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シラバスを作り、大学に送る。受け取ったという連絡はないが、きっとそういうものなのだろう。まだずいぶん先のことだと思っていたが、あと二ヶ月で講義が始まる。 その後、心理学の採点の続き。今日は10人の答案を読む。8日が成績提出の締切なので昨日は(7月だから?)まだ余裕があると思っていたが、8月になった今日は、突然、もうあまり日がないことに思い当たる。再試験が必要にならないことを願うばかりである。 すぐ近くに蓮が咲いていたので接写してみた。いつもと違うカメラを使ったからなのか、この時の光の差し方によるのか(おそらく後者)白い蓮なのにピンクといっていいくらいである。以前、撮ったのとは雰囲気が違う。実際には当然前の花とは違うのだが、同じ花でも違う時に見たらもはや同じではない。人についても同じことがいえるだろう…
2008年07月31日
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ぎりぎりにならないとできないことがあって今日締切に間に合わせることができるように頑張った。大学に提出する文書(シラバス)はWordで作成することになっている。書式はすべて決まっていてそのまま印刷するようだが、常はこのプログラムを使っていないのでとまどうこと頻り。 蓮の葉に花びらが一枚落ちていた。雨滴の横で生き延びようとしているように見えたが、水の方こそ、この花びらから生命力をもらっているのかもしれないと思った。 花が開く時の衣擦れのような音のことは前に書いたが、雨上がりの朝は、葉にこんなふうに雨水がたまっていて、それが何かの拍子に池の中に落ちる時の音が好きだ。一度、その瞬間をカメラでとらえたいと思うのだが。
2008年07月30日
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久しぶりに少し涼しく感じられる朝だった。雨なので部屋の中に洗濯物を干したが、昼から外に出した。一つ用事があって出かける。またすぐに暑い日が戻ると思って思い切って出かけたが、出かける頃には日が差し始めていて、用事を終えて帰って時には熱が出て、心拍数も多く、油断してしまったと後悔することになった。 仕事にムラがあって、よくない。ことにはじめからゴールが見えている翻訳の仕事が辛い。後何ページあるか数えてみたり、一日何ページずつ訳したら何日で完成するというようなことばかり一日中何度もしている気がする。アドラーの著作をずっと訳しているが、昨日書いた「叩き読み」をするから時間がかかるというのは、本当である。
2008年07月29日
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昼過ぎ、急に雨が降り出し、急いで洗濯物を取り込んだ後からひどく疲れてしまって、昏々と眠ってしまった。眠ることで英気を養うというのもどうかと思うが、しばらくまた頑張れそうだ。 10月から始める生命倫理の講義についてなおいくらか迷いがあったが、さきにしょうかいしたむのたけじが、自著の『戦争絶滅や、人間へ』は学習テキストとして役に立つのではないか、といっていることが参考になった。むのは「叩き読み」という言葉を使う。 「あなたの生活のマナイタに本書、すなわちむのたけじを載せて、包丁の背で存分に叩いてもらいたい。こういう叩き読みで読めば、生きるという同士に値する生活力が鍛えられ、高められるのではないか。私はいくら強く叩かれても、痛くなんかない。いっそう嬉しくなるにきまっています」 すらすら読まずに、著者はAという判断をしたが、自分だったらBという判断をする。この判断の違いはどこからくるかなどなど、要所要所で立ち止まる読み方はいつも必要である。 目の前に蜻蛉が止まった。
2008年07月28日
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鶴見和子氏が、「人は必ず死ぬ。逃げることはできない。ならば受け止めよう」と語っていたという話を25日に引いたが、脳梗塞でリハビリ中の多田富雄氏が、鶴見氏の死について次のようなことを書いてられたことを思い合わせると、痛ましい思いがする。 診療報酬制度が改定され、リハビリ医療が発症から180日に制限された。鶴見氏は、脳出血で左半身麻痺になり、十年以上、リハビリを続けてきたが、それまで月に二回受けてきたリハビリをまず一回に制限され、その後は打ち切りになると宣言された。間もなく、ベッドから起き上がれなくなり、前からあった大腸癌が悪化し、亡くなられたというのである。「直接の原因は癌であっても、リハビリ制限が死を早めたことは間違いない」と多田氏は、鶴見氏の短歌と発言を引いている。 