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9月19日未明に参議院で戦争法案が強行採決されるまで、脱原発金デモに加えて、仙台ばかりでなく東京にも出かけて法案反対のデモや抗議行動に加わった。 東京のホテルで強行採決のニュースを聞いて、ふっと「この辺で息継ぎをしないと」と思ったのだった。終わりの始まりというより、国会前に集まった無数の人びとを見ていると、何かが始まったように思えた。みんなと一緒に始める前に、深く息継ぎをしておく必要があると思ったのである。 なのに、息継ぎどころか、熱を出して寝込んでしまった。いや、一仕事終えると熱を出して寝込むことが現職のときの習いのようだった私にとって、これが息継ぎなのかもしれない。 寝込んでいるあいだ、アーレントの『過去と未来の間』という本を読んだ。国会前に出かけるときもザックに放り込んで読み継いでいたのだが、読み残しているところも読み返さなければならないところもたくさんあった。収められている8編の論考は、プラトンから現代までの政治哲学を縦横に駆使しているので、熱っぽい頭にはなかなか手に負えないのである。 人間の自然に対する態度を「制作」と「行為」から考察した後に、アーレントはこう書いている。 人間の行為とは人間を起点とする諸過程を伴うものであるが、こうした人間の行為はわれわれの時代を迎えるまで、人間の世界のうちにとどまり、また、人間が自然に抱く主要な関心は、自然を制作の素材として用い、それをもって人工のものを建設し、この人工のものを自然のエレメントの圧倒的な諸力から守ることに尽きていた。ところが、人間自身の手になる自然過程を開始させた――核分裂はまさに人間が作る一つの自然過程にほかならない――とき、われわれは、自然に対する自らの力を増大させ、地球に与えられた諸力を扱ううえでいっそう攻撃的になっただけではない。われわれはその瞬間に、自然を初めて人間の世界そのもののなかに導き入れ、これまでのあらゆる文明を拘束してきた自然のエレメントと人工のものの間にある防衛戦を取り除いてしまったのである。 先に言及した人間の行為の諸特徴が人間の条件の核心をなすと考えれば、自然のなかへと介入する行為がいかに危険であるかは明々白々である.予言不可能性は見通しの欠如ではない。人間の事例をいかに工学的に操作しようと、この予言不可能性をけっして除き去ることはけっしてできない。それはちょうど、いかに実践的な思慮(プルーデンス)を訓練しても、為すべき事柄を知りうる知恵(ウィズダム)に達しえないのと同じである。予言不可能性をうまく処理する望みが出てくるとしたら、それは、行為を全面的に条件づける場合、すなわち行為を全面的に廃棄する場合だけだろう。 [1] これは1958年に発表された論文の一節である。政府や東京電力が言う「想定外」などという話ではない。核分裂という自然過程を人間の行為として始めることで人間社会に持ち込んだ予言不可能性を処理する方法は、その行為を廃棄するしかないと断言しているのである。 原発のどこそこが危険で、どれどれは安全、などという細々した話ではない。ギリシャ哲学から現代思想まで動員して考え抜いた「人間の行為の諸特徴」から、原発を廃棄するしかないのだ、というのがアーレントの結論だ。 そのアーレントの言葉を抱えて、今日も脱原発デモに出かける。まだ熱っぽいのだが、寝ていることに十二分に飽き飽きしていた。 集会@肴町公園。(2015/9/27 14:30、32) 集合時間の午後2時の段階での集まりはさほどでもなかったが、45人の参加者になった。私のようなデモ疲れの人はあまりいないようだ。 今日初めて参加したという若い女性は、安保法制反対のデモに出かけて、ダメなものはダメだと主張することの大事さを知ったと話していた。この若い人にも「始まったもの」がある。安倍自公政権は、私たちのなかに確実に「何か」を始めさせる契機を作ったのである。 フリー・トーク。(2015/9/27 14:15~29) 主催者挨拶の後、11月23日(月)12:30から開催される「市民による女川原発の安全性を問うシンポジウム」の告知があった。二人の元東芝の原発技術者をパネラーに迎えてのシンポジウムは、仙台市情報・産業プラザ 多目的ホール(500人収容)で開催される。 また、この秋には宮城県議会選挙があるが、「脱原発市民会議」では先の仙台市議会選挙と同様に県議候補者全員に原発への姿勢を問うアンケートを行なうので、アンケート結果をきっちりと検討して選挙に臨んで欲しいというスピーチがあった。 福島裁判などへの署名の案内の後、映画『首相官邸の前で』の紹介、告知があった。3・11の後、首相官邸前ではずっと原発再稼働に反対する抗議行動が続いているが、それにずっと関わってきた慶応大学教授の小熊英二さんが監督したドキュメンタリーである。小熊さんは、この一連の抗議活動、デモから民主主義への運動の質が変わったと考え、「現代日本に実在した、希望の瞬間の歴史を記録」した映画を作った。10月24日(土)に桜井薬局セントラルホールで11:00、13:30、17:00の3回上映される。 最後に、いつも金デモに参加されているシンガーソングライターの苫米地サトロさんが新作を披露され、参加者全員の手拍子で盛り上がって、その勢いでのままデモは出発した。 肴町公園から国分町通りを越えて。(2015/9/27 14:39、41) 一番町に入って。(2015/9/27 14:45) 肴町公園を出て、国分町通りを横切り、歩行者専用の一番町に出る。そこではさまざまなイベントが催されていて、デモはそれを避けながら(たいていは左寄りですり抜けて)一番町を北に向かう。 広瀬通り、いつもとは逆に。(2015/9/27 14:46)今日のコーラー。 (2015/9/27 14:47、49、15:00) 1番町をさらに北へ。 (2015/9/27 14:47、49) 前回の肴町公園出発のデモでは広瀬通りを左折したが、今日は広瀬通りを渡って、一番町をさらに定禅寺通りまで進み、そこで左折する。広瀬通りを過ぎても、あいかわらず所々で何かしらのイベントをやっている。 定禅寺通りを西へ。 (2015/9/27 14:55、57、59) コールの声を上げながら定禅通りに出て左折すると、中央分離帯歩道でジャズの演奏をしている。それに気付いた私たちのデモは、急遽サイレントデモと化した。そのことに気付いた主催者らしい人がこちらに謝意を表するようにお辞儀をしている。 一番町から西に向かう定禅寺通りは、市立図書館のあるメディアテークや市民会館が先にあるせいか人通りが絶えない。