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全地は同じ発音、同じ言葉であった。時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。彼らはまた言った、「さあ、町と塔を建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。時に主は下って、人の子たちが建てる町と塔を見て、言われた。「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。 (「創世記」11章1-9節『旧約聖書(1955年改訳版)』 pp. 11-12) 聖書には明示されていないが、傲り高ぶった人間が神の領域である天に届くようにと建設を始めたバベルの塔は、神によって破壊されたというのが一般的な解釈である。「彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう」というわけだ。 ローマ法王が、「東日本大震災の福島第1原発事故に関連し、人間のおごりと現代文明のひずみの一例として原発の開発に警鐘を鳴らした」というニュースがあった。「原発を旧約聖書の「バベルの塔」になぞらえ「天に届く塔を造ろうとして、自らの破滅を招こうとしている」と表現し、「人間が主人公になって自然を破壊した結果の一つ」と述べた」と報道されている。 科学技術への過信、ないしはそれを巡って蠢く金のために盲信せざるを得なかった結果としての原発事故を「バベルの塔」になぞらえたことはとても示唆的である。 神はいわば人間への懲戒としてバベルの塔を破壊したのだが、福島原発事故は、愚かな元東京都知事が言ったような天罰でもないし、決して神の罰などではない。人間の愚かさの直接の結果である。 その元東京都知事のような無原則的な経済優先思考に取り付かれた人間だけを罰したならそれは天罰、神による罰かもしれないが、最も大きな被害を受けたのはそんな人間とはほど遠い慎ましやかに暮らしていた人々だった。 バベルの塔が破壊されたあと、神は言葉を乱して互いにその意志を通じ合えなくした。いま、私(たち)は、安倍晋三という日本の首相の言葉が理解できないでいる。彼を含む政権の側にいる自民党や公明党の人間たちの話す言葉を理解できないでいる。彼らが日本語を話していないのか、私たちが日本語を話していないのか、まったく通じ合えないのだ。 福島第1原発事故は、バベルの塔の破壊に似て、原発事故の後「言葉を乱された」かのようだ。安倍晋三が話す言葉が日本語なら、私(たち)が話す言葉は日本語ではない。私(たち)の言葉が日本語なら、安倍晋三の言葉は日本語ではない。そう思えるほどだ。 ドイツではバベルの塔が崩壊する前にその建設を止めるべく、脱原発に踏み切った。原発と従軍慰安婦についてドイツの宰相メルケルが語りかけた言葉は、我が国の宰相にはまったく意味が通じなかったようだ。私(たち)には、翻訳を通じてですら、その意味はよく理解できたというのに……。 「安倍晋三は言葉を信じていないのだ」と誰かが言っていた。その通りだと思う。意志を伝え、心を伝え、他者に共感し、他者を説得するというような言葉のもつ力を放棄している。政治世界の様式、儀式として官僚が創作する言葉の羅列を繰り返すだけだ。 意味が国民に通じないので、権力で結果を押しつけるしかない。その権力は、沖縄・辺野古でじっさいに行なわれているように警察や海上保安庁という国家の暴力装置を発動させて、通じない意味を「暴力的」に国民に押しつけるしかないのだ。 そういえば、民主党の誰かが警察か何かを「暴力装置」と呼んだら自民党が国会で大騒ぎをしたことがあって驚いたことがある。警察が国家の暴力装置だというのは、政治学における常識的な概念の筈だからである。自民党などの保守政治家にとっては神様のようなマックス・ヴェーバーもそういっているはずだ。 まあ、自民党の政治家が政治学を知らないということにはもう驚かない。憲法改正を唱える安倍晋三が憲法学(や憲法学者)など知らないと国会で答えて恬然として恥じないほどなのだから(彼は成蹊大学法学部政治学科を卒業しているにもかかわらず、そうなのだ)。 しかし、ローマ法王にしても日本国天皇にしても、国家や社会の古いシステムの象徴、旧体制、保守の象徴のような存在が、いまや原発を批判したり、日本国憲法を擁護するような発言をしている。それに対して、政治も含め、社会のマジョリティは彼らよりずっと後進的、右翼的な存在になってしまっている。いまや、日本国民は極右政権を担いでいるのである。スティグレールの言う「果てしない象徴の貧困という状況にある」 [1] 人間たちがこの日本を覆い尽くそうとしている。 いつからそうなったのか、気が付いたらいつのまにかそうなっていたと思うのは、社会の変化をビビッドに感受できない私の愚鈍さのせいかもしれない。 今日の錦町公園は、少し寂しい。参加者の一人は、先週の疲れがまだ抜けきっていないと言っていたが、3・21みやぎアクションで張り切りすぎたのかもしれない。 先週の「ふるさとを放射能から守ろう! 3・21みやぎアクション」には1000人ほどの参加があった。たくさん集まったと評価する人も、これでは少ないと嘆く人もいたが、私としてはそのどちらにも同感できる。 脱原発、反原発の意志を社会に強く伝えるためにはもっと参加者が多い方がいいし、長い闘いの間のある種の平衡期としてはとても多い参加者だとも思えたのである。 錦町公園の集会。(2015/3/29 14:23、38) あまり参加者が多くないので、輪になってマイクが順繰りに手渡される。簡単な自己紹介もあって、毎週見ている顔なのに初めて名前を知った人がかなりいる(知ったといってもたぶん忘れてしまうのだが)。 天気予報では夕方から雨と言うことだったが、集会の途中からポツポツと降ってきた。傘を差すほどの雨ではないが、何人かは傘を準備し、私はカメラを上衣の下に押し込んだ。 錦町公園前の定禅寺通りを行く。(2015/3/29 14:40、41)最年少の参加者。(2015/3/29 14:18、50) 40人ほどの列が、錦町公園を出発する。公園の西北から定禅寺通りに出て西へ向かう。今日の最年少は、「原発はいらない!」というプラカードを持参した4歳の参加者である。 おじいちゃんと一緒の参加で、インタビューに名前と年齢を大きな声で答えて、拍手喝采を受けていた。おじいちゃんは、実家が伊方原発の近くでとても心配だと話された。勾当台通りを渡る。(2015/3/29 14:48) 一番町。(2015/3/29 14:52、53) デモは、勾当台通りを渡って、定禅寺通りを少し進んでからいつものように一番町に入る。一番町には地元の野菜などを売るテントが出ていて、売り子の若い人が拍手をして応援してくれる。 40人程度のデモというのはまとまりがあって、意外にそれなりの雰囲気がある。なんと言ったらいいのか難しいが、デモに参加している実感がいつもより強まっているような気がするし、そんな感覚をみんなで共有しているような気分になるのである。本日のコーラー。(2015/3/29 14:55、15:04)一番町唯一の坂道を下る(藤崎前)。(2015/3/29 14:18、50) 東二番丁通りでは陽が射して。(2015/3/29 14:18、50) デモの列は短いので、交差点の信号をスルッと抜けられて、デモの歩みは早い。一番町を出て、青葉通りに差しかかった頃には、空は晴れ上がり陽が射していた。 デモの参加者が多いとか少ないとか、そんなことを考えてしまう自分へ、この詩の一節を…….主義を先立て主義に浸ってなにかと呑んでは時節に怒ってあゝなんという埋没。とうに甦ったはずの国が今もって暗いのは私のせいだ。遠い喊声を漫然と待っている私の奥の夏のかげりだ。 金時鐘「夏のあと」部分 [2] [1] ベルナール・スティグレール『象徴の貧困』(新評論、2006年) p. 24。[2] 『金時鐘四時詩集 失くした季節』(藤原書店、2010年)pp. 88-89。
