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今日は明日の講義の準備。試験問題を作ることも念頭に置かなければならない。終始、答えが出ない問題を扱っているので、学生からすれば、「いまいちよくわからない」という感じるのだろうが、答えがないわけではない。ただ、状況、人とは関係なく一律にこう、という答えを出せない。育児や教育と同じである。しかも、早急の、しかも、場合によっては、至急の対応が要求される。 明日、話そうと考えているのは、あることがたとえ自分の課題ではなくても、私は私、あなたはあなたの人生を生きましょう、ですまないことが、いくらでもあるということ。そんな時にどうすればいいかという問題。 夕方、娘から電話。ひどくおなかが減ったので7時30分くらいに帰るからすぐ食べられないだろうか、と。 合歓木。my passionという題をつけたが、passionは受苦、受難という意味もある。
2008年06月30日
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早く起きたが、雨模様で出かけるのを諦めた。傘を差して写真を撮れないこともないのだが。写真は、昨日、撮った。この季節に紅葉は早いのではというコメントが入ったが、こんなふうになる種類もあるのだろう。 今日は試験前らしく娘がダイニングのテーブルでずっと勉強していた。前回、成績がよかったようで、それがプレッシャーになるという。恩田陸がこんなことを書いているのを思い出した。高い評価を得た小説を発表した「次」のことをこんなふうにいっている。「これまでは飛び続けるのに必至で目的地の野原ならどこでもよかったのに、今は前もって地面に描いておいた、直径五メートルくらいの赤い円の中に着地したいと思うようになった」(『小説以外』新潮文庫、p.242) こうして、どんどんハードルが高くなる。プレッシャーを感じないためには「五メートル」と決めなければいいわけである。 読み出したらやめられず横山秀夫の『クライマーズ・ハイ』(文春文庫)を最後まで読んでしまった。
2008年06月29日
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スーパーで三歳くらいの男の子が泣き叫んでいた。自動販売機でジュースを買いたい、と訴えていることがわかった。彼の祖母が自動販売機のところへ連れて行った。一件落着かと思ったら、これからが大変だった。またもや絶叫があたりに響き渡る。「おばあちゃんがあ~ひゅっと押したあ」。彼はジュースがほしかったのも本当だが、自分でボタンを押せることを見せたかったようだ。そんなことは知らない祖母が、さっさと自分でボタンを押して孫にジュースを買い与えたのだろう。 もう一度買ってもらえることになった彼は自動販売機の前に立った。一番下の段のものしか買えない。それでも、自分で押せることが嬉しいわけである。 育児、教育の場面に限らず、広く生活全般の場面で(10月から講じることになってる生命倫理でも扱いたいと思っているのだが)、ゆっくり話せばいいことがわかっていても、そうすることがかなわないこともたしかに多々ある。しかし、だからといって、即効性のある、あるいは時間のかからない方法を選んでも、そのことに伴う副作用、あるいは、弊害はあまりに大きい。
2008年06月28日
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午前中、皮膚科を受診。(単純)ヘルペスと診断された。どうやら身体の抵抗力が落ちているようだ。驚くほど高い薬を処方してもらう。これで火曜日の講義に間に合えばいいのだが。 昼から昨日、書いた写真展(空―クウ―の世界 オカダノエ写真展、ギャラリーF、29日まで)に出かけた。この七年の心の軌跡を映す空の写真2,000枚。 寺町通りは一本東の新京極通と違ってひっそりした感じがするが、たくさんの人が足を止め、写真を見ていく。案内の葉書を見てくる人も多い。その人たちは、どの人も写真家縁の人なので、初対面なのに言葉を交わすという常はあまりない経験をする。 ランディ・パウシュの『最後の授業』(ランダムハウス講談社)を読む。膵臓癌で余命幾ばくもないが、これまでどんなふうに夢を実現してきたかを語るパウシュは底抜けに明るい。僕が書いたらこんなふうにはならない。僕なら死についてもっと書くからである(病気や死について書いた原稿は既に編集者の手に渡っていて、ゲラができるのを待っている)。
2008年06月27日
