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今日の阪神優勝の騒ぎで思い出した。正月0時に、チェコのプラハで馬鹿騒ぎ。皆が寒空の中、誰彼構わず乾杯。私が日本人と分かると、地元プラハ君はかわいらしい彼女を抱きかかえながら、私と乾杯したあと、こういった。「日本って経済的にすごいんだけど、国民は結構満足できず不幸なんだって?本当かい?」 多分本当だ、と笑いながら言って笑って誤魔化した。
2005.09.30
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ずっと昔からではあるが、近年はパソコンを見ている時間も長い為、肩凝りが酷い。しかし、考えれば、肩凝りという英語は(多分)ない。西洋人はあまり肩が凝らないのか、そういうカテゴリーがないのである。 病気というものは、かの多重人格という病名が出てきたときのように、病名が発表されると、患者が潜在的にいたにせよ、ググンと増えてくる。多分、外国人が日本に来て、肩凝りと言う言葉を身近に感じるほど接してくると、多分、肩凝りになるのであろう。 カバンを持ったまま、遠心力でグルグル高速にかばんを回せば多少楽にはなる。仕事場を出て、人気のないところで思い切りグルングルン腕を回す。兎も角、大阪の街は阪神優勝の暴動前なので、危機管理のため、足早に逃げ切った。しかし、2年ぶりとは早すぎる。やはり18年は待つべきであろう。 今日は何となく気分が乗らないので、昨日の続きを書いてみる。意味はないが、世界一多い名前は当然、李さんである。欧米では、スミス(鍛冶屋)さんである。スミスジョンソンブラウイリアムジョーンズミラーマーチンテイラムーアトーマスシンプソンホワイトジャクソンクラークルイス・・・ゼイゼイ。そういえば、ターバン巻いたシク教徒は全員、シンだった。読み方は、ジョン、ヨハン、ジャン、ファン、ジョバンニであり、ピーター、ペーター、ピエール、ピエトロ、ペドロ・・・一緒や、そやそや、ロシアのサンクトペテルブルグ、英語の飛行機機内放送で、セントピ-ターバーグゆうてた。インランドはネンが多かったな。ナンデヤネンとか(嘘)他の北欧はムーミンのヤンソンのように、ソンや、アンデルセンのセンが多いな。そういえば、フィンランドは自国民のことをスオミというが、これは湖の人。パスポートにも大きくスオミと書かれているのをみた。ユーゴ系はやっぱビッチ。ビッチで一番オモロイのはモホロビチチッチか。教科書で読んで、皆、爆笑していたな。ミャンマーでは名字をほとんどの国民が持っていない。 いや、昨日の続きといえば、お遍路さんであった。お遍路さんは、60組はすれ違った。関係ないが、やたら軽自動車が多かった。宙を舞うクジラまずかった。
2005.09.29
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全世界の人に向けて、匿名性の高い日記である当日記で大暴露をしてしまうのである。といっても一度、2003年にしているのであるが。 私も、例に漏れず人の子であり、姓を、トイモイそのまま、トイといいます。日本で一番多い姓というのは、カタカナや読み方で誤差がでるため、佐藤か鈴木さんになっている。あとは、田中高橋山本渡辺高橋伊藤小林中村斉藤加藤など、まずふと知人の顔が思い浮かぶ面々である。(関西では圧倒的に山本、田中である。佐藤は多いが確かに鈴木という知り合いはほとんどいない)日本は最低15万種以上の名前があるといわれており、お隣の韓国に比べ大変多い。韓国では200種類ぐらいで、4,5人に一人が金さん、そして朴、李で人口の半分ぐらいを占めてしまう。 今まで出会った一番困った名前は、ここだけの話であるが、男子で「前達夫」女子で「貴頭正子」である。男子はゲラゲラ笑われて済んだが、女子は洒落にならないので、男子の中で密かに「スゲエ名前やな」と囁き合うといったものであった。 まあ、名前については、また来年あたりに期するコトニして、マイファミリーネームはトイである。 そんな訳で、トイという地名は、四国にもある。勿論、とても優雅で裕福そうな都市である。太陽の没することなき大帝国という形容詞が似合う感じである。 学校は、それこそ天才秀才そうな子供達が学業に励むふりをしながら校庭で元気に遊んでいた。きっとこの中から皇帝が出ると推測される。 マラソンコースは走っている間に、頭の中に虹が出てきて、下手したら倒れてしまうかもしれないが、その時はパラダイスであろう。それも退屈な失業状態のパラダイス。 武家屋敷に至っては、もはや見学者で足の踏み場もないほどであるというのはジョークで、見学者は他にはいなかった。敷地内では何故か畑仕事をしている凛々しいハンサムボーイがいて、「どちらからですか」と声をかけられた。何故敷地内で畑を耕すのだと言いたくなったが、IQの高い天才のすることは分からない、凡人には理解不能である。来年のNHKドラマの舞台になるので、ここも撮影の一環になるかもと申していたが、私は、受信料を一回も払ったことがないので、えらそうなことはいえないが、NHK大河ドラマは一回もみたことがない。勿論、払う必要は今後もないと思う。勝手に放送しといて、勝手に金を取るのはヤクザのしょば代以下である。はよ、契約巻きなおして、払わないテレビにはスクランブルかけろよ。携帯電話のテレビや自動車のテレビにもスクランブルかけろよ。まあ、私の車のテレビはスクランブル勝手にかかってるけどな。 公民館は、卓球の音が聞こえてきて、ニポン代表選手が汗を流していると予想された。希望的観測ともいう。 郵便局については、きっと優遇金利や切手が安く買えるとかたくなに信じてやまない。ああ、とてもいいところであった。隠れた秘境であるので、どこにいっても観光客が0人であったことも秘境たる所以であろう。まさしく東大下暗しである。
2005.09.28
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実家の最寄り駅を出ると風景として、すぐに海が広がる。在来線で山陽、東海道本線の景色の中で、次に海が見ることができるのは静岡だか熱海だかその辺りになるということを中学生の時に知った。 高校から電車通学だったので、毎日、山から下りてきて、海を見ながら通学していたのだが、それが日常であった。 時折、電車に乗っていると、この地域に住んでいない乗客の、「うわあ、海や」という声を聞くことができた。 ところで、南米の内陸国であるボリビアにも海軍があるということを高校生の頃に知った。ボリビアといえば、ゲバラの戦死や、チチカカ湖などが思い浮かぶ程度であるが、海軍はこのチチカカ湖で軍事演習を行っているとのことである。はっきり言って、湖軍である。歴史的には、昔は領土が海に面していたが、チリにくそっかすにやられ、領土を取り上げられてしまったということである。それにしてもチチカカ湖は3000メートル以上の高地、世界一肺活量を持つ軍隊と賞賛?されている。 そういえば、旧ソ連に「おまえの国は海もないのに、何で海軍があるんや」といわれ、ボリビア軍が「おまえのくにかて、文化ないのに文化省あるやんけ」といったとかいってないとか(そりゃ旧東欧とのジョークだったか) 話は続くが、日本で一番多い血液型はA型であるが、世界はO型らしいということは、知っていたが、南米はやたらO型が多く、ボリビアやメキシコは8~9割の人がO型ということらしい。どうやらインカ帝国の人々が100パーセントO型だったらしい。だから平和だったのか?まあ、血液型の性格判断はまったく信じませんがね。(但し、ほめてくれるところは信じようと努力はしている) そんなわけで、前置きが長くなったが、空海が歩いたお遍路88箇所を88秒程度で回ってきた。勿論地図上だけではなく、一部は現地入りもしている。空海は、20代前半で四国の深山に入って、30代前半でただの私僧として遣唐使の一員として中国にわたった。何故、ただの無名の一私僧が国家のプロジェクトに参加できたのか(同乗した最澄は国家代表者僧)や、この深山での10年間何をしていたかは全く空白(知られていない)のが謎である。遣唐使というのは勉学期間が20年であるが、それを僅か2年で修め、学徒の一人にしか授けられない秘伝を外国人である空海に渡された(記憶を頼りに勝手に書いているので多少間違えているかも)というのもちょー天才だったのであろう。