全33件 (33件中 1-33件目)
1

我輩は、つむじは2つある。日本人の7パーセントである。以上。太さ2センチ、長さ10から5センチが理想形だ。平均100~200グラム、7割が水、2割が固形物、7パーセントが消化液の有形成分、3パーセントが細菌。それはあれだ。今日は、某コカコーラの人に会ったが、その人の顔がまさしくコカコーラ顔だった。ソウゲン微茶的話し方、金縁眼鏡の具合、少し交じった白髪、四角顔、ビッグカンパニーだ。そういえば、世界中にコカコーラが伝播したのは麻薬ルートを使ったからだという流言蜚語があったなあ。ニューヨーク,グランドセントラル駅にあるオイスターバーで一人カキ食いをしたこともあるが、牡蠣という奴、一生にオスメスを繰り返すけったいな生き物である。ところで、学生時代に所属している秘密結社の写真があったので掲載しておく。壁の落書きを始めたのは我々の学年であり、以来、伝統的に引き継がれているようである。アーメン(或いはオーム)
2005.06.30
コメント(18)

何たって鉄塔~。満員電車の中に出くわすと、自分のことも含めて「人は、クソだ」と思ってしまう。実は、満員電車を我慢している他の人もそう思っているかも知れない。しかし、私は、敢えて誉めたい。「人は。カラフルなクソだ」と。満員電車などで、パワーを搾り取られたくない。きっと乗っている誰もがそう思っている。目的地に着いたらヘトヘト状態だ。行って、帰ってという工程を楽しめないのは悲しい。なんたって一文字~。 交通の発達によって我々人類は歴史上、不思議な経験をしている。かつては戦争の遠征などで生活を面で地理を捉えていたというのに、今は、我々一般人でさえ、点から点で捉えている。私は、名古屋よりバンコクのほうが詳しい、札幌よりアムステルダムの方が詳しいといった現象を起こしている。それどころか、通勤という日常でさえも、身体の大きさから比べ、異常に行動範囲が広い。20キロ先にある勤務地だってたとえ身長が2メートルあっても、毎日1万倍の距離を移動している。1万キロ先のヨーロッパに、気がつけば行ってしまっているという状況にある。そういう意味では(どういう意味じゃ?)、家から出かけるという感覚が昔の人と大きく変わってきているのかも知れない。見送る人も。 おまけに、最近は物騒といっても、外界が格段に生命維持観点から安全になっている。我々は、外に出て行く決断と勇気その他もろもろの心がけを極限にまで必要ではなくなってきている。これは画期的に素晴らしいことであり、退屈なことである。今や、遠くに行くのは、ただ身体が運ばれるということに過ぎない。なんたってホウキ~。(窓に映った風景はチクワだ。弛緩している。素っ気無い。音は割れる、グググ、或いはギギギ。本文と関係なし、ただのタワケ) それにしても、食糧は、交通の発達のせいで、郊外が高くなっている。都会に一度、肉や魚、野菜が集められ、そこから配達されるため、中途半端な郊外が一番高くなる。 フランスパンを包装せずに裸のまま、ワインの瓶をそのまま持って帰るというのは、家が近いから。明日仕事でも23時から始まる映画を見に行けるのは家が近いから。夜中の2時に一杯飲みたくなって、バーに行けるのも家が近いから。ラララー
2005.06.29
コメント(11)

ついにお迎えが来た。「出発進行!」という少し古めかしいフレーズを発することもなく、T.Sの新車レガシー号は、午後11時「プラトーン」の映画音楽に身を任せながら出発した。(以下、T.Sの新車レガシーを転換キーでコレばかりでるので面倒なので「レがC」という)アレサフランクリーから音楽は始まるのである。これからの長い道程を乗り切るためのCDを急いで持ち出したのだが、中味は空状態が多く見受けられた。ケースばっかり持ってきても音楽は聴けないということを、弱冠30歳程度にして学んだ。7月頃に旧レガシーの下取り100万円を頭金にした300万円のNEWレがCははなはだしく順調に高速道路を飛ばす。高速道路批判と、地方交付税交付金批判と、今後のカンボジア情勢の話をするふりをしただけで午前3時3時30分に目的地2キロ手前の休憩所にピットインした。標高はすでに700メートルとなり、海抜より計算上では4℃程低くなるだけなのだが、肌寒い程である。人影はまばらだが、駐車スペースを探すのに一苦労した。よく見るとリクリエーションビークルが多数散在し、大方は熊の如し、仮眠状態に入っている模様だった。我々もそれらを半分見習って本気睡眠に入滅することになった。しかしこんなけ涼しいというのにエンジンかけっぱなしの車が多く、不快な音で眠れないというと嘘で、「すこしうっとうしいなあ」という程度で、バランタインウイスキーで寝酒して後はぐっすり眠った。もしかして寒くて暖房かけていたってことはないだろうな、と他車に疑いのまなざしを向けることもなく目を閉じ、座席リクライニング状態に入っている私は、ガソリンもったいないなあと少し悲しい気分のまま、順調に眠りに没落していった。 期待はしていなかったが、朝は、予定通りやってきた。期待はしていなかった通り、夏の厳しい東日にやられながら目覚めると思っていたが、予定外にガラス越しに気配する人々のざわめきで目が覚めた。寝ぼけながら朝の自動販売機コーヒーを求め、外に出ると人々で溢れかえっていた。それも若い男女も増えていたのだった。まるでウッドストック開演10時間前の様相であった。いきなり若い女性が男に肩車してもらって手拍子をしたり、マリファナが回ってきてもちっとも可笑しくないような雰囲気であった。障害車用駐車場にバンが止まり、杖をついたおばあちゃんまで登場して、すごい野外コンサートになりそうだなあと思った。しかし我々はいつまでもここにいる訳にはいかず、パーキングエリアに惜しまれながらもレがCを発進させた。バックミラーには間入れず我々の空いた駐車場に車を入れる光景が映っていた。 駒ヶ岳の麓にやってきた。(以下転換の面倒な都合上、「買い駒だけ」という)1日400円の駐車場に車を停め、さぞ玄人かのごとく山の準備をはじめた。軽装でお越しの他の皆様方は即バスに乗り込んで、ロープウエイ行に乗り込んでいった。玄人はだしの我々には任務が残されていた。それは私が自ら作成した米飯と鮭とホウレンソウと茄子の朝食弁当を食うことであった。我々査証を取るより簡単に土産物屋の前の椅子で弁当を食う許可を取り、一斉に食い始めた。その間に夏期臨時バスが何度も発車していった。我々も、朝食を採ってそのまま家に帰るという野暮なことをしている訳にもいかず、日も昇り始めたので、そううかうかしていられないことにようやく気付き始め、弁当箱を洗い、荷物になるので車に置いた後、せかす駐車場整備委員のおじさんおばさんの要請に答え、バスに乗り込んだ。実はブキバールは実家にあって、このプラスステック製弁当箱で代用して今回のテント生活を乗り切ろうと画策していたのだが、T.Sがブキバールの予備を持っていたので急遽不要となってしまったのであった。悲しき弁当箱よ、きちんと我が住処まで届けるからのう、と慰めた。実はザックも実家に置いてきたと勘違いして山に登るというのにボストンバッグに取り敢えず荷物を詰めていた私だが、途中でもう一度怪しい所を捜査すると、しかっりミレーとモンベルと無名で後ろに「KOBE JAPAN」とマジックでかかれたザックの3つが出てきた。テントはバンコクで盗まれて以来、持っていない状態なのだが、ザックは物持ちのいい私はまだ3つ持っていた。飛行機のタグまでついていたりなんかもした。中にテッシュまで入っていた。寝袋やテントマットやシュラフマットもしっかり入っていた。歯ブラシお泊まりセットやガムテープや爪きりも入っていた。そういう訳で、私は、ザックに荷物を詰め替え、T.sタクシーがお迎えに来るのをひたすら待ち続けたのであった。 これは本格的なクライマーという出で立ちに限りなく近い状態にあったのだが、実は観光客と同様、ロープウエイを利用して標高800メートルくらいから一気に2600メートルぐらいまで上ってしまうのだった。そこからが勝負で運動靴の家族連れに差を見せつけるつもりだったが、盆なのでロープウエイ1時間半待ちである。我々は仕方なく朝から350ミリ400円もするビールを飲み登山に備えたのであった。勿論べろんべろんになるほど飲むのは控えたことは分かって頂けると思う。つづく(来年までにはアップ予定。いつになったら山に登れるねん) 宇治茶もちゃんと持っていく健気さ
2005.06.28
コメント(6)

