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今年に入って3ヶ月が過ぎたが、毎週何かを見たり聞いたりする、という目標は、引き続き達成中。おかげで読書意欲も取り戻せたし、仕事の後にサッカーの試合を観に行ったりして、家と職場の単純往復から別世界でのリフレッシュもできている。日々のマンネリから脱却するには、相応の決め事が必要であることを再確認できた。ある意味、人生の中での充電の一つをしていたんだと思う。充電にも多分、いろいろな種類があって、気力の充電、体力の充電、知識の充電、感性の充電などがあるように思う。ここ3ヶ月分は、知識と感性の部分で充電している気がする。人によっては、いつでも充電し続け、かつ、放電し続けることで充電速度を更に上げられるようなタイプもいるが、なかなかそうは行かない。ある程度は、無理がかかっていることを承知で走り続けることも必要ではある。ミスチルの「ランニング ハイ」のような世界でみんな頑張っているのは良くわかるし、無理をしないと幅も広がらない。でも、サボれるときに如何にうまくサボるかも重要だ。このあたり、観に行ったサッカーの試合でも感じた。人が作ったり、用意したりしたいろいろなものに触れるというのは、非常に楽しい。映画にしても、本にしても、プロスポーツにしても、それを誰かが受け取ることを期待して作られている。何も、創作側にいることだけに意義があるわけではなく、受け手に徹することも意義が大きいと思う。世界中の人が全て創作側に回ると、それこそ訳がわからなくなるわけだし。自分自身の知識や感性が広がることで、日々の家庭や職場での会話などで、また新たな広がりが出ているような感覚はある。具体的な因果関係を述べるのは難しいが、多分、これが「パワーをもらっている」ということなんだろう。パワーを受け取る度合いは、なるべく直接触れるのが良い。テレビ画面を通じて受け取るよりも、ライブで見たり、映画館に足を運ぶのが良い。これも、深い理屈ではないが、日常空間の中で受け取るものより、それ用に用意された空間で受け取るほうが、つながりやすいということなんだと思う。今は幸い仕事に余裕があって、時間を見つけられる時期にある。今のうちにもうすこし、充電を続けたい。とりあえず、次は神宮球場か東京ドームで野球観戦をしたい。
2008.04.07
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子供がヤマハ音楽教室に通っているが、そこで見せられたイッツアスモールワールドの歌詞のメインは、「世界は狭い~」だった。何となく、直訳っぽい。始まりも、「世界中どこだって、笑いあり涙あり」となっているので、原作を尊重した歌詞だ。自分自身の子供の頃は、「子供の世界~」と歌っていたのだが、逆に、これは原作からは離れすぎだ。世界は狭いといわれると、確かにそうかもしれないと思う。100年前は、日露戦争の頃だから、世界の情報は容易には入手できず、世界を旅しようとすれば、船を使うしかなかったはず。世の中、わからないことだらけで、未知の世界に踏み出すこと自体は難しいことではなかった。そもそも、未知に囲まれているわけだから。翻って、今の世の中はわからないことがあまりに少ない。少なくとも、自分自身はわかってなくても、どこかの誰かはわかっている。自分自身が全知全能になる必要もなく、「know who」で十分だったりする。ネットにも情報はあふれていて、その正確性に多少の目をつむれば、ウィキペディアを見るだけで大抵は解明する。世界旅行もバーチャルでできるようになり、ナスカの地上絵も、エジプトのピラミッドも、イギリスのストーンヘンジ、中国の万里の長城だって、グーグルマップで見ることができる。グーグルマップでナスカの地上絵を見た後に、大金と多くの時間を捻出して本物を見たいかといわれると、そこまでの気も起きなくなる。最近の小説で、人が見た一生の映像を全て記録メディアに保存できる世界の話があるようだが、技術レベルで言えば多分、可能なんだろう。いろんな意味で、この世の中は有限だ。では、わからないことは何か、と考えると、それは相当に専門的になる。鳥インフルやAIDSの特効薬はまだないと思うが、そういった「まだ」のものに対して一般人が簡単に手を出せるものでもない。未知の部分に自らが乗り込もうとすればするほど、対象は微細・ニッチになる。それはそれで重要だが、万人が取り組むべきものではない。科学の発展、とりわけ情報化の進展によって、確かに世界は狭くなった。違う国の人たちとコミュニケーションをとるのも容易になっているだろうし、それこそはディズニー的な「小さな世界」なのかもしれない。一方、世界が狭くなりすぎると、その閉塞感が誰にでも感じやすくなる。現代の社会が荒廃してきつつあるとすれば、いろんな意味での閉塞感によるところは大きいと思う。三丁目の夕日がヒットするのは未来に明るさを持つ時代への懐古だろうし、元気のいい途上国で子供達が喜んで勉強したりするのは、現状より明るい未来が努力の末に得られるとわかっているから。そうした人たちほどには、閉塞感の中で生きている人たちは動けない。基本的環境は整っているから、そこそこカッコはつくけど。そうした世の中で、自分達の子供に世界をどう魅力的に感じて生き生きと暮らしてもらえるものか、よく考える。でも、なかなか答えは見つからない。結局、将来への特定の野望がない中で生きていく人たちにとっては、日々の暮らしがどれだけ楽しめるか、ということこそが当座の目的になるだろう。その刹那主義的な生き方は、堕落に陥れば問題だが、あながち間違ってはいない。イギリスで、地元のフットボールチームを応援することを主たる生きがいとして暮らしている人は相応にいそうだが、この生き方は、ある意味で合理的だと思う。結局は、子供をどう育てるか、というよりも、自分がどう生き生きと暮らすか、というところに帰着するかもしれないとも思う。そうした中で、自分自身の生活にハリがあるかと問うてみたら、肯定できる自信はない。だからと言って、それに思い悩むタイプの人間ではないので問題はないが、「趣味探し」とは別の「ハリ探し」は、具体的でない観念的なレベルでもいいから、思い出しながら考えてみる必要はありそうだ。
2008.02.11
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旅行に行くのは、純粋に楽しい。特に、自分の生活しているエリアとは全く違った領域に入ることは、程度の問題はあれ、ポジティブに刺激を受けることが多い。これは、海外が端的で、国内でも味わえる。旅行とはいわなくても、通常の生活のサイクルから少し軌道を変えてみただけでも、同様な感覚を味わうことができる場合もある。日本人が外国を旅行をする場合、まず、英語に頼る。でも、日本を外国人が旅行する場合には、英語に頼りづらいシーンも多いだろう。そうした語学の壁にぶつかると、日本の持つ楽しさを感じられずに居心地の悪さのみを味わうことになりかねない。旅行者がもっと語学や文化の壁を越えて東京の楽しさにアクセスできたらいいだろうな。というのは、昨日見たDVDの「ロスト・イン・トランスレーション」の感想。しかし、どうも、冷静に東京を眺めてみると、そんなに魅力的な都市ではないのかもしれない、という気もしてきた。これは、単なる卑下なのか、本当に他の都市よりも排他的な雰囲気があるのかはわからない。邦画を見るのは好きだが、邦画に映像美を感じることは少ない。もしかしたら岩井俊二の映画あたりでは、日本の美しさを最大限に切り取っているのかも、と映画のPRを観ながら思うが、まだ彼の作品を見たことがない。通常、邦画はストーリー重視で、美的に印象を受けるケースは少ない。これは、単に日本の景色を見慣れているからなのかもしれない。ただ、外国人が日本の風景に立ったとき、何故かはわからないが、美しいと感じることが多い。これも、単に日本人を卑下しているのか、それとも別の理由があるのかはわからない。もしかしたら、和洋のコンビネーションが醸し出す非日常感の成せる業なのかもしれない。宮沢りえやダルビッシュが持つ存在感なんかも、ハーフ故か。さておき、そうした和洋折衷的な映画として、「シルク」を観てみたい。近々、時間があれば久しぶりに映画館に足を運ぼうと思う。なんか、支離滅裂だが。
2008.01.21
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年が明けてから、何となくやる気が起きていない。そもそも、年末年始に風邪で倒れていて、それ以来、調子が上がらない。これでは駄目だと思い、何か決めてやろうと思い立ち、毎週1つは何かの作品に触れる、というのを今年の当面の目標とした。何か、というのは、映画でも、音楽でも、美術館でも、本でも。ただ、テレビドラマは短すぎるし、音楽も一曲単位だと簡単すぎ。なので、映画なら長編、音楽ならアルバム。今週は、週末に借りてきた3枚を聞いている。最近のものから始めると今ひとつ調子が出なさそうなので、選んだのはイルカ、上田正樹、尾崎豊のそれぞれのベスト。それぞれ有名な曲は良かったけど、知らない曲はピンと来ない。まあ、ファンでない人が1回聞くだけだと、そんなもんだろう。やっぱり、慣れは大切だ。作品にいきなり触れても本質や目指すものはなかなか見えてこない。その作者の世界観なり目指すものが見え始めると、より深い部分が理解できる。はず。まあ、体調も大分本調子になってきて、仕事も年明けモードから本格化しつつある。仕事が忙しくなると、体も緊張度が上がり、レース前の競走馬が自分で体をつくるように良い状態に近づいていく。そんな中にリフレッシュをうまくはさみ、上手にやっていきたい。
2008.01.15
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今年の漢字は「偽」ということだったらしいが、確かに、今年の偽装問題はすごかった。何も、今年だけ偽装が多かった、ということではなくて、昔から偽装は沢山あったのが今年に沢山発覚した、ということなのかもしれない。今年の漢字、ということでは、ニュースに取り上げられる漢字にちなむものが基本なはず。だとすると、必然、ネガティブなものが選ばれる可能性は高くなりそうだ。人は病気をして、初めて健康のありがたみを思い出す、というのと同じく、うまくいっていることはニュースにならない。せめて、「偽装」の「装」の方を今年の漢字に選ぶことはできたかもしれない。この、「装」という漢字も、良く考えれば真実を隠すという意味がある。良くも悪くも。その方がちょっと気が利いていたかもしれないが、インパクトは弱いか。偽装の問題で最も気になるのが食の安全がらみ。特に、カップラーメンで人が死ぬ中国産はなるべく避けたいと思う。NHKで見たドキュメンタリーでも、中国の農業はものすごいことになっているようで、本当に農薬漬け。誇張でなく、農薬の漬物のようだった。あれだと、「洗えばいい」という問題でもなさそう。野菜洗い用の洗剤が使われているようで、日本の感覚からすれば、「野菜を洗剤で洗うと洗剤が残留して体に悪そう」と感じるが、それどころではない農薬が使われているようなので、わからなくもない。というか、洗剤なんかではとても落ちそうにないくらいの使われ方をしていた。そうしたニュースや番組を見た後に、たまたま家にあったハチミツのビンを見たら、大きく「中国産」と書かれていた。少なくとも、この情報に偽装はないだろう。別にハチミツが危ないという話を聞いたわけではないが、中身は捨てた。産地の表示はありがたいが、特に加工食品だと、本当の産地が偽装されたら追いようがない。少なくとも、表示は信じるしかなく、表示の中で「逃げ」を打てそうな表現があるかないかはチェックするのが防衛上必要かもしれない。単に「加工:日本」と書かれているとかだったとしたら、いかにも怪しい。ハチミツを捨てるとき、ビニール袋に移す作業をしていたら、息子が寄ってきて、「何してるの」と聞くので、「捨ててるんだよ」と答えると、「何で?」というので、「もう食べないからだよ」と答えた。「悪くなったの?」といわれたので、「そうだね」と答えたら、3、4秒間をおいてから、「中国産?」とのコメント。なるべく、中国の悪い印象を植え付けないように答えていたつもりだが、既に、我々の日常会話から情報を拾って、中国産は危ないという認識を得ていたようだ。チャイナフリー、家庭内での浸透は既に十分。
2007.12.16
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クリスマスの季節なので、妻に子供のサンタさんへの希望のさぐりをお願いした。結果、6歳の息子は、「何でもかなう魔法のダイヤ」の一点張りとのこと。別途、プレゼントカタログを見せていたところ、そのカタログの中では、1番は家庭用そば打ち機、2番は貯金箱の人生銀行。だけど、息子の希望は、「何でもかなう場法のダイヤをもらって、それで虫歯をなおして、そば打ち機をもらって、貯金箱をもらって、、、」ということらしい。サンタさんは、非現実的だ。魔法のダイヤも非現実的だ。大人の都合では、サンタさんの夢は持っていて欲しいが、魔法のダイヤは希望して欲しくない。勝手なものだが、仕方ない。どう対処するかに頭を悩ませている。案の1は、第二希望のそば打ち機をプレゼント。でも、息子のクリスマスプレゼントとしてはなんとなくそぐわないので、人生銀行は父親からのプレゼントとして別途あげる。案の2は、人生銀行をプレゼント。そば打ち機は、この際無視。いずれにしても、魔法のダイヤについては、「サンタさんも無理だったんだね」と後で言うしかない。息子も、サンタさんの限界というものを少しずつ理解するだろう。子供の頃のこうした非日常のイベントの高揚感は、もう自分にはない。大人になると失われるからこそ、子供にはなるべく長く、こうした高揚感を維持して欲しい。それを裏切らないようにうまく今年のクリスマスを乗り切れれば、良い年越しになるかな。
2007.12.12
