全10件 (10件中 1-10件目)
1

今日の午後2時からザイトク(在日特権を許さない市民の会)のヘイト街宣があるという。同じ時間に月1回の脱原発日曜昼デモの集会が始まる。昨年の1月末にも日曜昼デモに重なる時間帯にザイトクの講演会があって、カウンターとデモ参加の両方をこなそうとして市内を駆け回った記憶がある。 2時から少しだけカウンターをして、それから幾分の遅刻で金デモに向かうことにした。 ザイトクの考えを典型的に示すのが「良い朝鮮人も悪い朝鮮人も殺せ」という言葉である。この言葉をプラカードに掲げてデモをするばかりではなく、そういう演説もする。 ナチスのユダヤ人ならすべて絶滅対象とする最悪の人種殲滅の考えとまったく同じである。反対するしかないではないか。 ヘイト街宣とカウンター。(2015/11/29 15:25、14:10) 仙台の街宣のメッカと呼べるのは、中央通りと東二番丁通りの交差点、平和ビル前である。時間通りに平和ビル前に行ってみたらザイトクはいない。拉致被害者を取り戻そうという署名活動のグループとYMCAの慈善活動への協力呼びかけのグループが中央通りを挟んで陣取っている。 どうしたものかと思案していたら、公安らしい3,4人が急いで東二番丁通りを渡っていくので慌てて追っかけた。平和ビルの斜め向かいにザイトク関係者と思われ15人ほどが「移民(難民)受け入れ絶対反対!」という横断幕を掲げて何か演説をしている。移民(難民)と一般化して、一見、政治スローガン風だが、彼らが反対するのは中国人や韓国(朝鮮)人であって、アメリカ人やヨーロッパ人ではない。ナチスにおけるユダヤ人のように、民族差別の矛先はいつも同じなのだ。 一方で、同じ15人ほどの人たちが思い思いにレイシズムや差別扇動街宣に反対するプラカードを挙げて対峙している。その間を割るように30人ほどの公安がガード(どちらを?)しているという構図だ。ザイトクのグループに近寄って抗議しようとする数人を公安が押し返している。 写真を撮ったり、カウンターの列に並んでいたりしたが、間の抜けたことに私はプラカードを用意していなかった。物見高い年寄りが突っ立っているという図である。勾当台公園野外音楽堂。(2015/11/29 14:27) 勾当台公園から出発。(2015/11/29 14:41、42) 20分ほどカウンターの列にいて、東二番丁通りを勾当台公園に急いだ。なんとか最後のスピーチが始まっていたところに着いた。 年明けの1月10日に中新田交流センターで開催される「海のはなし・山のはなし・旅のうた」の告知である。女川町で女川原発の廃炉を求める阿部みきこさん(女川町議)、加美町で放射性廃棄物処分場建設の反対運動を行っている伊藤由子さん(加美町議)の話とシンガーソングライターのよしだよしこさんの歌という構成で、宿泊施設でもあるセンターで語り合う夜を過ごしましょうという案内だった。 最後に、シンガーソングライターのサトロさんから太鼓などでコールのリズムの取り方の伝授があった。私はその方面はからっきしなので、何が何やらわからないのだが、コールする方としてもけっこう調子よく乗れそうなリズムではあった。 県庁前→勾当台通り→定禅寺通り。(2015/11/29 14:43、45、51) 陽が照ったり陰ったりして、じっとしていると少し寒いくらいだ。デモに歩き出すと、ほどよく調子が上がりそうな気温である。 大半の樹木はほとんど葉を振るい落としている。空気が澄み渡り、近眼の私にさえ遠く景色まで見通せるような気分がしてくる。晩秋のどんづまり、もうこの先は冬があるだけだ。日の当る一劃当らぬ一劃を分かちて寒の遠街は見ゆ 春日井建 [1]一番町に入って。 (2015/11/29 14:51、51~55)広瀬通り。 (2015/11/29 15:00)一番町の人出。 (2015/11/29 15:01) しかし、人間が人間を差別するというのは、人間に避けがたく刻み付けられた精神の病弊であろうか。ジュルジュ・アガンベンが追求してきたように歴史的には「ホモ・サケル」[2] から「ムーゼルマン」[3] に至るまで、人間が「人間ならざるもの」へと貶められた悲惨な例は少なくない。 しかし、少なくとも、ナチスのユダヤ人大虐殺に衝撃を受けたヨーロッパ社会は人種差別やヘイト言説を法的処罰対象とする人道的犯罪として政治制度化した。一方、日本ではザイトクときわめて心情的親近性の高い極右政権が成立していることもあって、彼らは野放しのままである。日本は、世界の歴史に追いついていない極東の後進国と言うしかない(少なくとも政治思想的には)。 人間が人間を差別するのは、きわめて低劣で悪質な倫理上の犯罪である。私たちが日常的に疑いをさしはさまない「人倫」というものは、歴史的・思想的には人間中心主義(ヒューマニズム)によって形成されてきた。そのヒューマニズムこそ「人間ならざるもの」を差別してきたとして、アガンベンは「人間ならざるもの」としての動物と人間の差異は何かと問う仕事もしている [4]。 アガンベンばかりではない。ジャック・デリダの死後、遺稿のように出版された『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』[5] では、アリストテレスからデカルト、カント、ハイデガー、レヴィナス、ラカンという西欧哲学・思想の主脈において人間中心主義が主体概念から排除してきた動物(たち)の問題に踏み込んでいたのだ。 なぜか私はいま、アガンベンからデリダへと、動物を差異化している人間そのものの意味を問う本に出合ってしまい、読み続けている。哲学や思想の世界では、いまや動物を差別する人間の思想にまで踏み込んで問うているのに、現在を生きる私は、在日外国人という政治的弱者を口汚くののしりつつ差別しようとする人々に抗議のために向き合わなければならない。その思想的落差に愕然としてしまう(彼らの考えを思想と呼べるならばだが)。青葉通りに曲がる。 (2015/11/29 15:09)青葉通り、東二番丁交差点へ。 (2015/11/29 15:13)青葉通り、東二番丁交差点。 (2015/11/29 15:17)陽は傾いて。 (2015/11/29 15:19) 晩秋の陽の傾きは早い。青葉通りに出ると、ビルの間から差し込む夕日を背にして進む。カメラを構える私には逆光が眩しい。 東二番丁通りを渡るとき、遠くにザイトクの街宣が続いているのが見えたので、流れ解散地点から直行した。最初、カウンターの中には一人の知り合いがいただけだったが、もう一人顔見知りが増えてきた。金デモ流れの何人かもカウンターのグループの中に立ってくれた。 カウンターのほとんどは、ザイトクのグループよりずっと若い人たちだった。これは心強い。 [1] 春日井建「歌集 水の蔵」(短歌新聞社 平成12年)p. 74。[2] ジョルジュ・アガンベン(高桑和巳訳)『ホモ・サケル――主権権力と剥き出しの生』(以文社、1995/2003)。[3] ジョルジュ・アガンベン(上村忠男、廣石正和訳)『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』(月曜社、2001年)。[4]ジョルジュ・アガンベン(岡田温司、多賀健太郎訳)『開かれ――人間と動物』(平凡社、2011年)。[5] ジャック・デリダ(マリ=ルイーズ・マレ編、鵜飼哲訳)『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(筑摩書房、2014年)。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2015.11.29
コメント(8)

