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ゴールデンウィークなので、出かけることにした。高位級家族会議の結果、大阪市内へ行くことに。まずは、上本町へ。祝日で空いているのか、自宅から車で30分で着いた。先月まで3階にあったキリスト教書店が、1階に移動していて、、、あれっ、月曜定休で休みだった。ガラス越しに中をのぞけたが、売り場面積は広がった感じ。また、いつか来よう。お昼になったので、玉造筋の鶴橋のちょっと北にある小さなラーメン屋へ。ラーメン、チャーハン、餃子のセットで650円。家族5人でこのセット2つでお腹いっぱい。上本町が休みだったので、梅田へと車を進ませる。玉造から西に進み、四つ橋筋を北上。ものの10分強で到着。郵便局となりのビル2階のLセンターは営業していた。 30分ほど物色し、ゲットしたもの。本 ヴァインの祝福 ブルース・ウィスキンソン著 いのちのことば社 1200円 聖霊について教えてください チャック・スミス著 プリズム社 1200円 中国のリバイバルの躍進 アジア・アウトリーチ発行 1500円CD Praise 7 Maranatha! Music 1600円 City Praise 1 -Power of your love- シティプレイズ・プロダクション 1500円 帰りは、生駒山・信貴山の有料道路経由で。大阪3年目にして初めて。午後から、どんどん曇ってきて、生駒山頂に着いてみたら、大阪市内がぼんやりとしか、見えず、残念。途中、すべり台やブランコのある公園や、鐘のある展望台なんかに立ち寄りながら、柏原方面に抜け、藤井寺、羽曳野を通り、帰宅。
2002年04月29日
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今日の教会礼拝メッセージは、エゼキエル書28章から。自らの罪を認めることを妨げる3つの要因。これらのことによって、罪に目を向けなくしてしまいがちとの警告。 1 形だけをみて下す判断 当時のエルサレムでは、不法、不品行、偶像礼拝が行われていたが、おそらく、当時の指導者・民は、真剣にそのことを憂いていなかったであろう。かえって、「我々は選ばれた民」であり、「他でもないエルサレム神殿のある町」に住んでいるのだから、大丈夫、いざとなれば、神が昔のように、奇跡を起こして助けてくれると考えていたのではないか。 しかし、このことを現代の我々に当てはめてみれば、職があるなど、社会的に居場所があること、信仰を持っている、教会に行っていることに、安心することはないか。それら自体、大切なこと、感謝すべきことだが、自らの罪に目を向けさせなくことはないか。 さらに踏み込み(呉の小宮山師の告白として)、祈りや聖書研究の中での自己満足。信仰的な行い、思考、振る舞いの中にさえ、自己中心の罪が潜んでいないか。 2 他者の罪に、目を向け問題にする 26節~28節では、宗教的リーダー、政治的リーダーが堕落し腐敗し、罪の中を歩む様子が厳しく描かれている。当時の民たちは、鋭い批判をもってうなずいたに違いない。しかし、29節を見ると、その民たちも、同様に、大きな罪の中にあった。彼等は、指導者たちの罪を糾弾することで、自らの罪から目を背けていたのではなかろうか。 翻って今の日本の状況。政治スキャンダルの数々が暴露され、多くの国民の怒りが、それに向けられる。ある政治家は、時にどなり、おどし、自分の影響力を行使し、相手を自分の意のままにしようとする。ある政治家は、不正を知っていたとしても、秘書の責任にしようとする。それらが悪いことに疑いの余地はない。 しかし、我々、民の姿は? 会社でも、学校でも、さらに家庭でも、自分の影響力を通して、相手を従わせようとする誘惑はないか。相手を屈服させようとすることはないか。自らの罪は、他者の罪を指摘し、非難したところで、なくなるものでも、軽くなるものでもない。 3 いわゆる社会常識 30節「破れ口を修理する者たちを」「探し求めたが、見つからなかった。」 破れ口を修理することは、尻ぬぐいであり、他人の責任の結果を、誰か別の者が負うことである。(落ちてるゴミを拾わない、ケンカの仲裁に入らない など。)「何で自分が」という思いがあったり、時に、面倒だったり、お節介になったりする。いわゆる世の常識では、別に必ずしも関わる必要がないと考えられることが多い。そして、自分たちの罪をたいした問題としなくなっていくのでは。 城壁の破れ口を直すことは、平時はともかく、戦時には緊急ごと。直接ごとではないがイスラエルの民が、それを直そうともせず、そして、亡国へと向かっていった。 祈り 主よ、奥深くにまで潜む罪を示してください。 私は、罪深く、罪に対して、全く無力な者です。 十字架の愛と恵みを、もう一度、知らしめてください。 そのことなしに、私は、自分の実体を直視することさえできません。 聖霊の促しにより、吟味し、悔い改めができるようにして下さい。 自分の努力やがんばりで、罪を解決しようすることがありませんように。 ただ、あなたのみこころのままに、つくりかえが行われるように。 ただただ、十字架の主を見上げつつ。 アーメン。
