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今から90年前、1923年9月1日に相模湾を震源とする巨大地震が関東地方を襲い、死者/行方不明者は10万5000名以上、損害総額は55億から100億円に達したという。復興するためには相当額の資金が必要なわけで、日本政府は外債の発行を決断する。交渉相手はJPモルガン。この巨大金融機関と最も深く結びついていたのが井上準之助だ。 JPモルガンを率いていたトーマス・ラモントは3億円の外債発行を引き受け、1931年までの間に融資額は累計10億円を超えたという。当然、JPモルガンは日本に大きな影響力を及ぼすようになる。日本の通貨を支配するために金本位制を強制、今の用語を使うならば、「新自由主義経済」の導入を推進させた。その結果、日本からは金が流出して不況はますます深刻化、東北地方で娘の身売りが増えることになる。 こうした経済政策を推進した浜口雄幸首相は1930年に東京駅で銃撃されて翌年に死亡し、32年には井上が本郷追分の駒本小学校で射殺されている。井上の死と相前後する形で駐日アメリカ大使に就任したのがJPモルガンの中枢グループにいたジョセフ・グルー。 このグルーは日米関係、いや日本の皇室とウォール街を結びつけるキーマンだった。グルーの親戚、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻であり、妻のアリスは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后(九条節子)と華族女学校(女子学習院)の時代に親しくなっている。この関係は戦後の日米関係でも基盤になる。 JPモルガンとしては、日本に融資/投資した以上、利益を上乗せして回収しなければならない。不景気で儲かりませんという弁解は許されない。どこかで稼いでこいということになる。 歴史を振り返ると、地震の翌年に治安維持法を公布され、5年後には山東出兵、張作霖を爆殺、8年後に柳条湖の近くで満鉄の線路を爆破、9年後に「満州国」の建国が宣言された。中国侵略、要するに押し込み強盗。 ところが、その年、アメリカではウォール街と対立関係にあったフランクリン・ルーズベルト(詳しくは拙著『テロ帝国アメリカは21世紀に耐えられない』を)が大統領選挙で当選し、日本にも大きな影響を及ぼすことになる。押し込み強盗で稼ぎ、ウォール街へカネを渡すというシナリオが成り立たなくなったわけだ。 強者総取りの政治経済システムにとって庶民の権利を主張するような人間や団体は目障り。関東大震災の対策を担当した水野錬太郎内相と赤池濃警視総監は朝鮮の独立運動を弾圧したコンビで、総監は罷災地一帯に戒厳令を布くべきだと水野内相に進言した。戒厳令下では、庶民の権利は大幅に制限される。 震災当日の夕方になると、「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」、「朝鮮人が来襲して放火した」といった流言蜚語が飛び交いはじめ、翌日の夜に警視庁は全国へ「不定鮮人取締」を打電、戒厳令も施行されている。水野と赤池のコンビにとって好都合な展開になったということだ。 勿論、関東大震災の前も日本は外国の影響を受けていた。イギリスだ。明治維新の背後にイギリス(ジャーディン・マセソン商会)がいたことは有名な話。中国(清)へアヘンを押し売りして大儲けしたジャーディン・マセソン商会は1859年にトーマス・グラバーを代理人として日本へ送り込んだ。 その年、イギリスの初代駐日総領事、ラザフォード・オールコックは長州藩から5名の若者をイギリスへ留学させることを決めた。1863年に選ばれたのは井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)。この5名、物見遊山でイギリスへ行ったわけではなく、イギリス政府も慈善事業で5名をロンドンへ連れて行ったわけではない。 イギリスへの渡航はジャーディン・マセソン商会の船が使われたが、その手配をしたのがグラバー。岩崎彌太郎、坂本竜馬、後藤象二郎らもグラバーの邸宅へ出入りしていたようだ。
2013.08.31
シリアの反政府軍に化学兵器を提供しているのは、サウジアラビアのバンダル・ビン・スルタン総合情報庁長官だとする情報が流れている。毒ガス攻撃を受けたとされるゴータの医師、住人、反政府軍の兵士らはそう信じているようだ。 住民のひとりで息子が戦闘員だったというアブ・アブデル・モネイムによると、サウジアラビア人戦闘員から提供された武器をトンネルで保管していたのだが、そこへ彼の息子がチューブ状の構造物と巨大なガス用ボトルを運び込んだことがあった。その息子は、化学兵器の攻撃があったとされる日に12名の仲間と一緒にトンネルの中で死亡したという。 シリアやリビアでは、戦闘員の給与や武器はサウジアラビアやカタールから出ている。ゴータの場合はサウジアラビアがスポンサーのようで、チューブ状の構造物や巨大なガス用ボトルもサウジアラビアが供給した可能性が高く、その扱い方を知っていたのはアル・カイダ系のアル・ヌスラ戦線。 アル・カイダがエジプトに設立していた訓練施設でリーダーを務めていたシェイク・ナビル・ナイイムによると、アル・ヌスラ戦線を率いているモハメド・アル・ジャウラニはCIAの工作員だと推測していた。この推測が正しいなら、CIAも化学兵器攻撃に関係している疑いが出てくる。 2キログラムのサリンを持ったアル・カイダの戦闘員が5月27日にトルコで逮捕されたともいう。トルコの新聞が報道していたのだが、後にアダナ県の知事は否定する。トルコ政府の立場を考えれば、実際に持っていたとしても否定するだろうが。 トルコ、あるいはヨルダンでアメリカや一部のヨーロッパ諸国は軍事会社を使い、反シリア政府軍に対して化学兵器の扱い方を訓練していたとも伝えられている。そのヨルダンでCIAの工作員、あるいはヨルダンやイスラエルの特殊部隊員から数カ月にわたって特殊工作の訓練を受けた部隊がシリアへ潜入したとも言われ、8月17日には250ないし300名、19日には300名が入り、ゴータを通ってダマスカスへ向かったとする情報がある。 相変わらず、アメリカ政府はシリア政府が化学兵器を使ったと叫んでいるが、その具体的な証拠、根拠は示さず(あるいは、示せず)、修飾語を羅列した「報告書」でごまかすのが精一杯のようだ。強引に正面突破を図るしかないのだろう。 ビン・スルタン長官は7月31日にロシアを訪問、ウラジミル・プーチン大統領と会談し、シリアから手を引くように求めたようだが、その際、石油取引を持ちかける一方、ロシア政府を脅したという。ソチで開かれるオリンピックを襲うとしているチェチェンの武装勢力をサウジアラビアはコントロールしていると語ったというのだ。状況によってはオリンピックを襲わせるとも聞こえる発言。もっとも、本当にこうした発言があったとするならば、逆効果だった可能性が高い。 今回、注目されているビン・スルタン長官が現在のポストに就いたのは昨年7月。1983年から2005年まで駐米大使を務めていた。この間、アフガニスタンを中心とする工作でサウジアラビアはアメリカやイスラエルと連携、2001年9月11日には、アメリカを急速にファシズム化する切っ掛けになった出来事(911)があった。言うまでもなく、911とは航空機が世界貿易センターの超高層ビルに突入、ペンタゴンが攻撃された事件だ。 この時、攻撃の直後にジョージ・W・ブッシュ政権はアル・カイダの犯行だと断定、アル・カイダと敵対していたイラクを先制攻撃した。最近ではリビアやシリアで体制転覆プロジェクトの手先としてアメリカはアル・カイダを使っていることが明らかになっている。そのアル・カイダにビン・スルタンは大きな影響力を持つ。911とは何だったのかが改めて問われなければならないだろう。
2013.08.31
イギリス下院の臨時議会はシリアに対する直接的な攻撃に反対の姿勢を示した。政府提出の動議が否決され、デイビッド・キャメロン首相は武力行使を断念すると表明せざるをえなかったようだ。 リビアに続き、シリアでもアメリカ、イギリス、フランス、トルコ、サウジアラビア、カタール、イスラエルなどは体制転覆を目指していたが、その間、こうした勢力が偽情報を流していたことを少なからぬ人が知ることになり、しかも地上部隊としてアル・カイダの戦闘部隊を使っていることも明らかになってしまっていた。多くの人が支配層の嘘に気づき、開戦に反対しているわけだ。 しかも、国連の臨時会合でロシアから強力な証拠が提示されたとも伝えられている。中東/北アフリカで体制転覆プロジェクトを推進している勢力は「政府軍が化学兵器を使用した」と叫ぶばかりで証拠を示せないだけに、国連の内部は動揺したようだ。イギリス議会にも影響が及んだとしても不思議ではない。当然、日本の国連代表もこの事実を知っているはずだ。 ジャーナリストのぺぺ・エスコバルのフェイスブックによると、ロシアの国連大使、ビタリー・チュルキンが示したのは文書と衛星写真に基づく情報で、ダマスカスに近く、反シリア政府軍が支配しているドーマから8月21日午前1時半頃、2発のミサイルが発射され、毒ガス攻撃を受けたとされるゴータで着弾していることを示していた。ミサイルには毒ガスを搭載していたとする情報もある。 こうした証拠が示された国連の緊急会合にアメリカのサマンサ・パワー大使は欠席していたという。コメディ映画祭でゲスト・スピーカーを務める夫と一緒にアイルランドで休暇を過ごしていたようだ。パワーは安全保障問題担当の大統領補佐官になったスーザン・ライスの後任。 前にも書いたことだが、このふたりは「人道」を口実に破壊と殺戮を行うというタイプの人間。パワーは本来なら、この会合で活躍しなければならなかった。ロシアが書類と衛星写真を会合で明らかにすることを事前に察知、逃げた可能性もあるだろう。バラク・オバマ政権は窮地に陥ってしまった。 もともと、この化学兵器話はシオニストがアメリカに仕掛けた罠だという説もある。その説が正しいかどうかは不明だが、結果としてアメリカの立場はきわめて悪くなった。そのアメリカに恭順の意を表するなど、正気の沙汰ではない。
2013.08.30
早くもバラク・オバマ政権の開戦シナリオに狂いが生じている。化学兵器が使われたと宣伝、人びとがショックを受けている間にシリア政府が実行したという雰囲気を作り出して攻撃、皆が冷静になり、アメリカの議会が始まり、国連の調査結果が出ることにはシリア政府軍の拠点を潰し、すでに送り込んでいる特殊工作部隊やアル・カイダ系の武装集団を使って体制転覆を実現しよう・・・としていたのかもしれないが、思惑通りに進んでいない。(ちなみに、アル・カイダはイスラエルと戦わない。) シリアへ軍事介入するべきでないとする意見が世界的に多く、イギリスでも議会内で開戦にブレーキがかかっている。アメリカでも軍事介入に反対する声が多い。イスラエルの初代首相、ダビド・ベングリオンに言わせるとイギリス外務省の指導に基づいて創設されたアラブ連盟もアメリカの軍事介入には反対すると表明している。 化学兵器による攻撃は、反シリア政府軍、あるいはイスラエル軍が実行した可能性も指摘されている。が、8月21日にダマスカス近郊のグータを化学兵器で攻撃した責任がシリア政府にあることは確かだと証拠を示さずにアメリカ政府は叫んでいる。「西側」の政府やマスコミもアメリカの意向に沿った宣伝を繰り広げているが、多くの人は踊らされていない。 アメリカ政府はやけになったのか、バシャール・アル・アサド大統領が化学兵器の使用を命じたのでなくても責任はアサド大統領にあると言い始めた。反シリア政府軍やイスラエル軍が化学兵器を使ったとしても責任はアサド大統領にあると言いそうな勢いだ。 当然のことながら、アサド大統領はシリア政府軍が化学兵器を使ったとする「西側」の主張を全面否定、「良識を愚弄している」と批判している。アル・カイダなど反シリア政府軍(良い反政府軍と悪い反政府軍がいるとするのは単なるおとぎ話にすぎない)から攻撃され、多くの人びとが殺されている少数派、例えばキリスト教徒やクルド系住民は反政府軍を厳しく批判している。 シリアで最大のクルド系政党、PYD(民主連合党)のサレハ・ムスリム代表はアサド政権が化学兵器を使ったとする話に懐疑的だ。本ブログで何度も指摘したことだが、戦闘は政府軍が優勢。だからこそ、体制転覆を目指す外国勢力は直接的な軍事介入のチャンスをうかがっていた。 政府軍に化学兵器を使う必要はなく、外国の軍事介入を誘発するだけの兵器だ。ムスリムが言うように、シリア軍が化学兵器を使う状況ではない。「アサド大統領はそれほど愚かではない」。今回の化学兵器話はアサド大統領を陥れ、国際的な批判の声を引き出すために行われたものだとも述べているが、その通りだろう。ここにきて末端の部隊が勝手に使ったとする話も流されているが、軍は化学兵器を厳重に管理しているはず。使ったとするならば、反政府軍から手に入れた可能性が高いだろう。 最近の動きを見ていると、サウジアラビアとイスラエルがシリアへアメリカ軍を引きずり込もうと活発に動いている。1970年代の後半、あるいは1980年代から両国は同盟関係にあり、ウェズリー・クラーク元欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)最高司令官によると、1991年にネオコン(親イスラエル派)のポール・ウォルフォウィッツ国防次官はシリア、イラン、イラクを殲滅すると話していた。 リチャード・パールを中心とするネオコンのメンバーは1996年に「決別」という文書を作成している。イスラエルはこの時点でサウジアラビアと同盟関係にあるわけだが、それだけでなくトルコやヨルダンと手を組み、シリアを弱体化し、イラクのサダム・フセインを排除するという。さらに、パレスチナ問題ではオスロ合意(暫定自治原則宣言)を無視、アメリカからの自立も謳っている。 2001年にアメリカ大統領となったジョージ・W・ブッシュはイラク、イラン、シリア、リビア、レバノン、ソマリア、スーダンを攻撃する計画をたて、まずイラクのフセインを排除することに成功した。2007年に調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュが書いた記事によると、アメリカ政府はサウジアラビアやイスラエルと共同でシリアやイランをターゲットにした秘密工作を開始した。 1990年代からの中東/北アフリカはネオコン/イスラエルのプラン通りに展開してきた。アメリカから自立するためにはエネルギーを支配する必要があるだろうが、地中海東岸には天然ガスがあり、大イスラエルを実現すれば油田も手に入る。サウジアラビアと手を組めば、エネルギーに大きな影響力を持つことができる・・・と考えているのかもしれない。その両国にアメリカは踊らされているようにも見える。
2013.08.29
バラク・オバマ政権がシリア攻撃の準備をしているが、その背後ではイスラエルも暗躍しているようだ。8月23日にイスラエルのテレビ局、チャンネル2はシリア軍の第4機甲師団第155旅団がダマスカスの西から化学兵器を発射したと報道、その一方でイスラエルの治安担当者グループがアメリカに派遣され、アメリカの国家安全保障問題担当大統領補佐官のスーザン・ライスらと会談しているという。 サウジアラビア総合情報庁のバンダル・ビン・スルタン長官がアメリカ政府にシリア攻撃をけしかけているという話は本ブログでも書いたとおり。イスラエルとサウジアラビアは少なくとも30年間以上、同盟関係にある。 イスラエルとサウジアラビアは1980年代にアフガニスタン、イラン、ニカラグアでの秘密工作で手を組んで以来、協力関係にあり、両国の名前は「イラン・コントラ事件」でも登場している。ニューヨーカー誌が2007年に掲載したシーモア・ハーシュの記事でも、アメリカのジョージ・W・ブッシュ政権はイスラエルやサウジアラビアと手を組んで工作しているとしている。 シリア問題でライス補佐官が出てきても不思議ではないが、問題はスーザン・ライスを補佐官に指名したこと。6月5日に国連大使だったライスを安全保障問題担当の大統領補佐官に、またライス大使の後任にサマンサ・パワーを指名したのだ。その翌日からビルダーバーグ・グループ(欧米支配層の利害調整団体)の会議が開催され、13日にオバマ政権は反シリア政府軍へ武器を供給すると伝えられている。 ライスとパワーには、大量虐殺を正当化するために「人道」という看板を掲げるという共通項があり、6月上旬の時点でアメリカ政府はシリアを攻撃すると腹をくくったように見える。 破壊と虐殺を「人道」の名の下に行った最初の事例は旧ユーゴスラビアに対する攻撃だろう。ソ連が消滅した後、ユーゴスラビアでは1991年にスロベニア、クロアチア、マケドニアが独立を宣言、翌年にはボスニア・ヘルツェゴビナが続き、セルビア・モンテネグロはユーゴスラビア連邦共和国を結成した。その連邦共和国から分離しようとしたのがコソボのアルバニア系住民。その背後ではアメリカ、EU、イスラエル、そしてアル・カイダが暗躍していた。勿論、このときの「人道話」も嘘八百だ。(詳しくは拙著『テロ帝国アメリカは21世紀に耐えられない』を) 旧ユーゴスラビアの解体支配プロジェクトが行われたのは、ビル・クリントン大統領の時代。当初、国務長官だったウォーレン・クリストファーはユーゴスラビアへの軍事介入に抵抗、1997年に国務長官のポストを追われてしまった。その後任がマデリーン・オルブライト。アフガニスタンで戦争を仕掛けたズビグネフ・ブレジンスキーの教え子だ。そして1999年にユーゴスラビアを空爆、コソボでは麻薬/臓器密売業者(当人たちは否定しているようだが)と手を組むことになる。 オバマ大統領の国家安全保障問題担当補佐官は当初、トム・ドニロン。クリストファーに近い人物で、シリア攻撃には反対していた可能性が高い。その後任、ライスはオルブライトの弟子で、軍事介入には積極的な立場だ。 ところで、イスラエルのテレビ局は報道した情報の出所はイスラエル軍で電子情報戦を担当する8200部隊だと見られている。この部隊は「出身者」が「民間企業」を設立し、情報活動に協力しているようだ。そうした企業の中にはウォール街に上場されているものもあるという。 電子情報機関に詳しいジャーナリストのダンカン・キャンベルによると、イギリスの電子情報機関GCHQは中東に通信傍受の基地を持っている。つまり、GCHQのパートナーであるアメリカのNSAもイスラエルの傍受内容を知っているはず。もし8200部隊がシリア軍の通信を傍受していたなら、アメリカ政府も知っていなければおかしいだろう。イスラエルからの情報でオバマ政権がはじめて知ったというのは不自然だ。 今年3月、反シリア政府軍が化学兵器で攻撃したとシリア政府は発表したが、反政府軍は政府軍が使用したと反論、「西側」も反政府軍を支持している。この出来事に関し、コリン・パウエル国務長官(ジョージ・W・ブッシュ政権)の補佐官を務めたローレンス・ウィルカーソン退役大佐は、イスラエルが「偽旗作戦」を実行した疑いがあると発言している。オリジナルの映像は削除されているが、その内容を紹介する記事、あるいはコピーは見ることができる。 シリア政府軍に潜り込んでいた「西側」、あるいはイスラエルの工作員が化学兵器を使ったした可能性はあるが、現段階ではシリア政府軍側から発射された証拠は提示されていない。
