の場合は、屋外での激しい運動は控える。光化学スモッグ警報の場合は、たたちに屋外の運動は中止する。この2点が通知されたのです。最近は、環境意識の高まりと取り組みの結果、原因物質の除去が進み、光化学スモッグ警報の発令が、大きく減少してきています。
2010.07.18
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政治を斬る(114)私は、現代の政治は、主権者である国民の福祉を増大させることに、大きな使命を感じてこそ、支持を広げることが出来ると考えています。しかし、このことを効率的に実行できる政府が今まであったでしょうか。少なくとも日本ではなかったように思うのです。今までの日本の政府や官僚たちは、税金という人の金を、自分達の権益拡大に利用するばかりの、重くて弱い政府ばかりだったように思うのです。そんな政府に、これ以上の資金を任せるような愚行は、避けなければならない、私はこう考えています。無駄を排除し、「重たい部分」を全て整理し、「軽い」政府が出来た所で、資金を効率的で・効果的に資金を使用できる「強い政府」が誕生するかどうか、そこをしっかり見届けたいと、考えています。 続く
2010.07.17
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19世紀のアメリカ(73) 第2章 明白なる天命…34カリフォルニアにやってきた人々は、金鉱を掘り当てることを願った人たちでした。彼らの多くは一攫千金を夢見た徒手空拳の貧しく人々です。彼らは南部から来た奴隷主が、奴隷を使って金を掘ることに強く反発し、実力で奴隷を使っての採掘作業を妨害したのです。それゆえ、州への昇格基準を満たしたカリフォルニアは、当然の如く自由州としての州昇格w希望したのです。これに南部諸州が強く反発しました。1820年のミズーリ協定を思い出してください。このミズーリ協定は、1803年にフランスのナポレオンから買い取ったルイジアナ地域に限って適用される協定でした。ですから、カリフォルニアやニューメキシコには、適用されないのです。そしてもし、暫定的にミズーリ協定の太平洋岸まで適用することにしたとしても、奴隷州の北限とされた北緯36度30分の線は、カリフォルニア州には、適用不可能だったのです。南北に長いカリフォルニアは、この線の南北に跨って存在したからです。北部はこれ以上奴隷州を増やすことに反対でした。別に北部の人たちが、黒人奴隷の人権に拝配慮し、奴隷制の廃止を構想していたわけではありません。北部の人たちは黒人を毛嫌いし、黒人を排除して、黒人を意識しない暮らしが出来ることをひたすら望んでいたのです。対黒人の意識においては、北部人は南部人以上に排他的で、差別的でした。こうして、再び奴隷州の扱いを巡る南北の対立が深まったのです。 続く
2010.07.17
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クロニクル ウルトラマン登場1966(昭和41)年7月17日東京五輪から2年後の夏でした。間もなく夏休みに入ろうと言う日曜日のことです。44年前の今日のことです。時刻はまだ明るい午後の7時でした。円谷プロ製作の「ウルトラマン」が、TBS系で放送を開始しました。この初代ウルトラマンシリーズは、翌年4月全39話で放送を終えましたが、その後はウルトラシリーズとして、何度も放送され、長寿の人気番組になりました。
2010.07.17
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政治を斬る(113)6月22日以来ですね。久々の「政治を斬る」のシリーズです。菅民主党の参院選での敗北が、消費税の倍額への増税発言のせいであったかについては、疑問が残ります。参院選で60議席またはそれ以上を獲得した政党が、3年後にもう1度(ということは2回続けて)60議席を獲得したことは80年代なかば以降は、一度もないからです。ということは、国民は、衆議院で過半数を占める政党に、参院でも多数を占める選択はしないという判断がそこにはあります。今回もこの原則通りの結果が出たのです。しかし、今回の結果には、警戒を要することがあります。消費税の増税に明確に反対を表明しているのは、みんなの党、公明党、共産党、社民党などの中小政党ばかりで、民主党と自民党は、消費税の引き上げでは一致していることです。政治は権力闘争の世界です。昨日の敵は今日の友の図式は、ニクソン訪中や独ソ不可侵協定を持ち出すまでもなく、日常茶飯に起こりえます。これが怖い。なぜかと言うと、私は現状での消費税増税に強く反対しているからです。そうは言っても、今の財政の現状を見れば、増税はやむを得ないのではないかという反論が、皆さんから沢山ありそうです。