山行・水行・書筺 (小野寺秀也)
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二週間前、図書館から4冊の本を借り出してきたが、どれもつまらなかった。我慢して読んでいれば何か起きるかもしれないとも思ったのだが、我慢しきれずすべて返却して、自分の本棚から以前に読んだ何冊かを引っ張り出した。その中の一冊、ジジェクの『「テロル」と戦争』に次のような一文があって、ザクッと突き刺される思いがした。「たんなる生」以上の何かを与えてくれる過剰な緊張に関与する――私たちが「本当に生きている」のはそうした過剰な緊張のもとにおいてのみである。そのように考えたらどうだろう? たとえ「楽しい時間」であっても、それがたんなる延命への執着にすぎず、その結果、私たちが生それ自体を喪っているとしたら、どうだろう? 極論だが、パレスチナ人の自爆攻撃が、自分自身(や他の人びと)を吹き飛ばす点において、何百マイルも離れた敵に対してコンピュータ・スクリーンの前に座って参戦しているアメリ力兵や身体を良好に保つためにハドソン川沿いをジョッギングするニューヨークのヤッピーたちよりも「生き生きしている」としたら、どうだろう? [1] 私はヤッピーのような暮らしをしているとはついぞ思っていなかったのだが、最近、己の身体を慮って散歩にいくぶんトレーニング的な要素を入れた(まるで川沿いをジョッギングするヤッピーではないか)。簡単な筋トレのようなことも始めたのだが、少し無理をしたようで週二回整形外科に通う羽目になった。山登りに夢中になっていたときに痛めた左の股関節周りの筋肉痛が五年ぶりに再発したのだ。 コミュニティのいろんな役が増えてしまって忙しいことに加えて、病院にも通わなければならないのに、図書館通いも止められないのである。習慣化した「文化的生活」を捨てられないのだ。スラヴォイ・ジジェクに思いっきり揶揄された気分になったのも、当然なのである。 『「テロル」と戦争』を何年前に読んだのか忘れてしまったが、その読書メモ(抜き書き)を作っていた。しかし、上の文章は抜き書きをしていなかった。いったい何を読んでいたのだろう。たぶん、ジジェクに揶揄されるような生活はしていないと思っていたのだろう。無自覚なのである。そのときの抜き書きの中に、上の文章の直ぐ後に書かれていた次のような文章があった。こうした、あらゆる超越的〈大儀〉に反対し、あくまで〈生〉の肯定にしがみつくという態度における最大の敗北がアクチュアルな生それ自体の敗北に他ならないというパラドクスは、まさにニーチェ的なパラドクスである。生を「生きるに値する」ように作りあげること、それが生の過剰である。それは、ひとがそのためにみずからの命を危険に曝すことを喜んで受け容れる何かが存在することを自覚することである。そして私たちは、この「過剰」を「自由」「名誉」「尊厳」「自立」などと呼ぼうと思う。私たちがこうしたリスクを負う覚悟をするときにだけ、私たちは生きているのだ。 [2] 抜き書きをしたのはこの言葉を心に留めなければということなのだが、私は私なりに生の「過剰」を求めて生きていると思っていたからではないのか。恥ずかしいことだが、どうもそういうことらしい。「生き生きしている」と思い込んで、先の文章のようにジジェクに揶揄されるいわれがないと思いあがっていたのだろう。 そして、「そのためにみずからの命を危険に曝すことを喜んで受け容れる何か」が欠けていること、しかしそれが避けがたく身近に迫りつつあることを少しずつ自覚し始め、ジジェクの揶揄がザクっと刺さってきたということなのだろう。 この自覚は、おそらく、憲法も法律も政治権力によって無力化されている現在の情況によって、もっと直截に言えば、安倍自公政権の政治的暴力によってもたらされたものだ。この危機感を共有する人は大勢いるが、その何倍もの人々はこの危機に無自覚のように見え、それがいっそう私を不安にする。 本を読んで抜き書きをする。どんな文章を抜き書きするかは、その時々の暮らしぶりや思いに強く依存する。こんな当たり前のことにあらためて気づいたのである。勾当台公園から一番町へ。(2018/9/14 18:47~19:12) 相変わらずの遅刻である。午後から行った整形外科が異様に混んでいて時間がかかったのだが、いったん帰宅してからの休憩時間が長かったというに過ぎない。 40年も使ったオンボロ原発である東海第2原発の20年延長を原子力規制委員会が認めるということ、北海道大地震で外部電源を喪失してかろうじて〈非常用電源〉で使用済み核燃料を冷却した泊原発のことなどがスピーチの話題だった(らしい)。非常用電源で冷却するのは「非常事態」のはずだが、原発には異常がありませんとアナウンスするのはどういう意図なのだろう。 なにか凡庸な夜である。闇に艶やかさがない。秋らしい空気の鋭敏な感じもしない。気温だけが初秋らしいが、デモの周囲を急ぎ足で移動していると汗ばんでくる。