『福島の歴史物語」

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2010.08.20
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 地球の長い歴史の中で、何度かの氷河期というものがあった。それらの最後に起きたのがヴュルム氷河期である。このヴュルム氷河期の末期、つまり日本は今から一万六千年ほど前に旧石器時代を過ぎて縄文時代(一万六千年~一万前)に入るのであるが、この旧石器時代の遺跡が郡山周辺で約二〇ヶ所近く確認されている。しかし遺跡の中身は、ほとんど残されていない。それでも一九九一年に発掘調査された郡山市田村町守山字弥明(みみょう)にある旧石器時代の弥明遺跡は、出土数十三点と数こそ少ないものの動物を解体するのに利用した貴重な石器類が出土した。これらは採集狩猟の生活を証明するものであろう。
 その後に続く縄文時代は、学問的にいくつかの時期に分けられる。

  『この縄文時代の中期に青森県で多く作られていた円筒土器は、北は北海
  道の北端の宗谷岬や礼文島、南は岩手県中央部から西へ向かって奥羽山脈
  を越え、秋田県の八郎潟付近にまで達している。さらにこの円筒土器の系
  統を引く事例まで加えるとその分布範囲は拡大し、日本海を南下して富山
  湾沿岸から能登半島にまで達していた」 
                           (青森県の歴史)

 青森県の三内丸山遺跡は縄文時代中期(紀元前五五〇〇~紀元前四〇〇〇年)のものである。このことから日本全土の気温が今より温暖であったとも考えられる。またこのことは、この広い範囲にエミシ文化が定着していたことを示唆している。古代東北地方に盤踞し、大和の『征伐』の対象とされたエミシ人は、縄文人の直系の末裔であり、人種としては絶滅したとされている。

 魏志倭人伝は中国の正史『三国志』の中の魏の歴史で、三世紀末、二八〇年から二九〇年の間に書かれたものとされている。その中の、『卷三十、魏書』『烏丸・鮮卑・東夷伝』倭人の条に、二千文字程度の記述であるが、三世紀中頃の日本列島についての記述がある。
 この魏志倭人伝には、最初に魏から邪馬台国に行く道筋とそれに続く多くの国の名が書き出されている。邪馬台国の位置が特定されていない現在、軽々に結論づけられないが、諸説ある中で、邪馬台国が九州にあったという説と畿内にあったという説が最有力である。私は稲作渡来の最初が北九州であったことも考慮に入れ、しかも『神武東征』の出発地と一致することから、邪馬台国九州説を支持したい。魏志倭人伝に書かれている多くの国の名の中に次のような名がある。已百支国(いはき)、邪馬国(やま)、躬臣国(こし)である。もし可能であれば、私はこれらを磐城、耶麻、新潟(越は、のちに京都に近い方から越前、越中、越後となった)と考えてみたいと思っている。するとこれらの地域を東西に結ぶ線が、邪馬台国の北限と考えてもよいのではあるまいか。すると前述した『四道将軍』の話の線(国境?)とも合致する。
 魏志倭人伝には、次のような記述がある。

   倭の気候は温暖で、牛、馬、虎、豹、羊、鴨などはいない。その風俗
  は、男は髪をお下げにして冠はかぶらず、ほとんど縫うことはない木綿の
  布を頭からからかぶっている。女性も髪は垂れたところを曲げて束ね、一
  重の布を真ん中に穴をあけて首から通してこれを服としている。
   その生活は稲と麻など繊維をとる植物を栽培し、蚕に桑を与えて糸を紡
  ぎ、絹糸や綿糸などを作っている。
   死ぬと棺に入れるが墓室のようなものは無い。土を盛って塚を作る。喪に
  服すのは十日余りで、その間は肉を食べない。喪主は号泣し他の人は飲酒を
  して歌ったり踊ったりする。そこの人たちは皆長生きで百年、もしくは八・
  九十年生きたりする。

 ここに出てくる弔いの様子は、『天の岩戸』の話に似ている。この天の岩戸の歌舞音曲の様子は、卑弥呼の弔いを記したものとも言われている。
 ところで魏志倭人伝の後に書かれた『宋書・倭国伝』などに、中国の各王朝に貢ぎ物をした倭の五王の話が出てくるが、倭の五王とは、讃王(十六代仁徳天皇)、珍王(十八代反正天皇)、済王(十九代允恭天皇)、興王(二十代安康天皇)、武王(二十一代雄略天皇)の五人のことである。それらの関係を、新人物往来社の『歴代天皇全紀』より抽出して次の表に記す。(五王は○を付して表した)


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最終更新日  2010.09.01 13:16:28
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