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教え子の結婚式 「母親のおかげでどんなにひどい目にあっているか、わかっているのかよ!」中学2年生の時に母親が窃盗で逮捕された。常習ということで、しばらく壁の中にいた。「おい、ここに置いてあった集金知らないか」とある日担任が青い顔をして教室に駆け込んできた。朝の会のときに集めた集金を自分の不手際で教卓の上に忘れていったのだ。「誰か知らないか」そうしたら「野島さんじゃない、だってお母さんも泥棒だし」嫌な笑い声が聞こえた。「あったあった、先生スーツの内側に入れていたんだ、ごめんごめん」なんだああという声。みんなまた普通の会話に戻る。こんな事が母の逮捕からずっと続いた。父も生活苦から家を留守にすることが多くなった。ある日「さよなら」と書置きをして家を出ていった。叔父の家に住むことになる。母親は4ヶ月で出てきたが、そのまま身を隠してしまった。沙樹は高校へ奨学金を使って進学をしたがそこでもいじめにあった。「もうやってられねえ」とある日、髪を赤く染め。化粧をして学校へいく。教師も注意も聞かず暴力沙汰を起こす。そこに井上先生という55歳の先生がいた。かつて母親の担任だった。「こんなことをしてお母さんが喜ぶか」「しったこっちゃねえ、あいつのせいだぞみんな」家庭謹慎も2度目になりそうな時井上先生は学校に泣きついた「私に任せてください」謹慎は免れた。 しかし、暴走族に入り、警察の追われるようになり自然と高校を離れていった、それでも井上先生が「よせよ、お母さんが悲しむぞ」族の溜まり場に言って説得したこともある「なんだセンコウがうざいんだよ」と殴られて頭を10針縫った。そして事件が起きた。暴走族同士の抗争で沙樹が巻き添えを食ってやられた。井上先生はその現場に向かい、沙樹を救おうとする。角材で背中を殴られる、とがった靴で蹴られる。パトカーの音が聞こえたような気がしてから意識を失った。あれから5年。定年退職をした井上先生のところへ結婚式の招待状が来た。場所は都内の小さな教会。 「自分の母親はどうするのだろう」先生は家族にひとこと言って九州の博多に向かった。結婚式の日は天気もよかった。桜の花びらが絨毯のようになって2人を祝福した。高校中退後、沙樹は叔父さんの紹介で地元のスーパーで働く。あの事件以来、すっかり人が変わったように素直な人間になった。・・「沙樹、大丈夫か、お母さんに悪いと思わないか」意識が朦朧とする中、血だらけの手で頬をなぜながら言った。「先生、ありがとう。こんなこともいしない。お母さんがかわいそうもん」・・「おめでとう」「おめでとう」祝福の中23歳の沙樹は、純白のドレスで颯爽と教会を出てきた。その時だ、木の陰に母親を見つけた。10年会っていない母親だ。自分を苦しめた母親。「ほら沙樹・・」井上先生が肩をぽんと押す。新郎もにこって笑っている。走り出す沙樹。母親の元へ・・桜の花びわを舞い上げながら・・。「お母さん」博多で身を隠すようにして働いていた母を井上先生は連れに行った。「娘の幸せの姿を見てやりなさい」必死で貯めたお金を沙樹に渡したいという。「お金より、顔を見せてあげなさい」 教師が振り返ってよかったといえる瞬間だったのかもしれない。おめでとう。
2009年01月30日
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全員リレー ミカは小学校5年のことから中学3年までずっと不登校だった生徒。担任は毎日のように家に行く。最初は会って話ができたが、だんだんドア越しに話をするようになる。やがて一方通行の話になる。親もだんだん焦りから、苛立ちから、・・子どもの本当の気持をわかってやれなかった反省やこの行為が何かのメッセージではないかと考えるようになる。 時は過ぎ、中学3年生になった、担任は中学校生活の思い出、いや一生の思い出になる修学旅行をきっかけにしたかった。