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『NAM原理』(太田出版)のプログラムを図解してみました。全体に経済を左、倫理を右に配置したのがミソです。プログラムの2(具体的展望)と3(暴力革命の否定)を入れ替えると順序的にわかりやすくなります。 1で、倫理と経済の両立を訴え、2と3で経済を、4と5で倫理を説いたと読みました。5は新たなレベルで両者の両立を説いたとも読めます。 4のくじ引きは組織内への倫理的フィードバックと捉えられ、「運動が実現すべきものを体現」しているかどうかを自己検証することを意味します。参考:NAMプログラム ↓ われわれが開始するNew Associationist Movement(NAM)は、一九世紀以来の社会主義的運動総体の歴史的経験の検証にもとづいている。そのプログラムは、極めて簡単で、次の五条に要約される。これらに関して合意があれば、それ以後の活動はすべて、各個人の創意工夫に負う。 (一) NAMは、倫理的-経済的な運動である。カントの言葉をもじっていえば、倫理なき経済はブラインドであり、経済なき倫理は空虚であるがゆえに。 (二) NAMは、資本と国家への対抗運動を組織する。それはトランスナショナルな「消費者としての労働者」の運動である。それは資本制経済の内側と外側でなされる。もちろん、資本制経済の外部に立つことはできない。ゆえに、外側とは、非資本制的な生産と消費のアソシエーションを組織するということ、内側とは、資本への対抗の場を、流通(消費)過程におくということを意味する。 (三) NAMは 「非暴力的」 である。それはいわゆる暴力革命を否定するだけでなく、議会による国家権力の獲得とその行使を志向しないという意味である。なぜなら、NAMが目指すのは、国家権力によっては廃棄することができないような、資本制貨幣経済の廃棄であり、国家そのものの廃棄であるから。 (四) NAMは、その組織形態自体において、この運動が実現すべきものを体現する。すなわち、それは、選挙のみならず、くじ引きを導入することによって、代表制の官僚的固定化を阻み、参加的民主主義を保証する。 (五) NAMは、現実の矛盾を止揚する現実的な運動であり、それは現実的な諸前提から生まれる。いいかえれば、それは、情報資本主義的段階への移行がもたらす社会的諸矛盾を、他方でそれがもたらした社会的諸能力によって超えることである。したがって、この運動には、歴史的な経験の吟味と同時に、未知のものへの創造的な挑戟が不可欠である。 『原理』(太田出版2000年11月9日)p17-19より http://www.clas.ufl.edu/users/jmurphy/Karatani01file/NAM.Principles.htmlThe Program The New Associationist Movement (NAM) begins based upon a scrutiny of the historical experience of all socialist movements beginning in the 19th century. The program can be quite simply summarized in the following five articles. Inasmuch as one agrees with them, s/he can develop his/her acts dependent upon individual situations and creativities. (1) NAM is an economic-ethical movement. In reference to Kant's term, we might say, "economic policy without ethics is blind, while ethical intervention without economic concerns is empty." (2) NAM organizes a counter-act against capital and state. This is a transnational worker as consumer movement. This is practiced, figuratively speaking, within and without the capitalist economy. But, of course, it is impossible in the strict sense to stand outside the capitalist economy. The struggle without aims at organizing an association of non-capitalist production and consumption; the struggle within is centered on boycotting in the process of circulation (consumption). (3) NAM is non-violent. It not only denies violent revolution, but also negates any use of state power by parliamentary means. This is because what NAM intends is an abolition of the capitalist currency economy-that which state power can never abolish-and also the abolition of state power itself. (4) NAM's organization and movement themselves embody what it intends to realize. Namely, by way of introducing the lottery into the election process (I will explain this later), it prevents a bureaucratic fixation while at the same time guaranteeing a participatory democracy. (5) NAM is a realistic movement that abolishes real contradictions; it is born out of realistically existing premises. In other words, it is a movement to overcome the social contradictions caused by the development of capitalism (that has reached the stage of information capitalism) by way of employing the social potencies produced by the same development.
2006年08月21日
以下、先日、メモとして書き込んだ『世界共和国へ』の索引の改訂版です。///////////////索引(@は引用、#は定義):[ア]アーレント 207,209@アウグスティヌス 181アジア的 34(-社会構成体),62-3亜周辺 35-7,60,63(表)アソシエーショニズム 5,9-10,15(リバタリアン社会主義),179#,180,181(社会主義=-)アソシエーション 10(生産-消費協同組合),12(連合体),26(「有機的共同社会」),30(連合),89(新たな交換様式),97,171,181,189(生産者協同組合),191(-の-),193,225(グローバル・コミュニティ)アトミズム 115,118アナキスト 12 ,100アナキズム 217-8アナール学派 208アナルシー 187#アパシー(無関心) 8アフリカ 8,34尼崎 228アミン(サミール)33,34,86,109(資本主義構成体論?)アメリカ 7,11,45(-大陸).82,107,211-2,218,221アラビア 33(-諸国),85,90-1アルチュセール 33アンダーソン 163-5@アンチノミー 136(二律背反),141, 188イエス 93,95-7,101イギリス 11,100,124,134,137,139,146,171,215イスラーム 86,97,111,124(-国家),158,161,170 ,208(イスラム化),215(-圏)イタリア 120イデオロギー 32,91(「-装置」,アルチュセール),120(-的装置),146イロコイ族 55インカ、マヤ、アステカ 34,45インド 2,8,79,91,150,214-5ウィットフォーゲル 34-5(「水力社会」),61(『オリエンタル・デスポティズム』),109ウェーバー 90@,93@,124@ ,154「上から」 201,225(←→「下から」)ウォーラーステイン 9,39-40,108-9ウンマ 98「永遠」 165『永遠平和のために』222@エコシステム(循環系) 28-30,152エジプト 53,56,80,91M-C-M' 78,80,135-6,142遠隔地 36,84(-交易),86,131,139エンゲルス 19,51,99@,153負い目 94オーウェン 73,101「大きな物語」 184オスマン帝国 208『オリエンタル・デスポティズム』 61[カ]階級 124階級闘争 153-カウツキー 153火器 111革命 10,100-1(ピューリタン-,プロレタリア-),(114,118-9,162,市民-)家産官僚 53#家産制国家 124価値形態論 72,95-6金貸し資本 80家族 22,25,151家父長的家産制(アジア的国家) 123貨幣 26,71-6,78(-フェティシズム),(83,86,-の機能)『貨幣体論』(ヘス) 26「貨幣の王権」198神の国 99,181-3(「-」)カリスマ的 93環境 152(-汚染),155(-問題),224(-破壊)漢字 61カント 102@(『道徳形而上学原論』),179@,180@(「たんなる理性の限界内での宗教」),221-2@,223@(『世界公民的見地における一般史の構想』),181-4官僚 53,61,119-,121-2(-制),123(-機構),125(軍・-機能),154(-制)技術革新 142-3「擬制商品化」 148ギリシア36,57,54,55,56,85キリスト教 98(国教),99(原始-),100,170ギルド 59,139(-的)京都 61,100協同組合 10,189,193共同性 162共同体 19(部族的-),22(-と-の間) ,25,43(-のホメオスタシス),55,58(農業-),65,83,92(盟約-),94,97,98(ウンマ),149,151,170,199(-と-の間)「近代世界システム」 108,133,160,165,176,214くじ引き 54-5クラストル 42(『国家に抗する社会』),43-4,57グラムシ 120グローバリゼーション 2,150 (「資本の輸出」)#『経済学・哲学草稿』27経済革命 10(経済的革命←→政治的革命),189,191契約 115(交換),117-(「社会-」)ケインズ主義 122「結婚」 205コイン 71交換 24,26(Wechsel),27,101(-銀行),115(契約),117(相互譲渡),118(ホッブズ)交換的正義 186交換様式 21,25 ,32,33(三つの-),38-9(ABCD),43(A),49,65(C),69(ABC),71(B),87(B+C),88(D),89(AC),94(新たな-,第四象限,AC),103,205(基礎的-),113(国家)構造 6,19(上部-,下部-),43(親族-,代数-,数学的-主義),178(-論的に)交通 27,200交通形態 25コールリッジ 167『国富論』66国民 113,114,118,157(ネーション=ステート),(206-7,209-216,-国家)互酬 21,22(「恩」)#,23,34(:氏族的社会構成体),50,52-5(-原理),70,76,92,106,151(-的関係,-原理),180(-制(相互性)),187(-的=双務的?)国家 2-(国民-),4-(-の形態),100(民衆-,加賀),114(-の本質),120(-=警察=暴力),120(-権力)コミュニズム 5(評議会-),12#,54(スパルタの- ),59(資本主義を超える運動),179コムーネ 59(フィレンツェ),98(自治都市)コンミューン 59(ケルン),195[サ]サーリンズ 46(『歴史の島々』)差異 19,112,131-2,147(「-化」),151(-化),169,207サン・シモン 9,171(-主義),186サンディカリスト 14自給自足的 106自己再生的(オートポイエーシス的) 147,150自己増殖的 152自己統治 187市場経済 108市場主義 169自然 27-30,44(←→文化).80(「-成長的」),130(-に),151-2,116,118(「-状態 」),151,220(本性,-の狡知←→理性の狡知),223(-の計画),224(-の隠微な計画)資本 3(8,15,39,40,178,「資本=ネーション=国家」),18,78,81,114,140(個別-),150(204,-の輸出),152(-の限界),204-(-主義),(200,214,世界-主義)市民 58,60,112(ブルジョア),(112,119,162,-革命),159,(121,217,-社会)社会 42-(未開-),44(「-」),47(原始-),67-(未開-)社会契約 75,113(-論),115,117(-論),124(-論者),187社会構成体 32,33(五つの-)社会政策 124社会的総資本 143ジャコバン主義 9#,186-7自由 57-60(-都市),59,102,185-,187(-の次元)宗教 53,89-(普遍-,世界-),98-(-改革),164,180(普遍-,-論)周辺 35(margin),110(-部),153(-的),154(ロシア,中国),215(-部)呪術 89,90,92シュミット(カール) 51(「友と敵」)商人138常備軍と官僚機構 64,119,(:112,125,127)消費者 140,146,156消費社会 146剰余価値 149,142(相対的-),143-女性 21,43(女),97真実社会 195,197,217スウィージー 135スコットランド 168ストライキ 156スピノザ 172,216-7スミス(アダム) 4,20,47,66,73,79,132,168-9,170正義 9-10(配分的-),(182,186,分配的-),186(交換的正義)生産 24,27-8 ,137(-手段)生産様式 19,20 32(五つの-)政治的革命 186聖書 95-6@,97@,160世界貨幣 82世界共和国 15,182-3#,222世界経済 39,40#世界史 35,64 ,( 人類史 42),219(ー的理念)世界資本主義 150世界市場 107(バルト海,地中海),132,213-4世界帝国 40#,91(エジプト)石油 30戦争 57(-体制),114,119,220想像の共同体 38,165 ,170, (163,167,想像された共同体)想像力 7,167,170ソクラテス 56,85(「ソクラテス以前の哲学者たち」)ゾンバルト 134,近世資本主義?[タ]太閤検地 62第三世界 8,150「大東亜共栄圏」 214代表する者と代表される者 126代替通貨 10,189(代替貨幣)他者 102,181(カント)単純商品 33(「単純小商品」),181(-生産者)「たんなる理性の限界内での宗教」(カント) 180@中核 35(core),61(-,周辺,亜周辺),(:周辺.margin,亜周辺.submargin)中国 2,8,53,61,91,110,112(賦役貢納制),150,154,163,214「抽象力」 47中枢部 40(←→ 周縁部)朝鮮 61(周辺)チョムスキー 4-9罪の感情 95帝国 35(=文明),53,158,204#,207(『-』),207(-主義),209(「-主義のディレンマ」),211-,216(世界市場)天皇 61,161動機 3,84(「身分動機」←→「利潤動機」)ドイツ 160(高地-語),171,177 ,210,213,218『ドイツ・イデオロギー』24-5@,245@統整的理念6#,183(「世界共和国」),184『道徳の系譜』91@,94-6@陶冶 121東洋的専制国家 64都市 100(自治-,堺,京都)ドップ 135トライブ 58-9[ナ]ナショナリスト 178ナショナリズム 151,163,165,171,185ナチス 188ナポレオン(ボナパルト) 10,127ニーチェ 91(『道徳の系譜』)@,94-96@日本 6,11,61-3,63(「-資本主義論争」),122,161,218ネーション 3,27,157-,162-,178ネグリとハート 211@,212@ (『帝国』),217-8@(『マルチチュード』)ネットワーク 35,88,120,189(-空間),218,225農奴制 58,133(「再版-」)[ハ]ハイエク 5(「隷属への道」)配分的正義 9-10,(182,186,分配的正義)ハウ 69#,71 ,76バウムガルテン 172(『美学』),173パウロ 96バクーニン 193ハチソン168,173バビロニア 71 ,80,83バブーフ 185パリ 195パリ・コンミューン 12,59,192,195「パンとサーカス」 56ビザンツ 98(東ローマ帝国 ),111,124ビスマルク 10,171,201微生物 28ヒューム 183ピューリタン革命 100平等 5,9,185-6フィレンツェ 59フーコー 120-1フォイエルバッハ25,190普通選挙 126ヒューム 183フェビアン協会 11フォイエルバッハ 25-6,190仏教 93,97,100-1,170普遍宗教 93-プラトン 56,85ブラン (ルイ) 186ブランキ 13,186フランク 109フランス 11,33,101(-革命),112,170(-革命),171,185,199,213『フランスの内乱』191プルードン 9-10,12,101,185-194 ,197-9ブルジョア 59(ビュルガー),59(-革命),60, 62(町人),112(市民),159フロイト 91(『モーゼと一神教』)ブローデル 208プロシャ 11,195プロレタリア 99(-的),137,139,140#,149,156,192(プロレタリアート独裁),217文学 19,174-5フンボルト(ヴィルヘルム・フォン) 4ヘーゲル 25(青年-派),28,35(-的),121@,122,190(青年-派),197@,220,122ヘゲモニー 120,211ヘス (モーゼス) 25,27,190ベラーズ(ジョン) 101ヘルダー 175-7ベルンシュタイン 14,154ヘロドトス55暴力 22(-的),44(『-の考古学』),120封建 -国家 58(小国家) -制 61-4,135「-制から資本主義への移行」135,(138) -的 37(-的地代),62(分権的) -領主(貴族) 37 -論争 63『法権利の哲学』 121,197-8@ボイコット 156ポストモダニズム 7ホッブズ 47-8,75,115-6@,118,197,217,220ポランニー 49(『人間の経済』),50,68(『人間の経済学』),83(『人間の経済』),84,148ボロメオの環 175#-8[マ]マニファクチュア 132-4,138マホメット 93マリノフスキー 68マルチチュード 212(『-』),217マルクス 12,18-9,20,23,24-5@,27,28-9(-主義者),70@,74-5@,77@,78@,127@,128@,p135@,136@,138@@,192@,200@マントラン(ロベール)208@,ミュンツァー(トーマス)99明治維新 11,62メタフィジカル 166モース 21,43モンゴル 53,91モンテスキュー 54[ヤ]「安い政府」 3,215友愛 170-,181,187ユダヤ 92 -3揚棄 10,13,15#,189,193(:廃棄),199,200,225ヨーロッパ 2,59(-北部,西-),87(108-9,110-1,,西-),79,109,121(西-,東-),133,146,167,209(214,「-連邦」),218,220預言者 90(-宗教),92-3(倫理的-,模範的-)[ラ]ラッサール 192-3ラテン・アメリカ 133ラテン語 158-9リービッヒ 29利子 80理念 7,16,219(世界史的-),222リベラリズム 11 ,216(ネオ-)流通 134-,156領土 92倫理 38,89,91(宗教-),103,169(-学),180ルカーチ 155ルソー 175,186-7,194ルター 93(-派),159-161ルナン 161,297レヴィ=ストロース(クロード) 43,44レーニン 14,184(マルクス・-主義),196(-主義),204歴史 184レッセ・フェール(自由放任) 169連合 12(アソシエーション=連合体),222,223労働 138ローマ 36,56,98(-帝国),158(神聖-帝国),158-9(-教会),207ロシア 14,63,93(-正教),110,124,154,215ロック 118,176ロベスピエール 182-3,187[ワ]湾岸戦争 211-2
2006年05月25日
暮らしと生活の中から憲法第九条を見直すムーブメントから生まれた本です。 9パン、9Tシャツetc, お互いを尊重したルールの中で遊ぶこと、その遊びにさらなる他者を招き入れること。平和はそんなひとつひとつの点と点がつながりあい響き合うところからはじまると思います。 ヴァンダナ・シヴァさんとダグラス・ラミスさんとの対談。鶴見俊輔さんインタビュー。坂本龍一さんと辻信一さんの対談に加え、社会契約を徹底化し、交換的正義において平和憲法を確認し合おうという地域通貨の提案(「9はつなげる」)を関本が執筆しています。 9条の各国語訳もカヴァーの下に紹介されています。ぜひ手に取ってみてください。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆2005大月書店9LOVE (くらぶ)
2006年04月25日
先月、ピースボート船上で、若い人たちにおすすめの本を紹介する機会があった。僕は『老子』を紹介したが、この本が出版されていれば、真っ先に推薦していただろうと考えると、少し残念なことをしたと思う。ポジティブな響きを持つ書名に加え、777円という安さも魅力だ。以下、読んだばかりのメモです。//////////////////『世界共和国へ』で、柄谷行人はまずチョムスキーを援用し(p4)※、 国家 ネーション 資本 アソシエーションという4種類の交換様式図を『トランスクリティーク』に引き続き再解説している(p5,9)。そこには、不平等←→平等統制↑↓自由、といったベクトルが加わったため、資本/ネーション/国家/アソシエーションという4つの要素の位置付けが恣意的でないものとして理解できるようになった(p5,9,22,39)。「複数の基礎的な交換様式の連関を超越論的に解明すること」(p40)に成功していると言える。ちなみに、上の図の統制に関しては、プルードンに倣って、権威と言い換えてもいいだろう。また、プルードンに関する記述が多い点も指摘できる。最終章に「カントの構想」(p179)に引き続き「プルードンの構想」(p185)という節があるのだ。ただ、晩年プルードンが国際政治(フェデレーション=連合の原理を提唱した)に関して考察したことが触れられていないため、プルードンが国家を内側からしか考えていないということになってしまっている(p194)。プルードンがヘーゲルやカントよりもすぐれている点はアンチノミーを維持した点であって、なおかつそれを相互主義的な交換的正義の理念、連合主義にまで高めた点だ。プルードンのいう「真実社会」(p190、現実の世界と訳されることもある)はまた、疎外論と一緒には出来ない。なぜならプルードンにとっては政治、経済、宗教の三要素がアソシエーション内部(=真実社会)にアウフヘーベンされずに残っているからである。さらに、プルードンは交換銀行を国営で行うために議員(p191)となったことが重要であり、経済的革命(こちらの方が社会革命よりも用語的にわかりやすい)を目指す視点は一貫していたと考えるべきだ。とはいえ、プルードンとマルクスを安易に対立させていない点や(p12,26,191)、ルソーの社会契約論をプルードンが交換的正義において徹底化したとする評価(p187)は的確だと思う。プルードンに関しては、生産様式より交換様式(p20,27)を重視した点においては歴史的先行者なのだし、その重要性は明らかだ。不幸なことに他の思想家と比べ、テキストが入手しにくいため、岩波新書のようなスタイルで入門書が必要になると思う。細かく述べるなら、柄谷氏の過去の同種の本より良くなった点は以下(箇条書き)である。まず、ウェーバー(p90.124)、ウィットフォーゲル(p34)のラインを加えたことで、国家への視点が明瞭化し、マルクスの立場が比較的相対化された。。またモース(p21)、クラストル(p42)、サーリンズ(p46)、ポランニー(p49.83)への言及で、文化人類学的な互酬的交換の位置づけがはっきりした。アダム・スミス(p168)、アンダーソン(p164)についての言及でネーションのねつ造をめぐる説明も明瞭になった。モンテスキューの名前を出したので、「くじ引き」=民主主義説の説得力が増した (p54)。一言で言えば、全体的にコンパクトでわかりやすくなった点が何よりの収穫であろう。『原理』のような実効性はないが、この書の浸透は確実に世界を変えるだろう。初学者には参考文献一覧や索引があればと親切かとも思う。さらに、記述としてはガンジー等の具体例が加わればもっとわかりやすくなるのだろうが、それは読者個人個人の課題だと思う。※注『世界共和国へ』(p4)で紹介されている1970年(1971年は間違い)のチョムスキーの講演「未来の国家」(Government in the Future)が以下で聞けます。チョムスキー・インフォサイト?http://www.chomsky.info/audionvideo.htmhttp://www.chomsky.info/audionvideo/19700216.mp3Government in the Future. Poetry Center, New York. February 16, 1970.
