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村松虚空蔵尊(→→→こちら)の山門です。三重県伊勢の朝熊山金剛證寺、福島県柳津の霊厳山円蔵寺とともに日本三体虚空蔵尊の一つとして信仰集めているそうです。真言宗豊山派の寺院で、山号は村松山。寺号は日高寺というそうです。その歴史について説明板がありました。大同2年(807年)に空海(弘法大師)によって創建されたとされ、創建の際、平城天皇から「村松山神宮寺」の勅額を賜わったそうです。鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて常陸国を治めた佐竹氏の庇護を受け隆盛を極めたが戦火により焼失し、長享元年(1488年)に白頭上人により再建され、名称を「村松山神宮寺」から「村松山日高寺」に改めらたそうです。さらに、江戸時代には、徳川家康から朱印50石を寄進され、また、水戸藩2代藩主・徳川光圀は寺を竜蔵院、竜光院の二院に分け、宗派を修験道に改め、虚空蔵菩薩を修飾しその台座に「日域三虚空蔵之一而霊応日新」と刻んだそうです。明治3年(1870年)の廃仏毀釈より「星の宮」と改称されたが、翌明治4年(1871年)には「虚空蔵」と称することが許可され再び「真言宗日高寺」となりました。明治33年(1900年)に堂塔伽藍すべてが消失しており、現在の建造物はすべて近代になって再建されたものになるそうです。こちらが本堂です。虚空蔵菩薩は丑年生まれと寅年生まれの守り本尊(→→→こちら)と言われるので、本堂の前には、牛と虎(多分)の石像がありました。本堂の扁額です。山号の村松山と本堂は大摩尼殿と呼ばれているのでその扁額もありました。本堂の裏に回ると、本堂裏についての説明書きがありました。白砂青松・村松の海岸この東に広がる村松海岸は白砂青松の景勝地で、天保4年(1833年)水戸第九代藩主徳川斉昭(烈公)は、水戸八景の一つに選び、自筆による「村松晴嵐」の名勝碑を建てさせた。この碑は村松晴嵐の碑と呼ばれ、この階段を上り。さらに80m程行ったところにある。また、この上の奥の院のわきには、俳聖芭蕉の「埜を横に 馬引きむけよ 時烏」の句碑と、詩人山村暮鳥の「おう土よ」の詩碑が建っている。砂浜には、ハマボウフウやハマヒルガオ、松林の中には茸などの植物が多く自生し、野ウサギやリスなどの動物も見られる。大神宮先の砂の高台からは、美しい白い砂・緑の松・青い海を一望することができる。とありました。そして、この階段を登って、本堂の裏も尋ねることにしました。(東海村を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 東海村(その4) 村松虚空蔵尊
2024年11月24日
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国道245号沿いに「茨城のお伊勢さま」という看板がありました。これは東海村村松にある豊受皇大神宮のことです。次の目的地はこの豊受皇大神宮と村松虚空蔵尊になります。国道245号をそれて、矢印の方向に向かって歩くと、3基の案内板がありました。こちらは茨城県全体の観光案内です。こちらは東海村にある12ヶ所の景勝地の案内で、ここには村松晴嵐(→→→こちら)という美しい白砂青松の景勝地があります。こちらは村松虚空蔵尊(→→→こちら)と「茨城のお伊勢さま」の大神宮(→→→こちら)について説明されていました。写真の向かって右側が大神宮の鳥居、左側が虚空蔵尊の山門になります。そして、大神宮への参道に東海十二景の村松晴嵐(むらまつせいらん)の石碑がありました。これから、この3ヶ所を順次訪れて参ります。(東海村を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 東海村(その3) 村松虚空蔵尊と大神宮、そして村松晴嵐
2024年11月23日
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まず訪れたのはこちらの東海原子力館別館(→→→こちら)です。太陽を手に入れた東海村ですが、日本初の商業用原子力発電所である東海発電所の廃炉がすすめられ、首都圏にある唯一の大型原子力発電所である東海第二発電所は、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)から停止したままで、再稼働を目指して地震・津波への対策工事を進め営業運転再開を目指しているそうです。しかし、東海村はもとより周辺自治体の理解を得らない事や原子力規制員会からの運転再開の許可が出ない事などで、その太陽の火も消えかかっているそうです。この東海原子力館別館では、原子力の仕組みや安全性を模型や映像・人形劇などで紹介rする施設で、原子力発電所の営業運転再開への広報を行っています。もちろん入場料は無料です。館内で原子力発電に関するクイズに答えると、このような記念品がもらえました。ここから東へさらに海に向かって歩いいくと、こんな看板をつけた建物がありました。こんな看板を掲げている建物、県会議員の事務所のようでした。次は海沿いの国道245号にある原子力科学館(→→→こちら)を踊れました。ここは、日本で唯一の原子力に関する総合博物館です。「原子ってなぁに?」「放射線ってなぁに?」「核分裂ってなぁに?」といった原子力や放射線についての基礎的な事柄を紹介しているそうです。この施設で原子力について正しく理解し、これからの日本のエネルギーあり方について考えようと思いましたが、残念ながら、訪れた日は臨時休館日でした。そして次の目的地に向かって、国道を南に向かって歩きます。(東海村を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 東海村(その2) 東海原子力館別館と原子力科学館
2024年11月22日
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茨城県那珂郡東海村にやって来ました。JR常磐線の東海駅(→→→こちら)です。平成6年(1994年)にこの駅舎が完成したそうです。今回は、JR東日本の駅からハイキング「東海村の歴史を学び・原子力に触れるハイキング」に参加しました。東海村と言えば、日本三大虚空蔵堂の一つ村松虚空蔵尊(→→→こちら)があることで有名です。駅前にはこのような石碑が建立されていました。そして、東海村を全国で有名にしているのは、やはり、昭和31年(1956年)、原子力施設の設置先が東海村に閣議決定され、昭和32年(1957年)7月には日本原子力研究所の東海研究所を設置し、翌8月に臨界実験に成功。日本で初めて「原子の火」が灯り、「日本の原子力発祥の地」となったことでしょう。さらに、昭和38年(1963年)10月26日には原子力発電の試験に成功し。その後、昭和32年(1957年)に、電力大手各社の出資により設立された日本原子力発電(原電)は、昭和41年(1966年)に日本初の商業用原発である東海発電所の営業運転を開始しています。つまり、東海村は原子力による太陽を手に入れた村です。そんな、太陽を手に入れた東海村を歩く、駅からハイキングのコースマップをここ東海村三業・情報プラザの事務室でもらいました。こちらの施設は、もちろん、原子力研究関係のため施設のようですね。こちらの道は、日本原子力研究開発機構(→→→こちら)という、原子力に関する研究と技術開発を行う国立研究開発法人の本部だそうです。村の中にはこんな広い道路が整備されています。原子力災害が起こった時は、この広い道がきっと避難の役に立つことでしょう。ちよっと、気がつかないで、いつまで経っても信号が変わらないとなと思っていた押しボタン式信号機がありました。(東海村を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 東海村(その1) 太陽を手に入れた村
2024年11月21日
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そして、再びJR両毛線の岩宿駅に帰って来ました。JR両毛線の全線が旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれていますが、イメージとしてはローカル線の小さな駅でした。駅舎横に跨線橋です。岩宿駅からは桐生競艇場への無料バスが発着しているんですね。競艇のある日には乗降客が多いのかな?駅の構造は、単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、計2面3線を有する列車交換可能な地上駅となっています。高崎駅行の上り列車に乗って帰ります。使用車両は3ドアの211系でした。(岩宿遺跡コース)【了】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その8) 岩宿駅から帰ります
2024年11月08日
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岩宿博物館からJR岩宿駅へ戻る途中にあった、相沢忠洋氏(→→→こちら)の銅像です。在野の考古学者というのは、学会の一部や地元住民から売名・詐欺師など、事実に反する誹謗・中傷が加えられたこともあったそうですが、地道な研究活動を続け、数多くの旧石器遺跡を発見したことで、考古学者として正当な評価をされるようになったそうです。アカデミズムの世界、保守的な側面は今でも変わらないところがあるかもしれませんね。この相沢忠洋氏の銅像の前にあるのが、史跡岩宿遺跡保護観察施設(→→→こちら)。通称「岩宿ドーム」と呼ばれる施設です。岩宿遺跡B地点の地層断面を保存・展示するため、1990年に建設されたそうです。こちらが、中にあった地層の断面図です。そして岩宿遺跡発見に関するビデオも上映されています。入場無料で入れるところも、また嬉しい施設でした。さらに岩宿ドームと道路と挟んで向かい側には、史跡岩宿遺跡に関する説明板と、岩宿遺跡A地点に関する説明がありました。相沢忠洋氏がの、この道路の切通に露出していた関東ローム層から黒曜石の打製石器を発見し、さらに明治大学教授杉原荘介の主導する調査団によって調査がおこなわれ、さらに石器が発見されることにより、日本における旧石器時代の存在が立証されたそうです。これぞ本当の「神の手(ゴットハンド)」の皆さんのがここに集まったんですね。ゴッドハンドといえば、旧石器を捏造して発見したといった事件もありましたが(→→→こちら)、これも誤ったアカデミズムのせいでしょうか。しかし、岩宿遺跡は本物で、国の指定史跡である岩宿遺跡の石柱が建てられ、文部大臣灘尾弘吉(1899-1994)(→→→こちら)揮毫による石碑もありました。(岩宿遺跡コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その7) 岩宿ドームと史跡岩宿遺跡
2024年11月07日
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岩宿博物館の近くにある鹿の川沼(→→→こちら)です。春には桜が咲いてきれいな所だそうです。よく見てみると、釣りを楽しんでいる方も多いですね。やっぱりヘラブナ釣りかな?この鹿の川沼、農業用水のための池らしいですね。渡良瀬川から取水されたこの沼までやってきているんですね。薮塚台土地改良区(→→→こちら)というのがここを管理しているみたいですね。土地改良区(→→→こちら)、耳慣れない人も多いかもしれませんが、江戸時代に岡上景能(おかのぼり かげよし)(→→→こちら)が造った用水路を現在に伝えるため維持管理している大切な団体なんですね。以前「北関東の旅 岩宿(その2)岡上景能公銅像」で紹介した岡上景能公の銅像です。この空地、なにやら看板が立っていますが、「ゴミを捨てるな」というような看板かと思いきや、許可なく掘るなという看板でした。ある意味、遺跡があったこのあたり大変価値のある不動産なんですね。(岩宿遺跡コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その6) 鹿の川沼
