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久々の更新です。
2018年01月17日
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PELIKAN昔々に何かの記念品として戴いた『ペリカン』の万年筆です。(型番は忘れてしまいました)軸が茶色でキャップの頭頂部に普通はあるはずの「ペリカン母子」のマークがありません。キャップのゴールドリングには「W-GERMANY」とありますから、まだ東西ドイツが分かれていた頃の物です。「GUNTHER WAGNER」の銘が入ったボトルインク(ブルーブラック 4001)がセットになっていました。ペン先は金メッキで、太さはEF(細字)ということでしたが、紙に書いてみると、『セーラー万年筆』の「ヤングプロフィット」の「F」よりも太い感じがして、あまり使いませんでした。(やはり舶来品より国産の万年筆の方がペン先は細いのでしょうか)最近になって、「趣味の文具箱」というムック本やネットの書き込みを見て、「ひとつ私も万年筆のペン先を調整してみようか」という気になってしまい、15倍のルーペも持っている事だし、ペン先を確認しながら作業が出来るだろうと、深く考えもしないでラジオペンチを手に取り、ペン先をガチガチとつかんでは色々といじりました。ペン先は無残にも醜い傷をたくさん付けられ、さらに、金メッキをされているにもかかわらず、事もあろうか界面活性剤系のクリーナーで拭かれてしまい、物の見事に金メッキが総て取れてステンレスである本来の姿をむき出しにされてしまいました。文字を書くたびに、ペン先の姿を見ては、自分の付けた傷が痛々しく、その上金メッキもはがされた『ペリカン』を見ると、「何ともひどいことをしたものだ」と反省しきりです。トータルの外観も、ペリカン鳥の顔をかたどったクリップとキャップリングのゴールド色と、ペン先のステンレスとが何となくミスマッチで、他の万年筆のキャップを持ってきたようで、落ち着きが悪い感じがします。でも、ペン先の調整はうまくいったようで、素人仕事ながら自分で満足が得られる程度の細かな字が書けるようになり、このペンの活用頻度が増えました。ガチガチの傷だらけでメッキまで取られても、「使ってあげてその良さを感じれば、道具としての万年筆も喜ぶだろう」と、いいように勝手に納得しています。万年筆のペン先の調整という、楽しく新たな趣味といえるかどうかわからない遊びを発見した事が、この万年筆の利用価値を高めたのだと思っています。そもそも、この万年筆を「ペリカンの安物だ」と侮っていた私は、インクを入れては書いてみて、「ああ、太いなぁ」とがっかりしてインクを抜く作業を、この10数年の間に幾度となく繰り返してきましたから、インクを抜かれなくなった『ペリカン』は、まるで新人の文具が1つ増えたようで、とても幸せな気分になりました。もともと『ペリカン』の持っていた書きやすさに加えて必要とする細さを得た私は、その所有欲・・・《それはペリカンM400などのスーベレーンシリーズの金ペンの購入計画》・・・を今のところ押さえつけています。高いお金を出して購入した万年筆の「金のペン先」を、ラジオペンチで「えいやぁ」とつかむ勇気を、まだ持ち合わせていないのでした。
2007年06月05日
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黄昏とは、古くは「誰そ彼(たそかれ)」・・・人のさまの見分け難い時の意によります。比喩的に、人生の盛りの時が過ぎて、衰えの見えはじめた年代をもさします。 光ありと見し夕顔のうは露はたそかれ時のそら目なりけり (夕顔)訳「光り輝やいて、まばゆいと見えた夕顔に置く露ときたら、夕暮時の見間違いね、お顔を拝見したら、なんとまあ、たいしたことないわねぇ」源氏の君と某院で逢う瀬を迎えた夕顔は、少し年下の源氏の君にこう言って戯れます。夕顔が源氏の君の頬に触れながら、「あなたなんてたいしたことないわ、坊や♪ふふふ・・・」二人の間に甘い時間が流れているのが感じられる場面ですね。黄昏草・・・夕顔の異名です。源氏の君も、四十の賀の後、女三の宮の降嫁を受け入れました。さしずめ今なら熟年もいいところ、プレイボーイは簡単に黄昏時を迎えませませんね。
2007年01月20日
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平成18年12月25日(月)品川の某ホテル1F和食屋さんにて、「チームQ聖夜の集い」に参加しました。皆さんのなかで、お会いしているのは花さんだけで、弓蔵先生をはじめ、会うのは初めての方ばかり。少々緊張しながら、足早に・・・(遅刻中)・・・会場へ。案内されて席につくと、弓蔵先生と熱い握手の後、皆さんへご紹介をしていただきました。masshyさん ANEGOさん あみこさん X-FACTORさん GON母さん花さん 弓蔵先生 芝田巌流さん 私 (座席順)巌流さんの専門見地からのワンポイントアドバイス!・・・おおお、そうかぁ、でも、数年早く聞けていたらなぁ・・・と残念。弓蔵先生「妻様」の電話参加・・・老婆心ながら、小心者の私は、つい電話代のことを心配してしまいました。GON母さんが引っ越される以前にお住まいになっていた所は、私が現在住んでいる家のそばで、スーパーマーケットやファミリーレストラン、周りののどかな環境のことなど、ご近所さんの会話をさせていただきました・・・世間はものすごく狭いです。クリスマスカード交換・・・私のは弓蔵先生は、先生のカードは私の元にやってきました。先生に無断で文面の写真をそのまま載せましたが、大丈夫ですよね。二次会は同ホテル本館内の喫茶室。ここのホテルは以前、カミさんとの結婚式の見積もりを出してもらったことがありました。カミさん曰く、「見積もりを取るのはタダだから」と、あちこちのホテル、式場に付き合わされたものでした。既に自分達が挙式する式場も決まっているのにもかかわらず、ですよ。(脱線してしまいました)弓蔵先生 あみこさん 芝田巌流さん X-FACTORさん私 ANEGOさん masshyさん GON母さん (座席順)花さんは弓蔵先生の記事のように、一次会での退席でした。次回はゆっくり出来るといいですね。ひとりお帰りになる後姿を見送るほうも、少し寂しく感じました。アンコールでの「登場」もありましたが・・・ネ。実はこの日の午前2時頃から娘が、「あたまがちりちり、ずきんずきんいたいよう」と泣いて、苦痛を訴え始めました。以前どこかで「痛いの痛いの飛んで行け~」には科学的根拠があって、別な場所をさすってもらうと、不思議ともとの痛みを感じにくくなる、ということを思い出しました。だいぶ重い娘を抱っこしながら、肩の辺りをぽんぽんと軽く、リズムを取るようにたたいてあげているうちに、やっと寝付いてくれました。それが3時。口から食べた物を戻すようだったら、すぐに病院に連れて行こうか、とも思いましたが、様子を見ていて、大丈夫そうなので、朝になってからでもよさそうでだと判断しました。病院に連れて行ったカミさんからのメールに「Nちゃんは中耳炎、次は金曜日に受診」とあり、まあ、大丈夫だな・・・と思って本日参加をした次第です。弓蔵先生には、「子供が病気の時に飲み会に行くと、後々ずっと奥さんに、『旦那は病気の子供を置いて飲み会に行った!!』と言われ続けるよ~」と助言をいただきました。おおお、心しておかねば。楽しい時間もあっという間に過ぎてしまうもので、次回3月には再び弓蔵先生が上京・・・と確認し合って、心残りながら皆さんとお別れし、家路に向かったのでした。みなさん、楽しい時間をありがとうございました。次回を心待ちしてます。
2006年12月30日
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17cm・・・娘の靴のサイズです。子供の成長は早いもので、2,414gで生まれた娘は、現在20,000gを超え、カミさんに、「今日は、お菓子無しのダイエット日!。見てごらん!、このお腹の出具合はなに?」と言われています。そんな娘が先日、「ねえねえ、とうちゃん、Nちゃんのね、ゼロさいのビデオをね、みたいの、いっしょにみようよ~」と言って、古いビデオテープを引っ張り出し、再生するようにねだりました。顔はまん丸のぷくぷくで、まだ立ち上がることも出来ず、言葉も「あーうー」しか言えない自分を見ては、きゃっきゃと喜んでいます。ビデオからはカミさんの声、「Nちゃ~ん、パラシュート~」ハイハイから手足を上げた格好がまるでスカイダイビングをしているようで、そのしぐさがお気に入りのカミさんは、何度もポーズを要求しています。5歳の子供が、8ヶ月の自分を振り返って、何を思っているのか、興味のわくところです。「ビデオの赤ちゃんが、Nちゃんだって、わかった?」就寝時間が来て、ふたりで布団に入り、電気を消してから娘に聞いてみました。「うん、わかったよ、だって、頭にこぶがあるから・・・」《こぶ》・・・正確には「いちご状血管腫」。髪の生え際に、直径1.5cm、2ミリ程度の隆起をしたアザが赤く、その表面がイチゴに似ていて、比較的目立ちます。小さい頃からよその子供達はこのアザを見て、「ねえ、ここ、ぶつけたの?ちがでているみたいだよ」「ここ、どうしたの、あかくなってるよ」いつも、こう聞かれて、私達夫婦は、「あのね、Nちゃんのここ、アザっていうのよ、ここだけはだがあかくなってるのね、ぶつけたわけじゃないのよ、でも、おもしろがってさわらないでね」繰り返し答えてきました。《こぶ》で自分だとわかった・・・という言葉で、少しドキッとして、「ねえ、Nちゃん、アザのこと、幼稚園でも誰かに言われるの?」「え~と、いわれる」「いわれてどうおもう?」「う~ん、いや」「そのときNちゃんは、おともだちになんていうの?」「ひみつ・・・」「えっ、『ひみつ』っていうの?」「ううん、とうちゃんにはひみつ」幼稚園入学時に、父兄から園側への付記事項として、「娘がアザについて気にしている」事を伝えておきました。でも子供同士ですから、先生がクラスのお友達にアザのことをからかわないように指導してくれていたとしても、その通りにするとは思えませんし、実は、さほど期待もしていませんでした。娘はきっと、アザの事にふれたお友達を叩いたり、悪い言葉で罵ったりしているのかもしれません。それを父親には言えない・・・だから「ヒミツ」。やはり娘はアザの事を少し気にしている。それならこの話は、ここまでにしようと思いました。すると娘は、「ねえ、とうちゃん、とうちゃんの手、あったかい?」「うん、ほら、あったかいよ。もうねむいからね」「うわー、ほんとにあったかいね。・・・Nちゃんの手も、とうちゃんのおかげであったかくなったよ。とうちゃん、ありがと」娘の心が成長していることを実感した夜でした。
2006年12月22日
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何年も使っている、我が家のクリスマスリースです。この季節、リビングの窓ガラスにサンタさんと雪だるまのジェルシール。それと、せこい話ですが・・・電気代が心配!と・・・申し訳程度の電飾を表にぶら下げています。毎年12月には、娘の幼稚園の「生活発表会」があります。娘は今年も「おゆうぎ」で、演目は「ゴリエちゃん」の「ペコリナイト」。踊るのが大好きな娘は心から楽しんでいるようで、のりのり(死語?)のステージを披露してくれました。この曲は、あの「ベイシティーローラーズ」、「サタディナイト」のカバーですから、私達世代は懐かしさいっぱいです。発表会最終プログラム「年少年中合同合唱 ジングルベル」が終わると同時に、サンタさんが登場。年少さんは目を丸くして大騒ぎでした。小さい子供達の情報網も発達しているようで、年中さんあたりになると、サンタさんの存在に疑問を思っているようです。「中は誰かな~」と探っている様子が、見ている親にも伝わってきます。去年のサンタさんは、今年と違って、発表会が終わって園児が戻っている教室をそれぞれまわりました。教室に入って来たサンタさんを発見した瞬間、娘は泣き出し、近くにいた先生が思わず抱っこしてくれるまでの時間がほぼ1秒。きっと先生も条件反射的に抱え上げてくれたのでしょうね。「7人の小人」でも「ミッキーマウス」でも、「被り物」が苦手な娘ですが、まさかサンタさんまでも・・・と驚いたものです。帰宅後、「サンタさんからよ」そう言って娘にプレゼントを渡そうとしましたが、受け取りません。よほど嫌だったのでしょう。そんな娘も、今年はひな壇の最上部、サンタさんと一番離れた場所での対面だったので、どことなく余裕を持って、サンタさんを眺めているようです。家に帰ってからも、サンタさんからのプレゼントを喜んで開けていました。「サンタさんって誰?どこから来るの?」こう子供に聞かれて親は、ついつい「夢のお話」をしてしまいます。決して子供をだましている訳ではありませんが、ついつい、その・・・。子供の教育方針はそれぞれの家庭によって変わってくるでしょうから、おいそれと外でサンタさんの話も出来ません。よそのお子さんに、「ねえ、おじさん!サンタさんって、本当はいないの?」なんて尋ねられたら、返答に困ります。「おじさんは、わからないなー。それは、お父さんかお母さんに聞いてね。」余計なことは言わないで、一目散にその場を離れたくなるに違いありません。世界中で親達に嘘をつかせるサンタクロースは、罪があるのかないのか。嘘といえば、先日参加させていただいたリミンさんの「風の会 クリスマスパーティ」での余興に、マジックがありました。若いマジシャンさんのテクニックを目の前にして、「何とか種や仕掛けを見つけてやろう!」と、意気込んで、瞬きもせずにじっと凝視しましたが、わかりません。やはりプロはプロ。客にはそんなの、発見できるはずもありませんでした。トリックがあるとわかっていても、ついつい引き込まれて、頭の中が「不思議?」でいっぱいになります。頭の中がもやもやっとした、「だまされる快感」というものが、人にはあるのではないでしょうか。自然界は「不思議」の連続で、「何でも合理的に説明の出来る!」と思うことが間違いなのであって、「なんだかわからない」という中で暮らすのが、本来の姿なのかもしれません。万葉集の中にも「だまされた!」という歌があります。しかも、この歌自体が「なんだかわからない」歌なのです。巻4 773「言(こと)とはぬ木すらあぢさゐ諸弟(もろと)らが練(ね)りのむらとにあざむかえけり」遷都により久邇京にあった大伴家持が、平城京にいた大伴坂上大嬢に贈った歌5首の中の4番目の歌です。家持、23歳くらいの歌と思われます。まず「言とはぬ木すらあぢさゐ」この何かを秘めたような物言いからして、この歌をわからなくしています。家持38歳頃の歌に、巻19 4161「言とはぬ木すら春咲き秋づけばもみち散らくは常をなみこそ」訳「物を言わない木であっても、春は花が咲き、秋は紅葉するように、永遠に変わらないものなんてないのだ」これなどは、意味がとてもわかりやすい。「人はおろか物言わぬ木であっても・・・」が、何事も移ろうものだ、永遠は無い、の意味を導くとすれば、「あぢさゐ」の場合は、何が移ろうい、変わっていくのでしょう。まして、あぢさゐ以上に変化しそうな花はたくさんありそうです。あぢさゐとの繋がりがよくわかりません。「諸弟」・・・不詳「むらと」・・・不詳5番目の歌も、訳が定まっていないのは同じですが、巻4 774「百千(ももち)たび恋ふと言ふとも諸弟らが練りのことばは我れは頼まじ」で、これには「諸弟らが練りのことば」とありますから、「むらと」も「ことば」に近いようなものなのでしょう。「練りの言葉」とは、何でしょう。考慮に考慮を重ねた言葉、最善の言葉・・・あたりをさすのでしょうか。訳「何百、何千回と恋しく思うというけれど、「諸弟達」が選んだ言葉を、私はあてにすることなぞしないぞ」で、この場合も「誰が恋ふ」のか、はっきりしていません。坂上大嬢が、それとも家持が、それとも人々が・・・。そこで、4首目の私案、「『言問はぬ木すらあぢさゐ』(話をしなくてもアジサイ《味わい》・・・会話が途絶えていたとしても、それはそれで味わいはあるものだ、心は通じているぞ)なんて、さもわかったような、もっともそうに「諸弟達」が選んだ、恋のマニュアルにあった言葉に、惑わされちゃったな。本なんかあてにするんじゃなかったよ」訳不明の歌ですから、ここまで突飛でも許されるかな。23歳の家持は、「珠玉の恋歌」なるマニュアル本片手に、意中の女性に恋歌を贈っていたのかも知れませんよ。