2006年04月25日
宮崎駿監督の『ハウルの動く城』は、『紅の豚』にもましてファシズムと戦争(+環境破壊)への批判に満ち満ちていました。映画それ自体が戦争機械(byドゥルーズ)であることによって、プルードンの『戦争と平和』と同じような誤解を生むでしょうが、シュールレアリズムと商業主義の重要な合体が(着地点が見失われているとはいえ*)行なわれていると思います。 この作品は、イラクの戦争を強度において凌駕している作品として、『座頭市』とならんで映画史的には並べられると思います。 さて以下本題です。 前世紀において、ファシズムについてもっとも鋭い考察をしたのはパゾリーニだと思います。 次に、イタリアの映画監督パゾリーニ(1922-1975)がファシズムについて語っている言葉を御紹介します。 ~今日、考古学的な反ファシズムの形が存在していて、これは真の反ファシストの免許を手に入れるのに都合のいい口実となっている。すなわち、もはや存在しない、そしてもう二度と存在することのない古典的ファシズムを対象目標とする、安易な反ファシズムのことだ。(中略) 最後に、親愛なるカルヴィーノ(引用者注:イタリアの著名な小説家)、君にひとつ言っておきたい、モラリストとしてではなく、分析者として。わたしの主張に対する『メッサッジューロ』紙上の君の性急な答えのなかに、二重に不幸な一言が思わず漏れている。この一節だ。「今日の若いファシストをわたしは知らないし、かれらと知り合う機会が訪れないように願っている」しかし、(1)当然ながら、君にはこういった機会ほ訪れないだろう。これは、列車のコンパートメントや店の行列で、路上で、パーティーで、君が若いファシストと出会ったとしても、"君がかれらを認識しない"からでもある。(2)若いファシストと一度も出会わないことを願うのは冒漬的だ。なぜなら、反対に我々ほかれらを見つけだし、出会うためにあらゆることをしなければならないからだ。かれらは宿命として予定された(悪)の代弁者ではない。"かれらはファシストになるために生まれてきたのではないのだ"。だれも----かれらが青年になって、どんなものかはわからないが、なにかの理由、あるいは必要性にしたがって選択できる状態になったとき----かれらに民族主義者としてファシストの格印を押すものはいなかった。ひとりの若者をこういった選択に走らせるのは、絶望と焦燥の残忍な形なのだ。そしておそらくかれの運命を違ったものにするには、かれの人生におけるささいな別の経験、たったひとつの出会いだけで、十分だったことだろう。(パゾリーニ「海賊評論(一)"68年"その後」『現代詩手帳』大辻康子訳、1998.7より) ただし、パゾリーニはファシズムについて、別の新たな定義をしています。つまり「均質化を成し遂げたという点で、消費社会こそ真のファシズムだ」と主張するのです。 ~真のファシズムは、お人好しの社会学者が「消費社会」と名づけたものである、とわたしは心からそう考えている。無害で端的に内容を表すように見える定義だ。しかし実際はそうではない。現実をよく観察すれば、とくに物、風景、都市計画、そしてなによりひとびとの周辺を読むことができれば、この冷酷非情な消費社会のもたらしたものが、独裁体制、つまりまさにファシズムそのものがもたらしたものであることがわかる。(中略)消費社会というこの新しいファシズムは、逆に、若者を根底から変貌させた。かれらの心の奥に触れ、いままでとは別の感覚、思考方法、生き方、文化モデルを与えた。もはやムッソリーニの時代のように、芝居がかったうわべだけの軍隊的統制が問題なのではない。若者の魂を奪い、変貌させた現実の統制が問題なのだ。これの意味するところは、結局のところ、この「消費文明」は独裁的な文明であるということだ。要するにファシズムということばが権力の横暴を意味するなら、「消費社会」はファシズムを実現したのである。~(パゾリーニ「海賊評論(二)現代のファシズム」『現代詩手帳』大辻康子訳、1998.7より) パゾリーニのこの指摘は1974年(前者は3月後者は7月発表)にしては先駆的な認識だと思います(これはドゥルーズの規律社会から管理社会への移行の指摘とも響きあう認識です)。日本では石油ショック以降も、ヴィジョンがないままに大量生産、大量消費、大量廃棄を繰り返してきました。三島由紀夫などはこれに近い認識を提示しましたが、多分に美学的なものに留まったと思います。映画監督の山田洋次が地方色豊かなロケ地を選ぶのに苦労し出したのがこの時期だと言います。 最後に参考までに、『ロゴパグ』でも引用された彼の詩の一節を紹介します。わたしは過去の力である。わたしの愛は伝統にのみ由来する。廃墟から、教会から、祭壇の壁画から、アペニンと前アルプスの忘れられた村から、わたしは到来する、兄たちが生きたところから。 わたしは狂人のようにトゥスコラナを彷獲(さまよ)い、野良犬のようにアッピア街道を廻る。そしてわたしは成長した胎児として、いかなる現代人よりも現代的に兄たち、もはや存在しない兄たちを探しまわる。*注:その映画内にあらわれる社会学的な問題に対する解決策のヒントとして、ルーカスはくじ引きを、宮崎駿は地域通貨をそれぞれ研究する必要があるように思う。追記:映画理論に関して言えば、「モンタージュは、死が生前の行為を時間の埒外に置くためにする選択に似ている」と書いたパゾリーニは、その映画論に記号論を援用しながらもその記号的映画論そのものを自己目的化しなかったことが特筆されます。
2004年11月22日
プルードンは、『連合の原理』(1863)において当時のアメリカに関して以下のように書いている(三一書房p403)。 「同じ精神(引用者注:<連合の原理>のこと)がアメリカの憲法をも支配している。しかしながら連邦の権力の権限を過大に増大させたとそれを避難しうる。アメリカ大統領に付与された諸権力は、ほとんど一八四八年の憲法によって、ルイ・ナポレオンに与えられた権力同様に大きい。この権限の過剰は、中央集権的な併合の精神と無縁ではない。それはまず、南部諸州で表明され、今日では北部諸州をもとらえている。」 注記しておきたいは、当時のナポレオン三世の世界諸国への関与を考えると、アメリカの問題も単なるアナロジーではありえなかったということである。また、プルードンは同書の他の部分ではスイスとの比較において連合に関して考察している。数々の問題点があるとはいえ、スイスにおける現在の中小企業の健闘はそうした連合の原理と無縁ではないだろう。 ただ、ここで強調しておきたいのはプルードンがかなり早い時期にアメリカの民主主義の問題点を的確に指摘しているということだ。 百年近く後、数学者ゲーデルが米国の市民権を得ようとする際、同じような問題を指摘している。 「1948年、アメリカに来てから8年目で市民権を獲得した。このためにはアメリカ憲法の試験を受けなければならなかったが、ゲーデルはこのときアインシュタインに『アメリカ憲法は無矛盾でないから困る』と語ったという」(廣瀬健『ゲーデルの世界』p18)。 伝聞を元にした他の文献などでは、審査に際してゲーデルを審査する審査官の「アメリカは民主的だ」という発言に対して、ゲーデルが「アメリカは独裁国家になりうるし、それを証明できる」と反論しようとしたゲーデルの姿が描かれている。アインシュタインはそれを静止しようとして苦労したという。笑い話として伝えられるそれらの逸話は、21世紀初頭の現在、笑い話では済まされないということは確かだ。追記: 民主主義及び独裁の問題に関しては、最近ではジョージ・ルーカス『スターウォーズ エピソード1・2』が扱って秀逸である。
2004年11月16日
この掲示板で同じ質問を繰り返す人達が指し示すフェティシズムに関しては、「子供と軍人」で指摘した僕の理論を証明する素材を提供しているだけだと思います。 ただし、僕はこうした一般的な症状に関して、その症状を告発するだけでなく、処方箋も指し示しています。 以下、10/07の日記より引用。///////////////処方箋A なぜ、現代日本においてフェティシズムが蔓延するのかという問題に関して精神分析をさせていただくならば、広島・長崎への原爆投下の謝罪がアメリカからなされていないからだ、と僕は考えます。 逆らい難い抑圧の中で、現実から眼を背けようとするとき、人は自分自身を欺き 芥川が言うような「ぼんやりとした不安」の中にあり続けることになります。 原爆は戦争抑止という美名の陰でその非対称的所有の欺瞞性すら言説化されておらず、これによって現代人には歴史上かつてない恐怖政治が敷かれているのです。 全体から切り離された細部に代補対象を求めるフェティシズムはそこからの無意識による逃避であり、また代償行為です。 大江健三郎はノーベル賞受賞記念講演の中で、在日韓国人の被爆者について語りました。これは重要なポイントで、反原爆運動は、国民ではなく市民という立場で語ることではじめて俗に言う原爆ナショナリズムを避けることができるのです。 実際、原爆実験や原発事故や劣化ウラン弾、その他の事象を考えれば、被爆者は日本人だけではありません。 ただし、その謝罪を米国に正式に求めるという人間としての(あるいは世界市民としての)義務が現代の日本人にあると僕は考えます。////////////また、柄谷行人はフロイトに即して以下のような指摘をしています。「カントが言う自律----自ら立法したものに自ら従う----がいかなるものかを見事に示す例がある。それはフロイトが例にとった、母親の不在という苦痛を反復的な遊びによって克服する子供に他ならない。『自律』とは、自我の二重化----自我と超自我----によって可能なのである。」(『ネーションと美学』p106) 反復というものにもいろいろあって、反復という行為を自覚的に捉えるならば、人間が超越論的に超自我を造るプロセスとして評価できると言うことです。 ちなみに超越論とは何よりも反復なのです。 しかし、僕は彼らの母親にはとてもなれませんし、今の段階ではネット空間を一種の母胎として捉えることはとても出来ないでしょう・・・
2004年11月15日
11月13日、横浜学生映画祭で中国映画の短篇を3本見た。「再見童年」「火鍋」「草原」の三本だ。それぞれ国家(毛沢東など、権威の下での友情)/資本(都市、市場経済)/国民(少数民族の宗教的倫理感、互酬制)といった異なったレベルで物語を語っていて興味深かった。 ただ、一般的に言って中国映画は都市を描けていないということが問題点だろう。(農村を描くと傑作ばかりなのに)第五世代の映画作家はみな都市を描こうとすると失敗していると思うし、その点では香港のウォン・カーウェイなどには及ばない。それは映画作家が同時多発的な世界認識を獲得していないということだし、「映画=時間」(ドゥルーズ)という課題を明確に出来ていないということでもある(*)。 映画祭ではシンポジウムもあり日中間の交流もあった。ただ、個人的には日中というより北京と横浜といった中央機関を介さない都市と都市同志の直接的なつながりに希望があると思う(*)。 シンポジウムではデジタル基準の共有に関しても話題になった。ポストプロダクションの効率化、ライブラリーの充実、ネットを使った配信及び上映などにそれらは有効だということは疑い得ない。 当日佐藤忠男氏(*)が指摘した歴史認識の問題などは現在の日本側の課題だが、デジタルを利用して日中が共通の映画ライブラリーを持てばお互いの認識の共通の基盤としてかなり役立つだろう(交換による充実化の事例がかなりあるが、フィルムだとそれでもかなり大掛かりだ*)。ネット配信に関しても、技術的な課題というより、新たなアソシーエーションをどうやって築くのかという考え方の問題だと思う。 国家社会主義だけが社会主義(*)ではないということが中国側に対しても求められるのだ。 ゲストで招かれた方々が働く北京の撮影所全体は民主的に運営されているようだったが、今後は新たな市場経済(=都市)の中でどうやって映画産業(ハリウッドに対抗するアソシエーションとしてのそれ)を展開して行くかという課題をアジア全体で共有していると思う。注:*マフバルバフを例にあげるまでもなく、アジア映画はポストモダンの時期に突入している。*当日、日中の学生が日中関係の冷え込みに対して意識的だったことがせめてもの救いだ。*佐藤忠男氏はデジタル技術が高価になることを心配していたが、これは中間技術といった側面から考察すると、正当な疑問だと思う。*黒澤の『デルス・ウザーラ』などは(対ソ連及び対ロシアという)政治的な理由で中国では公式上映されていない。*シンポジウムでは日本側の平等主義的な映画制作のナイーブさを指摘する中国側の発言があったが、どちらも一長一短であろう。日本の学生が当日出品した作品で試みたように一つの作品内で平等を指向するよりも、チャン・イーモウらがよくやるように他の作品をつくる時に手伝い合う方が合理的で正しいは言えるかもしれない。この点では中国側に対して、「腐っても社会主義」ということが言える。
2004年11月13日
ここ数日の日記は基本的に「子供と軍人」(9/25,10/02)を解説及び補足する形で書かれていた。日記のタイトルについた#のあとの様々のタームからの視点に基づいてその解説を試みたのだ。 さらにプルードンの系列弁証法に倣って考察するなら、これまでの議論は以下の議題における系列(#~)の推移をたどってきた。*に関しては新たに解説をつけた。 ちなみに(/)の中は互いにアンチノミー、つまり矛盾(二律背反)を形成している。例:(自由/権威)///////////////////議論の推移・メモ(10/13の改訂版)#軍事A(沖縄の独立/中国脅威論)9/29,10/05(代弁あるいは報告/代弁、表象の拒否)10/05(連合/冷戦構造化での米軍の重要性)*一(非武装/軍事力の必要性)9/30,11/01 ↓#政治a(憲法第9条/日米安保)9/30,10/25.,10/30,11/03(対アメリカ情報公開要求/アメリカの必要性)*二(本来の出発点におけるアジア主義/官僚制)10/22(東北アジア共同の家/アメリカ主導の世界秩序)11/01(アジア平和条約締結/アジアの軍事的結合)11/02(人権/憲法「押しつけ」説による人権の否定)10/30(くじ引き/現行の国連制度)10/23 ↓#経済B(循環型社会への摸索/基地経済への依存)10/05,10/08,10/10(地域通貨/国民通貨)*三(琉球時代のようなアジアでの対等交易/グローバリゼーション)09/28,10/08(ガンジーの言う自立分散的生産/石油等を使った大量生産)10/21(環日本海のネットワーク/アメリカ依存)10/14 ↓#環境・エネルギー問題b(風力、バイオマスなど持続可能なもの/原発、石油)10/10,10/18 ↓#文化C(反戦映画/好戦映画)10/03,10/29(憲法9条/改憲論)10/25,10/30(黒澤の先進性/現実味のない妄想、幻想説)10/11,10/29(文学作品の有効性/非客観性)10/27,10/28(開かれた神道/閉じた神道)10/24 ↓#心理学、哲学、思想c(文化/攻撃性)10/16,10/17(構造的理解/非構造的理解)10/31,11/02 ↓#食・生活c(9パン/大量生産食製品?)10/12*四(9Tシャツ)11/03 ↓#超自我x(憲法第九条/戦争)10/17解説:「質問」としては以下のものがあり、それに対する<回答>も試みられた。<(if )沖縄の独立>←「沖縄への環境破壊、基地移転、憲法9条無視」 ↓「独立の軍事的根拠は?」→<軍事力を棄てることで独立(尊敬を得る)>「将来はいいとして、今をどうするか」→<代替エネルギーの可能性>「軍隊とは何か?」→<階級構造把握の必要性(「軍隊=労働者」)>問題点:全体的に、国家や近代史における誤った教育を前提にしているので議論が噛み合わなかった。また集合論や階級的把握など初歩的な理論が浸透していないのもその理由の一つだ。さらに、プルードンの思考を図示↓した以下のような構造的思考が理解されていなかったため、政治a、経済b、生活c(国家A、資本B、文化C)を全体として捉えることがなされなかった(プルードンの場合は、当時の教会権力を反映して、「文化、生活」が「教会、宗教」となっている)。 記号にすれば以下になる(「議論の推移」の議題タイトルに併記した)。B A ba C cxこのような思考に関しては様々な交換の形式として柄谷行人が定本全集でさらに発展させているのでblogでの議論の前提として読んでいただきたい。解決策: アジア全体で教育から変えて行かなくてはならないだろう(モニュメンタルな場所へアジア各国の生徒を招き合うプロジェクトの実行など。11/01『東北アジア共同の家をめざして』参照)。 地方分権が進んでおらず、地域が活性化されていないので容易に(一例としては国家神道へ無批判に同化してしまうように)国家に同一化してしまう傾向が見られる。 この傾向はイデオロギーと言うよりある種のイデオローグとさえ言える。 また、系列弁証法を歴史的に当てはめると、薩摩/長州 ↓ 日本ヨーロッパ諸国 ↓ EU といった、対立の克服を事例としても考えられ、こうした歴史的認識が求められる。*一~四注解説: アメリカ(*二)の基地に頼った沖縄の経済を見ればわかるように、軍事問題は経済問題だ。しかし、それは日記(11/04)に書いたように何かに反対しているだけでは決して改善されないだろう。 グローバルな経済の方が儲かると軍産複合体は言うのですから、こちらもオルタナティブナ経済がより豊かなものであることを、指し示さなくてはなりません。ここでは地域の自治を守る地域通貨(*三)を循環型の食生活(*四)の中で使って行くこと、なおかつそのノウハウを公開して経済的基盤に基づく連合(*一)をつくっていくことが望まれる。 その意味で11/03で紹介したような憲法9条を軸にしたネットワーク及びアソシエーションに可能性があるだろうし、平和運動を経済的実質を伴ったものにするために市民バンク(10/26)やフエアトレード(11/03)の推進や地域通貨の使用はもはや不可欠でさえある。 アジアにおける草の根の交流(10/26)もそうした側面から補強され得る。補足説明:軍隊とは何か?(11/8追記) >「軍隊」という一般的な集合の中には aー志願制として成立するもの、>bー徴兵制として成立するもの、があるとします。>この二つが部分集合です。そして自衛隊がもし「軍隊」の集合に>入るためにはbのたいぷになるということでしょう。上記の書き込みを図解してみました。志願制、徴兵制、共に問題点があります。a=志願制の問題点は、自衛隊のように国民の関心が薄くなるということです。b=徴兵制の問題点は、軍隊の定義が曖昧になるということです(明日、僕が選ばれるかも知れない)。ただし本当の問題点は他にあります。 本当の問題点は、世界的な階級の分化であり、資本家や官僚からは決して前線で闘う人間は選ばれないということだ。この問題を解決するために徴兵制を主張するリベラルもいるが、今のところ無力だし、本質的解決ではない。下のn個の軍隊を軍隊として固定して考えることは、軍隊を定義するというよりも階級の分離を固定したものとして考えることになってしまいます(ですから彼らはまず、労働者として定義され直すべきです)。改訂:上記の図の「aとbの問題点」を下記↓に訂正します(11/9)。
2004年11月05日
非戦という言葉は以前からありましたが、坂本龍一さんが本の書名にしたので近年広まりました(*)。反戦と違って単に反対するだけでなく代替案を指し示すニュアンスがあるので、推賞したい言葉です。それは例えば、反「~」といった場合、「~」のもつ構造を前提とした思考に安住する場合が多々あり、必ずしも新たな構造を生み出さない場合があるからです。 ただし、状況によっては何かに反対しなければならない場合もあるので、「反」と「非」は相互に交通可能になっていなければならないと僕は考えます。例えばボイコットはやはり非買運動ではありますが、もっと強力な反対運動を起こさなければならないときもあります(水俣病など)。これは個人主義は個人主義の中に自足するべきではないといった言葉で置き換えられることができます。 正反合といった弁証法の中に、非という言葉を置くとするなら、それは時間軸によって捨象されない複数の線として記載できるでしょう。僕はそのような思想を展開した思想家としてスピノザ(*)を挙げたいと思います。 現代は、非であることが態度に求められる反面、(非の非と言ったらいいのでしょうか)何か積極的に賛成できるイデオロギーが見失われた時代だということもできます。(続く)*『非戦』(幻冬社、2001)*ネルーの自叙伝(『世界の名著』中央公論社)にも以下のようにスピノザの言葉が最後に掲げられていました。「その昔、スピノザは自問した。『知識と理解による自由か、それとも感情による束縛か』 そのいずれをよしとするか、と。彼は前者を選びとったのである。」また、スピノザの主著は『エチカ』ですが、ここでは参考までに彼が具体的にくじ引きについて言及したテクストを以下御紹介します。「諸事のとり決めならびに官吏の選任にあたってすべての貴族が同じ力を持つためには、そしてすべての事務の決裁が迅速であるためには、ヴェニス国の人たちの守った手続きが最も推薦に値する。彼らは官吏を任命するにあたり会議体から若干名を抽籤で選び、この人々が順次に選ぶぺき官吏を指名し、続いておのおのの貴族は指名された官吏の選任に対し賛成あるいは反対の意見を投票用小石によって表明する。あとになって誰が賛成あるいは反対の意見であったかがわからないように。こうすればすべての貴族が決議にあたって同じ酪威を持ちかつ事務が迅速に決裁されるばかりでなく、その上おのおのの者は--これは会議にあって何より必要なことであるが--誰からも敵意を持たれる心配なしに自分の意見を表示する絶対的自由を有することになる。」(スピノザ『国家論』、第八章第二七節、畠中尚志訳、岩波文庫p139)