2024年11月06日
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鹿田山フットパスから、ぐるっとのんびとかな田園地帯を歩いて、再び岩宿博物館(→→→こちら)に戻ってきました。みどり市岩宿博物館は、いうまでもなく、群馬県みどり市にある旧石器時代の岩宿遺跡に関係する展示を行っている博物館です。入場料310円のところが、駅からハイキングの参加者は200円と割引になりました。岩宿遺跡(→→→こちら)というのは、群馬県みどり市にある旧石器時代の石器文化の遺跡です。昭和24年(1949年)に相澤忠洋さんが発見し、明治大学が発掘調査し、旧石器時代(先土器時代)の長期的な歴史と文化の変遷を明らかにした遺跡です。この遺跡が発見により、それまで土器時代以前の日本列島に人類は居住していなかったとされた定説を覆し、日本にも旧石器時代が存在したことが証明された画期的な発見だったそうです。このような石器が多く展示されています。MoMo太郎のような凡人が、仮に、このような石を発見しても、ただの石ころにしか思えないですが、やはり、志(こころざし)のある人がみればわかるものなんですね。こちらの石器は石斧に使われたものだそうです。こちらの石器はナイフなどの刃物として使われていた石器です。これらの石器を使って、当時生息していたオオツノジカ(→→→こちら)を狩猟していたようです。このオオツノジカ、肩高1.8m、体長2.6mに達した大型の鹿だそうです。しかし、こんなに大きな角が毎年、生えかわるとすれば、相当、この骨を作るためにカルシウムやリンが必要だったでしょうね。骨粗しょう症のオオツノジカはいなかったんでしょうね。マンモスゾウの骨格標本も展示されていました。岩宿にいた旧石器時代の人たちはマンモスも食べていたんでしょうかね。こちらは石器を作るのに使われた道具だそうです。黒曜石やサヌカイトといった石をハンマーとなる石で叩き割って、さらにその隙間に動物の骨や角を挟みこんで細かく削ったり、また、角や骨を石材の削りたい面に直接押し付けて少しずつはがしていくよう方法で、細かい石器を作っていたようですね。そうやって作られた石器を槍や斧として利用していたということです。岩宿遺跡を発見した相沢忠洋さん(→→→こちら)、納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行っていたそうですが、その相沢さんが愛用していた自転車が展示されていました。岩宿遺跡発掘の後も各地の旧石器時代の遺跡発見を行った相沢忠洋氏、やがてこのスクーターで発掘に回ったようですね。(岩宿遺跡コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その5) 岩宿博物館リターンズ
2024年11月04日
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のどかな田園風景の中を歩きます。庚申塔(→→→こちら)が道端に建てられていました。庚申塔の「申」は干支で猿に例えられるから、神道では猿田彦神とされ、猿田彦神は天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神ですから、道案内の神様。その神様のお導きで、次の目的地、鹿田山フットパス(→→→こちら)の駐車場にやって来ることができました。多分、フットパスとは英語書くと、"FootPath"、つまり歩道という意味でしょうから、ここまでは車で来ても、鹿田山フットパスで里山ハイキングを楽しむところなんですね。案内図では、池の周りの里山、鹿田山の中を歩けるようでした。こちらの池が鹿田山フットパスの中心地になる清水新沼という農業用のため池です。(岩宿遺跡コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その4) 鹿田山フットパス
2024年11月03日
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岩宿を訪れたのは10月6日でしたが、ここ群馬県みどり市笠懸町吹上地区のひまわり花畑は9月下旬から10月中旬にかけて開花する珍しいひまわり畑です。ここには約20万本ものひまわりが咲いているそうです。このひまわり畑を俯瞰で撮影しようと思いましたが、展望台は閉鎖されていて、ちょっと残念。また、この日は天気も悪く、ちょうど雨も降り始めてきましたが、折角来たので遅咲きのヒマワリの花を楽しみました。後ろの山は、みどり市笠懸町にある鹿田山です。この山麓一帯約2haがひまわり畑になっています。夏の盛りの暑い中ではなく、幾分涼しくなった秋のひまわりもじっくり楽しめていいかもしれませんね。(岩宿遺跡コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その3) ひまわり花畑
2024年11月02日
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岩宿博物館の近くにあったこの銅像。岡上景能(おかのぼり かげよし)(→→→こちら)という、江戸時代前期にこの地域を治めていた代官の銅像です。この銅像が建立された由来などが記された石碑もありました。このような銅像が建てられ顕彰されているのは、以下の事績によるものです。岡上景能の生まれた岡上家は、徳川幕府開設以来の18代官の1家として、代々代官職を務める家柄でした。足尾代官を勤めた景能は、足尾銅山の銅生産の向上と輸送の効率化を図るため、大間々-平塚河岸間に最短ルートとなる、足尾銅山街道(現・群馬県道69号)を建設したそうです。さらに、渡良瀬川から水を引く「笠掛野御用水」の開削も行ったそうです。この笠掛野御用水は、生活用水としてでなく、笠懸野の原野に新田を開発することも目的とされ、笠懸野には、本町村のほか久々宇村・桃頭村(笠懸町久宮)などの新田村がたくさん生まれることになりました。このように数々の業績を上げた景能でしたが、幕府から罪を問われ切腹を命じられました。どのような罪に問われたのかわかりませんが、景能は現在も笠懸野の住民の尊敬を集めているようですね。現在で言えば、田中角栄みたいに新幹線や高速道路を作ったけど、ロッキード事件などで総理をやめて金権政治を批判されたとしても、亡くなった今でも未だに色んな人から尊敬を集めているみたいな感じかな。(岩宿遺跡コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その2) 岡上景能公銅像
2024年11月01日
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10月6日(日) JR東日本が催行している「駅からハイキング 秋のひまわりと日本のあけぼのタイムトリップハイキング」に参加するため、JR両毛線の岩宿駅にやって来ました。岩宿駅からは色んな史跡を訪れることができそうです。というか群馬県って古墳とか遺跡とか多い所なのかも。岩宿駅の駅舎、木造の小さな駅舎です。これでも、大都市近郊区間の「東京近郊区間」で、かつIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている駅です。駅からハイキングでは、普通は駅でハイキングコースの地図がもらえるのですが、今回はここではなく1.5km歩いた先にある岩宿博物館(→→→こちら)で地図がもらえます。ということで、岩宿駅から博物館に向かって歩き始めます。でも地図がないので、スマホを見ながらの岩宿博物館へ向かいました。途中にあった、歌手の看板、桐生出身とありますが、岩宿は群馬県みどり市ですよ、星ゆたかさん。こちらは途中にあった不動明王様の石像です。立派です。岩宿遺跡(→→→こちら)などがある岩宿の里という公園に岩宿博物館がありました。こちらが博物館の入り口です。鹿の川沼(→→→こちら)という大きな沼がある公園です。そして、この半分地下に隠れたような建物が、岩沼博物館でした。ここでハイキングコースの地図を頂くと、博物館の人から、「帰りに立ち寄って下さい」と言われたので、帰り道にゆっくり博物館を拝見することとして、「駅からハイキング 秋のひまわりと日本のあけぼのタイムトリップハイキング」に出発しました。(岩宿遺跡コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その1) 岩宿博物館へ
2024年10月31日
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通洞駅から、わたらせ渓谷鐡道を使って帰ります。タイミングよく、わたらせ渓谷鐵道のキャラクター「わ鐵のわっしー」をモチーフにデザインされたトロッコ列車の「トロッコわっしー号」に乗ることができました。しかも、この日は有料の「トロッコ整理券」が必要のない快速列車としての運行だったので乗車券のみで乗ることができました。ちなみにわたらせ渓谷鐡道、交通系ICカードは使えません。窓ガラスのないオープンタイプの車両。きっと爽快だと思って乗ってみましたが、いざ乗ってみると、列車がスピードを上げると強い風が吹き込んできて、前の座席に座ったロングヘア―の女性の髪が後ろの座席のMoMo太郎の薄くなった後頭部に当たるし、停車すれば変な虫が入ってくるし、それに座席は板張りなので、長く座っているとお尻が痛くなってくるし、こういう列車に乗るのもいかがなものかと思うだけでした神戸(ごうど)駅には、むかし東武日光線を走っていた特急「けごん」の車体を利用した「列車のレストラン清流」がありました。また、途中で渓谷の景色の良いところでは停車してくれたり、この滝のところでも停車してくれました。相老駅で東武桐生線に乗り換えて、東武鉄道の特急「りょうもう」に乗って浅草駅まで帰ります。車内の様子です。大型のリクライニングシートが疲れた体を休めるのにピッタリでした。浅草駅に到着すると、新型特急のスペーシアX(→→→こちら)が停車していました。いつかはこれに乗って鬼怒川温泉なんか行ってみたいです。(足尾銅山を歩いたコース)【了】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その15) トロッコわっしー号
2024年10月25日
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わたらせ渓谷鐡道の通洞駅(→→→こちら)です。柱や梁が外に出ているのが特徴の木造の駅舎です。この建築様式はハーフティンバー様式と呼ばれているそうで、北方ヨーロッパの木造建築技法だそうです。また、駅舎及びプラットホームが登録有形文化財として登録されています。駅の前にある青銅製のレリーフは、足尾の四季という楽曲があるんですね。こんな曲らしいです。楽曲と言えば、大正元年に敷設された足尾鉄道は、直後に歌われた鉄道唱歌に7曲も組み込まれていたそうです。足尾線編の歌詞です。31.♬町をめぐれる渡良瀬の 水上(みなかみ)深く尋ねれば いにしえ勝道上人が 白き猿(ましら)に案内(あない)させ32.♬分け入り初めし(そめし)所とて その名に因む庚申山 百間幕(ひゃっけんとばり)の巖石を ながめてゆけば茸石(きのこいし)33.♬さきにそばたつ櫓石(やぐらいし) 見るもいぶせき女体石(にょたいせき) おののきおののき一の門 くぐれば数丈(すじょう)の梵字石(ぼんじせき)34.♬谷間にそいて屹立(きつりつ)し 風に傾(かた)ぶく風情なり さらに進めば富士見石 拳に似たるさざえ石35.♬ろうそく石は道野果て ここに踵をめぐらせば 胎内くぐり二つあり 小なるほうは葡匐(はらば)いつ36.♬大なるほうは立ちしまま くぐりくぐれば奥の院 数えつくせぬ怪石の 奇景は真に別世界37.♬山に続きて二里南 銅鉱出だす足尾なり 富田すぐれば佐野の駅 葛生越名にいたるみちおそらく、渡良瀬川の渓谷の景色が歌い込まれているのでしょうね。登録有形文化財のプラットホームです。駅名標には、右から、日光市観光協会キャラクターの日光仮面。栃木県マスコットキャラクターのとちまるくん。そしてわたらせ渓谷鐡道マスコットキャラクターのわ鐡のわっしーが並んでいます。左端は通洞坑から出てくるトロッコ列車ですね。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その14) わたらせ渓谷鐡道「通洞駅」
