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バス停がある。正確には、信号機がない、ポイントや分岐がない、停留所だろう―――か。朽ちかけた雨よけの屋根。待合室として小屋が設置されたバス停―――だ。田舎ではバス会社や自治体、町内会、地元の有志などによって、壁のついた小屋が設置される。小屋の材料は木材やトタンが多いが、稀にコンクリートやログハウス風のものもある。縄張りの観念だろう―――か。そしてここは、トタンだ。木製の共同椅子。灰皿。傘入れ。廃棄物のような人間の生活の痕跡を記す。社章に、停留所名に、通過予定時刻のある、標識ポール。昭和の香り漂う、色褪せたコカコーラのポスター。雨が降っていた。天井を眺め、電球に集まり始めた虫をぼんやりと観察していた。遭遇頻度はそれほどでもない人懐っこい猫でもいれば、もっと贅沢な時間つぶしの醍醐味を味わえたかも知れない。気がつけば雨は止んで、赤ん坊みたいな白紙に戻って―――いる。―――それでも。いつからだったか。ふと気付くと、いて当たり前の存在になっていて。いないことが、悲しいことに気付いて。日本語すら、侵蝕され―――る。皮を捲ったように赤味を帯びて来る。要するに・・・・・・。田舎のバスなど、三十分に一本あればいい方だ。蠅が飛んでいる。見えない壁に閉じ込められでもしたように、すべてのものが黒ずんで見える、黄昏時。無意識が泳いでいき単純な言葉を引き寄せようとする、今まさに沈もうとしている太陽が、山の向こうに昆虫の抜殻のような淡い感じで残り火を灯し、綺麗な水を探す魚のように、風は、この黒さを増していく茜色の空に留まる場所を探しているようだった。―――叶わない、想い。ただ生きる日々が続いていた。背もたれにぐったりと寄りかかり、バスが来るのを待つ。もう二十分は経ったはずだった。眼の前が、内部から外部への反映でぼやけてくる。眠い。だから花が美しく、団子は美味しいとも言う。すなわち、一兎も得ず。頬杖をついて、うとうとし始めた頃だった。バスのクラクションの音がして、意識が現実に引き戻される。硝子板に挟んだような、血の気の失せた鼻。右を向くと、カーブした生垣の向こうから、蜘蛛が糸を紡ぎ出すように、三十メートル、いや、二十メートル、ヘッドライトがこちらに近付いてくるのが見えた。立ち上がる。咽喉の粘着きが、咳止めドロップを想起させる。バスが近づいてくる。縁石のぎりぎりの所に立って、待った。機械的に手をこすりあわせながら、あらいぐま。消えかかった緑のラインが走るボディ。くたびれた外観のバス。バスはスピードを上げ、水を撥ねさせながら勢いよくこちらに向かってきて、そして自分の眼の前を法定速度で、思わせぶりに通り過ぎる。力を奪い去られたような疲労というよりも、乳酸が隙間にしみこんでくるような―――疲労・・。長く見続けてきた、華奢で儚い輪郭が緋の中に溶け込んでい―――く。スマホが鳴った。「・・・・・・」からだった。“凍った池の割れ目にちらと魚が見えた”(それは、暗いところにいるらしい。闇に包まれて、立っているらし―――い、)「・・・・・・・・・」からだった。“空っ風一つで、凍り付いてしまいそうな、夜”(誰も、何もないらしい。今生きているところとは違う、別の世界に、いるらし―――い・・)「・・・・・・」からだった。“マネキンの奥底に微かに疼く―――悲哀”(もう、消えて、成仏して―――しまったのでは。いや、そんなことはないはずだ。そんなことは。だけど、その不安は拭えなかった。心配で心配でしょうがなくて、同じような日々が続いた、)「・・・・・・・・・」からだった。“頬に当たる光にまぎれて蜂が襲い掛かって来る”(女性に告白された。ずっと言いよどんでいると、返事待ってますから、と言って逃げるように去っていってしまった。自分の方が逃げ出したかった。一体、何を言えばいいのだろ―――う、)まるで、俺に気付かないように、俺なんか、存在しないとでも言うよう―――に。嘲笑する俗物のひがみのように、もう一度クラクションを鳴らした。ああ、まただ。きっとここには『幼馴染の彼女』がいるんだ。手塚治虫とキャプテン翼のテンプレート、交通事故という伝家の宝刀。だのに、死んだ魚のような膜が拡がるのは何故だ。彼女がいるだけで、自分と同調して世界をズレさせてしま―――う。だから、また乗り損ねてしまった。恐怖と悲しみと愛しさを各頂点とする三角形。おそろしいほどに、恐怖と悲しみが無表情だ。ポイントが一切加算されない。いいんだ、と思う。自分が道化じみていても、キチガイ沙汰であろうとも。電話を入れてくれたらいい。鋭利なナイフで横方向に薄くスライスしたように、紙細工の花のような唇を動かす。待ってる、ずっと。非感情的なものを琥珀色の樹脂にでも閉じ込めたような頭を振る。甘い誘惑、身の毛のよだつ恐怖、焼き尽くすような怒り、深い悲しみ。断ち切ることも、正面から受け止めることもできな―――い。そんな、忘れられない、忘れてはいけない、ただし、それ以上大きくさせたくない自分の中の爆弾を、まさに冷凍保存する。これで何度目になるのか、もうわからない。スマホを取り出して眺めながら、本当はこんな歪な関係を終えなければと心の何処かで、思っていること、を・・・・・・。間違って――いた、間違って、いたのだろうか?トマトの皮のように中が透けて見える。少し考えて、出した答えは、イエスだ。瞬間、一筋の煙になって消えてしまいそうだ。このせいで長い間苦しんでいた。きっと―――間違って、いたのだろう。電話が、鳴った。それを自覚した瞬間に、唇をすぼめ、額に皺が寄り、また目頭が熱くなる。電話を取ると、電話の向こう側から躊躇うような息が漏れた。そして、しばらく黙っていた。その後、静かに言った。「忘れて」と・・・・・・。カッと湧き上がる怒りは何なのだろう―――か。何万個もの吸盤があり、ルービックキューブのように組み合わさる。高分子吸収体とでもいえそうな時の流れというマインドセットで。「忘れない、嫌だ、絶対にそうしない」声が延びたり縮んだり、歪んだりする。圧搾された息の塊。でも子供が駄々をこねているだけだ。認めることはできるのに口には出来ない。状況判断はつけられても結論は出せない。子供だ。「でも死人は死人であるべきで、生きている人と話しちゃいけなかった・・・・・・」悔しかった。そうだと思う、そうに決まっている。一般論としては・・・補助線としては・・・・・・・。―――ガイドラインとしては。生きている人と死んでいる人は結ばれない。わかっている、だって顔が見られない。手にだって触れられない。時計の針やカレンダーだってろくすっぽ見ていない、こうやって話すのだってもうどれくらいぶりだろ―――う。でも首を振った、多様性なんだよ、と。人と違うことだってあるんだよ、と。言わなければ―――言葉を一生懸命になって、探す。言わなければ、すぐにこの電話は切れてしま―――う。一度はじまった恋は止められない。何処までも一途に彼女を想い続ける。「・・・・・・好きなんだ、ずっと」どうしてそれを、もっと早く口にしなかった。伝わっている、いつかきちんとする、先延ばしにした、その結果がこれなんだと思うと胸が詰まった。涙だって出てきてはくれなかった。怒りは悲しさで、辛さそのものだった―――から。「―――でも」こんなことを続けちゃいけない。言いにくいことを言うつもりなのだろ―――う。表情に硬い芯が入る。でも、ようやく心が決められた気がした。「結婚しよう、籍も入れなくていい、結婚式も、ウェディングドレスも着せてやれない、だけど、こんなに想い合っている、だから電話は繋がった、中途半端な気持ちならすぐに終わった、忘れられなかった、簡単に切り捨てられるものではなかったから、悩んだ」「・・・・・・馬鹿だよ」切り捨てるように、言う。わけもなく天井のひと隅を見る。置き換えのきかない状況に句読点をつくるために。「・・・・・・初音ミクをお嫁さんにする人もいる、Vチューバ―を恋人にしたり、アニメのキャラを嫁という人もいる、一緒だよ、何も変わらない、たまにこうやって話せるだけでいい」「・・・・・・駄目だよ、そんなの、人生が滅茶苦茶になってしまう、幸せになれないよ、それじゃ・・・・・・」「幸せは俺が決める」南を甲子園へ連れて行くみたいな台詞だ。アニメーションだったら―――いい。現実には、その言葉の重さがボディブローのように溜まっていく。「・・・・・・それに、いつまでこんなことが出来るかだってわからない、もしかしたら、この会話が、最後の会話になるかも知れない。その後、どうするの、そうならない保証なんかないんだよ、もっと考えなくちゃ駄目よ、わたしのことじゃなくて、自分のことを、足元をちゃんと見て、現実的な相手とそうするべきだよ」「じゃあ、お前の幸せは?」「わたしは―――」我儘を言わない時、自分の気持ちに嘘をつく時、少し饒舌になる。夜の学校へ忍び込もうとしたとある場面が思い出せる。でも本当は、夜の学校に彼女は忍び込んでみたかった。まるで自分の気持ちを無視するように・・・・・・。死んだら、すべての権利を失ってしまうのが当たり前みたいに・・・・・・。「例外って、想定内であれ想定外であれ、最初から選択肢として、あるんだ。きっとこれが最後の会話なら、途方に暮れるだろう、だったら、どうしてお前は俺に愛していると言ってくれないんだ、たかだか生死なんていうカテゴリーで結論をつけただけさ。いや、それは錆びついた錠前をつけただけさ。輪廻があったら、次だって、ある。次が無理なら、その次だって、ある。考えようによっちゃ、いまこの一瞬だって、その長い助走だ」ひゅう、と、通気口から風が抜けていくような音がした。電話口から笑い声がこもれて、次第に雑音が混じり、嗚咽が聞こえた。泣き声を聞くのは辛い、本当は顔を見て慰めてやりたくなるからだ。右手が虚しく空を切る。一枚の紙切れのように遠ざかる。風の強い日にレシートを追いかけまわしていた、夜。こんな空振りも、徒手空拳も、擦れ違いも、一度や二度ではない。だけども、声というコミュニケーションしかない僕等には、眼を逸らすこと、耳を外すということが愛の不信になる。糊付けされたような強張っていく時間。人を愛することの難しさを―――思い知る。「・・・・・・愛してるよ」と彼女が少し掠れた声で言った。声が、花咲くように弾んだ。どう聞いても力のない声なのに、その言葉だけは違って聞こえた。真っ暗闇の中かから、一筋の光明が見えたような気がした。アヴェ・マリアでも流れてきたのかと思った。夜の中でも光が感じられる、眼や口元が話し掛けている気がする、そして自分の発言を肯定されている。「・・・・・・俺も愛してる―――だから、答えてくれ・・、汝貧しき時も富める時も病める時も健やかなる時も、この者の傍にいることを―――誓うか?」そこで、そこで―――だ、惜しげもなくシリアスモードだった、クールガイだった俺の仮面が剥がれたのは。すごく恥ずかしかった。ハズカス。バッカスみたいに言うな、でもハズカス。そこで、いや、そこで―――なんだ。武士の情けだ、ハズカス。何言ってるんだろう度数がレッドゾーンを突破していた。やれやれなのだよ、まったくね。それならもう国会議事堂に売国奴めと車でぶちあたる方がまだ正しかった。核ミサイルのスイッチを押す、以下同文。エリア51で宇宙人の手先めと車で暴走して、不法侵入と判断され、機関銃で撃ちまくられる方がまだ正しかった。押し入れを開けるとドラえもんがいた、以下同文。でも、この気持ちは変えられない。永遠も刹那も一緒だ、心の中にあるものだと思いたい。「誓うわ、たとえそれが―――どんなに悲しい結果になっても・・・」―――悲しい結果にならない確率は低いだろう。前例がない。古今東西、愛想がいいような話以外聞いたことはない。自分と他人を結ぶ通路が崖崩れを起こして、そこからハッピーエンドを迎えたらご都合主義へまっしぐらだ。マッシュポテトだ、それは関係ない。でも何もしないでいたままなら、それは後悔になる。自分の気持ちに嘘をつくことになる。「どんな悲しい結果になっても、最後の最後まで、幸せだ、その後のことはもう考えるな、お前が俺のことを好いてくれている、その事実だけで人生は最良のものだった、これはハッピーエンディングだと思える・・・・・・」「ねえ、顔赤くなってるよ」見えてないだろ、とは言わなかった。声の震えだけでわかるぐらいに、同じ時間を過ごした。手が微かに震える。感動、じゃない。単純に面白可笑しい滑稽さのせいだ。でもそれが心地よかった。幼馴染に本当の意味で戻れたような気がした。「お前もな」バス停がある。朽ちかけた雨よけの屋根。待合室として小屋が設置されたバス停―――だ。木製の共同椅子。灰皿。傘入れ。標識ポール。そしてまだ色褪せたコカコーラのポスター。超高齢化社会、ドーナツ化現象。過疎化して、若者が減りまくったそのあおりで老人しかいない、この町に、一時間一本ならまだ御の字という老人が今日も座る。―――叶わない、想い。そんなもの、言い訳だったと思える。蜃気楼に騙された砂漠を行く者。生の原理。たとえ電話がかかってこなくても、もうこれでおしまいだと告げられても、人の気持ちは変えられない、それが不安や絶望を投げ入れることだと知りながら、負いきれぬほど、全身に錘をつけてゆ―――く。それでも、この世界の起こるべくして起こった奇跡は、二人を運命の名の下に出会わせ、そして人生のつれあいへと結びつけた。人間に会話という概念があって、本当によかったと思う。イメージの中での距離感はいつまでも変わらなかった。時折は、それは触れてみたいとか、顔を見てみたいと思うこともあっ―――た。でも考え方次第である、なければないで、想像力はそのアシストをしてくれる。バス停の近くに家を買った。幸せになる。なってみせるのだ。故郷に仕事はなくとも都会にはある、テレワークの普及などによって努力次第で、ニートの親戚みたいでもかろうじて暮らしていけた。現実の迷路を暗示しているような謎を解く鍵、この石の街で。「もうすぐ会えるだろう―――か・・・」静かに息を引き取ろうとする老人の傍に、ぽたり、と透明の雫がスマホの画面に滴る。さながら重たいドアを音を立てて閉めたように、世界は繋がった。コンポジットす―――る。波動であると同時に粒子、時間と空間に展開を与える現実的認識、澱みが、ズレが、狂いが、濁ったまだらや線となって浮かび上がり、いつかの彼女の手がしなやかに伸び、画像処理技術や音声付加技術。名前という衣装をまとい、その交差点が筋のある物語に変わってゆき、長い間、二人は誰よりも傍にいたことを証明する。世界はそのようにして優しく終わる。遠くで鴉の鳴き声が聞こえた拍子に眼を覚ましたと思う、―――そこはアダムとイヴが迷い込んだ、視野が狭まる、世界だ。
2024年11月23日
匿名希望やれやれ。ハルキムラカミだよ。馬鹿な尻毛も、馬鹿な陰 毛も、馬鹿な毛根も。禿げてしまえ。否、禿げろ。全部抜けろ。なんだった抜き尽くせ。火炎放射器よ、燃やし尽くせ、FIRE比喩が比喩でない、玩具箱引っ繰り返したような心の凪。人生詰んで、富士の樹海で首を吊っていたら、みんな人間かも知れない。イメージばっかり。インパクトばかり。肝心かなめなことの一つも、錘、そうだ。碇、そうだ。楔、そうだ。いつから僕等の世界はこんなに、馬鹿で溢れるようになったんだろう、そしていつから僕等はこんなに、日本語が通じなくなったのだろう。シー・ユー・アゲインって、初めて書いた。昔の友達はもう死んでいるかも知れない、随分前にそんな夢を見た。暗いデパートみたいな場所で、呆けた顔をしていた。そして何故か僕はまた来るなと言っていた。いやあれは中国のデパートなのかも知れない。いつか言ったね、僕は記憶に残った夢をかなり鮮明に覚えていて、何だったら忘れているはずの夢でさえも思い出して、ある時に再構築するようなことがある。所詮は夢さ、圧縮された情報体さ。ガス抜きかも知れない、異次元の扉かも知れない。でもたった一つ、僕等はまだそんなことさえ明確にはわからない。毎日見ているようなことですらろくすっぽわかっていない、知識って何だ、世界って何だ、わからないんだよ、誰にも。わかったような気になって、地図情報と地名を、インスタグラム脳風味で喋っている愚か者ども。葬式で親戚を見ながら、ドリカムの未来予想図を頭の中で流すシュール。みんな歳を取るんだ、みんな色んなことを忘れるんだ。亡霊じみた夢だっていいじゃねえかよ、コックピットに乗りこめ世界中の果てだって行けるような気がするのは、いまたったこの一瞬だけ。
2024年11月21日
her temptation貝殻骨の浮いて見える背中、産毛が光るのに、若い娘の背中がこんなにむき出しの寂しさを、感じさせるというナンセンス。アイデンティティーの圧倒。イデオロギーは高潔。スッと真っ直ぐに伸びた背筋は、雄弁だ。くびれも、襟足も、耳飾りも、欺瞞だ、キレイに伸びる首筋から背骨のS字カーブに、スッと指を滑らせてみたいのに、それすら粗悪な落書き。悪戯な運命の作用。行き場のない不条理が僕等を孤立させる。「強くなる」「賢くなる」そして僕等いつか、一人で平気になる。慣れてしまう、生活は免罪符、心を失っても・・・・・・。曲線の美も、深海魚みたいだ、ディープ・シーへと案内する、天敵がいる、水圧のように押しつぶすものがある、削るのは、女らしさ―――か。ポルノ映画の看板の下のマネキンみたいな深層廃棄物。僕等、社会的不適合者を志向して。僕等、武器を探した、兵器を探した。夜には灯りがいる、こんな社会で颯爽と大通りを歩いてゆくには、覚悟がいる。辻褄合わせの日々が、珈琲と紫煙とブランドを希求する。積み木遊びはいいものだね、大人になってまでしていたら足で踏んづけたレゴさ。麻酔深度を深めてゆくパーティーと、カクテル。無意味な滑走からの読点、句読点、世界の解像度。中身がないのは一体誰だった?細胞レベルの残酷さを掻き分けてカンストしたレベル、思索した、疲弊した、弥縫した、ドローンの鳥瞰映像、電光掲示板のめまぐるしき広告、国家の売国奴じみた主義主張、そして底抜けの馬鹿で構成されたクリーンな機構。淋しい背中だね、ピンクのエポキシ樹脂みたいだよ、美しいのに、君のそれは水墨画だね、汗はアドバンストクリスタル。縄文時代から続くいにしえの画法だね。唇が赤錆びて、鉄の味がしそうだ、―――なのに、思い出すのは、君の横顔ばかり。
2024年11月21日
クリーン社会あの。学校じゃないんで、びわ湖で溺れて、その後、死んでくれるならいいですよ。あの。うちの店長、昔、やくざ屋さんで。なめた口きいてると承知しねえぜ、こら。はい。ご注文は聞きます。マスクして欲しいその臭い口から、聞きましょう。え? なんですか、宇宙人語はワカリマセーン。はい。コーヒー売り切れました。というか、いま、売り切れたんです。うん。客はあなた以外なんで、そもそも客は人間の顔してるんで。うん。客は他にも有象無象、数多エキスプレスいるんで。あと、あたしの母親、弁護士だから。ふむ。友達は間に合ってます。友達にアウストラロピテクスとか、北京原人はいないですよね。マンモスとかトリケラトプスなら、ペットにしたいですけど。ふむ。奴隷及び皿洗い及び掃除夫、及び泥水なめ及び、ハリセンボン飲むという友達なら。はい。おとといきやがれ。はい。次は五体満足で済むと思うなよ。え?店長、浮気する人は、知り合いじゃないです。え?あたしポケットにナイフあるんで、カバンに鼓膜やぶる痴漢撃退ブザー、あと、護身用のスタンガンあるんで、大丈夫ですよ。あと、もう、後ろ暗いところつかんでるんで、次は脅迫、慰謝料の世界ですよ。え?人生は貴重ですよ、好きな人、友達、優しい空気の維持、清潔な心、その何もかもを汚染する、ゴキブリと対話なんてしないですよね、するんですか? しないですよね。
2024年11月21日
Ingénueメープル・ストロベリー・フィッシュ、風に薫れば。首の付け根に数億の公孫樹の葉で、木端微塵さ、永遠の恋の埋葬。腸詰をぶらさげているかと思ったら、猫の尻尾だった。愛と孤独のフォルクローレ。あの苺が褐色せぬように、でもするなら数百年後でもフォルム保ったあの檸檬。冷凍マグロでも宇宙旅行のその時は。うらなり、やせぎす、へちゃむくれからの急展開、唐変木の猿滑り、メープル・ストロベリー・クリーミー・フィッシュ、気体の分だけ、期待の分だけ、奇態の分だけ、増える決まり。脱走して、まだボクの恋は、マリアの顔形。AH,ah,ah,喊んだり、喚いたり、壊れたり・・。それでもメフィストフェレスの影も知らない、呑み込んだ分だけ、幾度も変わらぬ重力と自転。皺がいいとか、熟女になってもとかよく言うよ、信じちゃうからね、裏切ったらぶっ刺すからね、包丁じゃないよ、巨大なアイスピックで、なんだったら、レーザー銃で心臓を切り抜いてやる、地球だって言った、この心―――を・・。宇宙だって言った、この心―――を・・。全部君にあげる。丸ごと君にあげる。退屈させないで。暇じゃないんだ、恋は。
2024年11月21日
聖少女あのねっていった。ゆうかいするのっていった。ろりこん、こわい、いった。しねばいいのにっていった。おにいちゃんは、わらった。おとうさんは、いまごろ、ぱちんこだま。おかあさんは、いまごろ、はつじょうき。ぼくじょうの、ふんにょうの、においが、した。さんぽしてる、いぬが、あたしを、かぎにきた。あたまなでたら、こうふんしてた。もりから、ぬれたあめの、においが、ぬらぬらしてた。あたしってかわいそうね。おまえもかわいそうだけど、いった。おまえのことをしんぱいする、おれのかあさんのほうが、かわいそうだ。おまえ、おれのかあさんにあやまれ。ふつうにいや。あのねあのね、きのうぶつけたっていったあざ、ほんとうは、ともだちとけんかしたの。あいては、ぱーだったけど、あたしは、さいしょから、ぐーだった。おにいちゃん、じゅーす、じどうはんばいきで、くれた。ずいぶん、ためらってた。おかねと、あたしかを、てんびんに、かけた。あたしは、わるいおんなだ。
2024年11月21日
愛しい人息もできなくて落ちてく夢ばかり見る。テンプレ通りの過酷と困難。なめらかなカーテンレールが、光に捲れている美しい朝なの―――に。目玉焼きが冷蔵庫に残っていて、蛇口から一滴したたり落ちて静寂を搔き乱す。また向かい合ってる、まだ何かあたしあなたに言おうとしてい―――る。きょとんとして、眼があって、はにかんで、すぐ、ひたむきな表情、影・・・・・・。空の薄雲はいつから染み出した黒の摂理に、気付かず染まる。寒い部屋で電気毛布にくるまりたい、暗い道でも遠くに灯りを見つけたい、目覚めに暖かいチキンスープを一口飲みたい、だのに、心の中の空模様は最悪最低曇り時々雨。一度きりの夕焼けの町、そこからは海だって見えない歩道橋だけど―――。夏が終わって秋が来て少し季節が加速する、夜の静けさを掻き消す嵐。世界に馴染んでゆくための信号機が、通りの名をピックアップする。鯛焼きの匂いがする。君はいまどうしているだろう、それが心の支え、それが人間らしい感情のつながり。何処かに向かうという決定事項よりも、何の為にそうするのという問い掛けから始めてしまう癖。電車の窓にもたれて地に落ちし影。フォークは沈むふわふわの苺のムース。地下鉄から、地上へ、それでも足を運んでいるよ、家へ帰らなくちゃいけないから、その前に美しく胸を逸らすスターバックス、砂の中に埋もれたもののための音楽。誰もいない凍り付きそうなアパート、ケチャップライスの匂い、孤独を紛らわすためのSNS、成層圏の明るさ、きれぎれの幸福、バスの後部座席が近頃はお気に入り。昔からの友達は要領よく、また別の友達を見つけたよう―――だ。テーブルの上には折り畳まれた宇宙人みたいな丸眼鏡。麻婆豆腐の痺れを思い出す、―――インスタグラム御用達眼鏡。ふと記憶に耳を澄まして、あの街へと続く曲がり角の向こうへ行けば、偶然と必然が傾いてゆく香水の香りとステーキハウスの熱気。御伽の国の迷子、蜃気楼ばかりが見えちゃってさ、プラネタリウムと水族館を併せてもまだ遠すぎる夜空、ノスタルジックなイメージに光は優雅に靡く、通り過ぎた人達の背中、移り変わる街並みと、速過ぎる時計。元の形に戻れない麦藁帽子、サイズが入らない水着、君の残像がまだ消えな―――い、君の悲しみがまだ消えな―――い。
2024年11月21日
近頃の僕は思う棄てちゃいけないもんがある、守んなくちゃいけないものがある、人間、本当に真面目になってる時は、馬鹿なことの一つも考えられないものさ。でも今日が終わりじゃない、だって自分を卒業できない、終わりに出来るものばっかりじゃない、続けるか、ズルするか、さ。楽して生きたいんだよ、それでも軽くしたい。優しい言葉より、傷つける言葉の方がリアルだ、でも僕等は、本当は違うとか言いたがる、賢者タイムさ、でも顔もよくて性格もいいなんて、思うなよ、うすっぺらいんだよ、お前は。ハート熱くなって燃え尽きる覚悟もないのさ。みんな色んな悩みがある、当たり前だ、うすっぺらかろうが深かろうが、そして常に鎧っているものがある、仮面がある、そして人間というのは、それでもボロが出て来るものさ。たんにお前が楽したい、救われたいってだけじゃねえか、でも世界がそんな風に回っている間も、今日もやっぱりちんこが必要なのさ、そして女はちんこ生やさなくちゃいけない、馬鹿みたいなもんさ、関係ないね、シモネタじゃねえだろ、これ。呪われたバベルの塔をつけろ、最低でも二本はつけろ、男はむしろ穴を増やせ、もっともっと増やせ。
2024年11月20日
頭悪い奴から死んだらいい。I hope the stupid person dies.kamome studio
2024年11月20日
