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直方市役所フロアーにて先日より母の戦没者遺族年金の手続きで直方市に出向く。いいなあ、古い建物が建ち並ぶこの町並み・・付近をふらっと散歩してみる・・・あぁっ、何この建物!! 古い洋館が立ってるじゃないですか、今は使われていない小児科・・・数軒先には銅版で屋根周りを葺いた格子の木造建築、今もお茶屋さんや雑貨屋さんとして商いがなされている、いいな、いいなこの町並み、観光用でもなく普通に古い建物が並んでいる所が嬉しくて、古いものが大好き人間で、好奇心旺盛な私は途端に嬉しくなり、携帯で写真をパチリ・パチリ。なんかタイムスリップしたみたい。 数十歩、歩いて、エェッ何この古い素敵な洋館建て、しかも驚き!!耳鼻咽喉科として現在も使用されているじゃないですか。 丁度、10年に一回の塗装の塗り直しをしているところです。病院に出入りする患者さんが開けた扉を恐る恐る少し覗いていると・・・ アーチ型の玄関「この建物は明治6年建築で106年たっているんですよ」と、後ろからご婦人に声をかけられました。上品な年配のご婦人はこの病院の大奥様でした。 待合室 <診察室>106年の間にどれだけの人を診療したのだろうか「今で4代めなんですよ、私が嫁いできた頃のこのあたりは一番の繁華街で」と、色々とお話しをしてくださり、「よかったらどうぞお入り下さい、中もごらん下さいな」と、親切に声をかけていただき母屋の方まで案内してくださいました。106年使っている長椅子・・・一枚板で貼られた床・・・未だにびくともしてないそうです。 106年間じっと待合室で患者さんを見てきた椅子106年を経てもびくともしていない造り附けの椅子は、背中や座る所にカーブがつけてあり、とっても座り心地のいい椅子でした。 病室へと続く廊下、窓のガラスはドイツで作られたんだそうです。透き通ったガラスから入る光はなんとも知れない暖かさがありました。「2階は病室だったけど今は使ってないのよ」「戦時中には建物に使われていた鉄細工の飾り物は全部没収されたのよ」等と、時代を遡った話しも随分してくださいました。 母屋の玄関まで案内してくれました。玄関の扉は細かい格子戸で巧妙な透かし彫り、天井までの高さがあり見上げます。何気なく立ち寄った母のふるさとの田舎町には未だに、明治・大正・昭和初期に建造された建物が残っていて、いきなりの訪問者の私にとっても優しい暖かい街で心が嬉しく温まりました。masuko
2006.12.08
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私には83歳の母親がいます。3年ほど前に母の長兄が無くなり、7人兄弟の母の兄姉はもう一人も存命していません。兄姉といわれる人で残されているのは、義姉の兄嫁のみ。その最後に残された兄嫁から10日ほど前に母に電話があり、何かとおもえば、母の上から2番目の兄が戦死しており、その戦没者の遺族年金が、最後に残された兄妹である母に引き継がれるとの事でした。諸手続きをするために母方の本籍地の役所に足を運び、母方の両父母の戸籍の流れを初めて目にしました。戸籍には母の両親の婚姻届が記載させれており、年号は明治参拾五年となっており、年代を遡って追っていくと、母の父親も長男で明治四拾七年家督相続と記載があり、母の長兄も昭和拾九年参月に家督相続などと記載されていたりして、ああ~、そうだったのか、長男が家督を継ぐ制度が昭和の時代まで本当にあったんだと、時代の流れと歴史を間のあたりに実感しました。母から時々戦時中の苦労話や、2人の兄が徴兵制度で連れて行かれたなどの話しは聞いていましたが、戦士した兄のことはあまり語りたくないようで、「優しい人だった」ぐらいしか聞き及んでいませんでした。これもほとんど実感の無いままで今日まで過ごしていました。戸籍によると昭和拾九年七月弐拾九日、印度のコヒマに於いて死亡と記載されていました。昭和拾九年参月に夫を亡くし、同じ年の七月に遠く離れた印度のコヒマと云う所で23歳の息子を戦死させ、祖母はどんなに悲しんだことかと、今にして厳しかった祖母の心の中を察すると可哀想でたまりません、残された子供達に厳しくすることで自分を奮い立たせていたのでしょう。しかし、よもや私がこの年になって戦没者の遺族に直接関係するなんて思いもよりませんでした。こうして年老いた母の元へ、戦没者である兄からの思いもよらぬ遺族年金のお金が、わずかですが入るということは、戦没者がまだまだ自分を忘れて欲しくないゆえに供養をして欲しいと願っているのではと思わずにはおれません。23歳という若さで死んでいった伯父はどんなに生きたかった事でしょう。こんにち時を経て、母方の先祖が秋月藩の医者であった等のルーツを辿ることが出来たのも、戦死した伯父のお陰です。もう秋月には血縁者はいないのですが、聞くところによると、加峯(かほう)診療所という名前だけは20数年前まではのこっていたそうで・・・機会があれば一度母方の里、秋月に足を運んでみたいものです。こんな風に身近に戦争を感じたことが無かっただけに、私達に家族のルーツを教えてくれた伯父に感謝すると同時に、戦争の犠牲者の悲しみは残された者の心の奥底には未だ残っていることを母を通して教えられました。masuko
2006.12.04
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