政人(まつりびと)いざ事問わん老人(おいびと)われ 生きぬく道のありやなしやと「これは費用を倹約することが目的ではなくて、老人は早く死ね、というのが主目標なのではないだろうか。(中略)この老人医療改訂は、老人に対する死刑宣告のようなものだと私は考えている」 10月からの生命倫理の講義に備えて勉強していると、医療資源という言葉をたびたび目にする。必要な人すべてに必要な治療をすることができないとすれば、誰を優先するかを考えなければならないという。恐ろしい話である。 リハビリという言葉は、母が脳梗塞で入院して初めて聞いたかもしれない。後に僕が心筋梗塞で入院した時、心臓リハビリという言葉があることを知った。絶対安静の状態から少しずつ身体を動かし、歩けるようになると、ある日は廊下を50メートル、次の日は100メートルというふうに徐々に距離を伸ばしていくわけである。心筋の一部が壊死しているので、自分の判断で長く歩いたりしてはいけない。脳梗塞のリハビリとはまた違うともいえるが、リハビリの効果がないと判断されたら打ち切られるということがどういうことかは、この時の経験で想像がつく。 6月21日の日記の中で、メタボ検診のことについて書いた。通知は受け取ったもののまだ行っていない。同封されていたパンフレットに次のように書かれていることをその際紹介した。「特定検診・特定保健指導Q&A」Q 私は腹囲が100cmほどで、「メタボ」ですが、保健指導を受けることができますか?A 特定保健指導は、腹囲・肥満度のほかに、血液検査を加味して対象者を選びます。 しかし、特定保健指導を実施するには多額の費用がかかるため、医療保険者の判断で優先順位をもうけてよいとされています。よりリスクが高い人や、指導の効果が出やすい人など一定の基準を設けて、優先すべき人に特定保健指導の利用券をお送りします。(引用終わり) ここにもはっきりと「優先順位」という言葉が使われている。よりリスクが高い人には指導するが、「指導効果が出やすい人」でなければ、保健指導をしないという意味ではないか。インターネットを調べていたら、医師や保健師、管理栄養士などから食事や運動など生活習慣の改善を促す指導が行われ、5年後に成果を判定し結果がなければ、財政的なペナルティ(罰金)を医療保険者に課すということが書いてあった。その一方で、上述のリハビリはさっさと半年で打ち切られてしまう。 殺伐とした世の中である。比喩ではなく。
2008年07月27日
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人は誰でも死ぬのだから、「ならば受け止めよう」というのは間違ってないが、何の罪もない人が暴漢に刺されて殺されることや、誤爆(爆撃に誤爆も正爆もないだろうに)によって殺された人や家族はその死を受け止めることができるだろうか。 この問いについて論じた『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(H.S.クシュナー、岩波現代文庫)という本のことは前に書いたが、昨夜は同じ著者による"When all you've ever wanted isn't enough -- The search for a life means"(A Fireside Book)という本を読んでいた。 その後、むのたけじの『戦争絶滅へ、人間復活へ―九三歳・ジャーナリストの発言』(岩波新書)を読み始めたら、止められなくなって最後まで読んでしまった。これはインタビューをまとめたものである(聞き手、黒岩比佐子)。名前は当然知っていたのに、これまで一度も、むのの本を読んだことがなかった。 「私はこれまで生きてきて、九十三歳のいまが一番頭がいいと思っています」 「死ぬるとき、そこが人生のてっぺん」
2008年07月26日
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朝、4時に書斎の電話が鳴る。いつのころからかどこから電話がかかってきたのか確かめられずになっていてそのままにしているので誰からの電話かわからない。親しい人なら携帯の方にかけてくるだろうから、かけ間違いとは思ってみても、この季節でもまだ夜が明けていない時間の電話は不安にさせるに十分である。遠くからベルが鳴っていても、身体は動かなかった。結局、その後、眠れず、今日も早朝に蓮を見に行く。最高気温は36度とか37度という天気予報を見ても、あまり驚かなくなっている。昼間は外に出なかった。 『鶴見和子病床日誌』という本のことが朝日新聞の夕刊に紹介してあった。著者は妹の内山章子さん。 「人は必ず死ぬ。逃げることはできない。ならば受け止めよう―それが姉の思想だった」 鶴見俊輔との会話。 「『死ぬっておもしろいねえ。こんなの初めて』と姉がいい、兄は『そう、人生とは驚くべきものだ』ですって。2人で大笑いしてるの」
2008年07月25日
