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シューリーマンといえば、トロイを発掘した実業家として有名だが、エピソードに子供の頃、ホメロスの「イリアス」を読んで、大人になったら金持ちになってトロイを発掘すると誓いを立て、実現したという美談が有名であるが、子供の頃の日記にはまったくそんな話はでてこないそうである。資産を形成したのも、クリミア戦争でロシアに武器を売りまくったからであった。なんとなくがっかしな話である。有名な話であるが、精神分析医のフロイトはコカイン中毒で絶賛者であった。といっても当時はまだその副作用が問題視されてなかったので、単純にキムチイイ頭脳明晰になると喜んでいたのかもしれない。弊害が叫ばれるようになると、渋々過ちを認めたようだ。まあ、フロイトは嫁の妹と不倫関係を続けられた訳で、リビドー我慢できないよ~の人だったのであろう。三重苦のヘレンケラーは一生独身ではあったが、駆け落ちに失敗している。営業嫌がらせ戦略に「ヘレンケラー作戦」というのがあって、広告物のポスティング、次に電話、最後に訪問というあまり喜ばしくない手法がある。したくないしされたくないなあ。ナポレオンは「我輩の辞書に不可能はない」という名言があるが(私には「私は辞書を持っていない」という迷言があるが)彼はホルモン分泌が悪く、肌がすべすべで、体毛があまりなく、ペニスが3センチ程度だったという。(ちなみにそのペニスはロンドンでオークションにだされた)しかし短小とはいえ、英雄色を好むはちゃんと実践していて、遠征先であろうがあっちゃこっちゃで回数だけは重ねたそうである。妻のジェセフィーヌも遠征続きのナポレオン不在時にはやりたい放題だった模様である。ムッソリーニは香水過敏症で、臭うと失神することもあったそうである。戦場では、戦死した死体をみて嘔吐していたそうである。「5次元での方程式に公式は存在しない」ということを証明した若き天才数学者ガロアの物語の漫画を昔読んだことがあるが、高校を落第、フランス理系の最高峰エコールポリテークも2回受験失敗して、師範学校に行っている。あまりに優秀すぎて当時には誰も理解できず、恋愛のもつれで決闘を申し込み20歳で死亡。なんとなくかっちょいいのである。アルカポネは出獄後、大人しくなり、梅毒にもおかされ意味不明のまま、数年後、文無しのまま死んだという。ベッドで死ねただけましなのか。社会契約論で知られるフランス革命の思想的柱ルソーは、下宿先の無学な娘と同棲して5人の子供を産ませ、すべて施設送りにしているという鬼畜なこともしていて、「エミール」の教育論に矛盾していますなあ。(ちなみにむすんでひらいての歌はルソー作)そういえば、資本論のマルクスも自分の生活においてはまったく経済観念がなく、思想の実践とはかけはなれていた。女性にもだらしなく、貧乏生活の苦労をともにした妻がいるのに家政婦に子供を産ませて、友のエンゲルスが認知している。マルクスの生活を支え続けたのはエンゲルスであった。そういえばロシア革命の指導者レーニンもだらしない。流刑地で年上の革命家女性と結婚したが、パリで知り合った女性とも関係を持ち、どういうわけか3人仲良く暮らしていたという。まあ、喧嘩しなかったらいいか。
2005.02.28
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スーパーのレジカウンターに灰皿のようなものがあり、1セントとかが入っている。1セントのお釣りは要らない人はそこに置いていき、1セントだけ足りないという人がいたらそこから取るというシステム。 感想)会社のディスカウントショップにもこのシステムがあったが、営業時間も「だいたい10時から疲れるまで」と書かれていたせいか、残念ながら倒産してしまった。コンビニのドアにカラフルなテープが30センチ置きに貼ってある。泥棒がビデオに写った時に身長を割り出す為らしい。感想)日本もそうなっていくだろう。(一部郵便局はそうなっている模様)救急車は有料らしい。感想)日本も実際なかなか下らないことで救急車が呼ばれて困っているらしい。中には定期的に救急車を呼ぶのを趣味と化している輩もいる。まだ私は利用したことも、同乗したこともない健康優良児状態だ、あ、健康優良ヤサ男だ。21歳以下の車の免許証は横向きらしい。酒屋でID見せろといわれたらすぐ分かるかららしい。それから大抵の証明写真は上向き加減に笑顔だ。 感想)前のパスポート申請時も、笑顔で入国管の心証を良くするために満面笑顔で写真を出したのに、歯を出してはいけませんと硬いことを言われ、ガンとその写真採用を拒否された。仕方ないので、再度撮り直しに行き、国家権力に敢え無く屈したが、運転免許証は満面笑顔だ。多分、飲酒検問でも警察は見逃してくれるに違いない。墓地に向かう霊柩車(といっても普通車)とそれに続く車は信号無視してもいい。 感想)昔、バイクに凝っていた頃、ブイブイ言わせて走っていたら、救急車がサイレン鳴らしながら信号無視して右折していったがその後ろに何故か10台ぐらいの確信犯的愉快犯的バイクがその救急車にぴったりひっついて走っていた。若かった私も、思わず参加して、ぴったりその救急車について行った。いけない子ね。カープールというのがあって、渋滞の高速道路の一車線を、1台に3人以上とか4人以上乗っている車だけはこのレーンを使っても宜しいという制度がある。感想)確かインドネシアのジャカルタかシンガポールも朝の通勤時間は3人以上乗ってないと車に乗っちゃ駄目とかいうのがあって、メイドを乗せていくとかいう記事があったなあ。スクールバスが停まると、後続車は抜かしてはいけない(罰金)対向車も止まらなければならない。感想)学生時代は、たった駅から15分なのに、バスに乗っていく「ケッ、プチブル学生め」というセイガクが棲息していた。試験に遅れそうだったので、乗ったが、なかなかバスが発車せず(始発)、走った方が早かったというシーンもあり、「ケっ、本数の少ないバスめ」と心無いことも思った。アメリカの人口の半分ぐらいの犬や猫のペットがいるが、他人に噛み付いたら処分されてしまう恐れもある。感想)学生の時、一緒に歩いていたベロンベロンに酔っ払った後輩が通行人のかわいい子犬をいきなり蹴り上げた。良く見ると、連れている男性は明らかにスジモノの方で、後輩は有無を言わさず蹴り上げ、私は、意味もなく土下座した。 スーパーの一列にはエクスプレスレジがある。アメリカ人は1週間分ぐらい買い込む人も多く、レジ一人当たりが長かったりして、5~20アイテムぐらいの人はこっちに並んでくれという専門レジを設けていたりする。感想)これは是非、日本でもして欲しいところだ。まだまだ書くでえと思ったが、疲れてきたのでまた来年までには続編を書くつもりでいる。
2005.02.27
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デッキに二段式簡易ベッドを出来うる限り敷き詰めた船は、マニラ港から二十四時間かけてセブ湾内に入って来た。私は読みかけていた夏目漱石の「それから」から目を話し、陸地に見える椰子のジャングル群に目をやり、島の到着を称えた。時折、突然の煙を吐き出す工場の出現に辟易しながら、バナナの申し子が、一番安い船賃でまたここにやって来た。そういううちに、船は突堤に接岸した。明らかに過剰と思われる程のポーター達が我先にとロープを伝って船内に潜り込んで来る。生活が苦しいのか仕事着だからなのか、ポーター達のユニホームである番号の入ったシャツは全員のものが擦り切れ、穴だらけで、獲物を狙う目は貪欲なまでに光っていた。そして、相互生活の知恵かよっぽど安いのか、ほとんど荷物のない乗客もポーターに荷物を預けた。生きる仕組みと手段と少ない仕事を皆で分けるという知恵が少し見えた。ただ、それでも仕事にあぶれたポーターは焦燥した目であてもなくうろうろしていた。 私の荷物はデイパックひとつであったので、奮闘するポーターの横をすまなさそうに通り過ぎ、島の一歩を踏み込んだ。そう大きくない港には確かなる個性がある訳ではない。 一枚の住所を開ける。後ろを歩いていた男に住所を見せる。彼はそう急いでなかったので、方々歩き回ってくれる。といってもセブ市はそう小さな町でもない。