四日間東京にいて、四つの美術館に行って数えきれないほどの絵を見た。その合間に、笹塚や練馬や神田の辺りを歩き回った。金曜日の夜には首相官邸前で原発再稼働の抗議の列に加わった。それで、同じ金曜の仙台の金デモは休んだ。 自宅に戻っても疲れはまったくないけれど、どこか頭の中の一ヶ所ほどがぼんやりしている感じだ。ぼんやりしているのに無性に本が読みたい。東京の本屋で見つけた「動物を追う、ゆえに私は(動物)である」という奇妙な題名のジャック・デリダの本を読み始めたのだが、いつものようにデリダの語調に慣れるのに時間がかかっている。切実に本が読みたいのに、本の中身が遠い。 何か、人生のシーン、あるいはシークェンスの切り替えどきのような気がする。舞台が変わるときの暗転する闇の中、その時間帯に落ちこんでいるような気分だ。 デモに出かける。毎週、出かけられるデモがあるというのは助かる。どんな気分のときでも、それなりに元気が出るからだ。 集会@勾当台公園。(2015/11/20 18:13、14) フリー・トーク。(2015/11/20 18:15~27) フリー・トークは、東北文化学園大学の公開講座「震災復興と原発問題」が盛況のうちに企画の半ばまで進んでいることへのお礼の挨拶から始まった。原発問題に関する講義が終わり、続いて震災復興の講義に移るので引き続き参加されるよう案内があった。 続いて、本格的な冬の到来を前に加美町・田代岳の指定廃棄物最終処分場候補地への立ち入り調査を今年は断念したことを環境省が宮城県知事に報告した話題があった。知事が環境省のリーダーシップの無さを強く批判し、地元住民の意思を無視して処分場建設を進めるかのような発言に批判が及んだ。沖縄・辺野古の基地建設の例も持ちだし、あたかも強制執行で処分場建設を進めること要望しているかのような知事の言動であった。 また、県選出の国会議員を含めた野党共闘の話し合いがあったことの報告もなされた。戦争法制、TPPとともに原発反対も野党共闘の枠組みの中で取り組んでいきたいという表明があった。 私たちは原発反対と主張して運動しているが、反対の先にある施策、代替政策についてきちんと考えておく必要があるだろうというスピーチもあった。それに関係して、電力自由化の説明会があるので参加する予定だという話もあった。原発に依存しない電力(エネルギー)への積極的な取り組みが必要とされている。 最後に、11月23日(月)12:30から仙台市情報・産業プラザ 多目的ホールで開催される「市民による女川原発の安全性を問うシンポジウム」の最終的な案内があった。デモへ出発準備。 (2015/11/20 18:32)県庁前通りで信号待ち。(2015/11/20 18:36) 定禅寺通りを渡って一番町へ。(2015/11/20 18:44~45) 勾当台公園を出て、県庁前から市役所前に出て、そこから定禅寺通りを渡って一番町に入る。その道々、ケヤキがたくさんの葉を落としている。いつのまにか晩秋、もう冬はすぐそこである。季節の早さに驚いてしまう。 そういえば、四日間も東京を歩き回りながら、秋を感じたという記憶が一切ない。東京には秋がないのか、それとも私が鈍感なのか。季節の移り変わりにこんなに無自覚で、人間という生き物をやっていけるのだろうか。 ひときわ元気なコ-ルで。(2015/11/20 18:47~48)窓をあけると十一月十一月の秋風が白く老いた秋風がふくれあがるそっと見ているわたしだこの、どこまでふくれるだろう鉛筆の芯、絶えるばかりである他者の格調を許すばかりであるいまもとめているものは久しくもとめられてきたものばかりである 荒川洋治「故事の迷蒙」部分 [1] 私たちが「いまもとめているものは」すべての原発の廃棄である。戦争法制やTPPも一緒に反対するのは、人を殺したり殺させたりしないこと、勤め人も農民も老人も若者も健康で豊かに暮らせるようにと「久しくもとめられてきたものばかり」を求め続けているだけだ。 一番町を行く。(2015/11/20 18:49~56)中央通り前。(2015/11/20 18:59) サンモール一番町の電飾の中を。 (2015/11/20 18:59~17:01) 晩秋の街は電飾に飾られているが、私たち50人のデモの列を歓迎しているわけではなさそうだ。人々に街に出てくるように、そこかしこの店で消費に励むように誘っているだけだ。格差社会、貧困大国と呼ばれるような国になって、年収200万円以下が1000万人を超えたというニュースが流れているのに、どうしたことだろうと訝かってしまう光景だ。 年金生活になって、消費とは次第に縁遠くなっている私でも本屋には行く。そこの「哲学・思想」の棚にはスピリチュアルなる本ばかりが並び、いつから子ども騙しのインチキが哲学だの思想と呼ばれるようになったのか、ここでも年寄りは消費から遠ざけられているようだ。 大通り(国道四号)を越えて。(2015/11/20 17:08) 子ども騙しのインチキで思い出したが、最近、放射能関連のインチキがネットで流れている。一つは、ある種の電解水が放射能を減らすというもので、もう一つは放射能を食べる細菌がいるという話だ。どちらも、核反応と化学反応、あるいは生化学における反応プロセスでの桁違いのエネルギー差に対する無知が生んだ幻想である。 科学者が言ってるわけでもなく「病理科学」とも呼べない程度の話なのだが、反原発の立場らしい人の中にもリツィートしたりシェアしたりする人がいる。私は「啓蒙の物理学者」だとか「教養ある物理学者」であることを自らに禁じてきたこともあって、仔細に論じたり批判したりするつもりはさらさらないのだが、放射能を心配するあまり、引っかけられる人がいないようにとは願っている。 [1] 荒川洋治「詩集 醜仮廬」『荒川洋治全詩集1971-2000』(思潮社 2001年)p.163。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2015.11.20
コメント(8)

【続き】 神田川に架かる昌平橋は、下流の万世橋とともに、山手線や京浜東北線、新幹線が南北に走るJR線と東西に走る総武線、この付近で北から西へ曲っていく中央本線に挟まれた三角形の中にある。三方を鉄路で狭く囲まれた地区というのは珍しいのではないか。Photo K1(左) 煉瓦張りの中央本線高架。(2015/11/13 13:08)Photo K2(右) ここを抜けると万世橋。(2015/11/13 13:09)Photo L1 万世橋から神田川左岸を見る。(2015/11/13 13:12)Photo L2 万世橋上から中央本線陸橋を見る。(2015/11/13 13:13) 昌平橋は渡らずに引き返し、橋のたもとで左折して神田川下流に向かう。煉瓦張りの中央線高架に沿う道には、テラス席のある店があったり、向かい合うビルも煉瓦色の壁になっていたり、それなりの雰囲気のある道である。 煉瓦色に映える小道を抜けると、神田中央通りから上野広小路に向かう道が神田川を越える万世橋である。橋のたもとには石作りの大きな灯籠(実際には街灯)がある。その灯籠と神田川、煉瓦造りの橋桁が規則的に並ぶ中央線高架、その背後の高層ビル。それぞれ年代の違う造形物の配置が妙に魅力的な風景を形作っている。写真に撮ると、広角レンズで歪んでしまった感じも悪くない(Photo L1)。 万世橋の北詰めから引き返すと、中央線の電車が高架を神田駅に向かって行くのが見えた。Photo M1 JR線下から柳森神社の柳並木を。(2015/11/13 13:16)Photo M2 柳森神社境内。(2015/11/13 13:17) 万世橋から戻り、ふたたび神田川沿いの道を下流に歩く。高いビルもないわけではないが、7、8階建てのビルが並ぶ道だ。道はすぐ、三角形の東の一辺、山手線などのJR線高架をくぐる。 高架の向こうに4、5本の柳が見える。並木というには一区画だけ、柳森神社の前だけに植えられている。「柳森」の名前に因んだものでもあろうか。 道から2メートルほど下がったところに柳森神社の境内があった。階段を降りていくと、右手に「神田八講」などと記された石碑がいくつかまとめられている。