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大変可哀想なことではあるのだが、室内のどこかで秋の虫が鳴いている。小学校の時こういうことを聞いたことがある。日本人はこういう虫の音を風流だと思う。しかし、西洋人には聞こえない。この虫の音が聞こえるかと尋ねて、初めてその雑音に気がつくという。本当だろうか。高校生の時の同じ極悪クラブだった同級生「心斎橋ハシルゲ」に個人的に送る手紙を、今日も何も大したことがなかったので、ここで公開しておく。今年も来ました8月31日です。宿題は終わりましたか?きっと最高にいっぱいたまっているのでしょうね。最近は広告代理店の仕事をするふりをしながら徹夜して、宿題をしているようですが、大丈夫ですか?物理で5点とったことは全世界の人々には秘密にしておくから、しっかり補習に出席して下さい。強化合宿も抜けること許可しますから。(正直、うらやましかったです)考えれば、8月31日往復書簡ももう20周年を越えてしまいましたが、近年は宿題がたまりすぎているのか、よくお互い忘れていますよね。高校1年の夏休みも終わりの頃、宿題も膨大に溜まっていたにもかかわらず、須磨水族館横のプールに泳ぎに行き、君に借りていた短パンとボクシングゲームをロッカーに入れっぱなしで鍵をかけるのを忘れて取られたことをここに告白します。しかし、あれは盗んだ奴が悪いのです。盗んだ奴が君の短パンをはいていることを想像するに、ちょとだけ気持ち悪いです。その後、君は順調に2浪に突入したのですが、その間も、私は宿題をほったまま遊びに行き、インドネシアのジャワ島あたりからとかカトマンドゥ辺りから8月31日国際号を送りつけ、31日に着かないではないか時差ぼけしてるんじゃないよと厳重抗議を受けたのもまるであさってのことのようです。君も、バンコクのGPOやインド大使館横インフォメーションセンターに31日号を送りつけてくれた様な気がします。近況を申し上げたいのですが、毎日近況をアップしている状況なので、省略させて頂きます。では今日も徹夜で宿題して下さい。シェイクスピア全部訳してください。宿題すべきか、しないべきかそれが問題だ。ところで、あの英語の話せない痔持ちの英語のS先生ですが、以前、よく入り浸っていた兵庫のインドカフェのオーナーの人がちょうど3年上の同じ高校の先輩で、S先生が自分のカフェに偶然来て、向こうは気がつかなかったようですが、嫌悪感と吐き気を催し、すぐさまバイトの子に店を任せて逃げたとのことでした。以上報告終わり。ピカチュウの万歩計は持っていないが、飛行機なら持っている。少し大きくて家のガレージに入らないので、庭に置いている。一応、庭には管制塔のおもちゃもつけている。
2005.08.31
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やがて、ついに、私の本職である散歩が、副業である勤務先の会社が暗黙の内に認めたようで、万歩計を与えてくれた。そんな訳で運動ではなく、案外1日10キロぐらい歩いていることにド肝を抜かれる。海外に行って朝から夜まで意味なく歩く私は、もしかしたら400キロぐらい歩いているのかも知れない。しかも、会社からは、1日1万歩歩くように至上命令が出され、デスクワークをしている暇も無い程だ。ノルマが達成できない場合は、クビを覚悟せねばなるまい。 そんな訳で、瀬戸内海沿いに暮らす私は、日本海まで歩いていった。凡そ、3時間弱かかった。車で。日本3大松原のひとつに数えられる天橋立には、小学校の頃に行ったことがあるが、なんだか寂れていた。その寂れ具合がなかなかいい感じで、しばし風景を楽しんだ。 関係ないが、今日、妹夫婦が帰国したのであるが、次は早くも桜の季節に戻ってくると言う。リーズに引っ越すそうだ。 天橋立には、船が来るときに動く橋がある。
2005.08.30
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シアトルマーケット。 1970年代後半だと思う。私は、小学校低学年で、夏休みの大半をおばあちゃんの田舎で暮らしていた。 ある夜、テレビで映画を途中から見た。それはショッキングな映画であったが、その映像は、空を飛ぶ人面。未来に、不死を達成した天国と殺戮の地獄に分かれて、行き来できないこと。天の人々はそして死にたがっていること。地獄の人が、浜辺で女性を犯すシーン。芸術的な意味不明の映像、ラストシーンは人面船の中で、主人公と女性が白骨化していくこと、そういったのをウル覚えで憶えていたが、それは、心の奥深く記憶され、題名も分からないまま、ずっと見たいと思っていた。 平成に入る前からレンタルビデオ屋が流行りだし(昭和天皇死去の際、つまらない画一的なテレビ放送に辟易して一挙にビデオ屋が流行った)、その頃からビデオ屋に行くと、時々それを思い出しては、あの映画を見てみたいなとずっと思っていて、ビデオ屋に行くたびに、心のどこかで探していた。 題名や出演者が分からないので、何ともならなかったのであるが、遂に30年近くぶりに、帰りに寄ったツタヤで今晩探し出した。ずっと、一生あの映画はもう見ることができないのだろうなあと半分諦めていた頃。 ふと手に取ったSFコーナーにあったDVDの解説を読むと、まさしくソレであった。「ザルドス」 思いのほか、鑑賞すると記憶が蘇ってきて、思い出した。1974年の作品で、主演は思いの他、ショーンコネリーであり、愛の嵐のシャーロットランプリングであった。 内容はともかく、昔観た、もう一回見たいけど、手がかりがほとんどないっていう映画、まだいくつかある・・・ シアトルナイト
2005.08.29