二人とも一時間歩くと疲れて来た。「疲れたな。ひとつ冷たいビールでも飲まないか。君のおごりで」正直な男だと思った。そして私もアルコール体内注入時間が近づいたことを悟り始めた。そして、店に入り飲み続け、目的を忘れた頃、彼は「行こうか」といった。そして彼はある建物に連れていってくれた。「じゃあ、俺は行くよ。ここで待っていると迎えに来るよ」といい、彼は彼の道を歩き始めた。 二十歳。あまり分別のない季節。団塊の世代の汗と世界情勢にうまく乗った高度経済成長に金銭面において感謝し、浪費を許せと罪悪感もなくマンゴージュースを飲む。 夢に出てきた者に「タイムイズマネー」といわれ、がばっと起き、「時間も金換算なのか」と呟き、知らされていることしか知らないのだなと突然思い、侘びしい気分になる。五時間も昼寝をしていたようだ。 昨晩、いつのまにかラヂオ局に連れていかれ、FM放送で呼びかけしてもらったことを思い出した。ラヂオ局の前で待っていると、ジープが颯爽とやってきた。美女と美男子が乗っていた。尋ね人の遠い親戚のようであった。取り敢えず、よく分からないうちにYMCAに送ってもらったのだ。 職業は医者であった。「インテリなのか?」と聞くと、「ちょっとね」とウインクされた。 街の中心にあるバンドのある店に飲みに行く。そこのウエイトレスの目線がセクシーであり、日本の恋人並接近度で話し掛けてくるのが嬉し恥ずかしい。ウエイトレスのノルマの乗せられ、バンドマンが飲み客に紹介するものだから十分に酔ってしまう。5リットルを越えた。 暗い道を滑稽踊りをしながら歩いていた。 いきなり闇から出てきた三人組に羽交い締めにされた。「オー。フレンド」と私は間抜けにも行った。腹を何度か強力パンチ。恐怖の戦慄。酔っていたので痛くはなかったが、「しまった、ついつい日本みたいなノリをしてしまっていた」と後悔し、ボトル十八本分の酔いは一気に覚醒した。「ちょっと待ってくれ。すまん、英語で喋ってくれ。後ろから友達がすぐ来るんだ」とでまかせを行った。ホールドアッパー三人組は外国人であったことに、一瞬驚いたようだ。英語で質問をしてきた。「それで、後から来る奴の名前は何というのだ」呆気にとられた自分が間抜けな質問をしたに気が付いたようだ。そして、私はその言葉に多少落ち着きを取り戻し、即座に適当な名前を五人挙げた。煙につつまれたような顔をした三人の緩んだ腕をふりほどき、一目散で逃走。おそらく高校陸上競技部現役の時よりも速く。 ホテル。頭の中と天井扇風機はくるくる同じ速度で回る。あれを期に友達になりビールの一杯でもおごってやればよかったと少し思う。ロマンスはいずこ。分別は後日。
2005.02.26
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青くハルマゲドンがあると突拍子もないことを騒ぎ立てたカルトを笑うのはいいが、処女で子供を産むというのも突拍子もないことではないか。 宗教はあくまで、精神の問題で、ひたすら信じることではないのか。物質とは相反するものなのに、何故物質化するのだろうか。 まあ、それでも手品師サイババのファンではある。やはりナニか見せないと人は集まらないのか。何故ファンかと言うと、方法は何にせよ無料の学校や病院を寄付金によって建てているからである。 まあそもそも、何故人を集めないといけないのか?信じることと関係あるのかが分からない。 先日余興で「下妻物語」DVDを見たが、思わず楽しめた。深田恭子が飛行機に乗った時、「うどんとサンドイッチどちらにされますか」と聞かれて「きょうこうどんたべられない~」と叫んだらしい。何だか、あの映画地でいってる訳?トホホ。 かつて、大阪ゲイエリア梅田堂山に住んでいたが、東京も新宿4丁目以外にも、オッサンゲイの集まる上野以外にも、若者ゲイの集まるのが蒲田と聞いた。ほんと? 日本は昔から外国崇拝が好きだったんだなあ。中国の超大国隋には遣隋使、たった2代で終わってもなんのその、すぐに遣唐使を送った訳で、漢文を勉強しまくって、その後16世紀になって西洋文化がちょっと入ってくるようになっても、なんのその、一部分野を除き、無視。まあ、儒教は勉強しまくっても、中国文化のうち科挙と宦官を輸入しなかったのはちょと良かったなあ。(良かったんかな?) その後オランダが入ってきたが、オランダ語訳は漢文であって、オランダ語を駆使する日本人インテリは当然漢文ができた。しかし、その後アヘン戦争の頃から中国はボロボロにやられ、ペリー黒舟が日本を犯しに来て、一発で犯されてしまった後は、あっという間に崇拝先を欧米にチェンジー。その後、うまく陸軍に医学はドイツ、鉄道と海軍はイギリス、美術はフランスといいとこつまみ食いして、あれよあれよという間にアジア唯一の重工業国家になっていった訳だよね。まねしまねしといわれても、これはなかなか独創的なことである。おかしくなったのは戦争からであり、けちょんけちょんにやられた後は、アメリカとソ連という相反する主義の国を崇拝するようになった。勿論、昨日まで鬼畜米英っていってたのに、戦争に負けてちっとも暴動が起こらなかった変わり身の早さはいやはやものである。アメリカは節約でなく消費が美徳であり、古いものは悪いということを教えてくれ、ソ連はすべてお国がやってくれるから何も考えんでよいということを教えてくれた。今どちらも破状し始め、新しい崇拝先が望まれるところなのだ!嗚呼!祈り
2005.02.25
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フィリピンを走る米軍ジープ等の払い下げを発祥とするジプニー(単純にジープと庶民は呼ぶ)が隈なく走っている。通常は短い区間をどこからでも乗れどこでも降りることができる便利な乗り物だ。運転手は大抵凶暴である。1. 行き先は、フロントに掲げられた行き先を見るが、これがまた小さく通になるか動体視力を鍛えなければなかなか見ることができない。車の横にもペイントしている。2. 手を挙げて、運転手にメンチをきる。満員でも乗せようと努力はしてくれる。3. 後ろから乗り込む。運転手の横も2席座れ、空いていればそちらに乗り込んだほうが景色が見える。後ろは、長いすの向かい合い席で外の様子が分かりにくい。込んでいても、どんどん詰めてくれる。4. 「バヤッド」と言って、お金を運転手に渡す。一人なら「イサ」二人なら「ダラワ」という。離れていても、途中の人が中継して払ってくれるので、手の届く乗客に渡せばよい。バケツリレー方式だ。お釣りがあれば、またリレーで返ってくる。くすねる奴はいない。いないが、字部に害の運転手と乗客が全員泥棒ってのはある。実際、恐喝された人がいた。動く蜘蛛の糸というか動くあり地獄である。5. 降りたい場所が来たら、これが難しいのだが、口で「プスッ、プスッ」というと停めてくれる。そんな吃音は出せない。或いは、屋根をコンコン叩くか、「パラー」と叫ぶと停めてくれる。もたもたしているとすぐ発車するし、交差点以外なら好き放題停めてくれるのが便利だ。6. フィリピン人は常夏だからといって暑さに鍛えられて訳ではなく、怠け者が特に男性の怠け者が95パーセントぐらいを占めるので、ほんの100メートルでもジープに乗る人がたくさんいる。勿論、ポケットにほとんど金がなくても乗る。家に帰っても金がなくても乗る。また乗る時も、5メートル手前で誰かが乗っても、そこまで歩かず、自分の目の前でまた停めさせる。勿論、降りるときも同じだ。おかげで歩いた方が早いという場合もあるが、歩くよりはましらしい。7. 運転手も乗客がいてもすぐにガソリンを入れる。たいていはジープをオーナーから借りているので、ほんの少ししか入れない。ほんの少しかどうかは見ていないと分らない、何せ計器類はすべて壊れているのが通常だから。あ、カーステレオだけ動いているのはある。8. アジアの法則に漏れず、クラクションはならしまくるし、当然、優先は勇気ある車順で、ボンネットの先をちょっとでも入れた方が優先だ。少しでも隙間があれば、ちゃんと前に突っ込んでいく。9. これぞアジアというほど派手であったが年々そうでもなくなってきている模様。10. ままこんな感じあるいは ままこんな感じそれかままこんな感じそれからこんな感じあと中はこんな感じ
2005.02.24