2024年10月24日
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わたらせ渓谷鐡道の線路です。ここを渡って、古河足尾歴史館(→→→こちら)にやって来ました。ここには、旧足尾鉱業所等のジオラマ、古河創業家の写真や銅像、古河家と交流のあった関塚家(フランス料理界にて活躍が顕著)ゆかりの品、そして、日本の安全第一運動のさきがけとなった小田川全之の写真および関連品の展示などがあります。入場料は、大人が400円ですが、駅からハイキングの参加者は300円で入場できたので、中に入ってみました。こちらのお勧めは、野外展示場の足尾ガソリン軌道・歴史館線です。こちらのガソリンカーがけん引するトロッコ列車に乗って、展示場内を一周するイベントです。遊園地の列車に乗るような楽しさがありました。そのほか、足尾鉱山で使われていたようなトロッコや機関車も展示されていましたが、ちょっと面白いのがこれです。茨城県日立市にあった、日立セメントの太平田鉱山索道で使われていた「箱索道バケット」も展示されていました。この古河足尾歴史館、ちょっと高台にあるので、足尾町通洞地区を見下ろすことができました。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その13) 古河足尾歴史館
2024年10月23日
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足尾銅山観光の報告、長く続いて飽きられたかもしれませんが、まだまだ続きます。こちらは、砕女(くずめ)と呼ばれた女性作業員、掘り出した鉱石を金づちで砕く役割はこういう女性が担っていたんですね。坑道から外に出ると、このさく岩機体験コーナーがありました。こういう体験も楽しいでしょうね。保存されている坑内作業に使われたバッテリー式の電気機関車、作業員の乗るトロッコ、そして運搬車です。こちらが、通洞駅から乗ってきたトロッコです。この坑道の中に入って行きます。通洞坑という標識がありました。こちらの建物は、鋳銭座。ここでは足尾で鋳造されていた寛永通宝、裏に「足」の字が刻まれていたので足字銭と呼ばれいた、の製造過程を人形を使って再現しています。大きな足字銭が建物の壁に飾られていました。ここで足尾銅山観光(→→→こちら)の紹介は完了です。この施設、入場料の830円の値打ちはあると思います。(足尾銅山を歩いたコース)北関東の旅 足尾銅山へ行く(その12) 足尾銅山観光part5人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その12) 足尾銅山観光part5
2024年10月22日
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こちらは坑道の一部が広くなっているのを利用して作られた銅(あかがね)資料館のエリアです。ここに展示されているのは坑内輸送用の3t電気機関車B形No.47と1t箱形坑車です。電気機関車にはトロリーポールの集電装置がついていたので、坑内に架空線が張り巡らせていたんでしょうね。「安全専一」とは、銅の採掘と製錬技術の調査のために訪米した足尾事業所長の小田川全之は、アメリカの製鉄会社で提唱されていた「SAFETY FIRST(セーフティファースト)」の考え方を持ち帰り、「安全専一(あんぜんせんいち)」と翻訳し、足尾銅山に安全専一の表示板を掲示し、従業員に安全意識を根付かせ、安全活動を推進しました(→→→こちら)。今でいうところの「安全第一」の標語ですが、古河機械金属株式会社では、今でもこの「安全専一」を使用しているそうです。ちなみに古河機械金属株式会社は、この安全専一を特許庁へ出願して、2020年4月3日および5月25日に商標登録されているそうです(→→→こちら)。坑内で使われるダイナマイトの説明黒板です。こちらは坑内で働く人たちへの安全の心得のようでした。こちらは、銅の製煉(せいれん)所のジオラマです。こちらは坑内から採掘された鉱石を選り分けて、製錬所へ送る役割を担っていた選鉱所のジオラマです。こちらに展示されているのは、足尾銅山で採掘された鉱石です。この中に銅が含まれているんですね。この板は電解精製用の銅アノード陽極板と呼ばれるもので、鉱石から取り出された精製粗銅をこのように鋳造します。この銅アノードを硫酸銅溶液を張った電気分解槽にステンレス製カソード板と交互に沈めます。電流を流すと、銅アノードから硫酸銅溶液に溶けだした銅がステンレスカソード板に電着して品位の高い銅が造られるそうです。ということで、できたのがこの銅のインゴットです。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その11) 足尾銅山観光part4
2024年10月21日
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ここからは、明治・大正時代の鉱山の様子が再現されています。この頃は削岩機(ロックドリル)を使って掘っていますね。動力には油圧式と圧縮空気式があります。ただこのロックドリルで掘るといっても、岩に穴を開けて、そこにくさびを打ち込むか、硬い岩盤だと、掘削した穴に火薬を詰めて爆破することをやっています。掘り出された岩石はズリと呼ばれていて、大きなトンネル断面だとダンプなどでも運びますが、炭鉱や鉱山では、レールを敷設して、このような運搬車で運び出します。MoMo太郎のいた炭鉱では、この運搬車を「ずりトロ」と呼んでいました。ここからは昭和の時代の鉱山です。MoMo太郎も炭鉱ではこのようにヘルメットをかぶり、じん肺(→→→こちら)予防のためのマスクをして働いてました。鉱山の中に開運洞という祠があり、山の神が祀られていました。当然ですが、箱根駅伝の五区を走る山の神とは違います。ました。この祠で、いい鉱石が多く産出されることや、作業の安全を祈ったのでしょうね。ちなみに山の神は一般に女神であるとされているので、普通の家庭でも、外から女性を連れ来ると奥様が嫉妬してお怒りになるのと同じで、鉱山の中に女性は入れないという、労働安全衛生規則とは違う、鉱山で働く男たちの掟がありました(→→→こちら)。食事は、鉱山の中で弁当を食べます。弁当と怪我は自分持ちといいますが、昔はいざ知らず、ちゃんと労災保険はおりますよ。足尾銅山でもそうだったと思いますが、炭鉱では三交替制で働いて、24時間営業でしたので、お昼だから弁当ではなく、夜中にお弁当食べていました。まあ、一日中、お日様とは関係なく暗い地下に居るので、朝とか夜の感覚ってなくなるかと思っていましたが、意外とそういう感覚って残るもんでした。山が落ちてこないように、ここでも支保工の点検は、この人形がしっかりやっていました。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その10) 足尾銅山観光part3
2024年10月20日
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坑道の中を歩いて行くと、江戸時代の鉱山で働く人を人形で再現されていました。こちらは、鉱石を手押し車で運んでいる人の様子です。こちらは、鉱石を背負って運んでいる人ですね。鉱石を掘り出している坑夫の人とそれを監督している役人の様子です。ノミと槌を使って鉱石を掘り出しているんですね。全長で約300メートルの坑道の中を歩いて行きます。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その9) 足尾銅山観光part2
2024年10月19日
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俳優 西田敏行さん死去 76歳 北野武さんら悼む声相次ぐ(→→→こちら)大門美知子先生でも治せなかった病気なんでしょうか。自宅で亡くなったというので、榊マリコ研究員と風丘早月教授が検死解剖されるのでしょうかね。とテレビの世界と現実の世界の区別がつかなくったMoMo太郎です。さて、足尾銅山観光(→→→こちら)とは、江戸時代から銅の産地として栄え、かつては「日本一の鉱都とも呼ばれた足尾銅山の閉山後に坑内の一部が開放され、トロッコ電車に乗って全長約460メートルの薄暗い坑道に入っていく観光施設です。こちらの駅舎からトロッコに乗ります。入場料は830円ですが、駅からハイキングの参加者は730円で入場できました。神木隆之介(→→→こちら)と同じように若い頃は炭鉱で働いていたこともあるMoMo太郎です。このようなトロッコに乗って炭鉱の中に入っていました(嘘ですょ)。でもこのトロッコ、やっぱり観光用にきれいな塗装がされていますね。駅舎の中には、江戸時代の銅山で働く坑夫さんの人形が展示されていました。こちらのホームからトロッコに乗ります。観光客はここから坑内に入って、坑内を歩いて戻ってくるので入ってくるトロッコに乗客は乗っていません。また、鉱山のトンネルの中に入るのですが、労働安全規則による保安帽(ヘルメット)の着用はなかったです。昔、炭鉱で働いていたMoMo太郎としては、ヘルメット無しで炭鉱に入るのは、下着のパンツなしでズボンを穿くような不安な気持ちになります。炭鉱夫だった頃(あくまで、嘘ですょ)を思い出すMoMo太郎、トロッコを降りて採掘の切羽(きりはけ:トンネル掘削の最先端箇所のこと)に行くのでしょうか。このバッテリーロコ(トンネル工事で使用される蓄電池機関車のこと、排ガスの出ないので使われています)で乗客を乗せたトロッコを引っ張ってきました。鉱山が稼働していた頃は、資材や功績を運搬していたんでしょうね。この先も坑道は続いていたのでしょうが、今はこのように立ち入り禁止になっています。トロッコを降りて、いったん坑口の方へ向かって少し戻って、こちらの脇に掘られている坑道に入っていきます。坑道を支える松丸太(多分、松だと思います)で作られた支保工(トンネルの中で上からの荷重を支える仮設構造物)がかって働いていた炭鉱を思い起こします。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その8) 足尾銅山観光part1
2024年10月18日
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このあたり、足尾町の中心にあたる通洞(つうどう)と呼ばれる地区にやってきました。「通洞」とは鉱山用語のひとつで、探鉱のほか運搬・排水・通気等の役割を担った鉱山の基幹となる坑道のことです。中心ということで、かっては足尾銅山労働組合の建物があつたそうです。今でも中心地らしく、消防署や日光市足尾庁舎などの施設もあります。こちらの建物が、日光市足尾庁舎(→→→こちら)です。住民票の手続きなど日光市庁舎まで行かなくてもできたり、公民館もあったりします。また足尾町の観光振興や商工業、農林業に関する施策の担当部署などもあるようです。ここでちょっと休憩して、いよいよ足尾銅山観光のメインである足尾銅山観光(→→→こちら)に向かいます。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その7) 通洞地区
2024年10月17日