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秀吉の天下統一以降、隣組などの相互監視制度をひいて日本は均一化したという。こんな話を思い出した。ある村のたんぼは虫が発生して、どの家の田もダメになってしまった。1件を除いて。 その1件の百姓自身も何故自分の田だけが、豊作だったか分からなかった。それを妬んだ村の人々は、その百姓の家を村八分にしてしまった。そこで困ったその百姓はどうしたのか。 「おらの家だけ豊作だったからええだろ」と自慢して村八分を無視したわけでもなく、不作だった村全体に平等に米を配り与えた訳でもなかった。 豊作の自分の田んぼに火を放ったのであった。日本らしいエピソードである。 ところで、何故その田だけが豊作だったかといえば、その田の横に松があって、その松が害虫を追いやっていたというのが、後年の見方である。白糸の滝。 車を抜かしたり、渋滞の一番後ろについたときにファザードランプをつけるようになったのは、1990年頃からだったのではないだろうか。 1992年、関東何でも地道車ツアーを敢行したときに、岐阜で一泊、翌日の夜中に富士山麓を走っていた時に、運転を交代した奴が、ペーパードライバーで恐る恐る運転をしていた。「後ろついたから、脇に寄って抜かさせてやれや」と私が言い、後続車が抜かしていくたびに、チッカチッカと2回ファザードランプをつけた。 「何じゃありゃ」とオール関西人の我々は、滑稽で笑った。「あれってもしかして、感謝の気持ちちゃううん?ドケドケのパッシングとえらいちゃうやん」と愉快で笑った。それから関西に伝わってくるまで、そう時間はかからなかった。それと関西では信号待ちの時に、ほとんどの車がライトをスモールライトにするが、この分岐点は滋賀県であった。滋賀県の大津市、京都府の伏見区辺り以降になると、信号待ちも、ずっとライトをつけたままであった。 最近はどうだろうか。私も、ここ5年ぐらい、もうスモールライトにしなくなってしまった。
2005.08.28
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2-CT-2ではないよ。少し悲しいことではあるが、文学作品というものをなかなか30歳を越えると読む気もしなくなったし、読んでも途中で投げ出したり、心ふるわせられることもなくなった。 しかし、世界的名作というのは、有名だから感動する場合もあって、なかなか先入観なく読むのは難しい、「今、俺、『ドクトルジバゴ』読んでんだよなあ」と思いながら読んでいる面もあったりする。ジョイスのフェネガンスウエイクなんか、18行ぐらいで投げ出した。 確かに、アンネの日記を始めて見た編集者は「ただの日記、特殊な体験の個人的な内容」とあっさりボツにしてしまったりしている。今日あったいいこととは忘れたが、大学の親友にメールを送った。誕生日だったからだ。「21歳のおまえの誕生日、おもろかったな」インドのニューデリーで、安宿の片隅に転がっていた鍋を借りて、近くのマーケットに野菜を買いに行った。野菜は高かった。何か当時、壊血病になるんじゃないかと思うほどに、生野菜を摂取したくてたまらなかった。日本から持参した味噌を鍋につっこみ、野菜をぶち込み、ラベルの剥がされた怪しいビールと煙で乾杯した。それはなかなか楽しかった。今でも、彼は、1年に1回はその話をする。嬉しかったんだろう。数ヶ月以内にあったいいことは、忘れてしまったが、私の後輩の事を思い出した。彼女はお嬢さんなのだが、我々が頻繁に馬鹿みたいに旅行に行くので、彼女もインドに行った。インドといっても、何故かダラムサラ、そして分かる人には分かるマナリへ。すっかり、印度化した彼女は、印度かどこかで知り合ったM君と結婚し、長野県の山奥で自給自足の生活をしている。子供も2人、自宅出産した。あ、いいことでもなんでもなかった。ゆくゆきて神軍の原一男監督「極私的エ ロス・恋歌1974」のみたいやなあ。これからあったらいいなと思ういいこと・・・毎日が日曜日だろうなあ・・・
2005.08.27
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この店は多分、昔、チェーン店の甘太郎かと思われるが、脱退して犬になったのだろう。しかし、おそらくほとんど誰も気がついていないだろう。洞察力の鋭い注意力散漫な私だけが、その場で気がついたのである。その場にいたのは私だけであるが。以上。チーン。
2005.08.26
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・・・どうやら関東方面に大型の台風がきている。一応、毎朝、無料の天気予報が携帯メールに来るようにセットしているが、降水確率30パーセントなら傘を持つのか、20パーセントはどういう意味なのか意味ないのか?と私は迷ったりしない。合理的な私は、備えよ常にというボーイスカウトのモットーさながら、いつも折り畳み傘を持っている。英語で敢えていえば、ラジカルである。Rationalではない。 ところで、天気予報たるもの、戦争中は、国家機密ということで、開戦当日から天気予報放送がなくなった。それは、いいとして、降水確率とはある定点に1日1ミリメートル以上降る確率で、パラパラでも集中的な雨でも、雨は雨である。ところで天気予報が難しい時は、多分、雨と言っておけばいいのではないか。晴れと予想されていて、出かけて雨が降れば、多分、テレビ局や観測所に抗議の電話が入るから。 そもそも明日の降水確率30パーセントとは、明日と言う日が100日、1000日、10000日あってそのうち33日、333日、3333日が雨という意味だ。 まあ、そんなことはどうでもよかった。よかったが、紙面の都合上、今日はこれで終わりと思われる。そういうわけで、ねずみ講式資本主義社会の話はまた来年するとするが、1,000年先に「こんな変な時代もあったんだよ」と教科書に載るんだろうなあ。っていうか1,000年先に人類はいるのだろうか?地球はあるだろうけど。飛行機も結構明日は欠航。結構国際便は台風でも決行して飛ぶけど、な、バンクーバー空港。
2005.08.25