「何がしたいんだ」いつもそう問われている気がする。軽装で家の前のスーパーを手ぶらでブラブラしている。多くの人が食糧の買い込みという目標を持って買い物にに勤しんでいる。昔、バンコクやマニラでデパートなどがどんどんオープンしていったときに、サンダル、短パンで来るのはやめましょう運動っぽいのがあったし、デパートとしては、やはり商売なので、いかに来場者から購入者確率を増やすかが課題であった。そう、皆、涼みに来ていたのだ。今日の私も、決して家での冷房代がもったいないということなのだが、歩いて1分なので、涼みに来ていた。文庫本をポケットに入れて、茶を飲む。バンコクやマニラで自堕落で何もすることもなく、宿の部屋は熱く、涼みにデパートに日参していた頃を思い出した。よく分からんバトンの続き6 よく乗る、または特別な思い入れのある5つのフライト1.バンコクから日本に乗ったフライト。某国から飛んできて、搭乗券見たら、シートが空欄。尋ねたらフリーシート。搭乗してから、「空いてますか」「空いてますか」と5回ぐらい聞きまわった。2.ムンバイからダッカに乗ったフライト。蚊が飛んでいた。3.アテネからカラチに乗ったフライト。ご飯のお代わり断られた。4.ヘルシンキから北極圏に乗ったフライト。24時発で、吹雪で視界ないのに飛んだ。ちょとだけ怖かった。5.成田からシアトルに乗ったフライト。よきにはからえ、何を間違えたかファーストクラス。7 最近買って珍しく全部読んだ(と思われる)5冊の古本文庫本読みかけの古本 1.犬の記憶 終章 森山大道 河出文庫 2.統合医療でガンを防ぐ、ガンを治す 角川ONEテーマ21文庫 3.デュシャンは語る ちくま文芸文庫 4.「格付け」市場を読む いったい誰がトクをするのか 光文社新書 5.消滅する言語 今地球上から2週間に1つのペースで言語が消滅している 中公新書感想文。読んだ端から忘れていってマス。8 最も最近買った耐久高級品を5つ1.ドライヤー。もう熱い季節なので、全然使っていない。ドライヤーを使うのは20年ぶりだ。髪ははやく乾かした方がよいという迷信を聞いたので。2.アイロン及びアイロン台。シャツをいちいちクリーニングに出していたが、1枚5分で仕上がるので、5年ぶりにアイロンをかけることを硬く決意した。3.テレビ。ベッドに置いたら、テレビの線が届かないので、DVD専門モニターと化している。テレビは、アンテナの調子が悪いのか、ザーザーである。別に、朝に、時間を見るためにつけるぐらいだからまあいいけど。(もうこの時点で、1年ぐらい前に遡っているような気がする)4.あかん・・・もう続かない・・・あ、シアトル1号店マグカップ・・・9 ここ1ヶ月ぐらいでDVDで観た映画でまあまあ良かった映画を5つ 1.「砂と霧の家」 2.「モーターサイクルダイヤリーズ」 3.「父、帰る」5.「右側に気をつけろ」 6.「ヤン・シュヴァンクマイエル 短編集」10 好きな食べ物を5つ1.チャーハン2.焼き飯3.カオパッ4.ナシゴレン5.フライドライス
2005.06.27
コメント(10)
・・・18歳。 無知と高慢と偏見の季節だった。ほんの4ヶ月前前まで、私は受験生であり、どこに行くのか決まってなかった。高校生なりに、英語もロクに話せないし、外の世界は興味がないし、未知の世界は怖いし、外国にはできれば一生行きたくないと考えていた、いや、考えてなかった。行く大学も決まってなかったので、それどころではないという狭い世界に住んでいた。 海外初夜はフィリピンで迎えた。ホテルのボーイ、ルウさんにディスコに誘われた。ディスコには行ったことはなかったし、踊りも知らなかった。気乗りはしなかったが、連れて行ってもらうことにした。タクシーで「ディスコ タバスコ」へ。一番前のいい席に座った。舞台があり、ショータイムがあった。客は、皆、それなりに着飾っていた。ビキニ姿で踊るダンサーのラテン仕込みの熱くなるほどの腰の振りを見て、私は、驚いた。数人が踊り、それぞれのダンサーが空のビアグラスを持って、それぞれ適当にテーブルに行き、ビールをついでもらい、踊りながらステージに戻り、一気に飲み干し、そして、ヌードになった。ヌードになるのがディスコなのか、と私は思った。客は、半分は女性であり、着飾っているのに、こういうものかと私は驚いた。私は、常夏仕込みにぴったりあったサンミゲルビールを鬼のように飲んだ。旨い。感心し、若さに任せて、酔うほどに飲んだ。トイレに行くと、トイレの中には数人の男達がたむろしており、肩を揉み、蛇口をひねり、おしぼりを出してくる。こいつはボラれたは困ると思い、思わず、5円玉を出し、「穴が開いている硬貨は珍しいだろ。価値があるんだぜ」と訳の分からないことをほざき、たむろする男を喜ばせた。馬鹿にしているような自分に辟易する。タバスコの商権を日本で持っているのはアントニオ猪木だ。タバスコを買えば、彼の口座にチャリンといくらか自動的に入る。プロレス業界に貢献だ。真ん中のフロアでは客が踊っている。しかし、ショータイムは永遠に続く。ダンサーが寄ってきて日本語で聞いてきた「アナタ、ナンサイ?」「18」「ワカイネー、ハンサムボーイ、コレ、アゲル」といって、股に手を入れ、そっと手渡してくれた。1本の陰毛だった。私の初海外初夜はそうして始まった。
2005.06.26
コメント(12)

家の前の道路で咲いている枯れかけの紫陽花を撮った。ちなみに家を写しておきます。これは去年参加分それから季節外れですがサクラもアップしときます。
2005.06.26
コメント(6)
1. Total volume of music files on my computer 空っぽです。PCの音量はミュート状態です。2. Song playing right now 窓を開けているので風の音です。夜は涼しいです。3. The last CD I bought シングルはおよげたいやきくん。LPはYMOのソリッドステーツサバイバー4. Five songs(tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to me 有名どころで、ホワイル・マイ・ギター・ゲントリー・ウイープス(ビートルズ) 私の中でタイのビーチキングクリムゾンの宮殿(キングクリムゾン) 私の中でタイの自転車縦断旅行ダークサイドオブザムーン(ピンクフロイド) 私の中でタイのバンコク暗黒時代悪魔を憐れむ歌(ローリングストーンズ) 私の中でフィリピンのビーチノーウーマンノークライ(ボブンマーリィ) 私の中でインドネシアのスマトラ島
2005.06.25
コメント(2)
黄色い冗談を飛ばす賢明な奴が小声で叫んでいた。 紋白蝶が身もフタもなく狂い、懸命に翔んでいた。無秩序な軌跡を残して。 奇蹟は必然的に、突発的に起こる。 怒る魂を鎮めるために、視点を一点に集中すれば、世界が回り、目が回る。 そして優雅な乱暴は、また繰り返される。地獄を始点として。 宮廷も家庭も自国を顧みず、荒れ放題。 一体、長く細い道の過程を我慢してきたのはなんだったのか。 それとも小市民として未知に意味づけして安堵してしまう罠だったのか。 いや、クラッシュアンドブルドか、いや、突然、終結の方向に向かう。 挑む者は、解散した。集結せぬ者は分解された。暴れたい者はただウズウズしている。 いつも、新しい時代の渦はそこまで来ている。 ベルリン天使の歌に出てくる女神の黄金の塔。
2005.06.25
コメント(10)

小学生の頃(ガキのころ)よく
2005.06.24
コメント(8)

高級住宅街16区をセーヌ川沿いに挟み、エッフェル塔7区の隣にある比較的簡素に思える15区。2ヶ月前、夜中、意味なく散歩した。散歩は本業にして30年だが、まだそこからの収入はない。道を歩いていると、時折、隙間からエッフェル塔が見える。 石畳に、街灯。 少しの緊張感の中、無秩序に歩いていると、ゴダールの近未来実験的SFアルファビアのような気がしてきた。フト、何年か前のことを思い出していた。 かつて数人が集まって飲むことがあった。何かの話題になった時だった。私はいった。「年収ぐらいで1,2泊だけでも宇宙旅行できるんだったら絶対行くで」それに賛同したのは、医者の友達だけであった。しかし、宇宙旅行パッケージは一般に市販されだしているが、まだまだ庶民からは遠くにある。スペースシャトルがあれだけ事故を起こしている中、まだまだ安全面においては夢の旅行であろう。宇宙は宗教だな、と思った。大学のキリスト教の試験で、「科学と宗教について述べよ」という問題が出て、科学の定義は、同じ条件ならば、誰がやっても同じ結果が出るという普遍性のことであったことを思い出した。帰り道、60年代にアポロが月に行ったってすごいな、でも、本当にそんなことが可能だったんだろうか。何故、あれから30年もたって、飛躍的に技術が進歩したのに、また月へ行かないのだろうか、と思っていろいろ調べてみた。科学的になら、今も更に月にどんどん行っているはずなのにと思って調べてみた。あれは、奇蹟即ち宗教だったのか。 そうすると、欧米人で本当に月に着陸したと信じている人はかなり多いということが分かった。いろんな疑問点が解決されないのだ。(今ならインターネットでいくらでも調べられる。ガセや下らないものがほとんどだが)映像では旗がヒラヒラ揺れている。大気もなければ風もないのでは。映像では宇宙飛行士の影の方向が違う。着陸船には影さえない。映像ではあんな遠い月から送られてきた画像が、当時の技術で何故ああも鮮明なのか。映像では着陸船の噴射の跡がない。映像ではまっすぐにどうして着陸できたのか。映像では太陽の下では200度であり、日陰ではマイナス100度であるのに、あんな薄っぺらい服で大丈夫なのか。映像では天上から吊り上げられるようにスルスル上昇した。映像では星が写っていない。ぐるりと自分を中心に一周する映像がない。月面をかけていく二人を誰が撮影したのか。人類最初の月面の一歩は後ろが宇宙船なのに誰が宇宙船ごと撮影したのか。何年もあと、NASAは映像はヒューストンから遠隔操作で撮影したと言ったが、38万キロ彼方をズームアップしたり、カメラを動かす技術があったのか。月面着陸の3週間前の予備実験では、実験猿が死んで帰ってきた。月の石の分析を全然公開していない。6回の月面着陸の映像背景が全部同じ。高性能の望遠鏡なら月に残してきた残骸が観測できるはず。宇宙は放射能(宇宙線)で満ちているからあんな服でいけるのはおかしくないか。・ ・・このぐらいで勘弁しといたろか・・・・中学生のとき宇宙飛行が捏造であったというカプリコン1をみた。そういえば、このアポロの宇宙撮影をしたのは前年に撮った「2001年宇宙の旅」が評価されたスタンリックキューブリックだという噂もある。(2001年の翌年彼は、半年間篭り切りで何かを撮っている)彼は、大きな陰謀で殺されると思ったからか、あの撮影以降、飛行機には乗らなくなり、イギリスで暮らしたのであろうか。遺作「 ワイズアットシャウト」に意味深長なメッセージのようなものがあったような気がしたのはそのためかと勘ぐりたくもなる。 立花隆の「宇宙からの帰還」という本で、宇宙飛行士の内面を描いた作品に長らく、すごい本だなあと思っていたが、帰還してからの宇宙飛行士が伝道師になったり、隠遁生活に入ったり、気が触れたりしたのは、立花隆の本によると、地球という姿をみていたらとても感動して精神状態や思想が変わったからではないかということであったが、何だか、大きな陰謀の陰で何億人という人を騙した良心の呵責から精神的に耐えられなくなったというほうが、分かりやすいような気もする。ん?パリの散歩のことを書こうとしていたのだった。疲れたから、それは来年に書くことにする。
2005.06.23
コメント(12)