2004年11月04日
最近ガンジー及びインドに言及することが多かったので、その関連でインドのフェアトレード商品を御紹介します。と言ってもこれは日本で有志がデザインしたTシャツで、労働条件等を満たしているインドの工場でプリント染織を受注生産してもらったものです。 ハングル、ポルトガル語、英語、アラビア語等で日本の憲法9条が書かれています。通信販売でも買えますので、詳しくは以下を御覧下さい。憲法9条Tシャツ ちなみにインド相手のフェアトレードは大変苦労すると聞きました。インドでは「ノープロブレム」という言葉が何度も聞かれるそうですが、それは「プロブレム(問題)が沢山ある」というインドの現実を反映した逆説的な言葉だそうです。 こうした各国の草の根の現実を把握し、問題点を理解する上でもフェアトレードという概念は有効だと思います。 なお上記のTシャツの収益金の一部はイラクの子供達への寄付に当てられるそうです。
2004年11月03日
近年、岩波版定本全集他で展開されている柄谷行人による、国家とは資本/国家/ネーションと分かれた交換の一形態の中の一つにすぎないという構造的把握は注目に値する。 こうした考え方によって、世界の全体的な把握とそれに対する精緻な分析が可能になるし、何よりも国家は神秘化をはじめて免れ得るからだ。 ただし、資本(市場経済)/国家(略奪と再分配)/ネーション(互酬制)と三層に分かれた交換の形態の中で、それでも国家が今日においても神秘化されてしまう傾向があるのは、それが対外的な概念としての境界、国境を超越的に設定しているかのように見えるからだろう。 インドの実例を見てみよう。 1947年のインドの独立において、ガンジーは(1869-1948)その自立分散的な生産システムとボイコットという民衆の自治に必要なネーションの創成に貢献した。ちなみに彼は一歩づつそれを編み出したのであって、弁護士出身の彼が経済について明確に語ったのは晩年である(資本及び経済面における戦略と宗教=ネーション面を確立したガンジーを神秘化するべきではないということだ)。 そしてインドの国家に当たる部分、インドの対外的な独立の交渉の側面を担当したのはもう一人の「建国の父」(これはプルードンが指摘するように良い比喩とは言えない*)と言われるネルー(1889-1964)である。自らを西洋的な個人主義と呼ぶネルーはガンジーにはない視点を持っていたし、あるいはガンジーの及ばなかった部分(国家及び政治面)を補完したと言える。 インドの独立に際して彼は国連にオランダによる再植民地化の動きからインドネシアの独立を守り監査する委員会の創設を提案し、実際に1947年、その委員会を創設した。これによって、アジアというものが歴史上はじめて、連合という形をとることによってかろうじて国際社会内に、当時においても今においても対西洋社会的にその場所を得たのだ(1949年にはネルーはインドネシア問題に関して、アジア各国による文字通り「アジア会議」を開いている*)。 なぜ、インドの独立にインドネシアの独立が関係するかと言えば、当時の植民地支配に対抗するためには、一国の独立という、狭い範囲の利益を主張するだけでは国際的な理解は得られないし、宗主国側の論理を越えられないからに他ならない。アジアの表象という意味でそれは大東亜共栄圏の元でも可能だったのではないか、と言う人がいるかも知れないが、例えばビルマが1943年に大東亜共栄圏のもとで独立を宣言した後、1948年に再び独立しなければならなかった歴史的事実がその欺瞞性を証明して余りあるだろう。民衆はその所有制度を封建的に維持したままでは、決して独立したとは言えないのだ。そして当たり前のようだがそれではもはや他の国々から独立したとは看做され得ない。 岡倉天心のアジアは一つ(だがそれぞれが多様性を持ち、決して同じではない*)、という英語で書かれた対外的な主張を実際に展開しえたのは日本から同心円的に拡張しただけの大東亜共栄圏ではなく、ガンジーとネルーのいるインドだったのだ。 アメリカがイギリスから独立したように新たなフロンティアを求めるような行為が、この地球上にあり得ないことが判明した現在、こうした国民国家のあり方は検証に値する。フロンティアの消滅、言い換えれば拡大主義の理論的崩壊は比喩的なものではなく、環境面においては明白な科学的事実だし、そしてそうした国際社会の中で、国家を一つ増やすということ、すなわち独立を宣言するということにはガンジーとネルーが提唱したような新たな政治意識、新たな概念の創出が対外的にも内在的にも不可欠になるということなのだ。 それをさらに言い替えれば、近代という病によって蔑すまれ、近大国家によって囲い込まれていた「島」という積極的な概念の再展開とも言えるし(ヨーロッパは「岬」だし、アメリカもまた「島」なのだ*)、それをつないで行くアソシエーション(連合*)を内外で模索する行為でもあるだろう。*プルードンが家庭ではなく職場を社会の構成単位として規定したのは、容易に国家権力という父権主義に家庭における父が転化されてしまうことに対する危惧があったからでもある(『プルードン多元主義と自主管理』他参照)。*ネルーに関しては主に『世界の名著』(中央公論社)と『現代から見た東アジア近現代史』(青木書店)を参考にした。*岡倉天心の英語による主著の一つ『東洋の理想』は、1902年にインドで書かれた(柄谷行人『ネーションと美学』他参照)。*「岬」に関してはヴァレリーやデリダによる考察があるし(デリダ『他の岬』)、アメリカ=「島」説に関してはそれに伴った「自給自足を目指すべき」だとのボブ・ディランの言及がある。*この連合は軍事的同盟とは似て非なるものである。
2004年11月02日
以下、以前コメント欄でも紹介した、ピースボートの共同代表である櫛渕万理さんの提案を再度紹介させていただきます。参考サイト:9LOVEイベント報告・有事はない、と言うが、本当にそうか? 戦争の危機はある。ただし、北朝鮮ではなく、べつの場所に。 アジアの中では90年代に終わったはずの冷戦が続いている。たとえ ば、1:中国と台湾の分断、2:南北朝鮮の分断、3:北方四島の問題、 4:ほかにも尖閣諸島など領土のあいまいな島々がいくつも存在する。 中国・台湾はつねに緊張関係が続いていて、アメリカは台湾に大量 の武器を輸出しているし、朝鮮半島では今も38度線の両側に兵士が いる。北方四島に関しても、日本とロシアはいまだに平和条約をむ すべないままでいる。 戦後、真実究明委員会を設置するような国もあるが、アジアでは 歴史の清算もされないままの冷戦が続いていて、さらにそこに経済 のグローバル化の問題が出てきた状態。もういちどアジアの中で戦 争が起こる前に、手を打たなくてはならない。・非武装にビジョンを ピースボートでは、北朝鮮とも顔の見える交流を続けてきて、今 までに2000人と一緒に日本から北朝鮮を訪問した。人と人との関係 を築き、現状を知ると、唯一の道が非武装、非暴力である。 非武装、非暴力は「理念としてはいいけど」と言われるが、 日本はそれを実際に憲法として持っている。だから、憲法をなんと なく持っているのではなく、きちんと守られた場合の国の形を想像 して、実現していくことが必要だと思う。 イラクへの派兵も、自衛隊を持つことも、あきらかに憲法違反で あるけれど、ただそれに反対するのではなく、自衛隊がなくなった ら、その予算をどう使うのか。日米安保がなくなったら、安全保障 をどうするのか。攻められたらどうするのか、といったビジョンを 結実するためのプロジェクトを呼びかけて、実行する時期にきてい るのではないか。・非武装は最大の安全保障 9条は、日本の安全保障である。軍事力=安全保障とは限らない。 非武装であることがどれだけ強い安全保障になるのか、その可能性 を追求していきたい。 そのためにもう一度、なぜ9条ができたのか、背景を考え直す必 要がある。アメリカに押し付けられた憲法だから、改正したほうが いいという議論があるが、「なぜ」アメリカに押し付けられたのか。 第2次世界大戦の日本のアジア侵略で、アジアでは2千万人、日本 では3百万人が死亡した。そんな大きな国家犯罪を犯した日本とい う軍事国家を解体するため、アジアへの安全保障として、憲法9条 ができたのではなかったか。 憲法前文には「For People(人々のための)」という記述がある。 それを日本政府が「日本国民は」と訳してしまったが、そもそもは (外国人も含めた)すべての人々のための安全保障憲法だったはず。・憲法とはそもそも何のために 憲法とは、国家権力を制限するための決まりごと。市民と国家の 契約のようなもの。法律には「人を殺してはいけません」と書いて あって、人を殺してしまったら重い罰則があり、場合によっては死 刑になる。一方で、国に対して「国家も人を殺してはいけません」 というのが9条ではないか。個人だったら死刑になるのに、国家な ら、戦争だったら、人を殺してもいいのか? 国家は、もちろん規則にしばられたくないから「改憲」を言うだ ろう。でもそれを市民が許すのは、安易すぎはしないか?・アジアの非武装の平和のために、具体策は? 提案=東アジア非核地帯条約:6カ国協議を行っている国々で、 アメリカも含めて、6カ国で東アジア平和条約を結ぶ。 理想主義的と言われそうだが、実はこれはそう難しい話ではない。 日本には非核3原則があるし、朝鮮半島でも92年に朝鮮半島非核 宣言を出している。これをベースに、すでに東アジアのNGOが集 まって討議を進めていて、国連につながる国際会議「武力紛争予防 のための市民社会の役割 - 東北アジア地域協議会」で、モデル条約 として採択されている。 提案=地域の歴史記憶の共有化:日本の教科書で見る第2次世界 大戦と、韓国の教科書のそれとは全然違うものになっている。歴史 認識が共有できないうちは、共通の未来や地域全体の安全保障を作 っていくのが難しい。東アジア各国からの代表で構成して真相究明 委員会などを設置し、アジア共通の歴史教科書を作ってはどうか。 提案=アジア地域全体の憲法9条を作る:地域全体の安全保障と して、9条のように条文化されたものを採択する。 以上、上記の櫛淵さんの案は具体的ですし、彼女が日本国内で南北朝鮮の合同イベントを開くなど、一歩づつ上記の案を現実化している方であるということも付記しておきます。 追記: 櫛淵さんの講演を採録していただいたピースボートの小野寺愛さんにも感謝いたします。
2004年11月01日
中心と周縁というと70年代に山口昌男が提唱して一世を風靡したタームとして思い出される。またラテンアメリカに関する従属論争も想起させるが、ウォーラーステインなどはそうした単純化を嫌って、間にワンクッションを入れて三層構造を提唱した。 しかし、中心と周縁というこの構図は単純であるが故に馬鹿に出来ない。なぜなら今も現実の事象に多々見られるからだ。 例えば、これは現実の事象ではなく映画における事例になってしまうが、『地獄の黙示録』や『イワン雷帝』第二部がこの構図を最大限利用して権力の問題を解き明かしていた。 僕がここでこの構図を問題にしたいのは、例えば組織の中に外側から入ろうとする人間が、求心力を求めて中心に無理矢理入り込もうとするときの心理的コンプレックスと社会全体に与えるデメリットを指摘したいからだ。 1936年に起こった226事件は、天皇の支持を期待して、東北地方出身の兵士、将校たちなどが反乱を起こしたものだが、これは結果的には社会全体の官僚化、反動化に寄与しただけだった。『イワン雷帝』の例でも皇帝の暗殺未遂は権力を決定的にしただけだったし、『地獄の黙示録』では暗殺者はあやうく独裁者に(ミイラ取りがミイラに)なりかけた。 僕は実際に社会運動に参加している際、(226とまでは行かないが)「事件」を起こして組織の注目をあつめ、中心に入り込もうとする若者の姿を何度も眼にした。 思うに、日本でも外国でも右翼的な発言を繰り返す人達は、権力の周辺部にいて、その疎外感を埋めるために愛国的な発言をする場合が多いように思われる。権力者側は都合のいい時だけそうした発言を利用するし、都合が悪くなれば(226事件の時のように)切り捨てるだけだ。 彼らの愛国的発言がこうした周辺と中心の構図にそのまま当てはまってしまうのは、歴史が進歩していないことを指し示すものだが、近代という時代、生存競争をする上で強固な中心が必要とされる時代の残余とも言えるだろう。 もちろんこれは右翼の活動だけにではなく、左翼運動にも見られるし、イスラム原理主義にも見られる現象である・・・。例えば、求心力を求めてアメリカの権力者がイラクで戦争をはじめる。そして、求心力を求めてテロリストが外国からイラクへ入り込み、これもまた求心力を求めて外国からイラクへ入った旅行者をターゲットにして人質にするといったように・・・。 この問題の解決策としては、中心が沢山あるようなアナーキーなアソシエーションに満ちた世界をつくるということが挙げられるが(世界的にはアラブは一つの極としてEUなどのように団結するべきだろうし、日本国内では東北、中部、といった道州制規模で災害に対応するセンターがあるべきだが、それらはさらに合併されていない小さな複数の中心から成り立っている必要がある)、これは循環型産業の育成、教育を含めて地道な作業になるだろう。 ただし、先に言及したような過去の映画作品(芸術作品)にこの問題が明確化されているということは、必ずしも理論的ではないかも知れないが、美学的な突破口があるということでもあり、それが現在における唯一の救いだろう(芸術作品は一般の人達の理解力が向上するのを待っていてくれる)。このことは同時に、すべての人間がイマジネーションを働かせて、芸術家(ヨゼフ・ボイスの言葉で言えば「社会彫刻家」)として闘っていく必要を示唆しているのかも知れない。 最近は一般化したblogやソーシャルネットワーキングサイトなどもそうした中心の沢山あるような社会をつくるツールとしてあるのだが、やはりネット社会の中でも求心力を求めて外側から「男の子たち」が空虚な中心を目指して突入し、周囲に迷惑をかけるケースが目立つ。これはネットというグレートマザーによって現実から遮断されたうえでの一種の男性原理の発露でもあるが、これはネット特有の問題と言うよりは今ある社会の縮図であり、そうした事実を意識化して行く作業が必要となるだろう。注記:山口昌男に関しては『わかりたいあなたのための現代思想・入門』あたりがお薦めです。ウォーラーステインや従属理論に関しては柄谷行人『トランスクリティーク』に要約、解説がある。226事件に関しては『叛乱』(佐分利信他監督)がわかりやすい。ヨゼフ・ボイスの社会彫刻に関してはミヒャエル・エンデらとの討議を収めた『芸術と政治をめぐる対話』(岩波書店)がお薦めです。ネット社会ではないが、マスメディアに関しては、第4の権力ではなく、第4の戦場であるという意見が最近浮上してきている。
2004年10月31日
29日、東京九段会館で1945年に22才で日本国憲法創案の作成に関わったベアテ・シロタ・ゴードンさんの講演会及びシンポジウムがありました。 ベアテさんは、日本国憲法に女性の立場から主に男女平等について起草しましたが、この日もまず女性の立ち場から日本国憲法はアフガニスタンやイランの女性達の参考になるということを述べられました。 女性の立場と言うのは、以前平塚らいてふの記録映画を見たときも感じましたが(羽田澄子監督作品『平塚らいてふの生涯』)、日本の近現代の歴史を一貫している唯一の正しい立場と言えるかも知れません。 また、現在の日本国憲法がアメリカから押し付けられたという説に関しては、日本国憲法がアメリカ憲法(米国憲法には「女性」の文字がない)より優れていると言い、「人は、自分のものよりいいものを他人にあげたとき、それは『押しつけた』とは言わないでしょう」と述べました。 最後に、日本語が堪能なベアテさんは数年前から日本での講演活動を行なっていますが、アメリカで日本の憲法第9条が知られていないのでアメリカでこれからは講演をしなければと語っていたのが印象的でした(彼女の回想録『1945年のクリスマス』は英語版が『 The only woman in the room』として米国でも発売されています)。 当日の模様はビデオになるようなのでまた御紹介したいと思います。
2004年10月30日
黒澤明がエイゼンシュテインの『イワン雷帝』第二部を見て色彩映画を撮る気になったことは有名だが、両者の共通点として、共にアメリカで映画を撮ろうとして果たせなかったことが挙げられる。 エイゼンシュテインはズッテルの『黄金』、ドライサーの『アメリカの悲劇』などを企画し、黒澤は『暴走機関車』、『トラ・トラ・トラ』を企画した。 すべて後になって他の映画監督によって映画化されているところにその企画の素晴らしさが証明されているが、他の監督が完成した作品からは、本来ありえた問題意識が失われているのも残念ながら共通している。 黒澤作品はどちらも原シナリオが公開されている。特に『トラ・トラ・トラ』は、絵コンテと共に最近全貌が明らかになったという点で今回特に言及したいと思う(別冊キネマ旬報参照)。 近年、真珠湾攻撃に関しては、アメリカ側が暗号を極秘で既に解読していて米国国民を参戦の意志で団結させるため、日本側の奇襲をわざと許したという説が一般的になっているが、黒澤のシナリオでは奇襲を知らせようとする情報グループの努力が徒労に終わる過程に焦点を当てられている。また、権力を(『イワン雷帝』のように)両義的に捉えている点も興味深い。 日米両方の交互の描写は緻密だし、深刻な描写もあるが、ここでひとつだけシナリオにも書かれずに没になったギャグを紹介したい。 それはアメリカの戦闘機が不時着し、ゴルフ場の芝を引き剥がしたところに「ターフはもとに戻して下さい」という看板があるというものだ(新潮社『黒澤明のいる風景』より)。 『トラ・トラ・トラ』が撮影中止になった過程自体が徒労と言うべきものだが、黒澤版が完成していたら、日本人及びアメリカ人の太平洋戦争に対する考え方が変わっていたのではないかと思われるのでその撮影中止が悔やまれる。黒澤版が完成していたら、日米両国の不和の象徴(「リメンバー・パールハーバー」)が日米両国の協働作業の象徴に転化していただろうからだ。 黒澤はその後、スピルバーグを仲介にアメリカ資本で映画を撮り(『夢』)、その後で(返す刀で?)『八月のラプソディー』という原爆を主題にした映画を撮ってアメリカ人を激怒させた。 現在、アメリカの批評家、特にニューヨーカーに日本人が評価し切れなかった黒澤の『乱』を高く評価している人間が多いことと考えあわせると(黒澤は生前、アメリカの批評家に最近マルチカメラ方式がわかってきたようだと喜んでいた)、黒澤明の評価がアメリカそれ自体を写す鏡とさえ言える。
2004年10月29日
武田泰淳(1912-1976)の作品に『審判』(1947)という短篇がある。 日中戦争に一兵卒として参戦した主人公が日本にいる婚約者との約束を破り、戦後も上海に残り続けるというものである。ここで、主人公二郎の動機を説明する二郎自身の手記が後半で展開され、後半部は一種のなぞ解きとなっている。 泰淳自身は仏教徒であるが、題名の『審判』はヨハネ黙示録から引用されたものだ。ここで作品後半部のなぞ解きを明かすなら、主人公は誰にも裁かれない自分の犯した戦争犯罪を自身の手で裁くために、あるいは裁かれないこと自体を忘れないために主人公は上海に残るのである。 この物語は『ビルマの竪琴』を思わせるが、圧倒的に違う点は、自身を裁くという緊張感である。いうなれば、他者からの視点をこの作品はエクリチュール内外で維持し続けているのである。 ただ、この作品は筑摩書房の教科書(『現代文(改訂版)』教科書番号筑摩143現文555)で採用されたものの、文庫その他で入手することが困難なので、一般に読まれることが少ない作品である(武田泰淳全集第二巻所収)。泰淳の代表作とも言える完成度を持ってはいるが、泰淳作品に特有のいつものユーモア(二つの中心)がないので特殊な作品と判断されているのではないだろうか。 上海を扱った作品は泰淳の中で、重要な位置を占めており遺作も『上海の蛍』という題名であり、その作品はまだ上海に蛍がいたころの泰淳の回想を扱っている。実際に泰淳は一兵卒として参戦し、その後文官として再び戦争中に上海へ渡りそこで働き、上海で終戦を迎えている。『審判』は最初の中国参戦を題材にし、一方『上海の蛍』はそのあとの文官としての体験を扱っているが、最晩年まで上海という場所を忘れないでいることから明らかなように、『審判』で表明された歴史意識は終生泰淳から離れなかったものだとも言える。 ちなみに、最近中国の経済成長が喧伝されているが、1930年代の途中で止まった成長を再開させているだけにすぎない。戦後、泰淳の関心は、政治から経済へと移行するが、消費社会が均質化を成し遂げた点を考えれば、「消費社会こそ真のファシズム」(パゾリーニ)とも言えるし、近代以後の資本の論理によってネーションが捏造された過程を考えれば(これは西洋やイスラム社会にも見られる)、泰淳の消費社会ヘの没入はさらなる政治に対する高度な分析とさえ言い得るのである。 泰淳は作品の最後に、中国に留まった主人公の行動が、はじめてのものではなく、三人目のものであることを主人公の告白の中に付け加えている。泰淳はこのような自己断罪の態度を特権化しようとしなかったのだ(主人公の名前が「二郎」だったということも思い出される)。 また、この作品は泰淳自身の戦場での体験の告白になっているとも思われるが、そのような「仮面の告白」としての側面の研究も待たれる作品である。