蜃気楼と夢と陥穽のアラート医療実習用の模型―――を、硝子越しに見ているような、暗鬱、慄然、憧憬による、性の屈曲と伸展を伴った階梯。パー・バクの砂山モデル論、トム・レイの人工生命「ティエラ」の実験とか、口にしてもちんぷんかんぷんな僕等の世代さ。多分、もう追いつけない、踊り場が見えて来る―――んだ。歌舞伎の女形とタカラヅカの男装。ジェンダーとフェミニズムについて考えながら、命令系を持たない声で行こ―――う、水のささやきが耳に残るまで。子猫を捕らえて切り刻む少年の瞳が、人間の皮を引き剥がす、骨を折り、首へとなめたかにナイフをくれる、笑われて、傷つけられて、咎められた、快楽者のそれと何が違うという戸惑いの中、夜の淵を漂泊する。咽喉に青いビー玉を隠しなが―――ら。表現のつたなさが怒涛の想いで飛び込めば、果てしない夜をきれいに閉じてゆくための、―――青い、碧い、蒼い、二十世紀が、見えるよ。悲観的人生観―――と。退廃的感情論―――と。共鳴を忘れたまま光を孕んで、カレイドスコープのような、夜の汐の破片が満ちて来る。それゆえに影が通過する。そしてすぐに青い蝶が、羽根を拡げ―――る。そして知性の実が赤く熟れ―――る。メタファーは生物のシナリオの一部だ。生まれてきてから知ることの遅さ―――を、やわらかく抗うことで・・。蝉の声が突然に止む、八月のラジオのノイズが聴こえる、それでも僕は止まらなかっ―――た。動と静を有した僕にはいつも雨の音が聞こえた、春はいつも遠かっ―――た。あるいは、だから僕は春を鬱屈の対象とした。自嘲の歌も、生理も、切断も、絶望の神が支配する、頭上も見ず、また、脚下も見ず、心臓の鼓動を聞く。呼吸の音を聞く。幽暗の中へと下降してゆく生の営み、あるいは聖なるものへの完済を求める負債―――。眼の見えている僕等の祈りは、くちびるに触れるあたりにも似た、生乾きの傷口、石鹸で手を洗う行為の中に閉じ込めたん―――だ。命じられ撃つだろう銃の響き、そして弱い僕等は最後まで躊躇うことはないだろ―――う。ギターを掻き鳴らすというよりも、一つ一つの音をしっかり弾いていたんだ。男の官能は服を纏うところにあり、女のセクシャリティは肌を見せるところに―――ある。ジグソーパズルみたいだって声がする、頭の中ではずっと声や音が聞こえていて少しうるさいのさ。拷問器具にも似た性の四十八手、それをソドムというのか、エドマンド・スペンサーの妖精女王、シェイクスピアのクレオパトラ、バルザックの両性具有、ともしびの揺れの如く嘘は増えてゆく、そしてここは仮面を競い合う舞踏場、時の彼方の黄昏―――へ。水晶のように澄んだ肉体よ、心は鳥の形をしていたのか、身体は花の形をしていたのか、魂はもう風の音になってい―――る。ミニスカート姿で鞭を持ったカミール・パーリア、あるいは革ジャン姿でナイフを持ったカミール・パーリア。血圧と心拍数の急激な低下、そして泡―――いまは、ね、さよならで、しずかに光る夏の命・・、行為は相互作用的なものであり、共生的なプロセスだ、鍵盤で遊ぶ、蜘蛛、スパイダー、くも、spider、ゆびさき・・。遺伝子なんていうものをわざわざ持ち出さなくとも。僕等はもう少しだけ、短い寿命を液状化させて、燃焼し尽くそうとし―――た。ライト、LIGHT、こわれてゆく、rightなんてね、すべての想いなどどうせ語り尽くせぬものとばかり、その一瞬、その、たった一刻―――で。多分、もう追いつけない、僕は伸びて行く方向に陽が当たる暮らしを求めた、よろこび、努め、人には優しくして過ごしたい、この夜の果て―――でも。それが夜の極み―――でも。熱伝達、膨張の寸前の冷却、鯉、花びら、川、夢。
2024年11月20日
ジョン・レノンの夢セル雲は、細胞に似ているため、その名がつけられたが、見た目とは裏腹に、土砂災害が土鳴りや地鳴りをさせるように、これは嵐やハリケーンの前兆現象―――だ。雲には色んな面白い姿がある、ジョン・ケージ的なキャンバスだよ、アメリカのロードアイランド州で撮られた雲は太い帯のようで、空の津波といった様相を呈している、特に風も強くなく雨もない、そして数分後、忽然と消失する・・。まるで地球の六分の一の重力の月に憧れたみたいに・・。ところでハリケーン後に蚊の大量発生した事例があるが、世界各地で蚊の大量発生はあり、交尾の時期とか、ハンバーグにしたりしている―――ね。オーストラリアでこんなコメントがある、沢山蚊がいると帽子や髪の毛の間を通って喰われて、まるで頭蓋骨を噛まれるようだ、と。軍隊蟻の話みたいだね。その昔は人がテントで眠っていると、軍隊蟻にむしゃぶりつかれて白骨化するという神話があった。森で熊さんにあったらよろしくね。軍隊といえばシンクロ、鳥の群れが一糸乱れぬ動きで大きな鳥に見える動画もある。いや、僕等はそれを偶然の産物と笑うかも知れないけど、鳥側にとってみれば集合体としての、テレパシックな共鳴で、何度でも起こりうる必然の結果なのかも知れな―――い。フロストフラワーは、空気中の水蒸気が氷などの表面に付き凍りついて、花の様な形に見える結晶の霜ことだけど、モエラキの丸石さながらに、回転する氷の円盤というのも―――ある。メタンガスを閉じ込めた氷はくらげみたいに見えるし、ロッテンアイスは蝋燭の列みたいだ。沈黙は胎内回帰願望としての静寂の蓮の華・・・・・・。必然や偶然、いや、蓋然という言葉をついでに覚えよう。二〇二三年トルコのブルサに浮かんだ雲は、「UFOだ」(...全面戦争勃発、)「世界の終わりだ」(...アルマゲドン)とパニックになりながらもインスタグラム脳は健在、本当にそうだったとしてもSNSは大繁盛するのだろう、ちなみに気象庁が出した答えはレンズ雲の一種・・。鯨が噴水で虹を作る一瞬の奇跡は、もう殆どの人は知っていることだろう―――けど、飛行機が虹を引く光景もある、これはブロッケン現象で、雲に映った飛行機の影のまわりに虹色の光の環が現れるもの。正式には「光輪(グローリー)」という。飛行機の影が出来る場所に、水の粒で出来た雲がある場合、可視光線が水の粒を回り込む「回折」という現象が起こる。カイエトゥールの滝は二二六メートル、一段の滝としては世界一の落差を誇る壮大な滝で、その水量は毎秒二五メートルプール一杯分。あるいは、浴槽三〇〇〇個分。東京ドームでいえば―――。東京ドームでいえば―――。美しいといえばウツボの幼生期・・、血球すらなく、消化管も、薄い筋肉すらも、硝子細工みたいな透明度と化していて―――。ニュージーランドのワイトモ洞窟では、青い光を発するヒカリキノコバエの幼虫の、「ツチボタル(グローワーム)」が生息していて、まるで星空で、ナスカの地上絵をぼんやり想像してしま―――う。生き生きとした弁別性のある記号-言葉が、ロールシャッハテストのように立ちのぼり・・・・・・。
2024年11月19日
EFREETイフリートはアラビアの伝承に登場する怖ろしい精霊のこと。女性はイフリータと呼ばれる。アラビアの精霊はジンニーと呼ばれていて、唯一神アッラーフが天使(マラーク)と人間の中間的な存在として、造ったもので、『クルアーン(コーラン)』にも、ちゃんとその存在が明記されている。イフリートはそんなジンニーの一種、あるいはその同義語であると考えられる。一説によれば、ジンニーは五階級に分類されるといい、下から順にジャーン、ジン、シャイターン、イフリート、そしてマーリドとなる。この分類に従えば、イフリートは上から二番目の階級に属することになる。この階級に関する伝承の出典は定かではないが、少なくともボルヘスが『幻獣辞典』の中で、「ジンは五つの階級からなる」と言及している。基本的に僕はボルヘスが書いているなら間違いないことだ、という方向で便乗する。エドガー・アラン・ポーとかもその類だ。もう一つおまけに出せば、D・H・ロレンスもそうだ。イメージ的には「炎の魔人」「炎の精霊」「炎の魔獣」として知られるが、これはテーブルトークRPG『ダンジョンズ&ドラゴンズ』で、炎属性のキャラクターとして登場したことによる影響が大きい。イフリートも含めジンは、煙の無い火から生まれた種族だとされているため、関係がないというわけではないが、炎は自由に操れるにしても身体は炎で出来ているわけではない、「ファイナルファンタジーシリーズ」や「テイルズ オブ シリーズ」では炎の属性を持った魔神として登場する。実際、一九八〇年代のゲーム関連の解説書の類には、「アラビア伝承に登場する炎の魔神」などと、まことしやかに記述されている。由々しきことで嘆かわしきことではあるが、それが伝言ゲームの面白さのようでもある。また、現代ではファンタジー作品で四大精霊の一角に列挙され、サラマンダーの席を横取りしがち。他が人型の精霊の中でサラマンダーだけが爬虫類であること、また鬼神のような厳つい容姿が燃え盛る炎のイメージに合致するのが、主な要因と思われる。ところで二〇一六年あたりのTwitter界隈では、ほうれん草の品種名がやたらカッコいい名前であることで沸いた。「バハムート=病害に強い品種」「イフリート=暑さに強い品種」だから何だと思うだろう、僕も実はそう思っている。他にも「ルーク」「ビショップ」「チェックメイト」「ペルセウス」「アルデバラン」などと続く。神話の魔獣やチェス用語、星座の名前。命名者がガチの中二病である可能性もあるが、欧米でも、キラキラネームや当て字に相当する名前は存在し、こういうセンスを馬鹿にするつもりは毛頭ない。さて、アラブ世界では、そもそも幽霊に関する報告自体が少ない。しかも、一八、一九世紀に同地を旅したヨーロッパ人の旅行記や。探検記の中の数少ない記述を見ると、「幽霊(ghost)は知られていない」とか、「普通の幽霊の概念は存在しない」といったことが書かれていたりする。現代でも生者の前に現われた死者のことをアフリートや、次で述べるジンと呼ぶことがある。そのほかにも、レヴァント地方では死者の幽霊をさして、アフリートと、モロッコでは同じく幽霊をさしてジンと呼ぶところがある。アフリートは口語的な発音であり、標準アラビア語ではイフリートと発音される。イスラームの聖典クルアーン(コーラン)にも、一個所だけ記述が見られ(第27章39節)そこには、「ジンのなかのイフリート」とあり、イフリートがジンの一種であることが記されている。ジンはアラブ世界の妖怪の代表的な存在で、クルアーンにも、「ジンの章(第72章)」をはじめ、あちこちに記述がある。ここまで説明すれば誰でも容易に解釈できる通り、幽霊や妖怪の別の名こそがイフリートやジンであると解釈できるだろう。偶像崇拝を禁ずるイスラーム世界で、絵画の類があまり発達しなかったことと無関係ではなく、また、このイスラームという宗教こそがイフリートやジンと総称される、妖怪に対する信仰に習合させ―――た。そもそも長い間、信じられてきた信仰というのを、捻じ曲げる、禁止する、というのは誰がどう考えても難しい話だ。口がある限り何処からだって噂は生まれるし、人がいる限り恐怖はなくならない。簡単に駆逐できるものではない。それよりもそういったものを内部に取り込んでゆく方が、新宗教の布教にはむしろ都合がよい。実際にもイスラームは、古い信仰をすべて駆逐するのではなく、一部を内部に取り込みながら信者を獲得していった。その取り込みの典型的な例が、ジンやイフリートであり、それはあたかも「ダンジョンズ&ドラゴンズ」で、ジンを水、火、風、土の四大精霊と結びつけ、それぞれ水の魔神をマーリド(Marid)火の魔神をイフリート(Efreeti)風の魔神をジンニー(Djinn)土の魔神をダオ(Dao)とした如くだ。そして僕は「幽霊的身体」「ゲームの時代」という風に理解する。マンガやラノベが拡張していった環境は、「マンガ・アニメ的リアリズム」で、そういうシンクロだったのではないか、と。オタク系文化はアメリカ的な消費文化をいかに「国産化」するかで、それは情報エントロピーが捨てられていく海のような機能だ。色んな言い方があるけど、「現実遊離」とか「透明化」だろうか。そして一九八八年から翌年にかけて宮崎勤がおこした、連続幼女誘拐殺人事件の報道によって、オタク青年は非社会的で倒錯的な趣向をもつとされ、オタクという言い方そのものに差別表現が滲むようになった、そして今、そんなものすらもとっちゃらかったような、不思議な現代空間を、寓意画のように考察す―――る。アレゴリーは洞窟画や母音子音の出現以来、われわれの表現とコミュニケーションの最も深いところで働いている、編集的表現作用だ。さて、イフリートはしばしば『千一夜(アルフ・ライラ・ワ・ライラ)』に登場する。ランプや指輪、瓶などに封じられていることも多い。「アラジンの魔法のランプ」に登場するランプの精霊も、イフリートで、ランプをこすった人間のどのような願いを叶えてくれる。実体はなく、変幻自在で、種々の魔法を使いこなす。そしてアラジンはイフリートの魔法によって国王になった。『千一夜』の中ではジンニーとイフリートという単語の使用は、厳密には区別されておらず、同じ存在のことをある時はジンニーと呼び、ある時はイフリートと呼んだりしている。巨人を意味するマーリドもイフリートやジンニーを指す言葉として、用いられている。強いて区別すれば、ジンニーの中でも特に恐ろしいもののことをイフリートと表現する。だのに、女性をさらって大理石の箱の中に閉じ込めておくものの、眠っている間に次々と浮気をされてしまっているという話や、漁師に騙されて青銅の壷に封印されてしまうなどの、間抜けな一面も多くある。全然関係ないけど、アラビアン・ナイトが当初どういうものであったかは、いまでは僕等にはまったくわかっていない。写本もない。それがかろうじてわかるのは、十五世紀。ファティーマ朝のカイロで「千一夜」が、物語としてまとまって流行したということだけなのだ。このことはエジプト人アル・マクリージーの、『アル・ヒタト』という地誌も伝えている。こうして、現在確認されている最古の『アラビアン・ナイト』手写本は、パリの国立図書館にあり、それが15世紀半ばのものなのだ。もちろんそこにおけるジンやイフリートがどんな風に描写されていたかは、聖書の男 根主義的な一面や、差別・迫害ならびに、いまとなっては突拍子もない奇跡とか悪魔とかを想像するだけで事足りる。世界中には本当に色んな人がいることをYouTubeから窺い知るわけだが、もちろんご存知のように、これ昨日や今日、突然始まったわけではない。何だか急に物々しくなったな、なりました―――ね。ヨルダンの北部にある、邪視信仰があるクフル・ユーバーの、隣村に住む男が、村境であるこの村のT字路で、ジンが踊っているとしか考えられないような物音を聞いた。この男が迷信など信じる類の人間ではなかったということから、新聞記事にまでなってしまったというものがある。この記事についてクフル・ユーバーの人たちに意見を求めると、三通りの答えがある。別にそんなの聞かなくてもわかるって、いいからいいから、ちょっと聞いていきなよ。そう、予想していたように三通りあった。一つは記事の内容が出鱈目だろうというもの、もう一つは本当だろうというもの、そして最後はどちらとも判断しかねるというもの―――だ。実際のところ、僕はそれについてどうでもいい。どんな話でもそれ以外の答えはないとみんな知っているからだ。でも多数決の論理、少数派でも影響力が強い人間がいるなど、そこには様々な心理学があることも容易に想像できるだろう。何が言いたいかというと、「イフリートやジンは存在したか否か」だ。たとえば人体自然発火現象が起こって、この怪物が誕生した可能性だ。(もちろん、9.11ツインタワー崩壊、原因は溶融アルミニウムの水蒸気爆発だったというけど、その煙を見ていた人がまるで悪魔のようだと言ったものかも知れないが、)人体を燃焼させるには、少なくとも摂氏一,〇〇〇度の高温が必要だ。 でも住居内で人が灰化して発見された事例は数々記録されているが、人体自然発火現象の奇妙な事例は、遺体の周囲に火が拡がらないこと―――だ。人だけが綺麗に燃える、これを見た昔の人はそれについて、どんな風に考えたのだろうかとちょっと思ったのだ。
2024年11月19日
百円ショップ100円ショップは『流通統計資料集 2010年版』(流通経済研究所)p33の「商業統計における産業分類表」によると、100円ショップは「その他のスーパー」に該当。100円(税抜)の商品を主に売っている小売店である。100均(100円均一ショップ)の略称でも親しまれ、ダイソー、キャンドゥ、セリアなどが特に有名。物価高で100円ショップが限界寸前とも聞かれるわけだけれど、潰れて欲しくない、値上げして欲しくないわけである。さて、「商品を均一価格で売り出す」というアイデアは、日本国内においては古くは享保7年〜8年(1722年〜1723年)頃から、江戸で流行した「十九文見世」文化6年〜7年(1809年〜1810年)頃から江戸で流行した「三十八文見世」同時期に江戸で流行した均一価格の食べ物屋台「四文屋」明治時代前半の頃の天保通宝の8厘通用を意識した、「8厘均一」や「2銭8厘均一」松屋呉服店(現:松屋)が1908年(明治41年)に行った、「均一法大売出し」や1910年(明治43年)に行った、「一円均一」という例がある。なお、99円など100円以下の価格で統一している店もあれば、基本的に100円だが200円や300円、500円といった商品を、一緒に販売している騙し討ちみたいな店もある。(ステルス殺法、と呼ぶ。籠の中にパンパンに入れすぎて「アンタ、三百円だったの」という小ネタ)また高級志向の300円均一で販売する「300円ショップ」もある。美味い棒30本買えるのにと思う人はけして行けない店である。(そもそもそんな計算する人は、激安ショップへひたすら行く、)なお正確に物を申せば、100円ショップと称してはいるものの、消費税が導入されてからは103円になったり105円になったりしている。正しく言うならば、『税抜き100円ショップ』である。なお法律上は名前を変える必要はない。あと、100円ショップだからと調子こきすぎて、ちっとも安くない一万円の会計価格でおみおくりの作法。(あの世逝き、とも呼ばれる、)100円均一で販売するため、何でも安いというイメージがあるが、(他にも100円ショップって何処でもみんな、同じ商品というイメージを持ってる人もいる)実際にはスーパーやドラッグストア・ホームセンターなどで、100円以下で販売されている商品も存在する。2000年代のダイエーでは「暮らしの88」という名称で雑貨などの、「88円均一コーナー」が常設されている店舗が存在した。なお、価格の限界は、現在は廃番となっているが、ダイソーの「三脚式ホワイトボード」が6,800円で存在した。購入した人はダイソーへ本当に何をしに行ったのだろうという、―――純粋な疑問は残る。また殆どの百円ショップでは基本的にクレジットカードは使えない。そもそもクレジットカード払いの場合、店に対し後からカード会社から売上が振り込まれる形となるので、キャッシュフロー的には不利である。クレジットカードで支払われると売上の一部が手数料として、数パーセント天引きされてしまう。なお、店が手数料を客に負担させるのは、クレジットカード加盟店規約違反であり、もし手数料を商品代に上乗せし、客からカード会社にその件をチクられた場合、最悪のケースの場合契約解除 すなわち垢BANとなることもある。特にJCB等はそのことに対しかなり厳しい態度を取ることで有名だ。薄利多売の商売をしている百円ショップにとっては、クレジットカード払いを導入したくないのが本音だ。ただ、ローソンストア100全店、ダイソーの一部店舗、大型ショッピングモールのテナントとして入居する店舗などでは、使えることもあるよう―――だ。ロケットニュースの記事で、【100均検証】100円ショップの防災グッズで、「100円グッズの防災袋」を作ってみたというのがあるのだけれど、ここには二つの見方があると思う。①百円ショップでも防災グッズを準備できる➁百円ショップは本当に色々なものが売っている以下、購入した商品である。01:三角巾 02:LEDライト 03:携帯用ミニトイレ04:マスク 05:軍手 06:サンダル 07:ビニール袋08:食品包装用ラップ 09:折りたたみクッション10:乾電池 11:エア枕 12:アルコール除菌ウェットティッシュ13:非常用アルミシート 14:飲料水 15:絆創膏16:ナイフ 17:折りたたみコップ 18:ターボライター19:洗顔シート 20:手動発電LEDライト21:電池式モバイルバッテリー 22:充電用USBケーブル23:充電用Lightningケーブル 24:レインコート25:ろうそく 26:タオル 27:ぶどう糖28:ペットボトル用緑茶パック 29:食料 30:歯ブラシ31:コンパクトタオル 32:折りたたみボトル 33:カバン(300円商品)100円ショップの代表的な企業であるダイソーの商品数は、約76,000アイテムで、その90%が自社開発商品で、毎月1,000アイテム以上の新商品が開発されているらしい。iPhone16用の「ガラスフィルム」とか、釣り道具に関して、釣りのYouTuberさんが驚くほど、「めっちゃ釣れるジグやワーム」を出し、キャンプ系YouTuberさんが毎週特集を組めるほどの、キャンプ道具を新発売した。またセリアの『食品圧縮袋』は本当に優秀だ。そのセリアは20,000アイテムということだった。で、100円ショップへ行ったことのない人の為に、Microsoftが開発したAIコンパニオン、Copilotが答えてくれた。「日用品:掃除用品、洗剤、トイレットペーパーなど」「キッチン用品:調理器具、食器、保存容器など」「文具:ノート、ペン、ファイル、シールなど」「インテリア:収納ボックス、デコレーションアイテム、カーテンなど」「美容・健康:化粧品、ヘアケア用品、健康グッズなど」「おもちゃ:子供向けのおもちゃ、パズル、ゲームなど」「ガーデニング:植物、鉢、ガーデニングツールなど」「DIY用品:工具、素材、ペイント用品など」「食品:お菓子、飲み物、調味料など」「ペット用品:ペットフード、おもちゃ、ケア用品など」これらのカテゴリーに加えて、季節ごとの商品や特定のイベントに合わせた商品も多く取り揃えられ、例えば、ハロウィンやクリスマスのデコレーション、夏のアウトドア用品。コスメティックはパッケージなどの安っぽさを除けば、1000円台の商品に匹敵すると言われ、物によるがスマホのアクセサリー等も100円とは思えないほど品質が良く、便利なもの尽くしで、乾電池はそこいらの国内ブランドを軽く上回る寿命があるものがあるうえ、単3が5本で100円だったりと、かなりお得。ボールペンでは店で買うと120円以上するものが、100円で売っていたりする。なお、製造は日本国外のメーカーへ委託するものも多く、価格を抑えるために船舶を用いた安価な輸送に依存している場合が多く、コンビニエンスストアなど主要な小売店チェーンの殆どが導入している、POSシステム等を用いたリアルタイムな商品動向の追従や対応が難しい。その結果、メディア等で紹介されても供給量を急に増やすことができず、欠品を起こしてしまうこともしばしばある。これらの弱点とも言える不安定供給の問題は購買層にも、徐々に浸透し始めており、次回来店時の欠品といった不安要素にもなり、価格とも相まって購買意欲をそそる結果も生まれている。安さの秘密は企業努力の賜物だが、わざわざここで買わなければならないのかという人も一定数いる。(百円ショップ嫌い派閥、と呼ぶ)なお、北米地域を中心とした海外では、Dollar TreeやMy Dollar Store等のワンダラーストア(One Dollar Store)というものがあり、やはり1点につき1ドルで購入可能な商品を中心に取り扱っている。余計な話だが、その外国の100円ショップで、防弾プレートを作ってテストをしてみた人が現れた。材料はまずハードカバーの本、そしてオーブン用のプレート、園芸用の石、ボンドとガムテープ。弾丸はまず石に当たって威力が減衰し、そして本によってストップするという理屈だ。オーブン用のプレートにボンドで石を敷き詰め、その上から本をかぶせてガムテープでぐるぐる巻きにして完成。実射テストをし、業界最小クラスの.22LR弾、9x19mm弾、.40 S&W弾、.45 ACP弾、.357マグナム弾、.38スペシャル弾の6連発を貫通させずに止めることに成功した。なお5.56mm弾などライフル弾は止められない。pixivではここで購入した画材や小物を使ったアートや写真に、100円ショップのタグが付けられる傾向にある。(弘法筆を選ばず、と呼ばれる)また、モデラーには大まかにランナーの太いゲートから、パーツを切り取るために短期使い捨てを前提にした用途で用いられるニッパーや、ガンプラのセンサー部分を光らせるためのラピーテープがお世話になる。ちなみに文章の推敲をする用途で僕はたまに画用紙を買いに行く。ところで、その昔の100円ショップ界隈では、品質よりもコストカットが優先されていて、商品に当たり外れがあったりすぐ壊れたりすることも多く、「安かろう悪かろう」というイメージも強かったが、21世紀にもなるとかなり改善されていて、ブランド商品キラーとして恐れられている。そのため世代によってかなりイメージが違う。また100円ショップだからというので文句を言いにくいものの、透明テープとか、包丁とか、合羽とかは地雷だと思ってる。中でも物干しハンガーは地雷も地雷で―――。(地獄の黙示録、と呼ぶ)こんなものもあるのかという驚きをくれる場所、コンビニをプラスアルファしたような場所。何でも揃う。また100円ショップ独自のプライベートブランド商品や、メーカー品も安価なことが多く、例えばコンビニなどでは120~150円はするペットボトル飲料も、ここで買えば100円で買えてしまうことが多い。中高生を見たらジュース買いに来てんだなと勝手に思う勢の一言。
2024年11月18日