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考えてみれば、家族全員で写っている写真は中学校2年生の時に旅行に出かけた時に撮ったものが1枚あるだけだ。大昔は、写真が貴重だったなあ。以前、友達の子供が産まれる中で、お腹の中を動いているのを撮った映像や、生まれてから1分後2分後と分刻みでその日だけでも100枚ぐらい撮りデジカメに収めている光景を見て、時代は変わったなあという印象を受けた。 私の父は、中卒の鉄工所勤務であったが、会社だけは日本で3番目ぐらいには大きかったので福利厚生施設がしっかりしており、保養施設にちょこちょこ連れていってもらった記憶がある。今日、パンフレットを眺めていて急遽思い出したのである。 中学校2年の夏には車山高原の保養所に連れて行ってもらった。思春期なので、なかなか反抗的な時期ではあった。ニッコウキスゲが高原一面に咲き乱れて美しいよ、ビーナスライン!って印象の他に思い出すことといえば・・・1. 保養所の食堂で母は、「ほれビール飲んでみなさいよ。私なんかあんたぐらいのとき飲んでいたで」と法律違反的なことを言ったが、私は、一応、一口飲んでみたが、ニガイという印象しか持てず、将来のん兵衛になる前兆の微塵もみせないという優等生ブリであった。(ちなみに法律通り、酒は高校生から、煙草は大学生からであった)2. 帰りの車の中で、夜中になり、後部座席において、土曜の夜に欠かさず聞いていたツルコーのオールナイトニッポンをイヤホンを使用して聞いており、一人大爆笑して、親に怪訝な顔をされたのでイヤホンを外すと、車のラジオも同じ番組を流していた。3. 尾瀬の湿原に行って、歩行用の板からはみ出て監視員に怒られた。4. 上高地で唯一の家族写真をタクシーの運転手に撮ってもらった。まあ、そんなとこか。
2005.02.23
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その時、プラハからアムステルダムに飛んできて、早速、ガンガンにきめて、遠い親戚の働く一流ホテル内にある日本料理店にいった。彼は、日本のあるレストランでバイトしていたのだが、その学歴(いつまでたっても卒業できないので、これを期に辞めてしまった)を買われてか、オランダ勤務を命じられたのであった。 純日本風になった部屋の中で、日本酒を飲んでテンプラを食べていると全くここがアムステルダムとは分からない状態だ。 ゆっくり出てくるコースを一人で食べ終えた後、仕事を終えた彼と店を出て、早速、どこか案内しましょうということになった。 彼は、ゆっくり考えたふりをしたが、やがて、1件のショーをしている店に入った。いかにも考えたふりをしたが、入口の用心棒に笑顔で声を掛けられたのを私は見逃さなかった。 ショーは、はっきりいってセックスショーであった。それも何かコメディーの入ったショーで、どう考えても、運動である。何故か私は、腰を振る回数を意味なく数えていた。ふと隣の彼を見ても、真面目な顔をしながらちょっぴり笑顔であった。私は、体位を変える度に、1,2,3,4とまた意味なく数えるのであった。 その後、彼とは、タクシーに乗り、ダム広場近くから離れ、アールヌーボーで飾られたアメリカンカフェへ。 ビザのないクロアチア人女性と交際している彼の話をいろいろ聞いた。日本を見せたいと力説していた。その後、彼と日本で数時間だけ会ったが、彼女の話をすることはなかった。
2005.02.22
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今日は一大決心をして古本屋を2区に渡って制覇することにした。急いでネット検索(電話帳検索)して、愛車のイグニッションキーを回し、時速30キロでぶっぱなし、小さい書店達を探し始めたが、7件中7件が日曜閉店のやる気なしで、気持ちも少し萎えた。いつもの比較的大型店舗3つを回り、帰りに世界のビールを取り揃えたお気に入りの酒屋に行ってみると潰れていた。WAVE-Gさんの店舗の前も通り、挨拶のひとつでもかまそうと思ったが、本名を知らないことに気がつき、私も「ドイモイっつう者ですが、爺さんいますか?」という台詞を少しは思ったものの、リニューアルオープンで別の店かなとも思い、思いとどまってしまった小心者であった。 変わりゆく風景の中で、前にフェラーリが走っていて鬱陶しいなあと思いながらも、何故だか中国の列車のことを思い出していた。 上海を夜中23時頃に出発した列車は満員であった。私が調べたことによると、翌日の16時、つまり16時間後には目的地に着くと思っていた。この満員電車であろうと、この硬座シートであろうと、食糧は車内販売がきっとあるからそこで調達するであろうと、楽観視しながら、土砂降りの中、列車は出発した。 途中でどんどん人は降りていき、各車両についているお湯タンクからお茶を作る以外に食い物の車内販売はないまま、お尻が割れそうになりつつも16時になり、そろそろ降りる準備をしたのだが、列車は一向に停まる気配がなかった。中国なので、2,3時間は遅れてアタリマエなどと再び楽観モードに入っていた。やがて悲しき夜を迎え、どうやら列車は多分、6時間ぐらい遅れているのであろうと、少し焦りモードに入ったのであった。 さらに悲しき朝を迎え、私の空腹は限界に近くなりつつも、どうやら列車は12時間ぐらい遅れているのであろうと、随分焦りモードに入った訳であった。 ついに悲しき昼を迎え、私の前にいた乗客からパンを恵んでもらい、停まった駅で売っていたスイカを求め空腹を満たしたが、もうどうでもいいモードに入っていた。 地獄の果てまで連れてって、と口ずさんでいた16時に終点に着いた。ああ、なーんだ16時間でなく40時間だったのね、と私はやっと納得したのであった。 野暮でノロマな私も、今も変わらないのだなあ、と思って我に返ったら、信号待ちをしていた前のフェラーリは既にいなかったのであった。
2005.02.21
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メンタルマネジメントの考え方は、オリンピック金メダリストであるラニーバッシャムという射撃の選手が提唱したものでした。今でこそ、どんなスポーツでもイメージトレーニングは当り前ですが、その当時は、そういうものはありませんでした。 当時金メダルは確実視されていたのに、取れなかった彼は、何故なのか、片っ端から金メダルを取った人々に、朝起きた時何を考えているか、競技に臨む時、金メダルを取る瞬間など、いつも何を考えているのか聞き取り調査を行ったのです。 その結果、全員が全員、同じことを考えていることが分かったのです。それを系統立て成功の法則を打ち立てたのが、彼であり、その後、彼の教え子からも金メダルを続出させたのでした。 私が、話せば凡そ2年はかかるので、ここは憶えていることをメモ書きしよう。精神には3つあるという。1. 意識・・・考えている状態。意識して行動する状態。パソコンで言えば、キーボードを見ながら打っている。車の運転でいえば、自動車学校に入学して、クラッチを動かし、ミラーを見るとか、ハンドルをこんなけ回すとか意識している状態。同時に同じことを考えることができない状態。2. 下意識・・・考えなくてもできる、力の抜けた状態。パソコンで言えば、ブラインドタッチできる状態。通常の車の運転、いちいち、アクセルがどうのウインカーがどうのと考えなくてもスムーズに運転できる状態。朝、意識しなくても歯ブラシを持って磨いている状態。好むと好まざると自分の方向に動かすことができる状態。3. セルフイメージ・・・自分自身のイメージ。人は、自分の快適ゾーンを持っている。例えば、年収1億円の人々の集まりに自分が入ったら、居心地が悪い。ゴルフもボーリングもおおよそ自分のスコアを知っており、始め調子よくてもがたがたになるし、はじめメロメロでも最後に調子をあげてきて、結局は自分の平均スコアに終わることが多い。髪形から服装など、自分らしさを勝手に規定している。セルフイメージを変えると自分が変わる。できている自分をやりたい自分を叩き込む。潜水艦でいえば、意識は海からでている潜望鏡、下意識はエンジン、セルフイメージが舵である。疲れてきたので、ネットで探すと、まあまあのがでてきたので参照下さいませ!