四列の欅並木が並ぶ定禅寺通りから、左折して晩翠通りに入ると並木は銀杏に変わる。欅の定禅寺通り、銀杏の晩翠通り。(2015/9/27 14:59、15:03) 晩翠通りを行く。 (2015/9/27 15:05、06、06)ふたたび広瀬通り。(2015/9/27 15:11) 仙台はもう秋だが、黄葉の遅い銀杏並木はまだまだ緑のままである。やや人通りの少なくなった晩翠通りを南に進み、広瀬通りを越えればまもなく出発点の肴町公園である。 今日は一番町を定禅寺通りまで長く歩いたので、周回コースのデモである。これまで金デモで使われた集会場所は、多い順に挙げれば、勾当台公園、錦町公園、元鍛冶丁公園、肴町公園、東北大学北門、良覚院丁公園だが、デモの最終地点に使われたのは肴町公園だけである。 肴町公園は、いつもの解散場所の青葉通り仙都会館まえより半分の距離でわが家に辿りつくので、個人的には大歓迎である。とくに、今日はまだ熱が下がっていないので、とても助かった。 [1] ハンナ・アーレント(引田隆也、齋藤純一訳)『過去と未来の間』(みすず書房、1994年) pp. 78-79。
2015.09.27
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高田馬場駅から下落合駅まで1時間弱の歩きだった。ほとんど疲れはないので、予定通り、続けて目白まで歩くことにする。Photo A 下落合駅から新目白通りを越えて。(2015/9/19 12:04)Photo B1(左) 右手(東)の坂道へ。(2015/9/19 12:05)Photo B3(右) さらに細い坂道へ。(2015/9/19 12:06)Photo B2 コンクリート土留め中段の彼岸花。(2015/9/19 12:05) 下落合駅の踏切から、妙正寺川を渡り、新目白通りを越えてマンションの並ぶ坂道を上る。新目白通りから100メートルも進まないうちに右手に魅力的な急坂が現われた。コンクリート壁の上には彼岸花の赤が鮮明に映えている道だ。 左に折れながらますます狭くなって続く坂道は、けっこう期待度が高い。Photo B4(左) 階段道を上ヘ。(2015/9/19 12:05)Photo B5(右) 坂上の住宅地。(2015/9/19 12:06)Photo C ツルハナナス。(2015/9/19 12:10) 狭い坂道を道なりに行くと、左に曲って、その先では広い道に戻ってしまうようだ。広い道が見え出す頃、右手に階段道が現われたので、さらに上に行くことにする。 階段道を上がりきると、住宅地の道は平坦になる。2階の窓近くまで伸び上がったツルハナナスがたくさん花を咲かせている家がある。その辺が、高台の尾根に相当するようだ。Photo D1(左) 薬王院西の階段道(1)。(2015/9/19 12:12)Photo D2(右) 薬王院西の階段道(2)。(2015/9/19 12:12)Photo E 黒揚羽と曼珠沙華。(2015/9/19 12:14) 道の突き当たりの塀の向こうに立ち並ぶ墓石の先端が見えている。その墓地の塀に沿って歩いて行くと、急な石段道の上に出た。降り口には、なぜか兎と梟の彫刻が乗った石柱が立っている。 曲がりくねった石段を下りていくと寺院の屋根が見える。「東長谷寺 瑠璃山薬王院」である。階段を下りきった塀の前に彼岸花(曼珠沙華)が咲いていて、黒揚羽が蜜を吸っている。Photo F1 薬王院山門。(2015/9/19 12:15)Photo F2 富安風生の句碑。(2015/9/19 12:17) 薬王院の山門に入ってみた。山門の前後の参道脇には牡丹の木がたくさん植えられている。その牡丹を詠んだものか、寺内にあった富安風生の句碑には「中空に日のとどまれる牡丹かな」とあった。「あじさい寺」ならぬ「ぼたん寺」でもあろうか。 富安風生には次のような名句もあるが、この牡丹の門は薬王院の山門かもしれない。行き過ぎて牡丹の門に立ちもどる [1]Photo G1(左) 野鳥の森公園入口。(2015/9/19 12:12)Photo G2(右) 野鳥の森公園。(2015/9/19 12:12)Photo G3 野鳥の森公園と脇の坂道。(2015/9/19 12:21) 薬王院の隣に「野鳥の森公園」の案内があった。ここでやっとこの辺りを歩いたことがあることに気付いた。3年ほど前、高田馬場から新井薬師まで歩いたことがあって、確かに野鳥の森公園と下落合駅を通り過ぎたことを思い出した。 公園の東には裏へ抜ける坂道があることも思い出して、その道を行くことにした。Photo H(左) 野鳥の森公園からの道。(2015/9/19 12:23)Photo I(右) 落合中と落合四小の間の道。(2015/9/19 12:30) 公園の坂道は、坂のまま住宅地に入り、右にカーブしながら少し広い道に出る。散歩にふさわしそうなその道を右に入って行くと、向こうから小学生がたくさん歩いて来る。下校時間らしい。 雰囲気のいい道だったが、子どもたちが写ってしまうので写真を撮ることは憚られた。しばらくはカメラを構えることもなく歩いて、落合中学校と落合第四小学校の間まで来てようやく子どもたちが途絶えたので1枚だけ撮した(Photo I)。その道はすぐに「おとめ山公園」に突き当たる丁字路で終わっている。Photo J1 おとめ山公園。(2015/9/19 12:35)Photo J2 おとめ山公園を分断する道。(2015/9/19 12:37)Photo J3 東のおとめ山公園。(2015/9/19 12:38) 丁字路は左の落合中へ上るような坂道で、その途中に公園入口があったが封鎖されていた。道へ出る見通しが悪いためらしい。その上の別の入口から入って、林の中を下って行った。 公園内には小川が流れていて、親子連れがザリガニ釣りをしていた。東口から公園を出ると、道の向こうもまた公園になっている。Photo K(左) おとめ山公園からの道。(2015/9/19 12:39)Photo M(右) 住宅地を緩やかに下る道。(2015/9/19 12:47) Photo L サルスベリ。(2015/9/19 12:42) 大きな池の上端を抜けて公園を出た。このあたりからそろそろ北へ向かわないと目白駅に辿りつかない。 住宅地の道を突き当たれば曲る。そんなふうに北に向かって歩いて行く。もう十分に秋だというのに満開のサルスベリの木がある。百日紅の名にふさわしい。Photo N 山手線脇の道。(2015/9/19 12:50) Photo O 階段を上がれば目白駅前。(2015/9/19 12:06)Photo P JR目白駅。(2015/9/19 12:52) 住宅地の道は緩やかに下って丁字路に出る。右にまっすぐ進むと山手線に突き当たる。山手線に沿った道の先には階段道があって、足の不自由な人が一段ずつゆっくりと降りてくるのが見える。 階段を上がるとJR目白駅前の広場だ。 街歩きMap。A~Pは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。 [1] 『現代日本文學大系95 現代句集』(筑摩書房 昭和48年)p. 84。
