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仙台の脱原発デモが2012年の7月から「脱原発みやぎ金曜デモ」として始まって、今日は400回記念のデモとなる。実際には402回目なのだが、7月23日がオリンピック強硬開催で体育の日の休日にされたということもあって、記念の昼デモを行うことになった。オリパラよりも脱原発である。 金デモに参加し始めてもう10年である。大学を退職し、2年続けたある大学の非常勤講師も辞して、「これからはやりたいことだけをやる」と張り切っていたときに東電福島第1原発の炉心溶融事故が起きた。流れでいえば、脱原発デモも「やりたいこと」の一つに入ってしまったのである。 「やりたいこと」を10年も続けられたとも言えるのだが、あまり幸福感はない。目的が明確に定まった行いには、目的が達成されない限り幸福感も充足感もないというのが当然で、生きている間に何とかならないかと思うのだが、気が急くというほどのこともない。老いとともに気分がゆったりしてきたのである。とはいえ、もう少し脱原発を続けなければ私の気は治まらないのである。 梅雨明け後の酷暑が続いていて、主催者からはコロナ対策、熱中症対策に万全を期して参加してほしいとくり返しの注意喚起があって、それなりに心配しながら家を出たが、けっこう雲が広がっていて日差しはかなり弱い。 元鍛冶丁公園につくと阿部文明さんのライブ演奏が始まっていて、阿部さんの作詞作曲の歌が披露されていた。集会開始前のライブである。、阿部さんは金デモの常連の一人で、NPOキラキラ発電・市民共同発電所の会員でもある。元鍛冶丁公園での集会(1)。(2021/7/23 15:01~15:10) 午後3時になり、主催者代表の西新太郎さんの挨拶で集会は始まり、続いてさきほどまでライブ演奏をしていた阿部さんが岡林信康の「友よ」を歌った。もう半世紀も昔のことになるが、この歌はデモ前の集会で何度も歌ったことがある。学生時代のことである。 このような集会で「友よ」が歌われることも少なくなり、私にしても学生時代のど真ん中に結びつく感覚があって、歌うのが恥ずかしいような妙な気分になる歌でもある。私などよりずっと若い阿部さんの選曲をちょっと喜んだが、驚きもしたのだった。元鍛冶丁公園での集会(2)。(2021/7/23 15:11~15:32) 阿部さんの歌が終わって、原伸雄さん、池澤美月さん、大内真理さんの発言と続いた。 原さんは、「女川原発再稼働差止め訴訟」の原告団長である。原告団はもともと2019年に宮城県と石巻市に対して再稼働に対する「地元同意」の差止めの仮処分を仙台地裁に申し立てたものの、原告の申し立てる原発の危険性は東北電力によるものとする仙台高裁の判断が出されたたため、差止め請求の相手を東北電力としてあらためて提訴している。その経緯と現在の訴訟の予定などについて話された。 池澤美月さんは「Fridays For Future Sendai」という気候変動の問題に取り組む学生を主体とした環境団体に所属する学生さんで、環境問題の観点から脱原発にも取り組んでいて、金デモにも何度か参加している。 宮城県会議員の大内真理さんは、「脱原発をめざす宮城県議の会」の一員で、「女川原発再稼働ストップ! みやぎ女性議員有志の会」の会員でもあって、その活動などについて話された。女性議員有志の会ということもあって、いのまた由美市会議員と元市会議員で現在は共産党の衆院東北比例予定候補として活動されているふなやま由美さんも壇上で紹介された。 集会の締めは、伊藤美智子さんと佐々木玲子さんの「こんなコント劇団」のよる寸劇である。それぞれがすでに廃炉作業に入った新型転換炉「ふげん」と廃炉が決定した高速増殖原型炉「もんじゅ」に扮して、シニカルかつコミカルに演じて喝采を受けた。お二人は200回記念デモのときにも同じ壇上でコントを披露されたという紹介があった。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2021/7/23 15:38~15:41) 集会が終わり、70人のデモ人が元鍛冶丁公園を出発するころは薄日が差していたが、しだいに翳ってきてデモにはいい塩梅になってきた。一番町。(2021/7/23 15:42~15:53) 金デモの200回記念のときの集会でも「こんなコント劇団」がコントを演じたということだったので、その時のブログを開いてみた。200回記念は、2016年10月23日だった。たしかに伊藤さんと佐々木さんの写真があって「ふげんさんともんじゅさん」と題するコントについて「2003年に停止して解体される原発「ふげん」がいつまでもぐずぐずと続けている「もんじゅ」をさっさと止めるよう叱咤するというストーリーを爆笑を誘いながら演じた」と記している。その後、「もんじゅ」の廃炉が決まったので、ストーリーは少し変わることになったが………。 