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高速道路を使わず、九州へ行き、その帰り道、山口から山陰の海岸沿いを通って戻ってきたことがある。3人で交代で運転し、ただただ運転していくというガソリン撒き散らしの犯罪であった。一人は運転、一人はナビ、一人は後ろで眠るという理想的な按配である それにしても、山陰のことを裏日本といってもいいのだろうか。もとより、山陽、山陰である。純粋な地理用語なのだろうが、所得倍増計画を経て、山陽側に工業、人口が集中した結果、なんだか山陰は裏寂れたイメージを持つに至った(しかし、多分、山陰に住む人はそんなこと感じてないとは思うのだけど)。実際、明治の頃は、山陰の各都市も結構人口が多く、特に金沢なんか日本で5番目ぐらいに人口の多い都市であった。 そういえば、今思い出せば、私は純粋無垢であるので、結婚資金を少し貸したままになっている現在行方知らずの友人がいるが、それは友人とはいえないのだろう世間一般には。その彼の結婚式は、鳥取で行われ、私は、わざわざ、長距離バスで出かけ、わざわざ日帰りにせずに泊り、わざわざ結婚式に出席し、わざわざスピーチまでして帰ってきた。勿論、人前で話すまでもなく、頭の中でも、最初に考えたり発言していたことも、途中から忘れてしまい、起承転結に話をすることができない私であるので、前日からほぼ徹夜状態で構想に構想を重ね、スピーチが始まる直前まで、ビールで喉を潤し続け、アルコール以外は喉を通らないという、よくある状態を漫画のように演じ続けた。 (今となっては、大人になったので、スピーチのコツも覚えたので、びびりもしないし、とても流暢である。勿論スピーチ時間は1分程度である。もう知人はそれを見越して、私にスピーチを頼まなくなったし、それ以上に結婚式自体がもうなくなったような気もする)「24時間,九州山陰ルマン」の途中ポイントとして、ちゃんと出雲大社にも行った。ほんま、今から1000年前の平安時代に、今の15階建てマンションぐらいの高層建築があったというのは凄いですなあ。 ところで、人生、一言で語ったらあかんで・・・と語っておく。
2005.08.24
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映画痛の私は、キャサリンセダジョーンズやエンゼルワシントンと思っていたが、もっと大きな誤りにも気がついた。 母親からメールが入った。母親は、日々、外国に住む妹とメールして、あー安いわ安いわとのたまっているだけなのだが、その妹と旦那が日本に来ているので、車山高原にドライブに行ってくるから、当分いませんよ、という内容であった、が、私は同居していないので、関係ないのだが、単純に自慢しているだけなのかも知れない。 で、私も中学校2年にときに連れて行ってもらったことがあるので、「その時には尾瀬まで足をのばしましたなあ」というと、それは八島湿原ですと窘められた。 では、あの記憶はなんだったのか? よかった、この20年間、尾瀬に行ったと自慢したしたことは、たったの1回しかなくって。その人にはだまっておこう。 記憶とはあやふやなものである。 今まで何度か砂漠に行った。綺麗な砂の砂漠というのは案外少なく、大抵は岩がゴツゴツした沙漠である。しかし、写真でもミニマムで見ると、いったいどこだか分からないものだ。 沙漠の足跡・・・とおもいきや、鳥取砂丘。高校野球が先日終わった。(ということに今気がついた)高校野球は残念ながら見ないのであるが、何故灼熱の夏にやるのだろうか、ずっと不思議に思っている。ほとんどの人は、エアコンの効いた部屋で、寝転びながら、ビールなんか飲んじゃったりなんかして、照り返しで50度ぐらいにはなりそうな球場で拷問風景を見ているような気がする。 秋にすれば、もっといいプレーも見ることができるのではないかと思うのだが、そうではないのか。プロ野球の空きの時間に高校野球をやらせているのだろうか。 灼熱地獄で野球をしている球児が不憫に思えてならない。 それに、高校生のことは分からないが、茶髪に鼻ピアスといったいまどきの若者高校生球児は出てこないものなのだろうか。もう丸刈りはいいのではないか?剃り込みももういいのではないか。(もう丸刈りではないの?剃り込みは禁止されたの?) 高校野球にせよ陸上にせよ運動の強いところは、越境入学させて、実際地元民の戦いというのではなくなって久しい。その学校がどう強いかになっている。運動能力のある黒人まで高校留学してきていたりなんかもする。これについては慈悲深い私は批判することはない。これを批判するなら全国有名受験高校の越境入学もおかしくなってしまう。学校の方針に憧れてということもあるし、頭のいい子たちの中で切磋琢磨していくのであろうが、それは運動に関しても同じだ。 実際、関西の雄、東大進学率2位の灘高校は、地元神戸市民も多いが、滋賀や奈良からもいっぱい通ってきている。そういうことである。どういうことや。 昨日は、寝ようとしたら、ついつい本にはまってしまった。学生の時、ゼミの教授が、授業で文庫本を出し、「この経済学の本はなかなか面白かった、昨日徹夜してついつい全部読んでしまいましたよ」と言っていたのを聞き、ホンマに経済学がすきなんやなあ、と思った。 今日も仕事と言うのに、寝不足をやたら心配しながらもついつい5時まで本を読んでしまった。そんな訳で、今日はもう寝る時間が迫っている。それでは。
2005.08.23
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グリニッジからそう遠くない町に泊まっていた。小さな町には、小さな商店街があるのだが、そこにはフレンチレストラン、タイレストラン、インドレストラン、雑貨屋、パン屋、コピー写真屋、花屋、パブ、不動産屋、金物屋、ミニ図書館、散髪屋、歯医者が揃っている。しかし、考えれば、日本の地方の駅前商店街と変わらないはずなのに、寂れ感がない、当然商売なので儲けなければならないのだが、やけに道に面する窓の装飾がどの店も凝っていて、歩いていると楽しい。楽しむつもりだなあというのが伝わってくる。日本だと大規模店舗にぼろ負け凋落の一途ですわ丸出しなのだが・・・。 また、百数十メートルの商店街を抜けると、芝生の公園が広がる。そこに小動物がたむろする。王室、貴族の広大な敷地の遺産、黒死病の死体を埋めたという歴史があるにせよ、公園の国なのだなあと思う。 月の引力は、体内の水分に何らかの影響を及ぼすのか・・・切り裂きジャック事件も満月の夜に起こったなあ。統計的には満月前後に交通事故や放火が多いと言う。1986年1月 スペースシャトル チャレンジャー号 爆発事故 満月2日後1991年5月 信楽高原鉄道とJR西日本の列車衝突事故 新月1995年1月 阪神・淡路大地震 満月翌日1995年3月 地下鉄サリン事件 満月3日後2003年2月 スペースシャトル コロンビア号爆発事故 新月2003年3月 イラク戦争勃発 満月前日2004年9月 浅間山噴火 満月2日後2004年9月 ロシア学校占拠事件 満月2日後2005年3月 インドネシア・スマトラ島沖地震満月2日後2005年4月 JR福知山線宝塚発同志社前行き塚口―尼崎間脱線激突事故。 満月翌日2005年7月 ロンドンで地下鉄・バス同時爆破テロ。 新月翌日2005年7月 ロンドンで地下鉄・バス同時爆破テロ2回目。 満月うわあ、と思うかもしれないが、まあ前後数日なら確率的には別になんてこともないような気もする。