学友には、最澄の他、中国人であるがいわゆる三蔵法師もいた。 三蔵法師といえば、夏目三蔵法師(部下に堺孫悟空)を思い出してしまう小学校時代であったが、かのテーマソング「モンキーマジック」は「ガンダーラ」と共に、小学校卒業の際の、皆に回すサイン帳に皆、好きな曲にこの2曲があがっていた。勿論、私は、サイン帳を回さない数少ない一人であった。ひねくれていたのではなく、買ったのはいいが記入前にドブに落として、そのまま瀬戸内海の藻屑のなっただけである。 で、その音楽のゴダイゴのボーカルのタケカワユキヒデは、東京外国語大学8年生のときに、卒業証書を代表で受け取ったという栄誉を授けられた。そういえば、ご多分に漏れず、ずっと後で、ミッキー吉野は、ヤクでパクラれた。 そうそう、この前、愛知急迫は終了したが、中学生の時には、ポートピア81が開催され、その成功が、各地の博覧会ブームに火をつけた。そのテーマソングをゴダイゴが歌っていたなあ。おまけに、人工島であるポートアイランドに住んでいた奴(友達)はポートピアと呼ばれていた。ポートアイランドは神戸市須磨区の奥地高倉山を削った土で海上に埋め立てたという経緯があり、土がなくなり低くなった高倉山は高倉台と名称が変わり、宅地分譲され、また埋め立てられたポートアイランドも企業や住宅地としてバンバン売りまくった。市長は当時、神戸株式会社社長と呼ばれていた。で、その友達ぽーとぴあ君は、もともと高倉台に住んでおり、土と一緒に運ばれてきたんだなあ、と私は20年以上の歳月を経て感慨深く思うのであった。 さて、前置きが長くなったが、本題は明日以降に譲る。
2005.09.27
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私は大阪人ではないが、大阪にも恐らく東京に対抗してなのだろうが、環状線が走っている。1周40分という歳月をかけて、人の目を気にしながら、デジカメで電車の中から各駅の駅名の記された名板を撮って、帰ってきて、パソコンに画像を落として、いざ鎌倉と思ったら、画像はどこかで消えた。ショック・・・気絶・・大阪天満。15年程前、ここを最寄り駅とする扇町市営プールに講演に来た、多分まだ大統領になっていなかったネルソンマンデラを見に行った。よく憶えていないが、中核がたむろしていたのと、講演内容が、各国の援助金を読み上げ、日本がいかに少ないか不平を述べていた。桜ノ宮ラブホ街。造幣局。帝国ホテルもあるが、土壌汚染で今大変。京橋 京阪沿線の入口なのでよく利用した。界隈はイカガワシイプレース多し。大阪城公園森ノ宮玉造鶴橋 駅のすべてが焼肉の臭いのする珍しい駅。以前奈良方面で仕事してたのでよく利用した。桃谷 寺田町天王寺南紀方面への玄関口。天王寺動物園。新今宮通天閣。今宮廃止計画があったが反対運動により存続。1997年から再運用開始芦原橋 15年ぐらい前、一ノ瀬泰造写真展があり、その時一度だけ降りた。大正大阪ドーム。沖縄料理店。弁天町交通科学博物館。西九条USJへの乗り換え口 遊郭もある。野田福島・ ・・作成途中で眠っていた。製作途中でアップ。
2005.09.26
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泥の中からでも綺麗な花を咲かせる睡蓮。その生態的特色も不思議なものである。地球の最初の生命は水の中に生れたが、今日の植物学でも蓮が地球に最初に出現した開花植物といわれている。人類の祖先は、蓮が生きた化石であることを知っていたのだろうか。例えば、インドのアショカ王の時代に集められた仏教の経典『起世経』(いわゆる仏典結集やね)には「かの諸山の中に多くの川があり百道に流れて下る。ゆるやかに下り、淀まず急かず、波立たず、岸は深からず、平らで渡りやすい。その水は清らかで、多くの花に覆われていて、流れはいっぱいに満ちている」と蓮のことを表現してある。 普通の花はまず花が開いてから実をつけるのものだが、蓮は花をつけると同時に実を中に詰めた苞が出てくる。花と実を共につける訳だ。このために蓮は、仏教徒から過去・現在・未来を同時に体現しているとみなされたと思われる。 睡蓮といえば、晩年のモネの一連の作品群であるが、彼の絵は、だんだん、抽象化していく。それは、彼が白内障になり目が見えなくなってきたこととも関連していると思われる。彼の絵は、彼が実際に彼の目から見える風景を絵にしていた訳だ。ちなみに、今まで目が見えなかった人が手術により目が見えるようになったとき、モネの作品のようにはじめは見えるという。見るということは、脳が見えるように変換しているのだ。レンズから見ると、本当は風景画上下逆に見えるはずなのに、脳が考えて更に上下を逆にして、見えるようにしているのだ。何か神秘だねえ。
2005.09.25
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関西一番の高級住宅街、芦屋の六麓荘にある別荘の管理に出掛けた。元々は谷崎潤一郎の「細雪」で有名になったが、最近では、リメイク版「白い巨塔」でも有名になったか(なってないか)。笑みだけで生きていこうと心掛ける私であるが、多少の見栄もあるので、掃除しに出かけたのである。勿論、不便な所にある。駅から歩いて30分、勿論、お金持ちは運転手つきなので歩くこともないし、界隈を歩いている人は、いない。いや、よそモンが一人歩いていた。 負け惜しみだが、ここで素晴らしいのは、日本の景色の汚点、電柱が地中に埋設されていることだ。これだけで、全然景観が違ってくる。(しかし、頻繁に道路掘りなおし工事をしているので道路はなかなかデコボコ)昔、大阪で大成功を収めた商人たちが、大阪の一等地の住宅街である手塚山が手狭になってきたので、こぞって風光明媚な芦屋の造成地に引っ越してきたのが始まりであるが、(「大阪で働き、京都で遊び、芦屋に住む」ということだったらしい)バルブ後、遺産の相続税が払えず、新興勢力の交代劇もある。先日亡くなったダイエーの中内氏も六麓荘の豪邸を手放したが、日本では、自分の事業の失敗を私財を投げ打ってでも借金を返済するというスタイルはどうもおかしいところがある。こんなに失敗しやがってまだこんなええとこに住むんかいなというやっかみのせいか。 道路脇には、香港を真似した外灯があり、家の中には小川が流れている所もあり、道路を横切る時には小さな橋がかけられていたりなんかする。(かなりなくなったり暗渠になったりしている)建築協定により敷地面積は最低120坪である、マンションは建てられないというか、建物は2階までである。自治会入会金が50万円である。 塀しか見えない家も多く、どれが私の家なのか分からない程である。時折、この地域の人間でないオノボリサン車も走っている。運転手や助手席の人がキョロキョロしていっるのを見る間でもなく、車が軽自動車とか普通車なら既によそ者の疑いがある。良かった、歩きで。歩きだと、上品な私の顔立ちだけでよそ者とばれることがない。ま、髭ぐらい剃ったらよかったかな。それからTシャツはやめといたらよかったかな。まあ、草履もやめといたらよかったかな。ジーンズもついでにやめといたらよかったかな。紙袋もやめといたらよかったかな、変装しすぎたかな。 実は、戦前の金持ちたちは、希少性の高い芦屋の平地部分に邸宅を構えていた。芦屋川の西岸沿いの平田町や川西町では200坪はあるかと思われる洋風の邸宅や、阪神電車以南に広がる浜芦屋と呼ばれる臨海部の昔ながらの数百坪はある和風のお屋敷を今でも見ることができる。しかし、実は、外から見ることができるだけである。 山の手から海まで見える。高層住宅も見える。 ああ、やっとあった、別荘。フランクロイドライト設計の当時の姿のまま残された別荘。掃除してカエロ。
2005.09.25