2015.03.29
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【続き】 正午からブースは開き、1時からのライブパフォーマンス、2時からの野外集会と3時間に及ぶ市民広場のイベントも終り、いよいよアピール行進が始まる。列を組むのにけっこうな時間がかかったのだが、金デモの脱原発カーを先頭にそろそろと動き出す。 市民広場を出発。(2015/3/21 15:19~20) 仙台市役所前の勾当台公園市民広場の南口を出て、そのまま南に進めば、定禅寺通りを越えてすぐ一番町の歩行者専用アーケード街に入る。 行進の先導はいつもの金デモと同じように西さんがつとめ、先頭には制服向上委員会の4人のアイドルが並んでコーラー役である。その後に、今日のために作られた「ふるさとを放射能から守ろう!」という横断幕を掲げて、主催者代表の鈴木宏一さんやメインゲストだったいわき市議の佐藤良和さんなどが続く。 一番町を行く。(2015/3/21 15:28~31) 先頭から順にカメラにおさめていく。信号で途切れた列が、少し間をあけて続く。いつもの金デモは、たいてい50人から100人の規模のデモなので、先頭から最後部まで自在に写真を撮ることができるのだが、今日はまったく無理だ。私の体力では、最後列まで撮し続けていたら、もう先頭には戻れないと思えるほど列は続く。 気持ちとしては、参加者全員を撮しておきたいと思うのだが、おそらく健脚の若い人がそんなふうに撮しているに違いないと言い聞かせて、途中で諦めて先頭に向けて歩き出した。アピールもいろいろ。(2015/3/21 13:27~32) 広瀬通りを渡って、また一番町。(2015/3/21 15:34、35) 3月中旬の今日はとても暖かくて、立派な春の日なのだが、午後3時を廻れば陽はだいぶ傾いている。東西に走る広瀬通りは西からの陽光で輝いている。色とりどりのプラカードを持ったアピール行進の列が陽光を横切っていくときの陰影がとても美しい(その美しさをカメラが写し取ることは難しい、私の腕では)。 一番丁の雑踏の中には、拍手をしてくれる人、手を振ってくれる人が少なからずいる。とくに今日は、若い人の注目度が高い。高校生らしい男子数人が横を一緒に歩いたりしている。制服向上委員会のアイドル4人のアピール力である。 一番町から青葉通りへ。(2015/3/21 15:43~47) 広瀬通りの初春の陽光からふたたび一番町のアーケード街を歩き、青葉通りに出るとまた眩しい陽光の街路となる。地下鉄東西線の工事で変則的に区切られた青葉通りの車道を背中に陽光を浴びながら東(仙台駅方向)に進む。 行進が歩く反対側の歩道から眺めると、先頭が最初の信号まで進んでも、列のほとんどはまだ一番町のアーケードの下だ。行進の人々の影は車道に長く伸びている。 東二番丁通り(国道4号)を渡る。(2015/3/21 15:50~16:01) 青葉通りと東二番丁通りの交差点の地上には横断歩道がない。歩行者は階段かエレベーターを使って地下広場を横切るしかない。東二番丁通りを横断する行進を待つために、地下広場を潜って先回りすると、土井好則さんがビデオカメラを準備して待機中だった。 土井さんの右横に陣取ると、隊列に対する角度がとても良くて逆光の西日も邪魔にならないのだった。最初の信号で先頭集団が渡りきり、次の信号で続く集団が渡りだしたとき、信号待ちのバスが私の前まで出て停車した。横断歩道がないので、信号待ちの車はかなり前で待つことができるのだ。やむをえず、土井さんの左隣に移ったが、西日がカメラに入ってしまうのだった。 東二番丁を渡って参加者をすべて写しこもうと何回もシャッターを切ったが、こういうときの記録性はビデオカメラには到底かなわないのである。私も、土井さんがアップする動画を楽しみにしているのだ。最後の交差点。(2015/3/21 16:03) 600人が歩いたアピール行進の列が東二番丁通りを渡りきるのに15分ほどかかった。交差点を渡り、ダイエーを過ぎると、小さな信号交差点があり、そこを渡れば流れ解散の場所、仙都会館前である。 次々到着する参加者の列はどんどんきれいに捌けていくのだった。出発前の注意をみごとに守っているのである。
2015.03.21
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【続き】 「3・21みやぎアクション」の写真を整理してブログを今日明日中に書き上げなければと思うのだが、第一部のライブパフォーマンスの分だけ仕上げて、翌22日の午後は、仙台国際センターで開かれている「言語学者によるメディア・リテラシー研究の最前線」というシンポジウム講演を聴きに行った。午後からの講演に原発事故、原発再稼働、特定秘密保護法など、興味深い講演題目が並んでいたのだ。 午後の講演全体を通して受けた印象の一つは、さすがにメタレベルから中立的にさまざまな言説を取り上げているという、学問の世界ならごく当たり前のことだった。たとえば、私は一度だけ読売新聞の社説を丁寧に読んだことがあるし、鹿児島県知事の原発再稼働容認の記者会見内容も読んだ。それはブログで批判する(悪口だけのような気もするが)ためだけで、それ以外は不愉快になるのでまず読まないのである。産経新聞などなおさら読まない。 ところが、大阪学院大学の神田靖子先生は、原発事故をめぐる朝日と読売社説にみる読者誘導の方法を言語学的分析しているし、ベルリン自由大学の野呂香代子先生は伊藤鹿児島県知事の原発再稼働容認の記者会見内容で用いられる言語的、修辞的な手段の分析を行なっている。一橋大学の今村和宏先生に至っては、産経新聞にも丁寧に探せばとてもいい記事があると言われる。それこそ、メディア・リテラシシーとしての冷静な対処ということだろう。 最後の東北大学の名嶋義直先生がまとめられていたように、メディア(と政府)がいかに言説(ディスコース)を作りだすか、それをどのように正しく(批判的に)読み解いていくかが大事だということだ。ただ、とても気になったことがあった。野呂先生が講演のまとめのところで、「私たちの側から言説をつくる」という意味のことを言われたのだ。 最後の質疑応答でも話題になったのは、簡単に言ってしまえば、ハーバーマス的な熟議民主主義の場をどうやって形成し、そのうえで私たちの生きているこの社会を席巻するようなディスコースに私たちがいかに参与できるかということだろう。私はハーバーマスのように楽観的ではないので、権力やメディアと私たちが同じアリーナでディスコースを作り上げるという方法よりも、メディア(と権力)に対抗的な「私たちのディスコース」のようなものを市民の側から形成することが大事ではないかと思うのである。野呂先生にインスパイアされて、意を強くしたのだ。 