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10月25日の「自分を愛する」日記の、想像以上の反響にびっくりしていますが、この日記を書いた状況と背景、そして補足をまとめてみたいと思います。そもそものきっかけは、8月に書いていたのに、なぜか掲載していなかった日記です。これは「●幻日記● 自分を責めて(裁いて)しまう自分を愛する(受け容れる)」として10月19日に掲載しています。 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓http://plaza.rakuten.co.jp/ponsworld/diaryold/20021019/ 掲載し忘れていた日記原稿を、発見し、読み直し、少し手直しを加えて、掲載する過程で、自分の信仰の軌跡、特に、神さまの愛のメッセージを受け取り始めた過程を思い起こしていました。そして、この「転機」について、まとめたいと思ったのです。自分は、クリスチャン家庭に育ちました。そして、なぜか、ずっと「~してはいけない」「~しなければならない」と、どこか窮屈な教会生活を送っていたように思います。(ちょっと怖い神さまのイメージだったかも?)しかし、大学5年の時、いくつかの出来事があり、自分が思っていた以上に、神さまが愛の方であることに、目が開かれ始めました。そのうちの、1つの大きなきっかけが、この「カウンセリング講習会」だったんです。ちなみに、その頃の1年余りは、留年・恋愛(片思い後に失恋)・後輩の入信・時を得た信仰書との出会い・就職・上京と、めまぐるしい変化の時期でもありました。でも、この大学5年が、自分にとって、かけがえのない必要な時期、神さまに用意された時期であったと、確信を持って言えます。 さて「自分を愛する」ことですが、唐突にこの言葉を持ち出した上、やや強引な使い方をして、混乱を与えてしまったかもしれません。「自然に、それとなく自分を愛している状態」、時に「自己中心」「自分かわいさ」「自分を甘やかす」ことは、講習会以前に、自分が「自分を愛する」ことに対してイメージしていたことなので、よく実感できます。それに対して、講習会で「自分を愛していいんだ」と感じたことは、違う内容なんです。 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」 イザヤ43:4「自分を愛する」こと、それは「自分は、神さまの目には、高価で尊い」という神さまからの評価を「うなずき」を持って、額面通り受け取ることです。それは、健全はセルフイメージを持つということです。それは、ただ、神さまからの視点から、もたらされるものです。とはいうものの、「自分は、神さまに愛されている」「自分は、神さまの目に価値がある」と聞いて、頭では分かっても、初めのうちは、何だか、くすぐったいような、ホントかななんて思ったものでした。競争社会=常に比較の中、劣等感、罪意識、日本人であれば、特に恥意識や、自己評価の低さ・文化的な表向きの謙遜などが、大きく影響していたのだと思います。しかし、神さまの命がけの愛に触れていく時、「こんな(ひどい、みにくい、悪い)自分だけど、愛されている、神さまの目に価値がある存在である」と心の部分で感じられるようになっていきました。これを「自分を愛する」と表現したのです。
2002年10月29日
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大学5年の時、当時通っていた教会で、日曜日の午後、1か月に1回の予定で「カウンセリング講習会」なるものが開かれることになった。「カウンセリング講習」といっても、まだ、キリスト教界に「カウンセリング」という概念が、あまり定着していない時代で、今振り返れば、基礎の基礎の「セルフイメージ」と「ストローク」あたりを、さらっと学んだだけだったかもしれない。しかし、この機会が、その後の自分に大きな変化と気づきを与えてくれる「きっかけ」となった。 で、初日のテーマは「自分を愛する」。まず、最初に、このテーマについて、自由にディスカッションする時間が与えられた。その時の雰囲気は、今でも、はっきり覚えている。 「自分を愛する」自分は、このことばが「自己中心的」「エゴイズム」といった、信仰生活からすると、マイナスイメージ=罪を思い出させるものであり、そのように感じてしまうと発言したように思う。また、他の人たちも、ほとんどが、「自分を愛する」ということばに、戸惑いを覚えていたようだった。あるベテランの信仰者も「今まで、何十年間、自分を棄てるように、努力してきました。」と発言されたり……。 ひととおり、自由な発言が終わり、旧約聖書イザヤ書43:4が朗読された。 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」 これが、聖書が語る、神さまの視点。人に対する価値。評価。わたしに、あなたに、すべての人に対して語られたメッセージであることが説かれる。「神は愛なり」教会でよく語られることばだが、その神さまの視点で、自分を見つめ、愛し、受け入れ、大事にする。「自分を愛していいんだ!」 この気づきは、自分にとって大きな大きな信仰的転機となった。 今でこそ、「自分を愛する」ということが、キリスト教界でも、市民権を得たというか、だいぶ浸透し、使われるようになってきたかもしれないが、当時は、こんな波乱と戸惑いと驚きと衝撃の中、学びと、遅ればせながらの信仰再形成がスタートしたのであった。
2002年10月25日
