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「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 243頁
明治39年4月15日、長女みつの婿養子に三塚文蔵を迎えた。文蔵はのちに富士弥と改名して、代議士となって政界に出て、浜口内閣で内閣書記官長となった。
※鈴木富士弥
ウィキペディア 大分県出身。最初は三塚姓を名乗っていたが、後に鈴木家の養子となる。1906年に東京帝国大学法科大学を卒業後、欧米視察や実業界を経て1915年に弁護士業を開業する。1917年の第13回衆議院議員総選挙に東京府第5区(当時)から立候補して当選し、以後連続して6期務めた。 憲政会 →立憲民政党に所属して加藤高明内閣・第1次若槻内閣において内務参与官、浜口内閣においては内閣書記官長を務め、また民政党時代には政務調査会長(1929年)や党総務(1933年)も務めた。永井柳太郎・中野正剛・山道襄一とともに安達謙蔵直系の党人派4名の雄弁家「安達の四天王」の1人としても知られた。衆議院議員引退後の1940年には鎌倉市長に就任している。
「大正新立志伝」
第17 法律事務員新聞記者をしながら大学を卒業した
弁護士 鈴木富士彌君
在野法曹の花形として、憲政会総裁加藤高明氏の懐刀として、現今その声望をほしいままにしている代議士弁護士鈴木富士彌君は、法曹社会における立志伝中の一人である。
□呉服屋の三男に生る
君は静岡県周知郡森町の人、明治15年、1月16日豊後に生る。三塚亥三郎君の三男にして、幼名を文蔵と呼び、後鈴木藤三郎君の養子と成り、名を富士彌と改める!と書き出せば平々凡々。何もそこに味もそっけもないが、文蔵君から富士彌君に名を改めるまでの間の君の消息には、普通人の企て及ばざる困苦の歴史がある。
君の家はもと大分で有数な呉服屋で、資産も信用も相応にあった。ここの三男坊として暖簾(のれん)深きところでオギャーと元気よく声を挙げたのである。幼少の頃は何不自由なく生い立ち、近隣の子どもの羨望の的となった程であるが、田舎の風習とて学校かなんを肩からおろすと、直ちに家事に手伝わされた。鈴木君は親の命令だからこれに逆らうことも出来ず、命ぜられるままに庭掃除は勿論の事、店頭に坐らされることもあったが、その懐には常に学校の書籍が入れられていた。そして隙さえあれば、それをひもといていた。このさまを見た親類のわからず屋の一人は「商人の子に本は不必要だ。それよりもソロバンのはじきみちを稽古しろ・・・」と怒鳴ると、鈴木君は眼を丸くして「何も商人の家に生まれたかって、商売人にならなければならないと決まったものではない、家の後継ぎは兄さんがするのだから、私には家の責任はないはずだ。私はウンと勉強してウンと偉い人になる。太閤さんも元は尾張中村の百姓の子だ。それでいて天下をとった。私はその太閤さんの轍を踏むのだ」と子ども相応な大気炎を吐くと、親類の一人は「ナニ太閤さんだ、太閤さんときいてあきれる。なれるものならなって見(み)い。そしたら叔父さんは世界の王様になるワイ」と冷笑するので、さすかの鈴木君も子どもながらに非常に憤慨し「今に見ろ!」とばかり、ここで大業の志(し)を一層固くし、脇目もせず一生懸命に勉強をした。
□家運傾き、学資絶ゆ
間もなく君は、小学も中学も好成績で卒業し、高等学校に入学すべく、郷里を後に程遠からぬ熊本に笈(きゅう)を負うた。君の目的は思ったより容易に遂げられ、いよいよ上京して東京帝国大学法科に籍を置くようになったのは、実に明治35年9月であったのである。
君の前途は実に洋々たるものである。けれど南九州の片ほとりから、華美な都会生活に入っても、君の目には成功の観念より他に何もない。勉強に疲労した身を起こして下宿を飛び出し、都大路を散歩する時、絵草子店の店頭に古今の名士の肖像が掲げられているのを見ては、君の心はいつも勇躍した。そしてたちまち何に感じてか、せっかく飛び出した下宿にまた帰って書籍裡に没頭するというふうであった。君の眼中には勉強より他は何ものもない。