「言語学者による市民ディスコース創成の方法」だとか「私たちの言説をいかに形成するか、その言語学的考察」のようなシンポジウムがあったらいいな、と思ったのである。私の立場から言えば、もちろん社会学的でも政治学的でもかまわないのだが。 ブログをさぼった言い訳を書いているのだが、じつは、もっと正しい言い訳がある。この楽天ブログは、1日にアップロードできる写真の容量と文字数に制限があって、私はしばしばオーバーしてしまう。せっせとブログを書いても1日にアップロードできるのは限られているので、翌日に延ばすしかないのだ。残念なことだが、いくぶん喜ばしい。 さて、3月21日の勾当台公園市民広場に時空をもどさなくては……【左】第二部司会の大内さん、【右】主催者代表の鈴木さん。(2015/3/21 14:03、05) 第二部の野外集会は、色麻町の大内直子さんの司会で始まった。 主催者挨拶は、「女川原発再稼働を許さない! 2015みやぎアクション代表の鈴木宏一さんである。女川原発に限らず、再稼働をめぐる状況全般、画期的な福井判決などについて触れられ、「女川原発を廃炉にするまでともに頑張りましょう!」という締めくくりである。 集会風景(1)。(2015/3/21 14:11~17)【左】福島からの佐藤さん、【右】女性ネットみやぎの昆野さん。(2015/3/21 13:09、35) 続いて、福島からいわき市議の佐藤和良さんのスピーチである。福島原発告訴団の副団長で、原発事故被害者の救済を求める全国運動の共同代表でもある佐藤さんは、汚染地域で暮らすことのさまざまな困難についての話から始まり、原発訴訟、告発に否定的な検察への批判、東電が津波被害想定をあえて無視していたという新事実を基にした新しい訴訟へという話題に及んだ。 原発立地の女川町からは3人の町議さんが参加する予定だったが、JR石巻線の女川までの全線開通の祝典行事に重なったためメッセージ代読になった。 代読は「子どもたちを放射能汚染から守り原発から自然エネルギーへの転換をめざす女性ネットワークみやぎ」の昆野加代子さんが行なった。 女川原発再稼働についての町民アンケートに取り組み、その結果、再稼働反対が6割で賛成は2割に過ぎなかったという。福島原発事故の重大さが、確実に原発立地町住民の意識を変えているという話であった。【左】加美町からの伊藤さん、【右】「てとてと」の杉山さん。(2015/3/21 14:39、45) 放射性廃棄物の最終処分場建設で揺れる県北の加美町から「加美町・放射性廃棄物最終処分場建設に断固反対する会」の伊藤幹子さんが話された。 加美町や周辺市町の重要な水源地の上に最終処分場をつくろうとする理不尽さや、農家として食への放射能汚染への切実な怖れを訴えられた。 続いて、大河原町で食物の放射能測定を続けている「みんなの放射能測定室「てとてと」」の杉山仁子さんがその活動内容と、作物を供給する農家の多い地域での放射能汚染、さらにはそれを測定して情報公開していくときに生まれるさまざまな軋轢について報告された。 放射能は人間の体ばかりではなく、人間関係や心まで傷つけているということだった。 集会風景(1)。(2015/3/21 14:18~42)【左】集会アピール朗読(あいコープの後藤さん)、【右】アピール行進の案内(金デモ代表の西さん)。(2015/3/21 13:13) 第二部の終りは、集会アピールの採択である。宣言文の朗読は、あいコープみやぎの後藤咲子さんが行なった。集会宣言の最後は、「世界市民のみなさん! 誰かの犠牲を前提にしたシステムではなく、かけがえのないふるさとでともに生きていける未来を築きましょう! 放射能からふるさとを守るためにともに歩んでいきましょう!」で締めくくられている。 野外集会が終われば、アピール行進へ出発準備である。毎週、デモを行なっている「脱原発みやぎ金曜デモ」代表の西新太郎さんから、アピール行進のコースや注意事項の説明がなされた。 コールの練習。(2015/3/21 13:14) 行進への参加者が準備をしている間、壇上ではコールの練習である。今日のコーラーは、制服向上委員会のお嬢さんがつとめてくれる。鳴り物と大声で盛り上げるために、これまた毎週金デモでコールをしている人たちが壇上に並んだ。見慣れた顔ばかりだ。アピール行進へ出発準備中。(2015/2/6 13:27) コールの練習が終ったので、広場出口に向かったが、スピーカーから強い調子で訴えている声が聞こえてきた。広場出口から顔は見えないが、「希望の牧場・ふくしま」の吉沢正己さんの声だ。強制避難命令にもかかわらず、牧場の牛を見捨てずにその生命に寄りそって厳しい闘いを続けている。 吉沢さんは、昨年の8月24日の「脱原発みやぎ金曜デモ100回記念! 『もうやめっぺし原発! 8.24アクション』」 にも来られて、牛の命を支える牧草が枯渇しそうな危機にあると訴えられていたのがとても強く印象にのこっている。 さて、次はアピール行進である。【続く】
2015.03.21
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3月8日には日比谷公園、国会議事堂正門前の「3・8 NO NUKES DAY 反原発・統一行動」に参加したが、反原発、脱原発への国民の意思はまったく衰えていないと強く感じた。 反原発行動への参加者の減少を、反対の弱まりと見たがる人々がいるのはいつものことだが、長い闘いの間には人数が増えたり減ったりするのは常のことだ。脱原発を考えるほどの人は、この社会への責任を果たすべく一生懸命に生きていて、それだけにそうしょっちゅう参加できないということがあるのだ。一時の平衡状態のときに、自分の暮らし、自分の闘いのための塹壕を掘ることに専念してもいるのだ。単にそういうことなのだと私は思っている。 4年が過ぎ、5年目の春がきた。その間に、強権的に再稼働を進める超右翼政権が成立してしまい、気持ちは必ずしも晴れ晴れとしている日々ではないが、さしあたって今日は素晴らしい好天である。 いつもより早く家族に昼食を作って家を出た。朝早くから、スタッフの皆さんが会場設営に汗を流していたことは、フェイスブックから流れてくる記事で知ってはいたが、私は開始時間ぎりぎりで仙台市役所前の市民広場に着いた。第一部の司会は金デモの葛西さんと制服向上委員会の橋下美香さん。(2015/3/21 13:01) 今日の3・21みやぎアクションは、第一部のライブパフォーマンス、第二部の集会、市内のアピール行進と続く。時間通りに第一部が始まった。司会は、毎週行なわれている脱原発みやぎ金曜デモで司会を担当している葛西さんと、制服向上委員会の会長という橋下美香さんの二人だ。 最初のパフォ―マンスは、「みやぎ割烹着―ず」という9人の女性たち。全員、手染めしたというとてもシックな草木染めの割烹着を着ている。舞台下にはバンドが控えていて、彼らの演奏に合わせて歌とダンスを披露するのである。 「みやぎ割烹着ーず」のパフォーマンス。(2015/3/21 13:05~11) 「みやぎ割烹着―ず」のパフォーマンスは、「ラブ・ミー・テンダー」の替え歌を歌い、踊るというものだ。これは、「ラブ・ミー・テンダー」を忌野清志郎が「何言ってんだ~ ふざけんじゃね~ 核なんていらね~」と歌い出す反原発ソング「放射能はいらねえ!」という歌に替えたものを、さらに「割烹着―ず」という沖縄の若いお母さんたちのグループがダンス付きにバージョンアップしたものだ。 「ふるさとを放射能から守ろう! 