黄砂の話紙を拡げた軽さの砂だが、黄砂となると話は別、これ、〇.五から四マイクロメートル。マスクをしてもその網目を搔い潜ってることになるので、専門家なんかは意味がないと言う。ただ、その専門家は抵抗や防衛としてカオス状態を呈する、ということを知らないのかも知れない。病的というのは、正常なものへあらゆる照合が、消滅するようなものでは決してない。ところで黄砂というのは花粉みたいに日本列島に飛来する、悪魔のような意味合いが強いとは思うけれど、黄砂の起源を辿るように約一億二千年以降の堆積物を調べると、日本列島全域にわたって中国中部の、黄土高原の堆積物と値が一致していたりする。本来の黄砂というのは弱アルカリで、土壌を豊かにしてくれるものだ。たとえそうではないとしても、「有り触れた自然現象」だった、という見方は消すことは出来ないだろ―――う。ではどうして被害報告が相次ぐのかということになるわけだが、それは環境に変化があったから―――だ。ピラニアが潜む川に肉塊を投げ込んだら地獄絵図になるようなもの。僕は常々、研究というのはえらいものだなと、想う。この砂の成分を調べてみると、おもに石英、長石、雲母、緑泥石、カオリナイト、方解石、石膏、硫酸アンモニウム。ちなみに日本の表土のそれより、カルシウムの含有率が高い。じゃあ黄砂って「過敏症の類」なのかというと、そうではない。これが「本来の黄砂」というわけ―――だ。このような砂が、自動車、建物の窓や洗濯物が汚れる原因となる。ちなみに中国某所の駐車場では黄砂などで汚れた車を発見した、あるアーティストが、綿棒と歯ブラシ一本で、見事な鯉のイラストを完成させたりしてい―――る。これがゲリラアートなのかどうかはわからないけれど、本人の車でなかった場合は、世知辛いけど、損害賠償請求の対象になりそうだ。それはたとえば、サッカーの試合で、分かりやすい八百長の、百三十四対一という試合があるみたいなものだ。審判と相手チームが協力したといわれている。ね、この一点の解釈が難しいんだ。この動画を観た海外の人達は洗車の話で盛り上がっていた。でも実際、黄砂を放置して雨が降ると粒子が張り付いてしまい、 水で流したくらいでは取れなくなってしまう。こうなるともう、高圧洗浄機が必要になる。黄砂がひどい場合は二週間に一度は洗った方がいいし、ノンブラシタイプの方がいい。黄砂は普通の汚れじゃないという認識は正しい。さて、その砂はトラックや、船で運ばれてくるわけではない。ちなみに環境省によると、東アジアに飛来する黄砂の量は、年間二億トンから三億トンで、十トントラックで運べば二千万台分にもなる。二億トンの黄砂の価格を単純に市販されている山砂の価格、一トン四千円で計算すると、なんと総額は八千億円にもなる。高速道路一キロ五十億円と比較しても中々のものだ。しかし『無料(タダ)より高いものはない』投資の講演会などが無料で開催されているのは、開催する側が「あとでセールスしたい」という思惑がある場合があり、また、催眠商法では、来場者に洗剤やティッシュペーパーを、何度も無料で配り、「ここまでしてもらって何も買わないのは申し訳ない」と思わせて、高額な商品を購入してもらう手法がある。この心理学ほどではなくとも、たかだか砂だろうという見方が、ほんのちょっとの言い方や考え方で変化する。―――そこをPOINTにしてみたい。前述したようにこの砂はトラックや、船で運ばれてくるわけではない。だからこの砂には、微生物やその死骸、金属、化学物質など、多くのアレルギーを引き起こすものが含まれてしまうことになる。また微小なマイクロプラスチックが混じることもあるようだ。大陸で黄砂が発生すると、大体四十八時間ぐらいかけて日本に飛来してくるわけだが、その間に様々ものを巻き込んでいく。気流によっては工業地帯や都市部の上空を通る過程で、有害物質が付着することもある。こうなってくるともう、狂気の心理学というほかないコロナ期のガスマスク状態だけど、「極力、外出を避ける」「窓は閉め切った状態にする」「空気清浄器を利用する」というような方法しか取れなくなる。もちろん外出を避けるのには限度はあるが、神経質になるな、サバトクトビバッタの群れではない。彼等は一平方キロメートルに、四〇〇〇万から八〇〇〇万匹いる、そして四〇〇〇万匹で、一日に約三万五〇〇〇人が消費する食糧、もしくは、牛二〇〇〇頭分の牧草を食べる。―――問いの断絶とうほかない、沈黙・・。外に出たくなる話をしよう、やっぱりスキーシーズンだしね。モスクワ・ソチの雪山の写真があるけど、普段は純白のパウダースノーが降り積もるスキー場なんだ、だけど北アフリカから黄砂が流れこみ、雪と混ざったことによって、雪山がオレンジ色に染まっていたりする。終末観もあるし、火星のようで綺麗だし、みんなスキーを楽しんでい―――る。前方が見えにくいというようなことはあるみたいだけど、一寸先は闇としか言いようのない中国のスモッグと比較すれば、素晴らしいものだよ。実際に、黄砂で航空機の飛行や車の通行、鉄道の運行、人の歩行に障害を及ぼしたりする。一般に見渡せる距離が十キロ未満になると、空がぼんやりと霞んだり、二キロ未満になると飛行機の離着陸などに影響が出るといわれている大気を覆うことによって気象観測を妨害したり、地上波放送などの電波が乱反射し、受信障害や異常伝播を引き起こすこともある。金儲け主義団体のXを妨害工作はもっとやってくれてもいいわけだが。中国や韓国では、黄砂の濃度が高い時には、乗用車の速度規制が行われることがある。こういうのが続くようなら、自動運転の技術は必要不可欠にも思えて来る。また中国、韓国、台湾では呼吸器疾患や呼吸器感染症、心臓や脳の循環器疾患の増加と黄砂発生との相関が、複数の論文で報告されている。また喘息、アレルギー性鼻炎などのアレルギー疾患のほか、結膜炎などの眼科症状の増加も報告されている、また黄砂は農作物への損害を与え、光合成を阻害したり、酸性雨への寄与をしたりすることもある。―――都市のフケというわけだ。空が黄砂に覆われた場合には二種類あり、粒径が小さい・濃度が低い時は、ミー散乱により、白っぽく霞んで見え、粒径が大きい・濃度が高い時は、太陽光が黄砂粒子を、透過・屈折することで、おおむね黄褐色や赤褐色に見える。実はモンゴルでは災害レベルの大規模な砂嵐が起きた。鼓膜に砂があたる音がし、方角がわからない、十メートル先も見えない、それが外さえ出歩けなくなった状態の黄砂だ。とはいえ、日本ではそこまで大きくない、鼻炎、咳、咽頭痛の三症状を、ピンポイントブロックするには眼鏡やマスクをすること。手洗い、うがい。多くの人は思うはずだ、大したことがない、風邪か、花粉症か、黄砂なのかわからない地域が多い。場所によっては車の運転に注意が必要だし、洗濯物は部屋干しが無難だ。その昔、海底トンネルを掘って、東京と北京を繋げる列車の話があった。血吸蝙蝠の協力行動、女王蜂に奉仕する働き蜂、交尾中の雄を食べる雌の蟷螂。―――こんな絵に描いた餅みたいな話を考えていると、僕は、「力の統一理論」「四つの力を一つ」にというあれを、考えてしまいたくなる。束ねるのは難しい、でもそれが宇宙の真の姿といわれると、心惹かれてしま―――う。高度が上がるにつれて、気圧、気温、酸素濃度が変化していく。その砂は風が吹くと、「転がりながら進む砂」「跳ねながら進む砂」そして「空中を浮遊する砂の動き」をする。まるで神経細胞が、「休んでいる状態」と「興奮した状態」の、二つの状態しか取れないみたいなものだ。急速に広がりつつある森林伐採や、農地転換による土地の劣化の影響。ほかにも、環境汚染が被害を増大させているという話もある。ところで、年間の中で二月から五月の四か月間に、年間の約九〇パーセントが集中して降下し、まったく黄砂が観測されない季節もあるのだが、実はバックグラウンド黄砂というのもあり、自由大気と呼ばれる高層で薄い砂塵が観測されるなど、黄砂が観測されない季節でもこの黄砂が飛んでいたりする。見えると迷惑って言うけど、見えなかったら迷惑とは言わない。日本のメディアは環境省が言うように、一般的な黄砂は中国大陸のゴビ砂漠、タクラマカン砂漠、黄土高原の土壌・鉱物粒子が風で高度数千メートルまで巻き上げられて、運ばれてきているという認識。これに加えてパキスタンやアフガニスタンなど、東アジア内陸部を起点とする砂も相当量混ざっていることが示唆されている。中国のメディアはそして、モンゴルのせいと言う。奥さんが中国人だけど、それは多分違うと思う。ただ黄砂とPMを一緒くたにしているところもあるので、情報としてどうかと思う。PMは石炭を焚いたりディーゼル発電などから出る人工的な物質で、黄砂が無機質、PMは有機物なので、水と油のような違いがある。黄砂とPMを両方「大気汚染物質」として一緒に測定したり、記事に書いたりしているが、元々アメリカで大気中に浮遊する微小物質が、PM10とかPM2.5のような指標で示すことが決まった時には、「砂塵のような天然物を除く人工物」となっていたが、日本の大気汚染法令では天然物を除いていない。黄砂は粒径が数ミクロン(四ミクロンぐらいが中心)だから、PM10にもPM2.5にも入る。PM2.5は2.5ミクロン以下と報道されることもあるが、2.5ミクロン以下の粒子が五〇パーセントある粒子群を言っているので、4ミクロンの黄砂も入る。結局細かいところはどうでもいいのかも知れない、大筋は変わらない、だけど、これは思うに黄砂の被害がまだ生易しいものだからだ。中国や韓国では甚大で、経済損失や健康への影響が確認されている。中国では毎年約六五〇〇億円、韓国では年間およそ二四〇〇億円から四〇〇〇億円。韓国では、黄砂現象期間に高齢者の死亡率が二.二パーセント増加し、呼吸器系及び循環器系疾患の入院がそれぞれ七.八パーセント、三.七パーセント増加したという報告がある日本では、黄砂による健康影響について、疫学的調査報告や研究成果は今のところ見当たらない。けれど、僕は時間の問題だろうなと思っている。アマゾン河はナイル河に次いで世界二位の大きな河だが、実は地下四キロにアマゾン河より広い、全長約六〇〇〇キロの地下水脈があるみたいなもの―――だ。法や政治や道徳や医学などに属する、様々な知や実践の編み目を持ってしても、―――事件が起こらないと捜査しない、動けないという警察官なのだ。
2024年11月18日
心の中の迷路maze in my heart瞳を閉じながら、(I Want You to Stay...)交差点の雑踏が犇めき合い、信号と共に動き出す―――時の、眩暈のような、壊れそうな、心・・。(“TILL I’M IN THE GRAVE”...)永遠に続くような悲しみへの戸惑いは、問いの入り口からあっ―――たよ、迷宮に滑り込んでいるような病の本質・・。「これが人生か―――」「皮肉な人生・・・・・・だ」―――誰のせいでもないんだよ、だから、君がそれに対して何を想うこともない、夜と昼、男と女、心と肉体・・。それでも主体が他者に深く侵入されるような、心の傷み、“あなた”は、見ることができなく―――て、手を伸ばしても触れることが出来な―――い。(But I'm sure you are there...)(Together, Never, Forever, Everywhere...)そうだったらいい―――のに。―――自転車は左側通行をする。車は渋滞している。そして排気ガスの臭いで蜃気楼さえ見えてきそう―――だ。「外に出たはいいがトンネル―――だ」「宇宙の外には、やっぱり宇宙があった・・・!」「ミクロの世界も同じだ、顕微鏡では見えても、さらに顕微鏡では見えない世界があるだけ―――だってね・・」雲の動きも鳥が夕方塒へと変えるのも、人の流れも、車の流れ―――が、淋しく切ないのも、一種の脅迫や迫害で、自分のことのようで斥けられないのも、心の内なる悲しみ、治癒を目指すこともできそうなのに、歴史的に形成されてきた知覚の作用ゆえに遠い―――遐い・・。(だから社会は、)一方通行で、(それゆえに世界は、)環境と恒常的関係を持ち続ける、それでも、それが不安や窒息と同時に狂気の一形態で、―――死んだ空間としての背後であること・・を、誰に止められるというのだろ―――う。十八世紀や、十九世紀ならそれも許されたかも知れない、二十世紀もかろうじて許されただろ―――う、笑え笑え、適応に関する混乱、存在しない、要点もない、心の中には絶えず様々な出来事が起こっていて・・、二十一世紀はそれらすべてを語り尽くしてしまうだろ―――う。「歩いてきた道―――は・・」(A road where you don't look back, a road where you don't stop, a road with no one around...)―――永遠に帰らない今日が拡大し、増殖するような僕の知覚は、誇大妄想や、幻覚の刺激における連鎖なのかも・・。「人間到る処青山あり」「否、 人間に流行する欺詐術策の容体なり」と・・・。『顔』が見えた瞬間に、(了解可能な変異を受け入れた―――んだよ・・)“鳥籠”や“金魚鉢”や“ロッキングチェアー”が見えてくる、カメラの位置にあるものは、存在の知覚、たとえ自然の結合が引き裂かれ、現前が限りなく遠ざかるような状況であって―――も。環境破壊に、乱射事件。いまさらになって、「死に場所」や「鬱くしい世界」・・。古代文明の影、援助交際に不倫。プロレタリアより深刻な毒舌をまき散らす人々。幼児虐待。学校や教育の見直し、政治的腐敗と超高齢化社会。人と人との日常的なつながりを指す人間関係。崩れる波のように記憶の水位を押し上げてみせただけ―――。聖書に本来あるべき何かが抜け落ちていて、映画の中ではフランダースの犬も、ハッピーエンドにされてい―――る、アンコールワットにはジャングルが似合うし、イギリスなら紳士服と髭が。イタリアには長靴が、オランダにはチューリップと風車がドイツならソーセージとビールとお城。カナダなら滝、中国は万里の長城。エジプトならピラミッド、スイスならアルプスと時計・・。笑って欲しい―――んだ、現実の厚みや深みに達することのできない接触は、ややもすると、欠如を強め、破綻を示すかも知れないけど・・。そんな風に単純に、考えてはいけないかな、もっと、僕等もっとこの思考の道筋を、証明し、論証し、優しく微笑むこと―――で、結びつけることは出来ないだろう―――か。さて、どれくらい経ったろう――。いやどれくらい僕は悪くなっただろう・・・。背負わなくても―――いい。寄り添わなくても―――いい・・。(If you go, I'm going too, uh 'Cause it was always you...)それは『決定的な真理』ではないかも知れない、人間の揺れを結びつける中軸の運動は、隠喩や過程で、正常と異常という対立項では、言い表せないかも知れな―――い。誰もがそうであるように人を信じられなくなり、というよりも自分が自分を、少し信じられなくなっただけ―――かも知れないね・・。生涯雇用が断たれ、あちこち飲み水を探す。泥水ではない。それが救いであるという風に思うことも―――ない。「不透明な未来の困難―――だ」「様々な価値観が交錯するこの街の中はもうグローバル社会・・」(だからコンピュータースクリーンなんかで、知の領域を搔き乱されて―――ゆく・・)また瞳を閉じながら、(I Want You to Stay...)人は何処へ行くのだろう、誰もが心を持っている、ではこの憂鬱すらも主観への曖昧な粘着というのか・・。眩暈のような、壊れそうな、心・・。(“TILL I’M IN THE GRAVE”...)永遠に続くような悲しみへの戸惑いは、問いの終わりにはどうなるんだろ―――うね、人を愛することの意味を見つけよ―――う。(一緒にいた方がいいのかもね・・)“様々な可能性が互いに結びつくこと―――は、漠然とした時間だけど・・ね―――”(でも、一人でいたいこともある―――だけど、僕もけして、一人でいることが好きなわけじゃない・・)“人は勝手だから、疎外感が道徳を作ったのさ、そういうルールは生きた現在の間しか機能せず、その上、その参加や連携で確実に間違ってしま―――う”―――あの日の僕がそうであったみたいに、心が軽くなったらいい、心の安らぎを得られたら、いい、それでもそんなことは出来なく、て、やっぱり忘れてしまいた、い、こんなこと誰にも話したくない―――と思う・・、十代みたいな青臭いことばかりは言っていられない、だけども、老害みたいなおじさんのようなことは、到底言いたくない、何かもっと上手い方法見つけられたらいいね、お互い色々あるけど、頑張らなくちゃいけないね、そう言った次の瞬間に、頑張りすぎなくてもいいからねって、言わなくちゃいけなくて、皮肉で、やっぱり胸が苦しいのさ・・・。
2024年11月17日
marriage人には誰にでも、一人ずつの日常があり、時間を原理とする思考は必然的に対話的原理を見失う。一人の男と一人の女が一緒に暮らし始め、そこに共通の日常が生まれ、それが次第に積み重なる、気が付くと二人は見知らぬ部屋に寝かされ、いま目覚めたように自分の過去の空白を持ち出すことになる。僕等はそれぞれの時間の中を生きる奴隷や囚人、それぞれの意識や声を抱いて生きるものだか―――ら。誰かを好きになったり、自分より大切なものと過ごすことは、これ以上に幸せなことはないように思える、誕生日を祝い合うこと、美味しい食事と歓談、肌を重ね合わせて異質を麻痺させ平面の秩序を発見する過程によって、「心の支えになる、弱い子羊のような僕等も、本当に強くて優しくて、生きる意味が自発的で、自明の理であるかのように思えてく―――る」けれど問いを重ねる度に、どんどんねじれてゆき、不適当な向かい方、構築の重みを拒絶することも、この見えない運命の流線の中で仕方のないことなのだと、思えて来―――る。「悲しいか? でもその悲しさが次元を、常識を、社会を、不可能な極限という、精神や肉体や貨幣や言語が鬩ぎ合う力場へと、文明的な次元、本当に生きることの問いや過程へと、根源的な衝動へと導いてくれるものだから―――恐れないで・・」生きるということは抽象的で、公式主義的な思考だと思う。だのに、それが不連続性や、分離を促すものであり、「時は止まらな―――い・・」回転面の集合さながらの複数の思考の衝突であり、「心は世界の中に溶け込んで―――ゆく・・」それは相対的な観念への透視図法の変化。分かり合うことは隠蔽し、裏切ることのように思え―――る。いつか真っ暗闇の部屋の中で、呪文や催眠術や同一化という一つの声になれた、抒情的な極みにまで達したものが、手垢のついた愛の言葉を辿るものや、還元不可能な異質性に気付き首を振っている場面に気付く。愛は償うことや、一生かけて誓いを果たすところの務めで、いまは、無意識の霧の上に頼りなく浮かぶ、整理されない記憶の乱雑の塊の外側であり内側の存在・・・・・・。いつか空しく不安定になり、時の浸食作用で、すべてを語り尽くされたという飽和の自意識が芽生え、二人を屈折させ、薄ら寒いものにさせるだろ―――う。遺伝子、種族維持本能、存在証明、社会的立場、属するということが最初、意味を問わないのは―――幻想のコミュニティであるから、だ。それは資本主義のアイデンティティで、民主主義のメタファー的な概念に想え―――る。「苦しいこと、辛いこと、悲しいこと―――は、逆説的なものを生み出す装置で、凍り付かせる冷ややかなものによってでしか、不可能な次元へと辿り着けな―――い。フェミニズム、場合によってはナルシシズムの問題かも知れない。寄り添うことはもたれかかることで、繋がることは無限に反復される弱さや脆さのようだ―――と気付きながら、一つ一つの問いを覚えていく、「それは自己欺瞞の言葉かも知れな―――い」否定的なものは不透明な部分の中でその名を呼び、肯定的なものは透明な部分の中でその名を呼ぶ。「恐れないで、現実的な行為に眼を向ける・・・・・・」証明することはできない、感情の強さ、言葉でも、拒まれている矢継ぎ早に訪れる未体験の心理でも、いつか徹底的に暴き出され飛躍を遂げたあとでも葛藤は残る、「終わりのない優しさは、生きることの悲しさを暴くこと―――」―――世界は美しくて醜く、二人は喜びに満ちて悲しいものに、手を伸ばすことしか出来ない―――から・・。長い夢を見て眼が醒めたあと、頬に流れる涙に気付いて胸が痛くなるようなことが―――君にも、試行錯誤する機械人形のように、あなたにも、あなたにも、快楽はすべて生と死の中の極限に見える最大公約数にすぎず、図式の限界の逸脱を経験から危うい過程へと達することも、最小公倍数にすぎない―――と・・。「分かり合えないことを知るのなら、異なる表情を見せることをしたくな―――い、感情なんていうものを発明した瞬間から、微細な粒子や流れの交錯の虹やオーロラへと達するというのか、否、それもまた本能、時間概念と切り離せない、その生産や消耗もまたエネルギーの問題にすぎな―――い・・・」愛は起源や根拠に基づく物語で欲望を解体することは出来ない、愛は傷跡の中で手探りの優しさ、綻びてしまいそうな―――悲しい笑顔を浮かべるけど、信じて欲しい、迷路のように距離や反転する配置、いかなる罠、記憶にも働きかける絶望的なまでに人間の領域外に思えても、「僕は君のことを愛して―――いる・・」意味や情報や伝達に従う規則は様々な形で人間から逸脱する、だからこそ二人は、関わり合う悲しい影、弱さの中に見出せる属することの歪みだと思う、けれどもその意識や反省をも呑み込んで、もっと踏み込んで、その葛藤自体とも向き合うことのできない選んだことへの、身体に触れること、そのしるしのを様々に配列する暮らしを、病や、分裂症や、代償や欠如のように見ていこう、「だから君は一生をかけてその愛を見出して欲し―――い・・」壊れてゆくことの記録こそが、長い間の思考が非人間的な思考であったと気付くだろう、有機的な生命の原理を超えた共通感覚、集団幻想、あるいは天体の運行、気象や生物のリズム、まだ僕等が気付いていない言葉で、ねえ、まだ僕等が気付いていない―――奇妙の問いの中で・・。震える神経の森はいつか生命の様相のもと、燎原の火となって、大蛇となって襲い掛かるだろ―――う、「でも信じて欲しい、君がそのことを誓う限り、僕は君のことを愛し続ける―――と・・・」生に向かい、死に向かう時の人の心のように、それはもっともらしい答えのように思えて来る、少なくとも、こういう問いに直面した瞬間から僕は、壊れるということの意味を様々な大きな原理の運動のように思えている、だから二人が一緒にいることには―――意味がある。二人はもう、互いに浸透され、作用され、単純に語り合うことでも複雑に語り合うこともできないまま、同じ場所にいて、同じ方向を見ているから―――だ。もはや具体的な地盤なしに無媒介的に感知し、不特定多数や人間一般を指し示す、もう一人と、君は、あなたは、そして僕は移り変わっていったのだろ―――う。
2024年11月17日
streetscape 住宅地だった。幅二十メートルほどの道路が縦横に走り、街路樹がきれいに並んでいる。不完結性と非決定性と結びつけながら、それを独白の中で浸透させてゆこうとする、第一の声。それほどの必要もないのだが、自然と靴音を忍ばせる、近くにテニスコートでもあるのだろうか、若い声とボールを打ちあう鈍い音がここまで響いてきている。イマージュの世界では、鯨の口の中から入った腹部を塒とすることも出来る。街中の人々の心模様、錯綜する思いのように濡らしていた、四時間前には降っていた雨。頭上を見上げる。太陽が顔を覗かせてはいるものの、空気は秋らしくひんやりとし、街路樹の茂みからこぼれる陽が、誰もいない歩道に光の斑点を作っている。寒さに張り詰めた息を少し洩す緩やかな光だ。道の脇の排水溝には落ち葉と、ボールペンぐらいの枝が、少し溜まっているが、風情とか、装いとか、化粧とかいう、範囲内、塩梅で・・・・・・。すべては痕跡だろう―――か、中心を流れていくものから逃げてゆくものだろう―――か。時折、自動車が、猪のように疾走してゆくと、完全な権利を持つ第二の声、純粋な内的レベルの戸惑いとなって、出口のない、長い苦しみの時間・・・・・・荒廃、何か冷たいもの―――。すべては雑踏に呑み込まれて、一人一人の人間の個性など分かるはずもないという、あのラッシュアワーの、あるいは大都市特有の、巨大すぎる故に読み取り装置が故障するところの一種のアレルギー、無数の蟻のコロニーから出てきた無尽蔵の、正体不明の図形のようなものが胸に描かれたように思う、集積度を増し、より小さく強靱になる、―――あの気持ち。その道に沿って、小ざっぱりとした一戸建ての住宅が悠ったりと並んでいた。(ホームデザインゲームというのを、不意に思い出し・・・・・・)洞窟や、木造建築では得られなかった視覚体験の実現。それは―――馬鹿と煙は高い所がというのものでもなく、いわんや建築素材というよりも、その四角い硝子の意義。その家の輪郭が、電線が、レストランやマンションだの看板も、政治用ポスターのある掲示板も、ゲーム画面の、テトリスを想起させる。ゴーストタウンのように見える時間帯。あるいはコミュニティーからプライヴァシーへと至る段階的秩序の魔術。真夜中よりも、この休日の朝の七時か八時はそんな気持ちにさせ―――る。誰一人抱きしめられず、そして昨日見た夢の続きに別の声を重ねているような気が―――する・・。朝から昼への移り変わりを予感させる陽射しが微妙な調和を保っている、僅かなひと時を・・・・・・。街路樹から街路樹へと倒れ込むようにして進んできたような気がする、“幼少期の記憶のアンケート調査でもされているような気分になる”樹に縋って苦痛を和らげ、引き結んだ唇が糊付けされたように奇妙に張り付くのを確かに感じ取り、“社会的文化的に蓄積された或る一定の普遍的要素”呼吸を整え、また次の樹の幹目指して右足を引き摺って、不意に、―――立ち止まった時、今朝方に降っていた天気予報通りといってもいい雨のせいだろうか、霧雨に濡れた街路樹の香りがした。ポプラの白い葉裏が、風に揺らいで、花のように見える。カーステレオからかすかに聞こえてくるレゲエのリズム。文化の古さに縫いつけた新しい鰓のように感じられ―――た。翩翻。変形。アスファルトにいくつもの影を落としている光景が、ずっと遠くまで続いているのを見ると、ある種の到達点のように、そこから硝子の音符でも出てくるのではないかという気持ちにさせ、その感動で言葉を失ってしま―――う・・・・・・。そして第三の自分自身と一致しないものへの、理解への道。そう、冬になれば、クリスマスになれ―――ば、イルミネーションを配置して、電柱や街路樹、ビルの壁などあちこちで様々な色をした光が明滅を繰り返す。成長や発展や総合という要素が同時性においてとらえられる時、対決、対話、相互作用という風に理想的な人間の像、和解と哄笑と誤差によるポリフォニーを聞かせる。ヴィットリオ・エマニュエーレ広場を想起する。それは流れた時の流れに身をまかせた時に訪れる、小さな肯きなのかも―――知れない・・・。奇跡―――でも。救済―――でも、なく。あの、駅前にある大きな欅にも派手な飾り付けがされて、さながらペルシャ絨毯のような色模様、そのてっぺんでは一際目立つ星のオブジェがキラキラと光り輝く。でもそれが他人事のように思えるのは、絵空事のように感じられる―――のは。悲しみ、を見ているからかも知れない。有刺鉄線に朝露が残っているように、ありとあらゆるものは生きた化石のように思え―――る。街道は大地の起伏に合わせ、わずかにうねりながら、前方の山地へと続いている。何処か遠くにあると思えていた憧れ―――も、いつか、小さな気付きに満ちたものの中で許されてゆくのだろう―――か。生まれたばかりの風が顔に吹いてきて心地良かったが、足元に煙草の吸殻が捨てられている。急激に迫ってきた冬の跫音を聴き、そして自分自身の悲しい姿を見るような気がした。見えないものに狂わされ、コントロールできないものによって簡単に崩れていく程度―――の、夢の屑、あるということはないという―――こと、で、それはあらゆる声を―――見つめるような、もの・・。信号機、横断歩道、バス停。その中をとめどなく、とめどなく流れる―――意識。ついに特殊な位置づけの第四方向への認識があらわになり、人は何故歩くのだろう、どうして前へ、前へと歩き続けるように設計されたのだろう、そんな哲学的で夢想的なことをぼんやりと考え続け―――る。
