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【ホームページを閉じるにあたり、2011年2月23日に掲載したものを転載した】【続き】 菊坂通りを少しだけ戻って、左の細い坂道を上ることにする。散歩に欠かせないのは坂道と曲り角である。 秋の街曲り角多し曲りゆく 三橋鷹女 [7] 坂道を上り、和風旅館前を過ぎると、さっそく曲り角である。道なりに曲がって、同じように細い道を進む。道の向こうは広い通りらしく、その道の向こうは緑の森のようだ。この道から出る広い通りが本郷通りで、道向かいが東大であることを知るのは、通りに出てしばらくしてからである。地図を見ても、意外と文字を読んでいないということらしい(要するに、注意力散漫ということなのだ、私という人間は)。Photo M 道は和風旅館の前を通り右折する。Photo N 本郷通りに出る道。正面突き当たりは東大。 本郷通りを南方向、春日通りから入った方向に戻り、東大赤門を過ぎてすぐ右折して横道(Phoyo O)に入る。静かな住宅地である。Photo O 本郷通り東大赤門前を過ぎて、西方向に右折した道。 写真には、植木の世話をする婦人と散歩をするお年寄りが写っているが、左へ曲がりながらも道なりに菊坂通りへ出るまでの間、それ以外の人には会わなかった本当に静かな住宅であった。 Photo O にも小さく写っているが、白い塀の上にナツミカンがのぞいていた(Photo P)。季節が早くてまだ実が青いのが惜しまれる。正月ころには黄色が冴えるようになるのだろうか。 菊坂通りが見え始める下り坂の途中で、珍しい花を見た(Photo Q)。初見である。もちろん名前も知らなかったのであるが、後日調べたら「コエビソウ」という名であった。花が海老に似ていることによるらしい。中央アメリカ原産で、常緑の花木である。南関東では落葉するものの軒下で越冬するらしい。仙台での戸外栽培は無理で、室内の冬越しなら可能というわけで、私には手を出しにくい。家は狭く、無加温の温室もすでに満杯なのである。【左】Photo P 白塀越しのナツミカン。【右】Photo Q 初めて見るコエビソウ。 ふたたび菊坂通りに出たところは、先ほど入った尾崎一葉の住居跡に行く細道が分岐する十字路である。そのまま、菊坂通りを横切り、その細道を横目に見て坂道(Photo R)を上がる。本郷小学校へ行く道である。 本郷小学校を過ぎるとすぐ春日通りである。春日通りも突っ切り、まっすぐに歩く。アパート、マンションの並ぶ道である。左手に本郷台中学校がある。そこから2ブロックほど歩くと、比較的広い道と交差したので、そこを左折する(Photo S)。商店街のようであるが、通りの名は分からない。これぐらいの規模の通りには良く街灯などに表記されていることが多いのだが。Photo R 菊坂通りから本郷小学校へ行く坂道。Photo S 本郷台中学校を過ぎ、左折し、本郷通りへ向かう道。Photo T 本郷通りを横切って進む道。 その道は、200mほどで本郷通りに出る。ここでも大通りはパスすることにして、交差点を横断する。Photo T がそうして入った道である。この道は次第に右へカーブするが、道なりに進んで行くことにする。消防署前通りというやや広い道を越え、2ブロックほど先の信号を過ぎると、次第に上り坂になる道が向こうに見えてくる。 「湯島2丁目」交差点を越えたあたりから坂道が始まる。坂の途中に霊雲寺という寺がある。谷中にはやたらと寺があったが、この付近にはこの寺だけがあるようである。寺町を形成する場合と、そうでない場合の違いはなんだろう。町の成り立ちに関係しているだろうとは思うのだが。Photo U 「湯島2丁目」交差点過ぎの坂道。Photo V 霊雲寺西南の交差点付近。 坂の頂上は、「三組坂上」交差点である。まっすぐに進む道は急な下り坂である。右に曲がる道も下り坂である。左の道は平らで、向こうの突き当たりは緑の森のようだ。地図で確認すると、「三組坂上」交差点で出会った道は、先ほど歩いた湯島天神の鳥居の前からまっすぐに来る道なのであった。Photo W 「三組坂上」交差点。Photo X 「三組坂上」交差点を南に右折、清水坂下に向かう。Photo Y 蔵前橋通りを「清水坂下」交差点で横切り、神田明神へ行く道。 「三組坂上」交差点から右の坂を下りて、神田明神に向かうことにする。当初は、谷中から歩き出し、JR御茶ノ水駅か飯田橋駅あたりを目標にするという程度のもくろみであったが、実際には、室生犀星が詩に書いた(「上野-本郷 その1」)ように、「坂は谷中より根津に通じ/本郷より神田に及ぶ」のとおりに歩くことになる。 「三組坂上」交差点から下りると、道は蔵前橋通り「清水坂下」交差点に出る。蔵前橋通りを過ぎると道はふたたび上り始める。左手に神田明神に行く道があるのだが、見落として本郷通り近くまで行って気づき、引き返して、たどり着くことが出来た。 神田明神は、目にも鮮やかな朱塗りの楼門と本殿を持つ神社である。神社の朱塗りは珍しくはないが、この神社の朱はとくにあでやかな気がする。