2006年12月17日
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今日はいつもと趣向を変えて・・・。今年の初めには軽々と抱っこができた娘が、ここのところ、重くて重くて、ひょいと抱えあげることができなくなりました。「あ~、たいへ~ん、もう、今日はおやつなし!!」と、カミさんによる日課の体重計チェックで、プチダイエット強制執行宣告される日々が続いています。この間まで、まだ背が低くて、手が届かなかった洗面台の水栓レバーにも、背伸びをしてやっとだった壁面の電灯スイッチにも、「じぶんでできるよ、よけいなことしないで!!!」と、今では当たり前のように手が届く娘を見ると、ふたまわり以上も体が大きくなっているのがわかります。カミさんの実家で、時々、じいじが柱に鉛筆で、孫の身長を記録しています。「はいはい、ここに来て、こう立って・・・そうそう、さあ、胸を張ろう。」その姿は、童謡の歌のようなほのぼのとした風情で、その柱には、はっきりと、母と娘の二代にわたる成長の証が刻まれています。「かあちゃんのこの一番低い印まで、まだだいぶあるね、そのうち届くよ」体の成長と共に、娘のしぐさや好みに女の子らしさが顕著になってきました。髪を後ろで束ねてゴムで止める指の動きは自然で、しなやかにできますが、実は、うまくなったのは、ごく最近。「髪が顔にかかっているから、結わえてあげようか?」「もうひとりで、じょうずにできるよ!」お絵かきで描く人物は、必ず中世ヨーロッパの貴婦人のような、腰のくびれた髪の長い、ロングドレスを着た女性です。「これが、かあちゃん、これ、ようちえんのせんせい、じょううずでしょ?」シンデレラや白雪姫の絵本の挿絵や、ディズニーアニメの影響もあるでしょうが、それを好む「女性共通の心理」が、娘の中にも、きっとあるのだと思います。<男の子らしさ・女の子らしさ>の性差について、「幼児期から強調することはその子の将来の可能性の芽を摘むかもしれませんよ・・・。」なんて、子供の将来を脅かすような記事が時々見受けられます。でも、それって、どうでしょう。「女の子だからサッカーはダメよ!」「男の子なのにいつまでもお人形で遊んでちゃダメだぞ!」と<ダメ>を出して禁止をすることと、「女の子は、優しい言葉遣いをするものよ。」「男の子は、いつまでもめそめそしないものだぞ。」と言うのとでは、根本的に違っているのではないかな。「女(男)だからダメ」という言い方が性差を強調しているのではなく、<ダメ>な理由の説明に<男・女>を挙げたに過ぎないと思うのです。<男の子らしさ・女の子らしさ>は<こうあるべき>という枠からはずれそうなので<ダメ>という事がいけないのであって、性差を強調すると「可能性の芽を摘む」と考えるのは誤解でしょう。<男の子らしさ・女の子らしさ>を強調したとしても、プラスに作用することはあっても、決してマイナスにはならないのです。女の子は優しく、かわいく、従順に、男の子は元気、わんぱく、たくましいことが将来の可能性の芽を摘むとは思えないのですが、いかがでしょう。現代は、<男の子らしさ・女の子らしさ>がないがしろにされ過ぎているようで、少し不安です。
2006年11月28日
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よく晴れて風の強い日に、やしの木が音を立てて揺れていました。どこまでも青く高い空はまるで異国のようで、ひとときの心の旅路を味わえます。「みち」がつく言葉はたくさんありますが、現実の「道」ではなく、抽象的に用いた言葉の例が万葉集の中にもあります。「恋路」・・・「こひのみち」・・・巻11 2375「我れゆ後生まれむ人は我がごとく恋する道にあひこすなゆめ」訳「後輩諸君よ、我が陥りし恋の道に、深く迷い入る事の無きを切に望むなり。」万葉人の「恋」とは、「あなた<を>求める心」ではなく、「どうしてもあなた<に>惹かれしまう心」だった。それは、わが身ではどうすることもできない不可抗力なもであって、「なぜ、どうして」と思いながら、「あなたに恋する」事になってしまったのです。その「恋」は、万葉人にとって、忘れたくて、苦しくてたまらないものでした。巻12 3175「和歌の浦に袖さへ濡れて忘れ貝拾へど妹は忘らえなくに」訳「袖口を濡らしてまで和歌の浦で、忘れ貝を拾えば恋を忘れられると言うけれど、どんなことをしたって、お前を忘れることができそうにないよ」【和歌の浦】和歌山市、紀ノ川旧河道の和歌川下流右岸、和歌浦湾北岸の景勝地。【忘れ貝】二枚貝の、離れた一片。また、一枚貝の殻。拾えば恋しい思いを忘れることができると考えられていた。こいわすれがい。究極は、「恋」が忘れられずに苦しくて、死んでしまいそうだ、と歌うことです。巻11 2401「恋ひ死なば恋ひも死ねとか我妹子が我家の門を過ぎて行くらむ」訳「どうぞ、恋しくて死にそうだとおっしゃるなら、本当に恋で人が死ぬか見てみたいものだわ、ご愁傷様、とでも言うかのように、あの子が、何も無かったかのように、家の前を素通りして行く・・・。」古代において、女が男を待ちわびるだけではなく、男もまた女に翻弄されていました。現代女性が、ここのところ急に強くなったわけではないかもしれませんね。
2006年11月19日
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空を見上げて雲を見ると、自然はとても雄大だと感じる時があって、どこまで続いているのか、雲の果をたどる旅ができたらなぁ、と子供のような夢を思うことがあります。かつて「大和の国」を持って、日本全体を指すことがありました。そして、その枕詞に「しきしま」があります。【敷島・磯城島】崇神天皇および欽明天皇が都を置いた大和国磯城(しき)郡(奈良県桜井市)の地。【敷島の・磯城島の】枕詞 敷島の宮のある大和の意で、国名「やまと」にかかる。万葉集の作者未詳歌に、 相聞巻13 3248「磯城島の 大和の国に 人さはに 満ちてあれども 藤波の 思ひまつはり 若草の 思ひつきにし 君が目に 恋ひや明かさむ 長きこの夜を」訳「この大和の国には、人がたくさん暮らしているわ、けれど、いつも恋しい気持ちが湧き起こり、たまらなく好きなのは、あなたなのよ、そのあなたの瞳が恋しくて、ずっと待ち続けるの、あなたが来るまで、この長い夜を」 反歌巻13 3249「磯城島の大和の国に人ふたりありとし思はば何か嘆かむ」訳「この大和の国に暮らしているのが、ふたりであったら、こんなに嘆くことなんて、きっとないのに」この長歌・反歌は、女性が、恋人、もしくは夫の訪門を、今か今かと待ち焦がれている歌です。長歌の「人さわに満ちてあれども」に、「なんでアンタなかんかを好きになっちゃったのかしら・・・」というニュアンスが伝わってくるようで、微妙な女心が感じられる気がします。「この国には、他にも男がたくさんいるというのに・・・」という感じですね。さて、解釈の問題は、反歌の「人ふたり」にあります。「ふたり」をどう解釈するかによって、歌のイメージが変わってきます。1)あなた以外に、素敵な別の人が、もう一人いたならば・・・2)この大和の国に、あなたと私と、ふたりしかいないとしたら・・・1)で訳すと、「この大和の国に暮らしている人の中に、あなた以外に素敵な人がもう一人いらしたら、あなたが来なくても、もう一人の方が来るかもしれないと思って、こんなに嘆くことなんて、きっとないのに」2)は、「この大和の国に暮らしているのが、あなたと私と、ふたりっきりなら、どんなことがあっても、私の所のほかに行く所はないわ、そうしたら、こんなに嘆くことなんて、きっとないのに」いい男が別に現れたら・・・か、貴方しか見えないの・・・、どちらを選ぶかは、その人の恋愛感にまで関係しそうですね。
2006年11月12日
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子供の頃は木登りをして、遥か遠くを望んだものです。周りの景色は一変し、何か広いひろい世界に触れたような気がしました。子供達がジャングルジムを見つけて、われ先にと頂上を目指して登っていく姿を見ると、この子らも広い世界に触れているに違いないと思っています。「見渡す」を万葉集で見てみると、 在舘門見江南美女作歌一首 巻20 4397「見わたせば向つ峰(を)の上(へ)の花にほひ照りて立てるは愛(は)しき誰が妻 」 大伴家持 天平勝宝7年2月17日(西暦755年)訳「遠くを見渡たしても、向こうの峰の上の花がとても際立って見えるように、とても素敵な人は誰の奥さん?(ああ、遠く離れている愛しい我妻に逢いたいものだ)」これは家持が防人の検閲を行った際に、難波で読んだ歌です。「見わたせば・・・」と歌いだすものには類型歌が多く、古集、人麻呂歌集などの左注がある歌もあることから、当時の流行歌のフレーズだったかもしれません。巻10 1970「見わたせば向ひの野辺のなでしこの散らまく惜しも雨な降りそね」 作者未詳訳「遠く向こうの野辺に咲いている撫子が散ってしまうのは残念だ、お願いだから雨よ、降らないでおくれ」 五年戊辰幸于難波宮時作歌四首巻6 951「見わたせば近きものから岩隠りかがよふ玉を取らずはやまじ」 笠金村歌集,車持千年(神亀5年 西暦728年)訳「すぐ目の前にあるのだから、岩かげに隠れているきらきら光る玉を取らずにはおれないよ」巻7 1243「見わたせば近き里廻(さとみ)をた廻(もとほり)今ぞ我が来る領巾(ひれ)振りし野に」 古集訳「人里はすぐ目の前だ、歩いてきたな、やっと今、帰ってきたぞ、私の愛しい妻が別れを惜しんで領巾を振ったこの地に」【里廻】(「み」は、ぐるっと曲がった地形をいう)人里のあたり。里のうち。さとわ。【た徊る】(「た」は接頭語)同じ場所を行ったり来たりする。また、あちこちと歩きまわる。めぐる。もとおる。【領巾】細長く薄い布。古代、首から肩に掛けて左右へ長く垂らした装飾用の白い布。主として女性が用いた。【領巾振(ふ)る】領巾を振る。昔、女が人を招いたり別れを惜しんだりするさまの形容として用いた。巻11 2379「見わたせば近き渡りをた廻り今か来ますと恋ひつつぞ居る」 柿本人麻呂歌集訳「すぐ目の前にある渡しを渡って、今来るか、もう来るかと恋しく思って待っていますわ」巻10 1872「見わたせば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも」 作者未詳訳「春日の野のまわり一帯に霞が立ち込めていて、その中で咲き誇っているよ、桜の花が」家持と同じように遠くにあるものを序詞的に使った歌は、巻10 1913「見わたせば春日の野辺に立つ霞見まくの欲しき君が姿か」 作者未詳訳「春日の野のまわり一帯に霞が立ち込めていているように、私の心も晴れないの、ああ、愛しいあなた様に逢いたいわ」巻3 326「見わたせば明石の浦に燭す火の穂にぞ出でぬる妹に恋ふらく」 門部王(生年未詳~天平十七(745)没訳「明石の浦にともっているかかがり火が、はるか遠くからもはっきりと見えるように、みんなにばれちゃった!こんなにも燃え上がっている恋心を、あの子に抱いていることが」男はかがり火のように燃え上がっている自分の心も歌を読み、女は晴れない心のうちを歌っています。これが逆だと、男と女のイメージから、少し外れた感じの恋歌になりますね。「俺の心は霞の中で立ち往生だぜ、私の心はかがり火のように、めらめら燃えて熱いわよ」
2006年10月29日
