全1682件 (1682件中 151-200件目)
【オデッセイ】「相手は宇宙だ。まったく協力的じゃない。ある時点で人間を見放す。君らは思うだろう。“もう終わりだ”“僕は死ぬ”とね。それを受け入れるのか闘うのか、そこが肝心なんだ。まず始めるんだ。問題を一つ解決したら次の問題に取り組む。そうして一つ一つ解決していけば、必ず帰れるんだ」先日、『ゼロ・グラビティ』を見て感動し、興奮冷めやらぬ中、同カテゴリである『オデッセイ』も見てみた。なるほどNASAの全面協力もあって、かなり見ごたえのある出来映えだと思った。だが映画というものはしょせん娯楽だ。好き嫌いが出て来る。レビューを読めば大絶賛のものもあれば、酷評をつらつらと並べ立てているものもある。それでいいのだ、それこそが娯楽。私個人としての『オデッセイ』評は、可もなく不可もなく、である。リドリー・スコット監督がメガホンを取っているだけあって、140分という長時間にもかかわらず楽しく視聴できたのは幸いだ。ありがたいことである。この監督の描く女性はいつだって強くたくましく勇敢である。それは『エイリアン』のときはもちろん、近年では『プロメテウス』でもそうだ。『オデッセイ』では、女性が船長として活躍している。冷静で客観的な判断力を持ち、正義感にあふれた人物として描かれている。同性としてたいへん嬉しい。 それにしても、である。ハリウッドすら買い占めてしまいそうなほどの強い影響力を持つのだろうか、中国は。『オデッセイ』を見ていたら、役柄としてはとても「おいしい役」に中国人が設定されている。ざっくり言ってしまえば、火星に一人置き去りにされてしまった主人公を救出するため、NASAは必要な援助を中国に求めるというくだりである。そこではインテリジェンスにあふれた中国人科学者が、その良心に従ってNASAを支援するのだ。このシーンだけはものすごく違和感を覚えた。 ストーリーはこうだ。火星の探査中、アレス3のクルーたちは大砂嵐に見舞われる。船長の決断で全ミッションを放棄し、火星から退避しようとしたところ、マーク・ワトニーだけは破損したアンテナの直撃を受けてしまった。クルーたちはなんとかしてマークを救助したいと思うが、二次被害を防ぐため、やむなくヘルメス号を出発させてしまう。一方、てっきり絶命したと思われたマークは、重傷を負ったものの生存していた。火星に一人取り残されてしまったことを知り、すぐさま基地にあるわずかな食糧のチェックをしてみたところ、とうてい足りない。地球からの救助が来るのが4年後であることに絶望しかける。だが幸いなことに、マークは植物学者である。その知識をフル活用し、火星の土とクルーらの排泄物を使ってジャガイモの栽培に成功するのだった。さらには、旧式の通信機能をどうにか回復させ、地球との簡単な内容の交信に成功する。NASAは、火星に一人取り残されたマークが生存していることを確認すると、さっそく食料輸送のロケット打ち上げを試みるが、発射時に失敗。NASAは完全に行き詰ってしまう。そんな折、中国国家航天局からロケット支援提供の申し出を受けるのだった。『オデッセイ』の見どころは、やはりあきらめない精神性であろう。どんなに過酷な状況下に置かれても、最後まであきらめず生きることに執着する精神力である。あと、後半はややキレイゴトに思えてしまうのだが、緊張関係にある国家間でも、人命の尊さを最優先させることの大切さ、みたいなものを感じた。「助け合い」の必要性を表現しているのは間違いないが、根本的なところで違和感を覚えてしまったのは私だけだろうか?これが夢物語で終わらぬよう、真の平和な世の中になることを願ってやまない。 2015年(米)、2016年(日)公開【監督】リドリー・スコット【出演】マット・デイモン、ジェシカ・チャスティン
2017.04.02
コメント(0)
【ビッグ・アイズ】「君に一つ質問があるんだ。なぜこんなに目だけがバカでかいの?」「人は何でも目を通して見るでしょ? 目は心の窓なのよ」昨年の春、水森亜土の原画展に行って来た。四十代、五十代の女性にとって、水森亜土の描くメルヘンチックでポップなイラストは、思わず自分が「女子」であることを思い出させる魅力があるものなのだ。もちろん会場は大盛況。幼いころ、水森亜土のイラストが入った文房具を、女の子ならだれもが持っていた。とにかく人気だったのだ。私は『ビッグ・アイズ』を見たとき、すぐに水森亜土のことを思い浮かべた。水森亜土の作品は一目で彼女が描いたものだとわかる。芸術的価値はさておき、それほど個性的で魅力のある画風だからだ。『ビッグ・アイズ』では、瞳の大きな女の子が特徴的な画風で世間の注目を集めたイラストレーターの伝記を描いている。メガホンを取ったのはティム・バートン監督で、彼自身も『ビッグ・アイズ』をめぐる事件の真相に驚いた一人であり、「映画化を熱望した仰天の実話」とのこと。 ストーリーはこうだ。舞台は北カリフォルニア。マーガレットは幼い娘の手を引き、逃げるようにして家を出た。夫と別居することにしたのだ。マーガレットは食べていくために家具屋の絵付けをしたり、似顔絵を描くなどして生計を立てていた。あるとき、サンフランシスコのノースビーチ野外展示会において、一人の男と出会う。ウォルター・キーンと言い、明るく陽気で話し好きの男だった。マーガレットはウォルターの明るさと話術にずいぶんと癒され、心を許し、やがて結婚する。そんな中、ウォルターはマーガレットの描いた「ビッグ・アイズ」に目を留めた客に、自分が作者であるとウソをつく。だがウォルターの巧みなビジネス交渉で、思いがけずマーガレットの絵が売れ始める。マーガレットは、自分が実際の作者であるにもかかわらず、黙して語らず、絵の製作をすすめていく。とはいえ、愛する娘をも欺き、アトリエには決して入らないようにさせ、徹底して夫が描いているように見せかけるのには限界を感じた。マーガレットは、徐々に夫の横暴なやり方に不満を募らせてゆくのだった。 この作品を見て感じたのは、だれかに依存して生きるというのは、ある種、危険なことではないかと。というのも、「ビッグ・アイズ」の本当の作者であるマーガレットは、精神的にも経済的にも男性に依存し過ぎたのではなかろうかと思ったのだ。もちろん、1950年代当時のことなので、今のように女性が生き生きと社会に出て働くことが叶わなかったのは事実である。また、キリスト教圏であることから、宗教的教義もあって、「家計も家庭のルールもすべて夫に従う」のが当たり前だったのだ。だがそんな状況のマーガレットも、自分を取り巻く環境の変化や、夫ウォルターの身勝手な態度やふるまいに耐えきれず、別居を決意。ハワイに移住する。そこで出会うのが「※エホバの証人」というキリスト教系新宗教の伝道者だった。(※カトリック・プロテスタントからは異端とされる。フランスなどではカルト教団と指定されている。参照:ウィキペディア)マーガレットは良くも悪くもその宗教との出合いにより、夫からの呪縛から解かれていくのだ。夫への依存から宗教への依存へと移行していく様子は作品には描かれていない。だが、そういう状況は容易に想像できるから不思議だ。 『ビッグ・アイズ』は、現在80代後半になる実在のイラストレーターの半生を描くものだが、働く現代女性へのエールにも思える。しがない家庭の主婦が夫との別居から始まり、一人娘を育てていくために、得意の絵で生計を立てていく。再婚しても波乱の人生からは逃れられず、やがて夫と法廷闘争へともつれ込むという結末は、あまりにドラマチックである。(だからこそ映画化されたのだが)とはいえ、どんなに苦しく過酷な状況でもなんとかなる、どうにかなるのだと、ちょっぴりの楽観性と励ましをもたらしてくれる。 口下手で内気なマーガレット役に扮するエイミー・アダムスと、自分勝手で虚言癖のあるウォルター役のクリストフ・ヴァルツ。2人の演技も見ものである。 2014年(米)、2015年(日)公開【監督】ティム・バートン【出演】エイミー・アダムス、クリストフ・ヴァルツ
2017.03.26
コメント(0)
【ヴィジット】「現実を見なきゃ。僕は間違ってない。この家はなんだか変だよ。きっと地下に何かあるんだ」せっかくの三連休をどうやって過ごそうかとあれこれ悩んでみたものの、やはり私は家でのんびり過ごすのが一番性に合っていることに気が付いた。TSUTAYAで洋画コーナーをざっと見渡したあと、深く考えるまでもなく『ヴィジット』を手に取った。私の大・大・大好きなM・ナイト・シャマラン監督作品である。代表作として『シックス・センス』や『サイン』などがある。それらを単なるホラーやサスペンスというカテゴリに括ってしまうのは早計である。シャマラン監督の表現世界観は、一貫して人間の再生ドラマであるからだ。主人公が過去に背負った心の傷とかトラウマのようなものから、いかにして立ち直るのか、いかにして向き合うのか。そういう精神的ダメージからの復活を描いているものがほとんどなのだ。そのテーマを演出するための装飾がたまたま「ホラー」という形を取ったに過ぎない、と私は考察している。 ストーリーはこうだ。離婚し、シングルマザーとして2人の子どもを育てている中、娘のベッカ(15歳)と息子のタイラー(13歳)は、休暇を利用して祖父母のもとへ遊びに行きたいと言う。2人のママは、実は19歳で家出して以来、ずっと実家とは連絡を取っていなかったため悩むのだが、子どもたちのたっての願いだったのでそれを受け入れる。姉のベッカは記録映画の撮影に夢中で、道中カメラを回すことを忘れず、一部始終を撮影した。長い列車の旅を終え、駅に到着すると、2人を祖父母があたたかく出迎えてくれた。駅からさらにへんぴな田舎まで車を走らせると、やっとママの実家である祖父母の屋敷に到着。姉弟は、祖母の美味しい料理やお菓子に大喜びするものの、何か言いようのない違和感を覚える。さらに深夜になると、不気味な物音が響き渡り、人が徘徊するような気配がした。2人の恐怖心はピークに達するのだった。 ネットで『ヴィジット』のレビューをいくつかチェックしてみたところ、だいぶ私の感想とは異なっていた。私は申しぶんなく見事な作品だと思う。これこそ正にシャマラン・ワールドだと言っても過言ではない。視聴者がこの作品に望んでいるのは物凄くおどろおどろしい恐怖だったり、グロテスクなものなのだろうか?だとしたら残念ながらそれは望めない。注目すべきはそこではないのだから!この作品の見どころは、心の傷を負った十代の姉弟が一週間の祖父母宅での恐怖体験から、さまざまなことを学び、勇気を出し、過去のトラウマから再生するドラマなのである。祖父母だと思っていた2人が認知症だろうが統合失調症だろうが、それは映画として完成させるための単なる装飾であり、テーマは「克服」あるいは「再生」なのだ。人は様々な過去のあやまちを悔やみ、絶望するが、それらは許されるものなのである。必ずやり直すことができるのだという宗教的な意味合いも見え隠れする。幼いころ、グリム童話を読んだ記憶のある人などは、「この設定はもしかして・・・」と思ったかもしれない。私は「おかしの家」でくり広げられる恐怖の連続を通して得られる成長を、この作品に見た気がする。そう言えば無名の子役に演技力の有無を問うようなレビューもあったが、そのB級的雰囲気こそが『ヴィジット』をシュールレアリズム作品に押し上げていると思う。賛否両論あるが、私は大好きな作品だ。 2015年公開【監督】M・ナイト・シャマラン【出演】オリビア・デヨング、エド・オクセンボールド
2017.03.19
コメント(0)
【ゼロ・グラビティ】「僕のことは構うな。諦めることも学ぶんだ。『必ず生還する』と言ってくれ・・・さぁライアン、言うんだ」「・・・必ず生還する」「よし、頑張れよ」仕事でイヤなことがあったり、人間関係のつまらないしがらみやいざこざで、もう何もかも放り出してしまいたくなることがある。そんなときに空を見上げると、鳥が自由を満喫しているように見えて、「ああ、私も大空をはばたいてみたい」などと思ったりする。地上での暮らしは、なんとせせこましくみみっちいものなのかとうんざりする一方で、地上から見上げる蒼天が清々しく思えるものだ。逆に空から見下ろした地球というのも美しいに違いない。たくさんの命が集まって、その集合体がこの青い星を形成しているのだとしたら、ほとんど奇跡に近い。その奇跡の星の大地をしっかり踏みしめて生きることは、何にも代えがたい行為なのだ。 今回見た『ゼロ・グラビティ』は、3人の宇宙飛行士たちが宇宙空間での船外活動中、トラブルに巻き込まれるというSF・サスペンス作品となっている。 ストーリーはこうだ。舞台は地上600キロ上空の宇宙空間。ライアン・ストーン博士、マット・コワルスキー、それにシャリフの3人は、ハッブル宇宙望遠鏡の修理作業を行っていた。今回初めて参加するライアンは、船外活動のため、体の不調を訴えながらも点検補修作業に従事していた。そんな中、ヒューストンの管制から無線が入る。なんと、ロシアが自国の人工衛星を破壊したため、その影響で膨大な破片が宇宙ごみとなって3人のいるところへ急接近していると言う。3人は慌てて緊急避難しようとするが間に合わず、大量の宇宙ごみを直撃してしまう。中でもシャリフはまともに被害を受け、即死。ライアンは宇宙空間に投げ出されてしまい、パニック状態を起こしてしまう。だが、マットによって的確な指示を受け、どうにかこうにか正気を取り戻すのであった。 『ゼロ・グラビティ』のヒロインに、当初はスカーレット・ヨハンソンやナタリー・ポートマンなどの女優さんらの名前が上がっていたようだが、結果的にはサンドラ・ブロックがおさまった。私はそれで良かったのではと、改めて思う。サンドラ・ブロックの名前を知ったのは、2011年3月11日に起きた東日本大震災のあとである。義援金を送った方々の名前がテレビで読み上げられた。その中に“ハリウッド女優”としてサンドラ・ブロックの名前を見つけ、ちょっとした感銘を受けたのだ。そのサンドラ・ブロックが受賞こそ逃したものの、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされたときは嬉しかった。 この作品の何がすばらしいかというと、すべてがスタンダードで映画としての醍醐味を充分に味わせてくれるという点である。内容は実にシンプルだが、次から次へとトラブルに見舞われ、そのつど思考錯誤して何とか脱出をはかるという定石は、見事な流れだった。ヒッチコックのようなユニークなカメラアングルや、長回しもサスペンスとしては申しぶんがなかった。私はこの作品のラストが好きでたまらない。やっとの思いで地球に帰還するライアンが地球の引力を感じるのだが、それまで無重力空間にいたためのギャップでよろよろする。その際、見ているこちら側まで急に体が重くなったような錯覚さえするから不思議だ。2本の足で大地をしっかり踏みしめる姿に思わず目頭が熱くなる。この映画はおそらく、このラストを表現したいがために作られたのではと思われるほどだ。余談だが、ヒューストンの管制官の声がエド・ハリスだった。声だけの出演なのに、妙にしっくりときたのは『アポロ13』がチラついたせいかもしれない。「ゼロ・クラビティ」は、生きることの意義や意味を見失っていたヒロインが逃げることをやめ、再生しようと決意する素晴らしい人間ドラマなのだ。 2013年公開【監督】アルフォソン・キュアロン【出演】サンドラ・ブロック、ジョージ・クルーニー
2017.03.12
コメント(0)
【あん】「私たちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。だとすれば、何かになれなくても、私たちは・・・私たちには生きる意味があるのよ」花粉症に悩まされる季節になってようやく今年初めてとなる記事を書いた。私事ではあるが、昨年の10月から職場が変わり、日常の生活リズムが変わった。だからというわけでもないけれど、それなりに新しい顔ぶれに気を使い、新しい仕事を覚え、新しい居場所に必死にしがみついているような状況だ。帰るなり夕飯の仕度という気にもならず、こたつで丸くなってピーナッツをつまみながらインスタントコーヒーを飲む。そしてしばらくぼんやりする。やっと気持ちを自宅モードに切り替えると、ようやく台所に立つのだ。今月で今の職場に採用されてやっと半年となる。少しずつ、ほんの少しずつだが自分の時間をうまく作り出そうという気になって来た。手始めにTSUTAYAに行こうと思った。見たい作品はいくらでもあるが、今の私のメンタルにそっと寄り添うような作品となると、かなり絞り込まれる。今回は邦画にしてみようと思った。私が手に取ったのは、『あん』である。甘党の私にはふさわしいタイトルだと思った。 ストーリーはこうだ。桜並木に面した一角に、小さなどら焼き屋がある。雇われ店長の千太郎はワケありの過去を持つ身で、寂しくつまらなさそうな顔つきで、毎日どら焼きを作っていた。満開の桜には不釣り合いなほど陰気で、暗く、ちっぽけな店だった。そんな店に、徳江という風変わりな年寄りが現れる。時給は200円でいいから働かせて欲しいと言う。店先に貼られたバイト募集の貼り紙を見たらしかった。だが千太郎は、70代半ばだという徳江を軽くあしらい、どら焼き1個を持たせて帰らせてしまう。後日、再び現れる徳江は、千太郎に餡がそれほど美味しくなかったと言って、持参した手作りの餡を千太郎に食べるよう勧める。千太郎は、徳江からもらった餡をなめてみて驚く。それは、これまで食べて来た餡とは比べものにならないほどの美味しさだったからである。千太郎は徳江を雇うことにし、餡作りを任せることにした。すると、どら焼きの餡が美味しくなったと評判を呼び、開店前から客が行列をつくるほどになったのである。だがそれも長くは続かない。店のオーナー夫人が徳江のうわさを聞きつけ、千太郎に徳江を辞めさせるよう言いに来たのである。なんと徳江は、元ハンセン氏病患者で、今も隔離施設に入居しているのだという。 今も昔も差別というものは根強くあって、それをいけないことだとは知りながらも、人は目を背けて生きている。この作品は決して差別を激しく糾弾するものとは違う。45年も前に公開された松本清張の『砂の器』も、たしかハンセン氏病を扱った作品だったが、あれは完全に差別への批判だった。科学的根拠のない言われに対するいたずらな恐怖心や差別意識を徹底的に批判するものだった。その点、『あん』は生きる喜びに目を向けた内容となっている。桜を愛でる喜び、どら焼き作りに精を出す喜び。生きることはそれだけで素晴らしいのだと表現する。 どら焼き屋の店長に扮するのは永瀬正敏である。孤独で不器用に生きる千太郎をそつなく演じている。元ハンセン氏病患者で徳江に扮するのは樹木希林。浮き世離れした雰囲気と、人懐こさを見事に演じ切っていた。さすがさすがの演技にだれも文句はつけられまい。貧困家庭に育つ女子中学生ワカナ役には、樹木希林の孫である内田伽羅が扮している。撮影現場では身内でありながら、あえてお互いに距離を取って臨んだらしい。(ウィキペディア参照) 『あん』には、視聴者を泣かせようとして演出されたシーンはないのに、私は号泣した。私はこの俗世間に生きる喜びを見出したいと思った。あまりにも多くを望み過ぎていて、ささいなことに幸せを感じる瞬間を忘れていた自分に気付かされる。静謐で上品な日本映画に、心から拍手を送りたい。 2015年公開【監督】河瀬直美【出演】樹木希林、永瀬正敏、内田伽羅
2017.03.05
コメント(0)
今年も無事に暮れようとしています。皆さま、一年間本当にお疲れさまでした。当ブログ管理責任者もライターも、おかげさまでどうにかこうにかここまで続けてこれました。ブログ立ち上げ時には張り切って更新して来た記事ですが、ここへ来て停滞ぎみです。理由をあげればキリはなく、まずは長く続けていくということはそういうことなのだとご理解いただければ幸いです。 それにしてもこの一年間、ストレスの多い毎日でした。そんなのは今年に限ったことではない、とおっしゃる方もたくさんおられるでしょう。私自身そうです。ストレスは昨年だって毎日感じ続けていましたから。ただ、人間という生きものは、直近のことに敏感になる動物なので、過去の記憶を塗り替えて今をかみしめてしまうものなのかもしれません。 最近、機会があって、心療内科医として一線で活躍されている海原純子医師の手記を読みました。それにはストレス時代を生きるための三つの方法が紹介されていました。ここにその三つの方法を引用させていただくことにします。 ・自分自身をストレスに対して強くしていく・仲間をつくっていく・自分の物の見方をもう一回点検していく いろんな解釈の仕方があるとは思いますが、難しく考えず、そのことばどおり実行していくのがベターだと思いました。 「ストレスに対して強く」するというのは、ストレスに弱い自分を受け入れ、気付くことで、落ち込んだ後の回復力を作っていくということ。「仲間をつくる」というのは、やたらだれかと群れるという意味ではなく、痛みや辛さを共有できる友だち、あるいはざっくばらんに話せる人をつくることでストレスを軽減させるというもの。「物の見方をもう一回点検」するというのは、自分なりの考えや思いを否定することではなく、頑なだった思考を今一度柔軟性を持って再構築してみるということ、、、なのでは? とにかくストレスは溜めないことです!!給料日後の週末に、お気に入りのカフェでコーヒーとケーキに舌鼓を打つのもいいし、気になっていた新作映画を見たり、コンサートに出かけるのもいいと思います。大切なのは、日々ストレスで痛めつけられている自分にやさしくしてあげることです。大人になったら誰も褒めてはくれません。せめて自分だけでも頑張っている自分にご褒美をあげたいものです。 本年も吟遊映人のブログをご愛読いただきまして、本当にありがとうございます。今後も急がず、焦らず、自分の速度で一歩一歩あゆんで行きたいと思います。どうか皆さま、良いお年をお迎えください。皆さまのご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