Photo Z 神田明神。Photo ZA 神田明神東の石段道。Photo ZB 明神下中通り。 神田明神の楼門前を過ぎ、神社北横に出ると、神田明神下の町に下りる高い石造りの階段道(Photo ZA)がある。神田明神がこの高さにあるのだから、文字どおりの神田明神下である。 神田明神下といえば野村胡堂の「銭形平次」である。原作は読んだことはないが、大川橋蔵主演のテレビドラマを何回かは見たことがある。「神田明神下」は、語呂がいいというか、リズムがいいというのか、よく分からないが口につきやすく、覚えやすい地名のように思う。 石段道を下り、少し直進して右に折れると、その道は神田明神下中通りである(Photo ZB)。小さなオフィスビルの多い通りである。この道をまっすぐあるいて、本郷通りに出る。本郷通りは緩やかな坂になっていて、右折して坂を上っていく。 本郷通りの坂を登りきる少し手前を左折し、昌平坂を下る道に入る。昌平坂入口の右手の公衆トイレがあり、そこに立ち寄った。Photo ZC に写っているタクシーは、私と並んで用を足した運転手さんのものである。 そのタクシーの向こう、右側舗道沿いの塀が尽きるあたりにある緑は、斜面の植生のものである。その緑の中に見慣れない花を見つけた(Photo ZD)。蔓性の木の枝の葉の付け根から一花ずつ咲いている。五弁の紫に白の覆輪を持つ花である。花の直径は2cmほどであろうか。 木の全体がよく見えなかったのと、 白の覆輪という花に惑わされたが、白覆輪がなければクコ(枸杞)の花にそっくりである。クコも枝の一部を拡大すれば、蔓性草本に見えなくもない。たぶんクコだったろうが、そのときは、しばらくのあいだ、ためつすがめつ眺めていたのである。Photo ZC 本郷通りから昌平坂を下る。Photo ZD 昌平坂右側の石垣に咲く(たぶん)クコ(枸杞)の花。【左】Photo ZE 湯島聖堂のトネリバハゼノキ。【右】Photo ZF 湯島聖堂の紅葉。 昌平坂を下り、神田川沿いの外堀通りを右折し、湯島聖堂に立ち寄る。 湯島聖堂と行っても聖堂そのものには寄らず、庭を通り抜けただけである。ここにも初めての木があった。「トネリバハゼノキ」である(Photo ZE)。中国名を「楷(かい)」というそうである。中国は曲阜にある孔子の墓所に植えられ、現在まで植え継がれている木の種子を持ち帰ったものだそうだ。湯島聖堂ならではの木で、他では見られそうにない。 孔子像を見て奥に進み、坂と階段を上がり、塀沿いのまっすぐな道を少し歩いてからふり返ると、絶妙な紅葉をする大樹に気がついた(Photo ZE)。上の方はは黄から赤へと移りつつあり、下には、黄に染まり始めた枝があり、それらの色が緑から浮き立っているのである。 この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 三橋鷹女 [8] 東北の山を歩いて、全山紅葉を幾度となく見ているが、そのときもやはり、そのパノラマよりも1本の木の微妙な変化の方に打たれることがある。景色ではなく、一つの生の美しさである。 さらに大成殿への石段を上り、本郷通りから聖橋へ向かう道に通り抜けた。 神田川にかかる聖橋に向かって歩き始める。その道には銀杏の並木があるが、こちらはまだまったく色づいていないのであった。 外堀通りから聖橋にかかるころ、橋向こうのやや高くなったところに、ニコライ堂の屋根が見える。なんの根拠もないが、ニコライ堂のことはずっと知っていたように思えた。その時の地図には記されてはいなかったが、ニコライ堂だという確信にまったく疑念はなかった。 Photo ZG 聖橋とニコライ堂の遠景。Photo ZH お茶の水「駅前」交差点。 聖橋を渡り、「聖橋」交差点を右へ、御茶ノ水駅前に出る。そこはスクランブル交差点で、ほとんどは学生の集団で、一斉に渡るのだ。 小腹が空いて、そこから少し戻って中華料理店でラーメンを食べ、そこで本を読み、読書用の眼鏡をその店に忘れ、東京駅から引き返すというおまけがあったが、今日の街歩きはここが最後ということにした。群集の中に浴(ゆあ)みするということは、誰にでも出来ることではない。群集を愉しむことは一つの芸術である。ただ選ばれた者のみが、──幼い時に守護の妖精によって、仮装と仮面との趣味を、定住への嫌悪と旅行への情熱を、彼の揺籃(ゆりかご)の中へ吹き込まれた者のみが、人類の犠牲に於て、ひとり恣(ほしいまま)に生活を享受することが出来るのである。 シャルル・ボードレール(福永武彦訳)「パリの憂愁 12 群集」部分 [9][1] 「道浦母都子全歌集」(河出書房新社 2005年) p. 370。[2] 現代日本文學大系19「高浜虚子・河東碧梧桐集」(筑摩書房 昭和43年) p. 45。[3] 「日本の古典 54 芭蕉句集」(小学館 昭和59年) p. 211。[4] 「わが愛する俳人 第二集」(有斐閣 1978年) p. 83。[5] 長田弘「詩集 記憶のつくり方」(晶文社 1998年) p. 31。[6] 「現代詩文庫26 石原吉郎詩集」(思潮社 1969年) p. 80。[7] 現代日本文學大系95「現代句集」(筑摩書房 昭和48年) p. 215。[8] 「わが愛する俳人 第一集」(有斐閣 1978年) p. 109。[9] シャルル・ボードレール「ボードレール全集 第1巻」(福永武彦訳)(人文書院 1963年) p. 297。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.04.20
