関本洋司のblog

2004年06月26日
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はじめに

プルうどんの作り方

レシピ:まず物々交換で、肩たたきと引き換えにうどん粉を手に入れる。つぎに肩たたき券から発展した地域通貨でうどんのこね方を習う。そして、地域通貨で知り合った仲間と協同組合を作り店を構えて、ブザンソン産のチーズの代わりに地域通貨で知り合った牧場のオッさんからチーズの作り方を教わり、うどんの上にかける。地域通貨で手にいれた焼き物のどんぶりにいれればできあがり。フランス料理のはずがイタリア料理と連合した味です。あなたの近所の有機農場から、野良仕事で手にいれた野菜を入れて召し上がれ。

1、プルードンの生涯

 プルードンと言う人間がいた。その名前は、つねに批判の渦の中にあった。今もそうだ。その名前が引き起こす先入観とはまったく逆に、今日の資本主義の矛盾を生き延びる知恵と、資本の自己増殖を止めるヒントがそこにはある。
 職人の生産を守ろうとしたプルードンは、1848年に交換銀行、人民銀行の計画を打ち出した。それは受注生産を可能にする職人の生産を守ろうとしたものだった。無償信用と交換券の発行による流通の組織化、交換の遍在化の計画はしかし、約1800フランの資本金を集めたまま、実現されなかった。プルードンはルイ・ナポレオンへの侮蔑罪で、ベルギーへの亡命を余儀無くされたからだ。
 そして1849年には、人民銀行の清算をするためにパリに戻ったプルードンは逮捕され、獄中で『革命家の告白』を書く。
 プルードンとナポレオンの一騎討ちは、後に、ナポレオンの失脚によって歴史的には終わるのだが、理論的にはさらに、マルクスとの対峙がある。(マルクスにはプルードンのアイデアが理解できなかった。あるいは理解できないふりをした。プルードンを認めれば、マルクス自身のつくった体系が内側から壊れるからだ。その意味でマルクスとプルードンの関係は、数学におけるヒルベルトとゲーデルの関係に似ている。)
 1846年にマルクスから通信員の役目を頼まれたプルードンは、コミュニズムがドグマとなる危険をそこに察知し、その危惧と政治革命ではなく社会革命の必要性を指摘した返事を書く、、、

 その相互主義は、オンデマンドの受注生産に応用することができるのだ。
 1838年、ブザンソン・アカデミーからの奨学金(フランス政府からではない)をうけてパリに留学したプルードンは、パリでヘーゲルに触れた。しかし、プルードンのアンチノミーはヘーゲルのそれとは違うものだった。プルードンの弁証法は二項対立が決して融合されることはないのだ。
 そしてプルードンはカントを読み、アンチノミーをカントから受け継ぎ、その宗教批判を政治批判に転化している。
 後に、サルトルは、『文学とは何か』でパリ・コンミューン以降の理論的現状について、以下のように言っている。

「マルクス主義は敵対者に打勝ったが、その勝利は(……)純粋に単純に二律背反の一方の項を押えた外力によるものであった。その光栄のない勝利がマルクス主義にどういう代価を意味したかは、何度いってもいい過ぎない。すなわち矛盾する相手が欠けたときに、マルクス主義は生命を失った。」

次回からプルードンの波瀾にみちた生涯をたどる(不定期連載)。





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最終更新日  2004年07月12日 10時18分42秒


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