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エ ピ ロ ー グ
あのテロから三ケ月後の十二月十八日、ハワイ島移民資料館長の大久保氏の死去の知らせがトーマス氏からEメールで届いた。もっとも彼の年が年(九十六歳)であったからと無意識のうちに覚悟はしていたが、やはりショックは隠せなかった。そして、私は大久保氏が穏やかに語ってくれた言葉を思い返していた。
「日清・日露の戦争からはじまって、日本の対外戦争は多く、そして長かった。
その間ハワイの移民たちは、苦しい生活の中から日本に随分貢献したものです。多くの若者が日本に帰国し、皇軍に志願して出征し、戦死して行ったのです。ハワイの新聞には家族が出した戦死の広告が、よく出ていたものです。何人かの医師も、軍医として戦地に行きました。
ハワイに住んでいた人たちは日本の国債を消化し、日本赤十字社に寄付をし、慰問の金品を送り続けました。それらの合計は、当時の金額で数百万円にも及んだものです。また戦争ばかりではありません。関東大震災にも多くの義捐金や援助物資を贈り、日本各地で起きた災害にも各県人会が積極的に支援したものです。
その日本への愛国的とも言えるほどの協力が、日本によるパールハーバーへの一撃から暗転して、アメリカへの反逆と疑われることになってしまったのです。ともかくこの四年間は、日本人移民にとって最悪の受難の時代でした。それにも拘わらず、太平洋戦争終了後もハワイの日系人は、難民救済や戦後復興に物心両面あげて日本に最大の援助を行ったのです。そのころのハワイの日系人の社会も、強制収容や米大陸よりの帰還、さらには大戦後ということもあって決して豊かではなかったのにです。ですからこの行為は、まるで日本に対する片想いみたいなものでした。
昭和二十三(一九四八)年、日本国会・衆議院本会議において、自民党・松田竹千代議員の説明により、「在米州在留同胞に対する感謝決議案」が満場一致で可決されました。これで私たちの存在が、ようやく母国に認められたと心底思ったものです。ダクター・カツヌマや多くの一世移民たちの努力が、ようやく実ったのです」
私は、彼が話す穏やかな顔を思い出していた。
──ありがとう大久保さん、そして皆さん。あなた方の資料やお話を無駄にしないためにも、日本とアメリカの架け橋になったダクター・カツヌマを、なんとか小説の形にしたいと思っています。
注 2004年、「マウナケアの雪」で実現しました。
第十二回国際加齢・知的障害クオリティオブライフ円卓会議にて三笠宮殿下と記念撮影。
「とてもよかった」
「もっと時間が欲しかった」
「ファンタスティックな街だった」
とたくさんの賞賛の言葉を頂いたのである。
(完)
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