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「わくらば」「そいね」「ほととぎす」「おとしあな」「チロリアンハット」「まばたき」「めちろ」「あめあがり」「おぼしめし」「かけおち」「おのぼり」「パピヨン」「つやめぐり」「ゆめあそび」「みそっかす」「やどろく」「なみだつぼ」の全十七篇。これを最後に、『短編集モザイク』は著者が故人となり終了する。これで、三浦哲郎5冊。発刊当時(2000年10月?)の「大波小波」《三浦哲郎の力業》と題された(落鮎)という匿名、を引く。【三浦哲郎が「二十枚に満たない短篇小説を書き続けていつの日にか百篇を擁したい」という願いをこめて「短編集モザイク」の第一集「みちづれ」をまとめたのが1991年。第二集『ふなうた』は1994年に編まれ、つい先ごろ第三集『わくらば』が出た。収めた作品は計五十九。十年を費やしてようやく目標の半ばを超えたことになる。97年から99年にかけては、高血圧と心臓疾患のため第三集の上梓をあきらめかけた時期もあったそうだから、その達成感は一しおに違いない。】(以下略)【】内引用。全十七篇は、「わくらば」「そいね」七十歳以下の人はだめ。それ以上の老人と添寝する女「ほととぎす」弟恋し 弟恋し と、怪談めく「おとしあな」入れ歯を落とした老婆の奮闘「チロリアンハット」遺品の帽子「まばたき」「めちろ」エリザベス 人形「あめあがり」「おぼしめし」隣の家に牛乳をたのむ老婆「かけおち」マノンという踊り子と寿司屋の中年男「おのぼり」人とぶつかる陶芸家 画廊の女主人「パピヨン」イヌの名「つやめぐり」お通夜 美術館 迷子になる「ゆめあそび」夢遊症のふり「みそっかす」食中り 残りの寿司「やどろく」北海道へ嫁ぐ娘「なみだつぼ」囲炉裏と母著者によるあとがき・・・最後の一行【なにはともあれ、いまはただ、諦めかけていた第三集の刊行を歓びたいと思う。平成十二年 盛夏】【】内引用2010年8月29日79歳で死去。そして、201年12月「完本 短編集モザイク」が出る。全三集にあらたに三篇を加えてのことである。その三篇は未だ読んでいない。短篇集モザイクIII わくらば三浦哲郎2000年9月30日 発行新潮社
2011.03.27
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これが人間ドラマ。ハチャメチャに見えるが、じっくりと見極めてゆけば、人生とは、人が生きるとは、ということが確実に描かれている。主人公は在るが、群集ドラマとも言える。映像も見事だが、脚本段階で物語の流れがきちんとされているのだと思う。そうでなければあのハチャメチャさ加減は収めきれないし、ハチャメチャに出来ない。エミール・クストリッツァを彷彿とさせる。祖母の埋葬の場面、クストリッツァならば祖母が生き返る?天網恢恢疎にして洩らさず。まずはとくとご覧あれ。見事である。『そして、私たちは愛に帰る(2007)』はよかった。『そして、・・・』とは違う意外な良さだ。
2011.03.22
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このたびの地震の翌日、中日春秋(中日新聞朝刊)で『方丈記』に触れたところがあった。それは、【おそれのなかにおそるべかりけるは只地震なりけり】のところ。その部分を含むところを以下に引く。おびたゞしくおほなゐふること侍き。そのさまよのつねならず。山はくづれて河をうづみ、海はかたぶきて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、いはほわれて谷にまろびいる。なぎさこぐ船は波にたゞよひ、道ゆく馬はあしのたちどをまどはす。みやこのほとりには在々所々堂舎塔廟ひとつとして、またからず。或はくづれ、或いはたふれぬ。ちりはひたちとのぼりてさかりなる煙の如し。地のうごき、家のうごき、家のやぶるゝおと、いかづちにことならず。家の内にをれば、忽にひしげなんとす。はしりいづれば、地われさく。はねなければ、そらをもとぶべからず。龍ならばや雲にも登らむ。おそれのなかにおそるべかりけるは只地震なりけりとこそ覚え侍しか。かくおびたゝしくふる事はしばしにてやみしかども、二三十度ふらぬ日はなし。十日廿日すぎにしかば、やうやうまとほになりて、或は四五度、二三度、若は一日まぜ、二三日に一度など、おほかたそのなごり三月ばかりや侍りけむ。四大種の中に、水火風はつねに害をなせど、大地にいたりてはことなる変をなさず。昔齊衡のころかと、おほなゐふりて東大寺の佛のみぐしおちなど、いみじき事どもはべりけれど、なおこのたびにはしかずとぞ。出典『方丈記(鴨長明/山田孝雄校訂)岩波文庫』(p55~57)昭和3年10月15日第一刷発行昭和14年6月15日第十四刷改版発行昭和37年3月15日第三十三刷発行『方丈記』は短い。古文だがさほど難しいこともない。これを機会に再度(以前2度読んだ)読んでも、と思っている。