2013.08.29
本人が自覚していたかどうかはともかく、菅義偉官房長官は8月28日の記者会見で歴代アメリカ政府を批判する発言をした。「化学兵器の使用はいかなる場合でも許されるものではない」と言ったそうだが、第2次世界大戦後、アメリカは繰り返し、化学兵器を使ってきたのである。 例えば、ウィリアム・コルビーCIA長官(1973年〜76年)は議会での証言で、1952年にアメリカ軍が朝鮮半島で生物化学兵器を使ったと認めている。サリン、マスタードガス、VXガスなどの生物化学兵器が沖縄からジョンストン島へ移されたのは1971年のことだ。 しかし、アメリカが最も大量に化学兵器を使用したのはベトナム戦争だろう。エージェント・オレンジと呼ばれる枯れ葉剤を広範囲に散布、現地の住民やアメリカ兵に様々な健康被害を及ぼしている。炎症やガンなど直接的な被害だけでなく、遺伝的な被害も深刻で、多くの奇形児が生まれていると報告されている。この枯れ葉剤を製造して大儲けした軍需企業がモンサント。今では遺伝子組み換え作物で世界の生態系を破壊しようとしている。 1970年にアメリカのMACV-SOGがベトナム戦争で、逃亡米兵を殺害するためにサリンを使用したという情報もある。「テイルウィンド」だ。 ジョン・F・ケネディ大統領が暗殺された直後にリンドン・ジョンソン大統領はアメリカ軍のベトナムからの撤退計画を取り消し、北ベトナムに対する特殊工作の作戦を承認、この秘密工作を実行するためにサイゴン(現在のホーチミン)で設立されたのがMACV-SOG。このグループはベトナム戦争にアメリカが介入する口実に使ったトンキン湾事件にも関係していると言われている。 1964年7月30日に南ベトナムの哨戒魚雷艇が北ベトナムの島を攻撃、北ベトナムは高速艇を派遣する。攻撃した哨戒艇は姿を消してしまうが、そこではアメリカの駆逐艦、マドックスが情報収集活動をしていた。 7月31日、海軍特殊部隊Sealのメンバーふたりに率いられた約20名の南ベトナム兵が再び島を襲撃、北ベトナム軍はマドックスを攻撃する。アメリカ政府は北ベトナムが先制攻撃したと宣伝、8月7日にアメリカ議会は「東南アジアにおける行動に関する議会決議(トンキン湾決議)」を可決、翌年2月に北ベトナムに対する本格的な空爆を開始することになる。 そうして本格化したアメリカのベトナム戦争だが、ほどなく泥沼化する。1967年にはロバート・マクナマラ国防長官の指示で「国防総省秘密報告書」が作成されるのだが、その要旨を71年6月にニューヨーク・タイムズ紙が掲載する。アメリカ軍にとって本当に都合の悪い場所には触れられなかったようだが、それでも大きな衝撃をアメリカ国民に与えた。そうした次期にテイルウィンドが実行されている。このテイルウィンドを1998年6月にCNNが報道、「軍共同体」やライバルのメディアは激しくCNNを攻撃し始めた。 ところで、MACV-SOGはアメリカに従わないと見なした地域を中心に、1967年から皆殺し作戦を展開していた。フェニックス・プログラムだ。ベトナムの共同体を破壊して反抗できないようにすることが狙いだったと見られている。 テイルウィンドに関する証言をした人物の中にはトーマス・ムーラー提督も含まれていた。1970年から74年まで統合参謀本部議長を務めている。同提督の部下がサリンが使用される事実を確認したという。 ムーラー提督は正規軍の軍人である。MACV-SOGは情報機関と特殊部隊が母体で、指揮系統は別。ベトナム戦争に限らず、アメリカは戦場でふたつの戦闘組織が戦っている。つまり、ムーラー提督はテイルウィンドと無関係であり、沈黙を守る必然性もなかった。 番組を担当したふたりのプロデューサー、ジャック・スミスとエイプリル・オリバーは報道を事実だ主張、一歩も引かない姿勢を見せていたが、CNNの経営陣は屈服する。報道内容を弁護士のフロイド・エイブラムズがチェック、1カ月に満たない期間で報告書を作成したが、引用に不正確な部分があり、慎重に調べたとは到底言えない代物だった。結局、ふたりのプロデューサーは解雇されてしまう。 テイルウィンドの放送があった翌年、コソボ紛争の最中にアメリカ陸軍の第4心理作戦グループの隊員が2週間ほどCNNの本部でCNNの社員と同じように働き、ニュース報道にも携わったという。コソボにしろ、アフガニスタンにしろ、イラクにしろ、リビアにしろ、シリアにしろ、CNNは戦争を推進するための宣伝マシーンになっている。 アメリカ軍の化学兵器使用はその後も続く。その典型例がイラクのファルージャにおける戦闘だろう。白リン弾や劣化ウラン弾を使用して多くの住民を殺しただけでなく、ベトナムと同じように、その影響は次の世代にも及んでいる。 菅官房長官が嘘つきでないならば、いかなる場合でも許されない化学兵器を何度も使ってきたアメリカと軍事同盟を組むことはありえず、「集団的自衛権」とやらで一緒に戦争することも許されないということになる。嘘つきでないなら。
2013.08.28
8月の下旬に入り、アメリカ政府がシリアに対する好戦的な姿勢を急速に強めている。シリア政府軍が化学兵器を使ったことに対する制裁だと言うのだが、根拠を示さず、言いがかりとしか言えない。ロシア政府との会談もキャンセルしてしまった。席上、ロシア政府から証拠を示すように求められることは明らかで、反論できないアメリカ側は逃げるしかなかったということだろう。 最近、本ブログにもしばしば登場するサウジアラビア総合情報庁のバンダル・ビン・スルタン長官がアメリカにシリア攻撃をけしかけているとする話がある。2007年の時点でアメリカのネオコン政府はイスラエルやサウジアラビアと手を組み、スンニ派武装グループを使ってシリアやイランをターゲットにした秘密工作を開始したと調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュは書いている。 さらにさかのぼれば、ズビグネフ・ブレジンスキー(当時はジミー・カーター大統領の補佐官)の戦略に基づいて1970年代の終わりにイスラム武装集団が組織された際、パキスタンの情報機関ISIとサウジアラビア政府が協力、「イラン・コントラ事件」でも登場してくる。 サウジアラビアは資金面で協力したが、それだけでなく、人員も提供している。後にアル・カイダの象徴になったオサマ・ビン・ラディンがサウジアラビアの富豪一族に属し、王室ともつながりがあることは広く知られている。この富豪一族はビジネスでブッシュ家ともつながりがあった。 ジョージ・H・W・ブッシュとジョージ・W・ブッシュの親子はともにエール大学で学生の秘密結社、スカル・アンド・ボーンズ(海賊のマーク)のメンバーだったが、この親子と同じようにこの結社に入っていたジョン・ケリー国務長官が現在、戦争の旗振り役になっているのは興味深い。(スカル・アンド・ボーンズは情報機関や金融機関との関係が深い。) エジプトではムスリム同胞団を支持母体とするハメド・ムルシ政権が軍によって排除され、サウジアラビア人脈で占められた暫定政権が国を動かしている。ムルシと同じように同胞団を支持母体とするトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン首相が軍のクーデターを激しく批判するのはそうした背景があるからだ。この同胞団が結びついているカタール王室はリビアやシリアの体制を転覆させるため、傭兵を雇っていた。 軍のトップは軍最高評議会のアブデル・ファター・エル・シーシ議長。8月14日、バラク・オバマ大統領からの電話に出なかったシーシ議長がその時に話していた相手はビン・スルタン長官だったという。そのビン・スルタン長官は7月31日、ロシアを訪問してウラジミル・プーチン大統領と会談している。シリアから手を引くようロシア側に求めたが、失敗に終わったとも言われている。 ムスリム同胞団は選挙の際、投票所に武装集団を配置して威圧、多くの中間層は嫌気がさして棄権しているようだ。その結果がムルシ政権であり、少なからぬエジプト人は選挙が民主的だったとは思っていないともいう。そのムルシ政権はエジプトを私物化、資産をカタールにたたき売りし始めていた。 ムルシ自身もアメリカが自分の後ろにいると信じていたようだが、結果としてアメリカに見捨てられた形。今回、軍が動く前に盛り上がっていた反ムルシの抗議活動では、バナーやプラカードに汎アラブ主義、ナショナリズム、社会主義などを支持するフレーズが書かれていた。アラブの団結を目指したガマール・アブドゥン・ナセルの考え方が広がっていることをうかがわせる。分割して統治するという立場からすると危険な流れだ。この怒りを「ガス抜き」し、コントロールする必要がある。そして軍が動いた。 ムルシ後の暫定政権はサウジアラビアの影響下にある。シリアへの侵略でもサウジアラビアが主導権を握ったようで、アメリカ政府に軍事行動を促している。1970年代以来、サウジアラビアはイスラエルと緊密な関係にあり、イスラエルの役割も無視できない。この2カ国にバラク・オバマ政権は逆らえないのかもしれない。
2013.08.28
シリアの化学兵器問題を調査するために同国へ国連の調査団が入っている。ウォール・ストリート・ジャーナル紙によると、調査チームは化学兵器が使われたかどうかに決着をつけるように命じられているだけで、誰が使ったかでないと潘基文国連事務総長は語っている。潘事務総長は化学兵器の使用者を秘密にしたいようだ。 しかし、すでに、国連独立調査委員会メンバーのカーラ・デル・ポンテは反政府軍が化学兵器を使用した疑いは濃厚だと発言している。この発言で「西側」がシリアを攻撃しにくくなったことは確かで、こうした発言が二度と出てこないように、つまりシリア攻撃を妨害しないようにという配慮だと思う人も少なくないだろう。 本ブログでは何度も書いてきたが、ウェズリー・クラーク元欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)最高司令官によると、1991年にポール・ウォルフォウィッツ国防次官はシリア、イラン、イラクを殲滅すると話していたという。 また、WikiLeaksが公表したアメリカ政府の外交文書によると、アメリカの国務省はシリアの反政府派へ2000年代半ばには資金援助を開始、2001年9月11日から間もない段階でドナルド・ラムズフェルド国防長官(当時)の周辺はイラク、イラン、シリア、リビア、レバノン、ソマリア、スーダンを攻撃することにしていたともクラーク元最高司令官は語っている。 2007年に調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュが発表した記事によると、アメリカ、イスラエル、サウジアラビアはシリアやイランをターゲットにした秘密工作を開始、その手先としてスンニ派の武装グループ(アル・カイダも含まれる)を使うとしている。 ネオコン(アメリカの新イスラエル派)は20年以上前からシリアの体制を転覆させる計画を立てていた。2001年の攻撃予定国のリストに載っているリビアも破壊に成功、レバノンも揺さぶられている。次はイランということだろうが、そのためにもシリアの体制を早く倒す必要がある。大イスラエル構想のためにも、エネルギー資源を支配するためにも。
2013.08.27
アメリカとイギリスは1、2週間のうちにシリアを攻撃する計画を立てているという情報が流れている。イラク攻撃前の「デジャビュ」だと言う人も少なくない。8月24日に両国の首脳、つまりアメリカのバラク・オバマ大統領とイギリスのデイビッド・キャメロン首相が電話で40分にわたって会談、そこで軍事行動について話し合われたようだ。 もっとも、23日付けのツイッターでCBSのエグゼクティブ・プロデューサー、チャーリー・ケイはアメリカの国防総省がシリア政府軍に対する巡航ミサイルでの攻撃を準備中で、艦船をシリアへ接近させていると書き込んでいる。土曜日の電話会談は最終調整だったのかもしれない。 本ブログですでに書いたことだが、「シリアを攻撃するなら、早い段階で実行しないと反政府軍の主張が崩れてしまう可能性が高」く、国連の「調査が進む前に巡航ミサイルで攻撃し、すでにダマスカスの市内、あるいは近郊に潜伏していると見られる500名ないし600名の特殊工作部隊に攻撃させることも考えられる」。空爆は地中海からだけでなく、ヨルダンで待機しているF-16を利用、化学兵器が使われたとされる地域を念入りに攻撃して証拠隠滅を図る可能性がある。 今年3月のケースでは、状況から見て毒ガスを使ったのは反シリア政府軍だとイスラエルのハーレツ紙は分析、国連独立調査委員会メンバーのカーラ・デル・ポンテも反政府軍が化学兵器を使用した疑いは濃厚だと発言している。今回も状況証拠は反政府軍を指し示している。 反政府軍はリビアから化学兵器を持ち込んだと以前から言われている。ジョージ・W・ブッシュ政権でコリン・パウエル国務長官の首席補佐官を務めたローレンス・ウィルカーソン退役大佐はイスラエルを疑っている。トルコやヨルダンでは反政府軍の戦闘員に対して化学兵器の取り扱いも教えていたとも言われている。化学兵器の入手ルートは沢山あるということ。 今年6月、イラクでアル・カイダの化学兵器工場が摘発されていることから、そうした「自家製」の毒ガスがシリアへ持ち込まれている可能性も指摘されている。アル・カイダはイラクで塩素ガスを使っていた。 シリアの体制転覆プロジェクトを指揮しているのはシリア駐在大使のロバート・フォードだと見られている。2010年12月、つまり体制転覆プロジェクトが本格化する直前に指名され、翌年の1月に赴任しているのだが、注目されているのはその前歴。2004年から06年にかけて、イラクでジョン・ネグロポンテ大使の下で活動しているのだ。ネグロポンテは1981年から85年、死の部隊が暴れ回っていた時期にホンジュラス駐在のアメリカ大使を務めていた。 ネグロポンテ大使の時代、イラクで特殊警察コマンドの訓練をしていたのがジェームズ・スティール退役大佐。1984年から86年にかけてエル・サルバドルへ軍事顧問団の一員として入っている、つまり死の部隊を使い、アメリカの巨大資本にとって邪魔な存在を殺害する作戦を背後から指揮していたということだ。イラクでも死の部隊を編成していたという。スティールはネオコン(親イスラエル派)のポール・ウォルフォウィッツに近いことでも知られている。 要するに、フォード大使は「死の部隊人脈」ということ。「アラブの春」では「サルバドル・オプション」と呼ばれる殺戮作戦が展開されているようだが、その源はこの人脈にあると言えるだろう。中東/北アフリカではアル・カイダが死の部隊として機能している。アメリカやイギリスの軍事攻撃があるとするならば、それも大量殺戮プロジェクトの一環ということになる。 実際のところ、アメリカは化学兵器の使用に寛容である。アメリカ政府は激しく否定しているが、ベトナム戦争でサリンを使った疑いは濃厚。それだけでなく、イラン/イラク戦争でイラク軍が1983年から化学兵器を使用していたこと知りながら沈黙していたことも判明している。(反シリア政府軍の化学兵器使用にも「寛容」ということ。) 1988年にイラン軍が防御の甘い場所を狙って大攻勢を仕掛けるとアメリカ軍は衛星写真で察知、その情報をアメリカはイラクに提供し、イラクが化学兵器を使うことを黙認したのだ。イランの攻勢が成功するとバスラが陥落する可能性があり、そうなるとイランの勝利で戦争が終わる可能性があった。それをアメリカは嫌ったということ。この年、イラク軍はクルド系住民の住む村も化学兵器で攻撃しているが、これもアメリカは容認している。シリア攻撃を計画しているとするなら、それは「人道」以外の理由があるからだ。