クラスで何人かの女子が自発的に家に行ってくれた。班別コースを決めるときも「ミカ」の行きたいところを入れようよとアイディアを出し、本人に考えさせたしおりの原稿提出ぎりぎりのまで待った。母親が「ぜひ、嵯峨野の釈迦堂を入れてほしい」と言った。あまり修学旅行のコースとして選ばれないところ「でもいいじゃん、ミカが真剣に考えたところだから」そこは写経が出来、いろいろなことの願いがかなうとして地元では有名であることを 学園祭などにどうしてもその子を出させたかった。修学旅行はカバンに荷物を入れるところまで言ったが当日そのこのバスの座席は空いていた。学園祭・・この学園差が終わると一気に三年生は受験モードになる。クラスという集団の中での感動、手に手を取り合って喜ぶ感動。一度でいいから一生に一度でいいから味あわせてあげたい一心で家に行く。「これリレーの鉢巻です、全員リレーです。ぜひ一緒に走ってみないか」ここに置いておくよ。堅く閉ざされた部屋、でも明かりが漏れている、そこに居るのである。話を聞いているのである。 当日、彼女を待った。ぎりぎりまで待った、リレーは午後の最後の種目である。でも姿は見せなかった。『先生、どうしますか?私が2回走りますか?』そういった声の中。先生職員室に電話が入っています「はい。だれからですか」・・・。「先生、ありがとう。いつも家に着てくれて・今私は自分の部屋で、体育着に着替え、先生が昨日私の名前を書いておいて言ってくれた赤い鉢巻をしっかりと巻いて走っています。そこにはいけないけれど一度もあったことのないクラスの仲間だけで一緒に走っています」涙が出た「ま、いいか・・・」リレーの時間が迫っている。先生はクラス全員を集めた。そしてその話をした。先生はその思いをもって、全員が走るリレーにしてくれと話をした。そしたらその子のことをいつも気遣っているひとりの女の子が「先生、提案があります・・・」その提案を聞いて驚いたがすぐに拍手が起こった。携帯電話はミカとつながったままだ、ミカは受信音量を一杯にした。アンカーの彼女も送信音量を一杯にした。いよいよ女子の最後になる。あとは男子のアンカーの一周を残すのみ、6クラス中3位でバトンを受け取る。「行くミカ」グラウンドの声援は高まる、2位の3組の背中をとらえた、追い越しに入る、その土を蹴る音がよく聞こえる。「いい、ミカ行くよ」腰にしっかりと見えないようにベルトにくくりつけた。そのままをつながったままの「携帯」は走る。ゴール直前3位の選手を抜き、いよいよアンカーへ。「ミカ2位だよ」彼女はバトンを渡したともアンカーと一緒に走る。ラインの内側から応援しながら。クラスの皆も走る。みんなの息遣いが聞こえる。「一緒に走っているんだよ。」応援は「ミカがんばれ」に変わる。部屋でもミカは泣きながら前を向いて足を動かしている。「いつかきっと、いつかきっとね」こう言ってゴールテープを切った。「いっしょだよ」「まってるよ」「いつかきっと」
2009年01月28日
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母からのメール 僕は幼い頃父を亡くし、母と2人暮らし。中学3年生で出席番号6番 身長は中の下体重は中の上 成績は中くらい。特に好きな教科とか嫌いな教科とかもない。通信簿には「班長」「給食委員」「黒板係」「校内マラソン56番」その通信欄には「まじめで、やるべきことをきちんとしてくれます。朝の合唱練習の時も遅れずに着ていました。3学期も充実した日々を送ってください」と同じようなことが小学校3年ごろから書かれている。確認印も自分で押すし、返信のところも「よろしくおねがいします」の一言。 3月に公立高校を受験する「最後まで気を抜かないように」「併願を一応考えといてください」と三者懇談で言われた。まじめで臆病で神経質で不器用な性格だと自分は思っている。