その時の集会の最後は、合唱団「宮城のうたごえ」のコーラスで、何曲かの中に「民衆の歌」も含まれていた。この歌は戦争法案に反対する国会前の抗議集会で高校生たちが歌ったことから宮城の若い人たちからリクエストがあったということだったが、まったく若くない私も国会前の現場で高校生たちの「民衆の歌」を人垣の外で聴いていた。2015年8月30日の「8・30国会10万人・全国100万人大行動」のときである。 その時の印象をブログに書いたのは1年後の2016年4月8日のブログである。 去年の8月30日、安保(戦争)法案に反対する国会前の大集会で聴いた「民衆の歌」がずっと耳に残っている。自由に身動きができないほどの人混みの流れに押されながら、自由の森学園の高校生たちが合唱する切れ切れの歌声が、音楽に低い感度しか持たない私の心にもどういうわけか強く残っている。 集会で披露された歌やコントから、デモの記録を次々と遡っていって、どうにもとめどがない感じになってきたが、さすがに50数年前の「友よ」の時代までは遡れない。もっとも、当時は日記を書くなどということは思いも及ばなかった頃で、ましてやブログという言葉すらなかった時代である。 さて、「民衆の歌」はミュージカル『レ・ミゼラブル』の劇中歌で、1832年に王政打倒のために蜂起した市民が政府軍と戦う場面で若者たちによって歌われる。次のような歌詞である。戦う者の歌が聞えるか鼓動があのドラムと響きあえば新たに熱い命が始まる列に入れよ 我らの味方に砦の向こうに世界がある戦え それが自由への道 青葉通り。(2021/7/23 15:59~16:05) 最近の金デモの参加者はおおむね30人程度で、今日の70人の参加者は2~2.5倍ということになる。写真は先頭から最後方まで順繰りに全員が写るように撮る。撮り終えたら、先頭まで急いで戻り反対側から同じように撮って行く。腕に自信がないので、これを繰り返す。「下手な鉄砲、数撃ちゃあたる」式である。 一通り撮り終えたら先頭に急いで戻るのだが、今日はそれがこたえた。人数が倍になるとその距離も倍になる。かなり疲れてしまった。 とても疲れたのだが、普通のペースで歩いて帰宅した。本人はとても疲れたと感じているのだが、足は順調に動くのである。こういうことは山登りでしばしば経験する。へとへとなのに足はしっかりと仕事して、予定通りのコースタイムで歩けることがある。 どういうことなのか、よくわからないが、疲労の様式には異なった種類があるということかもしれない。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2021.07.23
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7月に入って2週続けて金デモを休んだ。6月27日に2回目のコロナウイルスワクチンの接種を済ませたが、1週間ほど不調が続いた。接種の翌日から微熱が続いたが、ほんとうに体調不良と感じたのは2日ほどで、あとは倦怠感(というよりも無気力感)が続いた。 ワクチン接種をきっかけに無自覚だった「老い」が顕在化したとも考えられる程度のことで、ワクチンの副作用という大袈裟なことではない可能性が高い。私は、本性として怠惰なのだという自覚はある。本性が露骨に表に出てきたということなのかもしれない。 一週間ほどでほぼ以前の状態に戻ったのだが、そのころ肉親急逝の連絡があって気持ちが参ってしまい、しばらくは行動に支障が出るということになってしまった。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2021/7/16 18:17~18:31) 小雨、曇天と梅雨空が続いていたが、急に晴天の酷暑日になった(梅雨の晴れ間かと思っていたが、デモが終わって帰宅したら「東北も梅雨が明けた」というニュースがあった)。 日中の暑さはいくぶんおさまったように思えたが、元鍛冶丁公園までゆっくりと歩いても汗が吹き出すくらいだった。 この暑さにはまだ体が(心も)ついていけないらしく、いくぶんぼんやりと集会に参加していた。暑さのせいにするのは少々卑怯だが、フリースピーチの内容はほとんど覚えていない。あまり真剣に聞く気がなかったのは事実である。 日本では、新型コロナウイルス感染症の第5波流行の勢いが加速してきた。そんな状況にもかかわらず、宮城県では知事がオリンピックのサッカーの試合に観客を入れて開催することに固執している。 今日の昼、「東京五輪 サッカー競技〈宮城スタジアム〉観客要らんぴっくデモ」が、おなじ元鍛冶丁公園を集会場として開催された。ここに集まっている金デモ参加者の多くも、そのデモにも参加していたに違いない。私も参加したかったのだが、2週間ほどの「人生さぼり」ということもあって予定を動かすことができなかった。 ときどき「あっ、涼しい」と感じる瞬間がたまにある時間帯になって、30人のデモは元鍛冶丁公園を出発した。