2013.08.26
日本は東電福島第一原発の事故で国家存亡の危機に直面しているが、世界ではアメリカの信頼に関わる話が流れている。保管しているはずの金のインゴットは本当にあるのかという疑問、アメリカの情報機関が相場を操作しているのではないかという疑惑、そうした噂が語られるようになったのだ。 ヨーロッパの各国政府は資産の7割程度を金のインゴットという形で保有しているそうだが、その多くはアメリカのニューヨーク連銀やケンタッキー州フォート・ノックスにある財務省管理の保管所に預けられている。この金塊が消えたというのは本当なのか? ここ数年、イラン、リビア、ベネズエラはアメリカやフランスから金を自国へ引き揚げていたが、ドイツも引き上げることにした。ところが、金の輸送は2020年までかかるという。それまでも金の保管状況を確認することをアメリカは拒否、おかしいと囁かれている。 もし金が消えたとするならば、どこへ行ったのかということが問題になる。連邦銀行は市中銀行が作り上げた私的な組織であり、財務省にも巨大銀行の「元幹部」が乗り込んでいる。「1%」の人たちの金庫に移されている可能性は否定できない。 かつて、金本位制と銀本位制が並立していた時代がある。世界的に金本位制が広がったひとつの理由はイギリスの思惑。1866年に南アフリカで農夫がダイヤモンドを発見、金の鉱脈も発見された。この当時、全世界で産出される金の3分の2は南アフリカだったという。 言うまでもなく、元々、この地域にヨーロッパ人は住んでいなかった。まずオランダ人が植民地化、19世紀に入るとイギリスが支配するようになり、トランスバール共和国やオレンジ自由国で金やダイヤモンドが発見されると、「ジェイムソン」なる人物が戦闘部隊を率いて攻め込んでいる。そしてイギリスが支配する南アフリカができあがった。 20世紀に入ると南アフリカで産出される金は英国銀行を通じて売却される取り決めができ、金の取り引きはイギリス政府がコントロールできるようになる。金本位制が採用されるなら、その通貨をイギリスが支配できるということでもある。 第1次世界大戦が終わると、イギリスに変わってアメリカの金融資本が金を支配するようになる。JPモルガンが日本に金本位制を強制し、金本位制からの離脱を決めたフランクリン・ルーズベルト大統領を倒そうとした一因はここにあるだろう。 アメリカで紙幣を発行しているのは連銀。その連銀を操っているのは巨大な金融資本。制度上、政府も紙幣を発行できるのだが、そんなことをされては銀行が国を支配できなくなり、政府が銀行から金を借りて利息を払うというカネ儲けの仕組みも崩壊してしまう。ターゲットを借金漬けにして収奪するというのは金貸しの常套手段だ。 1913年に連邦準備法が制定され、アメリカでは通貨政策を民間の銀行が支配するようになるが、そうした流れに逆らい、政府紙幣を広めようとした大統領がいる。ひとりはエイブラハム・リンカーンであり、もうひとりはジョン・F・ケネディ。暗殺されたふたりの大統領ということになる。 アメリカの金融機関は単にカネを貸して金利を稼いだり、投機で儲けたりしている会社ではない。本ブログでは何度か書いていることだが、OSSやCIAといった情報機関を作り上げたのはウォール街だった。軍の特殊部隊は正規軍より情報機関に近い存在だということも忘れてはならない。結構、物騒な連中なのである。 最近話題の電子情報機関、NSAもCIAと同じ。NSAは情報を盗み出すだけでなく、相場を操作しているという疑いがある。内部告発者のエドワード・スノーデンが働いていたブーズ・アレン・ハミルトンは、LIBOR(ロンドン銀行間取引金利)の不正操作、あるいはエネルギー市場や為替取引の相場操縦に関係しているという噂が流れている。 こうした噂が正しいなら、アメリカをはじめとする欧米の支配層は追い詰められていると言えるだろう。支配システムが揺らいでいる。この揺らぎを武力で何とか抑えようとしているのかもしれない。
2013.08.26
アメリカの国防総省はシリア政府軍に対する巡航ミサイルでの攻撃を準備中で、艦船をシリアへ接近させているとする情報をCBSのエグゼクティブ・プロデューサーのチャーリー・ケイがツイッターで流している。 シリア政府軍が化学兵器を使ったという話に呼応したものだろうが、この話を裏付ける証拠は未だに提示されず、それどころか化学兵器の専門家から疑問の声があがっている。看護している人が防護服を着ていないこと、犠牲者とされる人びとの状態が兵器級の化学兵器を浴びたとは思えないこと、あるいは口元の泡の色や状態が不自然なことなどを指摘する人が少なくない。すでにロシアは反政府軍側の主張を否定、シリアの体制を転覆させようとしてきたBBCの記者ですら疑問を投げかけている。 ただ、有機リン酸系の神経ガスが使われた症状は出ているようなので、それがどこからきたかということになる。可能性はいくつかある。兵器級の化学兵器でないとするならば自家製ということがまず考えられるが、リビアから持ち込んだ、あるいはヨルダンで手に入れたということもありえる。 今年3月のケースでは、攻撃されたのがシリア政府軍の検問所であり、死亡したのはシリア軍の兵士だということからイスラエルのハーレツ紙は毒ガスを使ったのは反政府軍だと分析、国連独立調査委員会メンバーのカーラ・デル・ポンテも反政府軍が化学兵器を使用した疑いは濃厚だと発言している。 それだけでなく、ジョージ・W・ブッシュ政権でコリン・パウエル国務長官の首席補佐官を務めたローレンス・ウィルカーソン退役大佐はこの件に関し、イスラエルが「偽旗作戦」を実行した可能性があるとしていた。(ちなみに、上映中の「ローン・レンジャー」でもアメリカの偽旗作戦が描かれていた。) シリアを攻撃するなら、早い段階で実行しないと反政府軍の主張が崩れてしまう可能性が高い。調査が進む前に巡航ミサイルで攻撃し、すでにダマスカスの市内、あるいは近郊に潜伏していると見られる500名ないし600名の特殊工作部隊に攻撃させることも考えられるだろう。 日本との戦争では実際に日本軍が真珠湾を奇襲攻撃したので問題外として、朝鮮戦争やベトナム戦争では先にアメリカ軍が仕掛けた可能性が極めて高い。最近の例では、アフガニスタンやイラクを偽情報を口実に先制攻撃している。リビアの体制転覆プロジェクトでも空爆の口実は嘘だったようだ。勿論、シリアでも嘘に嘘を塗り重ねてここまできた。 しかし、アメリカ側は相手に責任があると主張する。この主張を受け入れ、集団的自衛権とやらで、自衛隊も侵略の片棒を担がされる仕組みを日本の政府は嬉々として作ろうとしている。アメリカ軍の嘘を暴くことは「国家安全保障」に関わることであり、厳罰に処すことになる。 とうの昔に言論の自由を放棄している日本のマスコミ(放送局は勿論、新聞、雑誌、そして大多数の出版社)が権力の悪事を暴くことはないだろうが、WikiLeaksのような団体に情報が流される可能性はある。
2013.08.24
8月21日にシリア軍がが化学兵器を使ってダマスカス近郊のグータを攻撃し、多くの死傷者が出ていると「西側」の政府やメディアは叫んでいる。これまでと同じように証拠は示していない。 イラクを先制攻撃した際もアメリカ政府やイギリス政府は「大量破壊兵器」という嘘を主張、メディアがその話を全世界にまき散らしていた。そんな前歴を考えれば、「西側」の情報を真に受けるような間抜けはいないだろう。信じているように見える場合、それは別の思惑、例えばアメリカ、イギリス、フランスなどにすり寄ることで利益を得られるという打算が働いているとしか思えない。 今年3月のケースでもイギリスやフランスはシリア軍が化学兵器を使ったと主張していたが、状況からイスラエルのハーレツ紙は反政府軍が毒ガスを使ったと分析、国連独立調査委員会メンバーのカーラ・デル・ポンテも反政府軍が化学兵器を使用した疑いは濃厚だと発言している。 今回の場合、興味深い情報がフランスやイスラエルで流れている。8月17日にヨルダンから戦闘部隊がシリアへ侵入し、グータを通過してダマスカスへ向かったというのだ。まず250ないし300名で編成された部隊が、そして19日には300名の部隊が続いた。 シリアへ侵攻した戦闘員は数カ月にわたり、CIAの工作員、アメリカ軍の特殊部隊員、あるいはヨルダンやイスラエルの戦闘員から特殊工作の訓練を受けていたと伝えられているが、トルコと同じようにヨルダンでは化学兵器の取り扱いも教えていたという。 化学兵器の入手法としては「自家製」ということも考えられるのだが、体制転覆後のリビアから運び込まれた可能性も指摘されている。トルコでは5月27日にシリアとの国境近くでアル・カイダ系の戦闘員が逮捕されたのだが、その際、2キログラムのサリンが押収されたとトルコの新聞は伝えていた。後にアダナ県の知事は否定したが、実際に持っていたとしてもトルコ政府の立場を考えれば否定するだろう。 現在の戦況は政府軍が優勢であり、決定的な状況になる前に「西側」は軍事介入したいところだ。逆に、シリア政府軍は化学兵器を使うメリットがない。しかも、化学兵器の使用について調査している国連の調査団がダマスカスへ入った直後というタイミング。シリアの体制を転覆させようとしてきたBBCの記者ですら疑問を投げかけているくらいだ。 すでに特殊工作の訓練を受けた500名ないし600名の戦闘部隊がダマスカスへ近づいているか、潜入している。政府軍もこの侵攻に対応するため、グータを攻撃した可能性があるが、今は化学兵器話で動きにくい状況。つまり、侵攻部隊にとっては願ってもない展開だ。近いうちにダマスカスで大きな出来事があるかもしれない。
2013.08.23
航空自衛隊の次期戦闘機ということになっているロッキード・マーチンのF-35はアメリカで問題になっている。開発費が膨れあがって超高額になっているだけでなく、重量の問題で運動性能が劣り、ステルス能力にも疑問があるという。そうした性能面の問題もコスト押し上げの一因で、キャンセルの可能性も言われているほどだ。 重量を軽くため、すでに燃料安全弁のいくつかは取り外されたようで、そのために雷雲の近くを飛行できなくなったらしい。雷で燃料タンクが爆発する可能性があるためだ。戦争末期における「零式艦上戦闘機(ゼロ戦)」を彷彿とさせる。 アメリカで問題になっているなら、他の国では言わずもがな。ただ、例外は日本だ。その日本が逃げないようにということなのか、アメリカ政府はエンジンやレーダーの部品を日本で製造することを認めたという。 日本企業の部品を使うと製造コストが上昇し、戦闘機の購入価格は1.5倍以上になるというのだが、日本の大手企業を儲けさせれば、日本の政治家や官僚は企業からの資金還流を期待し、喜んで税金を投入すると見透かされている。ちなみに、この提案で潤うと予想される日本企業はIHI、三菱電機、三菱重工などだという。日本の庶民は完全になめられている。 F-35の開発には多額の資金を投入しているため、キャンセルはありえないとする「専門家」が多いようだ。勿論、ロッキード・マーチンはF-35を自画自賛しているが、海軍のパイロットは「妄想だ」と切り捨てている。戦闘で役に立たないなら「見切り千両」ということもある。戦闘で使うことを想定せずに高額兵器を買うのは日本くらいだろう。
2013.08.22
アメリカ支配層の悪事を明らかにしたブラドリー・マニング特技兵に対し、軍事法廷でデニス・リンド判事は懲役35年を言い渡した。きわめて厳しい、というより、有罪になったことがおかしい。リンド判事は民主主義を破壊するうえで重要な役割を果たしたとして、歴史に名前を残すことになった。 マニング特技兵は、アメリカ軍のアパッチ・ヘリコプターに乗った兵士が、ジャーナリストを含む戦闘行為と関係のない十数名の人々を殺害している映像、あるいはアメリカの外交文書を外に出したとされている。外交文書では日本の官僚、あるいは与党政治家が自国の政府でなくアメリカの怪しげな連中に従属していることも明らかにされている。 処罰されなければならないのはマニングでなく、ヘリコプターに乗っていた兵士だとする声があるが、そのとおりだ。日本にも責任を問われなければならない人物がいる。マニングは支配システムの悪事を明るみに出したことで厳罰に処されたのだが、悪事を働いた人間は問題になっていない。現在の「西側」では、支配層が悪事を働いても処罰されず、悪事を明るみに出した人間を厳しく罰するわけだ。腐敗した体制が倒れる日は遠くないだろう。
2013.08.21
シリア政府軍がダマスカスの近くで化学兵器を使用、1300名近くが死亡したと反政府軍は発表した。シリア空軍機が空爆したと反政府軍は主張しているようだが、証拠はない。アメリカ政府は化学兵器使用の報道に深い関心を持っているらしいが、この話には奇妙な点が多く、勿論、シリア政府は全面否定している。 例えば、これまで戦争を煽っていたあのBBCの記者ですら疑問を投げかけている。常識的に考えて、現在、戦闘で優勢な政府軍が化学兵器を使用するメリットがなく、しかも化学兵器の使用について調査している国連の調査団がダマスカスへ入っているわけで、シリア政府にとって最悪のタイミング。調査団がダマスカスを訪れたのは、反政府軍の要求に基づいている。 アメリカ、イギリス、フランスはシリア政府軍が化学兵器を使ったら軍事介入すると繰り返してきた。シリアの体制を転覆させるためには正規軍を介入させる必要に迫られているわけで、「西側」や湾岸産油国、トルコなどはシリア政府に化学兵器を使わせたくて仕方がないだろう。 今年3月にアレッポの近くで化学兵器が使用されたというが、最初に調査を求めたのは政府側。すぐに反政府側は政府軍が使ったと主張、イギリスやフランスはシリア政府を結びつけようとした。が、この件でシリア政府に責任を押しつけるのは無理だった。 例えば、攻撃されたのがシリア政府軍の検問所であり、死亡したのはシリア軍の兵士だということからイスラエルのハーレツ紙も毒ガスを使ったのは反政府軍だと分析、国連独立調査委員会メンバーのカーラ・デル・ポンテも反政府軍が化学兵器を使用した疑いは濃厚だと発言している。 アレッポの郊外の着弾地点で採取した試料を分析したロシア政府は、サリンや砲弾は工業的に作られたものではなく「家内工業的な施設」で製造されたとしている。軍隊が使う兵器の場合、製造と使用の間に長い期間があるため、化学的に安定化させる物質を使わないと役に立たない。その安定剤が添加されていなかったことが「家内工業的」に作られたと判断した理由の一つ。分析結果は80ページの報告書にまとめられ、国連の潘基文事務総長に提出された。 これまで、リビアやシリアで戦う傭兵はサウジアラビアやカタールが雇っていたが、エジプトの情勢は、両国の間に亀裂が入ったことを示している。カタールはムスリム同胞団と密接な関係にあることは本ブログで何度も書いたこと。アル・ジャジーラという宣伝機関を保有していることも強みだ。ちなみに、今回の化学兵器話を最初に伝えたアル・アラビアはサウジアラビア系のテレビ局。 エジプトではその同胞団が弾圧されているわけで、シリア情勢にも影響があるだろう。SNCの本部がエジプトからトルコへ移動したという情報もある。 カタールと同じようにムスリム同胞団と強く結びついているトルコの場合、司法システムを使って反対勢力を攻撃、エジプトのようにはなっていない。そのトルコはシリア北部で略奪行為を繰り返しているという話があり、クルド系住民の虐殺でも責任があると言われている。クルド系住民によると、戦闘でトルコの情報機関MITのメンバー2名が死亡した、つまり住民虐殺に加わっているという。 アメリカ、イギリス、フランス、トルコ、サウジアラビア、カタール、イスラエルなどが始めた「中東新秩序」プロジェクトだが、ターゲット国を破壊しているうちに自分たちもバラバラになってきたようだ。
2013.08.21
