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私はよく熱を出す。熱と言っても微熱で、それも平熱が35.5度くらいと低いので、37度ともなれば本人はそれなりに辛いのである。以前は「しょっちゅう風邪をひく」のだと思っていたが、5年ほど前に風邪ではなく疲労が原因だということに気づいた。微熱が2、3日続くだけで咳も出なければ喉も痛くならない。微熱以外の症状がないのである。 もちろん人並みに風邪もひくのだが、熱を出す10回に1回程度に過ぎない。風邪ではなく疲労が原因だと気づいたのは、体力が衰えても山に登りたいと朝の散歩に少し足腰を鍛える要素を付け加えてからである。神社の石段や仙台城址の坂道を散歩コースに入れたのである。そんな散歩を5日も続けると必ず微熱が出て2日ほど休むことになる。 なんやかやで散歩の行けない時には微熱が出ない。1日おきくらいのペースだと10日から15日ほどで熱が出る。そんなことの繰り返しで、さすがに疲労が発熱の原因だと気づいたのである。いまでは石段・坂道散歩は3日ないしは4日に1度と限定している。おかげで最近は微熱が出る回数が激減した。「最近、ぜんぜん風邪をひかないじゃない」と妻が感心している(風邪じゃないんだってば)。 発熱が疲労によるのだと気づいた頃、「疲労感軽減ドリンク」なる商品のコマーシャルがとても気になった。長時間飛び続ける渡り鳥の筋肉に含まれる成分が疲労感を軽減するというのである。飛びつきそうになったものの、コマーシャルを丁寧に見ていても「疲労感を軽減する」としか言わない。「疲労」が減るのではなく「疲労感」が減るだけらしい。 その「疲労感軽減ドリンク」を飲みつづけ、石段・坂道散歩を毎日続けたらどうなるのだろうか。「疲労感」はないのだけれども「疲労」はどんどん蓄積して、最後にはとんでもないことになるのではないか、などと考えたりしてとても服用する気にはなれないのである。「疲労」を軽減するという宣伝ではただの「栄養ドリンク」と差別化できないための「疲労感軽減」という宣伝文句なのかもしれないが、私としては釈然としないのである。 私は「疲労」を軽減したいのであって「疲労感」を軽減したいのではない。疲労が減れば疲労感も減る。しかし、疲労感が減っても疲労が減ったという証明にはならない。「逆」は真ではない。疲労に鈍感になっているだけということも十分にありうるのである。 そんなこんなで、私としては年齢相応に休み休みしながら足腰を鍛えるしかないのである。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2020/11/27 18:25~18:34) 元鍛冶丁公園にはケヤキ落ち葉が降り積もっていた。風に吹き寄せられたらしく3分の1ほどにふかふかに敷き詰められていた。仙台はもうすぐ冬である。 30人の参加者の中に初めての参加だという3人の若い人がいて、手製のプラカードを抱えてスピーチをした。脱原発を訴えてずっとデモを続けている人たちがいることはとても大切だという趣旨の発言もあった。宮城県議会や知事が女川原発再稼働を容認するという動きが出てから新しい参加者が増えてきたという主催者の発言もあった。一番町。(2020/11/27 18:35~18:45) 新しい日本の首相が初めての所信表明演説で「2050年までに地球温暖化ガスの排出を実質ゼロにする目標」を宣言した。その後に、閣僚かなんかの政治家がそのためには原発が必要だと強調するニュースが続いた。 「なんだかなあ」という感想しかない。ずいぶん昔のことでいつだったか定かではないが、地球温暖化ガスを減らさないといけないという主張が声高になった頃、だからこそ原発が必要だと推進論者たちも声高になった時期があった。そのとき「温暖化ガスで滅びるか、はたまた放射能で滅びるか、悪魔の2択だね」というシニカルな冗談もまた声高になった記憶がある(私のまわりだけだったかもしれないが)。 ペテン師と政治家は2択が好きである。あることを主張するためにもっと悪い例を出して2択を迫る議論である。しかし、私たちが人生の中で決断しなければならないイッシューは、2択で決まるような単純なものはそんなに多くはない。3択もあれば5択もある。10択もあれば20択もある。知識と経験が豊富であればあるほど選択肢が多くなる。世の中のことで二つしか選択肢が見えないのはよほどのバカである。 もちろん詐欺師や政治家が2択しか選ばないのは認知能力が劣っている可能性もあるが、そればかりでなく意識的に悪魔の選択をせまる悪意もあってのことだろう。