バルセロナのガウディ作カサミラの3階の平面図。 バルセロナの1等地に立つ、直線のないぐにゃぐにゃ有機体建築物は、天井へはオノボリサンで行くことは出来るが、室内は、個人宅の為、当然入ることができない。フロア4戸。1戸約400平方メートル、約120坪。カサミラは6階建てであるが、総戸数19戸。 そこから、海のほうに降りていき、労働者の集まる安いバルに入り、昼間から、デキャンタでワインを頼み、そしてカタツムリのような貝を食った。 その後、平日のクラブに飲みに行った。体育館のような場所に椅子が、一番奥のバーカウンターにしかなく、客はいなかっら。ガランとした体育館に赤を基調に怪しい照明の中、ダラダラ飲んだ。 友達は、バルセロナに住む高校の同級生。といっても、高校の時は一度も話をしたことがなかった。高校の時の私が知っている彼女のことといえば、車を持った働く年上の彼氏に煙草の日を腕につけられた女ということだけで、高校の時の彼女が知っている私のことといえば、アンニュイな小憎たらしそうな奴。 どこでどう話をして友達になったか忘れたのであるが、カタラン人と暮らす彼女の所にブラブラ遊びに行ったのであった。彼女は、突然、ある暑い夏の日にOLを辞め、スペインにフラメンコしに行った。その後、一時帰国したが、結局バルセロナに住んでいた。 2泊ぐらいしていたら、「あんた他のとこいかんの?」と言われ、私は「行くにきまってるやん」と早朝、バレンシア地方への列車に乗った。 カタラン人の気ムツカシ屋の彼は、彼女を訪ねてくる日本人の友達(全員女性だったようだが)が、無礼で、頼りすぎなのが嫌いだったようだが、何故か、私がバレンシアに行った後、彼女は彼氏に怒られたそうである。「何故追い出したのだ!」と。その後、彼は、日本に遊びに来た。
2005.06.22
コメント(10)
間もなくカーブに差しかかろうとしていた。斜め前に座っていた親父が、すくっと立った。一瞬危ない親父かと思い身構えた。拳には無意識に力が入った。私の方に向かってくると思ったが、窓際に駆け寄り、静かに手を合わせた。 ふと、気がつくと、それにつられてか立つ人、座ったままの人それぞれが、何人もが、すっと手を合わせた。 昨日から再開した宝塚線の電車の中で。 梅雨の湿った野蛮な暑さが、音を奪った。 祈りはそこにあった。 夜になり、瞬間的にしか感じなかった夏の予感。常夏の歯切れの悪さを。区切りの悪さを。巻き上げて、撒き散らし、破廉恥なやけくそ。でも私はコレを失いたくない。 ボダナード寺院のマニコルを回しながら、何も考えずに、敷地をグルグルとネパール人チベット人と一緒に時計回りに回る。仏塔の上にある4つの顔はすべてを見通す仏陀の目。5層構造になっているのは土、水、火、風、空。赤・黄・緑・青・白の旗。ただ歩くだけ。
2005.06.21
コメント(15)

「鉄は国家なり」 戦後の国家の発展に寄与した業界 臨海沿いの工事現場、多分日曜だろう、荒野のような所を歩いていた。 プレハブの横に一時的に据え付けられたのだろうドロドロの自動販売機が置いてあった。捨てられているように見え、「これって壊れているのかな」と呟いた。 不意に、父は、その自動販売機に思い切りキックし、何の反応もないのを確かめると、ジャリ銭を入れた。ギャチャン、瓶のペプシコーラが出てきた。妹と俺は、半分づつそれを飲んだ。 家の裏には大規模宅地造成工事が行われていた。多分、日曜だろう工事車両も全て止まっていた。散歩の途中、むき出しの土管が置かれていた。その横に何故かスプレーが落ちていた。 不意に、父は、スプレーで土管に「バカ」と書いた。「これはどうせ土に埋まるんだ、ホラ、おまえもやってみろ」その工事現場に無理矢理、父は、原動機付自転車で入り込んだ。俺、無理矢理、自転車を工事現場に入れた。父は、しばらく原付を乗っていたが、私に原付を与え、「オモロイから乗ってみい」と言った。小学生の俺には、爽快であった。そのぐらいの教育をしてもらった私だが、おかげで立派な道徳人として日々暮らしている。自動販売機の売上は2兆3000億円らしく、飲料水の半分を占めているそうだ(コーヒーは7割)。単純に100円として230億本、日本人口1億3000万人として、年間一人当たり180本、2日に1本買っている計算になる。そんなに飲むかなあ。父の言いつけを守って、年間10本ぐらいにしている。それも、酔っ払った帰りか、次の日二日酔いで出かけてムチャ気分悪い時ぐらいである。60年代のの空き地の三種の神器は、四方田犬彦氏によると「土管、鉄条網、ドラム缶」であるという。ウルトラマンのガバドンは土管の落書きから生まれたユニークな怪獣であった。ガバドンは宇宙船を浴びてひたすら大きくなるだけで、寝そべっているのみ。子供達は、暴れろーと叫ぶのだが、ガバドンは動かない。害のない、大きさだけが邪魔な怪獣にウルトラマンもほどほど困った。そうにかしようとするウルトラマンに子供達は「ウルトラマン、帰れ~」コールまでするという珍しいシーンもある。結局、ウルトラマンは宇宙にガバドンを捨てに行くという悲しいストーリーであった。 父のいいつけを守って、土管に落書きするときは、悲しいストーリーにならないように怪獣は描かないようにしている。しかし、最近、土管は見かけないし、空き地自身がない。あの意味のない訳の分からない空間で、子供として何と楽しく工夫して遊んだことか。 大学に入り、地方出身の知り合いもできるようになると、原付で遊んでいて、交番の警察官に見つかっても「気をつけていきやー」と言われる大らかさがあったようである。そういえば、家島諸島に行った時も、誰もヘルメットをかぶっておらず(車がない)片手に釣竿持って出かけていく主婦連合を見たものだった。きっと夕食を釣りに行くのだろう。 父のいいつけを守り、原付は10年間に3回ぐらい買い替えたが、何に乗っていたか、スポーツタイプのRZ50以外には思い出すことができない。(実家は、駅から2キロであり、バスが通っていないので、一人に一台の原付が割り当てられていた) 父は無言でいろんなことを教えてくれたのだなあ。
2005.06.20
コメント(15)

スコブル評判の悪いTシャツ
2005.06.19
コメント(2)