2005.08.22
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今や観光化したが、かつてはサルトル(はとなりのカフェ「ドゥマゴ」の上に住んでいた)やボーボワール、アダモフ、ジャコメッティ、ロランバルト、俳優ではアランドロン、ブリジッドバルドーなどが訪れたカフェ。第二帝政時代から続く歴史があるが、実存君時代にはサンジェルマンデプレ界隈のカフェ文化開花。 そんなイメージを持って、フローラへ。朝、10時、驚くほどに窓ガラスやテーブルが磨かれており、建物自体はまずまずの歴史を感じるが、退廃的な雰囲気はぴくりとも醸し出していない。 私は、文芸や政治活動に思いをはせながら、実存君ごっこをするのか、スノッブ君ごっこをするのか迷いながらカプチーノを飲んでいた。 10年前は、ギリシアのアテネで、金がなくて、テラスカフェの横の道端で缶ビールをちびりちびり飲みながら、通りゆく人々を眺めていた。遠巻きに値段をみると原価の3倍、その横の道端で座って同じ光景や雰囲気が味わえるなんてなんとお得なんだろうと、若かりし私は思い、丘の上のパルチノン神殿を眺めていた。それから10年して、ちゃんと座って飲み物を飲める自分に感謝し年齢を感じた。 ふと気がつくと、斜め後ろにショーンコネリー風体の男が、頭を抱えながら何かを考えながらコーヒーを啜っている。香水のパコである。パコラバンヌはニューヨークでは自動販売機までがあった。 休日の朝、ゆっくり朝食を採って、物書きに専念し、休みにもアイデアに余念がないのだなあ、いろいろ考えているのだろうなと思い、ちらりと覗き込んでみた。クロスワードパズルをしていた。いい感じだった。大阪の心斎橋、赤字垂れ流しの地下街クリスタ長堀にも支店がある。キャッシュオンデリバリーで時々ビールを飲む。
2005.08.21
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昨日アップさせようとした画像はこちらだったんだなあ。北京タクシイ。 まあ、中国のトイレを見ると、かつて5,000円札のパワーで福沢には負けるとしても、大人気であった新渡戸稲造は、トイレの作り方を見れば人種の程度が分かるという珍説を唱えていたが、それも真理なりと思ってしまいそうになるものだ。勿論、これは誤りであり、それぞれの風土にあったトイレを作っているので、人種の程度は分からない。悠久の歴史を持つインドでは、農村部では未だ、野グソである。それで問題ないのだ。 正しくは、トイレの汚さを見れば、文化の程度が分かるであろう。間違いかも知れないが、そう思ってしまう。 しばしの休み、電車に乗ると子供を叱れない親とはしゃぎ放題の子供達が乗ってくる光景を目にすることがしばし。禁煙車や禁男子車があるのだから禁子車も作ればいいのになあと思う。ついでに、老人の方が入ってきて席を譲るかどうかもぞもぞしてしまう人のために、禁老人車(60歳以上入室不可)とか、こんな休みの時期に働いている者など見たくないという人の為に、禁ネクタイ車とか、鬱陶しいカップルを排除する為に婚姻以外の禁カップル車とかも作れば世の中が明るくなる。ただ、子供は元気なのだから立っておけというのも、昔はそう思っていたのだが、子供は元気パワーの加減を知らないだけで、すぐパワー終了して疲れてしまうということにも気がついたので、大人を立たせたまま子供を座らすということには、マリアナ海溝より深い慈悲のある私は、気にならない。ただし、靴は脱がすな、見苦しい。まあ、前ゴムなら許すか・・・ 舞洲スラッジセンターという焼却場は、これに金かけるならなあなんだかなあという施設でもある。フンデルトワッサーぼろもうけか。(新宿でフンデルトワッサー展に行った時、初めて彼が生きていると知った。いやはや)今日、義弟のイギリス人が、関空から神戸に向かう高速道路から、USJの反対側に変な煙突が見えて、妹があれが何か分からず、2人の間に、あれは日本人の作品なのかと、私に聞いてきたので、オーストリア人であると答えたことを思い出して。
2005.08.20
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今日、何を隠そう、野暮用で以前住んでいた駅を降りた。写真のキッチュな建物の一戸建に住んでいた。あのハリボテのようなゴシックしてる建物は、何を隠そう教会であり、結婚式場である。 私は、働き者の鏡または権化なので、当時(今もだけど)土日にもしっかり出勤していた。仕事の為、家の門を出て横を向くと、教会の門がドバババアバーンと開き、ウエディングドレスの女性やらそれにまとわりつく新郎やら、拍手の嵐を恐れぬ集まった方々が朝から祝い、幸せの絶好調を見せ付けられるということが度々あった。私の家の前で、そんなことするなんて嫌味でしかなかった。私の心がマリアナ海溝より深くなかったら、「うちの家の前で結婚なんかするな!」と抗議のメールをしていただろう。 おまけに横の一戸建ても潰されマンションが建っていた。気のよさそうな老夫婦であったのに、広い敷地を持て余したのか、相続税が払えなくなってしまったのか。 北京をぶっとばせ。この前に北京に行った時、夜中、タクシーに乗って、飲みに行った。勿論、タクシーに乗ったことはなかったので、見ていると、一人なら、半数が助手席に乗っている。私もそれに習い、助手席に乗り込み、ニーハオここに行ってくれ!と地図を見せた。助手席に乗るスタイルはオランダみたいだと少し懐かしかった。 外国でタクシーに乗ると、いつもそうだが、人通りがなくなり、暗くなっていくと、いつも、横から飛び降りれるような体勢を取ってしまっている自分は何なのか?常に地図を見ながら、この辺りを走っているなと思っている自分は臆病者である。 バスなら、わざと、適当に乗って迷子君になるんだけど。 帰りは、後部座席に乗ってみた。
2005.08.19