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暑い日が続く。よく眠れず、早朝、蓮の花を見に行く。他にもたくさんの人が見にきている人があって、挨拶をしたり、話をする。 学校から試験の答案が届く。力作答案を読むのを楽しみにしている。何度か読み直すのですぐに点数をつけられない。 答案を届けにきた人が「暑中見舞いのはがきいりませんか?」といわれたがすぐに意味がわからなかった。郵便を配った時に葉書を売ることになっているのだろう。即座に断る。 新聞代を取りにきた人があった。いつもと違う人だった。「すいません、お休みのところ…」。「休み」ではなかったのだが、僕が休んでいるように見えたのか、その人の思い込みが強いのか、考えてしまった。
2008年07月24日
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近刊の『アドラーを読む―生きる勇気とは何か』のカバー写真が届いた。本になればどんなふうになるか想像する。 10月から生命倫理の講義をすることは前に書いたが、シラバスを提出する締切が近づいている。何を講義するかはもちろん決められるのだが、学生には一度も会っていないので、いったい、どんなことにどの程度の関心があるのかわからないのである。生命倫理といってもテーマは広汎で僕が話したいことを話せばよさそうなものだが、なかなかそう簡単には割り切れない。100人もの学生に講義をするというのも何年ぶりだろう。 今夜は娘の友達が泊まりにきている。「ただいま」と挨拶してくれるのはうれしい。夕食の時、あれこれ話をしたが、緊張してしまう。 明日、心理学の答案が届くはず。
2008年07月23日
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なんとか午前中に仕事を仕上げることができた。締切に追われている気がする。仕事は大抵均一に入ってこず、集中することが多い。さしあたって、試験の採点と評価、10月から始める大学での講義のシラバスを作らないといけない。 以前住んでいた家の冷蔵庫が故障してしまったので、新しいものに買い換えた。週に一度、義父と義母が泊まりにくるのと、月に一度の読書会の時に必要なくらいなので、一人用の小さいのにした。後でちゃんと配達されたかという電話が電気店からあった時、テレビを買った時のトラブルを思い出した。テレビを買い換えた時、僕の住んでいるところにはデジタル放送の電波はまだ届いてないが、配達にきた人の4月になれば見られるようになるという話をそのまま受け取ってしまっていた。その後、忙しい日々が続き、時々、リモコンでデジタルというボタンを押しても写らなかったので遅れているのだろうか、と思っていたが、もう見ている友達がいると娘がいうので、始めてチャンネルの設定をする必要があることに思い当たった。マニュアルを見ればできるのだろうが、それなら購入時に説明するべきではないか、と思った。設定きてもらうことにしたが、100パーセント映るとは限らないという。どういうことかと尋ねたら、マンションなので大丈夫だと思うが、アンテナの調整などが必要な場合もあるという。一戸建ての家ならデジタル放送を視聴するためにはチューナーもしくは専用のテレビ以外に、アンテナも買わないといけないのか。別にデジタル放送でなくてもいいと思うのだが、無意味な出費を強いられるということか。ともあれ、不手際は必ず後でわかるだろうに、その場しのぎをすることが理解できない。 エルンスト・ハートの写真に池澤夏樹がエッセイを書いている本を読んだ(『きみが住む星』角川文庫)。写真はこんなふうに撮ってみたいと思うのが何枚かあったが、写真にあわせた池澤の書簡体の文章にはいささか無理があるように思った。
2008年07月22日
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暑い日。今朝も朝早く、蓮を見に行く。急ぎの仕事があったのと、考え事をしていたら、よく眠れなかった。朝焼けの空を久しぶりに見た。あちらこちらに水たまりがあった。夜の間に雨が降ったようだ。蓮の葉にたまった水が流れ出し、池の中に落ちる音が聞こえてきた。
2008年07月21日
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今日は早起きして、蓮の花を見に行った。早いといっても5時半くらいだったのだが。夜の間、固く閉じていた花が開き始めた。花は一気に咲くのではない。少しずつ時間をかけて花びらを広げていく。じっと目をこらして見ていると、たしかに変化を見て取ることができ、花びらが落ちるのも見ることができた。花が開く時、衣擦れのような音がする。 暑い日が続く。ずっとコンピュータに向かっているのに、少しも仕事ははかどらない。
2008年07月20日