2015.09.19
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JR山手線、高田馬場駅は高架の下にあって、改札口を出ると山手線の架道橋の下に出る。今日は、ここから西武新宿線の下落合駅まで歩き、体に余裕があれば、そこから山手線の隣駅である目白まで歩いてみるつもりだ。Photo A 高田馬場駅と山手線架道橋。(2015/9/19 11:18) 駅から出て、すこしばかり東に歩き、振り返って山手線の高架を眺める。架道橋そのものは高田馬場駅のホームの1部で、長い平屋建てが架かっているような姿だ。Photo B1(左) さかえ通り入口。(2015/9/19 11:18)Photo B2(右) さかえ通り。(2015/9/19 11:20)Photo C 高田馬場西商店街の通り。(2015/9/19 11:19) 高架の下を通る道の先は緩やかな坂道の商店街になっていて、道端では今どき珍しいチンドン屋が楽器を鳴らしている(Photo Cの左の歩道)。 左手に「さかえ通り」、「東京富士大学入口」という案内が掲げられた道幅の狭い商店街が見えた。飲食店の看板が賑やかな道だ。そこに入ってみることにした。 Photo D 神田川(「しみずがわ橋」から)。(2015/9/19 11:22) さかえ通りは緩やかに左にカーブした道で、次第に飲食店の看板が少なくなっていく。右手の路地を除くと、空色に塗られた橋の欄干が見える。当然のようにその路地に入った。 街歩きではたいてい、平地より坂道、広い道より狭い道、直線道より曲がりくねった道、川や橋や緑地に惹かれながら歩くのである。Photo E 東京富士大学と「たじま橋」。(2015/9/19 11:26)Photo F1(左) メドーセージ。(2015/9/19 11:29)Photo F2(右) 高田馬場西商店街通りへの坂道。(2015/9/19 11:30) 「しみずがわばし」という橋で神田川を越える。そのまま進むと、下落合に遠くなるので、左手に見つけた1メートルほどしかない細道を抜けて、神田川の上流に戻る。 東京富士大学の建物が見える。両岸に建物があり、川越しに連絡通路が備えられている。 大学のやや下流に、やはり空色に塗られた「たじまはし」がある。その橋を渡り、大学本部の建物の前を通り、高田馬場駅からの道を目指すと、最後は勾配のきつい坂道になった。Photo G 高田馬場西商店街通り(駅方向)。(2015/9/19 11:31)Photo H 西商店街通り。(2015/9/19 11:36) 坂道を上りきって出た通りで「高田馬場西商店街」という名称を見つけたので西商店街通りと呼んでおく。 高田馬場駅方向へは緩やかに下っているようだが、これから歩いて行く西方向はフラットになっていて、ここからは低い丘陵の尾根のような地形らしい。 街灯の上の方に手塚治虫が描いたさまざまなキャラクターが描かれた四角い看板が掛けられていく。「手塚治虫プロダクション」が高田馬場にあるためらしい。Photo I1(左) 北の路地へ入る。(2015/9/19 11:39)Photo I2(右) さらに北へ。(2015/9/19 11:40)Photo J 階段下は「戸三小通り」。(2015/9/19 11:41) 西通り商店街を西に進むほど賑わいは薄れていく。通りに出てから6、7分、距離にして4、500メートル歩いたあたりで右手(北)の住宅地の細道に入った。突き当たりを2度ほど折れて北に進むと緩やかな下り坂になり、その最後は下り階段があって、階段下はやや広い道になっている。 地図を見ると、細い道が縦横に走る中で、その道は戸塚第三小の南西辺を沿うように進み、さらに神田川の湾曲に沿うように西から南へと曲っていく道だ(「戸三小通り」だという)。Photo K1(左) 「戸三小通り」。(2015/9/19 11:42)Photo K2(右) 「戸三小通り」から西の住宅地へ。(2015/9/19 11:45)Photo K3 もう色づいた柿の実。(2015/9/19 11:45) 階段を下りて広くなった道を西に歩く。わずかに右に湾曲する道で、三階建て程度のアパートらしき建物が多い。 道は小学校の南西角で右に折れるが、そこで左に入る細道に入る。普通の民家が並ぶ住宅地で、それぞれの庭に植えられた緑の多い道である。普通の住宅なら3軒ほどが建ちそうな広さの空き地に銀杏の大木が4本ほど並んで立っている。 銀杏の空き地を過ぎて右に曲って行くと、5メートルほどの柿の木があって、たくさんの実がもうきれいに色づき始めている。東北の農村育ちなので柿の木は珍しくないはずだが、いつも心惹かれるものがある。初秋の柿の木は自然の豊穣さを感じさせ、木の葉がすべて落ち、取り残されたわずかな実が残る晩秋の柿の木には厳冬に向かう寂寥を強く感じる。柿の木は秋になって初めてその存在感を顕わにするようだ。Photo L1(左) 路地を抜ける。(2015/9/19 11:47)Photo L2(右) ボケの実。(2015/9/19 11:47)Photo M 階段を下りて再び「戸三小通り」へ。(2015/9/19 11:47) 塀越しに数個の実がなる木瓜の植え込みを見ながら細道を辿ると、わずかに道は下り、その先はまた階段になっていた。下は変則的な三叉路で、さらにその先は「戸三小通り」が交差する十字路である。Photo N1(左) また、戸三小通り。(2015/9/19 11:49)Photo N2(右) 戸三小通りから右に分かれる。(2015/9/19 11:51)Photo O 神田川にかかる「せゝらぎ橋」。(2015/9/19 11:52) ふたたび「戸三小通り」を辿って行くと、道は直角に左に折れる。その角に「戸三小通り」という道標が立てられていて道の名前が分かったのだった。 「戸三小通り」ではなく、そこで分岐する右の道に入った。道の先に6段ほどの階段を上って、神田川に出た。そこに架けられている橋は歩行者専用で、「せゝらぎ橋」という表示があった。 Photo P1(上) 「せせらぎの里公苑」(1)。(2015/9/19 11:55)Photo P2(下) 「せせらぎの里公苑」(2)。