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市電・函館どつく駅から西へ300mに函館漁港がある。この漁港は、明治32年に完成した「船入澗(ふないりま)防波堤」によって守られている。西向きの外洋からの波を防ぐ目的に、3年余りをかけて完成させた「石積の防波堤」。 北側104m、南側54mの防波堤だ。 船入澗防波堤は、かの廣井勇氏が監督技師として着工した港湾施設工事。小樽港の北防波堤よりも1年早く着工している北海道の近代港湾施設。更に、耐海水コンクリートブロックは、日本人が製作した最初のものだ。近くの函館第1乾ドックと共に、「函館港湾改良施設群」として、土木学会選奨土木遺産に認定。 明治29年に設立された函館船渠(株)が乾ドック第1号を建設したが、難航して明治36年に仮開業する。日露戦争の影響により、途中から当初計画の3倍のドック規模(長さ240m×幅34m)になり、費用調達等に時間を要した。なお、日本で最初の様式ドライドックは、横須賀に明治4年に完成している。写真1 函館漁港の船入澗防波堤(外側)。写真2 漁港の船入澗と位置関係。写真3 石積防波堤(内側)。写真4 北海道土木遺産カード他。写真5 土木学会推奨土木遺産、防波堤断面図。写真6 函館第1号ドライドック(土木遺産)。
2023年08月08日
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函館山の山麓、ロープウェイの下に元町配水場がある。明治期、函館西部地区は、人口増により慢性的な水不足に陥っていた。そこで、赤川水源地(笹流ダム)から函館中心部へ水を引く事業が始まった。元町の高台に配水池を造り、水を一旦溜めて市内に供給した。現在でも約2万人が利用する水道水だ。 元町浄水場は、中区配水池4,700m3(明治22年)と高区配水池2,700m3(明治29年)の2段構となっている。現在は芝生に覆われている。大正12年になると、水の汚染と凍結防止のために、鉄筋コンクリートの蓋を被せた。地下への出入口は、立ち入り禁止。広大な芝生広場と煉瓦造り管理所が印象的・・。 「函館市の水道施設群」は、平成13年度土木学会推奨土木遺産に登録されている。笹流ダムと元町浄水場とがセットになっている。中区配水池は、日本人(平井晴二朗)により作られた最も古い浄水場。敷地内には、函館港を見渡す展望散策路が整備。またソメイヨシノが植えられ、桜の名所としても知られている。写真1 函館山山麓にある配水場と市内を望む。写真2 元町配水場の入口と土木遺産碑。写真3 噴水「清泉滾滾(せいせんこんこん)」と記念碑。写真4 地下配水池出入口と赤レンガの事務所。写真5 散策路途中の展望台から噴水その他を望む。写真6 中区配水池の芝広場と案内図他。
2023年07月22日
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権現堂桜堤の東側(川側)に、小さな水路と池がある。権現堂川の名残のようだ。あじさい橋を挟んで煉瓦造りの樋管群が保存されている。上流側にあるのは煉瓦造りの新圦(しんいり)跡で、現在山羊の小屋が建っている。下流側には、巡礼樋管が桜堤の中を貫通している。 現堂桜堤は、利根川の支川であった頃の権現堂川の堤防。この堤防に、土木遺産・巡礼樋管がある。(平成22年度土木学会推奨) 創建は天保12年(1841年)。島中領(現在の栗橋市)の排水を目的につくられた。しかし下流では用水に使用するため、樋管の管理をめぐる争いが絶えなかったという。 巡礼樋管の近くには、権現堂川用水の取水口と思われる新圦(しんいり)が保存されている。明治23年(1905年)に煉瓦造り。農業用水の取り入れ口。現在流れているのは中川。権現堂川は締め切られ「調整池」・行幸湖(みゆきこ)として名残を留める。河川管理上は利根川水系になる。写真1 旧権現堂川の樋管類。写真2 巡礼の碑の近くにある「巡礼樋管」(土木遺産)。写真3 山羊小屋近くにある土木遺産の碑。写真4 あじさい橋。写真5 あじさい橋付近の紫陽花。写真6 権現堂桜堤あじさい箇所と樋管場所。
2023年07月06日
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小樽築港臨海公園から南防波堤の付根にあたる平磯崎まで散歩する。途中、港湾事務所・みなと資料館を覗く。南防波堤の上には、釣り人が外洋に向かって釣竿を垂らしていた。この時期、シマソイやホッケが釣れるという。 みなと小樽は、百年前から約3.5kmにも及ぶコンクリート造り防波堤で守られてきた。24年の歳月をかけて建設された防波堤。明治30年に建設が始まった北防波堤は、日本初の外洋防波堤だった。傾斜ブロック工法により築造された土木遺産。第1期工事が北防波堤1289m。第2期工事が南・島防波堤1827m。 南防波堤は、ケーソン工法で築造された。みなと資料館の近くに、斜路式ケーソン製作ヤードの遺構がある。大型クレーン2基が建っていたが、老朽化のため2016年秋に解体された。2009年に土木遺産に登録されていた。2012年に一度訪れたことがある。写真-1 みなと小樽を守る3.5kmに渡る防波堤。写真-2 平磯崎から伸びるケーソン工法による南防波堤と島防波堤。写真-3 傾斜ブロック工法による北防波堤と増毛山地を遠望。写真-4 みなと資料館脇の説明パネルと堤ブロックの展示。写真-5 斜路式ケーソン製作ヤード。2012年にはクレーンがあった。写真-6 説明パネルと土木遺産認定銘板。
2022年06月16日
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小樽手宮の岸壁近くの海上に、コンクリートの残骸、いや土木遺構がある。鉄道で運んだ石炭を積込むための機械が据え付けられた基礎。文化庁が選定する日本遺産のうち、68番目の「炭鉄港」(令和元年)を構成する要素。DCMホーマックの駐車場の裏から眺めることができる。 「炭鉄港」の日本遺産価値のストリーは、「本邦国策を北海道に観よ・・北の産業革命」とある。近代北海道を築く基となった三都(小樽・室蘭・空知)を石炭・鉄道・港というテーマで結んでいる。北の大地発展の原点を再発見し、未来を考える機会を与えるものになる・・。 小樽手宮は、北海道鉄道発祥の地。明治15年、幌内鉄道(三笠から小樽)が開通すると、当時のエネルギー源である石炭は、手宮高架桟橋から船積みされるようになった。明治44年には巨大な桟橋が建設される。しかし、昭和20年頃には、木製高架橋に替わって、ローダー・トランスポーター機が主役となる。 昭和60年手宮線廃止にともない、石炭積出し機械類も撤去された。当該施設の基礎(台座)2基が残っている。石炭鉄道の終着点手宮と小樽港積出しの痕跡を残すのが「北炭ローダー基礎」なのだ。写真-1 手宮岸壁と北炭ローダー基礎跡。写真-2 日本遺産の「炭鉄港(たんてつこう)」ポスター。写真-3 小樽手宮の海と岸壁。写真-4 北炭ローダー基礎台座コンクリート。写真-5 ホームセンター駐車場から台座コンを観ることができる。写真-5 ホームセンター駐車場から台座コンを観ることができる。
2022年06月01日
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札幌市内に宿泊すると、時間に余裕があれば、「赤れんが庁舎」を訪れる。札幌駅に近く、緑が多い庭があるので・・。2年前からリニューアル工事が始まりっており、赤煉瓦建物は、バリケードで囲まれていた。2024年まで閉館される旨、案内板があった。 朝7時に正門は開門となる。前庭などを散歩することができる。また通り抜けも可能。正面玄関には、3つの花壇がある。中央の花壇前に「 KOKKAIDO LOVE」の横看板があった。オリンピックを意識したようだ。 赤れんが庁舎は、かつて北海道庁本庁舎して建築された西洋館。ネオ・バロック様式として、明治21年(1888年)に完成。その後火災に遭い、数回の復元工事が成され今日に至る。昭和43年に重要文化財となり、「北海道立文書館」として一般公開されていた。写真-1 「アカプラ」のイチョウ並木と赤れんが庁本庁舎。写真-2 赤れんが庁舎の記念写真スポット(東面)。写真-3 花壇と赤れんが庁舎。写真-4 史跡碑と赤煉瓦正面玄関。写真-5 赤れんが庁舎の南面と西面(裏側)。写真-6 道路横断するマガモと昔の庁舎写真パネル。
2021年09月16日
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渡良瀬橋の下流500mに、緑色のトラス橋・中橋が架かっている。この中橋は、戦前の昭和11年に架僑された。以来補修などを経て、85歳となる。河川敷の整備と相まってこの3連アーチ橋は、足利市を代表する景観となっている。昨年来から、「中橋掛替事業」が動き出した。早ければ2022年から工事が始まる。 力強いフォルムの3連アーチは、「下路ブレースドリブタイドアーチ」と呼ばれる橋形式。ドイツで考案。実用化されたもの。昔の多摩川・六郷橋がこの形式。現在、隅田川に架かる千住大橋(シングルアーチ)がこのタイプ。長良川中橋は、規模として大きい。栃木県の土木遺産に登録されている。 古い橋であるため、中橋がある堤防付近は、他より2mから3m低い。昨今の豪雨を考えれば、いつ堤防越水するかは時間の問題と思われる。荒川と京成本線荒川橋梁も同じ治水課題を抱えている。土木遺産の現中橋は、下流に移動して歩行者・自転車専用道路とて保存し、新たな新橋を建設するようだ。しかし、一部地元民が計画の撤回を訴えている・・。写真-1 足利の3連アーチの中橋。栃木県の土木遺産。写真-2 広い河川敷と緑色の中橋。写真-3 下路フレースドリブタイドアーチ橋。写真-4 渡良瀬橋側から中橋を望む。写真-5 足利市駅前広場の女性像と東武鉄道線。写真-6 中橋の掛替概略図と隅田川千住大橋。
2021年05月25日