2016.12.30
コメント(0)
【島本理生/ナラタージュ】湧き上がる哀しみを追い越してさらに強い快感をもたらす今年はあまり映画も見なかったし、読書もいま一つだった。年の瀬は社会派ミステリーとか、ギトギトした人間ドラマには触手が動かない。何かどっぷりと浸ることのできる恋愛小説でも読みたいと思って本屋さんに出向いたら、島本理生の小説に目がとまった。この作家の作品はまだ読んだことがなかったので、半分は興味本位でもあった。帯のキャッチコピーが衝撃的で、ちょっと生唾を呑み込みたくなるような文だった。 「お願いだから私を壊して、帰れないところまで連れていって見捨てて」 一体どんな過激な恋愛が展開するのだろうかと期待も込めて、結局、購入を決めた。 一読する前に『ナラタージュ』についてその意味を調べてみた。「映画などで主人公に過去のことを物語らせながら場面をそれに合わせるという手法」 ※三省堂 新明解国語辞典より引用ふむふむと納得しつつ、読み進めた。 著者の島本理生は、立教大学文学部を中退している。十代のころよりその才能を開花させ、さまざまな作品で頭角をあらわしている。代表作に『リトル・バイ・リトル』などがある。『ナラタージュ』は、「この恋愛小説がすごい!2006年版」にて第一位を獲得しており、新人ながらベストセラーをたたき出した。 あらすじは次のとおり。大学1年生の工藤泉は、高校時代より、演劇部の顧問をしていた葉山先生のことをずっと慕い続けていた。あるとき、ケータイに葉山先生から連絡があり、卒業生にも部活の助っ人として参加して欲しいという要望があった。泉の他にも同級生で元部長をやっていた黒川、そして志緒にも声がかけられた。こうして泉は、淡くせつない想いを封印するつもりでいたにもかかわらず、再び葉山先生と顔を合わせることになった。泉にとって葉山先生は特別な存在だった。高校時代、いわれのない理由でいじめを受け、死にたいとまで思った泉を全力で救ったのが葉山先生だった。そしてまた、葉山先生にとっても唯一泉だけが弱みを見せ、信用し、無防備に自分をさらけ出してくれる存在であり、お互いがお互いを必要としていたのだ。だが、どれほど泉が葉山先生に好意を寄せようとも、それは叶わぬ恋だった。葉山先生には妻がいた。わけがあって別居はしていたが、離婚する気はなかった。だが心の底ではだれよりも泉を欲していた。泉も葉山先生を忘れたくて必死にもがいていた。自分を好きになってくれた同い年の小野と付き合うことにして、体も重ねてみたものの、やはり葉山先生を忘れることなどできなかったのである。 この作品を、当時20か21歳だった島本理生が書いたとはにわかに信じられない気持ちだ。というのも、作風が大人びていて、冷静で、それなのに若さゆえのイライラ感やら焦りなどが見事に表現されているからだ。世間には教師と生徒との恋を扱った作品はあまたあるけれど、この小説はちょっとそういう路線とは違う。やさしさゆえにズルイ教師と一途な女子大生が、どうしようもない恋愛をして、未来のない恋に絶望しつつも、あきらめるよう努力するという作品なのだ。愛した人をずっと胸の奥底に秘めて生きていくという悲恋だが、恋愛をめんどうくさがる最近の若い人なら、かえって興味をそそられるに違いない。小説の世界だからこそのドラマは、架空のこととはいえ、一時のメリハリを提供してくれる。もう私ぐらいの年齢になると、あまりに繊細でキレイ過ぎて、内容よりも文章テクニックの凄さの方が気になってしまう。体を重ねるシーンを描いた場面だけは、その当時、著者が実際に体験済みだったか、あるいはまだ乙女で空想をもとに表現したのか、微妙なタッチに思われた。(私はどうも後者のような気がしてならないが・・・) クリスマスを一人で過ごす人に読んでもらいたい小説だ。 『ナラタージュ』島本理生・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.12.25
コメント(0)
【宮本輝/錦繍】元夫婦が年を経てお互いの生き様を認め合うプロセス私は幼いころより手紙を書くのが大好きだった。学生時代には、雑誌の文通コーナーで知り合った相手と長らく文通もしていた。今思えば内容なんてつまらないものだ。ひいきにしているミュージシャンの話とか、映画の批評とか、くだらない芸能情報などをつらつらと飽きもせず書いていたに過ぎない。あのころはパソコンもスマホもない時代なので、友だちと連絡を取る手段といえば、自宅の固定電話の他に、交換日記をしたり、手紙のやりとりをすることであり、それは決して珍しいことではなかった。大人になってからも、私は文通を続けていた。四十代も半ばになった今となっては、さすがにそれも叶わなくなってしまったが、、、 宮本輝の『錦繍』は、元夫婦だった男女が、年を経て偶然出くわし、手紙のやりとりが始まるという書簡体の体裁を取る小説である。リアルの世界ではここまで細かくはつづらないであろうと思われる内容も、手紙という形で表現されている。読んでいるうちに「これはもしや復縁する展開か?」と推理するのだが、見事にはずれた。ラストはハッピーエンドではない。宮本輝がこの小説で一体何を表現したかったのか?私は私なりに考えてみたが、いつものようにしたり顔では言えないのが残念。 話の流れは次のとおり。亜紀は、脳性麻痺の8歳の息子をつれて、蔵王に旅行に出かけたところ、元夫である靖明とばったり出くわす。それは十数年ぶりの再会で、あまりにも偶然で意外すぎて、お互いろくに会話することもなく別れる。亜紀はすでに再婚し、一児をもうけながらも、靖明のことが忘れられず、人づてに住所を聞き、長い手紙を出すことにした。二人の離婚の原因は、靖明の浮気と心中騒ぎであった。靖明は、中学2年のときから想いを寄せていた女とねんごろな関係になったところ、女はだんだん靖明に本気になっていった。一方、靖明の方は女を愛する気持ちに変わりはないが、家庭を壊す気はなく、不倫関係を続けていく気でいた。そんなある日、二人はいつもの逢引き宿で逢瀬を楽しんだあと、女が寝ている靖明に斬りつけ、女自身も自らを突き刺し、自殺するのだった。このとき女は死に、靖明は一命を取り留めた。結局、そのことが原因で亜紀と靖明は別れることになった。亜紀は、靖明への未練からなかなか立ち直れないでいたが、父の勧めもあり、大学の助教授をしている男と再婚することとなった。そしてその男との間にできたのが脳性麻痺の息子・清高であった。一方、靖明にも長らく同棲している女がいた。地味だが愛嬌があり、ろくに働かない靖明によく尽す女であった。靖明は亜紀から届く長い手紙を読んで、自分の心境を語ることにした。その返事もまた長いものとなるのだった。 作中、靖明が中学2年生のとき両親を亡くしたことで、舞鶴に住む親戚に引き取られる場面が出て来る。この舞鶴という地は、京都の北端にあり、日本海に面した町なのだが、驚くほど的を射た表現である。 「初めて東舞鶴の駅に降り立った際の、心が縮んでいくような烈しい寂寥感です。東舞鶴は、私には不思議な暗さと淋しさを持つ町に見えました。冷たい潮風の漂う、うらぶれた辺境の地に思えたのでした」 私はこの舞鶴にほんの数カ月もの間、住んでいたことがある。あのときの私の気持ちを代弁するかのような表現で、たまらなくなって泣きそうになった。三島由紀夫の『金閣寺』にも東舞鶴の場面が出て来るが、太平洋側に住む者にとって、ちょっと形容しがたい物哀しさを感じるのである。 『錦繍』を読むと、どんな辛い目にあおうとも、生きていることが重要なのだと気づかせてくれる。ある意味、死ぬことも生きることも大差ないのだとも言える。ただ、人間はつまらないことで道を踏み外すけれども、なんとかなるものだと思わせるくだりもあり、勇気づけられる。過去を振り返ってばかりでは前に進めない。今を大事にし、未来への一歩を踏み出すことの大切さを教えてくれる。・・・これは当たり障りのない大雑把な感想だが、本当はもっと違うところに意味があるのかもしれない。読者を選ぶ小説である。 『錦繍』宮本輝・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.12.17
コメント(0)
【たまゆら/あさのあつこ】父を殺めて山に消えた男を追う、女の情念久方ぶりのブログ更新である。最近は読書から離れていたし、映画に触れることもなかった。朝起きて仕事に出かけ、帰宅したら息つく間もなく夕飯の仕度をし、お風呂に浸かって倒れ込むように寝る。きっと多くの人々がそういう追われた生活に半ば慣れ、半ば疲れ、あきらめているのだろう。 先日、書店に足を運んだ。少し行かないうちに、売れている本がガラリと変わった。ついこないだまで『火花』が売り切れていた。あるいは東野圭吾の本が山積みされていた。今回はいろんなジャンルの本が目に飛び込んで来て、あまり印象に残らなかった。本とは関係なく、来年の手帳が所狭しと並んでいるのに驚いた。そうか、もうそんな季節なのかと、しみじみ感じた。 そんな中、あさのあつこの『たまゆら』を読んだ。あさのあつこは岡山県出身で、青山学院大学文学部卒。代表作に『バッテリー』などがある。ヤング向けの小説家というイメージがあったのだが、『たまゆら』を読むと、そうでもなさそうだ。たまゆらというのは古いことばで、万葉集などに使われている音の形容を表すらしいのだが、この小説では犬の名前として扱われている。 カテゴリとしては恋愛小説とか、ファンタジー小説の部類に入るかもしれないが、私個人的には岩井志麻子の影響を受けているのでは?と思った。岩井志麻子も同じ岡山県出身の作家で、ホラー小説を書かせたらピカイチなのだが、岡山弁でけだるく語りかける文体がおどろおどろしい。あさのあつこもそれを意識してなのか、作中、岡山弁を駆使している。平成のことでありながら昭和を舞台にしているようにも思われ、何やら異次元の物語かと錯覚してしまう。 あらすじは次のとおり。すでに老境に入った日名子は、愛する伊久男とともに暮らしている。花粧山という山と、人の世との境界にもう何年も住んでいる。そこは臨界である。そこで人の世が終わる。そこから山が始まる。日名子と伊久男の住む家に立ち寄り、そのまま山へ入って二度とは帰らぬ者もいれば、数日して引き返して来る者もいる。ある雪の日。18歳の真帆子が訪れた。これから山に分け入るとのこと。真帆子は身を焦がすほどに惚れた陽介を追って、ここまでやって来た。だが、真帆子と陽介に肉体関係はない。真帆子は友達の紹介で初めて男を知った。だが、少しも感じることはなく、むしろ虚しさだけが残った。男を入れるため、食べ物を入れるため、二つの穴がついているだけの生き物なのではと、自分を恥じた。あるとき、陽介が事件を起こした。父親を殺してしまったのだ。愛しい男が犯した罪の深さを真帆子もそれなりに理解した。だがそれ以上に真帆子は欲した。陽介以外に欲しいものなど一つもなかった。陽介はブログに花粧山へ行くと残していなくなった。真帆子は身一つで陽介を追って行くのだった。 恋愛というものに、さほど幻想を抱かなくなった私には、リアリティ不足にも思えた。だが、十代二十代の若い人たちが読んだら、もっと違う感想になるだろう。これを「本気の恋」と言うのなら、ある種の信仰に近いものがある。(宗教といってもさしつかえない。)「山」という場所を神聖な域としてとらえ、癒しなど微塵もないと表現していることに、なるほどと思った。 「行の道は死と隣り合わせ。生より死が満ちている。覚悟もないまま、踏み込んではならない」 あさのあつこが表現する世界は、実はシンプルである。何やら複雑な異界を思わせるシーンが出て来るが、おそらくイメージの世界だと思う。青春小説から一歩離れたところにある恋愛小説なので、幅広い年齢層に支持されそうだ。島清恋愛文学賞受賞作品である。 『たまゆら』あさのあつこ・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.12.10
コメント(0)
【万葉集/新潮古典文学アルバム】歌わずにはいられない気持ちをストレートに表現する暑い暑いと言っていたら、ここのところ急に朝夕涼しくなってきた。コオロギの声も聴くようになり、いよいよ秋らしくその気配をひしひしと感じるようになった。いにしえの人なら、さしあたり萩の花などを愛でた歌などをひねったかもしれない。たとえば次のようにだ。 『秋萩の 咲きたる野辺は さ男鹿そ 露を分けつつ 妻問ひしける』 これは万葉集からの引用だが、季節の花と鳥獣とを組み合わせている。後世の、季語を一つだけ使った俳句とはだいぶ趣きが違う。 今回は、新潮古典文学アルバムの2巻を手に取ってみた。『万葉集』である。目を引くのは、巻頭のエッセイを俵万智が手掛けているところだ。俵万智と言えば、『サラダ記念日』で一世を風靡したベストセラー歌人である。“恋多き女”とも呼ばれ、ある意味職業と私生活が上手い具合にコラボして、今の立ち位置を確立した凄腕の人物だ。現代人には取っつきにくい『万葉集』だが、この俵万智のエッセイを読むだけでもちょっとだけ短歌への興味がそそられるのだから不思議だ。 一つ勉強になったのは、 相聞歌(そうもんか)⇒「あなたのことが好きです」挽歌(ばんか) ⇒「あなたが死んで悲しい」 これを高校時代の古典の授業で、これほどシンプルに先生から教えてもらっていたら良かったのに。俵万智は「あらっぽい言い方かもしれない」と前置きしながらも、万葉歌を突き詰めた形で解説してくれる。西欧のポエムにも通じるものがあるが、もともとは心から伝えたいこと、自然を謳歌する気持ちなどをストレートに表現するところから始まったのである。ものすごく単純で、おおらかで、「見るからにそれだけのこと」でしかない歌。 私は長野の善光寺に詣でた際、門前町のお土産物屋さんでカタクリの花が刻まれた印鑑ケースを買った。カタクリの花なんて見たこともなかったので、ただただ珍しさだけで買ってしまったのである。この古典文学アルバムをめくっていると、万葉歌は植物について歌われているものも多々あり、その一つとしてカタクリの花(かたかごの花)の写真が掲載されている。見ると、可愛らしいけれど地味な花である。大伴家持が次のように歌っている。 『もののふの 八十をとめらが 汲みまがふ 寺井の上の かたかごの花』 なんだか奥行も何もない感じだが、本当にそのままストレートな歌である。単純で素朴ながらも、その光景が目に浮かぶ。私は好きだ。俵万智も、おそらく万葉集の手を加えていない素朴の持つ新鮮さとか力強さに惹かれたに違いない。その証拠に「とれたての野菜は、塩をかけただけでおいしい」と述べている。 最近の若い人はラブレターなんて書かない、だろう。ましてや好きな人に想いを込めて歌に詠むことなど、皆無に違いない。我々の先祖がどれほどの情熱を持ち、奔放な愛を歌いあげたかを知るには『万葉集』が一番かもしれない。その入門としてこの古典文学アルバムをおすすめしたいと思う。 新潮古典文学アルバム2『万葉集』 森淳司◆俵万智コチラ★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.10.16
コメント(0)
【マッチポイント】「運はとても大事だ」「運よりも努力の方が大切よ」「もちろん努力も大事だが、運を軽く見ちゃいけないよ。科学者によれば、この世の出来事はすべて偶然によって決定するのさ。証明済みだ」もともとコメディアンだったウディ・アレン監督だが、なりゆきからか(?)役者となり、映画監督となり、今では名匠とまで呼ばれるほどに成功を果たした人物である。代表作に『おいしい生活』や『ギター弾きの恋』などがある。どの作品にも共通しているのは、せつなさの中にちょっとした笑いがあることである。(さすがはコメディアンだ。)ところが『マッチポイント』においては、そのコメディ・タッチを完全に封印している。このDVDを借りる前にいろんな方々のレビューを拝見してみたが、“新境地”と表現する感想が多かった。この作品を見て、ようやくその意味がわかった。たしかにこれまでの作品の流れからして、軽い皮肉を交えたコメディ感覚は薄れ、ものすごくブラックな、ある意味深刻さのただよう内容となっているのも見逃せない。思い出したのは名作『太陽がいっぱい』の、全体からかもし出されるヒリヒリとした痛みのような感覚である。 ストーリーはこうだ。舞台は英国、ロンドン。元プロテニス・プレイヤーのクリスは、特別会員制テニスクラブのコーチとして就職した。アイルランド出身でしがないテニスコーチでしかないクリスにとって、エリートの集まりであるテニスクラブは上流階級との出会いのチャンスでもあった。あるとき、富豪の御曹司トムのコーチを依頼されたところ、思いのほか二人は意気投合した。トムは、苦学してプロテニスプレイヤーとなったクリスに尊敬の念を抱き、自宅へ招待するなどしてますます仲良くなっていく。トムには、一途で純情な妹クロエがいたが、トムからクリスを紹介されたとたん、たちまち一目ぼれしてしまう。クリスも大金持ちのトムの妹ということでクロエを気に入り、二人は交際するようになる。一方、トムもアメリカ人女性ノラと婚約していた。ノラはハッとするほどの官能美を備え、男性を虜にするような魅惑的な女性だった。女優を目指してオーディションなどを受け続けているのだが、なかなか芽が出るようすはなかった。クリスとクロエ、トムとノラは、四人で食事や映画、週末の休暇などを共にするようになる。ところがあろうことか、クリスは美貌の持主ノラに夢中になってしまう。クロエには感じられないセクシーなノラを自分のものにしたくてたまらなくなる。そしてある日、クリスは大胆にもノラと激しい情交に及ぶのだった。 『マッチポイント』はアメリカ人監督によるイギリス映画となっているが、見事な出来栄えである。上品で優雅な、しかも育ちの良いトムとクロエの兄妹に対し、しがないアイルランド人青年クリスと女優志望でアル中ぎみのアメリカ人ノラ。この富と貧の差がスゴイ。 ノラ役に扮したスカーレット・ヨハンソン、これは適役。大胆でエロスにあふれた演出はお見事。けだるそうにタバコを吸うシーンは官能的だ。ウィキペディアで調べたらユダヤ人とのこと。敬虔なクリスチャンかと思いきや、なんと無神論者なのだとか。やはり人は民族性とか見かけだけでは計り知れないものなのである。 『マッチポイント』のテーマはズバリ、「人生とは運である」と私はとらえた。もちろん他にも「浮気は良くない」とか「愛欲は身を亡ぼす」とか、とらえ方は様々だが、ラストを見たら「人生とはすべて運によって支配されているんだなぁ」と、実感してしまう説得力がある。このラストが気に入らない方々もたくさんいると思う。私も半分は納得がいかない。だが、すべてがすべて法に守られフェアな世の中かと問われれば、そうではないのも確かである。かなりブラックな結末ではあるが、サスペンス好きのみなさんのジャッジを期待したい。お勧めの逸作である。 2005年(英)(米)、2006年(日)公開 【監督】ウディ・アレン【出演】ジョナサン・リース=マイヤーズ、スカーレット・ヨハンソン
2016.10.02
コメント(0)
【古事記・日本書紀/新潮古典文学アルバム】天皇のもとに独自の世界を成立させる日出ずる処の国夏の暑さと私自身の怠惰のせいで、ブログが滞ってしまった。だれに何の迷惑をかけているわけでもないが、楽天ブログを通して公に発信している以上、いろんな意味で責任をもたなければと痛感している。私が個人的に気をつけているのは、特定の作品、人物への誹謗中傷は絶対しないということ。匿名性の強い個人のブログで、そういう攻撃的な態度は絶対に許されないと思うからだ。やはり、名指しでの攻撃をする場合は、こちら側も本名を名乗り、同じステージに立ってからの論争が妥当だと思っている。 私はたまに、本当にたまに駄作と思われる映画にぶち当たってしまうことがある。もう、そういうときはレビューを書かないことにしている。(笑)書いたら最後、とんでもない悪口だらけの記事になってしまいそうだからだ。 なぜ私がこんなことをつらつらと文章にしているかというと、他のいろんなブログを見るにつけ、たいていの方々はステキな画像と素直な感想でまとめられていて、ほっこりする心地よさがある。だが、中にはそうでない記事もある。一つの個性だとスルーできるものもあれば、「ちょっと、これはマズいでしょ」と、眉をひそめるものもある。そういうブログを目の当たりにしたとき、同じ日本人としてルーツは同じなのだから、先祖を敬い、同胞には敬意をはらってお付き合いしましょうよ、と声をかけたくなるわけだ。 今回、私が手にしたのは新潮古典文学アルバム1「古事記・日本書紀」である。全24巻から成っているものだが、図書館にはたいてい置いてある。帯のキャッチコピーがスゴイ。“ハートで読み、古典に遊ぶ”やっぱり日本人として自分たちのルーツを知るということは、ある程度の年齢になったら義務なのではなかろうか。小さいとき、ギリシャ神話を夢中になって読んだものだが、どういうわけだか古事記あたりになるとあまり印象にない。読んだのか読んでないのかすら覚えていない。自分のルーツを知るための日本の神話であるにもかかわらずである。そこには様々な理由があることは知っている。(だが、ここではその件については省略する。) 古典文学アルバムをおすすめしたい理由の一つに、豊富な写真を楽しめるということがある。たしかに寄せられているエッセイ(記事)は堅く、重厚感があるけれど、掲載されている写真はどれも参考資料として申しぶんのない秀逸なものばかりである。イザナギ・イザナミの物語を知りつつ、それにまつわる天橋立(京都府宮津市)やイザナキ神宮(淡路島)などの写真を眺めるのは、へたな旅行ガイドブックなんかより数段たのしめるものだ。また、恋愛に関して奥手のはずの日本人が、実は奔放な性と恨みつらみの激烈な感情を持った民族であったことが明かされる。最後に、「古事記・日本書紀」にエッセイを寄せている大庭みな子の一文を引用しておく。 『これは、人間の話、力みなぎる雄々しくも麗しい命のさま、切なくも滑稽な、怖ろしい、むごい、神々しい人間の話である』 「新潮古典文学アルバム1 古事記・日本書紀」 大庭みな子◆神野志隆光・執筆★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.09.24