「マルボロの意味を知ってますか」と言って、今まで、何百人もの老若男女を欺いてきました。18歳、確か、煙草が解禁される年頃だと思う。18歳の夏、煙草を吸う癖がついた。フィリピンでは、メインの煙草がマルボロであった。マニラで知り合ったノエルは、マニラの下町で歩き煙草売りの少年から、煙草を2本買った。そして、1本を私にくれ、彼は、「マルボロのスペルの略を知ってるか」と言って、その煙草売りの少年からジッポを受け取り、火をつけた。煙草伝いに私の煙草に火をつけた。フィリピンスタイルである。たいてい皆、煙草はバラ売りでバラ買いするし、ライターも持っていないので、煙草を吸っている人を見つけて、煙草の先から貰い火をするのだ。Men Always Remember Love Because Of Romance Only文法的に何だか変な感じもするけど、妙に納得した。男の身勝手な論理を強いアメリカに反映しているなあと思った(その頃「強いアメリカ」を標榜するレーガン政権でもあった) 想い出の煙草として、私の煙草の人生の銘柄はフィリピンで決まった。人間というもの、煙草の銘柄、実は、味なんてそんなに変わらないものだけど、次から次へと銘柄を変える人は少ない。それで、煙草産業は、銘柄を決めてもらうには、早ければ早いほどいい。テレビでのコマーシャルはなくなったが、「未成年は吸ってはいけないよ」といいながら、未成年が反抗して吸うのを大いに期待しているのであった。 そういえば、マルボロ伝説としては、パッケージにKKKが刻まれているとか、パッケージに飛び出ているMとlとbの飛び出た部分以外を覆ったら2人の足が出て、アメリカインディアンが吊るされている虐殺を示しているとか(何でやねん)あったなあ。ボックスタイプの煙草は背広に綺麗に入るようにだってね。あ、マルボロと関係ないか。最近、老若男女を騙してないなあとふと思い出したら、3年ぐらい禁煙しているんだった・・・
2005.06.19
コメント(16)
私は、はっきりというと虚言症気味だが、3日も言い続けたら飽きたのでもうやめる。 しかし天才は違う。やめないのだ。モーパッサン、ニーチェ、マルクス、山下 清でなく、ベルである。英語で鈴、フランス語で美しいって意味だけど、今は、グラハムベルである。自閉症である。ベルの親は、聴覚障害の人相手のスピーチセラピーという職業だったらしい。まだ当時は手話が広まっていなくて、独特の方法で会話できるように指導していたらしい。具体的には分からないが、英語を覚え始めの日本人が、読み方をカタカナでルビをふるようなものだった。その仕事を次いだ、ベルは、ある一人の患者の少女にゾッコン一目惚れしてしまった。恋をして盲目になった彼は、彼女と会話を円滑にしたい一身で、「振動でメッセージを伝えることができるようになります」と突如ホラを吹いてしまった。しかし、そこから彼は涙ぐましい努力が始まる。そしてたった2年で彼は電話の基本構想を発明する。そして電話は欧米を圧倒していったのであった。ソレと共に、名声と富と、そしてその少女を妻としてめとることができたのである。 ソレと共に、彼の自閉症は再び始まり、森に一人暮らし、夜には朝方までピアノを弾いたり、散歩したりという生活を送った。学会にだけは顔を出し、当時のアカデミーでは彼の顔を知らない人はいないぐらいであったが、ファーストネームで呼び合う人はいないままであった。 うーん、天才の話からそれているような気がしてきた。というか飽きてきた。そういえば、電話よりもファックスの方が早く生まれたんだよねえ。 カンダハルというアルカイダで有名になったアフガミスタン第2の都市の名前の由来はアレキサンダーなんだねえ。彼は征服して各地にアレキサンドリアという名の都市を作ったけど、もう2つしか名残は無いのだねえ。シカゴは「たまねぎのあるところ」という意味なんだねえ。今度シカゴ行くかも知れない。何をしに行くかは、その時考える。世界一広い市は、オーストラリアにあるらしい。九州ぐらい。でも世界で一番広い町はアラスカにあり、本州ぐらい。人口は4000人。なんだかなあ。こうやって、夜な夜な、モノを書いて空想しているが、昼間は似合ってない仕事をしているのである自分が不思議であるなあ。あっちからこっちの世界へ。 ボラポラス海峡、アジアからヨーロッパへ そう思ったら、何か安心して、言い訳する自分がいた。すみません。
2005.06.18
コメント(12)
私は、はっきりというと虚言症気味です。「夢食う旅人です「明日には明日の風が吹くのでノー天気」「モテモテである」「精神的貴族である」「家の整理整頓がきっちりできる」「仕事の段取りがばっちり」「目標と期限を持って物事に真摯に取り組んでいる」「遅寝早起きで健康」等いいまくっています。注意欠陥障害でなく、単にそそっかしいだけである。他人と話するのは面倒などと嘯いているが、実は園と売りである。社会や他者はちっとも自分の思い通りにならないのは、社会や他者のせいにして、自分を責めたら病気になってしまうなどと言っています。しかしながら、それは、病気でなく、小さい頃からの癖で、同じ過ちを繰り返し続けています。 しかし天才は違う。病気だ。トーマスエジソンは、発明家であり、「天才とは99パーセントの努力と1パーセントのひらめきだ」と前世紀最大の天才と言われているのは周知の事実だ。しかし、その1パーセントが凄い。当時、夜は暗くなるのはアタリマエ、ずっと明るかったら素晴らしいなどと考え付いたところが凄いのである。しかし、エジソンは、いつもボーっとしていた。空想壁の持ち主であった。オチこぼれであった。 子供の頃の偉人伝といえば、エジソンかノグチヒデヨか、まあそのあたりであった。どんな伝記であったが、ウル覚えではあるが、学校に行っても質問ばかりして授業の邪魔をしまくるが、学校の成績は最悪で、先生は3ヶ月で放校させ、昔先生をしていたという母親が家庭教師となり、彼を教育したという美談であった。確かに学校でこの偉人伝を教えると、「学校に行かなくても、偉人になることはできる」といった教育上非情にマズイ物語であった。しかし、私が大人になってから知りえたこころでは、エジソンの母は10代で結婚し、エジソンは5人目の子供であるがゆえに、先生なんかしていたとは到底思えない、ということであった。当時、日本高度成長、よく学校に真面目に行って努力し、いい会社に入って社会に貢献することがエライというストーリーにはいささか都合の悪い物語であることを知った。エジソンは脳の病気だった。彼はぼーっとしている注意欠陥障害であったと言われる。 ぼーっとしていているのだが、反面ひとつのことに凄い集中力を持っていた。というか、ひとつのことにしか集中できなかった。普通社会生活を送っていると、歩いているだけでも、視聴覚にあらゆる情報が入ってくる。前を歩く人、後ろからの車、風、信号、電車の音、右左と足を出して歩く、服を調える、次にすることを無意識に考える、初夏の香り、カバンの重さ、時間を気にする、など次から次へとあらゆる情報が入ってくるが、うまく自動的に取捨選択し、不必要な情報は消し去りまたは気にセズ、次の情報に対応している。しかし、エジソンはひとつのことに集中すると、他の情報はシャットアウトされてしまうのであった。次から次へと注意を移動させることが困難だったのである。これじゃ危なくて道も歩けない。ただ、注意散漫というのではなかった。彼が、発明したもので最も有名なのは電球、フィラメントであろう。それに固執したから、どんなに失敗しても周りからとやかくいわれてもただひたすらに実験を繰り返すことができたのである。 ところで、実際のところ、彼よりも早く電気を発明した人がいたようである。そのスワンというイギリス人は趣味でそういう実験をし、貴族道を持っていたのに対し、エジソンは「わしが一番や!パイオニアじゃあ」と先取り特権を主張しまくり、(思い込みが激しいので本当にそう思っていたのであろう)マスコミを大扇動して、自分の栄光にしてしまった。スワンには法廷闘争まで挑もうとしたが、教養のある謙虚なスワンは争いを避けるべく身を引いていったのであった。一方、エジソンは「ハッタリが効いて、資金力があることが必要だ」という態度を緩めず、結局、エジソンの電気は欧米を圧倒していったのであった。ただその頑固さ一途ゆえ、オカルトでも有名な弟子ニコラステラを追放したり、オカルトにはまって失敗したり、挙句に大企業に食い物にされてしまったのであった。 ところで、ぼーっとしているといえば、確かに小学校1年の時にクラスに3人、どうも、ぼーっとしていて、落ち着きのない子供がいた。そしておおらかだったのか、先生もそれを楽しんでいるかのようにみえた。3人には特別に、黒板の後ろを授業中であろうが、自由に席を立って、好きなことを描いてもいいという特権を与えてあげていた。周りの子供達も、まあしゃあないなあ、という感じで仲良くやっていた(ただし、その3人との会話は相互理解できず、難しかった)その後、年数がたち、2人は普通の子供になっていった。勉強がよくできるということはなく、成績は一番下であった。もう一人は、おかしいままであった。しかし、社会だけはよく出来、地図を書くのだけは異常にうまく、直線をフリーハンドで書いても定規で書いたようにまっすぐであった。そのほかの科目はさっぱりだったし、まともに他人とも話することも出来ず、皆、反対したのだが、中学校の時、他校の特別学級に行ってしまった。彼は今どうなっているのだろうか。 もしかして、ジャカルタでカキ氷屋をしているのかも知れないなあ・・・ンな訳ないか・・・ そう思ったら、何か安心して、言い訳する自分がいた。すみません。
2005.06.17
コメント(18)

