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2022年06月15日
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カテゴリ: 尊徳先生の世界
二宮翁夜話巻の5

【39】伊藤発身(はつみ)曰く、
翁(をう)の疾(やまひ)重(おも)れり、
門人左右にあり、
翁曰く、
予が死近きにあるべし、予を葬るに分(ぶん)を越ゆる事勿(なか)れ、墓石(はかいし)を立つる事勿れ、碑(ひ)を立つる事勿(なか)れ、只(ただ)土を盛り上げて其(そ)の傍(かたはら)に松か杉を一本植ゑ置けば、夫(それ)にてよろし、
必ず予が言に違ふ事勿(なか)れと、
忌明(きあ)けに及んで遺言(ゆゐごん)に随(したが)ふべしと云ふあり、
又遺言(ゆゐごん)ありといへどもかゝる事は弟子の忍びざる処(ところ)なれば、分に応じて石を立つべしと言ふあり、

終(つひ)に石を建てしは、未亡人の意を賛成する者の多きに随(したが)へるなり。

【39】伊藤発身が言った。
尊徳先生の病気が重くなった。
門人が左右にあった。
尊徳先生がおっしゃった。
私の死期も近いことであろう。
私を葬むるのに分を越えてはならない。
墓石を立ててはならない、碑を立ててはならない、ただ土を盛り上げてその傍らに松か杉を一本植えて置けば、それだけでよろしい。
必ず私の遺言に違ってはならない、と。
忌が明けるに及んで遺言に随うべきだという者があり、また遺言があったとしてもこのようなことは弟子として忍びないところであるから、分に応じて墓石を立てるべきだとと言う者があり、議論がまちまちであった。
ついに墓石を建てたのは、未亡人の意志に賛成する者が多いのに随ったのである。



明治43年、新聞記者鷹野弥三郎は当時「奇人・変人」として世間で呼ばれていた俳人十湖の自伝を編集するため東奔西走していたところ、十湖が二宮尊徳の偉業をたたえるためこの神社創建にかかわったことを知った。
 鷹野によれば明治五年、十湖は福山瀧助指導により遠譲社を有志者と設立し、自らが中善地村の社長となって報徳社の教えを広めた。明治15年引佐麁玉郡長時代には引佐の農業を振興するため三遠農学社を設立、自ら主幹に就任し二宮尊徳の精神を根本にして勤勉貯蓄を図り教えを広めた。さらに報徳社を各地に設立し、いっそう二宮の功績に感動し、尊敬し、十湖としては神として祀りたいと運動をはじめたのは必然であった。そしてその運動は開花し今市、小田原の2箇所に神社が創建される結果となったというのである。

*報徳二宮神社には尊徳の墓がある。俳人にして農政家の松島十湖の句碑もある。
「明け安し 我もひと夜の 御墓守」 (十湖)





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最終更新日  2022年06月15日 01時28分51秒
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