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1「ここでしか見られない富士山」・・穴場をあなただけに教えます。 天野さん(忍野村在住) 日本の中でも有数な観光地富士五湖、確かに年間たくさんの人が押し寄せます。土日、ゴールデンウィーク、夏休み、冬休みは私の家の、前の国道が渋滞になります。富士山がきれいに見えるときなどは、絶景ポイントは人人人です。観光マップやガイドでも「ここは絶景ポイント」とか「地元の人がそっと教える」とか「ここでしか見られない富士山」なんていう言葉を見ると一斉に人があるまります。ではこの雑誌を見た人だけ教えます。3つの「行ってよかった」ということころ。1・忍野村の二十曲(にじゅうまがり)峠 忍野村に入って、どんどん奥へ進むと、山の方へ入っていく道があります。まだかまだかと自動車で進んでください。びっくりする景色が見られます。また途中で、特産の豆腐を買い、辛い味噌も買い峠で富士山を真正面に見て、ビールを飲んでください。2・西湖の「いずみの湯」ここは最高にきれいな日帰り温泉です。 食事もできるし、ビールもうまい。露天きれいだし、一度入っても外へ出て、湖を見に行き、そこで遊んでまた入るというのもいいです。比較的穴場です。酒屋は河口湖方面から行くと大きな坂の手前にある「かどや」さんがいいです。そこには割引券もあります。3・富士山樹海・・・散策・・といっても。迷子になることはありません。富士山のふもとのパインスパークに車を止め、そこから歩いて、道を登り、途中「仙水」せんずいという看板を右に曲がります。樹海といっても道が整備されています。歩いてみてください。でも一人になるとなんか・・後ろから。では私もこれからこの3つに出かけます。また会いましょう。 写真も添えられ、とてもわかりやすい口調で話をしていると言う感じの記事である。2「どんな人がこの雨の日に東京から来るんでしょう」外川さん(富士河口湖在住)明日は雨という天気予報。梅雨に中休みが一週間も続いています。今日も窓から見える富士山は「今日は晴れるもんね、今日家にいる人は・・大丈夫」なんて手招きで呼んでいるようです。今日は朝から前の国道も東京ナンバーがどんどん走っています。八王子、多摩、品川、練馬が多いですね。家のはるか後ろを走っている中央道も気持ちのよいくらいどんどん車を運んでいます。こんな速い時間に来るのは1・ゴルフ(もっと早いですね)この近くにある富士桜カントリーでは5時スタートなんていう政治家向けのゴルフ場もあります。まるで小金井のゴルフ場のようですね。2位はつりですね。河口湖、山中湖、精進湖、西湖、本栖湖、それに桂川水系・・山中湖から相模湾で続く・・・太公望で一杯です。市内のなんでもない橋の袂でも釣り人がたくさんいます。3位はウィンドサーフィンですね。今西湖がもっとも盛んではないでしょうか。とにかく色とりどりのサーフィンが気持ちよく風に流れています。家から河口湖まで15分山中湖まで15分西湖まで25分精進湖まで35分本栖湖まで45分というところに住んでいますので。毎週といっていいほどどこかの湖の近くを通ります。今日は風の吹き方、気持ちのよさは最高ですね。夏を前にして一番のコンデションでないでしょうか。今日は家族で、仲間で、温泉、バーベキュー、スポーツという1日を過ごすのはどうでしょう。温泉はたくさんあります。今日紹介したいのは。三つ峠のグリーンセンターです。三つ峠は富士山の中継なのでよく出てくるところです。その入り口にグリーンセンターがあり。フットサルの競技場、全天候型テニスコート、温泉施設、コテージ、そばうちなどの体験施設が格安で利用できます。さらの川を上って上流には蛍の里があり、渓流にはホテルが飛び回るのを見ることができます。その上には釣り場はがあります。そこでバーべキューができます。最高ですよ。川のせせらぎ、きれいな空気、スポーツ広場、少しハイキングをしてはどうですか。その上には、滝もあり、滝つぼに飛び込んで遊ぶ子どもたちを見ることもできます。
2007年04月29日
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1・「ここでしか見られない富士山」・・穴場をあなただけに教えます。 天野さん(忍野村在住) 日本の中でも有数な観光地富士五湖、確かに年間たくさんの人が押し寄せます。土日、ゴールデンウィーク、夏休み、冬休みは私の家の、前の国道が渋滞になります。富士山がきれいに見えるときなどは、絶景ポイントは人人人です。観光マップやガイドでも「ここは絶景ポイント」とか「地元の人がそっと教える」とか「ここでしか見られない富士山」なんていう言葉を見ると一斉に人があるまります。ではこの雑誌を見た人だけ教えます。3つの「行ってよかった」ということころ。1・忍野村の二十曲(にじゅうまがり)峠 忍野村に入って、どんどん奥へ進むと、山の方へ入っていく道があります。まだかまだかと自動車で進んでください。びっくりする景色が見られます。また途中で、特産の豆腐を買い、辛い味噌も買い峠で富士山を真正面に見て、ビールを飲んでください。2・西湖の「いずみの湯」ここは最高にきれいな日帰り温泉です。 食事もできるし、ビールもうまい。露天きれいだし、一度入っても外へ出て、湖を見に行き、そこで遊んでまた入るというのもいいです。比較的穴場です。酒屋は河口湖方面から行くと大きな坂の手前にある「かどや」さんがいいです。そこには割引券もあります。3・富士山樹海・・・散策・・といっても。迷子になることはありません。富士山のふもとのパインスパークに車を止め、そこから歩いて、道を登り、途中「仙水」せんずいという看板を右に曲がります。樹海といっても道が整備されています。歩いてみてください。でも一人になるとなんか・・後ろから。では私もこれからこの3つに出かけます。また会いましょう。 写真も添えられ、とてもわかりやすい口調で話をしていると言う感じの記事である。2・「どんな人がこの雨の日に東京から来るんでしょう」外川さん(富士河口湖在住)明日は雨という天気予報。梅雨に中休みが一週間も続いています。今日も窓から見える富士山は「今日は晴れるもんね、今日家にいる人は・・大丈夫」なんて手招きで呼んでいるようです。今日は朝から前の国道も東京ナンバーがどんどん走っています。八王子、多摩、品川、練馬が多いですね。家のはるか後ろを走っている中央道も気持ちのよいくらいどんどん車を運んでいます。こんな速い時間に来るのは1・ゴルフ(もっと早いですね)この近くにある富士桜カントリーでは5時スタートなんていう政治家向けのゴルフ場もあります。まるで小金井のゴルフ場のようですね。2位はつりですね。河口湖、山中湖、精進湖、西湖、本栖湖、それに桂川水系・・山中湖から相模湾で続く・・・太公望で一杯です。市内のなんでもない橋の袂でも釣り人がたくさんいます。3位はウィンドサーフィンですね。今西湖がもっとも盛んではないでしょうか。とにかく色とりどりのサーフィンが気持ちよく風に流れています。家から河口湖まで15分山中湖まで15分西湖まで25分精進湖まで35分本栖湖まで45分というところに住んでいますので。毎週といっていいほどどこかの湖の近くを通ります。今日は風の吹き方、気持ちのよさは最高ですね。夏を前にして一番のコンデションでないでしょうか。今日は家族で、仲間で、温泉、バーベキュー、スポーツという1日を過ごすのはどうでしょう。温泉はたくさんあります。今日紹介したいのは。三つ峠のグリーンセンターです。三つ峠は富士山の中継なのでよく出てくるところです。その入り口にグリーンセンターがあり。フットサルの競技場、全天候型テニスコート、温泉施設、コテージ、そばうちなどの体験施設が格安で利用できます。さらの川を上って上流には蛍の里があり、渓流にはホテルが飛び回るのを見ることができます。その上には釣り場はがあります。そこでバーべキューができます。最高ですよ。川のせせらぎ、きれいな空気、スポーツ広場、少しハイキングをしてはどうですか。その上には、滝もあり、滝つぼに飛び込んで遊ぶ子どもたちを見ることもできます。
2007年04月26日