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都合の良いことに、私の家は分家の分家のさらに分家なので、本家にも墓がないため、墓がない。親鸞の浄土真宗となっており、西本願寺であり、そこに一族は永久納骨をしている。浄土真宗には、本来、死者がちょっと帰ってくるといった意味合いでの盆と縁がなさそうだ。死者はどこにもいかないからだ。親鸞は墓に対しても明確な教えを発表していない。墓より、信心が大事だと考えているからだ。墓をつくらなあかんと墓屋やお寺とつるんでいるとしか思えない占い師には困ったものがあると、ひねくれて考える。まあ、現在はここまで組織が大きくなっているのでなんらかの決め事をしておかないと混乱が生じるということであろう。浄土真宗では、私には都合のいいことに、死者は阿弥陀如来により救済されるので、特に先祖供養をする必要がないと考えられる。勿論、先祖がいたから自分がいるのでとてもありがたいことではあり、決して先祖を粗末にするということではない。かけがえのない命を与えてくれて、そのご恩に感謝すればいいのである。 とか何とかいっていると、コンビニでポチを発見。ポチはとても嬉しそうだ。飼い主も、嬉しそうにトイレットペーパーを購入した。 ポチは、何故か、繁華街でとっても目立っていた。信仰心、信仰心・・・ありがたや。
2005.08.18
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盆休みが終わり、もはやこの世は終わりと言う終末観が私の心を支配している。レジャー白書によると、おととしのレジャーに使った日本国民のお金は82兆円であるが、パチンコが30兆円、その他のギャンブルが宝くじを含め6兆円ぐらいである。80兆円は国家予算と同じであり、36兆円は国債発行額と同じである。全国百貨店の総売上が8兆円である。 私は、残念ながらパチンコはしないが、何故しないかというと博才がないからである。それに貧乏性なので、時間がとてももったいなく退屈に思えてしまうのである。パチプロで1日開店から閉店まで居座っているのは、苦行者他ならない。尊敬に値する。 100万円や1000万円なら想像の範囲内だが、1兆円ともなると、100万円の札束が100束ある1億円の入ったジェラルミンケース10000個分である。想像の範囲を超えている。もはや単なる数字でしかない。 先程、レンタルビデオショップで、後ろの若い女の子が「タカシー」と大声で呼んだ。向こうにいたタカシとおぼしき男は「大声で、人前で人の名前呼ぶな」と大声で叫んだ。吹き出したついでに、鼻水まで出てしまった。どうしてくれる? 子供の頃、遊んでいたいとこ同士が、やがて結婚し、子供を持ち(私を除く)、そのうち誰かが(誰もが)運転し、誰もが酒を飲み、誰もが語り合い、誰もが飲酒運転をするとは、いつ想像できただろうか。感慨深いものがあった。 今日は何日かな。
2005.08.17
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ヨーロッパの荘厳な風景や歴史から、ちっぽけな家に帰ってくると、その落差に驚愕する前に、何となくほっとするのは日本人的気質なのだろうか。 (プラハビトー教会) 日本には、昔ながらの貴族階級というか特権階級はほぼいない。特に明治維新や敗戦で解体され尽くし、今、金を持っているのは戦後の成り上がりばかりである。文化は金を気にしない暇暇階級がパトロンとなり、文化を創る手助けをしていく。成り上がりは、バブルの一時期を除き、金の値打ちというのをなまじっか知ってしまっているため、お金を大事にし、貯蓄と金を増やす為の投資に励む。手の届く程度の贅沢で満足することを知った日本人は、キッチュという文化を生み出している。 ヨーロッパにいけば、すぐに、「これ創るのにナンボかかんねん」と思ってしまう私は、日本人的プチ金持ちなんだろうなあ。久し振りに後輩と飲みに出かけて、東門入り口で待ち合わせした。私の数少ない奴隷が、是非、タイのビーチにいきましょうとうことで、まあ検討することにする。電気のない村で、バッテリーが夜の9時で終了。
2005.08.16
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早朝のテレビというのは、「明るい農村」とか「皇室アルバム」みたいなのをしていると思ってみてみると、NHKでは4時半から高校の英語をやっていた。誰がこんな時間に勉強するのか。熾烈な受験戦争を垣間見た気がした。 それから朝にいつも時間を見るためにつける番組、いわゆる「朝ズバ」とか「めざましテレビ」とかが5時半からやっているとか(8時まで)を知って少しびびった。毎日3時間番組だったんだなあ。 万里で茶でも飲むか。
2005.08.16
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戦後60年。昔から、不思議に思っていたことがある。無条件降伏したときに、各地でテロや反乱が起こらなかったのかということである。一部将校が、玉砕放送を録音したものを何とか奪い、放送させないという動きが失敗したことはあったが、その他ほとんどの人はどうだったのだろうか。 飛行機がビュンビュン上空を飛んでいる中、竹やりでエイヤエイヤやっている姿にを子供心に、「こりゃ負けるわ」と中学校の時の先生がいっていた。当時、大本営の発表とは裏腹にほとんどの人が、もう負けると思っていたのであろうか。 この世にはほんの少しのオリジナルと大多数のコピーが出回っているが、コピーがオリジナルを越えることはあっても評価されないんだなあ・・・。でも、自然界では、擬態というのがあって、本物をみてもへえ~で終わりだが、木の枝に擬した尺取虫や、周りの色に合わせたカメレオン、目玉模様の蛾・・・・生きるための騙しのテクニック、知恵だろうけど、人間からみたらホホウと本物より感心される。 今、15年ぶりに、文庫で「アメリカの鱒釣り」が出たので、リチャードブローティガンを読んでいる。当時のヒッピー達のバイブルである。当時は、私もかぶれてバロウズやギンズバーグやボウルズやケルアック等読んで遅れてきたヒッピー君を演じていたような気がする。勿論、例に漏れず、あまりストーリーはなく、数十の文章で隠喩などを散りばめ、多面的に何やら書き綴っていて時空を越えているので、読んでもちゃんと分からなく勝手に解釈できるところがまあまあいい訳である。(なんか、廊下で峯富士子の人形落ちてた)今日の晩飯はレトルト。でも バナナの葉でめしを食う私。(バリ島)
2005.08.16