コメント(0)
【井手英策/18歳からの格差論】勤労国家では対応できない社会経済の大変動大学生の息子から勧められて手にした本、それが『18歳からの格差論』である。イラストが多く、平易な文章で書かれていて、たいへん読み易いのが特徴である。どうしてこれを読もうとしたのか息子に聞いてみたところ、アマゾンの本のカテゴリ「イデオロギー」部門でランキング1位だったからとのこと。なるほど、そういう読書の仕方もあるのか、、、 それにしても最近の政治・経済への興味の傾向を見ていると、ごくごく平凡な地方の大学生も「なんかヘンだぞ」とか「このままじゃいけないのでは?」と、少しずつヤバイ感を抱いているような気がする。いわゆる都市部のエリート大学生なら、この問題についてもっと現実味を帯びた危機感を持って、主義・主張を展開するのではなかろうか。もしそうだとしたら、「若者も、お年寄りも、貧困におちいる危険性が高い国、年収200万円以下の人たちが1000万人をこえ、非正規雇用労働者も2000万人をこえる国」について、本当に腰をすえ、真摯に向き合う日もそう遠くはないかもしれない。 著者の井手英策は、東大卒で専門は財政社会学とのこと。代表作に『経済の時代の終焉』等がある。時折、テレビのコメンテーターとして出演しているので、顔を見れば、「あ、この人か」とわかる。 『18歳からの格差論』を読んで初めて知ったのは、日本が先進国のなかでも一番「小さな政府」であるということだ。つまり、財政は大きくなく、公務員の数ももっとも少ない最低水準の「小さな政府」なのだとか。我々はテレビの報道の一部だけを見て、公務員なんてスゴイ高給取りで、仕事がラクちんで、定時に帰宅できるなんて、まったく税金がもったいないと、さんざん悪口を重ねて来た。ところが実際は、先進国中もっとも少ない人数で行政を運営している「小さな政府」だと知ると、「それはどうもどうもご苦労さん」と言いたくなった。とはいえ、これだけ削っても巨大な借金を抱えているのはおかしいではないか! とも反論したくなる。そう、当然みなさんご存じのとおり、「税金があまりに安すぎる」からなのだ。たとえ消費税が10%に上がったとしても、日本の租税負担率は先進国の平均を大きく下回るというのが実情なのだとか。これって、ゆゆしき問題だと思った人は、私と同じ感性を持っていて話が合いそうだ。「べつにいいじゃん」と思った人は、その理由を聞かせて欲しい。 シンプルなことだが、税金は貧困にあえぐ人に、しっかりとお金や教育などのサービスとして提供することに使われて欲しい。こんなことを言ったら極端すぎると反論されてしまうかもしれないが、犯罪を少なくするのはこれしかないと思うからだ。(不景気になるとたちまち増加するのが強盗、窃盗、詐欺の類である。)もちろん、「あの人、ろくに働きもしないで、もらうだけもらってズルい」という意見もあるだろう。私も同感。でも、この本を読んでたいへんな勘違いであることを知った。たとえば生活保護の不正受給についてだが、な、な、なんと全体の0.5%ほどしかなく、1%にも満たない数字なのだ。ほとんどが健康上の問題や、年齢的に仕事を見つけられない老人など、深刻な問題を抱えている人たちが受給しているのだ。このデータが本当だとすれば、いかに我々が弱者に対し、いや他人に対して不信感を抱いているかがわかる。「人を見たら泥棒と思え」と先人は言う。それが日本人の根本気質だとしたら、ちょっと哀しい・・・ 『18歳からの格差論』は、政治・経済の観点からはもちろん、福祉の観点から読み進めてもたいへん参考になる。ぜひとも一読をおすすめしたい一冊である。 『18歳からの格差論』井手英策・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.09.03
コメント(0)
【エアフォース・ワン】「アメリカ合衆国は姿勢を変えます。これからは政治的利益よりも、人道上、正しい道を取ることを優先させます。暴力は政治の武器ではない。それを用いる者を、我々は決して許しはしない」『エアフォース・ワン』は1997年の作品だが、今見てみるとつくづく「時代は変わったな」と感じてしまう。19年前なのだから当たり前だと言ってしまえばそれまでだが、今なら保守派のクリント・イーストウッドでさえここまでの愛国精神は前面に押し出さないであろう。とにかく「強いアメリカ」をアピールするのみならず、合衆国のためなら命をも惜しみはしないという自己犠牲精神がそこかしこからプンプンにおう。キャスティングも大統領役にハリソン・フォードを持って来るのだから、完全に不死身で負け知らずのイメージをねらってる感がアリアリだ。(ちょうどブルース・ウィリスのキャラが「不死身の男」というイメージで定着しているのと似ている。)作品は「空飛ぶホワイトハウス」の異名を取る合衆国大統領専用機(エアフォース・ワン)が舞台となっている。 ストーリーはこうだ。カザフスタンに非合法なテロ政権を誕生させた独裁者であるラデクを、アメリカはロシアの協力のもと、逮捕するのに成功した。アメリカの大統領であるジェームズ・マーシャルは、モスクワで開かれた祝賀会におけるスピーチで、「テロには決して屈しない」と断言する。その後、大統領らはエアフォース・ワンに乗り込んで帰国の途につく。搭乗したのは大統領を始め、その妻と娘、政府高官や警護官、さらにはロシアのテレビ・クルーなどであった。ところがこのロシアのテレビ・クルーは、全員テロリストだった。エアフォース・ワンが離陸してまもなく、特別警護室の職員3人を射殺したのを皮切りに、テロリストらは銃器を入手し、コックピットを占領。テロリストらの要求はラデクの釈放で、実現するまでは30分ごとに1人ずつ処刑すると突き付けた。警護官らは必死に大統領を守り、命と引き換えにパラシュート付き脱出艇に乗せようとするものの、大統領はみなを見捨て一人だけ脱出するなどということはできなかった。そこで、脱出したと見せかけて、密かに機内に潜伏するのであった。 『エアフォース・ワン』の見どころは、航空機という、いわば密室の中でくり広げられるアクション、そしてパニックである。テロリストからいかにして大統領を救出するのか。人の命と引き換えにテロに屈してしまうのか。オーソドックスだが手に汗握る、見ごたえのあるテーマとなっている。 主人公に扮するハリソン・フォードは、このときまだまだ若々しい。素手で敵にパンチを喰らわせるシーンなどキレキレで、アクションとしてはお見事である。テロリスト役ゲイリー・オールドマンも、このキャスティングは完璧なハマリ役だった!名悪役として申しぶんない。作中、BGMとして勇ましく流れている音楽はとても良かった!だれもが様々な機会に、必ず一度は耳にしたことがある勇壮な曲である。 作品は全体を通して「強いアメリカ」を意識した完全無欠のハリウッド映画である。多少、時代性を感じさせるところもあるけれど、それもご愛嬌。アクション好きの方にはおすすめだ。 1997年公開 【監督】ウォルフガング・ペーターゼン【出演】ハリソン・フォード、ゲイリー・オールドマン
2016.08.22
コメント(0)
【硫黄島からの手紙】「諸君、いよいよ我々の真価が問われる時が来た。日本帝国軍の一員として、誇りを持って戦ってくれ。(中略)本土のため、祖国のため、我々は最後の一兵になろうともこの島で決死敢闘すべし。者ども、十人の敵を倒すまで死ぬことは禁ずる。生きて、再び祖国の地を踏めることはなきものと覚悟せよ。予は常に諸子の先頭にあり。天皇陛下、万歳!」今年で戦後71年が経過した。ずいぶん長い年月が巡ってしまった。大正13年生まれの父も出征し、終戦とともに疲労困憊と飢餓状態で帰国したとのことだったが、戦争のことは多くを語らなかった。テレビで戦時下の場面が出たり、戦争映画が放送されたりすると、スーッとどこかへいなくなってしまったし、ふだんの話題にものぼらなかった。父の中で、あの戦争にどんな思いが錯綜していたのかは、今となっては聞く術もない。 『硫黄島からの手紙』は日本側から見た硫黄島の戦いになっていて、他方の『父親たちの星条旗』はアメリカサイドから見た内容となっている二部作である。(ウィキペディア参照)どちらもクリント・イーストウッドがメガホンを取ったのだが、何に驚いたかと言えば、あの奇妙な違和感が全く感じられなかったことである。それは、だいたいハリウッドが描く日本というと、やたら富士山やゲイシャが登場し、おかしなイントネーションの日本語で興ざめするのがほとんどだからである。それなのに『硫黄島からの手紙』では、そういう不自然さがまるで感じられず、安心して視聴することができたのだ。 主人公は栗林忠道陸軍大将であり、戦地から栗林が家族に向けて送った手紙が原作となっている。栗林忠道は長野県長野市松代町出身で、陸軍士官学校卒。アメリカにおいては、太平洋戦争における日本軍人の優秀な指揮官として名前があげられる人物である。(日本においてはこの作品が公開されるまで、さほどの知名度はなかった。)名将・栗林は限りなく劣勢であるにもかかわらず、持久戦のかまえでアメリカ軍に多大な損害を与え続けた戦略家である。だが、『硫黄島からの手紙』を見る限り、栗林の神がかりな戦術などには触れておらず、淡々とした作品となっていた。 ストーリーはこうだ。2006年、硫黄島において軍事史研究家たちが地中から数百通もの手紙を発見した。それらはかつて、この島で散っていった兵士たちが、家族に宛てて書き残したものだった。1944年6月、小笠原方面最高指揮官・栗林忠道陸軍中将が硫黄島に降り立った。アメリカ留学の経験を持つ栗林は、島中にトンネルを張り巡らし、地下要塞を作り上げるという画期的な防衛戦略を立てた。ところがその斬新な戦略は、古参の将校たちの反発を招いてしまう。一方、元パン職人である陸軍一等兵の西郷は、上官による理不尽な体罰に嫌気がさしていた。だがそれも栗林の着任により方針が変更される。徐々に退却を強いられていく日本軍にあって、玉砕を求める部下を一蹴し、最後の最後まで戦い抜けと命令する。硫黄島での日々に絶望していた西郷は、栗林の出現により少しずつ意識を新たにしていくのだった。 作品は徹頭徹尾、淡々としている。見ていて気持ち悪くなるようなグロテスクなシーンもない代わりに、胸をすくような輝かしい戦闘場面もない。モノトーンに近い映像で、始終、陰気である。イーストウッド監督作品にはよくある演出なので、もちろんそれには意味がある。「反戦」を訴えるものではない、「史実」である。[こういうことが起きたのだ。それは紛れもない事実である。時間は巻き戻せない。肝に銘じよ。]というテーマとして、私個人は受け留めた。むやみやたらに「戦争反対!」と声高に叫ぶより、「天皇陛下、万歳!」と言って最後の突撃に向かうシーンの方が、よりインパクトがある。 主人公・栗林忠道に扮するのは渡辺謙。圧倒的な存在感と、安定した演技力にほぼ満点をあげたい。最後まで生き残る兵士・西郷役は、ジャニーズの二宮和也。映画の中といえども死んだりしたらファンが号泣するといけないので、生き残らせることにしたのだろうか?まさか、そんなことはあるまいが。(笑)日本側の視点でアメリカ人のクリント・イーストウッドが冷静で客観的にとらえた、見事な作品である。併せて『父親たちの星条旗』も見てみたい。 2006年公開【監督】クリント・イーストウッド【出演】渡辺謙、二宮和也
2016.08.14
コメント(0)
【ミレニアム2 ~火と戯れる女~】「テーマは人身売買です。(中略)数人の高官が彼女たちの顧客となった証拠があります。中には買春規制法案に携わった法務省の役人まで、、、公安警察官と風紀取締官を含め、警察官も3人、弁護士が5人、裁判官と検事も関係してました。犠牲者の少女たちは、、、社会の底辺にいて、法にさえ守られていません」波乱の幕開けとなった都知事選だったが、どうにか落ち着くところに落ち着いて良かった。私は都民ではないので関係ないと言ってしまえばそれまでだけど、4年後の東京オリンピックを控えて、首都の代表がだれに決まるのかは他府県の者にとっても大いに興味をそそられる問題だった。 それにしても鳥越俊太郎には驚いた。週刊文春や新潮がスクープした内容がどこまで事実なのかは分からない。とはいえ、女性の人権を侵害し、あからさまに無視して来たその破廉恥なる行為について、何の弁明もなかったのはいかなる理由なのか聴いてみたい。「火のないところに煙は立たない」と、いにしえの先人らは言う。文春や新潮があえて危険を冒してまで全くのデタラメを記事にしたとは思えない。ジャーナリストという肩書きを持つ以上、もっと赤裸々に自分をさらけ出す必要があったのではなかろうか? 前作に引き続き『ミレニアム2』においても、社会派雑誌「ミレニアム」の発行人ミカエルが活躍する。今回は人身売買組織の実態に迫る特集号を発行するための準備を進めている最中、事件が起きる。見どころは、東欧の人身売買について取材する若いジャーナリストが惨殺され、その犯人と疑われてしまった主人公リスベットの悲劇と、真の敵に迫っていくミカエルの行動力である。 あらすじはこうだ。リスベット・サランデルは、幼少期に受けた虐待のせいで、他人を信じ甘えることができなかった。身長150センチ、体重40キロという小柄な体型で、背中には一面のタトゥーを入れ、耳・鼻にはピアスをいくつも施していた。そんなリスベットを受け入れたのは、社会派雑誌「ミレニアム」の発行人ミカエルで、大富豪ヴァンケル家の少女失踪事件を2人で解決したものの、現在リスベットは姿を隠していた。その後、「ミレニアム」では東欧の人身売買組織の実態に迫る特集号を発行しようとしていた。ところが担当する若手ジャーナリストが何者かに殺害されてしまう。一方、リスベットは海外からスウェーデンに帰国し、久しぶりに友人と旧交をあたためていた。娼婦まがいの仕事をしている友人を条件付きでリスベット名義のマンションに住まわせ、自分は別のマンションに住むことにした。そんな中、電柱に貼られた指名手配犯の写真を見て、リスベットは驚愕する。なんとその写真は自分の顔写真だったのだ。無実にもかかわらず、ジャーナリスト殺害の犯人にされてしまったのだ。 作中、問題にしている東欧の人身売買についてだが、ターゲットとされるのはほとんどが幼い子どもや女性である。(ウィキペディア参照)すべての原因は文化・伝統による女性の地位の低さ、そして何より貧困であろう。ここではその詳細を省くが、社会的身分も高く地位のある男性が、女性の人権を無視し、侵害するということの卑劣極まりない行為は、決して許されるべきものではない! 『ミレニアム2』で明らかになった主人公リスベットの異母兄ニーダーマンだが、この男、不死身なのか?!先天性無痛症という難病らしいのだが、プロボクサーから強烈なパンチをくらっても蹴り上げられてもへっちゃら。ニーダーマンは涼しい顔をして、相手をボコボコにしてしまうのだからコワい。リスベットもこのニーダーマンから酷い仕打ちを受け、半死半生の体になってしまう。 ところどころ、思わずツッコミを入れたくなってしまう場面もあるが、そこはスウェーデン映画ということで、とりあえずスルー。興行的にも大成功した『ミレニアム』シリーズは、サスペンスとしてもバイオレンスとしても充分楽しめる作品に仕上がっている。『ミレニアム3』も、乞うご期待! 2009年(瑞)、2010年(日)公開【監督】ダニエル・アルフレッドソン【出演】ノオミ・ラパス、ミカエル・ニュークヴィスト※ご参考「ミレニアム」三部作の第一作「ミレニアム~ドラゴン・タトゥーの女~」はコチラ
2016.08.07
コメント(0)
【ドローン・オブ・ウォー~Good Kill~】「テロリストは我々を、我々は奴らを殺す。一瞬でも考えたことがあるか? もしも我々が殺しをやめれば奴らもやめるか? どちらが先だろうと悪循環だ。奴らは決してやめない。だから我々も(攻撃を)やめられないのだ」久しぶりに見ごたえのある作品と出合った。若者ぶって言うなら、「チョーヤバイ」という感想。戦争って、こんなもんだっけ?と、これまで描いて来た悲惨でむごたらしい戦争に対するイメージが一変してしまう。これは実に大変なことになった。 世間ではポケモンGo!が大流行していて、若い世代を中心にゲームの楽しさを謳歌している中、水を差すようで恐縮だが、このゲーム感覚というのがクセモノのような気がした。作品のタイトルにもなっているドローンとは、遠隔操作で精巧な動きを可能とする小型無人飛行機のことである。(皆さん周知のとおり。)最近話題になった例で言えば、首相官邸の屋上にドローンが落下した事件や、長野県善光寺の七年に一度の御開帳の際、たくさんの観光客や関係者で賑わう中、ドローンが落下したというトラブルがあった。本来は軽荷物の輸送とか、カメラを搭載して上空からの見事な絶景を撮影したりと、とても便利なツールの一つなのだ。ところがあろうことか、一方では戦場における兵器として使われているのだ。 『ドローン・オブ・ウォー』は、対テロ兵器であるドローンの操縦士が抱える苦悩を描いている。ストーリーは次のとおり。 アメリカ空軍のトミー・イーガン少佐は、ラスベガスの基地に設置されたコンテナで勤務していた。1万キロ余りも離れたアフガニスタン上空に、衛星中継で遠隔操作してドローンを飛ばし、自分自身は命の危機もなくタリバン兵の集う場所にミサイルを発射するのが任務だった。ドローンが空軍に導入される前は、イーガン自身が戦地に赴き、死と隣り合わせで戦闘機に乗っていた。ところが今は、モニターに映し出されるタリバン兵らを、まるでゲーム感覚で音もなく吹き飛ばしていた。現実感が欠落したまま基地と自宅を往復する毎日に、少しずつ違和感を抱き始めるイーガン。そんな中、CIAが主導する対アルカイダ極秘作戦が決行されることになった。CIAの命令は絶対的なもので、容赦がなかった。テロリストとその周辺の一般人を含め、次々とドローンからミサイル攻撃を仕掛けていった。多少の一般人の犠牲など厭わなかったのだ。イーガンのワン・クリックで、遥かかなたの異国で何十、何百もの死傷者が出る一方、勤務を終えるとあたたかなマイホームで2人の幼子のパパになるというギャップに、段々と耐えられなくなり、許せなくなっていくのだった。 ドローンを導入するということは、アメリカ兵に命の危機を覚えさせることなく「簡単に」テロリストたちを攻撃することができる。これは、画期的なことには違いない。半ばゲーム感覚でモニターに映し出される敵をロックオンしてミサイルを発射するだけなのだから。でも、常識的に考えると、背中にうすら寒いものを感じる。戦争って、もっと絶望的なものではなかったのか?こんなに簡単であっけないものなのか?もはや戦闘機のパイロットは不要になる時代に突入したかもしれない。 主人公イーガン少佐に扮したイーサン・ホークが熱演。戦場には行かないのに人を殺せるという現実感の乖離に苦しむ主人公を見事に演じている。代表作に『いまを生きる』などがある。現在は俳優業だけでなく、監督としてもキャリアを積んでいるようだ。 作品のラストは、何とも言えない複雑な気持ちになった。ドローンを操縦するイーガンのモニターに映し出されたのは、タリバン兵に何度となく乱暴される一般女性の痛ましい姿なのだが、任務とは関係がないためスルーしていた。だがイーガンはその女性が気の毒で仕方がない。自分がその場にいれば、タリバン兵から女性を救ってやることも可能なのに、今いるのは遥かかなたのラスベガスの基地である。ところがある日、イーガンは同僚らが傍にいないことを確認すると、違反を承知の上で、モニターに映し出された女性をおもちゃにするタリバン兵をロックオンし、ドローンから攻撃し、殺してしまう。この行為はスカッとする瞬間でもあるのだが、そんな自分が恐ろしくなるラストシーンでもあった。 さて皆さんは、現実のこととしてこの映画をきちんと受け留められるだろうか? 2014年(伊)、2015年(米)(日)公開 【監督】アンドリュー・ニコル【出演】イーサン・ホーク
2016.07.31
コメント(0)