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天気予報が当たらない日が続いている。大抵、家にいるのでひどく困るということはないのだが、洗濯物を外に干していいものやら迷ってしまう。 友人から写真展の案内があって、日曜日までというのは知っているのだが、体調優れず、遠出ができない。しかし、今日は停滞していた仕事が進捗し、気分がよい。 瀬戸内寂聴の『奇縁まんだら』(日本経済新聞社)を半分ほど。最近、読んだ津村節子の『瑠璃色の石』(新潮文庫)にも出ていた瀬戸内の話を思い出しながら、興味深く読む。「生きるということは、日々新しい縁を結ぶことだと思う」(p.6)。しかし、中にはふとしたことから切れる縁もある。「けれども切れたと思ったのは、人の朝墓な考えで、一度結んだ縁は決して切れることはない。そこが人生の恐ろしさでもあり、有難さでもある」(ibid.)。
2008年06月26日
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夕方、娘から電話があって、今日は(夕食の時間を)早くしてもらえないだろうか、というので、すぐに買い物に行って、取りかかる。体調はかばかしくなく、今日は、横になって本を読んでいたが、突然、エネルギーをわく思い。 近くの植物園で見られる花の数が減ってきたが、聳え立つ古木にいつも癒される。散歩をしていた時に会った保育園の先生が、森林浴という言葉を使ってられたことを思い出した。長らく耳にしなかった言葉だと思ったが、新緑の中にいるのはたしかに気持ちがいいものである。
2008年06月25日
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今日は聖カタリナ高校で講義。もう残すところ4回になった。まだ4回もある、と思われてなければいいのだが。講義をしていても、行き帰りも湿度が高いからか、身体が悲鳴を上げている。 夕食を作っても、誰も帰ってこなくてがっかりして待っていた。温め直すというのもなかなか面倒である。電話がかかってくる。「おかあさんはお帰りですか」と。僕は一体、誰だと思われたのか。
2008年06月24日
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梅雨らしい日が続き、空を見上げてばかりいる。 『医療の倫理』(星野一正)を読んでいたら、次のような文章があった。「医師や看護婦も忙しく、予期しない事態も次々と起こったりして、患者と約束した時刻に、処置にいけなかったり、薬を届けられなかったりするのはやむを得ないのかも知れないが、暇な患者にしてみれば、時計をみながら待っていることが多いので、予定が変更になったり、約束の時刻にはできなくなったりした場合には、その旨を一言でよいから、患者に伝えて欲しいものである」(pp.116-7) その日の担当看護師さんと朝、一日の予定を打ち合わせをする。清拭が何時で、リハビリが何時に、というふうに。ところが、ここに書いてあるように、なかなか予定どおりには行かないもので、約束の時間の前に、予定を変更したいといいにこられた看護師さんは多かった。 しかし、と患者は「暇」なのだろうか。何か問題があれば、ナースコールを押せばいいのはわかっていたが、極力、時間を取らせたくないと思っていたので、例えば、リハビリの時間などが決まると、少なくとも、その時間はナースコールを押さなくてもきてもらえるので、安心したものだ。逆にいえば、入院している時は、常に不安だったということである。 今年も合歓木の花が咲いた。土曜に見た時には、アゲハがやってきていたのだが。
2008年06月23日
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先週と違って、今週の土、日は予定がなかったので、身体を休めることに専念した。といっても横になって本を読んでいただけだが。生命倫理関係の本の他、『家族の昭和』(関川夏央、新潮社)をおもしろく読む。まだ途中だが。書店で、51歳で亡くなった向田邦子について書いてあるのを見て買う。同世代の父と母が若かった頃のことを知りたいと思った。 松本清張の短編を読んだのがきっかけで、杉田久女という俳人を知り、田辺聖子の『花衣ぬぐやまつわる……』(集英社文庫)を読み始める。 今年は余裕があるのか、紫陽花の写真をたくさん撮った。
2008年06月22日
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身体の抵抗力が落ちているようで、去年の術後と同じようなふうになっているようだ。 いわゆるメタボ検診の通知がきた。毎月のように、血圧も測り、心電図も測っていても受けないといけないのかと思ってしまうが…ともあれ、同封のパンフレッドなどを読んでみる。「特定検診・特定保健指導Q&A」Q 私は腹囲が100cmほどで、「メタボ」ですが、保健指導を受けることができますか?A 特定保健指導は、腹囲・肥満度のほかに、血液検査を加味して対象者を選びます。 しかし、特定保健指導を実施するには多額の費用がかかるため、医療保険者の判断で優先順位をもうけてよいとされています。よりリスクが高い人や、指導の効果が出やすい人など一定の基準を設けて、優先すべき人に特定保健指導の利用券をお送りします。