2005.02.20
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今日、飲みに行った取引先の人は、釣りが趣味で淡路島南端によく休日の早朝に行くという。 淡路島の首都、洲本から南に下った所に淡路島から5キロの沖合いに沼島(ぬしま)という島がある。おのころ神社などがあり、イザナギイザナミが祭られている、古事記にもでてくる日本最古の島などと言われている。周囲10キロの島には300人弱の人々が暮らしている。驚くべきことに、漁業専門のこの島は、嫁不足に悩んでいるのだが、世帯年収が軒並み1000万円を超える人々ばかりが住んでいる。 そんなことを思い出しながら、また、姫路沖合い20キロ程の家島のことも思い出していた。その島に住んでいる人々も漁業と石材で財をなしている人々も多く、特に、関西国際空港の時は大もうけしたという。姫路に飲みにいっては、船がなくなり、すぐ姫路市内になるセカンドハウスに泊るという。私も、ここの採掘権を持った住民のおっさんと話したおとがあるが、姫路市内にちゃんとマンションを持っていたのだが、「おお、そういえば2,3回泊ったことがあるよ」と涼しい顔をして言っていた。 家島でブラブラしていると、ガイキチのばあさんに大声で「この島に何しに来た!この○○人め!」と怒鳴られたことがあったなあと思い出していた。
2005.02.19
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1世代150万人、いったい何番目のテンションだろう。評論家には何をいわれてもいい。小学校の時代は長かった。好奇心が旺盛だったから。変化があったから。満員電車、気絶している瞬間。二宮金次郎、薪を背負って本を読む。もっと貧乏は両手にも薪を持たされる。先見性資金力政治力人材世の中の情報は確認できないことだらけなのに選択するしかない。やるの3原則、すぐやる、できるまでやる、必ずやる。 昔、土木工事のバイトをした。これがいいのは、世の中に残るということだ。ある晩の10時に小学校前に集合した。舗装道路に、グリーンベルトを上塗りする仕事だった。あれよあれよといううちに夜中の3時には仕事が終了した。その場で監督から6000円を貰った。原付き飛ばして帰った。 数年後、その学校の前を通った。道が緑色だった。「俺が一部を敷いたんだ」と思うと、何だか嬉しかった。
2005.02.18
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京都議定書が本日施行された。二酸化炭素を14パーセントも減らさなければならないらしい。それにしても、アメリカ合州国というのは、ガンとして反対していてエゴ丸出しだし、ロシアが急遽批准したから施行に至ったのであるが、ロシアは、あの90年の混乱期以下に濃度を下げなければならないといいながら、今は既に自然にその濃度以下になっていて、環境儲けビジネス丸出しなのが、エゴ丸出しである。ツバルやモルジブ、そしてオランダなどの国家がなくなっていくかも知れないというのに、だ。 私は、豆まきのまめが何故か結構好物なので、節分が終わって、売れ残りが出たら、箱ごと買って毎日食べていたりする。これもそれも京都、二条の鴨川にかかる橋西詰の豆屋の豆が美味かったからだ。売れ残りの豆は一袋50円ぐらいなのに、丹精込めて作られたこの豆は500円だ。それでも、買ってしまう悲しさよ。 昨日の話の続きではないが、こんな話を思い出した。いくらカールルイスといえ、オリンピックで金メダルを取ることは難しい。しかし、カールルイスは、次のオリンピックでまず何を決めたか「ゴールドメダルを取ることをまず決めた」のだそうだ。そのためのタイム等を想定、それを4年で割り、毎年いくらづつ調整、記録を上げていくか、どんどん逆算し、そして、1日1日のメニューを4年分作ったという。勿論、メニュー通りにこなし、記録があがっていく訳でもないので、修正修正を日々重ね、最後には帳尻を合わせたのである。だから、金を取ったのは予定通りのことであったのだった。メンタルマネージメントしてる?
2005.02.17
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全世界の若者達へ。老婆心ながらヤクに立たないアドバイス。大学受験が終わってから、人生倍の時間が過ぎ去ろうとするというのに、未だ、塾へ行く夢や受験勉強をする夢に時々悩まされています。我、未だ山麓にあり状態で、「長いこと学校に行ってなかったけど、もう数式忘れてしまったわああああ、どないしょ」と焦りマクっているところで、夢から目覚めてしまうことも時々あります。勿論、空中を飛んだり、刃物で刺されたり、亡霊に追いかけられたりする夢も未だちゃんとみています。 今世紀最大の発見のひとつとされる、(豊かな社会の中で)「思いは叶う」ということは、真実です。1年後5年後10年後の自分はこうなりたいと思った人は、そうなっています。実は、思いは強くなくても叶っているのです。「今のままでいいや」とか「特に何も考えていない」という状態でも、ちゃんと、数年後には、今のままで(或いはそれ以下に)いるし、何も考えていないままちゃんと、実現しているのです。「こんな自分じゃなかった」「本当の自分はこうじゃないんだ」と思っているとしても、ちゃんとこんな自分じゃない自分を自己実現しているし、本当の自分はこうじゃない!と思っている自分を実践しているのです。こうはなりたくない自分にちゃんとなっているのです、マイナスであろうが思いは勝手に叶っているのです。満足とか幸福とは別問題なのです。 合唱、チーン。
2005.02.16
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今日は珍しく、自宅を鋭く探求した。改めてゴミクズの中で暮らしているのを実感し、猛省するふりをしながら、克己し精進するのであった。部屋には常に明るい憂愁が流れていた。旅人は、こっと、ここでゆっくり煙草をくゆらしながら思索に耽り、小便をしていくことだろう。1. ガムテープ。意味なく数本あるということは、多分、意味がないのであろう。意味なく個数があるのは、他に(以前にも紹介したが)スリッパ30足にパイプイス9脚である。詮索は止めて欲しい、ただそこにあるのだ。2. 透明系体重計。2年ほど前に20年ぐらい変わらなかった体重が煙草を止めた瞬間に10キロ増えたので、体調が悪く、血めぐりも悪くなり、腸の吸収力も異常に上がった為以前程食べなくてもよくなってしまった。健康増進の為、来年ぐらいからまた煙草を再開しようかとも多少思っているぐらいだ。ちなみのこの体重計は単なるオブジェとして使用しているため、まだ乗ったことはない。もう埃だらけで、足が汚れるのでなおさら乗る気もしない。3. インドで買った腰巻(ルンギー)今は、埃対策ハンガーの上掛け(夏は腰巻として使用)インド人って座っておしっこするんだなあ。4. チェコビール元祖ブドワイザーあああ(中身空)。私の思うところ、チェコビールはピルスナーで最高だ!さすがに国民一人当たりのビール消費量世界ナンバーワンというのは分かる。5. 倉敷の大原美術館で購入したムンクの「マドンナ」ポスター。5枚有。6. 吉野家のノベルティ、「ザ・ユノミ」あれこれ吉野家がブタドンになってから行ったことはない。早い安いうまいクズ肉の吉野家、1年に3回は突然行きたくなるジャンクフードである。先日1日だけ牛丼フェアしていて、明石市では売り切れに怒った客が暴れて殺傷事件を起こしたが、気持ちは分からなくもない。7. パリのサンジェルマンデプレで買った「カフェフローラ」で買ったデキャンタ。実際は、ボトルを開けると1本最後まで飲むので、意味がないことが判明。花瓶に転用するか日夜鋭意検討中。8. タイグリーンカレーペースト。(中身腐敗済み) 9. シアトルスターバックス1号店で買ったマグカップ、早く洗わなくっちゃ。10. メンズグルーミングキット。鼻毛専用電動剃り器もある。しかしまだ使用していない。
2005.02.15