柳森神社が富士山信仰の浅間神社を分祀していたために、江戸時代に講を組んで富士山詣でをした名残の石碑が集められたものと推定されている(と書いてあった)。 その奥には、「百度石」があり、「力石群」があった。この神社には、富士講の団体やお百度参りの婦人たちに加え、力自慢の力士たちが寄り合う、そんな賑わっていた時代の息吹がする。Photo N1(左) 東松下町に入る交差点。(2015/11/13 13:23)Photo N2(右) 首都高速1号沿いの歩道を行く。(2015/11/13 13:26)Photo O1(左) 水天宮通り。(2015/11/13 13:30)Photo O2(右) お玉稲荷大明神。(2015/11/13 13:32) 柳森神社の前の信号を渡って、細い道に入る。神田岩本町の道だ。まっすぐ靖国通りを突っ切って東松下町の町内に入る。信号のある十字路を一つ過ぎてから左折すると、目の前は首都高速1号の高架である。 首都高の下の広い道を何通りというのか知らないが、その歩道を少し南に下って神田平成通りで首都高をくぐって水天宮通りに出た。この道のそばにあるお玉稲荷神社に行ってみたいと思っていたのである。 この辺りにお玉が池という大きな池があったのだという。神田お玉が池といえば北辰一刀流、千葉周作である。彼の道場「玄武館」はお玉が池にあった。千葉周作は宮城県の出身で、幼少時には私の生まれ故郷に近い大崎市古川に住んでいたと聞いた。チャンバラ好きの幼年期のヒーローである。世間の人は、フィクションながら、赤銅鈴の助の師匠ということで知っているのかもしれないが……。Photo P 「紺屋町」交差点と首都高速1号。(2015/11/13 13:38)Photo Q1(左) 紺屋町、北乗物町と続く道。(2015/11/13 13:40)Photo Q2(右) 大きなデュランタの木。(2015/11/13 13:41) お玉稲荷を出てふたたび水天宮通りを南へ下り、神田金物通りに右折する。地図を見ていると、靖国通りや外堀通りなどを除けば、みな「神田◇◇通り」と命名されているようだ。間違いようがなくて良いことだが、書くときには多少煩瑣である。 金物通りは紺谷町交差点で首都高速1号の下を通る。まっすぐな広い道を避けて、首都高を過ぎてすぐに右の道に入る。こちらも狭い道だが会社ビルが並ぶ変化がない道だ、などと思いながらいくと、木造民家にへばりつくような形で緑葉をびっしりつけた木が一階の軒を越えて延びている。デュランタの木で、枝先に小さな紫の花もついている。 デュランタの鉢植えはわが家にもあるが、南アフリカ原産の熱帯花木という触れ込みだったので、部屋の中で大事に育てていて、ずっと小さな鉢植えのままである。東京の屋外で十分に成長する程度には寒さに強いということだ。 ただ、東京の屋外で立派に育っているのを見て、仙台でも大丈夫だろうとランタナとルリマツリとシェフレラを屋外で冬越しさせて、結局は枯らしてしまった。東京の街歩きの弊害はこんなところにあった。デュランタは今年も室内で冬を越すのである。Photo Q3(左) 東紺屋町から駅方向へ。(2015/11/13 13:43)Photo Q4(右) 賑わい出す道。(2015/11/13 13:45)Photo R1(左) 北へ右折。(2015/11/13 13:46)Photo R2(右) JR線沿いの道(東口)。(2015/11/13 13:46) 横道に入ったもののあまり特徴のない街並みが続く。そろそろ神田駅へ戻ってもいい時間に近づいたので適当に左折する。似たような会社ビルの通りのずっと向こうに色とりどりの看板が見え出した。JR線に近づくほど人の姿が増え、看板も増えていく。 JR線に突き当たる直前の十字路を右折する。この辺りはもう賑やかな商店街である。JR線に沿って歩くのだが、こちらも西口と同じようにガード下に店が並ぶ賑やかな通りである。Photo R3 中央通り、上白壁橋通りの交差点。(2015/11/13 13:48)Photo S1(左) 西口北部のJR線沿い。(2015/11/13 13:50)Photo S2(右) 西口北部から続く商店街。(2015/11/13 13:50) JR神田駅の下で中央通りと上白壁橋通りの交差点がある。その交差点を過ぎてそれぞれの通りはそれぞれにJR線の下をくぐっていく。左の上白壁橋通りに入ると、その通りに沿ってガード下の店が数軒並んでいた。神田駅近くのガード下の空間利用率は100%に近いようだ。 上白壁橋通りのガード下を出ると神田駅北口近くに出る。そこから北の道も人通りの多い商店街になっていたが、ここで今日の街歩きの終点とした。 神田の街歩きを逡巡していたが、実際には変化のある楽しい散歩になった。鉄道というのは近代の象徴で新しい産業構築物と思っていたが、総武線や中央本線の高架の佇まいは明らかに古き(良き)神田の象徴のように思えた。江戸や明治というより、近代と現代のミクスチャーそのものである。 街歩きMap。A~Sは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2015.11.13
コメント(0)

5年前に出光美術館を始点として、お茶の水から市ヶ谷まで歩いたことがあった。そのとき、外堀通りから神田駅西口商店街に少し入って昼食を取った記憶がある。私にとって、それだけが神田経験である。 新幹線や山手線の電車から、中規模のビルがびっしりと林立している神田駅周辺の街並みを眺めていると、なかなか街歩きの候補地にはならない。それでも、古い神田が残っているというテレビや雑誌の情報に誘われて、ようやく神田駅に降り立ったのである。もちろん、初めての神田駅だ。Photo A1 JR神田駅西口。(2015/11/13 12:18)Photo A2 西口駅前。(2015/11/13 12:18) 高架(ガード)下の駅を出て、駅を振り返ることができるところで、カメラやGPSトラック記録装置(ガーミン製)などをザックから取り出して準備をする。 狭い道の脇でおたおた荷物をいじっている脇を大勢の人が通り過ぎる。昼食時なので、勤め人が街にどっと繰り出してきたという雰囲気で、街並みの写真を撮るタイミングが難しい。 JR線の高架に沿って南に進む。右には普通の商店や食堂、ガード下にも店や飲食店が並び、上の電車を気にしなければ、飲食店が多めの普通の賑やかな駅前商店街である。いくぶん雑然とした感じに、どこか気分が落ち着くというか、しっくり馴染めるのはどうしたことだろう。Photo B1 「竜閑橋」交差点。(2015/11/13 12:23)Photo B2 鎌倉橋。(2015/11/13 12:27) 高架沿いの道から斜めに分岐する広い道へ入るとさらに広い道との三叉路にでる。竜閑橋交差点である。三叉路から内堀通りまで出て、日本橋川に架かる鎌倉橋を見に行く。日本橋川を覆うように首都高速が走り、その高架は工事中だった。Photo C1(左) 外堀通りから右折した道。(2015/11/13 12:30)Photo C2(右) 出世不動尊。(2015/11/13 12:31)Photo C3(左) 神田西口商店街が見えてくる。(2015/11/13 12:34)Photo C4(右) 神田西口商店街の通り。(2015/11/13 12:35) 鎌倉橋の写真を1枚撮って、外堀通りを北に歩く。鎌倉橋交差点の次の信号を右折する。中規模の会社ビルが並ぶ道だが、右手に「出世不動尊」と看板が掲げられた朱塗りのお堂がある。幅1.5mほどの短い参道の奥に縦に長いお堂が鎮座していた。このお不動さんに願を掛けた相撲取りが出世したという謂われがあるそうだ。 そのまま進むと、JR線横の道に出てしまうので、外堀通りから2ブロック過ぎの十字路を左折する。その道は、すぐ神田西口商店街と交差する。西口商店街はまだ昼食時の混雑が続いている。 商店街を外堀通り方向へ歩いて行くと、五年前に昼食をとった蕎麦屋を見つけた。