(2015/9/19 11:56) 「せゝらぎ橋」を渡ると、「せせらぎの里公苑」の入口である。公園に入ってすぐ左手にあったトイレで用を済ませた。いつも思うことだが、東京の街歩きでは適当な間隔で公園が現われ、トイレで困ることはない。なまじ自然の残る田舎都市よりも便利がいい。 この「せせらぎの里公苑」は、東京都下水道局落合水再処理センターという下水道処理施設の上に造られた公園だという案内看板があった。公園の中で都会のトイレのことを考えていたはずの私は、トイレの後処理施設の上に立っていたのである。Photo Q 下落合駅を出る西武新宿線電車。(2015/9/19 12:00) 「せせらぎの里公苑」を出ると「下落合」駅へ行く道である。駅に近づいていくと、おりしも西に向かう西武新宿線の電車が下落合駅を出て踏切を横切っていくところだった。 街歩きMap。A~Qは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。
2015.09.19
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2015年9月19日午前2時を回った頃、参議院で安全保障関連法案が可決された。国会前から早めにホテルに戻った私は、テレビもつけず、いくぶん神経が高ぶっていたのか眠れないままに本を読んでいた。 ハンナ・アーレントの『過去と未来の間』という20年も前に出版された本だが、あまり頭には入らないのだった。ただ、昨日から今日にかけて、「過去」と「未来」を隔てる事態が起きたのだろうかなどという思いがちらっと頭をよぎった。 18日午後早くからの会議が30分ほど予定より早く終わって地下鉄でホテルへ向かう途中、「国会議事堂」駅で「9条壊すな!」というプラを持った数人が乗ってきた。国会前には、昼も夜も人が集まって抗議していて、もう帰り足の人もいるのだ。 ホテルで背広を脱ぎ、急いでデモ仕様の服装に着替える。朝、家を出るとき「2足の草鞋だからたいへんね」と妻にからかわれたが、替える靴も含めるとけっこうな量の荷物を担いできたのだった。 国会正門前、北庭側歩道。 (2015/9/18 17:41、42) 「霞ヶ関」駅を上がると、もうその辺りにも警察車両が何台も止まっている。交差点ごとに大勢の警察官がたむろ(?)しているが、「南側歩道が空いています」と案内しているものの、とくに行き先を規制している様子はない。 国会前の北側歩道に入ると、スムーズには前に進めないほど人が集まっている。SEALDsらしい青年がコールをしている付近はほとんど身動きできないほどだ。警察車両の壁(「国会前」交差点から)。 (2015/9/18 17:39) 車道には警察車両がびっしりと並べられている。車と車の間は人が通れないほどくっつけて並び、その前に警察官が1m間隔で並んでいる。8月30日や9月14日のようには車道には絶対に出さないという構えである。 本部前。(2015/9/18 17:49、50) 歩道をじりじりと前に進み、正門前交差点角の本部前に辿りついたが、南庭側から渡って来る人もいてほとんど身動きがとれない。何人かのご婦人がテープを持って左側通行を呼びかけていた付近からは、そろそろとだが移動できる。 6時半から集会を始めるというアナウンスがあったので、集会前に一通り回ってみようと、本部前を過ぎて北へ歩き、憲政記念館前の庭に入った。憲政記念館前(北庭)。(2015/9/18 17:55) 国会正門前、南庭側歩道。(2015/9/18 18:03、06) 憲政記念館の前から北庭を抜けて、最初に入った北庭沿いの歩道から「国会前」交差点を渡って、南庭沿いの歩道に入った。交差点付近は確かに空いていたが、中程からは混み出した。 不思議なことに、参加者のほとんどの人は警察が設置した鉄柵の前に並んで、警察車両の前に並んでいる警察官と対峙しているように見える。だが、けっして怒鳴り合っているわけでも揉めているわけでもない。じつに静かな示威行動なのである。 「国会正門前」交差点の角まで辿りつくと、そこから北庭の本部前への横断舗装は閉鎖されていて、何人かが猛烈に抗議していた。たぶん、この交差点が決壊に対して最弱の場所なので警察も必死なのだろう。 開放された歩道寄りの車道(北庭側)。(2015/9/18 18:20、24、36) 正門前南庭の角から南に向かい、南庭の周囲を一周すると、そろそろ集会開始の6時半に近づいてきた。北側歩道のどこかに定位置を見つけようと再び「国会前」交差点を渡った。 交差点を渡り終えたところで、コールしながら歩道を勢いよく下ってくる一団があった。コールしているのはSEALDsの奥田さんだった。その一団は交差点まで下り、車道に入って再び正門方向に上がって行く。私もその集団に混じって、歩道沿いの車道を正門前に向かった。 歩道沿いには1車線の車道があり、中央の車道の間には狭い植え込みで区切られている。警察車両は中央車道に並べられていて、初めから歩道沿いの1車線を緩衝ゾーンとして空けておいたらしい。 正門前に近づいていく途中ではSEALDsの青年がコールしている。そこで一緒になって声を挙げている内に集会が始まったので、スピーチを聞くために少しずつ前に進んだ。 「SEALDs」のコールで。(2015/9/18 18:45、48、49) 15分ほどスピーチを聞いてから、そろそろと下ってまたSEALDsのコールに加わった。私のような年齢になっても、彼らの軽快なコールはとても心地よいのである。それに若い声がとてもいい。元気が出る。 最初のコーラーは、Tシャツの色が黒から白に変わっているが、私がここに着いた5時半頃に歩道でコールしていた人のようだ。次に帽子をかぶった男性に替わり、3人目のコーラーは女性だった。 「国会前」交差点近く。(2015/9/18 18:57、19:12) コールに合わせて声を上げている内に喉が痛み出した。そろそろと下って「国会前」交差点に近づく。もう交差点の所まで人がびっしりと詰まっている。交差点の角では、別の一団がコールしていた。 南庭側も1車線開放。(2015/9/18 19:16、16、18) 「国会前」交差点から南側歩道に入る。こちらも歩道沿いの1車線が開放されていて交差点付近はまだ空きがあったが、すぐ上で詰まってしまった。そこでしばらくスピーチを聞いていた。午後7時くらいで4万人の参加者だというアナウンスがあった。 しばらくすると、進行がSEALDsに委ねられ、全体が一斉に若いコールに応えはじめる。私の隣で声を上げていたご婦人が「1枚いただけませんか」というので「戦争させない」というプラを渡し、私は「強行採決ゼッタイ反対」というプラを掲げて声を出した。 