「併願を受ける」というのもそのところから来ていると思う。 学校からまっすぐ家に帰る。塾も土日だけ行っている。部活もないし、皆も勉強で忙しいから遊ぶこともない。4時半ごろにはうちに戻る。台所へ行き、お米をいつものように2合研ぎ炊飯器を7時にセットする。朝脱水までやってある洗濯物を乾燥機に放り込んでスイッチを入れる。靴下の汚れはなかなかとれていない。 母親からのメールを見る。「今日8時帰宅」「ご飯の用意よろしく」「できたら中華のおかずがいいな」「ごめんねいつも」「いつもありがとね」「高校のこと一緒に考えようね」「日曜日は大丈夫?」脈絡のない言葉が続く。 自分の部屋に行き、カバンの中からお便りを出し、壁にかかっている袋に入れる。随分溜まってきた。数学の宿題をする。「ここ出るぞ」なんて先生が言っていた事を思い出しながら机に向かう。試験まであと25日。カレンダーには11月5日と3月3日に赤丸がついている。寒くなってきたのでファンヒーターを入れる。「空気の入れ替えするのよ」と母にいつも言われているのを思い出し。10センチくらい線路側の窓を開ける。「ピッピッピ」と炊飯器が鳴る。「すぐに開けちゃだめ、少し蒸らしてね」と母が行ったことを思い出し、先におかずの準備をする。「お母さんシュウマイ好きなんだっけ」と冷蔵庫の一番下にぎっしり詰まっている冷凍食品から「エビシュウマイ」をだし、皿に移し、ラップをかける。そしてチンをする。インスタントの味噌汁にお湯を注ぎ、ご飯をよそり、シュウマイで夕食。 ひとりで「ごちそうさま」を言い。食器を洗い、お風呂を洗う。居間のコタツに座ってテレビを見るけど面白いけどおかしくない。 風呂が沸いたので入る。カラスの行水ねと母に言われるくらい早く出てしまう。冷蔵庫から牛乳を出してごくごく飲む。居間の電気を一番小さくし、自分の部屋に行く。 午後10時。日記を取り出す。「お母さんへ今日も1日元気でした。学校では入試モードになりなんとなくみんな緊張しているようでなんだかおかしいです。今日はお母さんの好きなシュウマイでした。アジノモトの冷凍食品なかなかうまいですね。明日はクックドゥーのチンジャオロースにします。ではお休み」母は11月5日の交通事故にあい、今も入院生活を送っている。元気だった頃の母のメールを励みに一人でがんばる中学3年生がいる。
2009年01月26日
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教え子の結婚式 「母親のおかげでどんなにひどい目にあっているか、わかっているのかよ!」中学2年生の時に母親が窃盗で逮捕された。常習ということで、しばらく壁の中にいた。「おい、ここに置いてあった集金知らないか」とある日担任が青い顔をして教室に駆け込んできた。朝の会のときに集めた集金を自分の不手際で教卓の上に忘れていったのだ。「誰か知らないか」そうしたら「野島さんじゃない、だってお母さんも泥棒だし」嫌な笑い声が聞こえた。「あったあった、先生スーツの内側に入れていたんだ、ごめんごめん」なんだああという声。みんなまた普通の会話に戻る。こんな事が母の逮捕からずっと続いた。父も生活苦から家を留守にすることが多くなった。ある日「さよなら」と書置きを置いて家を出ていった。叔父の家に住むことになる。母親は4ヶ月で出てきたが、そのまま身を隠してしまった。沙樹は高校へ奨学金を使って進学をしたがそこでもいじめにあった。「もうやってられねえ」とある日、髪を赤く染め。化粧をして学校へいく。教師も注意も聞かず暴力沙汰を起こす。そこに井上先生という55歳の先生がいた。母親の担任だった。「こんなことをしてお母さんが喜ぶか」「しったこっちゃねえ、あいつのせいだぞみんな」家庭謹慎も2度目になりそうな時井上先生は学校に泣きついた「私に任せてください」謹慎は免れた。 