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_/_/_/ ヘンリー・ナーウェン著 「今日のパン、明日の糧」10月23日から _/_/_/ この世にあって、この世のものとならずに生きて行かなければならないということをよく耳にします。けれども、教会にあって、教会のものとならないことの方がもっと難しいかもしれません。 教会のものとなるとは、教会の組織にまつわる様々な問題や聖職者の人事異動などに心を奪われ、それらに巻き込まれてしまい、イエスに焦点を合わせることができなくなってしまうことを言います。 こうして、次第に教会は、私たちが見ようとして来たものを見えなくし、聞こうとしてきたものを聞こえなくしてしまいます。 それでもなお、キリストが宿り、私たちをご自分の食卓に招かれ、永遠の愛の言葉を語られるのは、教会においてです。教会のものとならずに、教会の中で生きるものとなることは、大きな霊的課題です。 (なかなか感銘の深い文章だったので、珍しくそのまま載せちゃいます。)
2002年10月23日
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家族で通っている堺大浜キリスト教会が、設立30周年を迎えた。もともと50年前に、日曜学校として家庭を解放して下さった家族があり、この地に福音の種が蒔かれた。 (↓参照)http://plaza.rakuten.co.jp/ponsworld/diaryold/20020512/ そして、その日曜学校を基礎に、教会として建て上げられ、30年を迎えた。この間、神さまの働きと、見えるところ見えないところで、労してくださった多くの人の存在があったことに、深い感謝を感じる。 記念礼拝の中で、S姉妹のお証詞30年前の、教会設立当時の礼拝か、夕拝に出席したが、イエスさまをなかなか受け入れられず、洗礼を受けるまでに、14年を要した。直接のきっかけは、娘さんの受験の失敗。ショックを受け、不安定になっているお嬢さんの姿の中に、Sさんご自身の不安定な心が反映しているように思われ、その気持ちのまま、教会に行ったところ、ちょうど、自分のために祈っていたところだったという。その娘さんも、教会学校に通っていたが、中学以降、教会を離れてしまっていたが、23歳の時、お正月に「今年は見合いでも、恋愛でも、どっちでもいいから、結婚するから、お母さん、祈ってね。」と言われ、そうこうしているうちに、4月頃に、職場の男性にプロポーズされ、結婚が決まってしまい、このことをきっかけに、教会に戻り、イエスさまを信じた。その後、息子さん夫婦も教会に来るようになり(ただ洗礼までは時間がかかったが)、1人、家に残される形になったご主人も、そのうちに教会に来るようになり、最終的に、ご主人とお子さんすべてが、イエスさまを信じるようになった。この30年、時に、心の土台が掘り下げられるようなこともあったが、岩の上に信仰を建て上げられるための痛み・苦しみであったことが、今になって分かる。 礼拝メッセージ ヨハネの福音書2章1節~11節から それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。 すると、イエスは母に言われた。 「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル 入りの石の水がめが六つ置いてあった。 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」 彼らは持って行った。 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、 ??しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。??彼は、花婿を呼んで、言った。 「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、 あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。 それで、弟子たちはイエスを信じた。 子どもが、おこづかいをもらえるお手伝いを始めたが、ついには、「皿洗い50円・そうじ30円・肩たたき50円……」といった手書きの請求書をつくるようになった。対抗して、お母さんも、請求書をつくった。しかし、内容は、「生まれてから今までの、食費、衣服代、医療費、看病したときの人件費 すべて0円」イエスさまとかけ引きするようなことはないだろうか。「これだけやってるのに。」「これ以上、どうすれば?」…… 1 イエス・キリストこそ文字通り「主」なる方>母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」 (4節) 私たちは、よく、自分で自分の目標や問題解決を設定し、その達成のためにイエス・キリストを利用してしまうことがある。この時の母マリアもそう。しかし、5節のイエスさまの一見冷たいような態度によって、「ああ、自分の必要を満たそうとしていた」ということに気がつき、方向転換した。>母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」 (5節) 2 実際の行動を通して、神さまは働きをなさる >「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」 (8節)>しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。 (9節) 使いの者たちは、600リットルほどの水を、水がめに満たした。