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帰りにストゥーパ(仏舎利)に寄った。インドでは、仏陀がヴァラーナス郊外のサールナートで悟りを開いた地にも仏舎利はあった。仏舎利とは仏陀の骨である。ライトアップされた丘陵地の上にある光景を見ると、日本にいるような気がしない。さすが故ネール首相ゆかりの地だ(関係ないか) この近くに火葬場があり、今まで何度か訪れた。若い人はやはりまだ骨がしっかり残り、本などいろいろ棺に入れられたものは、灰が多く、末期麻薬患者は骨すら残らない(ほんまか) インドネシア沖の津波でアチェとインドネシア政府との和平が進んだが、その調停役に出たのがフィンランドであった。こういうのを本当の国際貢献ちゅうんちゃうの?そんなことを考えながら、家路に向かった。 何せ、たった50キロの距離を事故のため、行くのに4時間かかったので、帰りは1時間で帰りたかったのだ。意味?ウム、意味はない。この仏舎利から世界遺産姫路城も見える。姫路城の近くまで来たら、姫路城も見える。ずっと車を走らせたら、思わず、神戸で一番の歓楽街入口を通ってしまう。寄ってないよ。神戸らしい夜景のとこも過ぎ去って、いつしか家まで通過してしまった。どこへいくんだ。
2005.08.15
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おじいちゃんおばあちゃんの住む田舎の、この公園の砂場の右後ろ端である。小学校4年生の頃である。この公園の砂場の右後ろ端の角の部分を盛土して、10分程度待った後に、20センチ程、掘り起こすといつも100円玉が、2、3枚出てくるのであった。一緒に掘ったり砂山を作ったりした従弟のしわざだとは思うのだが、それにしても何日にもわたり、総額100円玉が100枚ぐらいになったと思う。従弟が、隙をを見て掘った時にきっと100円玉を放り込んだと、科学者になった今にして思えば、そう思うのだが、仮にそうだとしても、小学校にして1万円を持っていることが摩訶不思議であり、その金額を、山分けするほど従弟の心は大らかでない筈だ。掘り出したら、彼が自分のお金なのだから独り占めする筈なのである。一度、従弟を懲らしめて、尋問拷問で問いただしたい気分であるが、昨年結婚して、来月には子供が産まれるので、それは我慢することにして、その謎は私自身と共に冥途に持っていくことにしよう。そういうこともあり(実は、そういうことにはなっていないのであるが)、妹夫婦と母には、田舎のお仏壇の前でチーンをしてもらった。妹の旦那は多分英国人プロレスラーなので、正座が出来ない。まあ、不可抗力なので仕方ない。大日如来の前で、2、3キロは痩せることをに誓っているに違いない。
2005.08.14
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まだ食われるとも知らない無邪気で無罪の鮎は、綺麗な川の中を悠々と漫然と泳いでいる。しかし、凡そ10分の月日が流れ、既に残酷焼きされている憐れな鮎たち。恨むでないぞ。皿に盛られた時にはもう意識はない。生きているというのは罪深いものだ。食物連鎖だ。自然淘汰だ。しかし、人間以外は食うため生きていくため以外に殺生はしません。あー。うまい。 妹達は新婚旅行にキューバに行った。土産は、世界に誇るキューバーのシガー。シガレットは約3年禁煙中だが、特別な日ならシガーならたしなんでもよいという法則をでっち上げ、今日は特別な日なのでふかしてみる。明日も特別な日なのでふかしてみるつもりだ。明後日も特別な日なのでふかしてみるつもりだ。
2005.08.13
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続く・・・・の続き。黒門市場の横にある千日前は昔、流刑場であり、今そこにはプランタンがあるが、かつて火事になったときは、祟りじゃあと言われていた。天満の監獄で刑の決まった囚人が、現在の道頓堀から二ツ井戸あたりまで護送され、千日前の刑場にいく途中、この黒い山門をくぐったという逸話がある。 お盆は、ウラボンエの略であるが、これはサンスクリット語からきたもので、仏陀の弟子か誰かが地獄で苦しんでいる母を救うためにどうしたらいいかブッダに懇願したところ、この時期に供養してあげなよ、といわれたのが始まりといわれ、それと日本の古来からある祖先崇拝が合体したものらしい。 この時期、祖先が帰ってくる、水辺には行くな、足を引っ張られると言われたものだ。当時、夏休みを利用して、毎日、海に行ったり、川や池、用水路で水遊びや亀、ザリガニ取りに行っていた好少年の私は、そういわれて、もう家に引きこもらされ、暇で暇でしょうがなく、何でお盆なんかあるのだあ、と幼心に思ったものである。今は、リーマンしているので、何故お盆が、2,3ヶ月続かないのかと憤慨している。 日航機の事件があってから20年。徹夜で、事故のニュースを見ていた記憶がある。ちょうど、初めて私自身も飛行機に乗ったばかりだった。 未だ、真相が明らかにされていない事件だが、(米軍ヘリが到着したのに、そのまま見捨てたとか、落ちた地点の発表に10時間かかったとか、圧力壁破壊の結論はされているのに原因は発表されないとか、いっぱいある)なかなか遺族の追悼がメインで、その辺りの放送はなかなかされていない(と思うけど、テレビあまりみないので分からない。家のテレビ電波が悪くて半分映ってないし)感じがする。洞窟内。 大蛇倉沢洞窟というのが、この御巣鷹の尾根沿いにある上野村にある。「日本どこでも意味なし地道ドライブ1週間」を敢行していた私達は、偶然、日航機の落ちた辺りを通過していて、この洞窟に立ち寄った。その前に恐竜村を体感してきた我々は、大いに何かの出会いを期待しつつ、洞窟に入った。 出口にて、坊さんが祈っていた。日航機の悲惨な事故以来、祈っているのだという。 先入観が先走りするのだろうか、引き寄せられるような空気が流れているこの村をあとにした。 まあ、そんな訳で、今日のお菓子は、韓国産、ひまわりの種をチョコレートでコーティングした私の中だけで人気のお菓子です。
2005.08.12
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神戸人なので、大阪を紹介する訳ではないが、黒門市場に行った。紹介する訳ではないので、行ったということだけ書いておこう。そのあとで、また道具屋筋に行き、ミニチュアししおどしをお土産に買った。わびさびの分かるイギリス人の義弟は、このキッチュさが分かってもらえるだろう。・・・続く