それでもなお、私は現状での消費税の引き上げに反対です。なぜか。現在の政治状況で増税しても、財政は好転せず、早番再度の値上げが話題になり、増税地獄に陥るだろうと読んでいるからです。今の政治家に増税で確保した税収を預けるくらい危ないことはない、こう考えるからです。政府・民主党の主張も、自民党の主張も、増大する一方の社会保障費を人質に、北欧型の高福祉国家の成功例を示して、高福祉高負担を国民に認めさせようとしています。弱者に厳しい米国型の低負担低福祉を望まないのなら、高負担の「大きな政府」を選ぶしかないとも、言っています。この大きな政府論には、2つの大きな落とし穴があります。第1は、今の日本の政治家に高福祉を実現する能力があるのかという疑問です。3%の消費税も5%に引き上げた消費税も、いったい何処に消えたのでしょうか。無駄遣いと失政に明け暮れた自公政権は勿論ですが、現在の民主党政権も、スタンドプレーと右往左往が目に付きますが、労組と公務員の利権を守る政党であるという点では一貫しています。第2は、より深刻な問題です。大きな政府が成功するためには、高負担の税収が効率的かつ効果的に高福祉に還元されなければなりません。しかし、日本では官僚組織が税収を吸い取り、その上民が担うべきビジネスまで浸蝕している現実があります。民間の競争力を活用することを目指して導入したはずの独立行政法人は、今どうなっているでしょう。今では官の利権の巣窟として機能しているものが少なくありません。そして、ここには仕分けのメスも入っていない現実があります。こうした現実を意識するがゆえに、私は「大きな政府」か「小さな政府」かを考える前に、肥大化を続けてきた官僚組織という「重たい政府」機構に大ナタをふるい、フットワークの良い「軽い政府」に改革する必要があると考えています。増税論議はそれまで封印しないことには、いくら増税しても、財政赤字は少しも改善しない悪循環に陥るだけなのではないか。私はこう考えています。官僚や官僚に丸め込まれた菅内閣の言うことを、鵜呑みにしてはなりません。 続く
2010.07.16
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19世紀のアメリカ(72) 第2章 明白なる天命…33 時ならぬ金塊発見の報で、カリフォルニアの様相は一変します。金塊発見の前年、1847年のカリフォルニアの人口は、2.000人程度でした。それが48年末には2万人に達し、49年末には10万人を越えるほどに膨れ上がったのです。サクラメント渓谷を目指す人々が次々に押し寄せてきたのです。金塊の見つかったエルドラド郡に向けて、一攫千金を夢見る山師と化した人々が、中西部からオレゴントレールを伝って現れ、ロッキーの懐で、オレゴンへの道と分かれて、カリフォルニアへと南下したのです。東部の人々は海路をとり、パナマ地峡を横断して、そこからサンフランシスコへ太平洋を遡りました。南部の人々は、メキシコを横断してカリフォルニアへと向かいました。1850年のカリフォルニアの人口は、白人だけで12万人に達していたと言われます。ゴールド・ラッシュの凄まじさが、はっきりと伝わってきます。カリフォルニアに移住した人々は、49年の移住者が圧倒的多数を占めているが故に、「49年組(=フォーティ・ナイナーズ)」と呼ばれます。日本で「雪山賛歌」の名で知られる「クレメンタイン」の歌も、フォーティ・ナイナーズの1人の娘さんが作ったと伝えられています。しかし、このカリフォルニアの人口急増は、政治的に困難な問題を生み出しました。白人人口6万人が、合衆国においては州昇格の基準でした。49年に白人人口10万人を越えたカリフォルニアは、十分に州昇格の基準を満たしています。政府がなければ、無法状態が続くくことになりますから、これは由々しき問題です。しかし、そこには難しい問題がありました。 続く
2010.07.16
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クロニクル 『ライ麦畑でつかまえて』発売1951(昭和26)年7月16日ちょうど今年で発売59年になるのですね。そうなんです。日本でも未だに売れているA.Dサリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』が、59年前の今日、アメリカで発売されました。まだ読まれていない方のために、作品の紹介は慎みますが、最後のクライマックスシーンを導くために、主人公の少年の3日間の彷徨の物語が積み重ねられていくことだけ、紹介しておきます。この小説は、現在までの累計発行部数は全世界で6000万部、アメリカ合衆国で1500万部を超え、最近でも全世界で毎年25万部が売れると言われています。日本でも、最もポピュラーな野崎孝訳の白水社本が、300万部を売り上げています。