【横山光輝「三国志」第十二巻】「私は少年のころ南の島で、奇怪な老人から奇門遁甲の秘策を伝授されました。風を呼び雨を招くことができます。私が東南の風を吹かせてみましょう。」世界は今、悲鳴をあげている。民族紛争に始まって、イスラム原理主義者によるテロ行為、国家に対する不満からクーデターが起こったり、とにかくありとあらゆる負のエネルギーが充満し、そこかしこで爆発している。だが、たいていの人々は戦争のない平和な世の中を望んでいる。それは、二千年前の中国だって同様なのだ。世の中が乱れに乱れ、どうにかしたいと思ったとき、天下統一を目指して誰かが立ち上がる。それがたまたま曹操であり孫権であり劉備なのだ。軍師・孔明は、ムリヤリの天下統一を避けるべきだと説いた。ムダな血を流さないため、まずは魏・呉・蜀と三国が鼎立するべきだと。互いの利益を守りつつ、バランスを取りながら共存・共栄していこうではないか、というのが孔明の「天下三分の計」であったのだ。 現代に置き換えてみても、その考え方に概ね間違いはない。世界がそれぞれの国家を重んじ、バランスを取りつつ共生していくのが望ましい。だが、ここへ来て日本は気づいてしまった。他の先進諸国と明らかに大きな差異があることを。そう、日本国憲法第九条の存在である。 とはいえ、今どき自衛隊を撤廃してやっていけるとは、とうてい思っていない。私のような政治オンチ、無学の者でもそれは分かる。しかし、どう考えてみたところで自衛隊というものは軍隊である。つまりここに、憲法の矛盾が生じるわけだ。これはやはり、苦渋の選択とはいえ、憲法を改正するしかないだろう。こういう簡単な理屈を、私みたいな一般大衆でも理解できるのに、とくにインテリたちは「護憲」を死守しようとしている。「九条を守ろう!」と声高に唱えることが当然のような顔をしているし、有名人らもそれに賛同してドヤ顔でいる。 他の先進国、たとえばイギリスには労働党がり、フランスには社会党があるけれど、一度だって軍隊の廃止、撤廃は主張していない!当然である。(日本の社民党、共産党は自衛隊の撤廃を声高に言っていた。最近ではそうでもないが。)これだけ日本近海で負のエネルギーがフツフツと音を立てているときに、無防備ではいられない。 私たちが言論の自由を与えられているのも、信仰の自由、表現の自由を与えられているのも、今の日本国家が統治してくれているおかげなのだ。好きな芸能番組を見たり、美味しいスイーツを食べたり、政治家の悪口をさんざん言えるのも、今の日本国家があってこそなのである。もし、社会主義国、共産主義国に攻撃され、この国の領土を占領されてしまったら、その自由はない! 有名人が口々にする「九条を守れ!」というのは、キレイゴトすぎはしまいか。現代日本の置かれた現状をしっかり把握すべきではないか。GHQによって日本が占領され、統治能力を欠いていた時代とは違うのだから。 三国志は、わけのわからない勢力があちこちで反乱を起こし、国としてのまとまりがつかなくなった戦乱の世を描いている。どれほどの農民が被害を受け、罪なき者たちが戦争の犠牲者になったかが行間から感じ取られる。そんな中、劉備のような統治能力に優れた者の下で、バランスの取れた政治手腕を発揮し、兵法家として活躍する孔明という存在があってこそ、対外への抑止力にもなり、国家が安定する。私たちは、劉備や孔明の代わりに、矛盾のない憲法の下で、優れた機能と防衛力のある自衛隊を保持し、対外への抑止力としていかねばならない。 三国志第十二巻では、次の3話がおさめられている。 第45話 鳳雛 連環の計第46話 赤壁の戦い(前編)第47話 赤壁の戦い(後編) あらすじはこうだ。呉の周瑜が指揮する水軍に対し、曹操軍百万の大軍がいつ押し寄せて来るか分からない危機的な状況にあった。だが、この期に及んで周瑜は体調を崩した。すかさず孔明は周瑜を見舞い、苦しい周瑜の胸の内を察した。孔明は紙と筆を借りると、周瑜の病の基となっている原因をさらさらと書きつけた。 曹操をうち破るためには火攻めを用いるがよろしい万事 用意は整ったがただ東の風だけが足りない 周瑜は一読するやいなや、脱帽した。火攻めに必要な武器十万本の弓矢も用意し、苦肉の策を用いて黄蓋をわざと曹操に寝返らせもした。だが、肝心の風だけは、季節柄、西の風しか吹かない。この状況下で火攻めを決行したら、逆に味方に被害が及んでしまう。何としても東南の風が必要だったのだ。すると孔明は、涼しげな顔で「私が東南の風を吹かせてみましょう」と言う。聞けば、孔明はその昔、風変わりな老人より「奇門遁甲の術」を授けられたと言う。周瑜はわらをもすがる思いで、孔明に天を祀らせ祈願を施してもらうことにする。 この後、孔明は南屏山に七星壇を設けさせ、心身を清め、道士の服をつけ、天を仰いで祈りを捧げるのだが、アニメ版ではこのシーンはカットされている。この時、果たして本当に孔明が妖術などを使えたのか?ということである。もちろん、神でもない人間孔明が、風を呼び雨を降らせることなどできはしない。天文学に通じていただけのことで、天気の予測をつけることが可能だったに過ぎない。 ここで大切なのは、「抑止力」である。風を操り、雲をおこすことができる人物だと知られれば、必ず皆が一目置く。ヘタに手出しのできる相手ではないと、警戒をされる。これが孔明の目的だったのだ。自分を防御する、これこそが戦略の第一歩である。二千年も前の歴史から、これほど多くのことを学ばせてもらえるのは、この「三国志」をおいて他にはないだろう。 横山光輝のマンガは15年という長きに渡って連載された大作である。黄巾の乱に始まり、劉備が登場し、三国が鼎立し、やがて蜀が滅びるまでが淡々と描かれている。(全60巻)小説では吉川英治の「三国志」があまりにも有名だが、なかなか活字を読む習慣のない人にとってはツラいものがある。そういう方々には、横山光輝のマンガ、あるいはアニメ版でぜひとも三国志の壮大な歴史ロマンに触れていただきたい。最高にして最良の人間ドラマなのである。 【原作】横山光輝【監督】奥田誠治ほか【放送局】テレビ東京系列【声の出演】劉備玄徳・・・中村大樹、関羽雲長・・・辻新八、張飛翼徳・・・藤原啓治、諸葛亮孔明・・・速水奨、ナレーター・・・小川真司※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ第四巻はコチラ第五巻はコチラ第六巻はコチラ第七巻はコチラ第八巻はコチラ第九巻はコチラ第十巻はコチラ第十一巻はコチラ
2016.07.24
コメント(0)
【横山光輝「三国志」第十一巻】「曹操軍がいつ襲って来るか分からないという大事なときに、たかが十万ほどの矢を用立てるのに十日とはかかりすぎというもの。三日あれば充分です。」世の中、自慢をするのが好きな人はたくさんいるが、自信を持っている人はたくさんいるのだろうか?自慢と自信は決して=(イコール)では結べない。自慢好きの人がみんな自信のある人かと言えば、そうではないからだ。意外にも、自慢する人ほど人には言えないコンプレックスの持ち主だったりする。自信がないからこそ去勢を張って、つまらないことを自慢したりするのだ。一方、自信のある人は、たいていが努力家であり、勉強家である。積み重ねて来た経験をムダにすることなく、知識と教養に支えられ、成長を遂げてゆく人だ。 さて、天才軍師・孔明。この人の知略は並大抵のものではない。兵法だけに才があるわけではなく、天文や地理に通じており、日常から多方面に渡って勉学に勤しんでいた。だからこそ、ここぞと言うときに胸を張って意見することができるのだ。漲る自信はその場しのぎのハッタリなどではなく、積み重ねて来た努力の賜物なのだ。 三国志第十一巻では、孔明が単身で呉の孫権のもとに行き、玄徳軍と同盟を結ばせることで、曹操軍に対抗するまでが描かれている。第十一巻には次の4話がおさめられている。 第41話 周瑜の殺意第42話 秘策! 水上大要塞第43話 十万本の矢第44話 黄蓋・苦肉の策 あらすじはこうだ。水軍大都督である周瑜は、決して愚鈍な将ではなかったが、孔明の知略を恐れ、また嫉妬もしていた。周瑜は上手い口実を見つけて、孔明を亡き者にしてしまいたかった。ある日、曹操軍との合戦を間近に控え、周瑜は軍議を開いた。そこに孔明も招いた。周瑜は、水上の戦にはどんな武器が適しているかをわざわざ孔明に向かって問うた。孔明は「弓矢が最適」だと答えた。すると周瑜は、呉軍には矢の数が不足しているとウソをつき、孔明に十万本の矢を調達して欲しいと依頼する。孔明は快く了承し、期日を問うた。周瑜は「十日以内で」と答えた。この時、周瑜は職人たちに言い含めて、仕事を請け負わないように根回ししていた。期限までに矢を揃えることができなかったという理由で、孔明を斬ってしまおうと企んでいたのだ。ところが孔明は「三日で」十万本の矢を揃えると言う。場内がざわつき、将軍たちが皆、顔を見合わせた。だが周瑜だけはほくそ笑んだ。孔明がまんまとひっかかったと思った。自分から死を求めたようなものだと、憐れみすら感じた。一方、孔明には自信があった。この三日のうち、深い霧が出ることが分かっていた。この濃霧を利用し、十万本の矢を用立てようと考えていた。果たして孔明は、三日後、ゆうに十万本を越える矢を揃えることができたのだった。 第十一巻の見どころは二つある。一つは、孔明が十万本の矢を三日というわずかな期限にもかかわらず用立てるくだり。もう一つは、老将・黄蓋が一世一代の芝居をうち、曹操に偽って降参するというくだりである。(「苦肉の策」という格言のもとになった逸話でもある。) いよいよ三国志も大詰めに迫って来た。次回は最終巻である。マンガや小説においては、話がまだまだ続くのだが、アニメ版では赤壁の戦における大勝利でエンディングとなっている。乞うご期待! 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】速水奨、石塚運昇※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ第四巻はコチラ第五巻はコチラ第六巻はコチラ第七巻はコチラ第八巻はコチラ第九巻はコチラ第十巻はコチラ
2016.07.17
コメント(0)
【横山光輝「三国志」第十巻】「奥方様、阿斗様、いずこに? この趙雲、天に昇り地を這ってもお探し申す。さもなければ戦場の土となるも覚悟。」最近は大切な日本語が簡単な横文字に置き換えられたり、口にされたりすることが多くなった。もちろん、カタカナの方が分かり易いこともあるので、ムリヤリ日本語表現することもないのかもしれないが、それでもあえて、日本語で表現したいときがある。 エフエム放送で流れる J-POP の爽やかで軽快な歌に耳を傾けていると、心の代わりに「ハート」とか、魂の代わりに「ソウル」が使われていたりする。それらはまだしも、「ウォンチュー」「ゲッチュー」「メイク・ラブ」などは、ほとんど感覚で歌っていて本来の意味など考えてはいないのかもしれない。 そんな中、日本人の DNA として受け継いでいるはずの「恥」は、カタカナにできるのだろうか?文字通りの「恥しさ」=「shame」とは少しニュアンスが違う。とても崇高で清廉なる精神である。 三国志第十巻では、玄徳軍が曹操軍に追われ散り散りになってしまうところから始まる。玄徳の妻とその子・阿斗を預けられていた趙雲も、戦いのさなか、見失ってしまった。趙雲は「恥」を知る武将である。大切な主人の奥方と若君を預けられた身でありながら、戦のさなかとはいえ、むざむざ単身、玄徳のもとに戻るわけにはいかない。趙雲はただ一騎で、曹操軍の群がる敵地へと引き返し、探し回るのである。趙雲は「誇り」高き武将であり、決して「プライド」の高い武将ではない。 さて、三国志第十巻は次の4話がおさめられている。 第37話 曹操怒りの逆襲第38話 大暴れ! 子守り剣士第39話 孔明大舌戦第40話 美丈夫・周瑜 あらすじはこうだ。曹操軍は、いったんは孔明の策略に破れもしたが、玄徳軍とは兵士の数からいっても比較にならなかった。全軍を率いて玄徳軍に迫って来た。新野から玄徳を慕って付き従う領民たちが足かせとなり、玄徳軍はなかなか早く前進することができないでいた。とうとう玄徳軍は曹操軍に追いつかれてしまった。江夏に援軍の要請に行った関羽はいまだ戻って来ない。玄徳は、趙雲に己の妻とその子・阿斗を預け、自らも死にもの狂いで戦った。趙雲も夜を徹して奮戦した。ところが奥方と若君の姿を見失ってしまうのだった。 アニメ版では、玄徳夫人は納谷のようなところで痛々しく横たわり絶命するのだが、小説においては、深手を負った夫人は阿斗を趙雲に託すと、己は足手まといになってはならぬと古井戸に身を投げるというくだりになっている。涙なくしては読めないシーンだ。 三国志第十巻は、現代人が忘れかけている「恥」そして「誇り」の精神がもりだくさんに描かれている。中国の歴史物語でありながら、日本人にたくさんの三国志ファンがいるのは、高潔さを彷彿させる武士道にも通じる精神性が描かれているからかもしれない。 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】小杉十郎太、井上喜久子※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ第四巻はコチラ第五巻はコチラ第六巻はコチラ第七巻はコチラ第八巻はコチラ第九巻はコチラ
2016.07.10
コメント(0)
【横山光輝「三国志」第九巻】「私が孔明を得たのは、魚が水を得たようなものなのだ」まったく意図が分からないのだが、この第九巻からオープニングとエンディングのテーマソングが変わった。最終巻まで見終わった今も、この第九巻からの変化によってどんな効果があったのか、謎である。可もなく不可もなし、と言ったところか。 それはともかく、この第九巻ではお待ちかね天才軍師・諸葛孔明が大活躍する。この孔明という逸材を引き入れるために、玄徳がどれほどの骨を折ったか想像してもらいたい。二千年も昔のこと。孔明という人物がもの凄い兵法家だと噂があったとして、現代のようにすぐにグーグルで検索して調べた情報ほどの信ぴょう性はないはずだ。せっかく孔明のもとに足を運んだところで、世間の噂が過大評価で、とんでもないデマだったらどうなっていたのだろうか?!玄徳は孔明の屋敷を三度も訪れ、やっと面会が叶うのである。もし、孔明が大した人物ではなかった場合、玄徳にとっては時間と労力の無駄に終わってしまうのだ。 しかし、物語はこうした努力の積み重ねと千載一遇のチャンスによって華やかに展開する。 さて、三国志第九巻は、次の4話がおさめられている。 第33話 徐庶の母第34話 三顧の礼第35話 孔明・初陣第36話 孔明大手柄 あらすじはこうだ。しばらく玄徳のもとで軍師として仕えていた徐庶が、都から届いた母の手紙を読み、にわかに玄徳のもとから去ることになった。人情に篤い玄徳は、親子の間こそ真の恩愛だと言い、関羽や張飛が引き止めるのを却下し、徐庶が許昌へと出向くことを許す。徐庶は去りぎわに、次のように玄徳に進言した。「この近くに優れた人物がいます。姓は諸葛、名は亮、あざなは孔明と申します」玄徳は、その孔明という人物こそが水鏡先生の助言にあった「伏龍」であることを知り、躍り上がらんばかりに喜んだ。後日、日を選び、玄徳は教わったとおりに隆中の孔明の庵を訪ねた。ところが孔明はあいにくの不在。わざわざ草深い隆中まで玄徳について来た関羽、張飛もがっかり。二度目に訪ねた時は、冬のさなかで寒気が厳しく、雪が行く手を阻むほどの荒れた日だったにもかかわらず、孔明は不在。張飛は孔明が居留守をつかっているのではと激怒する。そこをどうにかなだめ、いったん新野城へと戻った。そして三度目にようやく願いが叶い、玄徳は孔明と面会を果たすことができたのだ。 不思議なもので、三国志はこの人が主役なのではと思うほどに、孔明の登場によってがぜん面白くなる。玄徳軍のわずかな兵力で、曹操軍百万の大軍を討ち破る戦術などは、胸の空く思いだ。第九巻の見どころは、何と言っても「三顧の礼」であろう。雨の日も風の日も雪の日でさえくじけずに礼を尽くすという努力。それをアナログなやり方だと誰が批難できよう。 人の心を動かすのは熱意しかない。そして、いかにその人を必要としているかを、誠意を持って口説くのである。今、東京都知事に誰を立てるかでだいぶもめているようだ。三度礼を尽くしてでも立てたい候補者という存在は、さて、出て来ないものなのか。今後の成り行きを見守りたい。 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】中村大樹、速水奨八、藤原啓治※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ第四巻はコチラ第五巻はコチラ第六巻はコチラ第七巻はコチラ第八巻はコチラ
2016.07.03
コメント(0)
【ビル・カニンガム氏、逝く】心より、ビル・カニンガム氏のご冥福をお祈り申し上げます。吟遊映人ブログの過去記事です。ご覧いただけましたら幸甚です。コチラから
2016.06.27
コメント(0)
【横山光輝「三国志」第八巻】「あなたのそばには“人”がおらぬ。世に隠れ伏している龍、伏龍、いまだ大空に飛び立たぬ鳳、鳳雛。いずれかその一人を得れば、天下はあなたの心のままになるでしょう。」ごくごく当たり前のことだが、出会いというものはある意味、人一人の運命さえ変えることもある。その出会いが吉と出れば運が開けるし、凶と出ればそこで終わる。人は偶然の出会いを意外にも軽く考えすぎる。国立大学の理系学生が、たまたま出会ったオウム信者の勧誘を受け、麻原の教えを信じ込み、サリン製造に手を染めてゆく。そんな極端な出会いは少数派だとしても、ちょっとした出会いなんて、巷にはいくらでも転がっているのだ。ほとんどがつまらない、むしろ出会わなければ良かったと後悔の念を抱いてしまうような相手かもしれない。しかし中には、びっくりするような出会いが、人生には一度ぐらいあるものなのだ。 三国志第八巻ではたまたま劉備が、老いた学者の端くれだと謙遜する水鏡先生と出会うことで、アドバイスを授かる。というのも、劉備は己のふがいなさにホトホト嫌気がさし、ついつい弱気になってしまったのだ。それを知った水鏡先生が、軍師の必要性を説き、劉備に足りない人材についてヒントを与えるのだ。 我々は生きていく上で、様々な出会いの機会に遭遇するだろう。ほとんどが取るに足らない、通りすがりの出会いかもしれない。だがその出会いの質をしっかりと見極め、人生を良い方へと転じてゆきたいものだ。 さて、第八巻は次の4話がおさめられている。 第29話 玄徳軍・大結集第30話 官渡の戦い第31話 凶馬決死の渡河第32話 浪士・単福 あらすじはこうだ。袁紹は七十万の大軍を起こして曹操討伐を決起した。都である許昌を攻めるべく、官渡に向かって出発した。一方、対する曹操軍は七万の精鋭を率いて袁紹軍を迎え討とうとしていた。兵士の数だけで言えば、袁紹軍七十万の大軍に対し、曹操軍は七万。袁紹軍の十分の一でしかなかった。しかし袁紹は器量の狭い男で、部下の諫言に耳を傾けようとしなかった。持久戦を主張した参謀に腹を立て、軍の士気を乱した罰だと、首を討たせようとした。食糧の乏しい曹操軍にとっては、何としても持久戦には持ち込みたくなかっただけに、袁紹の無能さにほくそ笑んだ。戦いは短期決戦で勝負がついた。官渡の戦では、曹操に天が味方したのだった。一方、そのころ劉備玄徳は、ひょんなことから水鏡先生と出会った。本名は司馬徽と言ったが、周囲からは水鏡先生と呼ばれ、慕われているらしかった。ただびととは思えない風貌と物腰に、思わず劉備はうだつのあがらない我が身を嘆き、弱音を吐いた。すると水鏡先生は劉備に、兵士らを使いこなす人材が足りないことを指摘した。そしてさらに、伏龍、鳳雛の2人のうちどちらか一人でも得られた日には、天下は安らかになると説いた。劉備はこの助言をたいへん喜んでよく聞いた。こうして劉備は、山野に隠れた賢人を求めることを決意する。 玄徳が水鏡先生と出会ったことで、運命が転じていくことがよく分かる。第32話では、謎の浪士・単福と出会うことで、いよいよ三国志はおもしろくなっていくのだ。玄徳は最初、この単福という人物を伏龍と呼ばれる天才軍師と間違えるのだが、なかなかどうしてこの単福の兵法も見事なもので、敵の大軍をさんざんに打ち負かしてしまうほどの計略家であった。 第八巻のキーワードは、ズバリ、“出会い”である。玄徳が出会う好人物たちを、じっくり観察して頂きたい。 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】中村大樹、辻親八、藤原啓治※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ第四巻はコチラ第五巻はコチラ第六巻はコチラ第七巻はコチラ
2016.06.25
コメント(0)
【横山光輝「三国志」第七巻】「わしにも三つの条件がある。一つ、わしは曹操に降伏するのではない。漢帝国に降伏するのだ。二つ、主人の奥方の安全を保証すること。そして三つめは、もし主人・玄徳が生存の場合は、いかなるわけがあろうと曹操のもとから離れ、主人のもとへ帰る・・・!」人間に完全・完璧な者など誰一人としていない。どれほど義理と人情に厚かろうとも、武芸に秀でていようとも、知性と教養さえも持ち合わせているかどうかは疑問である。豪傑と謳われた関羽や張飛も、敵の大将一人を斬って捨てることぐらいはたやすいことであったろうが、100万人を一度に倒すことは難しい。だが、それを可能にした人物がいる。それは、100年に一人の大天才と謳われた、軍師・諸葛孔明である。見事な戦略を打ち立てて、敵を木っ端微塵にしてしまうのだ。いわば、頭脳戦である。 三国志第七巻では、人情に厚く義理堅い劉備が、己の人望と関羽・張飛の英雄、豪傑を持ってしてもまだ足りない何かに気付き始める。いつまでたっても一国一城の主とはならず、根無し草のように城から城へと流れ、落ち着くことを知らぬ劉備だったからだ。三国志第七巻には次の4話がおさめられている。 第25話 孤立の猛将第26話 乱世の伏竜・孔明第27話 引き裂かれた主従第28話 決死の千里行 あらすじはこうだ。曹操の勢いは、いまや董卓の比ではなかった。徐州にいた劉備は包囲され、わずか三十騎あまりで落ちのびた。小沛にいる味方のもとへ逃げようとしたところ、すでに火の手が上がるのが見え、断念した。劉備は這う這うの体で青洲まで一騎落ちのびるのが精一杯だった。辺りは一面、曹操の大軍が野山に満ち満ちていた。あとに残るは関羽の守るカヒの城のみ。曹操は、関羽の武芸と人柄を気に入っており、どうにかして味方につけたいと思っていた。それには関羽が、劉備の妻子を護衛していることが弱点であると思った。義を重んじる関羽は、容易には降参はしない。しかし、劉備の妻子を守るため、無事をまっとうするための忠義の降参ならば道理が立つ、と考えた。こうして曹操は、関羽の旧友であり弁の立つ張遼を関羽のもとに向かわせ、見事、関羽を説き伏せることに成功した。一方、そのころ劉備は身一つで袁紹のもとに落ちのびていた。妻子を預けた関羽のその後のゆくえも分からず、己のふがいなさに、ただただ絶望するのだった。 第七巻での見どころは、やはり何と言っても関羽の忠義であろう。曹操から名馬の誉れ高き赤兎馬(呂布が乗っていた愛馬)を与えられ、見目麗しき十人の美女や、金銀財宝を惜しみなく授けられたにもかかわらず、関羽は心動かされることはなかった。女たちは全員、劉備の妻の小間使いにさせ、己の傍には一人として置かなかった。唯一、赤兎馬だけは一日に千里を走る名馬ということで、劉備の行方が知れしだい、千里のかなたでも走って行けると言って、関羽自身の持ち物とした。この徹底した清廉なる精神は、戦乱の世にあって類まれな高潔さを示した。このくだりは、後世、ますます関羽を神格化させるにふさわしいエピソードなのだ。 次回、第八巻では、いよいよ孔明の存在がクローズアップされる。インテリ孔明の登場により、ますます三国志はおもしろくなってゆく! 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】中村大樹、辻新八、藤原啓治※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ第四巻はコチラ第五巻はコチラ第六巻はコチラ