東京の蕎麦のレベルの平均値がかなり高いと実感した店の一つである。Photo D 外堀通り。(2015/11/13 12:39)Photo E1(左) 神田警察署通り。(2015/11/13 12:42)Photo E2(右) 多町通りの角で。(2015/11/13 12:44)Photo E3(左) 多町通りから中央通りへ。(2015/11/13 12:46)Photo E4(右) 中央通り、「須田町一丁目」交差点。(2015/11/13 12:49) 西口商店街通りを抜けていったん外堀通りに出て、司町交差点から警察署通りをふたたび駅方向に戻る。この通りも中規模の会社ビルの並ぶ散歩には不向きの道だが、多町通りに折れて次の交差点の角には、昭和初期を思わせる店構えの二階家があった。青果店の看板があるが、店仕舞いをしたようだ。 旧青果店の角を右折すると、地図付きの案内看板があった。寛永年間以前にできた江戸の町を「江戸古町」といい、かつて田町と呼ばれた現在の多町も神田22古町の一つだという。 中央通りまで出ると、その角にもアーチ型の窓が並ぶ趣きのある三階建てがあった。一階には日本料理や鰻料理の店舗になっている。 Photo F 「須田町」交差点。(2015/11/13 12:50)Photo G1(上) 多町と須田町境の道。(2015/11/13 12:52)Photo G2(下) ミルクホールのある角。(2015/11/13 12:53) 中央通りが靖国通りと交差するところは須田町交差点で、変則的な五叉路になっている。中央通りから左斜めに上野広小路方面への道が分岐するためである。 須田町交差点に出る少し手前で、左の道に入る。須田町一丁目と多町二丁目の境になっている通りである。会社ビルも混じるが、商店が多い通りで、所々に年代を重ねた木造家屋が現われる道だ。 多町通りに出る一つ手前の十字路の角に「ミルクホール」という白い暖簾の店があった。看板には「軽食・喫茶」とある木造二階家である。私が学生のころ(半世紀も前だが)、仙台にも「ミルクホール」という当時としては小洒落た店があったが、かなり早い時期になくなったようだ。Photo H 靖国通り「淡路町」交差点方向。(2015/11/13 12:55)Photo I 外堀通りとWATERRAS。(2015/11/13 12:59)Photo J1 外堀通り(中央本線陸橋)。(2015/11/13 13:01) 多町通りに出て右折して、靖国通りを歩道橋で越えた。ビル街の裏道のような道を通って外堀通りに出ると、目の前に巨大な建物が現われた。私の地図には「お茶の水プロジェクト(計画中)」としかない。帰宅してネットで調べたら、「WATERRAS(ワテラス)」というマンションやショップなどの複合施設ということだった。Photo J2 昌平橋から神田川下流。(2015/11/13 13:03)Photo J3 昌平橋と総武線と中央本線。(2015/11/13 13:04) ワテラスを横目に外堀通りを昌平橋に行く。神田川に架かる昌平橋の欄干に5、6羽のカモメ(ユリカモメ?)が羽を休めている。欄干とカモメと神田川の流れというショットを撮りたくて立ち位置を探しているうちに、橋向こうから渡ってきた人が欄干沿いを歩いてカモメは1羽もいなくなっていた(Photo J2)。 昌平橋の上流の眺めは、どこかで見たような懐かしい雰囲気があった。総武線と中央線が寄り添っていく珍しい構図で、松本俊介がたくさん描いた《Y市の橋》という絵を思い出した。実際はちっとも似ていないのだが、総武線や中央本線の鉄骨構造が、松本俊介が描く鉄骨の枠組みを連想させるのだ。 「Y市の橋」というのは横浜駅近くの新田間川に架かる月見橋ということだが、横浜大空襲で破壊される前後の橋を描いているので、鉄骨そのものの印象が強いのである。街歩きMap。A~Sは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。【続く】 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2015.11.13
コメント(4)

1昨年だったか昨年だったか、記憶は定かではないが、「国会議事堂前」で地下鉄を降りたつもりが、国会議事堂の裏手、たぶん衆議院議員会館近くの地上に出て、国会正門前までだいぶ歩いた記憶がある。 この夏に二度、安保法案反対で国会正門前に行ったが、「霞ヶ関」で地上に出て坂道を上るコースでなんなく辿りついたので、今日も安全を図って「霞ヶ関」で降りたのだが、夜の桜田通りで方角を失った。Google mapを開いて、何歩か歩いて、位置と方角を確かめた。 何度も方向を変えて地上に出ると、たいてい方角を失う。昼であればどうにかなるように思うが、周囲にネオン広告も看板もない同じようなビルが並ぶ夜間の官公庁街では四方が全く同じに見えるのだ。年に4、5回、やって来るだけではどうにもならない。アーバン・ライフなどどこの世界の話だろう。 官邸前の最前線。 (2015/11/13 18:33) 第1、第2のグループ。 (2015/11/13 18:34~44) 前回(5月22日)の官邸前抗議には大幅に遅刻したのだが、今日は何とか間に合った。まずは、コールをしている先頭までいって、そこから写真を撮りながら下って来た。 最後列まで下ってから引き返し、二番目のグループの後方に入ってコールに加わった。このグループの先頭近くでカメラを構えている目良誠二郎さんを見かけたので、列を抜け出して挨拶をした。 そこには何度かお会いした顔が並んでいた。挨拶をする間もなく、むとうちずるさんに「No 9 NO WAR」と「NO NUKES FRAGILE TAG」のステッカーを頂いた。前回の時は、「No 9 NO WAR」タグを頂いたし、ずっと前には「NO NUKES FRAGILE TAG」タグを頂いた。お会いするたびに何か頂き物がある。NNML TAG Projectというグループで、どんどん新しいアイテムを創り出しているのである。 頂いたステッカーをまずカメラに貼り付けた。私にとってカメラは必須のデモ・アイテムなのである。スマホにも貼ったが、これはデモ・アイテムとは言い難い。 自転車で周回抗議。 (2015/11/13 19:11、54) このグループに混じって。 (2015/11/13 19:16) 第2グループの先頭に入らせてもらって、抗議のコールに参加した。首相官邸に向けてのコールなので、とても直截で感情が乗りやすい。それでも30分も過ぎると喉が痛くなる。 仙台で毎週の脱原発デモに参加しているといっても、コールで声を上げるデモの時間は30分くらいである。しかも、私は写真を撮るのにその半分ほどの時間はデモの周囲をうろうろしているだけだ。 途中でスピーチが入るとはいっても、さらに1時間のコールが続くのかと多少不安になったが、とても元気にコールしているまわりに合わせていると、あっという間に時間が過ぎていく。 (上)官邸を囲むビル群 。(2015/11/13 19:49)(下)田渕俊夫《刻》1989年、紙本着彩145.5×112.5cm、名古屋市蔵 [1]。 コールの合間に首相官邸方向の写真を撮っていたとき、官邸の背後のビル群の風景に見覚えがあるような気分がした。そうだ。これは田渕俊夫の絵だ。渋谷の松濤美術館で見た田淵俊夫の日本画の中に、ビル街の絵があってとても印象的だった。その絵を思い出したのだ。反原発ソング合唱団。(2015/11/13 18:27) ぴったり20:00に抗議行動は終わった。みなさんに挨拶をして引き上げる。途中に地下鉄入口があるが、私はきたときに降りた「霞ヶ関」へと歩くのである。地下のラビリンスは避けて、距離があっても来た道を辿るのが私には安全なのだ。 抗議の列からずっと離れたところで反原発ソングを歌っているグループがいた。18:30前から歌っていて、20:00を過ぎても帰り足の人たちに歌いかけている。 さて、今度はいつになるだろうか。来年3月に東京に出る予定があるが、その前に一度くらいチャンスはあるかもしれない。官邸前では、少しばかり気持ちがしゃきっと入り直すような気持ちがする。 [1] 『いのちの煌めき 田渕俊夫展』(図録)(中日新聞社、2012年)p. 79。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2015.11.13