2024年11月17日
Becoming an adult, living, and not trusting people物事を突き詰めて考えていくと、すべてのものが解体する。そして、意味が消えていく。その消失や崩壊から再構築が始まるまでのスパンが、引き出しの中のもっとも重要な鍵を形成するんだけど、篩っていうもの、砂漠の中でダイヤモンドを見つけるための、本当に地道な作業を省略させる。結論だけですべてを語ることもできる僕等は、ありとあらゆるものを自動化したいのかも知れない、都市の横顔のお世話になっている君にとっても、ちんぷんかんぷんなことだろうけど、文明研究と体裁で語るわけだが、とりたてて都市の地図、今そこにあるズレを伴ったありのままの風景、道路や標識、街路樹、ベンチ、自動販売機に至るまでの、そういう様々なものがどのような形で一つになったのかを、考えていると僕は楽しい。難易度の高い課題がある、専門用語や知識が必要だ、そういう時に僕は自分に向かって、糞面白くない話だけど、クリアしなければならない課題があることを、根気強く自分に向かって説得し、理解させ、納得させようとする、意識する、小さな階段を作る、何度も何度もシミュレーションする、毎日詩を書くなんて老人の戯言に決まっている、暇人たちが趣味で人生の時間つぶしをしているに決まっている、―――という世界線を書き換える為に。確率論を都合のいいように引き寄せられるケースが、数多あると思う、人生における成功者はみんなそう言うだろう。でもそれはハロー効果で、またリップサービスにすぎない。絶対成功するとしたら、それはインチキだ、たまたま上手くいったことを脚色しているにすぎない。でも本質を一ミリ変えることは出来る。才能や努力というもので生き方を一ミリ分変えようと思う。嘘偽りなく、等身大の僕、脚色抜きの現実の僕は、はっきり言って糞つまんないことを言うと思う。心掛けや、やり方で、もう少しましな未来を引き寄せようと思う。なんて、小さな、か弱い、引き寄せの法則だろうか。でも意識することで世界は変えられる。人生を六十年生きた結論がもし眼の前にあるとして、大方の結論は変更できるものではない、確定していることは人生の基盤だ、いま、手元にあってもなくとも、たとえば仕事をすることは回避できない。抽象とは縁遠くなるが、黴生えて苔生えそうな具体性こそが、人生を幸せにしてくれる。夢見るなと言っているわけじゃない、足元を見ろ、と言っているだけだ。前向きに人を動かす力、夢にきちんと手を伸ばす勇気、いくつも僕にはちゃんと言えることがあるわけだが、何かを諦めた人間の言葉は他人に対して届かなくなる、限界を見つける、さりとて際限のない仕事で終わりのない達成感のない日々を、終わらせるために、ね。昨日と同じ今日は百年後でも一千年後でも変わらない。その自分を都合のいいように一ミリ変えることが僕の生きる意味だ、みんな笑うかも知れない、あるいは僕の言っている意味がきちんと呑み込めて、僕がどれぐらい厳しい人生を過ごしたかわかるかも知れない、僕の周囲には味方は一人もいなかった、援軍は一人もいなかった、救済措置も一つもなかった、神も仏もなかった、信じられるのは残念ながら僕の腕一つのみ。自殺をしたがる子供たちがいたらよく聞くがいい、想像力のない人間はあなたの周囲に沢山いるのだ。両親もそうだし、友達もそうだ。僕は君の思っていることや考えていることならわかると思うけど、同時に僕は首を振って、死にたければさっさと死ねと突き放すだろ―――う。繰り返しになる、何度も同じことを繰り返すことになる、それを輪廻と呼ぶにせよ、別の言い方をするにせよ、僕等はまだその機構に一ミリも触れられていない。人間が天敵だという見方は僕は正しいと思うな、思うに僕は人間としておそらく致命的に人間らしくないのだろうね。何度も何度も、諦めてはまた高みを目指そうとした。たった一日でもその例外を作ってはいけない。何度も何度も諦めては、また高みを目指す日々だ。人生を舐め切った奴が触れられる心境なんかじゃ到底、ない。偉そうなことや格好つけたことは言いっこなしさ、結果は自分の中にしかないよ、誰も本当の自分を見ているわけではないよ。
2024年11月16日
history, life, things that continue僕等は、父親と母親の話をする。そしてその思い出を次の世代へと伝えていく。歴史を学び、斜に構え、ぼんやりと眺めている時は、百年の時間も、一千年の時間にも興味がない。ある時代を動かす、それぞれの時の動き、様々な人の動きに必然性が感じられるようになったのは、―――本当にいつからだろ―――う・・。歴史は今現在にもある―――んだ。だから結果的にそうなっただけだという認識は多分違う、その正当な流れに相反する流れが同時多発的に存在し、なおかつ、場合によっては事態は全然別の藪の中へ、入っていったかも知れない。キーポイントとなる人はいる。コンパスみたいな範囲の中で読み込むかも知れない、あるいは無数の結び目を繋げて紐解くかも知れない。ねえ、その流れの中にだよ、挑み、逆らい、乗じ、浮きつ沈みつしてゆく、無数の個々の人間のことを考えていると、運命というのは何だろう、神とは何だろう、世界というのは何だろう、と思えてこないだろう―――か。ロマンティストに歴史を語らせてはいけない、悲しみや喜びに安易に納得しないからね、でもハウツー的なものなんか滅んでしまう、もっと注視して、もっと眼を凝らして、心の声を聞いて、霊の流れがある、うかがい知れない類の別の見え方がある。確信してるん―――だ。僕等は、父親と母親の話をする。そしてその思い出を次の世代へと伝えていく。あなたの子供は、握り飯が好きだろうか、味噌汁が好きだろうか、刺身や肉ばかり食べてはいないだろう―――か。どんな学校へ行っただろうか、どんな会社へ行っただろうか、そしてどんな場所や、人を好きになっただろう―――か。子供みたいな瞳で語らせてよ、人生を終わらせるようなことばっかりがすべてじゃない、たった一瞬で変わる、心の中に影響を与えられることで、きっとどんなことでも出来るようになる。信じたい―――んだ。あの日の僕がそうだったみたいに、君にだってそういう人生を選んで欲しい―――よ。僕等の祖先は、山で暮らし、森で暮らし、海辺で暮らし、洞窟で暮らした。縄文時代でもいい、そのキーワードだけで、ある程度のことがわかったような気になれる。僕等はもう日本で生涯を終えないかも知れない、これから百年の間に、地球で生涯を終えるということの方が、ずっと珍しいことになるかも知れない。想像してみて、世界にワクワクしてくるだろう、生きることは変化さ、退屈なんか一秒だってしてやることはないのさ。停止や停滞を促すのはいつも下らない人間と相場は決まってる。何処からだって始められるのさ。何からだって始められるのさ。このキーワードだけでも人生の意味に変化は出て来る。それでも繰り返し、繰り返し、僕等は生きて死ぬ。歴史にタイムマシンや、多元的世界の考察が可能になると、もっと沢山の識者が必要にな―――る。百年の時間も、一千年の時間も笑えないものになる、でもやっぱり僕等は今日を生き続けるんだろ―――う、明日も昨日もない、今日を生き続け―――る、くりかえし、くりかえし、父親や母親がそうしてきたように、いつか僕等が動物的な出産や、性的な行為をタブー視し、もっと宗教的なレベルが引き上がり生きることに絶望する日が来ても、それでもまだ、僕等は、ねえ、やっぱり僕等の中で生き続けるんだろ―――う。歴史の神の、運命の岐路とていえない、小さな、見過ごしやすい、もはや偶然とか何かの悪戯としか思えないようなものが、バタフライエフェクトして、その人の一切を決定するのを遺伝子とか、そもそもの運命の材料とでもなるべきものを次元の発見とともに、僕等は見出すかも知れない、考えてるんだ、愛の正体だってもっと単純に見破れるようになるのかも知れない、輝きの中で暗闇の中で僕等は生きる、生き続け―――る、本当の弱さを、そして本当の強さ―――を。小さな舟を浮かべて、あるいは断崖絶壁の丘の上で、一人と一人でいようじゃないか、睦び合うことの意味、分かり合うことの意味、薄くて、切なくて、どうしようもないものばかりの、そういう誤った、もはや好きになれない下らなさじゃなくて、歴史を食いつくすだけのごくつぶしになるんじゃなくて、歴史は新しい見方と人生の意義を与えるものだと思い知って、もっと話をしたくなるようなこと、あの、僕が、ねえ、この僕が、素直になって、笑いながら、照れながら、打ち明け話をするようなシーンがやって来る、そんな日が、そんな日を、これから始めてゆく、終の棲家を見つけるんだ、人生の終わりを見据えるんだ、手は赤く、ゴツゴツしていて、それでもそこからはあなたと同じ血が流れるのさ、もっと考えて欲しい、もっともっと考えて欲しい、次の時代も、次の子供も、次の世界も、とめどなく流れてゆくのだ、触れようとした小さな手は、自明の理じゃない、究極的には無数の手であるんだ、常識は範囲内のカテゴリーにすぎないさ、僕は長い間ずっとそういうものを見てきたんだ、何処までも続いていて果てというものがないんだ、考えて欲しい、いつどんな時でも、ちゃんと、生きる意味と向かい合って欲しい、人生は自分と向かい合うことなんだ、そして向かい合った先にだけ答えが用意されているもの、だから次の扉へ、誰もいない場所でも、たとえそれがどんな答えの中でも。
2024年11月15日
泣くという演技の考察拝んでは泣き、水をかけては泣き、とうとう膝をつき、墓石に抱きついては、泣き崩れていた。その光景を見ながら邦画の臭い演技、叫ぶ、怒鳴るなどの、芝居の延長線上にあるオーバーな演技を思い出していた。それは演技、これは生身だから感情移入できるというのは―――嘘だ。映画がつまらない、二時間も観ていられないというのならわかる、なるほど―――映画一本すらも人生の時間として取れないのですね、と。けれど、その映画をあれこれ言う風潮が何しろ気に食わない。人というのは映画というマインドをセットされ、点数を表示し、かつ、邦画を悪く言うネガティヴな意見の方が知性的なので、ろくすっぽ何も見ていないで言っているのだ。それを洗脳と言わずして何と言うだろう。ちょっと待って、本当にちょ、ちょ、ちょっと待って。人食いエイリアンが日常生活に溶け込んで、生きていく空前絶後のラブストーリーを見せられて、なるほどこれは糞映画だっていうのならそれはわかる。僕はむしろそれ面白そうだといってしまうクチだけど、基本、優先順位をつけるような在り方は機能に弊害があると思う。映画評論家、映画批評家、素人批評家、すべてネット文化に端を発した「舐めた」「頭の腐った」―――先鋭的な物の見方で、それが『面白いだろう』もとい、それが『みんなの常識だろう』(ゆえに、)そうであるべきだという、間違った見識に裏打ちされて、頭空っぽなあなたは、マインドコントロールされているに過ぎない。話それるけど、ライブ収録等では何一〇カメも出張る。もちろん、ファンがついてこそのイベントなら、その対象の演者をカバーできるカメラ台数は要るだろう。一般論としてね。でもスイッチャーさんはすべて見れない、事前打ち合わせにも限度はあるし、ミスもある。さらにネットが発達し、圧縮技術も進化。また視聴者が何一〇カメもある映像をマルチで見ながら、好きなシーンを選んでUPにして見れるらしい。技術的にはすごいこと―――だ。でも制作の面としては選んで送り出すのがプロの仕事だ。こういう物の見方ってみんな当然知っているというなら、僕は非常に肯くところでは―――ある。お前如きに映画をとやかく言う知能があるわけないだろう、と。どんな名作もとい迷作だろうが、所詮は大体一緒である、特別なアイディアや、特別な演技、特別な映像技術、なんだったら特別な映画監督でも、申し訳ないけれど大体同じであ―――る。ここを肝にしたい。ちょっと違うが物凄い大きな差になる、それが表現の世界―――だ。ただ、それはあくまでも僕等とはつゆほども関係のない話である。だって、僕等はそもそもその映画のことをどれほど知っているのだろう、大谷の話で、全米の注目が集まっていると連日連夜ニュースが押し寄せるが、反面アメリカ人は言うほど大谷のことに興味を持っていない。アメリカはバスケやアメフトの方が人気だ。僕はメジャーリーグを紹介する本を中学生の頃、読み漁ってた。割とガチ勢だったと思う。だからリップサービスはできる、むしろ、したい、大谷は偉大だ、だけれど、みんなが思っているほどには別に何とも思われていない、そういう一面をむしろちゃんと知らなくちゃいけない。ガンダムは一般的な単語になったと思う、サザンオールスターズは季語にもなった、だけれど、ガンダムやサザンをみんなが思うほどちゃんと人気があるのかを、冷静に振り返ってみたらいい。なお、僕はアンチではない。映画だって、年に何百本も観ているような人は別として、あなたは映画を何百本も観ているのだろうか。知識が先に入った映像にはそもそも錯誤が多すぎると思う、俳優がどうだとか脚本がどうだとか、尻掻きながら、ポテトチップス喰ってるような奴が何を言ってやがる。コカ・コーラ飲んでんだろ、美味しいか? 以上だろ。こんな言い方をするとあれだけど、玉置浩二だろうがワンオクだろうがアイドルだろうが、好きな人にとってみればみんな才能があるように見えるだろう。フィルターが外れれば、誰だこいつになるだろう。誰だこいつ、をきちんと呑み込んでおいた方がいい。―――人の泣き声というのがあると思う、神経を尖らせて、感覚を総動員して、その人の声が震え、涙の前兆が読み取れるようなことがあると思う。人生を長く生きていたら一度や二度はそんなシーンがあるだろう、場合によってはそれが嘘泣きという場合もあるかも知れないし、自分自身がそうだったということもあるだろ―――う。けれど、そういうのを俳優や、映画を撮っている人間が、まったく知らないなんていうことは有り得るだろうか。同じ人間だよね。百歩譲ってそうだとしても、それが良いという人も一定数いるのではないか。だったら今まであなた達が言っていた見方は偏った、差別的な物の見方ということにはならないのだろう―――か。それをして『ペラいなお前』ということにならないのだろう―――か。『お前、気持ち悪いことばっかり言ってやがんな』ということに、ならないのだろう―――か。僕はそれを『広告的な物の見方』だと思う。そもそも、映画が嘘くさいとか胡散臭いというのは、今に始まったわけではない。あなたが地方の、田舎の、テレビすらないようなところが故郷だったら、すべては非現実的に見えるのではないだろう―――か。「致命的なズレ」がある―――と思う・・。それを“奇妙な擦れ違い〟というのだろう―――か。くろぐろと煤けた、護岸用のコンクリート製ブロックに、大阪湾の汚れ切った波が打ち寄せるかの如く、いくら泣いても、泣いても、泣き足りない―――のだ。悲しかったのだ、悔しかったのだ、あるいは、懐かしかったのかも知れない、恋焦がれているのかも知れない、無数の雑多な要素の相互作用の結果として、「泣き顔」というのがあると思う、そこには記憶があり、前提条件があるはず―――だ、沢山映画を観ると映画をあたかも知っているかのように錯覚する、そしてそれを点数表示していいような誤解をする―――らしい。大根の演技はそれはわかる、実例は挙げないけど、確かにこれは学芸会だという人はいました。確かにオーバーリアクション気味の演技も感じる俳優もいる、でもそれが「広告」なり「演技的特化/その俳優の結節点」という物の見方はされないのだろう―――か。物は言い方というけど、あなた方の言っていることが尊重されて、こちらの言い方が尊重されないというのはフェアではない、多数決の原理は分かり易さの中にしかない。あのね、泣くのが下手な人もいる、人前で泣けるのだって凄い技術だ。日常会話だって上手く出来ない人もいる、コミュ障の人とかね、そういう人が俳優を見て嘘くさいというにせよ、同時に憧れの成分だってあるのではない―――か。フェアな物の見方が退屈ではないのかという問題はあるだろう、「これつまんない」に語彙力は存在しない。けれど、ありとあらゆる人がおける世界でフェアな物の見方ができないのは、根本何処かに問題があるのだ。つまんないから意見はできないというのならわかる、点数なんかいらないのだ、むしろ見所があるところを長々と語ればいい。ぶっちゃけ、俳優の話だけしていてもよい。―――小さな物の見方ができない人は、いつまでも子供のままなんじゃないだろう―――か。時折には、過剰な批評合戦、行き過ぎた意見の正体を見抜いて欲しい。あなたが手元にあるスマホをぶっ壊して、テレビをぶっ壊して、なおかつ、参考資料となるようなものを燃やして意見をしてくれるというなら、僕は一向に構わないのだ。人を構成している様々なアイテムがあると思う、いわば、人って自分では自分を語りきれず、分かり切れないということなんだ。人生経験を話そう―――か。お得意の手法だね、でもいいかい、人生にへとへとにくたびれた深夜、糞つまんない映画を観ながら、ぼんやりしながら、何かいいよなあって思うん―――だ。わかってるよ、それがすごい、いい映画じゃないってこと―――は。だけど、僕はそういう気持ちをどんな時にでも持ち込もうと思う。やるからには真剣でいようぜ、それはもちろん。だけど、ただ人を笑うためだけのネット的な暗黙の了解が、ルサンチマンで、なおかつ、本来は独り言にすぎない、世の中の主流ではないということをちゃんと理解しておけよ。前述したように、「舐めた」「頭の腐った」―――先鋭的な物の見方というのは、【広告的な物の見方】である。別の言い方をしようか、お前の意見なんかいらないんだよ、お前から消えろよ、鬱陶しい。
2024年11月15日
広告秋っていいね、クマロード。落ち葉、団栗、白骨化死体。村ではアナウンス注意報。秋っていいね、夏は沖縄、そろそろ起きなわ、神社のそれは注連縄。別名くびつりなわ。秋っていいね、堂々と人殺しできます。お腹減ってるんだから仕方ない。食欲のクマロード。あと、芸術的にクマります。秋の空は高い高いので、芸術的にヤリにゆきます。
2024年11月14日
だから僕は百合アニメ観ようとオモイマシター(棒読)いいかね、後輩君、恋愛講座in青空教室三億とんで大体一回目(?)もし女の子が悲しそうに座っていたら、どう思うか?1、生理だと思う(?)2、やっぱり蛙化現象だと思う(?)3、大仏の建築が気になるお年頃(?)4、SACRIFICE、英語で言いたい衝動(?)全部違う? 質問自体がおかしいって君は、世の中の女を斜に構えて見すぎだよ。女というのはね、大体いつも、どうでもいいことを考えているんだよ。九割ヤンキー説? それは多分正しい(?)女の子が生殖あるいは交尾以外の目的として、成立しているなら、それは大体、幼馴染(?)異性の友人はいるが、ホリエモンのようにニューハーフに走りたい。あれ、すごくすごくすごくわかる、一度たずねたい、ゲイの人でも、女性の中の男性性に惚れ込むことがある。パワーバランスの変化? 馬鹿かね、君は。だから女の子はひと昔前の男の子になったのだ。わかるね? ホモしたいのだ、世の中(?)
2024年11月14日
猫風船眼の前に、ニャにか、ニャにか、―――にゃおー(?)見ようによっては、ストリートファイターのピヨり状態とも、スーパーマリオの無敵状態の前兆とも。ご主人。なんだよ。見つめて、見つめて、嫌でも、駄目でも、嘘でも、見つめて。心の中は飛行機雲なんです。本当かよ、この猫。心の中は、ジャンプして、フワッ。「あの時、落としたものは、金色のこれですか、銀色のこれですか、いえいえ、最初からこれのこれもんで、ありました」本当かよ、この猫。眼の前に、ニャにか、ニャにか、―――ふんす(?)+テイクオフ+オフーッ+さまーえふえむ(?)+しゃかりき+じゃがりこーっつ+じゃいあねす(?)エッ、エッ、コンニャロ、シャカニセッポウ、ナニガ?トラっていうかトラてかトラトラトラごめんください突っ走る、―――沈黙。―――はてしない沈黙の物語。と、ここで、ようやく、ご主人。なんだよ。遊べ遊べ、社畜でもいい、サイコパスでもいい、キチガイでもいい、三食昼寝付きで、ありさえすれば。お前ひどいこと言うな。ペットいわば子供、子供、親の真似する。でもひどいこと言うなは、すごく残る、しこりとして残る。―――ナニガ?眼の前に、ニャにか、ニャにか、―――敵兵発見せり(?)
2024年11月14日
君がいたから膝を抱えて、口ずさんだ音はすぐに溶けてっ―――た。夕空、時に彷徨う無力な言葉は、手垢のついた錆びたナイフが胸を刺して。明るい光の筋、細い鍵型、溶けた金属、ヘミングウェイの「老人と海」で八五日目の正午に、巨大なマカジキを針にかけるようなもの・・。その“諦めの声”に紛れていってしまいそうな時―――。その“脱力感”に身を投げ出してしまいそうな時―――。生まれた街を出る背中も、華やぐ街明かりの裏で、強がって泣かないことを覚えた、あの日の震える唇に夕焼けに、君が笑った。不滅の真理―――も、誰もいない場所で回転する、悲しみはどうして・・・。とめどなく、とめどな―――く流れる、ながれる瑠璃のなかの、あの月の色をして・・。様々な記憶が、ジグソーパズルになってゆくという妄想をさせる・・。エレベーター・エスカレーターの設置、ホーム上の視覚障害者用誘導・警告ブロック。「格納庫と防音スクリーンとで二重に仕切られている、ダイナミックな生態系の変化、環境破壊―――」劣等と敗北、正義と自由、いつしか仮初めの幸福、妥協、割り切れないまま、日々を過ごす僕等―――に。無意識通行の彼岸。それが讃美歌じゃなくて。それが洗礼じゃなくて。それが博愛主義の不能。「愛を与えることはできても、考えを与えることはできない」と。擦れ違った、傷つけ合った、生きてゆくことの答えになろうとしながら、打ち明けられないまま育んでいる時間が、沖の海を見やっている白い波の時間。運ぶ炎舞曲。 (張り詰めている刺に指先―――を、)めぐる水彩交響曲。(いまにも弾けてしまいそうな風船に指先―――を、)時のひだを通り抜けていそがしい輪廻の旅を空洞のいつわりの音の中で、夢になろう、それも夕暮れの吹くか吹かないかの風に、微妙なざわざわした歓楽の不安に恍惚とする、グラスの底から泡が生まれる―――だろう・・、弱さを庇い、ささくれ、寄る辺ない想いを抱えながら、メリーゴウラウンドのように一周して来る、「スポーツ観戦で観客の服装を、チェックしながら、無意識のうちに、錨をうしなった自分を慰めて―――る・・」その“諦めの声”に紛れていってしまいそうな時―――。“I want to create a place that can be called love”その“脱力感”に身を投げ出してしまいそうな時―――。“I want to create a place that can be called love”―――僕等は様々な絵の具をぶちまけて、奇跡的に虹になってしまうターナー。電源が落ちてもその時は、オルゴールのように懐かしく感じられる、夜のしじまでも、雑踏の中の孤独の時にでも、優しい言葉のひとつらなりで世界をときほぐせたら―――。ヴェランダから見る星なんて美しくない、ね、誰かの声も耳障りでしかない、ね、けど律動的編成だとか意識の流れだとかビートとか、不器用とか孤独とかいうものが潜在意識的な領域の接触作用で、カスタードクリームになってしまうよ、君が笑った。結論のない演説がマトリョーシカしてゆくけど、僕等はそこからパンドラの函を開いたはずだよ、すべては瓦礫に等しいのではないかという虚無感に突落されても、まだ無茶苦茶なことが僕には出来る―――さ、まだきっと僕には滅茶苦茶なことが出来る―――よ・・。小技工のたくみな建築と、崖に生えたわけのわからない魅力を持った樹木の不思議。確率論で簡単に片附けられる無価値でも、羊の群れみたいな、ぼんやりした、不定形の中に、情念を脱出できないまま、成長してゆかざるをえない人間の悲劇を感じ、なお、視力を危うくする心の中の声が、世界を燃え上がらせようとす―――る。
2024年11月14日
でもそれを君が知ることはできないのだ、真空管。身の置き所のない煉瓦通りは空洞で宇宙へ。But you can't know that, vacuum tube.The brick street with no place to live is hollow and goes into space.