SEALDsのコールが終わる頃がそろそろ引き揚げ時だと判断した。国会内は緊急状態で、多くの人は遅くまで残るだろうと思ったが、年寄りは明日以降のことも心配しなければならないのだ。 戦争法案は強行採決されたが、国会前に集まった人々の中ではまだ何も終わっていない。国会前に個人個人が自発的に集まって、その数が10万人を超えたということは、大きな意味を持っている。 その一人ひとりの心の中に本当の民主主義が発動したのだ。「民主主義って何だ。民主主義ってこれだ」というSEALDsのコールの通りなのだ。これまでの私たちは、民主制という制度に安住して民主主義を生きるという姿勢に欠けていたのではないか。 そして今、これから、一人ひとりの国民の自覚によって、日本の「民主主義」と「近代」は始まるのではないか。そうすることで、近い将来、私たちは日本国憲法、とりわけ憲法9条を体験的に新しく獲得し直すことができるのではないか。そう信じることができる。今日はそういう日だ。 精神において民主主義を体現し、政治的制度において民主主義を実現することは、私たちが政治的にも精神的にも「自由」を獲得することを意味する。 疲れたままホテルのベッドにもぐって読んだアーレントの一節を記しておく。自由の現われは、〈原理〉の顕現と同様、パフォーマンスの行為と時を同じくする。人びとが自由である――それは自由の天分を所有することとは違う――のは、人びとが行為するかぎりのことであり、その前でも後でもない。というのも、自由であることと行為することとは同一の事柄だからである。 [1] 自らの意志によって国会前に集まり、自らの行為として明晰な声を上げ続けた人びとは、「自由である」ことに決定的に踏み出しのだ。ここから始まる。 [1] ハンナ・アーレント(引田隆也、齋藤純一訳)『過去と未来の間』(みすず書房、1994年) p. 206。
2015.09.19
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少しならず体に力が入らない。午前中に胃の内視鏡検査を受けたことと、そのために食事を抜いたことが効いているようだ。40歳の時に胃の大半を切除したので、医者の忠告に逆らえず、最近は胃癌検診替わりに内視鏡検査を一年に一度受けている。 知人の何人かは東京に出かけたが、私としてはそう何度も出かけられない。今週の金曜日には出かけられるが、それまでに山場が終わってしまいそうな雰囲気もある。少なくとも安倍政権はその構えだ。 東京には行けないが、仙台でもデモ・集会がある。検診終了後、早めに昼食を作り、夕方までひたすら体を休め、そして家を出た。 満杯の元鍛冶丁公園。(2015/9/14 18:13、14) 前回(9月6日)の安保法案反対の集会・デモパレードは3500人も集まったが、あいにくの雨降りだった。今日はずっと晴天でまったく雨の心配はない。 集会は午後6時からだが、始まる前から元鍛冶丁公園はほぼ満杯状態だった。私の感じでは2000人近いのではないかと思ったのだが、プログラム配布実数から1100人が参加したという主催者発表があった。 ステージ上のアピール。(2015/9/14 18:10、16) 主催者挨拶から始まった集会は、「安全保障法案に反対する宮城女性議員・元議員の会」、SEALDs_TOHOKU、新婦人の会、「安全保障法案に反対する学者の会」に賛同する宮城教育大有志の会と挨拶が続いて、集会アピールを採択して終わった。 最後に、今後の集会予定の告知があった。9月17日(木)18:00から元鍛冶丁公園で集会・デモパレード、翌18日(金)18:00から同じ元鍛冶丁公園で集会が予定されている。18日(金)は集会のみの予定だが、状況次第ではデモも行なうということである。 集会風景。(2015/9/14 18:17、19、23) 安保法案(戦争法案)の是非の議論の時期はもうとうに終わっていて、いまはひたすら反対の声を上げるときだ。この点に関しては、木村草太首都大学東京准教授の発言がきわめて明快だ。木村さんは、9月13日のNHK日曜討論で次のように述べている。 時期じたいは、私は熟しているというふうに思います。 まず法案の違憲性ですけれども、元最高裁判事、元法制局長官、著名な憲法 学者、のほとんどが、つまり憲法解釈の専門的なトレーニングを受けた方のほとんどが、この法案に違憲な部分があると言っています。また世論調査でも、違憲であるという認識が多数を占める状況になっていて、違憲な点があるという点は決着がついています。 また法案の必要性についても、少なくとも、今国会で成立させるべきではないという意見が、どの世論調査でも大勢を占めています。 さらに政府の説明ですけれども、政府がまともに説明する気があるのかという点についても、それはなさそうだ、ということがわかってきました。 したがってこれは否決・廃案以外にはない。そういう判断ができる時期に来ていると思います。 (1) 法律関係者も国民も法案は違憲だと判断して議論は決着している、(2) 国民の大勢が法案成立に反対している、(3) 政府は説明する気がない。よって、否決・廃案する以外にない。 明快にして簡明、民主主義国家であればこれ以外の選択肢はない。問題は、安倍自公政権も自民党、公明党も民主主義そのものを理解していないところにある。結局、私たちは集会・デモで意思表示するしかないのである。 一番町を行く。(2015/9/14 18:36、43、50、53) デモ・パレードは、6グループ(梯団)に分かれて一番町から青葉通りと進んだ。6日の3500人は20梯団だったので、仙台で交差点をまとまって越えられる一梯団は、170~180人くらいらしい。1グループの人数を出発前にあらかじめ分けておいて、その先頭にコーラーやトラメガを振り分けておくとデモの効果はもう少し上がるように思う。 一度、明治公園から渋谷までの数万人の反原発デモに参加したことがあった。そのデモでは、主催者が出発時点で一梯団の人数を区切り、各梯団にはコーラーが乗った先導車が付いていたことがあった。さすがに東京のデモは違うと田舎者は思ったのだったが、一方で、大人数デモの難しさ、主催者の苦労は私の想像を超えていたのだった。コーラーには顔見知りも。(2015/9/14 18:08、19:04) みんなの気持ちが集まった塗り絵アピール。(2015/9/14 18:43) こんなアピールも。(2015/9/14 18:07~51) 「民主主義って何だ!」、「民主主義ってこれだ!」というのはSEALDsの若者たちが考えたコールだが、今の日本の政治状況の中では、私たちが今日、ここで行なっている集会やデモ・パレードが唯一の民主主義の顕現のように思えてくる。それほど、国民の声が政治中央に届きにくいのである。 かつて、時代が進むほど人間はいっそうの知恵を得て、世の中はどんどん良くなると思っていたのだが、いまや時代が進むほど世の中が悪くなってしまう。ベクトルが逆なのだ。人間が愚劣だった昔の時代に憧れる政治家が後ろ向きに走っているためである。国道4号(青葉通り)を渡る。 (2015/9/14 18:58)デモの最後列。 (2015/9/14 19:04) 国会前では、警察の規制線が決壊して車道に数万の人が溢れているとFBやツイッターが次々と写真や動画で伝えてくる。8月30日の再来である。 仙台では、1100人が整然とデモを行なっているが、私たちの怒りが沸騰して、大通りをフランスデモが進む事態など起きないように願いたい。自民党や公明党の議員たちの想像力(と知性)次第だが……
