JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.09.28
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カテゴリ: 国内旅行
​​ ​​ーー​ ​​​​ が(その14)の散策ルート。


更に横浜市中区山手町の散策を続ける。
『フェリス女学院大学山手キャンパス』。
1870 年(明治 3 年)、アメリカ改革派教会の宣教師メアリー・ E ・キダーが、ヘボン施療所で、
女子を対象に英語の授業を開始した。これが女子校として最も古い歴史を持つフェリス女学院の
発祥とされる(のちに男子部は明治学院となる)。
1875 年(明治 8
横浜・山手 178 番に校舎・寄宿舎が落成、「フェリス・セミナリー」と名づけられ、
フェリス女学院中学校・高等学校の基となった。
その後年(昭和 22 年)に(旧制)専門学校を設置し、これを 1950 年(昭和 25 年)に
フェリス女学院短期大学に改組、 1965 年(昭和 40 年)に 4



更に『汐汲坂』を下ると左手にあったのが『山手カトリック教会』。



キリスト教カトリックの教会および聖堂。英語名は Sacred Heart
Cathedral
(聖心大聖堂)。
カトリック横浜司教区の司教座聖堂(カテドラル、大聖堂)である。
文久元年12月13日(1862年1月12日)、パリ外国宣教会が居留地80番に建てた横浜天主堂が、
開港後の日本で初めてのキリスト教会堂です。
マリア像を載せたポーチをイオニア式オーダーが支え、ペディメント等の古典様式の味付けが
なされたものでした。
見る限りは石造建築か煉瓦との混合造と思われます。
同教会は明治39年、2つの塔を持つ煉瓦造の聖堂を山手44番に建設します。
そこへ活動の拠点を移したものが、カトリック山手教会のはじまりです。



『告知板』




現在の建物は昭和8年に再建されたものです。
尖塔アーチの窓に背の高い鐘塔を持った、典型的なゴシック様式の教会建築ですが、
内部には細かな装飾が施された列柱などを備え、
この山手カトリック教会は、日本一美しい聖堂とも呼ばれています。



『山手カトリック教会』を横から見る。



そして『山手公園北側入口交差点』を左折し、緩やかな坂を下っていくと正面にあったのが
『日本庭球発祥之地』の石碑。

つくられた。1878年レディースローンテニスアンドクロッケークラブ、
現在の横浜インターナショナルテニスクラブがこの地に5面のテニスコートを建設した。
この地は日本のテニス発祥の地とされている。」 



眼下にテニスコートが。



テニスの発祥の地を記念して建てられたのが『横浜・山手 テニス発祥記念館』。
テニスウェアやラケットの変遷など、テニスの歴史を展示公開していた。



『横浜・山手 テニス発祥記念館』内部。



これが当時の女性のテニス時の服装のようだ。



テニスのラケットの変遷も。



近寄って。
昔のテニスラケット、テニスボールが展示されており、移り変わりを知ることが出来たのであった。



こちらは、人工芝のテニスコート。
土&人工芝のテニスコートが各6面づつ?あるようであった。



『旧山手68番館(公園管理センター)』に向かって進む。



『山手公園120周年記念碑』。



『日本最初の様式公園』
「横浜居住の外国人の間には山手方面に専用の遊園地を望む声があり、慶応二年(1866)に
外国公使団との間で結ばれた「横浜居留地改造及び競馬場墓地等約書」(慶応約書)によって、
その要求が幕府に認められました。しかし、この中の公園計画は具体化しないで終わりました。
明治二年(1869)に居留民代表から改めて要求が出されたのに対して、日本政府は山手妙光寺
付近の土地約六千坪を、慶応約書で約束した土地の代替地として貸与しました。
公園の造成は居留民が行い、明治三年五月六日(1870年6月4日)に開園したのが山手公園です。
明治十一年(1878)からは、居留外国人女性で組織された横浜レディズ・ローン・テニス・アンド・
クロッケー・クラブ(横浜婦女 弄鞠(ろうきゅう)社) が管理することなり、クラブハウスと
コートがここに設けられました。」



『旧山手68番館(公園管理センター)』。
1934(昭和9)年に建てられた外国人向け貸家を1986(昭和61)年に公園内に移築したもので、
現在は公園管理センターとして利用されている。



『旧山手68番館(公園管理センター)』の前の道を奥に進み東屋で一休みし水分補給。



そして東屋の更に奥の『山手公園』の南側出口の階段を降り、住宅街を進む。
そして『本牧通り』の一本北側の道を東に進むと左手にあったのが『妙香寺』。



入口には『君が代由緒地』と赤く刻まれた巨石碑が。



『浄行菩薩像』の祠。



『浄行菩薩像』。
多くのタワシが。タワシで像をきれいに洗ってやると、ご利益があるのであろう。



階段上には山門が。



『日本吹奏楽発祥の地』。
我が国の近代軍楽隊は、1869年(明治2年)、薩摩藩が軍楽隊を編成したことに始まる。
薩摩藩は薩摩藩軍楽隊30名を横浜に派遣し、当時横浜に駐留していたイギリス公使館
護衛隊歩兵大隊のジョン・ウィリアム・フェントンの指導を受けた。
その場所がここ『妙香寺』。
翌1870年(明治3年)には、フェントンによって「君が代」が作曲され、
山手公園野外音楽堂ではフェントンの指揮で演奏会が開催された。



『国家君ヶ代発祥之地』石碑。
石碑には「名勝史跡四十五佳選当選記念」とあり、昭和10年ごろに横浜貿易新報社
(神奈川新聞社の前身)が県内の名勝史跡45カ所を募集し選ばれた場所であることを示している。
君が代は外交儀礼上の必要から、薩摩琵琶歌『蓬莱山』から選ばれた歌詞に、英国歩兵隊軍楽隊長
だったイギリス人フェントンに作曲を依頼して作られ、明治3年わが国最初の陸軍観兵式に際して
明治天皇の前で初めて演奏された。しかしこの『​ 最初のバージョンの君が代 ​』👈リンクは、
メロディーが日本語になじまないため日本人には受け入れられず、10年後に現代版の
『君が代』に変更されたと。
初めて聴く『最初のバージョンの君が代』なのであった。



『本堂』
814年(弘仁5)真言宗の祖、弘法大師(空海)の創立、その後日蓮聖人の教化で
日蓮宗に改宗、東海寺から妙香寺となりました。 1923年(大正12)9月1日関東大震災、
1927年(昭和2)1月10日失火により全山焼失、 1945年(昭和20)5月19日
第二次世界大戦横浜空襲により全山焼失、現在は全山復興。
残念ながら御朱印は頂けなかった。



途中、『妙香寺交差点』を右折し本牧通りに向かうと、上野町のセブンイレブンの近く
二差路入口に、『皇紀二千六百年記念』の石碑が。



そして本牧通りの『上野町バス停』からバスに乗車し、この日の最後の訪問地である
『三渓園』に向かったのであった。

                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2019.09.28 00:00:19
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