私は、どちらかというと虚言症気味です。「今日は多動症やADHDの日記を書く」「明日に今日の日記の続きを書く」「男前である」「精神的お金持ちである」等いいまくっています。多動症でなく単に落ち着きがないだけで、仕事もデスクに1時間以上座ってはいられません。打ち合わせでは、何時間も続くとボーっとなって皆の話していることが分からなくなっていきます。しかしながら、それは、病気でなく、小さい頃からの癖で、同じ過ちを繰り返し続けています。 しかし天才は違う。病気だ。アルバートアインシュタインは、特殊相対性理論、一般相対性理論を考え出し、前世紀最大の物理的発見であり、コペルニクス的転回であり、前世紀最大の天才と言われているのは周知の事実だ。しかし、アインシュタインは、いつもボーっとしていた。空想壁の持ち主であった。それはその理論の発見後も続いた。特殊相対性理論を思いついたときは、他の物理学者との交流はなかったどころか、学問の世界にはおらず、しがない特許局の一職員でしかなかった。 彼は、幼い頃から無口で、同時に癇癪もちで、学校では数学とラテン語以外は全くの劣等生であり、先生からは「おまえがいたら学校の権威が下がるので学校をやめろ」とまで言われている。他人とはうまくやっていけず、記憶力が甚だ低く、スポーツなど一般的なことに感心が全くなく、質問されても、整理が出来ず、口もごり、言った後もその言葉をモゴモゴと反芻していた。大学でも先生から「怠け者の犬」と呼ばれ、学問の世界においてくれず、就職するしかなかったのであった。記憶する力にすっごく欠けていたのである。アインシュタインは脳の病気だった。彼は一時的な記憶ができなかったと言われる。 脳の記憶には、いつまでも覚えている記憶(幼い頃の記憶)と短い記憶(2日前の晩飯のメニューを忘れる記憶)と一時的な記憶(104で電話番号を聞いて、かけた瞬間に忘れる記憶)の3つがあるが、彼は後者にかけてたのだが、この一時的な記憶は脳の頭頂葉の仕事らしく、ここがイカレテいたようだ。 彼はその劣った分、視覚イメージが強烈に強かったようである。いわば、目が見えない人が異常に耳が発達するのと同じであろう。 白昼夢の中で、彼は理論をイメージし、頭の中で図を描き、それを理論にしていったのであろう。 ところで、私はもともと、理学部数学科に行きたかった。それは高校の数学が単純に良く出来たからということに過ぎないし、数学の美しさに見とれたというのもあるし、受験期にも関わらず、2,3日を1問の問題に没頭し、解けたときの爽快感を知っていたからという程度に過ぎなかった。 しかし、気になることを受験生の頃、現役の東京理科大学数学科の人から聞いたことがあった。「大学の数学は小学校から高校までの一連の数学の延長ではなく、まったく別の世界だ。それに、学問というものは文系や生物学ではだいたい知識の積み上げなので、年長になればなるほど、経験も豊富になり、知識も増え、その分、権威も増す。しかし、数学や物理学の世界は違うんだ。そこには、生まれ持った天才が彗星の如く現れるのだ。入ってきた新入生の中で、我々先輩どころか、教授も思いついたり考え付いたりできない問題を難なく解いたりする特殊なセンスを持った奴がいたりするんだ。計算や暗算が速いとか問題を解くパターンの多さを知っているということではないんだ。推論や理屈で解くのではないんだ。次々に浮かぶイメージで結論を先に出して、それを検証するんだ、そいつらは。絶対勝てないんだ」 そう思ったら、何か安心して、言い訳する自分がいた。すみません。 スペインのアンダルシア、グラナダのアルハンブラ宮殿の対岸アルバイシン。勿論、アインシュタインとは関係ない。
2005.06.16
コメント(24)
私は、どちらかというと虚言症気味です。取るに足らないことも大袈裟に話したり、ありもしなさそうなことをさも事実のように話したりします。そして、人の話を聞くつもりは頭の中ではあるのですが、実際の所、客観的に見たら全然聞けてなくて、同じ失敗を繰り返し、叱られ呆れられることもしばしであります。しかしながら、それは、病気でなく、小さい頃からの癖で、同じ過ちを繰り返し続けています。 しかし天才は違う。病気だ。2年程前に「メメント」という映画を観た。主人公はショックから5分しか記憶を残せないので、体中にメモをしまくっている。フト気がつくと走っている、建物の向こうに水平に走っている奴がいる、一瞬彼を追いかけようとするが、メモを見て、自分が追いかけられているのに気がつき、逃げるといった大変な映画で、ストーリーもだんだん、始めに戻っていく。 レオナルドダヴィンチはルネッサンスの絵画などの芸術からヘリコプターを考え出したりする科学者としてオールマイティの天才であり、そのメモは5万点に及び、本当にいろんなことを考えていたことが分かっている。彼はメモ魔であるが、断片的なメモばかりであり、同じ紙に書かれた絵と文字が全然違っていたりなんかする。かの日本のエース、大阪国立民族博物館館長梅棹忠夫先生も、このメモに感激して本まで書き、自分も実践していたほどだ。またNASAでも、このメモをどんどん集めて考察するといういわゆるブレーンストーミング法を生み出したりしている。 ダビンチは脳の病気だった。彼は、記憶する力にすっごく欠けていたのである。そういうわけで、思い立ったことを何でもメモしていったのであり、後から見て、「へええ、俺ってすごいこと考えてるジャン」なんか思っていたのではないか。 よく言われるように、彼はそのメモをすべて鏡文字で書いていた。それは天才といわれているが、鏡に映せばすぐ何が書いてあるか分かるので、それは暗号ではないし、それゆえ、時代に反することを書いてばかりいるので、人々に分からないように鏡文字を書いた訳ではない。きっと。 そういえば、思い当たる節がある。私、そしてまわりの誰か、小さい頃、平仮名等の文字を覚えるときに、「ろ」や「さ」や「と」を反対に書いたり、見たりしたことはないだろうか。私たちは、それは間違いと何度も練習させられるから正しく書けるようになった。しかし、子供の頃は、文字が、どうイッテイイイノダロウカ、「グルグル」回って見えるという状態を体験したり、どうしても反対に書いてしまうと言う学習障害という現象(または社会から逸脱するという意味では病気)は、わりとあるものだ。彼は、不幸な家庭に育ち、しつけのないままに育った。この病気も治すことができず、綺麗に文字を書こうとすれば、単純に鏡文字になったと考えてもおかしくはない。 彼はオールマイティの天才と言われるが、まったくからっきしの部分もあった。彼は無口で弁論が全く出来なかった。多分、そんなに長く話すと、最初にいっていたことを忘れ支離滅裂になるのであろう。 脳の記憶には、いつまでも覚えている記憶(幼い頃の記憶)と短い記憶(2日前の晩飯のメニューを忘れる記憶)と一時的な記憶(104で電話番号を聞いて、かけた瞬間に忘れる記憶)の3つがあるが、彼は後者にかけてたのでメモ魔であったのだろうし、多分、芸術家のことは分からないが、モナリザを飽きもセズ死ぬまで描き続けたのは、毎日、見るたびに初めて観る新鮮な絵に見えたからではなかろうか。 彼は、記憶障害だったので、その放浪人生において、生まれ育ったフェレンチェの言葉しか死ぬまで話せなかった。まあ、イタリアやフランスは言語が似通っているので生活するのは「変な言葉を話す外国人」と思われるに過ぎなかったのであろう。(ルネッサンス時期のイタリアは国ではなく、それぞれの都市が独立していて方言程度であるが違う言語を話していた) 彼は暗算もできなかった。暗算の途中で最初に計算した数字を瞬時に忘れるのであろう。一時的な記憶が出来ないのであった。 そんな彼だから、写実主義(見たままを描く)になったのであろう。宗教画の様式美を脱したというより、それしか描けなかった。そして、そこにのめり込み、死体を克明に描き、後の人々はその技法に感心していくのであった。 そう思ったら、何か安心して、言い訳する自分がいた。すみません。
2005.06.15
コメント(19)
05年06月 07日08時09分13日07時53分AM。私は耐えていた。 車内で、本を熟読している。電車内で本がないと、そわそわして、落ち着きがなくなって 釣り広告を隈なく読んだり、他人の新聞を読んだり、他人の漫画を盗み見してしまう悪い癖がある。北朝鮮の満員バスでは、前の人の肩に本を置いて、皆読書に勤しんでます、なんて向こうのガイドさんが説明してくれた、外国の地下鉄では危険なので寝ている人なんていないなんていう本を読んだことがあるが、本当だろうか少なくとも私はニューヨークやロンドンやパリの地下鉄で寝ている人を見たことがある。自分自身もソウルの地下鉄で爆睡したことはある。私もの場合、まあまあ本当なのだが、新刊の文庫本は買う方だとは思うが(月10冊ぐらいかなあ) 1ヶ月に10冊は買うのであるが、不思議なことに、今まで一度も自分が新刊を読んでいる時に、電車内の他人が自分と同じ本を読んでいる人を見たことがない。本を読んでいるのを見た事がないが、雑誌については、同時にというのはないが、それ昨日読んでたぜってのはある。最近、雑誌は買っていないが、一時期雑誌はよく買っていたが、これぞという読みたい雑誌がないのかも知れない。それでも飛行機や新幹線に乗る時は、ニューズウイークとかアエラとかスパとかもうなくなったけど噂の真相とかクレアとか東洋経済とかダイヤモンドとかサピオとかなんかは買うことがある。でも、もし見かけたら凄く恥ずかしい気持ちになっちゃうだろうな。昔自分が読んだ本でも、他人が読んでいるのを目撃しただけでも、結構、自分の裸頭の中を見られているようで恥ずかしいものだ。はあ。天使張りの溜め息よく考えたら先日と内容が同じ。 05年06月07日08時09分13日09時59分PM。私はそれほど耐えていた訳でない。仕事が終わって憂鬱度苦痛が軽減されたからで、決して車内が空いていたからではない。おまけに、今日は、サッカーがあるとかで、私以外早々にサッカーがなかったので、社員の皆さんも会社を遅々まで会社にいたので、私も、流行に乗り遅れまいと、急いで会社を退散したのであった。 「お前もう帰るんか」と後ろ指を差されながらも急いで会社を退社したのであった。 車内で、本を熟読している。ふと顔を上げるとそういえば、そうそう、何か最近下火ではあるけど、ところどころが切れたジーンズ携帯カメラが流行っているようだ。あれをみるたびに私は思う。「フッ、私が穴あきジーンズを履いていたのは、カメラを持ち歩くようになってからもう20年前もう10年がたつだぜ、やっと流行が追いついてきたか。それにしても、売っている時から破れているのを見つけた時は、少しばかりひっくり返りそうになったけどな最近はデジカメに変わったけどな。」などと気障尊大に思ってしまう。 ジーンズは500回ぐらい履くと、カメラで意味なくバンバン撮っても、どこか破れてに現像したものを仕舞いっぱなしになってくる。ジーンズの寿命は、自分が太った時か、おかんが「そんなボロボロのもの着て」といって捨てたカメラを壊した時か、壊れたカメラをカメラ屋に持っていって「これは買い替えた方が安いですよ」と言われた時ぐらいなものだ。勿論、今はいくら私がマザコンカメラ小僧、否、カメラ実業家といってもおかんの庇護の元から離れて一眼レフカメラだけは買い替えず10余年、後者の理由で寿命を終えることはなくなった理由もなく持ち続けているが、今は重いので押入れでひっそりと息を殺して眠っている。 そんなことを考えていると (実は、今、思い出して考えたんだけど) (実は、今、考えながらタイピングしてんだけど)もう電車を降りる駅まで来てしまった。はあ。失業中の天使張りの溜め息。よく考えなくても先日と内容が同じ。 踏み切りゲンマン嘘ついたらハリセンボーのーばす
2005.06.14
コメント(4)