2016.06.05
コメント(0)
【横山光輝「三国志」第六巻】「龍は小さくも大きくもなり、小さくなれば沼に隠れもするが、いったん大きくなれば雲を呼び、霧を吐き、天空を駆け巡る。龍は天下の英雄にもたとえられよう」人は皆、自分のルーツに興味を持つ。「自分とは何ぞや?」と内観した際、いやでも両親の家系をひもときたくなるものだ。たとえ未婚の母から生まれた子であっても、母一人だけの力でこの世に生を受けたわけではない。必ず父という存在がある。己が何者であるかを知るのはなりゆきではなく、意志なのだ。 第六巻では、天下随一の武勇を誇った呂布も最期を遂げる。アニメでは、はらはらと降りしきる雪原の中、仁王立ちとなり一身に矢を受ける弁慶の如く絶命するシーンで終わっているが、史実はかなり無様な最期だったようだ。劉備に罰を軽くするよう口添えを頼んだり、曹操には涙を流して命乞いをしたという記録がある。呂布ともあろう人物には、似つかわしくない小心者ぶりだ。ただ、これまでのいきさつを見ても、最初の養父・丁原を殺害し、次なる養父・董卓さえも次々と裏切った悪行は、決して許されるものではなかろう。 話を戻そう。劉備はもともとしがない草履やむしろ売りで、日々の糧にも困るほどだった。ところが母親がそのルーツを明かすことで、がぜん自分という存在が明確になるのだ。劉備は中山靖王の末裔、孝景皇帝の遠孫にあたる劉雄の孫、劉弘の子だという。三国志第六巻においても、劉備が献帝に拝謁した際、そのルーツを問われ、劉備は堂々と答えている。献帝はすぐさま皇室系図で確認をし、劉備が天子の叔父の世代にあたることが判明する。劉備にとってのルーツとは、アイデンティティそのものであり、己を知るための再確認でもあるのだ。 さて、あらすじはこうだ。徐州の呂布のもとにいて、画策を続けていた陳珪、陳登父子の助力により、曹操と劉備は呂布を討つことに成功する。都へ凱旋した曹操は、劉備を献帝に会わせ、手柄の報告をさせる。天子は劉備の姓に興味を持ち、そのルーツを問うと、劉備が帝の叔父の世代にあたることがわかった。天子は大いに喜び、叔父・甥のあいさつを交わす。一方、曹操は虎視眈々と天下を取る機会を狙っていた。ある時、曹操は天子を招いて狩猟を楽しんだ。その際、劉備、関羽、張飛も随行した。天子の前を大きな鹿が駆け出すのを見つけ、天子は張り切って弓を引くのだが、矢は当たらない。3本ほど射かけても、1本も当たらない。そこで隣にいた曹操に「そちが射とめてみよ」と言う。曹操は遠慮もせずに天子の弓矢を借りると、ものの見事に鹿に命中した。遠方で猟場を取り巻いていた文武の百官らは、金色に輝く矢が鹿に当たったのを見て、てっきり天子の射た矢であると勘違いしてしまい、大絶賛。そこで曹操はすかさず天子の前に立ちふさがり、鹿を射たのは自分であると豪語するのだった。あまりの無礼さゆえ、関羽が思わず刀に手をかけるのだが、だれよりも惨めな思いに打ちひしがれるのは天子であった。天子は曹操に対し、ある一つの決断を下すのだった。 さて三国志第六巻では、次の4話から成っている。 第21話 月夜の同士討ち第22話 呂布雪原に散る第23話 放たれた虎第24話 張飛の兵法 見どころはやはり、劉備と曹操が訣別するプロセスだろう。これまでは、何かと曹操の才覚に一目置いて、一歩引いたところに立ち位置を決めていた劉備だったが、度重なる曹操の帝に対する非礼に、ついに反旗を翻すのだ。結果、帝の忠臣をはじめとする血判状に、劉備の名も連ねることとなる。 三国志では、曹操が国家の逆賊として徹底的に悪役を引き受けているが、実際はなかなかの風流人なのである。梅の林に席を設けて酒を酌み交わしたり、詩を吟じたりする様は、曹操にはあっても、劉備にはまず見られないからだ。英雄たちの個性の違いを楽しむのも一興。三国志はロマンであふれているのだ。 【発売】2003年 【監督】奥田誠治ほか 【声の出演】中村大樹、松本保典※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ第四巻はコチラ第五巻はコチラ
2016.05.29
コメント(0)
【横山光輝「三国志」第五巻】「本当の戦いはこれからじゃ。呂布を葬るまでは、、、この徐州、玄徳殿以外には渡さぬ、、、!」“おごれる者も久しからず ただ春の夜の夢の如し”平家物語の序文にある文言は、実にそのまま董卓の最期を語っているようだ。董卓が殺害されたあと、少しは世の乱れもおさまるかと思いきや、一向に平和は訪れない。三国志のおもしろいところは、現代社会にも充分通じるような出来事がギュッと凝縮されていることだ。 たとえば私自身の経験に基づくことだが、昔、職場でパワーハラスメントで訴えてやりたくなるような横暴極まりない上司がいた。女性職員は、その上司から何か言われるたびに不愉快な気持ちになり、職場環境はサイアクだった。ところが幸いなことに、人事異動でその上司は他の部署へと異動に。女性職員は一同、ホッと胸をなでおろし、つかの間の春を謳歌した。ところが不思議なもので、パワハラ上司が抜けたポジションに就いた次の上司が、また似たような雰囲気をかもし出す人物だったのだ。 一体これはどういうことなのか?一難去ってまた一難。人の悩みは本当に尽きない。お金を稼ぐことは、それほど生易しいことではない。会社は現代の戦場である。殺戮こそないけれど、メンタルを病んでドロップアウトしていく会社員が、どれほど存在するか知れない。先進国では、領土をめぐっての戦争こそなくなったかもしれないけれど、お金をめぐっての利権争いは今もずっと続けられているのが現実である。 さて、三国志第五巻では次の4話から成っている。 第17話 二つの計略第18話 酔虎・号泣第19話 幻の和睦第20話 陳親子の陰謀 ストーリーはこうだ。流浪の将軍・劉備は、紆余曲折しながらも、仁徳の人として知られる徐州の陶謙を頼って身を寄せた。陶謙の死後、劉備は徐州をおさめ、元の陶謙の臣下から慕われ、敬われる。中でも、陳珪・陳登父子からは絶大な支持をされ、劉備を徐州の太守として仰ぐようになる。こうして劉備たち一行は徐州の地に落ち着いたかのように思えたのだが、そのようすを呂布は黙ってはいなかった。呂布は破竹の勢いで徐州をのっとり、劉備ら一行を追い出してしまう。陳父子は劉備を徐州の統治者として仰いでいたため、呂布の横暴に憤りを感じたものの、武勇を誇る呂布を相手にたてつくこともできず、いったんは降伏してしまう。しかし、陳父子は策を練り、劉備を再び徐州に帰還させるべく、呂布を舌先三寸で排斥しようと尽力するのだった。 三国志第五巻では、陳珪・陳登という父子が暗躍する。劉備を影で支えるという重要な役割を担う人物として描かれている。ただ、史実はもっとしたたかに表現されている。実際は、ホンネとタテマエを使い分ける、あるいは日和見主義だったのではと推察される。なにしろ仕えた主人がコロコロと変わるので、たとえアニメの上でも気になる点ではある。 陶謙⇒劉備⇒呂布⇒曹操 という具合だ。それはともかく、陳登のエピソードで興味深い記事を見つけた。陳登は刺身を食べて寄生虫にあたったことがあると。その際、彼を診察したのは天下の名医・華佗であった。華佗は、オリジナルの薬を処方して陳登の命を救ったのだが、「この病は3年後に必ず再発する」と予言して去った。果たして陳登は、3年後に再び重体に陥ってしまい、亡くなるという運命なのだ。(ウィキペディア参照)[『魏書』より華佗の往診記録が残されていたという。] 現代にも赤痢やO-157などの症例がある。華佗が生きていたら、どんな治療法を施すであろうか? 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】中村大樹、辻新八、藤原啓治※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ第四巻はコチラ
2016.05.22
コメント(0)
【横山光輝「三国志」第四巻】「董卓と呂布の仲を避けばよろしいのでしょ? そのお役目、この私にお任せ下さいませ。女には女の武器がございます・・・!」古来より、女性は政略的に利用されることが多々あった。現代なら人権無視と糾弾されてしまうようなことも、昔は当然のこととして問題にはならなかったのだ。いかに女性の地位というものが低かったかがわかる。アニメ三国志では、絶世の美女と謳われた貂蝉が、体を張って2人の男を陥れるという展開が山場となっている。小説でもアニメでも、貂蝉は董卓の暴政に苦悩する養父に同情し、その身を捧げて恩返しをしようとする美談となっている。だが、このくだりをよくよく掘り下げてみると、女性としての若さと美しい容姿が利用されたに過ぎないことがわかる。その証拠に、貂蝉は自分の役目が終わったあとは、さっさと自死を選んでいるのだ。本人が望んだこととは言え、生きて地位や名誉、財産を得るというメリットが一切ないことには、どう考えても乱世の悲劇でしかない。 三国志第四巻は、次の4話から成っている。 第13話 激動の獅子たち第14話 乱世の美女(前編)第15話 乱世の美女(後編)第16話 宿敵! 二人の英雄 第13話は、第一巻~第三巻までのダイジェストとなっていて、視聴者の思考を軽く整理させようとする配慮が見られる。なにしろ三国志というドラマには、数限りない登場人物が現われては消え、消えたかと思ったら再び現れたりするのだから、初学者は混乱してしまう。そして見どころは、やはり何と言っても第14話と第15話の乱世の美女 前・後編であろう。 あらすじはこうだ。董卓の暴政にほとほと手を焼いていた王允は、どうすることもできず、ただただ国家の危機を憂えていた。そのようすを見ていた養女・貂蝉は、義父・王允の苦悩を知り、何とかして役に立ちたいと望んでいた。董卓には策士である李儒と、天下随一の武勇を誇る呂布がつき従っているため、手も足も出せない。董卓と呂布が仲たがいでもしない限り、いつまでたっても董卓を討つことはできない。そこで貂蝉は一計を案じる。女の武器を利用し、色仕掛けで呂布に近づき、また一方で董卓にも近づく。嫉妬に狂った呂布と董卓を仲たがいさせるというものだった。王允は、貂蝉にとって命懸けの計略になることから、最後まで賛成できずにいたが、結局、背に腹はかえられず、その使命を貂蝉に託すのであった。 あれだけ暴虐の限りを尽くした董卓も、第15話では王允の計略に引っかかり、暗殺されてしまう。短い栄華となった。私はこのくだりを読むにつけ、いつも思うのは、色欲というものは何と恐ろしいものかということだ。たかだか女性一人に大の男が振り回されてしまうのだから。おそらく本人も、「女ごときにうつつをぬかす己の弱さ」を自覚しているに違いない。だが、どうすることもできない。底なし沼に足をとられていくように、どっぷりと色欲に溺れてしまうのだ。世の男性のほとんどが美人に目のないことは仕方がない。とはいえ、くれぐれもご用心を。(笑)実は、女性は弱き者などではなく、魔物かもしれない、、、 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】石森達幸、折笠愛※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ
2016.05.15
コメント(0)
【横山光輝「三国志」第三巻】「俺はまだ生きている。董卓よ、俺は今、負けて初めて知った。敗れて初めて悟り得ることを!」日本の歴史上の人物に織田信長という戦国武将がいるが、時々それに比較称されるのが、中国の曹操である。確かに、ところどころで共通性は感じられるけれど、中でも、非情にも思える行為を合理的であるとみなした場合の即断即決は似ているかもしれない。例えば、信長の比叡山焼討ちなど、それまでの伝統や慣例を覆す暴挙ではあるし、何百何千という僧兵が亡くなった。(司馬遼太郎の小説を読むと、そうするまでに至った信長の苛立ちやら苦悩が描かれてはいるけれど。)曹操にしても、天下統一という目的のためには手段を選ばず、時として敵とみなす相手を躊躇なく殺害した後、その家族から下人に至るまで皆殺しにすることがしばしばあった。とはいえ、信長も曹操も現代では絶大な人気を誇る戦国武将なのだ。戦乱の世にあっては、独裁的とも思える圧倒的なカリスマ性がモノを言うし、また、それほどの合理性を持ち合わせていなければ、天下統一など目指すことはできないからだ。尾張の田舎から流星のごとく現れ、桶狭間の戦で今川義元をこてんぱんにやっつけてしまった信長と、一介の役人からトップに上り詰めた曹操とは、確かに似たものを持っている。2人に共通するのは、天下統一こそがこの乱れた世の中を平和におさめる唯一の手段であると信じていた点であろう。 第三巻のストーリーはこうだ。袁紹は、逆賊・董卓を討伐するため曹操らと連合軍を作り、総大将となった。ところがなかなか董卓を討ち果たすことができず、そのうち仲間内の曹操ともめることになり、連合軍は必然的に解散という憂き目にあう。一方、董卓討伐の連合軍に加わっていた武将の中に公孫さんがいる。公孫さんは劉備と同じ蘆植の門下であったことから、劉備の兄弟子にあたった。その公孫さんは、連合軍解散後、長きに渡って袁紹と戦い続ける。そのころ白馬にまたがり、流浪の旅を続けていた若者がいた。趙雲子龍である。その武芸に秀でた豪傑に目をつけた公孫さんは、趙雲を客将として招き入れた。苦戦を強いられていた公孫さんの軍に、援軍として颯爽と現れた劉備軍を見たとき、趙雲は運命的なものを感じ、劉備に仕えたいと願う。ところが劉備は趙雲の申し出を断る。義に厚い劉備は、兄弟子である公孫さんが勝つまでは、趙雲に大いに武勇を奮って助けてやって欲しいと頼むのだった。 アニメ三国志第三巻は、 第9話 豪傑大合戦第10話 蘇る野望第11話 玉璽の魔力第12話 白馬の若武者 、、、の四話から成っている。見どころは、曹操が董卓追撃に焦るあまり、味方の疲労困憊も無視し、独断専行してしまうプロセスであろう。中でも、典韋が曹操にわざとつっかかって挑発し、一見、軍の足並みを乱そうとしているようにも思えたところ、実は、若く血気盛んな曹操を戒めるためだったというくだりが泣ける。さらに、第12話でいよいよ趙雲子龍が登場するところなどカッコイイ。三国志の優れている点は、登場するキャラクターそれぞれが良くも悪くもハッキリしていて、その一場面を大いに盛り上げてくれる駒であることだ。まだまだ物語はクライマックスからはほど遠いけれど、見て行くうちに次の展開が待ち遠しくて仕方がなくなるから不思議だ。 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】松本保典、沢木郁也※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ
2016.05.08
コメント(0)
【横山光輝「三国志」第二巻】「俺の言うことは正しい。俺の為すことも正しい。俺が天下に背こうとも、天下の人間が俺に背くことは許さぬ!」もともと三国志のような軍記物語は、勇ましい武将の姿にあこがれる少年らに絶大な人気を誇った。馬上の英雄・豪傑は、いつの世にもヒーローに違いないからだ。とはいえ、正史三国志という本来のオリジナルは、なるべく史実に基づいた内容となっているため、まるでおもしろみはない。現在、我々が読み親しんでいるのは、唐時代の羅貫中が記した『三国志演義』という、オリジナルから派生したものである。これが今に伝わって様々な脚色を伴い、さらなる歴史大作ロマンとなったのだ。 アニメ三国志の原作者である横山光輝もこのスタイルに倣い、全60巻という大作を仕上げている。(文庫本は全30巻)最近ではゲーム化もされ、これまでは専ら少年向けの作品だったにもかかわらず、女子にも人気を博している。「歴女」という存在が際立つようになったのもこの頃で、登場人物のイケメンキャラにアイドル性を見出した女子たちが夢中になったのだ。いずれにしてもこれまで女子たちから敬遠されて来た少年向け歴史バトル漫画が、一気に射程内に入って来たのは喜ばしいことであろう。 さて、三国志第二巻であるが、次の四話から成っている。 第5話 十常侍の陰謀第6話 名馬・赤兎馬第7話 暴虐将軍・董卓第8話 乱世の奸雄 第一巻では義兄弟の契りを結ぶ劉備・関羽・張飛の主要キャラの登場で始まったが、第二巻ではあまり登場しない。代わって登場するのが、とんでもなく悪名の高い董卓と、後に劉備のライバルとなる乱世の奸雄・曹操が活躍する。吉川英治の三国志では、董卓の風貌をかなりの巨漢に描いており、肥満体ゆえ、死後はその屍から体内の脂肪がいつまでも滲み出ていたというからスゴイ。よっぽどの贅沢三昧な生活を送っていたことがわかる。(アニメではスマートに描かれている。) ストーリーはこうだ。霊帝が病死したあと、弁皇子が帝位に就く。だが弁皇子は愚鈍で、だれが見てもまるで帝位に相応しくない人物であった。勢力を伸ばす董卓は、朝廷に乗り込み、弁皇子を廃し、代わりに協皇子を帝位に就けさせることに成功する。董卓の参謀である李儒は、後顧の憂いを失くすためにも弁皇子とその母である何太后を暗殺した方が良いと進言し、董卓もそれに賛同。結果、霊帝の妻である何太后と、その長子である弁皇子を殺害する。一方、後漢随一の武勇を誇る武将・呂布は、丁原に仕えていた。董卓は丁原と犬猿の仲だったため、目障りな丁原をどうにかしたいとは思いつつも、いつもその後ろに控えている呂布を恐れ、手も足も出せずにいた。そこで李儒が一計を案じ、呂布を寝返りさせ、丁原を殺害させる。呂布は欲に溺れ、大金や名馬・赤兎馬と引き換えに、恩ある主人を裏切ったのだ。こうして董卓は、部下に呂布を引き入れることに成功し、ますます勢いづくのであった。 アニメなので、子どもも見るであろうことを考えてか、董卓の悪行が軽く流されているようにも感じた。もっと赤裸々に董卓の悪事を描いて、それに視聴者サイドが不満を募らせるプロセスがあっても良いような気がした。名門エリートのニオイをプンプンさせながらカッコ良く登場する曹操は、ここではまだ悪役として描かれておらず、半ばホッとした。他作品では、曹操をメチャクチャに、それも極悪非道に描いているものもあるが、そういう演出はいかがなものかと思う。 第二巻では、とにかく暴虐の限りを尽くす董卓と、一騎当千の武勇を誇る呂布の動向に注目してみたい。ますます第三巻が楽しみだ。 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】大友龍三郎、矢尾一樹※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ
2016.05.01
コメント(0)
