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赤のようにケバケバしく華麗な要素が無いが、デラックスにどっしりとしていて落ち着いている。思わずチョコレートのようにも見え、おいしそうな色である。そして温かく、少し軽薄そうなところが憎々しい。よく見ると、単純な色だ。きっと絵の具の原価は安いであろう。茶色は太陽光線を防御してくれるのか!ビール瓶を見よ!海になったんだ。水になったんだ。プーかぷか浮いてきっと気持ちよかったに違いない。入水90分、部屋に帰ってきたら、またシャワーを浴びて、びしょびしょのままウンチ座りをして、台の上にノートを広げて、ローソクに火をつけて、ノートに髪から流れる水を落としたんだ。手はしわしわだ。手は爺さんだ。文字まで爺さんだ。頭の中は子供だ。子供が変な行動や同じ行動を繰り返すのは、トリップしてるからだ。体勢が悪く、背中が痛くなってきた。我慢は大変だ。ウンコ座りしてるから足もビリビリしてきたようだ。体が自然に乾くのをひたすら待ち続ける。ノートから目が離れなくなるんだ。スゥゥゥゥと息を飲む。
2005.03.31
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個人情報保護法が4月1日施行のため、何か分からないままに忙しくさせられている模様。個人情報は大切だといいながら、かつVIPでありながら個人血液情報を全世界に向けて発信する。今日、血液検査結果を見た上で、悪いとこ自慢するとすれば、尿酸が男性正常値限界7が、8.5、代謝機能悪化や腎臓障害なら高くなるらしいが、ここ15年つまり初めて血液検査をシテ以来1回もかかさずレッドゾーン。白血球数男性正常値限界9.8が15,3、感染症炎症血液疾患など各種病気で増加する。CRP0.3以下正常が2.84、代表的な炎症マーカー。炎症や組織障害で上がります、ってこりゃ痛いわなあと医者に言われ、一緒にわはははと笑った。しかしこのまましておくと何十年先には寝たきり青年になりかねないので、尿酸値を下げる薬を飲む。まあクエン酸で体をアルカリ性にもっていく。東京に初めて行ったのは12歳の時であった。その後、何度もお世話になる鉄道ファン及びお金持ち及び暇人には有名な岐阜県大垣発東京行き(今はムーンライトながらというみたいだが) を利用して行ったのであった。座席は結構混んでいて、4人座席には話好きのおじさんにあみものをしながら演歌を聞いているおばさんに無口な労働者風のにいさんであった。私は、渋く何故だが、中学生の帽子をかぶっていた。うっすらと輪郭を示す富士山を指差してくれた。おばさんは駅構内まで見送ってくれた。そんなことしか憶えていないが
2005.03.30
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以前にも姑息にも書いたことがあるが、3歳まで暮らした家の隣の駅に住んでいる。驚くべきことに、私は、生まれたときから3歳になるまでにすでに有名人になっていた。父と母の間で。両親は多分、大層お金持ちであったためか、銭湯の2階のアパートに住んでいたという。冬場はさぞかし暖かかったであろうが、夏場は、敢えて精神修養の為、地獄を味わったのかもしれない。その時の優雅なエピソードとして、「あんたはよく南京虫に噛まれたなあ」というのがあった。南京虫の別名は、トコジラミというが、シラミの仲間ではなくセミやカメムシの仲間であり、最近は港湾地区以外ではあまり見かけることはないだろう。こいつは、1~2日毎に体重の5倍程度も吸血する体長は5~8mm程度の赤褐色の夜行性野郎だ。刺咬されるとひどい痒痛を感じ、敏感な人はジンマシンの様に腫れたり、リンパ腺炎を起こして発熱することもある。その後、私は順調に宿命的にお金持ちの王道を歩み始めた訳だが、まだ10代にして学生、神は、私に試練と修行の道を与えたのであろう。カルカッタのホテル初めてのインド1泊目にて、ドミトリー100円コースを選んだ。当時は、カリソメの姿、一ヶ月の予算は莫大にも湯水の如く使える3万円を予定していた。そのベッドで、夜中、実に15年ぶりに南京虫にやられたのである。夜中に痒さあまって憎さ100倍で、ベッドを叩きつけ、周りにいた貧乏旅行者どもの熟睡を妨げたようである。私は、痒いなりに寝ぼけていたようであり、叩いたあとは、すぐに寝静まり、そしてプーっと屁をこいたそうである。南京虫の洗礼を受けてから、幾度と無く、その後、あらゆるアジアの国で南京虫にやられた訳であるが、慣れることはなく、ボリボリ掻くのであった。特に、インドネシアのビンタン島タンジュンピナンでやられた南京虫の猛攻では、一晩中眠ることができず、遂に、1泊で宿を退散という悲しい目にもあった。しかしながら、若干30代にして、エグゼクティブの道を驀進し、すでに南京虫にやられることはなくなったのである。卒業だ。でも南京虫にケリをつけていないので、多分、中退だ。敵前逃亡だ。除籍である。
2005.03.29
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ココ一週間で観た映画フィンランド映画アキ・カウリスマキ監督「過去のない男」わびしいいい映画であった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24年ぶりボルサリーノ以来のAドロン・JPベルモンドの共演ルコント監督「ハーフアチャンス」まあまあ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10年ぶりの「ベティブルー」なんかイライラしちゃった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15年ぶりの「ブレードランナー」2001年や時計仕掛けと同じく古くならない映画やなあ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20年ぶりの「未来世紀ブラジル」どこまでも夢。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25年ぶりの「大脱走」明るい映画やなあ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「赤いコーリャン」チャンイーモウ監督。野蛮な赤が綺麗・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「イレイザーヘッド」あかんあかん悪夢をみる・・・みたー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・またインドネシアでM8.5!津波!!!!
2005.03.28
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昨年、北京に行った際、私の本意に反しエグゼクティブになってしまったので、北京有数の5ツ星ホテルに宿投したのであるが、それは北京で一番の通りである王府井(ワンフーチン)の近くであった。といってもこの通りの大規模デパートといっても90年代には一つしかなく、その後、新東安市場、フランス系老福翁、香港系世都百貨、そして宿泊したホテルを含む東方広場と無計画としか思えない程の大規模ショッピングセンター群が出現していた。勿論、それぞれの差はよく分からない。値段は多少違うようだ。いくら購買力の上がった中国とはいえ、季節毎に一般市民がバンバン買替えるものではなく、ド派手なオープン日にはとりあえず値段のチェック!といったようなものである。時間が空いたので、のろのろ覗いたが、やっぱり中国人らしく、自由にひるむことなく試着し、それが買う気まったくないようなの丸出しで、勿論、店員はそういう様子に興味は無い模様。素晴らしいのは、一番空いている場所というのが、レジであった。最近、北京でも、売りつけんかなサービスが横行しすぎたようで、必要以上に声をかけないソフトサービスを指導しているとか。それって、もとの中国じゃん。物を注文しては怒られ、お釣りは敵意を込めて投げつけられた由緒正しい中国が懐かしく感じたものであった。ところで、その大通りである王府井(ワンフーチン)を北上していると、マッサージはどうですかというアジア共通のポン引き女に付きまとわれた。まあ、私がお金持ちに見えるのは仕方ないとしても、何故も私はこうポン引きや売人に声をかけられるのであろうか、多分私の背後に「カモ」という後光が降り注いでいるのであろう。まあ、それはいいとして、その女性は、ずっとしつこくついてくるのだが、その間中携帯電話で何やら話をしていた。中国の携帯市場は凄いものだ。海岸部だけでも4億人はいる。それを国内メーカー2社が独占している。携帯が出始めた頃には、日本円にして1台15万円もしたので、チューじゃなくチョー特権階級しか持つことができなかったが、いまやGSM携帯電話、もう一つはCDMA携帯電話そして若干のPHSが活躍しているようで、携帯はあたりまえになっているようである。昔は、見栄張り気質に対応して、携帯電話型電卓が猛威を奮って虚栄心を満たしていたようであるが、今や、虚栄心を満たすのは携帯電話番号のようである。昔から持っている人から電話番号が古いので、始めの番号を見ればだいたいいつ頃携帯電話を持ったか分かるようで、若い番号を持った人は今でもステータスである。また後ろの番号、88888888とか111199999とかも凄い価格で取引されているようである。中国では受信料にも電話代がかかるので、つまらん電話したら怒られるようである。その辺は見栄っ張りの割りにさすがにシビアである。あのマッサージ誘ったガールは何だったのであろう。おそらく話し相手は固定電話に違いない。携帯電話の一番の欠点は、電話がかかってくることなのだが・・・
2005.03.27