2011.03.15
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『みちづれ』に続き『短篇集モザイクII ふなうた』「ふなうた」「こえ」「あわたけ」「たきび」「でんせつ」「やぶいり」「よなき」「さくらがい」「かえりのげた」「ブレックファースト」「はな・三しゅ」「ひばしら」「いれば」「ぜにまくら」「かお」「メダカ」「みのむし」の18篇。今読み始めている『短篇集モザイクIII』三浦哲郎が死んだので、このシリーズは終わる。その2冊目。この中に三浦哲郎の短篇を読むきっかけがある。仕事先の歯科医院の待合室で読んだ「クロワッサン」。そこに載っていたのが「メダカ」「かお」のいずれか。なにげなく読んだそれが大変面白く、作者の名を記憶することになった。その後で見つけたのがこの本。「こえ」 3つの声に関する話。はじめの「あ」という女の声に始まる話はいかにも大人の物語だが初々しい。「たきび」は、子供のとき焚き火に放り込んだ栗が原因で片目を失くした少女と少年。「ブレックファースト」は、ホテルの朝食時、聞くとはなしに聞いてしまった。老夫婦の会話。「はな・三しゅ」ごぼう、さんしょう、はなまめ の三しゅの花の物語。いずれも800字に満たない。800字で書ける限界ではないかと思える見事な小説。「ひばしら」は、少年時代、まだ戦中。剣道部の後輩との話。「メダカ」都会に一人住む独身女35歳。故郷に帰る。その前に飼っていたメダカと別れるときに。「みのむし」は悲惨だが、どうしてこんなにユーモラスなのか。短篇小説とはこれだ。これも2度目だがほとんど覚えていない。読む時期により、その時の心持により惹かれたり感じたりする箇所は違うのだろうが、今回は上の7篇を面白く読んだ。これで、三浦哲郎4冊。『短篇集モザイクII ふなうた(三浦哲郎)』1994年12月15日 発行新潮社
2011.03.14
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芸能(人)を撮ったドキュメンタリー、過日見た『わが心の歌舞伎座』とつい比較してしまう。特にインタヴューの部分。インタヴューという同じ形式で人(芸能人)を捉えているので比べてしまう。後ろに岩井俊二秋元康が控えているが、29歳の監督寒竹ゆりは堂々とした映画を撮った。AKB48は20歳前後のメンバーで構成されている。監督29歳は年長といえ私から見れば同じ世代で同じ空気を吸っている少女たちの一人なのだ。そして、彼女たちは全力疾走している。その全力疾走は一人ひとりの走り方も走っていく方向も速度も違っている。走っている場所さえ一人ひとりがそれぞれなのだ。その速力はAKB48自身の力の120%とまで言えないにしても100%を超えていることは確かだ。それが若さかもしれない。そういう少女たちがいるのだ。また、AKB48を統率している少女の力(エネルギーでもあり、そのストイックさでもある)は恐ろしいほど魅力的である。こういう力が芸能のみではなく社会世の中に及ぶとすれば我が国はもっとよくなるであろうと思いたくなる。マスコミで流される情報は多い、多ければ多いほど選ぶ前にその情報を浴びることになる。それは自分で選んだものでも選ばされたものとしてでもなく日々目の前に来る。マスコミという実態の不明確なものが眼前に出してきたものであるのだが。多くはそれがきっかけでその情報を手に取る。その後は、自分で足を運んで手に取り選び、そして、分からない所は自分で調べ知る。そういうことをしないで何の己であるか(大袈裟?)今回この映画『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued』はブログがきっかけ。それまで、この映画の存在すら知らなかった。AKB48もそういう少女たちがいるという漠然とした知識のみ。これを見たことでAKB48は疾走している女たちなのだと知った。わが身も含め世の大人たちこの少女たちの疾走に対抗していけるのだろうか?何も若いとうことが特別ではないのだから。『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued』監督:寒竹ゆり製作総指揮:岩井俊二 企画:秋元康