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【ホームページを閉じるにあたり、2011年2月23日に掲載したものを転載した】 不忍通りを南に下ると横山大観記念館があって、ツワブキの咲く落ち着いた庭が見えたが通りすぎてしまった。今になって少し後悔している。 「不忍池西」交差点を右折すると、旧岩崎邸の裏の坂道に入る。無縁坂という。坂の上にあった無縁寺という寺に由来すると、坂下の看板に説明がある。森鴎外の「雁」の主人公が散歩した道で有名だともあったが、読んだのはずっと昔のことで私には記憶がない。散歩の道に、いくつか良い坂道を持っていることは大事なことだ。必ずや心静もる石畳この伸びやかな坂を登れば 道浦母都子 [1]Photo A 旧岩崎邸庭園裏の無縁坂。Photo B 無縁坂を上り、旧岩崎邸庭園に沿って左折した道。 無縁坂の道の片側は石垣と塀で、上りきっても塀が続いている(Photo B)。その塀の終わりを左折する。つまり、旧岩崎邸に沿って反時計回りに歩いた。その道には当然のように三菱資料館があって「三菱の歴史がわかります」 と謳ってある。 なんか、きちんと当たり前なのであった。 文京体育館プールを過ぎてからまた左折すると、道と旧岩崎邸の間に道に沿って公園がある。その公園は、右に折れる道に沿ってずっと続いている(Photo C)。 この道を出ると春日通りで、切通坂の途中である。Photo C 旧岩崎邸庭園を反時計回りに歩き、春日通り湯島天神前に出る細道。Photo D 湯島天神境内、菊花展。Photo E 湯島天神南の道。「湯島中坂上」交差点付近から湯島天神を見る。 「湯島天神入口」交差点から湯島天満宮に向かう。境内では菊花の展示会が開催されていて、豪華な菊の花々が目を引く。日本の園芸独特の鑑賞法だと思うが、私が菊に持つイメージとは異なる。 籬あり菊の凭るゝよすがあり 高浜虚子 [2] しら菊の目に立てゝ見る塵もなし 松尾芭蕉 [3] 去る人と知らず小菊に文を書く 長谷川かな女 [4] 私が好きなのは、小菊であり、乱菊であり、籬の菊である。琳派の描くような菊なのだ。 湯島天神の鳥居からまっすぐに伸びる道に出て、湯島小学校のある道へ右折する。小学校以外は、マンションなどの集合住宅と小さなオフィスビルの続く道である。まだ確信はないが、東京ではこのような道が標準的で特徴のない道なのではないかと思える。 道なりにまっすぐ進み、突き当たりになったので右折し、春日通りに出る。春日通りを西へ、本郷に向かって歩く。Photo F 湯島小学校北側の道。街歩きMAP 青線は歩いたコース。A〜ZHの赤矢印は、写真のおおよその撮影地点と撮影方向を示している。地図のベースは、「プロアトラスSV4]である。歩行軌跡は、「GARMIN GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータによる。Photo G 春日通り、「本郷3丁目」交差点。 春日通り「本郷3丁目」交差点に出る。この交差点は見覚えがある。東大に出張の時、地下鉄を降りて地上に出て来た場所である。どちらに歩いて行けばよいのか、しばらく周囲を見回していた場所なので、記憶に残ったのだろう。 当然ながら、ここを右折した本郷通りを歩いたはずである。 本郷通りに入ったが、東大方向は避けて、すぐ左折して菊坂通りに入った。そこには、「文の京 一葉文学のまち」という案内板があって、樋口一葉が記した文章と対応する本郷近辺の地点を示している。読み始めたのだが、文章が多いのですぐに諦めた。相変わらず、私には文学者の足跡とか遺品とかへの関心が薄いのである。Photo H 菊坂通り、東端から。 菊坂通りを3分の2ほど進んだ十字路の左手を覗くと、菊坂通りに並行する細道(Photo I)が下っていくのが見えて、そこに入ることにした。本当に狭いが、長い道である。 道の脇、軒下、塀際にはたくさんの緑が張り付いている。狭い庭に花を植えて四苦八苦している私には、植物の配置、組み合わせなど、見ているだけで楽しい。真似てみたいやり方もいくつかある。Photo I 菊坂通りに平行に走る細道入口。Photo J 菊坂通り脇の細道。 150mくらい進んだころ左手に路地があって、なんとなく見覚えがある気がした。奥に階段があって、民家の2楷がその上にせり出しているのである。そうなのだ、これはテレビでいつか見た樋口一葉が暮らしていた路地なのだ。そうであれば、右手奥に井戸があるはずだが、隠れて見えない。かといって、その路地に入ることはためらわれた。ここには暮らしている人々がいて、その庭前に入り込む感じがして、それは不作法だという思いがするのである。