成功体験もまた彼らの2択好きを増幅させているにちがいない。その成功にはそれで納得してしまう大衆が必要なのである。悪魔の2択は、ペテン師のように振舞うポピュリスト政治家の重要な政治手法でもあるのだ。 エネルギー技術として原子力は新しい素晴らしい技術だといまだに信じている人たちがいるが、現在はもっと新しくスマートな技術が開発されている。太陽光を直接電力に変換するという技術と、多量の放射能を生み出しながらただお湯を沸かすだけの原発の技術を比べてみればいい。原発はそのお湯でタービンを回して発電しているだけなのである。もうすでに古くなった野蛮な原子力技術とさらにそれより古い化石燃料を引き比べるのは、じつに愚かしい2択であるにすぎない。 エネルギー問題でも選択肢はたくさんある。悪魔の2択は、愚か者の認識に過ぎない。普通の認知能力を持つ世界では再生可能エネルギーへの転換がどんどん進められている。石炭か原発かなどという愚劣な2択にしがみついている国は極東アジアの三流国だけになりつつあるようだ。青葉通り。(2020/11/27 18:46~18:55) 石段・坂道散歩は3日か4日に1回なのでこのごろはスクワットも加えている。一度の負荷を増やして、あとはゆっくり休もうと考えたのである。だから金曜デモの日には石段・坂道散歩をしないようにしていたのだが、都合があって今朝はその散歩に出かけた。 少し心配していたが、途中で足が重くなるということもなくデモは終わった。もし疲労がたまって微熱が出るとしたら4日後くらいだろうが。今日はひとまずやれやれということである。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.11.27
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11月8日のまだ暗い時間、たぶん午前4時ごろだっただろうか。夢を見ていたか、夢から目覚めにいつ変わったのかよくわからないまま、何か悲嘆に暮れている感じでぼおーっとしていた。 夢にしてはどんなイメージもなく、ただ「今日は12日だ」という確信のようなものが勃然と沸き起こった。夢と言えば、それがすべてである。その言葉で夢が始まり、気が付けば目覚めていたので、その言葉で夢は終わってもいる。 夢か現か、定かではないけれども、その続きがある。「今日は12日、つまり昨日は11日ではないか。昨日は3月11日だった」、そう思ったのである。そして、3月11日を何も思わずやり過ごしてしまったことに愕然としたのである。 3月11日だというのに何もしていなかった、どんな思いも抱かずに、どんな行動もできずに3月11日が終わっていた。そういう思いにとらわれて、いやな気分のまま、次第にはっきりと目覚めていったのだった。3月11日どころか、11月7日だったというのに………。 あの3月11日から間もなく10年である。事故を起こした原発にまったく手が付けられない状態のまま、同じように被災した原発を再稼働させようと蠢き、画策している人々がいる。この10年、彼らは何を考えて生きてきたのだろうか。 いや、私たちはいったい何をしていたのだろうか………。肴町公園から一番町へ。(2020/11/13 18:22~18:33) 今日のデモは肴町公園だということは当然ながら知っていた。それで、肴町公園は暗いのでフラッシュを持っていこうと決めていた。デモの写真を撮るためにフラッシュを使うのは初めてである。フラッシュ光の不自然さが嫌いで、暗ければ暗いなりになどと考えていたのだが、ろくな写真が撮れないのでなんとか使ってみようと決めて家を出た。 フラッシュは集会のどこで使おうか、フリースピーチをする人の写真がきちんと撮れればいいことにしようか、などと考えながら道を急いで、着いたところは元鍛冶丁公園だった。デモ人は一人もいないことで間違えたことに気づいたのだった。家を出るときは肴町公園へ向かっていたのだが、いつ目的地を変更してしまったのだろう。あわてて肴町公園に急いだ。それほど遠くもないのに、もう集会は終わりかけていた。 集会は、宮城県知事がいくつかの意味のない形式的な儀式(手続き)を終えて女川原発の再稼働に同意したことへの抗議と憤りに満ちたスピーチが続いた(はずである)。 用意したフラッシュも役に立たず、ほとんどのスピーカーの写真はとれずじまいだった。カメラには収められなかったが、暗い肴町公園には憤りの気配が立ち込めていた。その気配を強く身にまといながら45人のデモ人は一番町の街中に向かった。一番町。