2004年10月28日
石川達三は1938年、日中戦争及び南京陥落を描いた小説『生きている兵隊』を「中央公論」に発表して発禁処分にあったが、この作品は現在も文庫(中公文庫)で読めるし、読みごたえのある傑作として歴史的に残っている。 中国語でもこの作品は『未死的兵隊』等として翻訳されているが同じ南京大虐殺を題材として扱った中国の『南京1937』よりもこちらの方がルポルタージュとしても小説作品としても優れているかも知れない。 特に冒頭部分の描写及び、セリフが素晴らしい。「ニイ!」と笠原伍長は怒鳴った。しかし訊問するだけの支那語は知らなかった。彼は鼻水をすすり上げながら部下に言った。「お前な、本部の通訳さんを呼んで来い」 こうしたちょっとした描写だけで、中国人への横暴で疑心暗鬼な態度、言葉の断絶、さらに自らの所属する組織構造までもが看破されているのだ。 また、石川は発禁処分にあった際の警視庁の取り調べでこう語っている。「国民は出征兵士を神様の様に思い、我が軍が占領した土地にはたちまちにして楽土が建設され、支那民衆もこれに協力しているが如く考えているが、戦争とは左様な長閑なものではなく、戦争というものの真実を国民に知らせることが、真に国民をして非常時を認識せしめ、この時局に対して確乎たる態度を採らしむる為に本当に必要だと信じておりました。」 小説の中で日本の兵士がスパイを殺すところなどは、作者は決して告発的な態度を取らず、ひとり一人の兵士の心理的な理由付けを忘れていないし、殺した後の兵士が抱えることになるPTSD(心的外傷後ストレス障害)を扱っているところなどは今日的に見ても新しいかも知れない。兵士たちが戦争や中国をめぐって議論する場面では、作者の観念小説作家としての資質もプラスに作用している。 上記のことからも解るように石川達三は社会派作家というよりも実は観念小説の達人であり、この作品内で当時の兵隊の様々な思考を整理している面もあるので、そうした側面からもこの作品の再評価が望まれる。特に日中戦争を知らない若い人達にお薦めしたい。
2004年10月27日
環境、経済、戦争といった一見すると関係ない事象のすべてがつながっているということをうまく説明している文章として、「未来バンク」を立ち上げた田中優さんの発言があるので、少し長いですが御紹介させていただきたいと思います。//////////////// 戦争をさせないためのエネ・カネ・軍需 巷(ちまた)で言われるように「人々の敵意が戦争の原因」だったなら、人々の心が平和になれば解決するだろう。しかし戦争は子どもの喧嘩ではない。利益と打算で成り立つものだ。もし「エネ・カネ・軍需」がの動機であるとするなら、戦争をさせない社会を作るためにはその動機を取り除くしかない。私たちは「エネ・カネ・軍需」の利益を、企業に与えない仕組みを作らなければならない。 イラクの石油が与える利益は決して大きなものでほない。一年間の石油収入はアメリカの軍事費の五%でしかないし、カリフォルニアの山火事被害額(これも温硬化と関連が深い)の一〇年分でしかない。それらを石油のコストに含めるなら、石油の価格は自然エネルギーよりも高くなる。ドイツのシュレーダー首相は自然エネルギーの国際会議で、石油への依存がテロの背景にあるとしてエネルギー政策の転換を各国に呼びかけた。実際、世界第二位の石油消費量だった日本を中国が抜き、わずかこの一〇年の間に日本以上に輸入する国となった。このことは世界の石油を逼迫(ひっぱく)させた。このまま石油をエネルギーの中心にし続けるなら、二一世紀が「戦争の世紀」となることは避けられない。 自然エネルギーにシフトさせることが、戦争に進ませない重要なカギになる。 兵器でカネ儲けする仕組みもまた卑劣なものだ。兵器を購入するのは国家なのだから、政権に近い者はインサイダー取引で儲けることができる。ブッシュの父が顧問となっている投資会社は、ブッシュが兵器を発注することで多大な利益を手にしている。福祉を後退させ、その分を兵器に回すことで軍需企業の株価を上昇させ、投資収益の形で政権関係者が儲けるのだ。しかもアメリカは、莫大な軍事費を自国民の貯蓄だけでは調達できない。その資金を提供しているのは私たち日本人だ。日本の銀行が政府の短期国債を買い、政府はその資金で米国債を購入する。私たちが口でいくら戦争反対を唱えても、実現するのは実際に資金提供したことだ。私たちが貯蓄を意志的に投資しなければ、戦争をさせない社会は作れない。これが第二のカギとなる。 アメリカの軍需は究極の公共事業だ。日本の実質国家予算以上の資金を軍事単独に使い、その額は世界の軍事費の約半分に達している。軍需産業に勤める労働者は全労働者の常に五%以上あり、戦争が失業対策となっている。こんなことのために人類は生塵性を上げ、余剰を作ってきたのだろうか。これは人々が選択できる未来だ。衣食住に関わりない生塵は軍事でない方がいい。人々が戦争より平和を、防衛より予防外交を優先する政治的意志を示すならば、実現することのできる未来なのだ。 平和に関する話の結論を見ると、その多くは「心の平和」「ライフスタイル」論にまとめられ、個々人の努力に訴えるものが多い。しかしこれは具体的な解決策を見出せない者の言い訳ではないのか。具体的に見てみよう。 エネルギーは、自然エネを入れるよりも省エネの方が安上がりだ。電気は新たに発電しなくても、今の需要を減らすことで作れる。家庭内の電気は、その三分の二を「エアコン・冷蔵庫・照明・テレビ」が消費している。しかしそれらは省エネが進み、今や七年前の製品の電気消費量と比べて約半分に下がっている。特に冷蔵庫では五分の一以下だ。この省エネ製品への買い替えをするだけで、電気の消費量は半分にすることができる。省エネ後の電気を賄(まかな)うのに必要な太陽光発電パネルの広さは、わずか八畳ほどになる。これが戦争して奪おうとする石油と同じ価値なのだ。太陽光発電は自然エネルギーの中で最も高いものであるが、それでも化石燃料より経済的になる日は間近い。ましてや戦争や環境被害のコストを含めて考えれば、今の時点でも自然エネルギーの方が石油より安いのだ。 今、貯蓄の運用先をコントロールすることで、自らが望む未来を実現しようとする「社会的責任投資」の運動が広がってきている。私が始めた「未来バンク事業組合」もその一つで、「環境・福祉・市民事業」にだけ融資しながら、この一〇年間順調に運営してきた。そして今や、各地に「NPOバンク」と呼ばれる非営利の金融が広がってきている。それらは相互の信頼をベースにするもので、必然的に地域を重視する。各地に地域分散型の金融が実現されようとしているのだ。地域の資金が地域に投資されれば地域経済が活性化され、戦争に白紙委任されるような貯蓄をやめていくことができる。 こうして私たちの貯蓄を戦争に供給せず、エネルギーを石油に依存せず、公共事業を戦争ではなく地域の市民事業に変えていくならば、戦争をしようとする動機は次第に失われていく。石油を奪ってきたとしても誰も喜ばなくなるからだ。 『もしも憲法9条が変えられてしまったなら』(別冊世界2004)p136,137より/////////////// 上記の田中さんの文章はほとんど自明であるべき基本的な認識(「自然エネルギーにシフトさせることが、戦争に進ませない重要なカギになる」「私たちが貯蓄を意志的に投資しなければ、戦争をさせない社会は作れない」等)を述べたものなので、省略する箇所がなくて困ってしまいます。足りないところがあるとすれば、具体的な法整備のやり方(金融法、環境税等)や代替エネルギーの多様性(バイオマス、地熱等)に関してでしょうか。 田中さんは、経済の視点から、環境と戦争を見ていて、金融に関しては代替案を提出、実行しているところが素晴らしいと思います。僕は、その他に地域再投資法などによって、既成の金融業者が同様の本来の仕事をするようになるべきだとも思っています。NPO、NGO(実は上記の田中さんの文章は戦争で亡くなった少女・ラナちゃんの思い出に捧げられていて、NGO活動は彼女らの親替わりになることだと田中さんは言う)に関してもまだまだ日本で認知されるのはこれからで、多くの議論を必要とするでしょう。 環境に関しては、日本の各地(広島・府中町、埼玉・小川町等)で小さな地域を主体とする興味深い有効な試みが続けられているのでまた御紹介したいです。
2004年10月26日
第九条を含む日本の憲法を扱った本のなかで僕が最も重要だと思う本に『日本国憲法を生んだ密室の中の九日間』(鈴木昭典著、創元社)があります。題名が誤解を招くかも知れませんが、これは歴史上「密室」であった部屋のドアを後続者である私たちに開いてくれる本です。 この本でも主要舞台となっている憲法草案が起草されたという有楽町、皇居のお堀近くの第一生命ビルに先日最近はじめて行ってみたら、それまで一般に公開されていた六階のマッカーサー記念室が9・11以降閉鎖されたままだといいます。 有楽町、皇居前の第一生命ビル この本に見取り図まで記載されていますが、その記念室と反対側にある帝国劇場側の大きな部屋(集会場)で憲法は起草されたそうです。そうした憲法起草者にはアメリカ人とはいえ様々なタイプの人間が参加しました(この本で彼らがインタビューに答えているのは歴史に証言を残すべきだという意志が彼らに大きいからでしょう)。この辺の事情に関しては、評論家の鶴見俊輔さんも語っている通りです。参考:鶴見俊輔さんインタビュー ちなみに鶴見さんは憲法9条が日本人に選ばれなくても、自分が選ぶと言っている、筋金入りのアナーキストです(鶴見さんのアナーキズムはプルードンではなくクロポトキン経由ですが)。 本の内容に戻るなら、2/1の毎日新聞のスクープをきっかけにして、彼らが憲法を作り上げて行く9日間(1945.2/4~2/13)の興亡にはすさまじいものがあります。印象批評をさせてもらうなら、彼らが作戦と期日を決めて集団でものごとに取りかかる様子は、アメリカンフットボールを思わせます(それに対して松本試案に代表される日本の保守的なグループは既に存在しない土俵の上で相撲を取ろうとしているようなものかも知れません)。 一応アメリカ国籍である彼らは現在過去を問わず様々な国の憲法を参照し、そうした理想を日本国憲法に託しました。ただし、章立てに関しては明治憲法と変わらないように工夫したところが、当時の日本の民衆の理解力に配慮しているところだと思います。 この計画は「真珠の首飾り」計画と呼ばれ、同名の舞台にもなっており、最近でも演じられ好評を得ました。 さらに歴史的事実を詳しく知りたい人には、この本の本来の企画の姿である、テレビドキュメンタリー番組としての映像バージョンを見ていただく方がよりわかりやすいと思います(映像バージョンは横浜の放送ライブラリーで無料で見れるし、ドキュメンタリー工房HPより通信販売もされています)。参考:横浜放送ライブラリーHP 、ドキュメンタリー工房HP 本書の中で、細かいが興味深い部分を追記させていただくなら、それは「象徴<シンボル>」という言葉が選び取られたいきさつが書かれている箇所です。以下引用します。 ~問題の「象徴」という言葉は、一九三一年制定ウェストミンスター憲章前文に出てくる。~「そうです。<シンボル>という言葉は、(中略)アメリカ人ならば十人が十人とも、<精神的な要素も含んだ高い地位>という意味を、すぐ理解する言葉です。<シンボル>というのはよい表現だと思いました。」~(同書p118、当時起草に関わったプール元少尉の言葉より) 天皇の扱いに関してもこうしても当時、憲法草案の起草に直接関わった人々の意見が率直に語られており、この本は貴重な証言集となっています(ちなみに現在の天皇制は単に人権侵害だと思いますが・・・)。 こうした憲法作成のプロセスを身近なものにした書物としては、これ以上の本は考えられないし、また事実存在しないでしょう。(憲法創設委員には、当時22歳のべアテ・シロタという女性も参加しており、主に女性の権利条項において活躍しています。そのいきさつはさらに『1945年のクリスマス』という本にもなっています。こちらも魅力的な本です。) 今後再び、第一生命ビル六階のマッカーサー記念室のみならず集会場(ボールルーム)が一般に公開される日が来ることを願っています。
2004年10月25日
日本の神道は基本的に死者の鎮魂を目的としている。そして簡単に言えば、その鎮魂は浄めるという行為によってはじめて可能となる。 ただ、ここで気をつけなければならないことは、古来から原則として神道は、敵(=他者)を殺した後、その敵(=他者)の魂を慰めるものであって、自分達の味方の魂を慰めるものではないということだ。だから、靖国神社のような戦争における自国の死者だけを祀る神社は本来の神道とは異なっており、もはや神道ではなく、神社とも言えない。 以前、中国の留学生と会話していたとき、彼らから近代以降の国家神道と伝統神道は違うという話を聞かされて驚いたことがある。彼らの方が日本人よりも日本を知っているのだ。靖国などには、坂本龍馬も祀られているはずだが、坂本龍馬のお参り行きたいと思う人は、靖国などには行きはしない。有名無名含めて英霊がすべて同じ神社に祀られるなどというのは冒涜である。少なくとも彼らの魂は靖国には存在しない(ちなみに日本の近代化を見直す上では坂本龍馬にまで遡った方がいいと筆者は考えているが、それは海軍の祖としてではなく、アジア各国をはじめ世界との友好貿易をはじめた人間としてだ)。 小泉現首相などは、その人柄が人気を得ている原因だろうが、そうした本来の伝統神道の特質について間違った教育を受けているために、神道の教えとは正反対のことをしているのだ。第二次世界大戦の自国の死者を弔う気持ちがあるのなら、新施設の建設を急ぐべきだし、冥福を祈りたいのなら特定の個人のお墓参りか、どこかお寺(基本的に仏教は世界宗教だからどこのお寺でもよい)に行くべきだろう。 ただし、折口信夫(*)がかつて神道を世界宗教化しようとしたように神道を普遍的に再建した上で、靖国神社に第二次世界大戦で犠牲になったアジアや世界の人々の魂も一緒に祀ることができれば話は別だが・・・。どちらにせよ筆者は憲法第九条を世界憲法にすることでしか彼らを追悼できないし、彼らの死を無駄死ににしてしまうと考えている。 ところで、最近度重なる台風を原因とする食糧難から、最近各地で熊が出没しその被害が相次いで起こっている。熊という言葉の語源はアイヌ語で神を表す「カムイ」だという。正確な因果関係は解らないが、日本語には様々な文化の多様性が潜在しており、神道はそうした多様性をのせる受け皿とでも言うべきものだ。 南方熊楠(*)もかつてそうした多様性な生態系を重視する立場から、神社の必要性を訴えた。 死者、というよりも他者の魂の鎮魂に思いを馳せた神道の原点を今日の我々も確認し直すべきだろう。*神道の鎮魂という側面を重視した折口信夫に関しては、その思考法を表す興味深い図があるのでいずれ紹介したいです。*南方熊楠に関しては以前日記で述べたことがある。*神道はそのア二ミムズム、多元的性格からヒンズー教と近いと筆者は考えているがこれには別の論考を必要とするだろう。*さんざん迷った挙げ句、画像はお皿の上に載った饅頭とパンとケーキにしました。これは司馬遼太郎さんが語っていた神道を表す比喩(「神道は浄められたお皿で、その上に何でも載ってしまう」)に対応するものです。
2004年10月24日
国連について、この日記でも再三触れている「文学界」11月号の討議より引用させていただきます。カント、マルクス、フロイトを柄谷さんは援用していますが、同時にそれらがマルクス(主義)批判でもあるところが重要だと思います(この討議ではプルードンに触れられていない点が残念ですが、マルクスに関して言及される時、プルードンの思想は常識としてすでに附随、考慮されているということだと思います)。///////////// 柄谷(行人) 国家は他の国家に対して国家です。国家主権もそういうものです。一国の中だけで考えると、主権者は国民であり、国家は必要ないといえるかもしれない。しかし、国家の揚棄ということはけっして一国だけで考えることができません。だから、カントは「世界共和国」の理念を考えたわけです。マルクス主義者はこれを馬鹿にしたけど、「インターナショナル」なんか国家の揚棄にはなりません。コミンテルンとかいっても、ソ連が支配することになる。「国家の死滅」は国内だけで考えることはできない。とすると、やはりそれは、カントがいうような世界共和国の漸進的な実現を通すしかない。僕は現在の国連はまだまだ遠いとはいえ、そのための一歩だと考えています。国連によって国家を拘束するというだけではなく、それからいわば国家の「超自我」のようなものが出来て自己拘束するようになるのが望ましい。日本の憲法はそういうものです。 大澤(真幸) 浅田さんが言うように二段階革命でいいと僕も思うんですが、その一段階目にできるだけ二段階目への布石を入れておくことが大事な気がします。たとえば柄谷さんの言っているくじ引きというアイデアはすごく面白い。たんなる民主主義の原理だけだったら、社会民主主義が好きな普通の人たちと何ら変わらないけれど、くじ引きを入れておくと、既存の民主主義にない原理がそこに入ってきますよね。 柄谷 まあ、くじ引きはギリシアの民主主義の根幹ですけどね。 大澤 確かにそうですね(笑)。そうやって二段階目への布石を一段階日に組み込みながら進む。国連についても同様で、国連の常任理事国に日本が入るとか、そんなことはどっちでもいいような気がするんですよ。 浅田 それこそくじ引きで決めればいい。 大澤 その通りです。そもそも常任理事国制度というのがそうとう身勝手なものでしょう。日本は、常任理事国にどうやったら入れてもらえるのかなどということに腐心するのではなくて、むしろ、今や機能しなくなってしまった、常任理事国制度を中核においた安全保障理事会に代わる、あたらしい安全保障の枠組みを提案するとか、もつと超自我的な提案をしていけばいい。反論できないような提案はいくらでもできると思うんです。そうやって一見ふつうの国連の民主革命なんだけど、さらにもう一歩先に進むための小さな手がかりをそこに組み込むことができるんじゃないか。 柄谷 しかしそれを実現するプロセスを考えると、いかに高邁な意見を述べたところで、国家がいうことを開こうとしないでしょう。ですから、議会でない「直接行動」的な運動がグローバルに必要だと思うし、それは実際に可能です。//////////// この中で、特に浅田氏の国連の常任理事国をくじ引きで決めればいいという発言は痛快です。 僕もサッカーのワールドカップ予選で対戦相手を決めるのようなやり方で常任理事国を決めればいいと思っていましたが、くじ引きというのは偶然性というよりも平等性を皆にもたらすので、権力を分散するには一番いい方法かも知れません。 NAMという柄谷さんがはじめた社会運動でも代表をくじ引きで選びましたが、(僕も参加したところ)見学者をはじめ参加者のみなさんが同一の時間と場所を共有するので、たいへん愉快で有意義な方法だったということを付け加えさせていただきます。追記: 長くなりますが、同じ「文学界」11月号の討議の中にネット掲示板に関しての美術家・岡崎乾二郎さんの興味深い考察がありましたので、以下、御紹介します。ちなみに岡崎さんは「もしも憲法9条がなくなったら」(別冊世界)の表紙や冒頭のイラストを担当されている方です。///////////// 岡崎(乾二郎) ~具体的に何か生産する場面ではもちろん、会わなければどうしようもない。メタレベルの言語なんかでは伝えられない。サッカーのチームと同じく、協働の生産ラインを作るためには互いに何が具体的にできるのか、どんな欠陥があるのかオブジェクトレベルで認識しあうことが重要ですから。時間もかかる。しかし、そうした具体的な場面に距離を保つ余地も同時に必要なわけで、別にブログなんかがあってもいいと思うんですね。 けれど匿名掲示板というのは問題にする必要もないと思うのは、たぶんほとんどの人が確信のない意見を試しに書いてるだけでしょう。そもそも書き込む本人の意見も代表していない。たぶん、それに対して、どういうリアクションがあるか観察しようと好奇心で書いている。たとえば実際目の前で柄谷さんとしゃべっているときにはいいかげんなことは言えないという感じがあって、誰でも、よく考えてから話すけれど(笑)、掲示板にはそういう緊張感がない。 大澤(真幸) どうしてだろうね。本来はネットのほうが不特定多数の人が見てるんだから、ずっと責任を持って発言しないといけないはずなんだけど。 岡崎 不特定多数の人を前に、こういう人間がいたらどういう反応がでるのか、練習というか、リサーチするみたいに書いてるんじゃないですか。しかしそれは道路の渋滞予想みたいなもので、みんなが渋滞予想して行動すると外れるというのと同じパラドックスをはらんでいると思うんですけどね。まあ、掲示板では、こういう仕組みがすでに露呈して破綻してきてるんじゃないかな。 浅田(彰) そう、だれもがあらかじめ受け手の反応を気にしてマーケティング・リサーチ的に振舞う傾向があり、それでバンドワゴン効果から雪崩現象みたいなことが起こったりもする。誰も人のことなんか気にしてないんだから、思ったとおりに書けばいいんだけど----というか、他人の反応に先立つ自分の考えというのがなくなってきているのかもしれませんね。/////////////「文学界」の11月号は近年ない充実度です。まだ購入可能だと思うので、興味持たれた方はぜひお近くの書店でお求め下さい。