親しい仲にも秘密がある。ひとの秘密には手を触れてはいけないのだ。それが生まれそだったゆきどまりのちいさな路地のおしえてくれた、ひとの暮らしの礼儀だった。 ……〈中略〉…… どんなちいさな路地にさえ、路地のたたずまいには、どんなひろびろとした表通りにもないような奥行きがある。ひとの暮らしのもつ明るい闇が、そこにある。 長田弘「路地の奥」部分 [5] 適当な距離を歩いて、左手の高みを並行する菊坂通りに戻った。さて、これからどちらに進むか少し悩んだ。家を出る前、ここから北方向、東大農学部の向こうにかつて本郷肴町と呼ばれた街があることを確認して来たのである。それは私の好きなこの詩のためである。おれが好きだというだけの町で おれが好きだという数だけ 熱にうるんだ灯がともっても 風に あてどは もうないのだ おれが好きだというだけでは 低い家並は道へはせり出さぬ おれが好きだというだけでは 人の出入りへ木漏れ日も落ちぬ おれが好きだというだけでは 片側かげりの電車も走れまい 本郷肴町 ……(中略) ……するめのようなこわい掌(て)を振って 陸奥のおとこが立去って行くむこう 本郷肴町に 雪は降っているか 石原吉郎「本郷肴町」部分 [6] 本郷肴町を探すことはあきらめた。文学者の足跡を訪ねてもこの私には何も起きないことを知っているからこそ関心を失っていたはずで、今日に限って何かあるとは考えられないのだ、と思いなしたのである。それに、仙台からの日帰りでの街歩きの私には、時間の制限も避けられないのである。Photo K 菊坂通りに戻り、東方向を見る。Photo L 菊坂通りから左折して北上する道。[1] 『道浦母都子全歌集』(河出書房新社 2005年) p. 370。[2] 『現代日本文學大系19 高浜虚子・河東碧梧桐集』(筑摩書房 昭和43年) p. 45。[3] 『日本の古典 54 芭蕉句集』(小学館 昭和59年) p. 211。[4] 『わが愛する俳人 第二集』(有斐閣 1978年) p. 83。[5] 長田弘『詩集 記憶のつくり方』(晶文社 1998年) p. 31。[6] 『現代詩文庫26 石原吉郎詩集』(思潮社 1969年) p. 80。[7] 『現代日本文學大系95 現代句集』(筑摩書房 昭和48年) p. 215。[8] 『わが愛する俳人 第一集』(有斐閣 1978年) p. 109。[9] シャルル・ボードレール『ボードレール全集 第1巻』(福永武彦訳)(人文書院 1963年) p. 297。【続く】読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.04.19
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【ホームページを閉じるにあたり、2011年2月21日に掲載したものを転載した】【続き】 須藤公園からの狭い坂道から出た高台の住宅地には「千駄木三丁目7」の表示がある。角を二つほど曲がって南の方に歩くと次第に道は下って、マンションが多くなる。突き当たったT字路は、坂の途中のように見えるが、「団子坂上」交差点である。Photo S 団子坂の途中から不忍通りの方を見おろす。Photo T 団子坂下交差点からみる不忍通り(南方向)。 団子坂を下る。下りた道は、さきほど須藤公園に向かう途中で横切った不忍通りである。 不忍通りを根津神社まで行くつもりなのだが、大通りを歩くのはあまり楽しくないので横道に入ると、汐見小学校に出る。東側の道を歩いて南へ。ここにもソメイヨシノがあって、日本の義務教育制度は、ソメイヨシノを共生菌のように抱え込んでいるかのようである。 汐見小学校の南端を左折し、細い道を不忍通りに戻る。また南に下り、「千駄木2丁目」交差点を左折して根津神社に向かう。Photo U 不忍通りから西に入った汐見小学校前の道。Photo V Photo U の道を右折してふたたび不忍通りに戻る道。Photo W 不忍通りから根津神社北門に向かう道(千駄木本通り)。 根津神社は、シイの木のたぐいの大きな広葉常緑樹に包まれている。「根津神社」の大きな石塔、立派な鳥居をくぐるが、そこは正面ではないらしい。見通しの悪い道を折れて本殿の側面に出ると、スダジイの大木がある。この木は仙台には生えていない。暖地の広葉常緑樹である。スダジイをスダジイと認識して眺めるのはこれが初めてである。Photo X 根津神社境内のスダジイの古木。 知らない土地を歩いて、そこが旅先だと実感するような契機は色々だろうが、私の場合は花とか木、植生の場合が多いような気がする。職を得てすぐの頃、学会が開催される横浜国立大学へ向かう途中の坂道で、草むらの中にクサボケの花を見つけたことがある。横浜は仙台よりずっと暖かいのだと思った瞬間で、今でもはっきりと覚えている。しどめの花を家へもって行くと 火事になると子供の時分聞いていたが いかにも本当らしく いい花だったけれど取ってこなかった 八木重吉「無題」全文 [12] 「しどめ」 とはクサボケのことである。