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ウィキペディア情報だが、自己実現理論というものがある。人間はあるレベルの欲求が満たされると、次の欲求を持つというもの。裏を返せば、あるレベルの欲求が満たされない限りは、なかなか次のレベルの欲求には進まないともいえるのかも知れない。最も低次の欲求は生理的欲求で、次のレベルは安全の欲求ということらしい。この2つの階層の欲求は、おそらくいろんなところで重視される。国連憲章の中でもこのレベルが保障されるべきと考えているようだし、緒方貞子とアマルティア・センのまとめた「人間の安全保障」という概念も、基本は欠乏からの自由と恐怖からの自由である。ここらへんの概念と基本的人権との関係などはわからないが、何にしても、衣食住が満たされて恐怖におびえることがなくなって、初めて自らのアイデンティティを求めたいという、いわゆる自分探しができるようになる。とすると、一時期はやった自分探しブームは、まさに日本が豊かで平和だったが故のものだろう。電波少年で猿岩石が出たのは日本のアイデンティティの再確認かもしれないし、なすびが文字通り裸一貫で懸賞生活にいそしんだのは、自己実現論の第一段階の欲求を再度思い起こさせるためかもしれない。今更の古いネタだけど、電波少年は奥が深い。最近は離婚率も高く、職場環境も大抵はギスギスしている。人の生活は、社会人なら家と職場の往復が基本なので、そのどちらでも満足できないとすると、人が幸せになれうはずもない。では、なぜ、高度成長期にあった幸せが今は無いか。なぜ、人は三丁目の夕日で涙するか。(見てないけど。)これを自己実現論に照らして考えれば、欲しいものが程よく足りていない状況が、最も幸せなのだと思う。テレビ、冷蔵庫、洗濯機の三種の神器が無い状態だと、いきなり自分のアイデンティティで悩むことはないだろう。まずは、「テレビ買いてー」と働く。力道山も見ずに自己実現とか言っても、説得力ないし、そもそも誰もそんなこと考えなかった。多分。結婚相手を親に決められた不満よりも、少しずつ物が増えて生活環境がよくなる楽しみが勝れば、離婚を考える人も少ない。これも多分。人は、つかみどころの無いものを求めすぎるから不幸になるというわけだ。これだけ物が足りている時代に「ハングリー精神」とか言われても、何かを買ってきても家には置く場所もないし、遮二無二働いて広い家に住みたい、というほど、広い家自体の魅力もない。ハングリー精神があれば幸せになれるとわかっていても、それを持つのは難しい。では、どうすれば今の日本で幸せになれるか。個人単位で考えるなら、より高度の自己実現に果敢に挑戦するのが一つ。でも、求めるものが高度なので、途中で挫折するリスクはある。国の単位で言えば、下から2番目の欲求である安全の欲求を刺激するという手もある。多分、世界中どこをとっても、近隣諸国は大抵は仮想敵国とされている。これは、理論との関係なら、国内に内政に関する不満分子を育てない合理的な手段であるんだろう。個人でとれるもう一つの手段は、この理論における自己実現の階段を昇るのを意識してやめること。普通、人は「向上心を持て」といわれる。でも、向上心を捨てたほうが、目先の幸せには到達できるかもしれない。今、あるものに満足し、感謝する。多分、不満が蓄積してきたときに戻るべき場所はここだと思う。結局、青い鳥か。
2007.12.10
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今日、野球のオリンピック予選で日本代表の北京行きが決まった。松坂もイチローもいない日本代表だけど、それでもいいチームにまとまっているように見える。何はともあれ、めでたい。よく、物事の経済効果をシンクタンクが測定したりするが、オリンピック好きの日本人にとっては、こうした人気の団体競技が予選を勝ち抜くことによる心理的効果は結構でかいと思う。スポーツは、「画面の上で盛り上がると冷める」という人もいるけど、無意味にテンションが高いのは、個人的には好きだ。松岡修三、織田裕二、川平慈英等々、もっともっと、無駄に騒いで欲しい。それを「騒ぎすぎだよ!」とテレビの前でくさしてこそ、気持ちの良いビールの消費に繋がるというもの。カウチポテト万歳。昨日は、息子と野球の日本対韓国戦を少し見ていたところ、最近人生ゲームにはまっている息子が「この人たちはいくら給料をもらっているの?」と聞いたので、ちょうど投げていた岩瀬を指して、「多分、この人は3億円くらいもらっているよ」と教えると、「ふーん、すごいね。」との回答。で、次に「お父さんはいくらもらってるの」というので、「普通、お父さんくらいの年の人は5百万円くらいだよ」と言うと、「そんなにちょっと!」と衝撃を受けていた。息子の表情から、親の威厳が地に落ちたことが明確に感じられた。人のすごさをお金で測ることが必ずしも正しいわけではないが、一つの重要な指標であるのは確かだ。拝金主義で教育をする気はないけど、敢えて、「お金を稼いでない人が偉くないわけではないよ」と正す気もない。将来息子が挫折することがあれば、そのときにはそう言おうと思う。とりあえずは、人生ゲームのごとく精一杯お金を稼ごうと頑張ってくれたら、親としてはありがたい。親を超えるようになって欲しいものだ。
2007.12.03
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突然感じたが、今、妄想力というのが、何かに抜きん出る強みだと思う。漫画の東京大学物語とか、チュートリアルの徳井とか。劇団ひとりも、妄想系では、素晴らしい。で、恐らく、妄想力に長けた人は、マルチの才能を発揮する。だから、劇団ひとりの小説はベストセラーになったりする。リリー・フランキーもすごいし。と書きつつ、「陰日向に咲く」も「東京タワー...」も読んでない。妄想にも、良い妄想と悪い妄想がある。悪い妄想が行き着くところはストーカーだったり、被害妄想だったり。「みんなに嫌われてるかも」と感じたりするのも、大抵は妄想だったりするかと思う。良い妄想は、その人や、その周囲の人たちの人生を楽しくさせたり、幅を広げたりするもの。ロード・オブ・ザ・リングも、ハリー・ポッターも、不思議の国のアリスも、多分、妄想の賜物だろう。どれも、ほとんど見たり読んだりしてないけど。妄想、空想、予想、予測、などなど。どれも、知的創造性のたまものだと思う。ただ、確からしさという点では、予想や予測の方が、何かのよりどころがあることを感じられる。よりどころがある分だけ、ある意味で面白みがないが、よりどころがあるのに突飛だと、その発想には価値がある。最近の都市伝説ブームは、多分、それ。ハローバイバイの関のトークは、根拠がある。根拠がある上で突飛な結論があるから面白い。まあ、これは「妄想」とはだいぶ外れるが。自分が幼稚園児の頃、一人一つ紙芝居を作るようにと言われて、火の国と水の国が戦争をする話を作った。いざ、戦い始めるくらいのところで、それ以上のストーリーが浮かばずに頓挫して、結局は未完のまま終わってしまったけど、面白い話だったと思う。また、小さい頃はいろんなすごろくと、デザイン性に富んだ迷路を沢山作った。創作パズルなんかも作っていた。こうしたいろいろな創作物は、「それを作った」という記憶のみが残っていて、今、新たにそうしたものを作ろうと思っても、多分、できない。子供の方が、得てして発想は豊かだ。感受性も豊かで、何かの材料が放り込まれれば、それを手がかりにいろんなことを考え始める。本来は、多くの情報があった方が、発想が広がる手がかりにもなるはずだが、その一方で相場観や常識の枠を知らず知らずにはめられている。こうした枠から飛び出すには、新たな発想という次元よりも、「妄想」のレベルに達する必要があるんだろう。現実的なことを一旦忘れて、自分の感受性とか欲求といったもののみに拠り所を求めて考えを広げていく。そうしたことに、たまに取り組んでみると、何となく狭苦しく生きている感覚から、すこし息抜きできるような気がする。最近、子供達が突飛なことを言う機会に何回か遭遇し、「そんな発想してたときもあったような気がするなあ」と思い、つらつら考えた。ようやく、子供から何かを学ぶことが起こり始めている。
2007.11.28
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年末が近づくと、何かにつけて高揚感がある。町並みがクリスマス・モードに変わるのは別としても、一年を総括するイベントの下準備として、紅白のノミネート、流行語大賞、M1グランプリの予選等々、少しずつ、「納め」に向かう。以前は、競馬の世界でも「年末のGIシリーズ」があって、9週くらい連続で、毎週GIが1つずつ開催されていた。今は、空きの週や1週に2つ開催などがあるので、そうした切りの良い高揚感というのもないが、それでも、有馬記念に向けて佳境に入っているのはそのまんま。Jリーグも、日本では欧州とは違って年末にはリーグが終了する。我が故郷の柏レイソルも、残留争いという意味ではハラハラさせられないで済む、非常に良い経過を辿った一年だった。まだ完全には終わっていないけど、天皇杯がない今、残りのリーグ戦をしっかり締めて欲しい。世の中は、こうして終わりに向かってなだれ込み、また新たに一年が始まる。一年の始まりは、得てしてあまり高揚感が無いもの。これが日本人特有なのかどうかは知らないが、少なくとも日本人は懐古主義の傾向が強いのではないかと思う。過去のものを引きずりながら、新しい時を迎える。この、過去の引きずり方のうまさ下手さによって、新たな時の迎え方もかわると思う。先のクールで「受験の神様」というドラマを見ていて、主人公の父親が、息子が受験に失敗したときに、その勉強成果を全て燃やしながら肉を焼いて、「食って忘れろ」という。確かに、失敗を下手に引きずるのは良くない。でも、それを「忘れろ」というと、その過去の努力が可愛そうな気がする。人それぞれだが、ここはやっぱり、「これまでの努力はお前の力になっている」という点を再評価した上で、「でも、終わったことは忘れよう」とつなげるべきかと思う。単に忘れるのでなく、意義を理解してから忘れる方がいい。流行語大賞のノミネートを見ながら、同僚が「実は、『KY』と『鈍感力』は、表現が違うけど同じじゃないか」と言っていた。確かに、感覚としては近い。でも、KYは、そもそも判っていない人用の表現で、鈍感力は、判った上で図太くなれる人用の表現かと思う。その点、上の受験の例とも似ていて、微妙な差に見えて、実は大きく違う。その意味では、「そんなの関係ねぇ」も、「別に」も、「鈍感力」と近い。結局、不都合が沢山降りかかるのが今の世の中であって、それを図太く前向きに受け流すせるのが、今の理想なんだろう。ちょっと沢尻エリカは前向きじゃなかったけど。そういえば、「受け流す」(ムーディー勝山)、ノミネートされてないなぁ。
2007.11.18
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今日の昼は、マクドナルドに家族で出かけ、割引券を使いつつセットメニューを頼んだ。子供達用にはハッピーセットを頼み、親は普通のセット。娘は小麦アレルギーだから、結局はポテトくらいしか食べられない。ちょっとかわいそうだけど、むしろマックにある滑り台なんかの遊び場が目当てなのでそこには目をつぶる。ハッピーセットの今のおまけはケロロ。ケロロ達5人の人形が、計66種類あるとのこと。ただ、おまけとしてもらう時には中が見えないようになっているので、どんなに頑張っても全種類集めるのは不可能だ。ケロロはともかく、ハッピーセットのおもちゃは、得てして出来がよい。カラーリングやつくりについては文句ないし、玩具としてもいいところを突いている。昔の駄菓子屋で買っていた玩具の魅力に通じる部分がある。最近、自分の地元で玩具屋や駄菓子屋を見ない。こうした分類で商売が成り立たなくなっているのかもしれない。ただ、自分が子供の頃に楽しみを感じていた「何か」について、それと同じタイプの欲求が今の子供達にもあるはずだと思っていて、そうした部分を埋め合わせる機能を別の何かが担っているんだと思う。少なくとも、駄菓子屋や近所の玩具屋にあった質素で簡単なつくりの玩具に似た面白さはマックのハッピーセットの中にもある。また、コンビニに売っている食玩なんかもそうだろう。いろんなものの境界がなくなってきているのは確かで、欲しいものがどこに行けば入手できるかわからないこともたまにある。最近、「大人の科学」の付録(?)でテルミンがつく、というのを見て、探しに行った。通常、大人の科学は本屋にあるので、大きめの書店をいくつか回ってみたが、見つからない。今でも入手に至らないが、もしかしたら、これこそ玩具屋に売っているかもしれない、とも思った。場合によっては、楽器屋かもしれない。そもそも、テルミンを買いに本屋に行くこと自体が間違いだったかもしれない。産業分類での○○業とか、○○屋というカテゴリー付けは、段々用をなさなくなってきていそうだ。そう考えると、子供達に「野菜は八百屋さん」、「玩具はおもちゃ屋さん」、「薬は薬屋さん」とか教えていいものかどうか不安になってくる。ダイソーやショップ99でも何でも売ってそうだし。
2007.11.04
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ここ最近の仕事がひと段落した。時間が無かったわけではなくても、何となくブログの更新をする気が起きなかったが、まずは一安心。何となくそわそわしている中でも、今シーズンはテレビドラマを多くチェックしてた。第一回をなるべく多く見て、少しずつ絞っていった結果、ガリレオとモップガールの2つが特に気に入った。何となく、この2つのドラマ、福山雅治と谷原章介のキャラがかぶる。基本的にはエゴイスト、唯我独尊だが、頼られると乗ってくれて、力を発揮する。こうなればもてるだろう、という典型だが、まあ、なかなかここまでうまくは行かない。千秋先輩とか。基本的に、ドラマなら主役はミステリアスさを残しておいた方がいい。そうすると、そのすごさのコアの部分を普段は隠しておく。いざとなったときにそれを解放するから、魅力が倍増する。でも、普通の人には能力を隠しておくほどのゆとりが無い。得てして、いっぱいいっぱいだし。自分自身を振り返ると、明らかに一人のときより彼女がいるとき、更には結婚前より結婚後の方がもてる気がする。単に年齢を重ねて懐が深くなった、というよりも、やはり、いっぱいいっぱいになる必要がないところで、上に書いたような「あそび」の部分ができるからだろう。他方、仕事の中では結局、いっぱいいっぱいでやらないといけないので、やはり上司からの受けがそんなに良いとはいえない。かといって、仕事を進める上で、処理能力の限界と実際の仕事量の間に幅を持たそうというのは無理な話で、そんな姿勢で臨むとミスを連発してクビになる。今日の野球をテレビで観ていたら、中日が日本ハムを完璧に抑えて優勝した。特に、中日の山井は、8回まで完全試合ペース。あと1回で大記録達成のところでリリーフを送られる。岩瀬は来年はメジャーリーグで活躍するだろう投手なので、その壮行の意味もあるかもしれないが。山井のピッチングは確かに良かったが、今回の場合、日ハム側が、明らかにガチガチだった。多分、負ければ日本一の夢が消える中で体がこわばり、そこに完全試合の恐怖も加わって、どうにもならなかった様子だ。こういう完全試合が見えているゲームでは、緊張したほうが負けだと思うが、今回の場合、山井はいい意味で開き直りがあったかもしれない。去年の日ハムは、新庄のキャラクターが、このゆとりの部分をうまく生み出していた。新庄が用意したゆとりにチームメートがそのまま乗っかれるから、縮こまる必要がない。この新庄効果が今年もパリーグ優勝までは続いていたのが、ここに来てガス欠になったのかもしれない。今の時代、勤勉であることがあまり美徳とされていないがゆえに、まじめさには価値がある。でも、それで「いっぱいいっぱい」になると、大抵は本調子から遠い状態に陥りがちだ。手抜きにならず、かといってゆとりは残す。これを計算ずくで実践できることが、現代の世渡り術なんだろう。そうすれば、福山雅治になれるか。ビジュアルは別として。