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次に訪れたのが「足字銭と鋳銭座跡碑」(→→→こちら)説明板はかなり傷んでいましたが、内容は以下の通りです。「江戸幕府直山の足尾銅山は産銅量の減退に伴い、銅山師達は山元(やまもと)の困窮を救うため、寛保元年(1741年)幕府に足尾銅山で「寛永通宝・一文銭」の鋳造許可を願い出、鋳銭することとなりました。特に足尾で鋳造の寛永通宝一文銭は、裏に「足」の字が刻まれ「足字銭(足尾銭)」と呼ばれ、お銭(かね)のことを「おあし」と言っていたのも足字銭が語源といわれます」お金のことを「おあし」というのは、足があるようにどんどん使われて、お金が貯まらないから「おあし」と呼ぶんだという、MoMo太郎の祖父の話は嘘だったのか。このあたりから足尾の町の商店街ができていました。こちらのお店はプリントショップで、オリジナルのマグカップ、のほり、Tシャツ、ステッカー、缶バッチなどを作ってくれるお店です。ここで駅からハイキングの参加者に缶バッチをプレゼントしてもらいました。商店が所々に並んでいました。が、足尾の町の中にコンビニは見たりませんでした。こちらはお菓子屋さん。一応、お土産になる最中やドラ焼きを売っているんでしょうね。店休日だったのはちょっと残念でした。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その6) 足字銭と鋳銭座跡碑
2024年10月16日
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足尾駅から足尾の町の中を歩き次の目的地である宝増寺(ほうぞうじ)にやって来ました。山門の前には、寺号碑と宝増寺の歴史が説明された看板もありました。この説明板によると、・・・。本堂には「足尾」の地名の由来となった勝道上人作の”波之利大黒天"の木像・・・とありますが、「足尾」の地名の由来とは、毎年穂をくわえて日光中宮祠に現れる白ネズミはどこから来るのか、これを確かめるために勝道上人がこの白ネズミの足に紐(緒)を結わえて放ったところ、現在の足尾の村落に至ったことから、それ以来この村落を「足緒」と呼ぶようになり、白ネズミが入った洞穴を修験の場に選び大黒天とネズミを祀ったという。ということだそうです。宝増寺の境内です。寺の奥には山に向かって多数のお墓が建っていますが。これは無縁墓だそうです。本堂の中です。宝増寺を出てしばらく歩いたところにあるこの建物は、足尾キリスト教会です。足尾で初めての本格的な教会堂で、また唯一の現存例であり、当時の銅山従事者の信仰の様相を伝える建築物であることから、国登録文化財になっています。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その5) お寺と教会
2024年10月15日
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こちらの旧国鉄時代の雰囲気を残す足尾駅(→→→こちら)。1912年(大正元年)に建てられた木造駅舎は、国指定の登録有形文化財になります。琺瑯(ホーロー)看板の駅名標もレトロでいいですね。わたらせ渓谷鐡道では、貨物の取り扱いをしていませんが、旧国鉄の時代からJR東日本の足尾駅の時代には貨物の取り扱いをしていたそうです。その往時を偲ばせるように貨物車両が保存されていました。かって使われていたキハ35系気動車も保存展示されていました。ホームにはわたらせ渓谷鐡道のトロッコわたらせ渓谷号(→→→こちら)が停車していました。トロッコわたらせ渓谷号は、窓ガラスのないオープンタイプのトロッコ車両2両を、窓ガラス付きの普通車両2両で挟み込んだ格好で連結します。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その4) 足尾駅
2024年10月14日
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こちらの橋は渡良瀬橋(→→→こちら)。森高千里の歌になった渡良瀬橋(→→→こちら)は栃木県足利市ですが、こちらの渡良瀬橋は栃木県日光市足尾にあります。当初は鉄製のアーチ橋だったのですが、昭和10年(1935年)にその鉄製本体をそのまま鉄骨として、トラスの垂直材を1本おきに取り除き、鉄骨コンクリートに改造したコンクリートアーチ橋になりました。設計施工は往時の足尾銅山の技師たちが携わったと思われますが、優秀な技術者たちだったと思われます。そして、こちらの古河掛水倶楽部(→→→こちら)を見学しました。入場料は500円ですが、駅からハイキングの参加者は400円で入場できました。今回の駅からハイキング「産業遺構と環境の町 足尾」で歩く距離は約5kmなので、のんびりと施設の見学などができました。このお屋敷が古河掛水倶楽部です。足尾銅山の隆盛期に貴賓客の接待や宿泊施設として利用されていた迎賓館で国の登録有形文化財になっているそうです。今でも持ち主の古河機械金属の社員研修などにも利用されているようです。こちらが入口。中ではカメラでの撮影禁止だったので、紹介できる写真が撮影できませんでした。内部を知りたい方は古河掛水倶楽部のホームページ(→→→こちら)をご覧ください。その代わり、同じ敷地に内にある電話資料館を紹介します。電話といえば、足尾鉱山を足掛かりに発展した古河鉱業会社(現古河機械金属株式会社)をはじめとする戦前の古河財閥の流れを汲む企業グループの古河グループには、通信機事業をベースとして発展した富士通もあるので、なかなか興味深い展示があるかもしれません。1965年に導入された自動交換機です。もちろん富士通信機株式会社製です。携帯電話などの発達により、2000年にその役目を終え、2016年には栃木県指定有形文化財となったそうです。昔使われていたダイアル式の電話機ですね。こちらは。昔の電話機ですね。1876年、ベルが発明した電話器は1877年に日本へ輸入され、1886年に民間で最初の電話機として足尾銅山の坑内外で使用され始めたそうです。相手先の電話番号を伝えると、電話の交換手が相手側の番号につながるジャックにプラグを差し込んで通話ができる。手動の電話交換機です。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その3) 古河掛水倶楽部
2024年10月13日
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わたらせ渓谷鐡道の間藤駅から歩き出しました。「鉄道」と表記すると金を失うと書くので、「鐡道」と表記しているのでしょうね。この車両、「わ89-200形気動車」です。銅山にちなんだ赤い色に塗装されているんですね。また、車体にはカモシカのマークが描かれていました。間藤駅から正面に見える山です。名前はわかりませんが、この山の地下に鉱山が彫られていたんでしょうね(→→→こちら)。駅の近くにあった渡良瀬取水塔(→→→こちら)です。足尾銅山の閉山に伴う旧足尾町の振興策として、建設された足尾発電所のための取水施設です。発電所の建設で、電源三法による交付金、市町村交付金により、旧足尾町の財政改善に寄与したのでしょうね。こちらの橋梁は、わたらせ渓谷鐡道第一松木川橋梁(→→→こちら)です。登録有形文化財と土木学会選奨土木遺産に認定されている貴重な構造物だそうです。さすがに鉄道橋を歩くわけにはいかないので、隣にかかる人道橋で川を渡ります。こちらの橋もかなり年季の入ったトラス橋ですね。橋の下を流れる松木川です。一般的に日光市足尾地区渡良瀬にある神子内川との合流部から下流が渡良瀬川であり、これより上流は松木川(と呼び分けられているのですが、国土交通省の定義では、足尾ダムから神子内川までの合流部分も含めて渡良瀬川と定めているので、法律的には渡良瀬川と呼ばないといけないですね。足尾駅に向かって、わたらせ渓谷鐡道の線路沿いの道を歩いて行きます。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その2) 第一松木川橋梁
2024年10月12日
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9月15日、JR東日本の「駅からハイキング~産業遺産と環境の町 足尾~」に参加するため、浅草駅から足尾銅山に向かいました。東武鉄道を利用して、東武日光へやって来ました。足尾銅山といえば、桐生からわたらせ渓谷鉄道(旧国鉄足尾線)を利用していくのが、一般的なルートではないかと思われるでしょうが、実は足尾銅山は、栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)にあったのです。ということで東武日光へやって来たのです。山小屋をイメージした三角屋根の駅舎が特徴的な東武日光駅です。連休ということもあって、駅前には大勢の観光客。ここから、この路面電車に乗って、というわけでなく、これは、保存展示されている、かつて日光軌道線で使用された100形路面電車です。日光軌道線とは、日光駅前から馬返までを結んでいた、東武鉄道運営の路面電車です。日光東照宮、輪王寺、二荒山神社等の観光地への旅客輸送や古河精銅所からの貨物輸送に活躍していましたが、モーターリゼションの影響で昭和43年(1968年)に廃止されました。ということで、足尾銅山に向かうのは、日光市営バスの足尾JR日光線を利用して、足尾に向かいます。このバス路線、テレビ東京の路線バスの旅などでもよく利用されているので、知っている人も多いかも。JR日光駅と足尾を結んで一日6往復が運行されています。結構、乗客が乗り込んでいますが、乗客のほとんどの人が駅からハイキングの参加者の方でした。日光東照宮の前を流れる大谷川に架かる神橋(→→→こちら)です。日光東照宮までは、渋滞していましたが、そこを過ぎると、快調なバス旅が、・・・と思っていたら。国道122号の日足トンネルを過ぎたところで、突然バスが止まってしまいました。理由は道を塞ぐように横転していたトラック。消防車やパトカーがやってきて事故処理を始めましたが、この状態だといつ通行できるようになるか、わからないという警察官の話でした。こういう時って、バスの乗客同士でなにか軽い連帯感ができて、みんなで話し合った結果、駅からハイキングの受付時間もあるので、受付場所の間藤駅まで、約9キロの道を歩いていっても、多分歩けば2時間くらいで到着して、受付時間に間に合うだろうということで、みんなバスを降りて歩いて向かうことになりました。駅からハイキング、思わず駅までハイキングに変わりましたが、とにかくみんな歩き出しました。この時、熊よけの鈴を持ってくればよかった後悔しながら、山あいの国道を歩きました。しかし、1時間も歩かないうちに、トラックが移動できたようで、車が走り始めました。そうすると、バスもやってきて、歩いている人達を途中で拾ってくれて、バスに乗ると、あっという間にわたらせ渓谷鉄道の終着駅で、駅からハイキングの参加受付場所の間藤駅に到着しました。受付を終えると、記念品にクマよけの鈴をいただきました。間藤駅の説明板です。本当は、ここから歩くのですが、これに乗って帰ろうかとも思いましたが、日光市観光協会キャラクターの日光仮面にも励まされて、ここから足尾銅山に向かって歩き始めることにしました。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その1) 足尾銅山は日光市にあります
2024年10月11日