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14時00分 出航。駅の切符自動販売機の裏に格安チケット屋があり、20歩ぐらい余計にあるくだけで、数十円安くなる。立派な主夫を実感する。14時10分 ある駅を通過。駅前にタワー型のマンション建築中だ。関西ではここ2,3年はタワー型マンションブームである。14時20分 駅を降り、百貨店の1階部分をすり抜けてゆく。日本では1階は化粧品スペースを持ってくる。化粧品の販売経路からみても百貨店のウエイトは5~10パーセントでしかないが、それでもイメージ付けには重要であるようだ。特に東の伊勢丹新宿、西の阪急梅田である。(私が歩いているのは、珍しいそごうの黒字店舗である神戸店である)噂で聞いたが、百貨店化粧店舗は国内メーカーには厳しく、海外メーカーには甘い(というか交渉負け?)しているようで、海外メーカーにはブース代のみならず出展費用から人件費まで百貨店持ちもあるようだ。そして、限定商品のおまけ(コフレ)を駆使し、集客マシーンと化しているようだ(シャネル以外)。 それにしてもここ数年で大躍進した通販化粧品メーカーのファンケルともうひとつのDHCのDHCって大学翻訳センターの略というのは、驚きである。14時30分 そういうことを考えながらも、高級カフェであるドトールに入る。何故か満員で、皆さん暇なんですなあと思いながらも、中に入っているバイト娘が急がしそうである。しかし、席がなくなり続々と入ってくる客が席がないことを確認し、続々と出て行く様子を見て、ふと、バイト娘達の至福の休憩時間がやってきたのだなあ、と少し安堵してあげる(傲慢か)14時40分 サンデーブランチ終了。14時50分 電気屋店頭にて「水曜スペシャル川口探検隊」DVDが発売されており流れていたので、立ち見する。大発見する対象物から 隊員達を写すテレビカメラが懐かしい。子供達に夢を与えたなあ15時00分 カメラ屋に。妹に買ってくるっよう命令された5本3,000円もするフィルムを10本購入。妹や弟というのはいつまでたっても得をするというか、何を買ってやっても、食事誘ってやっても、こちらの経済学的事情の考慮もなしに、ありがとうも言わず当然のように受け取ったり、レジを通過していきやがる。たまには立場代わってみろっていうんだ。すぐに人間できてないふりして、支払いの時だけ私を人格者に無言で祭り上げるのだからしたたかな敗者である、全く。15時10分 本屋に突入。16時30分 本屋から脱出。
2005.03.26
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観光局でもらった地図を頼りに、友達と7時30分に宿を出た。市役所の隣のバス停からサンタクルス行きのバスが出ていると言う。7字40分にはバスに乗り込み、車内に売り込みに来た少年からジュースを買う。出発してからも、信号で止まった際に、窓から煙草売りの少年からマルボロを3本買う。9時30分、サンタクルスの中央市場前に着く。早速人々が、「俺は船頭だ」といいながら群がってくる。ぼったくられるのは注意だなと思いながらもフレディマーキュリー似の男に着いて行き、ジプニー(乗り合いタクシー)に乗り、まずは最低ランクの宿に泊めてくれるよう依頼し、チェックインする。10時30分、そろそろ、フレディも諦めたと思い、宿から出ると、満面笑顔でまだ待っていたので、何となく仕方なく、彼に付いて行き、河下り通行料というのを入口で支払った。細長いボートに自動的に乗せられ、フレディとどこからか現れた相棒で、オールを漕ぎ始めて、河を登り始めた。岩がゴロゴロしており、河の水が船の底を擦るぐらいに浅くなると、船頭2人は我々をボートごと担ぎ、乾期の季節に敷いてあるのであろう丸太の上を滑らしながらも、更に上流へと向かう。フレディは日本語が達者である。「アチュイアチュイ」と「チメタイチメタイ」の2語を駆使し、呪文のように笑いながら繰り返す。おまけに漕ぎ続け運動量が激しくなると、この2語を更に乱発し、我々は堪能な彼の日本語に苦笑する。滝は3つほどあり、なかなか愉快であった。最後の地点(滝)には13時に到着した。滝の裏側までロープが張ってあり、金を払えばいけるという商魂逞しいシステムも存在していた。勿論そのシステムに乗っかり、泥の河を泳ぎ、焼き鳥とサンミゲルビールをしばいた。骨は床に落とすと、野良犬と野良猫が順調に処理してくれた。ニコニコしながら河下りも終盤戦に向かうと、いよいよ船頭たちのお決まりチップよこせ猛攻撃絨毯爆撃作戦が始まった。その金額は多少ぼった食ってはいるが、何時間もの対価としては納得出来なくもない金額ではあたが、コース料金は別にちゃんとあるのだ。我々は日本語堪能なフレディを前にしながらも、日本語で脱走計画を立て始めた。とりあえず、今手持ちのペソがないのでドルに変えなければならない。といった。町に行って彼らをまいてしまおうという安易で優雅で感傷的な魂胆であった。 宿にまず向かい、「急遽用事が出来、チェックアウトする」といい、まず宿を出て、町に向かった。背後30センチにちゃんとフレディは背後霊してくれていた。市場で、友達とフレディが店に入った瞬間、私は友達にすかさず目配せし、前を通りがかったゆっくり走っているバスに飛び乗った。出入り口は開きっぱなしで走っていたので、難なく乗れたのだ。行き先は不明であった。その後、マニラに到着し、もしはぐれた場合に待ち合わせ先にしていたミスタードーナツに入った。実は、入る前にドルチェンジして、出た瞬間にチンピラ7人に絡まれてしまった。「チップチップ、エンエン、ダラーダラー、ジャパニーズヤクザ」とこれまた堪能な日本語で脅され、真面目にびびった。砂をかけられ、腹を殴られた。やっとパグサンハンから逃げたのにここでやられるのかと情けなく思った瞬間に、すきをみつけ、走って逃げた。荷物が左右に揺れて、つっかけでこけそうになる。ついに追ってきた一人に捕まり、瞬間的に20ペソ払うと、彼は納得した。一万円の請求が300円で済んだと私は少しだけ安堵しながらも更に走り続け、ミスタードーナツに滑り込んだ。ドーナツの包み紙で顔を隠しながら、外から顔が見られないようにしてドーナツを食っていると、友達が入ってきた。あれからフレディはびっくりして、友達の腕を離さなくなってしまったらしいのだ。友達は「大丈夫だ、彼はただの夢遊病者だ」というと、更にフレディはびびり、どこかに公衆電話から電話をし、友達に出ろといった。「きみい、困るんだよ」と日本語が出てきた。日本大使館であった。彼は叱られた。その後、二十年程の月日が流れているが、あれからもう日本大使館のお世話にはなっていない。パグサンハン
2005.03.25
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年金は私の年代(昭和36年以降生まれの男性)では支給が65歳からである。リーマンが退職して、収入のない間にくたばれば、お国は丸儲けである。55歳になれば社会保険事務所で年金の凡その支給額やスケジュールは分かるのだが、実際、何十年後の支給額は謎のままである。今のままで、物価も上がらず、税金制度も変わらず年金の引き上げもなければ、とがんじがらめにすれば、まあ出てくるのだろうが、年金算出のプログラムは公開されていないのでシュミレーションは不可能になっている。年金局数理課の職員の頭の中にしかないわけで、設計図なしで家を建てようとしているようなものだ。これって詐欺、じゃないかい?まあ、今は国民年金1人で最高6.6万円であり、夫婦でも13.2万円。厚生年金でも平均17.3万円である。ちなみに65歳以上の夫婦の平均支出は27万円だそうである。遺族年金も終身受けられたのが5年になる場合もあるし、国民年金を2,300万払ってきた人が死んで配偶者が10数万円1度きりしか受けられなくなったり、やっぱ詐欺だよね。だいたい成り立ちが戦中のどさくさに資金を集める為に始まったものであるからなあ。担当者は戦争でバタバタ死ぬから問題ないと思ったに違いない。まあこれでもみるか
2005.03.24
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まあまあ本を持つのが好きである。本日は電車内で本が切れて、猛烈な退屈感を味わった。仕方ないので吊広告を隈なく読んでいた。昔、ミュリエルの結婚という結婚願望だけは強い救いように無い女の子の物語を描いた映画を不意に思い出した。観た後、ズドーンとなりたいときに最適な映画である。九州の地震で被害の大きかった玄海島に行ったことがある。玄海島は、博多湾と玄海灘の間にある人口800人に満たない小さな島だ。ある年の大晦日に神戸から高速道路を使わず車で永遠に2号線を西に走らせて、博多の「吉野家」を目差す馬鹿な小旅行であった。朝方に九州に入り、港で寝ていたら、近くに船着場があり、ちょっと行って見ようかということになったのである。島につくと、いきなり断崖絶壁になっており、その急斜面に民家が密集して張り付いていた。地震映像では、その家々の屋根瓦は落ち、細い路地の石ののぼり階段はくずれて歩行困難な状況を映しだされていた。着いた時、大晦日だったおか、店は1件も開いてなく、(いやもしかしたら店自体が港周辺になかったのかも知れない)仕方なく、自動販売機でビールの乾杯を行い、次の船に乗ったが、乗客は私と、運転手(奴隷別の名を後輩)しかいなかった。船は揺れ、すきっ腹にビールの酔いも回り、2人とも吐きそうになりながら九州本土上陸をひたすら待ち続けた。九州本土上陸に成功し、焦土作戦を敢行すべく、中洲観光コースに急ぎ、急いで、博多ラーメンを胃袋に収めたのであった。その後、ご多分に漏れず、飲み屋を回り、飲酒運転で(私ではなく運転手がである。又は奴隷別の名を後輩)本州本土を目差し、新年を迎えたのは、新年を一人で迎えたくない寂しがり屋の暴走族の軍団の中でであった。「おまえら暴走族やったら早く走ってくれ。何でそんなゆっくり走るねん、何でわいらが抜いていかなあかんねん、プンプン」と文句の一つを心の中でぶちかましたのであった。
2005.03.23