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Leica IIIc Elmar 9cm F4秋のバラを一輪。ピンクの色が、なんともいえない具合に写りました。昔のレンズには今のレンズと違って味わいがある、と云われる所以でしょうか。万葉集に載っているピンク色(桃色)に、大伴家持の有名な歌、 天平勝寶二年三月一日之暮眺矚春苑桃李花二首 巻19 4139「春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子」 4140「吾が園の李(すもも)の花か庭に散るはだれのいまだ残りたるかも」があります。【にほふ】赤などの鮮やかな色が、光を放つように華やかに印象づけられることをいう。色が明るく映える。あざやかに色づく。古代では、特に赤く色づく意で用いられる。【下照る】花の色でその下のあたりが美しく照りはえる。また、赤く照る。【はだれ】はらはらと雪の降るさま。また、雪や霜などの薄く積もったり、おりたりしたさま。はだら。ほどろ。作者未詳歌では、巻12 2970「桃染めの浅らの衣浅らかに思ひて妹に逢はむものかも」(寄物陳思)訳「桃色に染めた薄い色の衣のように、淡白にさらっと、あの子に逢えることができたらなぁ、(ついあの子の前に出ると、かぁっと頭に血が上って、俺が俺じゃなっくなって、くどくて鬱陶しいように振舞って、俺の気持ちをうまく伝えられないよ)」【浅らか】色が浅いさま。淡々としたさま。これに似た歌で、巻12 2966「紅の薄染め衣浅らかに相見し人に恋ふるころかも」(寄物陳思) 訳「紅色のうす染めの衣の色のように、少ししか会ったことがないあの方に、なんと恋をしてしまったわ」「養老令」の第十九 衣服令の諸臣条に「四位は深緋〔ふかあけ〕(深い茜色)の衣。五位は浅緋の衣」とありますので、恋心を抱いた相手はいわゆる「殿上人」だったかもしれません。この歌が男性だったら・・・。女性官人は、深緑以下を合わせて着用すること。父親が五位以上の女は、父の朝服を除いた以下の色を、通じて着用することができるとありますので、父親が四位以上(四位は深緋)の貴族の娘で、「自分には到底高嶺の花・・・」という内容の歌なのかもしれませんね。着る服の色に制約のあった古代では、衣の色はとても重要で、歌われた色にも、現代とは違う意味があるのでしょう。色ひとつをとっても、現代からは想像のつかない心の動きもあったでしょう。「あらまあ、たいへん、向こうから『深紫』が来たわよ!ほらほら早く、ひかえて・・・」役人や女官達がばたばたしている姿を想像してみるのも楽しそうですね。
2006年10月28日
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彼岸花(ヒガンバナ) ヒガンバナ科別名:曼珠沙華(マンジュシャゲ)日本中に分布していて、人里近くの道端、墓地、田のあぜ道などに群生しています。古くは中国から渡来してきた植物だそうです。万葉集には「いちし」という名前で歌われています。 (寄物陳思) 巻11 2480「道の辺のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我が恋妻を [或本歌曰 いちしろく人知りにけり継ぎてし思へば] 」 (柿本朝臣人麻呂之歌集出) 訳「道の傍らに生えているいちしの花のようにはっきりと、みんなに私の恋するあの子の事を知られちゃった、ああ、どうしよう。[或る本には、はっきりと人に知られちゃった。ずっとずっとあの子の事を考えていたので]とある」「万葉集」の中では、恋仲であることが他人に知られることをひどく恐れて、人のうわさにならないように心を砕いています。例えば、 (正述心緒)巻11 2604「思ひ出でて音には泣くともいちしろく人の知るべく嘆かすなゆめ」訳「私のことが浮かんできちゃって、声を出して泣いても、決して人にばれちゃうようなへまはしないでね」巻4 688「青山を横ぎる雲のいちしろく我れと笑まして人に知らゆな」 (大伴坂上郎女)訳「青々とした山の後ろにかかる真っ白な雲は、とても目立つように、私と顔を合わせると、ついつい笑顔になっちゃうから、人にばれないように気をつけてね。」世間から隠していたのが恋人なのか、それとも夫婦となっても隠すものなのか、不明ですが、夫婦の間柄と言っても「妻問婚」というシステムでは、男女の気が変わればいつでもその関係を解消できたし、その不安定さが逆に、二人の間をさらに緊密にし、二人の関係の維持に全力を傾けていました。ですから、「恋しなむ」・・・「恋焦がれて死んでしまう」が、今以上に現実もを持った言葉だったのです。では、現在のような夫婦より恋人に近いかというと、やはり夫婦は夫婦です。 (問答)巻13 3314「 つぎねふ 山背道を 人夫の 馬より行くに 己夫し 徒歩より行けば 見るごとに 音のみし泣かゆ そこ思ふに 心し痛し たらちねの 母が形見と 我が持てる まそみ鏡に 蜻蛉領巾 負ひ並め持ちて 馬買へ我が背」 反歌 3315「泉川渡り瀬深み我が背子が旅行き衣ひづちなむかも」 或本反歌曰く 3316「まそ鏡持てれど我れは験なし君が徒歩よりなづみ行く見れば」 3317「馬買はば妹徒歩ならむよしゑやし石は踏むとも我はふたり行かむ」訳「山背路をよその旦那さんは馬で通勤しているに、私の夫は徒歩で通勤していて、見るたびについつい涙ぐんでしまい、どうにかしてあげたくって、心が痛い。母が残してくれた形見、私の鏡ととても薄くていきれいなショールをあわせて持っていって、馬を買ってください、あなた」 反歌 「泉川を渡る所は深くって、私の大切な夫の着物が濡れてしまうじゃないか」 或本の反歌にはこうあります 「鏡を持っていたとしても今の私には役に立たないわ、あなたが徒歩で苦労をして通勤しているのを見ていると、涙で化粧もできないもの」 「馬を買ったとしても、おまえは徒歩だろう?、それなら石を踏んだとしても、私はおまえと一緒に徒歩で行くことにするよ」※まそかがみ【まそ鏡】(語源未詳。「ますかがみ」の変化、また、「まそ」は「ますみ」の変化などというが疑問)鏡をほめていう語。立派な鏡。※あきつひれ【蜻蛉領巾】トンボの羽のように、薄く織った布で作った美しい白い布で、古代、首から肩に掛けて左右へ長く垂らし、装飾用とした。上代の婦人装飾具の一つ。長歌と2首の反歌が女歌、最後の反歌が男歌の問答形式になっています。互いが相手のことを気遣った夫婦愛の鑑みたいな歌で、なんとも考えさせられる?歌ですね。自分の財産までも相手の為に使おうと思うことは、一緒に暮らしているからこそ出来ることで、そこに夫婦の原点があるのかもしれません。この長歌は新婚夫婦の歌でしょうか。結婚して何年かたった夫婦の間では中々言えないなんじゃないかなぁ、「石を踏んだっていいさ、おまえと一緒なら・・・」。どうです?
2006年09月24日
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「金子みすゞ」から詩をひとつ。 「雲」私は雲になりたいな。ふわりふわりと青空の果てから果をみんなみて、夜はお月さんと鬼ごつこ。それも飽きたら雨になり雷さんを供につれ、おうちの池へとびおりる。子供の心をそのままに、空を見上げながら雲の人生を楽しんでるような詩ですね。「最後は雨になって、おうちの庭の池に戻ってくるんだ・・・やはりおうちが一番良いのかな。」・・・子供に詩を読んであげながら、色んな話ができそうです。「雷さん」といえば、「万葉集」に、 (東歌)巻14 3421「伊香保嶺に雷な鳴りそね我が上には故はなけども子らによりてぞ」訳「伊香保の山々に響くから、お願いだよ雷様、鳴らないでおくれ、おいらは平気だけど、好きなあの子が怖がるからさ」自分がそばにいないので、「きっと怖がっているのだろうな」と、相手の心を思いやっている歌です。「恋」とは、ほんの些細な事柄でも、ついつい相手の事につなげて色々思ってしまうものですね。また、他には、 (寄物陳思)巻11 2658「天雲の八重雲隠り鳴る神の音のみにやも聞きわたりなむ」訳「雨雲が厚く空を閉ざし、その雲のかなたで雷が鳴っている、その音のように姿は見えないけれど、せめてあの人の声だけでも聞きたいのに・・・」せめて声だけ・・・雷は「光」よりも「音」の方が怖いと思うけれど、そんな音であっても心を伝える手段とする姿は、手に触れ、目に見える全てに「恋」を感じているからなのでしょう。ところで、「雲隠り」といえば、「挽歌」でも用いられる言葉ですが、 天平七年、大伴坂上郎女、尼理願のみまかれるを悲しみ歎きて作る歌一首 并せて短歌(長歌省略)巻3 461「留めえぬ命にしあれば敷栲の家ゆは出でて雲隠りにき」訳「留めておけない命であるから、住みなれた家を出て、命は雲の向こうに隠れてしまった。(亡くなってしまった)」また、 弓削皇子の薨ぜし時に置始東人の歌一首 (長歌省略)巻2 205「大君は神にしませば天雲の五百重が下に隠りたまひぬ」訳「大君は神にあらせられるので、天雲の幾重にも折り重なった天上にお隠れになりました。(お亡くなりになりました)」ばんか【挽歌・輓歌】1 (「挽」は柩(ひつぎ)をひくの意)葬送のとき、柩を載せた車をひく者のうたう歌。2 転じて、人の死をいたむ詩歌。哀悼の意を表す詩歌。3 (挽歌)「万葉集」で、歌を内容から分類した名称の一つ。雑歌・相聞とともに三大部立の一つ。中国の詩、特に文選の挽歌詩の影響を受けたもの。この類には辞世や人の死、また伝説中の人物に関するものなどを含んでいる。こう【薨】諸侯、貴人の死にいう。わが国の律令制では親王または三位以上の死去にいう。薨去。薨逝。薨卒(こうしゅつ)。「大君は・・・」にとても似た有名な歌があります。 天皇の雷岳に御遊しし時柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 巻3 235「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも」右或本云獻忍壁皇子也 其歌曰 王 神座者 雲隠伊加土山尓 宮敷座 (右或る本に忍壁皇子に獻りしなりと云う その歌に曰く 大君は神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます)訳「大君は神でいらっしゃるので、あの雲に隠れるように高くそびえている雷丘の上に、お泊りなさっていらっしゃることよ」(或本には忍壁皇子に献上したとある その歌は 大君は神でいらっしゃるので、雲の隠れるほどのそびえる雷山に御殿をお建てになって、住まわれています。 とある)いかずちのおか【雷丘】奈良県高市郡明日香村雷にある丘。一説に甘檮岡(アマカシノオカ)のこととも。雷山。この歌の「大君」が天武、持統どちらであるのか、難しいところですが、昔の歴史で習うには、この頃からやっと天皇の権力基盤が整ったということです。日本神話の大部分もこの頃完成したものかもしれません。「大君」は「神」であるという物言いがそれを表しているようです。現地、明日香の「雷丘」を仰ぎ見ると、「ええっ」となります。低い・・・。とても天皇がお休みするような所には思えない・・・。誰かが、「雷丘」のことを「御陵だよ!」などと物知り顔で冗談を言ったとしても、「なるほど!」と納得してしまいそうな大きさです。自然の丘を御陵に見立てて歌った人麻呂の「挽歌」が、いつのまにか違って伝わり・・・なんて考えて見ると面白いかなぁ。実は幻の、人麻呂作天武天皇挽歌だったりして。
2006年09月08日
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榛名山の火山活動によって温泉が湧出したという伊香保温泉は、古くから有名であったようですが、現在のように温泉街の中心に石段街がある形態になったのは、長篠の戦い(1575年)で敗れた武田勝頼が、傷ついた兵士を癒すために造らせたものといわれています。もともと、共同浴場や旅籠は山中の源泉近くにあったものを、より多くの戦傷者を収容するために湯宿を広い場所に移転させました。これが現在の石段街の原型となったそうです。山上から湧き出す源泉を木製の導管で引きこんで、たくさんの浴場に分湯する「小間口制度」と呼ばれる伊香保独自のシステムは、このころから始まりました。【伊香保温泉】泉質:硫酸塩泉、メタケイ酸泉など効能:硫酸塩泉(高血圧、動脈硬化、皮膚病、冷え性など) メタケイ酸泉(健康促進、疲労回復、腰痛、リウマチなど)特徴:榛名山二ツ岳の火山活動により湧出し、今から約1900年前に発見されたと言われる古湯で、茶褐色の硫酸塩泉は、昔から「子宝の湯」として知られる“黄金の湯”とよばれています。透明のメタケイ酸泉は“白銀の湯”とよばれ、こちらは飲泉所も設置されており、弱酸性・低張性の温泉は通風や慢性アレルギー性疾患に効くそうです。「伊香保」は、万葉集の「東歌 相聞」に、巻14 3422「伊香保風吹く日吹かぬ日ありと言へど我が恋のみし時なかりけり」訳「伊香保に吹く風は、吹く日も吹かない日もあると言うけれど、私の恋だけは、あなたを思わない日は無いよ、私の心は風のようにいつもあなたの元に飛んでいく」と歌われています。この歌は、本来、「私が風であったら・・・」と歌っているわけではありませんが、次の歌のように、風であったなら、と思う心は今も昔も変わりません。巻11 2359「息の緒に我れは思へど人目多みこそ吹く風にあらばしばしば逢ふべきものを」 「柿本朝臣人麻呂之歌集出」の旋頭歌訳「たえず私はあなたを思っているのに、人目が多くて逢えない・・・この身が吹く風であったなら、いつでもどんな時でも、人目をはばからずに逢えに行けるのに」万葉集のころは、恋の障害として「人目」が歌われます。恋とは個人との関係ですが、「婚姻」となると、一族の問題になってきます。そこで、噂によって恋が露見すると、その恋がふさわしいかふさわしくないか、当事者の心を抜きにして判断されるところもあったのでしょう。決して、自由恋愛だけで結婚ができていたわけではないのです。現代においては、恋愛の障害の理由に「人目」を挙げる人は、そう多くはないはず。「校内男女交際禁止」「社内恋愛禁止」なんて声高に示すところは、もう時代遅れ!といわれても仕方がないでしょう。今の恋の障害は、空間とてさほど大きな要因とならなくなってきました。新幹線、高速道路、飛行機・・・そして携帯電話にメール。いつでも、どんな時でも、逢いたい時は、本当に飛んでいけるし、いつだって連絡も取れる。 「逢いたくて逢いたくて逢いたくてあなたにすぐに 逢いたくて逢いたくて逢いたくて心は叫ぶ 逢いたくて逢いたくて逢いたくて逢えない時は せめて風に姿を変えてあなたのもとへ・・・」 「早春物語」/原田知世 (「作詞 康珍化)1985年この歌が歌われていた頃はまだ、人目は恋の障害であったし、声を聞きたい、話をしたい、逢いたい・・・募る思いに心が張り裂けそうな夜をすごしていたのです。恋とは、離れれば離れるだけ、逢えなければそれだけ、思いは募り、すぐ手の届くところ、いつも安心できるところにあればあるほど、なおざりに扱われてしまいう厄介なものです。携帯電話で自由に話せて、いつでもメールができる時代となって、恋の行方は如何に・・・。
2006年08月20日