2007.11.01
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かつて愛読していたダ・カーポが休刊するようだ。かつて、というのは、ここ1年弱くらいはあまり買っていなくて、その前は、イギリス滞在の1年間を除き、結構な期間買っていた。私の持つこの雑誌の印象は、「本が好きな人のための雑誌」、「世の中を少し斜めから温かい目線で見る雑誌」、「他人のふんどしをうまく使う雑誌」、というところか。3番目の項目は、例えば、「各種雑誌が挙げる今年の本ベスト3」とか。「噂の真相」が休刊した後は、覆面座談会のコーナーをパクったりもするし、オリジナリティの追求よりも、二次加工で読者を楽しませることを得意としていた。そんなダ・カーポも、1年くらい前に編集方針を変えたようで、オリジナリティの要素を増やし、経済的な読み物を多くしたような気がする。そのため、私が楽しみにしていた3つの連載物のうちの2つ(林先生という人のコラムと、浅草キッドの「バ・カーポ」)がなくなり、残ったメカ・アフロ君のためだけに買う気はしなかった。そもそも、舵を切った先のオリジナル記事自体があまり興味を引くものではなかった。多分、雑誌が継続して読者を確保していくのは難しい。時代は変わり、読み手が成長する中で、雑誌自体が同じ方針を貫きすぎても古いマンネリに陥ってしまう。それを恐れて自らも成長しようとすると、元々の雑誌が目指していた編集方針にブレが生じて、それを期待していた読者から見放される。ダ・カーポは、本好きの人のためのライトな雑誌として、良いポジショニングをとっていたと思う。そうした読者層の好みを適度に刺激するコラムのラインナップも良く、この雑誌は磐石だと思っていた。編集方針が変わるまでは。私が好きなもう一つの雑誌であるSPA!は、その点はうまい。下流から中の下流をさまよう、ちょいダメ若手サラリーマンの程よい向上心と自虐性をくすぐる企画は、多分、今の時代に蔓延する空気にあっている。そのあたりは唯一無二である。アエラが微妙にかぶるが、こちらは女性向けであって、ベタベタのネタが好きな男性はアエラには満足できない。オリジナリティは、あるに越したことはない。でも、これだけインターネットも発展し、何でもかんでもすぐに調べられる世の中において、新奇で新鮮な情報を雑誌という媒体で提供するのは難しい。かといって、独自の取材や統計などはコストがかかりすぎる。それに見合う質と量の記事ができればいいけど、費やした労力の分が良い結果に繋がるわけではないだろう。そもそも、読み手もオリジナルばかりを求めているわけではないだろうから、無駄な努力、という部分もありそう。ドラマで「働きマン」を見始めているが、そうした割り切りを持つ速水もこみちの役どころの認識を編集者が持ってた方が、案外読者のニーズにあった記事を提供できるかもしれない。といっても、まだ第一回しか見てないから、彼のキャラクターがどんなんだか良くしらないけど。それにしても、菅野美穂は本当にきれいだ。
2007.10.15
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最近何かと耳にする「ワーキング・プア」。ちょっと関心があって、派遣の実態について書いてある本を買って読んでみた。雇用の流動性確保、といえば聞こえはいいが、派遣システムでは労働者が労働力を搾取されている印象を持った。最近では、研究者も任期つきの採用だったりして、高学歴の人でも仕事に悩みが付きまとう。結婚などを考えれば、長期に安定した収入が確保されていないとプロポーズもできないし、受けられない。先が見通せない不安のもとで日々の作業などをしていると、精神衛生上よろしくない。そんな中でよい研究ができるのはよほどタフな人であって、ちょっと線が細いとどこかで行き詰ってしまう。派遣で日々暮らしている人は、なおさらだ。自らが意志を持って派遣を選んでいるならまだいい。例えば、結婚している女性が育児・家事に重きを置きながら仕事もしたい、という場合の選択として派遣があるのは良い。でも、定職につきたくて就けない人の派遣は大分事情が違ってくる。近所の飲み屋の看板に出ている2千円の晩酌セットを注文することを目標に1~2年切り詰めながら働き続けるエピソードなど読むと、やり場の無い苛立ちを感じる。自分が子供の頃を振り返ってみると、世の中は、今よりも幸せ感が多かった印象がある。父親は夕食の時間に帰ってくることも多く、「かぎっ子」の友達はあまりいなかった。やはり、男親が定職を持ちながら家計を支え、女親が家の仕事を行う、というスタイルが一応の安定感をもたらしていたのだと思う。こう書くと、フェミニストやジェンダー問題にうるさい人の反感を買うこと必至だが、この文脈で、男親と女親が逆でも構わない。親のうちの一人が定職を持ち、もう一人が家庭を見る、という構図自体に意味がある。終身雇用を基礎とすると、人は安心感を持って、心が健康のままで仕事をしやすい。将来の収入がある程度計算できるから、家も買えるしマンションも買える。その対極に今の雇用情勢があり、将来が見通せないステータスのままでは結婚もままならない。少子高齢化は進みやすいだろうし、そうした不安定な中でも後先考えずに子供を持つと、その子供の成長に責任を持たない親が相当数現れ、それが教育現場で問題となる。学級崩壊とか、給食費不払いとか。日本はモンスーン型の民族で、環境変化に対して受容をもって当たる。と和辻哲郎は言っている。森林を焼き払って自らの農耕環境を自ら作り上げていった欧米人とは違い、能動的に環境変化を起こすことに慣れていない日本人にとっては、会社の中で安定した歯車としてこつこつ仕事をするのも悪くない。一億総中流社会で、人並みに暮らすのは結構居心地がいい。「多様なライフスタイル」くらいはいいが、「多様な就業形態」を制度上広げすぎたが故に、その多様性をうまく消化しきれないままに、暮らしのレベルで不安定さというしわ寄せを受けるようになっている。こうした社会システムの変化に起因した生活環境の悪化が、巷間言われる小泉改革の負の遺産なんだろう。経済の競争がグローバル化する中で、古きよき安定とともに国際競争で遅れをとりながら国全体が沈没していくか、大極的には国際競争力を保ちながら、足元の人々の幸せを蝕んでいくか。「究極の選択」の中で、先般の構造改革は後者を選んだわけだ。どちらの選択が正解かは、多分誰にもわからない。でも、変えるだけ変えたから、戻すべき部分が見えてきた部分もあるとは思う。グローバリゼーション自体を非難する活動も良く目にするが、ここに異論を唱えたところで大きな流れは戻せない。グローバリゼーションを所与とすれば、一つの選択肢であったのは間違いない。話が拡散しているが、なんにせよ、仕事に対していい加減な姿勢の人が困るのは自業自得だからいい。でも、まじめに働く人たちは、しっかり報われてほしい。2千円の晩酌セットくらいは、まじめに働けば普通に手が出せるくらいにはなってもらいたい。「ワーキング・プア」が、「ワーキング・ちょっとプア」程度に改善するだけでも、日本人の不幸度は相当改善すると思う。
2007.10.10
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人の視線を感じたり、人の気配を感じることがある。これを「第六感」と言ってしまえばそれまでだが、そのメカニズムは何なんだろうとつらつら考えた。まず、空気の振動では無いだろう。人の動きがあれば空気は震えるが、視線で空気は震えない。音波でないという前提をここに置く。そうすると、次は熱か。でも、近くで気配を感じるケースはまだしも、遠くで視線を感じるケースというのはこれでは説明がつかない。距離が離れていても何かを感じることはあるのか、と考えてみると、確実に言えるのは、光は遠い距離でも到達する。少なくとも、視線や気配を感じる距離なら、光は瞬時に到達できる。ここで、気配の原因を光であると仮定したとき、なぜ、そういう特定の視線や気配を人は感じることがあるのかと考える。この原因を、他者の発する波と自分の肉体の共鳴であるというように考えてみる。人が視線をある一点に集中するとき、目のレンズを通じ、特定の安定した光に近い波長がその見つめる先に届く。見つめられている人の肉体がその波長と部分的に共振なり共鳴なりを起こす場合、脳がそれを「ただならぬ感触」ととらえ、その視線を判別する。誰かの気配を感じる場合も同様で、例えば暗闇でじっとしている人は、じっとしているが故の安定した光の類の波を発していて、それを他者が感じ取る、というか、それに共鳴する。このような人が発する波長は、人が集中しているときにのみ安定した波長となり、他者が共鳴できるようになる。行動が乱れている場合には波長が安定しないから共鳴も起こらない。例えば、格闘技のにらみ合い、例えば柔道の組み手争いの前のにらみ合いや、相撲の立会いなど、相手の隙をうかがうときにはその集中から波長が安定し、双方がピリピリとしたオーラを発する。発する波長は光に近いから、オーラのような感覚、言い換えれば後光のようなイメージを相手に与える。宗教の教祖様達も、同じようにゆるぎない安定を持っている人が多く、そうした人たちが発するパワーが人を惹きつけるゆえに、教団等の名前には「光」がつくことが多い。以上が今日突然思いついたテーマとその結論だが、こういったものは、勝手な解釈であってもその流れで考えるとピタッとはまってくる事柄がぞろぞろ出てきたりする。そうすると、「当たらずとも遠からず」というようになる。案外、「この人は大物だ」と思わせるためには、自分の性格を変えようと努力するするよりも、武道でも呼吸法でも何でも良いから「安定した波長を出せる心と体の使い方」を覚えるのが効果的かもしれない。その上で、例えば自分の周囲50センチにオーラをまとうような感覚を持ってみる。なんか、勝手に本当らしく感じてきたので、ちょっと「エセ大物」に向けたトレーニングをしてみよう。
2007.10.02
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息子の好きなアニメ「恐竜キング」を見てたら、今週のタイトルが「ガンジス河で恐竜バタフライ」。時期的に明らかにドラマを意識してるようだ。同じテレビ朝日だし。このドラマ、話は知らないが、タイトルと主演(長澤まさみ)から、是非見てみたい。どうも、長澤まさみは演技はうまいが映画はヒットしないらしい。このドラマはもし映画だったらヒットするのかもしれないと思った。視聴率が良いといいけど。映画にしても、ドラマにしても、いい加減、いろいろな話が過去にありすぎて、何をやっても二番煎じっぽくなってしまう。そうならないように奇をてらったり、映像をものすごいことにしたり、何かと工夫していかないと評価されなかったりする。政治家が「改革」をいい続けないとたたかれるようなものか。今まで経験したことの無い想像もつかないような展開やオチに遭遇すると、ハンマーで殴られたような衝撃を受けるのも事実。そうした経験をしたくて色んなものに手を出して、結局のところ満足できずに終わることも多い。製作者もそうしたものを作りたがるが、それが成功しないことも往々にしてある。で、このドラマ。タイトルが潔い。実際、長澤まさみがテレビなどで、「ガンジス河に泳ぎに行くのを父に反対された」などと言っているので、本当に泳ぐことが良くわかる。多分、このドラマを見る人の大半が期待するのは奇をてらったどんでん返しではなく、単に、「長澤まさみがガンジス河で泳ぐ」ということではないかと思う。世の中、何につけてもしたたかさが重要だ。如何に自分の中に裁量の余地を残しておいて、その範囲内でカードを切るか、そういう戦いを日常生活でしている。自分に許される値切りの範囲内で、顧客に品物を売る。上司から言われた交渉の落ちどころよりも更に厳しい条件を交渉相手に示し、自分が譲歩できる範囲を作り出す。正直に落としどころを言ってしまうと自分が板ばさみにあって苦労をかさねる。そうした世の中にあって、このドラマはタイトル設定でクライマックスのシーンを明かしてしまっている。開き直って全てを明かすことが状況を好転させることもある。小渕総理が「ボキャ貧ですから」と言えば、誰も豊かな表現をそれ以上望まない。むしろ、そのボキャ貧を楽しむようになる。いたずらっ子はたまにいいことをすると誉められる。巻がヘディング以外で点を取れば、「期待以上」となる。仮に、長澤まさみがガンジス河で泳ぐ以外に感動を与えれば、このドラマは超大成功になる。いずれにしても、今週の金・土のようなので、楽しみにしたい。
2007.10.01
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今日、高田純次の「適当教典」という本を買って読んだ。高田純次は、「天才たけしの元気が出るテレビ」以来のファンだが、この本も面白かった。一般の人生相談に対して高田純次が答える形式だが、本当に人生相談が寄せられているのかどうかはわからない。間違いなく言えるのは、彼の答えのスタンスは、「所詮、人事」、「原則、肯定」、「聞かれたことに答えるよりも、思いついた話したいことをとりあえず話す」ということだろう。9割がテキトーだが、1割くらい真っ当な答えもある。別に、真っ当な答えを求める本ではないから、テキトーな9割の方に意味があるんだけど。「適当」、という言葉も、「いい加減」という言葉も、「適切」だったり「良い加減」だったりする。投げやりであることと、それが程よい状態であることは、結構、表裏一体だったりもする。高田純次の「適当」は、息がつまり気味の人にとって、ほどよい脱力を提供するものにもなっていそうだ。小泉元総理が勧める渡辺淳一の「鈍感力」とか、ルー大柴の人気再燃とかと、高田純次の最近の注目は相通じている気がする。細かいことに気を使いすぎると磨耗する。楽しそうにわが道を行く人がいると、周りの人も心地よい。一つ重要な点は、高田純次もルー大柴も、単なるノリの良さでなく、底知れないバイタリティを感じること。バイタリティを持ちながら、細部にこだわらず、ノリ良く我が道を突き進む、というのが、一つの理想の人物像かと思う。小泉人気も、多分そう。自分自身、凡人の域を出ないので、彼らみたいに突き抜けるのは到底無理だけど、まあ、脱力姿勢だけはちょっと心がけたい。息つまりたくないし。
2007.09.26