この時、皆の思いはどうだったろうか。「問題点はぶどう酒なのに、なぜ水を満たす必要があるの?」 しかし、皆、そのまま従った。その結果、奇跡が行われた。世話役のところに持っていく途上で、それは起こった。 3 イエスさまは奇跡を行うことができるお方 具体的に従う時、奇跡が起こる。たとえば、人間関係のわだかまり。私たちに無理だと思っても、示されて祈ることで改善されていくことも奇跡ではないか。 教会設立30周年記念会 午後は、記念会が開かれた。来賓も多く見えられ、ごあいさつもたくさんいただいたが、印象に残るお話をひとつ。教会の母体となったのは、唄野(ばいの)家という家族。現在93歳の唄野政一兄は、旧満州に応召され5年間の軍隊生活、およびシベリア抑留を経て、敗戦から4年後、命からがら祖国日本に帰ってきた。しかし、その帰りを待ちわびていたお母さんは、直前に亡くなられていた。教会が設立される頃まで、政一兄とご両親の絆を示すものがあったが、神さまとの関係の中、信仰を取り扱われ、手放す決意をした。これは、両親より、神さまを優先する決意であった。また、現在、礼拝堂がある土地は、もともと政一兄がお父さんから譲られた土地で、いずれ、子どもや孫に、引き継いで然るべき財産であったが、政一兄はそれを、教会のために献げて下さった。これらは、政一兄個人の話なので、教会の歴史には出てこないストーリーであるし、個人の決断による好意であるから、周囲の人が知らないうちに、決まっていた出来事。しかし、祈りを通し、時に葛藤しながら、純粋に神さまを愛するということを、その都度、選択してきた1人の信仰が、この堺大浜教会のベースにあることを、覚えていきたい。
2002年10月20日
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(注 8月あたまに、ほぼ完成していた幻の日記文章。しかしなぜか掲載を忘れていた。ちょっとだけ手直しして掲載。) (聖書でいうところの)罪を犯した(犯してしまった)聖書を読ま(読め)なかった祈ら(祈れ)なかった委ね(られ)なかった以前は、密かに、そんなことで、非常に非常に、ものすごく、悩んでいました。教会生活は長い自分ですが、ようやく、イエスさまと親しく交わり、愛されて歩む生活が、始まりつつあるように感じています。上の1つ1つは、決して、大切でないことではありませんが、それを守れないと失格のような思いが、どこかにあったのです。自分の傾向として、失敗、罪、教会で勧められていることをしない、できないという時、どうしても、自分を責めたり、裁いたりする傾向が強いようです。今でも、その傾向は強いので、意図的にあえて、そうならないように、無条件の一方的な十字架の愛に目を向けるように、し始めています。(自分にとっては、それで、ちょうどバランスがとれるのではないかと思うこの頃)時に、教会のメッセージが、勧善懲悪的な傾向、教育的指導的傾向があったのかもしれません。神様に愛されていることが、しっかり語られていたのに、それをキャッチする自分の側のアンテナが育っていなかったのかもしれません。受け取る自分の側のアンテナに問題があれば、愛ゆえの「警告」「勧め」「戒め」の厳しい部分をことさらにピックアップして自分に適用することになり、当然、苦しいはずです。 ♪ あなたは愛されるため生まれてきた人~先日も紹介しましたが、先月、教会に滞在したコリアンチームが、よく歌ってくれた歌の冒頭の歌詞です。そう、そうなんだ。神さまに愛されるため、神さまと交わるという、目的を持って、自分を含めて、一人一人が、計画されて、神さまの作品として命を与えられたことを、もう一度、思わされました。 「 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスに あって造られたのです。」 エペソ 2:10 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」 これがたいせつな第一の戒めです。 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」 という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 マタイ22:37~39 神さまを愛することは、神さまの愛を知り、そして受けることから始まります。イエス・キリストの大きな愛を、知れば知るほど、学べば学ぶほど、それに比例して、自分自身を愛し、受け入れられるようになります。神さまの愛に立つ時、はじめて、みじめな自分の姿さえ直視する力を与えられ、その部分さえも愛し、受け入れられるようになることを教えられています。自分で自分を裁いてしまうような自分さえも、自分で愛し、受け入れていけるとは、何と大きな幸いでしょうか。同時に、他者をも受け入れていく幅が広がっていくのです。 すべての出どころは、主イエス・キリストの愛。まず、その愛を受け取ることが、神さまを愛し、自分を愛し、隣人を愛することができるようになる根源となるのです。 ♪ すべての恵みのもとなる御神を つくられしものよ いざたたえまつれ 聖歌384番 アーメン
2002年10月19日