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海外まで足を伸ばしながらも、速攻で帰ってきた。四国の室戸岬まで泳いできた。流石に、島に挟まれた波穏やかな瀬戸内海とは違い、もろに外界からの波がやってくる日本海の荒海にしびれ、5分で退散予定のところが5時間になってしまい、他の予定が大幅に狂ってしまった。 みたらあかんでたいしたことないから 初めて見たのだが、スルメイカ製造機なのか、スルメを勢いよく回している。それがとってもかっこいい、少し、イカ臭い匂いまでも発している所が少し変態チックで面白い。 しかし、イカは買わず、食べず、クジラ肉を食べた。当然、偏見のためにクジラ採取を禁じられた日本であるから、多分、これは調査用の肉かと思われる。ノルウェーと共に頑張りたい。それでも反対されるなら、インドと組んで、牛を食うのは野蛮運動を展開して、頑張り、イスラムと組んで、豚は不浄だから食べない運動を起こしたいものだ。クジラは高等な生物だから食ってはいけないという論理には、断固反対しよう。個体数が減っているなら別だけど。ゼイゼイ。それにしても小学校時代の給食のクジラ肉は好きだったのに、嫌いな子も多かったなあ。この前、椰子の木が少し生えたのが、1450円でコーナンで売られていた。私は、大金持ちなので、時々倹約のためにコーナンを利用するが、顔に似合わず、ここで、植物を買ってきたりなんかして、部屋で一人、ニヤケテイルいやらしい野郎でもある。たまには実用的な野菜やハーブも買うが、単なる観賞用のものも買う。得意技は枯らす事でもあるが、これは本意ではないことを肝に銘じて欲しい。 でもこの前は、携帯電話の液晶が切れて買い替え(ほんの4日程度前のことであるから新しい携帯電話の使い方が全然分からない、テレビ電話なんか使うはずないだろ!どこにいるかばれるやないか)て、車の煙草のところから充電できる機械を購入した。500円ぐらいもしたぞ。 そういえば、今週は後藤田元代議士と中内ダイエー創業者が亡くなった。戦後を¥からの日本の成長を地でいったような二人であった。 中内社長は、時代に取り残されたといって死んでいったが、ダイエー商法は古いタイプの不動産屋のスタイルであり、走り続けなければ潰れる商人の姿であった。その話は、明日か、来年かにしようと思う(もしかしたら去年ぐらいにしたかもしれないし、しても誰も興味がないけどね)何でもいいんだけど、お土産で酔ってきたよ、どうするよ。
2005.09.24
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牛飛ぶ。 ここ10年間ぐらいで、海外である淡路島には10数回出掛けたことがある。後輩が、淡路島勤務であったこともあるし、同輩が淡路島勤務であったこともあるし、知り合いが淡路島にリゾートマンションを所有しており、そこの鍵を奪取して宴会を開催して泊ったこともあるし、魚釣りに行ったこともあるし、無意味に車で島を1周したこともある。 昨年は、台風で、淡路の知人が土砂崩れで泣くなったこともあり、車をタダで淡路の知人の知人のおばちゃんにあげたら名義変更してなくて、税金をその後も負担させられたこともある。かつて、インドネシアのスマトラ島の中部にある都市パダン郊外の海沿いの道を歩いていた。赤道直下の町である。ところどころに漁村があり、綺麗なビーチには特に誰が泳いでいるという訳ではなく、漁村の子供達が戯れていた程度であった。少し、丘を登ると、インド洋に面して中国人墓地があった。そこにリュックを下ろし、中から非常食のビスケットを取り出し、座り込み、休んだ。インドネシアにも当然華僑はいるが、漢字を出すことははばかられる時代があった。中国人は世界中どこにでも出掛けた。どこに行っても生活をする中国人がいた。結構、どこにいっても「チノーチノー」とよく馬鹿にされたり、石を投げられたこともある。最初は「違うジャパニーズだ」と反論したこともある。しかし、そんなことはどうでもよくなった。罵られても、石を投げられても無視するだけだ。子供の戯言だ。 異国の地で死んでいった人々。インド洋を独り占めする。
2005.09.24
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昔、ある国で、ボーっと川の風景を眺めていた。そこに観光バスが乗り付けて、何故か恐る恐る日本人女性が2人降りてきた。久しく日本語を喋っていなかったので、その二人に向かって、私は優しく声をかけてみた。「日本人ですか」と日本語で。すかざすその2人は、びっくりしてm「私たち関係ありませんから」と日本語でいってバスに逃げて行った。少し不条理であった。俺にも関係ねーよ、と呟き、立ち尽くした。諸行無常。諸行無常の世界観の中で日本人は生きている。永遠というものを信じない。常に変わりゆく。そのため、しばし、外国に行って、何百年、何千年も変わらぬ風景や光景を見ると、結構びびる。特に、ミイラや骸骨にはびびる。イタリアやフランスといったヨーロッパにもカタコンベのような何万体というミイラがあればびびる。パリの地下にそんなのがあればさらにチビる。ところで、これから海外旅行に行ってくるので、ちびらぬよう心掛けます。 六甲山からみた海外に浮かぶ淡路島。 晩飯。
2005.09.23
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大阪駅前では、雑踏を写すテレビ隊。赤になると、5秒刻みで次の青になるまでカウントする電光表示のある信号。10秒前からは見きり歩行する人を避けるため、それ以上カウントしないところが憎い。取り残されたベガー。きっとバンケットなんだろう。大阪駅とヨドバシカメラ。この東京からの進出のため、日本橋の売上は半減。ポイントがつくほうが、厳しい値段交渉合戦するより面倒でなくていいというのが、最近の流行か。かつて住んでいたマンション。隣はラブホテル。住人はオールウォータービジネス。界隈は関西一のゲイゾーン。何度誘われたことか。やはり私は理性の人であると再認識する。兎我野町太融寺。あたりはピンク産業に飲み屋、そしてタイマッサージやタイ料理屋。かつて、太融寺では、よく会合を開き、そのあと、飲みに行った。会合というのは、同じクラブの関西の大学が一同に集まり、あれこれ訳の分からぬことを議論するのである。何故かずっと議長大学であった。天神さんで、ただ祈りもなくぢつと手を合わせる。1号線の起点。新地と大阪駅前ビルの狭間。奥はリッツカールトン。アメリカ領事館前。いつも機動隊の車が止まっており、交通の妨げに貢献している。昼間は、ビザを求める人々の軍団で通行人の妨げにも貢献している。セキュリティ会社や、防犯カメラ会社にもスコブル貢献している。で、疲れたから飲んで帰るという按配。
2005.09.22
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日本橋電気街の長い商店街を抜けると新世界であった。夜の街が白くなった。通天閣の頂上が見えた。突撃ライターなので説明は面倒なので、公式ホームページをごらん下さい。 至る所に将棋や碁を打つ道場を見ることが出来る。通天閣の下はどこまで乗っても100円の大阪ミニ赤バスが走っている。赤バスについては、知性のライターなので説明は面倒なので、ホームページをごらん下さい。いざ、通天閣に上ってやると鼻息を荒くしたが、既に18時30分にて閉館。今まで2回しか上ったことはないが、1回はフィンランド人を案内、1回は学生の頃、自分を案内したものだった。フェイントで、パリのエッフェル塔の下。新世界潜入は敢え無く終わり、ということであり、彷徨う。じゃんじゃん町については、暗黒ライターなので説明は面倒なので、ホームページをごらん下さい。ここでのホルモン肉ウドンというのがなかなか他では見られなく、過去、連れて行ったほとんどの方が、肉を残してウドンのみ食べるといった按配であった。お嬢さんやボンボンばかりを連れて行ったということなのであろう。エロビデオ屋を抜けるとスパワールドであった。上を見上げると、潰れたフェスティバルゲートのジェットコースターがビルの上から見えた。怪我をした訳ではない、その後養生に、 一人でデイ-プ大阪の新世界にあるスパ温泉へ出掛けた。……兎に 角要心は肝要だからといはれてないが、それで来た。スパワールドについては、怠慢ライターなので説明は面倒なので、ホームページをごらん下さい。新世界から旧世界に一歩出ると、渋いマンションがあった。1階がエロビデオ屋、2階が教会、3階からがワンルームマンション、搭屋部分に十字架。シブイ、大阪っぽい。JRの新今宮駅から見たフェスティバルゲート。これについては、疲労ライターなので説明は面倒なので、ホームページをごらん下さい。1両編成の阪堺電車がギリギリ横を通り過ぎた。もう帰らせて貰うぜ、ベイビィ。この路面電車、凡人ライターなので説明は面倒なので、ホームページをごらん下さい。一応公式ホームページはないようです。それ自体珍しいです。おまけ。もっかい、エッフェル塔、下から。しまった、レポート作成に40分もっかってしまった!