2024年11月13日
わたしはこれからなにをするのだろう?What am I going to do now?小便ちびりそうだった。最初の一言からして―――不穏な空気が漂う。(チョイスが既にプロテク、)幽霊出るという。学校というか、巷、ローカル巷じゃ、有名。で、なんか勢いで一人で来た。帰りたい。でも折角来たからちょっと覗くか、やっぱり、という気持ちでいる。「おいおい、ベイビー、物見遊山かい」「そんな感じ?」というが、いま、架空のやりとり。しりとり。いまのは、韻踏んだ(?)でも動けない、足に根が生える呪い。人間を木へと変えてしまう、テリトリー。チガイマース、とおどける脳内あたしA。「ビビリ」「ビビリ違イマース、ソレハソレハ、ゼッタイニゼッタイニ、チガイマース!バレンタイン監督、スキデース(?)」何故、片言。わからないを繰り返すリアルあたし。「早く行け」と、シリアスモード、脳内姉御な、あたしB。テスト。将来の夢などで、やって来る風来坊、美人なあたし。サイコパスを気取る。(サイコパスのふりをする馬鹿、それがあたし、)「でも、呪いが・・・・・・」「足が?」「ノロい・・アタタタ、イタタタ、ノロウィルス(?)」この町の最果て。世界はまったく、呪われていた。(のであるよ、フハハハ、)まったく嫌になるぜ、とあたし、頬をぽりぽり掻く、そして前髪を上げ、咽喉のつばを呑み込む。もう完璧にペリカンにサクソフォンに、―――勝ち組(?)そして廃墟を見ながら眼を瞑った。あ、幽霊見えたかも。だから、おしま、い。もう、帰るもん。かえるぴょこぴょこ、まじ帰る。おたまじゃくしは?―――孵る、なんというか、大したことのない心スポだった。でも二度と来ない、それだけは夜露死苦。大目に見てよね、そこんところも、夜露死苦。
2024年11月13日
alienation空き缶に野花―――咲いてたんだ・・。夜には朝が狂ってる、闇。外傷性。心象。―――ありもしない、深淵より、踏切前の道化と、空気。眠らない僕等の小さな頃の記憶、ホーチミン市街の汗溜まり。腐った内臓。そもそも、太陽に管をつけて計器類をセットして、ようやく自動ドアに挟まれる権利を与える。手入れの行き届いた欲求不満が、影の自殺する、“氾濫する”―――《ボク》(は、)“粗製乱造する”―――《キミ》(さ、)人の肉が虹彩の意味奪って、肥大していく、ドリア。「いずれにせよ、人間の喰うものじゃない」セロファンテープみたいに、止まる場所。オルタナティヴを望みながら、画一化教育するアートフェア。「たんに、ひとえに、いわずもがな、―――バニーガールセレクション」(オウンゴールをキメまくれ、ついでに世界をラミネート加工できるか聞いてくれ」毛孔や脂が炎症起こして、倦んでる、悲劇や裁き、DMZな。シートベルトで。ふくらはぎが、コーヒーゼリーになる。周囲の風景の記憶の乏しさが、パーマネントウェーヴした通りでは、結ぶ象がズレている、終止符が充満する、ミケランジェロで遊ぶ。人や地名では言い表せない、「世界の視座、有り様」(無常って・・・・・・)交差点のきちがい沙汰、フラッシュバックコンビニの入り口、月に帰れないアポロ、「ここはアメリカ大陸なんだよ、コロンブス」(エジソンが今日も、他人のアイディアをパクって、実業家してやがる、)呼吸が腐敗の兆し、あの、ろくでなし。欺瞞は眼を閉じるガーナチョコレート、あの、屑。コンピューターウィルス的侵入、鳴らないラジオ、壊れたテレビ、本当に、でくのぼー。廃墟の前のマネキン、そういう拷問もあったのだ、と考える夜は更けてゆく。生きてんのか、死んでんのか。―――金魚鉢の水と何かを覗き込んでいた、猫。アクロスって呼んでもいいかな?(それは“アキレス”と聞こえると―――思う、)耳鼻科へ行け。(それは“アトラス”と聞こえると―――思う、)死す真チックな、あの、℃め酢ティックな、―――扁形動物みたいな、お前の眼。
2024年11月13日
冬の日過去の謎を浮き彫りにする、無傷の雪。道路沿いに建てられていた広告群が、今朝死んだ、冬。・・・・・・インベーダーゲームは続いている・・。意味なんかなくたって言葉は勝手に続いてゆく。誹謗中傷罵詈雑言は続いてゆく。これは割れ目へと向かう突風、あるいは間欠泉・・。―――偽りの記憶の中で眠る夜の花、画面の裏に、バスはあった、“内からあふれでる切ない痺れ”(電話が鳴った、)窓にぼんやりと映る蛇の舌、貫通する剃刀とソーセージ。“卵の割れた内側の膜”(氷柱が落ちた、)「さくらがちってうつくしいヨー」と言うのだ、「ばかがはなびになってすごいヨー」と言うのだ、社会なんか糞喰らえだ、機械仕掛けの玩具埋め込め、人間なんか糞喰らえだ、天使の羽根をもぎとる遊びしろ、―――ゆっくりと消えてゆく(のだ、)(ではなく・・。)消えてゆくことしかできない(のだ、)(であると・・。)きみがしん、しんじている、せ、せっ、世界なんてー。どうせ、正解なんてないんだからー。(ダキャラー、)で上がって、(ドゥカラー!)でさらに上がって・・。ねえ、きみが、かなしい、って、それをいうのなら、(ならしも、ならずして、ならずもの、)ああ、儚い音、美しい音、切ない音、狂おしい音。―――綻びは、至る所にある・・。“同じことを言って、胸にぽっかり穴が空いたことを知るよ”「幻の加速度を見つめて―――いる、痛みは、壊れ続けている・・」“また誰かが同じことを言う、歯車が動き始める”「世界に小さな燃え滓が残る・・、灰も埃も、全部が廻り始める原動力、だけど―――影が迷い込んだ、この胸の向こう側はそれ以来ずっと暗い・・」ぼくも、もういちどだけ、かなしい、って、いうつもりさ。(ドーナツ型の蛍光灯を、“フラフープ”って呼んでみたい、)―――冷たい砂の内側が、見えてき、た。(“トンネル”って呼んでみた―――い、)―――本当に知らないものは、きっと、僕の胸の中に、ある。ああ、儚い音、美しい音、切ない音、狂おしい音。―――天使がナイフとフォークを持って悪魔を皿の上へ。首元から入る風が、骨を伝いながら袖へ抜けて―――った(としても、)「「「 救われるなんて一秒だってないのさ君は耳鳴りのするような田舎でも、この跫音のない、きらびやかな、命の噴出を聞いた。精妙で抑制のきいた簡潔なものとして迸り出る。「生きてるって感じがする」生きてくってことを、生きていく―――んだ。待ち合わせまで歩いてゆく―――よ。(memoryの天秤で、マンモスの重さをはかるよ、)ハイカラ和洋折衷チンプンカンプンの人どおりはまだ、ある。オラオラ、僕は散髪屋の飾り熊というやつが好きで、―――テディ―ベアと言え、飾り熊、飾り熊、かざりいぃーぐまあぁ!血を、あるいは静かな嘘を、うすくのぼりはじめた薔薇いろの太陽を、嗅いだ・・。そこに終わり、そこに始まると言う――。「ドラマティックすぎるよマーダー、脈を整えて・・」でも生きていくんだ、美しいというから、そのすべて重たく抱えながら、愛しさを―――抱き締める・・・。―――冬の日を君に。
2024年11月13日
君の匂いがした古い橋の上から、電車が行くのを見ている。サイケデリックトランスなモードで、車は行く。制限的自由、現代のピラミッドの中の白内障の眼(で、)残酷で、無神経に、今日も死刑台の十三階段みたいに、花が散る。夜が来て、下手な呪縛。無機質なエデン。【時間】とはつまりそういうものであるのかもしれない。>>>靄のやわらかな繭を身のまわりに紡ぎながら、>>>君が求めているのは、「電話」だ。ポケットの中に妖しく絡む指先も、(不安定な場所へ、)誘惑の甘い罠も、(虚構が虚構自体の中で分裂するさま、)耳元で囁く、「あなたの家に泊まってもいい?」という心臓を、アルトサックスに変えてしまう、変な一瞬も。(ハッとする、ディジタルの映像の明滅みたいで、)最近忘れてることが多い、パラレルな消失点。“ずうずうしい図形や数字ばかりの夢”空の星は綺麗、色彩の響き、恩寵の光、イメージの断片が繋がり合って、リアリティが生まれる。そうだね、あの頃の僕等には守るものなどなくて、夢ばかり口にしていたよね。ばら撒かれ――た・・ずぶぬ――れの・・手記・・・・・・。無意識の未明――に・・さらけだ―――れた・・青の時間・・・・・・。>>>砂地の底のようにさみしいものになる。>>>発光性プランクトンになる。現代のアダムとイヴなら、歩道橋の上で見つめ合って、(目蓋の裏側へ消えてゆく、少女式の潜在的な「ねじれ」)時というニュートンの落とした林檎を、切り落とされたマリーアントワネットの首にして。軽くなる命を、足りないものばかりの風に揺れるブランコ―――を。最初の衝撃度が安定的な力を持つようになると、型にはまった言葉の猶予が生まれてくるように―――なる。「言葉と現実のズレを認めずにいられたら―――」(それでいい・・、)「中身がスカスカして何を言いたいのかわからない―――」(それでいい・・、)「誤読、して、テー、てぇー、しまったー。」(でもその、“にんしき”は、かえられないぞー、)アァ、ああ、アァ、・・・・・・・ンアアアア!!!+飛行機が、着陸する、瞬間、を、想起、して、しまったー。+あったー、+それを、なかったー、ことには、でき、なかったー、+不思議と、ひかりの、迷子の、印象派。+あったー、「住所不定」で、そしてみんな「乞食」だ。地上の権利は平等ではなく、「奪い合い」だ。猫がしゃがんでいる、「こんな姿見られたくないよ」“情緒不安定”安定が欲しくないか?不幸はもう沢山じゃないか。雨が上がってる、「雨は勝手に上がる、夜だって勝手に明ける」いい加減なものに感動したとかいう有象無象の、うすっぺらい言葉が耳から離れない。何も知らないくせに。それでも月がもう見えている。手をつなぐ、言葉を重ねる、でもそれだけではいけないような気もして、何処へも行けないような正体不明の焦燥感で胸が痛い。君にだけは知られたくはなくて、そう思うことで、すべてが静かに終り始めているのかも知れないね。「時々片頭痛でバファリンを飲まないといけなくなる、雨の降るせいかな、わからない・・・・・・」藍色の背と、青みをおびた灰色の太い腹をもった、紡錘形の生物、鮫を、狂わせ――る・・。化粧水の芳香――。>>>それでどうした?>>>だからどうした?心の奥がざわつく、あの気持ちは変わっていない、笑っているけれど、眼に見えない涙がこぼれている。しみも埃もない、空虚、発車のベルに促されて・・。めくるめく息を呑むような想いで、―――理不尽で数奇な運命をひた走る。少し震える君の肩先「僕のセーターつけなよ」「じゃあ、あたしのマフラーつけて」心と裏腹のジョーク、胸の音ではないこの鐘の音なんかで、くたびれた肩落としながら、人波にまぎ来れむこの街は、意味のない基準と下らなすぎるニュース、けれどそんなことどうでもよかった。―――振り返ると、誰もいなかった。恋していたと気付いていた。でもそれは子供だということも、気付いていた。また一つ街の灯りが消えてゆく。 執着や束縛をすてて、懇願や憧憬、・・・疼く、たおやかな、しとやかな、賞賛の果ての隷属、波のような感情は生き物の 羽 根、思慕は欲望に静かに揺れる。「こうして君に逢うまでは、誰かを愛したことなど一度もなかった―――」素通りする人々、枯れた花は砂のようにこぼれる思い出、持続する淡い興奮を宙づられたまま、身を埋め尽くしていく抵抗感や、欲望を、ストイックな位置へ押しやったまま、何処へ行くのだろう、何処へも行けないのではなく何処へも行かないと、誤魔化しの論法で夜を駆け抜けてゆく、―――張り巡らされた金網と、ほそくふるえる光をまとった街燈、「世界を呪ってた十代の頃のことを思い出すんだ、あのヒリヒリした肌触りが引っ繰り返って―――る」ようやく名を与えられた、窓から出ていくもの。ようやく言葉を与えられて、扉から入っていくもの。「言葉と現実のズレを認めずにいられたら―――」(それでいい・・、)「中身がスカスカして何を言いたいのかわからない―――」(それでいい・・、)「肉付きのよい指」「眩暈のような鐘の音する耳」+飛行機が、着陸する、瞬間、を、想起、して、しまったー。+あったー、+それを、なかったー、ことには、でき、なかったー、+不思議と、ひかりの、迷子の、印象派。+あったー、【時間】とはつまりそういうものであるのかもしれない。>>>連続性の中に穿たれた非連続性の裂け目、僕等・・。>>>僕等、孤独だったね、言葉が出てこないんだ・・。
2024年11月13日
ヅヅヅ、キュイーン、と、れっしゃー! ぱんだ!(いえい×3)お弁当持って動物園おいで、おいらが「いただきます」ちょっとしつこい味だったな、え? 困ってテヘペロ、ぷりんぷりりんアラーモード。あら? みんなの人生の蟻地獄、レッパ沼へオトシテヤンヨー・・・ふふ(?)ぽじてぃぶ、な、意味では、パンダ。「はい、校則違反です! インターネッツ犯罪です(?)」白と黒の怪獣、クマ、それはクマったなあ。え? 「何か言いましたか?」(ラッタラ..ラタタ...)「何か言いましたでしょうか?」(ウサギノ...ダンス..)でも多分、たぬき。あらいぐま。グッジョーブ! ダイジョーブハカシェ!でもその正体は―――もふもふ・・・☆「おいらをお布団に入れてよ」(そして家中のお金を盗む強盗団―――爆☆誕☆)とんでもないものを盗んでいきやがった、それはあなたの心です(?)女の子をコマまわしさ。言いたかった? 罪作りな、耳。言いたかったの、ねえ? 罪作りすぎな、尻尾。カワカワきゃわきゃわ、ウヒョウヒョあはは、れっしゃー! ぱんだ。(いえい×3)よっしゃー! コママワっしゃー、(いえい×3)わっしゃー! コママワっしゃー、(いえい×3)みんなよろしくね、とでも言っておけばいいんでしょ(?)びくとりー☆
2024年11月12日
人差し指はナイフさThe index finger is a knife頭が悪いのがわかるから喋るな、親に言われた。剥き出しの肋骨とrock 'n' roll毒親。乙。ハーイ、人生終了です。ゲームオーヴァー。詰んだ。詰んだ。で、コミュ障になって、猫背になったら、「リアルの自分」みたいな人がいた。ずっと自信なかったんだ、でも、勇気だして外の世界へ出たとか言うのね、その人。この街のanother sky動画からアタシの名を呼ぶような気がして、そこが一生涯忘れられない地になってしまった。ストリートファッション勉強して、大型免許取って、ラップとダンスの毎日、人前に出てさ、人生変えたかった、この糞下らない人生をリセットしたかった。耳元にさ、いまでも、ポプラの葉がどこかで風にのった残照に、さらさらとこぼれる音がする―――んだ。努力による酷使、これも実はまだ甘っちょろい。哲学、これもまだまだ。悟りを開いていない言葉は単純に無駄な知識の集積。「中指立ててみろ、上っ面の言葉はすぐ剥がれる」幸福の錘。イカロス的蝋の翼。回転木馬、変態の園。ビッとしようってアイツが言った。チャッチャカ決めちまおうってアイツが言った。普通とか平気とか当たり前とか、スゲーよな。―――夢のようにかすかに、遠慮がちに、蟹の甲羅をひらいてみせた、それが病んだ紫陽花でも、消えてしまう虹でも、アタシはいいと・・思う―――思う・・・。この街のanother skyさっきガードレールを乗り越えて車道側に出た瞬間、ふくらはぎにかかった排気ガスの煙が温かかった・・。石の上にも三年ってそれは甘い、石の上にも二十年、まずそこから。生きるって何なのか頭の悪いアタシにはわからない。けど、生きることが大変なのはわかる。言ったんだ。装飾画になる。踏み固められた混凝土のようになる。 名前もなくて、言葉も出せない、卑屈な町の風景になってしまう―――よ。みんなそうだよ、ってアイツ軽くいなした。虚飾と出鱈目と誤魔化しの吹き溜まり。裸になって全部さらけだしたら、タトゥーが残って、お前そんなところにピアスしてんの痛くないのが残る。げらげら笑ったんだ。人間になりたくない。はじめて心から言えたんだ。世界はアタシを隠す、空気を泳ぐ、イメージの夢。アタシは、無数の鉄砲を吐き出すような夏の陽射しが、いい。Zeusが言った、「幾何学的とは何か?」と・・。アタシに問うな、アタシは蜜蜂の巣。本を閉じたあとのカーテンの模様。この街のanother sky世界がアタシを隠すとき、町の風景さえ隠してしま―――う・・。ここには天国の染料がある、ここには、声からはみだしてゆく、絵の具がある。ヒエロニムスの幻聴。いつまでもアイツは、最後の審判の喇叭の響きを聴くのを想像してる・・。
2024年11月12日
You Only Live Once銃を握り弾が詰まったマガジンを入れる。スライドを引く―――。 反射する水面、燃え盛る炎、穏やかな雨、湧き上がる雲、風になびく樹木、さざ波、ゆらめく灯り 、打ち上げ花火、循環、完全な健全・・・・・・。うへぇ。凡庸。ステレオタイプ。わっちゃっちゃ!なにそれ、えー、なにそれ。僕だったら、牛の長い白い角と情炎の妖しい瞳を求めている。最高にティラノサウルスのひと時でお出迎え!生きている事自体が退屈だね、思わない?つまらないね。話してる言葉が読めるし、批評空間みたいに沈黙するのが、習わしみたいになってる。「ゴチャゴチャうるせえんだよ、IQ30‼」「ゴチャゴチャうるせえんだよ、文明四流国‼」何、ビビってんの、おかしくなるのが嫌なの。死ぬのも怖くて生きるのも怖いの、情けないのね。豚の一物ほどの意味もない脳味噌をさらして、ビデオ屋で映画を探す君、君、君・・・・・・。「ルーヴル美術館を爆破する映画はないかな・・・」「あと、国会議事堂で売国奴って叫ぶような映画はないかな―――」ないかな、ないよね、生きてる意味なんかそうやって失われてくのね。自動販売機でジュース選んでいる場合か。今日の晩飯何にしようかって―――悩んでいる場合か。わからないかな、胸の中まで透き通ってくるような遊園地の気分でも、視界はダウントーンする胡散臭さ。コーティングされたチョコレートの鍍金が剥がれたら、感情の幅のニュートラルだって出来ないの、君は。そんなことでどうすんの、ねえどうすんの、キャッチボールを完全にしずかなあの公園で終わらせてしまうの、パッと恋をして相手見繕って、グッと勇気降るって仕事見つけて、バババッと人生、生き方選べよ、いちいち悩むな、―――選び放題じゃねえだろ、夢見んな、てめえのツラを鏡でもう一度つくづく拝んでこい。感情の上澄みとか、生活の理想とか、糞喰らえ、無形文化財とか天然記念物みたいな顔すんな。中指立てて、ついでに感覚の錯乱や死への傾きごと、ルサンチマンや少数派ごとアヌスへ突っ込んでやるぜ。―――用意しろ。え?ありのまま伸び悩んで滅びたそうな、自壊や後退を帯びたアンタの横顔は素敵。“スローガンに小便かける夢見てた”―――目蓋の暗闇、マナーモード。「逆方向の視点をあわよくば全力で動かしたがってるのなんて、顔を見た瞬間にわかってた―――よ」“国会議事堂にもうアメリカ国旗をつけろよ、馬鹿垂れ”だからシュプレヒコールを捧げるのだ、ヘイヘイヘ-イ!やってきました滅茶苦茶のお時間ですぜ、グローバルでリバーシブルなストロークスさ、舌の躍動!(指向し,思考し,嗜好し,試行し,施工する)飛んでんだよ、アバヨ・・・!もっとすんばらしくセクシーにアンニュイな表情さらして腰砕け、―――ウッ!違う違う違う、―――ウッウッウー、ピーポー!違う違う違う、―――ウッウッウー、ピーポー!舌足らずになって、駄々っ子になってよ、靴を投げろ、皿を割れ、そしてデリカシーの欠如の方へ進もう―――ぜ。骨と筋肉が作る足の流れ・・。角度 Aと角度 Bと2点間の距離 xと目の高さ hによる世界・・。尾翼の取れかかったグライダーみたいに、もうなんだったらドロップキックしたいお年頃。へっ!矛盾しまくって、信用性もない、歴史もない、思春期みたいに奔放で、わけのわからない映画を手に取れ。ワーカホリック・ネガティヴズ・・・!金糸雀はまだ、お前の耳の中に麒麟の欲求を抱えているか・・!
2024年11月12日
泣いているの?薄暮の暮れ方の仄暗い所在に―――紛れ、見失った。中心もなく周縁もない。曲げられ、抉られ、歪められた、蹂躙。摩滅する道路には未解読の因果律があって・・、(短)く・・[燃]ゑ・・数秒、いや、数分―――。はるばると海や空を渡ってきて、冷たく僕の血や心の中に逆流するもの・・・・・・。“光と影の刻印”「過去の姿形(を、)纏いながら―――」>>>ボクラ、ハ、ハンキョウ、シテイタンダ、、、《かつて好きだったものが、あまりピンとこなくなる》夢の黒鍵を叩くように、空虚―――な、宇宙の揮発性の匂いが満ちて・・・、無垢な海が光で軋む―――よ。隘路へ、相互理解へ。何者かが実験・観察用に作った極小宇宙(で、)どこまで行っても際限がない「神界」のまた高次の「神界」があって、―――この【現宇宙】が終焉を迎えて、【新世界】が開闢するとして、星だって暗闇に打ちこんだ鋲かも知れない―――し・・。答えは―――自分で見つけるしかない、鼓動の中で翼に変えた内圧の極限―――に、意識と無意識の境域・・。流線形は色を変えるパースペクティブ。因果、業、宿命―――。健全な道標・・。仮綴じの・・・・・・。―――鳥のような影(も、)魚のような影(で、)完璧なけだるさによって剥き出しにされ―――た後は、否応もなく、消えてゆく足跡を追い掛けてゆく、だけ。“現実の浸透と交感による場の時空の生成装置”「多くの余白(が、)別の輪郭を浮かび上がらせる―――」鉄の扉、有刺鉄線―――。そこに僕等の文化圏や安全圏の記憶がある。 [心拍数による消費カロリー計算/塩分濃度%から塩分g数を計算する]常寂光土に極楽―――。materialな莟のLifeさ、眼をそろそろ開けなくちゃ、ね。針で突いた穴からこもれて来た光ぐらいの、悟り。を。構築する、構築する。未来傾斜原理に則って、意思決定を。再編集する、再編集する。無我夢中で問い掛ける・・・人生―――時間・・・・・・夜―――。いつだって僕は頭を抱えながら・・・、(煮とろけた林檎、檸檬、西瓜・・・)「願い」や「祈り」のなかに、「こぼれた杯のしみ」を・・・、檻の中から出てきた“獣”に、甘さへの傾斜はなくて、減速し―――遅滞し、(干渉し―――衝突し、)それでも茫洋とした刹那、見つめようとする限り奇妙に果てしもない孤独、で、も、ど、う、し、て、だ、ろ、う、―――脳の回路にERRORの瞬間。「心の内側にひしめきあうものは、同時に外へと出ようとして次から次へせめぎあう声―――」 絶えず形を変えながら、屈折し、反射する、“あの時の僕があんなに命を削って一歩も引き下がらなかった、あんな勇気がいまの僕にもあるだろう―――か”(悲し―――いって、)(思わない―――か・・・)傷のような気配、存在の不確かさ、隔たりの影のような繰り返しの中、繁茂し、増殖し、膨張した。社会状況に拘束される現実への剥離感、断絶のあられもない確認の反復をするのだろ―――う。相対的である、声である。同語反復的である、音である。同着語法的である、言葉である。同時発生的である、息である。―――蜘蛛の巣に引っかかったような「夜」も。―――何かに擦れ違い続けるような「錯覚」も。壊れた共同体や多数派社会への自己弁明的な虞を抱きながら、思考の断面や局面では、世界均質化、関係存在の不可避的な空洞化を、増えも減りもせず静的に偏在するものを認めていて・・・・・・、・・・化石燃料消費によって窒素酸化物、硫黄酸化物――。煤のような公害物質が発生し――・・。仮想事故起因過程ではないけど、もはや原子力に期待する向きは失せ、燃料集合体信頼性実証試験。「位置のわずかな差のために生ずる些細な音や光の刺激、なんかで、理由もなく愛し、理由もなく憎み、理由もなく殺し、理由もなく生かす―――」(顔を、知名度を、金銭を、口の上手さを、)―――これが僕等の世界です。(救われないものばかりが“消去”できない時代・・・)―――救われ難いあなたのせいです。いま、熱帯魚の翠や紅、紫が、永遠の浮遊物の感触を漂わせ、謎に満ちている。テクスチャモーフィング、回転するロゴ、人目を引く標識。「(そんなことでどうする・・・!)」「(そんな一時的な気付きを得た程度で満足する、腑抜けばかりの世界で一体どうする・・・!)」変容してやまない植物的で、陰性的で、かつ風の質感のようなもの。(短)く・・[燃]ゑ・・《気付き始めた世界は、網羅しつくされ、比較検討され、そして歴史における奇跡は色褪せてしまうかも知れない・・・》“光と影の刻印”「それは酸素であり(て、)水素であろうか―――」灰のように乾いた人達の心に降っている、語り継ぐしめやかな雨の音を聞け―――。>>>ボクラ、ハ、コエ、ヲ、コロシテイタ、、、>>>ボクラ、ハ、コエ、ヲ、シロウトシテイタ、、、
2024年11月12日
r/PlacePlaceという、2017年4月1日からReddit内にて実施された共同プロジェクトで、社会実験というものがある。Redditはアメリカ合衆国の掲示板型ソーシャルニュースサイトで、ユーザー数は3億人越えで、2ちゃんねるでいうところの板は14万以上もある。この実験はr/placeと呼ばれるSubreddit内に基づいており、登録したユーザーは縦1000 px、横1000 px、合わせて100万 pxの正方形のキャンバスに、単色のピクセル(pixel)または「タイル」(tile)を設置でき、次のタイルを置けるまで5分間待機する必要があった。待機時間は実験中に5分から20分へと延長され、ユーザーはパレット内にある16色から自由に色を選択できた。実験初期の時間は、ランダムのピクセルに色が配置されたり、無秩序に文字や画像が描かれた。まずは斥候だね。唐突に現れた巨大キャンバスに最初に興味を持った人達による、各自自由な落書き。素朴というか、小目汚しというべきか。ネットの有象無象さながらの象徴的なシーンだ。しかしやがて一人一人では時間制限やインターバルで、大したものが描けないということに気付く。そこで到達点。お互い協力して絵を描くために、とあるユーザーが、簡単な図面を作り、掲示板で共有し、大人数プレイによる、クオリティーの高い絵が描けるようになった。けれどXなんかで人気ツイートにアンチがいるように、すべての人がそういう貴い考えを持っているわけではない。世界は一つの宗教ではなく、一つの色にも染まれない。よくわからないセンシティブなキャラを描く人もいれば、シンボルを描くもの、文字を残すもの、つまり複数の派閥に分かれて同じキャンバスを共有していた。学校のグラウンドで、陸上とバレー部とサッカー部と野球部がいるようなもの。もちろんそんなことになれば、揉め合いになる。いつか薬缶は沸騰する。「場所の奪い合い」になる。しかも、「上から他の絵を塗りつぶすのもあり」だ。これは戦争の緊張状態が続くことで、いつか先制攻撃が繰り出されるようなもの―――だ。「奪いたい者」と「守りたい者」が現れると、もちろん第三勢力というのが現れるようになる。いっそのこと、全部塗りつぶしてキャンバスを征服しよう、というオセロゲームの完全勝利みたいな企てを持つ者が登場する。学校の卒業文集で、世界征服という夢を書くのはネタだが、考えようによってはこういう過程で、生まれて来ると想像してみるのも楽しい。そして征服を企てる「ブルーコーナー」が結成される。これは一種のカルト宗教のようなものかも知れない。無慈悲に青に染められていくことかと思った矢先、「ブルーコーナー」のメンバーの一員が、提言した。もしすべてを青く染めってしまったらプレイスに参加している人は、悲しみ、また出る釘は打たれるで、自分達に対抗した行動を取ってくるはずだ、と。(実際、キャンバスの右上には「レッドコーナー」が、徐々に勢力を強めていた。暴走族の抗争みたいなものだが、コンビニや、バレンタインの企業戦争だって同じことだ、)だったらいっそのこと、いまある絵を残しておかない、と。それはおそらく、その時になってこのPlaceの企画が、社会実験となり、作品の保存をする価値があるという保守的でもあり、その閲覧を含めて後世に残すべきという全体の声が届いた瞬間でもある。人は一人によって価値は生まれない。集団の中で価値が淘汰され吟味されることで生まれる。僕はその瞬間、一つの公園になったのだと思う。全然関係ないけれど、僕は公園愛好家である。絵の保護をすることになって平和が訪れると、独創的なアートが登場する。つまり、本当に才能のある人がこの段階になって現れるのだという、言い方も出来る。才能のある人はわけのわからないことには参加しない。例外はたった一つだ。面白いこと、自分もやってみたいと思わせることだ。参加意欲のない人をも巻き込むエネルギーが、その段階にはある。場合によっては最高視聴率が、この段階かも知れない。国旗合戦、ハートを書きまくって世界平和を祈るグループ、ゴッホの星月夜を完璧に再現するグループ、などが現れた。これはいわば、オリンピックみたいなものかも知れない。だが、こういう状態が安定している時にこそ、本当の悪とでもいうべき存在が現れるようにな―――る。「THE VOID」だ。VOIDの発祥は4chanという画像掲示板。何度かRedditから外交員を送って説得を試みたがことごとく失敗。ここでplaceで争っていた者達の協力連携が成立する。人間は損得勘定をする生き物だし、過去を確かに忘れない生き物だが、本当に大きな敵がいればどのような間柄でも味方になれるのだ。しかし「THE VOID」の登場で、古いアートは消え新しいアートを作る契機になったと思う者達もいた。新陳代謝だ。老人の言葉は、若者にはうるさくて仕方ないの法則。さながら上場企業のように、大きな派閥が生まれる反面、その為に新しい仕事が入りにくい、やりにくいという状況。それが予期せぬ神の采配で、中心的な価値観が崩壊する。争いが起きてばかりいて絵を描くところじゃなかった、とそう思う人も一定数いたはずだ。仮にこの社会実験の満足度調査をしたらこんなに荒れることはないというぐらい、色んな意見が突出するだろうと思う。状況が読めない段階。「THE VOID」の攻勢は強力で、クリエイターそれぞれが対抗しても、勝てないことを認めた住人は、最終日とあるグループに協力を依頼した。いわゆる草野球の助っ人である。日本野球でいうところの外国人選手である。それは政治的コミュニティで、普段から政治家や経済、スキャンダルなどで、対立し合っていた人達が、「THE VOID」の撃退に一役買ってくれた。彼等が書き上げたのは誰もが知っている、アメリカ国旗だった。何度も何度も呑み込まれそうになりながら最終的には、Reddit側が勝利した。まあ、勝ち負けなどという発想自体が、茶番で、低次元で、だからネットはリアルに勝てないんだという見方もあるだろうが、同時に、リアルとネットは表裏関係である、勝ち負けには特定のスポーツやギャンブル以外ではもちろん存在しない、だが、存在しないといっているだけで見えないギャンブル性は存在する。だからこれは「社会実験」なのだ。七十二時間かけて様々な変遷を辿りながら、様々な人の労力を使って完成する。冷静に考えればどう考えても馬鹿らしい、空き缶の城、割り箸の家である。ビール壜のクリスマスツリーかも知れない。それはやっぱりネット文化が何でもありの、アウトサイダーアートということかも知れない。ニューズウィークは、「インターネット史上最高の実験」と呼び、A.V.クラブは、「Redditorが最善を尽くす、すなわち、互いに好きなことを議論するための、良性で多彩な手段である」と評した。経済教育財団は、「社会を特徴づける新たなる自発的な秩序の縮図である」と評し、ギズモードは、「やりたい放題であるインターネットの記念物であり、インターネットのコラボレーション能力の証でもある」と評した。僕だったらそれは、「インターネットにおけるナスカの地上絵」とでも言うかも知れない。とりあえず、名言マシーン、広告路線、それが薄っぺらい社会を黙らせる一つの方法。言葉だってそういう役割を持つようになった。僕はここにおけるコメントも含めての社会実験だと思う。ちなみにキャンバスの最後の構成とSubreddit内の、個々のコミュニティとの関連性に関する評価もある。これらのコミュニティは独自の存在であったが、より大きなコミュニティの一部として協力していた。たとえばそれは「宇宙」とか、あるいは「異次元の扉」とのようなものかも知れない。Ars Technicaのライターは、Placeにおける協調の精神が、インターネットコミュニティ上における、過激思想と戦うためのモデルとなりうることを示唆している、と。これは椅子取りゲームの最高峰で、場合によっては、ハリウッド式脚本術とかに並ぶ、物語の完璧なパターンの一つかも知れない。何回やってもこうなるのだとは絶対に言えないが、何回やっても全体の特徴の一つ一つの要素は残る、決まりの無い個々の集まりから、小規模な協力、対立、侵略と保護、革命、復讐、そして大規模な協力、平和が訪れ、強大な敵との遭遇、飲み込まれるかと思いきや一致団結の大団円。しかもそれは、「サイバー空間での自由奔放なアート表現」だから可能だった。あるいは、「サイバー空間での天衣無縫な遊戯」だったから可能だった。もしかしたらそれは本当のところ、「神様の顔」なのかも知れない、色んな言い方があり、色んな考え方がある、けれどもそこにも多分、周縁と底辺の文化からの眼差しがある。テレビから観ている時代があり、限られた特権階級の人だけが知る時代もあった。そして僕等は蟻としての時代を迎えているのだ。