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ききょう【桔梗】キキョウ科の多年草。各地の山野の日当たりのよい草地に生え、観賞用に栽培もされます。別名に、ありのひふき、あさがお、おかととき、きちこう。「桔梗」は秋の七草の一つとされています。「万葉集」の山上憶良の「七種の花」の歌には、 憶良詠秋野花 二首 巻8 1537「秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花 [其一]」 1538「萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花 [其二]」 とあり、最後の一つが「朝顔の花」になっています。ではなぜ、「朝顔」が「桔梗」になるのでしょう。それは、平安時代の漢和字書『新撰字鏡』に「桔梗、阿佐加保」とあり、「万葉集」の「朝顔」は「桔梗」であるとする説が有力視されているからです。現在の「朝顔」は元々は薬用の植物で、奈良時代頃に中国からもたらされたらしいのですが、江戸時代になって鑑賞用として庶民に人気を博し、以後 盛んに栽培されるようになったものです。しんせんじきょう【新撰字鏡】平安前期の漢和辞書。12巻。昌住著。昌泰年間(898~901)の成立か。完本と抄録本とがあり、漢字約21,300を偏・旁などによって分類・排列し、字音・意義・和訓を記したもの。現存する日本最古の漢和辞書として資料価値が高い。平安時代になると、「桔梗」は「朝顔」とは別の花になります。そして、「桔梗」は、当時の漢字の発音から「きちかう」と呼ばれました。「古今集和歌集」の紀友則の物名歌に、「秋ちかう野はなりにけり白露のおける草葉も色かはりゆく」訳「秋が間近となった(桔梗の咲いている)野になったなあ、白露が花はおろか草葉にも置くようになり、(花も葉も)色合いが秋の装いに変っていく」「枕草子」64段「草の花は撫子、唐のはさらなり、大和のも、いとめでたし。女郎花。桔梗。朝顔。刈萱。菊。壷すみれ。・・・」訳「草の花はなでしこ、唐なでしこはいうまでもなく、大和なでしこもとてもいいよ。女郎花、桔梗、朝顔、刈萱、菊、壷すみれ。・・・」「桔梗」は「朝顔」よりどことなく気品があるように感じて、七草の中ではちょっと浮いているような気がします。もしかして、山上憶良は、この外国から来た薬用の「朝顔」を歌っていたのかもしれません。「新撰字鏡」に引っ張られすぎているかもしれませんね。「万葉集」の歌、巻10 2104「朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ」訳「朝顔は朝露がおりて咲くと言うけれど、夕方の赤々とした優しい光の中で咲いている姿は、よりいっそう照り映えていますよ」この歌の「朝顔」も「桔梗」なのでしょうか。「夕影にこそ咲きまさ」る・・・確かに今の「朝顔」の花だとちょっと難しい。でも、もしかしてこれは何かの比喩歌かもしれないと考えるとどうでしょう。朝にしか咲かない花を、夕方のほうがいいというのは、男が女に言い寄って、「お金持ちの、身分の高い男のほうがいいなんて世間は言うけど、本当は、おいらのほうが素敵なんだよ、それを知っている人なんかいないけど・・・」なんていう「くどき歌」に解釈・・・自由すぎますか?
2006年08月12日
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さるすべり【猿滑・百日紅】ミソハギ科の落葉高木。中国南部の原産。木の肌がなめらかで猿も滑り落ちるというところからついた名前だそうです。辞書によっては「山香(やまこうばし)」「夏椿」「姫沙羅」「令法(りょうぶ)」の異名ともあります。古典に現れる「猿」は、「古事記(上巻)」に天孫降臨(天照大神の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が葦原中国(あしはらのなかつくに)を治めるために、高天原(たかまのはら)から筑紫の日向(ひゅうが)の高千穂峰(たかちほのみね)に降りた)の際に、猿田彦神がその道案内をつとめ、のち、伊勢国(三重県)五十鈴川のほとりに鎮座したそうです。さるだひこ‐の‐かみ【猿田彦神】 (「さるたひこのかみ」とも)きわめて長身で、鼻が非常に高く恐ろしい顔つきをしていたという。古くは、衢(ちまた)の神とされていましたが、中世、障(さえ)の神と混同されて道祖神となり、一方、仏教の影響を受けて、「猿」と「申(さる)」との混同から、庚申(こうしん)の日にこの神をまつるようになりました。 また、神社の祭礼の時、行列の先導をする者。鼻の高くつき出た天狗の面をかぶり、矛(ほこ)を持つ。天孫降臨の時の故事からおこったそうです。さらに、傀儡子(くぐつ)、遊女などが福の神としてうやまう、民間信仰の神で、戯技を演じる神として、接客業者などに尊ばれました。赤ら顔で、鼻がひじょうに高い神。かいらい‐し(クヮイライ‥)【傀儡師】 人形つかい。古くから存在した一種の放浪生活者で、曲芸、歌舞を業としました。特に、江戸時代、首に人形箱をつるし、その箱をあやつって門(かど)付けをして歩く乞食芸人をいいます。くぐつまわし。この傀儡師(人形遣)が太夫の語る浄瑠璃と一体化して、人形従瑠璃になっていきます。「猿」を歌った歌は、「万葉集」巻3に大伴旅人の讃酒歌に、344「あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む」訳「何と醜い事よ、利口そうに振舞って、酒を飲めないなんてぬかして、よく見ると小賢しくまるで人まねでもする、猿のようだな」一説には「賢しら」・・・山上憶良のこと、とする説もありますが、どうでしょう。 山上憶良臣罷宴歌一首 巻3 337「憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ」に引かれ過ぎかも知れません。もう一つ、「猿」にちなんで・・・さるがく【猿楽・申楽・散楽】(「さんがく(散楽)」の変化だそうです。また、「さるめ(猿女)」との関係もあるとする説もあります)中古から中世にかけて、即興のこっけいな物まね言葉芸のことで、わが国古来のこっけいなわざに、唐から伝わった散楽(さんがく)が加味されてできたもの。散楽が転訛して「猿楽」となりました。相撲(すまい)の節会(せちえ)や内侍所(ないしどころ)御神楽の夜などの余興として、臨時に工夫して演じられたりしました。さるごう。そして後、これが民間に移り、中古から中世にかけて、寺社に所属する職業芸能人が、祭礼の際などにこっけいなわざや曲芸を演ずる芸能となり、中世に入って次第に演劇化し、能と狂言に分化していきます。「猿」のつく言葉は、本当にたくさんありますね。それだけ「猿」が身近だったのでしょう。現在でも、日光に行くと気軽に猿と触れ合えます。どうぞ、スーパーの袋を持って車外に出てみてください。ほら、来ましたきました・・・。
2006年07月29日
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ムクゲ 木槿 別名 ハチス、キハチスアオイ科ヒビスクス属(和名:フヨウ属) 籬木槿むらさきに咲く裾野村石ころ路を日暮下れり 「山櫻の歌」(若山牧水)この歌は「裾野村」と題された歌三首中の歌です。富士山麓のあたりで詠まれたものでしょう。牧水は大酒飲みでした。死んだ原因も肝硬変。ところが、彼が惹かれた石川啄木は、もともと下戸で、酒を飲めませんでした。牧水は啄木のことを次の様に書き残しています。「彼の歌の悉くがいゝ歌だとは決して云はない。寧ろ數に於てはバカ/\しいくだらぬ歌の方が多いであろう。そのくだらぬ歌はこの才人が歌を作るぞといふ場合に於て作られたものであると私は想像してゐる。われを忘れて溜息をつくやうな、獨り言でも云ふやうな場合の作は、實にいゝのがあるのである。・・・(中略)・・・ 高山のいたゞきに登り なにがなしに帽子をふりて くだり來しかな 何といふ人可懷(ひとなつ)つこい寂寥ぞ。私はとある見も知らぬ高山の絶頂からつと燃え立つて直ぐ消え去つた冷たい頬を風に吹かせて降りて來る若かりし彼をまざ/\と想ひ浮かべる。 「石川啄木君の歌」 (若山牧水)あまり酒が強くない啄木は、それでも、先輩の金田一京助を誘ったり、北原白秋を誘ったりして、浅草や色町に繰り出していきました。新聞社からの前借や知人に借金し、友人の持ち物を質草としたり・・・手を尽くして金を作っては、通う啄木。女性を求めた事も確かでしょうが、下宿先にじっとして居れない自分、小説を書く、短歌を作る、そして、家族や友人からの手紙を受け取る自分からも、逃避をしなければなりませんでした。常に現実から遠くへいけるところを探していたようです。そして、明治43年12月に「一握の砂」を出版しました。とある日に酒をのみたくてならぬごとく今日われ切(せち)に金を欲りせり酒飲めば鬼のごとくに青かりし大(おほ)いなる顔よかなしき顔よ酒飲めば悲しみ一時に湧き來るを寝て夢みぬをうれしとはせし 「一握の砂」(石川啄木)「晩年には牧水が非常に近付いて來ましたね。死ぬ時にも、あの人ひとりが眼を落す所へ・・・・。・・・(中略)・・・私がいつた時は、若山君が新聞記者にさかんに啄木のことを教えてやつていましたが、徹頭徹尾、ほめた言葉でしたね。」 「座談会 啄木とその時代」 金田一京助談の部分啄木と牧水はまだこの時、臨終を牧水が見取ることを知らない。
2006年07月23日
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きょうちくとう(ケフチクタウ)【夾竹桃】キョウチクトウ科の常緑低木。葉が竹に似ていること、花が桃に似ていることから、名がついた。ペルシアからインドにかけて野生し、日本へは中国経由で江戸時代に渡来し、庭木や薬用に栽植。幹は高さ約三メートルになり、全体に有毒の乳液を含有。葉は革質で細長く、長さ六~一八センチメートルになり、ふつう三葉ずつ輪生。夏から秋にかけて、若枝の先端に筒状鐘形で先端が五裂し、芳香のある径約三センチメートルの紅色の花を開く。花色には淡黄色、白色のものもあり、八重咲きもある。枝、葉、花は強心薬、利尿薬に用いる。《季・夏》葉も花も似ているというだけで、人の名前をつけられた可哀想な木です。「なんとかもどき」見たいな感じです。そりゃ、いじけて「毒」も出しますね。似ているといえば・・・朝月日向山月立所見遠妻持在人看乍偲 一見すると、漢詩か何かかな、と思いますが、実は、和歌です。万葉集 柿本朝臣人麻呂之歌集出 略体 旋頭歌巻7 1294「朝月の日向の山に月立てり見ゆ遠妻を待ちたる人し見つつ偲はむ」訳「(朝月の)日向の山に月が昇ったのが見える 遠くに残してきた妻と逢う日を心待ちにしている人であれば月を妻と思って心の慰めとしよう」せどうか【旋頭歌】(「頭(上三句)」を旋(めぐら)す(くりかえす)意という)和歌の歌体の一つ。五・七・七・五・七・七の六句からなる。本来は歌垣などの民謡の場で、五・七・七形式の片歌が二人によって唱和されていたものが、後に一人によって歌われるようになって成立した歌体。民謡的色彩の濃いものが多く、和歌が口唱性を捨てて個人の文学として確立していくにつれて衰えていった。「古事記」「日本書紀」に各二首、「万葉集」に六三首、「琴歌譜」に一首、「古今集」「拾遺集」に各四首。うたがき【歌垣】 古代、男女が山や市(いち)などに集まって飲食や舞踏をしたり、掛け合いで歌を歌ったりして性的解放を行なったもの。元来、農耕予祝儀礼の一環で、求婚の場の一つでもあった。のちに遊楽化してくる。かがい。かたうた【片歌】 古代和歌の一体。五・七・七の三句で一首をなすもの。多くは問答歌として二首そろって完結する。雅楽寮の大歌の一つとなっている。*古事記‐中「はしけやし我家の方よ雲居立ち来も、とうたひたまひき。こは片歌なり」この歌は旋頭歌ですから、上句(577)と下句(577)を問答風、もしくは連歌風に歌ったかも知れません。誰かが「朝月の日向の山に月立てり見ゆ」・・・すると、誰かが「遠妻を待ちたる人し見つつ偲はむ」・・・と、前を受ける。人麻呂歌集の位置付けとして、人麻呂作歌であるか否かはさておき、「待ちたる人」が「私」ではなく「誰か」といった、抽象的な、一般的な「人」として歌っている様に感じられます。人麻呂自身が「遠妻」を待ちわびているのではなく、妻を遠くにおいてきた夫や、なかなか逢えない恋人のいる人は、この月を見てそれぞれの思いを馳せているのではないか、きっとそうに違いない、と思わせるほど美しい月だったのでしょう。恋しい人のふくよかな丸みのある面影を、月に似せて思うことは、痩せ志向の現在にあっては、どうでしょう。「少し離れて暮らすけど、あの月を君の面影だと思って、心の慰めにするよ・・・」「なんですって、わたし、あんなに太っているっていうの!」「なんですって、わたし、あんなにしゃくれてるっていうの!」面影を月に喩えるなんて、できないですよ。
2006年07月22日
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オオヤエクチナシ(アカネ科クチナシ属)クチナシの名前の由来は、果実が熟しても口が開かないから名づけられたもので、八重咲きは、その果実すら実らない種類です。昔話に「口無し女房」または「食わず女房」という説話があります。主人公はしばしば桶屋ということのなっているが、飯を食わない女房なら貰いたいものだ、と勝手なことを言っている男のもとに、「私は飯を食べぬからおいておくれ」と言って見知らぬ女が尋ねて来る。そこで男と夫婦になるが、飯を食わないにしては不思議と飯の量が減るので、そっと帰ってきてものかげから覗くと、髪をほどいて頭のてっぺんの隠れた口に、とんでもない量の飯を放り込んで食べていた。男が暇を出すと、女は桶に男を押し込めて、担いで山へ向かう途中、男は脱出し、菖蒲と蓬の茂みに隠れた。女は鬼婆となって追いかけてくるが、菖蒲と蓬のために近づくことができず、男は助かる。また、この日が5月5日だったので、それから五月節供には菖蒲と蓬を葺くようになったという起源譚になる話もあるようです。岩波文庫「こぶとり爺さん・かちかち山」関 敬吾編には、「飯くわぬ女」(広島県・安芸郡)として、同様の昔話が収録されています。押しかけ女房であることや見るなというタブーをおかすことは、「動物の化身+女房」のモチーフであり、頭のてっぺんに口があることは、この女房が蛇の化身を意味しているのでしょう。もともとは異類婚姻譚として、めでたい結末を持っていたものが、その相手が蛇なり蜘蛛なり、その属性によって物語りが怪談化し、化け物の空想物語へと、話の重点が移ってしまったものと思われます。「古事記」中つ巻 崇神天皇のところに、三輪山伝話が載っています。「この意富多多泥古(オホタタネコ)といふ人を、神の子と知れる所以(ゆゑ)は、上にいへる活玉依毘賣(イクタマヨリビメ)、それ顔好かりき。ここに壮夫(をとこ)ありて、その形姿(かたち)威儀(よそほひ)時に比(たぐひ)無きが夜半(さよなか)の時にたちまち来たり。かれ相感(め)でて共婚(まぐはひ)して、住めるほどに、いまだ幾何(いくだ)もあらねば、その美人(をとめ)妊(はら)みぬ。ここに父母、その妊める事を怪しみて、その女に問ひて曰はく、「汝(いまし)はおのづから妊めり。夫(ひこぢ)無きにいかにも妊める」と問ひしかば、答えて曰はく、「麗(うるは)しき壮夫(をとこ)の、その名も知らぬが、夕(よ)ごとに来たりて住めるほどに、おのづからに妊みぬ」といひき。・・・」名前も知らない男と結婚した事を知った両親は、何とかして相手の正体を知ろうとして、娘に、男の衣の裾に糸を刺しておくようにさせたところ、糸は三勾(みわ:三輪の地名のいわれ 三巻き)しか残らず、糸のたどって行くと三輪山に至り、神の社まで続いていたというものです。三輪山に祭られている大物主神は、蛇の神、水の神、雷神でもあるようです。今の季節に三輪に行くと、三輪山を眺めながら、それはそれはおいしい「三輪そうめん」を食べることができます。口がない女房・・・口やかましくない女房・・・古来から男の望みだったのでしょうかね。では、あなたは蛇の化身を取りますか? それとも・・・。