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今日は、自分の●●度目の誕生日。(ちなみに年男) あなたが定められた時に、定められた場所で、生を受けたことを感謝しよう。 地の基が定められる前から、あなたに計画され、あなたの目に価値のある作品として、生を受けたことを感謝しよう。 ●●年間の歩みが守られたことを感謝しよう。知らないまま、気づかないままに、どんなにか多くの危険や誘惑から守られていたであろう、そのことを。そして、今の自分があることを。 自分の意志と関係なく、この世に生まれてきたけれど、創造主であるあなたを知り、そのあなたが、もっとも親しく、近しく、深く交わって下さることを感謝しよう。 自分というキャンバスに、いろいろな出会いという絵を描いてもらっていることを感謝しよう。妻、子どもたち、両親、友人、教会の人……。また、悲喜こもごものさまざまな出来事……。 願わくば、あなたのみこころのままに、この人生という絵を完成して下さい。ただ、あなたのみこころのままに。 アーメン
2002年10月18日
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2日間のミーティングが16時過ぎに終わったので、お茶の水のOCC(お茶の水クリスチャンセンター)内のCLCというキリスト教書店へ。ついつい1時間半も長居。 ゲットしたものLyre楽譜(最新の51曲掲載)ヤベツの祈りうらおもて 大川従道著 プレイズ出版潮干狩的説教集 雨でもハレルヤ 大川従道著 プレイズ出版平和への道 ヘンリ・ナウエン 聖公会出版信仰による人間疎外 工藤信夫 いのちのことば社子どもを守る30の祈り ストーミー・オマーティアン CS成長センター伝道 福音派 福音主義 C・ノーマン・クラウス すぐ書房なんとも、脈絡のないチョイスだなぁ。今回は、なんだか、大川先生の本を読んでみたいと、CLCの中で背表紙を見ながら、思わせられた。 17時45分頃、お茶の水を出て、JRとモノレールを乗り継いで羽田へ。19時の飛行機に乗って伊丹に20時着。20時20分のバスでなんばへ。自宅には21時頃到着。
2002年10月17日
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翌日からの会議が早朝からのため前泊。休みを入れたので、会社の拘束は基本的になし。今日は3箇所で約束。まずは、伊丹空港から千葉県にひとっ飛び~。 ● 前の前の会社の上司宅へ10日ほど前に、突然、前の前の会社の仲間から、先輩のNさんが急逝された旨、連絡が入った。何せ、距離が離れているため、駆けつけられず、この出張の機会に、ご自宅にごあいさつに伺った。ご遺族のお気持ちが早く癒されるよう祈りつつ。奥さまとしばしの間、お話。高校生、中学生、そして小6のお子さんを遺して、Nさんが逝ってしまわれたこと。Nさんが、ここ数年、ようやくゴルフや釣りなどの楽しみを見つけ、これから人生を楽しめる矢先だったこと。翌日から、家庭菜園を始める予定だったため、車の後ろには、買ってきたばかりの肥料が5袋残されたまま、亡くなられたこと。いつ転勤や肩たたきがあるか、分からず、密かに悩まれていたこと。家庭でのNさんの意外な一面を、お伺いすることができた。自分にとって、社会に出て初めての会社。そこで、時にきびしく、仕事を見せてくれたNさん、さようなら。そして、ありがとうございました。 ● 失業中のちぼさんと昼ごはんで、昼を少しまわって、駅にもどり、9月20日に会社を辞めて、ぷーしてるちぼさんと会い、昼を食べる。ちぼさんとは、ぽん一家が大阪に引っ越す前に行ってた教会でいっしょで、家族でお世話になっていた。しかし、今や、その教会もなくなってしまい、寂しい限り。仕事を辞めて、時間があるんで、近々、韓国旅行の予定とのこと。 神さま、ちぼさんの進路を導いて下さい。 ● 楽天仲間BETHESDAさんとのオフ会夕方、電車に乗って1時間弱。そこからバスで10分弱のBETHESDAさんのところにお伺いした。初めてお会いしたのに、全然そんな感じがしない。いつも思うのだが、クリスチャンの交わりって、いつもすてき。同じ見上げるものを持ってるから。また、交わりの中に、他でもないイエスさまご自身がいてくださるから。そして、これまで、神さまが、いかにすばらしいことを、お互いになさってくださったかを、分かち合い、感動しあえる。BETHESDAさんの場合、去年、経営していた会社が倒産した。奥さまは、先に信仰をお持ちであったが、そのことを通して、多くを学ばされたという。もし、倒産という状況に直面しなければ、自分たちの信仰も、生ぬるいものになっていたかもしれないとさえ、おっしゃっていた。まだ、多くの負債およびローン支払いも残っているのに、必要な苦しみだったとおっしゃる姿は、喜びに満たされていた。また、不思議な方法で今の教会に導かれた経緯や、昨年12月のご家族そろって洗礼を受けた時のお話をして下さった。まさに、神さまが、ふさわしい時に、ふさわしい方法で、BETHESDAさんご一家を、取り扱って下さった。感謝。お食事は、これまた、すてきなタイ風カレー。ものすごくおいしかった。奥さま、ありがとう。そうそう、それから、BETHESDAさんの町の別の教会のS先生が、共通の知り合いだったことも判明。びっくり感謝。 後ろ髪を引かれながら、BETHESDAさんのところを後にし(駅まで送っていただき、ありがとうございました。)、電車を乗り継ぎ、都内のホテルへ。中身の濃い1日だった。
2002年10月15日
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今日は、午前中は、毎年恒例の牧師先生のご両親所有の土地での、芋掘り。午後は、大和川河口近くにある「海とのふれあい広場」へ。駐車場は無料だし、だだっ広い、整備された芝生はあるし、景色はいいし、なかなかの穴場。バーベキューもOK。 10月15日から、数日、出張で不在です。したがって、更新およびレスができません。(ちなみに、出張の合間をぬって、楽天仲間のBさんとお会いする予定です。オフ会オフ会。楽しみ。)