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昨日の追記ですが、阪神淡路大震災の時にいの一番に支援物資を贈ってくれた国は、モンゴルでした。そのモンゴルへのODAは50億円、中国といえば、もうそれはそれは。1600億円。 私の仕事は、散歩なのであるが、これではなかなか食えない。今の所、本業での仕事の収入は0なので、サイドビジネスとして勤め人その他もろもろをしている。(もろもろの1種に楽天オークションがあるが、今の所収入は300円だ。ヤフーオーションではもう少しだけお金になった) 今日は、本業の散歩を自宅近くで行ったので、風景の説明を全世界の人(対外発表・実質数人)に向けて発信する。1. 旧住友財閥本宅跡に建ったその年の関西供給されたマンションの中で最も坪当たり単価の高かったけしからんマンション 2. 1のマンションの横に建ったその年の関西供給されたマンションの中で最も坪当たり単価の高かったけしからんマンション 3. 駅前に建つタワーマンション。横に区役所、下にポルシェが入っているけしからんマンション 4. 人工島の六甲アイランドの埠頭にあるものが見える。 5. 本土と人工島を結ぶ橋 6. 阪急電車鉄橋 7. 以前にも紹介したバブルの塔 オール億ションだったマンション。今は中古で3000万円台からもあるが、管理費が10万円以上・・・けしからん・・・8. まあ、今日は偉そうに川沿いを散歩 9. 何だっけ。これ。
2005.02.14
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どうも隠すことではないのだが、私が海外からの来訪や地方(東京含む)からの知人の来訪があって、神戸をやむなく案内するとすれば、バーとか居酒屋とかスナックとか飲み屋とか各国料理店とか飲み屋ぐらいしか案内する所はないのであるが、昼間から案内しろと言われれば、酒の飲めるカフェとか、昼間から飲める居酒屋とかバーとかを案内することになるだろうが、多分、一昨年オープンした「人と防災未来センター」に案内するかも知れない。 知らないうちにではあるが、修学旅行に京阪神を訪れる際の神戸の訪問先の定番になっているそうなのだ。長崎広島行った時の原爆記念館さながらである。 建物は、安藤忠雄設計の兵庫近代美術館の隣にあることも意識しているのか、でかい設計会社に依頼した近代的な建物になっている。 何で、そんなに金かけやがるんだよー、と文句の3つぐらいはいいたくなるが、そこはぐっと胸の内に秘めてもらうしか仕方ない。 入ると、地震の起こった時刻で淡路から伊丹までの崩れていく建物の再現映画と、お姉さんとお父さんの会社を失った子供の追憶シーン映画が流れ、どうも感動にもっていこうとするちょっとムムムという洗礼を受けるが、当事者としては涙腺ウルルものになってしまうのがちょいと腹立たしく照れる。 その後、映像や体感できる資料館にいくが、なかなか膨大にあるので、ひとつひとつ見ていると、なかなか時間がかかる。(私の時も他の人は誰もいなくなってしまった) もう少し英語の案内も欲しいところだが、膨大な文字を使って未来館の説明をしてしまった。ちなみに、すぐ横に「山田電機」があるので、多分駐車料金無料なので、美術館やここに車で行くとここに駐車すればよいという庶民の知恵をさずけつつ筆を置く(っていうかキーを叩くのを終了する)
2005.02.13
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以前、京都駅の裏で肉の煮込みを食べた。戦後の闇市の名残のような食べ物であった。店主の動作を見ていると、ドロリと濁り切った大ナベを盛んにお玉で忙しそうに混ぜ合わせている。メニューはそれしかなく、そのナベの中身は入れ替え、付け足し、戦後60年ナベ洗ってません、という按配であった。それが歴史の重みと旨みを兼ね備えているようだ。 隣の競馬新聞を広げた壊れかけの親父が、コップ酒をあおりながら、またお代わりする。「底のほう!」鍛えられた聖なる胃袋なのであろう。壁には「サルベージ」とだけ書かれた張り紙があり、多分、それがこのナベの名前なのであろう。私も、アジアの屋台で鍛えた胃をもってして、挑戦したのであるが、目ためのは平気でも、油ギッシュな食べ物に、うーん、と唸る。年とったかなと思う瞬間。 脳は意識せよ無意識にせよ、膨大な事象を断片的に何かに結び付けて記憶させていき、無数の引き出しから出し入れしている。 18歳、初めての海外旅行で、訳の分からないぶっこみご飯を食べた。そぐ外では、エンジンのほぼほぼいかれたバイクの爆音と規制のへったくれもない排気ガスの中で、白い服も出歩くと数十秒で黒ずんでしまいような高校生女子の群れ。黒いテーブルが急に白くなるのは蝿が飛んで行ったせい。しわくちゃのばあさんが口の中にマリファナステックをうまく出し入れしている姿。スラムの子供がコレラなのか、米の研ぎ汁状の排泄をしている様子。 そんな光景が、サルベージを食べながら思い出された。想い出は誇張されて記憶され歪められていくものだ。多分、カトリック系の高校生はハンカチで口を押さえて排気ガスを少しでも避けていただろうが、白い制服を黒くすいるまででもなかっただろう。多分、机の上にいた蝿は十数匹に過ぎなかったであろう。多分、ばあさんはギリギリまで吸っていたに過ぎなかったのであろう。多分、子供は腹をこわしていただけなのかも知れない。ヤミ市 幻のガイドブック(ちくま新書)なかなか面白かったなあ
2005.02.12
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ボンベイロンドンを散歩する。 公衆トイレの掃除人。薄暗いトイレ内の片隅に三人の男が向かい合い中座になって飯を食っていた。トイレの中で生活しているのだろうか。太陽の日を浴びることがないのだろうか。、何故外で飯を食わないのか。終末感をださなくてもいいではないか、こちらも気が滅入ってくるではないか、と思わずには折れない。 時間の存在というものが分からなくなってくる。狂気、あるいは非日常を柔らかく体験するだけでも、正気が何たるか少し感じることができる。 小奇麗な格好をしたおじさん、抱えていたアタッシュケースをおもむろに開けると、ケースいっぱいの大きさの体重計。通りに置き、道に座り、不動。三十分経過。客はない。信じているものが通らない。通らない。 足のない売人。スケボーに乗って移動する。彼は、西洋人とヘロインの価格の折り合いが付かなかったようだ。散々文句をたれた売人は、西洋人に張り手を食らい、スケボーごと吹っ飛んだ。西洋人は去り、罵声を浴びせながらスケボー台車を転がしていく売人。アスファルトをガガガガーと転がしていく音を残して、ジャンキーを追う。 部屋では、隣室で黒人が口笛を吹く。多少インド音楽の影響を受けている。カラスが同調する。
2005.02.11
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「今日の仕事も辛かった」と山谷ブルースを口ずさみながら(翻訳:「メシ食うことと帰ること以外にも考えろ」と会社からはクレームされているが)、駅に立つと、人身事故で列車は1時間ばかり止まっている模様。そこに、残念ながら持っているとかかってくる携帯電話。緊急事態発生で、急いで、エグゼクティブなので(本訳:電車が止まっているので)タクシーに乗り込み、8000万円をかけ(翻訳:8250円)出先事務所に向かった。雨の降る中、緊急事態をテキパキと処理する。私しか能力を発揮することのできない複雑で困難な仕事をおおよそ5秒でかたずけ(翻訳:電話の内容は「事務所にいるのですが、鍵がなくて帰れません」という無理難題なお助け電話であった)、しっかり戸締りをし(翻訳:戸締りをしにでかけただけ)、また90分かけて自宅に帰ってきたのであった。電車も復旧し、私の努力のかいもあって(翻訳:時間がたったため)おおよそ3分の遅れだけになっていたのであった。 帰ってくるや否や、パソコンを開くと、チベットで出会った同士が楽天HPを開いていたので急いでリンクした。 チベットのラサで出会った仲間は中国語堪能なこの方以外に、芸術家のSさん、NHKコンクール準優勝(1年前、偶然、その人の勤める塾のHPで15年ぶりぐらいに連絡がとれた)したTさん、高所なのにビールばっか飲んでたチンタオTさん、そして、アフリカの地に散ってしまった、ギター弾けないのにギター持って旅しているY君を主要メンバーとして、「ガンジャフライヤーズ」を結成。 あれから1、2年後だっただろうか。東京で再会した。私はちょうどマニラから帰って来た日で、その前の便で、日本に帰ろうとした日本人が空港に向かう途中タクシーでホールドアップにあい、拳銃で撃たれ、片手を失ったという事件があった。 「よく無事で帰ってきたねえ」と彼女に言われたのを覚えている。 不思議な縁もあるもので、実は、上海で知り合った高校生君が、えらく私を気に入ってくれて「アニキアニキ」といつもついてきてくれて、ガンジャフライヤーズが解散した後も、私は暫くチベットのラサにとどまっていたのだが、その彼が十数人を引き連れチベットに来たのであった。「アニキがチベット行くって行ってから、来ましたよ。くる途中、どんどん仲間が増えて、こんな大人数で遊びに来ました」なんてかわいいことをいってくれてたなあ。 その高校生君が数年後、実家に連絡をくれた。「私のこと憶えてますか、今、神戸に遊びに来ているんですけど、会えませんか」 会って話を聞くと、彼はあれほど嫌がっていたオヤジの仕事を継いでいるという。フィリピン人を日本に呼び寄せるタレント事務所いわゆるジャパ行きさん養成所である。 そして、彼の父は、あの日、拳銃で撃たれ、片腕を失ったその人だったのであることをその時、知った。