民主的に成立したイランの政権をアメリカとイギリスが1953年にクーデターで倒したことを認める文書をCIAが公開した。すでに常識になっている話だが、CIAが「公式」に認めたということ。クーデターの目的は、言うまでもなく、石油だ。 ペルシャ(イラン)で石油が発見されたのは1908年。油田地帯と知られていたバクーの南ということもあり、イギリス人のウィリアム・ノックス・ダーシーが目をつけ、イラン側と交渉した末、1903年から試掘を始めている。 しかし、なかなか成果は得られない。1904年には資金繰りが苦しくなり、バーマー石油がスポンサーについた。大油田が発見されたのはその4年後のことだ。撤退を決める寸前だった。1909年にバーマー石油はAPOCを子会社として創設、1935年にAIOC、1954年にはBPへ名称が変更された。 1914年から18年にかけて第1次世界大戦があり、イギリスとフランスを中心とする勢力が勝利する。途中、ドイツはイギリスを兵糧攻めにするため、潜水艦で無差別攻撃を実施したが、これが裏目に出る。アメリカが参戦する前に勝利するというドイツの思惑は外れ、アメリカ国民を刺激してアメリカがイギリス/フランス側につくことになり、大勢は決してしまったのだ。 当初、ロシアもイギリスやフランスと手を組んでいたのだが、1917年にロシア革命があり、戦争から離脱する。 革命の第1幕は3月の「2月革命」。これで王制は崩壊、資本主義色の濃いカデットが臨時革命政府をつくる。このとき、ウラジミール・レーニンなどボルシェビキのリーダーは大半が亡命中か投獄されていて、革命にはほとんど参加していない。臨時革命政府に批判的な勢力は、この政府をイギリスの傀儡だとみなしていた。 レーニンたちを革命の舞台へ押し出したのはドイツ。戦争に反対していたボルシェビキに目をつけ、レーニンたちの帰国を助けたのである。帰国したボルシェビキは活動を開始するものの主導権を奪えず、レーニンらは再び亡命、レフ・トロツキーらは拘束される。 8月になると臨時革命政府で軍を指揮していたラーブル・コルニーロフが反乱、アレクサンドル・ケレンスキー首相は拘束されていたトロツキーを釈放して対抗させた。その思惑どおりにトロツキーはコルニーロフの反乱は抑え込むのだが、11月の「10月革命」につながり、ボルシェビキの政権が誕生してしまう。 新政権は即時停戦を宣言、無併合無賠償、民族自決、秘密外交の廃止も打ち出した。「2月革命」と「10月革命」は全く異質であり、これを混同すると歴史の流れが見えなくなる。(意図的に混同している人もいるようだが) 世界大戦が終わった直後の1919年、イギリスはペルシャを保護国にしている。1921年には陸軍の将校だったレザー・ハーンがテヘランを占領、その4年後にはカージャール朝を廃して「レザー・シャー・パーレビ」を名乗るようになった。これがパーレビ朝のはじまり。 1935年に国名をペルシャからイランへ変更、その4年後にドイツ軍がポーランドに軍隊を侵攻させる。当時、ドイツ本国と東プロイセンの間にポーランド領、いわゆるポーランド回廊があり、東プロイセンは飛び地になっていた。この領土問題の話し合いがこじれての軍事行動だった。ポーランドの背後にはイギリスがいたと言われている。 大戦が勃発した後、イギリスやソ連はイラン政府に対してドイツ人を国外へ出すように求めたが拒否され、英露両国は1941年にイランへ軍事侵攻する。そのときに国王は国外追放、息子のムハマンド・レザーが新しい国王に就任した。後にアメリカも軍隊を派遣している。 イラン国民から見れば、王室にしろ、外国資本にしろ、自分たちを食い物にしているだけ。1951年にはアリ・ラズマラ首相が暗殺され、後任に選ばれたのがムハマド・モサデク。議会はAIOCの国有化を決定、アバダーン油田も接収された。 こうした政策に怒ったイギリス側はイランに圧力をかけ、モサデクは4カ月後に辞任する。ところがイランの庶民はこの首相交代に怒り、モサデクはすぐに復活することになった。これに対してAIOCは石油の生産と輸送を止めることで対抗、苦境に立たされたイランはソ連に接近する。 そうした中、石油と深い関係にあるウィンストン・チャーチルが1951年に首相復帰、53年にドワイト・アイゼンハワーが大統領に就任するとイランに対する秘密工作が本格化していく。 アイゼンハワー政権の国務長官はジョン・フォスター・ダレス、CIA長官はアレン・ダレス。このダレス兄弟はふたりともウォール街の大物弁護士であり、ふたりが所属していたサリバン・アンド・クロムウェル法律事務所の顧客リストにはAIOCも含まれていた。 イギリスはアメリカにクーデターを持ちかけ、1953年に両国はモサデクを排除することに成功する。国王として復活したパーレビは「近代化」を推進するが、これは国王や外国資本が富を総取りする仕組み。貧富の差は拡大し、外国資本が富を持ち去るという構図も変化がなかった。そのひとつの結果が1979年のイスラム革命。現在、アメリカやイスラエルがイラン攻撃を主張している理由も自ずからわかるだろう。
2013.08.21
アメリカの電子情報機関、NSAは世界規模で情報を盗み、集め、分析している。そのイギリスにおけるパートナーがGCHQ。両機関はUKUSA(ユクザ、つまりUKとUSA)という連合体を組織、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの情報機関を従えて活動してきた。そのターゲットには「友好国」や自国民も含まれている。 こうしたことは1970年代から指摘されてきたのだが、その最新情報をエドワード・スノーデンは明らかにした。驚くような内容ではないが、無視はできない。 スノーデンから情報の提供を受けたジャーナリストがガーディアン紙のグレン・グリーンワルド。その生活上のパートナー、デイビッド・ミランダが18日、ヒースロー空港で9時間にわたって拘束されたうえ、パソコン、ハード・ドライブ、電話、カメラを没収された。「2000年テロリズム法別表7」に基づくものだという。つまり、イギリスの係官はミランダやグリーンワルドをテロリストの疑いがあると見なしたわけである。 NSAにしろ、GCHQにしろ、情報活動はテロリストの活動を監視することが目的だとしている。つまり、米英の情報機関はジャーナリストを監視対象にしていると「自白」したようなものである。 アメリカでは戦後、FBIやCIAも国民を監視するプロジェクトを展開してきた。FBIは1950年代からCOINTELPRO、CIAは1967年からMHケイアスをスタートさせたが、いずれも反戦/平和運動が主なターゲットだった。勿論、支配層の悪事を外部に漏らした人間を探し出すためにも、このシステムは使われている。 スノーデンのケースでは、香港で情報が明らかにされた後、アメリカが圧力を加えたにもかかわらず中国はスノーデンの出国を許し、ロシアへ移動してしまった。スノーデンの亡命を認める可能性があったボリビアの大統領がモスクワから帰国する際、ポルトガル、スペイン、フランス、イタリアに命じて大統領機の通過を拒否させ、オーストリアへ強制着陸させたが、機内にスノーデンはいなかった。 この大失態の後、アメリカの圧力を無視する形でロシアはスノーデンの一時亡命を認めてしまう。暗殺も不可能ではないが、相手はロシアであり、リスクは高い。手を出しにくい状況だ。 そうした中、スノーデンから情報を提供されたジャーナリストの家族をテロリスト扱いして長時間にわたって拘束、私物を奪ったわけだが、UKUSAが行ったことはこれにとどまらない。 ガーディアン紙の編集者、アラン・ルスブリッジャーによると、2カ月余り前にイギリス政府から接触があり、1カ月ほど前には電話で脅されたという。さらに法的な制裁という圧力を加えられ、ガーディアン紙のハード・ドライブ、そこにはスノーデンから提供された情報が記録されていたと見られているが、それを粉々にさせられた。その作業にはGCHQの専門家ふたりが立ち会ったようだ。 ひとつのハード・ドライブを破壊したからといって情報を消し去ることはできないが、脅しにはなる。ジャーナリストの家族を狙い、報復のために仕事道具を破壊する・・・犯罪組織の手口だと言う人もいるが、そのとおりだ。 日本にはアメリカやイギリスを理想の国だと主張する人が少なくない。そうしたことを言う政党もある。こうした国と同じ理念を持っている? やはり、日本にはファシズムに憧れている政治家が少なくないようだ。
2013.08.20

アメリカの支配層は情報の独占体制が崩れることにフラストレーションを感じているようで、内部告発者だけでなく告発者を支援する人びとに対する攻撃を強めている。 アメリカの電子情報機関NSAの監視システムに関する情報を明らかにしたエドワード・スノーデンはロシアが一時亡命を認めたため、手を出しにくい状況。そこでスノーデンから資料を提供されたジャーナリストのグレン・グリーンワルドが狙われているようで、18日にはグリーンワルドのパートナーで仕事も一緒にしているデイビッド・ミランダがロンドンのヒースロー空港で拘束された。係官が「2000年テロリズム法別表7」に基づいて9時間にわたり、「事情聴取」したのである。 ミランダはベルリンで仕事を済ませた後、ヒースロー空港を経由して自宅のあるリオ・デ・ジャネイロへ戻る途中。イギリス当局はスノーデン/グリーンワルド/ミランダをテロリストの疑いがあると判断したことになる。9時間は法律が認める目一杯の時間だ。ちなみに、2011年4月から2012年3月の期間に事情聴取を受けた人数は6万9109名。その97%は1時間以内に釈放され、6時間を超したのは42名、つまり0.061%にすぎない。 アメリカ軍による非武装の市民を虐殺する映像や外交文書をWikiLeaksを介して公表したブラドリー・マニング特技兵は有罪判決を受け、懲役90年を言い渡される可能性があるのだが、WikiLeaksのジュリアン・アッサンジに対するアメリカ支配層の憎しみも大きいようだ。 アッサンジを殺せという声は議会からも出ていたが、17日にはタイム誌のマイケル・グルンワルドも声を上げた。アッサンジ殺害を目的とした無人機の攻撃を擁護する記事を早く書きたいという内容だった。自分たちの悪事を暴露するやつは許せない、ということなのだろう。 カネと情報の集まる場所に権力は生まれる。「強者総取りの経済システムを推進し、情報の独占が認められる民主主義国」はありえないということである。巨大企業のカネ儲けにとって都合の良い仕組みを秘密裏に作り上げようというTPPは反民主主義の象徴だと言うこともできる。 軍事クーデターで成立したチリの独裁政権で新自由主義経済が始まったのは偶然でなく、その背後にいたアメリカやイギリスでファシズム化が進んでいるのも必然だ。「新自由主義」の「自由」とは支配層にとってにすぎず、庶民にとっては「独裁」を意味している。 歴史を振り返ると欧米のカネ儲けは押し込み強盗。戦争と深く結びついている。経済が危機的な状況になれば、略奪したいという気持ちが高まるだろう。 ここ数年、イラン、リビア、ベネズエラはアメリカやフランスから金を自国へ引き揚げている。今年に入ってドイツも同じ動きを見せたのだが、アメリカの連邦準備銀行は2020年まで待てと拒否したという。金は本当にあるのか? アメリカの巨大銀行が相場操縦で儲けていたことが表面化しているが、スノーデンの内部告発にからみ、彼が働いていたNSAと契約関係にあるブーズ・アレン・ハミルトンも投機市場などでの不正行為に関係しているという噂も流れている。米英の支配層としては、とりあえず情報を統制し、状況によっては武力を利用して押さえ込むしかなさそうだ。 日本で情報統制が推進され、自衛隊をアメリカ軍の傭兵にする動きが(集団的自衛権)あるのも、カネ儲けと無縁ではないだろう。
2013.08.19
エジプトでは治安部隊とムスリム同胞団/ハメド・ムルシ派が衝突し、多くの死傷者が出ているようだが、そうした中、政府の施設だけでなく、キリスト教の教会、キリスト教徒の家、店、学校、修道院なども同胞団によって放火されているという。 ムルシ政権時代、キリスト教徒など少数派は弾圧され、襲撃で死傷者も出ていたこともあり、カトリック教会のエジプトにおけるスポークスパーソンは治安部隊に理解を示している。 ムスリム同胞団/ムルシ派は放火だけでなく、銃撃している可能性が高いことは本ブログでも伝えたとおり。「無抵抗の市民大虐殺」とは言いがたい状況だ。建物の屋上から狙撃している人物もいるようだが、このパターンはリビアやシリアでも報告されている。 リビアやシリアの場合、当初、政府側が狙撃していると報道されたが、後に体制転覆を目指す勢力が行ったとする証言が出てくる。軍事介入を目指す勢力としては、介入する口実を作りたかったようだ。 エジプトでも同じことが繰り返されている可能性もあり、現段階では誰が狙撃していると断定することはできない。暫定政権を「悪玉」、ムスリム同胞団を「善玉」として単純に描くことはできないということでもある。 前にも書いたことだが、エジプトの衝突にはサウジアラビアとカタールが深く関係している。軍最高評議会のアブデル・ファター・エル・シーシ議長をサウジアラビアが支援する一方、カタールがムスリム同胞団/ムルシ派の後ろ盾になっている。 サウジアラビアもカタールも北アフリカ/中東の体制を転覆するプロジェクトで中心的な役割を果たしてきた。この2カ国と同盟関係にある国には、アメリカ、イギリス、フランス、トルコ、イスラエルなどがあり、戦闘部隊としてアル・カイダが使われている。 暫定政権はアメリカ政府の傀儡だとする話が広まっているが、そうとも言い切れないところがある。8月14日、バラク・オバマ大統領は暫定政権に電話を入れ、シーシ議長と話をしようとしたのだが、アドリー・マンスール暫定大統領が責任者だとして拒否されたとする情報をイスラエルのメディアが伝えているのだ。そのとき、シーシはサウジアラビア総合情報庁のバンダル・ビン・スルタン長官と電話で話をしていたという。そのスルタン長官は7月31日、ロシアを訪問してウラジミル・プーチン大統領と会っている。 それに対し、ムルシは軍最高評議会との対立が表面化した際、アメリカ政府が自分たちの後ろ盾になっていると確信、クーデターは不可能だと考えていた。バラク・オバマ政権がクーデターを許さないと語っていたのだ。南カリフォルニア大学で材料科学の博士号を取得、カリフォルニア州立大学で助教授を務めた後、航空宇宙局(NASA)でエンジニアとして働いた経験があるという経歴もムルシを強気にさせた一因だろう。 カタールとムスリム同胞団との関係を象徴する人物がユスフ・アルカラダウィ。ムスリム同胞団の精神的な指導者で、ドーハに数十年間住み、活動の拠点にしてきた。 同胞団は貧困層への支援活動で支持者を増やしてきたというが、決して平和的な団体とは言えない。1928年にハッサン・アル・バンナが創設し、第2次世界大戦には秘密機構を創設し、王党派と手を組んで暗殺を繰り返している。 エジプトでは、19世紀にアルバニア人が始めたムハンマド・アリー朝が1952年にクーデターで倒された。このクーデターの名目的な指導者はムハンマド・ナギブ将軍だが、実際はガマール・アブデル・ナセルが率いる自由将校団が中心的な役割を果たした。ナギブを支えていたのがムスリム同胞団だ。 1954年に同胞団はナセル暗殺を試みて失敗、ナギブ大統領は解任され、同胞団は非合法化された。このときに同胞団の中心的存在だったひとり、サイド・ラマダンはバンナの義理の息子だ。 ラマダンは西ドイツ政府が提供した外交旅券を携帯、ミュンヘンからスイスへ入り、サウジアラビアの資金でジュネーブ・イスラム・センターを設立した。この当時、スイス当局はラマダンをイギリスやアメリカの情報機関のエージェントだと見なしていたという。 今回、軍が動く前にエジプトでは反ムルシ政権の抗議活動は盛り上がりつつあった。言うまでもなく、選挙だけが民主主義で意思を表明する方法ではない。抗議活動も民主主義にとって重要な手段。その際、デモの参加者が掲げたバナーやプラカードに汎アラブ主義、ナショナリズム、社会主義などを支持するフレーズが書かれていた。ガマール・アブドゥン・ナセルの考え方が広がっていることをうかがわせる。サウジアラビアや「西側」にとって好ましくない展開だ。ムルシ追放は、こうした活動を封印することにもつながった。 しかし、カタール王室やムスリム同胞団は勿論、トルコ政府にとっても軍最高評議会やサウジアラビアの動きは許せないだろう。が、「西側」が暫定政権に何らかの「制裁」を加えたなら同胞団は軍との戦いを激化させ、暫定政権側はそれを押さえ込もうと弾圧を強化することが予想される。すでにアメリカの軍事援助は影響力が小さくなっているが、これをさらに削減したり打ち切ったなら、エジプトやサウジアラビアとアメリカとの亀裂が深まり、アメリカの影響力はさらに低下することになる。バラク・オバマ政権は厳しい状況に追い込まれた。
2013.08.18