クサボケが自生しない仙台にこのような言い伝えはないが、園芸用としては入手できる。小物盆栽の素材として貴重で、ずいぶん前に育てていたが、いつの頃か消えてしまった。Photo Y 根津神社境内。 根津神社本殿前には二人の参拝者がいるだけだったが、楼門のある広い境内にはおそらく団体で来たものだろう、年配のグループが三々五々休んでいた(Photo Y)。12時30分を回ったところで、昼食弁当の時間だったのかもしれない。 楼門のある方向が正面の参道だろうと、南東端の鳥居をくぐってふり返ると、その鳥居も「根津神社」の石塔も、北入口のそれとほとんど同じなのであった。表とか裏とか、ないのかもしれない。 根津神社を出て、ふたたび不忍通りへ向かう。その道の途中、「根津の名の由来には、ねずみのいわれ、台地の根にあって舟の泊まるところなどの各説がある」という旧地名由来の看板があった。民間伝承、単純な国語学、などいろんな人がいろんなことを言い、どうにもならんという風情である。Photo Z 根津神社南門から不忍通りへ向かう道。 不忍通りに出ると、そこの交差点は「根津神社入口」である。つまり、いま出て来た方が表の参道ということだろう。少なくとも東京都公安委員会は公然とそうだと教えてくれているわけだ(このような道路標識は公安委員会の管轄だったと思う)。 その「根津神社入口」交差点脇に日本そばの店があって、そこで昼食とした。Photo ZA Photo Z の道を出てすぐ、不忍通りにあるそば屋さん。ここで昼食。 昼食を終えて、そば屋さんの脇の道を北東に歩くことにする。街灯に「八重垣謝恩会」と「文豪の街」という看板がぶら下がっている根津神社から続く通りである。謝恩会というのはなんだろう。街灯には商店会の看板が普通のように思うが、同じようなものか。根津神社の神恩に感謝している商店会、というのがもっともらし想像だが、確かではない。 「文豪の街」というのもすぐにはピンと来なかった。日本で文豪といえば漱石か鴎外である。地図で「本郷図書館鴎外記念室」とあるのを見つけ、森鴎外のことだろうと思った。 これは後日のことだが、鴎外が千駄木で暮らしていたのだと知ったが、これはこれで悩ましいのである。当の通りがあるところは根津である。千駄木と一緒にして良いのか。私のような地方人には東京といえばみんな一緒のようなものだが、東京人の郷土意識の広さはどの程度に及ぶのだろう。 さらにあとで知ったのだが、夏目漱石も千駄木に居を構えていたのである。どちらの千駄木がより根津に近いかは知らない。この「文豪」が複数形であって、漱石と鴎外ともに指しているのなら、なんと豪華なことだろうとは思う。 この「文豪の街」通りの舗道にはたくさんの鉢植えが並べられていて、なかでもランタナの花が多く目を引いた(Photo ZB)。隣も、そのまた隣もランタナで、中には低い垣根のように直に植えられたものもある。秋遅いためか、花も実も一緒に見ることが出来る。 この数年、このランタナと似た種類の「コバノランタナ・七変化」という種類が欲しくているが、毎年思い出す時期が悪くて(苗木売り出しとタイミングが合わなくて)入手できないでいる。このランタナも良い花だが、私の望みはもう少し小型の灌木なのである。 Photo ZB 舗道のうえにたくさんあったランタナの鉢植え。 「文豪の街」通りを4ブロック(右手の細道で数えて)ほど進み、右折する(Photo ZC)。古い木造建築も見える住宅地のまっすぐな道である。この道を直進して、言問通りに出る。 言問通りを南西に進み、ふたたび不忍通りを横切って、東京大学へ向かう弥生坂を上る。Photo ZC 不忍通り、「根津神社入口」交差点を北東に入り、4ブロック歩いて右折した道。不忍通りと平行に走る。Photo ZD 言問通り。東大工学部9号館付近の坂(弥生坂または鉄砲坂)。Photo ZE 言問通りを右折した道(東大裏の道)。 弥生坂を上りきるあたり、「弥生式土器発掘ゆかりの地」の石碑の前を通りすぎ、東大工学部裏の道(Photo ZE)に右折する。 ゆるやかな坂を下り、東大工学部の裏門にさしかかる。工学部8号館で開かれた研究会で講演したことがあって、裏門から覗いてみたが、どれが8号館か皆目見当がつかないのであった。見たら記憶が甦る、などと期待するのは甘いということである。 その裏門の前、道の左手に立原道造記念館がある。10代のころ、立原道造の詩を読んだ。ついこの間、納戸の奥から探し出し、40年ぶりくらいに詩集を読んでみた。立原道造は10代の私の中で終わっていた。それに、私には詩を読む以外に詩人と関わることに関心がないということもあって、黙って前を通りすぎるのである。 その先には「弥生美術館・竹久夢二美術館」がある。弥生美術館は挿絵を主とする展示を行っているということである。竹久夢二は、私の中では宝塚歌劇団や少女雑誌「マーガレット」や「花とゆめ」と同じ審級に属している。ここも、その前を黙々と歩くのみである。Photo ZF Photo ZE の道を左折し、2ブロック歩いて右折した細道。 右手の東大構内が工学部から理学部の敷地に代わったころ、道を左折して住宅地の細道を歩く。