2004年10月23日
岡倉天心から北一輝まで、あるいは晩年の広松渉まで、アジア主義は根強くあると同時に、これほど誤解を受けている主義も少ないと思います。 作家の小田実さんは近年、竹内好の考察に注目し、さらに面白い考察をしています(『戦後文学とアジア』毎日新聞社)。 竹内の主張を簡単にいえば「アジア主義の死滅こそが、大東亜共栄圏であった」ということです。 竹内好は、日本は欧米派が権力をとり、アジア派が反体制の立場に追いやられた過程を226事件を例に論じています。小田さんもそれに同意していますが、小田さんの考察はそこからさらに進み、主に東条英機を例に、日本のアジア主義は徐々に個人の主張及び主義(さらに言えば信念)ではなくなっていき、その主義ではなくなっていく過程と同時に、大東亜共栄圏が官僚制の産物となったと指摘しています。小田さんの指摘ではムッソリーニなどと違い日本のファシストは反体制の立場に立ったことがなく、結局、権力を持った官僚がその持ち場持ち場で「官僚的」に行動していっただけなのだといいます。 たしかに東条などは、(外国には通用しない日本の)法律に乗っ取って、自分の地位に相応の行動をしただけであって、何か確固たる主義があったわけではありません。そこでは当初潮流としてあったアジア主義は死滅して、官僚主義だけが浮き彫りにされていくのです。 日本は、時代遅れになった欧米の植民地支配ゲームにさらに遅れて参加し、イギリスがインドを苦しめたように近隣アジア諸国を苦しめましたが、重要なこととしては現時点においてそうした歴史的事象を振り返る際も、別に確固たる主義があるわけではないということです。 「「アジアの解放」の中でも、日本のアジア主義が一生懸命考えてきた中で一番薄められた部分だけを取っていく。西洋の部分でも、西洋の文明と正義の中で、本当に対決しなければならない"デモクラシー"などは放っておいて、西洋がインドをいじめた部分とか、そんなところだけをちょこちょこっと取ってくる。そして作ったのが大東亜共栄圏の構想で、それを官僚的に処理したと思うんです。」(小田実他『戦後文学とアジア』毎日新聞社) 第二次世界大戦において、日本が圧倒的な軍事力に破れたという事実を過大に捉え、現在も日本が軍事力(自国のであれ米国のそれであれ)に頼らなければならないと考えるのは、歴史を知らないが故のものですし、それは結局、一般大衆の自主管理能力のなさを証明するものとして受け取られ、結局は官僚制(現在も続くそれ)を助長するだけだのものだと思います。 石橋湛山が述べた植民地支配は経済的に見て損である、といった小日本主義であるとか、ガンジーのボイコット及び自立分散型生産様式の提唱、といった経済的分析に基づいた考察と同時に、アジア主義をはじめ、その思想史の原点を見直す作業が必要だということでしょう。
2004年10月22日
ガンジーはその後、アメリカ黒人運動の指導者マーティン・ルーサー・キングJrなどにも影響を与えましたが、そこにボイコットなどの経済的視点があったことが重要だということはすでに述べました。 ここではさらにその非暴力のスタイルを受け継いで、「沖縄のガンジー」と呼ばれた人を紹介したいと思います。 辺野古沖での米軍基地移転を目的とするボーリング調査に対する反対運動は、周知のように非暴力的なものですが、そこでは具体的に「やんばるスタイル」(by上山和男さん)と命名されたスタイルで防衛施設長の人達との折衝が行なわれています。 そのスタイルは地面にお互い坐って、話し合うというもので、沖縄のガンジーと呼ばれろ阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さんが米軍相手に行なってきた折衝のスタイルなのです。 (写真はビデオ「辺野古沖ボーリング調査反対運動の記録」より) 辺野古沖の座り込みの現場では、阿波根さんの写真が掲げられ、その著書が勉強会で使われたりしています。 伊江島(辺野古沖ではなく米軍基地を伊江島に移転する案が浮上しているそうだ)に住む阿波根さんは米軍の兵隊個人に怒りを向けるのではなく、ひとり一人に(無知な米兵にも解るように)温かく諭すように話し掛けたといいます。そうした誇り高いスタイルは本当の「敵」を見失わないという意味で、とても重要なものだと思います。 ちなみにガンジーの言葉にも「種の中に樹の素(モト)があるのと同じように、目的は手段の中に含まれている」というものがあります。 ブッシュ大統領が、イラクで平和のためと称して戦争を行ないましたが、このガンジーの言葉はぜひ聞かせたい言葉です。///////////////////以下、阿波根さんについての資料です。沖縄のガンジー 阿波根昌鴻 あはごん・しょうこう(1903年3月3日~2002年3月21日)。伊江島での米軍土地収奪に「乞食行進」で抵抗し沖縄の反戦地主を象徴する存在だった。 1925年移民でキューバ、そしてペルーへ渡る。34年に帰国。45年、東京から呼び寄せた一人息子を沖縄戦で失う。55年武装した米兵が伊江島の土地を取り上げると、島ぐるみ土地闘争の先頭に立った。 84年に反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」を建設。自ら収集した戦争資料を展示。のちに平和資料館と宿泊研修施設を運営する財団法人「わびあいの里」を設立し、理事長を務めた。 映画「教えられなかった戦争・沖縄編」-阿波根昌鴻・伊江島のたたかい- 1998年度キネマ旬報文化映画部門の第1位となった映画。非暴力の運動で、伊江島に進駐してきた米軍と闘い続けてきた阿波根昌鴻さんの思想や生きざまに焦点をあてながら、人の心をゆがめている大きな勢力や社会構造を明らかにしていく大作。命を育む大地と命を奪う戦争の残虐さという圧倒的なコントラストの中で、私達がとるべき態度のヒントに満ちています。 「平和憲法を世界中に広め、地球上から武器も戦争もなくしてしまう。 そして、資源や富をすべての人々で平等に分け合い、それぞれの能力に応じて働き、 必要なものを必要なだけ、感謝の気持ちで受け取れるような社会になるまで、 私たちの平和運動は続けるのです。」
2004年10月21日
非暴力に関して、柄谷行人とボブ・ディランが似たような発言をしています。 「もう片方の頬を差しだすということは、もうそれ自体が攻撃的な行為だ。誰かが君を押したとする、その押す力を逆に利用して、そいつをやっつけるという戦法が実際にあるのだ。」(ボブ・ディラン『ロックの創造者たち』p103より) 「~ところが一銭もかからない贈与の仕方があると思うのです。それはいわば「左の頬を出す」ことです。つまり、もしイスラム圏が----パレスチナも全部含めてですけど----西洋世界に対して何か行動を起こしたいのであれば、すぐに完全武装を解除すればいいのです。一切兵器も買わない。もしそのような無防備の国を侵略したり軍事的に制圧したりすれば、国際的な非難を浴びます。一方、アメリカその他の国は兵器が売れなくなるので恐慌を来すでしょう。」(柄谷行人「文学界」p177) 後者の柄谷行人氏の案は、国連の改革を必要とするでしょう。ちなみに同じ討議で、浅田彰氏は国連の常任理事国を「それこそくじ引きで決めればいい」と語っています。 僕が強調したいのは、ガンジーに代表される非暴力、非武装の思想を一般化するのではなく、経済的な見通しの中でそれを語ることです。ですから、柄谷氏の発言の中で、兵器の売り上げに言及している箇所が重要だと思います。 また、前回指摘した自立分散的な生産のあり方に関して、ガンジーの言葉(*)を再び資料として紹介したいと思います。/////////////////////*以下『ガンジー自立の思想』より聞き手 問題は分配にあります。生産のほうでは、高度な完成の域にまで達しましたが、分配にはまだ欠陥があるのです。分配が平等に行われるようになれば、大量生産もその弊害を除去できるのではないでしょうか。ガンジー いいえ、欠点はこのシステム固有のものです。生産を各地で分散して行って初めて、分配は平等に行えるようになります。つまり、生産と同時に分配が行われるようにならない限り意味がありません。自分たちの商品を売るために外部の市場を開拓しようと思っている限り、分配が平等に行われることはありえません。 西洋が成し遂げた科学の驚異的な進歩や組織が無用の物ということではありません。西洋の人々も彼らの技術を活用すべきです。ただし、善意から自分たちの技術を外国で利用したいと思うのであれば、アメリカ人は次のように言うべきです。「我々は橋を作る技術を持っています。それを秘密にしておくつもりはありません。全世界に教えてあげたいのです。橋の作り方を教えてあげましょう。もちろん代価を要求するつもりもありません」と。また、アメリカ人は次のようにも言うことでしょう。「他の国が小麦一粒育てるところ、我々は二千粒育てることができます」。そして、アメリカは教えを請う者にその技術を無料で伝授するのです。しかし、全世界が必要とする小麦を自分たちで栽培しょうなどと企てるのはとんでもないことです。そんなことをすれば、この世にとっては実に惨めな時代の到来となるでしょう。聞き手 と言いますと、あなたの描いておられるインドの理想的未来像には、大量生産は存在しないということですか。ガンジー いいえ、そんなことはありません。無理やりに進められるのでなければ、大量生産は紛れもない理想です。結局のところ、チャルカ(手紡ぎ車)のメッセージもそれです。これも大量生産です。もっとも各家庭での生産が集まって大量になるという意味ですが。一人一人が生産することを何百万倍にも広めていけば、ものすごい規模での大量生産になるのではないですか。しかし、あなた方がおっしゃる「大量生産」というのは、非常に複雑な機械の助けを借りて最小人数で生産活動を行う技術的な用語であると十分理解しているつもりです。それは間違ったことであると、私は自分に言い聞かせてきました。私の考える機械は、庶民の家庭に備えつけることのできる最も初歩的な物でなければなりません。 私の計画では、前にも言いました通り、通貨となるのは労働です。金貨ではありません。働ける人は誰でもこの通貨を持っているのです。つまり富を所有しているのです。その人は労働をすることで衣類、穀物を得ることができます。自分では作り出せない灯油が欲しければ、余分の穀物を用いてそれを得ます。これは労働を自由に、公正かつ対等に交換することであり、奪い合いはあり得ません。原始的な物々交換に戻るのかと反対されるかもしれませんが、国際貿易もすべて交換に基づいているのではありませんか。 このシステムに付随するもう一つの利点についても述べさせてください。このようなシステムならば、どこまでも拡大させることができます。しかし、生産を無制限に集中して行う場合ですと、失業が生じるだけです。進んだ機械の導入によって職を失った労働者は別の仕事に就くだろうと言われるかもしれませんが、工業化された国では決まった限られた数の雇用しかありませんし、労働者はある特定の機械を使用するために高度な技術を持つようになるので、別の仕事に就くのはほとんど不可能であることはすでに経験済みではないでしょか。現在イギリスには三百万人を超える失業者がいるのではないですか。 私は特権と独占を憎む着です。庶民が分かつことのできないものは禁止すべきです。 (『ガンジー自立の思想』P88~91地湧社 ¥1900より)
2004年10月20日
リチャード・アッテンボローが制作したガンジーの伝記映画は、ガンジーの一面しか伝えていなかったと思います。西欧人がガンジーを伝えると、たいがい聖人ガンジーとして骨抜きにされます(*)。 ガンジーの肝心なところは彼に経済的分析能力、代替案作成能力があったということなのに。 有名な塩にかかる重税に抗議のポイントを置いた「塩の行進」などは、もちろん象徴的な役割りもありましたが、彼が税金の設定という経済的問題に焦点を合わせていたことを示しています。 綿紡ぎ車(チャルカ)などの普及を身を持って推進したのも、自立分散的生産手段を各自が持っていた方がいいということであり、これはいまだ歴史的に見てもイギリスマンチェスターに対抗し得た唯一の原理でしょう。 これは大量生産大量消費で一部に利益が集まり、それを分配すればいいと考えるのではなく、生産の現場ですでに分配が行なわれていなければならないという考え方です(生産と消費が分散されるべきという考え方はプルードンにも通じますし、後述しますが情報産業のもとでは今日的に見て合理的、現実的なものになっています)。 もちろん、ガンジーがヒンズー教徒であるという限界がパキスタン問題で露呈しましたが、これはガンジーに当たる人間がパキスタンのイスラム教徒から出なかったことに遠因があると僕は考えています。現在でもイスラムの政治主義、西欧の神秘主義がガンジー像を意図的にゆがめてしまっているのです。 こうしたガンジー像を正すのには彼の自伝(中公文庫)もいいですが『ガンジー自立の思想』(地湧社)(*)を読んでいただくのが一番いいと思います。ちなみに岩波文庫の同種の本はなぜか経済の分野のコメントが抜けてしまっているから推薦できません。 今日、インドでチャルカは広まってませんが、自立分散的生産が重要であるという考え方は、広くエネルギー問題に浸透していますし(ちなみに原発は「管理集中型」の典型です)、何よりもインドで盛んなIT関連の企業形態にも参考になるでしょう。 イギリス帝国からインド独立を勝ち取ったガンジーの非暴力闘争には、経済的裏づけがあったということはいくら強調しても強調し過ぎることはないと思います。* チャップリンが、生前ガンジーに会っていることが特筆されます。彼の伝記にはインドでガンジーに会った際、ガンジーが如何に鋭い人物であったかが記されています。 チャップリンは、ガンジーにその機械嫌いに関して質問をし、ガンジーはそれに対して「人民のための機械ならいい、人民を搾取する機械はいらない」といったように答えたといいます。 チャップリンにとって生産の現場で分配が行なわれていなければならないという考えは、当時の映画作りからは理解できないでしょうが、今日では、制作方法、投資方法の変化で映画にも当てはまる考え方になってきていると思います。 また、チャップリンは以下のようなソロー(これにはガンジーも影響を受けた)や石橋湛山にも似たガンジーの言葉を伝えています。 「~彼はまた、こんなことも言った。最高の独立とは、一切の不要なものをふりすてることであり、また暴力は、必ず結局において自滅するというのだった。」(『チャップリン自伝・下』新潮文庫p311より)
2004年10月19日
欧州(EU)では正式に、「100%再生可能エネルギーで100%自給する100のコミュニティー」をつくるというプログラム(CTO:Campagn for Taking Off)があるそうだ。 スウェーデンのゴットランド島は、そうしたプログラムにおける沢山のモデルの中のひとつである。もちろんそこでは上からの押しつけではなく住民が独自に自主性を持って動いており、EUもそうした地域主体を尊重しているという(飯田哲也著『北欧エネルギーデモクラシー』参照)。 また具体的には風力発電の試みが挙げられ、スウェーデン全体の風力発電の約3分の1がこの島で発電されているそうだ(同書、2000年までのデータより)。 しかし、本当に画期的なのはアイルネットという、バルト海の島々同志でのネットワークを彼らが自主的に作り、情報を公開し知恵を出し合おうとしている姿勢だ。僕はその姿勢が素晴らしいと思います。 ところで、このゴットランド島は、アンドレイ・タルコフスキー監督の『サクリファイス』という映画の舞台となった場所なのです。 この映画は核戦争が起こったと思い込んだ男が、自分の家を燃やすという話です。まさに世界平和が試されるミクロコスモスとしてこの島が設定されるのです。その冒頭は、主人公が自分の息子に海岸で木を植えながらこんなエピソードを語るシーンから始まります。「ずっと昔のある時年とった修道士が僧院に住んでいたパムベといったある時 枯れかかった木を山に植えたこんな木だそして若い門弟に言ったヨアンという修道僧だ“木が生き返るまで毎日必ず水をやりなさい”毎朝早くヨアンはおけに水を満たして出かけた木を植えた山に登り枯れかかった木に水をやって辺りが暗くなった夕暮れ僧院に戻ってきたこれを3年続けたそしてある晴れた日彼が山に登って行くと木がすっかり花でおおわれていた」 タルコフスキーがこの映画を撮ったときは、循環型、持続可能エネルギーへの摸索がその島で端緒についていたわけではないから(映画は1985年制作。ただしこの島に風力協同組合は存在しただろう)、タルコフスキーが撮影場所に(世界平和が試されるミクロコスモスとして)この島を選んだのは慧眼だったと思います。 さて、ゴットランドの環境への試みに関して言えば、それはまだ始まったばかりです。 そして、その動きを紹介した前出の本『北欧のエネルギーデモクラシー』(飯田哲也著)には、ゴットランドで開かれた「国際フォーラム」の模様が最後に紹介され、その光景に僕は感動を禁じ得ませんでした。 「二日間にわたる各島・各国からの報告や熱心な討議を経て、島における統合的な自然エネルギー政策の必要性やこうした島のネットワーク活動の拡大などを含む提言が行なわれた。翌年の開催地としてアメリカン・サモアが名乗りを上げ、そこでの再開を期して、初めての自然エネルギーアイランド会議は閉幕した。最後の夕べの晩餐会は、心温まる交流会となった。南太平洋の島人たちによる合唱を皮切りにコーラス合戦が始まり、陽気なカリビアンの歌声、島国デンマークの合唱、ハワイアン、そして日本も...。新しいネットワークを確かめ深め合うかのように、歌い、踊り、飲み、そして語り明かし、終わりがないかのような夜も更けていった。」 このフォーラムにも参加していたモルディブや大平洋の島々の人にとっては、今現在地球温暖化によって水没という国土消失の危機に立っているので、環境問題は生死を分ける問題であって、きれいごとではあり得ません。彼らの発言力は国連でも強くなっていると聞きますが、こうした小さな試みが実を結んでいけば(さらに他の島がつづいていけば)、その発言力は今後もっと大きくなっていくでしょう。
2004年10月18日
16日に新宿紀伊国屋ホールで、柄谷行人、大澤真幸、高澤秀次らが参加した「思想はいかに可能か」と題したシンポジウムが開かれたので聞いてきました。 柄谷さんは、何度もこのblogで触れていますが、その著作がアジアや欧米諸国で翻訳されていることからわかるように、日本が誇る数少ない知識人です。今回は岩波書店から刊行されている定本が完結したことを記念するイベントでした。 今発売中の「文学界」(11月号)でも同様の発言をしていましたが、やはり彼の憲法第9条に関する発言が注目に値すると思います。 改憲するなら国民投票をしてほしい、そうすれば国民は気がつくだろう、押し付けられた憲法なのかどうかを・・と柄谷氏は述べました。「超自我」というむずかしい言葉を使わなくてもいいから何とか説明したい・・・という、啓蒙的な身振り、わかりやすく語ろうとする姿勢が特筆すべきことだったと思います。 冒頭の大澤さんによる柄谷さんの業績の要約は全体として正しいものだったと思いますが、柄谷さんが文学から理論を経て社会運動へ行ったという誤解を与えるものだったかも知れません。柄谷さんの文学への関心は途切れておらず、理論的考察と絶えず併行したものだったからです。 僕がここで文学を重視したいのには理由があります。 先のシンポジウムでは、資本、国家、ネーションという三位一体をいかに脱構築し、今後アソシエーションをつくっていくかがテーマになりましたが、文学こそアソシエーション足りうるものだと思うからです。 例えば(仮説ですが)柄谷氏と中上健次の関係はアソシエーションであったのでは・・・ さて、僕は柄谷さんを「さん」づけで呼ぶわけは、NAM(代表をくじ引きで選び、地域通貨を事務対価に導入した組織)の運動に参加していたおかげで、本人と話す機会が何度かあったからです。 以前お会いした中で、ひとつ印象に残っているのは、彼が禁煙をしていたとき「医者はニコチンがないけれどある、と矛盾することを言っている」と怒っていたことです。神経にニコチンは穴を空けますから、その穴のコトを指して医者は「ないけれどある」という表現をしていたのだと思いますが、医者にしてはしてはちょっと(ラカン的な)変な表現だと思います。確かにニコチン状に穴が開けば、ニコチンはないけれど形はある、ということになりますが。 シンポジウムの話から脱線してNAMのことに触れたのは、会の後、久しぶりに会ったNAMの会員たちとひさしぶりに新宿で飲んでNAM(2003年に解散)のことを思い出したからです。 シンポジウムで、NAMの運動を外国でやればうまく行くことがわかっていたのに日本ではじめたことについて、柄谷さんが「僕は愛国的だから」と言っていたのが印象的でした。 また、柄谷さんはマルクスの「永続革命論」(僕はプルードンの系列弁証法を想起しますが)についても触れられていましたが、これは今後柄谷さんの新たな著作で明らかになるでしょう。