3・21みやぎアクション」には、じつにふさわしいパフォーマンスだ。 「割烹着―ず SAYS NO NUKES」椅子席と立ち見が多い。(2015/3/21 13:12)東のブース。(2015/3/21 13:12)北東角には「希望の牧場」のブースと吉沢さん。(2015/3/21 13:12)北のブース。(2015/3/21 13:13)西のブース。(2015/3/21 13:14)ファミリーコーナーのお絵かきブース。(2015/2/6 13:27) 市民広場の南側にステージトラックが置かれ、他の3辺にたくさんのブースが並んでいる。宮城県でさまざまな形で脱原発、反原発に取り組んでいる団体、グループがそれぞれブースを設営している。 北東の角には、福島から「希望の牧場」の吉沢さんがおなじみの牽引車を並べている。西の階段上にはお絵かきコーナーがあって、子どもたちが入れ替わりながら思い思いに絵を描いていた。 第一部の目玉の制服向上委員会のライブが始まる。 橋下美香&制服向上委員会のライブ。(2015/3/21 13:16~25) はじめに、制服向上委員会の4人の「ダダダ・脱原発」の歌から始まり、途中からギターを持った橋本美香さんが加わり、「橋本美香&制服向上委員会」として「原発さえなければ」や「おお、ズサンナ」など、ときにしみじみと、ときにとても元気にライブが進んでいく。 どんどん参加者が多くなる。(2015/3/21 13:25、38) 第一部の最後は、「脱原発プラカード&コスプレパフォーマンス」というコーナーである。いろいろな扮装、プラカードを持参して登壇して、それぞれの思いをスピーチするのである。 コスプレパフォーマンス。(2015/3/21 13:43~55) 登壇した中でも、原発問題住民運動宮城県連絡センターのお二人がかかげていたパネルは、女川原発事故が起きた際にどのように放射能は飛散するのかシミュレーションした図で、風向きの違う場合の2例を示したものだった。 とても、衝撃的で重要な放射能飛散マップなのだが、著作権の関係でネットでは流せないということだ。それで、ブログの小さな写真から読み取るのは不可能だが、一応、念のためにぼかしをかけている。 大学に勤務していた頃に、さまざまな情報を講義で使う際の著作権問題についてわざわざ講習を受けさせられたことがあって、その重要さは分かるものの、住民(国民)の生命安全に関わることが広く公表されないということは残念だし、問題だろうと思う。 コスプレパフォーマンスでは急遽賞が設けられ、田中正造に扮した栗原市からの参加者が選ばれ、橋本美香さんから賞を受けた。 休憩を挟んで、第二部は「集会」である。【続く】
2015.03.21
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【続き】Photo I1 ふたたび石垣下へ。(2015/3/18 6:59)Photo I2(左) 下って行く風景。(2015/3/18 7:02)Photo I3(右) 分岐点の石灯籠。(2015/3/18 7:04) 詰門跡の鳥居を出れば、しばらくは登ってきた道をそのまま下っていく。写真は人のいないタイミングを見計らって写しているが、こんな時間でも坂道を登ってくる観光客がポツポツといる。ほとんどは年配のご夫婦連れだが、大きなバッグを背負った若い二人組もいた。それに、けっこうな数のジョガーがこの道を登ってくるのだ。 登りながら見る景色と下りながら眺める景色は微妙に違う。見る人間の脈拍が決定的に違う。景色を味わうリズムが異なるのだ。 道の両脇に石灯籠が見えてくれば、そこが三の丸への下り道である。 Photo J1(上) 沢門跡から下る。(2015/3/18 7:04)Photo J2(左) 道は大きく湾曲して。(2015/3/18 7:05)Photo J3(上) まっすぐ巽門跡へ。(2015/3/18 7:06)Photo J4(左) 清水門跡の石垣も修復が済んで。(2015/3/18 7:07) 石灯籠の手前を右の分岐道に入る。沢門跡である。道は180°の湾曲を2回繰り返しながら急激に下る。急カーブでカメラを構えていると、この急坂を駆け上がってくる若い女性がいる。金髪の外国人女性である。息を切らしながら私の前を通り過ぎて行くのを待ってシャッターを押した。 急カーブを過ぎてからのまっすぐな下り道は清水門跡を通る。ここの石垣も地震で被害を受けて、復旧工事中は通行止めになっていて、左の小径から仙台市博物館横の細道を通り抜けるようになっていた。しばらくぶりでまっすぐに道を下りていくのである。Photo J5 巽門跡から三の丸跡(仙台市博物館)へ。(2015/3/18 7:09)Photo K1(左) 魯迅碑。(2015/3/18 7:10)Photo K2(右) 魯迅胸像。(2015/3/18 7:11) 下りきったところが巽門跡で、そこを右に行けば、外濠だった長沼の横を通って城外に相当する追廻地区に出る。左に少し上り返して三の丸跡に建つ仙台市博物館の敷地に入る。 坂を上がったところに魯迅の碑が建っている。隣には魯迅の胸像がある。 「藤野先生」という魯迅の小説でよく知られているが、1904年から2年半ほど東北医学専門学校(現東北大学医学部)で医学を学んでいたとき、中国の現状を憂えて文学を志したのだという。つまり、文豪魯迅にとって仙台は転機の場所だったということらしい。 片平丁には魯迅が下宿したという民家がかなり最近まで残されていたし、東北大学の片平キャンパスには、魯迅が講義を受けたという東北医専時代の階段教室が残されていて、今はどうか知らないが、一時期、日本を訪れる中国人の聖地の趣があった。Photo K3 仙台市博物館。(2015/3/18 7:13)Photo K4 子門跡。(2015/3/18 7:14) 博物館の敷地内には、長く仙台市長を務めた島野武の胸像もある。一時期、全国でかなり生まれた革新市長の一人である。 島野武像から「残月亭」という茶室の横を通って、博物館の正面に出る。コンクリートの前庭を突っ切れば、石垣に挟まれた道を通って三の丸跡を出る。この石垣が子門跡である。 Photo L1(上) 外濠だった五色沼、その上に大手門。(2015/3/18 7:15)Photo L2(下) 外濠の長沼。(2015/3/18 7:16) 子門跡から外は城外で、左手に五色沼がある。藩政時代の外濠の一部で、仙台のスケート発祥の池として(仙台人には)有名である。そこから少し右手に下ると三の丸跡東側土塁の外に長沼があって、これも旧外濠である。Photo M1 仙台国際会館。(2015/3/18 7:17) 大手門跡から下ってくる道の向かいは仙台国際センターで、ちょうど国際防災会議が開催されていて、入口には何人もの警備員が立っている。敷地の周囲を緑色のフェンスで隙間なく囲んで、侵入者を防いでいる。 ときおり、警察官も巡回していて、裏手にあるたくさんのテントの中には警察官の詰め所もあるようだ。なにしろ安倍首相のイスラエルでの浅はかな演説で日本は平和国家のイメージをかなぐり捨て、一挙に世界の主要なテロ対象国と見なされるようになったので、この警護は当然と言えば当然なのだ。Photo M2 国際会館側から見る大手門跡。(2015/3/18 7:21)Photo M3 道はまっすぐ仙台二高前へ。(2015/3/18 7:22) 国際センター前の信号を渡り、大手門跡の方向に坂を上がり、その前を右に曲って行けばまっすぐな澱橋通りの道である。200mも行けば、朝に歩きだした道である。散歩コースと撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。