(引用終わり) 「一定の基準」というのを知りたい。この質問者の場合(想定質問だろうが)、指導効果が出にくいという判断がされたら後回しされるのか。 この検診は、40歳~74歳までになっている。この年齢制限は意味深長と思ってしまう。 今の世の中、医療資源に限りがあるとか、医療のことではないが、「経済効果」ということがしきりにいわれ、世の中お金がすべてではないだろうにとよく考える。僕が去年、バイパス手術を受けた時には、驚くほどの費用が必要だった。ほとんどが公費負担だったのだが、「優先順位」を儲けるとすれば、どんなことが基準になるのか気になるところである。」 写真はベニシジミ。ちょうど一年前の今頃、池のまわりを歩いていたら、ベニシジミが現れた。蝶の写真を撮ったことがなかったので、どうしていいかわからなかった。まだ手術後間もなくだったので、写真を撮るためにかがんだりすると、痛かった。幸い、前からとらえたその写真は好評を博したのだが。
2008年06月21日
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先週少し無理をしたのか、今週は夜は眠れるのだが、身体が疲れている気がする。休んでも休んでも疲れがとれない。 昨日の続きだが、たとえ家から一歩も出られなくても(本は書きたい)、ともいった。もちろん今は外を何の問題もなく歩けるのだからありがたい。みょうなことをいうと思われたかもしれないのだが、手術前は思い詰めていた。 毎日一万歩というのは至難の業だが、今日は頑張った。雨が降っていたが、歩いた。そのうち雨が上がった。ムラサキツユクサにこんなふうに水滴がついていて驚く。
2008年06月19日
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今日は夕食後、疲れてしまって、日記も書かず、ぼんやりしていた。夕方になると、そわそわしてしまっていけない。6時半くらいにご飯を炊いてから買い物に行く。今日は娘がちょうど出かけようとしていた時に帰ってきた。7時半に娘と食事をする。 もうかれこれ長く毎日夕食を作る日が続いている。前はどうしてできなかったのかと思う。元気になったということだろう。 昨日の講義の中で料理を作ることについて少し話した。何もないところから創り出すのが楽しいというと、そんなふうに考えたことはなかったと学生の一人が答える。エプロン似合いそうという学生もいたが、してません。料理ができるというのはどういうことかと質問されたので、本に書いてあるとおりに作れることと答えた。実際のところは、僕はまだまだできないことがあって、レシピを見ても作れないものがたくさんある。冷蔵庫の中にあるものから作れるようになりたいのだが、むずかしいものだ。 去年、手術前に検査入院した時に、循環器科の主治医に、手術が成功しても本が書けないというのでは困るというような話をしたことを思い出した。今、本を書くことは、命を得たことの代償といえないことはない。
2008年06月18日
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今日は聖カタリナ高校で講義。残り少なくなってきて残念。まだまだ話したいことはあるのに。 姜尚中が、人がなぜ働かなければならないかという問いの答えとして、「他者からのアテンション(ねぎらいのまなざし、承認のまなざし)」と「他者へのアテンション」だといいたい、といっている(『悩む力』集英社新書、p.123)。他者へのアテンションは間違ってないだろう。しかし、他者からのアテンションを働く理由と考えると、もしもアテンションがなければ働かないのか。姜がいうアテンションはないよりはあったほうが、うれしいのは本当である。しかし、誰も認めてくれなくても、働くこと自体で完結しているのではないか。それでは足りないと思うとすれば、賞罰教育を受けてきたことの弊害ではないか。こんなことを考えていた。 今度出版したアドラーの『人間知の心理学』はMenschenkenntnisの第一部を訳出したもの。第二部(性格論)はアドラーセレクションの4冊目として刊行予定。
2008年06月17日
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今日はオフにするつもりだったが、そういうわけにもいかず、アドラーのMenschenkenntnisの翻訳を先に進める。 松本清張の『半生の記』(新潮文庫)を読む。自伝といっていい作品だが、小説の話は出てこなかった。わずかにあとがきに41歳の時に懸賞小説に応募して、直木賞候補になったことが書いてあった。生活のためにさまざまな仕事を転々とし、その日々は「一日一日を生き抜いていくという緊張感」があるとはいえ、想像を絶する過酷な生活だった。早くから書き始める小説家に比べれば、スロースターターということになるだろうが、事情が許せば、早くから頭角を現したであろう作家だと思う。 さっそく息子が置くってくれた万歩計をつけてみたが、一万歩などとんでもない。夕方、買い物に行って帰ってから、大事なものを買い忘れたことに気づいた。常はめんどうだと思ったであろうに、これで歩数が増えると、嬉々として再び出かけた。 写真は、東福寺で。
