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トーマス氏はホノルルの奥さんに電話をかけた。時差があるので、朝の三時頃だと言う。しかし「そんなことは言っておれない」といった厳しい顔つきであった。早朝に電話で叩き起こされて不機嫌なルーシーさんに(と私は想像していた)、トーマス氏はしばらく話していたが、事態を飲み込ませ、ようやくテレビのスイッチを入れさせるのに成功したようであった。
「ああっ・・・!」
もう一つの残っていた一棟が、崩れ落ちた。そして、もの凄い土煙の中を逃げまどう人々の、恐怖にひきつった顔が映し出されていた。テレビではペンタゴンに一機、さらに一機がピッツバーグ近郊に墜落したニュースを流していた。
私たちはこの連続した事件のニュースのコメントで、トーマス氏の勤めているユナイテッド航空の旅客機が二機、災禍に会ったことを知った。
──何ということだ。彼の友達も犠牲になったのではないか。
しかし私はこの質問を口には出せずに飲み込んだ。彼の気持ちを考えると、恐ろしくて口に出せなかったのである。
そのとき彼は、テレビから目を離さずに呻くようにつぶやいた。
「これはパールハーバーだ」
私も一瞬、神風特攻機を連想していたが、パールハーバーにまでは思いが至らなかった。だから私は、その言葉を聞き漏らさなかった。そしてその返事に窮していた。
彼はちょっと時間をおいてまた言った。しかし今度は、通常の声に戻っていた。
「これはカミカゼだ。しかし日本軍は軍事施設だけを攻撃した。民間の建物と一般人を攻撃したこのテロは決して許せない」
私は、彼の心の襞を垣間見たような気がした。
──ああ彼も日系人だな。あの帝国海軍による真珠湾攻撃と神風特攻隊とが、五十年経った今となっても澱となってよどんでいるんだ。
私は同時に、あの太平洋戦争のことを思い返していた。
──祖父の富造さんも、母国・日本による真珠湾攻撃と、もう一つの祖国・アメリカの防衛というジレンマを前に立ちすくんでいたのではないだろうか。その後起きたハワイの日系人への厳しい歴史の中に、彼はどう立ち向かって行ったのであろうか? そして孫のトーマス氏もまた母国・日本の、しかも祖父の生地を訪れていたときに起きたニューヨークのテロの惨状、そしてそれにより奮い立たされるもう一つの祖国・アメリカへの忠誠心。それにしても何で今日という、この九月十一日という日にこんな事件が起きなければならないのであろうか・・・。
あの話好きなトーマス氏は、寡黙になっていた。私はテレビを食い入るように見ている彼の横顔を、凝視していた。そして、ふと思った。
──そうか。もしかして亡くなった富造さんは、孫のトーマスさんに自分の生地訪問のため休暇をとらせることで、ニューヨーク方面のフライト予定から外させ、孫の命を救ったのかも知れない。すると将に、これは五十一年後の忌引であったのではないか!
粛然とした気持ちでそう思いながらも、トーマス氏が以前に言っていた次の言葉が気になった。
「ハワイの日系人は、どう努力してもサードなんですよ」
私には観光客を含めて、明るい雰囲気のアメリカ(ハワイ)社会に日系人が溶け込んでいると思ったのに、その言葉が未だに人種偏見があるということを示唆したと思ったからである。これらの苦悩が、今後とも三世以後の日系人たちにも色濃く反映していくことになるのであろうか。
──いや、違う! 彼だってこのままサードが続くとは思っていまい! 私はハワイでの取材旅行中に、二つの国の狭間に架け橋たらんと活躍してきた多くのアメリカ人や、日系人を見てきた。こんな太平洋戦争の嫌な思い出などで、めげる筈がない。人種の問題は、ちょっと時間がかかるだけなんだ!
私は、自分自身に反論していた。
翌・九月十二日の朝早く、トーマス氏と私は成田に向かった。全米の空港閉鎖のニュースが流れていたが、ホノルルはアメリカ大陸ではないから飛行機が飛ぶのではないかと思ったこともあった。それはともかく、成田空港にはユナイテッド航空の事務所がある。すぐに帰れないにしても同じ会社の人たちがいる訳だし、飛行再開についてのより早いそしてより確実なニュースが入ると思ったからである。
その後彼から連絡がなく心配していたが、三日ほどしてから電話が入った。
「ようやく飛行機が飛びます。私も間もなく乗ります。マハロ。アローハ」
それは、別れらしくない別れとなってしまった。
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