2015.03.18
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【続き】Photo F1(左) 埋門跡。(2015/3/18 6:44)Photo F2(右) 護国神社鳥居の前を。(2015/3/18 6:44) 埋(うずみ)門跡から本丸跡に入る道は、本丸駐車場へ行く道でもある。左手に護国神社の鳥居が見えるあたりが駐車場である。Photo F3 右に仙台市街の遠景。(2015/3/18 6:45)Photo F4 松の木越しに見る護国神社。(2015/3/18 6:48) 鳥居を横に見てまっすぐ東の断崖際の道へ行く。この付近はまだ整備中のようだ。すぐ左手に展望場所があるが、この付近の下の崖は、東日本大震災で崩落した箇所ではないかと思う。 この展望場所には寄らずにまっすぐ進む。左手の林の奥に護国神社が見え出す。Photo G1 昭忠碑と落下した金鵄像。(2015/3/18 6:49)Photo G2(左) 土井晩翠胸像。(2015/3/18 6:50)Photo G3(右) 伊達政宗公騎馬像。(2015/3/18 6:51) 木下道を過ぎると、天守台の広場である。まず、昭忠碑の前に行く。この高い台座の上に両翼6.7m、総重量4トンのブロンズ製の金鵄像が乗っていたのだが、東日本大震災で落下して破損してしまった。碑の前の即製小屋に破損した一部が展示してあるが、文化庁の補助を得て保存修復作業が進行中だという。 「荒城の月」の作詞した土井晩翠の胸像もある。何の日だったか思い出せないが、この日の前で高校生たちが「荒城の月」を合唱するというイベントがあって何度か地方版のニュースでみたことがある。 伊達政宗の騎馬像は。いまや仙台市の観光のシンボルらしい。どんなガイドにも「伊達政宗公騎馬像」と記述されているようだが、台座には「伊達政宗卿」とある。「卿」というのは高い官位にある公家の尊称で、政宗も従三位権中納言に任ぜられたというから間違いではないが、戦国武将のイメージにはあまり似つかわしいとは思えない。 Photo H1(上) 仙台市街パノラマ、東南方向。(2015/3/18 6:54)Photo H2(下) 仙台市街パノラマ、北東方向。(2015/3/18 6:54) 天守台の北東端から仙台市を眺めた。いくぶん春霞ふうだが、右手、東南方向に太平洋が朝日を反射して光っている。遠く、北東にはかすかに笹倉山が霞んで見える。 正月元旦ともなれば、この展望台は初日の出を見に来る人たちで満杯になる。イオと私も1度だけ元旦に登ってきたことがあった。朝の散歩でよく出会う広瀬町のムク犬も来ていて、初日の出に興味のない二匹は政宗騎馬像の下の台座の上でしばしじゃれ合っていたのだった。Photo H3(上) パノラマ撮影地点で。(2015/3/18 6:55)Photo H4(下) 石段を下って。(2015/3/18 6:57)Photo H5 詰門跡の階段。(2015/3/18 6:58) フェンス越しに写真を撮っている私のそばでイオはおとなしく待機していた。カメラ持参の朝散歩の時は、風景を撮るのに夢中になってイオの写真はどうして少なくなるので、ここで一枚撮った。 ここまで来れば、もう帰り足である。天守台広場の中心部も整備中で、「仙台城見聞館」(入ったことがない)の横をすり抜けて、石段を下って行く。石段道は右に曲がり、さらに詰門跡の石段を下り、護国神社の鳥居の下を通れば、登ってきた道に出る。散歩コースと撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。【続く】
2015.03.18
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【続き】Photo C2 中門跡。(2015/3/18 6:24)Photo C3(左) 左の歩道を登る。(2015/3/18 6:25)Photo C4(右) ここを登りきれば本丸北壁石垣。(2015/3/18 6:29) 大手門脇櫓から歩き始めてすぐ、道は石垣に挟まれたところで大きくクランク状に屈曲する。中門跡である。ここの石垣も東日本大震災で被害を受けた。かつては黒土のしっとりした歩道だったが、今はしっかりと舗装された橙色の道となった。 中門から少し上ると道の両側に大きな石灯籠が立っていて、左に下る道が分かれている。三の丸跡への道で、帰り足でその道を通っていくつもりだ。Photo D1 本丸北壁石垣。(2015/3/18 6:31)Photo D2 石垣下の歩道。(2015/3/18 6:32)Photo D3 護国神社の鳥居は詰門跡に。(2015/3/18 6:34) 空が開けて、道が大きく右に湾曲すると、本丸の北の石垣である。この石垣は、大地震前に大規模な改修作業を終えていて、そのせいか地震の被害はなかったようだ。 石垣の下の歩道を辿って行くと左に鳥居が見えてくる。ここは詰門跡で、いつもならここから本丸跡に入るのだが、今日は復旧開通した右手の車道を通って反対側から本丸跡に入るのである。Photo E1(左) 不通だった車道。(2015/3/18 6:35)Photo E2(右) 酉門跡。(2015/3/18 6:36)Photo E3(左) 杉木立の道。(2015/3/18 6:37)Photo E4(右) 右は東北大学工学部への道。(2014/12/28 6:39) ここからの道はほんとうに狭い。上下二車線をかろうじて確保して、歩道はまったくない。イオのリードを極端に短くして、左の石垣にへばりつくような姿勢で歩く。後から車が来たときには立ち止まってイオを抑えながら石垣に張り付くのだ。運転手が申し訳なさそうに黙礼していくのだった。 酉門跡をすぎたところのカーブが最も狭い場所で、そこを過ぎると歩道がないとはいえ、逃げ場所があるので少し安心して歩ける。 杉木立の下を行くと三叉路がある。右の道は東北大工学部を通って行人坂へ出る道である。この道を行って最初に現われるのは東北大学工学部の量子エネルギー工学科の建物だ。かつては原子核工学科という名称で、大学院修士課程まで私はそこに在籍していた。 夕暮れ時、友人たちと大学の研究室からこの道を歩いて来て、本丸跡で花見と称して酒を飲んだことが何度もあった。そんな記憶の道である。Photo E5 左:本丸跡へ、右:八木山橋へ。(2015/3/18 6:42) 東北大学への分岐点を過ぎて左に大きく曲っていくと、道は右手に180°も折れて下って行く。八木山橋へいったん下って、八木山動物園方向へ登って行く道である。 最近はまったく聞かないが、私が若い頃、八木山橋は自殺の名所だと聞いていた。下は竜の口渓谷という深い谷である。落ちたらひとたまりもないが、今はとても人が越えられそうもない高いフェンスでガードされている。 竜の口渓谷そのものもかつてはハイキングコースだった。ある時、そのハイキングコースを思い出してイオと行ってみたが、崩落の危険のためか現在は立ち入り禁止になっていたのだった。 道の急カーブの先端、左手から埋(うずみ)門跡を通って本丸跡に入るのである。散歩コースと撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。 【続く】