2006年07月17日
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定家葛(ていかかずら)「かずら」ですから蔓(つる)性の植物で、この花は道端に咲いていました。定家とは歌人「藤原定家」で、生没年は1162年~1241年。「新古今和歌集」、「新勅撰和歌集」を撰進し、また小倉百人一首も撰しました。この葛の名は、謡曲「定家」の伝承によるものです。謡曲「定家」は、三番目物で各流、金春禅竹作と伝えられています。古名は「定家葛(ていかかずら)」。-----旅僧が時雨に会い、そばの亭に雨やどりした。そこに里の女が来て、藤原定家の時雨の亭だと教える。式子内親王の墓に案内をし、内親王と深い契りを結んだ定家の執心が葛となって墓にからみついたと語り、自分こそ内親王であると告げて姿を消す。僧の法華経読誦によって内親王の霊が墓の中から現れ、成仏できたと喜ぶ。-----式子内親王は後白河天皇の第三皇女、賀茂の斎院を十年間勤めて退下した、新古今集時代の代表的な女流歌人で、「玉の緒よ絶えなば絶えね 長らえば忍ぶることの弱りもぞする」 小倉百人一首の中に選ばれたこの歌は、「忍ぶ恋」。定家は、この式子内親王に許されぬ恋を抱いたとされています。定家は、歌とは別に、様々な写本を後世に残してくれた偉大な文学者。彼がいなかったら伝わらなかった作品も多かったかも。でも、彼の字、個性的・・・というよりも、きたないです。花の右隅の字は定家の「更級日記」もの。どうです?
2006年07月02日
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沙羅の木(しゃらのき)「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす・・・」 平家物語実際はこの木、「夏椿」と呼ばれているようで、インドの沙羅双樹とは別物だそうです。花は花期が過ぎると、ぽろりと落ちてしまうところはまったく椿。でも、葉の表面がつやつやしていないのは、普通の椿と違います。「ゆうぐれのをぐらき上にほのかにて沙羅の木の花ちりにけるかも」 斉藤茂吉
2006年06月24日
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今日は父の日。シンボルの花は「バラ」です。へ~と思ってしまいました。バラは女性ッぽいのですが。きょうは幼稚園のミニミニ運動会にお出かけです。父の日の行事ですね。でも、梅雨空で園庭は使えないだろうなあ。相模の国の防人の歌に、巻20 4341「橘の美袁利の里に父を置きて道の長道は行きかてのかも」 丈部足麻呂 訳「橘の美袁利の里に父を残して長い道のりを行くことはできないよなあ」これは万葉集中で「父」だけを詠んだ珍しい歌で、他は「父母」と、両親を歌っています。ですから丈部足麻呂は、父子家庭だった?
2006年06月18日
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エゴノキに似た花は「ヒメウツギ」です。「ウツギ」も「万葉集」に「卯の花」としてたくさん詠まれています。巻7 1259「佐伯山卯の花持ちし愛しきが手をし取りてば花は散るとも」訳「佐伯山で、かわいい卯の花を持っている、いとしいあの子よ、そのかわいい手を取りたいよう、かわいい花は散ってもしかたがないが・・・花のようにかわいいあの子は、散ることはないよ」
2006年06月17日
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続いて「エゴノキ」です。これは「万葉集」に「ちさ」の花として詠まれています(大伴家持巻18 4106)。
2006年06月16日
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白い花特集です。まずは「ジャスミン」です。ただ、何ジャスミンかが、わかりません(笑)。いったいなんでしょうね・・・花屋で買った私がわからないとは・・・なさけない。
2006年06月15日
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この白い花が何なのか、いっしょうけんめい調べました。それでもなかなか答えが見つかりません。やっと出した僕の答え。「穂咲七竈(ホザキナナカマド)」かな?バラ科ホザキナナカマド属。花の名前は難しくって、不思議です。 草の名人の知ってる草の名は、わたしはちっとも知らないの。人の知らない草の名を、わたしはいくつも知ってるの。それはわたしがつけたのよ、すきな草にはすきな名を。人の知ってる草の名も、どうせだれかがつけたのよ。ほんとの名まえを知ってるは、空のお日さまばかりなの。だからわたしはよんでるの、わたしばかりでよんでるの。 金子みすゞ(「金子みすゞ童謡集 わたしと小鳥とすずと」より)新書を扱う本屋さんに置いてあった「わたしと小鳥とすずと」を手に取って、こんど来た時に、まだあったら買おうと思い、棚に戻しました。ふらっと入った古本屋さん。「わたしと小鳥とすずと」が「あら、見つかっちゃった」と言っています。この本には選者 矢崎節夫さんの直筆サインと、次の言葉が添えられていました。「あなたの心の中にいる みすゞさんをみつけてください」1冊の本との出会いもまた、不思議です。
2006年06月13日
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あぢさゐの藍(あゐ)のつゆけき花ありぬぬばたまの夜あかねさす昼 佐藤佐太郎(「歸潮」)これは佐藤佐太郎の代表作ともいえる歌です。紫陽花とせずにひらがなで「あぢさゐ」としたところは、漢字とひらがなと、それぞれの雰囲気の違いを表現しています。また、枕詞の対句表現など、なかなか独自な歌になっています。佐太郎は「万葉調」を目指しました。「私達は純粋な詩としての短歌がどういう声調を具備しなければならぬかという自信の問題を追及して「万葉調」に落着くのである。」 佐藤佐太郎(「純粋短歌」) 「万葉集」より(巻20 4448)「あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」 右一首は、左大臣、味狭藍(あぢさゐ)の花に寄せて詠む (橘 諸兄)訳「あじさいが幾重にも咲き、色が次々に変わるように、八代以上に栄えていらっしゃる我が天皇を、紫陽花を見るごとに褒め称えましょう。」この橘 諸兄の歌は、政界を引退する前年、天平勝宝七歳(755年)5月に詠われました。72歳でした。
2006年06月11日
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今朝の空を撮りました。天(そら)のいろ顕(た)ちくる朝のいとまにてわれのこころを静かならしむ 佐藤佐太郎(「群丘」)空を見ていると、不思議と心が和みます。真っ青の空だと、なんか、こう、吸いこまれそうでわくわくします。ひつじ雲それぞれが照りと陰をもち西よりわれの胸に連なる 小野茂樹(「羊雲離散」)わたしが、あなたが、どこにいても、空はいつも見上げてもらうのを待っています。そして、それは、みんなが等しく、同じ空を見つめています。空はどこまでもつながっています。あの人にも、この人にも、あちらの・・・。
2006年06月10日
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「シモツケ」 バラ科 シモツケ属 落葉低木。「万葉集」の巻14は「東歌」(関東方面の歌)が収録されています。(作者は未詳) 東歌(巻14 3425)「下野のあその川原よ石踏まず空ゆと来ぬよ汝が心告れ」 (下野国の歌)訳「下野のあその川原を渡るのに石も踏まずに空を飛ぶように大急ぎで逢いにきたよ、あなたの心の声を聞かせておくれ」雲になりたい気持ちの歌は、(巻14 3510)「み空行く雲にもがもな今日行きて妹に言どひ明日帰り来む」訳「あの空を流れていく雲にれたらいいのに、今日あの子と逢って(お泊りだ!)明日に帰ってこれるのに」梅雨の合間の青空をのんびり眺めている時間を作りたい・・・。
2006年06月07日
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「カルミア」ツツジ科:別名「アメリカシャクナゲ」。この花をはじめて見て、びっくりしました。「アポロ チョコレート※がくっついている・・・」。 昭和44年、人類は、夢であった月に降り立ちました。 ゆめにあふひとのまなじりわたくしがゆめよりほかの何であらうか不逢恋逢恋逢不逢恋(あはぬこひあふこひあふてあはぬこひ)ゆめゆめわれをゆめな忘れそ 紀野 恵不逢恋 =逢う前の恋逢恋 =逢っている恋逢不逢恋=以前逢ったが逢わなくなった恋恋の始まりから終わりという解説がありました。なーるほど。※明治製菓は1969年宇宙船「アポロ11号」が月面に着陸し、 人類が始めて月を歩いた年に「アポロ11号」の宇宙船の形を真似発売した チョコレートです。イチゴとチョコが2層になっていますが、先端部分 は帰還船をイメージしています。
2006年06月04日
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薔薇は薔薇の悲しみのために花となり青き枝葉のかげに悩める 若山牧水(「みなかみ」より)牧水は啄木の最後を次のように書き遺しています。「細君たちは口うつしに薬を注ぐやら、唇を濡らすやら、名を呼ぶやらしてゐたが、私はふとその場に彼の長女の(六才だつたと思ふ)居ないのに気がついてそれを探しに戸外に出た。そして門口で桜の落花を拾つて遊んでゐた彼女を抱いて引返した時には、老父と細君とが前後から石川君を抱きかかへて、低いながら声を立てゝ泣いてゐた。老父は私を見ると、かたちを改めて、「もう駄目です、臨終の様です」といつた。そして側に在つた置時計を手にとつて「九時半か」と咳く様に云つたがまさしく九時三十分であつた。」
2006年05月30日
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花と歌人のお話。石川啄木さびしきは色にしたしまぬ目のゆゑと赤き花など買わせけるかな(「一握の砂」より)北原白秋「薔薇二曲」 一 薔薇ノ木ニ 薔薇ノ花咲ク。 ナニゴトノ不思議ナケレド。 二 薔薇ノ花。 ナニゴトノ不思議ナケレド。 照リ極マレバ木ヨリコボルル。 光リコボルル。 (「白金ノ独楽」より)金田一京助「・・・そのあとで北原白秋を誘って浅草へ行って・・・。」野村胡堂 「その芸妓をよんで遊んだ、というんですね。」・・金田一京助「日記を見ますとね、その遊んだあと、北原白秋の所へいって、割り勘を出さ せてますよ。(笑)」野村胡堂 「白秋も可哀想に、早く死んじゃったね。」金田一京助「私を誘いましてね、いこうというんだけれども、私は朴念仁でダメだった。 白秋は、うん、うんて、何でも言うことをきく。それで白秋と耽溺したんで すね。」野村胡堂 「白秋という人は、人がよくて、だらしがない所が合ったからね。」金田一京助「白秋という人は、その時、何にも知らないから、ああ、そうかと言っておど ろいている。啄木はそれが面白いから得意になってね。だから、啄木が死ん だ時に、「私に酒と女を教えたのは、この人、この人」って、白秋が啄木の ことを言ってましたよ。」
2006年05月29日
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「薔薇が咲きました」との新聞記事により、「バラ園」にいってきました。白、黄色、ピンク、オレンジ・・・いろんな色の中でも、王様はやっぱり赤でしょう。 さうび(436)我はけさうひにぞ見つる花の色をあだなるものといふべかりけり つらゆき訳「私が今朝初めて見た(ばらの花)、その花の色はなんとも色っぽいというべきであるよ。」これは「古今集」巻十 物名の中に入っている歌で、日本文学史上初めて薔薇を歌った歌といわれています。我はけ「さ うひ」にぞ・・・『我は今朝初(うひ)にぞ』の部分に「さうひ=薔薇」を読み込んでいる、技巧的な、どちらかというと詠題的な歌です。紀貫之の見た「あだなる」色とは何なのか、歴史的な知識がないのでわかりませんが、私にとっての「あだなる」色・・・それは深紅の薔薇です。血を吸ったベルベットのような赤。その赤がとてもなまめかしいのです。
2006年05月28日