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銀色に輝くトラス橋・渡良瀬橋は、渡良瀬川に架かる橋のなかでは最古とされる。渡良瀬川によって南北に分断されている足利市。足利市内流れる17km区間に12箇所橋が架けられている。隅田川に架かる橋群のようだ。東武足利市駅で下車して河川敷を歩き、南から北へ渡良瀬橋を渡る。 渡良瀬橋は、下路平行6連ワーレンストラス橋。橋長243.3m×幅員5.5m。1902年頃に木橋があったが、1934年(昭和9年)現在の鋼製トラス橋に架け替えられた。遠くから眺めると、鉄道の橋梁のように見える。橋の上流側に側道(歩行者・自転車)が設置されている。側道から夕陽などを安全に見ることができる。 橋の北詰・下流に「渡瀬橋の歌碑」がある。1993年、森高千里氏がこの橋をモデルにした楽曲を発表して、全国的に名が知られた橋。夕日の名所なったのは、歌詞の内容による。「・・夕日がきれいな街」との言葉で歌詞が終わっている。写真-1 渡良瀬川と渡良瀬橋を下流から望む。写真-2 銀色トラス橋とその側道(歩行者・自転車専用レーン)。写真-3 渡良瀬橋を上流と下流から観る。写真-4 森高千里の「渡良瀬橋の歌碑(2007年に設置)」。写真-5 橋の南詰近くの足利浅間神社。写真-6 織姫神社から渡良瀬橋を望む。麓の八雲神社。
2021年05月22日
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明治維新後、遷都で荒廃した京都をいち早く蘇らせたのは、琵琶湖疎水事業か・・。水を治める者は、国を治めるとの、古くて新しい格言がある。京都の東8kmに巨大な水ガメ・琵琶湖がある。この水を都に引くことは長年の夢。灌漑・水道・発電・水運の目的を持って、琵琶湖第1疎水が完成したのは明治23年。 史跡・蹴上インクラインを汗だくになって上から歩く。熱中症対策として「琵琶湖疎水記念館」で、見学休憩する。この建物は、琵琶湖疎水竣功百周年を記念して、平成元年に開館した施設。館内展示物を見終えるころには汗もひいた。 この事業には、若い技術者が初めから設計監理を担当していた。田辺朔朗24歳(東京出身・岩倉遣欧使節団の一員)で、途中銅像を見かけた。第一疎水は、明治18年から明治23年に完成。大津と京都鴨川間の疎水約20kmである。5本のトンネル延長は4km。大津-伏見間の船運が5時間となった。 記念館の疎水に面するテラス横に、扇ダム放水路トンネル出口がある。扁額の「夢之年百楽」が見える。百年の夢を楽しむとの意味か・・。130年間水を届ける水路群が京都にある。写真-1 琵琶湖疏水記念館前の南禅寺船溜まり。写真-2 記念館と扇ダム放水トンネル出口。「夢之年百楽」の扁額。写真-3 記念館1階の疎水の計画と建設コーナー。写真-4 記念館前の水路と模型。写真-5 田辺朔郎の銅像と初期に使用されたペルトン水車。
2019年09月02日
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南禅寺境内を跨ぐ水路がある。琵琶湖疎水の分線にあたる「南禅寺水路閣」である。蹴上付近から疎水本線から分岐して、枝水路となって南禅寺院前を横切る。そして第5トンネル(105m)を経て、哲学の道沿を流下し、今出川通りを併走する。 長さ93mの水路閣は、古代ローマの水道橋を摸している。橋幅4m(水路幅は2.5m)×高9mの橋脚が並ぶ。レンガと花崗岩で作られた13連続アーチ橋は、風格が漂う。明治21年に出来た水路橋は、近代産業遺産とともに国の史跡だ。 京都の近代遺産のなかでも南禅寺水路閣は、明治初期の土木技術を今に伝える建造物。今なお現役で、京都市内へ疎水している。現役が故に、映画やドラマに度々使用される場所だ。紅葉のシーズン撮影スポットは、順番待ちができる・・。写真-1 南禅寺水路閣の撮影スポットで・・。写真-2 現役で京都市内に水を流している琵琶湖疎水支川。写真-3 南禅院前を横切り水路閣と方丈庭園。写真-4 連続するアーチがコンセプト。写真-5 水路閣脇散策路と5号トンネル吞口。写真-6 琵琶湖疎水模型における水路閣。
2019年08月29日
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魚見崎から旧道135号、蘇我浦大橋を経て、アカオ・ハーブ園まで歩く(往復2.4km)。崖に沿って、赤レンガ舗装の遊歩道(パノラマロード)が整備されている。眼下は岩壁と紺碧の海だ。五月の風は、汗を乾かしてくれる。 蘇我浦にはみ出した「蘇我浦大橋」は、平成2年(1990年)に完成した。橋長225mのトラス橋。この橋が開通するまでは、山側の旧道が幹線道路だった。その名残の洞門が保存されている。 洞門(半トンネル)は、1号から5号まであったようだ。そのうちの4号と5号が土木学会推奨土木遺産として登録(2008年)された。土木遺産「曽我浦片隧道5号」は、昭和14年に造られた、アールデコ様式のシェルター型片トンネル。長さ33.5m×高さ4.9m×幅員5.5mの規模。 この時期、錦ケ浦・パノラマロードを歩く人はあまりいない。アカオ・ハーブ園前にバス停があり、多くの人は車を利用するようだ。しかし、雄大な景色を見ながらの断崖散歩も良いものだ・・。写真-1 曽我浦と「曽我浦大橋」。写真-2 平成2年完成の大橋と昭和14年完成の「蘇我浦片隧道五号」。写真-3 赤レンガ舗装の錦ケ浦パノラマロードを歩く。写真-4 錦ケ浦海岸線とアカオ・ハーブ園。写真-5 海岸線に点在する岩に波が打ち寄せる。
2019年05月29日
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日光・杉並木公園に水が湧き出す「円筒分水井(えんとうぶんすいせい)」がある。直径10m程のコンクリート造りの円柱だ。昭和28年に造られたもの。枯れ葉掃除している管理人さんに断って、少し覗かせてもらった。清水が湧き水のように噴出していた。 上今市駅から東武日光線の南側に伸びる杉並木公園。日光杉並街道との間に造られた延長約1km散策路だ。公園の上流端に古民家と食事処がある。大きな古民家は、移築した旧江連家(1830年築)。この屋敷の庭の下に、円筒分水井がある。 今市用水は、大谷川左岸に建設された水力発電所の排水を利用している。ヒューム管製のサイホン(延長約1km)により、大谷川を横断して分水井に出る。この分水施設からの配水は、下流の農業用水や水道用水に分配される。円筒の円周に沿って24のゲートがあり、合理的に配分されるという。 二宮尊徳の報徳仕法により建てられた古民家「報徳庵」は、手打ち蕎麦が名物。行列ができる店だ。訪れた時刻10名以上が並んでいた。昼食は蕎麦としていたが、断念して「大水車」を観て散策を続けた。写真-1 古民家庭園から見た「今市用水円筒分水井」。写真-2 直径10mの円周に沿って24のゲートがある。写真-3 所野第三発電所の使用した水が円筒分水井に湧き出す。写真-4 今市用水を利用した直径10mの大水車。写真-5 旧江連家の古民家と食事処「報徳庵」。
2018年12月06日
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旧手宮駅は、北海道の「鉄道の発祥の地」とされる。手宮から札幌間(35Km)は、日本で3番目に開通した鉄道線(明治13年11月)。明治5年新橋-横浜間、明治7年大阪-神戸間に次いでの・・。港に近く、国策で鉄道の起点となったことで、「鉄道の街」として発展した港町・小樽。 野外展示の一画に、蒸気機関車時代を物語る貴重な建造物がある。明治18年に竣工した「機関車庫3号」。国内に現存するレンガ造り機関車庫としては最も古い。国の重要文財である。日本人の手による国産2号機となった「大勝号」も納まっていた。 小樽市総合博物館の特色は、ひとつに鉄道車両の豊富さだろうか。各種機関車(蒸気、電気、ディーゼル)をはじめ、除雪車を含めると40車両に及ぶ。往年の手宮駅構内を偲ぶ野外展示場だ。 明治の石炭輸送は、港を介して鉄道と船が主体。当時、手宮高架桟橋は、人々を驚かせた。明治44年に突如現れた。海上からの高さ19m、海上延長約300mという巨大なもの。すべて木材を使用して組み上げられていたという。当時の写真と模型が展示されていた。写真-1 手宮公園麓から小樽総合博物館を望む。写真-2 転車台と機関車庫3号。写真-3 8両が繋がるプラットホーム。写真-4 野外に展示されている機関車など。写真-5 手宮高架桟橋模型と近代産業遺産の説明パネル。
2018年11月08日
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戦いに勝ったときにあげる、あの「かちどき」を象徴する橋がある。晴海通りを通す勝鬨橋だ。競技大会などで競い合い勝ったとき、思わずとるはガッツポーズだ。 勝鬨橋は、国の重文、土木遺産に登録されている可動橋。貨物輸送を船に頼っていた頃、国内でも多く架けられた型式。可動部52mをハネ上げる道路橋は、国内で最大規模を誇った。10年の歳月をかけて、昭和10年(1940年)に竣工した。シカゴ型双葉跳開橋が正式な型式。 戦後、交通渋滞を起こす原因となり、昭和45年に跳開が停止。開かずの橋となる。米国シカゴ川には、現役で跳開している橋が多くあるという。不便であっても、何かあった場合の船輸送を念頭に維持管理、そして観光に活用している。 日本でも「勝どき橋をあげる会」があった。実現はかなり難しい・・。東京オリパラ大会を記念して、八の字に「勝どき」を上げるイベントがあると面白いのだが・・。写真-1 隅田川に架かる勝鬨橋を上流から観る。写真-2 下流側面の橋景色。写真-3 可動部と八の字に跳開した様子。写真-4 橋の歩道・自転車道。写真-5 力強いアーチ梁が連続する。
2018年10月12日