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週刊テレビ欄を見ているが、来週月曜日のHEY!HEY!HEY!生放送スペシャルで、Def Techが出ると書いてある。ちょっと前のニュースで解散が発表されたとあったようなので、どうなるのか良くわからないが、まあ、出るにしても見納めになるんだろうか。彼らのMy Wayは、初めて耳にしたときにすごく衝撃を受けた記憶がある。家の近くのレンタルCD屋で耳にし、「なんだこれは」と思ってその場から動けなくなった。メロディーを頭に刻みこみ、それから1週間後程度だったか、ようやく曲名とグループ名が判明。CDも借りずに買った。というか、そもそもインディーズでレンタルに無かった気がする。Def TechのMy Wayは、ヨコハマタイヤのCMソングだったらしい。このCMビデオはネットでしか見たことがないが、風力発電所がきれいな、近代的で幻想的でありつつエコロジカルな、すごく良いCMだった。そこに、あの曲が乗っかっている。パーフェクトだった。最近でも、MONKEY MAJIKの曲がこの会社のCM発でFMのヘビーローテーションにかかったようで、CMプロデューサーの力量が高いということか。さておき、バンドの解散だが、解散するには解散するなりの、それぞれの事情があるんだろう。でも、多くのバンドは、ファンが惜しむ中で解散し、二度と結成されない。再結成されない場合には、そのバンドが残した名曲が再度演奏される機会は激減する。勿体ない話だ。常々、一ファンとしては、バンドには解散でなく、休眠して欲しいと思っている。眠ったまま二度と起きないのは自由だし、「解散」という悲しい現実を直視したくないファンにとっては、休眠というのは、物置にしまった古いぬいぐるみのように、基本的には再び会うことはなくても、いざというときには戻ってこれる、そんな距離感に置いておけるものであると思う。実際、サザンなどは良い例で、桑田圭祐がどんなに勝手に活動してても、何年かに一回はサザンとしての活動もしてくれる。それでも、ファンとしては問題ない。いちいち解散と再結成を繰り返さないでも、眠っていてもらえればよい。それでも解散という道を選んでしまう理由は、ここからは勝手な想像だが、ひとえにそのアーティストを管理する会社の都合なんだろうと思う。滅多に活動しないグループを抱え続けるコストや、ソロ活動や新たなグループを立ち上げるときの権利関係、マネージャーのつけ方とか、複数のわらじを履かせると無駄が多すぎる。とすれば、本人達が「解散したい」と言った所で、「せめて休眠に」という説得をせず、「続けられるだけ続けてからやめよう」という提案しかできなくなる。あくまで、邪推だが。昔大好きだったフライング・キッズなどは、「あまり売れてないし、養うにはメンバーが多すぎるから解散。浜ちゃんだけ活動続行」とか言われてそう(これも本当に邪推)で、大人数グループの悲哀を見た気がした。そういう現実が仮にあるとすれば、ビッグバンド系で活動を続けるのは奇跡的にすごそうだ。スカパラとか、ずっと頑張って欲しい。
2007.09.20
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新総理は来週末に決まる様子。福田氏優勢ながら、地方からの支持が強い麻生氏がどこまで頑張るか、ということかと思うが、個人的には、2人ともシニカルさが強い政治家で、そういうキャラクターは嫌いではない。オシム監督よりは、そのシニカル度も抑え目なので、どちらもそのうち、大衆受けはするようになると思う。そもそも、安倍総理が辞任した理由、さかのぼればなぜ選挙で負けたのか、といった理由が議論されてきたが、どの理由もしっくり来ない。辞任の理由は健康問題、スキャンダル、テロ特措法、米朝関係、あとは政権内でのサポート役の不在とか。これらがメディアで出ていた材料かと思う。更に、選挙で負けた理由は、年金問題、閣僚の相次ぐ失言、「政治と金」問題、地方の軽視など。概ね、民主党が支持された、というよりも、自民党が道を誤った自滅、ということのようではある。でも、個人的には、そうした諸々の理屈を超えたところに一連の理由があって、それは、「安倍総理の底が見えた」と皆が感じてしまったことかと思う。人は、底が見えると人心が離れていくもの。好意を持ってた異性でも、底が見えたと感じた瞬間に冷める。だから、如何に、底を見せないように虚勢を張ってごまかすか、ということも含めて人間の力量かと思う。空元気も元気のうち、というのに似ている。政治家ならなおさらだ。多分、彼にはそこまでの虚勢を張るまでの強さがなかったのではないかと思う。もしかしたら、元々は強かったけど、松岡大臣の死の責任までを背負い込んで、自らが強くあることに自信を失ったのかもしれない。安倍総理の支持率は、一時期より落ちたとは言え、30%くらいはあった。小泉前総理と比べるとひどく見えるが、森総理の時代と比べれば、安倍総理の支持率は非常に高かった。まだまだ頑張ることが出来る水準である。良くも悪くも、政治のリーダーには強さが必要である。ロシアのプーチン、フランスのサルコジ、更にはブッシュ大統領も、独善的な強さを感じる。正しい道を歩んでいるかどうかは別として、その強さが国民からの一定の支持を取り付けているのではないかと感じる。外国の例を出すまでもなく、小泉前総理も強かった。かつての日本の政治においては、総理に必ずしも強さがなくても良かったのかもしれない。派閥から上がってくる意向をバランスよく取りまとめていれば、それで物事はうまく行くようになっていた。とすると、調整型の総理というのがありえる。小渕総理などは、そうしたタイプだったかと思う。しかし、小泉時代に、リーダー自らが閣僚を選ぶ、というスタイルを確立し、その関係で任命責任をより強く一人が負うことになった。そのため、総理は全閣僚の行動や発言を背負って立たざるを得ず、また、人事面でのそねみ、ねたみ、恨みも一手に引き受ける。その重みを背負いきれなかったのが安倍総理、ということだったのかもしれない。単に、安倍総理が歴代の総理より線が細かった、ということではなく、小泉総理時代にゲームのルールが変わって、そこに裸足で乗り込んでしまった、ということかもしれない。甲子園で金属バットでホームランを打てた安倍総理が、いきなり木のバットを持たされてプロの打席に立たされたような状況か。更に、倫理感が年々厳しくなり、ツーシームとかジャイロのように、見たことのない厳しいボールが増えてくる。ホームランはおろか、ヒットを打つことすらままならない。プロの打席に立って良いレベルは、確実に昔より上がっている。今の世の中、「出る杭は打たれる」である。打たれることを前提に、それに動じない、またはたまには倍にして打ち返すくらいの強さが必要だ。小沢一郎には、その強さを感じる。これが民主党に票が流れた理由かと思う。民主党がふらふらしてたら、自民党から流れた票は国民新党や共産党に流れていたかもしれない。政治家には強さが必要だが、強さがない人は市井で生きる。でも、一般社会でも周りの厳しさは存在する。多分、弱い人は学校や職場で打たれながら、ポキッと折れてしまうこともあるだろう。自分自身や子供も含め、「折れないための基礎体力」を心身ともに鍛えながら、それでも強い圧力にさらされたときに、「うまく逃げる」コツを覚えていかないといけない。ただ、はじめから逃げるコツばかり学んでしまわないように気をつけないといけないが。女の子にもてるよう、息子には、虚勢も含めて、底の深さを身につけさせたいところだ。
2007.09.15
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どうやら、「おしりかじり虫」がはやっているらしい、ということで、6歳の息子に聞いたら、「知ってる」と言っていた。さすが保育園。でも、どんな歌なのかわからないので、youtubeで探したて見てみたら、すごくキャッチーだった。それを息子と娘に見せたら、やはり気に入ったみたいだ。子供用の歌は、狙ってヒットさせられる場合がたまにある。身近な素材、強烈なサビ、親しみやすい映像が揃うと、まあ、ヒット路線に乗りやすい。おしりかじり虫の場合も、歌は意味不明だけど、繰り返される「おしりかじり虫~」の部分だけで勝ったも同然。youtubeのおかげで、こうしたわからない曲が映像つきですぐに検索できるようになって非常に嬉しい。ただ、youtubeの日本語版での映像はNHKからの依頼によって削除されていたので、私が見てみたのはyoutubeの英語版。こちらでも多くは削除されていたが、幸い生き残っていたものもあった。削除依頼の気持ちはわかるが、マーケティング上は、ユーザーがそれに触れる機会を確保する上で有効かと思うので、全削以外の対応をしてもらえたら嬉しいところだ。映像の投稿には寛容になって、認知度を高めながらグッズの販売でもっと稼ぐ、とか。話はそれるが、ヤフーの画像検索というのも最近よく使っている。今日、妻とハニカミ王子とハンカチ王子の話をしていて、ハンカチ王子の画像を見せようとしたときにも、この機能をつかった。「ハンカチ王子」で探したらあまり良い画像がヒットせず、本名の「斎藤佑樹」で調べたら、更にまともにヒットしなくなった。彼は、本人がどう思おうが、依然としてハンカチ王子だということがよくわかった。写真も多くはハンカチ使用時のものだし。なら、「ハンカチ」で十分だろうと思ってこちらでも検索したら、結果は、ハンカチばかりがヒットした。当たり前か。
2007.09.11
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先の金曜、職場から家までの帰宅を徒歩でトライした。トータル十数キロ。靴を運動靴、スラックスをジーンズに履き替え、職場を出発。道はわかっているので最短距離をとったが、最終的に、ちょうど2時間歩き続けたところでギブアップ。家の最寄駅の2駅前で計画は頓挫した。まあ、走っているわけではなく、歩いての挑戦なので、無理すれば完走、というか完歩できたと思うが、足の筋肉が張ってきて、これ以上歩くと後日に引きずることが何となくわかったからのリタイアだ。また、近いうちに挑戦する予定。その後、2駅電車で移動し、栄養補給のために沖縄料理屋に入り、リラックス。お気に入りのフーチャンプルーを食べて、至極満足だった。今日は、息子と一緒に小金井公園に行き、息子が自転車でサイクリングコースを走るのを追いかけて走った。息子の自転車は補助輪つきなので、まだ全速力でもそこまでは速くない。それでも、走って追いかけると、4~5分のコースで、自分の限界までスピードを上げてやっと息子の自転車と同じくらいでゴールできる。これを4周やったので、インターバル走としてはまあまあの運動量か。何にせよ、こうした様子見の短い時間の全速力と長時間の歩きを何度か試していたので、ジョギングを再開できるかもしれないという実感が起こりつつある。本当に膝が治っていればありがたいことで、人生の一つの目標であるフルマラソン完走への道が開ける。これも、毎日部活で10キロくらい走らされてた中学時代に挑戦してたら結構完走は現実的だったように思うが、そういった時期でない中での挑戦というのも、またいい。東京マラソンは今年も大人気だったようで、競争率も激しい。今年は申し込みすらかなわなかったが、膝が許せば、来年こそは申し込みたい。
2007.09.09
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ここしばらく、過去に自分が好きだった曲を片っ端から借りてきて、聴きなおしている。行きつけはTSUTAYAで、やはり品揃えは充実している。近くのレンタル屋は既に業務を変えていて、レンタルビデオはレンタルDVDになり、漫画をレンタルし始める一方でCDのレンタルをやめてしまった。最近は着歌ダウンロードが主流かと思うので、この商売転換は、結構合理的かもしれない。さておき、TSUTAYAなので、何でもそろっている。必然、少しマイナー系のものも借りてみたりする。先日借りてきた中では、改めて聴きなおして感動していたのが「ICE」と「シュガーベイブ」。ICEは、「MOON CHILD」という曲1曲だけが秀逸で、あとは結構ありふれたもの。ただ、この1曲が個人的な趣味として、飛びぬけていい。これが才能によるものなのか、偶然の産物なのかはわからない。シュガーベイブは、山下達郎がデビューしたグループということらしいが、「SHOW」や「DOWN TOWN」は、今聴いても古さがない。このアルバムにはデモ版の「パレード」も入っていて、これは山下達郎のソロ版とは違った良さがある。こうした曲を聴きながら、カタルシスを感じた。ここしばらく、このカタルシスと言えるような感覚には出会ってなかったことを改めて思い知る。単なる感動と、「カタルシス」は、同じようで大分違う。感動を日々積み重ねていくことも良いが、カタルシスと呼べる感情の後は本当に体のなかで何かが変わる気がする。百聞は一見に、の聞が感動で見がカタルシス、というくらいの差か。銀のキョロちゃんと金のキョロちゃん程度かもしれないが。以前にも書いた人間が生きるうえでの価値として「体験価値」というのがあるということらしいが、このカタルシスという現象は、まさにそれなんだろう。その体験の種類の中でも、美しい景色に触れたときの体験というのは、日常生活では得がたい。旅を続ける人ならそれでも多くの体験ができるかもしれないが、皆がそういうわけには行かない。日々の暮らしで感動することはあるが、通常の生活の中ではカタルシス、というレベルには到達しない。そこで、芸術の出番になる。崇高な芸術から大衆芸術まで、芸術の種類には多々ある。その種類によって何が優れて何が劣って、ということはないと思うが、いろいろな芸術でカタルシスを覚えた経験を持つものとしては、あらゆる種類の芸術にありがたみを覚える。というか、我々の普通の暮らしの中では、芸術以外からカタルシスを覚えるチャンスは無いと言い切っていい。子供を持つ身としては、フットワーク軽く出かけることは難しい。必然、体験の範囲も限られてくる。そんな中、「カタルシス」に繋がる体験をどこでどう確保するか、しっかり考えていかないといけない。まずは、音楽から攻めてるけど。
2007.09.06
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世界陸上が大阪で始まっていて、時間がある範囲で見ている。マンネリ化はしている感じがあるが、織田裕二と中井美穂の司会を見ると、「また来たなあ」と感じる部分もある。良いマンネリと悪いマンネリがあるとすれば、どちらかと言えば前者だ。個人的には。織田裕二は、この世界陸上に向けて、「ぴあ」でインタビューを受けていたが、その中で、「選手には『プレッシャーをかけないで』とは言って欲しくない。誰にも注目されない中で走ったりしても寂しいだけだろうし、それなら見てもらっていることに積極的になってほしい」といった類のことを言っていた。これ、結構気に入った言葉だ。その織田裕二も言っているが、陸上は至ってシンプルな競技だ。余分なものをそぎ落とし、「これを競う」というポイントを疑いがないくらいに浮き上がらせる。早く走る、遠くまで飛ぶ/飛ばす、高く飛ぶ。わかり易いだけに判定に疑いもないし、その強者の魅力がよくわかる。あるいみ、世界中のどこの国の人でも、メジャーさえあれば同じ土俵で競技が一応できる。まあ、陸上競技場に「高速トラック」があるかどうかは別として。今、同僚がチームを作って駅伝に参加の応募をし、また、皆が東京マラソンに応募したりしている。自分自身、膝の痛みの再発が怖くてまだジョギングを再開していないので、この同僚の動きは見守る立場だが、あらためて走れることの喜びを思い知らされる。走る、というアクションは人間の動きの本質的なものであって、それが思いっきりできているときには体の中で大きな欲求が満たされる感覚は確かにある。そういう肉体の本質的な欲求というものの延長線上に世界陸上のような晴れ舞台がある。今はせいぜい、観る方で楽しんでおこうと思う。