けれど由来、人生の事は自分の思う通りのならないものだ。好事魔多しの例えは、君の身辺にも襲ってきた。というのはフトしたことで家運が傾き、ほとんど学資が続かなくなった。意志の薄弱な頭脳の悪い人であったならば、折角の登竜門たる大学も、中途退学という処であるが、君はここにおいて始めて真の自分というものの発見につとめた。毎日教師の講義を聴取しなければ自分は大学を卒業する能力がないものか!?という事から自分に苦学の力があるかという点である。君は何もきまりきった講義を聴かなくても、これまで蘊蓄(うんちく)した知識によって、読書しさえすれば卒業できないことはないという確信を懐き、在学のまま苦学することに決心した。そして第一番に故鳩山和夫博士の門に寄寓し、同事務所の事件の処理を手伝いながら、目下政友会代議士として羽振りをきかしていた鳩山一郎君や、東京帝国大学法学部少壮教授として財政に造詣深き鳩山秀夫博士などにドイツ語を教えたり、あるいは法律などを講義してきかしてやったものだ。秀夫博士の大学における講義のその端は、実に君によって発せられていると思えば、興味あるものである。
□
日々新聞社の翻訳係
けれど君はいつまでも人の玄関にいるを潔しとせず、苦学の資糧を得んと探している時、端なくも東京日日新聞社に世話する人があった。中学時代から文才にかけている君は、筆の生活は日頃好むところ早速世話されるままに同社に入り、翻訳係りを承った。当時東京日日新聞社は加藤高明氏が主宰していた。加藤氏は早くも君の才筆を認めて相当に優遇した。これも無理なからぬことで君は一たび出社するや電報を片っ端から翻訳し終わると、英独の新刊雑誌から興味あるものを訳出し、これを紙上に掲げて読者の喝采を博した。それでも君は決して偉がらず、弊衣短袴のまま平気で出社するので、その志に加藤氏ますます惚れ込み、当時から目をつけ出した。君が憲政会に無くてはならぬ闘士として歓迎され、また加藤氏の懐刀として将来を嘱目されているのは、決して偶然ではない。既にその苦学時代にその端を発している。加藤内閣ができるの日は、必ずや名誉ある椅子を獲得することが出来るであろう。
かくて東京日日新聞在社2年、この間新聞記者としての技量も認められた時、法科大学独法科を卒業して押して押されもせぬ法学士となった。これは学力の非凡なるにあらざるよりは、誰かよくこの苦学に堪えんや。全く君が生まれながらにもつ鉄よりも堅きその意志の賜物であった。
□実業家鈴木氏の懇望
かくして最高学府の課程を終えた君は、実業界に雄飛しようと決心した。すると 君の人となりにスッカリ惚れ込んだ一人の実業家があった。それは日本における精製糖業の開祖にして、その名天下に隠れなき発明界の天才鈴木藤三郎氏である。
氏にはその家を継ぐべき女子はあったけれども肝心の男子がなかった。そこで君は某有力者を通じて、その嗣子たることを泣きつかれた。君は一時はこれを峻拒したけれども、強いて懇望されたので、これも人を救う一つの道だと思い直し、この乞いを容れた。学資に窮して身を売ったならば、友人間にとかくの風評があろうが、君は自己の力で学業を終え、而して後、人の懇望によって人の家を救う意味で鈴木家に入ったのであるから、何ら非難すべき事がない。
君は養父藤三郎氏の勧めにより、直ちに欧米留学の途に上り、英、米、仏、独、露の各国を歴遊して、明治40年に帰朝した。そして養父の経営する鈴木機械製作所専務理事に挙げられ、鋭意鉄工業の経営に尽瘁した
けれども、病を得て閑地についたとほとんど相前後して、養家の家運が漸く傾いた。君は遂に養家再興の根底を作らねばならぬ境遇に陥った。
大正2年遂に現在の弁護士の職を東京に開業するに至ったのである。君はどこまで運命の神に翻弄されるのか。先には学費が窮するに至るまでの実家の窮乏にあい
またここに養家の大破綻にあう。それでも君は何ら狼狽する処なく、自分に向かって来る幾多の障害を切りのけて、自分に与えられた弁護事務に従事した。
(略)
□郷党に推されて代議士
君が太閤にならんとする希望は着々遂げられ、大正6年春寺内内閣衆議院を解散するや、静岡県志太郡より衆議院議員の候補者に立ち峻辣なる官憲の干渉をものともせず、有力なる政府党の候補者と争い、悪戦苦闘して遂に当選の栄誉をになった。これというのも加藤氏の勧誘に他ならぬが、一つはその 養父藤三郎氏がかつて静岡県郡部から推されて衆議院議員に当選すること2回、君はその後を継いで政界に雄飛した
のであるから、自然の道行であるといえ、また君が人となりが然らしめるのである。人の一生は往々にして運命に支配される。しかし、実力なきものには、いかなる運命の神といえども、施すべきすべがない。
君は大正9年の総選挙に際しまたまた有力なる政府党の候補者に打ち勝って首尾よく代議士に当選した。わが国民は君のごとき人格、識見共に抜き出ている人を国の代表として希望している。願わくは奮闘努力して、幼少から希望している今太閤さんたらんことを筆者は切に望む」
補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その… 2025.11.17
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