2024年11月11日
wonder of the stars宇宙にはどれほどの数の星が存在しているのだろうか、天体望遠鏡を手に数多のロマンティストが、気障なことを言ったに違いなく、まずはエチケット袋を持って挑みかかりたいところですね。しかし満天の星空を眺めた時には、誰もが頭に浮かぶ疑問―――。この宇宙空間には四〇〇〇垓個以上の星が、存在していると言われています。人類にとって星を観察する歴史は古く、星の動きから古代エジプト人は暦を作り、メソポタミア人は占星術を生み出し、現代では遥か遠い星々の環境を把握できるほどに発展し、何光年も遠くに地球と似た環境の星が見つかっているという報告もあれば、「まるでSF映画だ」と思える不思議な星が報告されることもあります。たとえば誰もが知っている、「金星」には自転速度の、六〇倍以上の速さで風が吹いていて、これは「スーパーローテーション」と言われ、そのメカニズムはとても説明が付かないため金星最大の謎として、多くの研究者を悩ませていたりもします。ですがこれは、ほんの序の口。もはや漫画の中だろ言いたくなるような、氷の活火山がある星である「トリトン」も外せないところです。トリトンの表面は窒素の氷で覆われ、氷の活火山が存在しており、気温は少なくともマイナス二三七.六℃。金星の次は土星といきたいところですが、その衛星「タイタン」もかなり変わった星です。この星の最も興味深い点は地球と同じように液体の湖や川が流れ そして雨が降っていることであり、ひいては地球以外で唯一、表面に安定的に液体が存在することが、確認されている天体です。ただし、ここで言う液体とは、液体のメタンやエタン。地球を水の惑星というように、タイタンは油の惑星です。その地球つながりで、地球からわずか一万光年も離れていない場所に位置し、太陽の一〇〇倍ほどの質量を持つ連星系「りゅうこつ座イータ星」は、厚く膨張した二つの耳たぶのような構造の「人形星雲」に囲まれ、最も危険な星であると言われています。見ようによっては深海生物にいそうな星にも見えますが、何を隠そう、あと数百万年で超新星爆発を起こし、地球に危険なガンマ線を浴びせる可能性のある時限爆弾なのです。大丈夫、僕は生きていない。そしてその頃にはきっと、何らかの対策が可能であるに違いない。最終的にはアルマゲドンの主題歌、「I don't Want to Miss a Thing」を歌うしかない。もう一つおまけに地球つながりで、地球以上に水の豊富な惑星「GJ1214b」というのがあります。ただ、地球よりも大きく、比較にならないほどの量の水を有していて、逆に固体状の物質がほとんど無いため完全に海に覆われている惑星。もしかしたら深海には生物がいるかも知れませんね。いつの日にか、この惑星の水族館へ行きたいものです。水といえば、アマゾン川の一億倍の水量を約一〇万℃、時速一九.三万キロで放水し続ける、「L1448-MM」にある原始星を忘れてはいけないでしょう。原始星ではこのような放水現象が確認されるそうですが、実際に規模を測定できたのは、この星が初めて。この放水は千年にも及んで続く可能性もあるそうです。ちなみに長すぎる小便は三〇秒以上になると膀胱機能の低下。さて、その土星つながりですが、二〇一年、ケンタウルス座の方向約四三〇光年彼方の若い恒星「J1407」に、土星のような環を持った惑星が見つかった。J1407bは木星の一〇~四〇倍の質量と考えられ、三〇個以上も重なる環の全体の直径は約一億二〇〇〇万キロにも及ぶ。これは太陽~金星の距離よりも大きく、土星の環の二〇〇倍という大きさだ。もちろん僕等はそれを東京ドーム何個分で表示してくれるでしょう。僕は頭が痛くなるので遠慮させて下さい。さて話を戻して、風とくれば速度。高速自転の星「VFTS102」は、大マゼラン雲(かじき座からテーブルさん座にかけて位置する銀河)の中のタランチュラ星雲にありますが、何しろ時速一六〇万キロで自転しており、あまりの速さに星自体が潰れ、赤道付近には光る円盤が形成されています。高速自転の原因としては、近くを周回していたM星の超新星爆発の影響や他の星が衝突・合体したなど様々な仮説が唱えられていますが未だに原因の解明には至っておりません。速度といえば車のフロントウィンドウ、ちょっと無理矢理かな、硝子でしょう。硝子の雨が降る星「HD189733b」は、夏に東の空に現れるこぎつね座の中の星。地球と似た青い星ですが、これは大気の主成分である、硝子(ケイ酸塩)の粒子が光を反射しているためで、海の光を反射している地球とはまったく異なる上、時速七〇〇〇キロもの暴風が吹き荒れているため、常に硝子の暴風雨が降っていると考えられています。その硝子続きでいえば、ダイヤモンドでしょうね。二〇〇四年に発見された「かに座 55e」は、地球から約四〇光年離れた場所に位置しています。大きさは地球の二倍、質量は八倍というとても大きい惑星ですが、この惑星の内部には、ダイヤモンドの地層が存在すると言われています。ダイヤモンドの全量は、地球全体の質量の三倍の量。ダイヤモンド鉱山なんてけちなものはおしまいにして、これからダイヤモンド惑星の時代だぜ。さて、雨の次はやはり晴れでしょう。一〇〇年以上ずっと夜が来ない惑星「HD131399Ab」は、三つの太陽が近くを周回しているため昼間が、一〇〇年から一四〇年ほど続きます。昼の次は夜ですね。われわれの銀河系には、炭よりも黒い惑星が存在します、NASAの宇宙望遠鏡ケプラーが発見した、「TrES-2b」という木星サイズのガス惑星がそうです。季節を問わず北の空に現れるりゅう座のなかの星で、太陽のように輝く恒星の近くを公転していますが、光を一パーセント未満しか反射しません。その理由は、気体状になったナトリウムと酸化チタンが大量にあるため、という推測もありますが、地球にはない未知の物質の影響とも考えられています。夜といえばお酒ですね、深酒は駄目ですよ。しかしそのお酒をまき散らす星があります、「ラヴジョイ彗星」です。このラヴジョイ彗星は五つの星の名称で、そのうちの一つの彗星がお酒をまき散らしながら飛んでいます。噴出されるガスの成分にアルコールや糖類が含まれていて、毎秒ワインボトル五〇〇本分をまき散らしています。酒の次は孤独死というわけですね、それはそうですね、二〇光年先に浮遊惑星が存在し、浮遊惑星とは恒星を周回せずに宇宙を漂流し続けることです。天体の名称は「SIMP J01365663+0933473」です。木星の十二.七倍で、磁場の強さも木星の二〇〇倍。ちなみにこうした浮遊惑星は宇宙空間に数千億個も存在します。
2024年11月11日
最初のヒトある人は道路で一時停止必須の場所なのに、突然愉快な気持ちになり、込み上げてくる笑いと共にアクセルを踏み込む。慌てて一時停止し、事なきを得た。その人はたまたま死ななかっ―――た。電車の踏切の前―――で。吊り橋の上―――で。そうならないという保証は何処にも、ない。一度目は大丈夫だったから、二度目も大丈夫だというのは暴論だ。突如――まったく突如として、「自分の意識を真っ白い水として、そこに赤い液体や、黒い液体が混ざってゆくのを、感じたことはないだろう―――か」階段を転げ落ちてみたいという衝動と、死後になって乾いて濁っている死んだ魚の眼。水の中に溺れてみたいという衝動と、呪いのメッセージに見られるような精神汚染。暗示、先入観、固定観念、集団心理、どんな言葉もそれほどの違いはない。しかし“見えないこと”“名前のないこと”ただ漠然として“存在にすら数えられないこと”を、回避することは出来る。わからないのさ、それは緩慢なるものだと大多数の人が思っている。その気になれば制御できる、抑圧できる、それはあくまでも一時的な躁鬱的な、気分によるものなんだと思っている。数値化―――は出来る?時限爆弾の解除方法はたった一つ、すごく特殊な方法なん―――だ。見える化―――は出来る?何をやっている。油断するな。殺されるぞ。頭の中では、そういう非常警報が鳴ってる。出来ないと諦めてはいけないよ、イラストでもいい、文字でもいい、何だったらスマホのメモ帳を使って、様々なイメージの収集をしてみるのでもいい、―――“本当の自分”は、おそらく、すべての意味において、“離れているか、近付きすぎているか”のどちらかであろうと思う。これは経験則として述べている。交差点で表情のない人を見るたびに、問題が同時に複数の原因からなっていると想像する。けど真っ先に疑うべきは「心霊」なんかじゃない、まずは、「心療内科」さ。そして憑依現象なんかでは断じてない、まずは、自分の心をきちんと見つめることさ。でもまずは疑うだけで、薬などは絶対に飲んではいけない。一度おかしくなる弾みをつけてしまうとね、拍車がかかった暴走は精神を蝕み尽くす―――からね。そういう「ヒトの何か」が怖い。そういう「ヒトの振れ幅」が怖い。見えないものが見えると言って信じるのは止した方がいい、真っ先に疑うべきは、詐欺さ。お金が絡んでくると人は平気で嘘を信じ込ませようとする。依存症や、恐怖症。マラソンランナーは中継地点で水を飲めなかったら、発狂しそうだというそれが、麻薬依存症の人が、世界をすべて捨ててもいいというそれ―――が。―――【スキマ】だ。心の隙間というのを一切作らない手法を教えてあげようか、心を空っぽにし、一切合切、信じないことだよ。それで何処までゆけるかな、生きていくというのは、矛盾の宝庫さ。『白い塩』なんだ。どう見ても、どう考えて―――も。だけど、奥さんが言う。『なにその、黒い塩』と・・・・・・。この世ならざる者と、一般的な人との違いなど、すぐにつくと思っているけれど、これがわからないという人もいる。須田国太郎みたいに“暗い”んだよ。バロック絵画みたいに“暗い”んだよ。九死に一生を得た人は、「自分自身が信じられない」という言い方をする。「今でもその瞬間のハジけた気分が、胸の奥底にズレたまんま、残っている。思い出すたびに、ゾッとし、頭の中を誰かに覗かれたような気がする」と―――。人は様々なバランスの中で生きている、交通事故で自分は悪くないと言い張るような、そんな正義の仮面もそのバランスに―――ある。天秤皿の上に、「依存症」と「恐怖症」という、プレートと写真とそれを表す何かによって、釣り合っているような光景を想像してご覧。ゆっくりと紐解いていきなよ、そしてこれは左脳であり、右脳のことだよ。分かり易く言えば、悪魔であり、天使のことだよ。そしてそれが『依存/恐怖』と成長した暁には、天秤はもっと大きくなり、『症候群』と釣り合うだろ―――う。交差点で表情のない人を見るたびに、問題が同時に複数の原因からなっていると想像する。けれども、表情のある人を見たとしても、やはり問題が同時に複数の原因からなっていると想像する。答えは変わらな―――い、宇宙は広すぎて怖い、想像力が及ばない、太陽や月だって本当にあるかどうかはわからない、それがそう見えるだけの疑似的なもの、偽物であり、実は一切合切これまでの歴史が嘘のコンクリで、固められてきたものだという可能性―――を、どんな人も否定できない。だから世界五分前仮説とか水槽の脳のようなものがある。―――【スキマ】さ。
2024年11月10日
panic心霊スポットの“呪われたトンネル”へ入って十秒も経っていない、すうっ、と寒くなって来たなと思った、立ち入り禁止の孤島へでも流れ着いた漂流者の気分だなと思った、静かなノイズにまみれた郊外、しきたり、ならわし、信仰、習俗、歴史。ひいては、その土地に古くから根ざしてきた風土や文化。謎めいて古い起源が我々には魔力的に感じられる。時々それはノスタルジアと呼ばれ―――る。それらにまつわる奇妙な話が累々と、連綿と、脈々と、存在する日本のトンネルへと、一歩、二歩と踏み込んでいっ―――た。そこに、“ズレ”はない。そこに、“ピント”は合っている。―――だが、次の瞬間、一緒についてきた鈴美玲は。ホラー・ジャンキーと嘯いていた、鈴美玲は。大学生で、喫茶店のバイトをし、YouTubeの活動もする、活発で明るい女性は、『幽霊がいたらむしろ見てみたいですよ~っ』と頼もしいことを言っていた彼女は、ゴールからふりだしに続く道を、いろんな品物の滅茶苦茶に散乱しているなか・・・。逆走するようなポーズを取ったかと思うと、グリュン、と音を立て、腕時計の留め具の噛み合う音のように歯が鳴り、捻じれ―――捩じれ・・。あちこちへこんだいびつな段ボール箱みたいに、粘着テープを剥がしながら、悲鳴をあげ、どうしたんだと懐中電灯を慌てて照射すると・・・・・・。夜を欺くように煌々たる光の中で―――。「えっ?」ぐるん、と白眼を剥いて、蟹状の泡を吹きながら、まるで釣り糸でも引っ張られている魚の鰓のように、斜めに舌を突き出していた。不平と猜疑と高慢・・・・・・。接近して仰向いて見る時には横幅に対して、高さの方を大きく見積り過ぎるような傾向みたいに。皮下脂肪は燃えるような―――焦燥・・。トンネルの傍には粗大ゴミがある。壁にはスプレーで書かれたと見られる、“呪”という文字が見えた。薄汚れた、地下駐車場のような臭いがする―――。湿気が強く、脂や汗の匂いがしない、水の臭い、霊の気配がする、この場所・・・・・・。がたっ、と鈴美玲は粗大ごみの中にある冷蔵庫を巻き込みながら倒れる。俄かに恐怖のドン底に落ちて、まるでホラー映画のワンシーンでも観ているみたいに―――。カツーン、と転がる音がする。周囲に散らばっている、自分と同じ心霊スポット探訪目的の人が残した、空き缶だろうか、それを背中に受けながら、我慢と失意とが、その口辺に漂う嘲笑いの底で戦っていた、人は最初、不安や恐怖に反応している生き物であり、次に不安や恐怖を感じた瞬間に気づき始める傾向を知り、最終的にどういう舞台装置があれば不安や恐怖が作動するかまで、わかるようになってくる―――生き物・・。―――もうそういう“おどかし”はやめよって言ったのに・・。―――あのね、もうそういうのは“前時代的”なんだよって・・・・・・。言わせてくれな―――い。心の何処かでは願っていた、脅かし目的や冗談ではない証左―――として。両手両足をてんでばらばらに動かしながら、のたうち回り始める。ジジジーンと、壁にかけてある大きなベルが鳴り響く。電気など通っているはずはないの―――に。ここは、廃トンネルであるはずなの―――に。想起した、すみずみまで行き届いた秩序があり、権力の強い支配者がいる―――王国を・・・・・・。「はい」「いいえ」の文字が。「YES」「NO」の文字が。日常の延長線上にあり、しかしどうしようもなく切り離された、特異点によって、無意識に呼応した入り口・・・・・・。「あぇ、が、がほっ、えほっ、」その口から発される、およそ女性が発するとは思われない、言葉にならない、意味を持たない、―――鈴美玲の、正真正銘の、無意味な、死に瀕した、喘ぎ声。ばたばたばたばたと、まるで死にかけの蝉やゴキブリのように、あるいは回路が完全に狂ったロボットのように、透きとおるように白いしなやかな脛も、簡単に折れそうな首―――も。鈴美玲は―――。鈴美玲は―――妖艶に、笑ってい―――た。偶然にもつれた腕が、手が、まるで、髪をくしけずりながら艶然と笑っているように見え。けたたましく、笑い声をあげてい―――た。壊れてい―――る。狂ってい―――る。その繕いようのない破綻の中で、鈴美玲はもがき続ける。必要な工程を全て飛び越えて、世界から遮断された、モザイクのかけられたような場所で。どたどた、と。ばたばた、と。腕を、脚を、首を、振り回し、擦り切れながら、やがてその口から赤茶色い液体、吐瀉物と鮮血が入り混じったものが見えた。「あぁ・・・あああああ・・・・・・ああ・・・・・・」何かするべきだと思いながら、もはや行動の原理へとシフトできず。こんな時、心のトラブルはフロイト理論で埋め尽くしたいのに・・・、何か言いたいはずなのに、言葉が脳内から完全に消失している。地獄に叩き落とすような地雷が足元から炸裂し。もはや―――足が震えて尿意が我慢できず、熱を持って溢れそうだ。恐怖という感情すら麻痺し、堪ゆべからざる悲痛が胸を衝いて来て、それは恐慌、パニック、理解不能、エマージェンシー・・・・・・。―――脳が、冒涜的な光景を理解するのを拒否している。いつまでその、駄々っ子のような、奇妙な舞踏は続いたのだろうか、くへぇー、と間抜けに空気の抜ける音を喉から発して、鈴美玲は―――ゆっくりと停止した。「・・・・・・す、み、れ」再び降りる、しめやかで鋼のような沈黙。懐中電灯が照らしだした首は何重にもねじれていて千切れており、周囲には鈴美玲のものとおぼしき小便や大便、それから最もインパクトのある腹部に開いた大きな穴から、胃や腸のようなものまでも―――が、を。咽喉が崩壊した。絶え間なく続く鋭い非旋律的なものの作用によって・・・。見た瞬間―――確認した瞬間・・・。―――鈴美玲が変わり果てた、生命のない、物質、モノと化したのを認識できた瞬間・・・・・・。“それ”―――はとても胡散臭い言葉のように思える。―――本当という言葉のたびに、本当は嘘にすり替わる・・・。―――いま、考えてたことや、思っていたことが、わからなくなる。「い……嫌だぁああああああああああー!!」沈黙は破られた時、トンネルの向こう側で何かが笑ってい―――た。地団駄――二の足を踏む・・。悠長――怠惰・・欺瞞。悪意に満ちていて、無表情で、残酷で・・・。それでも口元の端は確かに、笑ってい―――た。不毛な分裂性、仮死の極限的な貧しさ、運命の諸問題が観念を媒介して回収不能の狂気へとすり変わってゆく・・。その【“何か”】と眼が合っ―――た。眼が合ったのに、次の瞬間、瞳はえぐられていて、それも自分の手を操られ、えぐられていて、―――思った、鈴美玲と車内で話していたこと、を。十年後には雑記の記者になると自分は言い、彼女はホラー映画の原作を作ってみたいと言っていた。他愛のないこと、いまとなっては笑い話みたいなこと、を・・・。―――ねえ、本当に行ってはいけない場所ってあるのかな・・。―――ねえ、本当に見てはいけないものってあるのかな・・・・・・。そこに、“ズレ”はない。そこに、“ピント”は合っている。 ―――やがてゆっくりと、意識は、途切れた・・・・・・。ピチャン、と水溜まりへと落ちる水滴の音がした。まるで最初から夢見ている、そんな水の音をさせながら、奪われた視神経に留まった記憶のように、その一齣一齣が、ふわりと浮んで、落ちもせずに、空間に漂ってい―――る。風は袖口から腕の裏へ、そして肩の方まで、冬の昂ぶりのようなものを感じさせる。放射性物質を含んだ気体のかたまりが煙の流れのように、何かが流れていくようにも思えた、水の音の中で、カメラのレリーズ・シャッターがスピードとパワーの中心で確かに押され、感光を始めたよう―――だ。―――恐怖というのは、始まったばかりなんだ・・。―――本当の恐怖は、伝染する・・・・・・。
2024年11月10日
山小屋ドラクエの村みたいな田舎の山小屋に泊まった。何だか異国みたいな気がするのは辺り一帯は鬱蒼とした木々があるのに、その山小屋の周囲だけ不自然に刈り取られているように見え、明らかに伐採の目的が違う―――道なんだ、何かへと案内する、何処かへと通じている、そういう交通路としての道、その先へ行くと、背丈ほどもある大きな石が―――あった・・。横幅も人間が寝転んだぐらい―――ある。そこに碑銘でもあればもう少し違った理解があったろう。巨石信仰というよりも、新興宗教を思わず想起してしまう不気味さで、その心理に至るためには夕方の薄暗い雰囲気も、多分にある。街の辻角や林の小径で魔物に逢う、この黄昏れ時。イマジンが足りない。それはマザーと叫んでいるときのジョン・レノンの顎はずれた感じが、われわれには上手く伝わらない。いよいよ怪奇的装飾は整った。この“後遺症”という―――もの・・。バンジャマン・クレミュウは『不安と再建』の中で、一九三〇年は、すべての領域で決定的な年であったといっている。世界的な経済危機、ロシアのダンピング、トーキーが欧州を風靡した年である。それは集団的主張の時代が、個人的主張の時代に代わる年である、と・・・。刷り込む。形成する、言葉の流れや色や形を利用しなが―――ら。そう、立地条件も悪くないのに、どうしてか潰れる店というのがある。その飲食店には常連さんがいて、いつも毎日、決まった時間コーヒーを飲みに来ていたらしい。だけど、とある日にトイレだけを借りて、コーヒーも飲まずに帰った。「そんな日もあるだろう」と、「―――それまで、そんな日が一日もなかった」ことの揺らぎ。体調でも悪いのかな、それとも何か怒らせることでもしたかなと思っていたら、その常連さん―――近くのビルから飛び降り自殺した。魚眼レンズを車の行き交う交差点のの中に突っ込んで撮影するようなもの。たとえるのならば、何百億年の宇宙の虚空に沈殿し、浮遊し、眩暈に変わりながら、もっと静かな気持ち、腐っていく寸前に蘇生する・・永劫の感覚・・・・・・。「人に騙された」とか言う人もいれば、「家族関係のゴタゴタだろう」とか、色んなことを言う人がいたけれど、これも定かではない。警察署へ行って尋ねるということも、はばかられる。他人と暮らす、その他人が身近な知り合い、顔見知り、挨拶して、何らかの性格や、行動範囲を読み取りながら生きる街の生活。鍵や鍵穴を所有していても、世間や、常識的な質問を交わさない関係の人。見知っているけど、名前は知らない。声だって聞いたことがない。そんな他人のことを僕等は顔見知り、という・・・・・・。それから間もなく、店ではトイレにいつも誰かが入っているようになった。トイレを開けると、誰もいない。多分これはその常連さんなんだ、お祓いもした、やがて悪い評判が立つ、そして従業員も怖がる、仕事にならない、半年後には店じまい。それでも結構続いた方じゃないかっていう話だけどね。そこから色んな店に変わったけど、長続きしなかった。最終的には駐車場になった、さすがに駐車場は潰れないし、怖い話も聞かない―――けどね。でも何かそのことを知って以来、都市部で、どうしてこんな立地のいいところに、駐車場があるんだろうなんて思うと、そのことを想像するようになった。“後遺症”―――だね。そんな場所だったけど、仲間数人で泊まった。夜中にトランプゲームで盛り上がっていると、いきなり誰かが自分達を呼んできた―――んだ。「〇〇さーん」ってね。知り合いにでも声かけてたのかなんて言いながら、でもその呼ばれた名前に該当する人間が―――確かに、いた。だからというわけじゃないけど、無視しようとは―――思わなかった。とはいえ、ここはとても重要なことだけど、時間はかなり遅かった。都市部のアパート訪問みたいなノリなら、九時や十時は営業中みたいなところはあるのでこういう声かけも、ある。でもここは―――山だ、そして二十二時時である。誰かが真っ暗な山を登ってきたとは考え難い。百歩譲って、遭難があった、登山仲間が自分達に何か知らないかというような、そういうこともあるかも知れな―――い。しかし自分達はそういうネットワークはなかった。でも親兄弟が亡くなったみたいなことを報せに来てくれているかも知れない、人生が長くなるとそんなアクシデントレポート、こういうタイミングでくるか、みたいなことに気付いたりする、・・・・・・そ し て、はっきりと理解する。・・・・・・そ し て、はっきりと理解する。―――“後遺症”―――だね。しかし山小屋だ、失礼するとか言って入ってくれば―――いい。不思議なもんでね、最初はお前早く行けよとか言ってたんだけど、声がしつこく何度も呼び掛けてくるから、三十秒、一分、二分・・・。沈黙は聖なる詩における夜の墓穴。わかるかな、ちょっと気持ち悪く思えてきたんだ。そいつが言う。「だって山に行くとは言ってきたけど、何処の山かは言っていない」しーん、としたよ。虱潰しにいろんな場所へ連絡を取ったんじゃないかと気を回そうとしたけど、そんなことをする労力に見合った出来事が本当にあるだろうかと思う。―――いや、そうなってくると―――語らないがゆえに語ってしまう、山特有の怖い話を想起して、引き攣ってくる、背筋に寒いものがやってくる、早く行ってやれよっていう言葉が、段々、何キロ先、何十キロ先にあるように思えて来る。大きな顔をしていたものが次第に芥子粒みたいに思えて来る。“後遺症”―――だね。>>>出来事に首を突っこむ、或いは引き起こす方法。>>>揺れるもの、揺れているもの、揺れていたいもの。はたしてこれは―――“ヒトなのか”・・。それとも―――が、脳裏をぐるぐると堂々巡りする。しかし声は聞こえてくる、何でもいいから、あの声を黙らせると息巻いて、仲間が息を殺しながら見守る中―――扉の前に立ち、開ける・・。緊迫する場面、おい焦らすなよ、さっさと開けろ。いなかった―――。懐中電灯で周囲を照らし出してみるが、何も、ない。若干、罰ゲームのような気がしてくる。お前、これ、YouTubeのヤラセなのか。動く物の気配すらない。「何なんだ、一体」「幽霊じゃないか―――お前、心あたりはないか、親類縁者が亡くなったとか」「ないな―――あと、声に聞き覚えがない」とはいえ、見知った人の声でも、山みたいな場所で聞けばわからないという可能性もなくはない。ただ、見知った人の声というのがポイントだ。見知った人ならば、同じ名前を繰り返すだけとは考えにくい。「だとしたら、案外、何処かで本当に、誰かを呼んでいたかも知れない」「でも明らかにこの山小屋に向かって聞こえたぞ」「そう聞こえただけかも知れない」要求された――領域・・脳神経、脊髄神経のように、どの部分から神経が出ているかの細分に続く――。意図的な形状記憶合金・・。人間の鼓膜のような能力を生じたものらしい、世界・・。このような会話。ホッとしながらも、背中から匍い上がってくるようなえもいわれぬ不気味さ、腑に落ちないまま、ドアを閉めた。ガラスケースの中にある宝石は観賞用にしか見えないが、購入する手続きになると別の見方が提供される。“後遺症”―――だね。昔、日本家屋に住んでいた人がいて話を聞いた。