2002年04月28日
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最近、教会のある兄弟が、HILLSONGS を紹介してくれて、初めて耳にした。それまでも、HILLSONGSの名前だけは、聞いたことがあったが、実際に聞かせてもらうと、神様の臨在を感じさせるWORSHIP SONG の数々に感動。さっそく、ソウルのオンヌリ教会内キリスト教書店で、探してみることに。すると、あるはあるは、アルバムCDだけで10種類近く。日本で、もう少し、下調べしておけばよかったと、反省しきり。曲名を見ても、まだ、知ってる曲もなく、ジャケットを見て適当に選ぶ。あとのまつり。あとは、ドン・モーエンをお勧めの人がいたので、ものは試し、勢いで購入。それから、韓国系トリニティがおもしろいとの情報で2枚購入。 結局、購入したCDHILLSONGS GOD IS IN THE HOUSE -LIVE WORSHIP FROM HILLSONGS AUSTRALIA- ALL THINGS ARE POSSIBLE -LIVE WORSHIP FROM HILLSONGS AUSTRALIA-DON MOEN I WILL SINGTRINITY Trinity blue 03 -the very best of contemporary Christian music- (韓国語) Trinity piano - 天国がくれる比べようのない平安 performed by Jeff Nelson - 購入したHILLSONGSは、賛美集会のライブ。聞きこんで曲を覚え、歌詞を味わっていこう。ドン・モーエンも賛美集会ライブ。独特の声、ワーシップ・リード、歌が素晴らしい。思ったより静か。落ち着き感は、ばっちり自分好み。もっと早く、知ってればなぁ。trinity blue 03 は、韓国CCMの寄せ集め。収録曲数17曲とてんこ盛り。バラード風から、ぎんぎんロック風、オペラ風とさまざま。一般の曲のようなものもあるが、歌詞の中に、かすかに「チュヨー(主よ)」とか聞き取れるので、賛美歌である。それだけ、韓国の、キリスト教界および、キリスト教音楽界の底辺が広く、市場に厚みがあることを示しているように感じる。Trinity pianoは、ピアノソロ集。黙想用の音楽らしく、数曲、曲頭に鳥の鳴き声や、波の音なんかを重ねて録音してある。最初は、ちょっと違和感あったが、これはこれでよしか。 以上、5枚。
2002年04月22日
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○○ 4月21日 第3日目(最終日) ○○ 昨日に引き続き、子供たちは6時過ぎに起きていたようだ。7時には、またもやたたき起こされる。今日は、韓国の教会へ。オンヌリ教会という、梨泰院(イーテウォン)の南側にある大きい教会。この教会では、日本語礼拝がもたれている。 参考 http://japan.onnuritv.com/web/ オンヌリ教会のHP。日本語礼拝の様子を、windouws media playerで視聴可能日本語礼拝は朝9時から。タクシーで向かう。途中、運転手さんが、目的地を間違えて別の場所に行ってしまった。新東亜(というアパート群)のオンヌリ教会と言い直すと、理解してもらえた。さっそくUターンする。と目に入ったのが、コンクリート製のお寺のような建物。仏教寺院かと思いきや、建物に額がついていて、韓国殉教者記念‥‥とある。(タクシーで走っていたので、読み切れなかった)以前、地図で見た殉教者を記念する場所のようである。期せずして、このような場所を訪れることができ、感慨深いものがあった。近代直前まで、韓国も、日本と同様、鎖国状態にあった。その中、中国経由で、1700年代末以降、カトリック宣教が開始され、1800年代には、数十年ごとに、何千人単位の迫害があったという。日本でもキリシタンの迫害が熾烈を極めたが、この国においても、多くの血が流されたことを覚えたい。