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今までは花に興味を示す事もありませんでしたが、門前仲町を歩いていると、植え込みに、梅に似た花が咲いています。デジカメで撮影。後で調べると、「車輪梅」というそうです。へぇー、江東区はしゃれた花を植えていますね。春になると次々と花が咲き始めます。あわせて、様々な山菜取りが楽しむ季節。ふきのとう、こごみ、ぜんまい、たらのめ、等々。 雑歌泊瀬朝倉宮御宇天皇代 泊瀬稚武天皇 天皇御製歌 (巻1 1)「籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串(ぶくし)持ち この岡に 菜摘ます子 家告(の)らへ 名告(の)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居(を)れ しきなべて 我れこそ座(ま)せ 我れこそは 告(の)らめ 家をも名をも」訳「すてきな籠を持って、(竹串などの)かわいいヘラ持って、この岡で若菜(山菜)をお摘みになっている、かわいいお嬢さん、家はどちらか教えてくれますか?お名前を教えてもらえますか?実は、この大和の国は私こそが全て治めておりますよ、隅から隅まで私の支配していますよ、私から先に名乗りましょう、家柄も、名前も。」この歌は「万葉集」の巻頭を飾る歌で、作者は雄略天皇作です。雄略天皇は、5世紀の大王で、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金象嵌鉄剣銘に「獲加多支鹵(わかたける)大王」と記載されていて、すでに関東までその勢力範囲が広がっていました。歌自体は仮託(後世の人が作ったもの)とされていますが、長歌の形式が定まる前の古風な感じを残しています。初句から「3-4 5-6」と、音数が変化していき、美しい娘を発見したときの雄略天皇の感動の高まりを、みごとに表現していますね。名前を問う事は、古代において求婚する事でした。ですが、歌の部立は雑歌ですから、一般的に春の予祝行事としての菜摘み(豊作祈願)の歌で、もしかしたら劇も伴って歌われていたかもしれません。古代では簡単には名前を教えませんでした。結婚しなくちゃなりません。(巻12 3102「たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか」)訳「母が呼ぶ私の名前を聞きたかったら、申し上げてもいいでわよ、でも、こんな往来でたまたま逢ったあなたがいったいどこの誰なのか私にはわかりませんわ、 そんな簡単に名前なんて教えませんよ。」「問答歌」の返し歌です。求婚に対して、はね返している様子がうかがえます。今も個人の名前を軽軽しくは教えられませんよね。ちなみに、谷崎潤一郎は、「卍」で園子と光子が若草山での山菜取りを描いています。えっ、と思いましたが、昔は上流階級でも山菜取りをするような事があったんですね。まして古代においては、天皇も山菜を摘んだ?
2006年05月20日
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「古事記」は「天地初發之時(あめつち はじめて ひらけしとき)」で始まり、「高天原成神名天之御中主神(たかあまはらに なりませる かみのみなは あめのみなかぬしのかみ)・・・」と、続きます。「天と地にわかれた時」のその前は、なにも無かった事になります。すなわち、「無」から「有」が生まれました。「有」が「無」から生じるわけがない・・・と言った議論もあるでしょうが・・・。ここは、そういった難しい話ではありません。事は簡単、「認識」の問題かな。道を歩いていて、ふと花が目に止まりました。紫色の大きな花です。携帯で写真を撮って、後で調べて見ました。たぶん、「クレマチス」と言う花かな?それからふと、まわりを見渡すとあります。「クレマチス」。これまで存在すら知らなかった花が、こんなに身近にあったとは。私にとって、それは、「無」から「有」が生じたことでした。確かに「クレマチス」は以前からそこに存在していたのだけれど、私にとっては「存在を知らない事」=「無」だったわけです。それは「青人草(あをひとくさ)」でも同じことです。人との出会い・・・「無」から「有」へ・・・。それを大切にしたいものです。※「クレマチス」花言葉:精神的な美しさ・・・(さあ、誰の事でしょう) 旅人の喜び(たびとのよろこび)?(笑)(巻3 349「生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな」 (大伴旅人 「讃酒歌十三首」)訳「生きている者だって、どうせその後死んでしまう身なんだから、せめてこの世の中にいる間だけでも楽しく暮らさせておくれ。」
2006年05月13日
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春光呪詛いつたいそいつはなんのざまだどういふことかわかつてゐるか髪がくろくてながくしんとくちをつぐむただそれつきりのことだ 春は草穂に呆け うつくしさは消えるぞ (ここは蒼ぐろくてがらんとしたもんだ)頬がうすあかく瞳の茶いろただそれつきりのことだ (おおこのにがさ青さつめたさ) (宮沢賢治『春と修羅』)まだ、僕が小さかった頃、ひとつ年上の従兄弟のS治君と、夏休みや冬休みを利用して遊ぶことがありました。S治君は頭がよくって、背も高く、いつも僕のほうがくっついて歩いています。僕たちは両方とも一人っ子で、だから僕が弟のようでした。でも、父の姉で、S治君のお母さんである叔母さんは苦手。ちょっと怖かった。S治君の町は「花巻」。僕たちが少し大きくなったころ、S治君から「宮沢賢治」のことを聞かされました。「それっ、誰?」、「雨ニモマケズ 風ニモマケズ の人だよ。童話もあるよ。」それで、「注文の多い料理店」を読みました。なんか怖かった。そして、僕のライバル、S治君が羨ましかった。僕の町に有名人はいない。おばさんの怖さと、「注文の・・・」の怖さと、嫉妬で、僕はなんとなく「花巻」を避けるようになりました。怖い叔母の近くの病院に入院していた祖父を見舞って帰ってきたその夜に、祖父は亡くなり、怖い花巻に続けて行くことになりました。それ以来、親類の付き合いは疎遠となり、S治君とも会わなくなりました。以後、一度も花巻には行きませんでした。「宮沢賢治イーハトーブ館」は、母が行きたいと言い出して、弟の車で行きました。「ああ、俺は花巻に来たんだな」そう、花巻の町を見下ろしながら思いました。でも、今でもなんだか「花巻」はちょっと苦手。
2006年05月07日
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「万葉集」の頃は、恋愛もおおらかだったろう、と思われますが、こと、人妻には厳しかったようです。517「神木にも手は触るといふをうつたへに人妻といへば触れぬものかも」 (巻4 「相聞」 大伴安麻呂)訳「御神木にだってちょっとさわってみることがあるのに、人妻には、むやみには近づいてちょっと 手を出してみるなんてできないよなぁ」3115「息の緒に我が息づきし妹すらを人妻なりと聞けば悲しも」 (巻12 「問答歌」)訳「命のある限りずっと恋しくて、ついため息をついちゃうようなかわいい、あの子なのに、あの子 は人妻だよ、なんて聞きたくなかった。」ところが、「万葉集」中にはすごい女性もいました。 但馬皇女の高市皇子の宮に在しし時穂積皇子を思ひて作りませる御歌一首 114「秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛くありとも」訳「秋に実る稲の穂が片方にばかり寄るように、(もう片方の)あなたにずっと寄り添っていたい、 まわりが何だっていうの」 穂積皇子に勅して近江の志賀の山寺に遣はしし時に但馬皇女の作りませる御歌一首115「後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻に標結へ我が背」訳「じっとしてここに残っていたって、恋しくって仕方がないから、追いかけていくわ、道の曲がり 角ごとに印をつけてってね、あなた。」 但馬皇女の高市皇子の宮に在しし時、竊(ひそか)に穂積皇子に接ひて事すでに形あら)は れて作りませる御歌一首 116「人言を繁み言痛みおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る」訳「みんなが口うるさく、よしなさいって言うから、(あなたは私のとこに来れないっていうなら) いまだかつてしたことないけど、朝の川だって渡るわよ(ふたりのためなら)。」 但馬皇女の薨(かむあが)りましし後穂積皇子の冬の日雪の落るに遥かに御墓を見さけまし て悲傷かなし)み涕(なみだ)を流してつくりませる御歌一首 203「降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の塞なさまくに」訳「雪よ、降ってくる雪よ、そんなにたくさん降らないでおくれ、吉隠の猪養の岡のふさぎとなって あの人を見えなくしないでおくれ。」※末句「寒からまくに」(寒いだろうに)とする説もあります。題詞によってわかる通り、「高市皇子」と暮らしている「但馬皇女」が、「穂積皇子」と不倫をしている歌です。「・・・朝川渡る」なんて、ものすごい事です。「朝の川」か「浅い川」か「朝川(川の名前)」か、という議論もありますが、本来、妻問婚は男性が夜にやってきて、朝にならないうちに帰るのがしきたり。全くその逆を歌っています。但馬皇女は行動的な女性と思われている所以です。でも、どうでしょう。本来、女性が「恋のかけひき」をしようとしたら、実際には行動をしないで、言葉でもって、うまく男性を動かすようにするんじゃないでしょうか。「この意気地なし!あなたがまわりばかり気にして、そんなことだったら、わたしがあなたのもとにいくわ。そして朝帰りするのよ。ふん、川だって渡れるんだから。いい?」こう言われて、「じゃぁ、渡れよ!」って言える男性がどれだけいるでしょう。そういった、恋のかけひきの歌であって、実際に渡ったという事実の歌ではない、と思うのです。逆に渡ってしまったら、次の「かけひき」はもっとすごい事を持ち出さなくてはなりません。それは女性にとって、とても自分を不利にしてしまうことになるからです。ですから「朝川」は「朝の川」と解釈しなければならないと思うのです。人柄か、恋のかけひきが上手だったのか、穂積皇子の優しさでしょうか、但馬皇女が亡くなった後も、恋い悲しんで涙を流すところは、女冥利に尽きるといえるでしょう。以上4首は「但馬皇女物語」があったかも、と思われるくらい、ストーリーができあがっています。これらとは、離れた場所に 但馬皇女の御歌一首[一書云く子部王作なり] 1515「言繁き里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひて行かましものを [一云 国にあらずは] (巻8 「秋雑歌」)訳「ああ、もううるさい、こんな里(国)には住むんじゃなかったら、今朝、おもてで鳴いた雁にま じって、ずっと遠くに飛んでいくのに。」と言う歌も残っていますが、「一書(別な本)では子部王の作とある」と但し書きがありますので、先ほどの「物語」に引き寄せられて「但馬皇女作」とされたのかもしれません。 穂積親王の御歌一首3816「家にありし櫃にかぎさし蔵めてし恋の奴のつかみかかりて」 右の歌一首は、穂積親王の、酒酣(たけなは)なる時に好みてこの歌を誦して以ちてつねの 賞(めで)と爲したまひき (巻16 「雑歌」)訳「家の置いてあったおひつに鍵までしめて、しかも蔵にしまって、封じ込めておいた、恋ってや つが、いつのまにかぬけだして、俺につかみかかってきちまった。」 右の歌は、穂積皇子が宴たけなわになって酒に酔うと、好んでこの歌を愛唱しておりました。これも、物語の後日談ぽっいですね。今も昔もスキャンダルは耳目を驚かせます。あ、それと、3人全て「天武天皇」の子供ですが、それについてはまた別の機会に。
2006年05月06日
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「万葉集」巻14は東歌です。 (「相聞」)3504「春へ咲く藤の末葉(うらば)のうら安(やす)にさ寝る夜ぞなき子ろをし思へば」訳「春に咲く藤の花や、その枝の先の葉(を見ると心休まるように、)心やすらかに寝る夜なんてないよ、あの子のことを思うと・・・(あーあ、今日も一人寝か)」眠れないと嘆くのは、同じ東歌に、3471「しまらくは寝つつもあらむを夢のみにもとな見えつつ我を音し泣くる」 訳「ちょってでいいから熟睡したいのに、あの子が夢にしきりに出てきて、ついつい恋しくなって、私を泣かせてばっかりいる・・・(夢じゃなく、逢いたいよ)」これらはきっと男性の片思いの歌なのでしょう。この時代の「夢」は相手が自分のことを思っているので、夢で自分のもとに表れる、と考えられていました。 (巻9正述心緒) 2589「相思はず君はあるらしぬばたまの夢にも見えずうけひて寝れど」 訳「両思いじゃなかったのね、夜見る夢にあなたは現れない、占いをして(私のことを思っているって出たのでやっと)寝たのに・・・。」女性が占い好きなのは今も古代も一緒かな。さて、「しまらくは・・・」は安眠できない恋の歌ですが、憶良は子供を思うと安眠できないと歌っています(4/15参照)。恋も子供も思う通りにならないことは一緒、男も女も、父や母になっても悩みはつきない。
2006年05月05日
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「万葉集」には「鏡王女」の歌が4首(1首重複)残っています。「鏡王女」は「額田王の姉か。藤原鎌足の正妻。不比等の母」(『万葉集 上巻』伊藤 博 角川文庫)とありますが、舒明天皇の皇女だという説もあり、「額田王」との関係は、不明としている人が多いです。歌は、「天智天皇」との贈答歌(巻2 92)、「中臣鎌足」との贈答歌1首(巻2 93)、「春雑歌」(巻8 1419)、そして、 額田王の近江天皇を思ひて作れる歌一首 488「君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く」訳「あなたが来るのを恋しく待っていると、部屋のすだれがが動くのでドキッとしちゃった、ああ秋の風のいたずらね。」の後に載っている、 鏡王女の作れる歌一首 489「風をだに恋ふるは羨し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ」訳「あなたが風だけにしろ恋うているのはうらやましい。訪れる人とてない私は、風だけでも来るかと待つのなら、こんなに嘆きはしません。」(488に唱和した歌) (『万葉集(1) 中西 進 講談社文庫』より)巻8にもこの2首が同じ順番で重複して出てきます。そこで、「唱和した歌」という考え方が出てきたのでしょうか。また、天智天皇との歌のやり取りもあるので、そのへんで「額田王」や「天智天皇」との関係から類推して「額田王」に近い人と考えたのかもしれません。でも、前記の訳はあまりにも「鏡王女」がかわいそうです。「訪れる人もない」なんて。この1首はもともと独立している歌で、「君」を思う歌じゃないのかと思うわけです。そこで私案をひとつ。訳「風が吹くだけで、あなたのことを考えるのはステキなこと、そして、風が吹くのを待っているだけなら、ほんと、苦しくないよ。でも、待っているのは風じゃなくてあなたなのよ、だから苦しいの。」 こんな、普通の恋歌だと思うのだけれど・・・。