2010.07.16
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19世紀のアメリカ(71) 第2章 明白なる天命…32現在のカリフォルニア州のほぼ中央部、シェラ・ネヴァダ山脈の麓の丘陵地帯を、曲がりくねりながら走る国道49号線と、国道50号線が交差する地点から、約7キロほど北に入った辺りに、コロマという小さな村があります。この場所で、1848年の1月、カリフォルニアで最初の金が見つかったのです。ここには、当時サクラメントにあった開拓者の根拠地サッター砦から、人が派遣されて作られた、製材所が置かれていました。この製材所の監督マーシャルが、1月19日に金を発見したのです。この日は寒い日でした。マーシャルはいつものように、朝食前に散歩を兼ねて、周辺の見回りに出たのです。雨でしたから、特に水路の見回りに気を配ったのも、当然の成り行きでした。そして、この時マーシャルは水中に何か光るものを見つけたのです。手を突っ込んで拾い上げてみると、えんどう豆の半分くらいの大きさの黄金色をした塊でした。目をこすってよく見ると、附近にも同じような塊があります。マーシャルは腰が抜けるほど驚いて、しばらく呆然と座り込んでしまったそうですが、その後気を取り直して、固い岩にぶつけてみると、砕けることなく柔らかになったので、金であることを確信したと言われます。それから4日目の22日、マーシャルは50マイルほど離れたサクラメントに、サッター大尉を訪ね、金の発見を報告しました。俄かには信じなかったサッター大尉も、実物を見せられて狂喜します。このニュースは、すぐに部隊全員に伝わり、さらにはあっという間にカリフォルニア中に伝わります。兵士も農民も、さらには船乗りまでもが、仕事を放り出して、シェラ・ネヴァダの山麓に殺到しました。こんなエピソードが知られています。カリフォルニアの地方紙『カリフォルニアン』紙は、48年5月29日に、遂に休刊を発表したのです。購読者や広告主が金脈を掘り当てようと、町を去ってしまったのです。このニュースは瞬く間に東部にも伝わり、6月初旬には、既に2千人以上の人が、金を掘っており、12月までには、約1千万ドルもの黄金が発掘されていたのです。 続く
2010.07.15
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クロニクル 日本 東京オリンピックの開催を返上1938(昭和13)年7月15日「オリンピックの開催を返上するなんて」と、驚かれたでしょう。でも本当にあったのです。72年前のことです。1940(昭和15)年のオリンピックは、東京で開かれることになっていました・。しかし、1937(昭和12)年の7月に始めた日中戦争は、上海から南京、さらには武漢へと拡大の一途を辿っていました。同じくヨーロッパの戦雲も益々色濃くなってきており、遂にこの日、日本政府は東京五輪の開催を遠慮する旨、国際オリンピック委員会(IOC)に通知しました。第二次世界大戦が始まる1年と少し前のことでした。結局1940年の五輪は中止となりました。
2010.07.15
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19世紀のアメリカ(70) 第2章 明白なる天命…31 新しい交通手段である、鉄道の建設は、製鉄業の発達を伴いながら、1840年代から急速な成長を見せます。合衆国の東部及び中西部における、新しい交通手段として脚光を浴びた鉄道は、1840年の総敷設キロ数5,358キロから、50年には14,289キロへと、2,67倍に増えていました。そして50年代に実施に移される、数多くの鉄道建設計画も、この時期から練られ始めていたのです。40年代には、ニューヨークとフィラデルフィアカンの鉄道が開通し、フィラデルフィアからは、ビッツバーグまで延長されました。中西部では、シカゴを起点に、クリーヴランドやビッツバーグへの鉄道が敷かれていました。ですから、シカゴからサンフランシスコやオレゴンのピュージェット湾への鉄道建設計画の浮上は、もはや夢物語ではなく、合衆国の膨張した領土が、将来は間違いなく有機的な交通体系によって繋がる、実質的な大陸国家の構成要素となることが、想定されていたのです。南部の奴隷制支持勢力の要求、中西部農民のオレゴン移住への意欲、そして北東部の行行や海運業、貿易業などに携わる人々の要求、さらに鉄道建設推進の気運などが、「明白なる天命」旗印の下に進められた、太平洋岸までの膨張政策の複合的な推進力となったのです。対メキシコ戦争は、1848年2月に終了しました。ここで、ニューメキシコとカリフォルニアは、合衆国に併合されることとなりました。ところが、この条約(グアダルーペ・イダルゴ条約と言います)が結ばれる1ヶ月前、1848年1月に、サンフランシスコ東方のサクラメント渓谷で、ひょっとした偶然の悪戯で、金が発見されたのです。 続く