日記を折角つけているのだから、昨年の今日は何をしていたのだろうかと、チェックしてみたが、本日の出来事になっていないので、何をしていたか順調に分からない。でも、これは過去の淡路島の風景なんだなと分かった。アララット山 一昨年のものも念のためチェックしてみたが、あまり意味が無かった。この日記をオープンさせた時に半年分を1日で載せたような記憶がある。800回記念で、午前中近くにオープンしたコーナンに行き、ガーデニングコーナーで花を買った。得意技は花を枯らすことである。8000回記念で、午前中に髪を切ったが、順調に眠って、頭カクカクいわせた。これも得意技である。80000回記念で、午前中に古本屋に行き、5冊本を購入したが、机に重ねるだけが得意技である。200年にわたり、目的がよく分からなかったのは十字軍遠征である。当時は江戸時代のお伊勢回りのように、歩いてブラブラとエルサレム聖地を巡礼するのが流行っており、それが武装した蚊達である。ちなみにお伊勢さんもメジャーな旅行で、東海道を5メートルに一人くらい歩いていた計算になるらしい。十字軍も第一回目からして南フランスの寄せ集め軍で、セツジュークトルコでは略奪を繰り返しただけなのだが、トルコ内のキリスト教徒や赤ん坊まで殺して回り、戦利品をガッポガッポ儲けた訳である。これにおどろいたドイツ軍は後に続いたのであるが、その言い訳は「キリスト教徒は殺害しなかったよ」という程度のものであり、やはり略奪を繰り返した。結局兵糧攻めにあい、退散したのであるが、儲かる噂ばかり流れ、我も我もとトルコに出かけ、待ち伏せされて我も我もとやられていったのである。その後3回目にしてやっとヨーロッパ連合軍ができたが、十字軍に入ると、略奪してもいいことになっていたし、荘園主は領主の許可なしに勝手に荘園の売買ができるということになっていたし、庶民は借金支払いの据え置きがあったし、十字軍に参加しない者は財産の10パーセントを税金で持っていかれるということもあり、我も我もと十字軍に参加していったのである。4回目ともなると、聖地エルサレムに向かわず、コンスタンチノプール(今のイスタンブール)を占領し、ビザンチン帝国を滅ぼし略奪と狼狽を繰り返したのである。この時は密約を交わしていたベネチア商人が儲かった儲かった。これに怒ったのがジェノバ人やピサ人で通商権を争うこととなった。7回目ではルイ9世がカイロで敵に捕まり、借金をして釈放してもらった。これが銀行の始まりということであった。貸主はテンプル騎士団。そういった意味で、十字軍は宗教と関係なかったのである、トイモイ日記が800回記念とも日々何をしているかとも関係がないように・・・
2005.06.13
コメント(10)
20歳。私は5日間滞在した新潟を出た。鈍行で上越線に乗り、東京に向かった。途中、高校生がまたもや列車の連結部分を締め切って煙草を吸っていた。新潟では流行っているのかも知れない。上越線での想い出はないのだが、途中、列車内からスキー場が見え、人々が滑っているのが見えた。ここからは以前にも書いたことがあると思うのだが、22時頃、私は、東京の経堂駅に着いた。専修大学に通う友達に会うためだ。彼の下宿に行ったが彼は不在。何故だ。私は彼が帰ってくるのを玄関で待っていたが、非情にも彼は私との歴史的会見アポをすっぽかして、遊びほうけているようだ。私は、コインロッカーの仕組みが分からなかったので、23時50分から駅前のロッカーで10分間をぼさっと待ち、零時を越えるのを確認して、荷物を預けた。そして、居酒屋つぼ八に入り、ゆっくり飯を食いながら、本を読んだ。そして閉店となり、経堂をウロウロして、また彼の下宿の前の公園のブランコに座った。何か寂しさとブランコが似合った。日記に書いておこうとカバンを開けると、日記がなくなっていた。5日間克明にに書いた取材日記が消えていた。決してスパイ活動をしていた訳でもないのに。経堂の歩いてきた道を逆戻りし、道中を探したが無かった。落胆し、またブランコに座った。揺れるブランコと寂しさが良く似合った。そして、次にカメラをチェックした。フィルムの交換をしようとカバーを開けると、フィルムが空回りし、1枚も撮れていないことが判明し、5日間の新潟が真っ白になった。ブランコがキーキーなる音と靴が砂を擦る音と寂しさと虚しさが良く似合った。子供時代よりブランコに長く座っていた。おそらく人生で一番長いブランコの日であろう。電車が動き出し、私は電車に乗り、海老江に行った。海老江の駅前のベンチで横になった。その後、横浜の中華街、山下公園に行った。(その数年後またランドマークタワーに行くまで数年間山下公園には行ったことがなかった)また夜になり、横浜の親戚の家に行き、従弟と親父と酒を飲み、何故か共産主義の話をして、酔っ払って、翌日寝坊して、急いで成田に向かったのであった。 プラハ地下鉄、共産主義的・・・
2005.06.12
コメント(8)
私の衣食住の部分の衣食を全て昨日、一昨日に曝け出したので、今日は、もはや住の部分に光を与えるしか仕方ないと、今、思ったのだが、住の部位については、私は専門家なので、専門的なことは答えられないので省略したいと思う。もし、私が、専門的知識を駆使して、読者を扇動したなら、やれ土地家屋を買った、土地投機した、土地転がした、他人の家を売却した、などと日本中を混乱と狂気の渦に巻き込んでしまうという可能性もなきにしもあらずなので・・・せめてもの罪滅ぼしと、昨日にちなんで、再びガウディのことを思い出した。カタラン人の友達は、「決してサグラダファミリアに行くな、そうするとバルセロナに来て唯一あそこに行かなかった日本人という栄光を手に入れることができるぞ」と辛辣なアドバイスをくれたが、その意見は順調に無視してサグラダファミリアやバルセロナ市内のガウディの建築物、グエル公園などに行ってしまった。 ガウディの生涯を簡単に紹介すると、1850年代に生まれた彼は、20歳前半で大金持ちグエル氏に見出され、カサバトリオ、カサビセンス、カサミラなどの建築をして、ついに、偉大なる違法建築サグラダファミリアに人生の全てを捧げ、この仕事だけにのめりこんだという生涯独身を通した建築家だった。 作品の特徴は、直線がないということ、モザイクタイルを多用するということなどであった。実際に一般の人が住んでいる家もあるが、光と風をを取り込むという思想も、住んでいる人はプライバシーの為、光の入るところを覆ってしまっていたりなんかして、中廊下が真っ暗だったりなんかする。 ドメネクというライバルの建築家がいて、概ねガウディの評価が高いが、ガウディにも欠点があって、それは、色彩感覚に鈍いということであった。まあ、その辺りまでは自力で思い出したが、後は、少しホームページから知識をぱくってこようと考えたが、それは、興味のある人にみてもらうということにしてここで早々に筆をおこう。
2005.06.11
コメント(12)

