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歴史博物館を後にし、毛利元就墓所へ車で向かう。
広島県立青年学校教員育成所跡・碑そして郡山城跡の石碑が道路左側に。

墓所参道。

郡山城址案内図。
戦国期を代表する山城で、毛利氏の本拠城。築城時期は不明だが、
はじめ郡山南東の尾根上にあった城が毛利元就(1497~1571)の時代には
郡山全山に拡張されたと。城域は、東西約1.1km、南北約0.9kmで、
城内には270ヶ所余りの 郭 や満願寺などの寺院が。
南麓には内堀が巡り、城下町も形成されていたと。
山頂部には崩された石垣が残っていると。

毛利元就の墓。毛利元就は、明応6(1497)年、郡山で生まれ、大永3(1523)年、
27歳で宗家を相続して以来、郡山の南東にあった旧本城を郡山全山に拡大し、
本拠地としての守りを固めていくと共に、戦国大名として中国地方の統一を成し遂げ、
元亀2(1571)年6月14日75歳でここ郡山城で波乱に満ちた生涯を閉じた。
元就の死後、この地に元就の墓と共に元就の菩提寺洞春寺が造られた。
その後、洞春寺は毛利家城主が城を移すに従って広島、萩、山口へと移されたが、
元就の墓はここで祀られてきた。
明治2(1869)年には、郡山城内、城下にあった毛利一族の墓もここに移葬され
元就の墓の下の段に毛利一族墓所として祀られているとの説明が。

毛利元就の生涯の歴史が記載されていた。

毛利元就墓所。
中国地方を平定した戦国の勇将毛利元就は、郡山城で生まれ郡山城で75歳の生涯を
閉じるまで戦乱の日々をこの安芸の国吉田郡山城を本拠に過したのであった。

百万一心の石碑。

百万一心は、戦国時代の大名毛利元就が吉田郡山城の拡張工事(普請)の際に
人柱の代わりに使用した石碑に書かれていた言葉であると。
歴史民俗博物館で配布されていた「百万一心のはなし」では、
次のようなエピソードを紹介していた。
『12歳の松寿丸(元就の幼名)が厳島神社を参拝したところ、泣き続ける5〜6歳ぐらいの
少女を見つけた。この少女は母親と巡礼の旅をしていたが、ある城の築城で母親が
人柱に選ばれてしまったという。幼い頃に父母と死に別れている松寿丸は少女に同情し、
郡山城に連れ帰った。15〜16年の年月が経って、元服した元就が吉田郡山城主となった頃、
本丸の石垣が何度築いても崩落するので困っていた。やがて、人柱が必要だという声が
あがったため、普請奉行は巡礼の娘を人柱にすることにした。娘自身も、元就に助けて
貰ったお礼として喜んで人柱になると答えたが、元就は「その娘を人柱にしてはならぬ」と厳命。
翌日、元就は「百万一心」と書いた紙を奉行に渡し、その文字を石に彫って人柱の代わりに
埋めるよう命じた。そして、人柱を埋めずに人命を尊び、皆で心と力を合わせてことに
あたるよう教えた。』と。
「一日一力一心」とも読めるように工夫されており「皆で力をあわせれば何事も
成し遂げることが出来る」という意味であると。

毛利一族墓所。

この毛利一族の墓は、郡山城内、城下にあったそれぞれの墓を明治2(1869)年に
この洞春寺跡の元就墓所境内に移葬されたものであると。
左から、興元墓所・幸松丸墓所・隆元夫人墓所・先祖合墓。


墓所のフェンスには木製の家紋が刻まれていた。

本丸までは800mの山歩きが必要。
しかし時間と体力不足で諦めたのであっった。

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