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その学校には名田さんという人がいて「新宿を知りつくした男」として名が知られていた。彼が一番目をかけたのが靖くんだった。コンピューター技術は抜群で、大人顔負けであった。ホームページの立ち上げも彼の手によれば朝飯前の話である。「靖元気・・お母さん今日いいことがあった、現実的な話だよ。こっちの方で雑誌作ってみないかと言う話があるの、地元のCATVが出資して作った旅行関係雑誌を作る会社「FUJIYAMA」と言うところに来てくれないかというの。二つ返事で引き受けたの。」すぐに返事が来た「大丈夫東京の力及んでいない?」「大丈夫よ、こんなちっぽけな会社全然気にしていないみたい」「ふーーーん」「それでね靖に手伝ってもらいたいことがあるの・・」「何・・」 ここまで話した所で健二さんが「わかりました」「そうわるいわね」「ここに勤めます」「はあ廃刊になるかもしれないのよ」「いいじゃないですか僕だって今つきあっている人とダメになりそうなんです・・」「なんかいろいろありそうね、場所を変えましょうか?」「はい・・」社員に別れを告げて、町に出る。まだ5時前だけど酒好きの多いこの町開いている店は多い、部類の酒好きでも有名な木下さん。行きつけの店に行く「路花」である。5:00は、もうすぐ近い。木下さんと健二さんそれに木下さんの息子靖さん。この3人が今や全国の地方旅行雑誌の中で発行部数最高を誇る「FUJIYAMA」の富士山フリータイム・その発行部数は40万部を越え毎月増刷、増刷。しかしスタッフは1名増えただけ。特別企画部長 木下 靖さん20歳だ。いったい路花でどんなことが話されたんだろう。もうすぐ5:00。 4:56分雑誌 雑誌富士山フリータイムが御殿場市にある、「FUJIYAMA」の企画室で最終の校正に入る。「いいできだ」2度目の奇跡を起こした木下さんの出す雑誌「富士山フリータイム」も2年目となる。10月12日発行2周年記念 特集 「日本再発見 地元の人が教える優しさあふれる富士山周辺の旅総特集」健二さん含め、20人のフリーの記者が歩いて集めてきた記事です。生きている記事です。それがが特集で紹介されている。
2007年04月25日
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森谷健二さんから長い手紙が来た。「梶原さんとようやく結婚することにしました。」彼女はその後、介護施設をやめ彼と一緒に全国をまわる旅に出た。仕事も兼ねているので真剣である。でも今までの雑誌の紙面を埋めるだけでなく。テーマを決めて、記事を書くことにした。テーマは「老人が元気な町」「老人に学ぶ」「老人力を感じる町」そうだ。でも収入がはいらないと困るので。3つの月刊誌に記事を送っている。その一つが「富士五湖フリータイム」ジモティーがすすめる富士山周辺である。 ジモティーとは地元出身の教師と言うことである。この「富士山フリータイム」は富士山周辺のCATVが出資してできた出版会社「FUJIYAMA」が出す雑誌です。今毎月1万部部の発行、1冊300円という値段。ページ数は100ページにもなる。広告も入れると130ページにもなる。これにはおもしろい企画がある。まず情報源が全て地元の人である。さらに協力者として小中学校の先生を活用していると言うところである。広告収入はレストラン、食事どころ、ペンション、民宿、旅館、ホテル。まあこれは当たり前の事です。別に広告主はこんなところが多いでしょう。でも向こうから「今度2月号に載せて下さい」とお願いしてくる会社もそうないでしょうと語る「FUJIYAMA」社長木下さん。(45歳)4時50分から企画会議の席上「2004年10月に始まった。この月刊誌富士リータイム発行の現在の状況を企画部長から発表してもらいます。」「はい、お手元の資料をご覧下さい。発行部数は10000万一冊300円ですので、300万円の収入となります。10月創刊号より全て完売になっていますのでこの数字は変わらないでしょう。決算書を見て下さい。この半年の間の決算書です。設備投資代や印刷代、人件費、紙代、その他を含めると1回の発行で200万円は軽く超えます。従業員の給与(スタッフ5名。社長兼営業課長 部長兼企画部長 発行責任者兼印刷担当 専属カメラマン1名 雑用スタッフ2名)の月額給与はゆうに200万は超えてしまいます。それほ補填するのが我が社の存続を左右する広告収入です。発刊当初は、社長の人脈や地元の人たちの「はじめだから」というご祝儀広告で支えられ広告収入が200万円を超えたのですが。11月号12月号は150万 120万と減っております。発行するために200万給与が200万円では差し引き赤字となっています。みなさんも2か月間給与0という悲惨な状況はご存じだったでしょう。しかしそれがあの男のアイディアで何と・・・」熱弁になる、ハンカチで涙をぬぐっている人もいる。社長も回転いすを窓の方に向け、富士山の勇姿を見ながら「ありがとう」とつぶやいた。その男は12月の中頃寒い夜、この「FUJIYAMA」のプレハブ社屋の戸をたたいた。彼こそが渦中の人森谷健二さんでした。「ここの雑誌読ませてもらいました、是非専属の・・」「まあ入って」赤字続きのこの会社の出資者CATV各局からの激しい問い合わせ、企画への注文、営業努力を正月返上で・・・・その対応に社長は追われていた。「やめようか」とまで真剣に考えていた。地元の山中湖出身で、東京の大手の観光会社が発行する雑誌をいくつ手がけた木下恵里さん。「木下の軌跡」と呼ばれた大きな雑誌の復活。そのことは出版界の伝説となっている彼女の救った雑誌「ディスカバリー」今は月刊50万部の発行。資本金3億円 純利益 半期で5億を超えている。彼女はその会社にはもういない。会社のカリスマ社長交代劇で反対派にまわると、社の中にいられない激しいパッシングを受ける。他の会社への転職を考えたが、出版界のドンに逆らった女ということでどこも芳しい返事をしない「軌跡の木下」だからどこの会社もほしい、けど売り上げより今の立場を守りたい保守派によってついに、東京から追い出される。しばらく地元の山中湖の実家のペンションで働いていたが、納得出来ないもんもんの日々が続く。ある日、お客さんと暖炉のそばでコーヒーを飲みながら話をしていた時のこと・・・「まったくまいっちゃいました。予約を入れたホテル、ひどいのなんのって、お湯は出るけど温度調節が利かず、部屋の掃除がしていないのかたばこ臭さも抜けず、食事もどこかの定食屋の方がまし、値段だけは人並みなんだから」「情報ほしいわね、正しく、親切な」「そうそう地元のおじさん、そこのセブンイレブンのおじさんに聞いたらさあ今、あのホテルの昼食のビュッフェにワカサギ料理が出ているんだって。それもね今朝とれたやつ」「雑誌よりおじさんね」「まだあるのよ・」次々と雑誌を批判する。そんな様子を見て木下さんはひらめいたことがあった。食事の片づけをし部屋に戻る。まずすることは、東京のフリースクールに通っている息子にメールを打つことである。不登校やひきこもり、虐待を受けた子が通ってくるところである。木下さんの息子 靖くんも小学校5年生の時から不登校になり、この3月に中学校で一人だけの卒業式をやり一応私立の高校に席があるがほとんど行っていない。
2007年04月24日