2005.09.21
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今日は、ひとつ蝿になることにした。古池や、蝿が手をする足をするよろしく、好きなところに飛んでいくことにした。エリカジョングよろしくとぶのがこわいといいながらも、垂直に飛んでいく。まずは、TVが見えた。片山さつき議員の化粧怖い、70年代の化粧のままだ。人の化粧は自分の絶頂期と思う年齢から変わらないのだろうかと思ってしまう。何歳になっても綺麗な化粧の人は自分があるのだろうか。流行のメイクにはまっていた人はもう抜けることができないのだろうか?自力では。 すみません。カラオケは嫌いなんですが、無理矢理マイクを持たされ、仕方なく「ツッパリハイスクールロックンロール」を歌い、テーブルのグラスを割ったことがあります。そこんとこよろしく。 昔、映画「蝿男の恐怖」そして約30年後のリメイク版「ザ・フライ」を立て続けにみたが、前者はファミリーストーリーなのに後者は独身男の物語、というところに時代を感じることができた。前者は永遠の愛の中に固定された夫婦であり、立派な家に住み、1本の目的があるアメリカン理想スタイルが背景にあった。後者はその反対ばかりであった。蝿になったのは神崎川であった。石鹸カタカタなる神田川ではない。神崎川というのは、大阪府(淀川区)と兵庫県(尼崎市)の県境の川である。昔、川の不要化で1メートル以上のドブ鯉がうねっていた川である。最近では、神崎川工場でアスベスト問題があったすみません。1級河川というのは、昔で言う所の建設省の管轄である。上流の1メートルの川上が1級河川ならば、橋を架けるにも建設省にお伺いをたてなければならなかったという苦い経験もある。 いかんいかん、高度を上げすぎて、飛行機にぶつかった。
2005.09.20
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14時大阪発羽田行きどこからでも海が見えるというのが、我が空港の売りです。15時30分ピエールマルコニーニのアイス、630円!!16時30分羽田から成田へ行くバスはディズニーランドを擦りぬけます。ドブネズミが国を代表する凄さ。17時どこでもない場所、空港。17時30分ソムタム食えるタイ料理のファーストフード店19時30分 再び大阪空港
2005.09.19
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「私には家族が8人いて、1日の食費が50ペソかかるんだが、私のサラリーは1日40ペソしかない。警備員としてこうして一晩中働いているんだけど。サイドビジネスとしてこうやって警備員をしながら煙草のばら売りをしているんだ。長男は高校生になるんだが、学費をどうやって引き出すかが今、一番頭の痛いところなんだよな」 と元気のない安ホテルの入口にいる警備員のおじさんは力なくつぶやいた。 そこにチンピラがやってきて、煙草を1本、おじさんの箱から勝手に取って行った。 「多分、明日、彼は払ってくれるだろう」と情けなさそうに、悲しそうにつぶやいた。1本売って、利益は1円もない。 そのまま、私はビールを飲みに行った。8本目ビールをあけたとき、おじさんの1日の稼ぎを飲んでしまったことに気がつき、少し重い気分になった。 外国人の見当たらない場所なので、すぐに私の居場所が町中で分かるようで、船内で知り合ったAが私の泊まっているホテルに噂を聞きつけ、訪問してきた。 「俺の家に来いよ」彼の家には7、8人の若い女性がたむろしていた。Aは言った。「一人1000ペソでカガヤンデオロとかミンナダオ島各地で集めてきた女達だ。どうだ、友達だから1日200ペソでどうだ」・・・5回でもとがとれるのか? しつこい勧誘を何とか断り、ホテルに向かう道すがら、思い出した。船内では彼は、彼の妹とその子供を連れていた。その子というのは、コリアンの血が流れているといっていたな。それも父親は誰かは分からない。自分の妹もそうなんだろうか・・・感傷だけでは生きていけない現実があった。 またビールを飲んだ。バンドのある店で、血管が破裂しそうになるまで飲んだ。そうやって飲んだが、勘定は200ペソには程遠かった。何か少しだけ救われた気がした。
2005.09.18
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1985年は、私にとっても、日本にとっても、なかなかの転換期であった。18歳、大学に入学した年であった。その年の夏、初めて海外旅行に出かけた。1ドル240円。行き先の政権はマルコスにあった。翌年の冬、2回目の旅行では、1ドル160円。行き先の政権はインディラガンジーにあった。そして次、120円。行き先の政権は、スハルトに、マハティールに、リークアニューにあった。タイは忘れた。その間にバブル経済の発端になったプラザ合意、内需拡大政策開始があった。 日本は、ナチソネ、アメリカは田舎俳優レーガン、そしてゴルバチョフが登場してきた年でもあった。ゴルバチョフ政権がまずやったことはウォッカ追放令デアル、トホホであった。翌年はチェルノブイリ事故があり、ペレストロイカ、グラスノスチがはじまった。一方、アメリカは双子の赤字を出しながらも、強いアメリカを標榜した。アイアコッカやテッドターナーやトランプといった特徴的な経営者も輩出した。今では、現実不可能だと分かっているSDI構想(スターウオーズ構想)をひっさげながらも米ソ会談が行われた。 大学1年の時、先輩方は、就職先がないない、不況じゃと言っていたのに、2年の時は、内定が10社とかいう人が続出した。 1985年外貨準備高279億ドル。2004年、8425億ドル。 1985年個人金融資産495兆円。2004年、1400兆円。不景気といいながら誰にも実感がない。富が偏在化しているのか。1985年までのフロー型経済→内需拡大、為替操作による国際経済力増大により、資産が増える→しかし、金を使うことに慣れていない日本人さらにコツコツ貯める→どうしようどうしようリスクある金融商品も苦手→遂に余り金を株式、不動産にむやみやたら適当に、皆が投資するので投資開始→ドッカン崩壊、という単純構造。 高校時代までの閉塞感と束縛感から解放され、糸の切れた凧のようになり、また法律が許しているので、バイクや車、酒に煙草に薬物と、一気に私に押し寄せられ、一気に参加した。 国鉄はまだ死に体ながら顕在であり(民営化は87年)、電電公社がNTT(従業員32万人)に民営化し、シロウト丸出しの親も、株式公開で少しばかり儲けた。しかし、私は、旅行代金を貯めるのに大変で、自動二輪の免許を取るための学校代(7万円)がどうしても捻出できず、時効なので告白するが、中古で買ったガンマ250CCを仕方なく時々無免許で乗るしかなかった。 何せ、海外旅行がやっと一般化した頃で、安売りチケット屋は、小さな事務所で細々とやっていたHIS等数社しかなく、タイ往復8万円、インド往復16万円であった。 バブル期は学生だったので恩恵はなかったが、確かに毎年バイトの時給代が上がっていった。 考えれば、物価は、不景気なので、20年前と実際は生活必需品はほとんど変わっていない。競争激化で安くなっているものもいっぱいある状態だ。85年はファミコン、スーパーマリオブラザーズが出た年でもあった。が、私は、これには乗り遅れ、結局、ゲームセンターに入り浸る中学生時代で、私のゲーム時代は終わっていた。この機械で、貴重な何百時間を過ごすことが無く、よかったよかったと思っている。はまるのが分かっていたので避けたことは懸命であった。 今は、調べ物でも、書くことも、各種予約なども全部パソコン、インターネットで行っているが、勿論これは、ウインドウズ95が出てからである。それ以前にはパソコン通信であり、85年、これからはニューメディアの時代であるということで、実は、無理をしてパソコンを買ってみた。が、その難しい言語用語で独学では歯が立たず、一部、私の周りにいた機械オタクに聞いても、さっぱり分からない。パソコン上で1+1=2と計算してみて、ケッといって、そのまま埃をかぶってしまった。大学1年の最も高く遣わなかった買い物であった。そのあと、文章打ち込みのために5行だけ表示できるワープロを購入したのは88年頃それも8万円ぐらいしたし、、今のパソコン画面程度のワープロを購入したのは90年になってからであり、16万円もしたのであった。 1985年から20年たったが、概ねのモノの生活環境は変わっていない。1985年に1965年を思い出した人は、随分モノの生活環境は変わったであろうし、収入も物価も格段に上がったという思いがあるであろう。不動産もオイルショックまでに手に入れているかどうかが勝ち組の重要なキーであり、皆が皆、そこそこ平均して幸せであった。その後の20年は何でもあるが、どこか窮屈で閉塞感のある時代になったのではないか。月並みにいうと。 20年前にも親の所有であるが、テレビ、洗濯機、掃除機、VTR、ステレオ、エアコン、車、電子レンジ、ウオークマンは既にあった。今増えたのは、DVD、CDプレイヤー、パソコン、デジカメ、携帯電話ぐらいか・・・・うーん、まあ、増えたかな・・・。 85年は「美味しんぼ」が流行りだしグルメブームの走りとなり、「おしゃれ」という言葉が恥ずかしくなくなりブランドの服も流行りだしていた。そんな中、それに反撥し、勝手に60年代ヒッピーを標榜していた若い私であった。85年には日航機が墜落した。あれで、フォーカスやフライデーなど写真雑誌が乱立し、ゴールデンタイムのニュース番組、ニュースステーション等の報道番組が定着していった。テレビを見ない私も、朝までテレビを見ていた。この年は、生まれてから初めて阪神タイガースが優勝もした。時効だからいうが、私もバイクを運転しながらビールを飲んだことを憶えている。この年は、まだグリコ森永事件が続いており、森永にアルバイトに行けば、休憩時間にその苦悩を従業員からも聞いた。売れないので、直接、大学に売りに行ったというのである。大リーグの先駆け、日本のエース江夏豊が行き、結局失敗する。その時の悔しそうなインタビューを覚えている。田中角栄脳梗塞で倒れる。つくば博。男女雇用均等法、風営法施行。豊田商事社長殺される。京都が古都保存協力税反対で寺の開放をやめる。ライブエイド、ウイアーザワールド。三光汽船倒産。ユニバーシアード神戸。金曜日の妻達放送。三浦容疑者逮捕。夏目雅子死去、27歳。8時だよ全員集合終了・・・ 大阪もまだチンチン路面電車走ってまっせ。