2011.03.09
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心まで裸になれ!愛を問い続ける、魂のカメラ。唯一無二の映像作家、<ヨヨチュウ>こと代々木忠、知られざる波乱の人生。と、チラシにある。72歳現役のAV監督。そのドキュメンタリー。AVなんて精々あんなもんだ。どちらにしてもやらせ(演技)という認識。大相撲の八百長問題やその昔のTV局ドキュメンタリーのやらせ、新聞社記者による珊瑚の事件を思い出す。が、代々木忠、ヨヨチュウはヤクザだ。ヤクザは堅気の胡散臭さを知っている。ヨヨチュウは疑う。それはヨヨチュウ自身の中にある(誰にでもある)胡散臭さ、世の中との距離のとり方、本当の人間って何だ。本当の自分って何だ。それは理性をとことんとっぱらったすべてを脱ぎ捨てた姿が人間本来の姿か?ヨヨチュウはその先へ先へと自らの作品を作っていく、その過程で何かにはまり込んでいく。そしてその人間の姿を見せてくれるのはAVに出ている女優であり男優である。彼女彼等の姿はヨヨチュウの計算外のことであり、代々木忠はそこで計算外に素直に驚く。自分がびっくりしてしまうのである。そのヨヨチュウの姿、正直さ無垢さがいい。代々木忠はイノセントだ。それがヤクザのイノセントであり、ヤクザが堅気を胡散臭いと思う所以だ。だが、これを追求すると堂々巡りになる。パラドックスの世界へ入りこむ。女優が計算外の姿を見せる。その時、代々木忠は本当に吃驚したと言う。そこでは決してかっこ(格好)つけたりしていない。知らない世界(知ってはいけない世界?)を覗いてしまったということに向き合う。その追求が人間の追及であるということ。人間も動物だといってしまえばそれっきりである。だが、ヒト以外の生きものが、あそこまで淫らになれるだろうか?それは、SEXだけではなく、あらゆる欲望に対しての猥らさ。YOYOCHUは人間の「淫ら」を追及し「猥ら」にたどり着く。ナレーションは田口トモロウ、題字がリリー・フランキー、チラシには三枝成彰や大槻ケンジ、インタヴューは笑福亭鶴瓶や和田秀樹という面々。そこにある胡散臭さ・・・。ついでに、VHSがβに勝ったことの一面を知ることが出来る。YOYOCHU SEXと代々木忠の世界監督:石岡正人2010 115min.
2011.03.06
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三浦哲郎の3冊目。24の短編集。あとがきより・・・、【一篇の長さについて(中略1)最初は、三十枚できちんとしたものをというのが念願であった。(中略2)自分で言葉を惜しみながらいくつも書いているうちに、私の短篇小説は短くなるばかりで、遂に二十枚前後が適量ではないかと思われるに至った。連作短編集の『拳銃と十五の短篇』や『木馬の騎手』の諸篇もすべて二十枚前後である。ところが、近頃はその適量も少々怪しくなってきている。『モザイク』という題で十枚そこそこの短篇小説を書きつづけるようになったのは、】云々。(中略2)は、【おそらく敬愛する先輩作家たちがふとそう洩らすのを、しばしば耳にしていたからだろう。】である。【】内は引用。その24篇。すべての題名が仮名。みつづれ・・・花束とんかつ・・・雲水めまい・・・タバコひがん・じゃらく・・・出来心、墓参りののしり・・・アイスホッケー、どすけべうそ・・・鳥籠、逃げた鳥トランク・・・バーの女給たちへの土産などなわばり・・・犬の散歩すみか・・・座敷ワラシマヤ・・・生卵、卵かけごはんくせもの・・・耳、アブおさかり・・・湧き水ささやき・・・大蒜、若い男女の会話ねぶくろ・・・実家、駐在所はらみおんな・・・土偶かきかげ・・・若者、孫娘てんのり・・・あっという間だったえ。