と同時に、この後、植民地下の半島においては、我が日本のキリスト教会が、この国のクリスチャンたちに、神社参拝を強要し、血が流されたことも、肝に銘じておきたい。 参考 http://eetour.net/jp/thema/religion_remains_map.htm カトリックの聖地。このうち、セナムト殉教地が、今回、期せずしてたどり着いたところのようUターンして、ものの数分でオンヌリ教会到着。以前来たときは、1つだった建物が、2つに増えている。教会に向かって、いろんな方向から、ぞろぞろぞろぞろ人が集まってくる。ものすごい人。韓国語礼拝は5回プラス新しい人向け礼拝の6回催されるとのこと。中には、うめだのLセンターより大きいかもしれない本屋まである。また、近くの地下鉄駅まで、無料のシャトルマイクロバスまで行き来しているよう。ここ、オンヌリ教会は、日本伝道に重荷を持つ知人(韓国人)が以前通っていた教会で、10年近く前になるが、韓国に遊びにきた際、何度か訪れた。ビリーグラハム大会や、甲子園ミッションのために、外国の地で、熱心に祈りが献げられ、関心を持たれることに深く感動したことを覚えている。知人は7年ほど前に、このオンヌリ教会で結婚式を挙げ(当地では、「結婚礼拝」として、結婚式+礼拝形式だった)、その後、献身し、神学校に通いながら、別の教会で奉仕をしているので、今回はあえずじまい。日本語礼拝は、50人以上100人以下という感じ。(はっきり覚えていない。)金サムエル先生という先生のメッセージ。使徒の働き1章1~8節から。 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、 エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。 (使徒1:8)この箇所の「力」は、原語では、ダイナモ=発電機、ダイナマイトの語源。何も無いところから爆発的に起きる力。韓国では、多くの人が聖霊のバプテスマを求め、時には、断食祈祷したり、体をたたいて祈り求める。しかし、目的は、事業がうまくいくため、人間関係の回復などという場合も少なくない。この箇所で言及される目的、それは、世界中に神の証人となるため、福音が述べ伝えられるため、力を与えられる。このことが第一とされるべき。また、主を従順に待ち望む時、主はみわざをなされる。 そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、 民のすべての残りの者とは、彼らの神、主の御声と、また、彼らの神、主が遣わされた 預言者ハガイのことばとに聞き従った。 (ハガイ書1:13)王族の者、祭司、そして、民すべてが聞き従った時、主のことばがあった。弟子たちも、従順に主のみわざを待ち望んだ。そして、従順に待つことよって、聖霊が弟子たちに臨み、弟子たちは力を受けた。爆発的に、そして全世界に広がる力をもって。金先生の、優しくも、しっかり語られる福音と信仰に感謝。また、礼拝賛美も、素晴らしかった。 昼は、教会向かいのショッピングセンターのデパ地下の食堂で、うどん、トクマンドゥクク(=水餃子+もち)食後、スーパーで、キムチや辛ラーメン、韓国版おっとと(スナック)などを買い込み、教会前のバス停から一般バスで市内へ。チョンノ(鐘路)で降り、教保文庫という韓国で一番大きい本屋で文房具をいろいろ購入。教保ビルから北向きにつきあたりの光化門まで、歩行者天国。途中、アメリカ大使館前では、市民団体のちょっとしたデモ、その隣では、フリーマーケットや、ローラースケートで遊ぶ人々。韓国も、変わったものとつくづく感じる。旧総督府のない光化門を見るのは初めて。なかなかよい感じ。光化門からタクシーでホテルに戻り、あずけていたスーツケースを受けとり、午後3時40分の無料シャトルバスで、一路、インチョン空港へ。途中、ワールドカップ・スタジアム真横を通過。漢江を渡った途端、西行き道路が大渋滞。キンポ空港分岐まで20分くらいのろのろ。合計1時間弱で空港着。この日は吉日なのか、結婚式の車が数台、バスを追い抜いていった。なぜ、結婚式の車と分かるか。普通のセダンの、ヘッドライトから天井経由テールライトまで、ピンクのリボンを1本か2本かけ、しめかざりのように花輪を正面エンブレム部に飾り、また、各ドア部分にも花の飾り。とても派手。途中、路上に落ちている花飾りを2つ見た。空港内では、服装はポロシャツなど、普通なのだが、頭は妙にこってり、顔は妙に濃いメークの女性連れのカップルがうようよ。女性の首から上と下がミスマッチで気持ち悪い。結婚式場から着替えただけ新婚旅行に行くのが、流行なのだろうか。さて、訳あって、帰りの飛行機も予約していなかったので、すぐには、搭乗券をもらえない。いちおう、発券しているのだが、飛び込み客がどれだけいるかで、乗れるか乗れないか、運命の分かれ道。出発45分前まで待ってくれとのこと。ドキドキしながら数10分待ち、結局、エコノミーは、我々の席で残席ゼロ=満席。旅の最後にあぶない、あぶない。ということで、家には午後9時半過ぎに到着。ふーっ。