(2020/11/13 18:36~18:38)寒村ののるかそるかの原発に未来預けし福島の今 (福島県伊達市)佐藤茂 (11/8 佐々木幸綱選) 上の短歌は11月8日の朝日新聞の短歌・俳句の投稿欄に掲載された一首である。自分たちの未来を「のるかそるか」の思いで原発に託し、そして故郷を喪失した現実を詠んでいる。国は貧しい農漁村を狙って原発を建設しようとし、貧しいがゆえに建設を受け入れた町(村)があった。原発安全神話の崩壊とともに、原発を受け入れた町ばかりか近隣の町(村)までもが、人の住めない地となった。原発を受け入れた町(村)がどうなったか。東京電力福島第一発電所のある(今は大量の放射能を吐き出し続ける原発廃墟のある)大熊町に生きて、事故後に避難先のいわき市で亡くなった歌人、佐藤禎祐が原発を受け入れた立地の町を詠んでいる(佐藤禎祐歌集『青白き光』(いりの舎、平成23年))。原発に縋りて無為の二十年ぢり貧の町増設もとむリポーターに面伏せ逃げ行く人多し反対を言へぬ原発の町うからやから質に取られて原発に物言へぬ人増えてゆく町 そして、東電福島第1原発の4基はメルトダウンし、爆発し、史上考えられる限りでの最悪の事故を起こした。原発の「安全神話」は微塵に粉砕されてしまったが、今、放射能に塗れた故郷を再生できるという新しい「神話」に福島の人々は惑わされ、苦しめられている。 中村純の「男を守れ」という詩の中にその町(村)で生きようとする人々が描かれている(中村純詩集『はだかんぼ』(コールサック社、2013年))。マイクロシーベルトの千倍が ミリシーベルト人が不在の美しい村に 別世界の概念が広がる。「特攻隊だから」そう話す夫のことばを反芻する妻がいる「原発で食べてきたから、いまさら逃げられない」「村が被災したから公共事業もない、仕事は原発しかない」「娘と妻は避難させた保障もないから自分は福島に戻らねば食べさせていかれない」できるだけ従業員の被曝を抑えようと線量の低い現場の仕事を取ってこようとする社長がいる社員と家族を食べさせ社員の被曝を少なくするために日々いのちを削られ、お金に変えられていく「百ミリシーベルト被曝したらもう仕事はできないそのとき自分は使い捨てなのか」三月十一日から 三十七シーベルト被曝しているという 2011年3月11日の前、すべての国民は年間1ミリシーベルト以下に放射能被曝を抑えるよう法律で守られていた。その3月11日以降、原発を受けいれた町(村)の人々は20ミリシーベルトまで放射能を浴びていいと国が法律を変えてしまった。それが原発を容認してしまった町(村)の人々への残酷な「ご褒美」なのである 朝日歌壇・俳壇に次のような短歌が選ばれていた。この夏に「棄民」って言葉二度聞きぬ残留孤児と福島の人 (和歌山県)石垣多鶴子 (9/27 馬場あき子選) 福島事故後、世界は変わったのである。女川町に大熊町と同じ運命を託してはならない。新しい「棄民」を生み出してはならない。大多数の宮城県民はそう考えている。東電福島第1原発の事故が引き起こした福島の人々の過酷な運命を知ったうえで、女川原発の再稼働を望み、議決し、容認した人間たちがいる。彼らの確信犯的言動の有責性は極めて大きく、重い。誰が手をあげ、賛同したのかを私たちは記憶しておかなければならない。 どんな苛烈な未来が待っていようとも、さらにその先の未来のために問うべき責任は問い続けなければならない。青葉通り。(2020/11/13 18:40~18:47) コロナ禍のために大きな声を上げられない。それでもデモ人は素直で真面目なのか、これまでは粛々とデモを歩いていた。今日のデモに参加した人はどうだったかよく分からないのだが、少なくとも私にはいくぶんかのフラストレーションが残った。 ただ、私が遅刻したせいもあり、肴町公園から一番町に出てすぐに青葉通りに出るという最短のコースだったこともあって、カメラは極端に忙しかったので、それがフラストレーションへのいい対処法だったようではある。 〈静かに〉かつ〈苛烈に〉抗議するということはどんなものだろう、などと答えが出そうもない「ぐだぐだ」を宥めながらの帰り道だった。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.11.13