2005.08.11
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地球はそれ自体が大きな生命体である全ての生命、空気、水、土などが有機的につながって生きている 法善寺横町に行ってきた。タダでは帰らない。焼肉を食った。もとより、今日は法善寺横町のお祭で、海上ではジャズをやっていた。この横丁の細道は昭和40年代以前の細道なので、建築基準法施行前なので、道が細い。しかし、火事があったら道路をかくふくせなあかんけど、風情があるので、住民運動やんなんかかんやでそのまままた道路拡幅なしに建てられている。 あー。へべれけ。
2005.08.10
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むかーしむかし、といっても、そんな昔ではないことであった。青年は、裏山に芝刈りに行くつもりでフェイントをかけて、キノコ狩りに出かけた。 といっても、本業は散歩で副業はリーマンなので、キノコのプロフェッショナルではなかった。キノコの本は、その善悪を含めて、10冊程度の蔵書はあったのだが、(何故だか、毒キノコのページばかり自動的に開いてしまうのだが)、指南してもらったことはないので、一般にいうところの素人であった。 それでも青年は(正確には20代の好青年)、歯を食いしばり、木の子を摘んだ。山の空は、非常に明るい憂愁が流れていた。山の端には、カラスが飛んでいった。スーパーのビニル袋にキノコが満杯になった頃、青年は、食ってもいないのに、笑いがこみ上げてきた。これから、どうやってこの危険と対峙し、どう胃袋が戦っていくのか想像しただけで、怪しい笑いがでてきた。 自宅に戻り、早速、フライパンに油を敷く。シェイクやオムレツにすると本格的ぽいので、取り合えず、図鑑といろいろ照らし合わせながら、毒々しい色を見て、ニヤリとし、青年は意を決して、食った。「お、俺は食ったぞおお」と自宅の天井に向かって、高らかにお箸を持った手を挙げて、叫んだ。 青年はまだ生きているし、こうやって日記を書いて暮らしている。
2005.08.09
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ユダヤ人やイスラム教徒の男は割礼をするということは、高校生の頃から知っていたが、恥ずかしながら、アフリカを中心に1億人以上の女性が割礼(クリトリス切除や陰部縫合)をされているということをほんの数年前まで知らなかった。これは宗教は影響を受けているが、全く関係なく、単に結婚の条件としての処女性を確認するための女性蔑視に過ぎない。纏足のようなものであろうか。神よ。 印度の神様のポスターがある。印度は何でも飲み込んでしまうというが、多神教の最たるものだ。ポスターをみると、ブッダも何故かガンジーやチャンドラボースも入っていたりなんかする。仏教はヒンドゥの一種だと考えるインド人もいる。ヒンドゥはそれ自身が宗教だ。そこが印度なら、それがヒンズーだ。 ラストプライス1枚1ルピー(はじめは10ルピー)と五月蝿くしつこく話しかけてくる自称ビジネスマンから、あまりに五月蝿いので、面倒になって、おまえの持っているの全部買うとかいって20ルピーぐらいで買った。タイのビーチのバンガローに部屋一面に貼ってみたりなんかした。それは神々しいものであった。
2005.08.08
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私のメインの仕事は、散歩であるが、こう暑くては、散歩にも出ることができない。日本人はせこせこ働きまわるのが得意だが、これも戦後、追い越せ追いつけガンバリズムの後遺症の面もあるが、気質としては、豊臣徳川時代からもあったようである。ポルトガルの宣教師が、あら不思議ニッポンをつらつらと書いているのだが、(刀は半分しか鋭利になってないとか、アルコールは冷やして飲むものなのに熱くして飲むとか)その宣教師が散歩してブラブラ歩いていると必ずどこに行くか尋ねられたそうである。目的はないといっても、散歩の概念のなかった日本人は理解に苦しんだようである。 そういえば、タイでも気軽にどこ行くのと尋ねてきて、ちょっと、というだけ の挨拶代わりみたいなのはあった。(「パイナイ?」「パイティオ」)学生の頃、よくフィリピンに出かけた。今、フィリピンに出かけている心斎橋ワタル氏から貰った絵を無断で掲載しときます。今は、大人になったので、自分のために生きることがアタリマエと思っているが、学生時代は、偽善者だったので、自分が自分のためだけに生きるのが滑稽なことではないかと思い悩んでいた頃に、彼からの一撃。自分のために生きると、うまくいけば、一部他人の為に生きていられる可能性もあることがおぼろげに分かった。
2005.08.07
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今日は、淀川花火大会だったのでそれに行ったわけではなく、ヤボヨウでその近くの盆踊りに出かけた。JRの塚本駅(大阪駅と尼崎駅の間の駅)やは人がどばっと降り、阪急では十三駅でどばっと人が降り、何となく取り残された気分になったが別に寂しくはなかった。一応、パフォーマンスとして、気ぐるみ参加してみたが、近所のワルガキどもにキックやパンチをされ、ただでさえ汗だくなのに、全泣き状態である。踊りの真髄は、自分自身が踊りになり、同化してしまうことである。われ、おどりなり。思想なない。
2005.08.06