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上野三碑の訪問の旅の最後はこちらの金井沢碑(→→→こちら)です。金井沢碑へは、この緩やかな会談を登ってゆきます。最後は、ちょっと急な階段になっていました。金井沢碑も覆屋で保護されています。特別史跡 金井沢碑の説明板がありました。金井沢碑は、奈良時代初期の726(神亀3)年に、三家氏を名乗る氏族が、当時の最も新しい文化である仏教思想によって先祖の供養、一族の繁栄を祈るために造立した石碑だそうです。ガラス越しに石碑の正面を撮影しました。銘文には風化のため文字が判読しにくい部分があるそうですが、次のような内容だそうです。上野国群馬郡下賛郷高田里三家子(?)為七世父母現在父母現在侍家刀自他田君目頬刀自又児加那刀自孫物部君午足次蹄刀自次乙蹄刀自合六口又知識所給人三家毛人次知万呂鍛師礒部君身麻呂合三口如是知識結而天地誓願仕奉石文 神亀三年丙寅二月二九日現代語訳にすると、上野国群馬郡下賛郷高田里に住む三家子(?)が(発願して)、祖先および父母の為に、ただいま家刀自(主婦)の立場にある他田君目頬刀自、その子の加那刀自、孫の物部君午足、次の※刀自、その子の若※刀自の合わせて六人、また既に仏の教えで結ばれた人たちである三家毛人、次の知万呂、鍛師の礒部君身麻呂の合わせて三人が、このように仏の教えによって(我が家と一族の繁栄を願って)お祈り申し上げる石文である。神亀三(七二六)年丙寅二月二十九日ちなみに、刀自とは、家を統括する女性の位。主婦のことです。また、鍛師とは、製鉄や金属加工に携わる職のことです。こちらは石碑の左側面です。ここからは上野三碑めぐりバスではなく、徒歩で上信電鉄根小屋駅に向かいました。この細い山道を抜けて、上信電鉄の踏切を越えて、向うに見えるのは、上毛かるたでは「裾野は長し赤城山」として紹介されてる赤城山ですね。途中で見かけた道祖神(→→→こちら)です。上信電鉄の根小屋駅の写真を撮影と思ったのですが、道祖神の写真などを撮影していたせいか、駅には列車の出発時刻ギリギリに到着してしまい、撮影できませんでした。残念!!でした。(上野三碑めぐり)【了】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その8) 金井沢碑
2024年08月26日
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「史跡山上碑及び古墳」と刻まれた石柱がありました。「特別史跡 山上碑及び古墳」(→→→こちら)の説明板です。要約すると、「山上碑は、輝石安山岩の自然石で、高さ111cmに53文字を刻んだもので、天武朝の681年に立てられました日本最古級の石碑になります。山上碑は放光寺の僧 長利が、亡き母の黒売刀自(くろめとじ)を供養するとともに、名族であった母と自分の系譜を記して顕彰したものです。黒売刀自は、碑の隣にある山上古墳に埋葬されたと考えられています。」ということです。こちらの石碑も覆堂で保護されています。こちらの山上碑は、ガラス越しでしたが、なんとなく見ることができるように撮影できました。銘文はこう刻まれています。辛己歳集月三日記佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児長利僧母為記定文也 放光寺僧現代語訳は、辛巳年10月3日に記す。佐野三家(さののみやけ)をお定めになった健守命(たけもりのみこと)の子孫の黒売刀自(くろめとじ)。これが、新川臣(にっかわのおみ)の子の斯多々弥足尼(したたみのすくね)の子孫である大児臣(おおごのおみ)に嫁いで生まれた子である長利僧(ちょうりのほうし)が、母の為に記し定めた文である。放光寺の僧。ということでした。こちらにも記念碑や歌碑が設置されていました。また、古い墓石もあり、この場所は弔いの場所として使われていたんでしょうか。(上野三碑めぐり)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その7) 山上碑
2024年08月25日
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再び上野三碑めぐりバスに乗って、山上碑を訪れました。バスを降りる時、運転手さんによると「この道を真っ直ぐ歩いていって左手に入口があります」ということでした。山上碑は、こちらの階段を登っていくようです。階段の登り口にあった石碑です。万葉集の「吾が恋は まさかも悲し草枕 多胡の入野の奥もかなしも」という歌が刻まれているそうです。石碑には手島右卿(てしまゆうけい)(→→→こちら)により万葉仮名で歌が刻まれています。さすが山上碑、山の上にあるんですね。この階段を登って行きます。階段の途中にあった「三郡坂東卅(さんじゆう)三所」の説明板です。江戸時代の中頃、旅をおぼえた民衆は、名所古跡を訪ね、古来の札所を廻った。西国33カ所の観音札所であり、坂東の札所である。しかし一般の庶民にとって、これら長距離の札所は高嶺の花で、とうてい巡礼することは出来ない。そこで考え出されたのがミニ観音札所や、四国八十八カ所になぞらえた新四国である。指定の山上古墳の中に馬頭観音が祀られ、窟堂と呼ばれる観音堂が建てられ、石段が積まれたのは何時の頃か、明和6年(1769年)には多胡郡、緑野郡、北甘楽郡内の坂東33所遷しの4番札所に選ばれたが、時は流れ、お堂は失せ、札所の伝えも忘れられてあたかも史跡への階段であるかのような、錯覚のみが残っている。階段を登ったところにある特別史跡「山上古墳」(→→→こちら)です。山上碑に隣接するこの古墳は、直径約15メートルの円墳で、精緻な切石積みの石室を持ち7世紀中頃の築造と考えられいるそうです。古墳の前にあった説明板です。この説明板によると、傍らにある山上碑の碑文から推定すると、本古墳は高崎市南部に置かれた佐野三家の経営に連なる山名地域の首長の墓として造られ、その後辛巳年(681年)に黒売刀自が追葬された時に山上碑が建てられたと考えられているそうです。この古墳の石室の中には、馬頭観音像が据えられています。かっては古墳の前に観音堂が建てられ、観音霊場「三郡坂東卅(さんじゆう)三所」のうち第四番山名宝積寺窟堂という札所の一つだったそうです。(上野三碑めぐり)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その6) 山上古墳
2024年08月24日
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上野三碑ガイダンス施設として整備されているのがこちらの多胡碑記念館(→→→こちら)です。施設内では、古代多胡郡をしのばせる考古資料や、上野三碑の実物大レプリカ、多胡碑の碑文の書風にかかわる中国の刻石の拓本などが展示されています。撮影できそうだったのは、子供時代を群馬県で過ごした人は、みんな知っている上毛かるた(→→→こちら)の一枚「昔を語る多胡の古碑」です。また、拓本の体験コーナーもあり、MoMo太郎も挑戦してみました。また、多胡碑記念館に隣接して吉井いしぶみの里公園がありました。公園の中には、古墳や古代ハスの池がある。また多胡碑の碑文の文字が園内の岩に刻まれています。このあたりにある多胡古墳群は吉井町多胡から吉井町神保にかけて分布する古墳時代後期~終末期にかけての群集墳で、90基以上存在していたと考えられる吉井地域最大の古墳群だそうです。こちらの公園には、2基の古墳が移築復元されています。こちらの古墳は、片山1号墳(上毛古墳総覧吉井町65号)高崎市吉井町片山117番地より粘土槨を移築本古墳は、墳形32.6mを測り、周囲に巡る濠跡を含めると直径約50mを測る円墳となります。主体部は墳頂中心より南に寄った位置から、8.8mを測る長大な粘土槨を確認しました。粘土槨からは小型仿製の内行花文鏡のほか竪櫛(約40点)、鉄剣、鉄鏃、鉄製斧、石製模造品(斧・刀子・臼玉)、管玉などが出土しました。築造年代は、4世紀末から5世紀初頭と推定されます。粘土槨は全長約8.8m、幅約2.0mの墓壙の中に粘土を敷き、大木を建て半分にして中をくりぬいた割竹形木棺を置き、更に粘土で包んだものが残っていました。粘土槨(ねんどかく)古墳というもので、古墳の墳丘の上から掘られた土坑内の粘土床上に安置された木棺を粘土で覆って埋め戻した埋葬施設になるそうです。こちらの古墳は石室のある古墳です。こちらの解説プレートによれば、南高原1号古墳(上毛古墳総覧多胡村115号)高崎市吉井町神保259、260、261番地より移築本古墳は直径17mを測る円墳で、低い基壇を有する二段築成を呈しています。周囲に堀を巡らせ、墳丘表面には北側を中心に葺石が残っていました。主体部は南側に入口をもつ横穴式石室です。石室全長は約8mで、石材は地元の牛伏砂岩を用いています。築造年代は7世紀代と推定されます。石室断面図石室は、奥の天井石及び奥壁、左右側壁(袖部を除く)、通路(羨道)の左右側壁下半(入口は除く)が残っていました。またこちらは、昭和26(1951年)、千葉県東京大学厚生農場(現 東京大学検見川総合運動場)の遺跡で発掘された2000年以上前の古代の蓮の実から発芽、開花した貴重な大賀(おおが)ハス(→→→こちら)が移植された池です。7月下旬のこの時期、ハスの花も終わりかなと思っていたら、ありました。大賀ハスの花が咲いていました。(上野三碑めぐり)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その5) 多胡碑記念館と吉井いしぶみの里公園
2024年08月23日
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最初にやって来たのが、この多胡碑(→→→こちら)です。石碑保護のためこの覆堂の中に多胡碑はあります。ガラス越しに石碑を撮影してみましたが上手く撮影できませんでした。多胡碑については写真(→→→こちら)をご参照ください。参考に銘文を示すと、弁官符上野国片岡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成給羊成多胡郡和銅四年三月九日甲寅宣左中弁正五位下多治比真人太政官二品穂積親王左太臣正二位石上尊右太臣正二位藤原尊現代文に訳すと、朝廷の弁官局から命令があった。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡としなさい。和銅四(711)年三月九日甲寅。左中弁正五位下多治比真人による宣旨である。太政官の二品穂積親王、左太臣正二位石上(麻呂)尊、右太臣二位藤原(不比等)尊。という意味になるそうです。樹木の枝の陰でよくみえませんが、多胡碑に関する解説が書かれている説明板です。多胡碑についてざっと紹介しますと、多胡碑は、奈良時代初めの和銅[わどう]4(711)年に上野国の14番目の郡として、多胡郡が建郡されたことを記念して建てられた石碑です。建郡に際しては、「羊[ひつじ]」という渡来人[とらいじん]とおもわれる人物が大きな役割を果たし、初代の郡長官になったようです。碑を建てたのも、この「羊」であると考えられ、碑の後段には当時の政府首脳の名を挙げて権威付けをはかっています。こちらの木は、羊さまの榎といって、地元の人が多胡碑のことを「羊さま」と呼んでいることから名づけられた木のようです。本体の多胡碑は上手く撮影できなかったので、周りにあった石碑を撮影しておきました。覆堂の横にあった石碑です。これは、陸奥出羽按察使前中納言有長と言う人が詠んだ「むかしは書残したるかみつけに うづもれぬ名ぞいまもかがく」という歌の歌碑のようです。ちなみに、按察使(あぜち)とは地方行政を監督・監察する令外官のことです。こちらにも歌碑がありました。吉井町出身の歌人、藤原寛一の詠んだ「万代もいかでつきせじ名にしあう ほまれぞのこる多胡の碑」という歌でした。この碑は「多胡碑記の碑」で、文学博士の男爵、細川潤次郎(元老院参議)の撰によるもので、彼が上野三碑を巡覧した時の、多胡碑の考証や三碑の状態の記録が記されています。石碑の署は当代日本随一の書家日下部鳴鶴(くさかべめいかく)の筆による隷書体です。こちらは、吉田松陰の妹の文と結婚していた初代群馬県令、楫取素彦(かとりもとひこ)の歌「深草のうちに埋もれし石文の 世にめづらるる 時はきにけり」の歌碑です。楫取素彦は、多胡碑の保護に努め、内務省にかけあって木柵等の修理をおこなったそうです。さらに楫取は地元の有志に、寄付を募って多胡碑のある稲荷明神社周辺の土地を買収して整備するよう助言し、自らも寄付をおこなったそうです。上野三碑の幟も飾られていました。(上野三碑めぐり)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その4) 多胡碑