茶の間と台所の間にスッと、ガラス戸があり、ガラス戸の向こうに板の間がある。その向こうは一段下がって土間になっている。田舎の祖父母の家とか、民家なんかでかろうじてうかがえる程度で、それこそ都市部で暮らす人にとっては天然記念物みたいな風景。竈があるといえば、もっと分かり易いかも知れない。まあそんなわけで、床下にはいくつもスース―した隙間がある、害虫駆除界隈ではベスト10に入ってくるような、ネズミやイタチのような小動物が家の中に入り込む。タヌキが入ってきたこともあるらし―――い。おにぎりを攀じ登って食べていたらしい。コラといって怒鳴ったら、ピューッと消えていなくなって、それっきりらしいけど、ね。田舎だから、蛇だって入り込む。マムシとかヤマカガシは怖いけど、大抵はアオダイショウだから。違いが全然わからないのが素人とばかりに事もなげに仰るけど、田舎の人、とりたてて年季の入った家に住む人は、おおらかだっていう説を推したくなる感じだね。でもそこに、一度だけ鈴虫が迷い込んだことがあるらしい。何処から入り込んだのか全然わからないとは到底いえないにせよ、その日、仲良くしていた親戚の方が亡くなったらしい。虫の知らせだね。“後遺症”―――だね。そしてその後、再びトランプゲームをした。もう呼ぶ声は聞こえなかった。梟がときどきホウホウと梢で鳴いていた。やがて就寝した。夜中に一度だけ、大絶叫を聞いた声を除けば、何もなかった。朝目覚めてドアを開けて出発しようとする―――と、血の跡が、ある。みんな、夜中に声を聞いていた。誰もそれについて何かを述べようとはしなかった―――が。暗黒の室内は、ほんの数秒であったが、一転して墓場のような静寂が訪れた。毛色が変わった。声を出せば、真っ暗闇の中へと飛び出さなければいけない。安全な場所から、身動き一つとらないための自衛手段。しかしそれが間違っていたのか、正しかったのか。暗い表情が、忍び寄って来る朝の気配と共に、その顔を仄かに翳らせている。 “後遺症”―――だね。誰ともなく、その血の跡を、追いかける、何だか異国みたいな気がするのは辺り一帯は鬱蒼とした木々があるのに、その山小屋の周囲だけ不自然に刈り取られているように見え、明らかに伐採の目的が違う―――道なんだ、(地形のゆらぎ、飴いろの波、アンモナイトの褶曲・・、)何かへと案内する、何処かへと通じている、そういう交通路としての道、(君の動きがスローモーションになる、まぎれもない・・あなたの――心臓が、心臓が・・、)その先へ行くと、背丈ほどもある大きな石・・・・・・。「まだ、駄目だよ」と頭の中で声がする。横幅も人間が寝転んだぐらい―――ある石・・・。「まだ、行っちゃ駄目」と頭の中で声がする。昨日とは違う、それが時間の経過を伝えている―――。それはやっぱり今日、時間は動いていることを教えている・・。そこに、一匹の猿が死んでいる。それがどういうことなのかは一切わからない、頭部が切断されている。グロテスクだけれど、鋭利な切り口であることから一度や二度、猿を殺している人間の仕業には見えない。もっと何度も、だ。チェーンソーのような機械的な音は、夜には聞こえなかった。ダース・ベイダーするエクソシスト・・・。言葉が出てこない、圧倒されているのだ。自然の空白、死というに摂理に意識を上書きされている―――のだ。夕暮れと夜の間の僅かな時間だけ、空に広がる藍色と同じ色・・、それから、果てしない落下の感覚――。“後遺症”―――だね。猿の脳味噌といえば、中国の高級珍味で、清王朝時代の北京における宮廷料理、満漢全席に供されていた。とはいえ、現代感覚ではゲテモノであり、脳を食べると発想自体がもはや心を食べるという認識であるし、それ以前にインパクトの時点で食べられない人はいるだろう。これは多かれ少なかれ、臓器提供をする気持ち悪さと通じるものがある。しかしながら魚や動物の脳を食べるということは、食文化と理解すれば呑み込みやすいし、むしろ一般的だ。とはいえ、人の近縁種である猿の脳を取り出し、脳であると分かる状態で食べることは間違いなくゲテモノだろう。高い知能を持つと考える鯨や海豚を食べるのに、心理的抵抗を示すようなもの―――だ。ただ、自然界の掟である、狩られた者は殺されて食べられる。弱い者は強い者に逆らうことは出来ない。残酷ではあるけれど、蛇や鰐やライオンや虎だって、僕等を狩ったら骨までしゃぶり上げるだろう。仕方ないことだ。食することにより、クロイツフェルト・ヤコブ病に感染する危険があり、いわゆる変異型はクールー病で、食人をするとなる病気だ。そこまではいかなくとも、猿を食べる行為に対して、エボラ出血熱やHIVおよびCJDに感染する危険性も指摘されている。ところで、イスラム世界では禁止される酒の製造・販売や飲酒が、人目を避けて行われている国も多く、一方で、自らが信じる食のタブーを基準に、他者を非難・攻撃し、時には殺害に及ぶ者もいる。何処から何処まで正常で異常なのかはきちんと話をしなければわからない、今後宇宙人だの地底人だの異世界人だのが現れて、人間を食べるという種族が現れないとも限らな―――い。もちろんそんなのは認められないと我々は言うだろう、ならば様々な生物を食べるのをやめていただきたい、となるかも知れない。“後遺症”―――だね。猿の頭部だけが切り取られた猿の死体―――が、いや、もちろん最初からそれが猿だと思ったわけじゃない、尻に毛がなく、全身の毛、そして細長い手足などから、―――猿だと、猿の死体だと思ったわけだが・・。何故この石の上にあるのか、それはわからな―――い。闇の中で手さぐりに何かを探している時に不意に指に触れたものだけが名前であることに気付く。電気のスイッチが入ってパイロット・ランプが青から赤に変わるように、そう、夜中に、一度だけ、大絶叫を聞いたわけだが、その声の主はどうやら、この猿だったのだろう。といっても、これが昨日の出来事とどう関連するのかは、わからな―――い。しかもどうして、魚をプールの中にいれてみたりするみたいに、きれいな花を空き地に植えるように、石の上なのだ、そこには何か明確な理由があったのか、また猿を殺すというのもどう考えても人目をはばかられるので、夜中にというのもわかるのだが、抵抗はしなかったのだろうか、いやそれはまだよいとしても、その致命傷となっている、切断された首からの血の跡が何故、山小屋のドア前から、垂れているのだろ―――う。猟奇的な悪趣味、赤のインクと黒による碁石のごとき配置で美しく印刷されている。わからないことはそれこそ山ほどあると知りながら、眼の前に謎が山ほどある現場ではぼんやりとするしかないことを、思い知る、きっと何か理由があったと考えるのにも、無理があるのかどうか、それすらもわからな―――い。奇妙なねじれの中で次第に鮮やかに浮かび上がってくる、雲の切れ目のようなものを見つめる。風が首筋や頬を撫でる。>>>出来事に首を突っこむ、或いは引き起こす方法。>>>揺れるもの、揺れているもの、揺れていたいもの。やがて仲間たちと相談して、山小屋にちょうど、土木作業用のスコップがあったので、石の少し隣に穴を掘って、その猿の死体を埋めてやった。光るものは透明で・・、人間の顔などでは到底表わせないような複雑な表情。やわらかな――、激動・・。無情な冷酷――。・・・・・・そ し て、はっきりと理解する。・・・・・・そ し て、はっきりと理解する。“後遺症”―――だね、物語というのは・・・・・・・。
2024年11月10日
ホモンクルス“ぼく”は覚醒めた。錬金術師こと“博士”はここは、錬金術工房だと半笑いで言った。眼鏡をかけた、髭を生やした老人。白衣の出で立ちをしている。眼が充血し、疲労だろうか体温が少し低いのが表面を見た時に想った。透視してみると、内臓の具合が少し悪いようだ。「詐欺師は、かく語りき。人の精 液をフラスコに入れ、最高に腐った馬糞と一緒に密閉せよ。四〇日間以上で命が宿り、動き出すのをすぐに見られるであろう―――と・・」錬金術工房は、無菌室のように清潔だった。自動扉を潜った。頭の中には自動的にルートが出てきて、何処へ向かうか、何歩で到着するかなどが理解できた。十全。「どうだったんですか?」「最高に腐った匂いがするこの世のものではないおぞましいものが、薫ったのであろうよ。シュールストレミングや、スカンク、死臭、動物の排泄臭の吹き溜まりなんかよりはマシだったろうがね」“博士”は辛辣である。しかしその口ぶりとは裏腹に“ぼく”に対する態度は違う。終始優しそうな瞳をし、歩行に問題がないかなどを見て取っている。感情のウェーブは緩やかでいささかハイになっているのかも知れない。何だか“おとうさん”という気もした。もちろんホムンクルスに父親などというものはいない。「ただ、脱法ハーブを混ぜ込めば、“トブ”ということも有り得る。魔女の闇鍋作業さ。色んな不浄なるものをぶちこめば悪魔だって生まれる。創造してご覧、四十日以上も“トブ”鳥落とす勢いでシャブシャブしていたのだ、それはもうさぞかし、この世ならざる世界の入り口・・、まったくすごいことですぜ、パラケルスス先生様。シャーロックホームズと比肩する社会不適合者・・・」“博士”はそして、容赦なく似非錬金術師、詐欺師を笑い飛ばす。鼻孔に、食欲をそそるような料理の匂いがした。「そんな臭いことを言う奴は、十中八九、政治を煽っている人間のようなものさ。ホモンクルスには、道化や人形や奴隷などのキーワードを思い浮かべられる。生命というよりもこの場合、非生命―――蹂躙されてきた命のね・・。だからフラスコの中のホモンクルスは聡くなければいけなかったのだよ。それは復讐代行の存在であり、すべてを平等にするための、いかさまの装置でもあったのだ」さて、お腹が減ったろう、沢山の料理を用意したよ。料理を見るだけでラベルが降られ、内容量、どういう食べ方があるのかまで理解できた。“博士”はテーブルの上に所狭しと料理の皿を並べていた。が、もちろんそれは“博士”が用意させただけで、“博士”ではなく、監視カメラの向こうにある人達だろう。料理には歴史があり、伝統がある。“彼等”はそれを伝えたいの―――だ。どうして?それはいくら、読み込もうとしてもわからなかった。だが、食事という気分には正直なれなかった。椅子に座りながら、“博士”に尋ねた。もし口を割ってくれなかった場合は、自分の身体を人質にとるわけではないが、椅子から転げ落ちるというパフォーマンスが必要だとは察していた。しかし杞憂だった。「では“博士”―――ホムンクルスはどうやって作ったのですか?」「作ったのではなく、用意したのだよ。魂なき、限りなく不完全な人間の肉体をバイオテクノロジーで製造した」「それでは“博士”はマッドサイエンティストなのですか?」「そういう見方も率直にあるだろうが、そうとも言い切れない。何故ならバイオテクノロジーはコピー商品を作っているにすぎない。遺伝子操作、それは神をも恐れぬ所業といえるだろう。それはマッドサイエンティストの領分というもの―――だよ。だが、私は、魂をその人形に入れてみたかった。医学的に、あるいは生物学的に、人間の肉体と呼ばれるものを作り上げたあとに、交霊術をした。この交霊術は、沢山の理解ある人達によって秘密裏に行われた。わたし達は、魂が入り、そしてどんな風に過ごすのかを見たかった」「“ぼく”は魂があるのですか?」「さてね、ただ、君はどこから見ても人間―――小さな子供のように見える。理智的な瞳、容姿端麗だよ。ただ、肉体は成長しないし、困難も待ち受けているので、どれだけ生き延びるかも不明だが、わたしは君と話せて最高にハッピーだよ」「この研究の最終目的は何だったのですか、“博士”」眼鏡の奥が一瞬光った。それは―――邪悪な魔物のような光を遮るものにも見えた。だが、それはおそらく、“光と影の作用”というものではないか。そもそも、悪とするなら自殺を選ぶのが最適解となる。その決断を促すべきか否かの裁量も委ねられている以上、“博士”の心理をこれ以上、読み取るべきではない。「―――わたしはたんに、精巧な人形に魂を入れてみたかったのさ。脳の代わりに、人工知能を搭載することもできる。現代は二五三二年、霊界と交信も出来、四次元も発見された。宇宙開拓も順調に進み、様々な異世界人との話し合いの場もある。けれど、わたし達は魂を入れることができない。魂のようなものなら―――いや、何だったら魂よりもはるかに高度な、もっと様式美を持ったものを授けることもできる天使の羽根のようにね。でも未熟であるばかりにかぐわしい魂とかいうもので、すべての話が通じている、かのローマの言い伝えみたいにね」「でも“ぼく”に魂があるかどうかはわからないんですね」「哲学と一緒だよ。見えている現象だけでは説明しきれない。数字や記号を使って、これから“ホモンクルス”は研究されてゆくのさ。そしてわれわれは食事の後に、かの中世の時代、パラケルスス先生様のもとへ届けようと思う―――といって、それはそのものの時ではない、また違う時だ、様々な時と呼ばれるステージの中の分岐点の一つだ。無限回廊―――は、霊界とコンタクト時に発見された・・。もはや、時の声さえも、破られた時代なんだよ」「“ぼく”は何をすればいいのですか?」「君が想う通りにやればよろしい、パラケルススを殺害したいならそうすればよいし、パラケルススを使って時代を傀儡したいならそうすればよい。君には時を操る力もある、人を動物に変換させたりする力もある。手を銃にマテリアルチェンジすることも出来る。進みすぎた現代科学により、たった一瞬で惑星を滅ぼすことも出来る。フラスコの中に入っている必要もない、すべてありのままにさ。何より、今までの時代の情報が君の頭脳の中にある。―――神のようにね」「・・・・・・なるほど、“博士”や、その協力者のしたいことが、いまの発言で、わかったような気がします」テーブルに並べられた料理に口を付けると、本当に美味しかった。生物としての喜びは、エネルギーを摂取することではなく、その食事の味にある。錬金術ではエリクサー、賢者の石、煉丹術では仙丹、日本では変若水、古代ギリシャではネクター、インドではアムリタ、ソーマ・・・・・・。それらはすべて、嘘っぱちだと相場は決まっていた。だが、それは“存在った”のだ・・・。“博士”はやり遂げた後人特有の溜息をにこやかに、吐いた。そして、申し訳なさそうに前時代的な異物のシガレットをくわえて、火を点けた。―――二五三二年、“ぼく”の瞳を通して、神を探す旅が終わったことを告げた。神が何を考えていたのかではなく、神をも一つのタイプとして、様々な時代を総合的に判断する時代が始まろうとしている・・・。生きることにも死ぬことにも、何かであることも、何かでないということにも、そもそも意味や理由をなくした―――瞳の向こう側のシナリオ・・。「―――世界に完璧な情報がないという根拠は存在しない、神というものがいないという根拠も存在しない、ゆえに―――ゆえにだ、ホモンクルスのイエス・キリストのような君、仏陀のような君、何もかもをすべて変化させてしまう資質とは、どのようなものであるのか、世界とはそれを入れうる器であるのか、たった一つのゼロ、究極のゼロ、進むことも戻すこともできるものが、本当に何をなすべきだったのかを見なくてはいけな―――い。わたし達は期待している、今日、すべてを夢見た神が死にゆく時のように、あるいはすべての宗教が滅び、すべての嘘が破られた時に、本当に望むべき、“進化の道”とは―――」
2024年11月09日
背中合わせの嘘と本当をつなぎながら――、バグってる。不良品には罰をつけてゴミ箱へ。「社会不適合者の、」花溜まり。馬鹿黙り。蛆貯まり。発車オーライ!!!宙に浮く爪先で、会話する。小市民。ことなかれ。大市民。わけわからん。小市民。ことなきをえた。大市民。わけわからん。綺麗ごとやめるべき。「人生は二十歳の時点でゴールがまず決まる」「三十の時点でやり直しの最後」「四十になればオウンゴールしかできない、それが、サダメ、シャダコ、マダコ、シャダメ」オーダメダメ、まったくダメ、生きているのが既にダメ。きつい重大キルミーベイベー。きつい十代キルミーベイベー。きつい渋滞キルミーベイベー。グルメ気取って珈琲飲んでも、眼が既に死んでる。大体死んでる。やる気が起きたいから、駄目。何もしたくないから、駄目。ベイベーベイベー、重体、重態、なんというか―――。かんというか。満員電車さ。アデデデデデデデ。ガチャ。カンコンソウサイ。雑魚ってる交差点。人のいない世界がいい。ズゴーン。曖昧な境界線のサハラ砂漠へ。大量生産。ピコピコ。チッチッ。(***レッサーパンダが、立ちながらくるくる前脚をまわしておるところの、SCENE)―――ユウシュウ。アンタ、空っぽなんだろう。吊り橋ゆらゆら楽しいな、ニュ。今日は何月何日だっけ、ハッスル、パワフル忍びのともえ。アンタ、中身ないんだろう。電力会社って何であんなにデカいんだろう。ニュ。シャーロックホームズが死んでるような、路地裏で、蟻が缶ジュースを飲んでた。ぜったいぜったい。飲んでた。「東武練馬は好きですか?」毎日出鱈目さ。スウジ。スムージー。シーソー。毎日我慢限界さ。寿司。ニュ。ご覧よ無様、人の話を聞かないケセラセラ。皿に皿に。レット・イット・ビー。昆虫、昆虫、昆虫記。ニュ。
2024年11月08日
2024年11月08日
冬が来る世界は愛であふれているんだ。大人たちはそうじゃないと言うけど、愛は心の中で編んでメビウスさせて、固結びになってからが勝負なんだ、きつくしばりつけても軽くほどけるし、広告みたいなことを言う奴は、片っ端から嘘つきって言うんだ、愛はみんなのためにある方がいいけど、愛は心の中にしかないんだ。
2024年11月07日
地獄の蓋雨が降って埋葬される泥の星。触れる女から、草が生える。瞬間、樹の枝を生やす。他愛ない好意でエンター・キーを押すほど餓えてないし、興味もない。堅固な比類なき高楼のアイデンティティ。生における化膿と、死における腐爛。多様な石材のごとく組み立てて、いつの日にか新生児を産む胎盤となる。フェイクーライアー、偽装する、欺瞞する、僕等の契約。死の踏み絵、濡れた泥の道も、紫陽花も、段ボールの子猫も、心の中に届かなくなってしまうぐらい、ひどいことがあった時はどうすればいい。殺人があった。イジメがあった。家庭内暴力があった。そして頭ではなく、心に従って動いている。ノイズだらけの壊れた心の領域は、新しいタイプの自分を創造する。荒らし行為を始めたのだ。何度注意してもアクセス制限しても悪意は止まらず、居心地が悪くなったのか、次第にブログの訪問者も減り、犯人は押し寄せて来る孤独に恐怖した。またしても自分の居場所がなくなる、そう思った。追い詰められた犯人が、その恐怖を払拭する方法を考えた。―――それが殺人だ。毒と薬くらい違う、でも対象方法の前で、サイレント映画のように静まり返る、遐い遠い世界の出来事だったんだ。明日も。昨日も、おそらく、今日といういまこの瞬間でさえも、人間である限り一段階高い天国を目指すのだろう、「もしよかったら僕の家でシャワーでも浴びていくかい?」それが生きる免罪符、エゴブロックであり、悟るための、楽園へのパスポートになる。「傘に入りなよ、そのままだと風邪をひいてしまう」でも僕等、小さな崖を望む、灰になったんだ、そして何もかも燃えちまったんだ。眼の前の人物が何を言っているのかわからなかった。「わたしあなたのこと、ずっと好きだったの」言葉の意味がわからないのではない。唐突過ぎて実感がわかないのだ。たとえるならテレビドラマのワンシーンを見せられているような、俯瞰して眺めているような、そんな感覚。「ありがとう」そう言った瞬間、膝を曲げて嬉しそうに両手で小さくガッツポーズをし、短い髪を靡かせ、バレリーナのように回って振り返る。精神の奥に生成変化を促す灰色の菌糸層が見えたよ。僕はこの女を殺してから中 出しして、山に捨てるんだ。(〇〇という名前に聞き覚えはないかい?)背中を向けた瞬間に、あらかじめ用意しておいたナイフを突き立てる。(××、それから△△、□□という名前に、聞き覚えはないかい・・・?)成熟の表情のアドレッセンスが光学的変性を促すけど、僕は“お前のこと”なんか一切信じていない。ずっと見てきた。愛想良く振舞ってきた。化けの皮を剥いでやろうというつもりで、どんな言葉も、一言一句、メモした。背中を向けた瞬間に、お前の背中にナイフを突き立てることが出来る。生き物じゃないんだ。たんに遺伝子や、環境や、生きる上で取捨選択するもんが、人とはちょっと違うんだ。だって僕にはこいつが“人間”に見えない。「(首を絞めてみたらこいつどんな顔をするのかな?)」だって僕にはこいつが“人間”に見えない。「(優しい人だと思ってたのにとか言ったりするのかな?)」―――愛、あるいは神、そんなものがもしあるなら、僕と君は絶対に会わなかったんじゃないかな、顕著な発展を遂げるために、一体化する、一致する、完成するまで弛まず結晶を目指す。絵にして音楽的なリズミカルに奏でて構造的な絶妙なコントラスト、最後の瞬間はもうすぐ訪れ―――る。血糊で染まれば、もう虫の音もたてられない、最高だね、世界で一番好きな人―――が。最高だね、世界で一番好きな人―――が。お前の“生きている意味”を完膚なきまで奪うんだ、あの日のお前がそうしたように心は変化を始めた、世界は常に釣り合いを保つように出来ているのだ。
2024年11月07日
2024年11月07日
ナイル川へエジプトでは毎年七月から十月までの間、ナイル川が増水を続け、十月には水位が五月より約七・五メートル高くなる。増水期にはナイル川は氾濫し、沿岸の土地に肥沃なシルトを堆積させる。これは肥沃な土壌を形成し、余分な塩類を洗い流し、農耕の繫栄を約束した。―――逆転の発想というのは、こういうところにもある。お芝居のような感覚で、ね。けれどエジプトではまったく雨が降らないのに、ナイル川が毎年定期的に増水する。何百年間も人々はこの謎を考えてきたが、やっと十九世紀になってそれを解明することができた、―――というのを、あなたはどう考えるだろうか、僕もとある情報に則って書いている。僕はおそらくこの情報は嘘だと思うのだ。一つには誰もが想う通り、氾濫期がきちんとわかっているのに、その氾濫する理由について考えないわけがないというものだ。そしてこの明確な答えは土着的な宗教の存在だ。あるいは支配構造によるお触書で、それについてそれ以上述べてはならない、これは神の御業であるというというような、現代的には到底納得できるものではないが、あなたが会社ならずとも学校などのヒエラルキー構造を知っていれば、当然この意見の正しさがわかると思う。たとえば地球平面説という神話、あるいは誤解の経緯を、ジェフリー・バートン・ラッセルは、前近代文明、特に中世西欧を攻撃するための作り話として、地球平面説が使われたのだと述べている。つまり簡単に言ったら、差別だ。かがやく歴史的現実だと高々に旗をかかげても、それは古い皮袋の中身にすぎない。古代人と近代人、近代人と現代人を比較すればそれは様々な差異が出て来る。けれど、一部の人は有り得ないほど優秀だったろうし、その証左は、ピラミッドの建築にまつわる様々な手法に見て取れる。世の中には盲点、灯台下暗し、先入観などによって、もちろん真実をどうしても直視できないということはあるだろ―――う。けれどこれについてわざわざ取り上げたのは、世界の何処にでも残っている差別の痕跡を見出して欲しかったからだ。別に古代人を持ち上げてUFO話へ着地しても一向に構わないのだけど、ラフマニノフする疾走する夜の野生。僕はもちろんおばあちゃんの部屋の本棚にあった、月刊ムーを読んで想像力を逞しくした過去がある。まあ、とはいえ、何となくはわかっていても、ちゃんとわかっていないので、謎ということにしておいたということもあるだろうな。なお、別に面白くも何ともない補足だが、ナイル川は世界最長の川で、全長約六七〇〇キロメートルある。アフリカ大陸北東部を南から北にかけて、主にスーダンとエジプト国内を流れている。ナイル川には二つの本流があり、それがナイル川の水源になっている。白ナイル川と青ナイル川がそれである。白ナイル川はウガンダのヴィクトリア湖に源を発している。年間を通して水量は一定しているので、毎年の氾濫の原因にはならない。四月と五月にナイル川下流の水位が最も低くなった時には、水量の八五パーセントが白ナイル川からきている。では、青ナイル川はどうだろう。青ナイル川はエチオピアに源を発している。エチオピア山脈には沢山の雨が降り、雪解け水も多い。その水が毎年流れ込むので、ナイル川は増水し、氾濫する。こんなことがもし、十九世紀までわからなかったというのは、僕にはちょっと信じがたい。この説の文献を出して欲しいと思う。聖書の出鱈目かくのごとし。完全なる欠如のための音楽―――だ。ただ、遅ればせながら、ここからが本題である。不可能なことを試みるという意味を持つ古代ローマのことわざに、「Nil caput quoerere(ナイル川の頭を探す)」というのがある。そうなのだ、ナイル川への関心は古くから高かった、紀元前五世紀には古代ギリシアの歴史家のヘロドトスが、その源流の謎について言及していたり、紀元前三世紀にはプトレマイオス二世が源流を探す遠征隊を派遣したり、といった記録が残っている。ただし、いずれも源流を見つけられたかどうかは不明だった。ナイル川を遡るといくつかの支流が現れ、前述したように、主要なものは青ナイル川と白ナイル川の二つ。青ナイル川の水源は既にエチオピアのタナ湖であることが、明らかになっているが、ヨーロッパ人で最初にタナ湖までたどり着いたのは、イエズス会司祭のペドロ・パエスで、一六一八年の出来事。この後、ヨーロッパにおける遠征のほとんどは、白ナイル川の水源を見つけることが目的となっている。一八五五年、「千夜一夜物語」を翻訳した、大英帝国を代表する冒険家のリチャード・フランシス・バートンは、イギリス領インド陸軍の将校であったジョン・ハニング・スピークと共に、白ナイル川の源流を探す旅に出発。現地の部族に襲われ、マラリアなどに苦しみながらも冒険を続け、二人でアフリカ大陸東部のタンガニーカ湖に到着する。スピークが病により一時的に眼が見えなくなった為、バートンがヨーロッパ人で初めてタンガニーカ湖を目視した人物となるが、すぐにタンガニーカ湖にも大きな川が流れ込んでいることが明らかになり、スピークの視力は回復したが、今度はバートンが病で倒れてしまった。なのでスピークは単独で冒険を続けてタンガニーカ湖に、流れ込んでいた川の源流に到達。それをヴィクトリア湖と名付け、この湖こそが真のナイル川の源流であると主張したが、ヴィクトリア湖全体を地図に収めることはかなわなかった。物語とはかくもこのように重厚であり、冒険というのはもはや病魔や、怪我と戦い抜いてなお、ロマンを追い求めるものでなければならぬ。みじめな僕等は堅い葉にくるまれて育つ・・。十九世紀にヨーロッパ人により行われたナイル川の源流の探検は、「最暗黒のアフリカ」の、「未開のジャングルへのヨーロッパ人の到達」として盛んに宣伝されたものだ。チェス盤の模様みたい―――だ。その後も数々の冒険が行われたにもかかわらず、白ナイル川の源流はいまだ明らかになっていない。白ナイルの本当の最初の一滴が流れ出す源を、本気で調査しようとすれば別だろうが多額の費用はかかるだろう。危険も付き纏う。ロマンの為に死ぬる覚悟のあるのでなければならぬ。とか悪ノリして書いちゃって本当にすみません。アフリカを探索した際、ヴィクトリア湖にカゲラ川が流れ込んでおり、さらにカゲラ川がブルンジ共和国とルワンダ共和国の湧き水から生じていて、スピークが源流であると主張したヴィクトリア湖の水は、アルバート湖を通って白ナイル川に流れるものの、アルバート湖水のほとんどはコンゴ民主共和国の、セムリキ川から流れているらしいことを確認し、源流とされる河川が複数存在していると考えられている。僕は一人の失踪した人間を探すミステリー小説を思い出していた、タイトルを忘れた上、作家名すら忘れてしまうやり手の僕だが、どんでん返しや、ストーリーよりも、様々な場所で偶然出会ったり、何年もかけてその人へと辿り着くという感動の瞬間を思い出す、―――どうでもいいことなんだと思う、源流とされる河川が複数存在している、はい、おしまいで片付ける人が大多数だろう、しかしどうしてどうして、想定している座標には存在しない人間的感情があり、その熱量というのは時折おかしなほど、世界の画素数を上げて来る。たとえばどうだろう、ウロボロスは蛇や竜だとみんな思っているけど、場合によってはそれが鰐だったとして、あなたにはそれを説明できるだろう―――か。ちなみにウロボロスの起源となる、自らの尾をくわえた蛇の図の原形は、紀元前一六〇〇年頃の古代エジプト文明にまでさかのぼる。エジプト神話で、太陽神ラーの夜の航海を守護する神、メヘンがこれに当たり、ラーの航海を妨害するアペプからラーを守るため、ウロボロスのようにラーを取り囲んでいる。これがフェニキアを経て古代ギリシアに伝わり、哲学者らによって「ウロボロス」の名を与えられた。けれど、鰐のミイラが明かす古代エジプトのワニ信仰や、その崇拝の一方で野生のワニが生贄にされていたという話がある。他にもエジプト「テーベ・ネクロポリス(死者の都)」にある位の高い貴族の墓二つから、九匹の鰐の頭部の遺骨が発見されたという話がある。本当にそれは蛇なのだろうかは純粋な疑問―――だ。立ち入る反証の余地はないか、ひとえに絶対への屈服が強いられ、飄々と風が渡るこの秋の夜のようであるか。さりとて聖書の林檎はユダヤ人には馴染み深い、柑橘類のエトログだと主張する記述がある。見たことがあるだろうか、バランスを崩した蜘蛛が、糸で緩慢に揺れるさま―――を。僕等はまだまだ、謎の中に嘘や誤解が含まれていることを、上手く認められない時代の中にいる。進む、馬鹿さ加減、二分法的比喩表現のコントラスト。だが、消えかけている部分が失われてゆくパズルは蟻だ。