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大阪の下町に出掛けた。変化球も投げるスタイルもよくないが、ほぼ確実に、ピンのテッペンに当てることはできる。そうすると3回に1回はストライクが出、3回の1回はスペアが取れる仕組みになっている。3年ぶりぐらいにボーリングをした。ボーリングの最高点は憶えていないが、平均は160ぐらいだ。私の過去のゴルフのスコアとほぼ二アリーである。 ボーリングの私のコツは、投げる前に立ち尽くし、祈ることである。祈って時速27キロで、滑っていく。ただそれだけである。 そのあと、申し訳ないのだが、卑猥な界隈の中、焼肉を食った。そういうことになっていたからだ。今日も暑かった。ナムルやキムチなど、野菜をメインに食った。個人的に焼肉を食いに言ったのは数える程度しかない。日本の冷蔵庫は韓国では売れない。キムチ入れがないからだ。時々、鶴橋のキムチを分けてもらうことがある。その店ではキムチを売っているのだが、それではなく、その家が家庭で作る非売品を分けてもらうのだ。それは美味い。 久し振りに酒も飲んだ。チャンポンで飲むと悪酔いするという迷信は根強く残っているが、あれは、ただ、飲み過ぎているに過ぎない。ビール、ワイン、カクテル、チューハイ、焼酎それぞれ飲んだが、1,2杯ずつなので、しれているので、きっと明日の朝は平気であろう。と祈りつつ眠るコトニする。
2005.08.05
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宇宙戦争だあ、ついに火星人あらわれるーと思ったら通天閣であった。 無人島合宿の朝は厳しい二日酔いで心も荒む。更に熱帯魚を食ったら、そりゃもう、肉が引き締まってなくて、まずいまずい。 ダカラ、手紙でも下さい。 洞窟合宿にも行くぞ。くらいよこわいよせまいよで、なかなか心は荒む。
2005.08.04
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映画を観て来た。内容はつまらないけど、映画館では観る価値のある映画は結構ある。そう思ったのはジュラシックパークの頃からか。 小学生低学年の頃、ウェールズの「宇宙戦争」を読んだ。子供心に大変興奮して読んだ。訳者が書いたのか子供向きのジュニア文庫では、挿絵も少し興奮する材料になっていた。 前にも一度、コメントしたことがあったが、子供の頃は当然、セックスということも知らなかったし、性的なことも知らなかった。それに何かで興奮したからといって、小枝が硬くなることもなかった。のであるが、小さいながらにカチカチになってしまう場面があった。それは、テレビのウルトラマンシリーズで、それも、ウルトラマンが怪獣に負けそうになるときのみ、決まって、小枝がムクムクと起き上がるのであった。 今考えると、性的に興奮していたのかも知れない。対象が、負けそうなウルトラマン・・・何とも・・・。・・・。 そういえば、オーソンウエルズが、宇宙戦争をモチーフにして、いたずらで、CBS放送に、臨時ニュースとして、巨大な隕石が落ちてきた」と放送し、聴いていた600万人のうち、100万人が家から飛び出すというパニックに陥ったことは有名な話である。 それにしても、生き残って小松左京の「復活の日」みたいになっても嫌だなあ。最近のニュース中国では、100メートルの地下に電話線が埋まっていることを発見した。中国政府は、100万年前に、古代中国では電話が既にあったことを発表した。フランスでは、200メートルの地下に電話線が埋まっていることを発見した。フランス政府は、200万年前に、古代フランスでは電話が既にあったことを発表した。アメリカでは、300メートルの地下まで掘っても何も埋まっていないことが分かった。アメリカ政府は、300万年前に、古代アメリカでは携帯電話が既にあったことを発表した。
2005.08.03
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夜中。時折、間違えて、ケタタマシク鳴く蝉がいる。朝方、西日本に生息する、世界でもっともやかましい昆虫、クマゼミがシャーシャーと鳴いている。勿論、そんな音には起きるような私ではないが、尿意を催して起きることは、ほぼ毎日である。 小学校の頃、夏休み、学校のプールが開放されていた。いつもは地区ごとにプールに行ってもいい日が決まっていたが、何故か、その日は違う地区の、あまり親しくなかった同級生Tと一緒になった。 プール時間も切り上げ、我々は、蚊にかまれながらも学校の雑木林で蝉を取ることにした。蝉取りに夢中になるのは小学校低学年までであった。 何故、蝉を取り続けたか、今考えると、多分、カミュばりに言えば、太陽のせいだろう。 Tと私は、袋に入った40匹の蝉の処置に困った。子供は残酷性を帯びている。隣の花壇に円柱のコンクリートが落ちていた。「ローラーにしようか」どちらともなく言った。そして、ゴロゴロ転がした下敷きに、平面になった無惨な屍骸が散らばった。 その夜、悪夢を見たが、夏休み明け、急速に、Tと仲良くなった。カエルの肛門にストローを差し込み、空気を入れる。火の中に蟻んこの集団を突っ込む。カマキリを半分に千切り、別のカマキリに共食いさせる。バッタに爆竹を引っ付ける。命の尊さを知ったから、今は、ゴキブリと蚊以外は殺せなくなった。でも私は地獄に行くのかしらん。たまたま、昼間入った大衆食堂は老夫婦が切り盛りしており、子供達が網を持って、「蝉取ってくる」といいでかけ、5分後に、「朝はいっぱい鳴いてたのにどこにもいないや」と言って帰ってきた。ブッシュとブレアとシラクが、神の前で、懺悔していた。神はシラクに言った。「あなたの命は、その業からあと5年」シラクは「あと5年なんですか、そんな馬鹿な」と言った。神はブレアにに言った行った。「あなたの命は、その業からあと3年」ブレアは「あと3年なんですか、そんな馬鹿な」と言った。神はブッシュに言った。「あなたの命は、その業からあと10」ブッシュは「あと10年なんですか、そんな馬鹿な、でも2人よりましか」と言った。神は、続けた。「9・8・7・6・・・」
2005.08.02
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何枚か寝巻きとしてしか活用できないお土産Tシャツがある。誰にもらったか分からないが、香港Tシャツなんかは、JUMBOなんか書かれていて気恥ずかしい。あとは、グアムとかハワイってプリントされたもの。いったいどうしろっていうんだ。 でも、何となく、マレーシアのペナンのビーチでバリって書かれたランニングシャツを着ていた時は、ちょっとだけ嫌な自己顕示欲が出てました。 でも、日本で、ヤンキー夫妻の子供のTシャツのプリントに「ノーティボーイ」と書かれていたのには、思わず後ろから爆笑して、しばかれそうになった。
2005.08.01
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