2015.09.14
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「これまでに経験したことがない大雨」という表現がけっこう威圧的な大雨特別警報が、栃木、茨城に続いて宮城県にも発令された。鬼怒川決壊の甚大な被害や自衛隊ヘリによる救助の様子が報道されたこともあって、広瀬川堤防沿いに住む身としてはかなり緊張を強いられた。 10日夜に入って、広瀬川が少しずつ増水し始めたころ避難準備の指示が出たあと、私が住む町内に避難警告が出たのは明けて11日の午前3時だった。2階のバルコニーの温室の中から広瀬川を眺めても水位がよく見えない。土砂降りの中をバルコニーに出てみると、下流の河川敷公園が完全に濁流に覆われているのが見えた。 急いでレインウェアを着て堤防に出て水位を見たが、まだまだ余裕がある。ここで40年あまり暮らしていて、この程度の出水はとくに珍しくないのだが、問題はこの後の増水である。 避難のタイミングを計るため、30分おきぐらいに水位を見に堤防に出てみたが、増える気配がない。というよりも、わずかずつ減水しているように見えるくらいだ。明るくなって水際まで寄ってみるとはっきりと減水の跡が見え、河川敷公園の雑草が姿を現わし始めた。 午前6時前くらいに、わが家として自発的に「避難警告解除」を宣言した。「いざとなったらおばあちゃんを背負って2階に上がればいいよね」と妻はのんびりしていて、私も話を合わせていたのだが、ことはそれほど簡単ではないのである。 広瀬川は仙台の旧市街を渓谷となって流れている。わが家は渓谷の崖の内側、右岸側の一段だけの河岸段丘の上に立っている。水が堤防を越えてくるとか堤防が決壊するとかということではなく、わが家の高さまで水が上がるということは、そこまで川になって濁流が流れるということになる。水位によっては激流となるだろうから、2階でのんびりと減水を待つというのは想像しにくいのだ。 いざとなれば111歳の義母のために車で避難せざるを得ないので、私としては水嵩と車を出すタイミングを計るのに汲々としていたのだが、危機感がそれほど高まらないまま終わってしまい、大崎市や大和町の被害の報道に見入っていたのである。 集会@肴町公園。(2015/9/11 18:42、43) 台風通過の後にどこか似ていて、蒸し暑い感じの午後になった。長袖のシャツを着て肴町公園に向かったが、急ぎ足になると汗ばんでしまうのだった。 今日は参加者はそう多くない。午前中はJRや市バスの1部は運休だったし、高校の多くは休校になっている。あれだけの雨だったので、仙台やその近郊でもいろいろな被害があったにちがいない。フリー・トーク。(2015/9/11 18:46~58) 最初のスピーチは、明日12日にメディアテークで上演される映画『シロウオ』の告知だった。副題に「原発立地を断念させた町」とあるように、徳島県阿南市椿町の「蒲生田原発」と和歌山県日高町 の「日高原発」を断念させた二つの町で反対運動にかかわった人々のドキュメンタリーである。 また、11月23日12:30から仙台市情報・産業プラザ多目的ホールで開催される「市民による女川原発の安全を問うシンポジウム」の案内もあった。 一人で市役所に出かけて、市会議員に脱原発デモへの参加を呼びかけているというスピーチもあった。政治家の顔が見える運動という大切さを訴える話で、各政党に知り合いがいるならぜひ声をかけて欲しいと話されていた。 また、9月9日に開かれた仙台市の防災計画課との懇談会の報告もあった。原発事故に対する仙台市の基本的な姿勢は、国や県の施策の範囲内にとどまっていて、市独自の対策はほとんどないというのが実情らしい。福島の飯舘村のように原発に隣接していない地区でも放射能汚染で全村避難した実態を踏まえた対策を仙台市でも積極的に行なうべきだと要望したという。 最後に、昨日からの大雨で加美町・田代岳の指定廃棄物最終処分場候補地へ通ずる道が土砂崩れで通行止めになったことが報告された。放射性廃棄物を安全に管理すべき施設を大雨で交通遮断されるような場所に作るべきではないことが強調された。 また、福島県飯舘村で放射能除染土を詰め込んだフレコンバッグが多数流出して、いくつかは回収したものの、流出した量は把握されていないという事例も報告された。これもまた、原発事故は4年経ってもコントロールされていない明白な事例のひとつだ。 さらに大雨に関連して、宮澤経産相が産業に甚大な被害がなかったことをもって「今日は幸運な日」と発言したことが紹介され、死亡者、行方不明者まで出て、被害に苦しむ多くの国民に1片のシンパシーも持ちえない自公政権の本質を批判したときには、思わず参加者から大きな拍手が上がった。 肴町公園から一番町へ。(2015/9/11 19:06、07) 一番町を広瀬通りへ。(2015/9/11 19:11、12) 40人のデモは、暗い細道を一番町に向かう。青葉通りと広瀬通りの中頃の一番町にまっすぐに出て、そこから一番町を北に向かって広瀬通りで曲るので、今日のデモコースとしての一番町はとても短い。 明るい一番町が失敗の少ない写真の撮りどころなので忙しい。しかも、今日はコンデジを預かってそのカメラでも写すので距離の短さは気が気ではないのだった。今日のコーラー。(2015/9/11 19:13) 広瀬通りを西へ。(2015/9/11 19:15、18、20) 晩翠通り。 (2015/9/11 19:24) 一番町を左折して広瀬通りに入る。一番町や国分町から離れるにしたがってだんだん通行人が少なくなる。雑音レベルが下がっていくのだが、その分だけコールの声が遠くまで届くような感じがする。 広瀬通りを左折して晩翠通りに入ると、いっそう人通りは減ってしまう。