【横山光輝「三国志」第一巻】「我ら、生まれた日は違えども、死すときは同じ日!」小学6年生の時、クラスの男子がコミックトムで盛り上がっていた。私はいつもフレンドやマーガレットを愛読していたので、少年マンガには興味がなく、コミックトムはスルーしていたのだが、本屋でたまたまチラ見したことがある。中でも横山光輝の『三国志』はチラ見では済まず、夢中になって読んだ。大人になってから知ったのだが、コミックトムは潮出版社から発行されており、某宗教の媒体となっている。とはいえ、宗教色の強いマンガなどほとんどなかったような気がする。 さて横山光輝だが、数々の大ヒット作を手掛けている人物なので、その名を知らぬ人などいないとは思うが、代表作に『鉄人28号』『魔法使いサリー』『バビル2世』『三国志』など数えきれないほどある。もともとは銀行員だったせいもあるのか、「商業作品は第一に経済的に成功させなければならない」という点で、自作の映像化にはとても寛容だったらしい。(ウィキペディア参照)その点、白土三平あたりとは主義主張が全く異なる。 今回私は、テレビ東京系列で1991年~1992年まで放送されたアニメ三国志を見る機会を得た。現在、全話収録のDVD-BOXが発売されており、その中の第一巻(第一話~第四話まで収録)を見た。 第一話 桃園の誓い第二話 激闘! 義勇軍第三話 死闘! 鉄門峡第四話 勅使の罠 ストーリーはこうだ。おおよそ2000年前の中国が舞台。世の中は乱れに乱れていた。飢饉が続いて百姓たちは食べることにも困り、略奪が横行した。また、腐敗し堕落した役人たちによって、国家存亡の危機を目前にしていた。そんな中、怪しげな妖術を使う太平道の教祖・張角とその弟らが決起してクーデターを起こす。彼らは黄色い頭巾をかぶり、盗賊まがいのことを始めたため、いつしか黄巾賊と恐れられた。そんな乱れきった世の中を憂えた劉備玄徳、関羽雲長、張飛翼徳らは義兄弟の契りを結び、義勇軍を募って黄巾賊の討伐に立ち上がった。とはいえ、リーダー(長兄)である玄徳は、貧しい農家の生まれであり、志は高くとも資材は全く持ち合せがなかった。言うまでもなく、官職もないせいで何かと下に見られ、辛酸と苦杯をなめること数知れずであった。そんな中、弟分である関羽と張飛はよく玄徳になつき、よく仕えた。一方、後漢を司る霊帝は、宦官である十常侍たちに操られ、ますます国家は滅亡への道をたどるのであった。 アニメ三国志は概ね原作に忠実で、生き生きとしたキャラクター作りにも好感が持てる。あえて難を言うなら、ジブリやディズニー作品に慣らされてしまった昨今においては、時代性を感じてしまうかもしれない。昭和の古き良きアニメと言えば聞こえはいいが、いわゆるアナログというものだ。 歴史というカテゴリと真摯に向き合った結果なのか、笑いの要素はなく、アニメ版の大河ドラマを見せられているような錯覚すら覚える。第一巻はまだまだ物語としては序の口で、ややおもしろみには欠ける。だが、義兄弟の契りを結んだ劉備、関羽、張飛ら豪傑たちが、今後どのように活躍し、歴史の一ページを刻んでいくのか楽しみで仕方がない。長編小説を読むのが苦手な方、『三国志』を一通り知りたい方、このアニメ版三国志なら、知的好奇心を充分に満足させてくれるに違いない。 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】中村大樹、辻親八、藤原啓治
2016.04.25
コメント(0)
【若林正恭/社会人大学人見知り学部卒業見込】◆社会人になって初めて直面する大人としてのふるまいに戸惑い、悩む大学2年生の息子が興奮ぎみに「か、感動した!」と報告して来た。何のことかと思ったら、お笑い芸人のオードリー若林が書いたエッセイを、一気呵成に読んだという。私は自分自身に置き換え、30年ぐらい前に矢沢永吉の『成りあがり』というエッセイを読み終えた時の感覚を思い出してみた。きっと息子も、ほとばしるような情熱に浮かされているに違いない。若いっていいなぁ、、、そう思った。 オードリーと言えば、これまではボケを担当している春日(ピンクのベストを着ている方)がいじられキャラで、お茶の間の人気を博していたような覚えがある。それに比べ、ツッコミの若林は地味で、目立たない存在だった。その若林にスポットが当てられ始めたのは、雑誌ダ・ヴィンチで若林のコラムが連載されるようになってからかもしれない。もちろんオードリーとしての人気は、Мー1グランプリで準優勝を獲得してからだが、若林個人としての人気はその数年後になる。 オードリー若林は東洋大学文学部卒で、高校時代からお笑い芸人を目指すようになったようだ。(ウィキペディア参照)若手芸人としての下積み時代、若林が世の中に対して思っていたこと、過剰な自意識、ポジティブになれない性格的な問題などをつらつらとエッセイにしたところ、若い男性を中心に様々な反響が寄せられたとのこと。(息子もこのエッセイにえらく共鳴した一人なのだ)私も興味本位で読んでみた。さて、40代半ばの私にどのような感動の渦が巻き起こるのか?! 結論から言ってしまうと、すでに一通りの経験を済ませている大人が読んだところで、息子世代の若者たちのような感動の域にまでは到達しない。書いてあることはすべて、社会人になったら「あるある」的なプロセスに過ぎないからだ。とはいえ、私もずいぶんと不器用な二十代、三十代を送って来た身なので、若林の苦悩には身につまされる思いだ。 私がとくに共感したのは、「牡蠣の一生」というコラムである。若林が、番組で海に潜って魚貝類を捕るという企画で感じたのは、岩にへばりついている牡蠣を目にして、この牡蠣はこうして一生をすごすのだが、一体何が楽しいのか?ということ。人間に発見されたら、岩からはがされて終わりじゃないかと。「何やってんだよ牡蠣! 逃げろよ!」と心の中で叫びつつも、食べるためにその牡蠣を捕ったらしいのだが、そんなある時、「ただ岩にしがみついて何のために生きているのか」という話を、若林は某氏に話したところ、氏は、「最初から意味なんて無いんだよ」との答えが返って来たというのだ。これには私も「深いなぁ」と思った。 私自身、すべての人が偶然この世の中に存在しているに過ぎないと思っていたので、「最初から意味なんて無い」という答えに同感だ。一つ一つに意味があったら、まともになんか生きられない。私は、何の理由もなくこの世界に存在していいという哲学に救われた。ホームレスだろうがニートだろうが、何の理由もなくとも生きていて問題ないのだ。 私の尊敬するみうらじゅんは、「ヒマつぶしの人生」と表現したが、究極はそれこそが真実なのだと思った。 大学生の息子はこのエッセイを読んで、かなり勇気づけられたらしい。「俺はいつだってネガティブ思考で、集団行動が苦手で、何一つ自信につながるものなどなかったが、オードリー若林のエッセイを読むと、たいていの男子が陥りがちな自意識との闘いなんだと言うことがわかった」(←おそらく息子が言いたかったであろう感想を、親として翻訳?してみた。)親としてみれば、活字離れの時代と言われて久しい昨今、たとえタレント本であっても、読書によって何かしら心に残るものがあればそれで充分だと思う。 雑誌ダ・ヴィンチで読者支持第一位となったこのエッセイを、まずは若い人におすすめしたい。私と同世代以上の方々は、立ち読みして気に入ったらご購入下さい。(笑) 『社会人大学人見知り学部卒業見込』若林正恭・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.04.17
コメント(0)
【パッセンジャー57】「社長がテロ対策の部長におまえを望んでいるんだ」「俺には責任が重いよ」「おまえ以上のヤツなんかいないよ」「いや、まっぴらだ。もう辞める!」「もう一度頼まれてくれよ、おまえのためでもあるんだ。リーサのことでいつまでも自分を責めるな」最近の作品ではなくて恐縮。しかも役者さんの顔ぶれも華やかさに欠けていて、ヘタをすればB級なニオイもしそうな雰囲気だ。とはいえ、85分という良心的な時間と、ネットで何人かのレビューを閲覧したところ、概ね高評価だったことから、ならば一つ見てみるかと思ったしだいである。内容は、ハイジャックされた飛行機という密室において、テロリストとテロ対策のプロが戦いを繰り広げるという、いわばパニック・アクション映画だ。今や、リアルタイムでイスラム国の傍若無人なテロ行為が繰り返されている。それはもう言葉にするには憚れるほどの陰惨で残虐なものである。『パッセンジャー57』は、とくにメッセージ性もなく、単にドキドキハラハラ感を視聴者に存分に味わってもらおうという娯楽映画ではあるけれど、2016年現在、この作品を見ると、何やら改めてテロ対策の強化とかテロへの憎しみみたいなものをひしひしと感じないではいられないのだ。 ストーリーはこうだ。ジョン・カッターはテレビのテロ対策番組で、セキュリティーのノウハウを教える仕事に従事している。もともとはテロ対策のプロとして世界でも有数の人物だったが、妻と買い物に出かけた際、強盗に妻が射殺されるという過去を持ち、一線を退いていた。ある時、大手航空会社の幹部の友人から、テロリスト対策の専門官としての依頼を受ける。最初は渋っていたジョンだが、他ならぬ友人の熱心な誘いだったこともあり、引き受けることにした。一方、凶悪テロリストであるチャールズ・レーンがFBIに拘留されていた。レーンは人間としての感情や良心に薄く、平気で殺人を繰り返し、多くの人々を殺害して来た。そのレーンを死刑制度のあるロサンゼルスで裁判を受けさせるため、飛行機で護送することになった。レーンは周到な計画で、まずはFBI捜査官らを射殺し、仲間とともに飛行機をハイジャックする。その飛行機には、たまたまジョンが乗り合わせていた。ジョンは残虐非道のレーンたちテロリストを撃退するため、単身挑むのだった。 冒頭はベタだとは思うが、妻が強盗に射殺されるという回想により、主人公ジョンが妻を助けてやれなかった己のふがいなさに自信を喪失しているという始まり方である。そんな中、ハイジャック事件が起きて、ひょんなことから知り合ったキャビンアテンダントの女性とイイ感じになって、本来の自分を取り戻し、テロリストに立ち向かうという流れは、まぁ、ありふれてはいるが、それでもドラマチックではある。ジョン・カッターに扮する黒人俳優ウェズリー・スナイプスは、幼いころから武道を習っていたようで、素手で体を張って格闘するシーンは、なかなか本格的でカッコイイ。テロリストのチャールズ・レーン役にブルース・ペインが演じているが、この人いつもこんな悪役をやっているのか、妙にハマっていた。映画としてはよくありがちな展開だし、ベタな内容かもしれないけれど、85分という短い枠の中でこれだけのドキドキハラハラ感を提供してくれるのなら、70点はつけてもいいだろう。アメリカのアクションTVドラマとか好きな方はもっとハマるかもしれない。 1992年(米)、1993年(日)公開【監督】ケヴィン・フックス【出演】ウェズリー・スナイプス
2016.04.08
コメント(0)
【ザ・ダイバー】「だらしないぞ、12歩も歩けんのか?! ネイビー・ダイバーは救助のプロだ。水中を捜索し、沈んだ物を引き上げ、障害物を取り除くんだ。若くして海で死ぬしか英雄にはなれん! なりたがる奴の気が知れん!」この春フレッシュマンとして社会にはばたく若者たちにお勧めできる作品がないものかと、あれやこれやと物色してみた。すでに15年も前の作品だが、『ザ・ダイバー』は誇り高きアメリカ海軍潜水士の伝記である。これはフレッシュマンに勇気と希望の光を射し込んでくれるものだと思う。実在の人物、アフリカ系黒人として初めて“マスターダイバー”の称号を得た潜水士、カール・ブラシア(1931~2006年)半生を描いた作品なのだ。(ウィキペディア参照) 簡単なあらすじをご紹介しよう。1943年、ケンタッキー州ソノラにおいて、黒人少年カールは小作人の子として育っていた。父は広大な農地を来る日も来る日も耕し続けるが、あくまで雇われの身なので、自分の土地は持っていない。貧しい我が身の二の舞を息子にはさせたくないと、息子カールには村を出るよう激励する。カールは父の、「二度と(貧しい)村へは戻るな」のことばを胸に刻み、海軍へ入隊することにした。ところが海軍でカールを待ち受けていたのは、それほど生易しいものではなかった。黒人兵士に許されるのは、食事を作るコック係だけ、という差別だった。カールは得意の水泳を活かしたダイバーを希望していただけに、厳しい現実に直面した。だがカールは逆境をバネに、ダイバーになろうと必死に努力し、上司へアピールを続けるのだった。 この作品の見どころは、やはり主人公カールが、どんなに辛いめに合ってもめげない強さであろう。人種差別が公然と行われていた時代のことであるから、今ではちょっと想像もできないような過酷な環境だったと思う。そんな中、「なにくそ!」とか「負けるもんか!」という、それこそ歯を食いしばって艱難辛苦を乗り越え、勝ち得たものだったに違いない。作品の後半では、勤務中の不慮の事故により足に大ケガを負ってしまう。さらには、その足を切断し、リハビリによってダイバーの仕事に復職するまでのプロセスが描かれているのだが、それはもう血の滲むような努力であった。私には決してマネのできないチャレンジ精神にあふれていて、その生き様は常に前向きだ。 それを見事に表現したのは、キューバ・グッディング・jr である。養成所での鬼教官役にロバート・デ・ニーロだが、この役者さんも言わずもがなの演技力。さらにその鬼教官の妻役としてシャーリーズ・セロンが扮しているのだが、これまたスゴイ。南ア出身の女優さんで、父親がアル中という背景を持っているせいか、ロバート・デ・ニーロ扮するサンデー教官がアル中で癇癪持ちで家庭を顧みない夫に、どうしようもない絶望感とあきらめを抱く妻、という役柄を見事に演じ切っていた。(演技というよりリアリティに近いものがあった。) 作品の内容には関係のないことだが、邦題である『ザ・ダイバー』というタイトルはどうにかならないのだろうか?原題は『Men of Honor』なのだが、もっとドラマチックなタイトルはなかったのだろうか?『風とともに去りぬ』とか『バルカン超特急』のように、インパクトのある邦題をつけて欲しかった、、、 それはさておき、立ちはだかる難題にもめげず、努力と勇気を持って困難を克服していく姿は感動的だ。アメリカ海軍初の黒人ダイバーの半生を、じっくりと堪能していただきたい。お勧めの逸作である。 2000年(米)、2001年(日)公開【監督】ジョージ・ティルマン・ジュニア【出演】ロバート・デ・ニーロ、キューバ・グッディング・ジュニア
2016.03.31
コメント(0)
【河合隼雄/こころの処方箋】◆「常識」を知らない現代人のための指南書こういう本は、まず自分から買い求めることはない。どちらかと言えばこれまで興味がない分野だったからだ。今回はたまたま大学生の息子が読了し、「なかなか良かった」とのことだったので、私も読んでみることにした。『こころの処方箋』は“新刊ニュース”に1988年2月号から1991年12月号まで連載されたものである。内容はエッセイとして万人に読み易いように工夫がこらされている。 著者の河合隼雄は兵庫県出身の臨床心理学者である。京大理学部卒で、日本におけるユング派心理学の第一人者とのこと。(著者プロフィールによる。)代表作に『母性社会日本の病理』等がある。 『こころの処方箋』は、大学生の息子が読むぐらいなので、いわゆる一般常識が平易にまとめられている。(著者自身のあとがきにも「常識を売物にして」いるとある。)というのも、暗黙の了承のように伝わるはずの常識が、昨今では通じなくなってしまったからだ。その理由はいろいろとあげられるけれど、ここでは省略する。 読んでみるとなかなか面白いことが書かれていた。当たり前のことなのに、ふだんすっかり忘れているようなことである。たとえば、 「人の心などわかるはずがない」「ふたつよいことさてないものよ」「マジメも休み休み言え」「男女は協力し合えても理解し合うことは難しい」「ものごとは努力によって解決しない」「善は微に入り細にわたって行わねばならない」「『昔はよかった』とは進歩についてゆけぬ人の言葉である」「日本的民主主義は創造の芽をつみやすい」「心配も苦しみも楽しみのうち」 などなど、カレンダーの標語になりそうな見出しで、それを読むだけでも力になりそうな言葉なのだ。今を生きる若い人たち、あるいは見えない壁にぶち当たってもがいている人たちにお勧めいたいのは、「ものごとは努力によって解決しない」という“処方箋”である。これは私自身にも覚えがあるのだが、自分なりにコツコツと努力を続けているにもかかわらず、一向にそれが報われないことがある。あるいはその努力を誰も認めてくれない場合がある。反ってろくに努力もしていない人が、派手なパフォーマンスや言動で注目を浴び、一躍有名になったりする。これは一体どういうことなんだろう?著者が言うには、「確かにいくら努力しても報われないとか不運としか言いようがないとか、そのような人が居られることは事実」であるとのこと。しかし翻って考えてみると、「努力すればうまくゆく」などということが本当に正しいのだろうか?著者ははっきり名言する。「人間が自分の努力によって、何でも解決できると考える方がおかしいのではないか」この言葉は、目から鱗が落ちる思いだった。もちろん、だからと言って一切の努力を放棄して問題を投げ出してしまうことが良策だとは思わない。河合隼雄が言おうとしているのは、努力をすることが目標なのではないし、解決などというものは、「しょせん、あちらから来るもの」だから、そんなことを目標にするな、と言うことなのである。 つまり、「せいぜい努力でもさせて頂き」、やるだけやってみるか、ぐらいの気持ちでいるのが望ましいというわけだ。肩肘張らず、自分のできる範囲内で頑張ってみて、その後、「ひょっとして解決でも訪れたら、嬉しさこの上なし」というスタンスがベターなのではと述べている。 4月からフレッシュマンとして社会人スタートを切る皆さん、何らかの問題にぶつかったとき、「自分の努力が足りないからだ」と不必要に自分を責めることなく、また努力ということばに踊らされることなく、がんばって下さい!メンタルが疲れたなぁと思ったら、枕元に『こころの処方箋』を置いて、憂鬱な五月病を乗り越えて下さいね! 『こころの処方箋』河合隼雄・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.03.20
コメント(0)
【松本清張/黒い福音】◆日本の国際的立場の弱さが事件を迷宮入りにさせた巷にははいて捨てるほどミステリー小説が出回っているけれど、なかなか「コレ!」と思うような作品と出合わないものだ。たとえ売れっ子作家のベストセラー小説でも、読者それぞれの好みの傾向に差があるので、万人ウケするのは難しい。そんな中、昭和がえりしたわけでもないが、松本清張作品を久しぶりに読んでみた。清張の小説は大衆的で読み易く、その上、緻密で丁寧な内容となっているのが頭のカタくなりつつある熟年層にはありがたい。もちろん時代性は感じてしまうけれど、こういうアナログな小説が実はものすごく心地よかったりする。 今回読んだのは、昭和34年11月から8カ月に渡って連載された『黒い福音』である。この小説は、昭和34年3月に起こったスチュワーデス殺人事件をモデルにした内容となっている。(ウィキペディア参照)まずはネットで調べた実際の事件のあらましを紹介しておく。 事件の発端は、昭和34年3月10日早朝、東京都杉並区善福寺川で女の死体が発見されたことによる。所持品から、世田谷区在住の女性(27歳)で、英国海外航空のスチュワーデス(現・キャビンアテンダント)であることが判明した。解剖結果から他殺と断定。被害者の足取りを追うと、生前、カトリック教団サレジオ会に出入りしていたことがわかった。捜査線上、容疑者としてあがったのは、同教会のベルギー人神父であった。 結局、この事件は容疑者が外国人ということもあり、警察はなかなか積極的に動けなかった。取調べのため出頭を求めたところ、それに応じず、しまいには教会組織をあげて批判の声をあげたのだ。そんな矢先、問題の神父は当局に連絡もせず、さっさと帰国してしまったという顛末だった。 この記事を読んだとき、つくづく感じたのは、当時の「日本の国際的な立場の弱さ」である。事件の核心にあと一歩と迫りながらも、宗教の壁と外国人相手という状況に手も足も出ないのである。そこに目をつけたのが、作家・松本清張だ。 とくに胸の空く想いだったのは、著者が「信者の主観的で妄信的な点」を痛烈に批判していることだ。とはいえ、信仰とはそういうものだと言われたらそれまでだが、それがエスカレートしたらどうなるのか?その危険性は、後年のオウム事件を思い起こせばよく分かる。 『黒い福音』では、著者が綿密な調査と事件資料から独自の解釈を加えてストーリーを展開している。はっきりしているのは、サレジオ会に所属する社会事業団体の一つであるボスコ社が、戦後、日本において不足していた統制物資を横流しして莫大な資金を獲得したということ。または、闇砂糖事件、闇ドル事件、さらには闇金融事件などでも同教会幹部が黒幕だったにもかかわらず、外国人神父に捜査のメスを入れることができず、不起訴となってしまった。そのような苦い経験をうやむやにしてはならない、という著者の意思表示の現れなのか、作品全体にほとばしる情熱と意欲を感じさせる。 「非常に神聖な、侵すべからざる戒律をもつ」宗教と言えども、人間のやることに大して変わりはないとでも言うように、若き美男の神父が、日本人女性信者にチヤホヤされ、いつしか聖職者としての規則を破っていくプロセスが描かれている。外国人聖職者の抑圧された肉欲のエネルギーの放出は、日本人男性とはスタミナから言っても格段の差があり、被害者女性が無条件に溺れていくのがよく分かるくだりとなっている。宗教団体の閉鎖権威主義に、一石を投じた作品なのだ。 『黒い福音』松本清張・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.03.12
コメント(0)
【鈴木大介/最貧困女子】『最貧困女子』鈴木大介・著※お詫び諸般の事情により記事を画像化してアップせざるを得ませんでした。ご賢察を賜れましたら幸いです。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.03.01
コメント(0)