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京葉線八丁堀駅の東流する亀島川に、「高橋」が架かっている。この橋から下流南側に「南高橋(みなみたかばし)」というレトロな橋がある。亀島川は、日本橋川から分流して、5つの橋を潜り隅田川に注ぐ。 河口に設置された亀島川水門に並ぶように架る南高橋。橋長63m×幅員11mの鋼製トラス橋。縦梁に細かいトラス材が使われ、「プラットトラス橋」とも呼ばれる。また、四隅の柱頭に、ローマ建築のような冠を頂いている。明治の気風が残る門構えである。 南高橋は、昭和7年(1932年)に架けられたが、橋の主要部が明治37年の旧両国橋の材料を使用している。このため、都内に現存する道路橋としては最も古い橋とされる。平成28年度土木学会推奨土木遺産に認定された。 橋の東端(新川)に小さな祠がある。御神体が徳川家の遊船の舳を切って彫ったものと伝えられる「徳船稲荷神社」である。この辺りは江戸期、京橋川も合流し、河口に浪よけ稲荷があったされる。小舟の積み替え場所だったのだろう・・。写真-1 「高橋」の上から「南高橋」を望む。写真-2 明治の気風が漂う南高橋。写真-3 旧両国橋の部材を使用しているプラットトラス橋。写真-4 四隅の柱頭装飾と土木遺産認定プレート。写真-5 橋の東詰に祀られている「徳船稲荷神社」。写真-6 橋の西側・湊地区の「鉄砲洲稲荷神社」。
2018年09月28日
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弥彦公園の北側に古風なトンネルがある。大正期に入り、彌彦神社が造ったもの。トンネルのエントランス(坑門)は、柱壁とアーチ円縁の笠石に花崗岩が使われており、丁寧な仕事振りが伺える。国の登録文化財である。 トンネルの規模は、幅員3.1m×延長55m。トンネルの内面に、煉瓦の化粧が施されている。土被りが薄いので、両坑口付近は、開削トンネル方式で施工されたようだ。埋め戻す際に、富士山溶岩を運んできたという。神社らしい、こだわりだ。 彌彦神社に参拝した後、少し遠回りになるが、弥彦駅に向かうルート上にトンネルがある。つまり、1の鳥居―神社通り―外苑通り―浅尾池―トンネル―もみじ谷―弥彦駅。途中に土産店等を経由する約1kmの行程。 弥彦駅は、JR弥彦線の起点駅(終着駅)。現在、東三条駅までの17.4km(8駅)を繋ぐ。2013年に駅舎のリニューアル工事が終わって、真新しい朱色が目立つ。参拝客・観光客は、主にバス・自家用車を利用する。従って、トンネルが人で賑わうのは、紅葉時期のようだ。写真-1 弥彦公園トンネル(北側・神社)。アーチ縁と壁柱の花崗岩がアクセントになっている。写真-2 駐車場横の子ども公園と遊具。写真-3 トンネル内からもみじ谷を観る。写真-4 弥彦公園トンネル(南側・駅方面)。断面は馬蹄形。写真-5 JR弥彦線の弥彦駅。
2017年11月27日
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越後中里の宿泊ホテルから、魚野川に架かる松川橋梁が見えた。朝メシ前に、JR上越線の鉄道遺産まで散歩する。土木遺産に「清水トンネル関連施設群」の延長上の施設にあたる。 松川鉄橋(橋梁)は、正式名称を第二魚野川橋梁(下り線)という。昭和時代の鉄橋とコンクリート橋脚で魚野川を跨いでいる。橋脚は10基以上連なる。因みに、第一橋梁は土合駅と土樽駅間に、第三橋梁は岩原スキー場前に、第四橋梁は長岡市内に架かっている。 群馬県から谷川岳地中の清水トンネルを抜けると、土樽駅(標高599m)がある。次の越後中里駅(標高471m)まで7.3kmの距離。しかし高低差128mは鉄道にとって急勾配。そこで、上り線は松川ループトンネル線、下り線をオメガ線にして高低差を克服した。 松川ループトンネルの上を関越新幹線も走る。松川地区の山麓を関越道も通る。その山裾に管理用と思われる「松川斜坑」の入口があった。1932年に製作したという松川ループ線のジオラマ模型が、大宮・鉄道博物館に展示されていた。今もあるのだろうか・・。写真-1 魚野川にかかる松川橋梁(上越線下り)と谷川岳連峰。写真-2 少し上流の鉄橋を走る上越線上りの電車。とっさにカメラを向けたのでピントボケ。写真-3 松川橋梁の橋脚列と宿泊ホテル。写真-4 松川地区から見た谷川連峰。写真-5 山裾にJR管理の松川斜坑の入口が見えた。
2017年11月23日
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兼六園は、犀川と浅野川に挟まれた台地(小立野)にある。園内全体に曲水や池が配置され、訪れる人々に清涼感をもたらす。水は小立野口そばの沈砂池を経て、兼六園に供給されている。余水は八坂(はっさか)の坂を流れ下り、金沢城方面へ流れゆく。 高台・兼六園に送水するのは「辰巳用水」。10kmほど上流の犀川から取水しているという。辰巳用水は、1759年金沢大火を教訓に造られた。当時、お城の掘りを逆サイホンで渡流させ、防災・防衛のために備えた。現在も使用されている土木遺産だ。 沈砂池から山崎山を暗渠で流れる水は、曲水を経て霞が池に流れ込む。その水は、さらに翠滝や噴水となる。霞ケ池の周囲には、兼六園を代表するコトジ灯篭、内橋亭、唐崎松がある。 400年前に造られた辰巳用水は、今も脈々と流れて兼六園を潤す。犀川の上辰巳地区にある取水施設の更に上流に、辰巳ダムがある。2012年に完成した洪水調節ダム(穴あきダム)。ダムと河川と用水、連携を図って、金沢の名園が次世代に引き継がれる。写真-1 兼六園の名物「ことじ灯篭」。写真-2 霞ケ池と内橋亭。写真-3 高台の池と唐崎松写真-4 霞ケ池から零れ落ちる翠滝(みどりたき)。写真-5 日本最古とされる噴水。霞ケ池の水面とほぼ同じ高さ。写真-6 兼六坂上交差点から「八坂(はっさか)」を見下ろす。
2017年10月19日
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筑波山神社の脇からケーブルカーに乗って男体山へ上る。このケーブルカー路線は、今年で92才を迎え、今なお健在である。特徴の90度に方向転換する軌条は、日本では稀。「わかば」と「もみじ」が年間40万人を運ぶ。 高低差495mは、関東で2番目を誇る。軌条延長1634m、最急勾配20度、定員107名のケーブルカー。そして、区間の3分の1がカーブ軌条(半径=250m)だ。曲線は、直線よりも各備品の損耗が大きく、路線の保守点検も苦労があるという。 筑波山のケーブルカーは、大正期に完成している。斜面で硬い岩盤をトンネルで掘り抜き、覆工コンクリートを打設している。神体である筑波山に穴をあけるとは・・との反対もあっが・・。今ではなくてはならない観光施設のひとつ。平成27年度土木学会推奨土木遺産に認定された。写真-1 山麓・宮脇駅から女体山を望む。写真-2 延長120mの曲りトンネル。写真-3 区間の3分の1がカーブ軌条。写真-4 中間の上下車両のすれ違い場所。「わかば号」が下って来た。写真-5 山頂駅に着いた「もみじ号」。写真-6 宮脇駅に掲示されている土木遺産認定証。
2017年03月15日
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お堂のようなレンガ焼窯が野木町にある。高い煙突は、耐震補強材が巻かれているため「相輪」に見える。この窯は、旧下野煉化製造会社の東窯で、正十六角形のホフマン窯だという。この5月からリニューアルオープンした。入場料100円で「お窯」の中に入ることが出来る。 渡良瀬川の左岸丘陵地帯に建つ野木町煉瓦窯。ここから渡良瀬川を約6km下ると利根川である。近くを東北本線利根川橋梁が横断している。水運には恵まれた場所であった。明治後半、レンガの生産はピークを迎えていた。 明治期に入り、官製の建物は火災に弱い木造建築物から石造り、またはレンガ造りに移行していった。レンガは、コンクリートの普及まで産業基盤を支えた「赤い石」だ。この旧下野レンガ工場では、多い年620万本ものレンガを生産したという。東京駅舎にも使われた。 渡良瀬遊水地が造られる前の旧谷中村は、レンガ材料に適した粘土が多く産出した。明治の輸送は、まだ水運である。渡良瀬川-利根川-江戸川を経て、東京に容易に製品を運ぶことができる。更に大量に消費する石炭は、常磐炭鉱から運んだそうだ。 写真-1 国の重文「野木町煉瓦窯」が5月にリニューアルオープンした。写真-2 窯上部は400投炭孔が煙突をドーナツ状に取り囲む。トロッコ・レールもそのまま。 写真-3 16室ある煉瓦焼成室の内部。高2.8m×幅3.3mの断面。 写真-4 野木ホフマン館内の1/60サイズの窯模型。 写真-5 高さ34mの煙突。二重塔の「相輪」のようだ。
2016年06月07日
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利根運河(L=8km)の中間点付近に「眺望の丘」がある。ちば眺望100景のひとつ。利根運河ポケットパークとも呼ばれる。春、この丘に登ると、桜並木と菜の花と小さな谷を一望できる。すると対岸も歩きたくなる。 利根運河を横断する鉄道は唯一、東武野田線。現在はアーバンパークラインと名称を変更している。このパークラインの東側に東京理科大と眺望の丘がある。パークラインの西側に水辺公園が整備されている。 眺望の丘付近の運河は、深くV字に開削され、緩やかな曲線で造られている。水量のわりに、土手は広く、開放感がある。かつて外輪蒸気船など年間37,000隻以上の船が行き来した水運の道だ。 眺望の丘に「土木遺産」認定のプレートがある。日本初の西洋式運河をオランダ人技師の指導のもとで造り上げたもの。明治維新から23年後に、この土木工事が成された。開通当時の流れは、現在とは逆で、江戸川から利根川に流れていた。鬼怒川から流れ込む土砂が流れを替えたという・・。 写真-1 眺望の丘から桜並木とアーバンパークラインを見る。 写真-2 運河の対岸(右岸)から眺望の丘のサクラを観る。 写真-3 運河左岸の桜。りたつう士。 写真-4 緩やかなカーブで運河が続く。水面に桜並木が映る。 写真-5 桜樹の間から対岸のサクラを見る。