天祈りおさなご・・・棺桶、子守女、雄蝶雌蝶こいごころ・・・スキーで骨折にきび・・・禁煙、アオキの葉っぱオーリョ・デ・ボーイ・・・キャッチャーフライ、『鵞鳥(幸田露伴)』さんろく・・・リンドウ、カケス、キツネゆび・・・バリウムじねんじょ・・・死んだといわれていた父に会う以上。・・・のあとは、その話を思い出すための自分にしか分からないキーワード。この短編集を読むのは三度目。その多くは忘れていた。覚えておくためのキーワード。三浦哲郎とリョサを中心にラテンアメリカ文学を読むと決めた今年。どうしても他に目移りする。そこで、二三気になるものを読み始めた。だが、どれも大して面白くなく途中で放り投げた。三浦とリョサの面白さには敵わないものであった。『短編集モザイクI みちづれ(三浦哲郎)』1991年2月20日 発行新潮社
2011.03.05
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イーストウッド監督の映画はつかみどころがないずっとそう思いながら見て来た。『グラントリノ』も『チェンジリング』もそうだった(『インビクタス 負けざる者たち』は見ていない)。だが、今回は違った。つかみどころのなさは同じなのだが、そのつかみどころのなさが、心地よい感動になっていった。つかみどころのなさは、物語を盛り上げ、それを見る側に押し付けるところがないからそう感じたのだろう。別々の人生を歩んでいた縁のない三人が出会う物語だと分かっていた。終わりに向かうにつれてどの様に出会うかに興味が集中した。『ヒアアフター』は、そのクライマックスシーンの盛り上がりを押し付けることなく自然の流れに任せている。当人たち(三人)には大変な盛り上がりなのだろうが、それに関わらない人にとっては無関係である。カメラは第三者(スクリーンを見ている者)の視点にあったと思う。だが感動するつくりであった。カメラの目は第三者の視点だ。その視点で撮りながら自ずと無関係ではなくなる。あらゆる映画がそうなのだが、その距離のとり方が微妙であるとイーストウッドは気がついているのだ。いつからそれに気がついたかは分からない。だから、『グラントリノ』も『チェンジリング』もそうだった、ということはその2作品は気がついた後のものだ。そう言える。気づいていても、それが成功するか否かは別だ。別の言い方をすれば、登場人物に自己を投影して映画を見る。それがひとつの見方。イーストウッドの映画はそうさせない何かがある。だから、つかみどころがない。『ヒアアフター』は第三者の視点で見ていても十分に映画に参加できるものであった。そのことが感動に繋がった、そう思う。
2011.03.05
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隆慶一郎以後9 平成の時代作家たち20回 縄田一男「非理法権天(ひりほうけんてん)」(2011/2/28中日新聞夕刊掲載)池宮彰一郎(脚本家:池上金男)は、【「非理法権天」ということばを自らの祈りとしていた。これは、非道なことは道理には勝てず、理論的には正しくとも法には勝てず、いくら法で勝っても権力には勝てない、さらに権力に勝っても最後には天には勝てない、という意味である。『四十七人の刺客』にはこの思いを一貫してこめた、という。無論、池宮のいう祈りは、天には勝てない、というそこにある。三百年の時をへだてて、大石ら四十七人の思いは、天が私たちに伝えている。】池宮彰一郎をこのコラムは取り上げている。縄田はこう書いてこの日を締めくくる。【『高杉晋作』、そして柴田錬三郎賞を得た『島津弄(はし)る』等を続々、刊行していくのだが、実は思いがけない災厄が待ちかまえていたのである。】そして、3月1日に池宮の『島津弄る』に司馬遼太郎『関が原』からの盗用疑惑があり、それに関して、池宮が司馬と同じ資料を使っていたとしたら。縄田は【個人の文責】と断り池宮はそれをしていないと書く。続けて、『島津弄る』の絶版について【(同じ資料云々の検討もせず)出版社は、司馬遼太郎という国民作家の名にひれ伏してしまったのである。】とも書く。「非理法権天」に照らし、それの結論を今はまだ出てはいないが、いずれわかることだろうと縄田一男は言っているのだ。【】内引用
2011.03.01
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