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午後4時30分を過ぎた。大きな木の下に5人はいた。まず風を防ぐことだ。いいか持っている服を全て着るんだ。そして、気をつけたいのは汗をかいているところはきちんと拭くこと。それが凍ると凍死するぞ。「凍死?まさか」日本陸軍がソ連との戦いに備えるため、青森県と岩手、秋田にまたがる八甲田山で、陸軍の冬季演習が行われた。通常ならきちんとした幕営地があり、山川他の大きくした建物だが、寒さはしのげる。寒さは体力をどんどん消耗させていく。その小屋へ到着したときのことだ。その小屋が吹きさらしの小屋になっていたのだ。先客が寒さのため壁や床をはがして燃してしまったんだ。そこから体力は消耗し歯が強い雪と嵐の中で死んでいく兵士。汗をかいていた兵士は胸をかきむしり死んでいく。急激な気温の低下で汗が凍ってしまったのだ。みんなは汗を拭いた。そこへ新聞紙を入れるんだ。この方法は私も知っている。重ね着はその服の間にある空気が暖まるのだ。そして外気と差が出るのである。次ぎに手足の先を冷やさないように。体温を維持するには手先を足先を冷やさないと言うことだ。手袋、靴下、襟巻き、毛糸の帽子は大切なのだ。「それに、ホッカイロあればなあ」人間は熱量を出し、36度までもっていく。加熱するには何かが必要なのだ。後藤さんは今朝の事を思い出した。娘が「何度も言っている富士山だけど雲行き良くないよ、ホッカイロ持っていけば「何いってんのよ大丈夫、山小屋は今ストーブでホッカホカ、それに荷物多くなるとね」「もう・・・」「あれ、ザックのサイドに手を入れてみた。「ホッカイロだ」「ほらねやっぱ必要でしょ」とまみがはさんであった「ありがとう」ホッカイロが12袋あった」「助かるなあ」「じゃあ」「まってそれは最後に使おう・・夜は零下20度以上になるぞ」5人は顔を見合わせた。「お腹空いたなあ」「それだよ。問題は」一番若い森さん。「どうした食糧の予備買ってきてあるんだろ」「じつは重たかったのであまり持ってこなかったんだ。」「でもザック重たいと嘆いていたんじゃないか」「でも・・・・」ザックを開ける町田さん「あれ・・ワイン、焼酎、日本酒のパックだらけ」「おいおい」「すみません」「いいんじゃないか」と町田さん。体の中から暖めると言うことである。これは有効である。アルコールはすぐに燃焼して体を温める。その上緊張をほぐしてくれる。何か食べるものないか。とりあえずある物を出してみよう。「それにしても寒くなった」着ぶくれで大きくなったみんな。手袋、襟巻き、などみんなしている。酒も飲んでいる人もいる。「何これだけ・・」お米、缶詰、チョコレート、砂糖。だけである。「仕方がない今夜は山小屋だったものな」でも彼らは助かったのである。想像してみて下さい。リーダーの村田さんの的確な指示。酒を持ってきたこと。そしてカロリーの高い食料があったこと。「チョコレート」である。
2007年04月23日
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午後4時30分を過ぎた。大きな木の下に5人はいた。まず風を防ぐことだ。いいか持っている服を全て着るんだ。そして、気をつけたいのは汗をかいているところはきちんと拭くこと。それが凍ると凍死するぞ。「凍死?まさか」日本陸軍がソ連との戦いに備えるため、青森県と岩手、秋田にまたがる八甲田山で、陸軍の冬季演習が行われた。通常ならきちんとした幕営地があり、山川他の大きくした建物だが、寒さはしのげる。寒さは体力をどんどん消耗させていく。その小屋へ到着したときのことだ。その小屋が吹きさらしの小屋になっていたのだ。先客が寒さのため壁や床をはがして燃してしまったんだ。そこから体力は消耗し歯が強い雪と嵐の中で死んでいく兵士。汗をかいていた兵士は胸をかきむしり死んでいく。急激な気温の低下で汗が凍ってしまったのだ。みんなは汗を拭いた。そこへ新聞紙を入れるんだ。この方法は私も知っている。重ね着はその服の間にある空気が暖まるのだ。そして外気と差が出るのである。次ぎに手足の先を冷やさないように。体温を維持するには手先を足先を冷やさないと言うことだ。手袋、靴下、襟巻き、毛糸の帽子は大切なのだ。「それに、ホッカイロあればなあ」人間は熱量を出し、36度までもっていく。加熱するには何かが必要なのだ。後藤さんは今朝の事を思い出した。娘が「何度も言っている富士山だけど雲行き良くないよ、ホッカイロ持っていけば「何いってんのよ大丈夫、山小屋は今ストーブでホッカホカ、それに荷物多くなるとね」「もう・・・」「あれ、ザックのサイドに手を入れてみた。「ホッカイロだ」「ほらねやっぱ必要でしょ」とまみがはさんであった「ありがとう」ホッカイロが12袋あった」「助かるなあ」「じゃあ」「まってそれは最後に使おう・・夜は零下20度以上になるぞ」5人は顔を見合わせた。「お腹空いたなあ」「それだよ。問題は」一番若い森さん。「どうした食糧の予備買ってきてあるんだろ」「じつは重たかったのであまり持ってこなかったんだ。」「でもザック重たいと嘆いていたんじゃないか」「でも・・・・」ザックを開ける町田さん「あれ・・ワイン、焼酎、日本酒のパックだらけ」「おいおい」「すみません」「いいんじゃないか」と町田さん。体の中から暖めると言うことである。これは有効である。アルコールはすぐに燃焼して体を温める。その上緊張をほぐしてくれる。何か食べるものないか。とりあえずある物を出してみよう。「それにしても寒くなった」着ぶくれで大きくなったみんな。手袋、襟巻き、などみんなしている。酒も飲んでいる人もいる。「何これだけ・・」お米、缶詰、チョコレート、砂糖。だけである。「仕方がない今夜は山小屋だったものな」でも彼らは助かったのである。想像してみて下さい。リーダーの村田さんの的確な指示。酒を持ってきたこと。そしてカロリーの高い食料があったこと。「チョコレート」である。
2007年04月21日
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午後4:00山梨県の富士登山のグループが下山時刻午前11時を過ぎても下山が確認出来ず。捜索願が出る。11月下旬のこと。愛知県一宮市の山岳同好会「岳」(がく)のグループだ。5人。リーダーは、村田さん(49歳)サブは後藤さん(38歳)食事係が三島さん(40歳)テント係りが、町田さん(45歳)あと連絡通信係が、森さん(25歳)である。後藤さんと三島さんは女性。村田さんは山岳暦25年のベテランである。あとの5人は2~3年の経験しかない。その三島さんが林道から数メートル滑落し、運悪く右足を骨折したのは。11月23日午後4時ちょうどくらい。富士山の4合目辺りしかしよくわからない。雪が降ってきた。富士山は100メートル上に行く事に1度気温が下がるという。真夏の頂上でも0度近くなるのだ。私の住んでいるこの富士吉田も、ちょうど富士山の傾斜の所に住んでいるので。私の勤務校も標高が800Mにもなる。だから私の家から見る富士山は、2900mになるという計算だ。つまり29度違うと言うことになる。ではチョモランマ(エベレスト)は8000越えているから、すごいねえマイナス50度くらいになるなんて言う人はこの際無視したい。グループのリーダー村田さんは決断した。今から助けを求めに行っても、この雪の中だ道に迷うと言うことも考えらら留。携帯も圏外なので、ここはここで幕営しよう。幕営とはここで一晩を過ごすと言うことだ。体感気温はすでにマイナス10度を超えている。装備は簡単にしてきた。今頃は麓の河口湖の温泉に入っていることだろう。暗くなり始めてきた。そこで村田さんが指示したのは寒さから身を守ると言うことになる。寒さは人間の神経を麻痺させ、うとうと眠りの陥らせてしまうのだ。私が日本で2番目の高峰、北岳に登ったとき、3192m。こんな話を聞いた。ここからそうだなあ100M先に亡くなった人がいる。断言して言うその先生は何度この北岳を昇るが真冬だけはものすごく慎重に登るそうだ。頂上近くになると。3000Mを越えればなおさらだか「胸先八丁」と言うところがある。もう少しで頂上に着くと言うところで急にまわりに何もなくなり。樹木も、岩も、・・・自分の体がさらけ出すようなところがある。そこで急に突風が吹くのである。これは私も体験した。何でもないような所だ、前を見ると仲間のザックが見える。でも自分の所に突然横殴りの風が吹き付けるのだ。5cmぐらい浮き上がるようになる。びっくしする、柔道で背負い投げをまともに喰らった時のような感じである。その時は霧であった。その霧が急に晴れたとき目の前の墓標を持てたじろいた。1992年ここに死す。享年・・・歳。さらに先生は話を続けた。「あれは確か北アルプスの燕での出来事だ。真冬の登山で、猛吹雪のために矢もなく雪を掘り、大きな横穴を作り、寒さを防いだ。しかし、ものすごい吹雪で雪がすぎに穴の中に入ってくる。山に入って5日目体力もだいぶ消耗し、食糧も残り少なくなっていた。火を起こそうにも燃料の白灯油がない。寝袋の中でがたがた震えていた。ごおおおごおおおとものすごい吹雪が耳をつんざいた。その時だ、寝ていたかと思った一人の仲間が急に「暑いなあと」なんでもいいながら、服を脱ぎだしたではないか。「おい」「おい」と言っても聞かない。「ああまさか」その時の体長はエベレストの登山隊の一団が吹雪の中、遭難した。その時の捜索隊が3日後に見た物は、素っ裸になって死んでいる一団であった。「恐怖のため、に気が触れるのです。これは医学的にも解明されていません。ただ極度のストレスが生むといことだけです。わかっているのは」そのことを本で読んでいたリーダーは思いきり顔面を殴った、何度も何度も殴った。「ああああ」と気がついたのは10分後。もしその時一人でいたら・・・」「先生その人は助かったのですか?」「ああそれは私だからな」