2002年10月14日
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次女(年少さん)の幼稚園の運動会。 未就園児の長男も、かけっこに参加。なんと、1つ年下のなかよしの女の子と、てをつないで走った。 保護者参加の部は、綱引き(だったかな?)から当日、突然、棒引きに変更。ところが、11本の棒に対し、各チーム35人くらいずつ参加。エキサイトしすぎの大混戦。おかげで、すり傷、打撲、筋肉痛……。それにしても、パパママみんな真剣だった。(殺気) 午後は、仕事。連休前で手間取り、会社を出たのは、午前1時過ぎ(泣)。お疲れお疲れ。
2002年10月12日
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今日は、次女の5歳の誕生日。仕事の関係で、お祝いは後日になりましたが、じじばばから、お花のプレゼントが届きました。
2002年10月11日
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「自分にとっての信仰上の指導者が、神に選ばれた器とはとうてい思えないとき、いったいどうしたらいいか?」(扉書きより) 10月6日の日記の本の紹介。(注 本自体は、「劇」風に書かれている。心理描写も巧みで、ぐいぐいひきつけられ、かつ、いやみなく問題点を指摘してくれる1冊) 登場人物は、サブタイトル通り、3人の古代ユダヤの王、サウル、ダビデ、アブシャロムの初代から三代目王までの3人。2代目王ダビデを軸に、第一幕では「サウル」との関係、第二幕では謀反で王位を奪取した実子「アブシャロム」との関係が、如実に描写される。 第一幕初代王サウル。ダビデの出現により、ダビデの正しさと、自分より優れたものを持っていることに気づく。ダビデへの嫉妬と驚異ゆえに、サウルは、ついには、精神に異常をきたしてしまう。そして、側近となっていたダビデに、発作的に、槍を投げつけ、殺そうとまでするようになってしまった。ダビデにとって、この時、反撃すればできたはず。逆に、ダビデが「勇敢であること、正しいことを行っていること、悪にしっかり立ち向かい、たくましく、舐められたままでいないこと、不正や不公平な扱いを認めないこと、信仰を守り、その炎を消すことなく、すべての異端を見破る者であること、自分は間違っていないこと」(38頁)との大義名分のもと、サウルを討つことで、王位を継承することもできた。(この世的には、かえって、正義として賞賛される行いかもしれないにも関わらず。)しかし、ダビデは、槍を避けただけ。反撃もせず、また、他者に口外さえしなかった。また、すぐには、逃げもしなかった。神への従順ゆえに。最終的に、逃げざるを得ないところに追い込まれて、ようやくサウルのもとを後にする時、彼は1人で去った。他の不満分子・同調者を集め、引き連れることをせず1人で。逃亡中に、サウルと出くわした時にも、いっさい手を出すことをしなかった。サウルは、確かに、神に選ばれ、油注がれた者だった。事実、「民を統一し、王国を創設し」「偉業を成しとげ」「何もないところから軍隊を作り出し」「神の力によって、ほとんど誰も成し得なかったいくつかの戦いに勝利し、何度も敵をうち破った」人物であった。(66頁)「サウルは、今日のキリスト者がそうありたいと願っている、すべてを兼ね備えた人物だった。すなわち、聖霊による力を授けられ、不可能なことを神のために行うことができた。神からの力が与えられた、神に選ばれた指導者であった……。」「しかし同時に、嫉妬心にむしばまれ、殺人を犯しかねなく、霊的暗闇に行きようとした人だった。」(67頁)ダビデは神に従順であるがゆえに、そんなサウルに、決して復讐することをせず、従い続けた。愚直なまでに。しかし、サウルには、ダビデが「自分の王国」をおびやかす驚異としか映らず、かえって、力づくで押さえようとせざるを得なくなった。時に、教会や教会指導者が、間違った方向に進むことがあるかもしれない。大きなわざを行う指導者が、後に、必ずしも、正常でなくなってしまうこともあり得る。「サウル的な心」それは、権威欲、保身、自己中心、野心……それ故、時に、真に正しい者が打たれ、追われ、敗北者として去るように見えることがあるかもしれない。しかし、ダビデはそれに甘んじた。神への従順ゆえに。神は、ダビデのためにサウルを備えられた。ダビデの中の「サウル的な心」を徹底的に砕くために。神の目にかなった者として、神の器として立てられるために。 第二幕初代サウル王が、不慮の戦死を遂げ、ダビデが二代目の王位について、数十年。かつてのサウルが死んだ年齢に達しようという頃……息子のアブシャロムのまわりで、不穏な動きが起きていた。ダビデ政権のもと、社会で起きている不正や腐敗にがまんならない人々が、若く、頭のよさそうに見える後継者最有力のアブシャロムのもとにやってきて、その不満を吐くようになる。そして、しだいに、正義感あるアブシャロムの心を揺り動かし、ついには、ダビデから王位を奪おうという動きへと変わっていく。この不穏な動きは、側近を通じ、ダビデに、逐一、報告された。そして、その動きの目指す方向は、誰の目にも明らかだった。側近は進言する。ただちに、手を下せば、謀反を回避できることを。今のうちに、首謀者たちを捕らえることを。しかし、ダビデは、一貫して、王としての権威が、ただ、神から与えられたことを信じているがゆえに、手を下すことをせず、ついには、謀反に甘んじ、王宮を去る。「王位はわたしのものではない。