島根県松江市の教育委員会は『はだしのゲン』を子どもが自由に見られないようにするため、市内の小学校と中学校に対して閉架図書にさせたという。東京都や神奈川県の教育委員会では公立高校に対し、事実上、使用する日本史教科書を強制する動きもある。庶民の子どもの思考回路を支配層にとって都合の良く改造する作業を本格化させているように見える。 松江市教育委員会が問題にした『はだしのゲン』はもともと子ども向けに描かれた漫画であり、「残虐」と言えるような描写はない。「戦争や原爆の悲惨さや痛みがわかっていない」のではなく、戦争の悲惨さを子どもに知らせたくないのだろう。 昨年8月、「ありもしない日本軍の蛮行が描かれており、子どもたちに間違った歴史認識を植え付ける」という陳情が市議会に対して「市民」からあったというが、「蛮行」はあったのである。実際にあったことをなかったと日本の子どもに教えても、侵略された国はその「蛮行」を決して忘れない。 この3委員会が目指している方向は同じようだ。そう遠くない将来、「少国民」を再び作り出す先鞭をつけたと語られるようになるかもしれないので、各教育委員会のメンバーを挙げておく。【松江市教育委員会】委 員 長:内藤富夫委 員:間田浩彬委 員:櫻井照久委 員:布野由美委員(教育長):清水伸夫【東京都教育委員会】委 員 長 :木村孟委員長職務代理者:内館牧子委員長職務代理者:竹花 豊委 員:乙武洋匡委 員:山口香教 育 長 :比留間英人【神奈川県教育委員会】委 員 長 :具志堅幸司第一委員長職務代理者:宮崎緑第二委員長職務代理者:高橋勝委 員:倉橋泰委 員:河野真理子委 員(教育長):藤井良一 こうした人びとは戦争の実態を子どもに知られたくないと考えているとしか考えられない。かつて、日本軍の兵士として戦場へ行った「ほとんどの男は、とても自分の家族、自分の女房や子供たちに話せないようなことを、戦場でやっているんですよ。中国戦線では兵士に女性を強●することも許し、南京では虐殺もした。」これが実態。(むのたけじ著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、2008年) そうした状況を生む一因は兵士の心理状態。「戦場にいる男にとっては、セックスだけが『生きている』という実感になる。しかも、ものを奪う、火をつける、盗む、だます、●姦する・・・ということが、戦場における特権として、これまでずっと黙認されてきました。」(前掲書) 南京を制圧した際の状況について書き残されたものを見ると: 「捕虜総数1万7025名、夕刻より軍命令により捕虜の3分の1を江岸に引き出し射殺す。」(遠藤高明少尉の陣中日記/1937年12月16日) 「23日前捕虜せし支那兵の一部5000名を、揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す。」(黒須忠信上等兵の陣中日記/1937年12月26日) 「南京に於ける我軍の暴状を詳細し来る。略奪、強●目もあてられぬ惨状とある。」(石射猪太郎外務省東亜局長の日記/1938年1月6日) 「1943年1月、私は支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任しました。そして1年間在勤しましたが、その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました。(三笠宮崇仁著『古代オリエント史と私』学生社、1984年) 「先遣の宮崎周一参謀、中支那派遣軍特務部原田少将、杭州特務機関萩原中佐から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。 一 南京攻略時、数万の市民に対する略奪●姦等の大暴行があったのは事実である。 一 第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。」(岡村寧次大将資料) 南京攻略時、近くで諜報活動に特務機関員として従事していた中島辰次郎も虐殺があったことは間違いないと語っていた。 戦後、この時の責任を取らされる形で松井石根が処刑されている。形式上、中支那方面軍の司令官だった松井が南京攻略戦の最高責任者だが、実際は「皇族」の朝香宮鳩彦上海派遣軍司令官がトップだった。言うまでもなく、朝香は昭和天皇の叔父にあたる。戦後、責任は問われていない。 前線で戦う部隊では略奪、放火、●姦、殺人といったことを「ほとんどの男」が行ったというが、勿論、行わない将兵もいた。少数派とは言いながら、総数は少なくない。そうした人びとの多くが健在だった時期に「日本軍の蛮行」を否定することは難しかっただろう。そこで『「南京大虐殺」のまぼろし』、つまり「南京大虐殺」に関する情報の中には「まぼろし」があると表現せざるをえなかった。『「南京大虐殺」はまぼろし』と書くことができなかったのである。 日本が降伏してから68年。当時、20歳代だった人なら80歳代から90歳代になる。日本軍の将兵が何をしたのかを直接知る人が少なくなり、荒唐無稽な話をしても通用すると錯覚しているのかもしれないが、そもそも、戦争とは悲惨なもの。アフガニスタンやイラクを先制攻撃したアメリカ軍の「蛮行」もすさまじい。リビアやシリアへはアル・カイダなどの傭兵を使って侵略しているが、そこでも破壊、略奪、虐殺が繰り返されている。 2001年10月にアフガニスタンで戦争を始める際、アメリカ軍は報道をコントロールするための仕組みを作り上げ、事実を隠そうとした。他国へ攻め込んだ軍隊が行うことは似ているようで、アメリカ軍も残虐なことを行っている。違いは「程度」の問題。そうした実態を知らせる目的で映像や外交文書をWikiLeaksを介して公表したブラドリー・マニング特技兵に対し、アメリカ支配層が厳しく対応している。それも事実が知られることを恐れてのこと。日本の支配層が歴史を捏造しようとしているのと同じことだ。(●は楽天の規制のため)
2013.08.17
毎年のように、8月15日が近づくと靖国神社が問題になる。今年も例によって「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」のメンバーが参拝、その数は102名で、閣僚からは新藤義孝、古屋圭司、稲田朋美が参加、同会とは別に、野田聖子、石原慎太郎が参拝したようだ。 建前はともかく、こうした議員が靖国神社を参拝する真の目的は知るよしもないが、明治維新から間もなくして始められたアジア侵略を正当化していると国外から見られるのは当然のことである。 この神社の来歴を振り返ると、創建は1869年。当初の名称は「招魂社」だった。1879年には現在の名称に変更され、所轄は第2次世界大戦に日本が敗れるまで陸海軍省。日本軍と一心同体の関係にあったわけだ。天皇を「現人神」だと教育するカルト国家だった戦前の日本において、招魂社/靖国神社は支配システムで重要な役割を果たしていた。 こうした歴史があるため、GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の内部でも将校の多数派が靖国神社の焼却を主張したというが、これを阻止したのがイエズス会のブルーノ・ビッテル(ビッター)とメリノール会のパトリック・J・バーン、ふたりのカトリック司祭だったという。 ビッテルは1898年にドイツで生まれ、1920年にイエズス会へ入り、アメリカで過ごしてから1934年に来日している。ニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟だとされているが、この枢機卿はCIAと教皇庁を結ぶ重要人物だった。 このビッテルを多くの日本人が知るのは経済犯罪に絡んでのことであろう。今と違って国外へ自由に出られない時代、日本人エリートは海外旅行する際、日本カトリック教団本部四谷教会のビッテルを介して「闇ドル」を入手していたとされている。霊友会の小谷喜美会長もビッテルからドルを手に入れたのだが、これは法律に違反した行為であり、事件になってしまう。 この事件でビッテルも逮捕されたのだが、警視庁が押収した書類は「ふたりのアメリカ人」が持ち去り、捜査は打ち切りになった。秘密裏に犬養健法相が指揮権を発動したと言われている。 ビッテルは旅行者の便宜を図っていただけではない。1953年にドワイト・アイゼンハワーが大統領に就任するが、その副大統領はリチャード・ニクソン。当時は若手で大抜擢だが、その理由は闇資金の調達にあったと信じられている。 一般に企業の闇献金だとされているのだが、月刊誌「真相」の1954年4月号によると、実際の原資は闇ドルの取り引きで蓄積された儲けだったという。1953年秋にニクソンは来日するが、その際にバンク・オブ・アメリカの副支店長を大使館官邸に呼び出した。その際、闇資金の運用についても話し合われるのだが、この会議にビッテルも同席したとされている。 ニクソンが来日する6年前、衆議院決算委員会で「日銀の地下倉庫に隠退蔵物資のダイヤモンドがあり、密かに密売されている」と発言した人物がいる。衆議院議員だった世耕弘一だ。石橋湛山蔵相を委員長とする「隠退蔵物資等処理委員会」で副委員長を務めたことでも知られている。世耕弘一の孫が世耕弘成。この隠退蔵物資を摘発する目的で1947年に設置されたのが「隠匿退蔵物資事件捜査部」、後の東京地検特捜部だ。 この「隠匿退蔵物資」には日本軍が保有していた「表の物資」だけでなく、戦争中に中国をはじめとするアジア地域で略奪した財宝、いわば「裏の物資」が含まれていた。そうした略奪財宝を日本へ運ぶ中継基地がフィリピンだったが、途中で戦況の悪化によって輸送が困難になり、フィリピンで隠されることになる。 この財宝が1986年から世界的に注目されはじめた。この年にアメリカ軍がフィリピンの独裁者、フェルディナンド・マルコスを国外へ連れ出し(ポール・ウォルフォウィッツの命令だったと言われている)、裁判が始まって情報が漏れ始めたのだ。 靖国神社は血の臭いだけでなく、カネの臭いも強烈だ。
2013.08.16
エジプトが混乱の度合いを深めている。8月14日には治安部隊とハメド・ムルシの支持者が衝突し、多くの死傷者が出ているようだ。正確な数字は不明だが、死者は数百名、負傷者は数千名に達すると伝えられている。 この衝突では、アメリカ以上に大きな役割を果たしている国があるという。ムルシ/ムスリム同胞団の後ろ盾であるカタールと、軍最高評議会のアブデル・ファター・エル・シーシ議長を支援しているサウジアラビアだ。 カタールの首都、ドーハにはムスリム同胞団の精神的な指導者、ユスフ・アルカラダウィが数十年間住み、活動の拠点視してきた。そのカタールでは6月下旬、首長がハマド・ビン・ハリーファ・アールサーニーから息子のタミーム・ビン・ハマド・アールサーニーへ交代になっている。一方、サウジアラビアでは4月にハリド・ビン・スルタン・ビン・アブドゥル・アジズが国防副大臣を解任され、6月には自宅軟禁になったという。 そうした中、サウジアラビアで情報活動を統括しているバンダル・ビン・スルタンが7月末にロシアを訪問した。シリアのバシャール・アル・アサド大統領の退陣について話し合われたという報道もあったが、ロシア側は否定している。エジプトの情勢について話し合った可能性もあるだろう。 カタールとサウジアラビアは北アフリカや中東で体制転覆を仕掛けた「同志」なのだが、シリアで手間取っているうちに両国の関係が微妙になってきたのかもしれない。当然、ここにイギリス、フランス、アメリカ、トルコ、イスラエルなどが絡んでくる。トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン首相もムスリム同胞団と結びついている。 現在、ムスリム同胞団は「非暴力」で抵抗しているように伝えられているが、現段階では断定的なことを言えない。何しろ、「アラブの春」では嘘のオンパレード。ムルシ体制では少数派が弾圧され、決して平和的でも、民主的でもなかった。(暫定政権はムルシ派/ムスリム同胞団の中に武装し、治安部隊に発砲している人間がいると主張、その映像も流れている。) 軍が動く直前、ムルシ政権下のエジプトでは大統領の権力が強化され、キリスト教徒など少数派が襲撃されて少なからぬ犠牲者が出ていた。そこで、ムスリム同胞団の影響力拡大を懸念する人たちが抗議活動を始めたのだが、そうした人びとがデモで掲げるバナーやプラカードには、汎アラブ主義、ナショナリズム、社会主義などを支持するフレーズが書かれていたという。 ムルシはムスリム同胞団の人間だが、アメリカの傀儡でもあった。南カリフォルニア大学で材料科学の博士号を取得、カリフォルニア州立大学で助教授を務めた後、航空宇宙局(NASA)でエンジニアとして働いた経験があるのだ。 そこで、シーシ議長から退陣を勧告されたムルシはアメリカとの緊密な関係を強調し、バラク・オバマ政権がクーデターを許さないとムルシ側は語っていた。自分はアメリカがついていると過信していたようだ。 アメリカに操られていると見られているシーシ議長だが、オバマ政権はコントロールできていないとも言われている。アメリカの軍事援助にしても、30年の間増えていないようで、影響力の低下は否めない。 現在、ムルシ支持派は反米を唱え始めているようだが、反ムルシ派も反米色が鮮明だった。中東/北アフリカにおけるアメリカの影響力が急速に低下している可能性もある。
2013.08.15
68年前の1945年8月15日、「玉音放送」、あるいは「終戦勅語」と呼ばれている昭和天皇の朗読がラジオで流された。日本では8月15日を「終戦記念日」とか「終戦の日」と呼ぶが、その理由は、この放送を「記念」してのことだ。 16日に戦闘停止命令が出たものの、重光葵と梅津美治郎が降伏文書に調印したのは9月2日であり、この日、日本の敗北が正式に決まった。7月26日にアメリカ、イギリス、中国が連名で出した「ポツダム宣言」を日本が受け入れることを日本が正式に認めたということだ。宣言が出された段階でソ連は日本と交戦状態になく、当初は参加していない。 日本敗北への流れをさかのぼると、「琉球処分」による琉球/沖縄侵略にたどり着く。その後、台湾、朝鮮半島を制圧し、1927年には山東出兵、そして31年には柳条湖事件を口実として中国侵略を本格化させ、「満州国」を建国している。 1927年といえば関東大震災から4年後。すでに日本はJPモルガンの影響下に入っていたわけで、アメリカの金融資本が日本の行動に反対していたとは思えない。状況が急変するのは1932年。 この年に行われた大統領選挙でJPモルガンと対立していたフランクリン・ルーズベルトが勝利、1933年から34年にかけてJPモルガンを中心とする勢力が計画した反ルーズベルトのクーデターは失敗に終わり(詳細は『テロ帝国アメリカは21世紀に耐えられない』を)、日本にとって厳しい状況になる。 ルーズベルトはニューディール政策を掲げ、ウォール街が推進していた「強者総取り経済」を否定、植民地政策にも反対の姿勢を示し、日本のアジア政策と正面衝突することは不可避だった。そして1941年12月、日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃する。 しかし、1942年に日本はミッドウェー海戦で早くも惨敗、43年にドイツはスターリングラード攻防戦で敗北、イタリアは連合国に降伏、日本、ドイツ、イタリアを中心とする枢軸国の敗北は決定的な状況で1944年は過ぎた。 そうした中、ドイツは敗北を見据えた動きを1942年から見せている。この年、ナチ親衛隊が密使をスイスのアレン・ダレスの下へ派遣、44年にはドイツ陸軍参謀本部第12課(東方外国軍課)の課長を務めていたラインハルト・ゲーレン准将がダレスに接触したのだ。そうした流れの中、「戦後」について話し合いを始めている。 1945年2月にアメリカのルーズベルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、そしてソ連のヨセフ・スターリン人民委員会議長がウクライナのヤルタで会談、その中でドイツ降伏から2、3カ月後にソ連は日本との戦いに加わることも決められた。ドイツが降伏文書に調印したのは5月7日。 ドイツ降伏の直前、4月12日にルーズベルトは執務室で急死して状況は変わる。ニューディール派の影響力が大きく低下、反ルーズベルト/反コミュニストのウォール街がホワイトハウスで主導権を奪い返し、ファシストと同盟関係に入る。 この頃、イギリスではチャーチル首相が合同作戦本部に対し、ソ連を奇襲攻撃する作戦を立案するように命じている。5月下旬に提出された計画によると、7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。ただ、この計画は参謀本部が拒否し、実行されていない。 ソ連に対する戦争に積極的な姿勢を見せ始めた一因は原爆開発の進展具合と関係があるとも言われている。そして7月16日、ニューメキシコ州で核爆発実験(トリニティ)に成功した。 その間、アメリカ軍は日本に対する攻撃を始めている。1944年10月10日には沖縄の那覇市を空爆、翌年3月26日には慶良間列島へ上陸し、沖縄の地上戦が始まった。6月23日には牛島満中将と長勇少将が自殺したものの、守備隊は9月7日、つまり重光葵と梅津美治郎が降伏文書に調印した5日後まで戦闘を続けたという。 8月にアメリカは原爆を実戦で試した。6日に広島へ、そして9日には長崎へ投下している。この時点で日本はすでに「死に体」であり、ソ連を意識しての原爆投下だということは間違いないだろう。 ドイツと比べると動きは遅いのだが、日本も和平工作を試みている。ソ連に仲介を頼もうとしただけでなく、バチカンやスイスを舞台とした工作もあった。 例えば、1943年頃からスイスへ入っていた岡本清福陸軍中将は国際決済銀行のペル・ヤコブセンを通じてアレン・ダレスに接触、この工作を加瀬俊一スイス公使も後押ししていたという。ちなみにアレン・ダレスは戦後も情報機関(破壊活動)を指揮する人物だが、兄のジョン・フォスター・ダレスと同様、ウォール街の大物弁護士でもあり、戦前の日本とウォール街との関係も熟知していたはずだ。 日本が降伏した後、アメリカを含む連合国の内部では天皇の戦争責任を問う人が少なくなかった。日本国内でも民主化を求める声が出始めていた。ホワイトハウスでは日本と戦前から関係の深い勢力が主導権を握っていたというものの、暢気に構えていたならば、自分たちにとって都合の良い天皇制官僚国家を維持できなくなる。そこで、天皇制を存続させる条文を組み込んだ日本国憲法が1946年11月に公布されたわけだ。この条文を連合国内で認めさせるため、ほかの条文は民主化を推進するものになっている。 しかし、1948年5月に天皇はダグラス・マッカーサーに対し、新憲法の第9条に対する不安を口にしている。その会談内容を通訳の奥村勝蔵は記者へリークしたのだが、その際に隠された部分があると関西学院大学の豊下楢彦教授は指摘している。マッカーサーは天皇に対し、「日本としては如何なる軍備を持ってもそれでは安全保障を図ることは出来ないのである。日本を守る最も良い武器は心理的なものであって、それは即ち平和に対する世界の輿論である」と主張していたというのだ。(豊下楢彦著『昭和天皇・マッカーサー会見』) そして1949年9月、天皇は沖縄を利用しようとする。アメリカによる沖縄の軍事占領が「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与(リース)というフィクション」のもとでおこなわれることを求めるという内容のメッセージを天皇は出したという。(豊下楢彦『安保条約の成立』) 日本国憲法第4条の「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」という規定も、少なくとも昭和天皇の時代、フィクションだったと言えるだろう。