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ココ2週間ぐらい、足の調子が悪く、いよいよ痛風もどきも慢性化してきている形相である。それでも私は、仕事第一人間に近いので、時速いつもの半分で疾走し、危うく失踪しそうになった。特に電車内で立っている時は、お腹を壊して大便を我慢しているときの如く脂汗をかいた。それでも午後には回復の方向を迎え、「健康っていいことだぜ」と気障な台詞のひとことでも吐きそうになった。病み上がりは、何ともいえず気持ちよく、それが春うららかな日ならなおさらだ。ベッドにて眠るが、あまり深く眠れず夢をみている。飛んで跳ねて、そしてトイレに行っていつまでたっても尿意が治まらず、小便を出し続ける夢。 目が覚めて、トイレに行こうとするが、もしかして、すっかり治ったのではないかと期待し(圧力がかからなければ全く痛くない)立ち上がると激痛が走り、うなだれる。 熱をだして風邪を引いているときもそうだ。何時間も寝すぎ、目が覚めるたびに、もしかしてもう治ったのではないかと期待するが、まだ頭に激痛が走ったり、相変わらず咳がでたりする。 目が覚めると、すべてが変わっているかも、目が覚めたらすべての問題が解決されているかも、と妄想チックな感情に襲われ、また朝が来てしまったと落胆する。 年末からカナダに行ったが、腰痛に襲われ、ヨボヨボ状態で街をゆっくり歩くと、信号機に映った自分を見た。そうか、同士よ。こんなところに納まっていたのか・・・
2005.03.22
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何を隠そう、私は性豪でもマシーンでもないのだが、世間の男性諸氏が大きな勘違いをしていることを膨大な書物(といっておこう)の探索の結果、齢20歳にして分かったことがある。それは、V内部でPを出し入れするだけではほとんど女性に快楽はないということである。女性のおるがすむの源泉はKを中心とした神経集中した外陰部にあり、挿入中でも、そこを刺激なり何なりをしなければならないという事実である。ということは、まずいたすことは、Pを根元までぴったりまず挿入することである。つまり巨根はびびかすだけであまり意味が無いのである。(むしろ根元部分が余ってしまってはダメなのである)其の上で、外陰部を男性の恥骨やPの根元部分で強めに押し付けたりしてグラインドさせるなり揺り動かす方が感じやすいつうことである。そして、どういう体位が一番良いのであろうかということであるが、キジョウイであろうが、正上位の場合は、挿入後、女性の両脚を開くことでなく、閉じて脚を伸ばすことである。そして男は開脚し、挟まれたPの根元でこすりあげるように腰を使うことである。男性側から見たポルノ雑誌やビデオをみても仕方ないのである、ゼイゼイ・・・。ところで、紋切り型で文章が続いてきたついでにいうと、乳房の歴史について少しお話させて頂くと、古代クレタ文明やエジプト文明は、乳房丸出しである。身分の高い女性もである。絵をみるとボンテージである。それがギリシア文明の頃になると羞恥心が出たのか、美意識が変わったのか乳房は隠されるようになり、そのままローマ文化に受けつがれる。隠すと言うより適しされるぐらいであった。しかし、ゲルマン民族の侵入により西ローマ帝国は消えたが、ゲルマンは乳房を出すことはなくても押さえつけるほどでもなかったという。その後忠誠ゴシック時代には、体のラインをみせるために、乳房を押さえつけるようになったが、ペストや戦乱で人口が激減し始めてから胸と背中と肩が大いにはだけたデコルテスタイルが流行する。このデコルテスタイルはルネッサンス期に衰退したが、17世紀再び流行し、その後コルセットが流行する。コルセットは胴をぎゅうぎゅうに締め付ける為に肉体労働者には無理で身分の高い無産階級の支持を得た。その後、パリ万博の頃、下から乳房を支えるコルセットに代わり、上から吊るすブラジャーが提案され始めたようである。それが普及し始めるのは第一次世界大戦の頃からであるようだがぺったんこのボーイッシュなものであったようだ。第二次世界大戦後からは現在の砲弾型ブラジャーになった訳である。ゼイゼイ・・・
2005.03.21
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今、テレビをつけてみたら「新婚さんいらっしゃい」をしていた。小学生の時、裏山(六甲山系の一番端っこ)でよく遊んでいた。その時、山から、山歩きには相応しくない綺麗な服を着た若い男女が山から下りてきた。何か場違いだなあ迷っているようだなあとませた私は遠巻きに眺めていた。それから数週間後、テレビをみていたら、そのカップルが出てきた。新婚旅行で山に登ったはいいが、道に迷って訳の分からない所に出てきたと言っていた。「訳の分からないところだと?」と私は3パーセントぐらい反撥したが、それよりも新婚旅行というのは、こういう所を行くものなのか?と不思議な感覚に陥った覚えがある。現在、円高以降、去年は減って1300万人であるが(一昨年は1600万人)、1000万人を突破して久しい。新婚旅行先はどこが多いのかネットで5秒ほど調べたがよく分からなかったが、挙式の2割が既に海外で挙げるらしいのだ。その半分がハワイということだ。グアムも多いようだ。昔は、トリスを飲んでハワイに行こうってのがあったなあ。ジャルパックとかいう訳の分からんツアーは8割が新婚旅行というのもあったなあ。DC機で3席通路3席で真ん中のカップルは通路越しに手をつないだという涙なしでは語れない事実もあったようだ。はっはは。その後バブル期には100万人、チョー円高期には200万人を突破したという。実はまだ行ってない。でもワイキキ以外のハワイには行ってみたいと思っている。
2005.03.20
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ところで、そういえば日記に個人的なことを書いて恐縮なのであるが、待望の休みがやってきた。立花隆と同じかも知れない持病のせいで、歩行に支障をきたしていたからだ。傷を治す一匹狼(本当は一匹羊)のようにじっと復活を待っているのである。噂話をしても仕方ないが、噂話をしてしまうと、立花隆の本は「僕はこんな本を読んできた」とか「臨死体験」をピークに急に売れなくなってきてしまったらしく、シャトーも手放し、いわゆる仕事場の猫ビルも毎月の返済60万円も厳しくなり、そのせいか配偶者に逃げられた?らしいです。いくら長らくノンフィクションのトップランナーだったとしても、好きなことだけをしていればうまくいかないものなのだろうか。一応、最後に出た「解説地獄の黙示録」は買ったけど・・・。ところで、文章がらみということで思い出したが、昨年、イラクで拉致釈放され、自己責任じゃなんじゃと政府が無責任な問題を発生させた事件があったが、その職業はカメラマン、フリーライター、市民運動家の人々であった。そのうちこの体験を2人が本を出しましたが、そのうち一人(あの女性ね)は、定価1000円で初版2000部ですから、おそらく自費出版であろう。しかし、特殊体験ということもあり、急遽3万部増刷されたらしく、印税収入としては300万円くらいはあったのではないだろうか。カメラマンの(あの男性ね)もカメラ1本では食えず、バイトで生計を立てていたという。人のことはいえないが、お金は命を救ったり、危険を避けることができるのだなあと思う。あのとき、タクシーでなく、アンマンから飛行機( で行けたか分からないが)や武装チャーターバスのようなものでイラク入りしていたら拉致はなかっただろうなあ。仕方ないか。そういえば、前にも書いたけど、金銭的にかなり余裕のある知り合いが、3ヶ月に1度十数万かかて精密検査を受けていると言っていた。3ヶ月内なら癌が発見できても、治る可能性は高いということで。その人は、「健康を金で買っている。こういう使い方をしなければならない」と言っていた。ところで、1日ウニウニしていたので、マイケルムーア監督がお手本にしたという「アトミックカフェ」を観た。そういえば、「ボーリングフォーコロンバイン」でへええと思ったのが、アメリカ同様、カナダも国民一人当たりほぼ一丁の銃が普及しているという指摘であった。しかしながら銃で死ぬ人は2桁もアメリカが多いという。失業率はカナダの方が高いのに(保険制度はアメリカより整備されている、というかアメリカは保険制度にまで市場原理を入れすぎている)である。カナダ在住ハルジさんなら詳しいだろうが、安全装置がアメリカよりうまくいっているのである。そういえば、イラク侵攻にも、どこかの国みたいにホイホイとアメリカの圧力に即効で屈することなく、あれだけアメリカに経済的に依存しているカナダであるが、派兵には抵抗に抵抗を重ねたのであったなあ。関係ないが、カナダ人ハリウッドスター。キアヌリーブス・マイケルJフォックス・マイケルマイアーズ・ドナルドサザーランド・ジェームスキャメロン監督など。ハリウッドスターでド派手パーティ好きはジョニーデップとレオナルドデカプリオが有名。
2005.03.19
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インドはカースト制度は見かけ上廃止されているが、宗教と歴史に深く刻まれ、1日でもインドに行ってみると、まだまだカースト制度が生きていることが分かる。 アンベードカル博士という方がいた。ガンジーより人気があったりする。彼は、不可触民(アンタッチャブル)出身という貧困と苦境の中で、アメリカ・イギリスに留学し、哲学・法律・経済の学位を修めた。帰国後は独立運動とともに不可触民解放運動のリーダーとして活躍し、州会議員、国務大臣を勤めた後、独立後の初代法務大臣に任命され、インド共和国憲法草案のほとんどを執筆したという。採択された憲法にははっきりと「不可触民制の廃止」がうたわれている。 彼は解放運動の中で、一貫してヒンズー教を糾弾し、カースト制という非人間的制度の撤廃を要求し続けた。晩年は次第に仏教に傾倒していき、ヒンズー教を棄てて絶対的平等を説く仏教に改宗した。すぐに彼の呼びかけのもと、30万人の不可触民たちが集まって改宗式が行われ、多くの仏教徒が誕生することとなったのである。勿論、改宗して、カーストから形式上は逃れたが、ヒンズー教徒の偏見は変わらなかったが、大きな一歩であった。 この改宗式のわずか数週間後の彼は亡くなったが、毒殺という噂もある。しかし、彼の業績を礎にその後改宗運動は各地で進み、現在の推計では2000万人以上に達していると言われる。 ガンジーとは、そりが合わなかったが、さすがのガンジーでも多分一番驚いたことは、彼がアンタッチャブル出身だということだったと思う。