2002年04月21日
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○○ 4月19日 第1日目 ○○ 旅の一歩は支度から。子供の幼稚園と小学校を待っての午後出発のため、朝から準備。昼食は簡単に済ませ、最寄り駅、午後1時過ぎの電車に乗る。途中、空港一つ手前の駅で下車。家族のうちの一人分の(前回の旅行中止になった原因の)パスポートを受領。午後2時半頃、空港に着き、午後3時45分出発。(この間、飛行中)午後5時過ぎにソウル・インチョン空港着陸。あずけたカバンは、2番目に出てきたので、5時40分には、イミグレ、税関クリア。ホテル直行の無料シャトルバスは、6時50分発だったので、時間がもったいなく、ホテル近くの新村という学生街行きのバスに乗ろうとバス停をうろうろしていたら、宿泊予定ホテル前に泊まる一般空港バスが1時間に2本あり、次は10分ほどで来るというので、それに乗ることに。40分ほどの乗車で1人5500WON=550円。ホテルにチェックイン後、タクシーで学生街新村へ。片道3000WON=300円。所要10分弱。カルビ3人前とご飯3杯、コーラ1本で30000WON=3000円。いろんなキムチが4~5皿、およびサンチュこみこみなので、お腹いっぱいに。食後、コンビニで水や牛乳、麦茶を調達。ダンキンドーナツがあったので、朝食用に調達。タクシーでホテルに戻ると、もう、9時50分。ふろに入れて、入って、おやすみなさい。 今日、長男が女の子に間違えて見られた回数:3回 ○○ 4月20日 第2日目 ○○ 子供たちは、興奮からか、朝6時過ぎには目を覚ましたようで、父も7時過ぎには、たたき起こされる。前日、仕入れたドーナツを食べて、8時発の無料シャトルバスでソウル中心部へ。地下鉄2号線に乗り換え、ロッテワールドという遊園地へ。30分の乗車で600WON=60円。乗り放題のパスポートが、家族割引適用で、大人23500WON=2350円、子供14000WON=1400円。チケットを買って、正門に着くと、ちょうど9時半の開園直前で、ブラスバンドに合わせて、あらいぐまのキャラクターのロッティ&ローリー(だったかな?)が踊っている。DィズニーランドのMッキー&Mニーのまねのようだが、日本の感覚では、ちょっと違和感があるが、現地では、けっこうの人気のよう。ロッテワールドは、けっこう大きい屋内遊園地と、屋外遊園地に分かれている。屋内部分は4階と地下にスケートリンクと、かなり大きい構造。中にはジェットコースターや、モノレール、Dランドでいうところのスプラッシュマウンテンに相当する船のジェットコースターみたいな乗り物、3Dシアター、メリーゴーランド、コーヒーカップ、天井には会場を1周する気球なんかがあって、小さい子供もけっこう楽しめた。屋外遊園地はモノレールで連結され、後楽園にありそうな絶叫マシーンから、子供向けの小さい観覧車、ゴーカート、すべり台なんかもある。園内の韓国食堂でプルコギとピビンバをお昼に食べ、結局、午後3時頃まで、思いっきり遊んだ。子供たちはもっと遊びたげであったが、市内観光もあるので、切り上げる。ロッテホテル行きのシャトルバスでに市内に戻り、南大門市場散策。1時間ほどうろうろして、市場内の食堂で、うどん、おでん、ピビンバを食べる。合計16000WON=1600円。市庁前からタクシーでホテルに戻り、この日はおやすみ。 今回の旅行で、子供たちが水やジュースなど飲物をひっくり返した回数:4回
2002年04月20日
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これから、家族での韓国旅行に出発します。思えば、楽天日記の記念すべき、初回内容が、いきなり、韓国旅行断念だったわけで。思えば、韓国旅行が中止になり、十分な時間ができ、楽天HPをじっくり始められたわけで。思えば、あの時、韓国に行っていたら、楽天も始めていたかどうか。思えば、あれから、1ヶ月近く経ったわけで。わたしたちに分からないかもしれない、神様の与えた下さった機会とタイミングに、感謝しつつ、今回の旅行で出会う(=主が与えて下さる)人々、出来事に期待しつつ。(わたしたちにとって心地よいことも、そうでないことも含めて)主にあって、すべてのこと、相働きて、益とならんことを信じつつ。 数日前は、韓国のPサンで飛行機が落ち、昨日はこれから飛行機に乗るK西空港で整備士が飛行機のエンジンに飛びこみ(自殺?)(あっ両方、C国国際航空だ)、加えてミラノでは小型機がビルに激突。飛行機関係の事故が相次いでるんです。どきどき。