2007年04月20日
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「で・・どこでクロワッサン」と「それは私が話をする」眠るのも忘れているチャンピオン山口さん。先に聞きたいのだが・・流石さんウイグル族はどうでした「それはきれいな子ばかりでした。日本に連れてきてテレビへ出せば一躍人気者になるでしょう。」黒髪で凛々しい眉毛、黒い瞳。・・思い出すように言う。何食べてました「はい、麺類とか、パンとか」「歴史ってこの食べるもの、着る物、住むところなどが基本じゃないでしょうか。宗教もその地域の風土にあったものに育っていくのですね。イスラム教は砂漠の宗教、仏教は米作地帯の実りの多い所に生まれた宗教。キリスト教は・・・ここが難しいのだが・・「宗教のこと話をすると1ヶ月ぐらいかかるから・・またあとで」「そのパンのこと」「おおようやくクロワッサンか」話はオスマントルコ帝国の時代にさかのぼる。「トルコ族最大の種族オスマン族の国ですね。第一次世界大戦終了の時まで続いた国ですね」「そう、かのヨーロッパの強国も恐れた国です。何しろウィーンの近くまでせまったのですから。その時です。ウィーンのパン職人を密かに母国に連れて帰り、パンを作らされたのです。ヨーッロッパ人が恐ろしいのは「月」なのです。そうクロワッサンはその月の形を表しているのです。パンの形でもヨーロッパ人を震撼させていたのです。それを知らずに食べていますね・・。こんな話が朝まで続いた。 私(筆者)は中学に進みさらに社会が好きになっていった。社会科も好きになる。歴史の人物を覚えるのに教科書にない人名をどんどん覚えた。歴代の天皇を覚えたり、世界の王家の名前を覚えた。
2007年04月19日
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午後4時45分・・テレビ東京の人気番組テレビチャンピオンの「歴史クイズ王」の収録控え室に5人のメンバーがやってきた。大学生、大学教授、塾の講師、中学校の社会の先生、郷土史家というその道を究めた人が集まった。ものすごく詳しくいろいろなことを知っている。マニアである。収録後テレビチャンピオンになった人を祝おうと、近くのホテルで「朝まで話そう」ということになる。緊張がとれたせいか、お互いに酒も入ったせいもあり饒舌になっていた。最後のあの問題きつかったなあ。と言うところから話は始まる。「クロワッサンはなぜ月形をしているか」である。決勝戦で争った大学教授と中学の先生。最後の解答したのは中学の教師、山口さんだった。直感でわかったんだが・・という塾講師井上さん。「月形だから、イスラムに関係ある」「だれでもわかること」という大学生小林さん。「俺は、パンというところに着目して。アジアでなくヨーロッパに関係あるとおもった。」「私もそうだが、かつて私はシルクロードを旅したことがある。」と郷土史家の流石(さすが)さん。「へえ」と酒を飲む手が止まる。「そうもう10年くらい前になるが、中国の西安・・つまり以前は長安と言われたところ。シャカに説法だが。8世紀頃に作られ始めたアジアとヨーロッパの交通路である。」歴史マニアの目が光り出した。この話は朝までになりそうだと言うことで風呂を浴びてから再開ということになる。 シルクロードの道は一本と言うことはなく、何本もあった。陸路だけでも「絹の道」「草原の道」があり、海にも「海のシルクロード」ができた。その壮大なシルクロードをNHKが放送したときは「シルクロードブーム」まで起きた。今もNHKでさらに取材をすすめて新シルクロードを放送している。歴史家にとってはあこがれの地である。流石さんは2ヶ月かけてシルクロードを東から西に進んだ。西安まで飛行機で行く。そのあと陸路で一団を組総勢10名車3台で出かけた。車は世界の砂漠地帯、草原地帯で抜群の人気があるトヨタのランドクルーザーである。とにかく悪路に次ぐ悪路、故障したら命にかかわる。地図帳があれば広げると話が早い。西安から西へ進むとゴビ砂漠がどーーんと広がる。ここはすでにシンチャンウイグル自治区である。人口の92%を占める漢民族のこの国には約8のは少数民族が住む。少数民族と言っても1億人以上いるのだから、さすが中国である。少数民族のベスト7は中国南部に住む、チョワン族。北部に漢民族と混じり合って住む満州族。黄河の源流近くに住むホイ族。南部に分散して住むミャオ族。西部の広い地域に住むウイグル族。モンゴルを取り囲むように住むモンゴル族。7位はチベット高原に住むチベット族。漢民族は中国の沿岸部から内陸にかけて住み。古代の王朝の勢力範囲に住んでいることがわかる。今経済成長と叫ばれているのも漢民族の住む範囲に限られている。その民族のうち満州族とミャオ族以外は自治区を持っている。コワンシーチョワン族自治区、ニンシャホイ族自治区、シンチャンウイグル自治区、チベット自治区、内モンゴル自治区である。シンチャンウイグル自治区にはウイグル族が住みイスラム教を信じている。敦煌までは人もたくさんいるがその先はひたすら砂漠地帯が続くのであるタクラマカン砂漠が近づくもうう「死の世界」である。彼はカシュガルまで行きそこからパキスタンに入る。シルクロードの幹線道路から離れたのである。フンザへ行きたかったのである。・・「そうですか」彼もシルクロードの旅の話は3時間も続く。マニアは食事を取りながらも目と頭はそちらを向いている。
2007年04月18日
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4:00PM4:00の時報をラジオで聞く。NHKの午後のロータリーを滋賀県長浜市にある養護施設「やすらぎの苑」で聞く介護士の梶原 知子さん(28歳)徳島県出身。彼女は今大きな悩みを抱えている。私が彼女と会ったのはその悩みをそろそろ解決しなければならない様な日だった。決断が近づいていた。それは自分の結婚のことである。相手は旅行ルポライター肩書きはいいが、フリーで働き、自分の好きなところへ言ってはエッセイを書き。旅行会社に売り込む。「旅の手帳」「旅行読売」「旅」などのメジャーでもたまに専属の作家が規定のページを埋めることができないときもある。そういうときにこのフリーの人たちが紙面を埋める。時には実名がでるが、ほとんどが匿名である。1つの記事で3000円くらいである。休憩室にある自動販売機から大好きな午後の紅茶を選ぶ「しまった冷たい方を選んじゃった」季節は12月。琵琶湖の見えるこの施設。湖面にびっしりと霧がかかる日が増えた。故郷池田町に彼が戻るのは年に数回。幼なじみで高校まで一緒だった。高校時代は休みを見つけては全国を旅行していた。土日、長い休みの時は音信不通となった。名前は森谷(もりたに)健二さん(28歳)特技は寝だめできること、同じもの1週間食べても大丈夫事。列車なら5日間ぶっつづけでも乗れること。「今はどこ?」という私の問に、午後の紅茶で一息入れた後「さあ、絵はがきでは北海道になっている」京都が好きな梶原さん何から何まで一風堂さんのカバンである。鉄の球を入れても破れない生地、シンプルな作り。京都の修学旅行へ行くと必ず引率の先生が居残りの先生に頼まれるカバンである。そのトートバックからファイルを取り出す。「もう2冊目です。」「ええじゃあ500枚以上・・」「ハイまだ整理していないのが家にあるから、1000枚近くになります。」彼が本格的なフリーのルポライターのなったのは25歳の時。それまでは京都の嵯峨野近くの民宿「大覚寺道」で働いたり新京極に歩いて1分にある「京都セントラルイン」に勤めていた。ここは京都の四条河原町近くにあり、とても交通の便がいい。祇園まで歩いて10分くらいである。ここは私も京都の定宿にしている。1泊8000円で朝食付き朝食はそのホテルの1階にある24時間営業のコーヒーショップなので、朝早くからうまいコーヒー付の朝食が食べられる。京都へは何度も行きました。一番好きな町の1つです。 健二さんはフロントの観光案内係です。私の旅の原点も京都にあると断言してもいい。修学委旅行へ初めて行ったのは中学校3年生の時。中学校の修学旅行はたぶんあの当時から、内容はほとんど変わらないと思う。大きな学校だったので、前団、後団に別れて行ったほどだ。それにしてもまわるところは全体では二条城、清水寺、金閣寺、銀閣寺、三十三間堂、東寺というところですかね。「さあ早く早く」「静かに」「遅いぞ」「お土産を買う時間は20分」「係り会議は5時15分から」「消灯を守れよ」「お変わりは自由」などとずっと行っている間に言われたと思う。