2008年06月16日
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昨日は、ヴァイツゼッカーの研究会があって、帰宅後、疲労困憊。早々に寝てしまった。夜中に目を覚まし、履歴書と研究業績を書き上げる。もう履歴書を書くこともあるまいと油断していたので、大変だった。朝までかかる。 今日は豊中の追手門学院幼稚園で講演会。300人もの人の前で講演するのは久しぶりである。去年の手術来、京都から外に出たのは、今日がまだ二度目。話を聞いてられる方の反応がよく、講演時間は短いのに、たくさんのことを話したくなった。一番、楽しんでいたのは僕かもしれない。 帰ると、宅急便が二個届いていた。一つは、今日の講演で何度か話題にした、東京に住んでいる息子からのプレゼントだった。これからも健康に気をつけてしっかり歩いてください、と万歩計が入っていた。もう一つは、新刊の『人間知の心理学』。22日に刊行される。病気になってから、これで4冊目になる。 田毎の日とでもいえばいいのか。これは昨日の夕方に撮った。僕と同じ心筋梗塞で、バイパス手術を受けたイギリスの人から、君は人生を楽しんでいるように見えるというコメントをもらい、嬉しい。人生を楽しんでいけない理由はない。
2008年06月15日
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後一日。なんとか乗り切りたい。日曜は講演だが、こちらは準備万端整っている。今回は私立幼稚園での講演会だが、前回は(この日が術後始めて京都から出た日)岸和田で講演して以来。この時は、講演が終わったら、講演のことについて何もたずねられず(担当の人は講演に出られてないのだが)、すぐに車に乗せられ帰ることになった。講演を聴かれた人だけに伝わればよさそうなものだが、どんな講演だった書きにならないのかとは思った。今、毎週行っている高校も数年前から職員室とは別のところに講師控室ができて、先生方と会わないで帰ることが多くなった。大学はそういえば先生とは何年も会わないということはあったわけだが。 今日は一つ失敗。10月から講義をする大学に提出する時間割調整表提出の期限が今日であることを失念していた。Macユーザーとしては、ExcelやWordの書類が当然のように送られてくると、実のところ、かなり困る。Mac用のExcel, Wordはたしかに売られているが、世の中の人が皆、WindowsユーザーでExcel, Wordを使っているわけもないだろうと思うのだが。英語さえ学んだらよしとする(小学生から学ばせることになっている)風潮と似たものがあるように思う。
2008年06月13日
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このところ朝食後(7時くらい)すぐに仕事にかかってしまうので、朝、外に出る機会を逸することが多かったが、今日は意を決して出かける。実は、締切のある仕事があって、時計を見ながらかかりっきりになっているので、中断する時間が惜しいと思ってしまう。雨が降っていたようで、ムラサキツユクサに雨滴がついていた。そこへこの勤勉な蜜蜂が花から花へと飛んで蜜を集めていた。 火曜の講義の中で、他の人は私の期待を満たすために生きているのではないという話をした。それでも、人に振り向いてほしければ、私を見てほしいというしかないだろう。もっとも、そういったからといって振り向いてもらえるわけではないのだが。少なくとも、黙っていても、自分の思いは伝わらない。それなのに誰も自分の気持ちをわかってくれないと他者を責めるのはおかしいだろう。
2008年06月12日
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どんなに正しい教育をしても、それを受ける側がどう受け止めるかはわからないところがあって、結局のところ、本人の責任以外ではありえないと思うのだが、できれば、子どもが劣等感を持たず、他者を敵視するようにならないように接していくしかないのだろう。教育は、今すぐにその結果が出ないだけに余計に慎重でなければならない。ではどうすればいいのか。久しぶりの講演(私立幼稚園)では日々子どもたちとどう接するのか、どんなふうに言葉をかけるのか話してみたい。 病気になったものだからもう二度と履歴書を書くこともあるまいと思っていたが、今週中には書き上げないといけなくて困っている。写真を貼ることになっている。去年、退院した日に撮った写真があるのでそれを使おうかと思うのだが、ひどくやつれていて驚く。
2008年06月11日