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病院に行って検査結果はよかったのに、なかなか緊張が解けず、いつまでも眠れなかった。朝、出かけるのが遅くなってしまって、蓮が咲いている池までいって、何枚か写真を撮ったら、身体が熱くなった。今日は昨日よりもさらにたくさんの蓮が咲いていた。近くにあったので、今日はマクロで撮ってみた。
2008年07月19日
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今日は病院へ。心電図とCTも。肺癌の疑いも晴れ、心電図も変わりはない(元には戻らないけれど)。胸部の断層撮影写真を見せてもらう。画面を操作すると、梗塞した冠動脈をバルーンでふくらませ、その後に留置してあるステント(メッシュ状の筒)や、手術の時に切り開いた胸骨を止めてあるワイヤもきれいに写っていて少し感動。サイボーグにどんどんなっていく。 僕はこの病院に二度入ったので知っているのだが、待合室の一角はその日入院する人や家族が待ってられる。不安な気持ちで待っていたら、やがて病棟の看護師さんが迎えにこられ、部屋に案内してもらった。個室だったので、着替えなどを鞄から出したりして待っていたが、一人で待つ時間は心細かった。 検査結果は問題なく、安堵。またいつか検査入院をすることになるだろうが、まだしばらくは猶予してもらえたら、と思った。まだしばらく猶予を求めたい。 蓮が咲き出した。池の中の蓮を撮るのは僕のカメラでは難しい。近くに咲いている蓮はすぐに折られてしまう。
2008年07月18日
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暑いのと、考え事をしていたのでよく眠れなかった。梅雨が明けたということなので、容赦なく暑い日が続く。鬼百合が咲いているかもしれないと思って、去年撮ったところへ行くと、咲いていた。年々歳々花相似というが、場所が少し移っていたりする。ただ記憶の誤りかもしれないのだが。 明日は受診。CTと心電図。前回は咳がひどくて検査を受けることになったが、幸い、その後、咳は出なくなった。
2008年07月17日
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夜、遅くまで試験作り。出題者(僕のことだが)の意図が浮き彫りになるような問題にしたつもりだが(つまり、講義の中で問題になったあれとこれがここでは問題になっていることがわかるということ)、ところどころ講義を聴いた学生にはむずかしいかもしれない。ともあれ、知識を問う試験ではないこと、僕の考えとは違ってもそのことを理由に減点したりしないことは、講義中に学生に約束した。 スーパーのレジで順番を待っている時も本を読みたくなると講義中に話したらあきれられたが、最近、活字中毒の症状がひどい。何十冊も並行して本を読んでいる。よく思うのは、たとえ死んでからあの世があったとしても(ないほうに賭けているが)、本が読めなければ辛いだろう。
2008年07月16日
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今日は聖カタリナ高校での最終講義。評価しないといけないので試験をすることになっているが、講義中にも何度か話したように、どこまで今回の話が理解されたか、適切に教えられたかを知ることが試験の目的なので、学生側も点数がかんばしくないと残念だろうが、教師の方はそれよりも気持ちが沈んでしまう。健闘を祈っている。夜、近所を歩いていたら、問題を思いついた。来週も月曜の夜は、明日は講義だ、と思うのだろう。
2008年07月15日
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今日の最終講義の準備中。いつも最後の日はこれからどうやって生きていくのだろう、と思う。試験がなければいいのだが(たぶん、お互いに)そういうわけにはいかないので、考え中。
2008年07月14日
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久しぶりに息子から電話があった。お盆には帰ってくる。 『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(H.S.クシュナー、岩波現代文庫)読了。考えなければならないことは多々ある。この世の不幸については、こういうわけで起こったという理由がわかればあきらめられるかもしれないが、大抵の説明は納得できない。同じ著者の他の本も注文した。ゆっくり考えてみたい。 とにかく暑い。夜、歩いても少しも涼しくはなかった。 とてもできないと思いこんでいたことでも一度なしとげるともはや不可能なことではなくなる。
2008年07月13日