【柳美里/潮合い(『家族シネマ』より)】◆いつか、いじめは根絶できるのか?世間ではいじめを扱った作品がはいて捨てるほどある。そのほとんどが、いわゆる青春小説というカテゴリにあり、ティーンを対象にしたドラマチックな内容となっている。これでもかこれでもかといじめ倒し、いじめる側の執拗なまでの陰湿な行為をあぶり出す一方で、読者の正義感を引き出そうという作品のねらいに、かえってしらじらしささえ感じてしまうこともある。いじめというものは、それほど簡単に根絶できるものではないからだ。社会が平和であっても戦時下であっても、いじめの質の違いこそあれ、まずこの世からなくなるものではない。 柳美里の初期の作品である「潮合い」は、転校生を徹底的にいじめ倒す内容となっている。芥川賞受賞作である『家族シネマ』の文庫を買うと、同刊に収められている。いじめには、いじめる側、いじめられる側、その双方に問題があるとか言われているが、私にとってそんなことはあまり問題ではない。当事者の抱えている家庭の事情など、どれほど辛く苦しい背景が隠されているか、ということもさして気にならない。現実は、そこにいじめが存在しているというその一点に他ならない。 「潮合い」のあらすじはこうだ。小学6年生の2学期、麻由美のクラスに一人の転校生がやって来た。その少女は安田里奈と言い、男子たちが妙にそわそわするだけのルックスをしていた。とにかく目立つのだ。目立つと言っても、表情はほとんど変わらず、一切だれともしゃべらず、ただその存在だけが目立っていた。麻由美はイラっとした。だいいち、2学期に転校して来ること自体、ヘンだと思った。あと半年もすれば卒業だからだ。きっとわがままで、前の学校では問題児だったに違いないと思った。麻由美はまず、里奈の髪につけているリボンにイラだった。ムリヤリ剥ぎ取ってやった。住んでいるところを聞くと、「わからない」と答えたため、麻由美は再びイラっとした。バカ呼ばわりし、ホームレスだと言ってやった。麻由美は数人の女子たちと里奈の服装について冷やかし、パンツを脱げと、みんなで一斉にはやしたてた。さらにはプールで泳げと命令した。びしょ濡れの里奈に気付いた担任の田中は、その場の状況をつかもうともせず、「転んで落ちたのか?」と、見当はずれのことを言った。熱血教師気取りよろしく、「先生はいじめがあったなんて信じない。先生はいじめが大っ嫌いだ」などと生徒たちに涙ながらにいじめを否定するのだった。 私はこの短篇を読んだとき、これは本物だと思った。まるでキレイゴトから唾を吐くように、リアリティのある、憂鬱でけだるい思春期を表現しているからだ。いじめをなくそうとか、いじめのない社会を、などと説教くさい意味合いはまるでない。 いじめはあります、それが何か? という突き放したようなクールな視線を感じるのだ。いじめの問題はおそらくきっと、今後も世間を騒がせるに違いない。だからと言って改善策を取らないというのも無責任な話だが、まずは子どもたちに強い心を持って欲しいというところだろう。さて、みなさんはいじめ問題をどう考えるだろうか? 『家族シネマ』より「潮合い」柳美里・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.02.21
コメント(0)
【伊藤比呂美/読み解き「般若心経」】◆般若心経は救いと悟りの「まじない」である「知っておきなさい 向こう岸に わたれる このちえ。ここに つよい まじないが ある。これは つよくて あきらかに きく まじないである。これは さいこうの まじないである。これは ならぶものの ない まじないなのである。どんな 苦も たちまち のぞく。ほんとうだ。 うそいつわりでは けっして ない。だから。おしえよう このちえの まじないを。さあ おしえて あげよう こういうのだ。 ぎゃーてい。ぎゃーてい。はーらー ぎゃーてい。はらそう ぎゃーてい。ぼーじーそわか。般若心経でした」 母が亡くなったとき、しきりに叔母が「なんみょーほーれんげーきょー」とお題目を唱えなさいと、私に勧めて来た。叔母は某宗教の信者であり、絶対的な信念を持って日夜、唱題に励んでいるのだ。「お題目を唱えるだけで、必ず道は開けるから」と言うのだ。当時、我が家では申しわけ程度のロッカータイプの仏壇があるだけで、信仰心などというものには無縁だった。母より先、3年ほど前に亡くなっている父も、これと言って信心は持っていなかった。一時、クリスチャンとなっていたものの、思うところがり、教会を去った。戦争を体験し、爆撃で亡くなった戦友の無残な屍を前に、この世に神も仏もあるものかと思ったそうだ。それでも何かを信じ、すがりたい気持ちはあって、イエス様を信じていたのだが、やはりそれも虚しいことのように思えたのかもしれない。 両親を亡くした私は、今はそのお位牌に手を併せるだけの信心にとどまっている。宗教というものが、ここぞというときにどれだけ救いとなり、癒しとなり、支えとなるものかは、叔母を見ていれば想像がつく。しかし、頭であれこれ理屈をこねくり回し、分析している時点で、信心は遠い存在なのだろう。信仰とは、もっと魂の叫びであり、無我の境地なのだから。 そんな中、私は伊藤比呂美のエッセイを読んだ。『読み解き「般若心経』というものだ。群ようこや林真理子のエッセイなどと同じような感覚で“すーっ”と読んでしまった。何も考えず文字を追ったのだが、意識下では音として私の中に入って来たような気がする。 ぼろぼろになるほど読んだ聖書にも、いかに人間が罪深い生きものであるかが描かれていて、己の背負った罪の重さを思い知る。たとえ無垢のように思える赤ちゃんだとしても、すでに“罪”という刻印が押され、この世に誕生するわけなので、大人になるにしたがって段々と汚れていく、というわけではない。もともとなのだ。これは仏教の基本である因果応報にも通じる。たとえば、自分の娘が妻子持ちの男とさんざん恋愛をし、男の妻を泣かせ、両親にも心配させるとする。だがその娘のした似たようなことを母もやっていて、実は、母の母もそういう業を背負って来た、という因果であり、応報である。一切、消えることはないというものだ。 そんなことをつらつらと考えていると、ありとあらゆることに意味があるのかと、そらおそろしくなる。 でも大丈夫。般若心経では「空」(empty of meaning)と言っている。そこにあるものすべて、偶然あるだけなのだ。別に意味も理由さえもないのだと言っている。それが、次のとおり。 舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色 「ねぇ、シャーリプトラ。シキはクウとかわりないのよ。クウはシキとかわりないのよ。シキはクウだし、クウはシキなんだよ」 矛盾に満ちた内容にも思えるけれど、それで良い。私は癒された。さすがは般若心経。最高にして秀逸のお経ではある。 『読み解き「般若心経」』は、詩人である伊藤比呂美のポエムにも思える。私のような勉強不足で怠惰な者にも、わかりやすく書かれている。「あーやんなっちゃった」という牧伸二のようなつぶやきを吐きたくなったあなた、ぜひともご一読を。 『読み解き「般若心経」』伊藤比呂美・著大西良慶猊下(元清水寺貫主)筆★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.02.14
コメント(0)
【アメリカン・スナイパー】「人間には3種類ある。羊・狼・番犬だ。悪など存在しないと思う連中は、悪が訪れた時、己の身を守れない。奴らは羊だ。そして捕食者は弱者を暴力で餌食にする。それが狼だ。群れを守るため圧倒的な力を駆使する者、それが狼と戦う類まれな者である番犬だ」戦場を舞台にした作品というのは、気が向かないとなかなか見る気になれない。臨場感に溢れたものであればあるほど、アクションとして楽しめるわけでもなく、絶望的に打ちひしがれてしまう。この『アメリカン・スナイパー』にしても、とても完成度が高く、興行的にも成績が良かったのは知っていたけれど、進んでDVDを手に取るまでには至らなかった。それでも今回は思い切って見てみることにした。2時間越えの大作だがしっかりと腰を据え、イーストウッドの最新作を堪能することにしたのだ。 まず驚いたのはイーストウッド映画が作品を重ねるごとに完成度が高くなっていくことだ。今ふうに言うなら、「ヤバイ!」という感じ。粗削りではない、とても丁寧で繊細な作品に仕上げられているではないか!『真夜中のサバナ』『インビクタス』『J.エドガー』等々それぞれに素晴らしい映画ではあった。だが『アメリカン・スナイパー』は徹底したテーマを感じるのだ。そう、「反戦」である。もちろん、あらゆる場面に星条旗が掲げられていて、イーストウッドの愛国精神も感じられるのだが、この作品のテーマはもっと深くてじわじわと視聴者に揺さぶりをかけてくる。戦争への憎しみ、悲哀、そして絶望である。 ストーリーはこうだ。カウボーイにあこがれ、ロデオざんまいの日々を送っていたクリスは、恋人に浮気をされ、くさっていた。そんなある日、テレビでアメリカ大使館爆破事件を見て、祖国のために戦いたいという気持ちがみなぎる。そこで海兵隊に志願し、30歳という年齢ながら過酷な訓練をクリアし、狙撃兵となった。プライベートでは美人のタヤと結婚し、順風満帆な生活を送っていた。ところがアメリカ同時多発テロ事件が引き金となり、クリスはイラクへと派遣される。戦争が勃発したのだ。テキサス出身のクリスは、幼いころより父親に狩猟を教わり、銃の扱いには慣れていた。それが功を奏してか、狙撃兵として見事な腕前を披露し、いつしか“伝説の狙撃手”とまで称賛されるようになった。一方、アメリカでは妊婦となった妻のタヤが、クリスの帰りを不安と恐怖に震えながら待ち焦がれるのだった。クリスは、想像を絶するような極限状況の戦地で、少しずつ精神の均衡を崩していくのだった。 監督であるクリント・イーストウッドでさえ予期していなかったに違いないのは、モデルとなった実在の人物クリス・カイルが、元海兵隊員によって射殺されてしまうという大事件が起きたことだ。(ウィキペディア参照)味方のために160人以上もの敵を次々と射殺してヒーローとなったクリスが、皮肉にも同じ海兵隊員の男に殺されてしまったのだ。もちろん、この男はメンタルを病んでいて、決して正常な判断を下せる精神状態にはなかったようだが、戦争という闇が人間のすべてを打ち砕いてしまうという現実を突き付けたのである。この作品の製作時にはちゃんと生きていたクリスは、完成を見ることなく亡くなってしまったというわけだ。諸行無常というやつである。 私は、イーストウッドが年を重ね、世界情勢の留まることのない移り変わりから、戦争を憎む気持ちが倍増したのではないかと思う。そうでなければこれほどまでに絶望的なラストは、描かなかったであろう。「家族を守る」「国を守る」とはどういうことなのか?相手を抹殺し、恨みを買うことなのか?復讐の連鎖を繰り返すことなのか?そもそも愛国心とは何なのか?クリント・イーストウッドが投げかけた問いは、視聴者の魂を揺さぶらずにはいられない。老若男女問わず、必見の逸作である。 2014年(米)、2015年(日)公開 【監督】クリント・イーストウッド【出演】ブラッドリー・クーパー※ご参考クリント・イーストウッド監督の『真夜中のサバナ』はコチラ『インビクタス』はコチラ『J.エドガー』はコチラ
2016.02.07
コメント(0)
【群ようこ/ぬるい生活】◆ほどほどの生活が一番心地よいこれまで数々のエッセイを読んで来たけれど、庶民的で共感が持てて、何よりおもしろいなぁと思ったのは群ようこのエッセイである。群ようこは小説も書いているし、それなりに読める内容だが、私個人としてはエッセイの方がだんぜんおすすめだ。 『ぬるい生活』は群ようこが50歳を迎えようとしているころから、ちょうど50歳を迎えたころまでの連載を文庫化したものである。女性なら必ず通るであろう更年期についても触れられていて、ものすごく参考になる。たとえば「精神の健康」という章では、更年期障害の酷い友人について書かれている。シングルで仕事もバリバリやって何事にも一生懸命の彼女は、あるときパニック障害を起こしたと。体が丈夫だとうまく更年期と付き合っていけてるような錯覚に陥りがちだが、実は肉体の健康もさることながら、メンタルの健康もさらに大切なのだと語っている。 「現代は体よりもまず精神が丈夫でないとやっていけなくなっているのである」 なるほどと思う。当たり前のことだけれど、これだけストレスにさらされていると、自分のメンタルがマヒしてしまい、知らず知らずのうちに自分に対してムリを強いている場合もあるのだ。心と体のバランスを取るのは意外にも難しい。(更年期ではない世代だって難しい。) さらに、「少し希望がみえてきた」の章では、更年期障害の酷い友人が、それこそ藁をもつかむ思いであの手この手の治療に挑戦したことについて書かれている。こんな治療があるのかとびっくりしたのは、ホメオパシーというものだ。これは、「病気に対する同毒療法」とのこと。つまり、ヒ素やトリカブトなどの毒性のものを利用して、体内の毒素を排出するらしいのだ。(人間が持っている免疫を利用するものなのか?)これが画期的に効いたらしい。このように、群ようこを取り巻くシングルの友人たちとのユニークな交流や、ひそかに始めた小唄と三味線のお稽古事についても、おもしろおかしく描かれている。 結婚する自由もあるし、しないという自由もある。シングルでも充実した毎日を過ごせれば、それはそれで良いのではないか?群ようこは三十代以上未婚で子どもなしの、世間で言う「負け犬」の部類に入るのかもしれないけれど、可愛いネコちゃんに支えられてそれなりに楽しい生活を送っているようだ。シングルで中年に差し掛かった女性には、癒しともなり得る必読の書である。 『ぬるい生活』群ようこ・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2016.01.27
コメント(0)
【仏レポ/玉宝寺 五百羅漢】 小田原まで足をのばしたのはすでに一か月も前のこと。小田原城見学が目的で出かけたのに、なんと耐震工事中だった!北条早雲が小田原に城を構えて関東八州を掌握したのは有名だが、その天守閣から眺望を楽しもうと思って出向いたのに、、、残念。 昨年末の12月は本当にあたたかく、冬とは思えない小春日和が続いた。おかげで着ていたコートを脱いで歩くほどだった。散策するには持って来いの、風もなく穏やかな天候。小田原は年末の活気にあふれていた。 「さて、どうしよう?」と、次なる目的地を考えたところ、市内に五百羅漢で有名なお寺があることを思い出した。天桂山玉宝寺である。玉宝寺までのアクセスは至って簡単。小田原駅より伊豆箱根鉄道大雄山線で五百羅漢駅まで5分ほど。下車後、歩いてすぐのところにある。 私が出向いたとき、本堂の扉は閉められていたが、おそるおそる中に入ってみた。すると、なんということだろう!ところ狭しと並んだ羅漢像に、思わず笑いがこみ上げて来た。なんだかわさわさした賑やかさなのだ。パンフレットによれば、合計526体もの羅漢像が安置されているとのこと。立像の方は高さ36~60cm、座像の方は20cmあまり。とにかくおかしな表情をしている羅漢像ばかりで、こちらまで愉快な気持ちにさせられる。ホンネを言ってしまうと、手をあわせて拝みたくなるような重厚感とか威圧感のようなものはない。どちらかと言えば、大勢のご隠居さんたちが暇を持て余して誰かが来るのをてぐすね引いて待っていたような気さくなものを感じた。 重要文化財として指定されてはいないようだけれど、仏像入門とでも言うのか、楽しく拝観するには最高のモチーフだと思った。羅漢像以外では、弁財天・毘沙門天・十一面観音などが安置されていたが、さすがに風格があって頼もしい存在である。とはいえ、様々な表情を見せて癒しを与える羅漢像は、圧倒的に庶民の味方!おもしろいものが好きな方、こちらの五百羅漢を眺めてぜひともユニークな気分を味わっていただきたい。 作家のいとうせいこうが、その著書の中で語っていたように、「仏像は帰化しないガイジンであり続けている」のだから、珍しがって眺めるだけでも充分にまっとうしているのではなかろうか。あられもない言い方だが、功徳のための拝観というより、遊山のための観光の方が健康的かもしれない。興味のある方は、ぶらりと出かけていって本堂の中をゆっくりご覧下さい。
2016.01.17
コメント(0)
【万能鑑定士Q モナ・リザの瞳】「あ、万能鑑定士QのQって、どういう意味ですか?」「取材はお断りします。絶対に答えません」「えっ、それくらいいいじゃないですか、Qの意味・・・」「それは言いたくないんです!」「いや、名前の由来くらい教えてくれてもいいんじゃ・・・」このお正月に見ることになった作品としては、ちょっと軽すぎた。前回が『セッション』でメンタルを痛めつけられるハードな内容だっただけに、今回見た『万能鑑定士Q』はお茶の間向けドラマにも思えてしまった。原作は松岡圭祐で、数年前からその名を度々見かけるようになった人気作家である。『ダ・ヴィンチ』ブック・オブ・ザ・イヤー2015とか『本の雑誌』、あるいはブックリスタ年間ランキング2015などで見かけるヒット・メーカーだ。(ウィキペディア参照)松岡圭祐の作品は入試問題への採用も多いらしく、受験生の皆さんにとっては要チェックの作家であろう。とはいえ、今回は原作を読んでいないため、映画としての評価、感想を言わせていただくことにする。 キャスティングを見ても、決して重々しい作品ではなく、むしろ万人受けするように明るくユニークなテイストに仕上げられている。もちろん内容はミステリーなのだが、そこにこだわりは見受けられず、徹底してお茶の間を意識したものに感じた。 ストーリーはこうだ。万能鑑定士Qとして働く凛田莉子のもとに、ルーヴル美術館アジア圏代理人兼調査員である朝比奈がやって来た。朝比奈は、莉子の卓越した鑑定眼を見込んで、臨時学芸員の採用試験を受けるよう推薦に来たのだ。というのも、フランス・ルーヴルが所蔵するレオナルド・ダ・ヴィンチの名画『モナ・リザ』が40年ぶりに来日することとなったからだ。冴えない雑誌記者の小笠原悠斗は、さる事件で莉子の天才的鑑定眼に興味を持ち、密着取材を続けるが、莉子の渡仏を知り、自費で追って行く。パリでは見事試験に合格し、莉子はもう一人の合格者、流泉寺美沙とともに研修を受ける。そんな中、莉子は講義を受けているとしだいに体に変調を来たし、持ち前の鑑定眼が狂っていくのだった。一方、来日した名画『モナ・リザ』は、陰謀を企むフランス人窃盗団に狙われていた。 「日本映画として初めてルーヴル美術館での撮影に挑む」というふれ込みだったので、かなり話題になった。ルーヴル美術館でのロケは、『ダ・ヴィンチ・コード』以来というから凄い。日本映画もなかなかやるじゃないかと褒めてやりたい。興行的にもまずまずだったようなので何より。好き嫌いがあるから、一方的な批評はしないつもりだが、パンチの弱いサスペンスはせめて演技力でカバーするかどうにかして欲しい気がした。いろんな制約があるのかもしれないが、フランスの街並とかスタイリッシュなムードをもっと押し出しても良かったように思える。日本のどちらかの美術館を貸し切ってルーヴル的なセットをこしらえたように見えるのでは意味がない。ルーヴル美術館のかもし出す、格調高く優雅な雰囲気がそこかしこから漂う映像美を期待していただけに、残念でならない。とはいえ、キュートで屈託のない綾瀬はるかや、粗削りだが野心の見え隠れする松坂桃李ファンにとっては、必見の作品であろう。 2014年公開【監督】佐藤信介【出演】綾瀬はるか、松坂桃李
2016.01.09
コメント(0)
【セッション】「あなた、ショーン・ケイシーを知ってるかしら? 亡くなったの。先月、部屋で首を吊って」「そのことと僕と、何の関係が?」「彼は鬱病を患ってたの。フレッチャー先生の生徒になってからよ。彼の遺族は経済的に厳しいから裁判にはしないと言ってるわ」「・・・じゃあ、何を望んでいるんだい?」「二度と同じような生徒を出さないことよ」新年最初の映画はこれ、『セッション』である。昨年のうちに視聴する機会はいくらでもあったのに、いろいろとあって今に至る。お正月、家族で見る映画としてはどうだろう?たまたま私は一人で見た。居間のこたつに足を伸ばし、ミカンをパクつきながら。アカデミー賞で5部門にノミネートされ、3部門で受賞したということなので、それはもう大絶賛の作品であることはよく分かる。(ウィキペディア参照)とはいえ、軽いノリと初笑いの感覚で楽しもうと思ったら、この作品はエントリーミスである。青春映画というカテゴリにはムリしても入らず、ヒューマンドラマと言うならあまりに壮絶で激痛が走る。才能とは努力の積み重ねの上に成り立つものなのだという単純なテーマなら何も問題はない。もっとパラノイア的な狂信性を伴うものだから厄介なのだ。 『セッション』は、19歳の音楽学校の学生であるニーマンが、偉大なドラマーになるのを夢見て、日々血の滲むような練習に励むストーリーである。 あらすじはこうだ。19歳のアンドリュー・ニーマンは、名門シェイファー音楽院に入学し、偉大なドラマーになりたいと練習に励んだ。ある日、ニーマンが一人でドラムを叩いていると、伝説の鬼コーチであるフレッチャー教授が現われた。少しだけ期待を持ったニーマンだったが、フレッチャーはニーマンのドラムを数秒聴いただけですぐにその場を去ってしまう。その後、ニーマンの所属する初等クラスにフレッチャーが突然顔を出すと、メンバーの音をチェックするかと思いきや、ニーマンだけを引き抜き、フレッチャーのバンドに移籍するのを命じた。再びニーマンは期待感と優越感を抱きつつ、フレッチャーのバンドに参加するものの、そこは緊張と恐怖に支配された過酷な現場だった。さっそくスティックを握ることになったニーマンは、テンポが違うとフレッチャーにさんざん罵られたあげく、ビンタされ、椅子を投げつけられ、矯正された。ニーマンは悔しさから必死で練習を重ねた。手の肉が裂け、血が噴き出し、何枚もの絆創膏を貼り直しながら、ドラムを叩き続けた。やがて、ニーマンの努力が報われたかと思いきや、フレッチャーは有能な新人ドラマーをつれて来た。ニーマンに心休まるヒマなどなく、フレッチャーによってギリギリまで追い詰められていくのだった。 『セッション』を見ている間じゅう、肩に力が入り、手が汗だくになる思いがした。それだけ視聴者を夢中にさせる作品だという証拠だ。主人公は、鬼コーチによって有頂天にもどん底にも突き落とされる。個人的には、この鬼コーチの行為は虐待とかパワハラとかSMとも受け取れる。血の滲むような練習が必ず花を咲かせるのだというメッセージが込められているのなら、100倍救われた。だがこの作品は違う。才能が芸術として開花するのは、周囲を蹴落とし、自分だけの世界観を確立し、狂信的深みにどっぷりと浸かることなのだと。将来のことなど考えてはいけない。親兄弟はもちろん、他人のことなどこれっぽっちも考えるな。自分・自分・自分!なりふりかまわず、開き直れ!ラストのドラム・ソロからは、仏教でいうニルヴァーナを見たような気がした。 年頭に視聴するには多少ハードな作品だが、何かにギリギリまで打ち込みたいと思っている方ならば、骨の髄まで励まされること間違いなしだ。 本年も吟遊映人をよろしくお願い申し上げます。 2014年(米)、2015年(日)公開 【監督】デミアン・チャゼル 【出演】マイルズ・テラー、J・K・シモンズ