ちなみにガンジーは、アンタッチャブルのことを「ハリジャン(神の子)」というが、アンタッチャブル達は、そう呼ばれるのを嫌がっている人が多いようだ(そりゃそうだろう)私もそうとは知らず、ハリジャンと呼んで嫌な顔をされたこともある。 ガンジーの時代、他にもガンジーより人気のあったりするのはチャンドラボースだ。彼はベンガル(カルカッタ周辺やバングラデッシュあたり)出身なので、ベンガルでは圧倒的にガンジーより人気があるのを肌で感じた。彼は、台湾で飛行中に墜落して亡くなったのだが、まだその生存を信じているインド人は多くいるという。 彼もまたカルカッタ大学経て海外に留学(ケンブリッジ大学)し、帰国後、ガンジーが対英独立運動に立ち上がると、国民会議派に入り急進派として活躍し、カルカッタ市長になるが、ガンジーと対立し同派の主流派から除名を受け、ベンガル州で前衛党を組織しました。 第二次大戦勃発後インドを出国し、ナチスドイツに渡り、インド独立のためドイツの対英戦争を支持する(敵の敵は味方?)。さらに、ドイツ潜水艦Uボートで日本に入国。シンガポールでインド国民軍を組織し日本軍のインパール作戦に従軍したり、日本の支援で発足した自由インド仮政府(アザド・ヒンド)の首班に就任したり、東京大東亜会議にオブザーバーとして参加したりした。 純粋だったのだなあと思う。そういえば、インパール戦線から離脱し、ビルマやタイでひっそり現地化して暮らし続ける元日本兵がいるという。以前、飛行機に乗り合わせた人は、タイ人と思っていたが、実は、元日本兵で、インパール戦線の生き残りであった。現地でタイ人と結婚し、成功を収めたといっていたなあ。
2005.03.18
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小学校2年のときの私の渾名はドンコであったことをここで告白せねばなるまい。 古い映画をみた。さすが70年代。「ウオークアバウト」卵は物価の優等生であるが、売文も優等生であるらしい。それでも、無茶苦茶に稼いでた作家も過去にはいて、その代表が、やっぱりなの昭和最後の無頼派檀一雄である。「火宅の人」はその歯チャめちゃな自叙伝的生活を描いたもので、面白くて一気に読んだものだが、公務員の初任給が7000円の時代に、月50~120万円ぐらい稼いでいたという。ざっと100倍である。それでも、放蕩のため全然お金は足りず、原稿代の前借をする日々であったと言う。「家ははっきりしないが4件ぐらいある」と当時語っていた檀一雄も最後はお金を残さず死んでいった。そういえば、関係ないが、以前よく飲みに行っていた神戸の純粋バーでのマスターがしみじみいっていたなあ。神戸の同業者でバー1本で家を建てた人はホント私は2人しか知りませんよ、と。そういえば、関係あるけど、私の知り合いのフリーの雑誌ライターは、確かに20代前半では収入は多い方であった。しかし、ベテランになっていくからといってそう売文があがる訳でもなく、今や神戸では大御所のライターではあるが、収入を増やすにはこれ1本だと仕事量を増やすしかないといっていた。当然取材費の経費を考えると、勤め人平均の3倍の見入りがないと、勤め人程度の生活ができないという。でもフリーライターで食っているって尊敬している。しょちゅう若い子がライター志望で入ってくるが、「こういうのをやりたいわけじゃないんです」といってすぐ辞めてしまうのである。神戸に住む10年以上雑誌のフリーライターをしている人は数人しかいないという。そして雑誌社もその数人目差して依頼してくるものだから結構大変だといっていた。しまった、最近読んだ本の一口感想を書こうと、本を重ねて横に置いたのだが、話は横にそれたのでもうそれっぱなしということにする。
2005.03.17
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10年後の俺よ元気ですか、本日つまり9月14日バンコクを去り、早朝にマニラに入ります。10月12日には成田に着く予定にしています。残り所持金が2万円を切りました。タイ4度目にシテ初めて王宮に行きました。10年先から金を送金してください。 10年後の俺よ元気ですか。今、マニラのカローカン地区に居候しています。成田から飛行機の隣の席に座った人の実家です。とてもあつく毎日一生懸命ぼーっとしているだけですが、親切にされているので、10年たっても元気にいるでしょう。10年後の俺よ元気ですか。ニューヨークのマンハッタンからシテタン島に向かう船の中です。この船は、市民運動によってただになったのですよ。10年たってもそうかな。10年後の俺よ元気ですか。今は奄美大島に来ています。シュノーケリングをしながら熱帯魚を何匹も釣りました。どぎつい色で、南国のふやけた体なので、煮魚にしたら猛烈にまずかったです。10年たっても食べているような真似はしないで下さい。10年後の俺よ元気ですか。今日はイランの古都イスファーンの最高級ホテルに泊ってバスタブを真っ黒にしました。テヘランでは多分ヒルトンに泊ります。いずれにせよ止み両替で5ドルで泊れます。まだイラクと戦争中ですが、砲弾に当たるより宝くじに当たる方が簡単とイラン人はのたまいます。しかし、町中は負傷兵が多く、物乞いになってしまった人も多いのですが、こまめに人々は喜捨しています。きっと10年後にはこの戦争も終わっていることでしょう。10年後の俺よ元気ですか。今日は少し寒いネパールのポカラの湖上のボートにて手紙を書いています。標高数百メートルのここから見る7000メートル級のアンナプルナ山脈の雪の岩肌が、顔面150度のパノラマで迫ってきます。思わず早起きの日々です。3日後にはトレッキングに行きます。10年後にはできれば山好きの母を連れていければなあと思います。10年後の俺よ元気ですか。チベットにいます。虫歯を治療した跡に、どうやら歯の中に空洞があるようで、気圧が違い、虫歯の如く歯が痛くて下界に行きたい気分です。仕方なく路上歯医者を覗くと血をぼたぼた垂らしながら口を押さえる中国人を見て、0.1秒で引き返しました。仕方ないので正露丸を歯に詰めている日々です。10年後チベットの独立を祈っています。10年後の俺よ元気ですか。バンコクです。文無しに近いです。マニラ経由台湾に飛ぶ「チケットの予約をしています。そこから船で沖縄に行くつもりです。2週間、コサムイ島のビーチにいて頭がぼーっとしたままです。10年内に何回タイにいくかなあ。10年後の俺よ元気ですか。トルコのエルズルムというところにいます。インドから国をわたるごとに子供の働く姿が消え、もうトルコではほとんどみられなくなりました。驚くべきことにここでは車より人間優先で、横断歩道に立っていたら車が停止してくれました。びっくりしました。でも10年たってもまだ各国で子供は働いているんでしょうね。10年後の俺よ元気ですか。今、ボルネオのバラム河数百キロ上流のジャングルの中にいます。元首刈族のイバン族のロングという長屋に泊めさせてもらってます。酋長が全部決めるのです。これから河下りをします。できれば帰りにブルネイに寄りたいです。10年後も木の伐採は続くのでしょうね。毎年四国と九州を合わせた森林が世界中から失われていってます。10年後の俺よ元気ですか。ニース郊外のポールドバンス村に来ています。思わずワインを一本空けて、近くの美術館の庭で昼寝をしてしまいました。プロバンスの光は本当にいい感じです。でも10年後また来るかしらん。10年後の俺よ元気ですか。バンコクです。お金がなくなりました。丁度帰国すると聞いていた先輩の帰国日を聞いていたのでドンムアン空港まで行って、金の無心のお願いしようと、探しに行きました。運よく探しあてったのですが、詐欺にあって先輩も文無しでした。まだ私はソウルに1週間いくつもりなんですが全く困っています。どうしたらいいんでしょう。10年後ならきっとリッチマンなのに・・・リッチな今日の昼飯
2005.03.16
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インドはカルカッタのBBDBAG近くのグレートイースタンホテルに泊ったことがある。数時間の散歩を終え、少し休憩のつもりが6時間眠り、起きると0時を超えていた。気がつけば腹も減っていた。夢を何度もみて夢が五月蝿かったのはテレビをつけっぱなしにしていたせい。安宿サダルから離れ、テレビがついているという高級ホテルに泊っているが、歴史があるだけで室内も広いがなかなか崩壊寸前な感覚が良い。トイレも壊れていたので、呼びつけると、懸命に配管工が直していたのが、笑えた。夜中でも下のレストランは開いているのではと思い、降りてみると薄暗かったが開いていた。おまけに従業員全員がテレビに夢中で私が入ったのに気がつかない。そういえば、昨日の飛行機で私の断り無しに隣のインド人ビージネスマンが、私の前の座席ポケットに自分の雑誌を入れたのにはインドへのイニシエーションであったのか。おまけに私のゲロ袋を取り出して自分のカバンに仕舞う始末であった。数時間の散歩の時に、ホテル横の靴研き屋が、突然自称ガイドになってガイドをするという。鬱陶しいけどからかっている間に5人の客が来たと言うのにすべて断る職務放棄ぬりであった。「5時になったら雨が降るから磨いても無駄だ」といって客を追い返すのである。向かいの靴磨き屋は懸命に働き、案外流行っているというのに。この植民地時代のホテルには、フロントに4人いるのはいいとしても、ポーター、エレベーター押し係、エレベーターボーイ(エレベーター内掃除もしている)、各フロア前おじさん、水運びおじさん、数部屋に一人配置されているおじさんと、フロントから部屋に行くまでに6人にお世話になってしまうのである。レストランの従業員だけでなくよく見ると警備員もテレビに夢中。テーブルには枯れかけのバラが一輪。花は人を楽しませてくれるのだなあ。業務用大型扇風機がレストラン全体のテーブルクロスをひらひらさせている。いつ、注文に来てくれるのであろう。
2005.03.16