崖下の住宅の突き当たりなどを曲がっていくと、七倉稲荷神社に出る。 神社から大きなマンションビルの脇を通って不忍通りに出る。目の前は上野動物園である。不忍通りを不忍池まで歩いて、今日の街歩き・東京の前半とする。結局、千駄木からここまでは不忍通りから右に入り、左に入りしたものの、ずっと不忍通りから離れずに来たのである。Photo ZG 「ルネッサンスタワー上野池之端」脇の道を、不忍通り動物園前に出る。Photo ZH 上野動物園両生爬虫類館前の不忍通り。[1] 長田弘「詩集 記憶のつくり方」(晶文社 1998年) p. 79。[2] 「季語別 秋本不死男全句集」鷹羽狩行編(角川書店 平成13年) p. 270。[3] 石川啄木「一握の砂 他」(日本文学館 2003年) p. 63。[4] 「佐藤佐太郎秀歌」(角川書店 平成9年) p. 230。[5] 正岡子規「子規歌集」(岩波文庫 昭和3年) p. 59。[6] 「現代詩文庫501 塚本邦雄歌集」(思潮社 2007年) p. 35。[7] 「現代詩文庫38 中桐雅夫詩集」(思潮社 1971年) p. 33。[8] 「尾崎放哉句集(一)」(春陽堂 平成2年) p. 15。[9] 「世界名詩集大成17 日本II」(平凡社 昭和34年) p. 142。[10] 「わが愛する俳人 第二集」(有斐閣 1978年) p. 109。[11] 正岡子規「子規歌集」(岩波文庫 昭和3年) p. 49。[12] 「定本 八木重吉詩集」(彌生書房 昭和33年) p. 235。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.04.09
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【ホームページを閉じるにあたり、2011年2月21日に掲載したものを転載した】 予定をつくらない。時刻表をもたない。ただちがった街へゆくのである。何をしにでもなく、何のためでもなく、ちがった街のちがった一日のなかに、身を置きにゆく。そんな旅ともいえない短い旅が、好きだ。 長田弘「ルクセンブルクのコーヒー茶碗」部分 [1] この東京の街歩きを旅だとは思ったことはない。地名だけを知る場所が東京にたくさんあって、もちろん見たことのない土地を歩くのだが、何かしら人生でやり残したこと、寄りそびれてしまった場所(のようなもの)を直に手触りで探る作業のような感じなのである。そして、作業としての歩行がもたらすもの、その先、というものを何も考えていない。確認だけのような行いなのである。 今日は、国立博物館の「皇室の名宝」展と「街歩き・東京」の組み合わせである。上野駅で降りる都合で、初めに国立博物館に来たのだが、これが大失敗だった。もともと、皇室所蔵品のなかでも絵画を見たかったのだ。とくに、これまであまり見たことのない伊藤若冲の絵に焦点を絞ってきたのである。 「皇室の名宝」展は、「1期:永徳、若冲から大観、松園まで」が2009年11月3日まで、11月12日からは「2期:正倉院宝物と書・絵巻の名品」なのであった。今日は11月12日、2期の初日で、無料ということもあって大行列のうえ、若冲も大観も見れないのである。書は苦手だ。文字なのに読めないのは苦痛である。外国語なら読めなくても当たり前だが、それが日本語であるだけに苦痛なのである。 とにかく並ぶことにしたのだ。4列に並んで蛇行してそろそろと進むのだが、10人ほど前の背の高い中年男性が列の中で本を読んでいるのだ。待ち行列の中で本を読む、という行いは60年以上生きているのにやったことがないが、本当に感心してしまった。 さっそく真似をすることにした。ザックから本を取り出し読み始めたのである。人口の多い東京ならではのことである。待ちのスケールが圧倒的であるがゆえに可能になることがあるということだ。いつもはどんなにおいしいラーメン屋でも並んでまで食べようとは思わない質であるが、私にとって東京は日常の暮らしとは別の世界ではある。大行列に並んだうえにそこで読書までできたのだ。 国立博物館平成館のなかの混雑を出来るかぎり急ぎ足で通り抜け、1期の図録だけを購入してさっさと外に出た。東京芸大前を通って、谷中に向かう。前をミニチュア・ダックスを連れて散歩する婦人がいて、しばらくはミニチュア・ダックスに速度を合わせて歩く。Photo A 国立博物館前の道、東京芸大の方を見る。Photo B 東京芸大構内の苔むす大樹。Photo C 芸大構内からの脱出の試み。 犬を眺めていた目を上げると、東京芸大は木立に囲まれていて、道際の古木にはびっしりと苔が生えているのであった。中には鉄製フェンスを呑み込みつつ、瘤を形成している木もある。 歳月の獄忘れめや冬木の瘤 秋本不死男 [2] 木々はその生を、人間とは異なる時間軸に沿って生きていて、私たちは多くの場合、古木の大きさに驚くものの、その生の時間に寄りそうことは難しい。しかし、人間のあつらえた鉄製フェンスを銜え込むことで、木は人間の時間に寄りそおうとしているように見える。秋本不死男が獄にあった昭和16~8年頃、この木はまだフェンスを呑み込み始めてはいなかったろう。 