そこで写した写真を眺めていると、みんな伸びやかな感じで歩いているように見える。デモなんだから、人目を気にしないので伸びやかになるということはないと思うのだが。 青葉通り(国分町通りを過ぎて)。(2015/9/11 19:34) 青葉通り(一番町を横切る)。(2015/9/11 19:35) 晩翠通りから青葉通りに曲った辺りがこのコースで一番暗い場所だ。芭蕉の辻のある国分町通りを越え、一番町に近づくと急に明るくなる。 一番町付近は、12月開業予定の地下鉄工事が続いていて、デモは変則的に曲る車道を右に左に進んで行く。1週間ほど前から、広瀬川の地下鉄架橋を頻繁に渡っていく試験車両らしい列車が見られるので、この付近では「一番町駅」の最終工事だけが残っているのだろう。青葉通り(東二番丁通りを渡る)。(2015/9/11 19:35) デモの列を前後しながら、歩いたり走ったりしているうちに背中がびっしょりと濡れてしまうほど汗をかいてしまった。 今日のデモは広瀬通り、晩翠通りと回る距離のあるコースだったので、いつもの市営バスには間に合いそうもなかった。バスを諦めて、自宅まで急ぎ足で帰り、もう一汗かいた。
2015.09.11
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今日の反戦争法案集会は、わが家の川向かいの西公園が会場なので、開始時間前に行なわれているライブ演奏の音が広瀬川越しに聞こえ初めてから家を出た。 西公園の中ほどにあるグランドには予想していた以上の人たちが集まっている。1500から2000人位を想定していたのだが、はるかに多い。後で3500人の参加という発表があったが、実感としてはもっと多いと思ったほどだ。 30日の国会前は「10万人」とうたって12万人、今日は「3000人」に3500人。デモや集会の目標はあくまで目標であってそれを上回ることは多くはない。それだけ、安保法案に反対する国民の意志が、私たちの想像以上に広く大きいということだろう。 集会直前@西公園。(2015/9/6 13:58、14:00) 集会。(2015/9/6 14:12、14、23) 集会が始まる前は、多くの旗が林立していてとてもカラフルで賑やかだったが、後の人のために旗を下げて欲しいという案内で集会が始まると一斉に旗が下げられ、向こうまでずーっと見通せるようになって、大勢の人の頭にあらためて驚いてしまった。 後方で。(2015/9/6 14:20、30、40) 主催者(仙台弁護士会)挨拶から始まった集会では、地方議員、学者、宗教関係者、母親グループ、SEALDs_TOHOKUの学生の挨拶の合間に、指定廃棄物最終処分場反対の先頭に立つ猪股加美町長や山崎拓元衆議院議員、現役自衛官の家族からのボイスレターやメッセージが披露された。 前の方には元気な若い人たち、後方では休みながらメッセージを聞いいているお年寄りたちといろんな世代が集まっている。中には、両手に杖で体を支えながら熱心に耳を傾けている姿も見られた。 これは、このあとのデモ・パレードでのことだったが、広い交差点を渡って行くデモの列に一生懸命ついていく足の不自由な方もおられ、みんな強い思いで参加されているのだということにうたれた。 雨が降り出した。(2015/9/6 14:31、37) 集会の途中から雨が降り出したが、もともと雨の予報が出ていたので、静かに傘が開いていってなにごともなく集会は続いていく。 ほぼ予定通りに集会は終わり、デモ・パレードが始まった。 西公園(市民会館口)から定禅寺通りへ。(2015/9/6 15:25、35、37) パレードの列は、市民会館横まで公園の中を進み、そこから定禅寺通りにでる。晩翠通りの広い交差点を渡ると、左側通行から右側通行に変わり、中央分離帯の欅並木に沿って進む。一番町に入るときにスムーズに右折するためだろう。 一番丁をいくパレード。(2015/9/6 15:52、53) 定禅寺通りで第三グループまで写真を撮って、1番町を行く先頭に追いつくために、国分町の通りを走った。広瀬通りを越え、藤崎の手前で1番町に入り、やっと前に出ることができたが、藤崎を過ぎればすぐに青葉通りに左折するのである。 青葉通りを渡る第1、第3グループ。 (2015/9/6 16:00、05) 中央通りを先回りして東二番丁通り(国道4号)の交差点で、降り続く雨の中をやって来るパレードの列を待った。第一グループがやってきて、そのまま解散地点まで列についていって、ふたたび交差点まで戻って続くグループを待つことにした。 ただ、解散地点までの往復のあいだに第二グループが交差点を渡り終えていて写真を撮り損ねた。 アピールいろいろ。(2015/9/6 16:11~48) 青葉通りをいく第9、第13グループ。 (2015/9/6 16:20、31) せっかくなので、国道4号の大通りを渡ってくるすべてのグループを見ておくことにした。デモ・パレードは20のグループに分かれてやって来た。第1のグループが渡り始めてから最後のグループが渡り終えるまで50分を要した。雨の中でじっと待っているには、この長さはけっこうな負荷だった。解散地点(第1グループ)。 (2015/9/6 16:04) 先頭のグループが仙都会館前の解散場所に着いたのが16:04で、この時点では最終グループは西公園を出発していないとのことだった。 年寄りの冷や水そのもので、デモ・パレードの全体を写したい(見たい)と思ってけっこうな距離を走り、長い時間立ちつくしていたのでそれなりに疲れた。挙句の果てに、休日でバスの本数が少なく、歩いて自宅に帰ってきたのだった。
2015.09.06