コメント(8)

【続き】Photo G1(左) 豊島園通り(1)。(2015/11/12 12:07)Photo G2(右) 豊島園通り(2)。(2015/11/12 12:09)Photo H(左) 豊島園裏手へ。(2015/11/12 12:14)Photo I1(右) ふたたび豊島園通り。(2015/11/12 12:17)Photo I2 豊島園通り、中の橋(石神井川)。(2015/11/12 12:20) 豊島園通りに出ると、街灯に掛けられた表示は「春日町本通り」とある。これが商店街の名前であろう。マンションやアパート、事務所ビルの間に商店が点在している。 わずかに左に湾曲する道は、二つ目の信号の向こうで大きく右に曲っている。そのカーブの手前で右の横道に入り、豊島園の裏に突き当たったところで左に折れる。その道は、直角に曲ってきた豊島園通りに出る。緩やかな坂になっている豊島園通りを下って行くと、また石神井川である。中の橋で石神井川を越えると次は緩やかな上り道になる。Photo J1(左) 練馬二丁目の住宅地。(2015/11/12 12:23)Photo J2(右) 階段道。(2015/11/12 12:25)Photo J3 向こうに坂道十字路。(2015/11/12 12:27)Photo K1(左) 開進第二中横の道(1)。(2015/11/12 12:28)Photo K2(右) 開進第二中横の道(2)。(2015/11/12 12:28) この豊島園通りをまっすぐ南に進むと練馬駅のやや西に出てしまうし、まっすぐな広い道は退屈なことが多いので、西に向かう住宅地の坂道に入った。坂を上りきった先は階段道である。 コンクリート階段を下りた道の向こうに坂道が交差する十字路が見える。そこまで歩いて右折する。開進第二中学校の横を通る道である。Photo L1(左) 練馬二丁目こだま公園の道。(2015/11/12 12:31)Photo L2(右) マユミの実。(2015/11/12 12:32) 開進第二中横の道の右手の木々の間にいくつかのアパートの建物が現われた。都営練馬二丁目第二アパートと表示されている。そのアパートの建物と建物の間から道と平行に走る遊歩道らしいものが見える。 アパートの敷地を抜けて遊歩道に入ると、木々が立ち並ぶ快適な散歩道である。これは後で知ったことだが、この緑地は「練馬二丁目こだま公園」となっている。 道にかぶさるようにマユミの木が赤い実を下げている。道の右手は3mほどの高さのコンクリート土留めがあり、その上のブロック塀から墓石の並びが見えている。地図を見ると、このこだま公園と豊島園通りの間には十ほどの寺院が並んでいるのだった。Photo M1(左) 右手の坂を上がる。(2015/11/12 12:35)Photo M2(右) 榎の大樹のある民家。(2015/11/12 12:35) 練馬二丁目こだま公園を抜けると十字路である。左方向が練馬駅に近いのだが、右の道が上り坂になっていたので思わず坂を上りはじめてしまった。坂は散歩道にふさわしいのだ。 坂を上りきったところにたくさんの樹木に囲まれた民家があった。その中にひときわ大きな樹木があって、その苔むした幹に「えのき にれ科」の表示板が括り付けられていた。練馬区の保存樹木になっている。Photo N1(左) 下り坂の道。(2015/11/12 12:36)Photo N2(右) 大欅と練馬白山神社。(2015/11/12 12:39) 榎屋敷を過ぎて左に曲り、坂道を下っていくと神社の横に出る。練馬宿の氏神と由緒書きにある練馬白山神社である。 神社に登る階段の前にケヤキの大木があった。横に「練馬白山神社の大ケヤキ」という看板があって、このケヤキは源義家が奥州征伐への途次で植えたものと伝えられていて、実際に樹齢は700~800年と推定されていると書いてあった。国指定天然記念物である。Photo O1(左) 白山神社前の道。(2015/11/12 12:40)Photo O2(右) 横道の坂を上がる。(2015/11/12 12:41)Photo P 練馬文化センター。(2015/11/12 12:45) 白山神社の前を東西に走る道を東にとり、最初の角を右に曲ってすぐ住宅地の狭い坂道に入った。道なりに左に曲っていくと、ぱっと広い道に出て、向かいには練馬文化センターの建物がある。文化センターの広い庭に見えたのは「平成つつじ公園」である(そういうプレートが見えた)。Photo Q 練馬駅西の架道橋。(2015/11/12 12:45)Photo R1 千川通り。(2015/11/12 12:48)Photo R2 西武池袋線練馬駅。(2015/11/12 12:51) 練馬文化センター前の道をまっすぐ南に進めば、道は西部新宿線の架道橋を潜って千川通りの賑やかな道に出る。 千川通りを左に折れて練馬駅の前に出れば、今日の街歩きは終了である。カメラをザックに仕舞いこみ、昼食とする。 ちなみに、近くの中華料理屋さんで頼んだのは、五目湯麺だった。「麺が太いのでちょっと時間がかかりますが」と店員さんが断ったのも当然で、いままで経験したことのない麺の太さで驚いてしまった。その麺が大ぶりに斬った野菜や焼き豚とよく合ってとてもおいしいのだ(もちろん、スープも)。細麺のラーメンが好きなのだが、ここまで太いとまったく違った食べ物に思えるのだった。街歩きMap。A~Rは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2015.11.12
コメント(4)

シスレー展を開催している練馬区立美術館は西武新宿線中村橋駅のすぐそばにある。シスレー展を見てからの街歩きで、豊島園の北側をぐるっと廻って隣の練馬駅まで歩くと手頃な道のりになりそうだ。Photo A0 練馬区立美術館。(2015/11/12 11:25)Photo A1(左) 西武池袋線中村橋駅方向。(2015/11/12 11:27)Photo A2(右) 商店街に斜めに入る道。(2015/11/12 11:27)Photo B1(左) サンツ中村橋商店街(駅方向)。(2015/11/12 11:29)Photo B2(右) サンツ中村橋商店街(中杉通り)。(2015/11/12 11:29) 美術館から西武新宿線の高架沿いの道に出て中村橋駅方向に歩くと、その道から斜めに分岐する商店街が見える。その道に入ると「サンツ中村橋」と記されたフラッグが街灯から吊り下げられている。そういう名前の商店街らしい。 道は駅から北に向かって延びる商店街に突き当たる。ここもサンツ中村橋商店街らしい。道の南は西部新宿線の高架の下を南にまっすぐ延びていて、北もずっと商店街が続いている。地図によれば、この商店街の道は中杉通りである。商店街の道を北に向かってを歩き出す。ときどき車も通る通りだが、自転車と歩行者で賑わっている。Photo B3 目白通りを渡る。(2015/11/12 11:37)Photo C1 変則4差路。(2015/11/12 11:37)Photo C2(左) 須賀神社。(2015/11/12 11:39)Photo C3(右) 御嶽神社。(2015/11/12 11:42)Photo C4(左) 遊歩道入口。(2015/11/12 11:43)Photo C5(右) 遊歩道。(2015/11/12 11:43) 商店街を500mほど歩くと、広い道に交差する。目白通りである。目白通りを横切って続く道に入るとすぐ、変則的な十字路がある。