2016年04月11日
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小樽・日銀通りを下って行くと運河の浅草橋に至る。現在の小樽運河は、この浅草橋から北へ伸びる1140m(昔は長さ1400m×幅40m)。このうち北側の約500mを北運河と呼ぶ。往年の水路幅を保存している区間である。 浅草橋の由来は、西の坂道上にある浅草寺に通じることから。浅草橋を含め、運河には4つの橋がある。南から浅草橋、中央橋、龍宮橋そして北浜橋と、約300m間隔に架けられている。龍宮橋から手宮側 (北側)が北運河水域。そして、小樽港に接続水路がある。接続水路の頭上には旭橋が架かる。 小樽の始まりはニシン漁から始まる。漁業で経済力をつけ、海運物産の集積地とし発展した港町。北海道開拓の玄関口となり、商業・金融の街に変貌する。「北のウォール街」とも呼ばれた。繁栄は長く続かない。海運から陸運。石炭から石油へ時代が移り、町は衰退してゆく。 春から夏には、訪樽する予定。流山・自宅から約6時間で小樽駅に着くことが出来る。平成42年に北海道新幹線が札幌まで開業するかもしれない。14年後、生きていれば、新小樽駅(天神地区)に降りて見たいものだ。山・坂の町なので、トンネルに挟まれた駅となるであろう・・。いや新駅はトンネル内かも・・。 写真-1 往年の水路幅40mを保存する北運河。正面の山は、天狗山スキー場。写真-2 北運河と小樽港との接続水路。モニュメント「友達」へは積雪のためカモメが止まらない。 写真-3 北運河傍の運河公園と旧日本郵船小樽支店の建物。りたつう士。写真-4 運河に積もった雪幕が港の方へ流れ始めた。 写真-5 浅草橋から北を望む。手宮・赤岩の山並みが見える。
2016年02月23日
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神宮外苑の中心的な建物に聖徳記念絵画館がある。明治天皇の業績を描いた大きな絵画が展示されている。建物の外壁に、大きいピースの御影石が使用され重厚感を醸し出している。また、ドームを中央に配し、両翼対称の形状。どっしりと安定感ある歴史的な建造物である。 建物の長さが112m、奥行き34mの鉄筋コンクリート造・2階建て。大正15年(1926年)に完成した。外壁の花崗岩は岡山県万世産を使用。建物内部の床に大理石、天井に石膏彫刻と贅を尽くしたものだ。正面玄関前の池は、「カッパ天国」として子どものプールになった時代もあった。 絵画館前の広い道路は、土木学会選奨土木遺産に登録されている。絵画館の竣工と同時にアスファルト舗装されたもので、国内最古級(ワービット工法による)とされる。サクラ御影が使用され堅固な歩道も健在である。 絵画館の回りは、駐車場である。神宮球場で試合がある日などは、大型バスが十数台並ぶ。普通車ならば390台を止めることが出来る。館の維持管理は宗教法人による。絵画館への拝観者はそう多くはない。将来的には新たな館活用があっても良いと思う・・。 写真-1 神宮外苑の中心的な建物、聖徳記念絵画館。 写真-2 御影石の外壁が重厚感を醸し出す。写真-3 ライトアップした絵画館。 写真-4 土木遺産・絵画館前のアスファルト舗装道路。写真-5 As舗装工法を解説する案内板と土木遺産認定証。
2016年02月18日
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隅田川最下流に架かる勝どき橋は、日本で現存する数少ない跳開橋。跳開橋の直下流に、環状第2号線を通す築地大橋が建設中。東京湾花火大会祭当日、晴海通りの勝どき橋歩道は、花火観会場へ向かう人で混雑する。小生は帰宅方法を考え、ビル影から打ち上がる花火で満足する。 東京湾華火祭は、今年で27回目。12,000発の花火を打ち上げる。大玉(直径45cm)12発がこの祭りの特徴だ。かなり遠くでも、その華火は鑑賞できる。当時、遠い台風14号の影響か、風向きが東寄りに変わる。前日までの猛暑は、どこやら・・。 勝どき橋の跳開は、昭和45年を最後に固定・ロックされた。以来45年間、「開かずの橋」まま、築地-月島間の交通を担ってきた。可動部は、22mの両腕が70秒で70度まで上がるという。「万歳」と「カチドキ」を連想させる橋だ。国の重要文化財に指定されている。 勝どき橋の装置は、そのまま保存されている。機械整備と電気工事をすると、稼働させることが出来るが、多額の費用を要する。新国立競技場の白紙撤回で失われた60億円の1/6程度と試算されている。東京オリンピック開催当日、1億円以下に工夫して、跳開・歓迎イベントを実施したら面白いと思う・・。 写真-1 勝どき橋上流の隅田川テラスから、ビル影から上がる花火を観賞。写真-2 築地・はとば公園からライトアップされた橋と花火とを見守る。 写真-3 大玉の華火が打ち上がる度に歓声に包まれる。 写真-4 勝どき橋の可動部・跳開する運転室は健在。 写真-5 跳開した勝どき橋の様子。[勝鬨橋資料館]
2015年08月12日
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西流するネッカー川に美しく架かる赤い石橋がある。橋の名は、建造主の名前からカール・テオドール橋。1788年に架け替えられた7連のアーチ橋。両岸との200mを結ぶ。通称「アルテ・ブリュッケ(古い橋)」と呼ばれている。 ケルト語由来で「荒れた川」を意味するネッカー川は、ライン川の支流で延長が367km。流域が14,000km2。ドイツでは10番目に大きな川だ。日本の石狩川に相当する流域。水運・工業用水・発電にその水が利用されている。かつては、この川を木材筏が流れ、オランダの港まで運ばれたという。 橋の旧市街側に二つの白塔と橋門がついている。城郭の入口だったことが分かる。河岸からみると橋を支えるアーチの大きさを実感する。22mを超えるアーチスパンを持つ石橋は日本には多くない。橋脚上流側は、水を切るように尖がっている。流木対策にもなるようだ。 アルテ・ブリュッケの上流600mに堰が見える。よく見ると左岸寄りに閘門が造られている。中型船舶の航行を可能にしている。流量が少ない時期、堰により水深を嵩上げるため、閘門が必要になる。堰、橋、城には赤色砂岩が使われ、ハイデルベルクの街を印象づける景観を造り出している。 写真-1 ハイデルベルク城からカール・テオドール橋を望む。 写真-2 橋長198mの石造り7連アーチ橋。赤色砂岩の色合いが川面に映える。 写真-3 上流側からアルテ・ブリュッケを見る。 写真-4 径間22mの大きなアーチだ・・。 写真-5 橋から600m上流のハイデルベルク閘門を望む。
2015年07月21日
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城塞都市・ローテンブルクの東側から南側にかけてタウバー川が流れている。川は蛇行しながら丘陵地を削り、渓谷を造った。中世の城壁の約半分がタウバー川に沿って築かれている。古来兵法では、川は防御線である。だが水量は極めて少ない。上流に水力発電所があるのだろうか。 障壁門のコーポツェラー門を下って行くと、タウバー川に架かるドッペル橋に至る。この橋は、14世紀に造られた高さ約20mの石造りアーチ橋。この石橋の上に立つと、城塞都市を望むことができる。天然の要害にローテンブルクがあるように見える。 ドッペル橋は、日本人向け観光パンフレットに「二重橋」と表記されている。日本人には皇居の二重橋が親しまれているためか・・。アーチを2段に重ねているので、2段アーチ橋と呼んだほうがよい。古代ローマの水道橋には、高さ49mを誇る石積3段アーチ橋があるという。 タウバー川沿いに、サイクリングロード「ミューレンヴェク」がある。日本語で「水車道」という。中世の生活に、タウバー川の水エネルギを各所で活用したのだろう。近くでミニ水力発電があるという。「水利経済学習道」なるハイキング道もある。半日歩いてみたい渓谷だ・・。 写真-1 城壁側からタウバー川に架かるドッペル橋を眺める。 写真-2 城塞都市・ローテンブルク・オブ・デァ・タウバーを望む。 写真-3 石造りの2段アーチ橋とタウバー川。 写真-4 ドッペル橋に近いコーポツェラー門。 写真-5 現地で購入したローテンブルクの見取り図。
2015年07月16日
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上越新幹線と忍川とが交差する近くに、土木遺産・堀切橋がある。行田市堤根(つつみね)と鴻巣市袋を19mで結ぶ橋だ。忍川は元荒川の支川であり、利根川水系に所属。一帯は軟弱地盤でもあり、先日の小笠原沖地震の際、震度5弱で揺れた。 遠目には三連のアーチ橋のように見える堀切橋。昭和8年に作られたラーメン橋台橋。この形式は軟弱地盤に向いているという。幅5.2m×橋長19mの橋の先には、旧日光裏街道がある。その街道脇に忍城水攻めに関係した看板と石田堤の名残がある。 レトロの景観が漂う堀切橋。かなり傷んでいるが今も現役だ。主桁はH形鋼6本。親柱や高欄のデザインが特徴的。昨年、「野外アート風」の橋と評価を受け、平成26年度・土木学会推奨土木遺産に登録された。埼玉県内で5件目だという。 堀切橋の西側に「石田堤史跡公園」が整備されている。橋の名称が石田提の決壊が由来とされる。水攻め戦において破れた堤(つつみ)なので、籠城した民が喜んだ様子が想像できる。堀切橋上流の忍川には、古い小さな橋が幾つも架かっていた。写真-1 元荒川の支川・忍川の下流に架かる堀切橋。平成26年度土木学会推奨土木遺産。 写真-2 堀切橋の直ぐ西側に上越新幹線が走る。 写真-3 幾何学的な切り抜きのアート風高欄。 写真-4 下流から堀切橋を見る。石田提と旧日光裏街道が続く。 写真-5 道路脇の石田提とその説明看板。