2006年05月04日
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「万葉集」巻一 13番歌「中大兄の三山の歌一首」の背景には、どんなことが隠れているのだろう、それを少し探ってみましょう。「万葉集」の巻1・2には紀年体のように、天皇の時代ごとにわかれています。三山歌(反歌2首を含む)は「後岡本宮御宇天皇代 [天豊財重日足姫天皇位後即位後岡本宮]」と、斉明天皇の時代ですが、この後の歌から、「近江大津宮御宇天皇代 [天命開別天皇謚曰天智天皇」とあって、天智天皇の時代となります。天皇の内大臣藤原朝臣を詔して春山の萬花の艶と秋山の千葉の彩とを競い憐れはびしめたまひし時、額田王の歌を以ちて判れる歌 16「冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山吾は」訳「春がやってくると、いままで鳴かなかった鳥たちも飛んでき鳴き、咲かなかった花々も咲くけれど、山は木々が茂り山にはいれず、草が深く生い茂り、入り込めない秋山の木の葉は紅葉し、手にとって賞美し、青々しい葉はそのままでしかたがないと嘆く、それは残念だ、(でも私は)秋の山が良い。」・・・・(1)額田王の近江國に下りし時に作れる歌 即ち井戸王の和する歌(18・19略) 17「味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや」 訳「三輪山よ 奈良の山々の山すそに隠れるまで、道のかげが重なっていく、この目にはっきりと刻んで見ながら行こうと思うのに、何度もなんどもふりかえって仰ぎ見る山に、くやしいな、心無い雲よ、隠していいものか。(山を隠さないでおくれ。)」・・・・(2)天皇の蒲生野に遊猟したまひし時に額田王の作れる歌 20「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 」訳「紫草の野や、人が入っちゃ行けない聖なる場所を行ったり来たり、そんなことしてたら警備が見咎めるでしょう、ああ、あなたは袖をひらひらさせて私の気を引こうとなさっている。」・・・・(3)皇太子の答へませる御歌 [明日香宮御宇天皇謚曰天武天皇] 21「紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも」 訳「紫の花のように白く輝いているあなたを、憎いなんて思ったら、人妻なのにあなたにどうして私が恋心をいだこうか。(決して憎くなんかないよ、だから心惹かれる。)」・・・・(4)ここで天智天皇の時代が終わります。そうすると、巻一の天智天皇の時代はすべて「額田王」に関する歌しかないことになります。「万葉集」には大きく分けて「雑歌」「相聞」「挽歌」という部立(歌の内容による分類)があり、「相聞」は恋に関する歌、「挽歌」は死に関する歌、「雑歌」は行事や叙景その他の歌になります。巻一は「雑歌」、巻二は「相聞」「挽歌」の部立になります。そこで、よく言われるように、20・21の歌(紫の・・・)は恋の歌なのになぜ、「雑歌」に入っているの?純粋な恋の歌じゃないの?宴会のときの戯れ歌?なんていうお話も出てきます。ここで、「額田王」の出自を見ると、「日本書紀」の天武天皇の部分に「初め鏡王の娘、額田王をめして、十市皇女(とをちのひめみこ)を生しませり。」とあるのが唯一の記録です。すると、もともと「額田王」は天武天皇の妻であったわけで、「人妻故に我れ恋ひめやも」は、自分のカミさんを「他人の妻」に擬して呼びかけているところから、「宴会の席の歌」説が主張される根拠がここにあります。さて、もどって、歌(1)~(4)までを見てみると、(1)で額田王は「春と秋」どちらがいいか判定をし、(2)で近江の国に下っていき、(3)・(4)で天武と贈答をします。この流れに、万葉集の編者の歌物語的な意図を感じます。三山歌(妻争い)をしているので、「額田王」に「春(天武)」「秋(天智)」のどちらかを選ばさせ、「額田王」は後ろ髪を引かれながら近江に下り(三輪山に別れを惜しみながら)、蒲生野で前夫とこっそり逢う。この歌の後は「明日香清御原宮天皇代 [天渟中原瀛真人天皇謚曰天武天皇]となり、天武天皇の時代になります。そこで歌われた最初の歌が、十市皇女の伊勢神宮に参赴きし時に波多の横山の巌をみて吹黄刀自の作れる歌」 22「川の上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常処女にて」訳「川のほとりの聖なる岩々にはコケも生えていない、そのように(十市皇女が)いつも変わらずありますように、永遠の乙女として」がきます。十市皇女は天武の初めての子供で額田王の娘ですから、ここにも編者の意図があるように思います。さて、「額田王」は「天智天皇」の葬儀のときの歌を2首歌っていますが、天武天皇にはありません。天皇の大殯の時の歌二首 (他略)(巻二「挽歌」)151「かからむとかねて知りせば大御船泊てし泊りに標結はましを [額田王] 」訳「このようになると事前にわかっておりましたら、天皇の御船の泊まった港を封鎖して出られないように致しましたものを」そして、この歌があるから、「天智」は「額田王」を「天武」から奪ったといわれるようになった歌、額田王の近江天皇を思ひて作れる歌一首 (巻四「相聞」)488「君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く」訳「あなたが来るのをわたしは恋しく待っていると、部屋のすだれがが動くのでドキッとしちゃった、ああ秋の風のいたずらね。」三山争いから兄弟の妻争いへのお話は、よくある「トンデモ」説と一笑に付す事は簡単です。しかし「額田王」が後に「天智」の元にいったということのほうがロマンとして、素敵なことではないでしょうか。「歴史」は歴史家の歴史観の数だけ存在していいと思うのです。それは学者であっても、ロマンチストであっても。
2006年05月03日
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「万葉植物園」に一輪挿が置いてありました。「上溝桜(うわみずざくら)」は「桜」の名がついていますが、普通私達がイメージするのと違って、花が「穂」のようにあつまった、とても変った花です。一つ一つはもちろん花なのですが・・・。「ははか」は「上溝桜」の別名とも言われていて、古くはこの木材に溝を彫って占いで使ったとの事。「古事記」の「天の岩屋戸」で、「天児屋(あめのこやねの)命」と「布刀玉(ふとだまの)命」が「天の香山のははか」を取ってきて、占いをして神意をはかっている事が載っています。古くから「香具山」は聖なる山として信仰の対象になっていて、「天の」という枕詞がつく歌が万葉集の中にも出てきます。香具山は高い山でも、形が整っているわけでもありませんので、この山が信仰の対象になった理由は判然としませんが、万葉集に「国見」という行事を歌った、 高市岡本宮御宇天皇代 [息長足日廣額天皇] 天皇の香具山に登りて望國(くにみ)したまいし時の御製歌 2「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は 」訳「大和にはたくさんの山があるけれど、その中でもひときわ立派に装っている「天の香具山」の頂きに登り立って国を見渡すと、国じゅうに炊飯が立ち上り、海上にはかもめ飛び交っている、素晴らしい国であるぞ、この神話時代から続く大和という国は」が、あります。予祝行事だったので、櫓でも組んで高みから見たのでしょうか。そうしないと木々が茂っていて、国見なんてできません。見晴らしのいい山ではありませんから。それが、 (詠山 やまをよむ)1096「いにしはのことは知らぬを我れ見ても久しくなりぬ天の香具山」訳「昔の事は知らないけれど俺が見たってずいぶん神さびた古臭いたたずまいだなぁ天の香具山ってやつは」この歌のように信仰も言葉として残っているだけのものや、 (寄物陳思 物に寄せて思いを陳べる)2449「香具山に雲居たなびきおほほしく相見し子らを後恋ひむかも」訳「香具山に雲がかかって、なんかこうモヤモヤしてるなぁ、俺の胸のあたりもなぜかモヤモヤしているんだよな、この間知り合ったあの子にもしかして恋をしちゃったのかな」などは枕詞もないものがあります。都が平城に移り、時と共に飛鳥の地は人々から遠い昔の地名となってしまったのでしょうか。だだ、伝説をモチーフに読んだとされる、 中大兄[近江宮御宇天皇] 三山歌 13「香具山 畝傍を愛しと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき」も、枕詞がないですが、これは日を改めて考えましょう。
2006年04月30日
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「お飲み物は?」と聞かれて、4人即座に「生ビール!!」。テーブルを囲んで、前半のスコアを眺めては、ため息をつきます。後悔ばっかりが人生(もとい)ゴルフです。午前10時の昼飯(?)からお酒を飲むのは盆暮れ正月とゴルフくらいなものでしょうか。ハーフを終わってひとときの、食堂での風景です。 (大宰帥大伴卿讃酒歌十三首) 344「あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む 」 (大伴旅人)訳「なんとまあ、醜いなぁ、賢ぶってもうこの位で・・・、なんて酒をセーブしてもう飲まないやつの顔を見ろよ、まるで猿だよ、猿」旅人が13首で酒の歌を歌った、その直前に、有名な歌、 山上憶良臣の宴を罷(まかる)の歌一首 337「憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ」 (山上憶良)訳「私、憶良は今これで宴を退席させていただきます、なんか子供がぐずっているようで、かあちゃんも困ってしまって今か今かと待っているようですし」旅人の「あな醜」が「憶良」だ、なんていわれるのもしょうがない事で、万葉集の編者も多分にそういう気持ちを持っていたかもしれません。ただ、顔が赤くなるのは酒飲みの方ですし、酒を飲んで議論百出、「賢しら」するのもそれこそ酒飲みがするものです。酒を飲んだって飲まなくたって醜く、賢しらするんだったら飲んだほうがいいじゃないか、昔から中国では酒を飲めなけりゃ賢人といわれないよ、さあさあ飲もう、そう旅人は言っています。でも、飲んだ翌日もまたまた後悔するんですよね。もう酒はやめよう、頭は痛いし、胸はむかつくし。万葉集の頃には、まだお茶は日本にありませんでした。日本にお茶を伝えたのは最澄で、現在でも比叡山に日吉茶園として残されているそうです。古人はお茶が伝わるまで、いったい何で一服していたのだろう。コーヒーは江戸時代の元禄の頃とか。江戸時代まで、日本の嗜好品としての飲み物は日本酒とお茶という事が、およそ千年も続いたと言う事でしょうか。純国産は日本酒だけなんて不思議ですね。
2006年04月29日
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「万葉集」は日本最古の和歌集として伝えられてきました。48「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」 (原文 東野炎立所見而反見為者月西渡)この「柿本人麻呂」の歌は、「万葉集」の中で比較的有名な歌です。ですが、現在のこの歌は、初句から3句を江戸時代の賀茂真淵が読み改めたもので、江戸時代に多く読まれていた「万葉集(寛永版本)」のもともとの訓は「あづまののけぶりのたてるところみて」となっていました。「万葉集」の中で「あづま」は、ほとんど「鶏が鳴く あづま」と枕詞がついて歌われていて、「東野」を「あづま野」と読むのはちょっと無理がありそうです。もうひとつ問題を複雑にしているのが「炎」の訓で、”「かぎろひ」が「立つ」とはいったい何のことだ!”という議論にもなります。「かげろう」「曙光」・・・よくわかりません。さらに結句の「月西渡」には「東」と「西」の対比表現があるから、文字使いそのまま「つきにしわたる」と読んだ方が良い、という説まで出てきています。実はこの歌は訓が定まっているように思われていますが、色々な人のそれぞれの「万葉集の歌」が存在しています。そういった意味で「万葉集」の歌は、いつの時代でもその時にあった「新しい歌」として読まれてきました。そこで私案をひとつ。661「恋ひ恋ひて逢へる時だにうるはしきこと尽くしてよ長くと思はば」 大伴坂上郎女訳「(あなたが)とても恋しく思って(私に)逢うときには、ほんとこれ以上ないくらい素敵なしぐさや言葉をかけて(私の心を満たしてよ!)この恋を(あなたが)長く続けたいと思うのならば」女性が相手にこうして欲しいと願う歌です。ただ、こう訳すと、男性が「恋ひ恋ひ」しくて逢いに来るという意味になってしまいます。自分の気持ちうを歌うと考えて、この部分を「女性」が逢いという意味で訳すと、「長くと思はば」も女性の気持ちとして訳さなければなりません。仮に前半は自分(女性)、後半は相手(男性)とすると、「私が恋しくて逢う時に、あなたはこの恋を長くと思うなら、私の心を満たすように努力してよ」と、言葉のつながりが悪くなります。この歌の結句「長くと思はば(原文 念者)」を「長くと思へば」の訓にすると、「私が恋しくて逢う時に、わたしはこの恋を長くと思うのだから、私の心を満たすようにあなたは努力してよ」と、ずっとすっきりします。現代女性風の物言いになってしまうではないか、古代の女性はもっと奥ゆかしい!とそしられそうですが、こちらのほうが、恋する女性の気持ちが素直に表れているのではないでしょうか。ですから私にとってこの歌は「恋ひ恋ひて逢へる時だにうるはしきこと尽くしてよ長くと思へば」訳「とってもあなたを恋しくいるのだから、逢うときには、ほんとこれ以上ないくらい素敵なしぐさや言葉をかけて、私の心を満たしてよ!もっともっと長くこの恋を続けたいと思うのだから」になります。新しい万葉歌の誕生です。