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ハンサムと運動神経抜群と頭脳明晰ぐらいしか取り柄のない私であるが、また、思い立ったらすぐ行動と、思いは叶うとちょっとだけ弱気を信条にしていることとは関係ないが、健康優良児である私でも、1~2年に一度原因不明のゴルゴ13病になってしまう。今回は、じっとしていても足の親指が痛く、歩行困難な上、足がパンパンに腫れて靴が履けないという靴履けない病にも陥ってしまった。こういうときは、一匹狼らしく(本当は一匹羊)薬を飲んで、回復をひたすら待ちながら眠るだけなのである。それにしても、会社員というのは、病気自慢があるらしい(私の周りには無い)仕方ないので、私も病気自慢をするとするか。ニューヨークで食いすぎで、小学校2年以来吐いた。年末ぎっくり腰になった。以上。 元気ですか。とてもご無沙汰しています。オーストラリアに来て10ヶ月、シドニーには5ヵ月半、ハミルトン島に4ヶ月、今はオーストラリア1周の旅に出ています。ハミルトン島ではトイモイさんの友達Sと一緒に働き、よくといもいさんの噂をしていました。今はメルボルンにいましてこれからもっと暑い北に上がります。それでは。BY O→(感想) 「日本人をやめる方法」は面白いです。 元気ですか。今はグレートバリアリーフの中にあるハミルトン島にきています。ここの駐在員をしていますが、何とトイモイの友達Oさんに会ってしまい、一緒に働いていました。ここで働く人々はシドニーく比べて全然プロでないので毎日怒りマクっています。あーしんど。BY S→頑張りたまえ。星をプレゼントしてもらってましたなあ。 引越ししたのでお知らせします。手紙ちょーだい。他の友達は忙しいのか全然連絡くれないぞ。今、テレビで「ファミリービジネス」しとるぞ。でもテレビは14インチで音も悪いので真剣にみてないぞ。コマーシャルではイスタンブールまで54000ペセタだってさ、安いのか?はよ遊びに来い。BY S→(感想)そんなんゆうても遊びに行ったらよくも3日で追い出してくれたな、サンキュー。。 トイモイ先輩元気ですか?カナダに来ています。BY O→(感想)ドコやカナダの。 お元気ですか。サラマットソレ。私は、今バリ島のウブドゥにいます。何日目でしょうか。毎日朝食がつくので、昼、夜の食事と踊りを観に行く以外は何もしてません。遅れましたが、そうめんありがとうございます。ワルンでSATOの中にぶち込んで食べましたが、まあまあの味でしたが、宿の皆さんは珍しがりながらも食べてくれました。踊りとガムランは予想以上に凄いと思った。踊り手の手の動きがひとつひとつが何かを語りかけてくるように、またガムランは吸い込まれそうです。観光客にこれを見せながらも伝統を守っています。マレーシアのペナンからスマトラ島へのべラワンへの船は途中でエンジンが止まり、船上で2日過ごしました。その後ブロモ山をビーチサンダルで登頂を挑戦し足が凍りました。これからロンボク島に行けたらなあと思います。BY H→感想。べラワン-ジョージタウンの船はメシを持ってはいるのを忘れて腹へって仕方なかったわ。どないしてくれんんねんラオスに来ています。国境のタートンからタイのチェンライまでの川下りを楽しみました。5年前シンガポールからバンコクまでの自転車旅行以来、バンコクのGPO付近のスリウォン通りのホテルに泊りました。また東京に来たら寄って下さい。BY Kから戻ってきて、現在シュリガナルにいます。レーの町は、僕が行った時は再び戒厳令→(感想)自転車旅行一緒にした相棒と喧嘩別れしましたが仲直りされましたか?ラオス には行って見たいです。 今回は中東の旅に出ています。3ヶ月が過ぎ、トルコシリアヨルダンイスラエルを経て、今カイロに来ました。さすがにエジプトまで来ると平和な感じがします。出稼ぎのインド人などの帰国ラッシュでチケットが取れないので、これからアテネに行ってチケットを探す予定です。それでは。→(感想)ピラミッドを無断で登るのが夢です ボンジュールですわ。はっはは。パリに来て5日目になりますがなんかよくわかりません。ヨーロッパ文明初挑戦だけど、都会なので基本的に暮らしぶりは日本と変わりませんんなあ。アジアと違うのは街のにおいがないことですなあ。今昼前で宿近くのソルボンヌ大学のそばで茶しばいてます。しかしみなさんオシャレーですなあ。ここ2,3日はとても暑くて女性は露出狂気味で大変です。今夜もナイトクラブに出かけないのでパリぶっとび状態になるかどうかは不明。それでは帰ったら京都大阪神戸三都市飲み会をしましょう。BY 心斎橋ワタル→感想おっされー
2005.03.15
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12月13日のテストの前、私は、クラスメイトのT(柔道部 体重93キロ)から、1枚の紙切れを手渡された。ソレを見た私は愕然として、するどい戦慄が体を貫くのを感じた。簡潔に言うと、そこには象形文字のような素晴らしい字で次のようなことが話されていた。「12月14日の2限終了後(10時45分)に速攻ダークの旅にでて、ほとんど不可能で無謀やから10時51分の地下鉄に乗ろう。<通常徒歩20分>もし参加するなら11時にトイモイ君の家に電話3回鳴らして、いばいば」ということであった。それから考えた私は無理だから、そんなもんフン無視さと思っていた。しかし夜になって緻密な計画をたててみるとひょっとするといけるのでゃないかという気がしてきた。約2時間17分試験勉強を無視して、考え抜いた末、ついに私はOKの電話をかけることにした。バーン。1時がきた。私は即座に受話器を握り、「ぷるるる、ぷるうるる、ぷるるっるうる」と3回鳴らしてちょんぎった。そばに母がたむろしていた。私はびびった。母は言った。「あんた11時になにしてるの?」私いわく「天気予報などちょと・・・」母いわく「ほほー、天気予報がぷるるるーゆうんかい!」と迫ってきたので、私は「うんこに行く」といって便所に逃げ込み本当にうんこをした。それから風呂に入っていると、ちょっと雨が降ってきたではないか。私は驚いた。傘を持って走れるだろうか、ということであったが、雨はすぐ止んだ。午前0時3分。私はそろそろ試験勉強にはいることにした。ふう終わった。午前4時半。私は慌てて眠りについた。ぐーぐーちょきぱー。さて当日がやってきた。学校へ向かう為家を出た私は、空を見上げ、すがすがしい気分であった。時計を見ると、8時22分なので地下鉄まで2分で走らなければならなかった。、駅に行く途中で車にもう少しではねられそうになり、身をかわすとS高校の奴らに「おおおー」と感嘆された。(拍手もされた)何とか学校に着いた私は無事1時間目のテストを終え、休み時間に少し腰が痛かったので3回ほどの屈伸運動で放課後に備えた。いよいよ2時間目のチャイムまであと5分。すでに心臓はドキドキしていた。あまりの緊張の為、私は極限状態に追い込まれた。あああああああああああああああああああ、鳴るぅー。「キンコンカンコンキンコンカンコン」私は立ち上がった。しかし、皆立たない。私はイラだった。(このボケドモ早く立たんかい)私は既にカバンを持ち、じりじりと戸口へと近づいていった。そこで突然M(陸上部短距離 性格ダーク)が私の袖をひっぱった。「なあなあ、このテープなあ」私は発狂しそうになった。(やかましい、離せ、おっさん)私は障害を振り切り、廊下に飛び出した。45分45秒。なんと15秒の計画からのロスタイムである。私はいっきに歓談を降りると下駄箱で靴を履き替え、明日に向かってダッシュした。校舎を出た時には、15秒のロスを取り戻し、4秒の余裕さえあった。別れゆく母校にあつい眼差しを投げかけたが、跳ね返って顔にぶつかりもうちょっとで泣きそうになった。校門をくぐると、前方およそ50メートルにトイモイ(この計画の首謀者)を発見した。(ちっ、先を越されたぜ)今更M(陸上部短距離 性格ダーク)を憎んだところでどうにもならなかった。もう必死のパッチの爆走の嵐だ。しかし、頭の中は冷静な私は走って走って走りまくったが、道端に落ちていたプリッツの空き箱を見落とすことはなかった。時間は?あと50秒。楽勝だぜ!ホームに下りる階段で今日はじめて二人は会話したのであった。トイモイ「はあはあ、めったしんどい・・・」私「あああ・・しんどい・・」感動であった。列車に乗り込んだよれよれの私たちをS工業高校<駅より徒歩3分の高校>が温かく迎えてくれた、筈がなかった。車内は、暖かい拍手でつつまれた、筈がなかった。2人はお互いの検討を称えあった。2人の頬には光るものが走った。鼻水であった。これは我が母校始まって依頼の快挙であろう。胸が熱くなった。爆走したから。これをきっかけとして今後はSS(陸上部長距離 特徴鼻の穴が大きい)TS(陸上部長距離 特徴乳首が4つある)IS(陸上部長距離 特徴赤いものが好き)など新たなメンバーを加えて、速攻で自宅に帰る速攻ダークの伝統を培っていこう。後輩にも受け継ぎ、恥をかいてもらおう。はっきりいって雨の日はできません。きっぱりいってしんどすぎます。PS「ソウ」なかなか見ごたえありました。
2005.03.14