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今日はヴァイツゼッカーの研究会だった。94回目。僕は参加し始めて2年になる。病気にならなかったら、この会のことを知ることはなかっただろう。ふとしたきっかけで人生が大きく変わることがある。大きく変わるかどうかなどはその時には少しもわからないのだが。 『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(H.S.クシュナー、岩波現代文庫)を昨日から読んでいる。自分のことについては、こんなふうに思ったことはないが、何の罪もない人がたまたまその場に居合わせたことで、暴漢に刺されるというようなことがどうして起こるのか…この世に悪が存在することと神の善にして全能なることとは両立しないのではないかという問いに、クシュナーは、神は悪の原因ではなく、神は善だが、全能ではない、と考える。たまたま手にした本だが、大きな影響を受けそうだ。 この百合を去年も写真に撮った。去年とは少し違う場所に咲いているのを見つけた。去年はもっと大きかったような気もするが、一年前のことなのにあまり記憶ははっきりしない。
2008年07月12日
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聖カタリナ高校で講義。いつもは火曜日だが、最後から二回目の講義は金曜日。もう後一回で終わるのかと思うと、残念である。 今日も張り切って夕食を作ったのに誰も帰ってこず、そのうち8時を回った頃、娘から友人の家で夕食を食べてくるという連絡があったので、一人で食べる。目下、家事というほどのことはほとんどできていないが、夕食を作ることだけはできるようになった。田辺聖子の杉田久女の伝記(『花衣ぬぐやまつわる……』)に、「女のエネルギーは、仕事に向けて爆発しているとき、たいてい家事にも意欲的なことが多い。人生が燃えつつあると思う時、ふだんは煩わしい日常次元の雑用も難なくこなしてしまう」とある(p.278)。 女性に限ることではないだろう、と思った。 写真は、未央柳(びようやなぎ)。近所には二箇所にしかないが、今年も同じところに咲いていた。
2008年07月11日
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今週は火曜だけでなく、明日も出講するので、今日はおとなしくしていた。 朝、早く散歩に出かけているつもりだが、少し仕事をしてからと思うと、時間が遅れる。この桔梗の写真は、8時48分に撮った。まだ強い日差しではないが、暑い一日になることを予感させるに十分な光量である。 今日は娘が夕食を気に入ってくれてよかった。コンロが三台ほしい。
2008年07月10日
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再校が戻ってくるまで、次の翻訳と書き下ろしを先に進めておかなければならない。昨日の夜、ひどく疲れていたので早く寝ようと思ったのに、うまく寝付けなかった。もっとも次の日早く出かける用事がないので、起きていても問題はなかったのだが。 どんな時に眠くなるかはよくわかっている。急ぎの、あまりやりたくない仕事がある時。やりたくないわけではないが、アドラーのドイツ語がひどく難解な時も、逃げたくなる。そんな時は翌朝、アドラー先生に謝らないといけないが。すいません、今日もよろしくお願いします、と。
2008年07月09日
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紫式部邸宅旧跡である廬山寺で開かれている「源氏物語54帖押絵展」に行ってきた。縁があって、少しだけ今回の展覧会に関わったからだが、十数年をかけて作られた中村洋子さんにも会うことができ、刺激的な一日だった。廬山寺が苔と桔梗で有名とは知らなかった。 午前中は、聖カタリナ高校で講義。残すところ後二回。
2008年07月08日
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今日は朝からずっと『アドラーに学ぶ―生きる勇気とは何か』の校正。休みながらではあるが、時計を見ながら取り組み、10時くらいにようやく送ることができた。よく仕事をした。 昨日、夏椿が咲いているのを見たが撮れなかったので、今日は朝早く出かけて撮ってきた。
2008年07月07日
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今日は読書会。プラトンの『クリトン』を読む。何年ぶりかで読んだのと、前とは違う問題意識で読んだので、新たに気づいたことが多々あっておもしろく読むことができた。若い時の読み方とは違うと思った。 会が始まる前に、近くの植物園へ行ってきた。もうこれだけ暑くなると、気をつけないと倒れそうである。カタバミはヤマトシジミの食草である。