2004年10月17日
1、攻撃性の内面化としての文化(=憲法9条) フロイトの『文化への不満』に「人類の運命的課題」を論じた興味深い一節があります。 「人類の運命的問題とは、文化発達にとって、人間の攻撃衝動、および自己否定衝動による共同生活の障害を克服することが、はたしてうまくいくかどうか、また、どの程度成功するだろうか、ということのように私には思われる。この点に関しては、ことによると、まさに現代こそ特別な興味をひくに値するのかもしれない。今日、人々は自然力に対する支配をきわめて広範囲にはたしているので、自然力の助けをかりて最後の一人にいたるまでたがいに絶滅させあうことができるようになった。彼らは、それを知っている。彼らの現在の動揺や不幸や不安の気分は、大部分そこから生じているのだ。」 これはフロイトが珍しく個人を越えた共同体に対して精神分析をあてはめた記述です。 そうしたフロイトの考察に加え、現在近畿大学で教鞭を取る柄谷氏は「永遠平和について」の著作で知られる、国連をめぐる議論でも引用されることの多いカントをつなげて考え、以下のように解説しています。 「カント=フロイト的にみれば、世界平和への道筋は「文化」、すなわち攻撃欲動の内面化を強化することである。」(柄谷行人「死とナショナリズム」『ネーションと国家』より) カントは後年の「世界大戦」といったものは経験していなかったせよ、ロシアとの国境近くに住み国際政治を身近かに感じていた人ですし、フロイトは世界大戦を体験しそれを冷静に分析した知識人です。そうした両者の考察を経たのち、柄谷はよりアクチュアルな考察に移っています。 そして、柄谷は憲法第9条こそ「超自我」に他ならないと言うのです。 柄谷によれば、それはアメリカから来たものでも、アジア諸国から来たものでもなく、自らの内面から超越論的に生まれてきたものだと言います。 そうした自覚が現在足りないとしても、歴史の反省の中からあらわれるのは文化の形をした、攻撃衝動の克服であるに違いない、と(『ネーションと国家』より)。 ベトナム反戦運動の時、脱走兵は、この日本の平和憲法に感動し、世界憲法にしたいと考えたようです。ベトナム帰還兵のアレン・ネルソンさんもまた同様の意見を持ち講演活動を行なっっています。ただ、肝心の現代日本人にとっては、そうした憲法9条の意義がまだ広く自覚されていないかも知れません。2、攻撃性の内面化としての文化(=エイサー) 話が飛ぶようですが、僕は、そうした攻撃衝動が内面化した文化の具体例として、僕は沖縄のエイサーを挙げたいと思います(*)。 これは文字どおり、具体的な生きた「文化」です。 エイサーを踊る集団は、僕には「武器を持たない軍隊」に見えます(普通は本土で言う盆踊りに対応すると目され、比較される)。太鼓を持って踊る彼らの身体は鍛えられ、集団の規律を守ることが出来、それに加えて個人の技量も発揮することができる(しかもその集団は外に開かれている)。そのリズムは多くの場合四拍子だが、そこにはポリリズムがあり、複数の身体が前提となっている芸能なのです。 そこで思い出すのはブラジルのカポエイラです。カポエイラは奴隷が反乱を目的とする格闘技の訓練にはじめたが、支配者からの眼を盗むため、ダンスの外装を施したものだと言われています。それと似た感覚をエイサーにも感じます(喜納昌吉さんの主張する「すべての武器を楽器に」は、ブラジル人の奴隷や沖縄市民の手で、すでに実行されていたということです)。 エイサーを見た為政者は、内の者であれ外の者であれ、彼らを支配しようとは思わないでしょう。 その理由は、為政者側が軍事的な戦力として彼らを恐れるからではなく、(僕が為政者だとしても)彼らの踊りを、その美しさをもっと見ていたいと思うだろうからです(*)。*写真は、今年東京調布で開催された「アースデイ調布」におけるエイサーの模様です。ちなみに東京、特に西東京には沖縄の情報文化を伝える「基地」が沢山あって、情報を発信しているようです。三鷹の「はちのこ保育園」でも沖縄関連の講演会が開かれていました(また御報告します)。僕の住む横浜の商店街にも最近沖縄ショップが出来て好評です。こうした「基地」なら諸手を挙げて大歓迎するのですが。*究極的に言えば、世界中みな一緒に踊れば平和になるということでしょう。ただし、そのためには共通のリズムが必要になりますが・・・
2004年10月16日
(以下、以前コメント欄に書いた書き込みを再び書かせていただきます。) 中国脅威論は僕も十分認識していますが、それらの言説の流布が結果的に中国の親日派を孤立させ、また中国対日強行派の発言権に根拠を与え、さらに天安門事件以降沈潜している民主勢力との国境を越えた連携を難しくしてまっています。僕は(両国の大資本家同志が連携する以上に)民間、草の根による国と国を越えた同業者組合結成(経済的裏づけがある方がよい)や、共同研究が不可欠だと考えます。 そしてそれらは現在でも十分試行可能であり、新たな政治的体制を先取りするものだと考えます。今現在、各分野での友好、折衝は続いておりそうした成果を見ていただきたいです。(文学研究での例:↓)交流する中国と日本の文学者たち (自分の生まれた国家へ安易に同一化するのではなく、国家に頼らない、それ以外の主体の形成を目指した方が、結果的にその国家を豊かにすると思います。) 現在の中国での環境問題の深刻化等を考えても(これ以上血税を無駄遣いさせないように)軍縮への道を提示する必要があり、それにはまず日本側が代替案(北東アジア非核宣言、アジア平和条約等はピースボートを含む複数のNGOによって青写真が作られつつある)を提示すべきだと考えます。また、その理念的中心が「攻撃性の内面化としての文化」(*)である憲法9条、つまり第二次大戦で世界が多大な犠牲を払って獲得した「超自我」としての憲法9条であり得るのではないか、というのが僕の考えです。 また、「国防」、「沖縄の独立」(これはそもそも「もしも」日本が9条が捨てたらという「if」の話ですが)についてより「現実的」に考えていると称する人々は、自分で武器を取り闘って守ります(*)、と言っているわけではありませんから、僕の定義では、彼らは決して自らを危険に曝さない、プロレタリアート(=他に職がなく軍隊に入った若者たち)を搾取するブルジョア階級ということになります。彼らの主張通り、現在の中国が脅威であり、彼らの主張が現実的であるならば、彼らはそれなりの外交努力をするべきであり、より具体的には日中首脳会談を早急に両国首脳に要求するべきだ、ということになります。そうした努力もせず、代替案(上記の北東アジア非核宣言、アジア平和条約等)も示さないのは、僕に言わせれば、彼らは単なる税金の無駄遣い(軍事費の増大)を助長しているだけ、ということになります。*注1 「攻撃性の内面化としての文化」の代表例である憲法9条に関してはまた詳しく日記に書かせていただきます。 *注2 今現在も「闘って」いる、辺野古沖で座り込み闘争(非暴力のそれ)を続けているオジィオバァとの連携を今後もこのblogで模索したいと思います。
2004年10月15日
先の日記(13日)で紹介した地図は、富山県が「環日本海文化」に着目するシンポジウムを開催し続ける中で、約10年前に作成したものです。以下、この地図に関する網野善彦さんによる解説を御紹介します。ここでは「日本海は大きな『内海』だった」ということと、海は本来交流を促すものだと言うこと、島であることは積極的に外に開かれたものであるということが強調されています。/////////////////// ~富山県の企画、日本地図センターの編集で作成されたのが、ここに掲げた「環日本海諸国図/富山中心正拒方位図(三百五十万分一)」である(富山県土木部企画用地課取扱)。日本列島をアジア大陸から見るような形で、大陸の上に横たえ、富山を中心に二百五十キロ、五百キロから千五首キロまでの同心円を描いた地図で、実態は通常の地図と同じであるが、この地図からうける印象はまことに新鮮で、ふつうの世界地図の中の日本列島とはまったく異なったイメージをうけとることができる。 なにより、サハリンと大陸との間が結氷(けっぴょう)すれば歩いて渡れるほど狭いことや、対馬と朝鮮半島の間の狭さ--晴れた日には対馬の北部から朝鮮半島がはっきり見えるほどの狭さを視覚的に確認することができる。そして日本列島、南西諸島の懸け橋としての役割が非常にはっきりと浮かび上がり、「日本海」、東シナ海は列島と大陸に囲まれた内海、とくに「日本海」はかつて陸続きだった列島と大陸に抱かれた湖のころの面影を地図の上に鮮やかにとどめている。 そしてこの地図を見ると、北海道、本州、四国、九州等の島々を領土とする「日本国」が、海を国境として他の地域から隔てられた「孤立した島国」であるという日本人に広く浸透した日本像が、まったくの思いこみでしかない虚像であることが、だれの目にもあきらかになる。 そしてこの虚像をあたかも真実であるかのごとく日本人に刷り込んだのは、とくに明治以降の近代国家であり、さきの島々を領土として国民国家をつくり出すという課題を自らの課題とした政府主流の選んだ一つの選択肢であった。政府は海が人と人とを結びつける道であることに目をつぶり、海が人と人とを隔てる国境であることを国民に徹底して教えこみ、海軍力の強化を至上命令として推進したのである。その結果が無謀なアジア・太平洋戦争の悲惨な大破綻であったことはさきにのべた通りであるが、それが海という自然のあり方を無視した国家の意志の破綻だった事実を、われわれははっきりと確認しておく必要がある。 実際、海が本来、国境になじまないことは、この地図を見れば明白である。島と島の間のどの海峡も、人と人とを隔てる一面とともに、人と人とを結びつける役割を持っており、島々はすべて海を通じて結びついていると見ることも、十分にできるのである。そして、さきにあげた五つの内海をはじめ、南太平洋の海は、それぞれに独自な世界を形成しているのであり、その個性をあきらかにすることは、今後のアジア・太平洋地域を正確に理解するうえで大切な課題といえよう。ヨーロッパ・アフリカに即して、ブローデルが「地中海」をみごとに描いたような仕事が、これらの内海についても推し進められなくてはならない。~ 網野善彦『「日本」とは何か?』(講談社、シリーズ日本の歴史第00巻)p36-37//////////////////// このあと網野氏は「日本海」の呼称問題(韓国人の学者から「青海」という提案があった)にも触れていますがこれは割愛します。 また沖縄の「特殊性」(=アジアの中心に位置すること)を説明するには、新たにトリミングサイズの違う独自の地図が必要になるでしょうが、これを確認するためには地図の南北を逆さにする必要はないと思います。 また、そこでも上記の網野氏が示した「島々はすべて海を通じて結びついている」といった考え方はそのまま当てはまるでしょう。追記すれば、それは日本列島をアジア諸国の中に位置付ける再認識の作業においても有効な考え方だと思います。
2004年10月14日
プルードンの系列弁証法(*注)に倣って考察するなら、これまでの議論は以下の議題における系列(#~)の推移をたどってきた。 ちなみに(/)の中は互いにアンチノミー、つまり矛盾を形成している。例:(自由/権威)#軍事(沖縄の独立/中国脅威論)(代弁あるいは報告/代弁、表象の拒否)(連合/冷戦構造化での米軍の重要性)(非武装/軍事力の必要性) ↓#政治(憲法第9条/日米安保)(対アメリカ情報公開要求/アメリカの必要性) (アジア平和条約締結/アジアの軍事的結合) ↓#経済(循環型社会への摸索/基地経済への依存)(地域通貨/国民通貨)(琉球時代のようなアジアでの対等交易/グローバリゼーション) ↓#環境・エネルギー問題(風力、バイオマスなど持続可能なもの/原発、石油) ↓#文化(黒澤の先進性/現実味のない妄想、幻想説)#食生活(9パン/大量生産食製品?)解説:「質問」としては以下のものがあり、それに対する<回答>も試みられた。<(if )沖縄の独立>←「沖縄への環境破壊、基地移転、憲法9条無視」 ↓「独立の軍事的根拠は?」→<軍事力を棄てることで独立(尊敬を得る)>「将来はいいとして、今をどうするか」→<代替エネルギーの可能性>「軍隊とは何か?」→<階級構造把握の必要性>今後の課題: これらは、質問者に満足な回答とみなされ得ず、blogを通じた議論の不毛性の指摘も見られた。ただ、書き込みを解放しているおかげで、(混乱も招いたが)横レスによる情報提供(イロコイ連邦の非武装の例:by雪風さん、フェティシズムの別定義:byのらさん)や考察の補強(アメリカ対日石油輸出禁止による太平洋戦争勃発原因の指摘:by gainerさん)などが見られた。「匿名希望さん」による議論の交通整理も見られた。 国家対国家として考えるのではなく、同業者組合(漁民の例が出た)や草の根のつながりを重視する意義が十分に伝わっていない。それに反して資本家同志の国を超えた結託は一件強固なものとして見えるらしい(税金の無駄遣い?)。 中国脅威論には具体的なデータの提示が見られたがそれに対抗するデータがないことが問題点。 歴史をどう学ぶか?がこれからの争点になり得る。それは憲法9条の歴史的位置付けにも関わってくるだろう(例:柄谷、9条=超自我説)。追記: 国を「守る」と言っていったいどんな国を守るのか?コンクリートだらけの大地をか?(日本全土におけるコンクリート使用料はアメリカ全土の30倍と言われる。) 一見、左翼/右翼の対立として看做され得るが、「環境」は両者の合意点足りうるのではないか?また、東アジアに関しては近親諸国との地理的近さを再認識していただくために富山県制作の以下の地図↓を掲示板で紹介した。 (上の地図に関しては、また日記で詳しく御紹介させていただきます。) また、今後は米国/中国という新たな冷戦構造の把握が望まれる。 精神分析/資本の分析を駆使した『子供と軍人』の改訂版も望まれる。 議論のあり方としては、提案、質問、答えといったサイクルをツリー状に整理し、なおかつそれに関わる人達をセミラティス状(*注)に開いていく必要がある。 辺野古のオジィオバァたちの座り込みはまだ続いている・・・///////////////注:* 「系列弁証法」dialoctique se'rielle(あるいは「均衡理論」the'orie de equilibres)はプルードンの社会科学方法論の重要な柱の一つである。プルードンは社会を諸矛盾の系列的連鎖として総体的に把握しようとしたのである。プルードンは矛盾の連鎖の最終的な項が下位の諸項を超越的に解決すると考えたのではない。彼の考えによれば、ひとつの矛盾の否定としてあらわれる、より高次の項もそれ自体の内に必然的にアンチノミーの無限の連鎖(系列)なのである。 ヘーゲル的な「総合」はアンチノミーの解消をめざすが、プルードンはアンチノミーこそが現実社会のダイナミズム、その生命力の源泉なのだと考える。したがって、彼は社会のダイナミックな運動を抑圧し停滞させることなく、ただその破壊的性格のみをなくすべきだと考えた(斉藤悦則訳『プルードンの社会学』法政大学出版社、あとがき参照)。 また、マルクスによってプチブル的と称されたプルードンの思想は、情報産業の発達によってアクチュアリティーを増してきていると言われる(柄谷行人『定本トランスクリティーク』p254-276,p436-437、啓蒙サイト『よい子の社会主義』他参照)。ちなみに系列弁証法を歴史的に当てはめると、薩摩/長州 ↓ 日本ヨーロッパ諸国 ↓ EU といった、対立の克服を事例としても考えられるだろう。 ただしかつての大東亜共栄圏はアジア諸国の個々の文化的特徴を捨象してしまうのでプルードン的系列弁証法の観点から批判され得る(EUに関しても検討の余地がある)。プルードンはそうした覇権主義に対抗(プルードンの場合はイタリアのナショナリズムやナポレオン三世の覇権主義に対抗)して、「連合の原理」を提示した。*「セミラティス」 ツリーに対抗する概念。一点が多数と結ぶつく場合、多数の点が相互に分断されず、互いに線を引き合っている状態を指す。ツリー状の場合は多数の点が頂点のみでつながっているので、セーフティーネットが不十分だとみなされる。これは、ある建築家による、人口都市計画の欠点を指摘するための概念だったが、より人間的な街作りの根拠を示す概念であり、組織構造論としても着目された(例:『定本トランスクリティーク』『NAM原理』)。より具体的にはサッカーなどにおけるポジションチェンジを例として提示し得るであろう(柄谷行人『隠喩としての建築』他参照)。
2004年10月13日
ダグラス・ラミスさんの『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』の新書版(「平凡社ライブラリー」)が出版されましたので、参考までにその解説文(辻信一さん)から主要部分をピックアップさせていただきます。///////////////// 『経済成長がなければ・・・』はますます重要な教科書になりつつある。この本のひとつの特長は、戦争と平和の問題を環境問題と同列に論じていることだ。普通、憲法9条を論じる人が、同じ本で地球温暖化について論じたりはしないものだ。ラミスさんはそれをやっている。 戦争と環境破壊という、どちらも人類の生存そのものを危うくするようなふたつの危機は、互いに密接に関係している。(中略)そういう社会のあり方を、ぼくは「ファスト」と形容する。なぜファストかといえば、それはより速く、より多くつくり、売るものが勝つという競争原理に基づいているので、社会が全体として加速するからだ。競争原理が社会の隅々まで浸透した今の日本の社会は生きづらい。生産性や効率性をめぐる競争が、本来は相互扶助の場であるはずの地域やコミュニティや家庭の中にまで入り込む。より非効率的で非生産的な者は競争に負け、取り残され、差別され、排除されることにもなる。(中略)こんな「競争社会を支えている基本的な感情は恐怖だ」(138頁)とラミスさんは言う。9・11以後の米国や日本では、このことがますます露わになっているようだ。それはラミス流に言えば、社会の安全{ルビ:セーフティー}ネットが弱いことを意味している。「お互いに、誰でも例外なく面倒を見あえるような」共生型の社会であれば、「その恐怖は減るはず」であり、恐怖が減れば、「健全なゼロ成長の社会は可能になるのではないか」、と(139頁)。///////////////// 付記: 付記させていただければ、これまで「沖縄の独立」をめぐって、多少感情的な行き違いがあるとはいえ、率直な「議論」を戦わせることができたことに対して、みなさんに感謝したいと思います。「資料」の紹介だけで扇動と評されてしまうような現実に対しても、僕はある程度覚悟していました。 ここではじめて僕は自らをも含めて男性中心の運動は不毛であることを確信しました。次に紹介したいのは女性達の運動なのです。 東京玉川学園前にあるリトルトリーという天然酵母使用のパン屋さんから、ジュゴンの形をしたパンが売りに出され、たいへん好評です。 ちなみに「9」の形をしたパン(9パン)もすでに売りに出されすでに好評を博しています。 9パンは言うまでもなく、憲法第九条の描く世界を暮らしの中から実現させていこうとする運動の一環です。 そのパン屋さんを営む高木みのりさんは「パン屋だって、毎日いのちを扱っているんだ」と述べいました。ジュゴンパンと9パンのレシピは問い合わせがあれば、全国のパン屋さんに公開したいそうです。
2004年10月12日