2024年08月22日
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上信電鉄に乗って、吉井駅にやって来ました。こちらが上信電鉄吉井駅の駅舎です。駅舎は戦前に建てられ、諸改修を受けつつ現在も用いられているそうです。駅前には、小さな商店があるだけで、コンビニもなくなんか寂しいですが、この上野三碑めぐりバス(→→→こちら)に乗って、上野三碑を回ります。このバス(といっても、9人乗りのジャンボタクシー車両ですが)は、高崎市教育委員会が上野三碑の見学者のために無料で運行しているものです。路線バスではなく、また、バスツアーでもないので、バス停に到着後、すぐに発車します。概ね一時間に一本の頻度で運行されているので、それぞれの石碑をゆっくり見学して次のバスに乗って移動するという利用方法になります。(上野三碑めぐり)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その3) 上野三碑めぐりバス
2024年08月21日
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上信電鉄高崎駅の入口にある3つの石碑です。これが今回、高崎までやってきた目的の「上野三碑(こうずけさんぴ)」(→→→こちら)です。ここでこれを観たら旅の目的達成かというと、駅にあるこれはレプリカです。この笠のような石がついているのが「多胡碑(たごひ)」です。この細長い形をしたのが「山上碑(やまのうえひ)」そして、丸みを帯びたのが「金井沢碑(かないざわひ)」です。日本国内で完全な形で残るものとしては最古の石碑とされるこれらの3つの石碑は、「上野三碑」の一つとして国連教育科学文化機関(UNESCO)の「世界の記憶」(→→→こちら)に登録されています。「世界の記憶」とは世界的に重要な記録物への認識を高め、保存やアクセスを促進することを目的として、ユネスコが1992年に開始した事業の総称だそうです。日本では、この上野三碑のほか、藤原道長が残した日記「御堂関白記」、炭鉱記録画家・山本作兵衛が描き残した筑豊の炭鉱画「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」、舞鶴引揚記念館が所蔵する「舞鶴への生還 1945-1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」などがあるそうです。また日本と朝鮮半島にまたがる地域登録として「水平社と衡平社 国境を越えた被差別民衆連帯の記録」という日本の被差別民・部落民と朝鮮の被差別民・白丁(ペクチョン)に対する厳しい差別と戦った記憶もあるそうです。ということで、上信電鉄(→→→こちら)に乗車して現地に向かいましょう。改札はご覧の通り、交通系ICカードは使えません。まず、吉井駅までの切符を購入。高崎から吉井までは営業距離は11.7キロですが、570円、ややお高いかも。東武鉄道なら11 ~15キロで270円です。しかし、久しぶりの切符なので落とさないように、財布に入れて保管しましたが、降りる時どこに入れたのか忘れて、あせりました。上信電鉄、元々はに上野鉄道(こうずけてつどう)として設立され、高崎 - 下仁田間が開業したのですが、その後、下仁田から長野県の佐久方面まで延伸する計画で上信電鉄と名前を変えたのですが、鉄道の延伸は実現しなかったようですね。上信電鉄の鉄道むすめ、富岡しるく(→→→こちら)さんの案内では、沿線には、上野三碑以外にも、富岡製糸場、妙義山などの観光スポットが沢山あるそうです。この上信電鉄に乗って吉井駅へ向かいます。(上野三碑めぐり)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その2) 上信電鉄高崎駅にて
2024年08月20日
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7月末、夏の群馬県高崎市にやって来ました。高崎駅は古くから交通の要衝として栄え、9路線が乗り入れる群馬県内最大かつ北関東有数のターミナル駅です。乗り入れている路線は、JR東日本の上越新幹線、北陸新幹線、高崎線、上越線、信越線、八高線、両毛線、吾妻線そして上信電鉄です。こちらはMoMo太郎が乗ってきた上野東京ラインのE233系。こちらは八高線のキハ110系。八高線は高崎と八王子を結ぶ路線ですが、高崎~高麗川間は非電化区間のためこのように気動車が使われています。なお、高麗川~八王子間は平成8年(1996)に電化区間となりました。この八高線、八王子を経由して横浜線で東海道線につながっています。つまり、東京都心部を経由せずに上越地方と横浜港を結ぶ物資の輸送路としても使えるので、関東大震災のような災害があった時には、役に立つ路線です。こちらは上越線を走るE211系です。高崎駅は明治17年(1884)開業なので今年で140周年になります。ということで高崎までやってきたMoMo太郎、次ぎは上信電鉄の高崎駅に向かいます。(上野三碑めぐり)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 上野三碑(その1) 高崎駅にて
2024年08月19日
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愛宕神社本殿の裏側には、また石段がありました。こちらは、案内板によると、この石段を登り詰めた処に愛宕神社の奥社、飯綱神社が有り御祭神の手力雄命が鎮座する。其の奥の御奉殿は菊花紋を付けた青銅造の六角堂で夷針神社が祀られている。台座は自然石の美事な亀甲形で芸術的魅力を感じる。西に松尾神社、芭蕉の句碑があり一ツ葉の自生も見られる。東には水の神、龍神社が祀られ巴川の水源が泉地名の起源と思われる。北は愛宕山を守護し神徳の発揚に寄与した十三天狗の祠が有り関東の奇祭として悪態祭は広く知られる。ということで石段を登りつめたところにある飯綱神社です。飯綱神社拝殿の裏に回ると、青銅製の六角堂と十三天狗祠がありました。六角堂は夷針神社を祀っているそうです。夷針神社(いはりじんじゃ)(→→→こちら)とは聞きなれない神社の名前ですね、そして、こちらが十三天狗の祠です。十三天狗とは、仙境異聞(→→→こちら)によれば、元は五天狗であったものが、十二天狗になり、さらに狢内(むじなうち)村(現在の石岡市龍明)の長楽寺の僧侶が加わって十三天狗になったそうです。この辺りは吾国愛宕県立自然公園(→→→こちら)としてハイキングなんかを楽しめるようになっているんですね。こちらは「御泉井神」と書かれた札があり、神聖な泉が湧いているんですね。愛宕神社の東側の景色です。望遠を使ってみると、茨城県中部の鉾田市、東茨城郡茨城町、大洗町にまたがる那珂川水系の汽水湖の涸沼(→→→こちら)まで見えました。(笠間市愛宕山)【了】人気ブログランキング北関東の旅 愛宕山(その3) 飯綱神社、六角殿、十三天狗祠そして涸沼
2024年08月05日
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愛宕山の山頂にある愛宕神社(→→→こちら)へ向かいます。参道にあった鳥居の近くに「悉帰産土大神 鳥獣慰霊碑」と刻まれた石碑がありました。どういう経緯でこの石碑が建立されたのかはわかりませんが、悉とは「ことごとく」という意味の漢字で、おそらくすべての生き物が産土大神(生まれた土地の守り神)のところに帰るという意味の鳥獣慰霊碑なのでしょうか。参道は自動車でも行けそうですが、MoMo太郎は歩いてお参りすることにします。鬱蒼とした林の中を進みます。途中に餅つき道祖神と刻まれた石碑がありました。いろんな道祖神(→→→こちら)があるんですね。鳥居を過ぎると長い石段が、振り返ってみると結構、急な石段でしたね。本殿建築記念と刻まれた石柱がありました。そして振り返ると、こちらが本殿です。愛宕山の山頂にある愛宕神社は、日本三大火防神社のひとつといわれており、創建が大同元年(806年)と伝えられている歴史ある神社だそうです。。本殿の中まで撮影しました。日本三大火防神社のひとつと言われているだけのことはあり、消防団の奉納した額が掲げられています。そして、伝説では愛宕山、筑波山、加波山は天狗の修業場として栄え愛宕山では13人の天狗が住み着き厳しい修行が行われたと伝わっているので、天狗のお面も奉納されていました。境内にも多くの石碑が奉納されていました。日本三大火防神社のひとつの神社にふさわしい石碑ですね。しかし、日本三大火防神社ってどこなんでしょうかね。ここ以外は、やっぱり、静岡の秋葉神社(→→→こちら)と京都の愛宕神社(→→→こちら)なんでしょうか。(笠間市愛宕山)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 愛宕山(その2) 愛宕神社
2024年08月04日
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茨城県笠間市にある愛宕山(標高306m)を訪れました。愛宕山には昔、天狗たちが住んだという伝説があり、「あたご天狗の森」(→→→こちら)という公園施設があります。大駐車場のほか 宿泊施設やフォレストハウス、公衆トイレ、太平洋まで一望できる展望デッキなどが整備されています。こちらの施設が「あたごフォレストハウス」です。ハイキングや森林浴を楽しむ来訪者の多くが、車から徒歩に移動手段を切り替える中継地点として、カフェやシャワー施設などが整備されています。展望台からは、霞ケ浦や石岡市、水戸市まで見渡せました。天狗伝説にちなんで、天狗のモニュメントもありました。【愛宕山の天狗伝説について】昔、愛宕山が岩間山といわれていた頃、 文政6年(1823年)、平田篤胤が天狗小僧寅吉に取材した「仙境異聞」を出版し、そこに「岩間山に十三天狗、筑波山に三十六天狗、加波山に四十八天狗、日光山には数万の天狗」がいると描き、江戸の文化人に霊界としての「岩間山」の存在が知られるようになったというそうです。(笠間市愛宕山)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 愛宕山(その1) あたご天狗の森
2024年08月03日
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土浦市の中城通りのある旧中城町は、土浦城のお膝元であり、江戸時代より商業の中心地として栄えたエリアです。旧水戸街道の宿場町として発展した背景から現在でも江戸情緒を漂わせた建物が点在し、歴史を感じる街並みが残されています。この道が旧水戸街道になります。その中城町の中城通りに面して建てられている土浦まちかど蔵「大徳」は、まちあるきのアンテナショップの役割も担う土浦観光の拠点として整備されたものです。江戸時代末期に造られた呉服店の見世蔵、袖蔵、元蔵、向蔵の4棟を改修した建物の中には、観光案内所やおみやげ販売コーナーがあり、昔の土浦の暮らしに触れることのできる展示資料館もありました。こちらが、展示資料館の内部です。また、土浦まちかど蔵「大徳」の向かい側にあるこちらの建物は、土浦まちかど蔵「野村」。袖蔵はそば打ち体験などができる多目的工房となっていて、レンガ蔵は喫茶店として活用していました。中城通りから土浦駅に向かって歩いて行く途中にあったホテルです。ベルズインという名前にちなんででしょうか、壁面には鐘が付けてありました。そして、JR土浦駅に到着しました。土浦の町、昔から仕事の関係などで何度も訪れていた町ですが、こうやって探求したのは初めてでした。しかし、色々と興味深いものがありましたので、また、機会を作って探求してみたいと思いました。(土浦市で歩いたコース)【了】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その14) 土浦まちかど蔵「大徳」
2024年07月20日