2002年04月19日
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「おがしゃん(=おかあさん)、いない。おがぁしゃぁ~ん。んぎゃ~。」まどろみの中、2歳9ヶ月の長男Tの泣きわめく声。すでに母親は朝食の支度のため、台所に行っている。自分が目覚めた時、母親が自分の隣にいないことが、不満なのか、本当に不安なのか。「おかあさんは、台所にいるよ。」このひとことで、安心して、起きて台所に駆けて行く日もあれば、今朝は、「おどしゃん(=おとうさん)、きらい。 おがしゃんがいい。んぎゃ~。」せっかく、声をかけてあげて、朝からきらいと言われるのも釈然としないが、気をとりなおしつつ、「Tがおとうさんのこときらいでも、おとうさんは、Tのことだいすき。 おかあさんは、Tのごはんをつくってるんだよ。」「おどしゃん、いやっ。んぎゃ~。」泣き声が裏返る。(1オクターブあがる。)平和な朝は、もう来ないのか。「おかあさんが、ごはんつくってくれなきゃ、T、ごはんたべられないんだよ。」「んぎゃ~。いやっ。いやっ。んぎゃ~。おがしゃんがいい。 んぎゃ~。おどしゃん、きらい。んぎゃ~。んぎゃ~。」完全にお手上げ。万策尽きた。というより完全に裏目だ。仕方ない。泣きやむまで、待とう。 ところが、悲劇はこの直後に。布団の上を転がりながら、手足をばたつかせながら、泣きわめいていたのが、転がった先で寝ていた長女Hの頭をぼかんと一発とする羽目に。「こらっ。このおてては、人をたたく おててですか?」今まで体をよじりながら泣きじゃくっていたのが、ぴたっ。どうやら、わざとではないらしい。思いもかけない展開に、しゅんとしている。「気をつけるんだよ。」「うん。」Tがしかられていたのを見ていた長女Hに「頭、痛かった」ときくと、「痛かったけどもう、大丈夫」という。Tが、間違って自分をたたいたことで、しかられていることを気にしていたようだ。やれやれ、もう一眠りしよう。 「あ~ん。Tが頭たたいた。」数分後、まどろみの中、長女Hがとなりの部屋から走ってきた。むっくり起きて、となりの部屋にいた長男Tに話をきく。「T。ほんとに、お姉ちゃんをたたいたの?」「うん。」(斜め下を見ながら、小さい声で)Hにも3回聞く。「Hは、Tのいやがること、何かしなかった?」「してない。」ふたたびTに。「Tは悪いことしたの?」「した。」「さっきも、言ったでしょ。おてては、人をたたく おててじゃないの。 残念だけど、ぺんしなきゃならないよ。」「うん。」Tの右手を左手で持ち、右手でたたく。 ぺんっ! ちょっとの間の後、「ううぇ~ん。うわ~~ぁん。」Tを抱きかかえ、「ぺんしたくてしたんじゃないよ。でも、Tには悪いことしてほしくないの。 Tのことは大好きだからね。」小さい両手で、妙にぴたっと背中をつかみながら、Tは泣いている。そのままの状態で、2、3分。いつの間にか、泣き止み、Tは姉たちと遊んでいる。かわいいものだ。 神様の無条件の愛を受け、知っているから、自分の愚かさ、惨めさ、弱さを知っているから、悪いことは悪いことに変わりはないが、そのことと関係なしに、それ以前に、無条件に、子供自身が愛されている存在であることを、子供にしっかり知ってほしいと願う。悪いことをしないこと、よいことをすることが、神様に愛される条件になってしまわないよう、自戒しつつ。
2002年04月16日
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少しひねくれ者の私は、時々、いろいろな逆を考えることがあります。たとえば、聖書のたとえ話。 からしの種 小さい種からから、大きく成長 パン種 粉の中に入れると、大きくふくらむ 古い皮袋 新しいぶどう酒を入れると、痛んで破れる 塩 味つけと、防腐作用私たちが、何かをたとえで話す時、モデルの特徴をつかんでたとえますが、もちろんイエス様も、モデルの特徴をつかんで、分かりやすく語られました。(今の時代、しかも日本ではピンと来ないことも、多々ありますが)でも、イエス様は神であられます。ということは、創造者でもあられます。と考えると、たとえのモデルの特徴、性質、概念なども創造者によって決定されたということなります。