2005.09.17
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難波駅前よりトイモイ2等兵猛進開始。気温36度、「孤独の中の雑踏」作戦始動。間もなくナンパ橋に突入!ナンパ開始!でも、開始の前に、蟹をしばく。蟹道楽の前で、冬でもないのに、従業員が焼き蟹を実践し、臭いで通行人を一本釣りしていき、店に強引に入れていく。腹が満腹になれば・・・くいだおれのおっさんにパンチ開始!国際色豊かである。日本唯一のラテンの血が怒涛している。カーネルサンダースが阪神優勝の際に投げられる現場、狂喜した寅吉が飛び込む道頓堀川も、河川敷公園を作り、救出の簡素化を図っている。大阪一有名な場所、さすがにカメラを回すのは田舎者と観光客と私だけである。反対側は、高松伸設計のキリンプラザ。2階で飲んだら、知り合いの嫁はんがバイトしていた。昔、コクトーの映画を観たり、横尾忠則のポスター展にも行ったことがある。ここからは通りの名前も変更、人通りが更に増える。大阪らしく、ブランド物のバッグなどは、一目見てそれがブランド物であるように文字がデカデカとプリントされたものを持つ。そうでないシックなものを持った人々は多分、アウトオブオーサカである。大阪一の飲み屋街ソエモンチョウ闊歩開始!呼び込みの誘惑に素直に負けて、ギャングバーに潜入。財布はオケラ。満腹の上に財布にはゴミしか入っていない状態で、更に北上すると、潰れてリニューアルした心斎橋そごう。ソニープラザやパルコで長堀通りに突き当たり、この辺で観光案内は勘弁してやろうと思う。 終点。乱れによる病気には気をつけましょう。
2005.09.16
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大阪市西成区の歓楽街飛田新地ああ飛田新地。に行ってきた。飛田新地にある大正15年に建てられた由緒ある建物、完全予約制「飛田百番」に14年ぶりぐらいに行って来た。入口手前ですな。まだ飛田ではないよ。まともに写真を写すことはできないが、色町です。1件1件に女の子が座っているという按配。こんなところが日本にあるのかとびびる光景です。単なる居酒屋「飛田百番」の外観。営業中かそうか分からない程に暗くてシブイ。内装1内装2内装3。向こうはトイレ。内装4内装5内装6最寄り駅は地下鉄「動物園前」最寄りの動物園駅最期に、大門。昔は、ここだけが、入口で、城壁のように囲まれていた。今、天王寺駅、あべの周辺は再開発で高い建物が立ち並び、ひっそりと2階建ての風情ある一角が残されている。門がなくても閉ざされた空間である。以下、酔っ払っているので引用文でお楽しみ下さい。 赤線華やかなりしころ、1930年(昭和5)の『全国遊郭案内』で飛田遊郭は、「貸座敷は220軒、娼妓は2700人いる」と紹介され、日本一と言われた松島に次ぐ繁盛ぶりを示していた。 飛田に遊郭が開業したのは1918年(大正7)12月。明治45年のミナミの大火で難波新地が全焼、折からの廃娼運動を背景に、大阪府は同所の免許を廃止したが、その後、代替地として当時は市区外だった天王寺村(東成郡)に2万余坪の免許地(現西成区)が設定された。矯風会大阪支部などが新聞とともに広範な建設反対運動を展開したが、押し切る形で誕生した。 「遊郭の周囲はコンクリートの高塀で囲われており、通常は一カ所の大門のみが開くという、文字どおりの廓(くるわ)の再現」(『新修大阪市史』)だったという。この高塀は「嘆きの壁」と呼ばれ、性を売る女性たちを世間から隔てていた。壁の高さは4、5メートル。東西南北に門はあったが、前借金を背負った女性たちの逃亡を防ぐために、交番の置かれた西の大門からしか出入りは許されなかったという。「嘆きの壁」の名残、大門に 壁はつい最近まで、阿倍野地区との境に約200メートルにわたって残っていた。92年、再開発で取り壊されて姿を消したが、大門の堅牢な石柱と交番、境界だった石組みのがけや通用門跡の階段は今でも残り、当時の名残を留めている。 松島が戦災で焼失したのに対し、北東部分を除いて焼け残った飛田は、戦後も活況を呈したが、58年(昭和33)の売春防止法施行に伴い、廃業したり料理店に転じたりするところが続出した。現在は100店余りが料亭街として営業を続けており、その家並みの多くは昔のたたずまいを残し、店先の屋号の書かれた電灯がともるころになると、背後に林立するビル群がうそのような、怪しい世界にタイムスリップする。 「鯛よし百番」は、大正時代の遊郭建築。売春防止法の施行で料亭に変わった。その後、近くの酒店経営者が買い取り、今の大衆料理店としては万博の年(1970年)に開業した。現在は妻の木下昌子さん(63)が引き継いでいる。 かつて大門近くに「一番」と呼ばれた店があり、入り口に近いほど「安かった」という。百番は飛田でも奥まったところにある。「百番の名前は、遊郭当時から。名前の由来は知りませんが、一見さんは入れない、相当の格式を持っていたとは聞いています」と木下さん。 飛田新地を歩くと、間口2間ほどで軒を連ねている店が多いのに比べ、百番の破格の大きさに目を見張る。北西に面した角地に堂々と立つ。重厚な2階建ての瓦屋根の下には、約1メートルおきに赤いぼんぼりが4、50、通りに面して下がり、朱塗りの2階欄干が目を引く。
2005.09.15
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ゆっくりした朝であった。神戸には、人の住む人工島が2つあり、それぞれが、無人のタイヤで走るとろい電車に乗って島に行くことができる。運転席はなく、前方向の風景を楽しむことができる。 若いカップルが一番前に座ってきて、「このパノラマ席、子供やったらすごい喜ぶよ~」と子供以上に喜んではしゃいでいた。 安全をよく考えたら、このスピードではオトロシイ事故にあうことはなさそうだ。しかし、飛行機や車には、シートベルト着用義務があるのに、電車は何故ないのだろうか。せめて新幹線、時速200キロで走っていて、脱線でもしたら、どえらいことになるはずなのである。安全神話か。 確かに、去年の地震のときの上越新幹線は、うまく設計通りの軌道で脱線してくれたからよかったものの・・・。 中心の駅を降り、直射日光の中を歩き始める。普段は車で来るので、歩くことは珍しいが、商業ゾーン、住宅ゾーンを抜けると、すぐに工場倉庫ゾーンである。ここまで来れば、人間徒歩学的設計思想はない。なくて構わないのだろう、誰も歩いてはいない。見通しはよく、秋風が少しは感じられながらも汗は出る。 「お迎えにあがりましたのに」とで迎えてくれた方に言っていただいたが、帰りはごちそうになったので、その運動をしたようなものであった。 歩きながら、小学校の時に見た牢屋の4こまマンガを思い出し、家に帰り、2分ほどで書いてみた。
2005.09.14
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玉手橋 駅を降りたらすぐに玉手橋、玉手山遊園に行くためにわざわざ架けられた由緒ある橋で、橋の麓では、女子高生が優雅に煙草をくゆらせていた。玉手橋、有形文化財第一号(ただし吊り橋として)。石碑を読んでいるのに石碑の前に座っているご老人は全然退いてくれる気配はなく、2割程度は判読不能であった。車一台通れるかどうかの道を潜り抜ける。この先に日本第2、関西で最も古い遊園地があったところを目差す。本当にこんな道から遊園地があったのか、摩訶不思議である。途中で、立ちこぎのおばちゃん自転車に抜かれた以外に人通りなし。玉手遊園入口に着く。なかなかスイーティな感じで、草刈りのおじいちゃんが一人いるのが見渡せた。明治41年創業、1998年頃閉園のこの遊園地、最寄り駅から15分、駐車場ほとんどなし、というシブイ状態のままだが、奈良時代には行基、豊臣時代には、戦の要にもなったと書かれていた。遠くの山肌に仏舎利のようなものが見えた。近くにセスナもよく飛んでいる、多分、八尾空港が近いからであろう。スカイトリップも楽しめるようである。デートにいかがですか?と老婆心も働く。おもちゃ歴史館は大変な賑わい、入場者数1名。 見学時間3分。展望台から大阪平野を一望。感嘆度、ぉぉ、程度。ようやく展望台で直射日光に当たりながらサンドイッチを食べている人間(老人)に出会う。 いろんな乗り物の残骸や看板の残骸が散りばめられ、カックイイ。「今日はおやすみ」と札がかかっているが、明日もお休み、あさってもお休み、永遠にお休みだと推測された。寂寥を楽しむことができた。それにしても汗をかいた。邂逅・・・帰りは最寄り駅近鉄「道明寺」駅前の喫茶店で、汗をぬぐうことにしたが、喫茶店がここ1件しかなく、競争原理が働かない為、未だにアイスコーヒー430円。トドメであった・・・