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夢を見た。しだいに不愉快になり、憤りのような感情が湧きあがって、そして目が覚めた。 こんな夢だ。瀬戸内寂聴さんの写真の横に若い男性(たぶん、SEALDsの奥田さん)の写真が並んでいる。お二人は対談したらしいのだ。そこで、その内容を知ろうと探し始める(おそらくネットで)のだが、何も見つからない。 安保法案のことや闘いのことだろうと予想はつくが、何も見つからない。また、二人の写真の場面から始まって、情報検索、何も見つからない、そんなふうに同じ夢を繰り返す。 何度かの繰り返しの後に、「いったい俺は何をしてるんだ」と目覚めて(夢の中で)、それからどんどん腹が立ってきて、何か声を上げた瞬間に目覚めた(今度は、ほんとうに)。 目覚めて、考えた。この夢には少なくとも二つの問題がある。 反自公政権という立場からは、お二人の言動はたいへん注目されている。とりわけSNSで取り上げられることがきわめて多い。それはそれでたいへん素晴らしいことだと思うし、私もまたお二人を尊敬している。 ただ、私は自分の中にヒーローを作ってはいけないとずっと考えてきた。だから、どこか心弱くなって、お二人のことを頼りにしているのではないかと夢の中で心配したのだと思う。 ヒーローを待望するようになると、人は自分でものを考えなくなる。泣くにせよ、笑うにせよ、闘うにせよ、逃げるにせよ、自分の精神だけを頼りにしたいのだ。 自らの精神の活動を閉ざしてしまうのは、自分の力だけで考えることを放棄するためだ。私をつまらない場所に閉じ込めるのは、他ならない私自身の心と肉体なのだ。 ぼくたちを閉じこめている格子は鉄でもなければ、木でもなくなまの筋肉で出来ている、この動く格子のなかからぼくはどうしても逃れることができない。 鮎川信夫「夜の終わり」より [1] もう一つ気になったのは、なぜ何度もお二人の対談内容を探し出そうとしたのかということである。あの執拗さは、どうも単なる知的興味だけとは思えない。何かに役立つと思っていたに違いない。 たとえば、それをブログネタにしようと考えたというなら最悪である。自発的な行動、行為、経験の後にブログを書くのであって、ブログのために何かの行為が求められるのは私にとっては本末転倒である。ブログを書くために何かをやるくらいなら、ブログなんてやらない。 いずれにせよ、そんな夢を見る自分に腹を立てているのである。 寝覚めの悪い1日が始まり、それでも夕べともなれば金デモに出かけるのである(気晴らしに、ということではない、けっして)。 集会@錦町公園。(2015/9/4 18:39、40、43、43) お盆を過ぎれば、どんどん日が短くなる。家を出て錦町公園に向かうあいだにすっかり陽が落ちてしまった。 ここ数日は暑さがぶり返したが、すっかり晴れ上がるわけではない。ときどき小雨が降ったりするので、蒸し蒸しという暑さだ。長袖から半袖の上衣に替えていたのだが、公園に着く頃にはけっこう汗まみれになった。フリー・トーク。(2015/9/4 18:45、49、54) 集会は、川内原発2号機の燃料装填の話題から始まった。福島原発事故の月命日の11日に始めるということで、福島事故の反省どころか、事故被害へのいかなるシンパシーも持ち合わせていないことがうかがえる話である。 そのあと、女川原発再稼働反対を目指すシンポジウムの企画の告知もあった。詳細チラシは来週早々に完成するということだ。 自然エネルギーへの変換を目指して始められた市民による太陽光発電事業「きらきら発電」が着工して、9月6日に開所式が開かれるという報告があった。 また、「脱原発仙台市民会議」が仙台市の防災計画課に申し入れていた懇談会が、9月9日13:00から市役所・市民の部屋で開かれるという案内があった。仙台市の防災計画や日本の原子力規制政策について懇談形式で話し合いが行なわれる。 さらに、女川から福島の現状視察に行かれて、復興にほど遠い福島の現状についての報告もあった。 千葉県市川市から親の介護のためにときどき帰仙するつど金デモに参加される方の挨拶もあった。自分の母親、妻の母親と介護が続く私にとっても「デモと介護」は主要なテーマである。 最後に、30日に開かれた「2015年夏Hot語りのカフェ」とその後の街宣活動への参加の報告があった。 定禅寺通りを行く。(2015/9/4 17:06、14) 一番町に入って。(2015/9/4 19:18、19、19) 民主党政権時代は2030年には原発ゼロにするとしていたので、脱原発運動は条件闘争的な要素もないではなかった。しかし、自公政権になってから、原発を基盤エネルギーに据えるという政策によって、脱原発は反自公政権そのものでなければならなくなった。 その間、白井聡さんの『永続敗戦論』 [2] や矢部宏治さんの『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』 [3] などの著書に典型的に現われたように、自公政権打倒を超えて、アメリカ合州国政府と向き合うことが避けられないことを多くの国民は知ることになった。 原発による日本国土の荒廃のみならず、戦争法案という日本国民の命を賭ける政策に対峙せざるを得ない私たちは、当面は自公政権に抗っていくしかないが、いずれは、日本の政治システムの背後にべったりと張り付いているアメリカ支配に向き合わざるを得ない。 先に詩を引用した鮎川信夫は、先の戦争に行き、生き残った詩人である。新しい戦争危機の時代にあって、その詩集最後には奇しくも「アメリカ」と題する詩が収められている。それは一九四二年の秋であった「御機嫌よう!僕らはもう会うこともないだろう生きているにしても 倒れているにしても僕らの行手は暗いのだ」そして銑を担ったおたがいの姿を嘲けりながらひとりずつ夜の街から消えていった胸に造花の老人たちが死地に赴く僕たちに惜しみない賞讃の言葉をおくった予感はあらしをおびていたあらしは冷気をふくんでいた冷気は死の滴り……死の滴りは生命の小さな灯をひとつずつ消してゆくMよ 君は暗い約束に従い重たい軍靴と薬品の匂いを残しこの世から姿を消してしまったのだ………今でも僕は橋の上にたつと行方の知れぬ風の寒さに身ぶるいするのだ「星のきまっている者はふりむかぬ」Mよ いまは一心に風に堪え 抵抗をみつめて歩いて行こう 荒涼とした世界の果へ…… 鮎川信夫「アメリカ」より [4]コーラーのお二人。(2015/9/4 19:18、21) 一番丁。 (2015/9/4 19:27、29、30、32)脱原発犬、チョモランマさん。(2015/9/4 19:16、29) 55人のデモに、今日も脱原発犬としてチョモさんが加わっている。まったりと集会の時間を過ごし、飼い主さんと挨拶をし、デモの間は泰然とキャリーカーに座っている。 青葉通り。(2015/9/4 19:36、38、38) 夏休みが終わったせいか、今日の街には人が少なかったような気がする。雨さえ降らなければ、当面はデモにはいい季節が続く。 [1] 『鮎川信夫全詩集 1945~1965』(荒地出版社、1965年) p. 86。[2] 白井聡「永続敗戦論――戦後日本の核心」(太田出版、2013年)。[3] 矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル、2014年)。[4] 『鮎川信夫全詩集 1945~1965』(荒地出版社、1965年)pp. 240-243。
2015.09.04
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