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なーんだ。心斎橋ワタル関連の資料を探そうとごそごそしたら、昔の葉書が出てくる訳で、そういえば、葉書最近ないなあと何となく懐かしく思った訳で、姑息にも紹介することにした。 トイモイ君、メリークリスマス(にはチョと早い)。インドネシアのスラウエシ島にいます。筆不精です。12月5日にはシンガポールに入るので、GPOに手紙おくれよ。トレッキングとシュノーケリングばかりしてます。スラウエシはクリスチャンが多く、インドネシアらしくないところです。BY T→感想:実は、私もメナドに行きたいとずっと思っている。 元気ですか。今、旧ソ連のウズベキスタン共和国のブハラにいます。連日40度を越す暑さの中、チャイ屋でくたばっていると色とりどりの民族衣装を着たシルクロードオヤジが満面の笑顔と溢れんばかりの好奇心を隠そうともせずやって来て、訛のキツイロシア語でなんだかんだ話しかけてきます。 これからは、砂とラクダの国、トルクメン共和国を経て、船でカスピ海を渡り、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジアを経てモスクワに戻ります。6月25日に帰国するので会いましょう。 BY O→感想:ソ連って実はイスラムの国だったんだよなあ。慌しく独立を果たした国々、面白そうですなあ。でも飯は、羊肉ばかりで、飽きたわとのことでしたなあ。 お元気ですか?日本にいますか?私は、今、インドのダラムサラに来ています。インド人に疲れたのでチベットの世界でのんびりしています。チベット人達が好きになってしまいました。といもいさんは、ラサからネパールに入ったのでしたね。私もラサに行きたいです。でもインド人もやっぱり面白い。1ヶ月インドに入ってからたちましたが、全然飽きません。それでは。PS鬱は回復しつつあります。BY M前略お元気ですか。僕はダメです。今日はデリーのメインバザールでゲロってしまいました。勿論、フレッシュジュースのせいではありませんが、ジュースも全部吐いてしまいました。そうです私がすべて悪いのです。ジョードプルでは恐ろしいことがありました。バンコクでは鏡で自分の顔をじっと見ていると、どちらが本当の自分か分からなくなり、ついには自分の顔がブタになりました。前髪が遂にあごより下になってしまいました。これからカルカッタに向かいますが、移動は疲れますね。バンコクからマレーシアに行くので、マレーシア情報をジュライホテルまで送って下さい。BY S→感想:吐くなよな。 今、板門店にいます。この板門店ツアーを通して一生懸命日本語で説明してくれた女性が強く印象に残っています。夜は台湾で知り合った韓国学生と行動を共にしています。そういえば、君と、Mとでソウルで会いましたネエ。あの時は、醜態をさらしました。あれから8回目の韓国です。では。BY K→その後ひつこく北朝鮮ツアーを誘ってくれました。ありがとうございます。 元気ですか。今、パキスタンのラワルピンディに来ています。先日、イスラマバードで中国のビザを取りました。これからペシャワールに向かい、アフガン国境まで行きたいと思っています。その後は、ギルギット、フンザへ行き、国境を越えて中国です。お元気で。BY H→ペシャワールには行きましたが、長寿の国、フンザには是非行って見たい。 元気ですか。シドニーではようやく住むところが決まりました。週6000円で比較的安いところです。働くまでの間に旅行したいけど、金が無いので、そういうわけにはいかずフィッシュアンドチップスを食べる生活を送っています。物価が高い。ヤンキーは単純だ。みなによろしく。BY S→その後、無事移住を果たしましたなあ。おめでとう。 元気ですか。今、ナイジェリアのラゴスから、コートジボワールのアビジャンに逃げて着ました。ラゴスは史上最低の街でした。こいつらは人間じゃねえ、と本気で思ってしまいます。中国からモスクワ(モスクワではレストランを探すのに偉く時間がかかった)経由でヨーロッパに入り、イギリスで語学研修をした後、スペインに入り、モロッコに入る。そしてサハラを縦断したが、もうこりごりだ。BY M→(感想)治安の最も悪い都市のひとつでしたね、ラゴス。そしてアフリカでは珍しくコートジボワールは治安がましなところなんですよねえ。あぶないところ 元気でインドから帰ってきましたか?えー今、モーリシャスです。ここに来る前のケニアでトラぶって不愉快続きでしたが、ここ平和な島でのんびりしています。ココの人たちはフランス語と英語を喋り、顔はスリランカ人に似ています。黒人とは違うなあ。何か分からんけどシンガポール人とよく間違えられます。じゃあ。 BY S→(感想)まあ、だいたいビーチは平和ですなあ。よろしいなあ。よく比較されるのがセイシェルですなあ。物価が全然違うらしい(セイシェル諸島は高い)。 カトマンドゥからベナレスに行き、君と会うことにしていたのですが、体調を崩し、航空券キャンセルしました。悪しからず。BY T→(感想)そんで来なかったのですねえ。しかし、日本で葉書受けとってもなあ・・・ 僕は昨日、ラダックのレーから戻ってきて、現在シュリガナルにいます。レーの町は、僕が行った時は再び戒厳令(回教徒と仏教徒の対立)が施かれ、バスは動かないし、経済活動は停止するし(高級ホテル以外)外に出歩くと、アーミーにボコボコにされそうになるわとテンワヤンワでした。それでは。BY K→(感想)そんなこというて、帰国してから肝炎で入院してたやん。 前略 お元気ですか。ただいまサイゴンでハトとカニを食ってサンミゲルの飲みすぎで死んでいます。ベトナム人はホーチミンとはいいません。75年にベトナム戦争が終結し、ドイモイ政策で盛り上がったサイゴンは、酒女ドラッグ漬けのようにも見えます。マジェステックホテルにいると開高健小説そのままの世界で、ナチュラルトリップです。では。→(感想)ほほう。そんなけしからん政策で盛り上がっているのか。 お元気ですか?カトマンドゥにきています。ネパール最大の祭、ダイサンを前にしてバザールの賑わいはすごいです。学校はすでに休みだし、1週間以上休みが続きます。銀行も閉まっちゃうのだろうか。今はトレッキングのぱーミットを取るのに1日10ドルのバンクレシートがいるらしく不安です。この祭のためにネパール内の国内移動が込みマクっています。特にポカラ息は立ち席しかないです。これからマナリーにいきます。BY H→(感想)マナリねえ。分かる人には分かるチャラスの産地。 おーい元気ですか。2通も手紙くれてありがとう。イスタンブールのGPOはストでずっと休みだったので、受け取れなかったのですよ。まあ日本に帰ってから詳しく手紙書くとして、散々悩んだあげく、詩を送ります。 ワタシハマザコン ワタシハカミサマ ワタシハメサイア ナンデモシッテル キイテクダサイ、タズネテクダサイ コタエテアゲマス ソーナンデス イマセカイハカワッタンデス ワタシガダンゲンシマス ナゼナラ、直感、バリバリ、デス BY Y→イスタンブールのはずが、切手がインドのものですが・・・
2005.03.13
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58歳某大手銀行からの出向社長 いい時代に生き抜きました(途中でつぶれる) 49歳某アルバイト人生30年。会社を壊して5億円の借金をして2000万までは何とかして晴れて20年の時効を得て無借金になったとのこと。(途中でつぶれる) 47歳某ビルメンテナンス社長。震災までは某大手駅構内(阪急電車)の中で、独占コンビニ企業をしていたが、震災で総入れ替えされて、今は、親父の残した唯一のビルの警備員。(途中でつぶれる) 35歳某メーカー社長。売上より、自分の株のほうが利益高いと嘆いている(途中でつぶれる) 38歳某外資系鬼畜企業。 38歳日本風安定企業、、、、今日はこれ心斎橋ワタルとの愛の確執8月31日を囲うとしたがまた来年。
2005.03.12
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行って見たい国や再訪してみたい国は山ほどある。其のひとつにオマーンがある。観光で入国できるようになったのは、最近だ。私の学生時代は、世界3大入りにくい国みたいな位置づけにあり、遠く思いを馳せたものだ。 いろんな哲学書の分かりやすい解説本が出ているが、よく考えたら、哲学者本人の著書を読むのが一番分かりやすいことに気がついた。だいたい、天才が一生をかけて昼夜書き上げたものを、凡人が一遍通り読んで理解できる筈がないのだ。 うおー、激突の瞬間 チャールズジョルダン ゴミの山 香港! ワイヤー気持ちいい ネットではこういうのもできるねんなあ 地球映像 100年前のカラー写真ロシア これとこれにてまっか
2005.03.11
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何を隠そう、本日、午前中に凡そ1200秒という深遠集中膨大な時間と労力をかけ航空券を探した。安さと時間でいけば大韓航空、マイレージを考えればKLMに絞って研究に探求を重ねたのだが、ジャル悟空35というのがあって、35日前までに購入したら安いのを発見。大韓よりは高いが、ロンドンインパリアウトで8万円の直行便なので、今回、母を連れていくので、これにすることに決定、旅行会社に電話したら、今日は36日前ということが判明、その場で決め、発注書をファクスしてもらい、そのまま入金。 帰りは、共同運航便で、エールフランスになり、エールフランスはデビューだとちょとだけ喜んでいる。 考えたら、利用した飛行機会社は数えるほどだ。パキスタン航空、エジプト航空、イラク航空、タイ航空、トルコ航空、エアインディア、ビーマンバングラデッシュ航空、大韓航空、KLMオランダ航空、ユナイテッド航空、ノースウエスト航空、ブリテッュエアウエイズ、ルフトハンザ航空、スペイン航空、フィリピン航空、日本航空・・・ かつて、KLMでアムステルダムを出発して、日本に向けて2時間程経過した頃、機長より機内放送があった。「エンジントラブルがありました。おそらく大丈夫だと思いますが、ただ今確認中です」と。「もしかしてコペンハーゲンぐらいで降りてくれたらラッキーじゃん」程度に思っていると、続いて日本語で機内放送があった。「エンジンが不調ですが、絶対大丈夫です」すると日本人乗客が騒ぎ始めた。「あ、燃料が漏れてる!」と誰かが叫んだ為パニック状態になった。翼から出ているのは燃料のはずがない。 日本人乗務員の方々は落ち着かせるのに大変そうであった。結局2時間かけてまたアムステルダムに戻り、機内に閉じ込められたまま、2時間程整備をしてまた飛び立った。 物事に動じぬサムライ道はもうない。軟禁状態にあったら真っ先に精神的に参るのが日本人だ。がんばれニッポンチャチャチャ。
2005.03.10