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同じ狭い境内の中に同居する不動院と琴平神社ですが、琴平神社の前には白壁の蔵が建っています。この建物の前には「沼尻墨僊の塾(寺子屋)跡」の説明板がありました。沼尻 墨僊(ぬまじり ぼくせん)(→→→こちら)は、傘式の地球儀を製作したことで知られる江戸時代後期の地理学者、天文学者ですが、この地で寺子屋を営んでいたそうです。また多才な人で、専門である地理学の他、天文学(天文機器:渾天儀を製作し天体観測)や建築土木(堀抜き井戸の開発)、発電機(エレキテル)の開発、漢詩・書道・絵画に精通するなど実績を上げ土浦藩からも2度も褒章され天保15年(1844)には帯刀も許されています。また、この「退筆塚の碑」は、沼尻墨僊の七回忌に門弟たちによって建てられた石碑です。退筆とは穂先がちびて使用できなくなった筆のことですが、沼尻墨僊、筆がちびて使えなくなるまで学問にいそしんだということでしょうか。そして、このあたりは旧町名で「中城町」と呼ばれていたようです。この石碑に刻まれた由来によると、田宿と同時(慶長九年)に生まれた町人町で、土浦の代表的な町としてだけでなく、「中城分」という集落の中心であった。土浦城大手門に近く、参勤の大名を接待する御使者屋敷もあった。駒市で知られている中城天満宮もこの町の象徴と記されていました。ここで紹介したほかにも、この中城町のあたりには、桜橋から移設された遺構の一部が狭い参道の片隅に置かれていたり、土浦ツェッペリン伯号来訪を物語る貴重な史料写真やパネルなどが常設展示されいる蔵ギャラリーなどがあり、土浦の歴史を学ぶにはいい場所ののように思えます。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その13) 退筆塚の碑と寺子屋跡
2024年07月19日
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亀城公園の前川口門を出ると、「旧町名 内西町」の道標がありました。この町名の由来は次のとおりです。土浦のシンボル亀城の所在地で、もと西郭[にしくるわ]・巽郭[たずみくるわ]といわれていた。勝軍木郭[ぬるでくるわ](鷹匠町)とともに藤井松平信吉公のときにいち早く造成された武家町で、城に近いだけに特に重臣達の屋敷や春屋[つきや]・会所などの藩関係の役所があった所である。この細い道を抜けて土浦駅の方へ向かいます。この道を抜けると、この赤いお堂がありました。中条山不動院というお寺で、創建は永享年間(1429~40)に、信太荘土浦郷の豪族で土浦城主だった若泉氏によるといわれています。その隣に並んで立っているのは、琴平神社です。明和2年(1765)、四国金比羅宮より分霊勧請され、安永4(1775)年に土浦城下中城町不動院境内に社殿を建立されたそうです。琴平神社の鳥居と不動院の山門が並んで建っています。ちょっと不思議な光景でした。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その12) 中城山不動院と琴平神社
2024年07月18日
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神龍寺から国道354号に戻り、この御城橋を渡ります。橋とありますが、川は埋め立てられて橋の親柱と欄干だけが残っています。ここは土浦城址(→→→こちら)です。お城であったことは今も残るこの堀でわかります。ここは既に、MoMo太郎日記の2024年3月30日(→→→こちら)と31日(→→→こちら)で紹介しています。土浦は度々水害に遭っていますが、その際にも水没することがなく、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから亀城(きじょう)の異名を持つ土浦城です。城址は亀城公園となっています。中には噴水のある庭園も整備されています。池の中には噴水、そして周囲にはハナショウブが咲いていました。黄色いハナショウブでした。天守はありませんが、門や櫓は復元されて残っています。これは、江戸時代から残る二階建ての太鼓櫓門です。「史跡 土浦城址」と刻まれた石碑がありました。こちらは復元された西櫓です。i西櫓は1949年(昭和24年)、キティ台風の被害を受け、1950年(昭和25年)、復元するという条件つきで解体されたそうです。そしてようやく、1992年(平成4年)に保管されていた部材を用いて復元されたそうです。こちらの東櫓は、1884年(明治17年)に本丸御殿が焼失し、このとき損傷した東櫓は撤去されましたが、1998年(平成10年)に土浦市立博物館の付属展示館として復元されています。本丸跡は堀と城壁に囲まれています。二の丸跡は亀城公園となり、大きな石碑がありました。こちらの門は土浦市指定文化財の前川口門です。親柱の背面に控柱を立て、屋根を架けた高麗門の形式になっています。元々は、搦手門東側付近にあった前川口門ですが、明治以降移転を繰り返しましたが、現在は二の丸入口にあたる「二之門」のあったこの位置に移築されたそうです。土浦城の城郭はこのホームページ(→→→こちら)を参照して下さい。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その11) 亀城公園
2024年07月17日
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土浦第一中学校(→→→こちら)の敷地にあった郁文館正面の近くにあるお寺です。土浦第一中学校を卒業した女優の栗山千明さん(→→→こちら)もこの境内を歩いたこともあるんでしょうね。また、大正時代に住職だった秋元梅峰和尚は霞ヶ浦海軍航空隊と関係が深く山本五十六も神龍寺に下宿していたとされ、関東大震災や航空隊で犠牲になった慰霊を慰める為、自費を投じて花火大会を始め現在の土浦全国花火競技大会の基礎となっているそうです。曹洞宗神隆寺(→→→こちら)という寺号碑が建てらています。山号は宝珠山というそうです。戦国時代、土浦城の城主だった菅谷勝貞の開基。その後、土浦藩の藩主となった土屋氏の菩提寺となったお寺です。広い境内には、鳶(とび)職関係者が建てた慰霊碑がありました。そして、こちらが山門です。山門の前には、「不許葷酒入山門」という戒檀石があります。 「くんしゅさんもんにいるをゆるさず」と読みます。 葷とは、ニラ・ニンニクなど臭気がある野菜です。 また、酒を飲むことが激しくいましめられているということです。同じお酒でも、般若湯と呼ばれると、少しはお酒も百薬の長として飲んでいいのかもしれませんね。こちらの境内社は、豊川稲荷だそうです。こちらの説明では、外西町の小広場に郁文館の門と並立してあった豊川稲荷の分身で文化9年(1812)に創建され、 国道新設時に神龍寺境内に移されそうです。なかな信仰を集めていたお稲荷さんで、東京からの参詣者もいたそうです。栗山千明さんもお参りしたのかもと思って手を合わせました。こちらは「たまき地蔵尊」。傍らには土浦市立土浦小学校による由来を記した説明板がありました。明治6年(1873)年2月の土浦市立土浦小学校創設以来在学中に亡くなられた児童・職員の霊を慰め、 併せて本校児童一同のご加護をお祈りするため昭和11年(1936)年9月23日、赤塚庄三郎校長時代に創設合祀されたものだそうです。むかしは、公立の学校でも宗教的なことを行っても許されたんですね。「たまき」とは、およそ130余年前の神竜寺の住職で人格高く学識深い名僧あった大寅(だいいん)和尚というが「欠けることなく余すことなく只一輪」筆あとあざやかに書かれた教えで、 土浦小学校の子どもたちは「たまきの子」と呼ばれているそうです。お寺なので鐘楼と梵鐘がありますね。この梵鐘は、江戸時代の俳人内田野帆が選定した土浦八景の1つ神龍寺晩鐘だそうです。「寒き夜のひとちからなり鐘の音」という内田野帆の句が有名だそうです。こちらが中門です。唐破風の唐門になっています。そして、本堂。正面の向かい唐破風がいいですね。本堂に付けられた扁額。神龍寺にある文化財の絹本普賢菩薩像(茨城県指定文化財)と神龍寺旧本堂天井の雲龍図(土浦市指定文化財)が紹介されていました。こちらの石碑は「色川三中翁記念碑」です。色川三中(→→→こちら)とは、江戸時代の国学者、商人で家業であった醤油醸造業で成功した人です。色川武大(阿佐田哲也)氏は色川三中の弟・色川御蔭の長男・誠一の子の色川武夫の子供になるそうです。色川三中の養嗣子(養孫)は、代議士の色川三郎兵衛で、鉄道会社に働きかけて日本鉄道海岸線(現 常磐線)の敷設計画を変更させ、当時水害に悩まされていた土浦市の霞ヶ浦側に、線路の盛土を湖岸堤の代わりとして作らせたほか、逆流防止のため川口川閘門、田町川閘門の建設に出資するなど、土浦の水害対策に尽力した方です。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その10) 神龍寺
2024年07月16日
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土浦橋を渡り、国道354号を進んでいくと、立派な門があります。門には「土浦市立第一中学校」とありました。第一というだけあって、歴史のある中学校の門と思いきや、門の前にあった説明板には、「郁文館の正門」と記されていました。郁文館とは、土浦藩7代藩主土屋英直が1799年に土浦城内に創建した藩校、郁文館。10代藩主土屋寅直が移転(のちの茨城師範学校土浦校)。1935年に取り壊され、正門のみ残され、跡地は土浦市立土浦第一中学校の敷地となった。であり、東京都文京区にある郁文館中学校・高等学校(→→→こちら)とは関係ないようです。この門は、1971年(昭和46年)7月13日に土浦市指定文化財となった。また、1987年(昭和62年)、隣接する道路拡張工事に伴って解体修理がほどこされ、ベンガラの成分が検出されたことから、色も復元されたそうです。【縄文時代に関する認識】一昨日の上高津貝塚(→→→こちら)のブログに関するコメントで、●全体にこの遺跡の復元担当者のイメージが色濃く反映しているような気がします。つまりある意味の「理想郷」・・・「貧富の差もなく戦争もなくみんなが仲良く助け合って生きていたんだろうなぁきっと」みたいな。そんな呑気な時代は一度もなかったような気がしますけど・・・というコメントがありましたが、このコメントされた方のイメージが色濃く反映したコメントですね。岡山大学と山口大学の共同研究によると、「縄文時代における暴力での死亡率はわずか1.8%である」との研究結果があります(→→→こちら)。戦争を「武力(武器)を伴った集団間の争い」と定義付けるなら、縄文時代には戦争は起こりにくかったと思われます。実際、全国各地に縄文時代の大規模な遺跡が見つかっていますが、そのほとんどに争いの形跡は見つかっていないようです。もちろん、食料を巡っての個人や集落同士のちょっとした小競り合い程度の争いはあったと思います。しかし、今よりも人口が遥かに少ない(当時の日本の人口は20万人程度)縄文時代には、食料がとれなくなれば、集落ごと各地を転々としながら場所を移動しても、他の集落との縄張りは重なることもなく、争うこともなかったでしょう。本格的に戦争が始まったのは、稲作をはじめるようになった弥生時代からのようです。それは稲作をするために土地を所有するという概念が生まれたため、今でも続く、領土をめぐる「戦争」というものが始まったと思われます。【霞ケ浦は海でした】一昨日の上高津貝塚(→→→こちら)のブログに関するコメントで、土浦って内陸のイメージでした。製塩をしてた痕跡があるというので大きな地図で見たら、まあ、確かに海はあるけど、近くはないですよね。ここまで海水取りに行ったのですね。びっくりです。というコメントがありましたが、確かに今の地図では土浦は海から遠い内陸部ですが、上高津貝塚ができた縄文時代には「縄文海進」(→→→こちら)といわれる温暖化にともなう海水準(陸地に対する海面の相対的な高さ)上昇があって、具体的には約6000年前(紀元前4000年)頃に海面がもっとも上昇し、現在に比べて3ないし5メートルほど高く、日本列島の各地で海水が陸地奥深くへ浸入しました。その結果、霞ケ浦は筑波山の下まで広がっていたようです(→→→こちら)。ちなみに、霞ケ浦は元々は「浦」という名前が示すように海(太平洋)の入り江に由来し、砂州や河川堆積物によって出口を閉ざされたラグーンでした、そのため、時期や場所によって塩分濃度に違いはあるものの、かつての湖水は塩分が混じる汽水でした。しかし、昭和38年に完成した常陸川水門(→→→こちら)によって、霞ケ浦に海水が侵入しなくなり、淡水湖に変わってゆき、その結果、茨城県、千葉県、そして東京都の水がめとして利用されるようになりました。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その9) 郁文館正面