2016.01.02
コメント(0)
2015.12.30
コメント(0)
【山田太一/空也上人がいた】◆いつも僕の傍に空也上人がいるここのところ私は、生涯をかけて大切にしていきたいような素晴らしい小説と出合っている。そのことで人生が大きく変わることなんて、まずないけれど、良質で分け隔てのない物語の世界にゆったりとくつろぐことができる。著者は私の大好きな作家・山田太一である。シナリオライターとしてはあまりにも有名で、代表作に『ふぞろいの林檎たち』等がある。小説では『異人たちとの夏』があり、山本周五郎賞を受賞している。 山田太一の描く主人公の特徴としては、たいてい心に闇を抱えている。例えば、仕事に忙殺されていてものすごく疲れていたり、生活には不自由していないけれど孤独を感じていたり、過去の拭えない記憶に壮絶な自己嫌悪を抱いていたりするのだ。人は皆、多かれ少なかれ、どうしようもない闇を内包して生きている。そんな持て余し気味の自分を、ある人は何でもないことのように振る舞ってみたり、またある人はあきらめの境地で受け入れているのかもしれない。 『空也上人がいた』は、27歳の介護ヘルパーである男性が、勤務先の特養老人ホームである秘密を抱えてしまい、その心の闇を抱えつつも、独居老人や46歳女性・ケアマネージャーとの関わりを描いたものである。 ストーリーはこうだ。特養老人ホームで介護ヘルパーとして働いていた27歳の中津草介は、2年4カ月で退職してしまった。夜勤、オムツ交換、食事介助、徘徊、そんなことの繰り返しから極度の疲労が蓄積していたかもしれない。車椅子で認知症のある利用者を、廊下でつまずいた勢いで、車椅子から転げ落としてしまった。その利用者は6日後に亡くなった。草介は仕事を辞めた。そんな中、ケアマネージャーである46歳の重光雅美は、何かと草介に目をかけていた。在宅の独居老人の介助という仕事を持って来たのは、重光が個人的に草介を信頼してのことだった。草介は、とりあえずその依頼を受けることにした。依頼主は81歳で一人暮らしの吉崎征次郎だった。6年前に妻を亡くし、子どもはいなかった。その吉崎が草介に「京都へ行ってくれ」という。草介は怪しみながらも、京都まで出向き、指示どおりに六波羅蜜寺へ行った。そして宝物館へ入館し、空也上人の彫刻を目の当たりにするのだった。 この小説は恋愛小説というカテゴリに入ると思う。それなのに、これまでの恋愛小説と一線を画すのはなぜか?おそらくきっと、ふわふわしたメルヘンからはほど遠く、より現実味を帯びたストーリーだからであろう。もちろん、読者を意識してよりドラマチックな展開にはなっている。それでも恋愛の向こうに結婚があり、結婚の向こうに介護問題が見え隠れするのは、凄まじいリアリティーさだ。だが心配はいらない。著者はちゃんと救いの手を差し伸べているからだ。人間はそれほど強い生きものではないことを承知の上で、空也上人という壮絶な修行僧を心の支えとして登場させている。(いつも我々と共に歩んでくれるという意味で。) さて、小説のラストでは、草介が老後のことを夢想している。妻の乗る車椅子を押して歩く自分の姿を見ているのだが、その時の妻の目がスゴイ。この描写に私はホラーを見た。山田太一の小説はどれも秀逸だが、この『空也上人がいた』は、さらに輪をかけた素晴らしさである。人生につきまとう自己嫌悪の気持ちを、そっと包み込むような優しさと寛容さを感じさせてくれる作品なのだ。 『空也上人がいた』山田太一・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2015.12.26
コメント(0)
【葉室麟/散り椿】◆清く正しく美しく生きる姿に、胸が熱くなる。私は今年44歳になったが、中学時代の恩師とはいまだに年賀状のやりとりや、たまのメール交換などをしている。定年を前にした恩師は、これまで以上に読書の幅を広げ、心の琴線に触れるような作品と出合った際には教え子に惜しみなく紹介していこうと思っているようだ。最近、久しぶりに届いたメールにも、やはりお勧めの一冊についての感想が寄せられていた。それが葉室麟(はむろ・りん)の『散り椿』である。もしかしたら私が、「歴史・時代小説が好き」だと言ったことがあるのを覚えていたのかもしれない。だとしても純愛をテーマにしたこの『散り椿』という小説は、恩師がこの一冊としてエントリーした作品に相応しいものだとつくづく思った。 著者の葉室麟は、北九州市小倉の出身で西南学院大学卒である。『銀漢の賦』で松本清張賞を受賞し、『蜩ノ記』で直木賞を受賞するという飛ぶ鳥を落とす勢いのある作家なのだ。(ウィキペディア参照)この小説を何の先入観もなく読んでいると、もしや著者は平成の新鋭か?と思ったりする。それぐらい文体がみずみずしく、しかも純朴な感性に心を打たれるからだ。ところがプロフィールによれば1951年生まれ、御年64歳。いや、驚いた。 あらすじはこうだ。瓜生新兵衛は、ゆえあって故郷を離れ、愛妻の篠とともに京都の地蔵院に身を寄せていた。病床に臥す篠を一生懸命に介護するものの、その甲斐もなく、篠は亡くなってしまう。新兵衛は生前、妻と約束したことを果たすべく、故郷へと帰藩したかつて一刀流道場の四天王と呼ばれた勘定方の新兵衛は、その実直さから上役の不正を訴え、藩を追われていたのだ。帰る家のない新兵衛が身を寄せたのは、篠の妹である坂下里美のもとだった。里見の夫・源之進は、新兵衛の旧友であり四天王の一人だったが、無実の使途不明金を糾問され、自害していた。里見と源之進には一人息子である藤吾がいたが、父親の二の舞にはなるまいと、殖産方として日夜励んでいた。そんな中、藤吾にとっては伯父に当たる新兵衛がやって来たため、心中、穏やかではない。18年も前とはいえ、追放になった親戚が訪ねて来ようとは、はた迷惑な話だと思うのだった。そんな藤吾の複雑な心境をよそに、母の里見はかいがいしく新兵衛をもてなし、新兵衛もまた遠慮のない気さくな態度で接していた。一方、藤吾には秘かに武士として尊敬している人物がいた。それはやはり四天王の一人である榊原采女で、新兵衛の旧友だった。采女は冷静沈着にして容姿端麗。いずれ家老にまで昇りつめるのは間違いないと見られていた。その采女が、実は新兵衛の妻である篠にずっと想いを寄せており、いまだ妻を娶ることのない独り身であることを、藤吾は知ったのである。 『散り椿』は時代小説なので、厳密に言えば歴史考察に難のある個所はそれなりにあると思われる。だが、それで良いと思う。その時代を必死に、懸命に生きる人々を生き生きと自在に描くことに意義があるからだ。現代人には忘れがちな純粋さや素朴さが際立って美しくよみがえる。不正を良しとせず、まじめに生きようとする者が追われる世の中であってはならない。清く正しく美しく生きる姿に、胸が熱くなる。父から息子への代替わり、純粋な恋、不正を許さぬ誠実さ、すべてがドラマチックに描かれている。藤沢周平の筆致にも似ているかもしれないが、葉室麟の方がやや現代的で、若い世代にも受け入れられ易いかもしれない。 「読む本がない」と嘆いているあなた、「感動したい」と切望しているあなた、ぜひともこの作品をお勧めしたい。必読の書である。 『散り椿』葉室麟・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2015.12.19
コメント(0)
【シグナル】「俺も具合が悪いんだ。まるで体の中に何かがいるみたいだ。その何かが俺をむしばんでいるんだ」「どんなふうに?」「まるで体じゅうに、、、」「・・・違和感がある?」「そうだ」『シグナル』の予告編にもあるように、内容は意外性とか予想を超えた展開に目を見張るものがある。とはいえ、作品自体は低予算映画であることに違いはない。(要するにB級映画というやつだ。)作品の冒頭は、何やらイイ感じの青春映画的な彩りで、男子2人女子1人の関係にワクワクさせられる。これのどこがSF映画なんだろうかと首をかしげながら探っていくと、段々と流れが分かって来る。 ストーリーはこうだ。マサチューセッツ工科大学のニックは、足が不自由で杖を頼る生活をしていた。ガール・フレンドのヘイリーが複雑な想いを抱えつつも、カリフォルニア工科大学へと1年間転学することになり、ニックとその親友ジョナは引っ越しを手伝うことにした。もともとは障害のなかったニックだが、足にハンデを負ったことで、ヘイリーとの関係がギクシャクしていることも理由の一つだった。そんな中、謎のハッカー“ノーマッド”がマサチューセッツ工科大学のコンピュータをハッキングして来た。ニックとジョナはMITの学生という誇りがあるため、何とかしてそのハッキングを阻止してやりたい、突き止めてやりたいという意気込みがあった。マサチューセッツからカリフォルニアへと横断する際、ネバダへと立ち寄ることにした。GPSで“ノーマッド”の居場所を突き止めたからだ。ニックとジョナは、車内にヘイリーを残すと“ノーマッド”の居場所と思われる廃墟を捜索することにした。深夜の廃墟は不気味で、人の気配はなかった。“ノーマッド”にまんまと一杯食わされたと思っていると、突然、車内に残したヘイリーの金切り声が聴こえた。驚いたニックとジョナは、慌てて車の方に戻ると、ヘイリーは何者かに拉致され、突然、周囲が漆黒の闇に変わった。 作品そのものの意図することは、正直わからない。そもそもB級映画にテーマなんかないかもしれないが、ただ、もう少し主人公の背景を知りたかったのは事実だ。たとえばニックのハンデは生まれつきのものではないことは、作中の回想シーンで明らかである。何かクロスロードカントリーのような競技の最中、降雨の後なのか泥に足を取られて転倒するシーンや、ジョギングしているとき水かさの増した川を前に立ち往生する場面が出て来る。これが一体何を意味するのか?このときまで足にハンデはないから、この競技の後に何らかのトラブルに巻き込まれたということなのか?あるいは、ニックが隔離施設に収容されている際、ドクターから「君は地球外生物と接触したことで汚染されている」と説明を受けたあと、ニックは鼻血を出す。このどす黒い鼻血の意味するものは何なのか?さらには、隔離施設でずっと昏睡状態にあったヘイリーが、ニックとともに脱出後、いきなり目覚めるのだが、施設内と外では空気が違っていたのだろうか?そのへんの経緯がわかれば、もっと楽しめただろうし、自分なりの解釈もできたに違いない。漠然と思ったのは、マサチューセッツ工科大学のエリートさえ太刀打ちのできないインテリ生物が、この宇宙には必ず存在するのだ、ということだ。要は、“上には上がいる”という意識を再確認したわけだ。 SF好きには必見の逸作である。 2014年公開【監督】ウィリアム・ユーバンク【出演】ブレントン・スウェイツ、ローレンス・フィッシュバーン
2015.12.14
コメント(0)
【仏レポ/徳泉寺 木喰仏】 もともと古寺めぐりを趣味とする私は仏像を眺めるのも嫌いではない。ところが昨今、拝観料をおさめてやっと拝めるか、秘仏扱いでパンフレットでしか目にすることができないこともある。そんな中、地方にはまだまだ庶民とともに寄り添うように安置されている仏像がある。それは実に素朴で愛嬌があり、ややもすればバランスに欠いていて、決して芸術的に優れているかどうかは疑問だ。それでもその一つ一つの仏像に作者の並々ならぬ思いとかロマンを感じないではいられない。それこそが歴史であると私は思うからだ。 さて今回私が訪れたのは、静岡県浜松市浜北区堀谷という集落である。県道296号線を道なりに北上するのだが、すれ違う対向車はなく、昼間だというのに長い静寂と孤独なドライブだった。たどりついた堀谷には、それでも何十軒かの住宅が点在しており、生活の足音が聴こえて来た。目指すのは徳泉寺。そこには、浜松市指定有形文化財でもある木喰仏が安置されている。 ◆木喰仏ってなに? 木喰仏とは、いわゆる木喰上人が残した仏像のことだ。行き着いた先によっても違うが、大きくて立派な仏像を刻むこともあれば、わずか20センチ足らずの小さな仏を宿泊のお礼として農家に残すこともあった。 ◆木喰上人とは? 木喰上人と名乗った僧は何人かいる。これは木喰戒と言って、五穀を口にせず、木の実やそばの実を食べて修業した徳の高い僧のことだ。この堀谷の地に訪れたのは木喰五行上人(もくじきごぎょうしょうにん)と言い、庶民に布教するため日本全国を回った作仏聖(さくぶつひじり)である。 徳泉寺の境内には、樹齢何年(年数を記録し忘れてしまった)というモクレンの木が茂っている。その美しい稜線に、思わず目を奪われる。 目的の11体の木喰仏の隣には、お地蔵さまが仲良く並んでいる。冬のあたたかな陽射しを背中に浴びて、のどかに微笑んでおられるのだ。 木喰仏はさすがに市の文化財ということもあり、頑丈なケースに安置されていた。盗難防止のためなのか、物々しく鉄格子のようなケースだ。(表面のガラス材を通して撮影したため、光ってしまったのが残念。) 堀谷地区は、バスや電車などの公共交通が来ていないため、意志がなければなかなか訪れる機会のないところである。今回、知り合いのN美さんがわざわざ車を出してくださり、草深い徳泉寺まで出向くことができた。この場をお借りして厚く御礼申し上げたい。 【参考文献】『静岡県の仏像めぐり』静岡新聞社
2015.12.07
コメント(0)
【チャッピー】「いや、ダメだ。ムダなことだよ。ボクは死ぬ。バッテリーがないんだ」「いやよチャッピー! きっと何か良い方法があるはずだわ」「いや、ボクは死ぬ」ニール・ブロムカンプ監督と言えば、大ヒット作『第9地区』を作った監督でもある。この監督の一貫したテーマでもある「見かけだけで人を判断してはならない」という主義は、この『チャッピー』においても際立っていて、改めて豊かな表現力と想像力を賞賛せずにはいられない。主人公チャッピーを演じるのはシャールト・コプリーで、役柄上、顔は露出されないけれど『第9地区』以来ずっとブロムカンプ監督とタッグを組んで来た役者さんである。 舞台となっているのは定番の南ア・ヨハネスブルクだ。世界でも有数の犯罪都市ということもあり、警察組織が犯罪に巻き込まれるのを防ぐため、危険な前線にロボットを配備するという設定が、現実味を帯びていて面白い。なにしろヨハネスブルクと言えば最悪の治安で、たとえ警官と言えどもおちおち一人では歩けず、身ぐるみ剥がされるばかりか、最後は当然のように殺されてしまうからだ。そんな状況下で、警察が自衛手段としてロボットを導入するという発想は、今後、あながちありえなくはないのではなかろうか。 ストーリーはこうだ。ヨハネスブルクの当局は、犯罪を軽減するため最先端の人型ロボットを導入した。それらロボット兵器は、警官の代行として危険な前線で戦っていた。人型ロボットの設計者はディオンで、さらなる高性能の人工知能ソフトウェアの開発に勤しんでいた。それは感情さえ持っている人間の知性を搭載したソフトウェアで、やっと開発に成功したのだ。ある時、ディオンは上司にロボットの試作を申請したところ、許可されなかった。だがディオンはあきらめきれず、廃棄寸前のロボットを実験台にするべく、必要なUSBとともに自宅へ持ち帰ろうとした。ところが帰宅途中、3人組のギャング、ニンジャ・ヨーランディ・アメリカにロボットもろとも誘拐されてしまう。一方、ディオンの同僚ムーアは、自分の開発した攻撃ロボットを当局に売り込んでいた。プレゼンテーションではムーアの開発した攻撃ロボットではあまりにいかつい外見で、しかも街じゅうを戦場にしてしまいそうな攻撃力のため拒絶されてしまう。そんなムーアは、前途洋々のディオンに対し、並々ならぬ嫉妬心を抱くのだった。 この作品を見ると、いろんなことを考えさせられる。最悪な治安状況下では、警官の代わりとして活躍をする人型ロボットは、一見、大変効率の良いツールのように思える。ところがいったんウィルスが何かの影響でダウンしてしまうと、ロボットは使い物にならず、やはり最後は生身の人間が手をくだすこととなるのだ。また、外見というものがそれほど大切なものではないとすれば、人の意識をコピーするソフトウェアを使うことで、人としての肉体が滅びようともロボットとして永遠に生き続けるという選択肢もある。そんな中、この問題を追求してしまうと、何やらこれまでの「見かけだけで人を判断してはならない」という主張にメスを入れることになりそうな気がしてならない。 『チャッピー』は日本で公開されるにあたり、カットされたシーンがあるようだ。(ウィキペディア参照)それは、3人組ギャングの一人であるアメリカが、ムーアの開発した攻撃ロボットに惨殺されるシーンらしい。本来はギャングの方が悪役で、ロボット開発者のムーアがやったことが正義となるはずなのだが、この作品では完全に善悪の判断が変わっている。そのあたりをじっくりと考えながら見るのも楽しい。チョイ役でシガニー・ウィーバーが出演しているのも嬉しい。こういう近未来映画には圧倒的な存在感を誇る女優さんなのだ。 2015年公開【監督】ニール・ブロムカンプ【出演】シャールト・コプリー、ヒュー・ジャックマン※ご参考ニール・ブロムカンプ監督の『第9地区』はコチラから
2015.11.30
コメント(0)
【見延典子/もう頬づえはつかない】◆貧困女子大生の恋愛事情70年代は、いろんな意味で新しい風の吹いた年代であった。小説はそれが顕著に表れているのだが、たとえば村上春樹が登場したり、三田誠広や中沢けいなんかも産声をあげた。中でも見延典子は女子大生のゆるい日常を俗っぽく描いていて、本人の体験手記なのではと読者をハラハラさせるリアリティーさが受けた。当時ベストセラーとなった『もう頬づえはつかない』は、著者である見延典子によると、「これは大学に提出した卒業論文」であるとのこと。そのわりに文体は堅くないし、臨場感はあるし読み易いので、ごくごくフツーの小説として楽しめる。 見延典子は札幌市出身で早大第一文学部卒である。最近では『頼山陽』で新田次郎文学賞を受賞しているが、いつから歴史や伝記文学へと転向したのであろうか?代表作の『もう頬づえはつかない』は50万部を超える大ベストセラーとなり、1979年に桃井かおり主演で映画化もされた。(ウィキベディア参照)今回、当ブログの管理者の一人が『もう頬づえはつかない』の単行本を持っていたため、私は遅ればせながら一読させてもらう機会を得た。あらすじはこうだ。 貧乏女子大生のまりこは印刷工場でアルバイトをしていた。そこで知り合った同じく貧乏学生の橋本と、ずるずるとした関係を持つようになったまりこだが、実はまりこには同棲している恒雄がいた。だが恒雄は風来坊で、すでに1年近くも音沙汰がなかった。恒雄はまりこと同じ大学の法学部生だったがすでに退学。愛嬌のある橋本とは対極にあり、無愛想で無口でそれでいてまりこには抗えない魅力を感じさせる男であった。まりこは自分のアパートに住み着いてしまった橋本をキープしつつも、心はいつも恒雄の帰りを待っていた。そんなある日の深夜、ふらりと恒雄がまりこのところへ戻って来た。だが部屋には橋本が寝ているため、まりこは恒雄を中には入れず、場末のスナックへと誘った。後日、橋本が帰省のため鹿児島へと帰ってしまうと、まりこは待ってましたとばかりに恒雄のもとに出かけた。新宿のホテルで恒雄に抱かれ、快楽を貪った。感動的とも思えた再会と抱擁はつかの間だった。まりこは妊娠したのだ。だが、実際のところ、相手が恒雄なのかそれとも橋本なのか分からない。まりこは愛する恒雄の子を宿したのだと思い込み、恒雄のアパートに何度も足を運ぶのだった。 言うまでもなく結末は陰惨で、後味は悪い。こういう小説が当時のベストセラーだというのだから、おそらく時代性もあると思われる。私の好きな書評家である斉藤美奈子が、『妊娠小説』という抱腹絶倒の著書の中で、この手の小説をバッサリと斬っている。「未知なる妊娠に対する率直なおどろきである」と。これは主人公のまりこが女子大生という立場にありながら妊娠してしまうという設定と、著者である見延典子が23歳でこの体験談とも受け留められる作品を発表したという意外性も付加される。青春の苦悩とか何とかを表現した小説には違いないのであろうが、ひょんなことから妊娠→中絶というプロセスは、いつの時代にもごく当たり前のように存在した。娯楽の少ない時代には、肉の悦びもスポーツやゲームの一つだったかもしれない。だが今後はどうなるか?昔はこういう小説が世間をあっと驚かせるものだったのだと若い人に教えてやりたい気がする。この小説を読んで衝撃を受けるかどうか分からないけれど、ちょっと試しに読んでみてはいかがだろう?女子高生、女子大生の方々、ぜひどうぞ。 『もう頬づえはつかない』見延典子・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2015.11.22
コメント(0)
全1682件 (1682件中 151-200件目)