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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
『平塚宿・京方見付』を後にし大磯町に入る。
右手前方に『高麗山』の雄姿が。そして高麗山の山頂にあるのが「湘南平」。
湘南平は、神奈川県の平塚市と大磯町の境にある標高181mの丘陵で、高麗山と泡垂山の
山頂一帯を指す。都市計画公園としての名称は、高麗山公園。
地元ではかつて千畳敷と呼ばれていたが、公園として整備するにあたり
湘南平と呼ばれるようになった。
高い山ではないが相模湾を一望できる眺望は素晴らしく、桜の木も多く花見の季節は
家族連れで賑わう。平らな山頂に現在はレストハウスとテレビ塔(平塚テレビ中継局)がある。
「関東の富士見百景」、「かながわの景勝50選」、「かながわの花の名所100選」、
「かながわ未来遺産100」、「かながわの公園50選」、「夜景100選」及び「平塚八景」に
選ばれている。
「平塚の一里塚」ではなく『平成の一里塚』。
「江戸時代、旅人たちの道しるべとなった「一里塚」。街道に一里(3.9Km)ごとに
築かれた塚には、大木が植えられ、その木陰は、旅人たちの格好の休憩場所になっていました。
そんな「一里塚」を現代に蘇らせようとつくられたのが「平成の一里塚」です。
東海道の新しい道しるべとして、また、歩行者の休憩場所として、この地に整備されました。
広重の絵にも描かれた、高麗山をバックにした東海道と花水川。
「平成の一里塚」で、東海道の歴史・文化に思いをはせてみてください。」と。
『歌川広重 東海道五十三次 平塚 縄手道』を再び。
この絵は平塚市と大磯町、江戸時代で言えば平塚宿と高麗村(高麗寺村)との境界線が
描かれています。
絵に描かれた杭型の看板(榜示杭)がその境界線。そのちょっと奥には松の木があり、
さらに石でできた道路標識があり、さらに道路が描かれている。道路標識があるくらいだから、
この道は何か重要な道であることはたしか。明治19年の地図ではその道路は描かれていないが
どうもこの道が江戸時代後期の中原街道ではないかと。
紅葉が始まった高麗山。
そして『花水川』に。
『花水橋』を渡る。
『花水橋』から花水川と大山を見る。
大磯町の汚水マンホール蓋。
美しい大磯の海岸風景に、町の花サザンカと町の木クロマツ、町の鳥カモメのカラーデザイン。
「大磯」と「おすい」の文字が。
日本橋まで(から)66Km。
『高来神社(たかく じんじゃ)』
「高来神社入口信号」を右に入った所が高来神社で、後の高麗山が御神体である。
高麗(こま)に鎮座する神社。高麗神社とも呼ばれる。
旧社格は郷社。社名は一説に朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人に由来するといわれる。
一の鳥居の前に建つ社標石の文字は、紀州徳川家第八代藩主だった徳川頼倫の麗筆という。
頼倫の実弟徳川茂承が高麗に土地を購入して別荘を建てたため、高麗山の麓の住人は
その別荘を「紀州さん」と呼んでいたという。
鳥居の神額は、明治の軍人政治家で第二次山縣内閣では文部大臣も務めたことのある
樺山資紀の筆によるものとのことだ。 
高麗山に向かって参道を歩く。
高麗山は古代から神宿る山として信仰を集めていたという。
神功皇后の三韓征伐の後、武内宿禰が奏上して、東夷静謐の為に神皇産霊神・
高麗大神和光(高麗権現)を高麗山上に遷して祀った。 それがこの神社の始まりだとされている。
江戸時代以前には高麗権現を祀る高麗寺という神仏習合の寺院があったが、明治になり
神仏分離令で寺は廃され、高麗神社と改称された。
その後、明治三十年になりさらに「高来神社」に改称されたのだと。
『関東ふれあいの道』案内道標。
関東ふれあいの道(首都圏自然歩道)は、関東地方、一都六県(東京都、埼玉県、群馬県、
栃木県、茨城県、千葉県、神奈川県)をぐるりと一周する長距離自然歩道。
高麗山に向かって高来神社の参道を歩く。
手水舎。
『本殿』。
現在の本殿はかって高麗寺の本尊だった千手観音菩薩を安置して祀っていた下宮である 。
かつては高麗山の山頂に上宮があって高麗権現社といい、右の峰に白山権現を、
左の峰に毘沙門天を勧請して「高麗三社権現」と称したと。
現在は、山頂に「高來神社上宮造營所跡」として礎石と小さな石の祠があると。
『神輿社』。
高来神社の春季大祭と言われる山神輿(やまみこし)のお祭り用の神輿を安置。
高来神社から高麗山頂に御神輿が渡御し(登り)、高麗山頂から高来神社に
御神輿が還御(下り)するお祭り。
神武天皇の時代の創建とする記録があるという。
かつては高麗山の山頂に上宮があって高麗権現社といい、右の峰に白山権現を、左の峰に
毘沙門天を勧請して「高麗三社権現」と称した。
高句麗が新羅・唐連合軍に滅ばされた時に、その王族・若光を中心に高麗人が相模国大磯に渡来し
その後若光一族を含めた各地の高麗人は武蔵国高麗郡(こまぐん)に集められ、高麗神社も
設立したという。高来神社の例大祭「御船祭」の木遣歌「権現丸」に、「高麗国守護」が渡来して
「大磯浦の守護」となったとある。

















『曽我物語』の主人公、兄の曽我十郎の恋人である虎女。
虎女は17歳で大磯の菊鶴という長者にもらいうけられ遊女になりました。
当時の遊女とは江戸時代のような零落した女性が行き着く暗いイメージではなく、
むしろ知識人であり歌舞などの技芸を厳しく躾られ、時には教養も身につけた女性たちであり、
神聖な存在として巫女の代わりをするようなこともありました。
虎女は十郎が仇討ちの本望を遂げ命を落とすまでの2年間及び63歳で生涯を閉じるまでの
晩年を大磯の地で暮らしていたのだと。













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