2010.07.14
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クロニクル ノーベル、ダイナマイトの特許取得1867(慶応3)年7月14日143年前ですね。この日、アルフレッド・ノーバルは、ダイナマイトの製法に関する特許を取得しました。ノーバルは先輩化学者アスカニオ・ソブレロが発明した危険な爆薬ニトロ・グリセリンに改良を加え、実用化することに成功します。そしてそれをさらに安全に使えるように改良してダイナマイトと名付けて発表しました。ダイナマイトは、工事現場での岩盤の破壊などの作業を効率化するものとして、広く普及しました。ノーベルはダイナマイトの開発で、巨万の富を築き、その資産を基礎にノーベル賞を制定しました。
2010.07.14
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祝スペイン優勝決勝進出三度目のオランダ、「三度目の正直」とはならず、「2度あることは3度ある」になりましたね。結果は決勝戦初進出のスペインの勝利になりました。スペインは好選手、名選手を輩出していますが、ワールドカップでは、これまでベストフォー進出が最高成績でした。なぜか。今回フランスチームが内部分裂で自滅したように、これまでのスペインは、チームワークが取れずに、実力を出し切れずに晴れの舞台から去っていました。それは建国以来の地域対立を、サッカー界も背負ってしまっていたからでした。コロンブスの航海を支援したのは、カスティーリャ(その中心地がマドリード)女王のイサベルと、その夫でアラゴン連合王国(アラゴンとカタルーニャの連合、中心地はカタルーニャの都バルセロナ)の王フェルナンドの2人でした。2人の孫のカルロス1世の時代になって、ようやく両王国はスペイン帝国になって行くのですが、カスティーリャとその他地域は、なかなか融合せず、地域間の反目が続きました。スペインはカスティーリャが主役を演じ、カスティーリャ語がスペイン語と呼ばれるようになったのですが、カタルーニャやバスクの人々は、カスティーリャ語であるスペイン語を、なかなか話そうとしなかったのです。そしてバスク地方、ピカソの絵で知られるゲルニカはバスクの地方都市でした。ここは現在でもスペインからの独立を目指す勢力が、かなり大きな力を持っている地域です。こんなわけで、スペインのサッカー選手は、異なる地域出身の選手と一緒にプレーすることを嫌い、欧州クラブリーグの試合を優位に置き、ワールドカップの代表選手になることを、名誉と考えない風潮が、はびこっていたのです。チームワークが悪く、選手の連携はなく、夫々が個人技に走る。これでは実力ある選手達が、チームプレーに徹するチームに勝てるわけがありません。そんなスペインが、変わったのは2年前の欧州選手権の優勝で、国中を熱狂させた経験が大きかったと言われます。そこからスペインチームは大きく変わりました。個人技と強引なドリブルに走る選手は影を潜め、効果的で華麗なパスサッカーに徹するチームが出来上がっていました。数百年続いた地域対立を、ようやく突き抜けた所に、2010年ワールドカップでの、スペイン初優勝の美酒が待っていたのですね。スペインの地域対立が克服できると、この国も大きく替われるかもしれませんね。
2010.07.13
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19世紀のアメリカ(69) 第2章 明白なる天命…30ポーク政府が、メキシコに戦争を仕掛けた裏には、実はカリフォルニアに対する明確な野心が隠されたいました。テキサスとカリフォルニアに挟まれたニューメキシコに、どれだけの価値があるかは問題ではなかったのです。そこは単に、カリフォルニアへの通過点であり、そうである限り合衆国が領有する必要がある。ポーク政権の主張は、単純明快でした。ポークのカリフォルニアへの関心は、東部のニューヨークやボストンのアジア貿易関係者によって、吹き込まれたものでした。米国の太平洋艦隊に属するペリー提督が日本にやってきたのは、1853年のことですが、米国のアジア貿易は、1820年頃から活発化してきていたのです。広東での対中貿易に従事する米国商船は、20年代には年間20艘程度でしたが、40年代には40艘を越えるまでに成長していたのです。その担い手であったボストンやニューヨークのアジア貿易関係者にとって、太平洋に面する良港の候補地を何箇所も抱えるカリフォルニアは、垂涎の的だったのです。これに太平洋に捕鯨のために漕ぎ出す漁業関係者が加わりました。米国海軍がアジア貿易の支援のために、太平洋に進出し、中国や日本の近海にまで出没するようになったのは、1830年代末のことだったとされています。この時点から、海軍の補給基地として、太平洋航路の東の逗留地として、関心を集めたのがサンフランシスコでした。対メキシコ戦争の裏で考えられていたカリフォルニア奪取計画のなかで歯、早くもカリフォルニア獲得の暁には、カリフォルニア、サンフランシスコに向けた大陸横断鉄道の建設が、一つの夢として語られていたのです。
