うたのおけいこ 短歌の領分

うたのおけいこ 短歌の領分

2007.05.21
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吾輩 わがはい は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニヤーニヤー泣いてゐた事だけは記憶してゐる。吾輩はここで始めて人間といふものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生といふ人間中で一番 獰悪 だうあく な種族であつたさうだ。この書生といふのは時々我々を捕へて煮て食ふといふ話である。しかしその当時は何といふ かんがへ もなかつたから別段恐しいとも思はなかつた。ただ彼の てのひら に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあつたばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいはゆる人間といふものの 見始 みはじめ であらう。この時妙なものだと思つた感じが今でも残つてゐる。第一毛をもつて装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶だ。その後猫にもだいぶ逢つたがこんな片輪には一度も 出会 でく はした事がない。のみならず顔の真中があまりに突起している。さうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙を吹く。どうも せぽくて実に弱つた。これが人間の飲む煙草といふものである事はやうやくこの頃知つた。
 この書生の掌の うち でしばらくはよい心持に坐つてをつたが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのか分らないが無暗に眼が廻る。胸が悪くなる。到底助からないと思つてゐると、どさりと音がして眼から火が出た。それまでは記憶してゐるがあとは何の事やらいくら考へ出さうとしても分らない。
 ふと気が付いて見ると書生はゐない。たくさんをつた兄弟が一 ぴき も見えぬ。肝心の母親さへ姿を隠してしまつた。その上今までの所とは違つて無暗に明るい。眼を いてゐられぬくらゐだ。はてな何でも 容子 やうす がをかしいと、のそのそ這ひ出して見ると非常に痛い。吾輩は わら の上から急に笹原の中へ棄てられたのである。
 やうやくの思ひで笹原を這ひ出すと向うに大きな池がある。吾輩は池の前に坐つてどうしたらよからうと考へて見た。別にこれといふ分別も出ない。しばらくして泣いたら書生がまた迎に来てくれるかと考へついた。ニャー、ニャーと試みにやつて見たが誰も来ない。そのうち池の上をさらさらと風が渡つて日が暮れかかる。腹が非常に減つて来た。泣きたくても声が出ない。仕方がない、何でもよいから 食物 くひもの のある所まであるかうと決心をしてそろりそろりと池を左りに廻り始めた。どうも非常に苦しい。そこを我慢して無理やりに這つて行くとやうやくの事で何となく人間臭い所へ出た。ここへ 這入 はい つたら、どうにかなると思つて竹垣の崩れた穴から、とある邸内にもぐり込んだ。縁は不思議なもので、もしこの竹垣が破れてゐなかつたなら、吾輩はつひに 路傍 ろぼう に餓死したかも知れんのである。一樹の蔭とはよく云つたものだ。この垣根の穴は 今日 こんにち に至るまで吾輩が 隣家 となり の三毛を訪問する時の通路になつてゐる。さて やしき へは忍び込んだもののこれから先どうして いか分らない。そのうちに暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、雨が降つて来るといふ始末でもう一刻の猶予が出来なくなつた。仕方がないからとにかく明るくて暖かさうな方へ方へとあるいて行く。今から考へるとその時はすでに家の内に這入つてをつたのだ。ここで吾輩は の書生以外の人間を再び見るべき機会に遭遇したのである。第一に逢つたのがおさんである。これは前の書生より一層乱暴な方で吾輩を見るや否やいきなり 頸筋 くびすぢ をつかんで表へ はう り出した。いやこれは駄目だと思つたから眼をねぶつて運を天に任せてゐた。しかしひもじいのと寒いのにはどうしても我慢が出来ん。吾輩は再びおさんの隙を見て台所へ這ひ上つた。すると間もなくまた投げ出された。吾輩は投げ出されては這ひ上り、這ひ上つては投げ出され、何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶してゐる。その時におさんと云ふ者はつくづくいやになった。この間おさんの 三馬 さんま ぬす んでこの返報をしてやってから、やっと胸の つかへ が下りた。吾輩が最後につまみ出されようとしたときに、この うち の主人が騒々しい何だといひながら出て来た。下女は吾輩をぶら下げて主人の方へ向けてこの宿なしの小猫がいくら出しても出しても 御台所 おだいどころ へ上つて来て困りますという。主人は鼻の下の黒い毛を ひね りながら吾輩の顔をしばらく眺めてをつたが、やがてそんなら内へ置いてやれといつたまま奥へ這入つてしまつた。主人はあまり口を聞かぬ人と見えた。下女は 口惜 くや しさうに吾輩を台所へ抛り出した。かくして吾輩はつひにこの うち を自分の 住家 すみか める事にしたのである。
(旧かなづかひ原文)


なんか、突然読みたくなった。
岩波文庫本を開いてみると、これがまた矢張りと言うべき名文で、ぐいぐい引き込まれる。

明治の日本を代表する知性であると同時に、江戸っ子で落語をこよなく愛した庶民性と、成熟した諧謔(ユーモア)を交えた話法が綯い交ぜになっている。一度開いたら、巻を擱くあたわずである。

近代日本文学に大道を拓いた夏目漱石の処女作である。
親友であった俳人・歌人の正岡子規が創刊した俳句雑誌『ホトトギス』に、明治38年(1905)から翌年にかけて連載され絶賛を博し、英文学者であった漱石は作家への道を踏み出した。

処女作には、その作家の全てがあるといわれる。
この有名な書き出しの件(くだり)は、漱石の生い立ちや青春時代にまつわる孤独感が、見事に表象されていると云われる。




 岩波文庫版(現在は新仮名遣いになっているかも知れません)





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くまんパパ @ 短歌では、ありですね(^^) 七詩さん、そうですね、同感です。 私も…
七詩 @ Re:ニヒルなれども面白し(06/08) くまんパパさんへ あの「世の中にたえて…
くまんパパ @ ニヒルなれども面白し 七詩さん、いつもありがとうございます(^^…
くまんパパ @ めっきり蒸し暑くなってきました やすじ2004さん、いつもありがとうござい…
くまんパパ @ のんびり行きたいですね(^^) やすじ2004さん、いつもありがとうござい…
くまんパパ @ びっくりするほど暑いですね やすじ2004さん、いつもありがとうござい…
やすじ2004 @ Re:松尾芭蕉  あらたふと青葉若葉の日の光(05/03) お元気ですか 今日は夏のような暑い一日…

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