2015.03.18
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しばらくイオとの朝ドラ散歩をさぼっていた。冬で天候に恵まれないこともあったが、じつは市内のどこを歩いていいものやら散歩コースの候補が枯渇しているのだ。 東日本大震災で仙台城址の石垣が崩れて、城址経由の自動車道はずっと通行止めだったが、一ヶ月ほど前に4年越しの復旧工事が完了した。これで通れない道はなくなったので、ぐるっと廻ってみることにした。 しかし、朝ドラ散歩ということにはならない。自宅からあまりに近すぎてドライブする余地がないのだ。いつもの近所の散歩と同じく、仙台二高前を出発点とした。Photo A1 澱橋通り(仙台二高前から大手門跡へ)。(2015/3/18 6:05)Photo A2 行人坂下と地下鉄国際会館駅。(2015/3/18 6:10) 仙台二高と宮城県美術館の間の道は、澱橋で広瀬川を越えてきて仙台城址大手門跡の前を曲がり、大橋でふたたび広瀬川を越えて青葉通りとなる道である。 「仙台二高前」交差点から遊歩道風の歩道を4、5分歩くと地下鉄東西線(未開通)の国際会館駅の前の丁字路にでる。右に上る千貫沢沿いの坂道は「行人坂」で、東北大学川内キャンパスの中を通って青葉山キャンパスに登る途中で分岐し、一つは理学部を経由して宮城教育大学へ、もう一つは工学部を経由して仙台城址へ行く道となる。Photo A3(左) 行人坂。(2015/3/18 6:11)Photo A4(右) 扇坂。(2015/3/18 6:13)Photo A5 初めての扇坂。(2015/3/18 6:14) 国際センター駅の交差点から100mほど右手に出来立てのコンクリート階段がある。藩政時代、ここにあった坂は「扇坂」と呼ばれ、一般武士の登城口だったが廃道となっていた。廃道後、行人坂が「新扇坂」と呼ばれていたらしいが、私が学生時代(およそ半世紀前)には行人坂をふつうに扇坂と呼んでいた。 さっそく出来立ての扇坂階段を登って、二の丸跡(東北大学川内萩ホール)へ行ってみる。Photo B1 東北大学川内萩ホールと公園。(2015/3/18 6:16)Photo B2 藤棚前は遠望ポイント。(2015/3/18 6:17) 扇坂階段を上がると新しい道が、川内萩ホールの裏を通ってくる「三太郎の小径」を右から併せてホール前の庭に続いている。などと珍しそうに書いているが、扇坂の工事中でも週に1,2度は朝の散歩でこのあたりをイオとぶらついていて、よく見知っていた道だ。 ホール前の庭の東端は、扇坂階段より急激な草付き斜面になっていて、藤棚の前付近から市街が展望できる。もっと高い本丸跡ほどではないが、元旦には初日の出を見にけっこうな人が集まっているところでもある。Photo C1 二の丸跡から大手門脇櫓へ。(2015/3/18 6:20) 藤棚の前を過ぎて木立の中に入ると、右手に池がある。この池の流れ込み付近に芹が生えていて、朝の散歩で出会った知人がよく摘んでいた。その水は埋設管を通じて流れてくるのだが、上は東北大キャンパスがあって、ほんとうに自然水だけなのか不明で、セリ好きの私でも手が出ない。 ましてや4年前の福島原発事故でこの仙台にもしこたま放射能が降りそそいだ後では、山菜、茸とおなじくセリ摘みもできなくなったのだ。 池を回って行くと伊達政宗の家臣で遣欧使だった支倉常長の銅像が建っている。銅像の前から大手門脇櫓の横を通って本丸跡へ登る道が見通せる。おりしも、年配のご夫婦連れがその道を下ってきたところだった。 この道がずっと車通行止めだったのである(歩道を人が通ることはできた)。散歩コースと撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。 【続く】
2015.03.18
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【続き】Photo G1(左) 本郷通り。(2015/3/9 8:58)Photo G2(右) 六義園の煉瓦塀。(2015/3/9 8:59) 不忍通りを西に進み、本郷通りの交差点を渡って六義園に向かう。本郷通りから入ると、六義園は煉瓦造りの塀の中である。六義園は川越藩主柳沢吉保が築園した広大な庭園の1部で、この煉瓦塀は太平洋戦争後に建てられたものだという。 Photo H1(上) 六義園、しだれ桜の庭。(2015/3/9 9:02)Photo H2(中) 六義園、玉藻磯付近から。(2015/3/9 9:04)Photo H3(下) 六義園、渡月橋付近。(2015/3/9 9:22) 9時開園の六義園入口に着いたのは8時59分だった。1分はオマケしてもらって入園した。回遊式築山泉水と呼ばれる大名庭園だが、前に1度歩いたことがある。 東京であった学会を半日サボって、ぶらぶら歩いて六義園に入るまではよかったのだが、その後、どこを歩いているのか見当が付かなくなった。要するに迷子になったのだが、その時初めてスマホで地図とGPSを利用することの便利さを知ったのだった。 当時のスライド式の分厚いスマホは記念にとっておいたはずで、どこかの引き出しにまだ入っているだろう。Photo I ミモザの花。(2015/3/9 9:33) 六義園を出て、本郷通りから横道に入った。本郷通りから2ブロックほど入った住宅の塀越しに満開のミモザの花が見える。そういえば、いつかどこかで3月8日はミモザの日だとかいうことを、見たか聞いたかした記憶がある。だからどうだという、それ以上のことは知らないので何にもならないが、今日は3月9日、とすれば明日は3月10日、東京大空襲の日と連想が続く。 たった1度の空襲で8万人以上が虐殺された東京大空襲は、一つの作戦としては世界史上最大の犠牲者数をもたらした。このような悲惨な経験を基としてこそ日本国憲法第九条は存在するのだが、今の自公政権はこの条項を廃棄することを画策し、戦争ができる国にしようとしている。 歴史から学ぶことを知らない政治家を持つ国はほんとうに不幸だ。誰かがその日本の宰相を「無知で無恥だ」と評したが、その宰相を選んだ私たち国民こそ無知で無恥なのである。Photo J1(左) 公園脇の道を下る。(2015/3/9 9:37)Photo J2(右) 向こうに階段道。(2015/3/9 9:38) 道は小さな公園の角に出るが、公園は工事中では入れない。公園の西南の二辺を辿るように進むと道は下って丁字路に出る。左に折れると向こうのコンクリート壁面の上を階段道が通っているようだ。 Photo K1(上) 階段を上がると日枝神社。(2015/3/9 9:40)Photo K2(下) 脇社の日吉稲荷神社のお狐さんたち。(2015/3/9 9:41) 階段道を上がると鳥居がある。「日枝神社」である。鳥居横に由来書き看板があって、「旧上駒込村字新屋敷の鎮守。東側が開けていたことから江戸時代は「朝日山王宮」と呼ばれていた」とある。 さほど大きくはない本殿の脇にさらに小さい「日吉稲荷神社」という脇社があり、そのちんまりとした境内に見える限りで七尾のお狐さんが目にも鮮やかな赤い前掛けをして鎮座している。巧まざる配置の妙と言えばいいのか、なんとも生き生きとした風情のある境内になっているではないか。小さなお狐さんの世界が広がっている。そう見えた。Photo L 駒込駅前。(2015/3/9 9:45) 神社を過ぎればビル街である。右に曲り、JR山手線駒込駅前に出て、街歩きの終点とした。 街歩きMap。A~Lは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。