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今日は、吹田市箕面市大阪市伊丹市尼崎市しか行っていないので、特に何もなかったので、昨日の夜中の状況をもう少し詳しく記することにしてしまう。また今日も作りすぎたソムタムを食べているので、昨日と同じようにお腹がいっぱいになっているので、昨日と同様に贅に入っている。 昨日も平穏に終わろうとした23時55分(正確にいうと事件が起こったのは23時51分)、警備会社より電話が入り(警備会社は、最近関西で破竹の勢いで受注を伸ばしている大阪ガスセキュリティサービス。数年前まではガスタンクの警備業務を主たる業務としていたのだが、民間に天下ってきており、その安さを武器にセコム、総合警備保障、セントラル警備保障等どんどん駆逐していく勢いである、と私は勝手に思っている。勿論、我が家も財産がありすぎるのでその会社のセキュリティーシステムの面倒をみてもらっている。勿論、玄関にシールを貼っているだけだが)、事務所荒らしにあったということで(バールで無理矢理事務所の扉をこじ開けたのはいいが、中に泥棒が入った瞬間に、マグネットセンサーが作動し、警報がケタタマシク鳴り、それにビビリ一目散に逃げたようだ)50キロ彼方 の事務所(神戸-枚方)まで愛車(2800CC)で時速50キロで走り(信号待ち、下道含む)、警察の事情徴収を受け(ハシュシュ所よりハケンされてきた警官はなかなか甘いマスクであったが、どうも警官になりたてのホヤホヤっていう感じで、まだ見習い中という感じで、調書の下書きをノートに書きながら、其の後で調書に清書していた凛々しい奴であった)、2時間もなんやかんやして(その後、警官はじゃあと言って帰り残された私と警備会社の人で鍵を閉めて帰ろうとした。壊された入口はもう鍵が効かず、無理矢理足蹴りで締めるともう2度と開かないボレロ状態になった。仕方なく、違う入口から出ようとすると鍵が合わない。実は2週間前にもバールこじ開け未遂があり、鍵を扉ごと交換していて、私はその鍵を持っていなかったことが判明。部屋から出ることが出来ない状態になった。私は、仕方なく、新しい鍵を持っているであろう営業責任者に夜中に電話を狼の如くしつこく携帯電話にかけ続け、遂に起こすことに成功した。そして懇願した。「メンゴ(死語)来てえー、鍵持って」というと、「その新しい鍵は私の机の中に入っています」といわれ、一安心したが、「其の机の鍵、今私が持ってます」と言われ、結局きてもらうことになった。はるばる30分の時間とガソリン消費をかけてやってきてくれた)、50キロ彼方の自宅まで時速120キロで帰ってきた(湾岸線は空いていたので、時速160キロぐらい出たのでちょとだけ泣きそうになった)。あーねむ。4時43分。(で、寝たのは5時半で、起きたのは7時半であった) ところでニュースというのは、ネガティブなものがメインにならなければニュースにならない。だからニュースを見ることは、精神衛生上良くないし、楽観視、ポジティブ思考を阻害する。かといってニュースを知らなければ世の中から取り残される(という訳でもないかも知れないが)感じもある。兼ね合いが難しいわ。 今テレビをつけるとライブドアとフジテレビ日本テレビの例のニュース。どんな結果になろうともいい結果にはならない。得するのは、リーマンブラザーズと村上ファンドに決まっている。リーマンでは800億円を動かすことにより40億円の利益が上がるらしい。リーマンでは5人が担当していて、一人8億円の利益を上げることが出来る。この5人はアーリーリタイアするのか?一生に一回あるかの大勝負だ。リーマンは外資系でも厳しく、社員は3年で辞めるのがほとんどで、その3年でいくら無茶苦茶頑張るかなのだそうである。
2005.03.09
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何を隠そう、私は、超極秘ルートで青いパパイヤを仕入れた。昔、「青いパパイヤの香り」という映画を見たことがあるが、そのパパイヤである。熟したパパイヤはパパイヤシェークにすると美味なのであるが、青いパパイヤははっきりいってタイの代表的(勝手に)おつまみであるソムタムしか思いつかないのが、タイ通なところである。 早速、ソムタムを作る。パパイヤの皮は、素手で剥くと、山芋の如くカイカイ病になるので(それだけでなく体にも良くないといわれているので)しっかりゴム手袋をハメテ、皮を隈なく剥く。 中身は、カイカイ病になるかも知れないが、体には悪くはないらしいが、手袋を外すのは面倒なので、そのまま千切りにする。そのまえに2つに割っておいて(4つでもいいけど)中の種を穿り出しておく。 私は、ロイヤルエグゼクティブなので、(以下「RE」と略す)フードプロセッサを持ち合わせているので、凡そ15秒足らずで千切りが完了する。その後、フードプロセッサの容器を洗うことを考慮しても凡そ3分である。しかし私がかつてただのエグゼクティブだった時代は、百キンの手動大根皮むき器で剥いていたので、凡そ25分の雄大な時間を要した。(参考までに申し上げると、私がかつてスーパーロイヤルエグゼクティブだった時代は、パン焼き器や食器洗い乾燥機それに臼や牡蠣専門ほじくり棒及びナイフを持っていたが、それはここで自慢する程度にとどめて置く) そしてここに干しエビと赤いトウガラシと切り刻んだピーナツと生インゲンに適当にレモン汁と砂糖とタイの醤油ナンプラーを入れて、適当に混ぜあわせたら出来上がりだ。RE所以に私は、常に、ナンプラーを常備しており、既に賞味期限は1年前に過ぎてはいるが、REにしては珍しくエコロジストでもあるので、もったいないという言葉はおくびにも出さず使用し続けている。勿論、来客があるとするならば、賞味期限の打たれた文字方向は常に私の方にある。 REではあるが、少し食べ過ぎて、お腹が痛い状態である。ソムタムはもともとラオ族の食べ物で、タイでは貧しい地域であるイサーン地方(北部)の郷土料理でもある。それにしても、日本のタイ料理屋ではメニューに書いていてもなかなか置いていないのが現状である。REなので、昔は、タイのファランポーン中央駅横の川っぷちのゴザを敷いている道端で、ソムタムと訳の分からない赤酒を飲んだものである。こんな感じかな そんなこというて贅に入っており、今日も平穏に終わろうとした23時55分、警備会社より電話が入り、事務所荒らしにあったということで、50キロ彼方の事務所まで愛車で時速50キロで走り、警察の事情徴収を受け、2時間もなんやかんやして、50キロ彼方の自宅まで時速120キロで帰ってきた。あーねむ。4時43分。
2005.03.08
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朝。ここに来て初めての雨。寂し気に感じるのは、音楽のためか。情を移してしまえば楽しい惰性。インド大使館に行く。初めて傘をさす。何か嬉しい。ビザの申請の行列に並ぶこと四時間。 昼。雨上がりの洗濯にシャワーを終え、二時間かけて遅い昼食。 夜。屋上から通りを眺めていた。人はゆっくり歩き、荷物を持つ者がいない。 稲光。 鍋を洗う音。 部屋の光。 犬。 自転車。 たむろする人々。 ベルの音。 オートリキシャー。 ロッジに入る人。 犬の遠吠え。 ライト。 二人乗り自転車。 私は石。 突然の雨。 バリで会った男の帽子に「最高に愛するよ」とマジックインクで書かれていたのを思い出し、軽薄さが何ともいい感じで、雨に向かって天に向かって「最高に愛するよ」と呟いてみた。カトマンドゥ最後の夜。
2005.03.07
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タイで買った背広。(まぶしてあるのはタイカレー) 昔、意味もなく、まるで東京に住む東北人が東北の言葉を聞きに上野駅に行ったように、バンコクのファランポーン中央駅に行って、意味もなく雑踏の中を佇んでいた。女性が足を組んでじっくり新聞を読んでいたり(荷物がないので列車の時間待ちをしている様子ではない)、スリと思われる目つきの悪い男がうろうろしていた。 切符売り場をふとみると、エクスカーション(遠足?)と書いてある。カンチャナブリ日帰り列車と書いてあり、それを一枚購入した。カンチャナブリはタイ西部のミャンマー国境に隣接する小さな町で、。映画「戦場に架ける橋」で一躍有名になったこの町である。第二次世界大戦当時日本軍がビルマ(現 ミャンマー)への軍需物資輸送のため多くの連合軍捕虜や現地の人を使い鉄道を建設し完成までに多くの犠牲者を出し開通したという血塗られた歴史のある場所である。約89000人の犠牲者を出したらしい。 この泰緬鉄道は「NAM TOK」駅まで運行されていて、がけっぷちの人気のないこの駅では、駅の名前の入った看板の前で、意味なく記念写真を撮っていて、私も意味なく写真を撮ってもらった。バンコクを出た列車は、本当に遠足列車という感じで、中学高校生ぐらいの子供達のグループや家族連れ、それに数組の西洋人といった按配であった。ラジカセを鳴らして手拍子で騒ぎ立てる高校生の集団が微笑ましい。列車が停まるたびに弁当やフルーツやお菓子を売りに来て、それを買った人々が、私に恵んでくれる。たった130キロでカンチャナブリに着く。右側は断崖絶壁で、左側は泥のゆったりしたクワイ河が走っている。戦場に架ける橋の舞台である橋を歩いてわたる。クワイ河のマーチは誰でも聞いたことがあるだろう。私も替え歌を口ずさんだ。「サル、ゴリラ、チンパンジー」実は、カンチャナブリについてはこれぐらいしか覚えがないというのが、少し寂しい。ああ、わけわからんようになってきた・・・隠し砦の3悪人、黒澤明 スター魚―ズオビワンケノービ 一番帯の黒帯ジェダイ 時代劇
2005.03.06
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ペルセポリス バスは祈りの時間のため、止まり、乗客は全員降り、メッカの方向に向かって地面に平伏す。すべてがイスラム。ぼんやりバスで待ち続ける。 シラーズからバスで七十キロ。タクシーで数キロ。正面が壁になり、そこで降りる。紀元前三三一年、アレクサンダーに滅ぼされるまで、インドから小アジアから中央アジアから北アフリカまで支配したアケメネス朝ペルシアの総本山、ペルセポリスの宮殿跡の壁であった。チケットを買うために事務所に入る。質素な建物にただひとつ、そしてここにもあったホメイニ師の肖像。 貢ぎ物を納め易いようにしているためか、階段の蹴上げ部分が低い。全景を見渡し、無言になる。観光客といえば家族連れが二、三組。石柱の落書きに愕然とする。数百年前の落書き。周りは民家の一つも無く、まっすぐ褪せた色の大地が続く。閑散さに、何とか取り残された宮殿跡は、夢、夢の後の後で、国敗れて何とか草がちょろちょろ生えているだけだった。 アレキサンダーが嫉妬で焼きつきしてしまった宮殿。夢のあと。