しかし、暴走族に入り、警察の終われるようになり自然と高校を離れていった、それでも井上先生が「よせよ、お母さんが悲しむぞ」族の溜まり場に言って説得したこともある「なんだセンコウがうざいんだよ」と殴られて頭を10針縫った。そして時間が起きた。暴走族同士の抗争で沙樹が巻き添えを食ってやられた。井上先生はその現場に向かい、沙樹を救おうとする。角材で背中を殴られる、とがった靴で蹴られる。パトカーの音が聞こえたような気がしてから意識を失った。あれから5年。定年退職をした井上先生のところへ結婚式の招待状が来た。場所は都内の小さな教会。 「母親はどうするのだろう」先生は家族に一言言って九州の博多に向かった。結婚式の日は天気もよかった。桜の花びらが絨毯のようになって2人を祝福した。高校中退後、沙樹は叔父さんの紹介で地元のスーパーで働く。あの事件以来、すっかり人が変わったように素直な人間になった。・・「沙樹、大丈夫か、お母さんに悪いと思わないか」意識が朦朧とする中、血だらけの手で頬をなぜながら言った。「先生、ありがとう。こんなこともいしない。お母さんがかわいそうもん」・・「おめでとう」「おめでとう」祝福の中23歳の沙樹は、純白のドレスで颯爽と教会を出てきた。その時だ、木の陰に母親を見つけた。10年会っていない母親だ。自分を苦しめた母親。「沙樹・・」井上先生が肩をぽんと押す。新郎もにこって笑っている。走り出す沙樹。母親の元へ・・桜の花びわを舞い上げながら・・。「お母さん」博多で身を隠す用意して働いていた母を井上先生は連れに言った。「娘の幸せの姿を見てやりなさい」必死で貯めたお金を沙樹に渡したいという。「お金より、顔を見せ手あげなさい」 教師が振り返ってよかったといえる瞬間だったのかもしれない。おめでとう。
2009年01月23日
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残りのカレー 父親が珍しく早く帰って来た。二階で勉強していても居間で話す声はかすかに聞こえる。今日みたいに大きな声だとはっきり聞こえる。「うちの会社やばいんだ」中学3年生子のこと場の意味はすぐにわかった。長引く不況、倒産、リストラ、首切りなどは連日テレビや新聞で大々的に報道されている。製造関係の会社に勤めている父も毎日のように新聞をみてため息をついていた。「とうとうやってきたか」という感じをまともに受けた。 「いただきます」「はい」「父さん今日早いんだね」「ああ。ちょっとな」ぎこちのない返事。「お前あと一ヶ月で試験だな」と話を切り替えられる「そうだよ」「がんばれよ」「まかせて」無理と元気な声で言った。 10時のNHKラジオ。「この不況の影響は中高生の進学問題にも大きな影を落としています。街角で聞いてみました」「私立大学の受験だったのですが経済的に無理なので就職することにしました」「負担の少ない国公立の大学を受けますもしだめだ場合はあきらめます」「高校は地元の高校へ行きます。東京の私立を狙っていたのですが入学金が高すぎて」・・・オレも大丈夫かなあ。 高校受験 お金もたくさんかかるんだろうな。弟は中一すぐに高校受験になる。「ねえ兄ちゃん」「ああ」と机にもたれかかって居眠りをしていた「ああ、どうした」「ごめんね起こして。今日ねえお母さん、いつもと違う店で買い物していたんだ。」「別にいいじゃないか」「うんそうだけどね、オレそっと見ていたんだ」「それで、サイフの中味気にしながらって言うか、一度レジへ持っていって物を返しに行ったりしていたんだ」父親が早く帰ってくるようになって2週間がすぎた。いつもとかわらない生活をしている。「お母さん私立の併願を受けたいから25000円の受験料もって明日までお願い」「え!明日まで」という声が聞こえたような気がした。 「ちょっといいか2人とも下へ来てくれ」2階にいた俺達は呼び出された。母親も座っている。「実は・・・」話は会社は倒産するかもしれない。