2006年04月22日
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都会の子供は土の上で思いっきり走り回る機会が少ないです。町内の整備された公園は比較的狭く遊具もたくさんあって、鬼ごっこなど全力で走る遊びには向きません。郊外の大きな公園がそばにある子供は恵まれています。それは子育ての為の居住環境選択の要点でもあるからです。保育園、幼稚園の園庭は、もはや走る環境にはありません。子供が転んで擦り傷を作るのは当たり前だったのに、自分の子供となると、ほっとけなくなるものです。なるべく「転ぶな」「走るな」「飛ぶな」と危険を回避させたくなります。でもこれは子供の成長にとってマイナス作用なのだと頭ではわかっているのですが・・・。自分に子供が授かって初めて、親の気持ちといのがわかるのだ、と知りました。このことは知識では獲得できないものです。親であるのとそうでないのは、男か女か、という程違いがありそうです。どんな非道な人間で世間から疎まれても、その人の親だけは自分の子供がかわいくて仕方が無い。そんなものだと思います。 思子等歌一首并序(略)802「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ まなかひに もとなかかりて 安寐し寝さぬ」 反歌803「銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」 「万葉集」 巻五これは今から1277年前(諸説はありますが)の山上憶良 69歳の作で、憶良の年齢から「子」が誰であるか論点になるところですが、これは普遍的な「子(孫も含む)」を思う親の心情を歌ったと解釈して良いと思う。子を思う気持ちは昔も今も全く変わらないし、これからも変らないでしょう。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」 (「笈日記」 松尾芭蕉 51歳)芭蕉は最後まで野山をかけまわりたかった。親として、いつまで子供と一緒にかけまわることができるだろう。
2006年04月15日
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一口で「旅」と言っても、今と昔とではまったく違っています。今では新幹線で目的地まで「あっ」と言う間に着いてしまい、その間の景色はまったく見れません。逆に、景色を見ようとして外を見ていると車酔いならぬ新幹線酔いをしそうです。蒸気機関車こそ乗ったことはありませんが、小さい頃はディーゼルエンジンの「汽車」によく乗ったものです。4人掛けの対面シートに何時間も揺られる、それこそ「旅」でした。「つぎねふや 山代河を 宮のぼり 吾がのぼればあをによし 那良を過ぎ 小盾 大和を過ぎ 吾が見がほし国は葛城 高宮 和家のあたり」 「古事記 下巻」これは、仁徳天皇の皇后「石之日売命」が歌ったもので、一般的には「記紀歌謡」と呼ばれています。歌謡という限り、それは声に出して歌われたもので、古事記には「夷振(ひなぶり)」「宮人振(みやひとぶり)」「天田振(あまだぶり)」や、「琴歌譜」にも収録されている「宇吉歌(うきうた)」など、実際に宮廷で演奏され歌われたと思われる歌曲の名称の記述があります。現在は残念ながらこれらの節まわしなど伝わっておりませんが、一方で、万葉集に関しては、犬養節が伝わっています。一説には犬養孝氏が始めたものとされ、現在でもCDその他で聞くことが出来ます。私も一度だけ紀伊国屋ホールで直接拝聴したことがありますが、とても軽やかです。さて、先ほどの記紀歌謡は、いわゆる道行形式と呼ばれるもので、「○○を過ぎ △△を過ぎ・・・」と地名を列挙していきます。土地の地名を歌に読み込むことによって、その土地の神々を褒め称え、旅の無事を祈ったもので、この例は万葉集にも見ることが出来ます。「道行」は時代が下って江戸期に入り、時代物ですと、「浮世とは。たがいひそめて。飛鳥川。ふちも知行も瀬とかはり。よるべも浪の下人に。結ぶ塩治の誤りは。戀のかせ杭加古川の。娘小浪が云号結納も。とらず其儘に振捨てられし物思ひ。母の思ひは山科の聟の力弥をちからにて住家へ押て嫁入も。世に有りなしの義理遠慮こしもとつれず乗物も。やめて親子の二人連。都の空に。心ざす。」 「仮名手本忠臣蔵」竹田出雲世話物は有名な一文、「この世のなごり。夜もなごり。死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜。一足づゝに消えてゆく。夢の夢こそあはれなれ。」 「曽根崎心中」近松門左衛門さてさて、人生は死出の道行き、誰とともにか参らむ。
2006年04月09日
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この季節は部屋の窓を開けることができません。強風のため部屋の中が黄色い砂でざらつくのが嫌なのと、花粉のせいです。ただ、今年は事前の予想通り、花粉の「悲惨量」が少なかったようで、目の痒みや鼻詰まりなど諸症状が例年に比べると、ほとんど無いようなもので、もしかしたら「花粉症」が自然治癒したのかもしれません・・・なんて思うほど楽です。一日ごとに暖かくなってくるこの季節に、空気の入れ替えができず部屋の中はなんとなく、どよんとした雰囲気がありますがしかたがありません。史蹟発掘地などで復元された古墳時代の竪穴式住居を見ると、それには窓がありません。出土した家型埴輪に基づいて作成されたのか、単に復元するのにそこまでこだわらなかったものなのかわかりませんが、実際には住居の形も大きさもそれぞれ違いますので、全ての家に窓がなかったということもないでしょう。 貧窮問答歌一首并短歌892「風交じり 雨降る夜の 雨交じり 雪降る夜は 術もなく寒くしあれば 堅塩を とりつづしろひ 糟湯酒 打ちすすろひてしはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげ掻き撫でて 我れをおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾引き被がふり 布肩衣 ありのことごと 着そへども 寒き夜すらを 我れよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る 天地は 広しといへど 我がためは 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 我がためは 照りや給はぬ 人皆か 我のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 我れもなれるを 綿もなき 布肩衣の 海松のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け 伏せ廬の 曲げ廬の内に 直土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へさまよひ かまどには火気吹き立てず 甑には 蜘蛛の巣かきて 飯炊く ことも忘れてぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると いへるがごとく しもと取る 里長が声は 寝屋処まで来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世間の道」893「世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」 山上憶良この長歌と短歌は憶良73歳(天平4年)の作か、と言われ、「貧者(憶良)」と「窮者(地方庶民)」の問答といわれますが、どうでしょう。憶良は従五位下ではあるものの、筑前の国守も務めた貴族ですので、貧者にはならないでしょうから、この歌は「貧窮」に関する問答歌であると考えたほうがいいでしょう。歌を詠んだ直前まで筑前の国守であったようですから、この庶民は筑前など地方の人々の様子を歌っているかもしれません。竪穴式住居に2世帯同居の姿が見て取れます。そこで思うのは、「相聞歌」の中にあるような男性が女性のもとに訪れる妻問婚の背景は、女性はそれなりの家屋に住んでいることが前提になっていることです。ですから結婚といっても、その習俗は貴族と庶民や家屋の様子によって違いがあり、古代の妻問婚とは貴族ものであって、その恋愛を謳歌する事は貴族の特権だったのであり、庶民には縁のない婚姻形態のようです。庶民には特別の祭りの日として、「歌垣」などの「晴」の行事が用意されていたのでしょう。
2006年04月08日
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この時季は、通勤のバックの中にカメラを入れて桜を撮ります。「桜通り」と名づけられた道は果たしていくつあるのだろう、と思う程、東京にはその地元の人しか知らない桜が、花のアーケードとして人々の目を楽しませてくれます。ぱっと咲いて瞬く間に散ってしまうところから、江戸っ子に好かれたのだ、だからこんなに多くの桜があるんだよ、とよく聞きます。ぱっと散ってしまった後の寂寥感がいい、なんて、ひとつの人生の考え方です。「春愁」を思うとき、「万葉集」に4292「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思えば」大伴家持 (諸説ありますが、家持35歳の作)という歌があります。春陽の暖かさと吹く風の冷たさと咲く花々は、春を複雑なものにしていて、そこに秋とは違う春の物悲しさがあります。3965「春の花今は盛りににほふらむ折りてかざさむ手力もがも」大伴家持3966「うぐひすの鳴き散らすらむ春の花いつしか君と手折りかざさむ」大伴家持 (家持30歳 病に臥しているときの歌)4139「春の苑紅におふ桃の花下照る道に出で立つ乙女」大伴家持 (家持33歳)この歌は中国の樹下美人を踏まえた漢詩訳の作だ、なんて言われることもありますが、私の中ではなぜか三好達治の「甃のうえ」のイメージに重なります。花が咲き誇っている木の下を「をみなごしめやかに語らひあゆみ」、それを理由の無い寂寥感に包まれた自分がただ眺めている。ひとりでいる春を歌うことで、古来、歌人は春の物悲しい気持ちをいやしたのでしょうか。
2006年04月02日
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所用の為に日帰りで盛岡まで行ってきました。ほんと今年は雪が多かったようでまだ少し雪が残っているところがあります。トイのも壊れている家も結構あります。新しい雪止めを付けている家も多かった(ネットみたいなやつ)。天気が良く岩手山がきれいに見えます。都心を離れれば空気も澄んで、花粉の被害も無いかなぁと思ったけど、甘い。だめでした。新幹線の旅、片道3時間弱はちょい寝に最適ですが、前と違って油断をすると八戸です。あぶない、あぶない。山を見に行ったような、旅?でした
2006年03月25日
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近接専用のズマールで撮った「つつじ」は、ぽやぽやでした。にじんでにじんで・・・。「ああぁ ズマールだぁ」。思い切って絞り込めないので(なんたって実絞り!!)ピントのあう範囲はほんの少し。手持ちの為に体は前後にゆれてゆれて、まるでAFカメラのピントがあわない状態(レンズが右や左に行ったり来たりで止まらない)。それが故に、撮っている充実感も格別です。3305「物思はず 道行く行くも 青山を 振り放け見れば つつじ花 にほえ娘子 桜花 盛え娘子 汝れをぞも 我れに寄すといふ 我れをもぞ 汝れに寄すといふ 荒山も 人し寄すれば 寄そるとぞいふ 汝が心ゆめ 」作者不明万葉集の中の「つつじ」の歌(長歌)です。新緑の青々とした山に咲き乱れる赤やピンクのつつじや桜の花々の映像を、乙女を導くための序詞に用いています。作者や歌われた時代は自由に任せましょう。「振り放け見れば」に人麻呂の影を思ったとしても・・・なんたって巻13ですからねぇ。この歌、あぁなんて春らしい歌なのだろう。必死に口説いています(笑)。「汝が心ゆめ」(私があなたに思いを寄せているのだから、あなたが私に思いを寄せる事がないなんて、絶対に無いよね!)二重否定ですね。
2006年03月22日
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午前中、万葉植物園に行ってきました。咲いている花はそう多くないのですが、梅や馬酔木は満開です。花を撮ろうと思って持ってきたカメラは ミノルタ X-500。フレクトゴン35mm F2.8(ゼブラのやつ)とズマール5cm F2。フレクトゴンは10cm以下の接写ができます。ズマールは、これはライカのレンズで、ねじ込み式のやつです。ズマールにはM39→M42リングでX-500につけると、近接専用レンズになります。(ピントあわせは自分で動く 笑)私のフレクトゴンはもともとオートレンズですが、絞り込みレバーまわりを改造して実絞りに替えてあるので、絞り込めば暗くなってピントあわせは大変ですが、X-500の絞り優先モードでは使いやすくなります。ライカ用のズマールで接写をして、こんなに楽しいとは思っていませんでした。当然ズマールも実絞りでの撮影ですが、ズマールのボケを見ながら撮影できるなんて想像してません。結局、使ったのはズマールだけで、本日の撮影終了。166 「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありと言はなくに」大伯皇女万葉集に馬酔木は、このように歌われています。万葉集に詠まれている花々を、これからもいろんなレンズで捕らえて見みようという思いを強くした日でした。(変なレンズ?で 笑)
2006年03月21日
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