王位とは所有するものでも、手に入れるものでも、守るものでも、維持するものでもない。わたしは都を去ろう。王位は主からのものだ。王国も主のものだ。わたしは、神を妨げることをしない。神とその御旨のあいだには、妨げを置いたり、行動したりしない。神にとっては、ご自身の意志を妨げるものは何も存在しない。もし、わたしが王であるべきでないなら、神はアブシャロムを、わけなく、イスラエルの王にしてくださる。今や、それはあり得る。神は神であられる。」(152頁) ああ、神さま。心の奥底のどろどろを感じます。主よ、その存在を教えて下さり、感謝します。ああ、主よ。「サウル的な心」を、砕き、取り去って下さい。上の立場(権威)に疑問を感じる時も、ただ、主に従順でありますように。甘んじられますように。下に従う立場の者に追い立てられる時にも、ただ、主の前に謙遜でありますように。そして、甘んじられますように。ああ、主よ。わたしの心を探って下さい。 「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」詩篇51:10 「国と力と栄とは、限りなく汝(神さま)のものなればなり」 主の祈り アーメン
2002年10月08日
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● 今日は妻の誕生日。だから、これから12日間だけ、年下に。(笑)● 礼拝メッセージ 新約聖書ルカによる福音書12章から1 神さまが、最終目的地に導く権利をもつ=最終的に裁く権利をもつ たとえ えん罪事件は、取り調べの苦痛に耐えられず、架空の自白をしてしまうことで起きる。 今、楽になりたいが故に、一番最後に判断されること(裁判など)を忘れてしまう。 「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、 ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがた に言います。この方を恐れなさい。」(5節)最終的に、お裁きになるお方を恐れよう。神さまを恐れる時(本来、恐れるべきを恐れる時)、人を恐れないようになる。 たとえ2 学生時代、音楽の趣味を尋ねられ、「中村雅俊や小椋佳」と答えると、友人に、「お前、 そんな音楽聞いてて、恥ずかしくないか?クラシック聞かな。」と言われるがままに、 そう思いこんでいた。」数年後、入院した時、同室の大学生と音楽の話題になり、彼は、 「松田聖子が好きやねん。」と言ったので、「恥ずかしくないかぁ?」と言ったところ、 「自分が好きなもんは、変えられへんやろ。」と言われ、目からうろこが落ちる思い。2 神さまが、すべてを支配しておられる 「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前 には忘れられてはいません。」(6節) 「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、 あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」マタイ10章29節アサリオンは通貨の単位。1アサリオンは、労働者の1日の賃金の16分の1程度の金額。この2箇所の記述の違い。1アサリオンだと、雀が2羽買えるが、2アサリオンだと4羽でなく5羽買える。つまり、おまけになる程度の価値の雀。しかし、そんな1羽の雀のことさえ、神さまはご存じ。 3 必要な時に、必ず必要な助け 「人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう 弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。 言うべきことは、そのときに 聖霊が教えてくださるからです。」(10~11節) ● シャウト・ゴスペル・クワイア月2回のクワイアへ。・初めてキャサリンさんのご主人とお会いした。テノール仲間が増えたぞ。でも長期出張が多いんだって。・新曲「God is Great」「君は愛されるため生まれてきた」・来年7月にコンサート決定!・ヘザーの体調が上向きとのこと。感謝。日本への愛を、情熱的に語ってくれた。感謝。・先週、うちの教会に立ち寄られたライトハウス長老「けんちゃん」が、礼拝の様子をえらく感動していた ということをクワイア参加の奥様から。近々、ご家族でいらっしゃるかも?。・TOMOKOさんの証 祈り 数年前の新クワイアのスタートに当たって、祈り祈り、ただただ祈り。 聖霊 ヘザーが2年あまり、「聖霊、聖霊」と言っていたが、聞こうとしなかった。 啓示 でも、聖霊さまに心を開いた時、神さまは、導きを鮮やかに示してくださった。 導き ただ、聖霊さまの導きに、「わたしは従う」だけ。う~ん、すばらしい証詞だなぁ。ああ、神さま、わたしの内に清い心はありませんから、作り出して下さい。あなたに心を開いていただき、あなたに従う心を、作り出して下さい。そして、あなたの不思議な導きに従い、歩むことを望みます。 ● 妻にケーキを買って帰宅 ● 「砕かれた心の輝き~三人の王の物語」あめんどう社刊 一気に読破 (キリスト教書店近くに住むS姉妹に、ピックアップしてもらった本を、今日受け取った。)いやはや、すごい本を読んでしまった。自分の奥深くの根本的な部分に潜む、どろどろしたものを見せつけられた思い。それは、まだ、小さな点ほどのもので、力の無いものかもしれないが、気づかないままに、それが成長してしまっていたら、不満やフラストレーションの爆発、権威欲、謀反などの危機となりかねない一点だったかもしれない。小さいけれども、その種が、内にあったことを、明らかにして下さり、神さま、あなたを恐れます。そして、示して下さり、心から感謝します。 (詳しい感想は、後日)