2007年04月17日
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映画のことについては私もいろいろとあるが、別にジャンルがあるわけでもなく、特別な男優や女優がいいというのでもないけれど、なんとなくまとめてみるとやっぱり出ていつ人は限られているなあと感じる。私が生まれて育った町にも映画館があった。かつては映画が娯楽時代の象徴だったことを物語るかのように3つの映画館があり。25最後に最後の映画館が閉じるまで、きとんと座れる椅子を探すのに苦労しながらも一人二人の観客のために映画が流れた。小学校時代は怪獣映画がものすごく人気で、ガメラシリーズ、ゴジラシリーズなどを朝から並んで見た物です。東京に住む大学時代は、時間があったらばかりでなく時間を作っては映画をも見ました。住んでいたのが小金井、小平市だったので中央線を使って映画を見に行きました。父親に「ロミオとジュリエット」「世界残酷物語」を見に連れて行ってもらったことを鮮明に覚えています。たしかジュリエットがオリビアハッセイだった記憶があります。新宿、渋谷、池袋、銀座、中野、吉祥寺、立川、国立、三鷹、八王子などによくいった。金があるときにはロードショーを見に行き、ないときには少し時間が経ったあとの2本立てのロードショウを見ました。組み合わせもいろいろでサスペンスと喜劇だったり、宇宙ものと現実物だったりしました。「ぴあ」という雑誌を片手に映画館を探しました。映画館で東急名画座を知っている人はなかなか通です。古今東西の名画を1本300円で見せてくれました。渋谷駅の東急ビルの6階ぐらいだったかな・・今はありません。往年の名作「屋根の上のバイオリン弾き」を立ち見で見ました。ロシアのユダヤ人の貧しくもたくましい生き方を淡々と描いた映画です。スティーブ・マックウィーンの「大脱走」タイでの日本軍によるイギリス兵虐待とそのプライドの高さを描いた「戦場に架ける橋」映画のサウンドトラックが聞こえてきそうです。ダスティンホフマンの「卒業」ロバートデニーロの「タクシードライバー」スティーブンスティルバークの監督作品「アメリカングラフティ」若き日のジョージルーカス作品「ジョーズ」などの映画をむさぼるように見ました。何でも見てやろうという気持ちでだんだんと映画にのめり込んでいきました。新宿プラザで見た「スターウォーズ」に感動し。ミラノ座で見たブルースリーシリーズを見てその気になったりしました。三鷹のオスカーでは4本立てと言うのがあり。それも400円ぐらいだったかな。貧乏学生の救世主でした。4本にもなると昼をはさんで見るのですが腹も減ったが映画も見たいと言う映画好き学生でした。 映画の好きな友だちと池袋へ「ゴットファーザー」「ゴットファーザー2」を見たときに。どちらがいいかで県下になったこともありました。私は2が良かったと譲りませんでした。ビージーズの音楽でも有名になった「小さな恋のメロディ」は何度も見ました。ビデオはもちろんDVDも普及していない時代でしたので「1回勝負の映画」というので必死に見ました。プログラムも買いたかったのですがそれだったらもう1本見たかったという楽しい4年間でした。ロバートレッドフォード、ポールニューマンの「明日に向かって撃て」よかったなあ。「赤いドレスの女」「キャリー」「サスペリア」どきっとしたね。キャリーのラストシーンは思わず悲鳴を上げてしまいました。「エンドレスラブ」なんていうのも見たりしました。「シャイニング」「13日の金曜日」などのサスペンス。サイコシリーズも見たなあ。 一時ベトナム戦争を題材として映画を続けて見ました。「ディアハンター」「フルメタルジャケット」「プラトーン」「ハンバーガーヒル」「地獄の黙示録」・・ラストタンゴインパリで一躍有名になったマーロンブランドのカーク大佐。その映画にルーカス大佐としてハリゾンフォード出ていました。 映画歴(大学時代からとして )30年になろうとしている。先ほど近所のビデオ屋に行って調べてみた全部は無理だったが俳優別に整理されているので調べやすかった。ニコラスケイジ・・「ウィンドトーカーズ」これはアメリカのインディアンの言葉を暗号として使っていた時代の対日本軍との戦いを描いたものです。「ナショナルトレジャー」アメリカのドル札に乗っている絵を手がかりに財宝を探す物語です。「コンエアー」囚人を飛行機で護送中に起きた大事件。ハリゾンフォード・・・スターウォーズでも個性的な演技をした彼はいろいろなジャンルの作品の登場「インディジョーンズ・・シリーズ」「K19」「エアフォースワン」「パトリオットゲーム」みな良かったです。トムハンクスはたまらないですね。「フォレストガンプ」「プライベートライアン」「フィラデルフィア」「ターミナル」とても感動的でした。「グリーンマイル」忘れてはいけません。ブルースウィルズ・・ダイハードシリーズ。フィフスエレメント、薔薇の名前、アルマゲドン、シックスセンス、アンブレイカブル、ジャスティス、12モンキーズ、ティアーオブザサン、隣のヒットマン。マッドデイモン・・「ボーンアイデンティテイ」「ボーンプレマシー」メルギブソン・・・もちろんマッドマックスは忘れません。あ「ワンスアンドフォーエバー」「リーサルウェポン」監督として妻と一緒に見た「パッション」モーガンフリーマン ・・私の選ぶベスト10にはいる「シーシャンクの空の下」・・チィムロビンス主演・・にも出ている。スパイダー コレクター1,2に出ています。同じく黒人の俳優でデンゼルワシントンはいいです。ボーンコレクター ペリカン文書ハリケーン などに出演しています。ラッセルクロウ・・・マスター&コマンダー グラジュエイター ビューティフルマインド ・・・もう一度みたいですね。映画は人生の一部です。と言う私。今まで見た映画は300本ぐらいかな・・・もちろん映画館でですよ。
2007年04月16日
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一郎君は明日からの「林食堂」見習い開始のため、家で試食会をを開く。「うんこれ生じゃない」とピーマンを口から出す父「父さんピーマン嫌いでしょ一郎が作ったのよ食べなきゃ」「はーーい」「俺明日一人でいけるよ」「そう」また涙が出る。「父さんまで」「馬鹿泣くかタマネギでつーんとしたんだよ」その料理タマネギは使っていない。 「加奈子!」とドスの利いた声に驚く、その筋の人。「ああすみません」「もうしません」「かんべんしてください」ピンクのセーターを着たお父さんにぺこぺこ頭を下げるその筋の人「だめ、今日はセーターのお父さんなの」「はあ」お腹が空いたというのでいつのもラーメン屋に連れて行ったはいいがここは今、住清組と関西から着た中国広東系の組織との抗争のまっただ中。通りをはさんでにが見合っている。そこへ着たお父さん。「まいったなあ」中国系の組織にも彼の名はとどろいている・・彼は広田正警部、広田加奈子ちゃんのお父さん。昨晩のガサ入れで両方の幹部が連行された。その指揮をしたのが広田さんだ。広田あそこにだけは行くな殺されるぞと先輩に言われている。でも「かなねえ、お父さんが一度連れて行ってくれたあのラーメン屋さん行きたいなあ」はやく気がつけばよかった。殺気だった若い者がなにやらヒソヒソしている。「まずい」今日は非番なので拳銃はない警察手帳もない。丸腰である。「父さん着いたよ」「よお」ここの主人が昨日麻薬の取引現場を知り教えてくれたのだ。決まり悪そうな顔「おれもまいっている」という顔「かな早く食べな」「お父さん早すぎ」お母さんはただニコニコしているが少し引きつってきている「かなちゃんお父さんお仕事がいそが・・・」と言おうとしたとたん・・名田さんの言葉を思い出した。