と考えた時、小さい種から大きくなるように辛子種を、粉がふくらむようにパン種を、あえて神様が創造されたのだと思ったのです。そういうように皮袋の性質を、そのように、塩の働きを。するとすると、、、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」 マタイ 4 : 4 神様は、水と日光だけで生きられる植物のように、人をも食物なしに生きられるようにも創造できたことでしょう。(光合成する自分を想像したくはないけど)でも、あえて、食べ物を必要とするように造られたことに、神様の意思を感じます。人が、そのように造られたことにより、主のみことば=聖書のみことはが、おいしさに関わらず、日々の生活の中で、欠かすことのできないものであり、また、消化され、血となり、肉となるものであることを、深く想うことができるのです。「『それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」 エペソ 5 : 31~32 単細胞のように、ひたすら分裂し、分身をつくるように、または、3つの性で新しい命が生まれるように、神様は、人を造られませんでした。かえって、目的をもって、男と女という2つの性を、創造されました。愛し合い、結びつき、一致し、2つの人格が1つの人格(夫婦格?)になることを通し、一心同体の奥義を想いつつ、来たるべき、主との交わりを想うことができるのです。
2002年04月12日
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辛子の種 パン種 マタイ 13 : 31 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」古い皮袋 マタイ 9 : 17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」塩 マルコ 9 : 50 塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。
2002年04月11日
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-主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。 いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。-詩篇13篇は、いきなり、こんな、いらいらしてつっかかるような表現で始まります。別の表現をすれば、せっぱ詰まった訴えでしょうか。あるいは、パニックのまま、思いつくことばを、そのまま、ぶつけたといった感じでしょうか。攻撃的でさえあります。思いっきり、ナマの感情を、主にぶつけてから、ダビデは具体的な求めを主に差し出します。そして、5節6節では、もう、けろっとしてるんです。ダビデという人は。 -私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。 私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。-ちょっと、子供とのやりとりを思い出します。 子(パニックになりながら) 「ぎゃー」 親「まあまあ、どうした、どうした。」 子(まだ、泣きじゃくってはいるが、少し落ち着き) 「こうこうこうなったの。それで、こうしてほしいの。」 (「弟が、わたしのおもちゃを取り上げたの。返してほしいの。」など) 親「そうか、そうか。たいへんだったね。大丈夫だよ。」 子「うん、分かった。もう大丈夫。ありがとう。」まず、混乱しつつも、そのままの感情を吐露。我をとりもどしながら、少し冷静に状況説明と願い。そしてすっきり平安。ダビデは、きっと、この秘訣(?)を、体得していたのでしょう。課程課程で、主が感情を受け止めてくださることにより、自分の気持ちが整理され、願いが何であるかも自覚させられ、また、同時にいやされていくことを。そして、最後に、神様からの平安に満たされることを。時に、ことばは汚くなることもあるかもしれませんが、本音の祈りをぶつけていきたいものです。主を真摯に求める者の祈り、嘆き、うめきを、主は柔らかく、優しく受け止めてくださるのですから。
2002年04月09日