サグラダファミリア(スペイン) 何を隠そう、6月9日だからというのは、全然関係ないが、ミンチ肉は買わない。どうしてもミンチが必要なら文明の利器という名のフードプロセッサが活躍する。ミンチは何の肉か実際分からないばかりか、奇形や混ざり物の可能性が否めないからだ。しかし、正直いうと、友達とメシを作るという以外は肉を買ったことがない。だから正確にいうと、友達とミンチ料理をするときに普通の肉を買ってミンチを作ったというのが正しい。サグラダファミリア(ガウディ。まだ建築中) 何を隠そう、私は、切り身も買わなかった時期があった。切り身の前の魚の形が変形しているのではないかと言う恐怖から逃れることができなかったからである。私は5年ぐらい前までは、魚を3枚に下ろせたし、イカいっぱいをぐるりと裏返して腸とってさばくこともできた。ちょっと自慢の過去ではあるが、過去の話なので、もうできないと思う。つまり、正直いうと、秋刀魚なりアジなり魚丸ごと買ってきて丸ごと煮たり焼いたりする。最近では、切り身で買うため、サバとアジの区別がつかない人が増えているという。サバやアジやイワシといえば、少年時代、それは釣ってくるものであって、買うものではなかった。サビキで百匹以上のイワシ取ってどうするの?というぐらい釣って、一部の食用以外は肥料なんかにしてしまうといった悪行も繰り返した。最近、イワシさえとれなくなってきたという。そういえば、食えないけど、メダカもいなくなってきているという。そういえば、どこかの国の皇族が親善にと放したブラックバスが天敵知らずで大問題になっている。池や湖魚は泥臭くて、寄生虫も多く、食えないが、ブラックバスは名前に反してなかなか淡白。サグラダファミリア、テッペン部分、上ってゼイゼイ 何を隠そう、人の命は、人のものでもなく、ましてや自分のものでもなく、何か大いなるものの所有物である。命は自分のものだから、自分勝手にできるという思想は、少しずれれば、他人あるいは国家の催眠によって都合よくすり替えられてしまうこと間違いない。自己責任自己責任と言っていると、他者を軽視しかねなくなってしまったりする。ましてや資本主義はすべてお金が最高の分かりやすい価値観になっているので、結局強い者や金のある者が強くなってしまう。物事はたいていそれで仕方ないことであるが、ことさら、命まで金換算すると、自分の命が自分のものでなくなるといった現象が起き、国家の都合でお国のために死に、何も分からない子供が親の所有物になりといった危険性を孕んでいる。だから命は、自分のものでなく、大いなるもの、(場所や言い方によっては神や仏)に預けていると考えるのが都合よろしいのである。6月9日だからというのは関係ないけど、いつも何がいいたいか整理できませんな。
2005.06.10
コメント(12)

05年06月07日08時09分AM。私は耐えていた。 車内で、本を熟読している。電車内で本がないと、そわそわして、落ち着きがなくなってしまう悪い癖がある。北朝鮮の満員バスでは、前の人の肩に本を置いて、皆読書に勤しんでます、なんて向こうのガイドさんが説明してくれた、なんていう本を読んだことがあるが、本当だろうか。私も、まあまあ、新刊の文庫本は買う方だとは思うが(月10冊ぐらいかなあ)、不思議なことに、今まで一度も自分が新刊を読んでいる時に、電車内の他人が自分と同じ本を読んでいる人を見たことがない。でも、もし見かけたら凄く恥ずかしい気持ちになっちゃうだろうな。昔自分が読んだ本でも、他人が読んでいるのを目撃しただけでも、結構、自分の裸を見られているようで恥ずかしいものだ。はあ。天使張りの溜め息。 05年06月07日08時09分PM。私はそれほど耐えていた訳でない。仕事が終わって憂鬱度が軽減されたからで、決して車内が空いていたからではない。おまけに、今日は、サッカーがあるとかで、私以外早々に会社を退散したので、私も、流行に乗り遅れまいと、急いで会社を退散したのであった。 車内で、本を熟読している。ふと顔を上げると、そうそう、何か最近下火ではあるけど、ところどころが切れたジーンズが流行っているようだ。あれをみるたびに私は思う。「フッ、私が穴あきジーンズを履いていたのは、もう20年前だぜ、やっと流行が追いついてきたか。それにしても、売っている時から破れているのを見つけた時は、少しばかりひっくり返りそうになったけどな」などと気障に思ってしまう。 ジーンズは500回ぐらい履くと、どこか破れてくる。ジーンズの寿命は、自分が太った時か、おかんが「そんなボロボロのもの着て」といって捨てた時ぐらいなものだ。勿論、今はいくら私がマザコンといってもおかんの庇護の元から離れて10余年、後者の理由で寿命を終えることはなくなった。 そんなことを考えていると(実は、今、思い出して考えたんだけど)もう電車を降りる駅まで来てしまった。はあ。失業中の天使張りの溜め息。
2005.06.09
コメント(19)
アポトーシスプログラム インドはまだまだ貧しい。貧しいなりに元気にやっていると思ったら、そうでもなくて、村に居候していると、病人だらけで、それでも、医者に診せる金はなくて、何をするのかというと、祈る。涙を流しながら、家族が祈る。 インドで、少し風邪をひき、副作用が強くて顔にブツブツができてしまうことと引き換えにがぴったり治る薬でももらおうかと、村の医者に行っってみた。権威ある医者は、部位でなく全体を見る。言葉はなく、問診は身振り手振りで、少し考え、医者はいった。「多分、風邪だ」それで診察は終わった。薬はもらわなかった。代わりに、バナナは食うな米も食うな、リンゴは食え、チャパティは食え。とのことだった。バナナや米は体を冷やし、リンゴやチャパティは体を温めることをずっと後で知った。 医療の発達により、病気の原因を知り、克服して、寿命が延びた訳ではない。生活レベルが上がり、衛生が良くなったから寿命が延びたのである。はしかにせよチフスにせよワクチンが開発される少し前から死亡率は減少している。生活に余裕が出来た頃から。生活に余裕が出来て研究する余裕もでたということか。それに昔から80歳や90歳の人はいっぱいいた。乳児の死亡率が下がって寿命が押し上げられただけなのだ。今、おそらく、気丈に生きているお年寄りは明治時代から戦前の人だ。これだけ軟弱になった我々の世代、そう長く生きれるものではないような気がする。でも、再生する力がなくなったら、もうそれは自然の摂理なんだなあ。
2005.06.08
コメント(18)

2005.06.07
コメント(14)

20歳。私は新潟経由で成田に向かった。新潟出身の心斎橋ワタル当時20歳に、手紙を送った。「SERUってどこや。」と。一通目の彼の手紙には、「そんなところはない」という返事があった。二通目に彼の手紙には、「検討に検討を重ね緻密に調査した結果、それはもしかして聖篭町かも知れない」という返事があった。私は、中学校の授業の時に使っていた日本世界地図を広げた。載っていなかった。私は、大学に入ってから海外旅行をするようになっても中学校の授業の時に使っていた日本世界地図を愛用し続けていた。その年の冬、私は、大枚数万円を叩いて、ニコンの一眼レフを購入していた。フォトジャーナリスト気取りで、何度か試し撮りをしては、知人からm老人趣味の「春の声だね」と、お褒めの声も聞いていた。その年の春休み、私は、青春18切符を購入し、朝に家を出た。母親に、玄関で、記念すべき、旅の一枚目を撮ってもらった。米原や敦賀で乗り換え、5時間程度で、金沢に着き、途中下車し、商店街を歩き、兼六園を見学した。前に座っているネクタイを締めた人が、「暗夜行路」を読んでいた。私は、インドに持って行った。長塚節の「土」と共に。小田実が海外に行けば「土」を読めと講演会か何かで言っていたからだ。夕方に金沢を出て、直江津や長岡で乗り換え、凡そ6時間程度で新潟駅に到着した。途中、田舎高校生が列車の連結部分で、煙草を吸っていた。駅を出て初めて、日本海で一番大きな都市であることを確認した。この時、聖篭町に近いのが新発田とは知らなかった。タクシーですぐだと思い、学生の分際で気軽にタクシーに乗った。タクシーで5,000円以上かかり、そんなに長く乗車したことがなく不安になった。タクシーの運転手が「お仕事ですか?」と尋ねてきた。「この旅館に行って下さい」とだけ私は住所を書いた紙を渡した。紙を渡したり地図を見せたりするのは海外旅行しているような気分だった。旅館に着いた時には、日付は変わっていた。
2005.06.06
コメント(18)

少し、お勉強。ボーダーライン。昔、大和朝廷は百済と仲が良かったんだな。唐と新羅の連合軍が百済を苛めた時に、大和朝廷は助っ人として、朝鮮半島まで軍隊を派遣した。しかし、連合軍にケチョンケチョンにヤラレテ、敢え無く撤退、その時初めて日本は国境を意識したと思われる。対馬に防人を設置し、にらみを利かせた。その城は朝鮮式山城なので、百済人に手伝ってもらったのだろう。宜しかったことに、連合軍は内部分裂を起こし、勝手に崩壊したが、その後も新羅の海賊に悩まされる。また女真族も1度、襲撃に来て、何百人も日本人が殺されたり監禁されたこともある。その後、有名な2回の元寇があり、九州は武装するようになったが、それが逆に倭寇となり、海賊行為を展開していった。その後、有名な豊臣秀吉の出兵があり、朝鮮との交流はなくなった。鎖国江戸時代は対馬が唯一の朝鮮との貿易窓口となり、明治維新後の征韓論、その後世界大戦後の李承晩ラインと順調に険悪のまま歴史は進んだ。その後、ついに韓国も海外旅行自由化となり、船が出ている対馬にも年間16000人もの観光客が訪れるこうになった。しかし対馬の人は、「彼らは全然金を落としてくれない」とブーブー言っている。アンダーライン、辛いん?は眠くなってきたので、つづく・・・
2005.06.05
コメント(8)