2015.03.09
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4時頃に目が覚めてしばらく本を読み、6時になった頃にテレビのスイッチを入れたら、今日は全国的に雨模様で、東京では昼頃から本格的に降るという。ホテルの窓から覗くと、降り出してもおかしくないほど空が暗い。 生来胃腸が弱くて、朝食の直後に動き出すのはお腹の不調の元なのだが、しょうがない、今日は早出ということにして8時にホテルを出た。Photo A1 田端駅前。(2015/3/9 8:14) 田端駅から歩き出す。昨年初め、日暮里から谷中を通って田端まで歩いたことがあったので、コースが重ならないように駒込まで歩くことにする。 駅から西に向かう道に交差する高架道は、昨年少しだけ歩いた田端高台通りで、もう少しその道を歩いてみることにした。Photo A2(左) 田端文士村記念館脇の坂へ。(2015/3/9 8:16)Photo B1(右) 田端高台通り。(2015/3/9 8:19) 高架道の高台通りには階段で上がれるのだが、地図ではその手前を右に折れて田端文士村記念館の脇を通っても行けそうである。文士村記念館にも興味がないわけではないが、こんな時間では開いている可能性はない。Photo C 山手線脇の道。(2015/3/9 8:27) 田端高台通りは、商店街と言えば言えそうだが、それほど商店が多いわけではない。住宅街でもないので歩いていて飽きない。道は、山手線の上を跨いで続いているがその手前を左折して線路沿いの道を歩く。Photo D1 滝野川第七小学校前の掲示板。(2015/3/9 8:30) 線路沿いの坂道を少し下ると左斜めに入る道があった。その先に滝野川第七小学校があるはずだ。住宅街を少し歩けば、左手に小学校が現れる。普通なら、小学校は朝の賑やかな時間のはずだが、ひっそりとしている。 小学校の校庭に沿って左に曲ると校庭に植えられた桜が並ぶ道だ。そこに掲示板があって「さようなら! 滝七小!」などと書かれた紙が貼られている。通用門のフェンスには「滝野川第七小学校は閉校しました」という掲示が剥がれ落ちそうになっている。滝野川第一小学校と統合して、滝一小の場所に「田端小学校」が開設された、とある。 山村の過疎地ばかりではなく、東京の真ん中でも小学校の統合、廃校があるのだ。子どもたちや卒業生には故郷喪失に似た感情が生じはしないかと、なにか少しばかりしんみりした気分になる。 児童の減少によるのか、教育の効率化によるのか定かではないが、もしも教育を効率やコストの問題で考えるようになったら、それは間違いなく腐敗だ。曲がりなりにも教育機関に職を得ていた者として、それは痛切に思うことだ。Photo D2 大龍寺と八幡神社。(2015/3/9 8:33) 旧滝七小のグランドを過ぎると寺院の山門が見えてくる。「大龍寺」という石塔が建っている。この寺に正岡子規の墓がある旨を記した看板があった。子規の句や短歌に、根岸を詠んだものがたくさんあるが、根岸はここからは遠くはない。 寺の隣には鳥居があって八幡神社があった。Photo E1(左)神社を過ぎて右へ。(2015/3/9 8:34)Photo E2(右)隣の道を引き返す。(2015/3/9 8:40)Photo E3(左) 「田端銀座」の路地へ。(2015/3/9 8:44)Photo F1(右) 田端銀座から左折して。(2015/3/9 8:45) 八幡神社の前から道を右にとるとずっと住宅街である。このまま進むと、昨年歩いた「りゅうのすけ通り」に出てしまうので、右、右と曲って方角的には戻る道を選ぶ。 同じような住宅街の道が続いたが、変則的な十字路に出ると交差する道は「田端銀座」と看板が掛かる商店街だった。右折して商店街に入るが、開いている店はあるもののほとんどまだ準備中なのだった。Photo F2(左) 坂道を上る。(2015/3/9 8:48)Photo F3(右) 不忍通りに出る。(2015/3/9 8:54) 田端銀座から左に折れて信号のある小さな交差点を越えると向こうに上り坂が見える。「アザレア通り」という商店街を横切り、坂道を上りきったあたりで横道に入ってみたが、すぐに不忍通りの広い道に出る。 街歩きMap。A~Lは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。【続く】
2015.03.09
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朝7時過ぎに家を出て、仙台8:05発の新幹線を上野で降り、国立西洋美術館で『グエルチーノ展』を見終えた時には雨が降り出していたのに、有楽町駅から日比谷公園に歩き出したときには傘は必要なかった。雲は厚くどんよりとしていて、また雨が降り出しそうで心許ない。3年前の11月の大集会でも午後3時半を過ぎた頃から降り出し、傘を差して国会議事堂周辺を歩いたことを思い出した。 日比谷公園の野外音楽堂の前にはすでにたくさんの人が集まっているが、西幸門の近くにはさらに多くの人が集まっているようだ。音楽堂の会場に入ると、もう満杯になっている。かなりの人が雨合羽を着込んで座っているが、まだ雨は大丈夫だ。 日比谷野外音楽堂は満杯。 (2015/3/8 13:06) とても若い男女二人の司会で集会は時間通りに始まった。主催者の「首都圏反原発連合」のミサオ・レッドウルフさん、「さようなら原発1000万人アクション」の藤本泰成さんの挨拶に始まり、福島のなりわい裁判原告団長の中島孝さん、いわき市議会議員の渡辺博之さん、「原発いらない福島の女たち」の勝又美佐子さんのスピーチが続く。 スピーチが続く。(2015/3/8 13:13、31)最後は「原発反対!」のプラカード・アピール。(2015/3/8 13:57) 宇宙飛行士の秋山豊廣さんがゲストスピーカーとして登壇した後には、原発立地の現地の人たちのスピーチが続いた。集会アピールが読まれ、プラカード・アピールをして集会は終った。国会議事堂正門前へ移動中。(2015/3/8 14:12) 野音の集会の参加者は日比谷公園霞門から出て、歩道を歩いて(デモをしないで)国会議事堂正門前の「国会大包囲」に参加するよう要請があった。同時に、国会請願デモは西幸門から出発するという。デモは「財務省上」交差点を通って議事堂裏手へ。(2015/3/8 14:18) デモを歩きたいと思ったのだが、野音の集会に出ていたので指示通りに議事堂正門前に向かう。ほとんどの人が「国会前」交差点のほうへ曲って正門前に歩いて行ったが、デモの列を見たくて私は「財務省上」交差点へ向かった。 デモは、日比谷公園西幸門からまっすぐ上がってくるのだが、「財務省上」交差点からは幟、旗竿を下げるように指示されている。交差点のこちらから見ていると、ここからは静かな列である。リクルマイさんと「ジンタらムータ」の大熊ワタルさん。 (2015/3/8 15:35) 14:20頃に国会正門前につくと大勢集まりだしているが、スピーカーのテストなどでまだ準備中である。「国会前大集会」は15:30からなので、早く着いた人たちは、歩道沿いの低い石垣に腰掛けて待機している。