2013.08.14
1985年8月12日、羽田空港発、伊丹空港行きの日本航空123便が群馬県南西部の山岳地帯に墜落し、乗員乗客524名のうち520名が死亡した。この「事故」に対する日本政府の対応は東電福島第一原発事故と似た点がある。外部の支援を拒否、状況を悪化させたということだ。 異常事態が発生したのは羽田空港を離陸した12分後の18時24分。コックピットから東京管制部へ羽田へ戻りたいので、2万2000フィートまで降下したいと連絡、すぐに「操縦不能」と伝えている。そして18時58分に墜落。 この間、機内で急減圧が起こった可能性はきわめて低い。急減圧に伴って起こるはずの現象が報告されていないうえ、機長は酸素マスクをつけていないのである。JAL123便が飛行していた高度で急減圧が起こると、酸素マスクをつけていなければ数分で意識は朦朧としてくるという。 ちなみに、その当時に出されていた運輸省航空局(現在は国土交通省航空局と気象庁)監修のAIM-JAPANには、2万フィートでは5から12分間で修正操作と回避操作を行う能力が失われ、間もなく失神してしまうと書かれていた。 ところが、「事故調査報告書」は運輸省航空局に挑戦する。医学的常識や他の実験を否定し、急減圧があっても「人間に対して直ちに嫌悪感や苦痛を与えるものではない」と主張したのだ。事故調査で急減圧実験を担当したのは自衛隊の航空医学実験隊に所属していた小原甲一郎。医学常識と報告書の記述が相反することについて小原は説明していない。 公式見解が主張するように隔壁が破壊されたなら急減圧になるはずで、急減圧がなかったとするならば、隔壁以外に墜落の原因があるということになる。墜落直前に撮影された航空機の写真を見ると尾翼が消えている。尾翼の約7割は回収されていないようだ。事故原因を探るためにも相模湾周辺の海底を念入りに調べる必要があるのだが、運輸省(現在の国土交通省)に調査する意思はない。 この話に限らず、123便の墜落事件では奇妙なことが多く、例えば、早い段階で現地の住民から正確な墜落地点に関する情報が伝えられていたとも言われているが、救援隊が現場に到着したのは事件の翌日、13日の8時半頃だった。 日本政府に対し、墜落地点を正確に知らせたのは住民に限らない。事件当日、123便のそばを飛行していたアメリカ軍の輸送機が墜落現場を特定、報告していたというのだ。 この情報は事故の10年後、1995年8月に「星条旗」で報道された。C-130に乗っていたマイケル・アントヌッチが当時の状況を詳しく説明している。彼によると、日航機に異常が発生した当時、彼を乗せた米軍機は横田基地に向かって大島上空を飛行中で、日航機の管制に対する最初の緊急コールを聞く。 18時40分のコールは叫び声のようで、尋常ではないと判断したクルーは横田基地の管制から許可を受けた上で日航機に接近を図り、墜落地点を19時20分に特定、報告している。 運輸省に捜索本部が設置されたのは19時45分なので、捜索を始めた時点で日本政府は日航機の墜落現場を把握していた可能性が高く、もし、救援隊が別の場所を探していたとするならば、誰かが意図的に発見を遅らせようとしていたとしか考えられない。 米軍機が墜落現場に到着した直後、厚木基地から救援チームが現地に向かう。20時50分には救援チームのUH-1ヘリコプター(ヒューイ)が現地に到着、隊員を地上に降ろそうとしたのだが、このときに基地から全員がすぐに引き上げるように命令されたという。日本の救援機が現地に急行しているので大丈夫だということだった。 命令を受けた後もアメリカ軍の部隊は現場にいたのだが、21時20分に航空機が現れたことから日本の救援部隊が到着したと判断、その場を離れている。ところが、日本の捜索隊が実際に墜落現場に到着したのは翌日の8時半。10時間以上、救援が遅れたことになるのだが、この遅れがなければ生存者も増えていたと言われている。 星条旗紙の記事が出た時期、日本とアメリカは軍事問題で緊迫した場面があった。1994年に細川護煕政権の諮問機関「防衛問題懇談会」が「日本の安全保障と防衛力のあり方(樋口レポート)」というタイトルの報告書を発表したのだが、国防大学のスタッフだったマイケル・グリーンとパトリック・クローニンは日本が自立の道を歩き出そうとしていると反発したというのだ。 そして1995年2月、ジョセフ・ナイ国防次官補は「東アジア戦略構想」(ナイ・レポート、あるいはナイ・イニシアティブ)を公表し、10万人規模の駐留アメリカ軍を維持するだけでなく、在日米軍基地の機能を強化、使用制限は緩和/撤廃されるという構想を示した。 1996年4月に出された「日米安保共同宣言」によって日米安保の目的は「極東における国際の平和及び安全」から「アジア太平洋地域の平和と安全」に拡大し、97年の「日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)」、そして99年の「周辺事態法」につながる。 自衛隊が一気にアメリカ軍の戦略へ組み込まれていった、いわば傭兵化が進んだわけだが、その出発点に星条旗紙の記事がある。日本航空123便の墜落に自衛隊、あるいは日本政府の機関が関係し、何らかの責任があるとしたならば、アントヌッチの証言は日本の支配層を震え上がらせたことだろう。
2013.08.12
NSAの監視活動を内部告発したエドワード・スノーデンの一時亡命をロシア政府が認めたことに対し、アメリカではメディアや議会が怒りをぶつけている。9月にモスクワで開催が予定されていたウラジミル・プーチン露大統領とバラク・オバマ米大統領の首脳会談をアメリカ政府は中止することにしたが、これは「抗議」ではなく、会ってもどのように対応するか決めかねているからだとする見方もある。 ウォール街の代弁者、ウォール・ストリート・ジャーナル紙は7日(電子版)にプロデューサーのロバート・ストーンを登場させ、スノーデンを脅している。もっとも、同紙に掲載された記事がスノーデンに影響を与えるとは思えず、アメリカ国内向けのパフォーマンスにすぎないだろうが。 ソ連に亡命した「西側」のスパイは何人かいるが、その中では小物だったエドワード・リー・ハワードをストーンは取り上げた。この人物は1980年にCIA入りして訓練を受けたのだが、訓練の終了直後に受けたポリグラフで引っ掛かる。過去に麻薬を使用した疑いが出てきたのだ。その結果、1983年に解雇されてしまった。 1984年にハワードは「秘密情報」をソ連の情報機関、KGB(国家保安委員会)へ渡したとされているが、この人物は情報活動を始める前に解雇されたわけで、そんなハワードがどのような「秘密情報」を持っていたか不明。が、ともかくそういうことになっている。 それに対し、そうした容疑は事実無根であり機密情報を漏らしていないとハワード自身は主張していた。彼はニューヨークからフィンランドのヘルシンキへ飛び、そこのソ連大使館に亡命を求めて駆け込むのだが、アメリカの当局が彼をスパイに仕立てようとしていると感じたからだという。 そのハワードは1993年頃、モスクワでロバート・エリンガーなる人物と接触するようになる。出版コンサルタントを名乗っていたが、実際はFBIの秘密捜査員で、ハワードを拘束するために近づいていた。ストーンによると、彼がハワードに会ったのも1993年であり、回顧録の出版社を紹介したという。ストーンとエリンガーは連携しているように見える。 1995年には実際、ハワードの回顧録が出版された。その中で彼はアメリカと司法取引する姿勢を見せていたという。そのハワードは2002年に転落死した。ストーンはニューヨーク・タイムズ紙の記事を引用し、ハワードの死を「ミステリアス」だとしている。 ハワードとスノーデンの共通項といえば、ふたりとも情報機関のレベルでは機密情報を持っていなかったことが挙げられる。スノーデンはNSAによる監視プロジェクトに関する情報を明らかにしたのだが、アメリカの電子情報機関NSAが全世界をターゲットにした監視活動を展開していることは1970年代から知られていた話。ランパート誌の1972年8月号に掲載された記事の中でNSAの元分析官、ペリー・フェルウォック(記事の中で本名は伏せられていた)が明らかにしたのだ。 その中で、フェルウォックはNSAが「全ての政府」を監視していると指摘していた。エドワード・スノーデンの内部告発に各国政府が驚くということはありえないということでもある。 アメリカやイギリスでは2001年9月11日の出来事を利用して監視システムを急ピッチで強化、日本も後を追っている。アメリカの場合、そうしたシステムの開発で中心的な存在になっているのが国防総省のDARPA(国防高等研究計画局)。 アメリカでは第2次世界大戦後、国民を監視するプロジェクトを推進してきた。FBIのCOINTELPROやCIAのMHケイアスが有名だが、いずれもターゲットは戦争に反対する団体や個人だった。 エージェントや協力者を反戦集会やデモに潜入させ、平和運動を支援していた著名人の尾行、電話盗聴、郵便開封、さらに銀行口座の調査も実施、場合によっては情報を使って攻撃していた。 捜査機関にしろ、情報機関にしろ、基本的に行っていることに変化はないのだが、技術の進歩によってこうした監視行為をコンピュータで大規模に行うことが可能になっているのが現在。 1980年代になると、個人の学歴、銀行口座の内容、ATMの利用記録、投薬記録、運転免許証のデータ、航空券の購入記録、住宅ローンの支払い内容、電子メールに関する記録、インターネットでアクセスしたサイトに関する記録、クレジット・カードのデータなどあらゆるデータの収集と分析をコンピュータで行うようになり、今ではそのターゲットが「全ての人」に拡大している。 しかも、1993年以降、EUやUKUSA諸国(イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド)の捜査機関高官は毎年、会議を開いて通信傍受について討議を重ねてきた。「西側」の支配層は「国対国」でなく「1%対99%」の戦い、つまり階級闘争を意識するようになったということだ。 スノーデンが香港からモスクワへ移動した際、モスクワから第三国への移動が予定されていた時点で、ロシアはスノーデンにとって安全な場所だと指摘していた人物がいる。イギリスの防諜機関MI5の元オフィサーで内部告発者でもあるアニー・マショーンだ。 どの国もアメリカには逆らえず、「友好関係」を結びたいはずだと信じている人が日本には多いようだが、中国とロシアはアメリカの圧力を跳ね返せるとマショーンは指摘、スノーデンの判断は正しかったとしていた。 実際、中国はモスクワへの移動を認め、ロシアは一時亡命を認めることになった。今後、スノーデン側が注意しなければならないのは、アメリカ支配層による誘拐や暗殺だ。イタリアではCIAのオフィサーたちが誘拐で有罪判決を受け(逃走中)、イエメンではアメリカ人を無人機で暗殺している。 21世紀のアメリカでは軍や情報機関の不正を告発した人が不問に付され、告発者が処罰されている。例えば、アブ・グレイブ刑務所にはアメリカ軍がタッチできない場所があり、イスラエル人の尋問官がいたと証言したジャニス・カルピンスキー准将は2005年に大佐へ降格になり、アメリカの拷問プログラムを告発した元CIAオフィサー、ジョン・キリアクーは懲役30カ月を言い渡された。アメリカ軍による非武装の市民を虐殺する映像や外交文書をWikiLeaksを介して公表したブラドリー・マニング特技兵も厳しい処遇を受けている。 中国のメディアはスノーデンの一件でロシアがアメリカに勝ったと評価しているが、実際、スノーデンの亡命をロシアが認めたという事実によって、どの国が「全体主義」、つまりファシズムなのかということを世界に示すことになった。スノーデンが注意しなければならないのはアメリカが送り込む刺客だろう。何しろアメリカはアル・カイダという傭兵を抱えている。
2013.08.11
シリアの北部にある町、タル・アビアドで今月5日にアル・カイダ系のアル・ヌスラがクルド系住民を虐殺したとイランのメディア、アル・アラムは伝えている。犠牲になったのは子ども120名、おとなの男女330名、合計する450名になるという。 アフガニスタンでソ連軍と戦わせるため、1970年代の終わりにアメリカ政府はイスラム武装勢力を編成した。その中からアル・カイダは生まれたのだが、そのときから戦闘員は傭兵として使われてきた。 現在、シリアで残虐な行為を繰り返しているアル・ヌスラの場合、トルコの情報機関が背後にいるとも伝えられている。彼らが傭兵を集め、訓練した上でシリアへ送り込み、そうした活動をシリアのムスリム同胞団が監督しているのだという。タル・アビアドの虐殺情報が正しいなら、その反作用がトルコへ向かう可能性がある。 勿論、トルコだけがシリアの体制転覆を仕掛けているわけではない。1991年の段階でアメリカの親イスラエル派(ネオコン)はイランやイラクと同じように、シリアを攻撃する計画を持っていて、2001年9月11日から数週間後、ジョージ・W・ブッシュ政権はイラク、イラン、シリア、リビア、レバノン、ソマリア、スーダンを攻撃する計画を作成していた。 2007年に調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュが書いた記事によると、その段階でアメリカ政府はサウジアラビアやイスラエルと共同でシリアやイランをターゲットにした秘密工作を開始していた。その手先として使われるのがスンニ派の武装グループ(アル・カイダも含まれる)だ。 2011年3月にシリアでは激しい戦闘が始まるが、実態は「内戦」でなく、「軍事侵略」だった。その侵略の拠点がトルコにある米空軍インシルリク基地で、アメリカの情報機関員や特殊部隊員、あるいはイギリスとフランスの特殊部隊員がFSA(反シリア政府軍)を訓練し、トルコ政府はFSAに拠点を提供したと伝えられている。 他国からの軍事侵略に対し、シリアでは政府に批判的だった勢力も反発し、外部勢力に同調するシリア人は少ないようだ。そこで戦闘は政府軍が優勢に展開している。そのためか、イスラエルがシリアを空爆する一方、アメリカも武器を供給すると公言しはじめ、対戦車ミサイルも供給している。 イギリス、フランス、アメリカ(ネオコン)はシリア政府軍が化学兵器を使ったと宣伝し、自らが空爆に乗り出したかったようだが、成功しなかった。化学兵器が使用されたという戦闘で被害が出たのは政府軍であり、イスラエルのハーレツ紙も使用したのは反政府軍だと分析、しかも最初に調査を要求したのは政府側だった。 それでも反シリア政府勢力は政府軍が使ったと叫び続けるが、これに冷水を浴びせたのが国連独立調査委員会メンバーのカーラ・デル・ポンテ。反政府軍が化学兵器を使った疑いは濃厚だと発言したのだ。 その後、化学兵器が着弾したとされる地点で採取された試料をロシアが分析した結果、サリンや砲弾は工業的に作られたものではなく、「家内工業的な施設」で製造されたことが判明したと発表されている。 軍隊が使う兵器の場合、製造と使用の間に長い期間があるため、化学的に安定化させる物質を使わないと役に立たない。その安定剤が添加されていなかったことが「家内工業的」に作られたと判断した理由のひとつだという。分析結果は80ページの報告書にまとめられ、国連の潘基文事務総長に提出された。 シリアの体制転覆に執着してアル・カイダへのてこ入れを続けていると、その影響は全世界に広がることになる。すでに欧米では個人的にアル・カイダへ参加する人が出ているようで、危険な状況だ。
2013.08.10
巨大地震に繰り返し襲われている(つまり地震や津波が予見されている)日本に原子力発電所を乱立させるという無謀なことを推進するため、電力業界や歴代政府は反対の声をカネと暴力で封じ込めてきた。 暴力には裏と表があり、表の暴力装置として機能してきたのが警察や検察。福島県知事として原発に慎重な姿勢を見せていた佐藤栄佐久をスキャンダル失脚させただけでなく、「迷惑防止条例」を使って社会的に葬り去るという手法も使われている疑いが濃厚である。 つまり、警察や検察は日本の核政策を推進してきたグループに属し、いわば用心棒的な存在。東京電力をはじめとする電力業界や歴代政府、その周辺に群がっている巨大企業群、いわゆる「原子力村」の一員ということでもある。東電幹部や政府関係者は検察の仲間であり、原発事故の責任は検察にもある。 要するに、検察が「原子力村」の仲間を起訴したなら、その矛先は自分たちにも向くことになる。どうしても起訴しなければならなくなったら、本筋を外して傍流の人びとを引き出してくるだろう。 福島第一原発の事故を検察が捜査ということは、広域暴力団「A組」の犯罪をA組傘下の「B会」が調べ、やはりA組傘下の「C組」、「D会」・・・の意見を聞いて判断するという構図と同じ。国会で原発に批判的な議員が増えたなら状況は違うだろうが、現在は圧倒的に原発推進派が多い。つまり原発で甘い汁を吸ってきた人たちだ。 本ブログでも何度か書いたことだが、CIAにしろ、NSAにしろ、アメリカの情報機関は日本が核兵器を開発していると確信している。何しろ、世界規模で通信を傍受している機関だ。1980年代にはトラップ・ドアを組み込んだシステムを動燃に買わせ、プルトニウムの動きを監視している可能性もある。軍事が絡む以上、支配層の暴力は通常より強力になる。 CIAの幹部に情報源を持つジャーナリストのジョセフ・トレントによると、日本は1980年代以降(つまりロナルド・レーガン政権以降)、70トンの核兵器級のプルトニウムを蓄積したという。 こうしたことが可能だったのは、アメリカの支配層に日本の核武装を容認するグループがいたからにほかならない。1960年代、佐藤栄作時代にも日本は核兵器の開発を秘密裏に進めていたが、レーガン政権ではリチャード・ケネディなる人物が後ろ盾になる。 核兵器の研究開発と並行する形で、日本は運搬手段、つまり弾道ミサイルの開発を進めた。1991年にソ連が消滅した後、日本はロシアのミサイルSS-20(RSD-10)の設計図とミサイルの第3段目の部品を入手、ミサイルに搭載された複数の弾頭を別々の位置に誘導する技術を学んだと言われている。 その技術が反映されていると言われているのが「月探査機」のLUNAR-Aと探査機打ち上げに使われる予定だったM-V。月を周回する軌道に入った段階で母船から観測器を搭載した2機の「ペネトレーター」を発射、地中約2メートルの深さまで潜り込ませることになっていた。2007年1月にLUNAR-Aの計画は中止になったが、技術そのものは弾道ミサイルへ直接応用できる。 2011年3月8日付けのインディペンデント紙が掲載した石原慎太郎のインタビュー記事によると、外交力とは核兵器なのであり、核兵器を日本が持っていれば中国は尖閣諸島に手を出さないだろうと石原は発言したという。日本の核兵器開発について知っている人にとって、この発言は重い。