2024年07月15日
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上高津貝塚からまた土浦の市街地へ戻って行きます。土浦市を流れる桜川を渡るこの橋。親柱には落書きが、ちよっとこれは町の美観の減点ですね。桜川の上流部をみると広々とした平野が広がるイメージです。そして、北の方には山並みが。ズームしてみると、この山並みは筑波山ですね。富士山と対比して「西の富士、東の筑波」と称される標高877mと千mに足らないにもかかわらず、日本百名山にに数えられている山です。写真左側の峰が、男体山(標高871 m)と右側が女体山(標高877 m)です。この橋の名称は土浦橋。群馬県高崎市から茨城県鉾田市に至る国道354号の橋梁です。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その8) 土浦橋から見えた筑波山
2024年07月14日
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考古資料館から外に出て、発掘された上高津貝塚を見ることにします。この丘全体、面積4.4ヘクタールが遺跡となっています。この説明板によれば、上高津貝塚(→→→こちら)は約4000~3000年前の縄文時代の貝塚を伴う集落の遺跡で、昭和52年(1977)に国の史跡に指定されています。当時は海の入り江だった霞ヶ浦から得られた豊富な魚や貝・塩、周辺の動植物などを採取して生活していたムラの跡で、遺跡は、標高20~22mの東西に起る丘陵の縁辺に位置し、径約150mの平坦面を囲むようにして5地点に貝塚が分布していたようです。丘陵の頂上部の平坦面に復原された竪穴式住居があります。第1号竪穴式住居跡という表示がありました。竪穴住居とは、地面を四角形に掘り込み、柱を建てて屋根を組み、葦などを屋根にした建物です。中を覗いている人がいました。入口は低くて中に入るのは苦労しそうですね。竪穴式住居の中はこんな感じの土間になっていました。これは廃棄土坑というもので、縄文時代の人が食べかすなどのゴミを捨てていたところだそうです。ここは1号墳墓と呼ばれるもので、ここに葬られていた人は身体を折り曲げられて葬られたと考えられています。遺跡の回りには、このような森が広がっていました。縄文時代の人たちは、魚貝類だけでなく、これらの森から木の実などを採取したり、森で狩りをして食料を得ていたと考えられます。またこの先には桜川があり、おそらくここからは、当時は入江だった霞ケ浦見えたものと思われます。ここかせ見下ろしたところが貝塚だったようで、貝塚で発掘された魚や貝を紹介しているパネルがありました。もちろん貝や魚だけではなく食べていた動物の骨も捨てられていました。この大きな穴は、大型炉という遺跡で、火を燃やして物を加熱したりする施設です。大型炉の中から焼けた土器の欠片や塩を焼くときにできる不純物などが発見されており、海水を土器で煮詰めて塩をつくっていたと考えられます。この大型炉は、炉の底を半分切り取った状態を復元しています。こちらは、集会所や作業場として使用されていたと考えられる掘立柱建物だそうです。こちらの施設は、貝層断面展示施設です。中には、貝層と呼ばれる、貝殻が地中に堆積して、地層のように貝殻の層ができたものが展示されています。この貝層断面は、発掘調査時の貝層を同じ位置に再現したものです。貝層の断面に特殊な薬剤をつけて断面をはぎ取り、立体的に展示しているそうです。しかし、これだけの貝や動物が日々の食用のみでなく、乾貝など大量の保存加工を行うのにもつかわれていたのかもしれません。いわば海産物加工場的な集落で、内陸部にある縄文人の集落への食糧の供給もやっいたのではないかとも想像できますね。いずれにせよ、これだけの遺跡、もっと時間をかけてじっくりと見学した方がよかったと反省している次第です。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その7) 上高津貝塚を見る
2024年07月13日
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この交差点の名称、「養護学校前」ですが、今は養護学校ではなく「特別支援学校」と呼ぶのではないでしょうか(→→→こちら)そして、上高津貝塚ふるさと歴史の広場(→→→こちら)にやって来ました。そして、こちらの建物が、上高津貝塚ふるさと歴史の広場考古資料館(→→→こちら)です上高津貝塚ふるさと歴史の広場とは、縄文時代後・晩期に作られた霞ヶ浦沿岸の最大規模の貝塚で保存状態も良く昭和52年に国の史跡指定を受けた上高津貝塚(→→→こちら)の発掘調査等の成果を活かし、縄文時代の生活や文化が理解できるような資料が展示されてい.る施設になります。そして、考古資料館に入場しました。通常150円の入館料が必要でしたが、ラッキーなことに駅からハイキングの特典で無料でした。また、館内の写真撮影は可能でしたので、展示品を紹介します。こちらが上高津貝塚で発掘された土器のようです。日本の貝塚の分布を紹介した日本地図です。貝塚から見つかった貝です。貝塚とは、「貝類の常食に適した地に居住する先史時代の人々が、日々ごみとして大量に出る貝殻と他の様々な生活廃棄物と共に長年に亘って投棄し続けることで、それらが累積した特定の場所をいう」そうなので、いわゆるゴミ捨て場から当時の人々の生活を見るわけですね。このような土器が見つかったんですね。多分、土器のかけらを寄せ集めて復元したのでしょう。何千年後の人類、あるいは人類は滅びていて、人類が進化した別の生物、それともバルタン星人のような宇宙人が地球を支配しているかもしれませんが、そういう生命体が、現在のゴミ捨て場から、今の生活道具を発掘して、例えばコカ・コーラの瓶なんか発見して、どんな風に思うんでしょうか。こちらは、弥生時代の紡錘車ということで、糸を紡いぐ道具も土器で作っていたんですね。これは古墳時代の土器だそうです。これは埴輪、人の形を模したものですね。こちらは動物の骨だそうです。イノシシ、シカ、タヌキなどの骨とありました。タヌキ汁なんかも食べていたんでしょうか。ナイフや鏃(やじり)、槍の穂先などの石器として長く使用された黒曜石です。打ち割られた動物の骨です。中の骨髄を取り出して食べていたのかも。縄文人が来ていた衣類の復元です。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その6) 上高津貝塚ふるさと歴史の広場考古資料館
2024年07月12日
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国道6号線、現在の水戸街道です。高架道の下をくぐると、土浦市外十五ヶ町村土地改良区(→→→こちら)の事務所がありました。土地改良区とは、農業生産を行う上で欠くことのできない用排水路や揚水機場等の整備や維持管理を目的として設立された団体になるそうです。また、土地改良区は土地改良法により県知事の認可を受けた組織です。その組織は農家の人たちで構成されており、農家の負担によって運営されているのだとか。この土地改良区は昭和28年に1市1町14ヶ村(土浦市の一部・九重村・栄村・栗原村・大穂村・旭村・谷田部町・小野川村・葛城村・真瀬村・板橋村・久賀村・牛久村・朝日村・茎崎村・谷和原村)に渡り、田2,719ha、畑1,590haを受益地として設立されたことから、土浦市外十五ヶ町村土地改良区というのだそうです。しかし、現在では町村合併を重ねた結果、土浦市・つくば市・牛久市・つくばみらい市・阿見町の4市1町が受益地になっているそうです。敷地内には、大掛かりな受電設備がありました。おそらく桜川からポンプで水を汲み上げて、このあたりの田畑に水を送っているんでしょうね。胸像と石碑が建立されています。石碑には水神宮と刻まれていて、農業に不可欠な水の窯様を祀っているのですね。胸像は「藤澤勘兵衛翁像」あったので、この方がこの土地改良区の創始者なのではないかと思います。土浦市外十五ヶ町村の農家をまとめてこの団体を作ったリーダーだったのですね。こちらは協和豊穣と刻まれています。おそらく工事の完成の記念碑なのでしょう。こちらにある建物は、桜川第一揚水機場とありました。近くのバス停の名称は「揚水機場」でした。この揚水機場のおかげで、この水田もお米を育てることができているのでしょう。大したものだなと感心しました。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その5) 土浦市外十五ヶ町村土地改良区
2024年07月11日
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旧水戸街道を南に歩いて、桜川に架かる橋にやってきました。市指定史跡「銭亀橋の跡」という石碑がありました。銭亀橋は、霞ヶ浦に流入する利根川水系の一級河川・桜川に架かる橋。慶長18年(1613)の開通だそうで、昔は、木製の太鼓橋だったそうです。こちらが現在の銭亀橋。橋の7親柱にも「ぜにかめはし」と記されていますが、どうして「ぜにかめ」と呼ばれるのかはわかりません。クサガメまたはニホンイシガメの幼体のことをゼニカメというので、昔は桜川にはカメが沢山棲んでいたんでしょうかね。、桜川です。時期的に5月中旬といことで、田植えが終わったばかりで、代掻きで田んぼの土を泥にしていたので、田んぼから泥水が流れてきていたんでしょうか。桜川を渡り、土浦からつくば市に向かう県道沿いを歩きます。このあたりは市街地からはかなり離れた住宅街です。その住宅街の中にあった、何をやっているお店なのかわからない看板を発見。「高津」というのはこのあたりの地名ですが、インターネットで「TAKATSU KADOEBI」(→→→こちら)を調べてみると、大人向けのお店でした。郊外の住宅街にこういうお店があるとは、土浦市、なかなかの町です。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その4) 銭亀橋
2024年07月10日
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再び、土浦ニューウェイの下を抜けて南の方へ、旧水戸街道を辿って行きます。この土浦ニューウェイのあたりが土浦城南門の跡になるようです。古くからありそうな酒屋さんがありました。幕に書いてある「来復」(→→→こちら)とは、茨城県筑西市にある地酒の名前です。茨城の日本酒、色々とあるみたいですね。つくば国際労務管理事務所(いわゆる社会保険労務士事務所ですね)とつくば国際行政書士事務所とありますが、わざわざ国際とつけるのは、この土浦の町にタイ料理店など、外国人が働く場所が多いせいですかね。土浦、意外と外国の方が住んでいる国際都市だったのかも。(土浦市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県土浦市を知る(その3) 国際都市だったのかも
2024年07月09日
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