出がけに妻が「寒くないの?」というほどの薄着だったのに……。一番町。(2018/9/14 19:17~19:23) ソニーが企業として使用する電力をすべて再生エネルギー由来の電力に切り替えるというニュースがあった(9月9日付日本経済新聞電子版)。その理由がきわめて重大で、原発の未来を致命的に左右することになりそうだ。 ソニーは事業運営に必要な電力をすべて再生可能エネルギー由来に切り替える。現在7%の再生エネ比率を2040年までに段階的に引き上げる。環境対策の優れた企業に投資や調達を集中させる動きがあり、企業価値に直結すると判断した。日本では10社程度にとどまる全面切り替えが、半導体など生産に大量の電力を使う大手製造業にも広がってきた。 世界中の事務所や工場など111拠点で使う電力を再生エネに切り替える。テレビやカメラなどの生産に必要な電力に加え、映画などコンテンツ製作も含む。工場の屋根に太陽光パネルを設置したり、再生エネを使ったとみなされるグリーン電力証書を買ったりして再生エネ比率をまず30年に30%まで引き上げる。 再生エネへの全量切り替えを目指す世界的な企業連合「RE100」に加盟する。米アップルなど先行する欧米勢に加え、日本では富士通やリコー、イオンなどが参加し30~50年までの全量切り替えを目指している。 ソニーは欧州ですでに再生エネ活用100%を達成しているが、グループ全体の電力消費の8割は日本に集中している。半導体工場があるためだ。ソニーの電力などに由来する温暖化ガス排出量はリコーの4倍あり、同連合に加盟する日本の製造業では最多になるとみられる。 (中略) 環境や社会への配慮で優れた企業に投資するESG投資は世界的な潮流になっている。世界持続可能投資連合(GSIA)の集計によると、世界でESG投資に向かった金額は16年に22兆9千億ドル(約2540兆円)と14年比で25%増えた。 日本でも約160兆円を運用する最大の機関投資家、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が17年からESG指数に基づいた運用を始めた。再生エネへの切り替えは一時的にコスト増を招くが、「対応しなければ(資金調達など)事業が立ちゆかなくなる未来が来る」(ソニー幹部)と取り組みを強化する。 ネグリ&ハート流に言えば〈帝国〉としてグローバルに展開する世界システムとしての資本主義は、その心臓部を金融資本が占めている。その心臓部の「環境対策の優れた企業に投資や調達を集中させる動き」に対応する企業の経営戦略として再生エネルギーへの転換を標榜することが必須だということらしい。 つまり世界資本主義の本流は、化石燃料や原子力から再生エネルギーへの転換を促しているのだ。そうした世界の潮流からは、日本の企業も逃れる術はない。日本国内で、原発由来エネルギーを強制しようとする自公政権の政策は、あきらかに新自由主義経済政策で世界資本主義に参画しようしてきた自らの政治システムを否定することになってしまう。 世界〈帝国〉資本主義を先導する国々は、再生エネルギーへの転換を積極的に図るだろう。経済先進国としてのドイツは言うに及ばず、原発大国のフランスですら大胆な再生エネルギーへの転換政策を発表している。それに比べれば、安倍自公政権の経済政策は、東アジアの三流国そのもの、内向きで田舎者のそれに堕している。 かつての経済大国の没落を云々(デンデンではない)する経済評論がしばしば登場するのも「アベノミクス」の無残な結果なのである。安倍(ないしは安倍的)自公政権が続くかぎり、世界資本主義から日本は取り残され、しがみついた原発ともども果てしのない経済奈落へと陥っていくということだ。青葉通り。(2018/9/14 19:28~19:36) 猛暑が終わったせいか、今日のデモは参加者が多い。先々週の20名、先週の30名から40人になった。かといって、来週になればもっと増えるということにはならないだろうが、継続していれば人は戻ってくるということは間違いない。 毎週の金デモは、いわば「場所づくり」でもあるということだろう。そこでは、どれほどの参加者が「生き生きしている」のか私にはわからないけれども、誰かにとってそんな時空が作れたら、そのことで「生き生きしている」ことができるという逆説も成り立つだろう。 自公政権に隷従する原子力規制委員会が、次々再稼働を容認していくに違いないことを考えれば、金デモの作るこのささやかな「時空」の意味がどんどん拡大するだろう。そう思う。[1] スラヴォイ・ジジェク(長原豊訳)『「テロル」と戦争――〈現実界〉の砂漠にようこそ』(青土社、2003年)pp. 124-5。[2] 同、p. 126.読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2018.09.14
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