2010.07.13
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クロニクル ワールドカップサッカー始まる1930(昭和5)年7月13日昨日で、ワールドカップ南アフリカ大会が終りました。終ったばかりなのですが、実は今日7月13日は、ちょうど80年前に第1回ワールドカップ、ウルグアイ大会が開幕した日なのです。このときは、予選を行なわず、第1回大会を主催したウルグアイ協会が、各国に招待状を送り、その招待を受けた国が、出場国となりました。長い船旅を嫌って、ヨーロッパの国々の参加は少なく、出場したのは、欧州4カ国(フランス、ベルギー、ユーゴ、ルーマニア)、北中米2カ国(アメリカ合衆国、メキシコ)、南米7ヶ国(ウルグアイ、パラグアイ、アルゼンチン、ブラジル、チリ、ボリビア、ペルー)の計13ヶ国でした。4グループの予選を行い、各組1位の4チームが準決勝に進出しました。アルゼンチン、米国、ウルグアイ、ユーゴの4チームが残り、決勝はアルゼンチン対ウルグアイの戦いとなりました。決勝は4:2のスコアでウルグアイが勝ち、栄えある第1回優勝チームに輝きました。
2010.07.13
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スペイン勝ちましたワールドカップ、スペイン勝ちましたね。勝ってほしいなと思っていたチームが勝って、正直良かったなと、思っています。しかし、ダイジェストを見ると、スペイン危なかったですね。ワールドカップの決勝戦ともなると、又特別な緒でしょうね。あのロッペン選手が、キーパーと1対1になりながら、決められないなんて、驚きでした。一瞬、大事に行こうと考えたのでしょうか。GKとの距離がつまって、窮屈なシュートとなり、足ではじかれてしまいました。あの瞬間のロッペン選手のシマッタという顔、とても印象に残りました。これがワールドカップの決勝戦なんだ。彼はそう思ったのでしょう。確実にという思いが頭をよぎり、一瞬の判断が遅れたように思ったのは、私だけでしょうか。それでもスペインが勝ててよかったです。不動産バブルのはじけたスペイン経済の苦境は、日本以上に長く続くでしょう。日本のように、輸出で稼げる産業を持たないのですから…。そんな苦しい時代を過ごす、スペインの皆さんには、ひと時ではあっても、苦しさを忘れさせてくれるビッグニュースだったことでしょう。
2010.07.12
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19世紀のアメリカ(68) 第2章 明白なる天命…29 今日の米国西海岸の領域をお考え下さい。カナダに接する北限のワシントン州(この州都がシアトルです)から、南限のカリフォルニア州まで、ほぼ北は五大湖周辺から、南はミシシッピーやルイジアナから、ほぼ同緯度線上を辿っています。1840年代後半に大統領を務めたポークは、最も露骨にそのことを主張し、テキサスの延長線上にあるニューメキシコやカリフォルニアを、メキシコから半ば強奪したのでした。ポークは臆面もなく、こう語ります。「メキシコ人は人種的にアングロサクソンより劣り、またその国家は、社会的にも遅れた貧しい三流国である。それゆえ、スペインから継承した巨大な領土は、アメリカ合衆国に譲られるのが当然であり、わが合衆国の膨張を邪魔するべきではない。」と。これはポークが、45年の12月に議会に送った教書の中の表現です。合衆国の歴史のなかで、ポークのこの教書は、最も傲慢な教書として知られています。そしてポークは、米国は大西洋から太平洋までの、同緯度線を支配するという主張を、軍事力でで貫いたのです。 続く
2010.07.12
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クロニクル ハイセイコーデビュー1972(昭和47)年7月12日騎手の増沢末夫さんが歌った「さらば~ ハイセイコー」の歌声。覚えていらっしゃいますか。結構歌われましたね。あの局の主、競馬馬のハイセイコーは、地方競馬から頭角を現し、中央競馬に進出して、歌にまでなる人気を博した馬でした。そのハイセイコー、38年前の今日、大井競馬にデビューしました。3歳馬でした。この大井競馬で6戦6勝。それも後続馬を6馬身以上引き離す圧勝続きで、注目を集め、翌年中央競馬に引き抜かれ、全国区の人気を得たのでした。74年の有馬記念を最後に引退。「さらば~ ハイセイコー」の歌は、翌年1月の引退式直後に発売され、45万枚を売り上げたと言われます。