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毎週火曜日は聖カタリナ高校で講義。母親が病気になった時のこと、去年、おととし入院していた時のことなどを話したが、関心を持ってもらえたかわからない。途中でマイクの電池が切れたようで使えなくなった。時々、元に戻るので、マイクを離さなかったら、学生に「マイク置いたら?」といわれる。たしかに、机に置いてしまったら、あきらめがついてよかった。声が届かなかったかもしれないのだが。今日は話すのを中断しないといけないほどの咳は出なかった。 写真を撮りに行く時間を思うように取れない。外を歩く時間も惜しんで、仕事をするのがいけないのだが。
2008年06月10日
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日曜日は読書会。朝方まで準備。僕が外に出て行けないのなら、と企画してもらって始めたこの会も長く続いている。 元気になってきたからか、講演の依頼も少しずつ入るようになってきた。前は月に何回も講演をしていたのだが。来週は、大阪で講演。術後、京都を出るのはまだ二度目であるのは驚き。 写真は先月の終わり、7時前に撮ったもの。強い雨が止んだ後、夕日に照らされた二時が空に現れた。
2008年06月09日
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今日は夜、娘が見たいというので、三谷幸喜の新作映画(『ザ・マジックアワー』)を見てきた。映画を見るのも、夜、遅く外にいるのも久しぶりだった。題名で使われるマジックアワー(magic hour)というのは、映画専門用語で「夕暮れのほんの一瞬」を指すという説明があった。一日のうちで、世界がもっとも美しくなる瞬間。前日、ここに載せた写真のような光が現れる短い時間のことを指すのだろうテレビなどでしきりに宣伝がされていたので、見たけれどつまらなかったら、こんな時間に出かけたことを後悔することになるかもしれないと思ったが、そんな心配は無用だった。娘が行きたいといわなかったら、様子を見たかもしれないし、連日、三谷氏がテレビに出てきてもあまり関心もなく見ていて、ストーリーについても何も知らなかったのがよかったのかもしれないのだが。 写真は、病院の帰りに立ち寄った東福寺で。
2008年06月07日
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今日は第一日赤へ。血液検査して、肝機能、腎機能、及び、血液の凝固度を調べる。咳のことをいうと、次回、CTを撮ることになった。そういえば去年も、術後、咳がひどかった。肺に水がたまっていたのだった。そこで利尿剤をしばらくの間、服用していたことを思い出した。 つらくなって横になることがあって、その時に、血圧を測ったら上が100を切っていたということを話すと、血圧が低いことは治療の対象にはならないということだった。しかし、その時、脈拍数が少なくなっていることはあるので、次回は、心電図も取ることになった。いずれも、次回、7月の検査なので、緊急性はないということだろう。 10時には診察は終わってしまったので、帰り、病院の近くの(実はあまり近くない)東福寺を訪ねる。ここは去年、手術前に検査入院して退院した日にも訪ねた。その時、きっとまた元気になったらこようと思った。入院していた時も、旧病棟の今にも止まりそうなエレベータで屋上まで出て、下を見たらこの寺が見えた。ちょうど看護学生が実習にきていて、車いすに乗った患者さんと三人でしばらく話をしたことが懐かしく思い出される。早く学校に戻って講義をしたい、と思った。
2008年06月06日
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ほとんど外に出かけることなく、自宅での仕事の日々を過ごしていても、外からの働きかけが人生の進路を変えていく。秋から「生命倫理」の講義をすることになった。久しぶりに哲学の講義をすることになる。二年前、病気になって以来、この先、ずっと今教えている聖カタリナ高校以外では講義をすることもないだろうと思っていたのだが。 久しぶりに花の写真。ミヤマヨメナ。
2008年06月05日
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咳のことを書いたら、メールや電話をいただき、恐縮。何かの拍子に出始めると、とまりにくい。講義をしている時は、ずっと話し続けるので、普段より、咳が出やすいのかもしれない。いつも忘れてしまうが、お茶を持って行こうかと思っている。咳とは別にのどがからからになることが稀にあるので。 6日に締切の雑誌原稿があるので書き出さないといけないのだが、まだ取りかかれない。原稿用紙にして3枚なので、書き始めればすぐに書けるのだが。 この頃は買い物に行って夕食を作ることが生活の中に定着してきた。もっと早くこんなふうにできたはずなのだが、去年の今頃は、手術後の痛みがひどく、重いものを持てないので買い物もためらっていた。メニューを考えるのが大変。いまだに野菜の切り方がわからない。かなり覚えたつもりなのに、白菜の軸はそぎ切りにすると書いてあって躓く。白菜と鶏手羽元のミルクカレースープ煮を作ってみた。スープが黄色いので娘が、なぜ黄色、とたずねる。カレー粉を使ったことを説明する。小さな缶なのに高いので驚く。 写真は大徳寺で。この日は青空がきれいだった。