2005.09.13
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戦前の作品「オズの魔法使い」をDVDで見た。とてもサイケデリックだ。その時代にそういう言葉もなかったよな。 オーバーザレインボー、高校生の時、初めてロックコンサートに行った。「レインボー」のコンサートオープニングはオズの魔法使いの曲をギターギンギンに鳴らしながら始まった。リッチーブラックモア、ギターを破壊するが、どんな曲なのかよく分からないぐらいにグチャグチャ、そして、私の絶叫。 高校の時は、「ホワイトスネイク」のコンサートにも行った。当時、今と変わらぬ純粋でウブな私は、ボーカリストのデビドカバーディルの「酒と女とドラッグに溺れながらも・・・」何てカックイイんだ、と思ってしまったものであった。しかし後年、ポップ路線に変更してずっこけた。 「星の王子さま」も読んだ。名作である。10数年程前、私の従弟のEは、千葉真一率いるアクターズクラブに所属後、アクション劇団に入団し、近畿圏の小学校巡りをしていた。そして、私の住む街の近くの小学校にも来たので見に来て欲しいということで見に出かけた。 講堂で行われるアクロバチック劇に小学生は大興奮し、盛況のうちに幕は閉じた。Eは私のところに来て、少し立ち話をしていた。子供達がカワルガワル、羨望の眼差しで、恥ずかしそうに近くに寄ってきては離れていった。 Eは、映画については詳しくないが、小学生の頃の彼の部屋にはすべてのジャッキーチェンのビデオが揃っており、是非、そうなりたいと願い、アクターの道に進んだ。結局、チョイ役で映画に出演したものの、飯は食えないので、劇団に入った。 それでも、子供達のキラキラした目を与える彼が、チョッピリ羨ましくなった、子供に悪の指南路しか導けない私は思った。 目にみえないところに、大切なものがある。有名なフレーズだった。 2001年のアメリカ陸軍兵士の月給が30万円とすると、将軍が240万円、米軍兵器会社のCEO平均月給が2700万円。 2001年のアメリカ陸軍兵士の月給が30万円とすると、将軍が240万円、米軍兵器会社のCEO平均月給が4800万円。今度乗りたい車。ピンクフラミンゴ。
2005.09.12
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戦前の作品「オズの魔法使い」をDVDで見た。とてもサイケデリックだ。その時代にそういう言葉もなかったよな。 「星の王子さま」も読んだ。作者テグジュペリ自身も飛行機乗りで、帰らぬ人となった。2005年翻訳出版権が切れ、今年、出版ラッシュが起こっている。イタリアの偉大な登山家メスナーが35年前に雪崩で失った弟の遺体をついに捜し出した。酸素ボンベなしで初めてチョモランマを制覇。人間の限界にはまだまだ限界がないということを証明した。 小泉強し、亡国の宰相。今度乗りたい車。ジャガー。
2005.09.11
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梅田の観覧車のところにあるスターバックスは1998年関西の1号店が入っている。どこでどう噂を聞きつけたのか忘れたが、開店後すぐに出かけたような気がする。さすが情報痛(いてっ)だが、何でこんなものがアメリカで流行っているのか当時は分からなかった。alex99さんを真似した訳ではないが、仕事の合間に(実は趣味の合間に仕事をした訳だが)、梅田古本カッパ横丁をぶらぶらした。 明日は、選挙だし、9.11から4年か。ぶらぶら歩いたのは、阪急インターナショナルホテルやMBS放送局やロフトのある茶屋町。久し振りに歩いた。この地域は、梅田の裏にあるという利便性ながら、2階建ての古い家並みが残っており、バブルの時代の激しい地上げの対象地の一つとなった。そのため、この地域は、歯抜けの土地が至る所で見受けられ、無惨な場所であった。そういった土地は駐車場経営等焼け石に水対策をしているが、一方で、ちょこちょこ新しい建物も立ち始めている。確かに業者が無秩序に開発行為をするのも何だが、土地の有効活用がされていないのも何だかなあである。もう土地神話は終わった。茶屋町を歩いていると、1件の居酒屋を見つけた。旧友Sっちに心斎橋ワタルと私が12、3年前に呼ばれた居酒屋であった。Sっちに会うのは久し振りであった。結婚するという。Sっちが女性と付き合ったという噂は今まで聞いたことがなかった。彼が結婚する相手というのが、孤児であった。捨て子であったという。そんなことは我々にはどうでも良かったのであるが、どこでそういう人と知り合ったのか知りたがったのであるが、何故かそこは誤魔化すのであった。一応、紹介ということらしいのだが。彼の親も一瞬難色を示したようdが、硬い決意にすんなり認めてもらえたようであった。オンナッケの全くなかった彼も結婚できて、素直に良かったなあと思った。結婚式は芦屋の教会であった。私は寝坊した。駅を降りて走った走った。すると100メートル前にも同じ同級生のSっぺが走っている走っている。彼も現役マラソンランナーなんだなあ、と思った。二人して、こそっと、教会に入り、始めから参列しているふりをした。後年、Sっぺの結婚式披露宴には、心斎橋ワタルは、披露宴終了数分前に髪の毛ボサボサのまま遅刻してきた。朝まで仕事するふりして飲んでいたようである。ネクタイもしっかりいがんでいた。Sっぺの2次会は何故だかなく、心斎橋ワタルとSっちと、もう一人の同級生Sっつあんの4人で居酒屋に飲みにいった。Sっつあんは、高校の時と同様興奮したら鼻の穴を大きく開きながら興奮しながら話をした。彼は当時旅行代理店に勤務しており、オリックスを率いてハワイキャンプの添乗員をしたことを興奮して話し、イチローと一緒に撮った写真を見せてくれた。 Sっつあんは、後年、5年程付き合った女性と結婚したのだが、半年もしないうちに離婚した。
2005.09.10
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一服つけますか。 久し振りにシャンパンを飲んだ。ブーブクリコ。口づけを。チュ、っとグラスに。今も、多分、歯の裏に残っている3年前のヤニに望郷の念。いや望む郷ではなかった。忘れた郷だった。笑いを堪える。 カーシャカシャカシャカシャー。何の音楽もかかっていない。このクライマックスを越えると、本当にもう何もないんだ、なんて、思いたくないので、騒いだり、喚いたりしてみるが、所詮、犬の遠吠え。否、狸の遠吠え。 認めたいよ。それから爪も切りたい。 2つのグループに分けるときに、どうするのか。グーパーじゃんけんというのがある。(それでもチョキを出すお馬鹿が必ずいるが)しかし、我々は、手のひらを表、裏に出す『手っ手の手』をする。「うらおもーて」といって勝負がつかなかったら、次は「てってのて」といい、それでも勝負がつかなかったら何度もてってのてを繰り返す死闘に入る。でも、もしかしたら、これは数少ない神戸だけの風習かも知れない。
2005.09.09