・・いいですか、かなちゃんこと加奈子さんはようやく心を開きかけています。お父さんの仕事の事は決して言わないように。・・「どうしたのママ」「いやお父さんもラーメン好きだからもう一杯食べるって」「なに!」「やっぱりパパすごい」「まあいや」目配せで「何言っているんだ」といい顔を後ろにそらすといきり立つ若い青年と目が合う「あいつら何かたくらんでいる」。「父さん餃子も美味しいだって食べていい」「ううういいよ」「じゃあぎょうざ5皿」「はあ、お父さん食べられないよそんなに」「いいのこれはそとでお父さんを守ってくれている元気のいいお兄さんにやるの」「はあ」「だって、お父さんいつも言うじゃない・・おれはいつも人にねらわれている・・って」「だから今日はかなのためにお父さんをボディガードして居るんだねあの赤いシャツを着ている人、眉毛もあれ、髪の毛もないひと寒くないかなあ、棒持っている人いるよ、一杯人が出てきたよ、さすがお父さん」危ないのはあいつらなんだよ・・・「はいおまち」餃子が来た。佳奈ちゃんはさっそく外へ出て「はいおにいさんお疲れ様」「ハイこっちのお兄さんも食べて食べて」不意をつかれた組の人。かなちゃんの明るさに、つい「ああどうも」「わりいね」餃子を食べ始める「うめえ」「にいさん餃子と言ったらビールですよね」「おおそうだ、おい哲平あちらさんがびびるようなビール買ってこい」と万札を見せびらかし言う。それを見た広東系の組員「こちとらもあちらに負けないようなビール買ってこい」と怒鳴る。程なくしてビールが来る。「つまみが足りないなあ、追い哲平、俺の好きなシュウマイ買ってこい10箱だぞあまったらあちらさんにもおしそわけしようかな」次々運ばれてくるビール。その酔いにまかせて「おおい、あちらさん日本人のくせに中華ばっかたのんでやがる俺の好きな・・」「刺身ですか」あわててて口をふさぐ。「ううん」と咳払い。「あれ刺身だってあれって日本の料理じゃん」まるで子どものケンカ。「買ってこい」。ラーメンと餃子を食べ満腹になったかなちゃん。「お父さん見て、あの人達楽しそう」「あれまあ」・・抗争抗争で精神すり減らしていた組同士「日本食が一番」という広東系の組員。「中華が一番」という地元の組員。ビールの酔いと日頃のストレス。そのころ新宿のハイアットの最上階でその組のトップが会談していた。お互いに和平を申し込む。でも鉄砲(実戦部隊)がこの和平認めないでしょ。組長同士頭を抱える。渋谷のシマを二分する協定だ。携帯の電話が両方一斉に鳴る。「何!酒盛りを始めた、」「何兄弟分の杯を餃子と刺身で」「何言っているんだ」2人同時に叫んだ。4時はもうすぐ、健康そうに焼けた千夏が「おじいちゃん」と腕組みしてやってきた。急いでよ、はじまってしまうよ・・「男たちのヤマト」でしょ。「しかし男たちは・・いかん」、男ばかりではない女も戦争を生き抜いてきた・・薩摩勇人の気骨さも、どうやらこの5年で変わったかも知れない。かわいい孫に手を引かれで映画館に入る名田さん。映画の会場はは4:00である。
2007年04月13日
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午後の3時50分過ぎ。ホテル「シドニーパーク」へ着くとドアマンの兄ちゃんが「DID YOU HAVE FAN・・楽しんでますか」と言ってきた「オフコース」そのあとがいい「AND YOU・・君はどう」「NO」ここで「オフコース」ならまだ心が通じていない。「NO」といった彼に「I THINK SOそう思うよ」ついでにビールの酔いの勢いもあり「THIS IS PRESENT FOR MY SON」とチュッパチャップスと1$をあげる。「THANK YOU」「ウェルカム」これでOK。ドアマン、ベルボーイと仲良くするのがホテルライフのポイントです。そして「お茶でも飲もうか。」と言うことで雨の降る町を見ながらコーヒーとホットココアを頼む。ハイティーの時間だったのでケーキのビュッフェをしていた。私は苦手なのでVBを頼み。3人はケーキビュッフェを頼む。このハイティーはイギリスの習慣で3時以降に飲むゆっくりとしたお茶の時間である。このビュッフェだけは遠慮する。ものすごい量のケーキ、ワッフル、プリン、ゼリー、クッキーが積まれる。私などは見るのもはばかる。一人カシューナッツでビールを飲む。このビュッフェ安いんです一人500円くらいかな。ホテルのメインのレストランでですよ。ビール1本500円と同じなんて考えていると。そこに雨に濡れた夫婦が入ってきました。私たちと同じくらいの年齢です。日本語で「まったく雨降るなんて、旅行社は100%晴天だ・・うそばかり」「お父さん仕方がないでしょ」さらに雨をはらいながら「腹減ったなあ、この国ろくな料理がない、フランスへ行ったときなんかもうどこの田舎でもうまいものが食べられた」「なんだいこの国はフィッシュ&チップス?あれが食事なのかね、イギリスの流刑地の食事じゃない?」近くでお茶を楽しんでいた日本人観光客も顔を見合わせた。私も何か言おうと思った、妻が止めなければ日本語で「馬鹿野郎」と言っていたかもしれない。でもそばでおろおろしている奥さんとお腹が空いたといっているパンダのぬいぐるみを抱いている娘を見て気を取り戻した。「何食べる?」「何でもいいわよ」「でも英語ばっかりで」さっきの勢いはない。子どもはお腹を空かししょぼんとしている。雨に濡れたか寒い寒いと言っている。日本語が少しわかるウェイターも何も言わない。5分の時が流れた。気まずいムードが漂った。「どこから来たの」娘が突然パンダのぬいぐるみに言った。「うん静岡」「私は山梨、富士山見える」「見えるよ」「どうしたの」「お腹空いたの」「そうじゃあ何食べたいの」「スープ」「そうかケーキ好き?」「好き」「待っていて」娘は走ってケーキのトレイから3種類のケーキを持ってくる。「はいどうぞ!」「これはお父さん、お父さんもおなかすいているんだよね」「これはお母さん」「はいどうぞ」一瞬にして空気が変わった。そばにいた日本人の老夫婦は娘の頭をなぜて軽く拍手をした。ウェイターは、軽く咳払いをして、内緒だねと人差し指を口に付けた。お父さんが「すみません・・」と言いに来た。「去年の私たちもそうでした。英語も通じない、白い目で見られる」「でもね、今はオーストラリアに居るんです。日本ではないんです。」その間に息子は勝手にその家族のケーキビュッフェを注文してきた。すぐに紅茶が運ばれてきた「あれ」と不思議がる家族にさっくのドアマンが寄ってきてゆっくりとこうしゃべった。「THIS IS PURESENT FROM THIS GENTLEMAN」と息子の頭をなぜた。隣のテーブルから拍手が起こる。一部始終を見ていたドイツから来た家族。息子を呼んでひざの上に載せる。「THANK YOU」ダンケッシェーン。その場の雰囲気を明るくしてくれた5歳と6歳の子に対する「ありがとう」だった。温かい紅茶よりも温かいシーンが人の心をうった「差別」とは人の想像に期することが多いかも知れない。「日本人だから」「有色人種だから」でも差別は、思い違いのままではいけない。「あの人は私たちを」「あの人は私たちを」お互いに離れた心ではいっこうに差別は解消されない。シドニーのホテルでそんな気持ちになった。ただ恥ずかしいのは息子のパンツいっちょう。走れメロス的に言うと「勇者は赤面した」である。
2007年04月12日