地図の神社記号を目指して左の道に曲る。 右手に15段ほどの石の階段があって、その上に鳥居と小さな祠があった。須賀神社とある。鳥居と祠しか見えないので、登らずに通り過ぎた。 道はそのまま目白通りに出てしまうが、すぐに横道に入る。その先にも神社記号を見つけていたのだ。御嶽神社という。 その神社は、フェンスで囲まれた敷地の北奥に朱塗りの鳥居と黒塗りの鳥居を前にして二つの祠が並んでいる。神社の前の空き地は雑草が繁茂していて、人が入った形跡はないし、見渡しても入り口が見えない。まえの須賀神社には参拝する人間の匂いがしたが、この御嶽神社にはどうしたわけか人の気配がしない。 御嶽神社を過ぎると、道は車が入れない歩行者専用道に繋がっている。20mちょっとの遊歩道を抜けて一般道に出る。Photo D1(左) 向山の住宅地(1)。(2015/11/12 11:48)Photo D2(右) 人家裏の歩道。(2015/11/12 11:50)Photo D3(左) 向山の住宅地(2)。(2015/11/12 11:51)Photo D4(右) 石神井川への道。(2015/11/12 11:53)Photo E 石神井川と田中橋。(2015/11/12 11:55) 短い遊歩道の終わりに信号の交差点があって、そこを渡って右手の住宅地に入った。地番は向山である。その道の先にも車止めのある歩道がある。住宅の裏と広い駐車場のフェンスに挟まれた狭い歩道は、二つの駐車場に挟まれた道を通って車道に出るようになっていた。 道なりに歩いていくと丁字路にでる。どの道も車がかろうじてすれ違えるほどの狭い道だが、左の道はまっすぐ石神井川に向かっている。その道を辿り、田中橋で石神井川を越える。 石神井公園は中村橋から3駅ほど西にある。その辺を歩けばよかったかな、とちらっと頭を掠めた思いを、いずれ歩く機会もあるだろうと考えて振り切った。Photo F1(左) 豊島園裏手の道(1)。(2015/11/12 11:56)Photo F2(右) 豊島園裏手の道(2)。(2015/11/12 11:59)Photo F3 春日神社。(2015/11/12 12:04) 石神井川を渡って右の道をとれば、豊島園の裏へ向かうことになる。まっすぐな道で、横に逸れてしまいたいという気分になるが、道の先に緑が見えるのでとにかくそこまで行くことにした。 その緑は、豊島園のものばかりではなく、道向かいの春日神社の木々でもあった。春日神社は境内の広い神社で、その名が示すように藤原鎌足の末裔の創建だと由緒書きにあった。春日神社だから当然だが、祭神筆頭は藤原(中臣)氏の祖とされる春日権現(天児屋根命)である。 春日神社の脇道を通って、神社裏を走る豊島園通りに向かう。街歩きMap。A~Rは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。【続く】 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2015.11.12
コメント(4)

【続き】Photo H1 玉川上水(笹塚橋から)。(2015/11/11 13:17)Photo H2(左) 笹塚観音通り入口(笹塚橋から)。(2015/11/11 13:16)Photo H3(右) 笹塚観音通り。(2015/11/11 13:17) 北沢五丁目商店街の突き当たりを右に曲れば、玉川上水に架かる笹塚橋である。使命を終えた玉川上水は、もう小さな掘割りである。 いつだったかずっと若い頃、玉川上水の水辺に屈みこんでいる太宰治の写真を見たことがあるが、太宰の前を流れる上水の狭さに驚いて、「こんなところでは死ねないなあ」と思った記憶があるので、現在の玉川上水はこんなものだろうと素直に受け取ることができる。 笹塚橋の向こう「観音通り」の看板を掲げたアーチがみえる。笹塚観音通りはすぐ右に折れるが、その後は京王線笹塚駅に向かってまっすぐ伸びている。 観音通りというからには近くに観音を祀った寺院かお堂があるはずだが、地図には何の記載もない。商店街をなにごともなく通り抜けてしまった。商店街の一角に観音様を祀っているらしい(これは帰宅してからのネット情報)のだが、見つけられなかった。 あらかじめ下調べをすれば見逃すことはないのだろうが、知らない街を歩くという楽しさは半減してしまう。地図だけは眺めるのでまったく下調べをしないわけではないが、それくらいで止めておくというのは、私のちょっとした決まりである。Photo H4 京王線笹塚駅。(2015/11/11 13:27)Photo I1(左) 甲州街道の向こうは十号通り。(2015/11/11 13:29)Photo I2(右) 十号通りの中のマーケット。(2015/11/11 13:31)Photo I3(左) 十号通り。(2015/11/11 13:32)Photo I4(右) 十号坂商店街。(2015/11/11 13:34) 道は京王線の高架下を抜けて甲州街道に交差する。私にとって「甲州街道」は甲府勤番の侍や渡世人が行き来する時代劇の世界だが、目の前の甲州街道はその上を首都高速4号新宿線が走っている。私の東京は、いつも小説や映画やテレビドラマで形づくられているのだ。 甲州街道の向こうは「十号通り商店街」である。狭い商店街の上に張られたロープから吊り下げられている紅葉葉飾りで遠目にはまっ赤に色づいている。賑わっている商店街に入ると、右手に飲食店や総菜屋さんが並ぶ「マーケット」があった。仙台でも空襲で焼け落ちた街に真っ先に復興した商店街にこのような形式の店舗がある。何と呼ぶのか知らないが、なんとなく「マーケット」という言葉が思い浮かんだ。 道は途中でクランク状に折れて続いているが、その先も同じように賑わっている。 商店街は広い道(水道道路というらしい)と交差する。道の先には「十号坂」というアーチ看板があって、やはり商店街が続いている。十号坂商店街の文字通りの坂道を下っていくと、さすがに人通りは少なくなり、商店街は終わる。Photo J1(左) 十号坂から左に折れて。(2015/11/11 13:38)Photo J2(右) ふたたび笹塚駅方向へ坂を上る。(2015/11/11 13:41) そろそろ時間的にも肉体的にも街歩きの終わりを考えて歩く時間である。10号坂商店街が終わってすぐ左に曲って、少し歩いてまた左に曲り、笹塚駅方向に向かうことにした。 道の先には、10号坂を下って来た高さ分に相当する上り坂が見える。Photo K 水道道路に沿って並ぶアパート群。(2015/11/11 13:44)Photo L1(左) 水道道路から甲州街道へ。(2015/11/11 13:47)Photo L2(右) 御嶽神社。(2015/11/11 13:49) 坂道を上りきると、さっき十号通りから横断した水道道路に出る。右手に曲ると道に平行に同じようなアパートが並んでいる。建物に大きな文字で番号が振ってある。公的な集合住宅によくある形式だが、左に折れて建物の横を抜けたとき「東京都住宅供給公社笹塚二丁目アパート」という文字を見つけた。 住宅公社アパートの横を通り、一度クランク状に曲って甲州街道に出る手前に小さな神社があった。「御嶽神社」である。 今日の街歩きで初めての神社仏閣なので、由緒書きのようなものを探したが何もない。御嶽神社があったとしか書きようがないが、御嶽神社は「みたけ神社」という蔵王権現を祀る系統と「おんたけ神社」という木曽御嶽山の山岳信仰に由来する系統があるらしいのだが、この神社がどちらかはもちろん分からない。Photo M 甲州街道と首都高4号新宿線。(2015/11/11 13:50)Photo N1(左) 甲州街道に沿う歩道。(2015/11/11 13:52)Photo N2(右) 京王線高架横の商店街。(2015/11/11 13:53) 甲州街道に出ると歩道橋があった。その歩道橋を渡り、ひとつ奥の道に入れば京王線笹塚駅である。高速の高架と平行して並ぶ商店とか、鉄道高架横の細道に並ぶ商店街とかは、田舎で暮らす人間にはけっこう珍しいのであった。 そんな路を写真に撮り、少し歩いて街歩き終了である。街歩きMap。A~Nは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2015.11.11