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久し振りに一時帰国された方が日本は治安が悪くなったとぼやいていた。事実、1960年代から90年までで、犯罪認知件数が、アメリカで3倍、フランスで4倍、イギリスで5倍、イタリアで6倍となる中、日本は2割り増しであった。しかし、それから10年で、アメリカで2割減、イギリスで1割減、フランスで1割増、イタリアで2割減となる中、日本は6割り増しであった。 ライフスタイルが個人主義、無関心、不寛容、失業率増加、テレビゲーム、片親の増大、ストレスとマスコミが必死に画一的であるが、原因を追究はしているが、そういった複合の原因があるのであろう。 そういえば、確かに、子供の頃、怒られれば、「出て行け!」といわれ、夜に家から放り出されたものだ。最近では、夜に放り出せば危ない。逆に、罰として、「家から出ていってはならない」といったケースが増えているような気がする。 子供の頃、家の窓から、夜、外を見ると、隣の家に住んでいた3つほど年上のアヤちゃんが暗がりの電信柱に立っていた。目を凝らして見ると、裸足であった。怒られて、家から放り出されたということがすぐ分かった。あんなに大人しく優秀な子でも、親の逆鱗に触れるのだなあと思った。 その後、1、2年の間に、アヤちゃん一家は引っ越していき、私も一度も引越し先や行方を親に尋ねることもなかった。 3ヶ月前に、母親を連れて、パリを歩いていた時、母親は「小学生のときに隣に住んでいたアヤちゃん覚えてる?今、パリに住んでいるらしいよ。親が定年退職し、田舎生活に憧れていて、山奥に引っ込んでしまったらしく、彼女はそれが嫌で、パリに来たそうよ」と言った。 アヤちゃんのことを思い出したのは、20数年ぶりであった。またあの裸足で電信柱に佇み、泣いている姿が目に浮かんだ。でもパリは華やかであった。 イギリスは、今や世界最大の監視カメラ台数が町に溢れている。プライバシーも大切だが、公共の場なので、もともと姿を曝すという側面はある。また、有名な窓割れ論もあり、欧米では実践されている。いわゆる、ゴミの散らかりや、廃墟、落書きは、地域のコミューン力が薄く、監視されていない気がして排他的ではないので、犯罪を起こしそうな奴が犯罪を犯してもいい、ばれないという気になるというものだ。 そういえば、私は、あの神戸サカキバラ事件の中学の横の高校に通っていたが(校歌にもタンク山がでてくる。正式には竜が山であるが)、一人目の女の子が殺害されてしまった竜が台地域では、その後、パトロールや危険箇所人目につきにくい場所などチェックし、地域あげて防犯強化に力を入れた。その後、男の子が第2の殺害に巻き込まれたのは竜が台の隣にある友が丘地域であった。ここは、このような監視強化体制がなく手薄であった。事実、あの鬼畜は、「ここは直感的に具合が悪いと思った」とか「実行するのは人気のないところでしようと思った」とか「死角になる場所を探していた」と考えればアタリマエのことを言っている。 犯罪の原因を究明しようとしても、究明できそうにないし、究明できてもそれを事前に治すのは難しい。やはり、波打ち際で歯止めをかけ、思いとどませることの方が先決だ。
2005.09.08
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買い出しに出かける。公衆電話でフィリピン人やタイ人がよく電話をしている風景を、よく田舎の大型店舗等の前で見かけるが、ここでも見かける。そのたびに、故郷に国際電話しているのだろうか、と私は凝視してしまうので、相手は私を睨む。そして通じ合ったような笑顔を送ってくれる。それどころか店内は日系ブラジル人の嵐だ。白人ぽいのからメツチーソまでいろどりみどりで愉快。そのくせ、あちらの特産品は少なく、おまけに野菜の値段も「生産地に近いくせにちょっとも安くないやんけ」と、時々しか野菜を買いに行かない私に愚痴らせるのであった。 西瓜を購入。麦藁帽子の少年ごとく口の周りを汚して種をピュピュ飛ばす予定だったが、アイスボックスで冷えた西瓜を食べながら、ひいばあちゃんの葬式のときのことを思い出していた。親戚や近所の人達が台所で忙しく動いている。誰かが冷臓庫を開けた。「わあ西瓜やわあ」といって西瓜を切った。「何日も入っていて良く冷えてるわ」といって西瓜を食べた。他の人達もおいしそうに西瓜を食べた。平和な時代に育っている小学生低学年の私は、先程初めて見た人の死体と、本来その人(ひいばあちゃん)が食べる予定だった西瓜を皆がよってたかって食べているという構図が交差して何か怖いものだな、と思ってその光景を見ていた。 朝は起きる必要もなかった。座っていると、蛾や蜜蜂やとんぼが体にまとわりついたり留まってみたりする。異常にフェロモン度高いんとちゃいますか、という意見は無視して昨夜のことを思い出し足元を見る。草履が片方ないままである。闇夜と共に草履は川の流れに身を委ね、太平洋の藻屑候補生として、私との3年の付き合いを反故にして旅立っていったのであった。同行者Sは紫外線、癌の恐怖をも気にする様子もなく上半身裸で直射日光に身を任せている。日陰者の私は木陰まで勇気をもって後退した。蛾と蜜蜂と虻ととんぼが同行した。 夜は「伊那の飲み屋街はいったいどうなっておるのか」という根源的疑問を我々なりに解明すべく10分先の中心地に標準をあわせて車は行く。丁度盆踊りということで我々の行く手を実行委員会の一員らしきおじさんに阻まれる。車をどこに停めるといいか確認すると他人の駐車場らしき場所を指差され「あそこにおいとくずらよ」てな感じのことをいわれた。我々はいたく感激し、車を置き、盆踊り会場へ続くのであろう商店街を通り越し、昼間に綿密な調査をしておいた一帯へと突き進む。盆休みのためか背広姿はほとんど見かけず、当然観光客とおぼしき人物はおらず、道は帰省しているのか若者で溢れかえっていた。夜の10時になっても居酒屋は若者で満員である。町並みはなつかしい感じのする低層の古い建物に飲み屋がぎっしりつまっており、剥がれかけた古い看板や看板の文字が印象的である。おまけに何故か「日中友好」の看板や(中日友好ではないから日本人が作ったのであろうか)タイレストランや20年前から長野オリンピックを予想していたのか、看板が崩壊寸前の「オリンピック」という店や「日本で随一のビルマ焼肉」など営業内容意味不明の看板があった1件の店に入り、いろいろ聞き出そうとするが、よそ者にはガードは固く秘密主義は頑なに死守されている。これでは伊那発25時徹底検証ができない。そして、我々は明朗会計をただただひとえに祈りながら、奴隷並びに特攻隊長のSを先頭に企画統制部長の私が突っ込んでいくのであった。以下、調査結果の要点を上げる。こちらの若い者は居酒屋の後、クラブと称する京阪神では主に男性しかいかない様なカウンターバーのような所へ大挙して行くということ。大きな買い物は松本に行くらしいということ。多分日系ブラジル人を筆頭に企業に日本人以外が多く多く労働しているということ。以上3点を聞き出すことに成功した。 そうして今宵も更けていく。 駒ヶ根のディスコでなくバンクーバーのディスコ
2005.09.07
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台風は凄い事になっており、大変なことになっており、ニュースを見ている。こういった災害時に一人暮らしの人々はどうなんだろう。国勢調査によると、全国で1985年に1人暮らしは21パーセントであったが、2000年には28パーセントになった。(ちなみに2人家族も18パーセントから25パーセントになった。) 特に、40代以上の男性の一人暮らしが爆発的に増えている。40代で1.8倍、50代で3.6倍、60代で4.1倍。結婚しなくなったのと、離婚が増えたのと、死に別れなのか、ゲイボーイが増えたのか。 昔からある4人のファミリーは今や全世帯の17パーセントしかない状態だ。大抵は子供一人いれば、2人目も欲しいというのが親心というようなものだとは、思うのだが。やはり根本は経済的なものなのだろうか。 ゲイ(女性同士含む)とバイセクシャルは違うという意見を聞いた。よく考えたら確かにそうである。異性にも興味があるが、その延長線上に同性にも触手が伸びる?探求的で情熱的なことである。しかし、ゲイは同性のみしか愛せず、異性は生理的に気持ちが悪いということであるから、遺伝的、体験的な問題である。 女は、ヘテロでも、同性に対して、綺麗だと思ったり、憧れたり、多少のタッチングは平気なものかも知れないが、男は、同性に対して、ハンサムな奴だなと思っても、なかなか、男はキタナイ!と思ってしまうが間違ってないか? これが男だったらどうするアイフル?私との相性は?私は恋愛力は18段階中18位です。さっぱりです。
2005.09.06
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Once インドのウダイプルから日帰り旅行に出かけた。4時間のローカルバス。Once 果敢な民族ラージープートー族の残した城塞。丘の上に立つ。Once バスを降り、丘に向かって歩き出す。後ろから西洋人数人を乗せたタンガー(馬車)が声をかけた。「3ルピーで城砦まで乗っていかないか」私は、後ろに乗り込む。いろいろ回りながら、数時間後、町に戻り、タンガーを降りた。3ルピー払った。インド人は行けと首を横に振った。西洋人とはよくある値段交渉でもめだした。「あいつは何故3ルピーで俺たちは何故一人30ルピーなんだ」「あいつはエキストラだ。ついでだ」後ろからそんな言葉が聞こえてきた。少し微笑ましかった。 その後、イギリス人とアメーダバードの町を歩いていた。宿屋が分からず、私は、通りがかる人に道を尋ねるのだが、全員が全員私を無視して、隣のイギリス人に道を教える。少し悲しかった。台風前夜にそんなことを思い出した。
2005.09.05