2015年06月08日
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古代ローマ遺跡の水道橋を思わせる16連のアーチ橋が多々良川に架かっている。西鉄貝塚線の名島川橋梁で、現役の単線鉄橋だ。50m下流には国道3号の道路橋が並走する。名島川とは、多々良川の別称であろうか。 西鉄貝塚駅と市営地下鉄貝塚駅と接続している。名島川橋梁までは、貝塚駅から北へ約1kmの距離。現在の名島橋より10年前(大正12年)に、架設された名島川橋梁。1径間は名島橋の約半分の12mと小さい。その分、アーチ数が多いのだ。両橋は、揃って平成16年に土木遺産に登録されている。 二つのアーチ橋間には、JR臨海貨物線が走っている。この貨物線橋梁が無い風景を想像すると面白い。大小の半円が並ぶ独特な景色が生まれると思う。多々良川の河口を眺めると、博多湾を横断する「香椎かもめ大橋」(全長789m)の近代的な橋があった。平成15年に完成している。 名島川橋梁から上流2.4km付近の多々良川南岸は、南北朝時代に歴史に残る合戦があったところ。多々良浜の戦い(1336年)である。楠木正成・北畠顕家ら南朝軍に敗れ九州に下った足利尊氏が、この合戦で勝利して起死回生した場所。先日、足利氏菩提寺の鑁阿寺を訪れたのも何かの縁・・。写真-1 西鉄電車が走る名島川橋梁を上流左岸から望む。 写真-2 支間12mのアーチコンクリートの状態を観る。写真-3 二つのアーチ橋の間を走る臨海貨物線の鉄橋(青橋)。写真-4 良く見ると名島橋の奥に、3本の橋が架かっている。写真-5 多々良川河口の先に「香椎かもめ大橋」。福岡空港まで約6kmの距離。
2015年05月20日
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福岡市東区を西流する多々良川に土木遺産・名島橋(なじまばし)が架かっている。橋の高欄に御影石が並ぶ。白い石橋のように見える。昔から国道3号線の要所で、今も日当り6万台の車両の通行があるという。各ピアに休憩するためのバルコニーがある。歩道が広く、人に優しい橋である。 7連のアーチ橋は、鉄筋コンクリート造りで、優美な佇まいだ。橋長204mの名島橋は、昭和8年(1933年)に完成した2代目の橋。4年先輩にあたる新潟・信濃川に架かる萬代橋とそっくりで、「兄弟縁組」は済んでいるという。平成16年土木学会選奨土木遺産に登録された。 毎年12月初旬に行われる福岡国際マラソン大会のコースに、この名島橋が入っている。レース後半の34km地点である。選手にとっては勝負の橋だろう・・。希望の橋になるか、落胆の橋になるか。なお、当大会の日本人優勝者は、2004年尾方選手が最後。以後10年間、優勝は外国勢だ・・。 今回の福岡訪問は、アルバイト先での九州出張である。博多駅近くのホテルに宿泊した。仕事を1日目で終らせ、2日目に旧所を少しだけ廻った。九州は延べ5.5年間過ごした勤務地(宮崎+沖縄)だ。地下鉄が整備されとても便利な都市である。 写真-1 7連のアーチ橋・名島橋を右岸上流から望む。 写真-2 多々良川河口から名島橋を望む。 写真-3 御影石の高欄。各橋脚にバルコニーがある。 写真-4 国道3号線付近の多々良川は4本の橋が架かる密集地帯。 写真-5 名島橋の親柱(高さ約3m)と土木遺産の登録プレート。
2015年05月18日
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足利市中心を南北に隔てて流れる渡良瀬川。川には約500m間隔に形式の異なった橋が3つ架かっている。上流から、渡良瀬橋、中橋そして田中橋。さらに2本の鉄道、JR両毛線と東武伊勢崎線とが川を挟んで並走する。中橋付近ではその距離は600mほどの距離に近づく。 3つ橋のうち真ん中にあるので、中橋というのだろう。足利市内において中橋は、渡良瀬橋に次いで2番目に古い橋。昭和11年に完成した三連のタイドアーチ橋(橋長さ295m)。県と市そして東武鉄道3者による共同事業だった。 この橋の歩道部は比較的幅が広いので、渡良瀬川と遠くの山並みを眺めて渡ることができる。人と自転車に優しい橋だ。しかし中橋をめぐって議論が起きている。橋の標高が堤防天端より2mほど低いのだ。 橋建設後に治水計画の改定がなされた。橋の架け替え工事に対し、賛否両論があるようだ。 中橋はいまや、足利市のランドマーク的存在である。レトロなアーチ橋で栃木県の土木遺産になっている。若竹色の力強い橋は、地元自慢の橋だ。夜になると緑色の電球326個によるイルミネーションとなる。渡良瀬川と夜空に浮かぶアーチ模様は、ふるさと景色なのだ。 写真-1 渡良瀬川に架かる中橋を上流左岸から眺める。若竹色(コバルトグリーン)が似合う。 写真-2 中橋から上流の渡良瀬橋を望む。遠く山並は赤城山だろうか・・。 写真-3 両脇の歩道が広い中橋。人に優しい渡橋。 写真-4 東武線足利市駅へ向けて行進する児童ら。 写真-5 緑ダブルアーチのイルミネーション。心落着く緑の輝き。
2015年05月14日
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利根運河が1年で最も華やかなとき、桜の季節が終わる。2015年のカナル景色を記録しておく。利根運河水辺公園付近には160本のソメイヨシノがあり、日当たりが良いので花見スポットになる。東京理科大の学生が昼弁当を広げる。ビール缶がひかる。午後の授業がないのだろか・・。 利根運河は、明治23年に西洋式運河として造られた。国内で初めて、外国技術者の指導を受けて完成させた。延長8.5kmで利根川と江戸川を繋いだ。また当時海難事故の多かった鹿島灘をショートカットする目的もあった。最盛期、年間37,600隻の船が航行した水路だ。 利根運河と呼ばれるようになったのは、比較的新しい。1990年以前の名称は派川利根川である。利根川が大増水した際には、毎秒500m3の流量を江戸川に放水する役割があった。現在は、流域の内排水を流す役割のみ。 2000年に北千葉導水路 (延長28.5km、ほとんどが地下水路)が完成して、治水・利水の大きな役割を終えている。長さ8.5kmの先人の遺産だ。2006年土木学会選奨土木遺産に認定されている。利根カナルは、将来何らかの仕事につく日を待っているようだ・・。日々、遺産の上をランさせてもらっている・・。 写真-1 利根運河水辺公園の春景色。「4月6日撮影したもの」 写真-2 カナル中央に建つ水位観測塔。写真-3 利根運河の斜面。治水面の役割を終えた土木遺産。 写真-4 東京理科大側の桜並木。 写真-5 堤防から顔を出す桜の木。
2015年04月12日
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千葉県と東京都江戸川区との境界に川原という地名があるが、住民はいない。江戸川水閘門または篠崎水門と呼ばれる歴史を感じる水門がある。戦時中の1943年に江戸川分派点(河口より9.3km)に水門と閘門を完成させた。以来、洪水の流れは、江戸川放水路(江戸川)へ向くようになる。 旧江戸川を仕切るために、幅10m×高さ5mのゲート5門を擁する水門である。基礎には松丸太が使われたという。また水門は船を航行させるための閘門も併設している。洪水時の毎秒1000トンを流下させる当初計画は、その役割を終えている。塩水の遡上防止と都市用水の安定供給が主な役割となっている。 閘門は今も、プレジャーボートや水上バスが通過可能である。水門による水位差を解消するために、長さ100m×幅5mの閘室で少し待機する必要がある。上下流に設置されたゲート操作により水面が上下する。閘門を利用するのは、船舶だけでなく、アユも利用し遡上するとか・・。 江戸川水閘門に並ぶように行徳可動堰が江戸川放水路に建設されている。二つの水門・堰によって江戸川下流が治水される。川原一帯の流れは広く緩やかで、ダイナミックな風景である。そして閘門沿いの桜並木が彩を添える。そんな桜の時期に訪れたい場所のひとつ。 写真-1 旧江戸川を仕切る江戸川水閘門(篠崎水門)を右岸から観る。 写真-2 幅10mのゲート5門によって、塩水の遡上防止と上流側水位を確保している。写真-3 江戸川分派点における江戸川水閘門と行徳可動堰を観る。 写真-4 市川アイリンク展望デッキから江戸川水閘門と東京湾を望む。 写真-5 江戸川に架かる京葉道路・江戸川大橋と市川アイリンクタワービル。
2015年03月22日
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民家の間をスレスレ状態で走る「江ノ電」。御存じ、江ノ島電鉄電車は、家の玄関先、神社鳥居前、切通し内をユックリと走るので有名だ。古都とサーフィン、鎌倉と湘南と異なる空気を車内に抱いて、ガタコトとキョウモ走る。一日券600円「のりおりくん」を活用させてもらった。 江ノ電は、明治35年(1902年)藤沢から片瀬間を結ぶ電気鉄道として開業した。110年以上変わらない線路である。鎌倉から藤沢間約10kmに15駅を単線で繋ぐ。駅間の平均距離が700mと短いローカル線だ。そして各駅前後には、特徴的な踏切がある。 昨年度土木学会は、「江ノ電」を土木遺産に登録した。明治期の日本における鉄道の黎明期の雰囲気を今に伝え、市民に親しまれて湘南の風景の一部となっているが、主な認定理由。軌道、トンネル、鉄橋、駅を含む総体が対象となっている。 地元に愛される電車ではあるが問題もあるようだ。線路とりわけ横断路が安全対策と日常生活の板ばさみになっている。警報器や遮断機の無い、いわゆる「勝手踏切」が沿線全体に160箇所以上もあるのだ。安全優先でこの生活路を安易に閉鎖すると津波による避難に支障が出るという。事業者と住民の話合いは続く。 写真-1 国道134号と併走する江ノ電。大地震の津波高さは14mと想定している・・。 写真-2 長谷駅に近い御霊神社の鳥居と通過電車。ここには正規の踏切がある。 写真-3 鎌倉市街地から海岸線へでる場所。ここで車内は湘南の光を浴びる。500形新型車両。 写真-4 七里ガ浜駅近くの「勝手踏切」。電車通過と同時に横断する住民。 写真-5 江ノ電名物の鎌倉高校前の踏切と交差点。海が間近なスポット。
