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2026.05.28
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カテゴリ: 坐禅
大智禅師偈頌講話 沢木興道


  鳳山山居(二) 
 截漸人間是与非 (人間の是と非を截漸(せつざん)して)
 白雲深処掩柴扉 (白雲深き処柴扉(さいひ)を)掩(おお)う)
 当軒栽竹別無意 (軒に当って竹を栽(う)別に意無し)
 祇待鳳凰来宿時 (祇(ただ)鳳凰来宿の時を待つ)


 そのつぎは、人間の是と非、これは山居というものは、山の中に入ったって駄目である。山の中におってもやはり里がある。 
 熊本に坊主が二人おった。こっちを万日山という、向こうを花岡山という。向こうにおったのが横田曇映という浄土宗の坊さん。こっちにおったのが沢木興道という坊さん。沢木興道という坊さんは、鹿児島へ行ったり、仙台へ行ったり、東京へ行ったり、佐賀へ行ったり、名古屋へ行ったり、そうしてときどきヒョロッと戻って来て、裸で本を読んでおる。冬は裸ではない、夏じゃ。粟飯を炊いてもらって、それを三つに割って、朝三分の一、昼三分の一、ときどき、食い越すこともある。晩にはもう足らんなりだ、
 そうすると、向こうの横田曇映がときどきやって来る。「おー、あんたどこへ行っておった」鹿児島へ行った。大阪へ行った。仙台へ行った。「あんた方はガッチョ食い」という。ガッチョという鳥が餌を探しに来る。そのことをガッチョ食いという。また仙台へ行った。鹿児島へ行った。大阪へ行った。名古屋へ行った。「ウン、忙しゅうておらんか。おれらはドン臭い」ドン臭いというのはドン蛙、餌が来たらパッと食う。持って来んと食わん。っそこでどちらが山居か、どちらがいいか、これはどうともいわれん。
 春、桜の花でも咲く時分は、それは、だんごも来るし、ぼた餅も来る。すしも来るし、果物も来る。なんでも進上、それはハオハオじゃ。ところが梅雨時分になったら、ダラダラ毎日雨が降る。
「アーア、よう降るな。猫の子一匹来やせん。だいぶ腹へったな」そろそろ杖をついて里へ出て来んならん。あるいは夏の日の長いときに「アーア、日も長いな。誰ぞウマイもの持って来んかな」あいにく様でそう都合よう持って来ん、とうとう待ちあぐねて、里へ下りて、信者というか知らんけれども、今日も飯食いに来たというか、お経読みに来たというか、とにかくどんどん叩かんならん。どちらが山か、どちらが里か、わたしはここに分らなくなった。ガッチョ食いが山居か。どちらか分からん。
 そうすると、山というものは毀誉褒貶にかかわらず、自分の生活を持っておる。人から褒められたら、竿竹の絶頂へでも登る。褒められんならばなんにもせん。人が好くなら、どんなことでも、逆とんぼでもする。人が好かんなら舌も出さんという。今、人間の是と非とを截慚するということは、ほんとうの自己を持っておることである。それが山居である。山居ということは、地理的の山の中ではない。どんな山の中におっても、やはり社会がある。
 そうすれば、山居というものはすべてそうである。ようわたしら褒められるが、急所を間違えておる。あまりありがとうない。そしったって急所を外れておる。そんな人間のぬかすことを相手にしても話にならん。だいたい阿呆ばっかり、そんな阿呆がほめたって、そしったって問題にすることはない。そこに山居がなければならん。
 人が笑うから笑う。人が泣くから泣く。人が食うておるから食う。人が喜ぶから喜ぶ。自分がほんとうに嬉しいんではない。自分がほんとうに悲しいんでもない。そうすれば、自分がほんとうに嬉しくて一人で笑うておる。それが山居である。自分が勝手に泣く。つき合いで泣くのではない。そこが山居である。だから、世俗の紅塵飛んで到らず。深草の閑居、到る処無心なるは便ちこれ山。到る処青山便ちこれ家。ここに「人間の是と非を截漸(せつざん)して白雲深き処柴扉(さいひ)を)掩(おお)う」―。
「軒に当って竹を栽(う)別に意無し。祇(ただ)鳳凰来宿の時を待つ」軒に当って竹を栽う。軒に竹を栽えるのは、祇(ただ)鳳凰来宿の時を待つ。鳳凰山の土地は、それだから鳳来という字(あざ)になっておる。これは知己を待つ詩である。われわれはなにが欲しいか。人間なにが欲しいか。なんにも要らん。なによりも、かよりも欲しいものは、この知己でなければならん。
 あの契沖阿闍梨に
  我れを知る人は君のみ君を知る人もあまたはあらじとぞ思ふ
 という歌がある。卍山(まんざん)和尚に、
  心々相通、念々忘せず。
  日々相見、何ぞ存亡を隔てんや。
 という偈がある。つまり人と人、仏と仏、法と人、これがたった一つである。師匠と弟子、弟子と師匠、欲しいものはこれである。心々相通、念念忘せず、日々相見、何ぞ存亡を隔てんや。宇宙いっぱいの自己と、宇宙一ぱいの彼と。そうすれば、死にもせん、生まれもせん、これがほんとうの信仰というものなんだ。
 だから、人間の是と非とを截漸して、白雲深きところ柴扉をおおう。軒に当って竹を栽う別に意なし、祇(ただ)鳳凰来宿の時を待つ。そうしたふうな心々相通のこの鳳凰の来宿の時を待つ。これがまあ山居として、実にその理屈をいわなくとも、人間の是と非を截漸して、そこにいうべからざる道味があるのである。


(大智禅師偈頌講話p.11-15)





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最終更新日  2026.05.28 02:00:05


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