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仙台はどんどん寒くなる。先週の薄手のブルゾンを一段厚いものに替えるだけでは心細くて、インナーも少し厚いものにして元鍛冶丁公園に向かった。コロナ禍のこんな時期に風邪をひいてしまった後に生じるだろう諸々のことを想像すると、なんとしてでも風邪ひきにはなりたくないのである。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2020/10/30 18:21~18:32) 元鍛冶丁公園に着いて、ザックからカメラを取り出してちょっと慌てた。カメラについているのは広角レンズだった。先日、70人ほどの集まりがあって広角レンズに替えたこのカメラと望遠専用のカメラの2台で写真を撮ったのが、レンズを取り換えるのを忘れたままカメラをザックに詰め込んで出かけてきてしまったのである。 今日初めて仙台のデモに参加したという人がいて、「被災原発が再稼働するのは許せない」という趣旨のスピーチをしたが、そのスピーチは「仙台のあまりの寒さに震えあがっている」という意味の言葉で始まった。 仙台は秋のど真ん中で「初冬」ですらないが、それでも寒いものは寒いのである。早くデモに出発しないかなあ、と思っているのは私だけだろうか。そんなことを考え出したころに35人のデモは元鍛冶丁通りを一番町に向かって出発した。一番町。(2020/10/30 18:37~18:45) 河北新報の記事である。「女川再稼働を容認の宮城県議会「不支持」72% SNSアンケート 県民投票求める声も」(10月27日付け『河北新報 ONLINE NEWS』)という再稼働を容認した宮城県議会についてのアンケート結果の記事である。河北新報の「読者とともに 特別報道室」のLINEに友だち登録する人にアンケートを実施したものである。 アンケート結果を要約すると次のようになる。再稼働を容認した県議会を……支持22%、不支持72%県議会の判断の時期…………「早い」72%、「打倒」22%、「遅い」7%知事は再稼働に同意すべき…「はい」31%、「いいえ」57%知事の決断前の県民投票……「実施すべき」76%、「すべきでない」19%女川原発2号機の再稼働………「賛成」23%、「反対」74% 河北新報はこれまで女川原発2号機の再稼働についてのアンケートをしばしば行ってきて、再稼働反対が県民の60~70%になることを示し続けて来たので、今回のSNSアンケートの結果はとくに驚くほどのことではない。県議会と県知事は終始一貫して県民の意思に背を向けつづけているということをあらためて示したに過ぎない。 記事の中に再稼働を「支持する人」、「支持しない人」、「どちらかわからない人」の意見のいくつかを掲載されている。支持や不支持の意見はいつかどこかで何回も見聞きしたようなものだったが、「わからない」という人に次のような意見があった。議決権は理解できるが、福島を思い出して悲しくなる。深く審議されているとは思えない。(石巻市・50代女性) 短い文章の中に、この人の福島へのシンパシーや悲しみが伝わってくる。このような思いをしながら再稼働の是非については「わからない」という。その機制を私が分かるはずもないが、石巻市に在住ということなどを考えると様々なことが想像される。想像だけで結論など出るはずもないのだが、この人の悲しみは原発の再稼働を止め、廃炉に向かうしか癒されることはないだろう。青葉通り。(2020/10/23 18:51~18:57) デモが終わり、急いで家に帰る。すぐに食事の用意をしなくてはと台所に立つと、妻は自分の部屋(義母が亡くなった後、義母の部屋を占拠している)でスマホをいじりながらテレビ(これも義母専用だった)をちらちら見ている。 糠漬けを出すところから始まる私の台所仕事が始まると、妻は食卓に移動してそこで小さなテレビを見ながら、ああだこうだと私に指示を出すのである。そこの小さなテレビは、台所仕事をしながらテレビを見たいと妻が執拗に言うので、チューナーとテレビが分離出来て風呂場でも見られるという小型のテレビを購入したのだった。 私が台所仕事をするときはそのテレビを見ない。見る気もないのだが、妻が食卓に移して見ているので見ることができない。妻は居間のテレビ、自分の部屋のテレビ、移動できる小型テレビ3台を活用している。私と息子は居間のテレビだけ。妻は「わたしはきっとテレビっ子なのね」などと言ってにこにこしているばかりである。 誤解のないように言っておくが、台所仕事をする夫にテレビを見ながらあれこれ支持する妻はけっしてスガーリンのごとき専制独裁の恐怖の支配者というわけではない。妻は左手橈骨骨折と両肩の腱断裂のリハビリ中なので、私が台所仕事をすべてやっているというだけのことである。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.11.01
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