inti-solのブログ

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2009.08.10
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テーマ: 戦争反対(1197)
カテゴリ: 戦争と平和
昨日から3夜連続でNHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言」を放送しています。昨日の第1回「開戦、海軍あって国家なし」は、大筋の話としては知っていた、あるいは想像が付く内容が多かったですが、ただ1980年から約10年以上の期間、旧海軍の佐官・将官クラスの元軍人が集まって、全部で百何十回も「海軍反省会」をやっていた、というのは知りませんでした。番組を見るまでは、敗戦の直後に海軍の後身「第二復員省」が太平洋戦争突入への経緯を検証する座談会を開いたことがあるので、そのことかと思いました。


今日の第2回は「特攻やましき沈黙」でした。たまたま 以前の日記に書いた内容 と相通じる結論でしたけれど、それはともかく、うすうす想像は付いていましたが、特攻はやっぱり第1航空艦隊司令大西滝次郎中将の発案ではなく、海軍軍令部の発案だったんですね。時系列的に見て、大西が「発案」するより前に人間魚雷「回天」とか特攻ロケット機「桜花」の開発は始まっているんだから、確かに一目瞭然です。それを、特攻教(?)の「教祖」大西が敗戦時に自決してしまい、否定する者がいなくなったのをいいことに、「大西の発案」という神話を作り上げて、戦後固定化させたということなのでしょう。

敗戦時、特攻作戦の責任をとって自殺した将官が2人います。1人は、今述べたように、公式には「特攻作戦の発案者」ということになっている大西滝次郎中将。そしてもう1人は(必ずしも特攻だけの責任をとったわけではないのかも知れませんが)敗戦時第五航空艦隊司令だった宇垣纏中将です。ただし、この2人の自殺の仕方はまったく対照的。大西は1人日本刀で自殺したけれど、宇垣は、何と彗星艦上爆撃機11機を連ねて、特攻に出撃してしまった。戦争が終わった後で、です。出撃した他の搭乗員は敗戦をまだ知らされていなかったようですが。自分一人で特攻の責任をとって命を絶つことは、それなりに意味があるかも知れませんが、戦争が終わっているのに、11機22人の搭乗員を道連れに自殺というのは正気の沙汰ではない。
その一方で、特攻作戦を発案する立場にいて、戦後はそのことについて何も語らず、航空幕僚長まで上り詰めた人物もおります。源田実です。
源田と特攻について、Wikipediaに面白いエピソードがあったので紹介しておきます。
源田は戦争末期、343空(第343海軍航空隊)の司令でしたが、この343空は最後まで特攻を行わなかった。しかし実は司令の源田は特攻をやらせようとして、飛行長の志賀淑雄少佐に断固拒否されたようです。特攻実施を迫る源田に対して、志賀が「わかりました。それでは特攻編成の最初の一番機には、私がお供をしますから、あなた自身が出撃してください」と言うと源田は顔面蒼白になり以後、二度と特攻攻撃の話を持ち出すことはなかったのだそうです。





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最終更新日  2009.08.11 00:36:55
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