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シドニーでは差別のことを勉強した、今ではないが「白豪主義」が横行してたとき、白人以外の権利は法律上では認められていたが末端では、差別は明らかに行われていた。私も4回ほどオーストラリアへ行った。最初のシドニー初めての長旅に娘が気持ち悪くなったのかシドニーの空港からタクシーでホテルに向かう途中車内でもどした。運転手はあからさまに怒り、すぐに車から降りろと言わんばかり、チップをはずんでやっとニコニコしてホテルまで行く。もしこれが欧米人だったら「大丈夫ですか」と言うと思う。こちらの勝手な想像だがつくづく感じた。差別はあの目でわかる。まわりの雰囲気でわかる。意地悪くする。無視する。他の人を優先する。といったことはツアーの客ではあまり感じないだろうがフリーの客には冷たい。2回目のオーストラリアシドニー。海外生活も2年目ということで、少しは英語ができ(できないと生活出来ない)ホテルライフになれてきた。食事の注文やクレームも付けれるようになった。2人の子どもはもっと慣れ、息子などは物心ついたら外国だった(4歳でスリランカ)ので何にも恐くないものね。シドニーへ行けば必ず行くシドニー水族館。確かに素晴らしい水族館だ。5歳の息子。海岸でばしゃばしゃ遊んでいたらズボンぐっしょり・・「パンツでいなさい」といわれ「はーーい」日本の下着のブランド福助の真っ白いパンツとT シャツ姿。日本からのツアー客の多いシドニー。息子にブリーフに「あれまあ」本人いたって元気。私も息子と変わらない姿で桟橋で横になりビールを飲んでいる。娘と妻は大道芸人のパントマイムを見ている。 息子にまわりになにやら人だかりができている。「あれ」と近くに寄ってみると。このブリーフ姿に喜んだアメリカ人が自分の子どもと写真を撮っている。もちろんその子どももパンツいっちょうである。楽しそうだった。欧米人はとかく日本の畏まった(かしこまった)た生活習慣に閉口する。しかし、日本人を知りつくす人はそのまじめさを美徳とする精神に心を揺れ動かされる。ここぞとばかりきれいに着飾り、ブランド物をひけらかすように持ち。カメラを携え、ことある事に「きれい」「かわいい」を連発し、お金を惜しげもなく出す日本人は世界各国の観光地の商売する人にはモテモテである。でもそこの国の事をもっと知りたい、現地の生活に触れたいと思っている人もいる。場をわきまえて、楽しく過ごしたい。カバンもなくカメラのなく、きのみ気のままでいる私たち家族を見て「こんな日本人もいるんだなあ」と思ったのだろう。しばらくすると雨が降り出した。ホテルまで歩いて帰る途中だ。
2007年04月11日
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それから3年後フリースクール上野は正式に「学校」として認められ。名田さんはその学校を去る。「いつでもおいで」の店は都内に15軒できた。まだまだ増えそうだ。自立支援策として都が認可したのだ。それにはフリースクールの保護者の中には社会的に活躍している人ももすくなくない。そういう保護者がいろいろと動いてくれた。もちろん名田さんは連日、区や都に陳情に行った。名田さんは林さんと一緒に食堂でもやろうといい今の西新宿に店を構える。林食堂の林はもちろん「林(りん)さん」の林。店長は林さん、経営者は名田さん。ふたりは午後の暇な3時頃に毎日この店で会う。来週からフリースクールを卒業した一郎くんが手伝いに来る「うちの息子調理師の学校へ行くって言ったんです。お父さんの好きな中華料理をお母さんの好きな魚料理を作るんだって・・」声にならない嗚咽が電話の先から聞こえてきた。3:50分。名田さんは歌舞伎町に向かう。知覧から飛び立ち終戦の年に散っていった特攻隊が命をかけて守ろうとした不沈戦艦「ヤマト」を題材にした「男たちのヤマト」を見るためだ。実際のヤマトを見たことはないが、その当時はこれで日本は救われると思っていた。孫の千夏ちゃんもシドニーのアメリカンスクールを卒業し、日本へ帰ってきている4時にこのミラノ座の前で待ち合わせしている「おじいちゃんと映画見に行きたい」「戦争のこと知りたい」海外で日本人のやってきた戦争をあらためて知ることになる。感受性の強い年頃いろいろな情報に敏感である。シンガポールでは日本軍が占領していた当時のことを勉強した。包み隠さず話をしていく中華系のシンガポーリアンに尊敬の念を抱いた。p
2007年04月10日
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それからしばらくして小岩にいる夫がここを見つけて乗り込んできたが、なにやら2時間ほど名田さんと応接室で話をしたら黙った帰っていった。「私離婚したら国に帰されるんでは」と心配する林さん。「大丈夫書類上は結婚しているから」「どうして、黙って帰っていったのそれもあんなに隠れるようにして」「さあね、ただここのスクールの通う、10歳の女の子(加奈子ちゃん)のお父さんと一緒に話をしただけなんだ。お父さん警察官なんだ、それも偉い方のね、48歳の時の娘でさ、かわいがりすぎて対面恐怖症と言って人前に出るのが苦手になっていたんだ。だれとも話をしないんだ夜ぬいぐみの「ごまちゃん」だけと話すんだ。ごまあざらしだからゴマちゃん。あれはここへ来てさ3ヶ月目のこと、お父さんでさえ怖がっていたかなちゃんがこれお父さんにあげるといって庭の花を摘んでいたんだ。」「ふううんそれで」「うんかなちゃんがこういったんだ。『お父さん制服着ると恐い、いつもにらんでいる恐い』仕事柄眼孔も鋭くなる、捜査一課の警部である。暴力団専門である。その人の名を出したとたん数秒でその筋の人がその場から立ち去るという。「私はねお父さんにかなちゃんの願いを言ったんだ、制服のぬいだお父さんを見たいって」「先週の日曜だったかなあ。ピンクのセーターを着たお父さんと同じ色のカーディガンを羽織ったお母さんとその間で手を握られているかなちゃんがキャッキャしながら学校へ着たんだ」厳つい顔を無理をほころばせ、ピンクのセーターを恥ずかしそうに着ているお父さん、それをニコニコしながら見ているお母さん。「かなねえ、お父さんにお花プレゼントしたんだ。ほら」お父さんの空いている手に握られた花束。何よりもうれしい花束だった。「娘の笑顔見るの久しぶりです」・・そのお父さんが今日見えられて「名田さんお宅で働いている、愛子さんのことでちょっと」「殺人に関係あるんですか」「いやいや、そうではない。昨日さあ小岩署に愛子さんの捜索願だだされたんだ」「そうですか」「それで署長をよくしっているんで、話を聞いたらさあ。勝手に家を出て行ったとか、中国人のくせにとか、強制退去させてとか・・もうひどいもんだ」ここの住所も確かめたらしい。「ではまず本人ともう一度話をしてから」ということで今日来るのだそうだ。「名田さんどうか、話してくれないかその子のことを・・」「実は・・・」「わかった俺も立ち会おう・・」それから1時間後午後3時45分勢いよくやってきた青年に「暴力で何も解決しない、夫婦でも訴えることができる・・」それと「この名田さんにあずけてみてはどうだ、もしかして気が変わるかも・・」「何!そうかでは署の方で・・」青年は二度と来なかった。
2007年04月09日
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フリースクールに併設して「いつでもおいで」という奇妙な食堂ができた。そこの求人に応募してきたのが「鈴木愛子」さん林さんだ、夫からの暴力に耐えかね家を飛び出したがどうも書類上では夫のなっている人に連絡を入れなければと言われ、なかなか就職もできない。そんな時口コミ「年齢、過去は問いません、ただし給料は少ない」というのが耳に入ってくる。思い切って面接に来た「名前は」「春子です」「本当の名前は」「林です」「自分の名前大切にしなきゃ」「はい何ができますか」「料理」「結構 採用」「ああ1つ聞きたいけど君短気?」名田さんは小林さんと同じ事言っている自分がおかしかった「すまんすまん料理長に短気もないか?ははは」「料理長だよ」「だって口コミでは料理手伝いって書いてあったんですが?」「はあでも、金がないんだよ君にはらう、2人なると給料二分の一三人だと・・・」「わかりました」半分脅しでしかない。「でもありがとう助かるよ。この給料で来てくれる人はいない」手を握ってきた。暖かかった。「あのお、できたら住み込みで」「これまた結構、警備員もほしかった」「はあ」「いやなにまあ、夜は物騒なんでねえ今。君が居てくれたら鬼に金棒だははは」「警備なんて」「大丈夫持っていくものないから大丈夫、置いて言ってもらいたいのはたくさんあるけどね。ははは」これが林さんと名田さんの出会いである。
2007年04月06日