東京芸大の敷地に沿って右折した道(Photo D)は、幾分右にカーブする静かな道である。この道は寛永寺にぶつかり、そこを左折する。 寛永寺は幾度か立ち寄ったことがある。境内の黄葉しはじめた公孫樹の大樹を横目にそのまま通りすぎる。Photo D 芸大を過ぎて右折した道。言問通りとほぼ並行し、右手は芸大構内。街歩きMAP 青線は歩いたコース。A〜ZHの赤矢印はは、写真のおおよその撮影地点と撮影方向を示している。地図のベースは、「プロアトラスSV4]である。歩行軌跡は、「GARMIN GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータによる。Photo E 言問通りに出る手前にある柳の木。 寛永寺から言問通りに出る途中、茶道具の店があって、しだれ柳の木が一本植えられている。少しの間、見とれてしまった。これ以上大きくても小さくてもいけない、これ以上広がっても細くてもいけない。絶妙のバランスなのだ。 私は仙台・広瀬川の堤防沿いに住まいし、川岸に生える大きな柳の木々を見ながら暮らしている。しだれ柳ではないが、春の萌は美しい。啄木が「やはらかに柳あをめる/ 北上の岸辺目に見ゆ/ 泣けとごとくに」 [3] と詠った柳である。ただ、この柳の霞むような薄緑の萌えの時期は短い。しかし、Photo E の柳なら、落葉したときでさえ枝振りを楽しめるのではないか。この柳には、次の歌が似合わしい。 みずからの幹をめぐりて枝あそぶ柳一木はふく風のなか 佐藤佐太郎 [4] 言問通りから谷中霊園に入る。桜並木の道である。青山霊園でも墓地中の道に桜並木があったが、私の中では桜と墓に親密なイメージは無い。身近に桜の時期を命日とする死者がいないこともあるし、仙台の春の彼岸は桜開花に程遠いのである。Photo F 言問通りから見た谷中霊園の入口。 墓所というのは微妙なところである。私にとっては静かで好もしい場所の一つであるが、それでいながら近寄ることが憚られる感じのする場所でもある。たとえば、墓碑銘をしげしげと眺めてよいのか、と思うことがある。ここは死者たちのプライベートな場所だ、見も知らぬ私が近づく距離は自ずと制限される場所だ、と思ってしまうのである。谷中路の森の下闇わが行けば花うづたかきうま人の墓 正岡子規 [5]戰死者ばかり革命の死者一人も無し、七月、艾色(もぐさいろ)の墓群 塚本邦雄 [6] なるべく墓碑銘を読み込まないように、墓地のなかを歩く。目を上げて歩いていると、ナツミカンの大木が見える。ナツミカンの木を生まれて初めて見たのは、12,3才の頃、静岡県の清水の街であった。次姉の嫁ぎ先を訪ねる母にくっついていったときである。今でもナツミカンの木は珍しく見てしまう。Photo G 霊園内のナツミカンの大樹。Photo H 墓地を散歩する黒猫。 ナツミカンから目を下ろすと、黒猫が静かに墓石の脇から出てきて、私のそばを歩いて行く。私を見ないように、私がいないかのようにゆっくりと通り過ぎ る。私の猫は細い足を持っていた 軽いからだを支えるには十分な細さだが 重い心を支えるには足らないようで 時々、冷たい板の間で横になっていた。 中桐雅夫「私の猫」部分 [7]Photo I 谷中霊園内の桜並木の道。 墓の間を抜けると、また桜並木の立派な道がある。この道をまっすぐ、谷中霊園を出ることにする。谷中霊園西の道から少し広い通り(都道452号線)にちょっと抜けた小路が Photo Jである。この道の途中に「旧町名由来案内」があって、この辺は谷中茶屋町といったらしい。、江戸時代に感応寺というお寺の財政再建のために作られた町屋で、茶屋で賑わっていたらしい。宗教団体が宗教以外で金儲けをするのは今に始まったことではないのである。 この道の付近で鉢植えのザクロ(石榴)を見かけた。この矮性のザクロは、実をつけると1級の盆栽に見えてしまうという徳がある木で、いつも感心してしまう。鉢を吟味しさえすれば、十分に楽しめるのである。Photo J 霊園を西に出て、東京芸大から直進してくる道(都道452号線)へ抜ける路地。Photo JA Photo J の付近で見た石榴の鉢植え(園芸用矮生種)。柘榴が口あけたたはけた恋だ 尾崎放哉 [8] 都道452号線が西にカーブする付近で右折する。静かな道である。珍しい鼈甲細工の店がある。鼈甲細工は私の暮らしには縁のないものだったが。 10人ほどのグループとすれ違う。中に「TKO]という漫才コンビがいた。テレビのロケでもあったのだろう。グループから少し遅れて、うつむいて歩いている人がいて、すれ違うときに見えた横顔は、「水戸黄門」の助さんか格さんのどちらかを演じた俳優であった。そうか、テレビに映るほとんどの人は東京で暮らしているのだ、という当たり前のことを当たり前のように気づくのである。 Photo K は、テレビロケのグループとすれ違ってしばらくしてから、ふり返って写したものである。家に帰ってから妻に、テレビロケの彼らに会った証拠写真と言ったら、せせら笑われた1枚である。