2002年10月06日
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おとうさんと、でんしゃまつりに、いってきました。 特急電車そろいぶみ 左からラピート、サザン、こうや 工場の中では、電車の下にも、もぐれました。 でんしゃの、もけいも、だいすき。 でんしゃの、ぬりえも、だいすき。
2002年10月05日
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2、3週間ほど前、ネットをうろうろしていたら、どうやってたどり着いたか、まったく覚えていないが、興味深い文章に出会った。 「福音主義と道徳主義」 一部引用--- 日本の福音派の教会も、宣教師から指導を受けた世代から今の若い人たちに受け継がれている。その中のある牧師は、律法主義的な教えのなかで築かれた教会の弊害を感じながら牧会をされている。この先生とのやり取りはこのホームページの「神学フォーラム」の項目で紹介しているので、読んでいただければ幸いである。クリスチャンはこうあらねばならないという教えが中心になってしまっているのである。この新年にいただいたメールは私より年輩の信徒の方からであるが、ご自分のなかにそのような傾向を認めて、「今までクリスチャンと言う型を作り、そこに自分も他人をも押し込もうとしていたのかなと思います。」と言われた。同じような感想を随分耳にするようになった。信徒のレベルで随分気付いているのだと思う。牧師が型にはめるような説教を繰り返していることに耐えられないのだろう。 私はそのような牧師を責めているのではなくて、私もそうであったが、どこかで律法主義というのか、道徳主義というのかそのようなアプローチを受け継いでそのままでいることを考え直してよいのではないかと思っているだけである。だからその牧師の責任でもなく、宣教師の責任でもなく、むしろそのように考えてしまう私たちの神学的な理解の問題なのだと思っている。たとえば伝道説教では、聴衆の罪意識を引き起こすことでキリストによる赦しを語ることをよく聞くし、自分もしてきたし、今でも聞くことである。クリスチャンを励ますためにも、罪責感を与え、クリスチャンはこうなければならないという方向にもっていくのである。どこかに道徳主義的な福音理解が中心になっているためではないだろうか。 少しづつ言われてきているが、プロテスタントの福音理解が義認を中心に展開されていることと関わっているのだろうと思う。聖書の中心的な教えであることは変わらないが、義とされているかどうかという私たちの意識の問題に視点が移ってしまうのである。それで罪意識を引き起こすような心理的なアプローチの説教がなされ、またそれを好むところも私たちのなかにあるのである。そのために聖書に示されている三位一体の神との親しい交わり、キリストとの一体感、恵みの圧倒的な臨在感はどうしても乏しくなってしまうのではないだろうか。霊性ということが私たちの間で真剣に取り上げられてきていることも無関係でないと思う。 ---知らず知らずに、無意識に、自分を苦しめていた内容が、さりげなく、すう~っと書かれていた。ここ数年、自分が、律法主義な傾向(=引用で言えば、「型に押しこむ」こと)が非常に強いことに、気づき始めていたが、それをさらに「自分は律法主義だ」と律法主義で傷つける傾向があった。自分にだけ原因がある、自分が悪い、自分に不足があるのだと感じていた。クリスチャン家庭に育った自分にとって、教会側にも弱点があるという観点は持つことは難しいことで、そんな意味で、外的な要因もあったのかもしれない、ということに気づかされたことは、衝撃的なことであった。で、さらに驚いたのが、この文章を書かれたのが、3年前、教会に来てくださった「聖書と神学のミニストリー」主宰の上沼昌雄先生だったこと。その時は、プロミス・キーパーという男性クリスチャンの交わりのことなどを紹介して下さり、感銘を受けていたのだが。反芻しながら、昨日、先生に思い切って、メールを出したら、すぐに返事を下さった。で、11月に日本に一時帰国されること、そして、大阪にも、そして、うちの教会にも立ち寄られることが書かれてあり、さらにびっくり。 神さま、何を教えようとされているのですか。 何を、しようとされているのですか。 ただ、あなたの前に、柔らかくしてください。 そして、あなたのみわざを、見せてください。 アーメン
2002年10月04日
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通勤途上の電車内で、祈っていた。自社の会社のやりとりのある部署と、そこにいる人々ひとりひとりの名前をあげて。そして、取引のある会社の知ってる人の名前をあげて。神さま祝福してください。あなたを知ることが出来ますように。(自分の祈りって、半分、ぼーっとしながら、ゆっくり、時に道草食いながらなんだけど)そういえば、職場にクリスチャンいないなぁ、なんて、半分、まどろみながら、祈ったり、思索にふけったり。自分の職場があるエリアにも、クリスチャンいるのかなぁ~、たぶん何人かはいるんだろうなぁ~、なんて考えてたら、いつの間にか、「仲間を与えてください」って祈ってしまった。それに気づいて、自分のことばにびっくりして、思いっきり、目がぱっちり。(寝てたわけじゃないけど)「えっ?!仲間を与えてください?!」ああ、何人かが集まって、主を賛美し、また、励まし合い、そして、まだイエスさまを知らない人にイエスさまを紹介できるような交わりができたら、すばらしいなぁ、って。 気のせいかもしれないけど、神さまが、何かを始めて下さるのかもしれないなぁ。誰か、仲間が与えられるのかな。どんな人かな。どんな交わりになるのかな。(想像だけふくらむふくらむ) イエスさま、職場を、そして職場があるエリアを、祝福してください。小さくとも、その場に光を当てて下さり、あなたへの信仰と希望と愛が現される場としてください。あなたのみわざだけを、なして下さい。期待しつつ委ねつつ アーメン