2007.08.27
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ドライブするときには、その時々の歌をかけるようにしている。選曲は自分自身でやるので、当然好みはでるが、それなりに売れている曲はカバーするようにしている。息子はドライブが好きだが、これは車が好きというよりは、ドライブ中にかかっている曲を聴くのが好きという感じだ。息子ももう6歳なので、ある程度好みというのはあらわれる。これまでのところ、新しい曲が流れる度に反応するのは、ケツメイシとスピッツ。特にケツメイシはトレインがお気に入りの様子。今はスピッツの群青が好きらしい。ちょっと昔はDJ-OZMAの純情。あまり好みに統一性がない。自分が子供の頃を振り返ると、姉がピンクレディーのカセット(アルバム)を誕生日プレゼントか何かで買ってもらったことがあったようで、それを文字通り擦り切れるまで聴いていた。必然、私も記憶のどこかに曲が残っていて、誰も知らない「逃げろお嬢さん」とか、メロディが浮かぶ。逃げろお嬢さんはともかく、ピンクレディーのヒット曲は誰でもが知っていた。昔のヒット曲は、息が長かったので、結構世代を経ても共通の話題として語れたりする。音楽番組もゴールデンタイムにやってたし。それに引き換え、今のヒット曲はサイクルが早い。発売週に大きく売れて、翌週には大きく落ちる。上の曲で言えば、トレインの方がまだ息は長いけど、群青はあっという間に消え去り、多分、スピッツファンの記憶にしか残らないだろう。ただ、近年は、いい曲が埋もれてしまっても再発掘されて息を吹きかえすことがあって、それが紅白歌合戦。昔はひとしきり流行った曲がその役割を紅白で閉じるような感じだったと思うが、最近では良い曲が認知されるまもなく一旦消え去ってしまうので、紅白で発掘されてからが一般への定着時期にもなったりする。そもそも、「千の風になって」は、普通の人には知られるはずもなかった曲だし。今年は今のところ、千の風と「花より男子」の2曲以外は、あまり社会的認知を受けてないような印象がある。いい曲は沢山あると思うので、是非、紅白で掘り出して欲しい。息子のお気に入りも含めて。ちなみに、私の好みは「ズッコケ男道」。これも紅白向きだと思う。
2007.08.21
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最近本を読んでいない気がしたので、今日、本屋で何か1冊買って読もうと思いたった。人によっては本は借りるものであったり、買うにしても古本屋に行くものだったりすると思うが、自分自身の性分として、本は新しいものを本屋で買いたい。理由については自分の心の奥底にあるのかもしれないが、借りた本や古本だと、読むのに長続きしない。買って読んでこそ、最後まで読みきれる。で、読み終わった本については、よほど思い入れがない限りは古本屋に売る。もし、「もう一度読みたい」と思うことがあったら、そのときにまた買えばいいと割り切る。どうせ、一生のうちに何冊も2度以上読む本は出てこないだろうから。これまでの本選びは、基本的にタイトルや内容を中心としていた。興味がある話題なら、誰が書いているかは問わない。その結果、それなりに「思わぬ発見」といえる本にめぐり合えた気がする。でも、今日は趣向を変えて、有名な人の本を手に取ろうと思った。買った本は、戸塚宏の「本能の力」。自分が小さい頃で印象に残っている戸塚ヨットスクールの印象は、「ビシビシ鍛えすぎて生徒が死んだ」というもの。多分、報道一般がキャリーした情報の総合的な印象はこんなもんなんだろう。今日買って、帰りの通勤電車の中で読んだだけなので、まだ50ページ程度だが、彼の議論する子育て論については、私自身の持っていた感覚に近い。私自身、子供との関係では父親の絶対的な存在感を植え付け、いつも強くてブレない態度を目指しているつもり。そうした絶対的な理屈ではない存在があって、子供は何かに従うことを身に着ける気がする。それなくしては、単なる甘やかされた身勝手な子供になると思う。あと、彼の言う「良い体罰」と「悪い体罰」、これを医学に通じた医者による治療と素人医師による真似事のように例えているのもわかりやすい。彼は、彼らの体罰によって人が死んだわけではないと主張している。別の部分では瑕疵はあるのだが、体罰自体は、相手のことを考えた「良い体罰」らしい。実際のところ、彼らのやり方の中で人が数名死亡ないし不明になったので、あまり軽く物を言えるものではないが、その事件の評価とは別に彼の論調を見れば、うなづける部分は非常に多い。米国のようなスーパーパワーが存在することで世界の平和は保たれるという考え方もあり、これについてもパワーの使い方の是非はともかく、一定の論理はある。権利や自由が万人に与えられるべきとされる中、他人の権利や自由を不当に侵害しながら自己の権利や自由を主張する行為が横行する場合がままある。そこを裁くための手段がルールであって、そのルールを管理すべき人には何らかの地位と力が不可欠なのは間違いない。まあ、米国のルールを誰が決めているかは別として。学級崩壊の一因として、教師に対する尊敬の念がいろいろな形で消し飛んでしまったことと、教師が生徒を従わせるべき手段を失ってしまったことがあると思う。つまり、教師の地位と力がなくなる中、生徒自身の規範も幼児期に形成されず、どうにもまとまらないというのが実際かと思う。家庭レベルでこれを見ても、子供が親を尊敬や畏敬の対象とせず、かつ親も子供をしからない場合には、子供がどう育つかは自ずと見える。人は易きに流れるし、それが人格形成前の子供なら尚更だ。大体、本の傾向はわかったので、後は流し読みになるだろうが、わかり易くて良い本だと思う。無論、事件の遺族や関係者には許せないものなんだろうけど、仮に彼の文章が偽善だとしても、事件に関係していない人にとっては考えるところは多いだろう。
2007.08.20
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夏季休暇をとって休んでいるが、とにかく暑い。汗が出るので、よく着替えて洗濯するが、それらの乾きもすこぶるいい。昔、オーストラリアのエアーズロックに行ったとき、やはり現地で洗濯をして、それが見る見る乾いて2時間もするとからっから、というのに快感をおぼえた。今の状況はそれに近い。エアコンのドライは、本当に大きな発明だと思う。ドライの原理は高校あたりの理科で習った記憶があるが、その根本理論は中学理科か。空気中に許容される水分の量は温度によって異なり、低温ほど結露しやすい。一旦低温・高圧にして水分を結露させ、その水分を取り除いた後に空気を部屋に開放し、湿気た空気と入れ替える。多分、そんな機構だ。送り出された乾いた空気には水分を保持する余裕ができるから、洗濯物から水分を奪い取ってくれる。そんなわけで、ドライの効いた部屋で洗濯物を干しながらゆっくり過ごす、というのは一つの嬉しさの典型になっている。感覚は、コタツでアイスとかと概ね同類。部屋を冷やしすぎるのは省エネに反するから、「冷房を強くして毛布にくるまる」贅沢は、なるべく避けるようにはしている。ただ、あまりのんびり出来ないのは小さい子供持ちの家庭特有の事情であって、退屈した子供は親を攻めに来る。子供の立場に立てば相手をしてやらないとかわいそうなので、そこそこに対応する。すると、調子に乗ってもっと攻めてくる。気が休まらない。休みに入りはしたものの、仕事の一部が継続中で、夕飯後に出勤し、1時間程度仕事をしてまた帰ってくる。これをこの2日間行っているが、行きの電車は通勤の流れとは逆向きなので、快適この上ない。お盆休みで新しい雑誌もあまり出てないので、夕刊フジを買って電車に乗り込む。子供への対応から開放されてほっとしながらタブロイド紙を開く、というのは、いかにも典型的なオヤジ像だ。これに安息を求めちゃ終わりだな、と思いつつ、心の中では贅沢感を味わっているのを否定できない。まずい。
2007.08.15
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沢山書いてたら、また、エスケープ・キーを間違って一回押したら全て消えた。すごく空しい。普通、こういったものが消えたときには「元に戻す」で戻りそうだけど、それが効かない。まあ、消えた内容はまたいつか、気が向いたら書こうと思う。同じ内容を今打ち直す気はしない。今日は子供と「としまえん」に行ってきた。プールと遊園地の両方に行き、丸一日過ごしたが、地獄のような暑さだった。相当ひどく日焼けしたと思うので、今後が心配だ。プールも半ば命がけだし、最近は遊園地も命がけの娯楽になりつつある。飛行機事故や、ましてや交通事故ほどに危ないとは思わないけど。としまえんは、アトラクションは昔からそんなに変わっていないと思う。多彩なプールと、シャトルループやフライングパイレーツなどの目玉の乗り物で、プールと遊園地のどちらか一つでも満足できるし、その両方を楽しむこともスムーズにできる。こういうところの近くに住んで、年間パスポートなんかを入手したら、まさに天国だろう。前回行ったときは自分は高校生か大学生だったと思う。今回は、社会人として、また、子供の視点でとしまえんを見たわけだが、そういう幅広い視点から見たときに、ここの強さである「穴のなさ」がわかる。ご老人はともかく、他のあらゆる世代にとって、一日では飽き足らない幅広いアトラクションが用意されている。ウォータースライダーなども、子供用のおもちゃ級から慎重制限のある本格派まであるので、成長に従ってレベルアップが図れる。出来の良いRPGのようなもの。隠れたお勧めは、「模型列車」。どう考えても子供向きだが、トークは超シニカルで、やる気が感じられない、その筋が好きな人にはたまらないだろうもの。まあ、モラルに厳しい親がいたら、怒り心頭かもしれないけど。
2007.08.14
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先の参議院選挙の結果で、民主党が勝ったことを機に、参議院ではクールビズはやめてネクタイ着用を義務化する動きがあるとのこと。はっきり言って、ネクタイは窮屈だ。高温多湿の日本で首の周りに汗をかくのはかなり厳しい。からっとした気候の地域ならまだしも、日本にネクタイはあまり適してない。で、クールビズは、年を経るごとにサラリーマンのファッションセンスを少しずつ変えてきているような気がする。始めの年は、スーツ - ネクタイ = クールビズ、という感じだったけど、ワイシャツなどでもクールビズ仕様ができてきて、大分いい感じになってきていると思っている。ただ、一方で、クールビズは地球温暖化問題に端を発するものなので、その効果の点から考える必要もあるかもしれない。男性は、ネクタイ着用時に比べて、ネクタイをしないときは体感温度が2度下がるという。その分、冷房温度を高めに設定できる、というのが、元々の狙いだったはずである。でも、実際に街を歩いて、冷房温度の設定が上がっているようには、あまり感じられない。むしろ、ネクタイをして「暑い」と実感したほうが、温暖化を身近な問題として捉えられるのかもしれない。だとすれば、参議院の目指す方向性は一理ある。逆の側面からすれば、いずれにしても暑いと仕事の効率が落ちるので、より過ごしやすい形で仕事に望んだほうが、仕事を早く切り上げられるだろう。オフィスに人がいなくなれば、エアコンはオフになる。それは大きな効率化だと思う。サマータイムの導入も省エネにつながるかどうか、といろいろ議論がある。結構、案ずるより産むが易し、ということもあって、あれこれ考える前に両方試してから比べてみる、というのがわかり易い。こういった効果の議論がどれくらいされているかは知る由もないが、今回の参議院のネクタイ着用は、ひとえに自民党の決めた政策に反対したい民主党の政治的なポーズということかと思う。であれば、いずれにしても議会の中で勝手にやって欲しい。いずれにしても社会はラフなスタイルが認められるようになっているだろうし、それは悪くない。少なくとも、日本の気候に合わないネクタイを取り去ることを契機に、ファッションセンスが底上げされつつあるとすれば、クールビズは良い政策だったかもしれない。自分自身を省みれば、通勤をリュックで行っているので、あまり型式ばったスタイルには戻れない気がする。願わくば、そうしたスタイルが許容される環境であり続けて欲しい。
2007.08.10
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10日間の出張に行ってきた。行き先は中央アジアで、ウズベキスタンとキルギスという国。はっきり言って、どちらも行く前にイメージを作りづらかったので、行ってみてからいろいろと考えることがあった。ただ、それはそれ。帰りの飛行機がキルギスのビシュケクからトルコのイスタンブールとドイツのハンブルグ経由。1日仕事をし、その夜の午前3時に飛行機に乗りはじめ、丸1日かけて日本に戻る。この間、まったく横になって寝られないのは厳しい。ところで、ここしばらく、飛行機に乗ったとき、通路側を要求することが多かった。トイレに立つときに人をどかすのが何となくわずらわしいし、体を動かせる範囲が少しひろいので。でも、今回の長い帰路では、久しぶりに窓側に座る時間が多かった。昔、空中からの映像といえば、「久米宏のTVスクランブル」のエンディングだった。飛行機かヘリかから撮影された海岸沿いの空中映像は、魅力的だった。往年の名作ゲームのゼビウスを彷彿とさせた。今は、グーグル・マップの写真のモードで世界旅行気分は十分味わえる。本当はグーグル・アースの方がいいかもしれないけど、空からの映像ということで言えばグーグル・マップでいい。でも、実際に空から見る臨場感というのは、改めていいと感じた。大きな町や集落を発見すると、「何でこの場所に人が集まったんだろう。水があるから?自然災害を受けにくいから?近くに産業があるから?」などと考えて、想像してみる。もちろん、正しい答えなんかわかるはずもないけど。個人的には、空からフットボール・スタジアムを見つけたときは、何となく嬉しくなる。何もないような地域でも、その地域の人がそこに楽しみを見つけて集っていたのかと想像する。最近読んだ何かで、「サッカーは平和を作り出せなくても、日々の辛さをその試合の時間でも忘れさせることができる」というようなことを言っている人がいた。別にサッカーでなくても、酒でも音楽でも、本当は何だって当てはまるのかもしれないことだけど、いい言葉だなと思った。人は多分、自分で思うほど弱くもないし、強くもない。歯を食いしばってでも頑張ることで道は開けていくことが多いけど、そればかりではどこかでポキッと折れてしまうこともある。そんなときの逃げ道として、サッカーは結構、健全だと思う。そこにいる多くの他人とその感動を共有できる、というのもいい。他人と何かがつながっていることを感じることで、活力が充電されていくというの実際に多いと思うし。飛行機が日本列島に入ってからは、当然ながら日本の地方の町並みが見える。そこには、点在するダムやゴルフ場、平地に満遍なく広がる家々と、列車の線路に沿って現れる大きな街と、きれいに区切られた農地。日本の土地の使い方はすごく理にかなっているな、と感じた。使えるものは何でも有効に使う、というのが日本らしい。結局、外国に行っても、「日本がいい」と思うのは、こういったわかり易さが居心地の良さに繋がっているのかもしれない。