ずっと向こう、車を避けて両脇に分かれている様子が見えるはずだ、という説明を始めたときには妻はまったく聞いていなかった。彼女は私以上に芸能人に関心がないのである。Photo K 谷中霊園のある谷中7丁目と5丁目の境を北上する道。ふり返って南方向を見る。Photo L 長安寺という寺を過ぎて、西に左折した道。 左折して細道(Photo L)に入る。持参した地図には、大通り(都道452号)へ戻る道しか記されていないが、突き当たりを右に曲がるいっそう細い道(Photo M)があった。左手は崖である。この道は、高いコンクリート擁壁とアパートに挟まれた坂道に続き、道なりに左に折れると Photo N の住宅地の坂道に出る。Photo M Photo L の道の突き当たりは右折のみ。その崖上の細道。Photo N この坂道を下って左折すると、谷中コミュニティセンター前の公園広場に出る。この坂をのぼらざるべからず 踊りつつ攀らざるべからず ……(中略)……ああわがみじめなる詩集を携ち 本屋より斷はられし詩集を持ち 悄として されど踊りつつ坂をのぼらざるべからず 坂は谷中より根津に通じ 本郷より神田に及ぶ さんとして 眼くらやむなかに坂はあり 室生犀星「坂」部分(抒情小曲集) [9] Photo N を出た道を右に少し行って、岡倉天心記念公園(旧宅跡)の入口は覗いてだけで引き返した。反対の左方向に進むと、谷中コミュニティセンター隣の「初音の森」という広場の前に出る。森は広場の東側の奥にあり、その向こうはさっき歩いてきた Photo M の道である。「初音の森」というのは、さきほどテレビクルーと出会った付近がかつて「谷中初音町」と呼ばれていたことに由来するのだろう。 「初音の森」広場のところで右折して、西に向かう道に入る。道の途中に小さな公園があり、11月だというのに真夏の花、カンナが咲き残っていた。公園には「三四眞(みしま)地蔵尊」が祀られている。「三崎町、初音町四丁目、真島町」 の三町の戦災死者の霊を弔う地蔵尊で、名前は三町から一字ずつ取ったということである。このように落ち着いた静かな住宅地は先の戦争で被災しなかった地域ではないかと思っていたが、認識を新たにした。 その道を西進すると「よみせ通り」商店街に出る。地図によれば、この通りに沿って台東区と文京区の区境が走っている。「よみせ通り」をクランク状に横切ってさらに西進すると不忍通りである。不忍通りもまっすぐに横切って Photo O の道に入る。それは須藤公園の南東の角に出る道であった。Photo O 谷中コミュニティセンター前で西に右折し、不忍通りを横切って、須藤公園の南東端に出る路地。 須藤公園はそんなに広くはないが、風情のある日本庭園である。奥が急な斜面になっているので、風景の完成度が高いのである。 須藤公園の南面に沿う細い坂道(Photo Q)を上る。良い散歩道である。Photo P 須藤公園。左手は斜面になっている。Photo Q 須藤公園南脇の坂。Photo R 坂上の山茶花の落花。 下を向いて急な坂を上り終えるころ、地表に散らばった無数のサザンカの花びらが目に入る(Photo R)。民家の塀の中にある大木からの落花であった。 山茶花やいくさに破れたる国の 日野草城 [10] ツバキが好きで、私の狭い庭にも垣根代わりに10数本植えているが、サザンカはずっとなかった。4,5年前、勤務先の庭に咲くサザンカとその落花の美しさに打たれて、サザンカの苗を3本植えたものの、まだ花を観賞するほどには成長していない。 正岡子規が谷中霊園を詠った短歌を先に引いたが、その歌の時とは別の機会に「谷中の墓地を行くにこゝかしこの山茶花紅に咲きて低き銀杏の黄葉と照りあへる、夕日のさまもいとはなやかに心ありげなり」という前書の子規の歌がある。 よき人を埋めし跡の墓の石に山茶花散りて掃く人もなし 正岡子規 [11][1] 長田弘「詩集 記憶のつくり方」(晶文社 1998年) p. 79。[2] 「季語別 秋本不死男全句集」鷹羽狩行編(角川書店 平成13年) p. 270。[3] 石川啄木「一握の砂 他」(日本文学館 2003年) p. 63。[4] 「佐藤佐太郎秀歌」(角川書店 平成9年) p. 230。[5] 正岡子規「子規歌集」(岩波文庫 昭和3年) p. 59。[6] 「現代詩文庫501 塚本邦雄歌集」(思潮社 2007年) p. 35。[7] 「現代詩文庫38 中桐雅夫詩集」(思潮社 1971年) p. 33。[8] 「尾崎放哉句集(一)」(春陽堂 平成2年) p. 15。[9] 「世界名詩集大成17 日本II」(平凡社 昭和34年) p. 142。[10] 「わが愛する俳人 第二集」(有斐閣 1978年) p. 109。[11] 正岡子規「子規歌集」(岩波文庫 昭和3年) p. 49。[12] 「定本 八木重吉詩集」(彌生書房 昭和33年) p. 235。【続く】読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.04.08
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