2005.02.10
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近郊列車が走るようになる。電車は空きっぱなしで、人が列車からはみ出ている。半分以上はみ出ている人もいる。スラムを通り抜け、駅のホームに入る。列車はまだ止まらない。が、人は飛ぶ。サリーを着た女性も跳ぶ。跳ぶインド人女性。駅を出る。リキシャーがない。すべてタクシー。民族衣装でないインド人女性の大軍。「インド門へ」仕方なくタクシーに乗った私は告げる。 タージマハルホテルというインド最高峰に属するホテルがある。しかし、静かで豪華なロビーから一歩出ると、足がないため手で漕ぐ三輪車に乗る乞食や、ブラウンシュガー(くずヘロイン)売りの男、もわもわもわーっとした空気、排気ガスにクラクションの連続、ぼろぼろのアコーディオンを奏でる乞食の子供、真鍮バケツに氷と水を入れてジュースを売る少年、単に暇つぶしをしているシク教徒、外人を見てはバクテンをしてお金をせびる女の子らが、一挙にドバドバドバーっとよってくるわ拠ってくる輪で、最高峰から最低辺まで僅か五メートル。じぇんぶでインドなのだ。ボンベイは貧富の差が激し過ぎて、悲惨な状況を生み出している。街並みこそ、ロンドンだというのに、気候と路上の風景の違いは壊滅的でさえある。 そうはいっても、私は幸いにも、ある程度上からある程度下までは行き来できる分際なのである。私は迷惑にも、日本人旅行者を騙し、タージマハルホテルのバスタブを使わせてもらえる許可を得たのである。収入一日百円程度のインド人から見れば、一泊年収を越える部屋というのは、極刑に値するのではないだろうか。冷房済みの部屋の中ではテレビで「トムとジェリー」を放映中。ベランダに出る。十五階からは、都市の喧燥が無秩序に交じり、ワーッという生活音とムワーっとした生活臭が天に揺らめいて昇っていく様を感じることができる。時折周波のずれた車のブレーキ音やクラクションの音がとび抜けて不協和音として耳に入ってくる。しかし、ベランダから部屋に入ったときの衝撃のほうが強い。この静けさ、フワフワのベッド、四十日ぶりのバスタブ、テレビ。インドを差し置いて。部屋は快適性のためか多少圧迫感を感じ、非人間的なものを感じるが、涼しいといえば誤りで、暑苦しいといえば誤りの世界で、平均的インド人一生分の快適を味わってしまったのではないかと不安になる。同時性の微笑を。
2005.02.09
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心斎橋ワタル読書感想文 大きく賛同しながらも、付け加えたいと思う。私は、思うに、犯罪とは、やはりちゃんと犯罪の大小で裁かなければならないと思う。心神喪失や年齢は関係ない。何故、人を殺した未成年が名前から何から保護され、万引きでおおっぴらに実名報道されてしまうのか。 少し前になるが、某大学教授エコノミストがエスカレーターかどこかで手鏡で女子校生のスカートの中を覗き見たという事件があったと思うが、有名人を引きずりき下ろすおもしろおかし報道が気に食わなかった。勿論、それは重大な事件であるが、果たして、彼が、収入も地位も仕事も名声もすべてを失うのを覚悟で、痴漢しただろうか。勿論そういう意味では、痴漢したときは、彼は心神喪失状態だったに違いない。 私の実家というか、高校は、サカキバラ中学の隣であった。彼は、最近出所した。今は、同じ所には住んでいないが、(あの事件の後、淡路島に家族は引っ越した)、近所に住んでいる人は、はっきりいって怖い。それが、誰か分からないというのは恐ろしい。私は、彼は、また事件を起こすと思っている。いいんだろうか。最近、アイロンとアイロン台とドライヤーを手に入れた。ドライヤーを使用するのは、20年ぶりぐらいである。自然乾燥が一番と思っていたのだが、美容室によると、ドライヤーで乾かした方が良いらしい。それならばと気の早い私は、検討に検討を重ね、買うことを決心するまでに1年を要した。電気屋に行って、ドライヤーを決めるのに検討に比較検討を重ね、約5秒で決めた。 思わぬ効用もあった。私は、頭脳明晰を保つ為と、お金がない為に、自分の室内温度がほぼ10度程度に設定されているために、部屋でも外に行く格好をしているものなのだが、ドライヤーは温かく、体を多少温めるのに助かるのであった。 アイロンを購入したのは、頭脳明晰な私が、暗算で、計算したところによると、シャツ1枚をクリーニングに出すと150円程度なのだが、過去の経験によると5分で一丁上がる。エグゼクティブの私は、多分、時給換算すると1000円以上では働いている筈なので、きりのいいところで1200円としても5分で100円である。なんと50円も得だ。アイロンは、確か、いくらか忘れたが、きりのいいところで4000円としても、シャツを80回アイロン掛けすると元がとれる。80回ならば、私が死ぬまでと、おそらくトントンぐらいではないかと思う。もしかして、私が100歳まで生きてしまうと、断然得なのである。そういうあざとい計算を瞬時に1年ぐらいかけて計算したので、ドライヤーついでに購入したのである。 それにアイロン台も購入しなければなるまいと決心した私は、今までの私のアイロン生活と違うことに気がついた。私のアイロン掛けは立ってするものであったのである。しかし、アイロン台の脚の長いものが売っていないのである。あれはアメリカ式なのだろうか。ひとつだけ発見したが1万円以上していた。アイロンより高いアイロン台は同義的に許されないので、迷いに迷って一番安い800円のものを購入した。 日本で、アイロンするとは、正座するものと齢30代にして初めて知った。アイロンが神道に通じていたとは知らなかった。 以前にも書いたが、アイロンを低温にして、服の上からアイロンを滑らすと楽しいというお遊びは、アイロン道から遠く離れた邪道であることを齢30代にして知ったのであった。
2005.02.08
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1年生の時の担任は唇の分厚い30歳前後の徳尾先生(女性)であった。私の渾名は「大統領」であった。私は、自慢であったが、給食を食べるのが誰より早かった。それ以外には特に自慢できるものはなかった。開校100周年の入学生であった。2年生の時の担任はこれがどうしても思い出せない。ドッチボールのうまさが、クラスの偉いもん順になっていて、私は、どうしても6番から上がりも下がりもしなかった。渾名も「どんこ」になった。そりゃドブ魚だ。3ヶ月だけ習字を習った。7級の時点で先生が亡くなった。3年生の時の担任は顔が雑巾のような40歳前後の釜田先生(女性)であった。給食係は、エプロンをしないでいいという理由で牛乳係であった。いつもパートナーと競争するが、例に漏れずこけて、校庭の片隅を白い液体で満たした。3ヶ月だけ英語を習った。太ったアメリカ人の女性先生は私のニックックネームを「オーバー」友達のニックネームを「クイックリー」とした。ヨーヨーが流行り、近所の空き地にわざわざアメリカからヨーヨーチャンピオンが来た。4年生の時の担任は自称美人の25歳前後の森先生(女性)であった。ある日、一日中自習にして、かなづちをトンカチやってペンダントを作っていた。自分のことをBBS(美人で美人で困る)といっていたが、本当に美人であったが、毛深かった。同じ学校の人気男性教諭と噂されていた通り結婚した(模様)塾に通い始めた。別勉と言った。学校の成績はオール3だった。5年生の時の担任は顔にイボがある怖い40歳前後の椎名先生(男性)であった。口癖は「分かったもん、手あげ」そして「分からんもん、手あげ」ついにどちらも手を挙げなかった生徒を目ざとく見つけて「おまえどっちやねん」と怒る。6年生の時の担任は寒がりの40歳前後の藤岡先生(女性)であった。卒業するときに告白されたが、びっくりして逃げた。30年生の時の担任はもうない。しかし友達たちの子供が、既に小学生や中学生だ。あとは頼んだ。
2005.02.07