2007.08.09
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息子の6歳の誕生日がまもなく来る。誕生プレゼントは既に決まっていて、自転車だ。ただ、息子の誕生日直前まで妻が海外出張で、その翌日からは自分が海外出張で、息子と自転車を選びに行くのは当分後になりそうだ。そこで、それまでのつなぎ的に息子が好きな恐竜にちなみ、恐竜レゴを「プレ誕生プレゼント」として買った。息子にだけ何かあげると娘が不満を持つので、同じおもちゃやでドロロのプラモを買った。どちらも昨晩あげたが、反応は良くわからない。恐らく、今日、少し遊んでいるだろうけど、今日は子供を実家に預けてあるのでどうだったかは知らない。そもそも、娘はケロロ軍曹とか、知らないし。娘には、昨晩プラモを組み立てて、「ケロロ君ひどいよー」という台詞だけ教えておいた。今、部屋の中にはいろんな顔がついているものがあふれていて、そうしたものはちょっと捨てづらい。いらなくなったものはどんどん捨てたいが、顔がついていると捨てづらい。最も困っているのは、からくり人形で、お茶を運ぶやつ。組み立てキットを買ってきて組み立てたが、ギアが空回りして動かない。動かないとこれはただの邪魔者になる。でも、顔がリアルだから捨てづらい。このからくり人形はともかく、日本のキャラクターは、間違いなく可愛い。欧米の子供用製品は、大抵悪意に満ちた目をしているが、日本のものは、ほぼ間違いなく純真なキラキラした目か、つぶらな目をしている。なので、一つ一つにすごく愛着がわく。愛着がわいたら、それを捨てようとするときには魂が宿っているような気がしてくる。とすると、ドロロ君が壊れて捨てようとすることがあっても、「ひどいよー」と目がうったえて、捨てられないかも。こうしてモノは増えていく。場所がないのに。
2007.07.24
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最近は、テレビでサッカーの日本戦が多く放送されている。U20ワールドカップは負けてしまったが、アジアカップは真っ最中。ヨーロッパでユーロに向ける人々の情熱とはかけ離れてるが、アジアカップはアジアカップなりに熱いと思う。特に、今回は初戦で予想外に引き分けたので、グループリーグ2戦目なのにクライマックスが始まっている。オシム監督は、「日本のサッカーを日本化する」と言って就任した。良い言葉だ。サッカーはアイデンティティがないと、本当の盛り上がりにはつながらないだろうことは、世界を見ていても日本のJリーグを見ていても良くわかる。今シーズン、たとえ甲府がJ2落ちの危機にあっても、築かれた甲府スタイルは確実にファンを増やしていそうだ。これが踏襲されつづけるなら、甲府の未来は明るい。イギリスで見ていたサッカー(フットボール)は、確かにイングランドスタイルだった。速い展開と激しいチェックの中でも労を惜しまずに動き、最高峰のテクニックを競い合う。プレミアリーグも未来は明るそうだ。で、日本化。人もボールも動くサッカーということだが、アジアカップ初戦はその通り、人もボールも動いていたが、目の前に広大なスペースが広がっていてもドリブルを選択せずにパスをする。おかげでゴールに直結しないパスが多い。今回に限ったことでないが、監督から「ボールを持ちすぎるな」といわれているのを、いつでも実践してしまっているのではないかと思う。これが、若い世代の代表だと、ゴールに向かって人もボールも動く。オシム監督のキャッチフレーズは、下のカテゴリーでより早く具現化しているような気がした。だからこそ、U20代表が負けたのは残念だ。やはり、ワンタッチで回すのはスイッチが入ってからで良いと思う。スイッチを入れるタイミングは、相手のスペースにドリブルや楔のパスで侵入し、相手を引き付けて陣形を崩したときではないか。そこからは「持ちすぎるな」「ワンタッチ」でいい。今日の試合は、その点、相手を引き付けながら次のパスを早く展開していたように見えたので、見ていて楽しかった。意図があるプレー、という印象。この意識が続くのなら、日本サッカーの未来も明るいと思う。昔から日本のサッカーの一つの理想はメキシコのスタイルとも言われている。実際、彼らはスピードにあふれ、惜しみない動きを展開しながら、かつ技術を存分に発揮する。一方で、そんなメキシコですら、ワールドカップでは常に優勝争いに絡めない、ということで、このスタイルに限界を唱える向きもある。両論ある中、それでも日本スタイルの理想はメキシカンに近いと思うし、それで世界の頂点が取れなくても、サッカーの魅力は存分に伝わると思う。留学中、メキシコ人と結構知り合ったが、誰も彼も、ナイスガイだった。勉強にも遊びにも前向きで、労は惜しまないし、楽しさもとことん追求する。多分、国民性のなせる業だと思うのだが、日本人に近いメンタリティがあそこの国にはありそうだ。最近、日本は減点方式の社会になっていて閉塞感が非常に強いと思うので、日常生活もサッカーも前向きに生き生きと展開していくメキシコにもっと学んでいいと思う。
2007.07.13
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自分自身、どちらかと言うと、晴れ男だと思う。勿論、全ての外出日に晴れるはずはなく、自分が予定を立てて本当に何かをしたいと思った日に雨が降ることが少ない。こうした晴れ男、雨男というのは、確率論以上の流れを引き寄せる人のことを言うものだと思うが、こうした運の流れというのは確かに存在すると思う。裏を返せば、どこかでその流れに変化が生じると、晴れ男が一転、雨男になってしまうこともありそうだ。流れはある種、ジンクスとして解釈してもいいだろう。この流れを変えないためのコツとしては、「自分にはこういう流れがある」と信じてしまうことだと思う。いわゆる、「裏づけのない自信」というもの。この言葉、大好きな漫画の「究極超人あ~る」に出てくるものだが、好きでよく使っている。世の中のジンクスは結構いい加減なもので、例えば、サッカーで「○○選手が点を取ったゲームは負けない」などとある。元々、「勝つ」でなく、「負けない」と言っていることでジンクスが発生するハードルは下がっているし、当然、その選手が点を取っているわけだから、相手を1点以内におさえればゲームには負けない。この類のマジックは多い。これを自分の例の照らせば、「晴れ男」といいつつ、「雨が降ることが少ない」と、相当ハードルを下げていたりする。本当の晴れ男なら、曇りにすらならないはずだから。さておき、今週末は3連休だが、だいぶ前からうちの家族に姉の家族、それに両親と、総出で海にいくことにしていた。何となく、今年の梅雨明けは早い予感がしていて、大丈夫だろうと楽観視していた。でも、どうやら3日とも天気が悪そうだ。特に、台風接近の影響は避けがたい。晴れ男を自認する者としては、旗色悪い。こうした時の対応には2通りあって、1つ目は、自分の晴れ男を返上すること。これは、上の論法からすると悪い流れを引き寄せることになるので良い選択肢ではない。2つ目は、それでも晴れ男だというポジションを取ること。理由付けとして、「たまたま降った」というのは強引すぎるので、やはり「大人数の旅行なので、自分より強力な雨男・雨女がいるはず」と考えるのが良い。そうすると、今回の件はノーカウントにできる。どう解釈しようとも、3連休、海の近くにいて移動手段もなく、雨が降る。そうした中での対応をこの一両日で考えるのは、ちょと悩ましい問題だ。紙を沢山持っていって、現地でてるてる坊主でも作るのもいいかもしれない。ただ、それでも雨は降るだろうから、てるてる坊主が彼らからの評判を無駄に落とすことになるけど。
2007.07.12
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先般、久しぶりに娘に雑誌「ベビーブック」を買った。1歳から3歳向けだが、娘は2歳とちょっと。ちょうど、中間なのでレベルは合ってると思う。最近の幼児用の雑誌についている付録は、どれも感心するほどに芸が細かい。今回買ったのはアンパンマンのごみ収集車で、組み立てると車の形になり、それを転がすと道に転がっているごみ(これも紙でできてる)をどんどん車のタンクに取り込んでいく。組み立てはシンプルで、糊も使わずに簡単に作ることができる。まあ、2歳児や3歳児には作れないけど。子供用の雑誌のみならず、子供用の番組も同様に進化が著しい。特に、NHK教育でやっている「クインテッド」や「ピタゴラスイッチ」、あと8時半からやるクレイアニメ系のもの(「ニョッキ」とか)は、よくも毎日毎日これだけのものを作り出せるものだと関心しきりである。多分、こうした番組を制作するのはNHK自身でなく、制作会社によるものなんだろう。雑誌の付録も小学館自身が作っているのかどうかは微妙である。雑誌を見ても、「付録制作:○○社」などとは書いていない。名も知れぬ優れたクリエイター達が市井には沢山いるのだろう。是非、彼らには報われてもらいたいものだ。だが、こうした素晴らしい作品群は、そのすごさがあまり実感できないであろう子供たちの一時的な楽しみの中に消費され、まもなく忘れ去られていく。私は、「からくり時計展」などを見つけるとすぐに足を運ぶタイプだが、こうした雑誌の付録だけでも、その仕組みも解説した展示会を開いたら、十分に成立するのではないかと思う。また、NHKの番組も、ビデオなどで保管したいニーズが十分にありそうだ。実際、ピタゴラスイッチは、DVDが販売されている。多分、これは子供だけがターゲットというよりは、メカ好きな30代男性あたりが本当のターゲットではないかと推察している。こうしたものが市場として十分に成立していないとすれば、それは作品のクオリティの問題では全くなくて、そうした番組や付録を知る人がいないことにあるんだと思う。情報の不完全性による需給ギャップの派生というところか。こういう遊び心をくすぐられるのは、勝手な決め付けだが、多分、独身男性に多い。他方、独身男性は幼児雑誌を買うことはないし、子供用のNHK教育の番組も見ない。願わくば、いつか、再び日の目を見るときまで、こうした作品群が何らかの形でうまく保存されておいて欲しいと思う。また、そのクリエイター達の名前もちゃんと残っていて欲しい。(著作権管理を放棄すれば、作品だけならyoutube的なところに残りそうだけど。)
2007.07.09
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この間、ランチに銀座コリドー街にある和食屋に行った。同僚がお勧めのハンバーグランチで、「豚肉100%」というのが売りだ。行ってみて注文してみると、店は満員に近く、「ハンバーグあと何食ある?」と確認しながら容易するほど売れ行きがいい。食べてみた感想としては、正統派に美味しかった。肉は硬すぎずやわらかすぎずで、肉汁もたっぷり。量はそんなに多くないけど、食べ終わった後は満足した。焼肉なんかでも牛は重宝がられるが、個人的には豚肉も負けず劣らずに好きだ。それぞれに別の美味しさがあり、どちらが上というのを比べるのは一概にはできない。で、ミート・ホープの偽装事件。牛100%と言いながら豚肉やら何やらを混ぜていたということで大問題になっている。自分自身、コロッケに豚肉が混ざっていても美味しければよいと思うが、うそは良くない。現に、「豚肉100%」を売りにしている店が大繁盛しているわけだし、むしろ、「豚肉も使っているのにこんなに美味しい」という路線で売ってくれた方がすがすがしい。まあ、今どき、消費者は製造者の言うことが100%正しいと信じている人はいないと思う。こうした店頭に並んでいるものですら信頼できないのであれば、表示義務の何もない外食産業などはなおさら保障がない。中国産の食物で毒だの薬だのが混入というニュースが飛び交う中、本当に安全なものを食べたければ、なるべく素材から自分で洗って作って、とやっていかないといけない。極論すれば「育てて」からか。でも肥料や飼料まで作るわけには行かない。結局、全ては程度問題だ。体に悪いものをヒステリックに全て排除しようとすれば、それが無理だとわかったときの絶望は深い。ならばと何も気にせずに何でも食べていると、いずれ体に悪いものが蓄積して不調をきたす。消費者の心構えとしては、「表示されているものはちょっと割り引いて信じ、料理はなるべく自分で作る」という努力義務までがせいぜいだろう。今回の問題は豚肉混入なので個人的な利害はない。イスラム教でもないし。ただ、これが「小麦フリーの食品に大量に小麦が混入」となったら我が家の娘の、文字通り死活問題なので、そういう悪い巡り会わせがないよう、食べ物の神様に祈らないといけない。
2007.07.05
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最近、二度、「いっしょくた」という言葉を聞いた。どちらも他人が話した言葉であって、たまたまメモをとらないといけない状況だった。で、字を考え、辞書を引きながら「一緒くた」であることがわかった。「一緒」はわかるけど、「くた」は何なのか、今でも良くわからない。同僚は、「一色単」とメモしていた。こちらは辞書にはないが、この漢字だったとしても意味としては不思議ではない。言葉というのは用例の積み重ねと、その派生の積み重ねによって、時代とともに変化をしながら使われていくものである。特に、日本語はそうした変化のバリエーションが豊富で難しい。「やんなきゃなんない」という言葉があって、英語ならmust doか、have to doでいい。これは、文法上理解しやすい。でも、先の日本語の場合、一度正しく戻して「やらなくてはならない」とした上で、『動詞の「やる」と、否定の「ない」のそれぞれを活用し、助詞の「て」でつなぎ、その全体が主語になるからその位置づけを示す「は」を入れ、述語として「なる」で受けながら二重否定の「ない」で締め、"can't be without doing"というニュアンスで表現したもの』と説明した上で、『「やら」が訛って「やん」、「なくては」を縮めて「なきゃ」、「ならない」を口語的に「なんない」とする』とでも言わないと文法上説明できない。恐らく、理詰めで語学を勉強しようとする外国人にはとてつもなく高いハードルが日本語にはある。今、台湾の友人が日本語を勉強中だが、大変だと思う。五十音を覚えてしまえれば何でも読めるので、初心者にとっては簡単に見えるが、その先が底なし沼という恐ろしい言語だと思う。日本人でよかった。結局、日本語は理屈を超えた感性の言語なんだろう。であれば、理屈上よくわからない言葉がついている「一緒くた」よりも、感覚的に同質化の意味につながりやすい「一色単」の方が良い漢字の当て方のようにも思えてくる。日本語は使えば使うほど、それが容易に正当な意味を持つ言語だと思う。「全然OK」などはその典型。ならば、「いっしょくた」にこの当て字を使って広めてみても良いかもしれない。それはさておき、今年の流行語大賞は、「どんだけー」になると思う。だいぶ早い予想だけど。どんだけー