今月から給料が入ってくる見込みが今のところない。家のローン。その他いろいろな出費が火の車になる。だけどお前達の高校だけは行かせる。なんとしてでも行かせる。勇輝 私立の併願はなしにしてくれ25000円が今手元にない。公立一本で頼む。それから無駄なお金はない、今までのような生活が出来ないかもしれない。それは我慢してくれ」 父親も言いたくっていったんじゃない。でも家族が支えあうことが今とても大切だと感じたからであろう。「お母さんも節約するからね、同じ食事でもがまんしなさいね」「オレも節電に協力します。お風呂も早く入るね」「父さんもビールは安いものにするから」「どうせだったらやめたらメタボ治るよ」「ちょっと・・それだけは」「そうか貧乏ってメタボ対策になるかも」「また・・」「ははははっは」 カレーの日が続いた。「一晩置いたカレーはうまいんだ」「俺カレー好きだから毎日でもいいよ」肉に変わりにソーセージが入っている。「明日のお弁当・・・カレーってわけにはいかないから・・と困っているよ「カレーパンにしたらうまいよ」そうだね。それから明日の晩はカレーうどんにしようよ。家族である。支え合いができる家族である。
2009年01月22日
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全員リレー ミカは小学校5年のことから中学3年までずっと不登校だった生徒。担任は毎日のように家に行く。最初は会って話ができたが、だんだんドア越しに話をするようになる。やがて一方通行の話になる。親もだんだん焦りから、苛立ちから、・・子どもの本当の気持をわかってやれなかった反省やこの行為が何かのメッセージではないかと考えるようになる。 時は過ぎ、中学3年生になった、担任は中学校生活の思い出、いや一生の思い出になる修学旅行をきっかけにしたかった。クラスで何人かの女子が自発的に家に行ってくれた。班別コースを決めるときも「ミカ」の行きたいところを入れようよとアイディアを出し、本人に考えさせたしおりの原稿提出ぎりぎりのまで待った。母親が「ぜひ、嵯峨野の釈迦堂を入れてほしい」と言った。あまり修学旅行のコースとして選ばれないところ「でもいいじゃん、ミカが真剣に考えたところだから」そこは写経が出来、いろいろなことの願いがかなうとして地元では有名であることを 学園祭などにどうしてもその子を出させたかった。修学旅行はカバンに荷物を入れるところまで言ったが当日そのこのバスの座席は空いていた。学園祭・・この学園差が終わると一気に三年生は受験モードになる。クラスという集団の中での感動、手に手を取り合って喜ぶ感動。一度でいいから一生に一度でいいから味あわせてあげたい一心で家に行く。「これリレーの鉢巻です、全員リレーです。ぜひ一緒に走ってみないか」ここに置いておくよ。堅く閉ざされた部屋、でも明かりが漏れている、そこに居るのである。話を聞いているのである。 当日、彼女を待った。ぎりぎりまで待った、リレーは午後の最後の種目である。でも姿は見せなかった。『先生、どうしますか?私が2回走りますか?』そういった声の中。先生職員室に電話が入っています「はい。だれからですか」・・・。「先生、ありがとう。いつも家に着てくれて・今私は自分の部屋で、体育着に着替え、先生が昨日私の名前を書いておいて言ってくれた赤い鉢巻をしっかりと巻いて走っています。そこにはいけないけれど一度もあったことのないクラスの仲間だけで一緒に走っています」涙が出た「ま、いいか・・・」リレーの時間が迫っている。先生はクラス全員を集めた。そしてその話をした。先生はその思いをもって、全員が走るリレーにしてくれと話をした。そしたらその子のことをいつも気遣っているひとりの女の子が「先生、提案があります・・・」その提案を聞いて驚いたがすぐに拍手が起こった。携帯電話はミカとつながったままだ、ミカは受信音量を一杯にした。