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マンションの価値という本を読んでいるので、今日は勉強しておる(勉強しているだけ)・ 中和室にもエアコンがつけられるか。・ 正方形のリビングダイニングは案外レイアウトしにくい。・ リビングを通って洋室に行けるのは、子供のいる家庭には良い。・ 寝室のベッドはシングルベッドが二つ置いて、壁から40センチは欲しい。・ キッチン天板は2.4メートルは欲しい。U型L型は案外使いにくい。・ 包丁差しは右利きなら、左側の扉の内側にあるか。・ 火の元は奥まった方にあるか。火事の時逃げ場がない。・ レンジフードのスイッチは1.8メートルくらいのところにあるか。・ 冷蔵庫は流し台と並べない。見た目は食器棚(標準出幅45センチなので)と並べるために、少し、冷蔵庫置き場は奥まっていたほうがいい(30センチ程度)。・ 棚下灯は、レンジフードに電気があるので、真ん中よりすこしシンク寄りがいい。むき出しは見た目が悪い、吊戸棚に埋め込みで、格子戸になっていると目に優しい。スイッチは壁に。・ 流し台天板のベストはステンレスであるが、1ミリは厚さが欲しい。人造大理石でもいいが、それならアクリル系がよい。ポリ系は変色したり、剥げたら修復できない。・ 最近はディスポーザー付が増えたが、シンク下配管にゴムを巻くなどの音の処理はされているか。・ 換気口は直径10センチが多いが、15センチあればよい。・ トイレは扉から便座鼻先まで55センチ以上あるとベスト。・ トイレペーパーホルダーは右利きなら左、鏡があると良い(見たくないもの見ないように位置注意)。・ トイレは洗い落とし式とサイホン式があるがサイホン式は音が静かで良い。・ トイレ換気はジドウタイマー。・ 玄関入ってやリビングすぐのトイレ位置はちょっとなあ。・ 風呂は照明が2つか。シャワーホースは金属製か、スライドバーになっているか。・ 風呂ふたは2枚平坦もののほうが、巻くのより長持ち。・ 洗面台は子供がいたら75センチ、大人だけなら85韓0センチ。・ 洗面化粧台は1メートル、上部まで鏡張り、できれば奥収納の3面鏡がいい。・ 洗面室にはリネン庫が欲しい。・ 拭けない窓がない。・ 廊下側面格子の上部が25センチぐらい開いていると、網戸の取り外し掃除ができる。・ 片引き窓の窓は外側に移動できると雨などの侵入に強い。・ 電気容量60アンペアは欲しい。・ 電話は2回線対応。・ 分電盤は水周り以外のできれば、物入れ内の手の届く所にあるのがいい。・ クーラースリーブはカーテンをまとめた場合のカーテン溜りを考慮して、カーテンボックス(カーテンレール)から15センチは離したい。・ エアコンはできれば窓のある壁と垂直の壁に取り付けられると、外とエアカーテンができて良い。・ カーテンボックスは天井からあるほうが高級感がある。クロスがそのまままわってきていると、擦れるので切れる場合があるので、ペンキ塗りなどがよい。・ エアコンのドレイン対策(管や溝など)されているか。・ 和室の押入れ中段の奥が壁と3センチぐらい開いているスリットがあると通風性がある。・ 和室以外の引き戸吊りレール。三日月形鍵は壊れやすいので、洗面室は引き戸でなくてもよい。・ 開きドアの蝶番は3箇所。ドライバなしに取り外しのできる旗蝶番が望ましい。・ 室内の鍵もサムターンを回すとデッドボルト( かんぬき状の長方体の金具)が出てくるのが良い。・ 壁の石膏の板である下地プラスタボード12.5ミリ。・ ピクチャーレール・ 配水管は鋳鉄管。管の周りを鉛入りゴムシート、グラスウール、2重張りのボード。・ 隣室との間取り。隣室の水周りが和室や洋室と隣り合わせになっていないか。・ 2重天井はOKだが2重壁は音が伝わりやすい。
2005.02.06
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今日は小料理屋で接待を受けた。お土産はその店の名物のうどんであった。男女差の話題は全くなかったのであるが、帰りの電車の中で少し考えたふりをした。遅れている訳でもないのに、金曜日の23時台の電車が、朝の通勤ラッシュ並に込んでいて、本を開く隙も隙間もなかったのである。人は当然、他人との警戒距離、許容範囲の距離を持っているが、満員電車ではそれは我慢する。何故我慢できるかといえば、密着している人間を人間と認めず、モノとして認識するよう脳が騙すからだ。多分。しかし、やはり男とひっつくと臭くて嫌だし(酔っ払い率93%。酔っ払いの代表は私)、女性とひっつくと、痴漢に間違われそうなので、腰が引けてしまい余計に辛い体勢となってしまい、体も気も疲れる。やっぱり脳を騙しきれない。男女の差って何だ。例えば、地図を読むのが得意なのが男で、やたら記念日を覚えているのが女、などと、一般的傾向を違いを嬉々と述べた本もあるが、それは傾向に過ぎず、違いではない。違いと言えば、例えば、子供を産める(産めない方もいるが)のが女であろう。差は、そういった身体的なことしかないのかも知れない。先天的なものである。そういえば、頭がいいとか運動神経がいいといって誉められても、先天的なものは仕方ないのである。それで誉められて喜ぶ人はバカだ(悪い気はしないだろうが)。頭のいいことや運動神経がいいことの上に努力して得たものは誉められるであろうけど、それなら頭が悪かったり、運動神経がにぶくても、他の道を選ぶことが大事なんだなあ、と教条的に思っていると、やっと満員電車から解放された24時。こんな時間満員電車、狂ってる。
2005.02.05
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先日の日記で約束したとおり(誰と約束したかは定かではないが) 今日は石川県能登半島最北端「狼煙」に行った時のことを書こうと思う。その年の冬、12月30日、我々は、車2台にバイク3台で、能登半島へ向かった。我々とは、大学の仲間であるが、具体的なメンバーはあまり覚えていないし、何故そこに行ったのかは憶えていないが、とにかく、出発は同じでも、現地集合のキャンプであった。「厳冬キャンプ、魚のナベ食べ放題バカバカツアー」はかくて遂行されたのであった。雪が舞い、車を恐る恐る走らせて、もう日もどっぷり暮れた頃、私は、叫んだ「おお、おおかみけむりの標識がでたぞ」すると、わたしより4歳も年下のY(現在鹿児島在住。子供のまま。参照)が言った。「トイモイサン、あれは、のろし、と読むのですよ」私は、Oをその場で降ろそうかとも思ったが、ぐっと我慢して、ちょっとだけしばきまわした。隠すほどのこともないのであるが、私が最年長にほぼほぼ近かったという事実はあり、大学生的に言えば、天皇的立場にあったので、ちょっとだけ強権発動しただけであった。現地について、早速テントを張り、ナベを雪降る強風の中、作り始め、宴会が始まった。勿論、冬だって容赦なく、キャンプファイヤーはする。例に漏れず、火を見ては逆上し、雪は何のそのである。しかしながら沈着冷静な私は、子供に近いYが海に飛び込もうとするのを静止するほどの余裕まで持ち合わせていた。しかし、例に漏れず、その1時間後には、余裕で、私は果敢にも寒中水泳を敢行していたのである。勿論、あまり記憶にはない。私は、海から戻り、さっそく、冷え切った体を休める為にテントに入ったようである。「だ、大丈夫か!」という声に私はちゃんと返答をしたようだ。「大丈夫だ、まだ卒論は間に合う」と。しかしながら唇まで真っ青になってきた私は、自動的に車に入り、ヒーターを入れた。後部座席中央で震えていたのであるが、いつの間にか、両脇にも、後輩ドモが乗ってきたようである。テントでは寒すぎたようであった。私は、律儀だけが取り柄でもある。「おい、吐くぞ」と私が言った時には、シートを汚される悪夢に怯えた車の所有者も観念したようであったが、ちゃんと、後部ドアを開けて、後輩のひざに胸を当てて、顔だけを外に突き出し、オエーゲゲーとやった後には、何食わぬ顔をして「終わった」といってまた眠ったのであった。翌朝、若さゆえの回復力だけが取り柄だった私は、強烈な二日酔いもさほどなく、誰がこんな車の脇にゲロったのか、降りることができないではないかと罵り、まだ乾かぬジーンズを見て、誰が俺を濡らしたのかとプンプンしながら、酒の臭いもプンプンさせながら、帰途についたのであった。若いだけってバカだね、よくないね、と弱冠30代にして悟り始めるのであった。
2005.02.04