2015年01月19日
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大正期、横浜からサンフランシコ航路へ出航する日、東京方面から汽車が走ったという「汽車道」。現在、桜木町駅と新港地区(赤レンガ倉庫などがあるエリア)とを結ぶプロムナードとして整備されている。日本丸交差点からナビオス横浜ビルまでの500mは、海の道でもある。 明治44年、主に貨物輸送に使用された臨海線の一部が汽車道である。旧横浜駅(桜木町駅)から旧横浜港駅、そして山下埠頭駅へと繋がっていた。現在の万国橋付近で四八方に支線が伸びていた。赤レンガ倉庫にも直結していた。旧横浜港駅のプラットホームが保存されている。 汽車道(きしゃみち)は、人工島と3つの橋で直線上に繋がっている。重い蒸気機関車が運行した土木遺産だ。3つの橋梁は、いずれも明治・大正期に制作されたもの。歩くとレトロな感覚になる。しかし、この道から観る景色は、近未来的なハコモノが多い。 汽車道の路面は、ボ―ドウォークが敷き詰められ、線路がそのまま残っている。レールの軌間は1067mm。標準ゲージ幅である。1989年の横浜博覧会において、この海の道をレトロな機動車が走った。山下公園会場との連絡路として使用された。将来イベントで、再度機動車等が運行するかもしれない・・。 写真-1 万国橋から汽車道を観る。かつては新港地区の物流幹線であった。 写真-2 ランドマークタワーから二つ人工島と3つの橋から成る汽車道を観る。 写真-3 線路は門形のナビオス横浜へ続く。門を抜けると赤レンガ倉庫が見える。 写真-4 明治42年に架けられたトラス橋。アメリカン・ブリッジ社が橋桁を制作。 写真-5 臨海線の支線は、赤レンガ倉庫にも伸びていた。
2015年01月17日
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横浜ランドマークタワーの足元に、二つの船渠(ドッグ)がある。いずれも国の重要文化財に指定される貴重な土木遺産。ひとつ(一号ドッグ)は、海水を引き込み、帆船が浮ぶ。二つ目(二号ドッグ)は、水を抜き空にしてドライ状態に・・。 二号ドッグは、愛称を「ドッグヤードガーデン」と呼ばれ、ジャズなどの演奏場となっている。「旧横浜船渠株式会社二号船渠」が正式名称だ。明治29年に完成した日本最古のドライドックとされている。ドッグ規模は、長さ107m×幅29m×深さ10m。二号船渠は、二号より一回り大きく、明治31年に完成した。 いずれのドッグも、数多く切石(小松石)をギッシリと積み上げ、高さ10mの土留壁が構築されている。土圧と水圧を主にこの石積壁が支えている。西洋式のブラフ積みが採用されたとあるが、クレーン重機がない時代多大な労力を要したであろう。お城の石垣を積む技能集団が仕上げのであろうか・・。 高さ10m以上の大石を支える地盤は、軟弱地盤や砂地盤では石積が壊れてしまう。地盤の堅固な場所にドッグ群が造られていたのだ。ランドマークタワー建設が船渠の近くの場所ならば大丈夫との見当はあったと思う。巨大地震に遭遇しても、揺れは小さく、液状化の恐れはない・・・と二号ドッグをみて想ったしだい。 写真-1 海水を引き込み帆船が浮かぶ第一号ドッグをランドマークタワーから覗く。 写真-2 日本丸メモリアパークとした活用・保存している第一号ドッグ。 写真-3 第二号ドッグはドッグヤードガーデンして利用。石積み状況を直に観察できる。 写真-4 第二号ドッグ底版から渠頭正面を観る。 写真-5 ドッグと海を仕切る扉船の原理。海水の出入により浮沈する仕組み。
2015年01月15日
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成田山の総門から京成成田駅へ向かって、クネクネと続く市道がある。明治後半に敷設された鉄道の跡地だ。本町-上町-東町が出会う曲線エリアに、二つのレンガ造りトンネルが向かい合っている。成宗電車トンネル第一・第二トンネルである。半円形状のレンガ工作物は、周りの景観に溶け込んでいる。 二つのトンネルは、合わせても延長が52mと短い。第一トンネルの長さ12.2m。第2二トンネルの長さ40.8m。しかし幅員が7.3mあり、複線鉄道であった事がわかる。レールゲージ幅は1372mmと広い。現在も2車線道路として利用されている。時折、成田山総門方面へ大型観光バスも通る。 成宗電車機動は、成田山と宗吾霊堂間約5.4kmを結んだ。千葉県で初めての電気鉄道であったが、二つの大戦を経て、1944年に廃止になっている。戦時中の軍事物資難では、何度もこのレールが調達の対象になったという。 トンネルの土被りは薄い。頭上に道路が通っている。特に、第一トンネルは、幅12mのアーチ橋を思わせる。レンガトンネルとして105年間現役である。昨年、土木学会選奨土木遺産に登録された。次世代引き継がれ、役に立つのが遺産である。しかし維持管理と大地震後の点検が欠かせない・・。 写真-1 第二トンネルの北側(成田山総門側寄り)。 写真-2 第二トンネルの上から成田駅へ続く電車道を望む。 写真-3 第一トンネルの南側。アーチ橋のようにも見える。 写真-4 レンガの状態を観る(イギリス積み)。 写真-5 土木遺産の案内看板と登録プレート(緑色)。
2015年01月13日
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埼玉県名栗渓谷に大正期のRC・アーチ橋がある。旧名栗川に大正13年(1924年)に架けられた鉄筋コンクリート造りのアーチ橋(橋長32.3m、幅3.93m)。山深い村に、当時これほどの斬新な橋をわずか半年で完成させたとは驚きだ。村自慢のシンボル的存在になったことだろう・・。 名栗川橋は、飯能駅から入間川沿いに西15km遡った飯能市下名栗地区にある。地元では、飯能市街地・岩根橋から上流の入間川を名栗川と呼ぶ。名栗川橋の上流約2kmには人造湖・名栗湖がある。そのため川の水量が減少している。入間川は1級河川荒川の支川で最長(L=63km)の川である。 江戸・明治を通じて木材で栄えた名栗村。1929年の「荒川の西遷」により舟運が容易になると名栗地方の木材が脚光を浴びることになる。人口増加による家屋増大・多発する火災で、江戸では木材が飛ぶように売れたという。名栗の木材は、西方から筏流しにより江戸に流れ着くので、「西川材」と呼ばれた。 名栗川橋西詰に建つ土木遺産説明板には、橋の建設費を地元住民の寄付金で完成したとある。労働力も住民ボランティアが主体。現在、名栗川橋の通行は重量制限があるものの現役である。御歳90才だ。地域の人々の努力と苦労を今に伝える土木遺産に相応しいものと平成18年に土木学会が推奨した。 写真-1 名栗川に架かる大正期のRC造・アーチ橋を上流左岸から観る。 写真-2 1径間のアーチで支えられる長さ32.3mの道路橋。下流右岸からの眺め。 写真-3 土木学会推奨土木遺産を示す銘坂と説明看板。 写真-4 橋の高欄と名栗川を観る。 写真-5 昭和7年頃に建てられた旧名栗郵便局。当時の繁栄ぶりを残す資料館。
2014年11月13日
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15連の曲弦トラスが連続して、壮麗な景観を創りだす鬼怒橋。宇都宮市石井町を流れる鬼怒川に架かる橋で、昭和ひと桁代(1931年)に架け替えられた。それ以前の橋は、大正4年に船渡し場に代わって作った木橋だった。維持・管理が困難となり、16年後に鋼製トラス橋梁となった。 鬼怒橋は意外と長い。15スパン×平均37.3m=559mの橋長である。今なお、大型以外の車両を通す現役(83才)だ。増大する交通量のために、鬼怒橋と並行して4車線の新鬼怒橋が昭和49年に開通した。新橋は国道123号を通す橋で、栃木県と茨城県とを結ぶ動脈となっている。 鬼怒橋は上部工のみならず、橋全体についてデザイン性に優れているとされる。アーチ状の開口部を持つ橋脚。4個の円形開口部を左右対称に配置した橋門。そして永遠に続くように感じさせるトラスのトンネルは圧巻である。 平成22年度土木学会推奨土木遺産に鬼怒橋が登録されている。栃木県には9施設の土木遺産がある。そのうち4件が橋である。先の戦火や関東大震災を免れたせいなのか。那珂川に架かり、国道4号を通す晩翠橋(那須塩原町)もこの目で見たいものだ。いつの日になるのやら・・。写真-1 宇都宮市内を流れる鬼怒川に架かる鬼怒橋。壮麗な景観を創りだす橋。 写真-2 鬼怒川右岸からトラス橋と特徴ある橋脚を観る。 写真-3 河川敷の中を進む曲弦トラス群。左岸からの眺め。 写真-4 やつれた表情の橋門。御歳82才の貌である。 写真-5 木橋時代の橋脚をそのまま活用している。雑草が無い時代は自由に歩けたと思う。
2014年11月04日