2007.07.04
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巷ではビリーが話題になっているらしい、というのがヤフーなどを見ていても伝わってくるが、普通の勤め人としては、ほとんどテレビを見ることもないので、ビリーが何かはわからない。というか、わからなかった。こんな時に便利なのがyoutubeで、ビリーの映像を確認することができた。ブートキャンプというのが米国の軍隊式のエクセサイズだというのは、その映像を見ると何となくわかる。全身運動の中に、格闘系の動きが取り込まれている。でも、なぜ、ビリーでなくてはいけないか。これはやっぱり、彼の人への接し方に尽きると思う。「みんなやってみて」でも、「頑張ろう」でも、「一緒にやろう」でも、メッセージとしてはありきたり。やはり、「きみの力を見せてくれ」と持ち上げて、「グッジョブ」ということで、良く出来たことを確認する。それを無邪気にみんなで喜ぶ。この一連の流れがいい。人を動かすには「なだめすかし」ということなんだろうけど、本当に何かを達成するには継続的な努力が必要。その継続性はマンネリと表裏一体で、マンネリの打破には工夫がいる。ビリーのエクセサイズは数週間でダイエットなどの効果を現すようだが、その数週間を乗り切れるだけの人を乗せる強みが彼にはありそうだ。最近愛読しているドラゴン桜でも、やはり人を前向きにするために大げさに誉めるというのがすすめられていたが、こういうポジティブなメッセージというのは最近の世の中に足りないだろうから、効果も高いんだろう。少し、いろいろなところで、ビリー的なアプローチを試してみようかと思う。
2007.06.26
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息子と娘に食物アレルギーがあり、特に娘の小麦アレルギーは厄介だ。パンやうどんはともかく、醤油などの調味料にも、大抵は小麦が入っている。アレルギー物質の表示義務のおかげで間違って口にすることはないが、とにかく食べられるものを探すのは大変だ。そんな中、自分で試行錯誤しながら料理を作ることが多い。そうしたレパートリーの一つに麻婆豆腐がある。市販のソースを買ってくると必ず小麦が入っているので、味付けは自分でする。みりんと日本酒、それに塩を基調にしながら、特別な店で売っている小麦フリーの醤油を加え、すり下ろしにんにくを混ぜる。あとは豆腐とひき肉で、そこそこ美味しいのだが、どうしても毎回の味にばらつきが出るし、パンチがない。そんな中、最近、いろいろな調味料を見て回る中でオイスターソースに小麦フリーのものがあることがわかった。他にも、魚醤で小麦フリーがあったが、ひとまずオイスターソースを買ってきて、今日、麻婆豆腐の味付けに使ってみた。結果、大きく前進。いい味がでるようになった。こうした子供のアレルギーで苦労することも多いが、料理に対して非常に真摯に向かうようになったのは良いことかもしれない。味付けの一つ一つを考え直し、どんな調味料が使えないときには何が代わりになるかを考える。その際に、今まで見向きもしなかった食材や調味料に触れることがあり、それが料理の幅を広げる。非常に良いことだと思う。でも、所詮料理人ではないので、「そんなことに真摯に取り組んで何になる?」と問われても答えはないけど。
2007.06.23
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気候変動のせいか、空梅雨っぽさがない。おかげで、外を気持ちよく歩けるのが良い。今週は、帰宅ルートをいつもと大きく変え、遠回りをして帰っている。特に、月曜日は職場から新宿まで、1時間弱歩いた。仕事後なので汗をかいても問題ないし、ちょうど良いリフレッシュになる。車の排気ガスは気になるけど。自分の足で歩くと、メンタルマップが良く整理される。場所と場所の関係が肌身で実感でき、どこにでも自然にいけるようになる。車でも、これは同様だと思う。自分で運転すると、道は良く頭に入る。誰かの運転だと、全く頭に入らない。ただ、最近はカーナビを愛用していて、自分で運転していても、昔よりも道が頭に入らなくなってきている。やはり、地図を自分で見ながら、目的地を確認しつつ考えるステップが重要なのかと思う。何でも便利になると、何も覚えなくても世の中うまく回る。漢字が書けなくても、変換したときにどれが正しいかだけわかれば文章は書ける。暗算ができなくても、計算方法だけわかっていれば、表計算ソフトや電卓が答えを出す。これは便利だが、味気ない。この便利さと味気なさを天秤にかけながら、たまには無駄な知識や能力を蓄えてみる。こうした無駄が、ある意味で現代のわびさびと言えるかもしれない。で、職場から新宿までの徒歩の近道を今後も追及しようと考えている。
2007.06.21
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新しく敷布団を買った。値段は5千円くらいで、結果は「ぎりぎり及第点」といったところ。ただ、長時間寝た後には腰に重さが残る。この重さが曲者で、じわじわと体を痛めつけるようになる。腰に筋肉をつけるのも一つの手だろうと思っているが、ただ、良いトレーニングの方法もわからなければ、それを続ける根性もない。そこで、巷で名高い(?)ロデオボーイIIを買おうと画策している。妻に相談すると、「置き場所があればいいけど」と、柔らかな否定反応を得た。ただ、裏返せば、置き場所を確保すれば許容されるということで、今はその場所の選定に入っている。他方、どれを買うかの選択は難しい。市場価格では、安い乗馬機は2万円、高いのになると10万円を越す。たかが乗馬機に10万円は払わないが、やはり各社ごとにある程度の差別化を図っているだろうから、良し悪しはあるはず。さしあたり、ネーミングの良し悪しはある。ロデオボーイ系の名前は、他に「カウボーイリトル」。もっと単純なのは、「JOBA」、駄洒落系では、「馬ランスイングチェア」、「むー馬」、さらに意味不明な「ゆめうらら」。テレビショッピングでロデオボーイIIの説明を見たときには、静音設計がされているとのこと、これは重要なポイント。今、家の二階に置くことを考えていて、これがうるさいとその場所が候補にならない。こういったこともいろいろ考えながら、店で選ぼうと思っている。
2007.06.16
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最近、腰痛が解消しない。元々腰痛持ちだが、最近はそれが継続しているのでたちが悪い。腰痛の原因はいくつかありそうだが、主なものは、食べすぎ飲みすぎによる体調管理の悪さと、今使っているマットレスの柔らかさだろう。寝具が重要というのは昔も書いた気がするが、対症療法にも何種類かあると思う。愛用しているのは「中山式快癒器」というやつで、腰の下に置いて横になるとすっきりするというもの。使用上の注意で、10秒だか30秒だかよりも長く継続して使わないこと、というのがあったと記憶してるが、そんなに短いとすっきりしない。売るほうの立場としては、長く使って腰をいためたものを製品のせいにされてはいけないので、賞味期限の設定のように時間設定は当然短くするんだろうけど、こちらは腰痛を治したくて必死なので長く使う。オウンリスクだ。で、これは非常に良い。その他、針やマッサージもあるが、こちらは高い。針は行ったことすらないけど、いずれにしても頻繁に行くにはお金が必要になる。腰痛体操というのもあるようだが、これは以前試したときには効かなかった。ムアツ布団というのにも寝たことがあるが、これもあわなかった。腰が痛くなった原因が寝ている間の姿勢だとしたとき、それを解消するために別の手段を使うのは、本来的には筋違いというものだろう。一方で、鈍痛のような不快感を抱え続けるのはいやなので、たまにはマッサージに行ったりもする。1回3千円だとすると、10回も行くことを考えれば、結構立派な敷布団かマットレスが買えるはずだ。でも、買ってみても体に合わないかもしれない。。。といろいろ考えて日々迷っているが、結局、主たる原因の一つである食事の節制が近道かもしれない。わかっちゃいるけど。
2007.06.04
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横山秀夫の「第三の時効」というのを読んだ。文庫本なので、多分、少し古めのものだろうが、「お風呂文庫」として、入浴中にちまちまと読んで行って、晴れて読了。元々の評判は言わずもがななのだが、彼の本は今まで読んだことがなかった。読めば面白いことはわかっているけど、何故か手を出しにくい。そんな作家の一人だった。で、やっぱり、面白かった。ミステリーとして面白いし、人物がよく書けている。大分昔、綾辻行人など大量の作家が出てきたころ、その時代に生まれた多くの若手の作品ではトリックは優れていても人を書ききれていない、という批判があったようだ。それがどの程度正当性を持つものかはわからないが、確かにトリックのための人物配置、というアプローチが感じられるようなものもあったかもしれない。そうだとしても、それが一概に悪いということもないけど。一冊読んで、また他を読みたいとは思ったが、でも、買うのにはまた躊躇するような気がする。ライトな小説と違って、読者にもパワーが求められそうなタイプなので、自分に余力があるときに、はじめて手に取れる。そんなイメージをもっている。
2007.06.03
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先般、訳あって二時間以上プールで泳いだり動いたりすることになった。その日は体が熱をもった感じがして、その感覚は翌日まで続いた。で、気がつくと、体の切れがとても良い。多分、2日間、体内の脂肪が燃焼し続けていたんだろう、と勝手に推定。こうして気づかされたのが、全身運動の良さ。体を自由に動かすのは、日常生活や単純なスポーツでは、なかなかない。では、どんなスポーツが最もこうした全身運動に適しているかと考えた結果、一つの答えとして、フィールドアスレチックを思いついた。先に、子供たちや姪たちとアンデルセン公園というところに行ってきたとき、フィールドアスレチックに挑戦したら、これが今更ながら面白い。でも、基本的には子供用に作られているので、大人がまじめにやるのは気恥ずかしさがある。ただ、楽しさは抜群。新たなビジネスとして、大人用のフィールドアスレチックを東京のビジネス街近くに作るというのはありそうだ。入場制限は18歳以上。アトラクションは全て大人サイズに作られていて、仕事帰りのサラリーマンが一汗流して帰ることで、リフレッシュ、というライフスタイルが定着すること請け合い。仮に汗をかかなかったとしても、うんていやネットなどにぶら下がったりよじ登ったりするだけで、普段伸ばさなかったり使わなかったりする筋肉に刺激を与えられそうだ。入場料が千円程度なら、マッサージに行くよりもこちらに行くだろう。その他、どこの駅前通りにも必ずある、つぶれて後が来ない店舗などを活用し、「ロデオボーイII」のような筋肉を鍛える系のものを15分300円くらいで置いておく、というのも、流行るのではないかと思う。誰か、実現してくれないかな。
2007.05.23
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今週、totoビッグが大売れだそうだ。Jリーグのファンとしては嬉しいし、自分自身もbigは買っていたので、にぎわうのは良いこと。「日本のスポーツ振興の原資」として鳴り物入りで開始したtotoだが、それまで支えていたスポンサーとの関係や、「有識者」と思われる人たちによる青少年育成への配慮なとから、ガソリンスタンドなどの買いづらいところでしか販売を行えなかったことのつけが、売り上げ不振につながっていたように思う。今は、購入できる拠点が増え、かつ、面倒でないビッグというのが出てきて、1等賞金も6億円になり、魅力も出てきた。昨日、ドリームジャンボ宝くじとtotoを比べるコラムをどこかで見たが、totoの方が1等が当たる確立は高く、賞金も高い。ならいい事尽くめかといえば、多分、当たりを経験する人の割合が宝くじの方が断然多いのだろう。10枚に1枚は末等があたるし、100枚に1枚はその上があたる。こうしたくじというのは、ならしてみると必ず割りにあわない。開催元の取り分があるから、買う人の取り分は少ない。では、なぜそれでも買う人がいるのかといえば、それは、一攫千金のチャンスがあるから。安い賃金で働く人には絶対に得られないものが得られる「可能性」を買うわけだ。そうした可能性を追求する以上、ドリームジャンボ宝くじの末等の300円というのは、どんな意味があるのだろう、と思う。で、私はtoto派だ。ドリームジャンボも10枚買ったけど。
2007.05.19
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ゴールデン・ウィークに子供たちと実家に帰っていた。実家といっても千葉県なので、車で1時間半程度。プチ里帰り、といった感じだ。東京のベッドタウンなので住宅街だが、母の話によると非常に老人が多いらしい。団塊の世代が自宅を求めて家を買い、そうした人たちが老人世代になっている。子供たちは既に出て行ってしまっている状況。言われてみると、道行く人に老人が非常に多い。母の知り合いにも老後の体制で困っている人たちが多いらしく、介護つき老人ホームに入る金もなければ面倒を見てくれるだけの時間と体力を持った子供もいない。それが一般的らしい。かく言う私の家も、私の両親が2人で暮らしている。まあ、姉がそこから10分くらいのところに住んでいて専業主婦なので、何かの時には頼れるが。私自身もマスオさんなので、妻の両親に何かあるときには対応しないといけない。もっとも、今のところ両親とも働き盛りではある。高齢化問題で、「将来は1人の老人を3人の労働者が支えないといけない」などとマクロ経済面での負担論が語られるが、それよりも本当のミクロのレベルで困った家がものすごく多く発生しそうな気配はある。それを考えると、非常に怖い。我が家も怖い。共働きだし実家が近くないし。こうした老人ケアの問題は、各家庭が一軒ごとに対応してうまく行く時代とは思えない。もう少し、規模の経済を追求して、老人同士の相互扶助が働き、お互いの困難にも目がとどくような仕組みができたらいいのにと思う。行政ではなく、ビジネスでこれが回るならなおいい。具体的なイメージはまだないが、非常に多くの数の老人が、寮生活のように一緒に住み、遊び、助け合い、社会のためにも活躍できるような場を現在の老人ホームよりも破格の安さで実現するようなビジネスがあっても良さそうな気がする。「老人村」とか、「老人隔離」みたいに言われそうだけど、可能性はありそう。