2013.08.09
NSAによるEU監視が伝えられると、ドイツ首相やフランス大統領はアメリカ政府を批判する発言をしたが、アメリカの情報機関が全ての国を監視対象にしていることは昔から有名な話。今更驚くのは不自然だった。 ただ、ドイツの場合、東ドイツで国民を監視していたシュタージ(国家保安省)の記憶が残っていることもあり、政府は神経質にならざるをえない。ドイツ政府はアメリカ大使を呼び出したというが、その程度のことをしないと国民の怒りが自分たちに向かってくると考えたのだろう。 しかし、膨大なデータが日々、ドイツの情報機関からNSAへ送られていることをスノーデンの持ち出した書類は明らかにした。政府が本当に知らなかったということはあり得るのだが、ドイツとアメリカの情報機関が密接な関係にあることは否定できない。6月29日にオブザーバー紙はEUの7カ国以上がアメリカと共謀し、個人の通信データを集めていたと伝えていたという記事をサイトに掲載、短時間のうちに削除されてしまったが、この記事は正しかったのだろう。 ドイツとアメリカの情報機関は第2次世界大戦の終盤から協力関係に入り、その関係は現在まで維持されている。1942年にナチ親衛隊が密使をスイスのアレン・ダレスの下へ派遣したことはともかく、44年にはドイツ陸軍参謀本部第12課(東方外国軍課)の課長を務めていたラインハルト・ゲーレン准将がダレスに接触している。この課は軍情報部のソ連担当だ。 1945年の初頭にはダレスがナチ親衛隊のカール・ウルフに隠れ家を提供、さらに北イタリアにおけるドイツ将兵の降伏についての秘密会談が行われている。この段階で、ナチやナチ協力者はコミュニストと戦う「自由の戦士」として扱われはじめた。 この年の5月にはゲーレンがアメリカ陸軍対敵諜報部隊(CIC)に投降する。彼が携えていたマイクロフィルムには、東方外国軍課に保管されていたソ連関連の資料が収められていた。 第2次世界大戦が終わった翌年の7月、ゲーレンはアメリカと共同で「民間の情報組織」を創設する。いわゆる「ゲーレン機関」だ。言うまでもなく、CIAとは緊密な関係を結んでいた。1956年4月にゲーレン機関はBND(連邦情報局)という国家機関に昇格、ゲーレンが初代長官に就任した。戦後、「ソ連の脅威」を煽る情報源のひとつはゲーレン。ソ連の脅威を誇張することで自分たちの存在意義を高めようとしたわけだ。 イギリスの首相だったウィンストン・チャーチルもソ連を敵視していた。ドイツが降伏した頃、米英軍数十師団とドイツの10師団がソ連を奇襲攻撃するという「アンシンカブル作戦」を提案、軍に拒否されている。アメリカでは、1945年4月にフランクリン・ルーズベルト大統領が急死してから反ファシストから反コミュニストへ急旋回した。
2013.08.08
参議院議員になったばかりの山本太郎を攻撃する記事を週刊新潮が掲載した。週刊新潮を「信頼できる情報源」などと信じている人は少ないだろうが、山本太郎を攻撃したい人びとにとっては格好の材料になるとは言える。 今から16年前、女性に性的暴行を加えたという話なのだが、この話が本当ならば、原発推進派はもっと早い段階で使っていただろう。今頃、ということは、山本が議員になり、慌てているようにも思える。 10年ほど前から、支配層にとって都合の悪い言動をする人物が「迷惑防止条例」で逮捕され、有罪になる事件が目につくようになった。この種の事件では「推定有罪」、つまり無罪を証明しない限り有罪になってしまう。要するに、冤罪を量産することになる。山本の場合、これは使えなかった。 支配層の意向に逆らうと排除されることを示す事件には、福島県知事として原発に慎重な姿勢を見せていた佐藤栄佐久のケースも含まれている。佐藤栄佐久は水谷建設の絡んだスキャンダルで排除されたのだが、裁判を通じて事実上の冤罪だったことが明らかになった。 また、アメリカ支配層の思い通りに動かない小沢一郎は「水谷建設事件」、「西松建設事件」、「陸山会事件」で攻められたが、これも事実上、冤罪だったことが明確になっている。 元来、小沢はアメリカの支配層と友好的な関係にあった政治家だが、2000年代に入ると新自由主義から離れ始め、小泉純一郎と同じ強者総取りシステムを推進する岡田克也、前原誠司、菅直人とは別の道を歩み始めた。 新自由主義を推進する民主党には魅力がないわけで、2005年の衆議院選で惨敗、岡田は引責辞任する。その後任になった前原も基本的に同じ政策を採用するが、2006年3月には前原も失脚、4月に行われた民主党代表選で菅直人を破った小沢一郎が代表となる。 それから間もなく、週刊現代の6月3日号が小沢の政治資金管理団体「陸山会」が所有していると報告された不動産は登記簿上、小沢の所有になっていると批判する記事を掲載、スキャンダル攻勢が始まった。 しかし、小沢は翌年の参議院選挙で民主党を第1党に導いた。その後、新テロ特措法に反対するなどアメリカ支配層の意向に反する動きを見せる小沢を攻撃する新たな事態が生じる。2008年に東京地検特捜部が西松建設を家宅捜索、翌年には小沢の公設秘書が逮捕されたのである。小沢は代表を辞任、鳩山由紀夫が新代表になのだが、この鳩山に対してもマスコミは激しい攻撃を仕掛ける。 そして2010年9月、尖閣諸島の付近で操業していた中国の漁船を海上保安庁が「日中漁業協定」を無視する形で取り締まり、その際に漁船が巡視船に衝突してきたとして船長を逮捕したが、この逮捕劇の責任者は国土交通大臣だった前原誠司だ。中国は激しく反発、日中関係は緊迫するのだが、これは2011年の地震/原発事故で収まった。 この地震/事故の3日前、インディペンデンス紙は石原慎太郎のインタビュー記事を掲載している。外交力とは核兵器なのであり、核兵器を日本が持っていれば中国は尖閣諸島に手を出さないだろうと石原は発言したという。 2011年12月12日、野田佳彦首相(当時)が「発電所の事故そのものは収束に至ったと判断される」と事故の収束を宣言する4日前、尖閣諸島を公的な管理下に置いて自衛隊を常駐させ、軍事予算を大きく増やすとべきだと石原伸晃は「ハドソン研究所」で講演し、12年4月には石原慎太郎が「ヘリテージ財団」主催のシンポジウムで尖閣諸島の魚釣島、北小島、南児島を東京都が買い取る意向を示した。 女性問題を使った攻撃と言えば、ビル・クリントンのケースを忘れることはできない。1992年の大統領選ではジェームズ・マクドーガルなる人物の話に基づいて「ホワイト・ウォーター疑惑」が宣伝されはじめ、ケネス・スターが特別検察官に任命される。 このスターが切り札的に使っていた証人、ディビッド・ヘイルは架空融資で捜査の対象になっていた人物。窮地に陥ったヘイルは友人のアーカンソー州最高裁判事ジム・ジョンソンに連絡し、ランディ・コールマンが弁護士としてヘイルにつく。そして持ち出された話がホワイト・ウォータ疑惑だ。 ところが、1998年、インターネット・マガジンの「サロン」が検察側の偽証工作を暴露し、「ホワイト・ウォーター疑惑」は空中分解してしまう。そこで検察側は「セクハラ疑惑」に飛びつく。元アーカンソー州職員のポーラ・ジョーンズがクリントン大統領のセクシャル・ハラスメントを訴えたのだ。 この疑惑もすぐに崩れ去る。ジョーンズの話をアメリカン・スペクテイター誌で最初に書いたデイビッド・ブロックは、書いた記事の内容を間違い、あるいは誇張されていると1998年4月号のエスクワイアー誌に書いたのだ。 そうしたとき、ホワイトハウスで働いていたモニカ・ルウィンスキーなる女性のスキャンダルが浮上した。このケースで何とか検察側は面目を保った形になっている。 一連の反クリントン・キャンペーンで中心的な役割を果たしたと言われているのが大富豪のリチャード・メロン・スケイフ。メロン財閥の一員で、ニュート・ギングリッジと親しかった。スケイフはCIAと協力関係にあり、ヘリテージ財団やCSISなどのシンクタンクに多額の資金を提供してきたことでも世界的には有名。 内部告発支援グループ、ウィキリークスの「顔」として知られているジュリアン・アッサンジは「レイプ疑惑」で攻撃されている。2010年4月にウィキリークスはアメリカ軍のアパッチ・ヘリコプターが非武装の十数名を殺害する映像を公表、8月にスウェーデン検察がアッサンジを指名手配したのだ。 メディアに関する会議での講演をアッサンジに依頼したスタッフのひとり、アンナ・アーディンの訴えが始まり。コンドームを巡るトラブルだというのだが、その話もアッサンジ側は否定している。 アーディンはキューバの現体制に反対する活動家で、アメリカ政府から資金援助を受けている反カストロ/反コミュニストの団体と結びつき、CIA系の定期刊行物で、カストロを罵倒してきた人物。彼女のいとこ、マチアス・アーディンはスウェーデン軍の中佐で、アフガニスタンに派遣されたスウェーデン軍の副官を務めていたともいう。 また、ジョージ・W・ブッシュ政権で次席補佐官を務めたカール・ローブをスウェーデンのフレデリック・レインフェルト首相は2007年から顧問として雇っている。
2013.08.07
ローリングストーン誌で記事を発表していたジャーナリスト、マイケル・ヘイスティングスが「自動車暴走事故」で死亡したのは今年6月のことだった。ヘイスティングスは、アフガニスタン駐留米軍/ISAF(国際治安支援部隊)の司令官だったスタンリー・マクリスタル大将を退役に追い込む記事を書いたことで有名。 事故に関する情報をFBIが秘密にしていることもあり、事故直後から「暗殺説」が流れている。ジョージ・H・W・ブッシュ政権で対テロ治安グループを率い、国家安全保障会議にも出席していたリチャード・クラークは、自動車のコントロール・システムをハッキングすることは比較的容易だと指摘、ヘイスティングスが乗った乗用車がサイバー攻撃を受けたと考えても矛盾はないとしている。 ヘイスティングスの自動車が衝突する際の様子をカメラが撮影していたのだが、炎上の仕方が不自然だという指摘もあり、「暗殺説」は収まるどころか強まっている。 そうした中、マイケル・ヘイスティングスの未亡人、エリーズ・ジョーダンがCNNの番組に登場、にこやかな表情で「悲劇的な事故」だったと語った。 このジョーダン、興味深い経歴の持ち主だ。2008年から09年にかけて国家安全保障会議で働いていたほか、ホワイトハウス事務局、イラクのアメリカ大使館、アフガニスタンのカブールに本部があるISAFにもいて、コンドリーザ・ライス国務長官のスピーチライターだったこともあるようだ。その後、BBC、Fox、MSNBC、CNNなどメディアの世界で活動しているようだが、ジャーナリストの結婚相手としては問題があると言わざるをえない。
2013.08.06
原子力規制庁で東電福島第1原子力発電所事故対策室長を務める金城慎司にまで、東京電力は「危機感が希薄」で、彼らに任せておけない緊急事態だと言われる状況になっている。もっとも、危機感が希薄ということでは、政府、財界、マスコミ、学者、いずれにも当てはまることであり、その中には金城室長の同僚も含まれているが。 金城室長によると、東電が汚染水の流出を防ぐために設けた地中の遮水壁を上回った可能性があるという。汚染された地下水は「法的基準」を超えて海に流出している可能性が高く、東電の地下水くみ上げ計画は一時しのぎにすぎないとも述べたようだ。現在、汚染水を貯めているタンクや地下貯水槽がどの程度持つのかもわからない。 圧力容器の内部よりプラントの外の方が線量が高いとも伝えられているが、そうなると現場の作業は困難になってくる。メルトダウンした燃料棒は溶融し、周囲の装置などを溶かし込みながら下へ向かっているのだろうが、すでに格納容器やコンクリートを突き抜けて地中へ潜り込み、地下水を直接、汚染している可能性もある。放射性物質に汚染された「温泉」が地表へ出てくるかもしれない。 原発で「過酷事故」が起こったなら、手の打ちようがなくなるわけだが、それにしても東電や政府の対応はお粗末。幹部が無能だからという意見もあるようだが、単に無能なら外国の専門家などに助けを求めれば良いだけのこと。ところが、日本側は外部の人間を拒否してきた。 事故直後には、汚染水を海へ流さないため、巨大タンカーやバルク船に汚染水へ移し、それを柏崎刈羽原子力発電所廃液処理装置へ運んで処理するという案が日本国内でも出ていたが、政府も東電も無視する。最初から汚染水を海へ流すつもりだったのだろう。その行き着く先はカリフォルニア沖。 汚染水の問題以外でも、福島第一原発は「綱渡り」の状態が続いている。地震なり台風なりで建造物が損傷すれば日本が滅ぶだけでなく、太平洋の対岸にある国、アメリカも大きな影響を受けることになる。 にもかかわらず、2011年12月16日、野田佳彦首相(当時)は「発電所の事故そのものは収束に至ったと判断される」と事故収束を宣言した。事故に多少でも興味を持っていた人なら、収束からほど遠いことは知っていたが、マスコミはこのときも無責任な姿勢を維持、首相の宣言を信じた国民も少なくなかったようだ。絶望的な状況の中、「神風が吹いて勝つ」と信じたどこかの国の人びとと似ている。 ところが、そうした日本側の姿勢に好意的な姿勢を見せている人もいる。国際原子力協会やアメリカの国務省などだ。核エネルギーの利権で日本の「原子力村」とつながっている人たちだと言えるだろう。 今回、国際原子力協会も「我々は、日本政府の冷温停止に達したという宣言を歓迎する」と述べ、アメリカ国務省は「このニュースを聞いて嬉しく思います。収束に向けて日本政府は正しい選択をしてきていると理解しています」とコメントしたと伝えられている。彼らは、日本の生態系と引き替えにしても守らなければならない秘密があるのか、事情があるのか・・・ アメリカからの圧力もあって原発を再稼働させなければならないという焦り、外部の専門家が中へ入ると過去の悪事が露見してしまうという恐怖感はあるかもしれないが、東電の経営者に危機感と責任感はない。参議院選の後に発表すれば、原発推進派は痛手を被ることなく当選し、原発を再稼働させ、各国へ売れると計算したのかもしれないが、それほど甘い状況ではない。
2013.08.05