黒澤明が『夢』(1990)中の一編としてシナリオには書いたが、映像化を果たせなかった作品に「素晴らしい夢」というエピソードがある。 世界中の武器を集めて来て廃棄し、世界の人達が平和を宣言するというものだ。 僕はてっきり黒澤自身の願望を述べたもので、本気で映像化を考えてはいなかったとばかり思っていたのだが、美術スタッフである村木与四郎氏と上田正治カメラマンの証言によると、サンフランシスコでロケハンまでして撮影場所まで決めてあったという。確かに残された絵コンテの一部を見ると、黒澤が本気であったことが解る。黒澤自身が描いた、気球を使った切り替えしのショットの絵コンテがすでに発表されている。絵コンテとはいえ、ものすごい迫力なのだ。 さて、ここで僕が提示したい主題は世界の軍隊の武装解除はいかにして可能か? ということである。 僕はその大前提として、敵というものを自らの内部に抱え、アンチノミーとして維持し続けることが大事だと考えている。 プルードン(1809-1865)の言葉に倣って説明するなら、アンチノミーとは決して解決しない矛盾である。ブッシュのように、自分の中の矛盾に眼を向けず(アメリカこそ大量破壊兵器を持つ)、自らの中の敵を他者に投影することで闘いを外部化するとき、それは戦争という形を取る。権力者でなければこれは、たんなる妄想として罪のないものだったろう。あるいはブッシュがテキサス州のいちプロ野球チームのオーナーだったとしたら、それは強くて人気の球団経営に役立ち社会的な「昇華」(フロイト)を果たしたかも知れない。また、ブッシュがもしインターネットを操るしか能のない、たいした社会的資本(コンピューター自体には可能性がある)を持たない軍事オタクだったとしたら、それは対して害のない微笑ましいイタズラをするだけに終わっただったろう。 だが、ブッシュはイラクのフセイン大統領に自己の矛盾の片方(悪)を投影し、ありもしない大量破壊兵器を捏造し、国民を戦争に駆り立てたのだ。これによってたくさんの民間人が殺されたことは言うまでもない。ブッシュは戦争に民主党によって純粋主義者と言われているようだが、自己の内部にアンチノミーと言う名の矛盾を抱えきれない人間がいかに危険かをアメリカのリベラルは気がついているように思う。 黒澤明はブッシュとは違って、こうした矛盾の片方(悪)を誰かに投影するのではなく、矛盾そのものを映像化して来た。彼の作品内における登場人物同志の葛藤は勿論、人物と自然の葛藤、そして何よりも戦いのイメージの形象化によって今日世界の巨匠とされているのだ。僕は『乱』を世界美術至上最高の作品と考えているが、シェークスピアの『リア王』を読み返しても、ここで戦争シーンがないのはしっくりしないな、と考えてしまう程だ。それほど黒澤は的確に「矛盾」というものを見事に形象化し、繰り返すなら悪を他者に投影するのではなく、その葛藤自体を表現し続けて来たのだ。これは黒澤が自らの持つ矛盾に向かい合って来たのだ。 ただ、実際にはスピルバーグの資金援助にもかかわらず、映画化されなかったというエピソードは、社会的に見れば作者の情熱と資本の問題という永遠に解決しない全く別の矛盾を提示しているようにも思う。僕はこちらの矛盾の方が大事にも思えてくる・・・ こうして、この黒澤明の映画化されなかったエピソードは、映画化されなかったからこそ、一種のアンチノミーとして、(さらに説明するなら)集まらなかった資本と黒澤自身の情熱的倫理観というアンチノミーとして僕を刺激し続けているということになる。 ブッシュのように敵を外部(ブッシュの場合はフセイン)に投影することで一時の自己満足を得るようなことをせず、アンチノミーの認識を維持し続けること、つまり本当の矛盾に眼を向けること、またはひとり一人が自己の矛盾(アンチノミー)に気がつきそれを維持することこそが、結局問題を棚上げずに、現実世界における実際の武装解除につながるのだと思う。 世界の人間が望むその夢を、日本の一人の天才がいち早く気づき、その夢を絵コンテに託したこということに感謝したい。
2004年10月11日
石油に頼った経済成長(*)が持続可能でないことは、今や「頭の中」では誰でもわかっていることだ。しかし、何かを止めろ、といったよくある偽善的な言葉は強権的であり、人々の反発を招くだけだろう。 だから、実際にオルタナティブな経済のあり方と持続可能な「豊かさ」を求める人達は、地方の片隅で誰にも知られることなく、ひっそり声を細めてなるべく目立たないように実行していたのが現実だった。 ところが、このところそれに反する動きが現れはじめた。 循環型社会を実行しようとしている人達が、インターネットを使ってつながりはじめ、力を結集しはじめたのだ。 その一例として、スロービジネススクール↓というネットを使った学校の試みが挙げられる。丁度今日、東京の府中市ではじめての合宿が行なわれているはずである。 地球温暖化がその原因と言われる台風のまっただ中で、彼らの持続可能な経済に向けての情報共有、協働ヘの摸索に注目したい。スロービジネススクール公式ウェブサイト*注 石油と言えば、石油ショックや最近の原油高騰などが思い浮かびますが・・・大日本帝国の陸軍、海軍は大正期に石炭から石油を燃料とした軍事に切り替えたため、石油がなくなれば戦争も「持続可能」ではない国になったと言われます(これは実は対アメリカの太平洋戦争開戦の根本原因にもつながっています)。周知のように日本では石油は採取できません。 一般的には1970年代のベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)での活躍で知られる作家の小田実氏は、こうした事実に続いて、日本海側に原子力発電所をつくって放置している日本の国防政策(「攻撃されれば日本海側は壊滅なのに、本気で国防を考えていない」)に関して、警鐘を与えています(フリーペーパー「シナプス」最新号より)。 インタビューに答える小田実さん(中央)率直な御意見、御批判をお待ちしております。(^^)。
2004年10月10日
ロールズの正義論(処方箋C)ベトナム戦争時代、経済格差に左右される兵役の志願制に反対し、くじ引き式徴兵制を提案したロールズの話は掲示板でも以前何度か紹介しました(川本隆史著『ロールズ』講談社p109参照)。実際には軍から、成績が優秀ではない学生を軍隊に送り込む要請があったそうですが、それだと学力評価を通じて教授が自分の学生の生死を恣意的に左右することになるので、ロールズは教授会で反対したそうです。軍の要請通りにすると、(日本でいえば塾など)高度な教育を受けられる裕福な学生が生き残ることになるので、結果的に貧富の差が生死を分けるということになってしまいます。ここでは、そのロールズの倫理観の全体像を表す主著『正義論』の中で、後年に書き加えられた序文を紹介したいと思います(邦訳『みすず』)。ロールズの指摘で重要なものは以下です。 「この場合、はじめから少数者にではなく市民全員の手に生産手段が委ねられ、それによって市民が社会生活のためにじゅうぶんな協力体制を組めるように、諸制度を整備しなければならなくなる。強調されるべきは、ある期間を通じて資本および資源の所有が偏りなく分散され、しかもそうした所有の分散が、相続と譲渡に関する法律、機会の公正な均等を求める法律(それに基づいて教育や育成のための諸方策が認可される)、さらに政治的自由の公正な価値を守るための諸制度に関する法律によって、実現されるということである。」 川本隆史・米谷園江訳「みすず」No.385より(1993.4) 原典、ロールズ『正義論』フランス語版(1987)これは大量生産したその後で分配すれば貧困はなくなるという集権的発想ではなく、生産の現場で分配が行なわれなければならないという、ガンジーの唱えた考え方と近いでしょう。一見小さな運動だが、こうした考え方を侮ってはならないと思います。ガンジーはこれでマンチェスターの綿布工場に対抗し、イギリスからインドの独立を勝ち取ったのですから。ガンジーの業績は神秘化される傾向にあり、またその事実と表裏一体で中傷を受ける傾向にあります。これはそうした経済原理に基づくガンジーの考え方が紹介されてこなかったことが最大の理由だとおもいます。そうしたガンジーの経済原理に関して紹介している唯一の本として『ガンジー自立の思想』(地湧社)をお薦めします。追記:またガンジーに影響を受けたシューマッハの『スモールイズビューティフル』もお薦めします。楽天かライブドアか(処方箋D)現在新聞紙上を賑わせている楽天とライブドアによるプロ野球本拠地の仙台争奪戦は、個人的には今回はライブドアの方を応援したいと思います。楽天が仙台にフランチャイズを置けば、将来的に二度と楽天は神戸を本拠地にするチームを作れなくなるからです。楽天には神戸を諦めてほしくありません。三木谷社長はオリックス買収を諦めたようですが、だとするといったいJ1チームのヴィッセル神戸は今後どのように地域スポーツとの連携をはかっていくのでしょうか?以下脱線しますが・・・いっそのこと楽天が普天間基地跡地に野球場兼サッカースタジアムを建設すればいいと思います。これは僕の「妄想」(実現は難しいだろうという意味)ですが、そうすれば大リーグを招くという三木谷社長の大リーグを日本に招くという構想はより実質的意味のある提案になるでしょう。野球場のこけら落としで、始球式はパウエル国務長官か、失業した元アメリカ大統領あたりにお願いしたりして・・・これもまた新たな雇用の創出です。///////////////////////付録・『子供と軍人』(思考構造チャート図)チャート図(改訂版)をつくってみました。 子供時代AB /↓遊び 遊び(遊び=全体性)の欠如→体育会系→自衛隊B→→→→→→→→→→↓ ↓ * 軍隊・軍事オタクAB / ↓アピールなし アピール(アピール=「他者」)あり ↓ |アピールの場を捏造 | ↓ ↓ アメリカ追従再軍備B 軍事専門科或いは芸術家(宮崎駿etc)A→研究や芸術による昇華 | |→インターネット掲示板AB→対話による昇華A ↓(防衛庁長官etcによるヴィジョンのない防衛計画) *C / ↓ ↓日本の入亜D 沖縄の犠牲(結果的な地方の独立反乱)B←自衛隊の海外派兵等← ↓地雷や誤爆による子供の死(不十分な福祉政策による病死も含む)B注記:それぞれの場で次の処方箋が有効A=精神分析 B=資本の分析C=くじ引き式徴兵制D=サッカー野球等のスポーツ
2004年10月09日
日本政府は米国に沖縄海兵隊削減案を提言しているようだが(10/7朝日新聞朝刊)、同時に米軍基地の普天間から辺野古沖への移転に関しては「変更がない」(10/2同)、という考えを示したという。ここで、一般にはまだ馴染みがないが、米軍基地移転候補地とされる沖縄の辺野古では基地移転に反対する運動があり、現地の「オジィオバァたち」(9LOVEレポート↓より)がここ八年間にわたり、団結小屋をつくって座り込みをしていることを再度ご紹介しておきたい。 9LOVEレポート"辺野古に見える9"こうしたオジィオバァたちの声を無視し、最近の米軍ヘリ墜落事故をきっかけに、普天間は危険だから「緊急」に辺野古に基地を移さなければという間違った論理が横行し、日本政府は移転工事を急ぎはじめている。一般的に言えば沖縄には残念ながら、現在でも土建業者を中心に米軍基地による経済効果を期待する勢力がいまだに強い。辺野古でも地元土建屋に有利なように基地建設計画が採択されたという。しかし、強調しておきたいが、こうしたお金は一時的なものであり、依存体質を生んでしまうからかえって長期的な繁栄には逆効果なのだ。日本各地で行なわれた原発建設による地方の荒廃の事例を見てもそれは解るだろう(そうした時流に対抗して、ヤンバル農場代表で一坪反戦地主の会の上山和男さんによれば、現地で循環型社会を実現するツールである地域通貨発行も計画中だという)。しかも、基地が建設されれば漁業場も含めて壊滅的に破壊される辺野古沖には、本来なら鳥獣保護法で守られるべきジュゴンという動物が棲んでいる。ジュゴンはなかなか人前には姿を表さないが、海藻などを食べた跡があることから、その棲息は科学的に証明されているし、世界的にその生息地である珊瑚礁は注目されている。本来ならこうした観光資源、自然資源を活かすことで持続可能な発展をモデルとして示すような観光都市づくりができるだろうし、同時に漁民もまた漁業を続けることができるだろうが、こうしたヴィジョンは土建業者を始め一時のお金目当ての人達にはなかなかわかってもらえないでいる(当然の話だが、辺野古沖に米軍基地ができれば魚も採れなくなる)。最近では沖縄サミットが開かれた場所で国際珊瑚学会が開催され、世界の環境学者の約800人が辺野古沖基地移転反対の嘆願書に署名したというが、残念ながら、灯台下暗しで、地元の住人程、特に沖縄の都市生活者にはこうした掛け替えのない価値に気付いていないケースが依然見られる・・・。米軍は普天間の住民を苦しめ、辺野古の自然を壊し、いったい誰から何を守ろうとしてるのだろうか? 実のところ、存在するのは軍隊の雇用問題だけなのだ。私は数日前の日記に、「もしも憲法第9条が変えられてしまったら」沖縄は独立を考えるという議論が、沖縄内外であるということを紹介したが(*)、アジアのほぼ中心に位置し、17世紀に薩摩藩に侵略されるまでまで琉球王朝として栄えていた沖縄には、十分その資格がある。沖縄には独自の文化、独自の言語があるからである。そして、日本が米軍に政治レベルで妥協して沖縄を見捨て(米軍基地の削減計画案は不十分だということを再度指摘しておきたい)、さらに沖縄が一時のお金を目当てに辺野古を見捨てるならば、今度は辺野古が沖縄からの「独立」を宣言する番かも知れない。辺野古沖でのオジィオバァたちの非暴力による座り込み闘争は、今現在も続いている。*近々、沖縄独立運動を描いたアクション映画『独立少女紅蓮隊』の上映が、僕の友人が運営する那覇ミニシアター「シネマエクサ」で上映されることが決定しました(詳細決まり次第、また御報告させていただきます)。
2004年10月08日
処方箋Aなぜ、現代日本においてフェティシズムが蔓延するのかという問題に関して精神分析をさせていただくならば、広島・長崎への原爆投下の謝罪がアメリカからなされていないからだ、と僕は考えます。逆らい難い抑圧の中で、現実から眼を背けようとするとき、人は自分自身を欺き 芥川が言うような「ぼんやりとした不安」の中にあり続けることになります。原爆は戦争抑止という美名の陰でその非対称的所有の欺瞞性すら言説化されておらず、これによって現代人には歴史上かつてない恐怖政治が敷かれているのです。全体から切り離された細部に代補対象を求めるフェティシズムはそこからの無意識による逃避であり、また代償行為です。大江健三郎はノーベル賞受賞記念講演の中で、在日韓国人の被爆者について語りました。これは重要なポイントで、反原爆運動は、国民ではなく市民という立場で語ることではじめて俗に言う原爆ナショナリズムを避けることができるのです。実際、原爆実験や原発事故や劣化ウラン弾、その他の事象を考えれば、被爆者は日本人だけではありません。ただし、その謝罪を米国に正式に求めるという人間としての(あるいは世界市民としての)義務が現代の日本人にあると僕は考えます。処方箋B>では欧州各国の軍隊、は軍隊ではないと?資本の分析に基づくなら、自爆するテロリストやイラク兵をも含めて「彼らは軍隊というよりも単にプロレタリアートなのだ」というのが僕の答えになります。彼らは自ら望むことなくお互いに殺しあいますが、互いに気付くことがなくても同じ階級(ポジション)にいるのです。そして、その上の特権的な立場にいる人間(シャロン、ブッシュ)や資本家(ビン・ラディン)は決して自らの命を危険に曝さないのです。
2004年10月07日
長文になりますが、以前の書き込み、『子供と軍人』(改訂版)を書き直してみました。 芥川龍之介は1927年に刊行された『侏儒の言葉』で次のように述べています。 「軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振を喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更此処に云う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似ているのは喇叭や軍歌に鼓舞されれば、何のために戦うかも問わず、欣然と敵に当ることである。 この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋織の鎧や鍬形の兜は成人の趣味にかなった者ではない。勲章も--私には実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」 これは僕に言わせれば、逆に子供に可哀想な比喩です。僕の解釈だと軍人及び軍事オタク(オタクとはアピールする能力や手段のない研究者のこと)は幼少の時、心のゆくまま遊んでおらず、充実した子供時代を通り抜けていないから、大人になって「代補対象」を探すことになるというものです(*)。それは消費社会のもとで席巻するフェティシズム(物神崇拝)の原因などに幅広く当てはまる考え方でもあります。 そもそも戦争と精神分析とは密接な関連があり、第一次世界大戦の帰還兵の神経症の症状がフロイト(*)やラカンの研究に材料を与え、後年ではベトナム戦争期にはやはり帰還兵の心的外傷(PTSD)がカウンセリングや考察の対象となりました。ナチスドイツに対する集合無意識的なユング流の分析や、ライヒの分析もありましたし、さらに権力者個人に対する精神分析はヒトラーからブッシュ(サッカーでいえばトルシエも対象になった)にいたるまで盛んです。ただ、今日では彼らが何としても権力を握る前段階でのカウンセリング(対症治療)が望まれます。ブッシュなどは明らかに自らの純粋性を自ら信じるための偽証を経歴上で行なっていますから。 もちろん、こうした精神分析以上に大事なのは資本の分析です。 例えば、戦後総理大臣になった石橋湛山は「大日本主義の幻想」という論文で、植民地を棄てた方が経済的に見て日本のためになると、すでに芥川と同時代に書いています(岩波文庫『石橋湛山評論集』)。 現在、子供が思いっきり遊ぶためにも、残念ながら自然環境が残っているわけではなく意識的な社会的資本の整備が必要ですから、精神分析と同時に石橋湛山がやったような資本の分析が必要になります。 先に引用した芥川の思考は断片的で、そこに資本の分析を含んでいませんでしたから、「酒にも酔わずに」勲章を下げて歩ける軍人に対しイロニーをぶつけることしか出来ませんでしたが、そうした心理的な面に限られた分析を補うために(繰り返しになりますが)石橋湛山がやったような資本の分析が今後はさらに大事になるでしょう。 ただし、最初に引用した『侏儒の言葉』に話を戻すなら、芥川の以下の記述などは昭和2年にしては鋭いものだと思います。芥川はここで構造的な思考(これは精神分析にも資本の分析にも必要な思考法だ)はしていませんが、ニーチェに迫るような直感的な神経の震えで、当時の日本人の愛国主義化する風潮を批判しています。 「日本の労働者は単に日本人と生まれたが故に、パナマから退去を命ぜられた。これは正義に反している。亜米利加は新聞の伝へる通り、『正義の敵』といはなければならぬ。しかし支那人の労働者も単に支那人と生まれたが故に、千住から退去を命ぜられた。これも正義に反している。」(「武器」『侏儒の言葉』1927年より)「理想的兵卒は苟くも上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に責任を負わぬことである。即ち理想的兵卒はまず無責任を好まねばならぬ。」(「兵卒 又」同)「軍事教育というものは畢竟只軍事用語の知識を与えるばかりである。」(「軍事教育」同) とはいえ、芥川の批判(及び不安)を追い抜くような形で、文壇の小春日和は過ぎ去り、その後の日本は急速に軍国主義化していきます。 資本の分析と精神分析との両方に鋭い分析を発揮し得るラカンの理論に関しては、またいずれ書きたいと思います。*注1 ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』で主人公にこう語らせている。 「・・・休み時間に若いひとたちが戦争ごっこをしたり、追剥ぎごっこをしたりするのも、やはり芸術の芽生えだし、若い心に芽生えかけた芸術欲ですよ。こういう遊びのほうが、往々にして、劇場の演(だ)し物よりうまくまとまっているものですよ、ただ違いと言えば、劇場へは役者を見に行くのに、こっちは若い人自身が役者だというだけでね。でも、それはごく自然なことでしょう。」(『カラマーゾフの兄弟』下、新潮文庫) これはルソー流の社会教育とは観点が全く違うということを追記しておきたい。*注2 柄谷行人は最近、憲法第九条とフロイトのいう「超自我」とを重ね合わせて考察している。 「先ほどいった『国家が超自我をもつ』という現象は、戦後日本の憲法第九条のようなものですね。フロイトは前期には、超自我は親や社会から押しつけられた規範が内面化されたという見方をしていましたが、後期には、それは自らの攻撃欲動が内面化して生じたという見方を出しています。そのように言うとき、僕は、フロイトは第一次大戦後のワイマール憲法のことを考えていたのだと思います。それは外から押付けられた強制だから、そのような文化から解放されなければならない、自然に帰れ、という世論の中で、フロイトは憲法を擁護しようとしたのだと思うのです。たとえば、日本では、戦後憲法をアメリカ占領軍に押し付けられたという議論がいつもなされています。ドイツではそういう議論は絶対出てこない。その理由はこうです。ドイツでは第一次大戦後のワイマール憲法が、日本の第二次大戦後の憲法に該当するのです。ドイツでは、それを嘲笑し廃棄してナチになった。だから、もう二度と戦後の憲法は外から押付けられたから廃棄する、などとは言えない。