2002年10月03日
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今日も期間限定(10月いっぱい)しか(自分が)参加できない教会の祈り会へ。 奨励は、新約聖書 テサロニケ人への手紙第1 4章9~12節から。 兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。 あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。 実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。 しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、 自分の手で働きなさい。 外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。 テサロニケという町の教会の人々に、パウロが書き送った手紙の一説。困難な伝道旅行を経て、たどり着いたコリントという町から、パウロが書き送った。テサロニケの教会の信仰をただし、励ます目的で書かれた。 ● 条件が整っているから、愛を実践するものではないテサロニケの教会は、兄弟愛(ここでは、困難な他教会への経済的援助)を実践していた。しかし、第2コリント8:1~2を見ると、彼らが決して、余裕のある中から献げていたわけではない。貧しくとも、愛を実践することができる。 「豊かだから(豊かになったら)、献げられる」「貧しいから、献げられない」わけではないんだよなぁ。 「貧しいけれど、貧しいからこそ、精一杯」できるようにして下さい。 ● キリスト教信仰を持つことは、何か、特別なことをすることではないテサロニケ教会の、信仰を持った人々の中には、イエスの再臨がもうすぐだと思い、仕事を辞める者まで出てきた。日常の通常の生活をして過ごすように、パウロは勧める。「今、イエスさまがお見えになったら、どうするか?」との問いに、多くの青年が「罪を告白し悔い改めます。」「憎んでいる人のところに行って謝ります。」「しなかった献金を、これからします。」との答え。しかし、1人の少年は、「今は、遊ぶように、時間が与えられています。また、つねに、イエスさまが来られてもいいように生活しています。だから、イエスさまが来られても遊び続けます。」(のちに有名なカトリック司祭となったドン・ボスコの話だそう。)今、与えられているすべての状況、環境を、神さまを通して、受け直す必要。ジャイアンツ清原が再起をかけて、シアトルでの筋トレ猛特訓。なぜ、あれほどまで、苦しみ、涙と汗を流し、歯を食いしばり、耐えられたか。それは、信頼できる医師やトレーナーが、アレンジしたトレーニングメニューだから。無意味なことでないと、知っているから。イエス・キリストこそ、私たちの人生の信頼できるトレーナー。だから……。 イエスさま、あなたの目で、最もよいときに、最もよいものを下さることを感謝します。 自分にとって心地よいことも、そうでないことも、あなたが、必要として与えて下さいます。 どんなことも、もう一度、あなたが下さったものとして、見ていけますように。感謝できますように。 ● 愛や信仰は、自分の内から生じるものではない また作り出そうとするものではない落ち着いた生活を送る時に、信仰や愛は、自然に育まれ、結果、りっぱなふるまいとなっていく。花の例え:人は花の世話をするが、咲くのは花自身。人は、日の当たるように工夫したり、水をあげたりするだけ。花が、自然に育つことを知っているから。私たちが主イエスを見上げ、愛と恵みを受けていく時、信仰も愛も、自然に与えられ、育てられる。 花が咲こうとがんばることがないのと同様、自分も「咲こう」と、無理にがんばらないように。 ただ、あなたに連なることをおしえて下さい。そうすれば、自然に咲けることを信じます。 祈りと交わりの中で -Bさんのお話-Bさんが、若い時、イエスさまを信じた時、両親、親戚を含めての猛反対。その時、ひとりの熱心な仏教徒のおばあさんが、Bさんの家を訪れた。そして、母親に「多くの人は、苦しんだり、悩んだりして、どうしようもない時に、はじめて、神仏を求める。しかし、お嬢さんは、そういう状態でないのに、熱心に神を求めている。これは、ただごとではない。その気持ちを大切にしておやりなさい。」と語ってくれた。その、地域でも影響力のあるおばあさんの説得で、母親は、Bさんの味方になってくれた。神さまが、いろいろな人を用いて下さる、仏教徒のおばあさんまで、用いて下さった。今月、北陸で婦人集会の奉仕がある。招いて下さったのはダビデ・マーチン先生。30年位前、ダビデ・マーチン先生が来て下さった集会で3人の女性がイエスさまを信じ、それが大浜教会の一つの礎となった。今月、大浜教会は設立30周年記念を迎えるが、そのことを覚えると、何ともいえない喜びがある。 主に感謝。
2002年10月02日
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