2008年07月06日
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朝方まで時が経つのも忘れて校正。自分で書いたものは、誤植を見逃しやすい。自分で書いたものでなくても、意味を補って読んでいるのがよくわかる。学生の頃、雑誌の校正をしていた時は、二人で組んで、一方が音読し、もう一方がチェックした。意味を考えないというのも方法だろうが、そんなわけにはいかない。読んでも皆目理解できない文章ならそういうことも可能かもしれないが。 木槿を見ると夏がきたと感じる。
2008年07月05日
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ヘルペスはほぼ治ったようで、発疹の後もほとんど見えなくなった。こんなことが頻繁に起こるようでは困るので、無理をしないようにしないといけないのだが、自分でうまく制御できない。 朝、既に暑くてどうしようかと迷ったが、桧扇水仙がどこか間近に見えるところに咲いているはずだと思って探しに行くことにした。この頃は、何か強い動機付けがないと外に出ることを億劫に思ってしまう。 今日も引き続き校正。
2008年07月04日
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今日は夕方まで外に出ないで仕事。校正の続き。脱稿して二ヶ月ほどしか経ってないのに、もう自分で書いたのではないような気がするところがある。 今月中に、10月からの生命倫理のシラバスを提出しなければならない。講義の目的とか、使用テキスト、参考文献、評価方法などについては、すぐに書けると思うのだが、初めての講義なので、何回目にどんなテーマで話すかというところまでつめられていない。しかし、このテーマそのものの考察は、母が脳梗塞で入院した時から始めていたといっても過言ではない。目下、これまでの僕の研究、関心からは、パーソン論、インフォームド・コンセント、ケアの倫理について講じてみたい、と考えている。関係の本を読んでいると、癌が例に出されることが多いが、僕が経験した心筋梗塞などの心臓外科、循環器科の病気や、またかつて関わった精神科医療の観点から考察しようとすると、従来の生命倫理学では十分ではないように思えるところもあるようだ。 姫路の大学で講じる。体力をつけなければならない。手術来、そんな遠出をしたことがない。 買い物に行って帰ってきたら、娘が帰っていた。すぐ作るから、と20分で作った。
2008年07月03日
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出版社から『アドラーに学ぶ―生きる勇気とは何か』のゲラが届く。今度は書き下ろしで、8月の終わりに出版予定。本文中に先に出版したアドラーの『人間知の心理学』から引用したが、原稿を書いた時点ではまだ出版されてなかったので、○頁というふうになっている。そこにページ番号を入れていく作業は少しめんどうである。もちろん、これは短期間に何冊も集中的に出版したからで、前の本との間が空いていれば、こんなことは起こらないわけである。老い、病気、死の問題を扱った。翻訳の校正も同じだが、自分の書いたものなので、読んでいる時に緊張する。校正が出てからは、もはや大幅に手を入れることができないからである。
2008年07月02日
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聖カタリナ高校で講義。特別に早く行ったわけではないのだが、講師控室に鍵がかかっていて、日を間違えたのか、と思ってしまった。ほどなく学生の姿を見て、安堵。職員室(実はどこにあるか知らない)に知らせに行ってもらった。 中性の行動といって(『アドラー心理学入門』p.162)、適切な行動とも、共同体に実質的な迷惑をかけるという意味での不適切な行動とも違う種類の行動について、今回で話すのは三回目だった。そのような種類の行動(例えば、子どもが勉強しないというようなこと)にどうアプローチするか、講義した。 看護師と患者との関係の築き方について講義の中で折に触れて話しているが、この二年に入退院を繰り返した中で、気づいたことをまとめてみてもいいか、と思った。 昨日と違って、ひどく暑く、講義後、急いで帰宅し、休まなければならなかった。父と長い時間話す。ひとしきり父の最近の様子を聞いた後、父が「それでどうなんだ」と僕のことをたずねてきた。僕は大丈夫だから。 写真は過日龍安寺で撮ったもの。突然、飛行船が現れたのにも驚いたが、空と雲の色に驚く。この天体現象(とFlickrでは書いた)すぐに消えてしまった。
2008年07月01日
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