コメント(2)

京王井の頭線「下北沢」駅北口を出ると、狭い道が直角に折れている角地である。駅前広場のないことに奇妙な違和感があるけれど、これは古い国鉄時代の駅のイメージに過ぎない。東北本線の田舎の駅を見ながら育った人間には、都会の私鉄駅の雰囲気は何回見ても珍しいのだ。Photo A1 「しもきた駅前通り」へ。(2015/11/11 12:13) ザックからカメラを出し、ガーミンのGPSのスィッチを入れている間、たすきを斜めに掛けた数人のグループが「家庭を大事にしましょう」などという当たり前のことをさも重要そうに呼びかけている声を背に聞いていた。「家庭を大事にしましょう。◇◇を大事にしましょう。そして、▼▼を大事にしましょう」などという「大事」の連鎖の胡散臭さを背に「しもきた駅前通り」に入って行く。Photo A2(左) 「しもきた駅前通り」。(2015/11/11 12:14)Photo A3(右) 「しもきたおちゃめ通り」。(2015/11/11 12:15) 「下北沢駅前商店会」という立派なプレートのある駅前通りは狭いが賑やかな通りだ。左に折れると少し静かな雰囲気になる。じつは、通りの名前は自宅に帰ってからネットで調べたのだが、この道は「しもきたおちゃめ通り」というのである。 歩いていてこの通り名を見かけない。うっかりして見落とすこともとても多くて困るのだが、それでも街歩きを始めてから通りの名前を気にするようになった。細く狭い道にも名前が付いていたらいいと思うのだが、まったくそんなことはない。 ヨーロッパの古い都市には路地にまで名前が付いていて標識もたいていは完備しているが、何百年も同じ建物が並んでいるから可能なことで、あっという間に変容を遂げる日本の街では難しいだろう。Photo A4(左) 「しもきた百花通り」。(2015/11/11 12:16)Photo A5(右) 坂を下る。(2015/11/11 12:18) 「しもきたおちゃめ通り」を右に曲ると、「しもきた百花通り」である。そういえば、下北沢という地名で喚起されるイメージは、私にとってはなにかしら文化的な街ということだが、ネットや雑誌でそんな風に思っていた。もう少し大げさに言えば、サブカルチャー、時としてカウンターカルチャーの街のようなイメージである。 賑わう駅前通りには小洒落た店構えもあったが、全体としては普通に駅前の商店街の印象である。文化というのは、見た目には見えにくいだろうし、エリアが違うのかもしれない。駅の南を歩いてみないことにはなんとも言えないが、いずれにしても、私の街歩きは街の探索ではなく、通り抜けて「歩くこと」に重点があるので、肝心なスポットをはずすことが圧倒的に多いのである。 所々に店のあるこの道のどこまでが百花通りなのか判然としないが、道の先は下り坂になっていて、斜めに道が交差する変則的な十字路になっている。Photo B1(左) 「下北沢一番街」。(2015/11/11 12:19)Photo B2(右) 子どもの絵がフラッグに。(2015/1/29 12:20) 坂を下ると交差する道の左手に「一番街」のアーチ(鳥居かと思った)がある。街灯にフラッグが吊り下げられているが、どうも広告とは違う。黒シバの絵に「渡邊ウメ」と大書してあり、下に小さく「渡邊匠」とある。どう見ても匠くんが愛犬ウメちゃんを描いた絵である。 商店街を歩いているとアナウンスが聞こえてきて、小学生が描いた絵をプリントして掲げているとのことだった。同じ広告フラッグが並んでいる光景よりはるかに良い。なによりペットの絵が多いのが良い、などと一つ一つ眺めているうちに一番街は終わってしまった。Photo C1(左) 「北沢かしのき公園」横を。(2015/11/11 12:25)Photo C2(右) ホトトギスと小菊。(2015/11/11 12:28)Photo C3 「くすのき広場公園」前を。(2015/11/11 12:29)Photo C4(左) 続く住宅地。(2015/11/11 12:31)Photo C5(右) クランク状の道。(2015/11/11 12:34) 一番街を出て、右、右とまがって住宅街を抜けて東に向かう。地図の中に南東から北西にうねりながら湾曲する道を見つけたのでそこに向かうのである。静かな住宅地の道で、所々の角地に小さな公園がある。たいていは三角広場だとかちびっこ広場だとか呼ばれていそうなのに、ここではきちんと公園名が表示されている。「北沢かしのき公園」の横で西に曲り、「くすのき広場公園」前の変則十字路を抜けた。Photo D1(左) 遊歩道らしき道。(2015/11/11 12:35)Photo D2(右) 住宅地内へ。(2015/11/11 12:38)Photo D3(左) 車も通る道へ。(2015/11/11 12:40)Photo D4(右) アメリカハナミズキ。(2015/11/11 12:42) 地図で見つけた道は、住宅裏の遊歩道のような道で、途中から両側とも住宅になったがどの家も玄関は反対側にあるようで、右も左も家の裏側に挟まれた小道なのだった。この道の左右に並んで走る道があって、右の家並みは東向きの玄関、左の家並みは西向きの玄関ということらしい。 途中で道は合流して、玄関前を通る普通の住宅地の道になった。1軒の家の塀からアメリカハナミズキの紅葉が枝を差し出している。たった1本の小さな紅葉樹が住宅地の中で目を惹いている。Photo E1(上) 「育成幼稚園」脇の道。(2015/11/11 12:43)Photo E2(下) 左の坂道へ。(2015/11/11 12:45)Photo E3 井の頭通りに出る。(2015/11/11 12:47) 同じような道が続いてそのまま井の頭通りに出るようなので、途中で左の道にはいると幼稚園がある。幼稚園の横を右に折れ、そのまま進むと元の道に戻るので、さらに左に曲るとやや広い道に出る。右に井の頭通りとの交差点が見えている道だ。Photo F 井の頭通りの歩道。(2015/11/11 12:50) 井の頭通りに出て、北沢中学校前の歩道を東に歩く。その歩道で、なぜか「荒れている」という印象を受けた。別にどこも荒れているわけでもないが、歩道に散らばる木の葉のせいらしい。 この季節の落葉は当たり前だが、歩道の両脇の草や木の葉はまだ緑なのに、落葉が散らばっているのだ。緑の木々に落葉というアンバランスが、落葉をゴミのように感じてしまったらしい。Photo G1(上) 北沢中学校横の道。(2015/11/11 12:51)Photo G2(下) 北への道。(2015/11/11 12:54)Photo G3(上) 右の細道へ。(2015/11/11 12:51)Photo G4(下) 北沢五丁目商店街。(2015/11/11 12:54) 北沢中を過ぎて、学校横の道に入る。次に目指すのは玉川上水である。玉川上水といえば、私には太宰治しか浮かばないが、入水したのはここよりずっと西、三鷹の方である。 住宅地の中を三回ほど右左折を繰り返して突き当たった丁字路正面の家屋に「北沢五丁目商店街振興組合事務所」なる看板が掲げられている。見渡せば、賑わいは少ないけれどもたしかに商店街の佇まいである。 商店街を少し行くと、蕎麦屋があった。もう午後1時なので、この店で昼食とした。 この商店街までは北沢の地番で、ここを出れば笹塚となる。街歩きMap。A~Nは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。【続く】 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2015.11.11