2010.07.12
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参院選の結果から…開票速報を途中まで見ました。事実上、民主党のボロ負けです。意外な発言と思われるかも知れませんが、この結果は、至極納得できます。このところ、衆院選で大勝した政党が、その後の参院選ではボロ負けするケースが続いているのは、ご存知の通りです。ですから民主党は04年参院選で勝利し、05年の郵政選挙で大敗した後の、07年選挙でも、大勝しました。どちらも衆院選で勝利した自民党の政権運営、議会運営がしなやかさと柔らかさを欠いて硬直化し、ひたすら強引な強行採決を繰り返すことへの反発でした。そして昨年の衆院選でも大勝し、遂に彼岸の政権交代を実現しました。そしてこの10ヵ月々我々は見たのです。自民党以上に強引で、やたらと強行採決を繰り返す民主党の政権運営を…。この政党に、衆参そろっての過半数議席を与えてはならない。与えればとんでもないことになる。今回の参院選の結果。民主惨敗。改選議席トップは自民党、そしてみんなの党の健闘。国民新党の不振。国民に支持されたわけでもない国民新党に振り回されての郵政の再国有化プランにも、はっきりとノーが突きつけられたと考えると、合点がいきます。国民は、民主党に強引な政権運営を改めろ。野党の主張に耳を傾けろ。そして選挙で支持されていない国民新党にスリより、郵政再国有化という悪法は引っ込めろ。こう民主党に迫ったのだ、私はこう考えます。腰を低くして、野党に頭を下げ、徹底的な話し合い路線をとれば、国民の批判が怖い野党も、全面拒否の姿勢は貫きにくいはずです。案外すんなり道が開けるかもしれません。今や、政治の停滞は許されない局面にあることは、事実ですから…。
2010.07.11
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世界経済の現状(152) そして、ファニー・メイとフレディ・マックは、共に準政府機関と考えられてきましたから、世界各地の金持ち国の政府や金融機関が、両社の債券を保有していると言う現実があります。この債券には2種類あって、一つは純粋の社債です。この社債ですが、確かにアメリカ政府が保証しているとは、一言も書いてありません。にも関わらず、金融市場では、いざとなれば面子にかけて政府は放っておけないだろうと解釈したのでしょう。市場では、両社の債券は、アメリカ国債に極めて近似したレートで、取引されてきました。市場は両社の債券を、政府債務扱いにしてきたのです。実はどういうわけか、良く分からないのですが、日本政府や日本の金融機関は、両社の債券を僅かしか保有しておりません。他方で中国は、かなり大量に保有していると見られています。米政府が、現在の姿勢を貫くとすると、どこかで政治問題化する可能性も出て来るように思います。もう1種類が、パススルー証券と呼ばれるMBSです。この市場は、アメリカ国債市場の5倍ほどの規模を持っています。住宅ローンを束ねたものを担保として発行されており、利払いと元本の支払いには、担保となった住宅ローンの債務者の支払いが当てられる仕組みです。利払いと元本の支払いは、数多くの債務者の支払いが担保になっているので、安全かつ確実だと主張されて来たのはご存知の通りです。皆が一斉に支払い不能に陥ることはないという、例の理論です。現実にこの理論が破綻してしまったことは、サブプライム危機とその後のリーマンショックで、余す所なく明らかになりました。分散の理論によって、安全性の高いはずだった住宅ローン債券の束が、実はとても安全とはいえない状態になっているのではないかという、不安心理が市場を覆ったものですから、さあ大変です。しかも肝腎のファニーとフレディは倒産寸前で青息吐息、米政府も知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいる。そしてこの市場は国債市場の5倍の規模を持つのです。米国の住宅ローン市場は、総額およそ10兆ドル程度とされています。その半分の5兆ドル程度を、ファニーとフレディで賄ってきたとされています。そしてバブルの最盛期だった2006年から07年にかけて、融資された住宅ローンが1兆ドル及ぶことが知られています。こうしたMBSの少なめに見て、2割は毀損していると考えられますから、これだけで、1兆ドルになります。かなり大変な事態になってきているように、私には見えます。
2010.07.11
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