もう石垣に空きはないので、私は立ちんぼで待機である。 開始時間が近づくと、国会に向けてコールがあり、続けて「ジンタらムータ+リクルマイ&The K」による演奏、歌、コールがあって大いに気勢が上がる。主催者挨拶(ミサオ・レッドウルフさんと藤本泰成さん)。(2015/3/8 15:46)各政党から。(2015/3/8 15:49~16:08) 主催者挨拶に始まり、政治家が到着順に登壇した。社民党の吉田さんと福島さん、生活の党の三宅さん、共産党の志位さん、藤野さん、池内さん、吉良さん、民主党の菅さんと続いた。 ミサオ・レッドウルフさんの挨拶は迫力あるコールで終ったが、福島瑞穂さんと吉良よし子さんも最後にコールで挨拶を終えた。鎌仲ひとみさんや小熊英二さんらが登壇。(2015/3/8 16:20~45) 政治家のスピーチの後で、一旦、シュプレッヒコールで勢いを整えて、ふたたびスピーチが始まる。 映画監督の鎌仲ひとみさんは上映が始まった映画『小さき声のカノン』の話と、福島に住む子どもたちの保養の重要性を話された。 絵本作家の松本春野さんは、さまざまな事情の中にある福島の人たちに寄り添うことの大切さについて、市民電力連絡会の竹村英明さんは再生可能エネルギーへの転換がもたらす脱原発への道について、それぞれ訴えられた。 雨宮処凛さんもスピーチの後にコールの声を上げられた。続いて登壇した小熊英二さんは、学者らしくとても冷静な話しぶりだった。3・11以降、社会の空気は確実に変わったこと、原発再稼働を目論む経産省にしても最大でも5、6基の原発しか稼働出来ないと考えているということから、仮にどこかの原発が再稼働しても3・11前とは大きく変わったことは間違いない、という話だった。 ただ、小熊さんの話に参加者の1部は不満だったらしく、ブーイングが出た。パーフェクトゲームではなくても前進している、ということに対して不満があったらしい。パーフェクトゲームを望むというのは間違いではないが、冷静な状況判断も必要だろう。どのような運動でも、行け行けどんどんの人たちはいるし、その人たちが運動を牽引するエネルギー源になることは否定しないが、完璧主義は原理主義であったりする。そして、困ったことに運動集団の中では過激な原理主義がしばしば説得力を持ったりするのである。 私は、小熊さんのような冷静な状況分析を貴重に思う。ただ、このような集会では、政治家のように「ともに闘いましょう」とかシュプレッヒコールで感情をシンクロさせるような話しぶりが歓迎され、冷静で客観的な小熊さんのような話しぶりは好まれないのだろうとは思う。しかし、感情を煽る演説には大きな落とし穴があることは歴史が示していることも確かだ。情熱と理性がともに手を携えて、などということはきれいごとかもしれないが…… 国会前に連なる人々。宵闇の中で。(2015/3/8 16:50) スピーチはまだ続いていたが、そろそろ終りの17:00近くなってきたので、集会全体の様子も見たいと思って、演壇前を抜け出した。人々の列は正門前から「財務省上」交差点近くまで連なっていた。「国会前」交差点近くで。(2015/3/8 16:56) 公園を廻って、「国会前」交差点から議事堂正門に向かってみる。交差点の近くではブラスバンドの演奏とそれに合わせてダンスを踊る人がいた。集会のスピーチの邪魔にならないようにずっと離れて演奏しているので、観客は少ないが、みんな熱心に見入って、拍手をしている。 道の向こうでは、こちらも集会から離れて、ひとかたまりの集団がコールに声を合わせている。「国会正門前」交差点を挟んで、向こう側に人が集まっている。 総勢で何人ぐらいか見当が付かないが、日比谷公園での大集会、請願デモ、国会大包囲集会を併せて、延べ23,000人の参加者というのが、主催者の公式発表だった。
2015.03.08
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新幹線は、定刻通り18時04分に仙台駅に着いた。2日ほど前から風邪で鼻をグズグズさせていたのだが、妻の制止を振り切って計画通りに東京へ遊びに行った帰りである。 仙台駅から歩いて東二番丁通りに向かう。金曜日だが、春闘がらみのデモとコースが重なったので、金デモはデモならぬ街頭宣伝(チラシまき)に変更したのだ。東二番丁通りと中央通りの交差点の角で午後6時からやっているはずである。 東二番丁通りと中央通りの交差点で。(2015/3/6 18:12~30) 15、6人が集まって、チラシ配りをしている。そんなに寒くはないと思っていたが、写真を何枚か撮って一休みしていると意外と冷え込んでくる。 配ったチラシは、「3・21みやぎアクション」の案内チラシである。福島の原発事故が起きた3月に毎年開催しているイベントで、一昨年は700人、昨年は2,000人の参加者があった。今年も大勢の参加を呼びかけようということだ。 中央通りは歩行者専用で、もともと人通りが多いのだが、夕方は午後6時頃がピークらしい。信号待ちで多くの人が溜まってからいっせいに渡っていくので、人出の時間変化が分かりやすい。6時45分くらいになると、あきらかに人通りが減ってきたのが分かる。 しかし、チラシ配りの写真を撮るのは難しい。大勢の人が通り過ぎるときが配るチャンスなのだが、写真では大勢の通行人だけが写って、配り手は人混みに隠れてしまうのだ。 冷え込んできた。(2015/3/6 18:32~50) 午後7時近くになって、青葉通りを行くデモの声が聞こえてきた。賃上げ要求のデモということなので、春闘のデモであろう。 デモといえば、加藤恵子さんという方がフェイスブックに書いていた投稿が面白かった。関西電力前で抗議中、警官がデモ行進が来るから早く止めろとか、道に上がれとかうるさかったのです。どんなデモが来るかと待っていたら、全くのぼり旗はあるのだが何を主張しているデモか全く分からない。その上一言も言わない。腕章なんかつけていたので、どうも春闘がらみの組合のデモらしい。そこで私は、みなさんちょうどいい所へ来られました、関西電力前です、高浜原発再稼働反対の一言、いかがですか? と声をかけたがそれでも無言。しかしなんども呼びかけたら、最後の方でやっと再稼働反対の声が上がった。こちらも手を叩いた。しかし、あの葬式のようなデモは何だったのだろう? もう組合押しつけのデモなんか止めたらどうですか。個人個人が意思表示しようよ。 私も現役時代は組合のデモにも出ていたが、今の金デモのようにたった1人の意志だけで参加している方がたしかに気分がいい。どんな組織にも、友人、知人のしがらみにもとらわれず、流されず、私の意志だけがすべてというのはほんとうにすっきりとしている。 加藤恵子さんとは、明治公園で開かれた脱原発デモの集会で1度お会いしたことがあるだけのFB上の知人だが、その行動力にはほとほと感服している。原発、辺野古、憲法、秘密保護法がらみのデモばかりか、ホームレス支援の炊き出しまで行なっている。だから、次のようなFBの投稿も、切実に首肯できるのである。あまりのバタバタで、本読む時間が全くない。気が変になりそうだ。私の時間を強奪しているのは安倍だ。返せ、私の時間。 加藤さんの行動力に比べたら、私のは脆弱にすぎるとしみじみ実感せざるを得ないのだ。
2015.03.06
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