ところが、日本はもう一度失敗を繰り返さないと、戦争放棄を自らのものとして確認できないでしょう。 その意味で、アメリカもベトナム戦争のあとで、やや『超自我』をもちかけたことがあった。ところが、湾岸戦争を通して、国家が『健康』になってしまった。今度重大な失敗をすることで、もう一度『超自我』を回復するかもしれません。アメリカはいずれヒロシマの問題に直面しますよ。アメリカは核戦争をやった国なのです。このことを言われると、多くのアメリカ人が血相を変える。それは日本人が南京大虐殺のことを言われるときと似ています。彼らはただちに、原爆投下によってアメリカ兵および日本人を救ったのだと弁解する。もちろんそれは嘘です。あの機会を逃すと核実験ができなかったし、またソ連に自らの軍事力を見せつける絶好の機会を逸することにもなったからです。しかし、そういう過去について真実を認める時期が必ず来ます。」 (「資本・国家・宗教・ネーション」柄谷行人、聞き手・萱野稔人、『現代思想』2004年8月.p43~44より)///////////////////////付録・『子供と軍人』(思考構造チャート図)チャート図をつくってみました(ただし既出のタ-ムだけで作成していません)。 子供時代AB /|遊び 遊び(遊び=全体性)の欠如→体育会系→自衛隊B→→→→→→→→→→↓ | * 軍隊・軍事オタクAB / |アピールなし アピール(アピール=「他者」)あり | |アピールの場を捏造 | | | アメリカ追従再軍備B 軍事専門科或いは芸術家(宮崎駿etc)A→研究や芸術による昇華 | |→インターネット掲示板AB→対話による昇華A |(防衛庁長官etcによるヴィジョンのない防衛計画) *C / | ↓日本の入亜D 沖縄の犠牲(結果的な地方の独立反乱)B←自衛隊の海外派兵等← |地雷や誤爆による子供の死(不十分な福祉政策による病死も含む)B注記: それぞれの場で次の処方箋が有効A=精神分析 B=資本の分析C=くじ引き式徴兵制D=サッカー野球等のスポーツ解説: そもそも「遊び=全体性」というのは僕の仮説なので、ここに議論の余地がある。 また、この場合、遊びといってもジャン・ジャック・ルソー流の、自然と社会を切り離したあとで「自然にかえれ」というような人的操作な遊びは有効ではなく、ドストエフスキーの言うように一見、「野蛮」な遊びがかえって有効であろう。これは子供達の遊びを見る大人たちの寛容さが問われ、そもそも環境面における自然破壊(辺野古や磯子などのケースが代表的)などが反省されるべき理由でもある。 広い意味での遊びこそが、全体的な視野を獲得するための訓練として最大の処方箋であるが、分化したレベルでは様々な処方箋があり得るだろう(治療後を示す「昇華」はフロイトの用語)。精神分析と資本の分析は、併行するものとして常に前提とされるべきものだ。 くじ引き式徴兵制は、アメリカのリベラルから提案された、あくまで最悪のケースにおける意識改革の劇薬であり、ジョン・ロールズもベトナム戦争時に最悪な状況でも公平さをかろうじて確保しようとして意図したものだということを注記しておきたい(講談社『現代思想の冒険者たち・ロールズ』参照)。 地方の独立に関しては、現実的に地域通貨の研究を個人的にしていることを追記しておきます(循環型社会をつくるツールとしての地域通貨に関しては、blogトップ頁から関本の他の書き込みを御覧下さい)。 スポーツの有効性に関しては、すでに別の普天間基地の跡地利用ヘの提案として「日記」に書きました。 上記のチャート図は今後、この掲示板で御批判を受けた上で改訂版をつくり、さらにそれを基にした文章、『子供と軍人(新改訂版)』として「日記」に掲載したいと思います。 また、憲法第九条こそは、世界憲法として日本が全世界に積極的にアピールできる数少ないものであるということも特記しておきたいと思います(ですから僕は改憲/加憲論者といった消極的な立場にはなく、積極的に憲法第九条を世界にアピールしたいと思っているわけです)。
2004年10月06日
沖縄に関して、以下の議論を資料として引用させていただきます。「沖縄ではすでに次のような案が議論されている。つまり、平和憲法をいじるなら、憲法に次のような条項を加えてほしい、と。 改正案第104条【日本国からの都道府県市町村の独立】 1、日本国からの都道府県市町村の独立は、その都道府県市町村の総議員の三分の二以上の賛成で、都道府県市町村議会が、これを発議し、その承認を経なければならない。この承認には、特別のその都道府県市町村民投票又はその都道府県市町村議会の定める選挙の際行なわれる投票において、その過半数を必要とする。 2、都道府県市町村の独立について前項の承認を経たときは、その都道府県市町村の長は、都道府県市町村の名で、直ちにこれを公布する。」C・ダグラス・ラミス「9条に関する9テーゼ」(別冊世界『もしも憲法第9条が変えられてしまったら』p149より)*C.Douglas Lummisは政治学者で、沖縄国際大学講師。現在沖縄に在住する沖縄市民でもある。
2004年10月05日
加川良という1970年代から活躍しているシンガーソングライターに「戦争しましょう」という名曲がある。 今日(3日)、実は下北沢ラカーニャという小さな店で加川良のライブがあり、観に行ったら、この曲が観客からリクエストされていました。客「『戦争しましょう』やってよ」加川「あかん、仲良くせにゃならん・・ところでイチローよかったね。涙が出た・・・」 加川さんはこんな感じで客をうまくあしらって、結局その歌は歌いませんでしたが、「戦争しましょう」は実は「反戦歌」の傑作なのです。 放送局など、現在はそうした逆説的な歌を受け入れる余裕がなく、滅多に放送されないのが残念です。 本当は歌詞を紹介したかったのですが、過激すぎて書けません。同曲を含むアルバム『教訓』(タイトル曲「教訓1」も反戦歌の名曲です)はエイベックスから販売されているので興味のある方はぜひお聞き下さい。
2004年10月04日
「反戦映画」のベストテンを選んでみました(ドキュメンタリーは除外)。1、フルメタルジャケット2、地獄の黙示録3、僕の村は戦場だった4、ジョニーは戦場へ行った5、乱6、炎6287、7月4日に生まれて8、西部戦線異常なし9、肉弾10、ホワイトバッジ次点、戦場にかける橋 ドイツ青ざめた母 「戦争映画」の名目で選ぶとまた変わると思います。それは戦争に惹かれる好戦映画と反戦への熱狂とは紙一重だからです。『地獄の黙示録』などはそうした好戦映画とのギリギリのところを自覚的に描いていると思います(『プライベートライアン』はそうした自覚が足りないと思うので入れませんでした)。 『ホワイトバッジ』は韓国映画ですが、主演の男優が素晴らしいのと、韓国人のベトナム派兵の問題を描いていて貴重だと思います。 選んで順位をつけるということ自体に抵抗があるのと、気分によって変わるということもあるので、ベストテンを選ぶというのはむずかしいものです。 重要なものを忘れている気がしますので、コメント欄に書き込んでいただけると嬉しいです。追記: ビートルズが昔、「君たちはラブソングばかりで反戦ソングは書かないのか?」と新聞記者に聞かれて、「僕達の歌は全部反戦ソングだ」と答えた逸話が脳裏を横切ります。 これは大事な視点だと思います(『ドイツ青ざめた母』はそうした理由で選びました)。
2004年10月03日
「軍人は小児に近いものである。(中略)この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。」と芥川竜之介は『侏儒の言葉』で述べています。 これは逆に子供に可哀想な比喩です。僕の解釈だと軍人及び軍事オタク(オタクとはアピールする能力のない研究者のこと)は幼少の時、心のゆくまま遊んでおらず、充実した子供時代を通り抜けていないから、大人になって「代補対象」を探すことになるというものです(*)。 上記の芥川の思考は断片的で、資本の分析を含んでいませんから、石橋湛山などの現状分析には及びませんが、以下の記述などは昭和二年にしては鋭いものだと思います。 「日本の労働者は単に日本人と生まれたが故に、パナマから退去を命ぜられた。これは正義に反している。亜米利加は新聞の伝へる通り、『正義の敵』といはなければならぬ。しかし支那人の労働者も単に支那人と生まれたが故に、千住から退去を命ぜられた。これも正義に反している。」(『侏儒の言葉』芥川龍之介、1927年より)*ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』で主人公にこう語らせている。 「・・・休み時間に若いひとたちが戦争ごっこをしたり、追剥ぎごっこをしたりするのも、やはり芸術の芽生えだし、若い心に芽生えかけた芸術欲ですよ。こういう遊びのほうが、往々にして、劇場の演(だ)し物よりうまくまとまっているものですよ、ただ違いと言えば、劇場へは役者を見に行くのに、こっちは若い人自身が役者だというだけでね。でも、それはごく自然なことでしょう。」(『カラマーゾフの兄弟』下、新潮文庫) これはルソー流の社会教育とは観点が全く違うということを追記しておきたい。
2004年10月02日
あっちこっちで戦って石油のためじゃないと言うあっちこっちで戦って石油のためじゃないと言う殺しあう理由なんて何もないぜ殺しあう理由なんて何もないぜあっちこっちで血を流し自由の為しょうがないと言うあっちこっちで血を流し自由の為しょうがないと言う殺しあう理由なんて何もないぜ殺しあう理由なんて何もないぜあっちこっちで壊しまわり平和の為しょうがないと言うあっちこっちで壊しまわり平和の為しょうがないと言う殺しあう理由なんて何もないぜ殺しあう理由なんて何もないぜ(間奏)長いものに巻かれたままで強いやつのあとをついて行く長いものに巻かれたままで強いやつのあとをついて行くあきれてものが言えないぜあきれてものが言えないぜ大量破壊兵器をあっちこっちで探してる大量破壊兵器をあっちこっちで探してる鏡を見てみろと言いたいぜ鏡を見てみろと言いたいぜあっちこっちで戦って石油のためじゃないと言うあっちこっちで戦って石油のためじゃないと言う殺しあう理由なんて何もないぜ殺しあう理由なんて何もないぜ
2004年10月01日
評論家の鶴見俊輔さんは、かつて戦争に勝つことのコストということを語っていました。 それは戦争に勝つと、軍が政治的に力を持ち、やらなくてもいい戦争をやるようになるということです。 アメリカのベトナム戦争はまさにそれでした。 しかも、そのコストは、今のイラク戦争にまで続いており、アメリカの軍需産業は敵を捏造し続けることで生き延びています。 しかし、僕にとってアメリカを代表するものは、そうした軍需産業ではありません。 ボブ・ディラン、ソロー、ホ-ソーンetc・・・。今こそ、そうしたアメリカのリベラルとの連携をはかるべき時でしょう。
2004年09月30日
日本全体の米軍基地の75%が沖縄に集まる現状はやはり異常だ。別に普天間が特別危険ではない。すべての基地が危険なのだ。タッチ&ゴーなど、危険な訓練をするからやはり基地は普通の空港とは違うのだ。アメリカ軍自身が七~九年置きくらいの確率で普天間では事故が起こることを予測し、実際今年の夏起きた。それは結局そこに住む住民たちの本当の役には立たない。だから、基地を(ジュゴンのような貴重な動物の泳ぐ)辺野古沖に移せばいいというものでもない。 今後は、沖縄のエコツーリズムなどを応援して、平和産業を育てていけばよい。その最たるものがサッカーだ。かりゆしFCが失敗したからって悲観することはない(今は歌や踊りに若い人材が流れているが、サッカーに人が集まる日も来るだろう)。 普天間基地跡は芝生の張ってある、子供も遊べるようなサッカー場にするといい。
2004年09月29日
先に報告しましたが、9月9日に国連大学で開かれた、9LOVE沖縄特集のレポートがUPされましたので、URLを御紹介します。http://9love.blogtribe.org この中で、染織作家の石垣昭子さんは『大和(日本)が沖縄に復帰すればいい』と語っています。 以前も書きましたが、沖縄はアジアの中心にあると考えていいと思います。 沖縄の基地問題を解決するためには、大型リゾートではなく三線奏者でもある石垣金星さんが推進するようなエコツーリズムを応援したり、昭子さんの染め物のような循環型の平和産業を応援することによって、たとえ小さくても経済的基盤をつくっていくことが必要だと思います。
2004年09月28日
以下は、プルードンによる、系列弁証法の観点から位置づけられた「相互性」(「矛盾」に続く第二の法則)の解説であり、また「相互性」という交換銀行の基本理念の表明である。後者に関してはより具体的には定款を見るべきだが、その論旨は明解なものであり、現代にそのまま通じるものでもある。 「・・・相互性は、創造物においては、存在の原理である。社会秩序においては、相互性は社会的現実の原理であり、正義の公式である。それは、思想、意見、情念、能力、気質、利害の永続的な敵対を基礎とする。それは愛そのものの条件である。 相互性は、『自分にしてほしいことを他人にたいしてなせ』という掟において表明される。経済学はこの掟を『生産物は生産物と交換される』という有名な公式に翻訳した。 ところでわれわれを貪り食う悪は、相互性が無視され、破壊されることから生じる。救済策のすぺては、この法の公布のなかにある。われわれの相互関係の取扱化、ここに社会科学のすべてがある。 したがって今われわれが必要としているのは、労働の組織化ではない。労働の組織化は、個人的自由の本来の対象である。労働をうまく行なうものは、利益を得るだろう。この点では、国家は勤労者にたいしてこれ以上言うベきことをもたない。われわれに必要なこと、私が勤労者の名において要求することは、相互性すなわち交換における正義であり、信用の組織化である。」(阪上孝訳、「信用と流通の組織化と社会問題の解決」、1948年3月31日発表のパンフレット、『資料フランス初期社会主義二月革命とその思想』河野健二編、平凡社、p338より) 上記の文章の中で、相互性の定義を「生産物は生産物と交換される」「交換における正義」「信用の組織化」と書いている部分が有名であり、また重要だと思う。「生産物は生産物と交換される」という部分はマルクスの言うように労働価値と労働生産物とを混同しているのではなく、労働の価値を明確にしているのであり、相対(あいたい)での契約を重視することによって、交換の理念的土台を明瞭にすると共に、統制された計画経済ヘ陥る危険を回避するという知恵でもある。 また次に、前回引用した「政治問題と経済問題の同一性、解決の方法」(「人民の代表」1848年5日9月発表分、『資料フランス初期社会主義二月革命とその思想』河野健二編、平凡社、p344)より、社会全体をいかに捉え、改革の方向性をどうするかという彼の思想の核心部が明確にされている、その後半部を紹介したい。 「・・・人間の王権を廃止したように、貨幣の王権を廃止することが重要である。市民間の平等を樹立したように、生産物間の平等をつくり出すこと、全員に選挙権を与えたように各商品に代議能力を与えること、われわれが王権や大統領制や執政官(ディレクタトワール)の仲介なしに社会の統治を組織しようとしているように、貨幣の媒介なしに価値の交換を組織することが、重要である。要するに、政治的次元で行なおうとしていることを経済的次元で行なうことが重要なのである。それがなければ、革命は重要な部分を欠くことになり、不安定になるであろう。 したがってこの二つの改革、すなわち経済的改革と政治的改革は緊密に結び付いている。両者はそのどちらが欠けても実現されえない。政治組織を経済組織から分離することは、絶対主義に後退することであり、現実ではなくて意見を法とつねに取り違えることである。それは、進歩を妨げることである。 真に革命的であるためには、新しい基本構造が、この学派の言葉を用いることを許していただければ、主観的であると同時に客観的であること、それが人間と同様に物のあいだにおいても平等の組織であることが必要である。生産物間の均衡は市民間の正義と同じものである。こうして正義は、われわれにとっては、具体物であると同時に理念的存在である。そして一八四八年革命はとりわけ経済的革命であるから、われわれはまさに経済科学にたいしてこそ、新しい共和的原理を求めなければならないのである。 信用と流通を組織すること、一言で言えば銀行を創出すること、これが、経済的基本構造と同時に政治的基本構造の出発点である。同じ等式が社会問題と国家の問題の解決に役立つであろう。同じ定式がこの二つの解決を表わすであろう。」(阪上孝訳) 上記の文章からはプルードンの、政治革命ではなく社会革命を重視するスタンスがより明瞭にわかると思う。当時、人々が政治革命に熱狂的する中で、プルードンのこの態度は特筆すべきものだった。 技術的な点をより具体的に言うと、同年発表された交換銀行定款によれば、貴金属貨幣は交換券で払いきれない端数にのみ使用される予定だった。 プルードンの論旨は題名を見れば明らかだが、8日発表分の文章よりも、その後半部に当たる9日のこの文章の方が、プルードンの経済重視のスタンスをより鮮明に表していると言える。また、「こうして正義は、われわれにとっては、具体物であると同時に理念的存在である」という箇所は、「イデア=レアリスム」というプルードンの方法論を示していると言えよう。 先にプルードンのアイデアとLETSの理念との類似性を指摘したが、「信用と流通を組織すること、一言で言えば銀行を創出すること」という部分を見るならば、当然ながらこれらは今日の市民バンクの試みとも繋がるものであり、交換銀行案が却下された後にプルードンが提出した、広く出資者を募る形にした人民銀行案においてはよりその傾向が強くなる。 ちなみに、「貨幣の王権を廃止する」という方向性は、マルクスの価値形態論から見ても、正しいのではないだろうか。
2004年09月27日
1848年5月8日「人民の代表」に発表されたプルードンの文章、「政治問題と経済問題の同一性、解決の方法」を資料として紹介します。LETS(地域交換取引制度)の原理との近さがわかると思います。「自由経済研究」vol.20.2001.12より、森野栄一さんの訳です。「・・・誰もが認めることは、異なった場所に居住する三人以上の交換者が、同じ時に、それぞれ他の人間の生産物を知り、欲するならば、彼らの生産物と役務を直接に貨幣の助けなしに交換するような方法で交換することができるということである。 (中略) 交換銀行は交換者に対して、諸国のあらゆる生産者や消費者の事業状況や能力、支払い能力、生産の重要度、そして特に重要な彼らのもつ欲求を個人的に知っているかのように現れる。 いかなる政治上の激動も決して生産者と消費者の関係を断ち切り、生産物の交換を中断しえないにしても、交換銀行がお互いに関わりあうには時間がかかるすべての生産者と消費者に無償で生産物と販路を提供するのは、この知識によってこそなのである。 交換銀行はその組織によって交換銀行なのである。随所に現れ、誰にでも情報を与え、交換銀行は各交換者にこう言うのである。当行に諸君の請求書、交換券、約束手形を与えよ、当行に諸君の商品針委託せよ、当行のもつ無数の関係によって、補償金もいらず、割引料もなく、利子もなく、諸君のあらゆる取引を引き受けましょう。 従って、ここでは貴金属貨幣の銀行が交換の銀行に転換され、間接的交換は直接的交換に代えられ金属の役割は廃止され、一種の振替に転換される。否定が肯定に転換されるのだ。 我々はこの改革からどのような利益を引き出すことができるのであろうか。これが労働者にもたらすものはなんであろうか・・・。」 さらに付け加えるなら、プルードンの交換銀行の計画では、銀行が特権的なポジションに立つのではなく、会員が相互に価格を決め合うという点が画期的であり、計画経済的な同種の試みとの違いであるということも追記しておきます。言うまでもなくそれはLETSに共通する考え方でもあります。
2004年09月26日
「軍人は小児に近いものである。(中略)この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。」と芥川龍之介は『侏儒の言葉』で述べています。 これは逆に子供に可哀想な比喩です。僕の解釈だと軍事オタクは幼少の時、心のゆくまま遊んでおらず、充実した子供時代を通り抜けていないから、大人になって代補対象を探すことになるというものです。 上記の芥川の思考は断片的で、資本の分析を含んでいませんから、石橋湛山などの現状分析には及びませんが、以下の記述などは昭和二年にしては鋭いものだと思います。 「日本の労働者は単に日本人と生まれたが故に、パナマから退去を命ぜられた。これは正義に反している。亜米利加は新聞の伝へる通り、『正義の敵』といはなければならぬ。しかし支那人の労働者も単に支那人と生まれたが故に、千住から退去を命ぜられた。これも正義に反している。」(『侏儒の言葉』芥川龍之介、1927年より)
2004年09月25日
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