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昨晩は大学の同級生と飲みに行った。昔、彼を、偶然、カトマンドゥの道で発見し、一緒にバスと列車でインドのデリーに行く事にした。国境のスノウリを越えて、ニューデリー行きの列車の出発するゴラクプル駅かラクナウ駅だったかで数時間を過ごしていた。小腹が減ってきたので、ここはイッチョウインド式に駅で飯を炊くかということになり、文明の利器EPIガスを取り出し、インスタントラーメンを作った。ラーメンを啜っていると、目の前に杖をつきながら、スティビーワンダーばりの笑顔でラスタヘアの盲目乞食が、何かを探しているように歩いてきた。道を探しているのか?駅構内はすべて道だぜと思いながら、見ていたのだが、杖をコンコンといわせながら、線路脇ぎりぎりまで来て、プラットフォームが終わることを確認した乞食は、おもむろにニカっと笑った気がした。危ない、あと一歩歩くと、線路に落ちる、と思ったのだが、盲目の老人乞食は、そこでくるりと反転し、おもむろに、お尻を出し、線路に向かって、大便をし始めた。さすがのインド人もびっくりして、駅員が飛んできたのであるが、止まらぬものは止まらない。脇を抱えられた老人は、そのままどこかへ連れていかれた。とってもまずいラーメンになった。
2005.02.03
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シンガポールを三日間滞在した後、高速艇はインドネシアのタンジュンピナンにたった三十分で到着した。空路以外の入国はビザがいると聞いていたので、イミグレーションオフィサーが何かいう前に、有り金を全部見せるという子供だましの手段に訴えた。笑いながら、パスポートにスタンプを押してくれた。木の突堤に足を踏み入れると、ガラム煙草の丁子の匂いが国を充満しているのが分かった。暑い国では甘さを許容してしまう。その匂いに加え、土の湿った臭いがしてくる。生まれて初めて水を買った。先の船旅に備えて。異郷の地で食べ物が合わないのは我慢できるが、水が合わないのは致命的だ。いくら慣れ親しんだ料理でも味付け以前に味が違う。浴びる水に対する体の反応も。全長十メートルの船は体操座りが辛うじてできる程の乗客を乗せて出港した。マラッカ海峡の上で、私は同じ質問を何度も受け、延々と答える。名前、出身、仕事、インドネシアの感想、年齢・・・・朝、起きると河に入っており、私はまた同じ質問を何度も受け、延々と答える。二回目の夜はついにたまらなくなり屋根に登り、寝袋に潜って眠る。三日目の朝、靄がかかり両脇の陸から木々がかすかに見える。寝袋は朝露でべったりしている。円錐形の葉をぎっしり詰められた両切りの煙草の煙は、船の速度にぴったりだ。一メートル下では重なって人々がまだ眠っており、もはや、質問はなかった。昼。石油の出るだけの退屈な町で。個人経営のパン屋兼八百屋兼冷凍食品店兼お菓子屋といった感じの店があった。ザリガニ釣りのために、いつも竹輪一つ買って、ザリガニも嫌うと信じられていた皮だけ食べて赤いバケツに放り込んで、池に向かうという少年達の一人が私だった。それから十年近くの間に、町は奥へと造成されていき、その中にスーパーができ始めた。また、我々の古い家周辺も庭を壊してガレージを造り、車やバイクを購入し、行動範囲を次第に広げていった。私は高校生になっていた。文化祭の用意のために急遽林檎がひとつ必要になり、その店を思い出し、十年ぶりにその店に訪れた。店の面積は縮小され、奥は食堂になっており、引き戸の隙間からちゃぶ台のようなものと家族が見えた。何かいけないものを見たような気がした。奥からきっちり十年分年をとったおばさんが出てきた。林檎は三つセットで売っているものが一つだけあった。私は恐縮して自信なさそうに「ひとつだけ欲しいのですけど」とおばさんの目を避けて林檎を注視したままいった。おばさんのため息が聞こえてきたような気がした。そして、おばさんの手がためらう様に、林檎に伸び、ゆっくりパックからひとつだけもぎ取り、素早く価格から三を割り、端数切り捨ての値段をいい、私に林檎をゆっくり差し出した。それから暫くして、店仕舞いと同時に家族さえも引っ越していった。時代の速度は、相変わらず速いままだ。意識でさえも。そんなことを考えながら、六時間後に出るバスを待ちつつ、街の小さな市場を歩いていた。小さいながら等身大の市場だ。サランラップに巻かれて窒息しそうな綺麗なだけの食料が並ぶスーパーマーケットと違い、ドリアンの強烈な臭いを筆頭に、濃厚な空気が充満している。時折、子供にからかわれてみたり、店の人に呼ばれて試食してみたりする。朝には海沿いの町パダンに到着した。シャツはすっかりバスシートを掃除して黒ずんだ。顔は汗を何度も流しては乾かし、その度に夜風を受けたために塩と砂を交えてざらついていた。潮で体を拭きたいと思った。そのまま泳いでみたいと思った。とにかく町外れまで歩いてみた。川があった。幅十メートル程の濁った川。橋はなかった。渡し舟が一艘あった。当然商売なんかになる筈のなさそうな人通りのない道端。川向こうにはあぜ道が続いているのが見える。一日いったい何人がこの舟を利用するというのだ、とは思ったが、船頭のおやじは苦虫を潰したような顔を一向に崩そうともせず、私を獲物と見据えると、「乗れ」と合図した。乗船時間十秒、三漕ぎ。運悪く、私は五百ルピア(四十円)札しか持っていなかったので仕方なく渡すと、そのままくしゃくしゃにお札を丸めて、苦虫おやじのポケットの中に吸い込まれていった。その表情を崩さぬまま「早く行け」と手で追い払われる。「おいおい、お釣、お釣をくれ」と私は呆れながら手を出すと、「ぼったくってやったぜ」という後の急に優しくなったり怒りっぽくなったりした態度にはならずに、「道はあっちだ」と私を追い払う。もう一度催促してみたが、相変わらず苦虫を潰し続けている。「参ったよ。苦虫ポーカーフェイスじいさんよ」私は頭の中で、頭をポーンと叩いてあぜ道を歩き出した。すぐ丘の上に中国人墓地に辿り着いた。剥げ落ちた水色の墓が急斜面に散在し、その先の絶壁の向こうは荒波の迫るインド洋が広がっていた。海は遠くに行く程青さを増し、空と海との境界線をあやふやにしていた。近くに亀のような島がひとつ。直径三十メートル程で、木が覆い茂って地肌を隠していた。脇道から砂浜まで降りてゆき、十数キロある荷物を降ろし、椰子の側に置き、全服をその上に置き、荒波に向かって行った。
2005.02.02
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ハンサムで優しくて危険な香りがすること程度しか取り柄のない私であるが、今日は(も)酔っ払ってノー天気に帰ってきた。 酔ってしても、私は、失態をさらしたり、醜態をさらしたことが、まだ2000回程度しかないことは誇れることであろう。何せ、私は有名人である。生まれてから1年もすれば、めきめきと頭角をあらわし、家族全員に名前と顔を覚えられていたのだから。それでも、私は、酔って生命の危機というのは齢30代にして3回しかない。1回はそんなに飲んでいないのに気がつけば、家の間に眠っていたぐらいで、そこに釘が出ていて、頭をかすめて血がでていたぐらいで、思わず鞭打ちになっていた。3日後フィリピンに行った。2回目はセブシティでしこたま酔っ払って道端でミックジャガー踊りをしていたら暴漢に襲われて、思わず正気に戻った程度で、3回目は能登半島の最北端の狼煙で、雪の降る12月31日酔って泳いだぐらいで、そのあたりの詳細は明日以降に記したいと思う。今は、残念ながら弱冠30代で紳士になったので、節度という言葉を覚え、管も巻かず、もう帰りましょうと、説教する専制的先生の立場にまでのし上がっている。開放的解放をする地位にまでのしあがっているといっても過言ではない。アジアでは、酒が高くそう飲むこともできず、代替品がいっぱいあったので、胃腸を休める期間があったのだが、30代前半まで毎日飲み続けたが、今は、飲むのを忘れて寝てしまう健忘症的健康症に陥っているので、たまには気をつけようと反省しつつ筆を置く。ところで日本で一番見られているサイト順Yahoo! JAPAN Google.co.jp楽天市場Infoseek Japan Msn.co.jpGooLivedoorAmazon.co.jpGeocities.jp2ch.net@nifty Excite BIGLOBE Dmm.co.jpGeocities.co.jpFC2Web COOLオンライン Hangame.co.jpNIKKEI NETXrea.comAsahi.comMSN-Mainichi InteractiveWww6.plala.or.jpSo-net Home.ne.jpJword.jpTime.gr.jpKir.jp99bb.comSub.jpまぐまぐYomiuri On-LineCaribbeancom.com OCNカカクコム疲れたからやめ。
2005.02.01
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