2007.05.04
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立ち寄った本屋で、「<むなしさ>の心理学 なぜ満たされないのか」という本を買った。時間つぶしに寄った本屋で、タイトルに興味を持った。新書。初版は97年で第19刷なのだが、内容は古い。タイムスリップ感はあるが、「満たされない」という心理の根源は10年経っても変わらないようだ。今、半分くらい読んだところ。先日の話題とも重なるが、食うや食わずの状況では、満たされるもなにもあったものではない。衣食足りて礼節を知って、ついでに虚しさも知るらしい。観てはいないが、ディカプリオの何作か前の映画もそういう映画だったような気がする。タイトルも忘れたが、地位も金もすべて手に入れて、それでも死ぬまで満たされない実在の人物の話。そこで、自分に問いただす。自分は満たされているのか。答えは、「そこそこ」か。絶対的な基準でいえば、日々の仕事と家事の中で自分の時間がすごく少ないことに相当ストレスはあるが、昔の自分や周囲の人と比較して、今の時期の今の仕事環境はさほど悪くない。中国語の勉強が、一定の張りを与えているのかもしれないし、元々が割り切りの良い性格なのかもしれない。満たされない人たちも、満たされなさの分類学がいろいろありそうだが、人生の目標、自分が生きている意味を見出せない、というタイプが一定数いるようだ。こうした思考は誰でも陥るものと思うが、ここを考えすぎても答えが出るはずもない。どうせ答えが出ないなら、はじめから考えても仕方がない。でも、考えることを放棄しすぎると身勝手で刹那主義の厄介者にもなりかねない。大好きな曲のひとつに、ミスチルの「ランニング・ハイ」というのがある。ポジティブに達観した曲だ。世の中に振り回されながらも程よい割り切りとバランス感覚の中で日々を自分なりに楽しみ、苦しみ、生きていく、という程度のイメージを持っていれば、少しは満たされなさも「そんなもんだ」と割り切れる気がする。少なくとも自分ではこの程度で納得している。
2007.04.27
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昨日、「ブラッドダイヤモンド」を観てきた。去年アフリカに出張しただけに、アフリカの映画というとどうしても足が向いてしまう。ましてや、今回は前評判も良い「レオ様」の映画。「レオ様」って、死語かもしれないけど。ダーウィンの悪夢を見たときは、「これはグローバリゼーションの裏側を描く映画だ」との批評が飛び交っていたが、その点はいまひとつしっくり来なかった。あれは非常にドライなドキュメンタリーだったので、説明が少ない分だけ読解力のある人にしかメッセージは伝わらないということかもしれない。こちらは翻って娯楽大作。元はインディージョーンズ的なものを目指してたとも聞くが、もっと社会派にアレンジして、アクションとヒューマンドラマと社会問題を全て織り交ぜた心に響く映画になってる。勿論、メッセージ性は台詞回しから十二分に伝わるので、親切この上ない。で、グローバリゼーションの弊害というのが極めて良く伝わった。ダイヤを欲しがるのは欧米人で、そのために働き、殺しあうのはアフリカ人。このゆがみ構造はグローバリゼーションの成せる業である。今日、シエラレオネの状況を見るべく外務省のHPにアクセスしたが、確かに「フリータウンで政府とRUFの交戦があり、5000人が死亡」というようなことが書いてある。この情報は、映画を観てから接するのと、観ないで接するのでは、伝わり方が全く違う。勿論、現地を訪れた人なら、もっと違う受け止め方をするのだろう。「人間の安全保障」の考え方の基本は、恐怖からの自由や欠乏からの自由である。どちらも平和ボケの飽食な日本では実感しづらい概念である。これが当たり前の世界で、自由を謳歌している我々だが、日々の暮らしは別のしがらみでがんじがらめだったりする。皮肉なものだ。映画に戻って、ディカプリオの演技は最高だった。かっこいい。これなら、「様」をつけてもかまわないと思う。
2007.04.26
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ブロードバンドの配線を組みなおし、ようやく気軽にパソコンが使えるようになった。ここまで長かった。台湾旅行から帰ってきて10日くらい経つが、非常に良い経験だった。「トラベル外国語」レベルだが、中国語でコミュニケーションを取る、というのが心地よい。多分、こうした感覚は英語を学んだ後にどこかで経験していたはずだが、新しい武器を手に入れたようで、すがすがしい。とは言え、交わした会話は「電話をかけたいのでICカードをください」「100元と200元どちら?」「100元」とか、「酸ラー湯と小龍包ください」「小龍包は20分くらいかかるけどいい?」「大丈夫です」とか。あとは、一人でバスに乗っていて、5元がなかったときに隣に座った人に「5元が欲しい」といったら、替えてくれたとか。このときは、最後は英語で話しかけてきたので、あまり上手な中国語は話せなかったのだろう。ともかく、北京語圏なら生きていけそうな自信がそこはかとなくできた。というのも、基本単語のやり取りについてヒアリングがそこそこうまく行ったから。友人と沢山会って話したり、台湾料理を食べに連れ歩いてもらったりしたのも良かった。居心地も日本にいるようで、とても良い。また、機会を見つけて行きたいと思う。これが羽田発の便があったらもっと行きやすかったんだけど。
2007.04.24
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週末に台湾に旅行してきた。金曜日を1日休んで出発し、日曜に帰ってくる、実質2日くらいの旅だった。結構な強行軍だったので疲れたが、何とかその疲れも回復しつつある。行き先は台北のみだったので台湾の全てがわかるはずもないが、本当に気に入った。繁華街はさながら東京だし、夜市の活気は日本では見られないくらいすごいものだった。士林夜市は、アメ横のノリの原宿、という印象。また、淡水という場所は、横浜とお台場の良さが合わさった感じだった。街のきれいなところはきれいだが、雑然としていたり、ボロボロの建物が林立していたりして、そうした光景は洗練されているとは言いがたい。ただ、その雑然加減が心地よい。不思議な温かみを感じてしまう。無機質でない、という言葉が受けた印象に近い。一方で、街の広がりには限界を感じた。台湾人の友人やツアーコンダクターが引き回してくれたおかげではあるが、メジャーな観光スポットや街並みは大方見た、といってよい。実質2日でだ。手ごろといえば手ごろだが、若干の物足りなさを感じる。こうした街の狭さは、やはり人口規模から来る部分が大きいとは思う。4百万くらいと友人は言っていたが、それであれば、東京とその近郊の4~5分の1くらいか。正確なところはわからないが。エストニアの友人が常々国の大きさ、そのクリティカル・マスがあると言って嘆いていたが、ある程度の規模を超えても規模の威力というのは存在するだろう。東京近郊に生まれ育ったことのありがたみが再認識できる。台北の街が大規模に再開発されるかどうかは分からないが、今後、そうしてみる価値はあるだろう。淡水や士林、または世界一高い台北101のように特色のあるエリアや町、スポットがあと1つでも2つでもでき、その周辺に人が集まるようになれば、都市としての全体の魅力が更に上乗せされるだろう。それは、台湾の若者にとっても刺激的なことだろう。そうした再開発が進めば、それに比例して無機質感が増大するようにも思える。そうだとすれば、今のままのほうが良いかもしれない。そのあたりのさじ加減が難しい。いずれにしても、中国との関係が難しい中で、そこに暮らす人たちは一種の閉塞感に包まれながらもものすごく前向きに生きている。置かれた境遇ゆえか、台湾の人たちはすごく気を使うことに長けていて、この上なくやさしい。彼らが幸せに過ごせるように、ただ願うばかりだ。
2007.04.18
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金曜日に休みを取って、土日とあわせて旅行する計画を立てている。用意周到身の回りの案件を整理し、休暇の申請も予めアナウンスし、心置きなく休めるようにしたつもりが、上司が知ってか知らずか、今日の午後遅くに「これ、今週中にやってくれればいいから」と仕事を依頼。今週といっても、金曜が休みだと、明日しかない。多分、上司に深い意図はないが、なんとなく、休もうとする人がいる時にはその前に仕事を頼まないと、という意識が脳の片隅に残るものなのかもしれない。偶然でもいやがらせでもなく、必然の流れなんだろう。まあ、明日がんばって早く仕上げるつもりだけど。こうした日常の偶然っぽい事柄は、マーフィーの法則的に議論されることもあるが、私自身としては、福本伸行の「天」や「アカギ」的な感覚に近い。こうした漫画でなくても、麻雀のなかには必ず流れがある。実力でもなく、均等な運でもなく、流れが来るときは来る。のっている人はその流れを極力継続させるようにし、そうでない人は流れをかく乱しながら新たな流れを起こそうとする。流れが見える人がいれば、その中で自身をうまく位置づけられる。そんな人は現実世界にはそうそういないけど。今回の件で言えば、直前に仕事が降ってきそうな予感はしていた。ただし、どんな仕事が降ってくるかは事前に予測できない。こういった場合、事前にできた対処方法は、「流れ」をかく乱しておくことだったかもしれない、と思っている。このかく乱方法は難しいが、何か、通常ではないイベントを何らかの形でどこかに差し挟む、ということで、それができたのかもしれない。抽象的だが。サッカーの試合などでも、明らかに流れが傾く時間帯がある。悪い流れだとわかっているのに、また、どこが悪いかもわかっているのに、修正がきかない。そこをリセットする術は確実に存在するけど、その正解をなかなか体現できない。悪循環、というよりも、泥沼状態だ。ゴルフでも、よく見かける。「耐えるゴルフ」というのが、その代名詞だ。誰かが泥沼にはまっているとき、反対に、打つ手打つ手がうまくいく者がいたりする。で、柏レイソルが今はそう。J1で首位に立ってはいるが、シュート数もクロス数も少ない。シュート決定率が異常に良く、相手チームの決定率が異常に悪い。後者は守備が安定しているためとも取れるが、前者は、結構水物だと思う。でも、今はうまく行っている。「勝っているチームのメンバーはいじらない」というのがチーム運営の鉄則だが、これはまさに、流れに身をおいている状態なら、敢えてそれをかく乱するのは天つばだということ。柏の場合はナビスコ・カップでは替えまくっているけど。菅沼がU22に呼ばれたのも、ちょっと心配だ。流れの中での好調、不調は、「必然」だと思う。その必然を手繰り寄せるために、流れをかく乱するのも、理にかなっていると思う。でも、非科学的である。こういつ非科学的なものほど感性にフィットしたりするから面白い。
2007.04.11
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今日、本屋でアトピーに関する本を見つけた。買って、読んで、既に人に貸してしまったのでタイトルや著者は覚えていないが、興味深い話がいろいろあった。もちろん、実質的な治療方法として意味のあることは多く書かれていて、それだけでも買って読む価値はあるのだが、アトピーに苦しんでいない人でもいろいろな示唆を受ける本だった。自分自身はアトピーとは無縁で育っているが、うちの子供たちは肌が弱い。症状からすると、軽度のアトピーかもしれない。詳しくは知らないが。で、その本を買ってみたわけだ。面白かった点というのは、その本によれば、アトピーに対するイメージ、具体的には治りづらい病気であるということや、体質改善が効果的であること、また、ステロイド剤が怖いものであるということなどは、皆、どこかで誰かの都合などによって作られたものであるということ。治療は医学的な公式の知見によりまとめられた基本的療法を確実に行うことが最善であり、簡単かつ効果的であること。そして何よりも興味深かったのが、継続的な「対処療法」こそが治療の王道であるということ。アトピーは皮膚の表面に現れる病気であり、だからこそ、対処療法が重要なのだそうだ。仮にこれが胃潰瘍などの内に潜む病気から来る発疹だったりしたら話は異なるはず。ただ、これはアトピーという特定の者に現れる病気だけでなく、広く世の中で適用できそうな原理のような気がする。得てして「対処療法」という言葉は、「その場しのぎ」というマイナスイメージと同義であるように受け取られる。ただ、目に見える問題点は、やはり真っ先に解決すべきものである。殺人事件が起これば、まずはその事件の犯人を捜す。道路に亀裂が入ればそこをなおす。不得意科目は勉強する。サッカーで得点力不足があれば、セットプレーに約束事を作る。これが、「目の前の事件解決よりも事件がおこらない社会システムが必要だ」とか、「道路がもろくなる箇所に共通する法則を突き止める」とか、「どの科目も得意になるように、記憶力トレーニングを行う」とか、「サッカーは全て基礎体力が大事なので、走りこむ」とか言っていると、当面の課題がなかなか解決しない。本質の解決にチャレンジすることは、それはそれで必要だ。対処療法ばかりで本質を探そうともしないのは、単なる怠慢であることは多い。でも、誰かが問題の本質を探る間、そうしたことに対する素人にとっては、対処療法で目の前の危機を回避することこそが重要となる。当面の課題が解決しないと、そこにかかわる人たちのモチベーションが著しく低下する。これが事態を更に悪化させる。点が取れないサッカーチームがいくら基礎力をつけるべく励んでいても、当面の試合で点が取れずに負け続けるうちに、遠からずチームは崩壊する。この本の言いたいこともそういうことだったと思う。修羅場をくぐってきた人に大物が多いと思われるが、本当に石橋をたたいて渡るように全てを用意周到に行う人がいたら、修羅場はそうそう発生しない。場当たり的になるのを覚悟して、対処療法を繰り返す人が、こういう修羅場をくぐれるのだろう。対処療法がはまるときは、その威力は絶大なんだろう。まあ、自分では修羅場はくぐりたくないけど。小物で結構。君子危うきに、でいきたい。
2007.04.10
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