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東京で最も美しい橋と言われる清洲橋。隅田川クルージングでは、貴婦人と説明される。関東大震災の「復興の華」とも呼ばれ、下流に架かる永代橋と共に計画された橋だ。軟弱な中州地区に建設することから、アンカーブロック方式の吊り橋ではなく、「自碇式吊り橋」を採用したとのこと。 清洲橋は、永代橋に比べて細身に見えるが、使用した鋼材は1割以上多く、工事費用も高い。女性らしく美しく見せるためにはお金を多く必要とする。夜の装いは、ピンク色のライトアップ。ネックレスを思わせる飾り灯だ。しかし周囲照明が強いので、橋の存在が薄い。白いドレスを思わせる橋の色が個人的に望む・・。 清洲橋は来年の3月まで、橋の長寿命化事業を行っている。橋桁と橋台を接続する補強工事で、大型ダンパーを16か所設置する工事。今年で85歳を迎えて、なおも百歳以上働いてもらう処置だ。近い将来の大地震の際にも活躍してもらいたい橋である。 全国には橋が70万箇所ある。「橋の社会」でも、急速な高齢化を迎えている。最高年齢は、130歳を超える浜中津橋(大阪市道路橋・トラス橋)だという。適切な維持管理をすれば、末永く使える。橋全体数の約7割は、市区町村の橋だ。地方は財政不足と技術者不足のため、補修に手が回らない。どうする地方創生・・。 写真-1 清洲橋と東京スカイツリーの夜景。箱崎JCTより500m上流に架かる都道474号線の橋。 写真-2 隅田川の貴婦人と呼ばれる清洲橋。ピンクのネックレスをまとう容姿。 写真-3 夕暮れの清洲橋を隅田川上流より望む。 写真-4 2000年土木遺産となった自碇式吊り橋。写真-5 長寿命化工事中の清洲橋。あと15年間使用すると、百歳のお婆ちゃんになる・・。
2014年10月08日
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隅田川の分岐部に聳え立つ「大川端リバーシティ21」。都内ベイエリアにおける高級タワーマンションのさきがけになった一画。中央区佃には、高さ100mを超える高層マンションが8棟立ち並ぶ。陽が沈み、各部屋に灯がつくと大都会の夜景を演出する。 リバーシティ21の上流600mに架かる永代橋は、夜景の名所となっている。永代橋は、現存最古(大正15年)のタイドアーチ橋として、土木学会選奨土木遺産に登録されている。通行位置による橋の分類では、「下路アーチ橋」である。力強いアーチを青くライトアップし、上流の清洲橋の赤色と好対照に光を演出している。 佃地区の下流に続くのは、月島・勝どき地区。先日、2014年の基準地価変動率が発表された。勝どき地区は、東京オリンピックの会場に近くで、地価上昇率が著しい。東京など3大都市圏の住宅地価が6年振りの上昇(0.5パーセント)。しかし、地方はマイナス1.8パーセント。地方創生への道に灯りが見えない・・。 江戸期、佃島と石川島独立していた。いつしか両島がくっつき、嵩上げられて街になる。佃・月島・勝どきの人口は、今や5万人を超えた。広重が描いた頃の永代橋は、西に富士山、東に筑波山、南に江戸前と見渡す名所であった。現在は夜景の名所であるが、停電になる黒色遮蔽物と化す・・。 写真-1 高さ100mを超える高層マンション8棟が建ち並ぶ「大川端リバーシティ21」。写真-2 ライトアップされた永代橋と隅田川下流の夜景。 写真-3 青く輝く永代橋を右岸上流から望む。 写真-4 兜形のタイドアーチ橋を下流左岸から望む。 写真-5 歌川広重・不二三十六景「東都永代橋佃島」。
2014年10月06日
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小岩井農場は、岩手山南麓に広がる美しい放牧地。約3,000ヘクタールという広大な敷地を有する農場だ。その7割近くの面積は雫石町に属する。宮沢賢治が中学生のときこの地を訪れ、「奇蹟」の自然と表現したという。その詩碑が上丸牛舎敷地内の木陰にある。 小岩井農場の開拓が始まったのは、鉄道が盛岡に開業(明治24年)してから・・。火山灰の土壌改良や防風・防雪対策に10年を要している。 農場の名称は、共同創始者である小野・岩崎・井上らの姓の頭文字を採って、「小岩井」とした。三氏はそれぞれ、日本鉄道副社長・三菱社社長・鉄道庁長官だった。 小岩井牛乳は、国内ではブランド品のひとつである。現在、2,000頭の乳牛ホルンスタインを飼育しているが、明治34年(1901年)オランダ原産牛の輸入から始めた。上丸牛舎には、国内最古と言われる煉瓦造りのサイロが現存している。また、明治から昭和初期に作られた牛舎が今も現役で使用されているという。 農場内にある一本桜は、残雪の岩手山を背景に美しい風景を創り出す。夏の強い日差しから牛を守る「日陰樹」として、100年前に植えられたもの。しばしばロケ地に使われている。朝ドラ「どんと晴れ」が放映され、人気スポットになった。毎年4月下旬になると、朝早くから多くのカメラマンが並ぶという・・。 写真-1 裏岩手と呼ばれる山容をバックに明治時代のレンガサイロが建つ上丸牛舎。写真-2 左手が1号サイロ(明治40年)、右手が2号サイロ(明治41年)。いずれも国登録の文化財。 写真-3 木造2階建の一号牛舎。昭和9年築・搾乳牛舎。 写真-4 木製板張サイロが特徴の四号牛舎。明治41年に建つ。 写真-5 残雪の岩手山をバックにした一本桜。[ポストカードより]残暑見舞い申し上げます。
2014年08月19日
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色内埠頭に打ち寄せる波は穏やかだ。手宮・高島から平磯崎までの約3.5kmに渡って築いた防波堤のおかげで波静か・・。小樽港北防波堤(幅7.0m×延長約1.3km)は、明治41年(1908年)に竣工した。106年間、冬場の荒波に耐えてきた現役のコンクリート防波堤だ。 明治時代、石狩湾を締切るように伸びる防波堤と小樽運河が造られた。海岸を埋め立てして、荷揚げを容易にした幅40m×長さ1.3kmの埋立式運河。積荷が増えるに従って、倉庫群が形成したのだろう。運河と北防波堤との長さが同じというのも面白い。現在の運河は、幅20m×長さ1,140mと縮小されている。 小樽港北防波堤は、平成12年度に土木学会推奨土木遺産に登録された。一方、小樽運河倉庫群は、旧手宮鉄道施設と伴に、「近代化産業遺産」(経済産業省)に認定されている。昭和48年頃から10年間続いた「運河戦争」、再開発か保存かの激論は運河の底に沈み、新たな時の流れが漂う・・。 小樽の産業・経済は、エネルギー革新(石炭から石油へ)と運輸革新(船運からトラックへ)によって衰退した。現在は観光産業が主体だ。年間700万人の観光客が訪れ、宿泊延数も75万人を超えた。このうち約1.1割が外国人だという。国別のベスト3(平成25年分)は、香港・台湾・中国の順となっている。 写真-1 小樽港防波堤内の朝焼け。手宮から平磯崎まで南北3.5km続く防波堤。 写真-2 北防波堤から昇る朝日。色内岸壁にて。北の夏の夜明けは4時と早い・・。 写真-3 外国人観光客で賑わう浅草橋付近の小樽運河。 写真-4 ウミネコの鳴き声が響く北運河。やわらかいガス灯が燈る。 写真-5 旧渋澤倉庫。三連の珍しい倉庫、ライブハウス等に使用されている。
2014年07月25日
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豊かな自然が残る利根運河に、桜の季節が巡って来た。運河沿には桜の木が点在している。ランや散歩して、自分流の花見を楽しむことができる。地元では語呂合せで「うんがいい 花見」と呼ぶ。利根川と江戸川を繋いだ8.5kmの水路は役目を終えているが、利根川から江戸川に向け水が流れている。 利根運河は、オランダ人技師ムルデルの計画に基づき民間会社によって造られた。建設当時の形態や線形が残る貴重な運河のひとつ。2006年、土木学会推奨の「土木遺産」として登録されている。また、「オランダ遺跡」と呼ぶ人もいる。 運河としての機能は無いが、数多くの動植物を育んできた。地域の人々にとっても安らぎと潤いを与えてくれる貴重な土手。城・堀を彩る桜の名所は日本各地にある。利根運河も桜の名所だ。周辺には、人によって多くの桜や梅が保存されている。土のみで造られた運河に、桜はよく似合う・・。 写真-1 眺望の丘から利根運河と桜並木を望む。土木遺産の登録証が設置されている。 写真-2 満開の桜の木に陽光が当たる。運河花見はよく歩くことが大切。 写真-3 運河法面と桜並木。自転車通学の生徒が駆けぬける。 写真-4 ひょうたん池のミニ逆さ桜。運河の堤防により、取り残された谷地跡。 写真-5 運河西口の休憩所。お天気しだいで富士山と筑波山が見える。
2014年04月03日
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3万6人もの東京マラソンびとが駆け抜けた春海橋(はるみばし)。春海橋は、東京都中央区晴海と江東区豊洲を隔てる晴海運河に架かる。その青い橋のすぐ海側に赤茶色の橋が寄り添うように架かっている。日焼けした姿で、現場保存されたメモリアル橋だ。 このレトロな橋は、都港湾局が運営していた貨物専用鉄道の遺構である。越中島貨物駅まで5kmの鉄道輸送30年間担った。廃止され25年以上の月日が流れ、肌も荒れている。アーバンな晴海運河に残る奇跡の橋なのだ。 春海橋から下流豊洲側は、春海橋公園と整備されている。少し歩くとIHIの工場跡地に至る。旧船舶ドッグを利用して水上バスが発着する。そのドック先端には、日本では珍しくなった跳開橋がある。アーバンゲートブリッジと呼ぶらしい。人道橋で小規模ではあるが、昔盛んだった水運を思わせる雰囲気がある。 このメモリアルドッグには高さ25mほどクレーンが残されている。過去の「造船日本」の記憶を残すためのモニュメントだ。近くの商業施設「ららぽーと豊洲」の憩いの場所にもなっている。夜にはクレーンにイルミネーションが灯る。地域のミニ・ランドマークになっている。 写真-1 アーバンな晴海運河に架かる春海橋。東京マラソンでは36km付近となる。 写真-2 日の焼けた肌を露出する旧貨物鉄道の春海橋梁。 写真-3 アーバンゲートブリッジ(跳開橋)とクレーンのモニュメントを観る。 写真-4 水上バス・ヒミコがアーバンドッグに到着。 写真-5 東京マラソンの最後尾が春海橋に近づいた様子。
2014年03月03日