2008年06月04日
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2008年6月4日水曜日 ようやく電話が復旧。昨日から少しずつ繋がらなくなって、とうとう繋がらなくなった。原因がわからないので、モデムやルーターの設定に問題があるのか(変更してないのだから該当しないと思ったが)、コンピュータの問題なのか、再起動したりしても改善せず、ふと思い立って、電話の受話器を取ったら、発信音が聞こえず、NTT側の問題ではないかと思った。ところが、ここからが大変で、故障の際に連絡する番号に携帯でかけたら、携帯からは接続できないというアナウンスが流れた。一般の電話でお掛け直しください…それが故障しているのに。公衆電話を探したのに、驚いたことに、近くにない。やむをえず、いつも買い物に行っているスーパーまで出かけ、そこから電話をしたら、携帯からもかけられるフリーダイヤルを教えてもらうことができた。 ともあれ復旧してよかったが、急ぎのメールなども、この間、届いていた。田舎に住んでいても、コンピュータと電話回線があればどこででも仕事ができると思っていても、こんなことで陸の孤島にいるかのような思いをすることになった。 写真は、龍安寺。
2008年06月04日
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今日はマンションの光ファイバーが故障していていつものようにアクセスできない。明日の朝まで復旧しない。それもどうなるかわからない。聖カタリナ高校で講義。途中で咳がしばらくとまらず学生が心配してくれる。心臓が喉から飛び出しそうなので咳をしておさえてるという感じ。すわって講義しといってもらえるのはうれしい。でも去年は手術直後も一度もすわって講義をしなかったことを思い出した。今日はこの咳のもちろんないのだがいい残したことが多かった。
2008年06月03日
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夕方、買い物に行ったのだが、いつもと違う店だったので、どこに何があるかわからず時間がかかってしまった。いつまで経っても、家事のプロになれなくて、どこかいつまでも、臨時に(例えば)買い物にきているように見えているのではないか、と思ってしまう。さすがに今はこんなことはないが、若い頃、レジで並んでいた時のこと、前の人のかごの横に今し方買ったものが入ったかごを置いたら、店の人がそれを指して「こちらもご一緒ですか」と前の人にたずねるのを聞き、驚いてしまった。もちろん、その人とは無関係だったわけだが、僕が買い物にきていることが似つかわしくなかったのかもしれない。毎日行くスーパーは、最近は、袋を持っていたら2円割引してもらえる。プロになるためには、2円を節約し、エコに貢献せねば…と思いながら、いつも手ぶらで行っては、レジで「袋はおつけしましょうか」とたずねられた時に、見たらわかるのに、などと思ってしまう。プロへの道はまだ遠い。 写真は、龍安寺で。
2008年06月02日
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龍安寺に行ってきた。前の日から決めていたのだが、朝になると調子がよくなくて、血圧を測ったところ上が100を切っていた。その後、何度か、身体がふらついて心臓が浮ついた感じる時に測ったら、やはり低かった。こんなことはあまりなかったのでとまどっている。6日に受診するので、その時にたずねてみよう。 龍安寺は人が多く、写真を撮るのも大変だったが、庭はよかった。写真でイメージしていたよりもずいぶん狭い庭だったが、岩が小さく、塀を低くするなど広く見える工夫がされている。全部で15の岩があるが、同時にそれを見ることはできないということをきている人はよく知っていて、年配の人も、修学旅行中の中学生もみんな一生懸命場所を変えては数えているのがおもしろかった。悟りを開けば、一度に全部の岩が見えるなどといわれている。単純にこんなに岩と岩が離れていたら見えないだろうと思ったのだが。その後、大徳寺の大仙院に行ったのだが、ここはなぜか写真撮影が禁止されていたのと、工事中で枯山水の庭がいい状態で見られず残念だった。
2008年06月01日
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