今宵は、家に帰ったら何故だか、猪のイメージが焼きついてきたので、きっと、何かが呼んでいるのだろうと勝手な解釈をして、疲れた体に鞭を打ちながら、車を走らせた。方々探した挙句、猪を発見。恐らく、車とぶつかった猪であろう、左後足を引きずって群れから離れてしまった憐れな猪が住宅街を歩いていた。数メートル離れた所からでも、その荒い鼻息が聞こえてくる。そして、俺を呼んだ癖に、俺から逃げようと、びっこを引きながら、逃げていくのであった。 激しい鼻息は私のようであった。 びっこをひいて逃げる姿は私のようであった。 つやの無い毛は私のようであった。 それでも野生の鋭い目は私のようであった。 「ししなべ喰わせろ」高校生の時、丹波篠山に泊り、先輩がそう叫んだことを思い出した。先輩は青森の大学に行き、すっかり訛って帰って来て、学校の先生をしている。 古本屋で100円で買ってきたインドの細密地図帳(英語版)を眺めている。 酒税6パーセント消費税16パーセント合計22パーセント ドイツ 酒税10パーセント消費税17パーセント合計27パーセント フランス 酒税10パーセント消費税7パーセント合計17パーセント カルフォルニア 酒税21パーセント消費税15パーセント合計36パーセント イギリス 酒税42パーセント消費税5パーセント合計47パーセント そしてわが祖国ニッポン
2005.06.04
コメント(14)
大学の時、カウンセラーの先生が、座談会を開いていろいろな意見を聞きたいという事で、バージンで無いということだけを条件に男女それぞれ十人ぐらいを募集していて、私も誘われてノコノコと出掛けていったことがある。 その座談会の際に、資料が配られた。「ノルウエイの森」の濡れ場のシーンだ。これを読んで、まずその感想を一人一人話してから話題に入っていくというストーリーになっていた。濡れ場の内容はウル覚えだが、高校生ぐらいの時からそのカップルはペッティングはできるがどうしてもその先ができないといった感じであったと思う。1987年に刊行されたその本を私は10時間かけて一気に読んだ記憶がある。あの頃、はっきりいって村上春樹にも村上龍にもはまっていた。(後年、ニューヨークのヘンリイベンデルの入っている建物で村上龍を見た。目が合った。顔が異様に大きかった)村上春樹の粋な台詞や比喩には、そんな形容詞どっから生まれてくるのかな、それに想像できないしと思いながら感心していた。それに、私とは年代が違うのだが私も60年代にかぶれていたので、人や音楽や映画の固有名詞の多用が面白かったし、想像力をかき立ててくれた。で、考えてみれば、そんなわけで、もちろん、と私も言葉を続ける癖は実は村上春樹の十八番の影響だし、言い切り口調もその影響かもしれない。しかし、何と言ってもそのリズム感の良さなんだなあと思う、なんてそんな話ではなかった、座談会の話だった。 一人一人の意見って、すごく体裁を整えていっているのか、本当にそう思っているのか、優等生ない件ばかりが続いた。「高校生でそんなことをするなんて」とか「まだ早すぎる」とか・・・ 私は、もちろん、(あ、いってしまった)その場を順調に白けさせた。「誰がセックスしようが、俺には関係ないです」と。 でもその座談会の後、先生に誘われて、何故だか飲みにいったのだけは憶えている。その後、徹夜バイトに行ったのも憶えている。お菓子工場でお菓子を作っていたのである。商品名は具体的に言ってはいけないが、ハイチューであった。もちろん、(あ、また言ってしまった)昼間はちゃんと学校に行き、順調に授業中に眠り、運動部のシャワー室を勝手に拝借し、着替えを持ち歩いていたのである。1週間に1度実家に戻り、洗濯をしていた。1ヶ月という短期バイトであるが、トータル何ヶ月したであろうか。もちろん(あ、またゆうてもた)ほとんどは旅行代に消えたのである。1ヶ月徹夜バイトして3ヶ月の旅行に出る、何か経済大国の申し子みたいでしょ。あ、座談会の話だった。でも、もうそれはいいや。 ノルウエイじゃないけど、隣のデンマーク、コペンハーゲンチボリ公園入口(まだ日本の岡山チボリ公園にはいっていない。岡山の後楽園には行った。宝塚のチボリカラカラテルメも行ってない)
2005.06.03
コメント(12)

「ブラジャーとはおっぱいのパンツである」小学校3年生の、ある日の給食時の話題の時に、そう発言した。私は、クラスで2、3人はいるエッチな発言を平気でする少し育ちの悪そうでいて、全然憎めないマスコット的な奴ではなかったし、皆を引っ張っていく学級委員長的オピニオンリーダーでもなかった。ちょっとそこらにいる体育の時間以外は大人しい無口な少年だった。しかし、何故かそう発言したとたん、班別に机を囲って食べていた、クラスのハンサムでおちゃらけの人気者Yの鼻から牛乳がこぼれて、そのまま、大声で、クラスメイト全員に聞こえるように、騒ぎ出した。普段お姫様を気取って澄ましているガリガリの女の子までが、眉間に皺を寄せて笑った。 中学校高校が一緒であったDが、地元で10年ほど前にマンションを購入した。ある日、隣室の人に挨拶にいくと、そのガリガリだった女の子が住んでいたとう。女性一人で家を購入したらしい。小学校の同級生男女が隣の家に住んでいるなんて、何だか恥ずかしいなあ。 そういってテレビをつけたらコマーシャルで、リクルートの雑誌「ゼクシイ」が10周年であるという。あのCMの主演女優は、なかなか演技がうまいなあと思う。思えば、最初の結婚式の前、リクルートから結婚情報雑誌をだすので、手作り結婚式の取材をさせてくださいという依頼があった。勿論、私は二つ返事で恥ずかしいので断った。 ところで、昨日は社内行事で甲子園で野球観戦があった。あったのだが、私はイチローなどの考え方や行動パターンには興味があるのだが、私自身の集中力のなさのため、9回分も観戦し続ける忍耐や根性や楽しむ持久力がないので、今回も辞退した。といっても、私は東京ドームに行ったことがあるし(3回裏表みた)甲子園にも行った(6回表まで観た)それに、今年の冬はマリナーズの応援にシアトルまで行った。(多分、正月休みか、ストだったのだろう、試合はやっていなかった)シアトルの空港はイチロー応援が多いのか、日本語の案内看板や電飾が目立った(それも間違ったキッチュな日本語)そんな訳で、いつかはまた野球観戦に行くだろう。(勿論、小学校時代は空き地や道路や放課後の校庭で毎日野球やドッチボールをしていた。決して恋愛にうつつを抜かしていた訳ではないんだよ念のため) 関係ないけど一宮タワー138メートル、バブルの無用塔
2005.06.02
コメント(14)

ほんの少し前のことではあるが、小学校1年生だった。同じ学級のSさんが好きだった。Sさんの家は、私の家から3分程の所にあった。ある日、家の前で、彼女のお父さんが何かモノを洗っていて、何故か私は、同じ学級の友達の名前を中くらいの声で話し始めた。それを聞いたお父さんが、Sさんに「友達が来ているよ」とはにかみながら家の奥に声をかけた。些細なことではあるが、Sさんも私の事が好きだったようで、何故か1度だけ、一緒に学校から家に帰った。その時、男友達に冷やかされ、2度と一緒に帰ることはなかった。ほんの少し前のことではあるが、小学校2年生だった。同じ学級のOさんが好きだった。Oさんは、成績優秀であったが、少し運動音痴であった。何故かそれが面白くてか、私は彼女の長い髪を引っ張っては苛める快感を知っていた。ある九九の1分間テスト中、いつも元気な隣の席のOさんが机にうつ伏せになっている。どうやら泣いているようであった。よく下を見ると、彼女はお漏らしをしていた。凄く調子が悪かったのだろう、さすがに、心優しい私はその時は苛めることはしなかった。彼女は、先生に抱きかかえられ、そして、早退した。ほんの少し前のことではあるが、小学校3年生だった。同じ学級のYさんが好きだった。Yさんはお嬢さんのように育ちがよく大人びていたのだが、女子の中で唯一、男子から何故だか、名前呼び捨てにされていた。放課後は、いつも吊り輪をして男女とも遊んでいたのだが、ある日、突然、男子どもが猛烈に男になり、何故かおふざけで、Yを触り始めた。私だけは触ることは出来なかった。と言って注意もできなかった。他の女子達が止めに入った。Yは泣いた。私はYの泣いている姿をぼんやり見ていた。ほんの少し前のことではあるが、小学校4年生だった。同じ学級のIさんが好きだった。Iさんは、活発で頭の回転も速かったが、背は学級で一番小さく、おてんば、おきゃんという言葉が似合った。彼女はいつも男の子にからかわれ、ムキニなってその男の子達を追いかけるのだが、何故か、私にだけは私がからかっても、何故か恥ずかしそうにするだけであった。それから、Sさんのことが2番目に好きだったが、Sさんは、学期の途中で引っ越していった。引っ越す最後の学校の日、Sさんは「私にいうことないの?」と言った。私は無言だった。ほんの少し前のことではあるが、小学校5年生だった。同じ学級のIさんが好きだった。Iさんは、少しぽっちゃりしていたが、運動が良く出来、活発な女の子であった。といっても、当時は気にならなかったが、結構、頭はフケが目立っていた。高校生になって、学校は違ったが、偶然、夏休みの図書館で出会った。お互い目が合ったが、何も話しなかった。ほんの少し前のことではあるが、小学校6年生だった。同じ学級のKさんが好きだった。Kさんは、お勉強が良く出来た。偶然にも家から100メートルの所に住んでいた。家から、彼女の部屋の明かりが見えた。音楽の時間、寒い部屋で、彼女が白い息を吐きながら歌う姿を見ていた。その後、彼女は医者になったという噂を聞いた。海の見える病院に勤めているという噂も聞いた。 そんな頃の私。
2005.06.01
コメント(14)
全33件 (33件中 1-33件目)
1