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名田さんもようやく辿り着く、雪は深々と振っている。ププー後ろの救急車からクラクションが「ハイわかりました・・」「どうですか」「今ベットが2つ空きましたどうぞ」急いで運び込む救急隊員、後ろの救急車は足止めを食っている「順番待ち」と名田さんが言うと「もう収容しきれないんです、ここはこの辺では一番大きくてベット数が30あるんですが、もう薬をやったやつで一杯です」「2つベット空いてよかったですね」「ああ,死んだんですよ、急性の薬物中毒でね。」「・・・」中へ入ってみた。異様なうなり声が病室から聞こえる、イスに倒れ込みよだれを流している青年、失禁してしまった自分を殴っている少女、手を出し「クスリ、クスリ」と何度も繰り返す中学生。「制服着てますね」「学校帰りに薬やったのですよ」。「おいしっかりしろ、どうした大輔」と失神している息子を起こそうとしている父親。それを停めようとする看護婦。汚物が床に散らばり、血も混ざっている。げっそりやせ細った15歳の無職の青年は鳴っている携帯に出ることもできない。メールを見ると「スピード、1万 渋谷のセブンイレブンの手前の公衆便所」売人からのメールだ。名田さんは頭を抱えた。こういった子どもが増えているんだ。社会は病んでいる。朝までみんなで話し合った。とことん本音をぶつけ合った。
2007年04月05日
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さらに話は続く、渋谷の東横線の改修工事でのこと、真冬の1月の終わり頃のこと、雪が降ってきたので今日の工事はここで終わり、午後の8時頃。「よかった、しばれるね」と北海道出身の山田 五郎さん(62歳)ことヤマさん「タッチャン、そこで一杯やってかねえか」「おおいいね」「東京の冬は寒くてしょうがねえ」のれんをくぐろうとしたときだ、ビールのケースの置き場でごそごそ動く音。ダンボールに誰かがくるまっているのを見つけると、ヤマさんがそれを一枚一枚はがし始めた。「寒いよお、なにすんだよう」年は18歳くらいの女の子2人。厚手の化粧としわくしゃの制服に薄手のカーディガン、携帯を首から提げて、たくさんのストラップをつけている。目の下にはくまができ、唇は真っ青「どうした?」と名田さん腕を見て驚く注射針のあとが無数にある、紫がかっていて、もとの肌の色がわからない「なにすんだよう」と振り払う手に力がない。すぐ救急車を呼ぶ。「呼ばないでくれよ」というがここは譲れない。救急車を待ている間に、ヤマさんが肉まんを2つ買ってきた「たべろよあたたくなるぜ」「ありがとう」普通の高校生に戻る。むさぼるように食べる2人。ほれとポケットから暖かいお茶のペットボトルを出し、渡す。喉を鳴らして飲む2人に涙が出そうになった。救急車が来た「はいはいまたかな?こまったね。」「またって」「この二人いつもなんです。これで6回目かな。中学校の先生もほとほと困っています。」「中学生」「そうは見えないでしょ、れっきとした区立の中学2年生です。」「ほらいくよ」ところでおたくは誰?「ハイ通りがかりの者ですが」「そう」「一緒に行ってもいいですか?」「かまわないけど救急車には乗れないよ」「病院はほれそこの、渋谷東横病院」腕を持って止めるヤマさんを振りきって病院に走っていく名田さん。そこですさまじい光景を目にする。救急車が緊急の非常口から入ろうとすると中から警備員が来て「ちょっと待って、今一杯なんだ」「何言っているんだよ、ここは未成年を中心に見てくれる所ですよね」「携帯で確認してますから少し待って・・」救急車は入り口で足止めされる。後ろからまた救急車が来た。
2007年04月04日
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「私がこのスクールの謝金を払います」「いろいろ聞かないで下さい」「私の生き甲斐です」この言葉を継げ小林さんの病室を出てきた名田さん。1000万近くで売れた土地代を全てこの学校に捧げた、自らは校長にはならず一教師として、このスクールの運営を担った。とりあえず10年分の家賃を払い、手狭になった教室をプレハブで増やした。ここの保護者が無償で奉仕した。それを見ていた一郎君「とうさん、かあさんありがとう」その言葉で胸が詰まった・「ぼくここ居られるんだね」数月ぶりに自らしゃべった一郎君を母は抱きしめた。「もういいんだよ、ゆっくりしようね。ごめんねいっちゃん、もういいんだよ」息子との日々でぐたぐたになった父も、その光景を見て空を仰いだ「神様っているんだなあ」 そのフリースクール上野は、さらに人が増えてきた。自分のストレスの行き先を自分を痛めつけるというところに持っていくのが今の子どものがひとつの特徴だ。リストカット、薬物(睡眠薬や安定剤)の過剰摂取。過食。摂食障害などである。リストカットは腕から肩へ(ショルダーカット)肩から胸へ(チェストカット)広がっていく。その中で一番改善が期待出来るのは摂食障害だと言われているが・・。「そんなんだよ、あたたかい飯なんだよ」大声で言う近くのスタッフは驚いた「みんな聞いてくれ」8人に増えたスタッフを自分の机のまわりに集めた。冷めかけたお茶をすすり。名田さんは、以前の夜の勤務の時にみた光景を思い出した。そしてゆっくりと語り始めた。代々木駅前で地下鉄の工事をしていた時の事・ 夜の10時はまわっていた。そこへ小学3年生ぐらいの一団が通る。こんな時間にどうしたんだろうと見ていたらコンビニに入っていった、しばらくして何かもぐもぐしながらジュースで流し込んでいる。ちょうど休憩時間だったので温かいコーヒーでも買おうと思ってコンビニに入った。その時だこんな会話が耳に入る「ここのおにぎり少し、ぱさぱさしているね」「夕食だから美味しいもの食べたいね」「おまえんところ夕食代いくらだい」「毎日1000円もらっているよ」「じゃあもっいいもの食えよ」「違うんだな1食を300円くらいでおさえて残りの金貯めるんだよ」「何に使うんだ」「ゲームさ、今密かにブレイクしていいる「殺しの館」さ!」「あれ店で売ってないだろ」「ああ、アキバに秘密の店があってさ、30000円で売って居るんだ。」「一度見たことあるがあのリアルな殺し方すごいよな、ぞくぞくするよ」「おっとそろそろ教室へ戻らなきゃな」「今日は2時までだってよ」「私立中学の受験は大変でございます」・・言葉がなかった小学3年生、10時おにぎりとジュース2時まで塾で勉強。目ばかり大きくでて、肌の色も元気がない。その上、がりがりにやせていて、いらついたような言葉しか使わない。
2007年04月03日
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1945年日本は敗戦につぐ敗戦でかつて南太平洋まで広がっていた領土も「本土」のみに限定されてきた。中国戦線も膠着状態、各地で共産党軍がゲリラ化している。都市はおさえるのだが、陸路をたたれ補給もできない。それぞれの町で日本軍は疲弊していた。東南アジアでも、日本軍に対して奇襲が行われ、アメリカ軍に支援に勢いづいた連合国軍がつぎつぎと帝国陸軍を敗走に追いやる。鹿児島の知覧から特攻機が頻繁に離陸したのは1945年春からであった、片道に燃料を積み離陸する青年兵士。飛び立つ前の凛々しい姿とうってかわり。機上から。人が見えなくなることを確認してから泣いた。隠しきれない不安、でも毅然としていなければならない自分。父母への思いは遺書には本当のことは書けない、「死にたくない」「生きたい」という思いで胸が締めつけられる。二度と戻らぬ本土を後にして、足下にも爆弾がある飛行機は敵の戦艦目指して散っていく。その遺書をきちんと封筒に入れ達筆の字で住所を書く名田さんの母スミエさん。涙が出るのをこらえながら書きつづる。検閲が通っているので、スミエさんは密かにこう記した便せんを一枚入れた。「北嶋 篤様のお父様、お母様 彼はこの知覧に来て1ヶ月で特殊任務に就きました。基地の近くにあるたった一軒の食堂「富士」にいつも来ては「これ、故郷の新潟から送ってきた米です。食べて下さい」「これ母が作った笹餅です」「これは父が書いた故郷の山々です」高校で美術を教えていたお父さん、雪深い地で米を作り生きてきたお母さんに一度を会いたいと言っていました。自分の尊敬する父と母を私に会わせたいと言っていました本当に素晴らしい息子さんでした。本当に・・・。」涙がこぼれた。6歳の名田さんにもそのことはわかった。
2007年04月02日
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