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盛岡城趾へ立ち寄ってきました。
盛岡駅からTXにて盛岡城趾へ。盛岡城跡公園のそばを流れている中津川。 
もりおか歴史文化館。


昔スキー・アルペンワールドカップを雫石で開催した時の、選手の手形が。


花時計も美しかった。


盛岡城址公園入り口。


堀の跡。鶴池と亀池。


南部光行は南部氏の始祖。
盛岡城は,三戸から不来方(こずかた)に居城の移転を決定した南部信直(盛岡藩初代藩主)が,
1597年(慶長2年)に嫡子利直(としなお:2代藩主)を総奉行(そうぶぎょう)として築城を
始めたと


本丸に向かって歩く。


城は本丸を中心に二の丸・三の丸・淡路丸・腰曲輪などからなり完成までに約40年かけた
というだけあり、石垣群は壮大で見事であった。


左が本丸の石垣、右が二の丸の石垣、そして中央に赤く見えるのが本丸と二の丸を結ぶ
【渡雲橋】。


天守台は建造されたものの天守自体は幕府への遠慮から造られなかったと。
城の位置は北上川と中津川の合流地点の小丘に築かれ、盛り上がる岡(盛大な岡)との
意味をこめて盛岡城と命名されたと言われているとのこと。


盛岡城本丸跡。
この台座の上には南部氏第42代当主、南部利祥の像があったのだが、その解説には
悲しい歴史が。
南部利祥は最後の盛岡藩主であった南部利恭の長男で、陸軍士官学校を卒業した後、
日露戦争では陸軍第1軍に中尉として従軍したとのこと。
しかしながら24才にして満州で戦死したが、後に勲章が授与されたと。
この功績を称える市民の寄付によって像が建てられたのだが、そこには戊辰戦争以来
朝敵とされてきた南部藩の汚名が、この功績によってようやく返上されたとの思いが。
しかしながら太平洋戦争では軍事物資として供出され、現在は台座のみが残っているのだと。


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