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木昌1777さんComments
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遠野に行こうと思い立って計画していたのだが、一ヶ月以上も遅れて実現した。6月に計画して2泊のホテル予約までしていたのだが、その日時が近づくにつれ天気予報がどんどん悪化していき、3日間とも雨という予報に変わった。4月の坂田、5月の弘前とも雨の合い間を縫うような旅だったので、今回は晴れの日に行きたいということでホテルをキャンセルして、7月に再チャレンジということになった(梅雨時なのに高望みしている、ということ)。
旅行中の3日も晴天というのは高齢旅行者には熱中症の危険が増すわけで、、今回はなるべく歩く時間を少なくして観光スポットをひたすら車で訪ね歩くという計画にした。さいわい、遠野市観光協会が車、自転車、徒歩などのモデルコースをそれぞれいくつか作ってくれているのでそれを大いに参考にした。
3日ともずっと晴天という予報が、前日には2日目の朝に少し雨が降るという予報に変わったが、問題ないということで出発した。東北自動車道から花巻ジャンクションで釜石自動車道に入り、遠野ICで降りたのは10時前だった。インターを出たところに「道の駅 遠野風の丘」があった。トイレ休憩をかねて地元産品などを探索(だけ)して、道の駅のすぐ北にある高清水山の展望台に向かう。これから歩く地域が一望できればいいということと、早池峰山、六角牛(ろっこうし)山、石上山、白身山など遠野物語の伝説の山の写真を撮りたいと思ったのだが、展望は南にだけ開けていて、遠野市街の向こうに見えるはずの六角牛山も雲の切れ目からその山稜の一部を見せているだけだった。
高清水展望台の山道から農道に出ると道端に古い墓石をびっしりと並べている場所があって、傍に二つの石碑が立っていた。車を木陰に止めて、石碑の写真を撮った。「路傍に石塔の多きこと諸国其比を知らず」 (『遠野物語』新潮文庫 p. 7)
とあるように、たぶん石碑、石塔を撮り出すときりがなくなる懼れがあるとは思ったが、成り行き次第にまかせることにした。
次に行ったのは、遠野市街とは反対方向にある「道の駅 みやもり」で、この道の駅に隣接しているJR釜石線宮守川橋梁(めがね橋)の写真を撮りたかったのである(観光モデルコースには含まれていない)。ついでに、ここの道の駅で早昼にして、午後の観光に入ることにした。



午後一番に行ったのは、この旅行で絶対に欠かせないとおもっていた「山口集落」である。『遠野物語』は柳田國男の著作ということになっているが、この山口集落の佐々木喜善という人から聞いて書き上げたものである。そういうこともあって、「ダンノハナ」、「デンデラノ」という伝説の地名に因む場所を見ることができるのである。観光施設はない。
「山口集落」に入る追分に「火石の石碑群」があって、追分の碑、庚申塔、馬頭観音の碑などがある。有名な「オシラサマ」に関連する新出来の石碑もあった。「山口集落」ではモデルコース通りにまず集落の一番奥にある「水車小屋」に行く。茅葺の水車小屋の頂には草が生え、背後の田んぼの向こうには農家の家が何軒か見える。この配置、この距離感は昔から変わっていないだろう、そう思える。次は「薬師堂」だが、古びた木製の鳥居だけを写した。参道は田んぼの奥の山道に続いていて、私はさておき妻に無理強いはできないと判断した。
「佐々木家」の曲り家は道(というより車の中)から眺めるだけにした(人が住んでいるので)。つぎに「デンデラノ」へ行ったが、何の変哲もない野草が生えしげる小さな野原で、奥に藁づくりの小さな小屋があった。「山口、飯豊(中略)に、ともにダンノハナと云ふ地名あり。その近傍に之と相対して蓮台野(デンデラノ)と云ふ地あり。昔は六十を超えたる老人はすべて此蓮台野へ追ひ遣るの習ありき。」 (同上 p. 76)
とある。藁づくりの小屋は、姥捨ての身の老人たちが暮らした小屋を模したものだろう。やや高台にあるデンデラノからは集落の家々が見えるのが異様なリアリティを感じさせる。
デンデラノを記述する遠野物語第111話には続きがある。デンデラノに追いやられた老人たちは生きていくため日中は里へ下りて農作業を手伝うことで糊口をしのいだ。それでこうした地区では、朝に農作業に出ることを「ハカダチ」、夕べに帰ることを「ハカアガリ」というそうである。デンデラノは墓と同じ、追いやられた老人たちは死すべきもの、もはや死者と同じと考えられていたのであり、しかし、生きている間は里に下りて働くことで口をしのいでいたという言い伝えのリアリティに戦慄を覚えるほどである。こういう話を柳田國男はいかなる主情を交えることなく書き切っており、それがかえって読み手(私)のイメージを強く揺さぶるのである。
デンデラノの山向かいにある「ダンノハナ」は今でも集落の墓所らしいので行かないことにした。山の上ということもあったが、現に生きている人の墓というのはその家族のプライベートな場所というイメージが私には強く、特段の理由がなければ観光の具にはしたくないという気持ちがある。というわけで、モデルコースには入っていない「田尻の石碑群」を見て「山口集落」観光は終わった。






ホテルのチェックインには少し早いので「遠野ふるさと村」に向かった。さっき「佐々木家」の曲り家風の住宅を車から眺めただけでは「南部曲り家」を見たとは言えない。遠野ふるさと村は、何軒か南部曲り家で集落を構成している施設で、敷地が広いうえに気温が高くなっていたが、妻は受付で麦わら帽子を借りて頑張って歩くと言う。
ゆるい坂道で一番近い曲り家に入る。家の管理をしているらしい人がいていろいろ教えてもらい。家の中も見せてもらった。家の中の馬小屋があるという曲り家の特徴を除いて、人が暮らす部屋は私が生まれ育った東北の農村の家とさほどの違いがあるわけではないが、ひたすら懐かしい感じがした。私が育った家は、農村とはいえ町屋風の借家で、懐かしいのはいっしょに遊んだ友達の家々なのである。
二軒先の曲り家にはポニーが飼われていると聞いて、妻が是非にと言うのでそこまで行った。ポニーは曲り家の馬小屋ではなく隣接する牧場の向こう隅でせっせと草を食んでいた。それを見て、曲り家見物を終わりとして、ホテルまでの道の途中にある「福泉寺」に寄ってみた。
福泉寺に安置されている高さ17mの木彫としては日本最大の観音像を見たいと、これも妻の強い希望だった。さいわい、山麓の受付で入館料を払うとそのまま中腹の本堂まで車で上がることができた。撮影禁止の観音様は驚くほど大きくてやや面長のお顔を見入ってしまった。この観音像はこの寺の2代目住職が12年かけて彫り上げた、という説明文があった。感動した妻が目の前の賽銭箱を指さしたのでなにがしかのお金を投入した。クリスチャンの妻と無信心者の私は宗教心から「お賽銭」を上げるということはしないが、良いものを見せていただいたお礼はしたいのである。本堂の入り口にいたお坊さんにお礼を言って第1日目の観光は終わりである。






夕食の予約の午後7時前の1時間くらいを遠野市街の夕景の写真撮影に充てるというのは、この旅行の大切なスケジュールである。ところがホテルの窓にはいっこうに夕暮れの気配が見えてこない。日の入りは7時ちょうどくらいで盆地の遠野では夕暮れはそこそこ早いとだろうと見ていたが、暮色が見え始めたのは6時20分ころだった。ゆっくりとホテルを出て道々写真を撮ったが、やはりちょっと早すぎた。明日の夕食の予約を7時から7時半に変更することに決めた。



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