一番町。(2021/7/16 18:33~18:38) とても短い新聞記事を見つけた。「脱原発の日実行委員会(@datugennohi)」というアカウントのツイッター投稿からの拾いである。もともとは「瀬戸の風」というブログ記事に掲載されていたものである。 6月24日付の毎日新聞の記事である。読みやすいように、電子版から全文を引用しておく。 原子力規制委員会は23日、中国電力に貸していた島根原発のテロ対策施設に関する機密文書を、同社が2015年に誤って廃棄していながら、今月まで報告していなかったことを明らかにした。廃棄の隠蔽(いんぺい)とみられかねないが、同社の担当者は「機密情報の漏えいには当たらず、報告の必要はないと考えていた」と話している。 規制委などによると、機密書類にはテロ対策施設に航空機が衝突した場合の影響を計算するための手法などが記されていた。国の新規制基準に基づいて施設を整備する上で、必要になるという。中国電力は14年10月、規制委と秘密保持の契約を結んだ上でこの書類を借りた。 ところが、島根原発に勤める同社幹部が15年7月に誤ってシュレッダーで廃棄したにもかかわらず、規制委には報告していなかった。規制委が今年3月、電力各社に機密文書の管理簿を作成してもらい、毎年報告を求める仕組みを導入。報告期限だった今月になって報告し、今回の事態が発覚した。【塚本恒】 ここで問題になっているのは、原子力規制委員会から借用していた文書を中国電力が無断で廃棄したことである。したがって、記事は「規制委員会が貸し出しルールを改めた」ということでまとめられている。 しかし、私がこの小さな記事に関心を持ったのはそんなことではない。問題は国家機関の機密文書を一民間企業に貸し出したという点にある。原発へのテロ対策に関する文書なので国家の安全保障上、機密文書に指定すること自体は問題ではない。 問題の一点目は、国家の安全保障上重要な文書に対する機密保持能力を中国電力が担保しているとは思えないということにある。にもかかわらず、安易に貸し出すという機制を理解することができない。 もちろん機密性にはグレードがあるだろう。機密文書ではあるが、仮に漏洩したとしても国家は大事に至らない場合もあるかもしれない。その場合は、電子力規制委員会はけっこう恣意的に機密指定しているのではないかという疑いが残るが………。 私がもっと気になるのは、原発を規制する国家機関がその審査対象である電力会社に原発の安全審査にかかわる機密文書を貸し出していたということである。入学試験前に機密の入試問題をそっと手渡していたという犯罪とイメージが重なる。 その機密文書には「テロ対策施設に航空機が衝突した場合の影響を計算するための手法などが記されていた」というのだから、場合によっては入試問題ばかりではなく模範解答まで教えていたのではないかと勘繰ってしまいそうである。 原子力規制委員会は、東電福島第1原発の悲惨な事故が発生した際、原発の安全規制をはかる国家機関としての「原子力安全・保安院」が規制を受けるべき電力会社とあまりにも「ずぶずぶの関係」であった(つまり、安全が担保されていない)ことが批判されて新たに作られた機関である。 しかし、上のニュース記事から読み取れるように原発の安全性に関わる機密文書を審査対象の民間企業にあっさりと貸し出している関係を見ると、保安院時代と同様に「ずぶずぶの関係」であるようにしか思えないのである。 その傍証というわけではないが、北海道電力泊原発3号機の規制委員会の審査が原発直下の断層問題で8年もの間紛糾してきたのに、委員会は「活断層ではない」とする北電の主張をあっさりと認めたというニュースがあって(7月2日付け東京新聞電子版)、「やっぱり」という感想しかないのである。 原子力規制委員会と原子力安全・保安院の違いがどんどん分からなくなっていくのである。青葉通り。(2021/7/16 18:42~18:51) コロナワクチンの2回目の接種の影響から何とか立ち直ったころ、三兄が亡くなったと義姉から電話があった。なんとか火葬の前に顔だけは見ておきたいと出かける準備をしたが、折り返しの電話があって家族葬だということ、県境を越えての弔問は避けてほしいという連絡があって、諦めた。 これで6人兄弟の4人が逝ってしまった。年の離れた末子としての覚悟はしていたつもりだが、3人目だった次姉のときはかなりこたえた。それでも、見舞いや葬儀で仙台と大阪を何度も往復することことがいくぶんかの救いだった。 今回は自分の部屋でじっと耐えているだけしかない。やることがないというのは、ほんとうにきつい。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2021.07.16
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