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ヴァンクーバー時計何時だっけ?アーサーミラーはマリリンモンローと結婚してたこともあるけど、ヘンリーミラーは5人目の妻として日本人と結婚していたんだなあ。 高校を卒業して以来、真面目に走ることを忘れた私は、夏は正装としてのビーチサンダル、社会人になってからは、働いていない時はサンダルで通した私であるが、先日の万歩計を期に、運動靴を購入した。 高校の時に走っていた頃の一番のお気に入りの靴は、まだ健在のようである。 考えてみれば、女性は靴を100足持っていても、私は、サンダル以外の靴は1足しかなかった。思わず、少しだけ、本格的に歩いてみる気分になっている。 ところで、郵政民営化といっているが、今回の選挙で民営化に賛成の議員がたくさん当選しても、また参議院で否決されるから、駄目なんじゃないのかね。アメリカも小泉を応援するが、それは郵政民営化なんかどうでもよくってイラクの自衛隊派遣問題のいうことを聞く犬が必要なだけだからねえ。 ところで、こんなことを告白するのも、全世界の人には秘密なのだが、最近の子はどうなのだろうか、私の場合、舌の毛が生えてきたのは小学校5年生であった。 おとろしいことに、小学校5年には1泊の野外研修、小学校6年には伊勢への修学旅行があった。ピンチであった。こういうことを思い出したからである。5年の春、クラスで一番背の高い、すでにスネ毛もじゃもじゃ男子Pのことである。野球を放課後に皆で楽しんでいたのだが、ライナーがPの股間に直撃、Pはのたうちまわり、そして、ズボンをおろしたのであった。そこには立派なもじゃもじゃがあり、野球をしていた全員が大笑い、翌日から彼は、「既に生えている」と大々的に宣伝喧伝され、それ以来、彼は大変大人しく人見知りする性格に変わってしまったのだ。 こいつはやばいと本能的に感じた私は、野外研修での風呂だけが、小学校5年の夏休みの悩みのたねとなった。この現状を打破するには・・・ 宿題もせずに考え出した結果、苦渋の選択を行った。 剃った。 正解だった。風呂に集団で入ったが、誰もまだそこには産毛のつぼみもなかった。小学校6年は、大英断をし、風呂には不参加とした。 しかしながら、高校1年の野外研修ともなれば、その韻盲の地位は格段に向上し、不動の高地まで上り詰めており、引っ張っては投げ、千切っては投げという風呂場の修羅場となったのである。高校2年生の修学旅行ともなれば、その高みは益々高尚なものとなり、シルエットに「象だあ」とかするお馬鹿大尽が多数出没したのであった。 神戸
2005.09.04
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スペイン語表記の車に乗ってます(意味なし)体の意味不明の動きは、脳の指令によるものだった。まるで自分を客観的に見ているような錯覚に陥っている。見ている。手が。それを社会のせいにするようになった。社会構造が、個人に責任を取らせないようにした。それで許されるようになり、楽になった。退屈な気楽さを得た。 自分に責任を持たなくなって内部崩壊が始まった。組織や枠組みに責任を転嫁すればことが足り、管理されるようになった更に楽になった。迷宮のパラダイスであった。 管理を受け入れたら、機械になった。歯車と言う単純な機械になった。指令から脳が離れ、時々、油をさすだけでよくなった。 ・ ・ワインはがぶ飲みするものだ。そう思ってきた。音楽は垂れ流しでも綺麗だと思った。 女性はなかなか話しにくいものだが、便秘率は若い世代でも半分近くおられるという統計がある。便秘とは個人差があるので、定義しにくいが、体のメカニズムに変調をきたし、不快になっている状態であろう。一般論にはしにくいみたいだが、概ね3日出るものが出なければ便秘とみていいだろう。まあ、頻度というよりかスムーズに排泄でき、残便感(すごい言葉やな)がないことであろう。 しかし、考えてみれば、便秘は危険なものである。炎天下の中に生ゴミを置いていたらどうなるか?腸の温度は40度ぐらいに、生ものが停滞している。 まあ、さておき、最近考えてみれば、1日2~3回大きい方を体外に排出している。しかし時間的には不規則である。外出先でも遠慮なくできるようになった。それが大人だ。 中学校までは、学校で雲故をしたことが見つかれば、瞬時に全世界とはいかないが、全クラスにその汚名が響き渡ることになった。これは便秘習慣をきたしてしまう原因の一因であるかも知れない。男子便所で便器の扉がしまっていれば、すぐホースを用意して、下から上から水をかぶせるなどという陰湿なマネはもうしてはならない。楽しいけど。そこで声を出さなくとも、制服の濡れた奴がいたら、そいつが、今日学校で運子した奴だ。さらし者にしてはならない。本当は。 さすがに高校になると、やがて雲子は市民権を得、地位を向上させる。それでも少し恥ずかしいから、放課後の理科実験室など、遠く離れたトイレでコトを済ませる。 大人になれば、「今、しゃがんできてん」「なかなか出んわ」など、自慢の言葉を発するほどに偉大になってしまった。英雄的運戸に栄光あれ! ところで、コトを済ませるで思い出したが、今日、マンションの共用階段を下りた所で、滅多に人が来ない所の扉を開けると、「ワン!」と叫ばれ、びびった。でもワンと吠えたのは犬ではなく犬のフリをした人間であった。交尾をしていた。見てはならぬものを見てしまった。 ムーンクッキーでも食って寝るよ。
2005.09.03
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零時57分、やがて、最終電車が行ってしまった。昔、最終電車のテールランプだけは赤ではなく、青になっているというガセを聞いた。小学校5年の時、それを本気にして、夜中、家を抜け出し、約20分走って、線路沿いまで見に行った。失望した。純粋な少年の心は打ち砕かれた。そいつに、「実は土曜日の夜中3時に、ジャーっというのが急に変わり、凄い裏番組が始まるんや」と言ったら、彼は、夜中に家を抜け出して、2時50分に家に来た。「ほら、みてみい、これが「砂の嵐」や」と私は言ったが、彼の真っ赤な顔は忘れられない。 夜中に、近くの庭の川沿いを草履で散歩した。こういうのがいい。草履は走らない。先日、誘われて、ビジターで初めてスポーツジムに行った。ウォーキングマシーンにも果敢にもチャレンジしてみた。普通に歩くのとは違い、運動機能的に良いとのことである。風景が変わらないのはつまらないが、本も読めるので、まあよしとしよう。私の前のマシーンの上に、無茶苦茶太った西洋人のおばさんが走っていた。こんなアメリカジョークを思い出した。ある家庭の妻は、普段はケーキを丸ごと食べてしまうので、ダイエットのために、夫が帰ってくるまで半分だけ食べて、あとは我慢すると夫と約束して、朝、見送った。しかし、昼間、ケーキを見てしまうとどうしても我慢できなくなり、半分どころか全部食べてしまった。このままでは夫にばれてしまう。大変だということに、ようやく気がついた妻は、思案した。そして、妻は、もう一つ別にケーキを焼き、また半分食べておいたという。何故か、自分のことは差し置いて、こういう姿をみると、世界の半分の人は飢えているというのに、何でこんなブロイラーみたいなことをするのだ!と思ってしまう。 2年前、香港に行った時、通り沿いからネイザンロード南端のサルブレイロード沿いにあるシェラトンホテルの3階のスポーツジムが、ガラス越しに見え、皆、ウォーキングマシーンに乗って、走っていた。皆が一様に、ビクトリアハーバーと香港島を眺めながら一様に走っている姿を見て、豊かな人も多いのだなあと思った。皆が同じ方向を向いているのが変に思えた。その街角のすぐ下で乞食がたむろしているのも変だった。その横で、本物のニセモノのロレックスを売っている黒人とのコントラストが何となく香港であった。(香港聞き取り調査はコチラ)
2005.09.02
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阪神淡路大震災の持っていなかった写真集が古本屋にあったので買ってきた。当事者の一員としての私は、翌日から無茶苦茶になった現場を歩き回り平衡感覚を失ったが、写真だけは撮る事ができなかった。プロでもない限り多くの人は撮れなかったのではないだろうか。暫く期間がたち、写真を撮る人々を見ることがあった。明らかに震災ツアーであるが、非難はできないが、少し悲しいものがあった。 電車に乗ると、時々、前に座ってたり、立っている女性が携帯メールをパチパチ打っている姿を見かけ、その内容が、見えてしまうことがある。見てはいけないなと思いながらも、そう思えば思うほど、ちょっとばかり見てしまう。内容は、いつも、よく憶えていないのだが、考えながら打っている時間が長い。僅か数行なのに、打つ速度は速いのに、推敲に推敲を重ね、何度も消し消し、考えている。 不思議だ。あれだけよくおしゃべりするのに、文章が生まれないのか。絵策を越えて 古本屋には車で出かけた。行きに、検問をしていた。検問の手前の路地にUターンする車を狙うパトカーが息を潜めていた。 帰りも、まだノルマが達成していなかったようで、まだ反対車線では検問中であった。通り過ぎ、暫くシテ、私の心の内なる悪魔が呼び覚まされ、Uターンし、検問手前でまたUターンしてみた。獲物を襲うパトカーが飛びついてきた。満面笑顔を押し殺した鬼警官が私の車を停めた。「何故Uターンしたんですか」心は笑顔なのに顔はマジ。「・・・・・・・・」(私、ゴルゴ13のまね)「飲酒検査しますので、息を吐いて下さい」「ハァ~」みるみる彼の顔が落胆の表情に変わっていった。私は、にんにくを食べてくるのを後悔した。今日は、いいことをした1日だった。
2005.09.01
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