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次女が、じじばばに両手をつながれ、ぶら下がっている。そう、そこは、お父さんの指定席だったところ。もっと、強く振ってと、せがんだな。じじばばにとって、久方ぶりのお客さま。年に1、2回だけの開店。お父さんは、もう、ぶら下がれないけど、ぶらぶらして、うれしそうな君を見ながら、気持ちは、子どもの頃にもどっているよ。長男が、じじに肩ぐるまされている。そう、そこは、お父さんの専用展望台。とっても高くて、ずーっと遠くまで見えたな。じじにとって、久しぶりの運行。年に1、2回だけの開園。お父さんは、もう、のぼれないけど、高い高いされて、満面笑顔の君を眺めながら、心は、子どもの頃に帰っているよ。長女が、じじとトランプの神経衰弱をしている。そう、それは、お父さんもよくやったゲーム。よく、負けて泣いたな。今では、じじも、手加減せずとも負けばかり。年に1、2回だけの開催。お父さんは、もう、やれないけど、(やろうと思えばできるけど)はしゃいでる君の姿に、昔のお父さん自身の姿を見ているよ。年老いたじじばばと、無邪気に遊ぶ子供たちを眺めながら、お父さんも、こうやって、愛のうちに育まれてきたことを想う。じじばばにもらった愛情と、神様から受け続ける愛情をもって、お父さんは、お母さんと君たちを愛し続けるからね。ふと、御国を想う。イエスさまに会える時のこと。あたたかい、あたたかい、眼差しだろうな。とっても、とってもほっとできるんだろうな。御国では、きっと、もう一度、じじばばの子として、ぶら下がったり、肩ぐるましたり、花火したり、笹舟折ってもらったり、トランプしたりできるような気がする。遠いあの頃のように、遠い未来に。
2002年04月06日
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長女=初孫の小学校入学式のために、はるばる東北からじじばばが飛行機に乗って、大阪にやってきた。自分も親6年生だが、ふと、子の姿に30年前の自分の姿と、自分の姿に30年前の親の姿をだぶらせる。ああ、自分もこのように、両親に十分に愛されてきたんだなあ、と。ああ、両親も、自分のために苦労してきたんだろうなあ、と。欠けは多少あるが、でも、できうる限りのことをして、愛し、育ててくれた両親に感謝しよう。そして、両親も信仰を持ってきたが、今頃になって、自分の信仰の原点が、親の愛に育まれたことにあることを、痛いほど知らされる。どんな信仰的環境、信仰的教育にまさって。「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」 1ヨハネ 4 : 8 だから、自分も、子供を思いっきり愛し、受け容れよう。神さまの愛を絶えず受けつつ、親から受けた一切のことを心に留めつつ。2歳半の長男は、じじを見ても「じいさんばあさん」、ばばに向かっても「じいさんばあさん」。 なんと「じいさんばあさん」という一つの単語と思っているらしく、「こっちがじいさん、こっちがばあさん」といって「うん、わかった」といいつつも全然、通じておらず、相変わらず、「じいさんばあさん」を連発中。(笑)
2002年04月04日
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「よくなりたいか。」「助けてくれる友がいません。一番にもなれません。」主イエスの問いかけに、38年間、病に伏していた男の答え。愚痴? 不満? つぶやき? 言い訳? 孤独? 絶望? 劣等感? 責任転嫁?さまざまな思いが、現れる。ふと、自分の中のささやき - 曰く、つぶやき、不平は祝福を損なうのでは?よくよく、自分の心を探る。男の答えに、愚痴や不平やつぶやきを見たのは、自分の中にそれらがあるから? 「助けてくれる友がいません。一番にもなれません。」主にまみえ、主のことばをいただいた時、男の心がいやされた。そして、自分の状態、問題さえも直視する力を得た。「助けてくれる友がいません。一番にもなれません。」主の愛に触れ、自分と向き合い、自らの孤独と無力を直視し、ありのままを受け容れ、そして「よくなりたい」意欲をも与えられた。「助けてくれる友がいません。一番にもなれません。」最も弱く、情けなく、小さな、けれども最も正直で真実な告白。決してつぶやきでも、不満でもない。 「よくなりたいか。」主の問いかけに、なんと答えよう。「よくなりたいか。」主のあたたかい愛に満ちた問いかけに、自分もありのままを受け容れ、弱さも欠点も深い悩みも認め、見つめ、そのまま主の御前に携えよう。 「起きて歩きなさい。」 ベテスダの池の物語
2002年04月02日
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