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鎌倉幕府の海上流通に貢献した和賀江島(わかえじま)。その築港跡が材木座海岸の沖合に見え隠れする。和賀江島は、鎌倉市と逗子市の境・飯島崎の付け根から西へ向かって、海に突き出した中世の艀(はしけ)とされる。現在は長さ200m程の玉石の浅瀬である。磯辺には史跡石碑が建っている。 中世、人口が急増したが鎌倉。その前浜は水深が浅い。船の座礁が相次ぎ堅固な艀が求められた。貞永元年(1232年)、土木知識を有する僧侶が指揮して築港を造った。以後、多くの船が寄港し、鎌倉の玄間口となる。時の執権は北条泰時。和賀とは材木座(木材の集散地)となる前の地名。 当時築港に使用された石材は、主に酒匂川の河原石と言われている。石碑の近傍には、20cmから30cmの玉石が流れ着いている。鎌倉幕府滅亡とともに物流が江戸に移ると、材木座海岸は寂れメンテナンスも不十分となったと思われる。明治後半には高潮で崩れ水没してしまう。 水面下に埋もれた遺跡が姿を現わしたのは、大正12年の関東大震災だという。巨大地震発生後20分後には大津波が材木座・由比ケ浜を襲い、浜辺の家屋を呑みこんだ。その後、地盤が隆起して、「中世の艀」が蘇った。逗子マリーナが造られると、潮の流れが変わり、先堀が進み今日に至っている。写真-1 飯島崎の付け根に建つ「和賀江島」の石碑。築港に使われた玉石が転がる。 写真-2 和賀江島の石碑と鎌倉材木座海岸。広い砂浜は、油井ケ浜海水浴場へと続く。 写真-3 海上の和賀江島。右側に稲村ケ崎の切通し、左側に江ノ島を望む。 写真-4 由比ケ浜から逗子マリーナと和賀江島を望む。写真-4 砂浜から釣り船が出た。タイヤ式ワゴンが残された。
2014年01月13日
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上野駅と東京駅を結ぶ「東北縦貫線」工事が活況を呈しているJR神田駅。江戸から明治にかけ、神田界隈は指折りの人口密集地であった。JR神田駅南口から北に伸びるのは、どこにでも在りそうな多町大通り。 この多町大通りの地下2mほどに、築130年を経過した神田下水が敷設されている。タマゴ形をしたレンガ積み管で、明治17年から18年にかけて造られた。近代下水道の先兵となった。今も614mが現役だという。平成25年度土木学会推奨土木遺産に登録された。 下水の発展は、コレラの大流行がきっかけとなった。明治15年、東京府の神田・芝などに発生したコレラは、死者5,000人を超える猛威だった。時の政府はこの惨状を前にして上下水道のインフラを急速に整備し始めた。神田下水4kmから始まった下水道は、今や15万kmを超えるという。 2014年秋に開通予定の「上野-東京ライン」では、神田駅は通過駅である。しかし昔からの建物やライフラインが複雑で工事に時間を費やしているようだ。山の手線ホーム脇を走る新幹線の上を通るようだ。二層高架橋梁が東京駅に伸びている。1年後には東海道本線と高崎線・常磐線が繋がる。写真-1 JR神田駅ホームから東京駅方面を見る。「上野-東京ライン」の高架橋工事が進む。 写真-2 京浜東北線の脇を通過する新幹線。その上を新線が走ることになる。 写真-3 タマゴ形レンガ積み管の敷設状況を表記した案内板。写真-4 神田駅南口へ続く多町大通り。左側の歩道地中に神田下水が流れている。 写真-4 神田下水内部の様子。パンフレットより。
2013年12月27日
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日本で最初に様式灯台が造られた観音崎。初代の灯台は、フランス人技師ヴェルニーが設計したレンガ造りであった。三代目となる観音埼灯台は、関東大震災で崩れたものを大正14年に再建した。高さ19mのコンクリート製白色八角形の塔は、青い海と空に輝いていた。 観音埼灯台の眼下には浦賀水道が流れている。一日700隻の船舶が往来する海上交通路である。海幅が最小6.5kmの狭水道で、昔から海難事故が絶えなかった。観音崎は、崎の権現洞に十一面観音像を安置して、海上安全を祈願したことが由来だという。 浦賀水道の潮流の強さと方向は、干満差によるもので時刻・月日で大きく変化する。また水道の両岸長が異なることも影響する。千葉県側の富津岬-舘山洲崎間が約45km。神奈川県側の観音崎-三浦剱崎間が約15km。上げ潮時には千葉県側が、下げ潮時には神奈川県側が速くなるという。 観音崎は、江戸時代から明治にかけて、東京湾防備の要塞があった所。現在は広く県立公園として保存・整備されている。公園の南側の展望園地には、28サンチ榴弾砲の実物大の模型がある。「坂の上の雲」放映に合わせて木材で作ったとされる。日露戦争の際、203高地攻略戦に使われたもの。写真-1 観音崎の「東京湾海上交通センター」。船舶をレーダー等でコントロールしている。写真-2 高さ19m白色八角形の観音埼灯台。螺旋階段を昇ると360°のパノラマが待っている。写真-3 日々変化に富む浦賀水道と房総半島を望む。写真-4 灯台の上から東京湾アクアラインを望む。手前は富津岬の明治百年記念展望台。 写真-4 展望園地に展示されている28サンチ榴弾砲の木製模型。
2013年12月25日
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横須賀新港の公園脇に泊る記念艦『みかさ』。沖合1.8kmに浮かぶ猿島を一望する三笠公園東の一角に鎮座している。『みかさ』は着底しているので、波浪による浮き沈みはない。護岸のような役割を果たしているようにも見えた。しかし2mを超える津波に対してはどうだろうか・・。 戦艦「三笠」は、日露戦争の日本海海戦における連合艦隊の旗艦。小説や大河ドラマの「坂の上の雲」に登場する伝説の軍艦。全長122m、排水量1.5万トンで、西2kmの楠ケ浦に停泊している米軍空母ジョージワシントンの1/7の規模。 「三笠」は、明治35年(1902年)英国の造船所で生まれた。その3年後には、日本海海戦の立役者になっている。以降、日本の戦艦至上主義に陥る。大正12年のワシントン軍縮条約で、三笠は廃艦となる。同年に関東大震災が起こり浸水。着底して曳航できず、横須賀が安眠の地となる。 いま若者のなかで横須賀汐入は、「艦これの聖地」と云われている。アニメとゲームが造り出す仮想世界がブームを呼んでいるのだ。旧海軍の艦船を擬人化した美少女が戦う「艦隊これくしょん」ワールドでは、海事遺産「みかさ」も現役のようだ・・。写真-1 三笠公園の記念艦『みかさ』と東郷司令艦長の銅像。 写真-2 艦首の方角は、皇居またはロシアに向けて設置したとか・・。写真-3 30センチ後部主砲と木製甲板。建造当時はチーク材を使用したとのこと。写真-4 市制75年を記念した造られた組曲「横須賀」の碑と無人島・猿島を観る。 写真-5 『みかさ』右舷の補助砲(8センチ砲)。
2013年12月19日
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葛飾区北部に広がり、埼玉県とS字形に接する水元公園。公園の西を流れる大場川に古いアーチ橋が架かっている。平成25年度土木学会選奨土木遺産に登録された「閘門橋」である。 閘門橋は、明治43年(1910年)に造られた煉瓦造りのアーチ橋。都内に現存する数少ないレンガアーチ橋。アーチの数が上流側と下流側で異なる珍しい土木構造物。上流が4連、下流が6連で、長さ30m×幅3mの人道橋である。 閘門と名がつくが、主たる目的は中川の増水した際に大場川に逆流するのを防ぐ水門の役割。平時には、底の浅い小さな舟はアーチを潜り抜けたものと思われる。昔の名は「弐郷半領猿又閘門」と云う。弐郷とは、現在の埼玉県吉川市と三郷市付近とされ、用水路が繋がっている。 水元公園は、小合溜(こあいだめ)がもたらした自然公園である。小合溜は江戸期(八代将軍吉宗の時代)に、灌漑用水の遊水池として開削された。この湖沼に水元大橋が架かる。スカイブルーの斜長橋で、対岸の紅葉したメタセコイヤが橋をより美しく引き立ている・・。 写真-1 下流側から閘門橋を観る。中央の大きいアーチは直径が3.7m。両脇アーチはその半分。写真-2 大場川上流から閘門橋を観る。午前中に撮影しなければ逆光になってしまう。写真-3 角落しを差し込む様子を再現したブロンズ像。 写真-4 小合溜に架かる水元大橋。長さ68.5mの斜長橋(1973年完成)。 写真-5 対岸は埼玉県の「みさと公園」。小合溜は県境でもある。
2013年12月13日
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江戸川の始流に関宿水閘門がある。利根川120km右岸地点の江戸川への分岐点だ。茨城県、千葉県および埼玉県の3県が出会う場所でもある。江戸川は、ここから約60km先の東京湾へ向かう。 関宿水閘門(すいこうもん)は、(1)流量調整を行う可動堰(水門)と(2)船の運航を可能するための閘門からなる-複合施設。86年前、約10年の年月をかけ昭和2年に完成した。人間の年齢で云えば86歳だ。平成15年度に土木学会推奨土木遺産に登録された。 可動堰は鉄筋コンクリート造りで、大正時代のコンクリートの耐久性を観ることができる。当時国内における大型の鋼製ゲート8門(扉幅8.5m)で、スムーズな連続的開閉ができるどうかが注目を浴びた。動力はディーゼルエンジンだったという。 堰から利根川分岐点までの距離は約800m。この区間では川の量速が弱まり土砂が堆積するので、定期的に浚渫する必要がある。関宿水辺公園には、退役した浚渫船が展示されている。最近の出水は、大量のゴミや大型廃棄物が流れ着くようだ。 写真-1 利根川分岐点から下流800mに造られた関宿水閘門を下流から望む。 写真-2 左岸側に8門のゲートが設備された可動堰。江戸川への流入を調節していた。 写真-3 鉄筋コンクリート製の堰柱と水の流れを観る。 写真-4 水門の管理橋は連絡路として開放。右後方に関宿城博物館が見える。 写真-5 水閘門の左岸に佇む土木学会推奨土木遺産の登録証。
2013年09月18日
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