1945年8月、アメリカは2発の原子爆弾を日本へ落とした。まず6日にウラン235を使った「リトルボーイ」を広島市へ、また9日にはプルトニウム239を利用した「ファット・マン」を長崎市に投下した。 原爆は核分裂反応で放出されるエネルギーで建造物を破壊し、人間を含む動植物の命を奪うだけでなく、放射線による障害で中長期にわたって生態系へ影響を及ぼす。1945年12月末までに広島では約14万人、長崎では7万4000人程度が死亡したと言われているが、この数字は熱戦や急性障害の犠牲者であり、晩発性の障害や遺伝的な影響は含まれていない。 この年、2月にヤルタ会談が開かれ、ドイツ敗戦の90日以内にソ連は日本との戦争を始めなければならないことが決められた。その2カ月後、つまり4月にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が急死、ハリー・トルーマン副大統領が大統領へ昇格する。 1944年の大統領選でルーズベルトは勝利しているのだが、この段階で健康面に不安があると考える人は少なくなかった。第4期目を全うできないことも想定され、そうなると副大統領を誰にするかが大きな問題になる。そこで、ニューディール政策を継承するであろう反ファシスト派のヘンリー・ウォーレスを副大統領の座から引きずり下ろすべきだという意見がウォール街では強まる。そして選ばれたのがトルーマンだ。 トルーマンはミズリー州カンザスシティーを拠点とする政界の黒幕、トム・ペンダーガストの手下。そのペンダーガストは1939年に所得税法違反で有罪判決を受け、45年1月に死亡している。 ウォーレスは商務長官になるが、そのウォーレスをトルーマンは嫌い、1946年9月に商務長官を止めるように通告、政府から追い出している。 本ブログでは何度か指摘しているように、日本は1923年の関東大震災を契機にして、アメリカの巨大金融機関、JPモルガンの影響下に入った。JPモルガンの総帥、ジョン・ピアポント・モルガンの妻と親戚関係にあったジョセフ・グルーは1932年から41年まで駐日大使を務めているが、グルーの妻は大正天皇の妻、貞明皇后(九条節子)と子供の頃から親しいことも無視できない。 JPモルガンとルーズベルトが敵対関係にあり、1933年から34年にかけてモルガンを中心とする勢力が反ルーズベルトのクーデターを計画している。この動きは海兵隊の伝説的な軍人、スメドリー・バトラーが議会で証言、当然、記録に残っている。学者やメディアがこの問題に触れたがらない理由は言うまでもないだろう。 こうした関係を考えると1945年4月のルーズベルト急死は日本の支配層にとって朗報であったに違いない。アメリカの新政権は日本の支配システム(天皇制官僚国家)を護持してくれることが期待できるからだ。 しかし、ヤルタ会談の取り決めは生きている。ドイツが5月7日に降伏しているのでソ連は8月5日までに日本へ宣戦布告する義務があるのだが、ドイツ降伏の直後、イギリスのウィンストン・チャーチル首相は米英仏でソ連を奇襲攻撃するというプランを立てた。 これは軍の反対で実現せず、チャーチルは7月に首相の座を降りるのだが、その7月、アメリカでは「トリニティ実験」という人類初の核実験を成功させている。そしてトルーマン大統領は原爆投下を決定する。タイミングはソ連の対日参戦。 戦後、1949年に出された統合参謀本部の研究報告では70個の原爆をソ連の標的に落とすという内容が盛り込まれ、55年頃になると、アメリカが保有していた核兵器は2280発に膨らみ、57年になると軍の内部でソ連に対する先制核攻撃を準備しはじめる。アメリカは核兵器を「抑止力」ではなく、先制攻撃のために使おうとしていた。「核の傘」も幻影だということ。 1961年4月にCIAは亡命キューバ人を使ってキューバ侵攻を試みて失敗しているが、本来の計画では、その後、アメリカ軍が介入することになっていたようだ。これを阻止したのが大統領に就任して間もないジョン・F・ケネディ。 この侵攻作戦から3カ月後、軍や情報機関の幹部からソ連を攻撃する計画について説明をケネディ大統領は受けた。テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授(経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの息子)によると、1957年初頭にアメリカ軍はソ連に対する先制核攻撃の準備を開始したという。1963年の後半には先制攻撃に必要なICBMを準備できると見通していたようだ。 当時、ソ連は長距離の核弾頭輸送手段がなかった。中距離ミサイルでアメリカに対抗しなければならないということだ。そこで米ソ両国はキューバに目をつけたわけである。ソ連がキューバへミサイルを持ち込んだ理由はここにある。キューバを装って「テロ」を繰り返し、「旅客機撃墜」を演出するという偽旗作戦、ノースウッズ作戦をアメリカ軍が練り上げていたのもこの時期だ。 それに対し、ケネディ大統領はミサイル危機を話し合いで解決、1963年6月には、ソ連との平和共存を訴える「平和の戦略」と呼ばれる演説をアメリカン大学の卒業式で行っている。10月にはアメリカ軍のベトナムからの撤退を決断、そして11月22日にダラスで暗殺された。その20日前、シカゴでも暗殺計画があったのだが、これは事前に発覚して防がれていた。ちなみに、日本が核武装に向かって動き始めるのは、この頃からである。
2013.08.04
アメリカの国務省は8月2日、全世界のアメリカ国民に対して渡航警戒情報を出した。アル・カイダのメッセージを傍受した結果、今月、中東・北アフリカで攻撃を計画している可能性のあることがわかったという話だが、そのタイミングに苦笑している人は少なくない。その前日、ロシア政府がNSAの内部告発者、エドワード・スノーデンの一時亡命を認めていたからだ。 EUの場合、これまでの関係もあり、アメリカの希望通りに動いたが、中国やロシア、そしてラテン・アメリカ諸国もアメリカの脅しに屈していない。ネオコンのジョン・マケイン上院議員などはロシアへの制裁を主張しているが、実際のところアメリカに有効な対応策はなさそうだ。 アメリカ政府としては、「困ったときのアル・カイダ」なのだろうが、リビアやシリアでの体制転覆工作でアメリカ、イギリス、フランス、イスラエル、トルコ、サウジアラビア、カタールといった国々がアル・カイダと同盟関係にあることが白日の下にさらされてしまった。現在、シリアでも体制転覆を実現するため、アル・カイダを主力とする反政府軍への支援を公然と行っている。 アル・カイダを産み落としたのはアメリカの軍や情報機関。かつて、エジプトにあるアル・カイダの訓練施設でリーダーを務めていたシェイク・ナビル・ナイイムによると、シリアで活動しているアル・カイダ(アル・ヌスラ)のリーダーはCIAの工作員の可能性が高く、アル・カイダの幹部、アイマン・モハメド・アル・ザワヒリはアメリカの二重スパイだという。 例え、アル・カイダが何らかのアクションを起こしたとしても、裏でアメリカ政府との間で筋書きができているのではないか、という目で見られるだろう。すでにアメリカは何をやっても信じてもらえない状況の中にいる。
2013.08.03
NSAによる監視活動を内部告発したエドワード・スノーデンの一時亡命を認めたロシアに対し、アメリカ政府や一部議員が怒りの声を上げている。ホワイトハウスのジェイ・カーニー報道官はスノーデンについて、内部告発者でも反体制派でもなく、機密情報を漏らしたので告発されていると「説明」したようだが、何も言っていないに等しい。 内部告発とは、政府や企業が秘密裏に行っている不適切な行為を外部に伝えることであり、機密情報を明らかにすること。カーニー報道官は内部告発を認めないと言っているわけで、国民から知る権利を奪うという宣言だとも言える。 こうした反応に対し、ロシアは自分たちがアメリカに対して強制送還を要請し、拒否されたイリヤ・アーモドフやタマズ・ナルバンドフのケースを引き合いに出し、反論している。 アーモドフはソ連軍の元将校で、1990年代にチェチェンの武装グループに合流、シャミーリ・バサーエフと一緒に戦っていた人物。バサーエフはチェチェンで本格的な戦闘を始める前、アフガニスタンやパキスタンを訪問、1999年にチェチェンの武装グループを率いてダゲスタンに軍事侵攻している。その翌年、アル・カイダがチェチェン独立派との共闘を宣言、アル・カイダが戦闘員や資金を提供、チェチェン側はアフガニスタンでアル・カイダの訓練を行うという合意が成立したと伝えられている。その後、チェチェンをロシア軍が制圧、アーモドフは2003年にアメリカへ移住、翌年には亡命が認められた。 ナルバンドフはオセチア出身。2000年にアメリカへ渡って政治亡命を求め、2002年に許可された。彼はロシアで誘拐や強要の罪を犯した容疑がかけられていた人物で、2001年には国際手配されている。 このふたりはロシア絡みだが、それ以外にもアメリカが国際手配されている人物を亡命させ、強制送還を拒否している事例は少なくない。例えば、「CIAのテロリスト」と呼ばれたルイス・ポサダ・カリレス。キューバ生まれのベネズエラ人で、1963年から64年にかけてアメリカの特殊部隊が拠点を置くベニング基地でCIAから破壊活動などの訓練を受けている。 ベネズエラの情報機関で工作部門を率いた後、1976年10月6日にキューバの旅客機を爆破して73名を殺害した事件で名前が出てくる。爆破から数時間後にはトリニダード当局に逮捕されたふたりのベネズエラ人が、爆破工作はポサダ・カリレスとオルランド・ボッシュの命令だと証言したのだ。 ポサダらは10月14日にベネズエラのカラカスで逮捕され、起訴されたものの、1985年に脱獄に成功する。その直後、彼が会ったフェリックス・ロドリゲスはCIAのエージェントで、ジョージ・H・W・ブッシュと親しいことで有名。そして、ポサダはニカラグアの反革命ゲリラ「コントラ」を支援する秘密工作に参加する。 キューバ機爆破の直前、1976年9月にチリの元外相、オルランド・レテリエルがワシントンDCで暗殺されているのだが、この事件にポサダも参加していた疑いがもたれている。ちなみに、当時のCIA長官はジョージ・H・W・ブッシュ。 そのほか、ポサダは1994年にはキューバのフィデル・カストロの暗殺を企て、94年と95年にはホンジュラスで軍の右翼将校に協力して十数回の爆弾事件を起こし、97年にはキューバのホテルやレストラン、11カ所を爆破している。 1994年とは別のカストロ暗殺計画をパナマ当局が暴き、2000年11月にポサダは逮捕され、2004年4月に8年から9年の懲役が言い渡された。が、特赦になった。その翌年の3月にはメキシコ経由でアメリカへ不法入国し、アメリカへ「亡命」を求め、「自由の身」になった。 ボリビアの元大統領、ゴンサロ・サンチェス・デ・ロサダもアメリカの保護を受けている「お尋ね者」。2003年、彼の政策に対する抗議活動を暴力的に鎮圧しようと試み、合計すると約100名が殺されたようだ。 2003年にサンチェスはアメリカへ逃亡、その2年後にボリビア議会は彼を大量殺人容疑で起訴、アメリカに強制送還を求めたが、拒否されている。本人は現在、アメリカで優雅な生活を送っていると伝えられている。 最近では、イタリアからINTERPOLを通じて指名手配されていたロバート・セルドン・レディ元CIAミラノ支局長を保護している。7月17日にパナマ当局が逮捕したが、19日には釈放されてアメリカへ向かったという。イタリアへは引き渡されなかったということ。言うまでもなく、アメリカ政府が引き渡しを妨害したわけだ。 いわゆる「アラブの春」を欧米、湾岸産油国、イスラエルが仕掛けた理由のひとつは、中東や北アフリカでBRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)の影響力が強まり、自分たちの利権が揺らいでいることにある。スノーデンの一件で、BRICSの中心的な存在と言える中国とロシアがアメリカの思い通りに動かないことが再確認され、しかもアメリカが行ってきた不正行為も多くの人が知るようになった。 ロシアとアメリカとのやりとりを世界の人びとは注意深く見守っている。アメリカは支配システムを守るために強硬な姿勢を見せているが、強硬策を取れば取るほど信頼をなくし、世界で占める位置は低下するというジレンマに陥ってしまった。
2013.08.03
モンサントが開発した遺伝子組み換え(GM)作物で「想定外」のことが起こっているらしい。例えばネキリムシの駆除効果があるというBtコーンの耐性があるネキリムシが早くも出現、自然界で自生することはないとされていたGM小麦がオレゴン州で見つかっている。これが現在の「科学的知見」の実力だ。 自然界ではありえないGM種子をモンサントは商品化しているのだが、この種子が安全かどうかは不明。いや、危険性を指摘する研究もある。例えば、フランスのカーン大学の研究チームが200匹のラットを使い、ラットの寿命に合わせて2年間にわたる実験を行った結果、モンサントの遺伝子組み換えトウモロコシ「NK603」を食べたり、除草剤「ラウンドアップ」と接触したラットのグループに腫瘍を確認、臓器にもダメージが見られたという。 こうした腫瘍の多くは18カ月をすぎてから発見されているのだが、欧州食品安全機関に所属する委員会は2009年、90日間(3カ月間)のラット実験に基づいて「従来のトウモロコシと同様に安全」としていた。遺伝子を組み換えた種子の影響が現れる前に実験を終了させている疑いもあるだろう。そうでなけらば、国民の生命に関わる問題で、これほど短期間の実験しかしなかった理由がわからない。 よく知られているように、モンサントは1970年代まで化学会社だった。最初の商品は人工甘味料のサッカリンだったようだが、1940年代には核兵器開発プロジェクトのマンハッタン計画に参加、ベトナム戦争でアメリカ軍が使った枯れ葉剤のエージェント・オレンジを生産していたことでも有名だ。 1962年から71年にかけてアメリカ軍は約7600万リットルの枯れ葉剤を散布、赤十字の推計では、先天性障害を持つ15万人の新生児を含め、300万人のベトナム人が被害を受けたという。 PCBもモンサントの商品で、アメリカで使われていたPCBの99%は同社製だったという。PCBはその毒性が理由で1976年に禁止されるが、約40年にわたって同社のPCB工場はアラバマ州のアニストン・クリークへ廃液を垂れ流し、水がしみ出ているようなゴミ埋め立て地に数百万ポンド(1ポンド=0.454キログラム)のPCBを捨てていた。そうした行為が環境を破壊している事実を1960年代に同社は知っていたようだが、外部には秘密にしている。 こうした現実を考え、化学会社からアグリビジネスへ大きく舵を切る。この大転換を演出したのがベイン法律事務所。担当者は1977年に雇われたばかりのミット・ロムニー。当然、この若手弁護士もモンサントの暗部を知っていたはずだ。 昨年、そのロムニーは共和党の大統領候補に選ばれた。場合によっては、モンサントの旧友が大統領になるところだったわけだが、大統領選挙では現職のバラク・オバマが勝利する。 しかし、オバマ政権にもモンサントの人間が入り込んでいる。モンサントの元副社長、マイケル・テイラーが2009年にFDA(食品医薬品局)コミッショナーの上級アドバイサーとなり、10年には新設の副コミッショナーに就任したのだ。 政界に強力なネットワークを張り巡らせているモンサントだが、庶民からの批判は日に日に強まっている。そうした動きに対抗するためか、モンサントは批判派対策として、傭兵会社のアカデミ(かつてのブラックウォーター)のグループと契約したようで、南ドイツ新聞によると、アメリカ陸軍情報部からの協力を得ているという。ベトナム戦争で「枯れ葉剤」と称する化学兵器を供給した会社であるモンサント。軍とつながるのは自然だ。 そのモンサントが現在、浸食しようと狙っている国が日本。これまで輸入食品を規制してきたが、GM作物を使っているかどうかを表示できないようにするなど、TPPを利用して規制を外し、自社商品を売り込む下地を作ろうとするだろう。ヨーロッパに対してもGM作物を受け入れるように圧力を加えているが、日本よりも遙かに手強い。「市場拡大」はまず日本からということではないだろうか? モンサントの思惑通りに進んだなら、日本の農業が潰れるかどうかと言う問題ではすまなくなる。今後、百年単位で放射能と格闘しなければならない日本だが、そこにGM作物が入ってくるわけで、人間に何らかの悪い影響が出てきても、何が原因だかわからなくなりそうだ。
2013.08.01
「憲法はある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね。」と麻生太郎自民党副総裁兼財務相が語ったという。語った場所は櫻井よしこが理事長を務める「国家基本問題研究所」だそうだ。 どのような思想の持ち主であろうと、政治家なり経営者なり、世界を相手に仕事をしている、またはしようとしている人なら口にしない内容である。こんなことを口にすれば、敵に攻撃材料を与えるだけだからだ。 ナチは1932年7月に第1党となり、翌年1月にアドルフ・ヒトラーが首相になる。そして2月に国会議事堂が放火されるのだが、これを口実にしてコミュニストを非合法化、6月には社会民主党も解散させられた。国会議事堂はナチが放火した可能性が高く、これを麻生副総裁はまねるというなら、彼はテロリストだ。 この時代を表現したマルティン・ニーメラーの有名な詩がある。ニーメラーの詩にはいくつものバージョンがあるのだが、ここでは1976年版を引用する。************ナチがコミュニストに向かったとき、私は沈黙したままだった私はコミュニストではなかったから彼らが社会民主主義者を収監したとき、私は沈黙したままだった私は社会民主主義者ではなかったから彼らが労働組合員に向かったとき、私は声を上げなかった私は労働組合員ではなかったから彼らがユダヤ人に向かったとき、私は沈黙したままだった私はユダヤ人でなかったから彼らが私に向かってきたとき、声をあげる人は残されていなかった************ このほか、ナチは心身障害者も厳しく弾圧している。 ナチの台頭を資金面から支えていたのはドイツやアメリカの巨大資本だったことも、今では明らかになっている。アメリカからドイツへ資金を流すパイプを管理していたひとりが銀行家のジョージ・ハーバート・ウォーカー。その義理の息子がプレスコット・ブッシュであり、その息子がジョージ・H・W・ブッシュ、その息子がジョージ・W・ブッシュだ。 イギリス国王エドワード8世(後のウィンザー公爵)がナチのシンパだったことも有名な話。エドワード8世が結婚したアメリカ人女性、ウォリス・シンプソンは、ヨアヒム・フォン・リッペントロップ駐英ドイツ大使(後の外相)の愛人だったことも広く知られている。 麻生副総裁は意識していなかったのかもしれないが、アメリカの一部支配層は2001年9月11日の出来事を利用して憲法を機能停止させた。少なくとも結果として、クーデターを成功させたわけだ。ナチを持ち出すなら、ジョージ・W・ブッシュを持ち出すべきだったかもしれない。もっとも、これも公の場で口にしてはまずいが。
2013.08.01
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