アンカーの彼女も送信音量を一杯にした。いよいよ女子の最後になる。あとは男子のアンカーの一周を残すのみ、6クラス中3位でバトンを受け取る。「行くミカ」グラウンドの声援は高まる、2位の3組の背中をとらえた、追い越しに入る、その土を蹴る音がよく聞こえる。「いい、ミカ行くよ」腰にしっかりと見えないようにベルトにくくりつけた。そのままをつながったままの「携帯」は走る。ゴール直前3位の選手を抜き、いよいよアンカーへ。「ミカ2位だよ」彼女はバトンを渡したともアンカーと一緒に走る。ラインの内側から応援しながら。クラスの皆も走る。みんなの息遣いが聞こえる。「一緒に走っているんだよ。」応援は「ミカがんばれ」に変わる。部屋でもミカは泣きながら前を向いて足を動かしている。「いつかきっと、いつかきっとね」こう言ってゴールテープを切った。「いっしょだよ」「まってるよ」「いつかきっと」
2009年01月20日
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缶チューハイ1本と柿の種一袋 1月12日 20:30分発の大阪・京都行きの夜行バスが○○駅前で低いエンジン音を出して乗客を待っている。年末年始も休みが取れず、松の内も出勤。ようやく休みが取れたのは成人式成人式を騒ぐ1月12日であった。1月一杯で派遣の契約が切れるという噂を職場の仲間から聞いた。長距離トラック運転手の日下さん。53歳。正社員だった会社が3年前の倒産し、そのライバル会社であったA運送の派遣社員として働き始めた。20歳の時から30年間長距離の運転手として働いた手腕を生かす会社はやはり同じ運転手しかなかった。「日下さん、給料は半分以下になりますよ。そして派遣と言うことなので期間は2年11ヶ月。そうね2009年の1月一杯ってとこかな」自分の半分の年に行かない事務員からそう言われた。 日下さんは山梨のこの町から全国に渡って仕事をした。遠くは青森の八戸 九州鹿児島の出水。四国は高知の中村 中国では島根の松江 一番多く行ったのは大阪と京都であった。派遣社員になってからはもっぱら「人が休んだ時の補充」ということで不定期であった。また正社員が嫌がる土日 お盆 年末年始は日下さんのスケジュールは一杯であった。結婚はしていない。独身である。今後も独身であると思うと私に言う。身よりもなく親戚ももうとっくに音信普通。 日下さん12日から14日まで休みとりますね。返事は「いや」と言いたかったが「はい」とってしまった。1月30日一杯で終わりの人に何も皆は興味がない。「はいわかりました」 会社の寮を出たのが19時。いつも行く近くの食堂で630円の野菜炒め定食を食べる「日下さん、今日仕事は?」「休みさ」「めずらしいね」それからバス停に向かう前に酒の量販店によって缶チューハイ1本と柿の種を買う。「バスで京都か、はじめてだな」 定員半分の乗車でバスは発車する。座席番号1-A となりに中年の会社員らしく人が座る「どうも」の一言。バスが高速道路に入る前に運転手が「今日は○○急行を・・」とお決まりのあいさつを予定到着時間を知らせて・・「本日座席に余裕がありますから。お好きなお席へお座りください。なお途中お客様が乗車の時にはもとのお席にお戻りください」それを聞いた横の男性はそさくさと後ろに行ってしまった「なんか話しながら以降と思っていたのに」と声にならない呟きをしながら日下さんは月明かりに少しシルエットを見せる富士山を眺めた。運転手は一人。ワンマンバスである。大阪まで11時間。「これは大変だ、トラックだったら5時間あれば余裕なのに」仮眠と言うことで東名のサービスエリアで3時間仮眠を取るアナウンスがあった。「そうだろな」でも日下さんはどうも気になって仕方がない。同じ長距離を走る仲間と言うこともあるだろう。休憩に入った。トイレに行く人。一服する人。それぞれが思い思いに時を過ごす。「あ、運転手さん。」うどんをすすっていた運転手に声をかける日下さん。「たいへんですね。」「ええ、でもバスの運転手が小さな頃からの夢でしたから」24歳の息子のようなバスの運転手。「好きだからできる」確かにそうである。自分も大きなトラックを自由自在に運転する人に憧れた。バスに戻り缶チューハイの飲む。大好きな柿の種を口にほうばる。「そうか、まだまだオレもいけるかなあ」と思いながら眠りに入る。京都へは6時ごろ着く。