コメント(2)

11月4日の朝日新聞の3面に「もんじゅ 異例の勧告案」という記事が出ていた。と、パソコンで打ちこんだら「慰霊の勧告案」と誤変換された。日本語としては変だが、イメージはしっくりする。ちょっとばかりATOKのセンスに感心した。 原子力規制委員会は4日、高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県)を安全に運転する能力が日本原子力研究開発機構にはないとして、新たな運営主体を明示するよう馳浩文部科学相に勧告すると決めた。 勧告なので法的拘束力はないものの、実質的には「もんじゅ」に引導を渡したように思える(勧告する側も受ける側も自覚がないにせよ)。日本原子力研究開発機構の前身は、日本原子力研究所と核燃料サイクル開発機構で、少なくとも日本の原子力工学を先導してきた国の研究開発機関で、その分野ではトップクラスの人材が集まっていたはずである。勧告を出した規制委員会の田中俊一委員長も日本原子力研究所に在籍していた。 1995年のナトリウム事故以来、実質的に実証炉としてなんら「実証」実験ができなくなっていた事実そのものが、工学(技術)的に事故を乗り越えることが困難であったことを「実証」したのだったが、今回の勧告は、運営(人文・社会)的な能力も欠如していることを明確にしたのである。 しかし、新しい運営主体は見つかるとは思えない。機器の点検漏れや虚偽報告など8回もの保安規定違反を繰り返したのは、あたかも高速増殖炉の技術的困難はないかのように見せるためには、そうするしかなかったと考えるのが自然である。「安全に運転する能力」とは、安全を担保する技術的能力を前提とするが、国内で日本原子力研究開発機構に所属する人材以上の能力を有する技術者集団は考えられない。つまり、運営主体を替えても技術的能力が高まる可能性はほとんどない。ヘタをすれば格段に低下する。 行政事務的な運営主体なら変更は可能だろうが、素人が口出しをすれば「もんじゅ」の安全性の担保はいっそう絶望的になるだろう。最近はとくに「政府が先頭に立って処理をする」だとか「私が責任を持つ」などという言辞で事態を悪化させる例が続いているだけに、科学技術に無知な人間の口出しは恐ろしい。 どう考えても「もんじゅ」を廃炉にするしか道はないのである。世界中で高速増殖炉にしがみついているのは日本だけだ。1991年に試験炉も実証炉も諦めたドイツに続いて、1994年にはアメリカとイギリスが、1996年には原子力大国フランスですら高速増殖炉の開発を断念した。茨城県大洗町の試験炉「常陽」も福井県敦賀市の実証炉「もんじゅ」も廃炉の決断時である。それが、誰かが好きな「世界最高水準」の政治判断というものだろう。 集会@元鍛冶丁公園。(2015/11/6 18:13、16) 年に何回かの仕事があって1泊で岩手県に行っていた。午前中で仕事は終わったが、家に帰り着いてたいして休む間もなくデモのために家を出た。それでも、いくつかある脱原発デモの集会場所のうち元鍛冶丁公園と肴町公園は家から近いのでいくらか助かった気分になる。フリー・トーク。(2015/11/6 18:17~26)熱心なリスナー(スピーカーは尻尾の先の方)。(2015/11/6 18:26) 主催者挨拶の後、フリー・トークは、11月1日に松山市で開かれた「伊方原発の再稼働を許さないための全国集会―福島をくり返さない―」への参加報告から始まった。 続いて、10月24日の映画『首相官邸の前で』の上映報告がなされた。400人近い人たちが上映会に集まり、上映後の監督・小熊英二さん(慶応大学教授)の話には150回を超えて続けられているみやぎ金デモも話題となったことや、観客のなかから脱原発デモへの参加者が生まれる期待などが語られた。 他にいくつかイベントの告知や案内もあった。【第2回 安保café】 「(今さら聞けない)安保法問題の基礎知識」 話題提供:小宮友根さん(東北学院大学准教授) 日時:11月26日(木)19:00~21:00 場所:book café火星の庭 主催:安保関連法に反対する被災三県大学教員有志の会」【風の会・公開学習会 vol.7】 「福島原発事故から、女川2号機「適合審査資料」を斬る!」 講師:石川徳春さん(仙台原子力問題研究グループ) 日時:12月12日(土)18:30~20:30 場所:仙台市市民活動サポートセンター6Fセミナーホール 参加費:300円 主催:みやぎ脱原発・風の会【武藤類子講演会】 「福島の現状:原発事故は終わらない」 講師:武藤類子さん(福島原発告訴団団長) 日時:12月13日(日)14:00~16:00 場所:仙台弁護士会館 共催:日本キリスト教団西仙台教会教区宣教部会委員会 放射能問題支援対策室いずみ【本の紹介】 ノーニュークス・アジアフォーラム編著 『原発を止めるアジアの人びと』 発行:創史社 発売:八月書館 定価:1500円+税 まもなくデモ出発。 (2015/11/6 18:32)国分町を横断して。(2015/11/6 18:26)一番町へ入る。(2015/11/6 18:35) 脱原発犬チョモランマさんを加えた55人は、早い日暮れが人を誘うかのように賑わってきた国分町や稲荷小路を横断して一番町に出る。 朝晩の冷え込みがきつくなってきているが、昨日と今日は日中の暖かさの名残のせいかそれほど寒くはない。コーラーのお二人。(2015/11/6 18:39、48) 一番町。(2015/11/6 18:41) 広瀬通りを横断。(2015/11/6 18:44) 世界の原子力先発国家がすべて諦めたのに、どうして日本は高速増殖炉を諦めなかったのだろう。後発国の焦りか、日本の科学技術への盲信(盲信というのは科学に対する無知に基づく)や奢りのためだろうか。 日本原子力開発研究機構の前身、日本原子力研究所や核燃料サイクル開発機構には、大学で机を並べていた友人たちが研究者として就職した。なべて優秀な学生たちだった。そのうちの何人かは、人生のかなりの部分を「もんじゅ」に関わっていた。とうに退職した彼らは、その「もんじゅ」の現状をどう思って見ているのだろうか。 原子力工学を学んだ私は、いま、脱原発に一生懸命になっているが、それでも友人たちのことを思うと、少しばかりではなく感傷的になってしまう。福島事故の後の年賀状に、恩師が「彼らのことを思うととても切ない」と書いて来たことも思い出して、いっそう辛い気持ちになる。 フランスと同じ1991年くらいに高速増殖炉開発計画を断念したとしても、研究者として盛りを迎えていた彼らがその後どんな研究生活を送ることができたか、もちろん私には想像できない。優秀な彼らであれば、新しいテーマで充実した研究生活を送ったかもしれない。たしかな想像はできないが、どこか悔しい感じだけは残るのだ。 藤崎前を青葉通りへ。 (2015/11/6 18:44) 東2番丁通り。(2015/11/6 18:58)チョモさんも解散。(2015/11/6 19:02) 一番町広瀬通り付近は、待ち合わせて国分町に繰り出すらしい人たちでいっぱいだ。すっかり暮れてしまった午後6時半頃は待ち合わせ時らしい。1昨年も昨年も、暮れに向かってどんどん増えていく人出を抜けてデモをしていた。脱原発をアピールするには最適な場所だ。 広瀬通りを渡り、藤崎前まで来ると「ぶらんどーむ一番町」から「サンモール一番町」に変わる。サンモール一番町」には、昨年と同じ青色LEDの電飾がもう飾り付けられている。11月に入ったばかりなのに、暮れの雰囲気が始まっている。ハロウィンの後はクリスマス。優秀な消費者大衆としての日本人の面目躍如(面目喪失?)といったところか。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2015.11.06
コメント(11)
全10件 (10件中 1-10件目)
1