2005.03.05
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今日飲んだ外資系同級生は、ボーナスで2000万円だったというが、前は3万円だったらしい。何がいいか大変だ。ああ酔った。彼によると12月は自分の年収交渉で、会社と決闘する日々を送るようである。コミットとターゲットという2つの目標を掲げ、コミットは最低ラインでこれを下回った場合、首になっても文句は言えないライン、ターゲットは達成するとウハウハボーナスのラインであるようだ。彼はボーナスで自宅の一部弁済をした残りで、車の買い替えを行うようで、アウトドア派の彼はトヨタからボルボ、レンジローバーまで6,7社RV車を求めて回ったそうだが、日本の営業マンは装飾的なことばかりの説明で、本当に林道や悪路を走る彼にとっての必要情報の知識はあまり無く、嘆いていた。さすがに外車営業マンは日本の自動車会社を渡り歩いてきた故に、そのあたりは詳しく、試乗もすぐにできたそうだ。ただし、性能の割りに割高だそうだ(そりゃそうか)彼によると、外資系では一時的な所得が入ると勘違いする馬鹿が多いそうで、特に、嫁さんが勘違いするようである。そのボーナスでポルシェかフェラーリをいきなり買う奴は消えていくそうだ。世の中は厳しいものだ。 海外通販で買い物をいろいろ検討中だ。訳するのが面倒なので、流行のライブドアのホームページから簡単翻訳してもらおう。http://translate.livedoor.com/ボイスチェンジャー。これで会社にクレームの電話があったり、個人的に都合の悪い攻撃があっても、声を変えて他人のフリ。これで退屈な人生、安泰だ。http://www.staysafeandsecure.com/拘束衣。あ、一人暮らしだったから、自分を拘束したら駄目だ。http://www.maxcita.com/
2005.03.04
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何を隠そう、学生の頃、就職活動するかは迷っているが、いずれにせよエグゼクティブになってしまうので、背広のひとつぐらいもっとかなきゃいかんということで、バンコク着いて早々に、ぶらぶらスクンビット通りを歩いていて、1件の仕立て屋に入った。別にルコントばりに恋をする訳ではなく、フルオーダーで背広を作るためだった。インドに行ったことのないというインド系シク教徒の店で、タイシルク100パーセントのテカテカ背広を作って就職活動なんかに備えちゃったりしてみちゃったりなんちゃって、といいながら宜しく頼むと頼んだ。すると、シク教徒は、手の長さはどうする、足の長さはどうする、襟の幅はどうする、腰の締め具合はどうすると、背広を着たことの無い私に、東京大学以上に難しい質問を浴びせてきた。しかし、ここで、ひるんではいけない、私は毅然と都度返答したのである。「YES」何がイエスかは分からないが、とにかく、承諾したのである。そして、「来月取りに来るから作っておいてくれ」といい、調子に乗って2着作った。多分2、3万円だったと思う。そして翌日、ショッピングパッカーとしての私は、バングラディシュ航空でダッカ、カルカッタへと飛んでいったのである。1ヶ月以上の年月が流れ、再び、鬚もじゃの私は、エグゼクティブらしからぬヒッピーのような格好をして、帰ってきたのである。シク教徒は、「もう金払い逃げしたのかと思ったぜ」とちょっと苦笑いをした。背広は、ちょっと間違えると893のようであったが、それもエグゼクティブの宿命かと思い、テカテカのスーツに着替えバンコクの町を彷徨った。白いシルクのフルオーダーのカッターシャツは少し首の第一ボタンが届かなかったが、それも、おそらくフルオーダーで採寸したせいであろう。多分、コレが流行りなのであろうと、自己納得もしておいた。髪の毛も伸びていたので、散髪にも行くことにした。とりあえず、理髪店に入ってみると、女性が2人、もしかして、マレーシアや台湾の字パーマ屋に扮装した女郎屋に間違えて入ってしまったのではないかと危惧したが、奥から中年太りした初老の白いエプロンをした親父が、はさみと櫛を持って出てきた。何だかよく分からなかったが、客が来るたびに、理髪師のオヤジが奥からどんどん出てくるのだ。親父の胸には、番号のワッペンこそなかったが、何だか変なシステムだなと思っていた。勿論、私は、エグゼクティブなので、髪型を指示するほどのタイ語は喋ることが出来なかったので、指で頭を1周させ、鬚を剃る手話をしてみた。いよいよ、背広を着て、清潔な頭での凱旋帰国であった。嗚呼我が祖国での税関、エグゼクティブさまのお通りだ。しかし、税関員は、何故か私を怪しい人と勘違いしたようである。「荷物が少ないですね。麻薬やってきましたか。売人が寄ってきましたか」なんだ、いつもと一緒やないか、と私は落胆して、足元を見た。草履だった・・・P.S この背広は、いまだに現役である。
2005.03.03
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「行きたくない国はどこ?」というのに、高校生の頃(*注1)、何人かは「トルコ」と答えた。 *注1 中学生だったかも知れない。実は、私は、高校生卒業まで、海外には行きたくない(*注5)という引っ込み思案の性格(*注2)で、高校卒業した夏に間違ってフィリピン(*注4)に行ってしまってからはまってしまった訳なのだが、中学校の地理の最後の授業で行きたい国を挙げるよう先生(*注1)が生徒全員に質問したわけであるが、その時、「バチカン市国」(*注3)と答えて何となく失笑を買った憶えもある私であるが、まあ、そんなことはどうでもいい。* 1 その先生の渾名は「ポッキー」米屋のせがれだが、その体格ゆえに、跡継ぎを諦め、教師になったとの噂があった。* 2 その性格は残念ながら、今も治らないので、もうほったらかしにしている。* 3 世界最小の人口と面積の国だというだけで。勿論、ローマの中にあるとは知らなかったし、世界中のキリストの総本山として潤沢な資金にものをいわせて壮大なパワーを持っていることも知らなかった。* 4 今考えれば、知り合ったヤクザがフィリピンに住んでいるから来る様にいわれて決心したのであるが、その人の住所をフィリピンに持っていくのを忘れたんだなあ。* 5 日本語もまともに喋れないのに外国語なんてとんでもないと思い込んでいたのである。一応、今も思い込んでいる。本題に戻すと、何故トルコであるというと、映画ミッドナイトエキスプレス(*注1)の印象のせいだった。ハシシ(*注2)をこっそりトルコから持ち出そうとして、出国寸前で捕まった米国青年。 時の米国ニクソン政権との取引で、トルコの法律で厳罰に処していいことになり、刑罰が一気に終身刑になった青年の話。子供を暴行された親が公前で犯人に体罰を加える処刑方法、同性愛相手を罠にはめられた男が我を忘れて怒り狂い暴れるシーン。面会に来た恋人の前でオnaニーする惨めさなど、エキゾチックに描かれるトルコ社会。こんな所で犯罪に巻き込まれたら何されるか解らない。問答無用で理解不能な何かが迫って来るような感覚。子供の頃、これをみて単純に「トルコは怖い」(*注3)と思ったものだ。その後、タイの安宿が集まるカオサンロード(*注7)のレストランでは、「今夜、ビデオ上映」と紙がよく貼ってあり、そのビデオはほとんど「ミッドナイトエキスプレス」かピンクフロイドの「ザウォール」(*注5)の2本の使いまわし(でもなかったのかも知れないけど他は憶えていない)上映時間になると、暇プーの西洋人が集まり、じっと黙ってビール1本で粘りながら、小さなテレビを見ていた。中には、ビデオの内容が内容だけに、らりっている人も交じっていたに違いない。(*注4)勿論、ヒマプー日本人の私も、何も飲まず立ち見しながら見たものだ。(*注6)今から、15年ぶりぐらいに借りてきたDVDを見るつもり。(*注8) * 1 言葉も通じない異国の地で麻薬の不法所持で長期の禁固刑を下されてしまったアメリカ青年の決死の脱獄を描いたサスペンスドラマ。監督アランパーカー、脚本オリバーストーン。1978年作。http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD8685/* 2 あんな量ばれるに決まってるよ、と今は冷静に思う。* 3 実際行ってみたら、なかなか明るい国でした。* 4 明日は、我が身と思ってみている緊迫感があった。* 5 これも絶対キテル。http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD11459/* 6 告白すると、時折、パパイヤシェークを飲んだ。* 7 初めて行った時は、まだ地球の歩き方「タイ」が発行されておらず(アメリカとヨーロッパとインドの3冊しかなかった)私は、カオサンロードの存在を知らず、チェンマイで知り合った西洋人に教えてもらった。今ではカオサンロードでお店を開いている竹亭さんのような方もいる。楽天日記有* 8 偶然見かけて見ることにしたがもしかしたら今年中に感想を書くかも知れない。
2005.03.02
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サラリーマンブラザーズに勤める私は、同僚が、妻に800円の小遣い増資を求めたが、妻は会社に対して給料アップの仮申請をした。ニューヨークのエンパイアステートビル、アールデコニューヨークのクライスラービル、アールデコ日本の最近のアールデコ動くアールデコ日本の美術館アールデコリオのアールデコバンコクのカオサン近くラーチャダムヌーン・ノーク通りアールデコ上海の和平飯店アールデコ従軍記者で有名だったサイゴンのマジェステックホテル、アールデコプノンペンの中央市場のアールデコジャカルタのコタ中央駅のアールデコ再びNY,ロックフェラーセンター、アールデコベルギーストックレー邸アールデコプレーリーハウス、ライトのアールデコ大丸アールデコアールデコ以上でアールデコの説明を終了します。
2005.03.01
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