2009年01月16日
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おくりびと 映画「おくりびと」を観た。涙が何回もこぼれた。「こんなにきれいな妻を見るのは初めてです」と棺に入れられる前に化粧をしてもらった妻を見て夫は言った「ありがとうございます。本当にありがとうございます」東京でチェロの演奏家だった小林大吾さん。ようやくオーケストラ奏者になったと思ったら経営難で解散。1800万円のチェロもいらなくなり。買った店に引き取ってもらい借金もなくして妻と田舎の山形に戻る。仕事がないことで生活も苦しいが、田舎ではそんなに自分で望んでいる仕事などない。死んだ母親が残していった店だけが一人息子に残された財産であった。父親は6歳の時、家を出て行った。女手ひとつで育てられた。父譲りの才能でチェロの演奏家を目指したがはやり才能にも限界があった。それでも「父に負けたくない」「母を捨てた父をうらんでやる」と言う思いをずっともってきた。「あんな仕事やめてください」「あなたは今度生まれてくる私達の子どもに自信をもって自分の仕事を言えますか」最後は汚らわしいとまで言われた。妻は実家に帰った。「どうしてわかってもらえないんだ。死んだ人を旅立つ世話をすることの素晴らしさを」命あるものはいずれ必ず死んでいく。その時に残った人たちがどんな思いで故人を忍んでいくんだろう。憎い気持が悲しい気持に勝っている時だってある。やつれた顔を見て、すすり泣く家族もいる。不慮の事故で子どもを亡くし、半狂乱になっている人もいる。でもその時にきちんと「おくってやりたい」と言う気持は誰もが持つのである。「もっとましな仕事しろよ」と言っていた親友の母親が亡くなった。夫が残した銭湯を一人で守り通してきた。働きづめであった。「でも、この銭湯はとうちゃんとずっとずっと一緒に守ってきたんだ。息子のお前だってそのおかげでここまでこれたのがわからないのか!」体のことを案じて心配している息子。母親の思い。その母親が薪を運ぶ途中に倒れそのまま息を引き取った。 「では最後に家族の皆様、どうぞお顔を拭いてやってください」自分に「もっとましなしごとしないのか」と言った友人が目の前で母親の遺体をきれいに拭き、きれいな着物を着せて旅立ちの準備をしてくれた。そのしっかりした動き。死者の気持をきちんと分かっているかのような動きに、実家から帰って来た妻は涙を流した。「生きとし生けるものがここまで生きてきたと自信を持って言える最後の瞬間を作り上げる」という威厳まで感じた。 ある日、失踪した父親の死の知らせが来る。「まじめな人で、黙々と働いていた、難も文句を言わないで、朝から晩まで働いていた」と漁師の仲間が言う「自分に納棺させてください」と息子は言う。父への恨み、憎しみが消えていく。服を着替えさせ、顔をそり、髪の毛を整える。いままで記憶が定かでなかった父親の顔を思い出す。自然と涙がこぼれる。父親は手に小石を握っていた、息子が幼い頃家族3人で河原で拾った石である。小さな石だった。その石が手からこぼれ落ちる。30年間の空白の時間が一気にすわーーと消えてなくなる。母と父そして自分の笑顔。楽しい記憶だけがよみがえる。「おやじ」父親のその死に顔は笑っているようであった。」
2009年01月14日
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