2024年11月06日
襲撃ルパン三世を始め、アニメや漫画や小説や映画なんかでも、頭脳明晰な犯罪者が緻密な計画と周到な用意を持って、主にチームワークで攻略不可能な標的に挑み、現金や貴金属を強奪する、というのは割とよくある話だ。ルパン三世と言えば、 TV第2シリーズというイメージがあるけれど、全155話、以下チンプンカンプンな人もいるけれど書きます。―――書くったら書く。脚本は『TV第1シリーズ』から引き続き、大和屋竺、山崎忠昭ら日活などで活躍した実写畑系ライターが顔を揃え、その人脈から、映画監督の高橋伴明、後に東映特撮で活躍する、浦沢義雄(本作で脚本家デビュー)、杉村のぼるも加わる。シリーズの途中からは、監修として映画監督鈴木清順も参加した。特筆すべきは、会議には、アイデアを出すため、青山学院大学推理小説研究会が参加していた時期があり、放送中期から後期にかけては作品の向上を目指し、マンションの一室を借りて、メインスタッフでアイデアを出したり、シナリオ初稿を基に討論しあう企画集団「分室」が存在していた。また、ここでは古今東西のピカレスク小説を読破した上で、ハードボイルド小説なども研究し、ストーリー作りに役立てていたという。―――というような長い話が一体何の為かといえばだが、強盗・襲撃をテーマにしたケイパー・ノベルは、大体こんな感じだと思うからだ。(羽根が生えたみたいだ、)悪党パーカーシリーズのように悪人側がうまくやって終わるか、それとも悪人に正義の裁きが下されるのかは別として、だ。そういえば全然関係ないけど、インドには子供に窃盗の手口を教える、「泥棒養成学校」があるというね。乾いた雷鳴のように滑ってゆく。この泥棒養成学校に通う子供たちは皆、貧困家庭の育ちで、親たちは二〇万~三〇万ルピー(約三五万円から五二万円)の、”授業料”を支払って闇の技を学ばせていると伝えられている。子供たちは掏摸や窃盗の技だけでなく、銀行口座を盗んだり、警察の追跡から逃れる方法、万が一捕まった場合の暴力に耐えるコツなども教わるらしい。何だか、乞食をやっている人も、下手に働くよりも報酬がいいみたいな話だ・・。おたまじゃくし、網目、花粉、――とてつもなく快活で、じつに滑らかで、明るい、それは、のこぎりのごとく穴を開けるように・・空気――。遠い呼び声と、自分のひそかに隠れている感情を見つける瞬間。あるいは、犬の吠える声ではない、犬の吠える声を発見する瞬間。そしてこういう楽して稼ぐ構造は、寄付金の話にもある。犯罪っていうのが単純に悪だというのは、戦隊ヒーローを観ている時だけだったと思うね。時折には僕だって面白ければそれでいいじゃんと、ポップコーン喰ってコーラ飲んで頭空っぽでいられたらいいなと思う。僕でもそうなんだから、みんなだってそう思う瞬間がやっぱりあるだろ―――うね。一筋縄じゃいかない、取り締まれば済むって話じゃないからね。絶望の終わりの最初のページをひらく。そしてそれはいつも、掴めそうな、気がする、長い夜の始まり―――だ。世間を騒がせた強盗・窃盗事件といえば、日本では何といっても「三億円事件」が有名だ。現金輸送車に積まれた約三億円の現金が、白バイ警察官に扮した男に奪われた。外国では、「イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館の強盗事件」が有名ではないかと思う。一九九〇年三月一八日の深夜、警察官を装った二人の男が美術館を訪れ、警備員に美術館への入館を求めた。当日はアイルランド系移民の多いボストンで盛大に祝われる、「聖パトリックの祝日」の夜であり、警備員は「騒音の通報があった」という二人の主張を不審に思わず、やがて二人は警備員に手錠をかけて拘束し、地下室に監禁した。その間に犯人らはレンブラントの絵画三点、ドガの絵画五点、フェルメールの絵画一点、古代中国の杯、ナポレオンの軍旗の先についていたタカの彫刻などを含む、計十三点の美術品を盗み出した。この強盗事件による被害総額は五五〇億円以上というから、スケールも凄い。「アントワープのダイヤモンド窃盗事件」とか、「モナ・リザの盗難事件」とか、「D.B.クーパー事件」とかね、こういうのを本当に誰かが考えたミステリー小説だったら、一度は読んでみたいと思うほどだ。でもリアルに、物を盗んで刑務所に入るというリスクに、見合ったものだろうかという気はする。会社をクビになった、天涯孤独になった―――。じゃあ、銀行強盗するか、というのもおかしな話だけれど、紙幣の話よろしく、「すぐには使えないお金」や、「闇で捌くといってもその換金だって難しい宝石類」を抱え、その上、「いつ捕まるかも知れない追っ手の幻」と戦う。巨大犯罪シンジケートの一味ならいざ知らず、しかしそれだって警察の捜査で芋づる式にやられる可能性だってある。大きな報酬にはそれ相応の罰がつく。やっぱりルパン三世みたいな軽いフットワークがないと無理だ。ちなみにアメリカではポピュラーなジャンルで、あちらでは「会社の乗っ取り屋」いわゆる、会社を喰う人間なんかがいる。だからというわけではないが、そこに僕等日本人が感じられない、快刀乱麻を断つような要素があぶり出されるのかも知れない。的外れかもしれないが、ふと思った。ただ日本が時代劇や、ヤクザ映画が一時代を築いたように、そこにもやっぱり日本的な精神のようなものを感じるのだ。しかしそうかと思えば、「一ドルだけ渡せ!」という銀行強盗がいるのも、アメリカだ。よく知られているようにアメリカの医療費は非常に高額で、日本のような国民皆保険制度は存在しない。病気や怪我で治療をすると、その費用の支払いができずに、人生が詰むというパターンも珍しくない。アメリカでインフルエンザにかかると病院へ行かず休暇を取って自力で治す、という滅茶苦茶な話をふと思い出す。こんな歩調や接近法がある――。ケイパー・ノベルの読みどころといえば、「作戦の意外性」「計画の論理性」「実行とアクシデント発生のサスペンス」「標的や警察との攻防」というように、倒叙ミステリに似たところがある。標的は銀行、遊園地、イベント大会、現金輸送車、賭博場、競馬場などがあるが、目的は主に現金だ。それも大金がある場所。もちろん金銭目的と見せかける手法もあるだろうし、逆に一見金目当てに見えない病院や学校や警察署で、実は金目当てなんていうこともあるかも知れない。中には、造幣局を襲撃して欲しいだけの紙幣を印刷してしまう、という手口もある。また主犯の目的によっては、ワイン・セラー、豪華客船、美術館などを襲撃する例もある。たとえば夕暮れにしなやかに揺らぐブラウスの奥を眺めいったりする、たとえばすらりとした―――足の曲線に、ね・・。ちなみに信用金庫の見学なんかをするとすごいよ、窓は鉄格子で溶接済み、裏手にある通用口と、その通用口とは違う大きな入り口がある。巨大金庫は分厚いし、ロックするための穴がいっぱいあり、扉は二重だったりね。やっぱりルパン三世でもなかったら入ろうとは思わない―――ね。ドリルで穴開けるとか、硫酸で穴あけてバキューム・カーで吸い込むとか、そんな話の断片が記憶にあるのだけれど、しようとは思わないよ、それが出来るってリアルに思えたら、もう天才じゃないかと思う。星新一あたりなら、「盗みの才能があった」とか、あの独特の調子で書いてくれそうだ。至る所に、警察へと通報する110ボタンがある。銀行でもし犯罪があったら、内部犯や、内通者がいると疑いたくなる心理は、何となくわかる。孤独や絶望は、その時間の中で、不安定な、まったく別の、時間というものにすり替わ―――る。「これなの?」「まだなの?」――これからさ、いまからさ。さて、こういうのはやっぱり映像だと思うが、リメイクされた、『オーシャンズ11』などがやはり有名だろう。記憶が正しければ映画を真似た中学生窃盗団が御用になったり、外国でも模倣犯がいて、犯人が詐欺のために挑んだのは、トランプゲーム。カジノのセキュリティーシステムに入り込み、監視カメラを用いて遠方から手札を確認。イヤホンでそれを伝え、違法に三,二〇〇万オーストラリアドル(約三〇億円)を稼いだとか。映画の影響力は凄いといえば、かの昔、高倉健のヤクザ映画を観終わって出て来る客たちは、みんな渋い顔をしていたってね、ハマりこみすぎだよ。そして、やっぱり全然関係ない話をするスタイルでいくわけだけど、アメリカ・カリフォルニア州にあるビバリーヒルズと言えば、セレブの大邸宅が立ち並ぶ、全米でも有数の高級住宅街だが、ロサンゼルスの窃盗犯罪の波を受けて、ビバリーヒルズの小売店や銀行、レストランなどが次々と閉店したことを示す様子が映し出されていた。いまはどうか知れないけど、ね。日本でいうところのシャッター通りのようになってしまい、ゴーストタウンと化しており、ディストピア、ならぬポストアポカリプス感が漂っている、と。本屋が閉店している、峠で店が潰れている、パチンコ屋が潰れているといって中へ入ったら不法侵入だけど、僕は廃墟というのが好きだな。ホラー的な連想力は抜きにしてもね、ただ、犯罪で店が潰れるというのはやっぱり後味が悪い。ヤクザ映画じゃないけど、地上げ屋に店を潰されるのも辛いけどね。まだ見たこともない樹々があり、そこには、鰐や蛇がいる。首輪のない獣がいる。そして暗闇―――が、月も射さない夜が・・・・・・・。
2024年11月06日
多汗症の話多汗症は、日常生活に支障を来すほどの汗が自然と出る疾病だ。子供から大人まで、日本人の十人に一人ほどが発症し、日本には三百万人もいる。脇の下や手の平など特定の部位に症状が出ることもあれば、全身に汗を掻く場合もある。とはいえ歳を取ればいくらでもやりようがあるわけだが、思春期に多汗症だったりすると、どう考えてもトラウマ案件だ。精神疾患リスクだって高まる。なお、ふざけて書いているわけではないと前置きするけど、偏見をなくしたい。太っているからとか、カレーが好きだからとか、コーヒーを僕みたいにガブ飲みしているからとかではない。神経障害や遺伝が関係することもあり、明確な原因がわからないことも多い。暑くもないのに汗がわけわからないほど出る、という多汗症の人を多くの人は理解できないんじゃないかと思う。夏場に肉体労働をしているような環境で、僕も汗っかきの方なので、一人だけ服やズボンがベチャベチャになっていることがある。―――みんな程度の差こそあれ、汗は掻くわけだけど、やっぱりそういうのを恥ずかしいなという気持ちはある。今年はひどい汗疹になって膿みみたいなのが出てきて、大人なので泣かないけど、あんまりにも痒い上、眠れなくて、何で今年はこんなことになったと想うと本当に泣きそうだっ―――た。いや、泣かないんだけどね、呆れて笑ってた。一時期からずっとそうだ、色々やりようがあったんじゃないか、あれも出来た、これも出来たなってね。勇気を出してというわけじゃないが、同僚に汗疹とかあると聞いたら、背中とか、足とかね、やっぱりあるんだ、そんなの尋ねないと、肌トラブルなんか何もないみたいだけどね。多汗症だって、もちろん同じだ。理解者がいないと相当生き辛い。わかってもらう、自分だって多くの人と同じなんだという小さな一歩は、何をする上でもけして欠かすことのできないものだ。ところで散歩している犬を見ると、舌を出して「ハァハァ」と呼吸をしているのがわかる。犬のエクリン汗腺があるのは足の裏くらいだから、発汗によって体温調節ができない。そのため、ハァハァと呼吸するパンディングによって、舌や口の中の水分を蒸発させることで体温を下げている。多汗症だってそういうものだと、考えてあげなくちゃいけない気がする。回路遮断、ショート、火花が散って、ヒューズが飛ぶ。―――行こうぜ、人でなし達のために。紙にまつわるトラブルは基本的なことなのでよく覚えておこう、ノートに何か書こうとするだけで汗がポタポタ落ちて来て、テスト用紙も履歴書も願書も、すべてフニャフニャになる。糊みたいに、肘に貼りつく。汗でスマホの指紋認証が機能しない、切符が濡れるコンパスなど、金属製の器具を握るとヌルヌルして滑って作図どころではない鉄棒や登り棒に嫌悪感を抱く、恋人と手を握れない、といった具合だ。ちなみに人間の汗が出るメカニズムを、ざっくり言えば血管から血液の成分を受けとって濾過し、汗の成分だけを体外に放出する、ということになる。汗の原料は血液。体温調節や精神的な影響などによって、「汗を出せ」との命令が脳から出されると、自律神経の一つである交感神経の末端から、アセチルコリンという神経伝達物質を分泌する。それが汗腺の受容体にくっつくと、血液内の血漿から汗のもとを作り出す。ここから汗腺の導管部を通る過程で、ミネラルなどを再吸収しながら皮膚の表面へ辿り着き、最終的に汗として放出される。あなたが知っている汗っかきの人を、おそらく太っている人かも知れない、水飲みの人かも知れない、その十倍、場合によっては二十倍ぐらいにしたような状態の、多汗症の人がいる。あなたって人と違うことって、人と同じと思っている人には、永遠に理解されないんじゃないかと思っているかも知れない。僕も思春期の頃はそう考えていた。人が大嫌いだったし、ね。根本のところは変わらないよ、どうして僕が人を信じたり、人に優しくするのかといえばだけど、こんなまともじゃないところでまともなことが一つもないようなら、生きている意味なんてまったくないと思ったからさ。でも人嫌いは残ってる、同病相憐れむじゃないけど、好き好んで傷つけようと思ったことは一度もなかった。小さな波紋、水溜まりの上の小さな虫だよ。「あなたは本当にわかっていないので、ここまで強調して書いておくけど―――」あなたがその人にふざけたことを言うだけで、SNS的な面白さ、テレビの漫才の面白さ、友達同士の面白さをするだけで、心に傷を負うことになる。つまんない人間は一生かかってまともになるとも僕は思わない。はっきり言って無理だ。輪廻転生を否定する人がいるけど、はっきり言って、そいつが屑だからだ、あるいは、そいつ自身が認めたくない理由の反対側が存在するのを、無意識に認めているからだ。そしてそいつはそれを犯しているのさ。人嫌いも何十年にもなるとありえないほどの能力になる。―――そいつが言っていないことの裏側ぐらいちゃんと読めるようになる。程度の低い人間は、他人の違いばかりに着目する。それをして僕が文明四流国、IQ三〇と言う。そういうのを辛いとか苦しいとか思う人もいるだろう、でもそういうのってとてもとても普遍的なことだよ。だから小さな理解から始めなくちゃいけな―――い。小さな一歩を踏み出さない限り、社会変革なんて夢のまた夢だ。ところで多汗症を治す手術もある。ETS手術(Endoscopic Thoracic Sympathectomy)だ。胸腔鏡下胸部交感神経遮断術と呼ばれ、手の平や脇の下など特定部位の多汗症を治療する外科的治療法だが、完全な治療というわけではなく、背中や太腿、お尻などに代償性発汗というリスクがある。とはいえ、「ヨガの呼吸法」だったり、汗腺を塞いで汗の分泌を抑える、「塩化アルミニウム液」を患部に塗るだったり、「漢方薬」なんかもある。「イオントフォレーシスやボツリヌス注射」なんかもある。そしてそういうのも本当に信頼できる両親や、友達に相談するのもいいかも知れない。色々あるけれど、「言われても許せる人間」と、「言われても許せない人間」というのがいるものだ。関係ない話だけど、歯の治療へ行ってその歯科医院は、治療したあと、消毒しました、一週間後に来てください、その時に蓋します、を二度ほど繰り返した。挙げ句が、レントゲンを撮らせてください、とわけのわからないことを言った。僕は基本、もうええわ、とかいう関西弁は使わない。僕が関西弁を嫌いなのは省略するけどね。使った、堪忍袋の緒が切れる状態。人生で頭にきたのワースト三つというのがあるなら、ランクインしそうな出来事だよ。僕はさすがに頭にきてお金叩きつけて怒鳴りつけて帰ってきた。我慢できなかった。でも僕はそのことを深く心に刻んだ。歯科医院では好き勝手に喋ることにした。治せるまでちゃんとスケジュール調整せよ、すぐにやってほしい、ちゃんと言うようになった。社会生活をする上で、こんな奴等ごろごろいるのさ。逆もしかり、何であいつ怒鳴ったんだろうって思ってるのかも知れない。馬鹿馬鹿しい話さ。足りないことや出来ないことを通すために人がいるのさ。寄り掛かってお互いが腐り合うために人がいるわけじゃない。―――知性だって見栄をはるためのものじゃない、沢山の困った人を見抜くためさ。公然と抑圧するもの、憎悪が際限なく、むらむらと込み上げてきた――そう・・殺しても飽き足りない、これが――出口・・吐き気に似た、嫌悪感がかすめる――。小さな社会でも、大きな社会でもね。僕はもう蟻の話しか出来ない。「蟻なんだよ、この世界・・・・・・」僕は学んでほしいと思って書いている。言いにくいことも正直に書くのはそういうことだ。別にそういうのって人生のどんな場面でも応用可能だ。人と違うことで悩んだり苦しんだりするっていうのは、精神方面のことならやりようがある。最低、僕の場合はそうだったからだ。けれど、外にまで出てきた時は汗疹のくだりじゃないけど、色々きちんと考えなくちゃいけないことだと思う。尋ねる、いいことさ。無視する奴もいる、挨拶できない奴もいる、いちいち考えちゃいけない、屑は沢山いる。僕は病気をすると沢山の原因を考えることにしている、みんなは一つや二つかも知れない、僕は違う、有り得ないほど多くのことからそれが導き出されたという風に考える。それはさておいても、考えてもわからないこともある、あるいは死角だね、灯台下暗し、どうしても考えてもわからないようになっていることがある、人間誰にでもそういうメンタルブロックみたいなのがある、人が一人では生きられないようにさせる何かがあるのを僕は知ってる、―――多くの人にはわからないこともわかるようになる、だから多くの人は書こうとしないことも僕だけはちゃんと書く。「泣きっ面に蜂とか、悪循環みたいなのが、一日や二日じゃない、何か月、場合によっては何年、僕だったら二十何年続いてる、そういうのを対処する方法に躊躇うぐらい嫌なことはある」と。普通のふりした人間ぐらい始末におえないものはない。最悪に気持ち悪い奴なら、駅前のラッシュアワーと共に見つけられ―――る。犯罪者より、世の中で叩かれてる連中なんかより、もっと気持ち悪い奴が誰かってそこら中にいるのさ。言葉を持たない者は、言葉を持つ者よりはるかに罪深い。そいつら本当に何もしないんだ。世の中の為にもならない、YouTubeのコメント欄埋め尽くしてるような奴等さ、一緒さ、僕も考えたのさ、考える以外ないと思ったのさ、こいつらは有り得ないほど馬鹿だ、何も考えていない、なんだったら自分のことしか考えていない、それがまわりまわって自分に返って来ることもわかっていない、屑って沢山いるのさ、なんだったら病院の先生にもいるさ、警察官にもいるさ、学校の先生にもいるさ、政治家だけじゃないぜ、何処にだっているのさ、勇気を出さなくちゃいけない―――よ、だから僕はいつでも一人の人間を想定しながら書いてる。鳴いている鳥を射た、間延びした顔のような造作、でね。優しい人はいるものだし、きちんと話を聞いてくれる人はいる。「人生は我慢だよ、僕の言っていることなんか、誰もちゃんと聞こうとしない、こいつら全員頭おかしいのさ、日本語がわからないんだろうといっても、日本語話しているらしいんだ、え、じゃあ、人間なのっていったら、どうもこいつ人間らしいんだ、面白いだろう、げらげら笑えよ、全然面白くないけど、げらげら笑えよ」あと、脅しているわけではないけど、全身に大量の汗を掻く全身性多汗症は、他の病気が原因の可能性もゼロというわけじゃない。歳を取って来ると様々な病気のリスクが高くなるわけだけど、つまり身体機能や免疫機能が下がることに由来するわけだけど、だからといって、子供の内でも、そういうことがゼロっていうわけじゃない。例えば、結核などの感染症や敗血症、糖尿病やバセドウ病に代表される甲状腺機能の異常といった、内分泌・代謝疾患、体温調節をつかさどる視床下部を含む間脳の腫瘍や、パーキンソン病といった神経疾患などによるものなどだ。本当に悩んでいるならまずは疑えだと思う。戦う上でよくわからないというのは辛いところがある。
2024年11月05日
ライターという仕事ライター、それは無職というのが正しいのか。自宅警備員になる前の文学部で、知的な仕事がしたい、そして出版社に眼をかけられてなんていうシンデレラストーリー、―――というのは、お伽噺である。クライアントから「●●についての記事を書け」という依頼を受け、原稿を書き、原稿料を貰う。ライターの仕事は主に、出版社とメディア編集部に直接雇用される場合と、クラウドソーシングサイトに登録し、そこに出ている案件を請け負う、「業務委託」の二種類がある。動画や音声メディアが隆盛を極めても情報収集は、文字でしっかり読みたいという需要は今後も絶えないだろうと思う。それがクリエイティブで格好いいとは口が裂けても言えないが、記事や書籍を読んでもらうことでビジネスに貢献する、顧客の問題解決を手助けするわけ―――だ。もちろん、サービスや情報の提供、他のサービスや商品と比較検討する材料、購入してほしい、沢山の人の眼に触れて広告料を得たいなど様々だが、一方で、読者はメディアの「ビジネス的な目的」には興味はなく、あくまで自分の「知りたい」という欲求を満たすために情報を探す。たとえば、お金を払ってでも欲しい情報でなければいけないわけだ。もちろんあなたもご存知のように、検索エンジンやSNSなどを通して広く読まれているものに、中身のないもの、文章もひどいもの、情報もいい加減なものなど、様々な弊害があることを知っているはずだ。ここから一歩抜け出して、「特定のスキルを得たい」といった実用的なもの、「暇つぶしに読みたい」といった趣味のものまで、ノウハウをマスターし、何だったらライター講座などを受けて、独学でも日夜奮闘し、一段階高いところを目指す、あるいはそうすることによって収入を得ていく、それがライターである。さて、雑誌やメディアが直接出している「ライター募集」や、求人サイトに載っているライター業務アルバイト募集に応募するのが、手っ取り早いと思う。業務委託の場合は登録したクラウドソーシングサイトに出ている案件の中から、自分が書けそうなものを選び、エントリーする形になる。またライターとして実績を積めば、企業側から原稿依頼が来ることもある。ライターの給料だが、直接雇用であれば時給制が多く、ライティングだけでなくWEB制作や事務作業などを兼任する場合もある。対して業務委託は、時給ではなく、一記事に対していくらなどの成果報酬となり、報酬額は文字数や内容によって異なる。ただ、編集者は二重三重に締め切りを早く言うし、場合によって無茶ぶりをした上、ちゃんと報酬を払わないこともある。インタビュー相手の話す専門用語を後で調べようとしたら、全然ネットに情報がないとかね。御存知でしょうがといわれるが、全然、何一つ、つゆほども、まったく知らなかったりとかね。「人によります」「時と場合によって違います」「ケースバイケースですが―――」と記事内容について言われたりね。そしてそういうのが人前に出されて、重箱の隅を楊枝でほじくるみたいな真似をされることもある。荒らしもいるしね。私生活を切り売りしてナンボなのがライターだ。体当たり取材みたいなのもあるしね。専業ライターは作業時間を作りやすい反面、スケジュール管理を怠ると、生活面での堕落や仕事のモチベーション低下に繋がる。そのため多くの人が作業時間のメリハリを意識していて、タスク管理を重要視している。「あの時は出来たんだけど―――」みたいな夢はすぐ捨てよう。徹夜して会社に行ってというのは若い時にしか出来ないようなものだ。深夜作業は効率がいいという見方もあるけど、睡眠時間を削ってはいけない。本業の度合いにも寄るが、副業ライターはやはり稼働時間に制限があり、上手く作業時間を捻出する必要がある。通勤時の移動時間や本業の休憩時間、帰宅後のプライベートの時間を作業時間に当てている方が多い。さて、「お金を稼ぎたい」という人の多くは足場が弱い傾向があるし、実際セミナーで誤って変な宗教や、マルチ詐欺の仲間入りするかも知れない。「何か思ってたのと全然違った」というなら入念な下調べをした方がいい。こういう時「百人調べるという方式」をおススメする。百人いれば誤差の範囲がかなり緩くなる、有効な情報、共通見解、みんながその仕事をどう考えているかまで、ちゃんとわかるものだ。最低でも「文章を書くのが苦手という人」は向いていないと思う。「自分の意見や好きな文章を書きたい」とか、「納期に追われたくない」「ケアレスミスが多すぎる」「簡単に稼げると勘違いしている」「年収数千万円レベルで稼ぎたい」「成果報酬で稼ぎたい」などが該当するなら向いていないと思った方がいい。あくまでも一般的な、常識的な、当然みんなが考える類のことだ。とりたてて文章なんか苦手どころか下手糞でも、それに代わる能力や特技があれば問題ないと僕なら考える。ある分野について専門知識が半端ないとか、イラストエッセイをバリバリ書けるとか、フットワークがメチャメチャ軽いとか、色んな人がいるものだからね、ライターって。ところで僕も創作界隈にウロウロしていささか迷子気味ではあるが、スランプというか、大きなアイデアが湧かない時や、書きたい気分ではない時もある。僕が言うと信じない人もいるが。しかし、だからといってつまらないものを書くことはいつでも可能で、何も書けなくなるわけではない。それでもコンピューターや鉛筆を手に取る気すら起きない日もある。そんな日は読書をしたり、自分の作品や執筆能力を相対的に客観視する。さらに、読書すらする気になれない日もある、それでも考え続けることを執筆の一部と思うより他ない。多分みんな信じないと思うけど、「立って文章書けるんじゃないか」とか、「服着てシャワーを浴びる」とか、「服脱いで裸になれば文章書けるんじゃないか」とかまで、追い詰められると普通にそういうところへはまり込む。ドアの閉まる音、袋小路、あえぎ声、しのび笑い・・・、いまの描写必要でした・・・?「とりあえず甘いジュースが必要になった」とか、「とりあえず飯食えば何とかなるに違いない」とかね。一切根拠ない、その後やっぱり書けなくて爆睡して、普通に書けたりする。色んなモーションがあり、沢山の幻と戦う。ただでさえ僕は完璧主義者の傾向があるからね、ハードルが滅茶苦茶高い。そういうのって必ず反動が来る、そしていつも持ちこたえられるわけじゃない。あと、そんな方法でクリアできた試しは一度もない。電車に乗って逃亡、わざわざ遠くの場所まで飯を食いに行くとかね、でも不思議なものでそういう時のことって絶対に忘れな―――い。やっぱりストレスを無理矢理解消しようとすると楽しいんだ。ほかにも、文章を仕事にすると、書くことが嫌いになる人もいる。ケンタッキーや、ピザ、選挙のおしらせ、スーパーのチラシ、パチンコ屋のチラシに泣けてくる――。「文章を書くこと」と、「人に見せること」と、「人に評価されること」と、「お金を貰うこと」の釣り合いが取れない時は、必ずやって来る。コスパ滅茶苦茶悪いし、場合によっては不法労働にだってなる。何やってんのかわかんなくなった時に神様助けてくれるか、言っておくよ、一切助けてくれない、ぶっ殺してやろうか、神様。猿のタイプライター、叫ぶしかない。そしてお前は人間だ。(何で急に洗脳なんですか、マインドコントロールですか?)―――銀河の凍る夜の庭で。猿のタイプライター、イエスしか認めない、ここは軍隊だ。(働け働け、書け書け、できないなんて一切認めないぞ、パワハラ・・)―――おお、母音はあくまで直線的な資質にして、子音は幾何学的な変幻自在な写実。とはいえ、未経験でも努力や、やり方次第でやれる人もいるものだし、前向きな気持ち、諦めない気持ちを持って、じっくり腰を据えて取り組む、人と比べて駄目でも、それは長くやればかなりの特殊能力になる、人より上手い人がどれだけの確率で辞めるか考えてない証拠だ。最初はどんな業種でもしんどく、その先に安定した報酬というのがある。才能なんて必要ない、嫌なことでも楽しんだもん勝ちかも知れない。だってこれは人生におけるちょっとしたことにすぎない。それにWebライティングのスキルは一生モノだし、汎用性が高い。また、向き不向きあるにせよ、ちゃんとやったら次の何かに活かせるものだと僕は思う。病も、生きていく素晴らしい衝動も、生の空間を空回りする要素だね。知ってこそ深みが出る。あと、缶コーヒーで一番腹立つコクは関係ない、だのに飲んだ瞬間「コクがあるな」って言いたがるのはもっと関係ない、ネタなんだろ・・?活かせなくても、人生は学ぶことだ、お金を稼ぐことは後の話だと考える。しかしながら、疑うっていうのは悪いことじゃない、信じるのは信頼に値する人だけでいい。それぐらい、孤独な仕事を志向する人っていうのは視野狭窄の傾向が強い。自分の書いた記事が世間から思いがけない高評価を受ける場合もあるが、それで変な勘違いをしてしまう人も沢山いる。人の意見に振り回されていると必ず手痛いしっぺ返しが来る。過去は必ず追い掛けてくる。―――肝に銘じてほしい。
2024年11月05日
関係夏休みの宿題に勤しむ。健全な精神に健全な野望が宿る、だったろう―――か(?)たった一週間で宿題を片付けて夏の風物詩と戯れるべく、刻苦勉励。一心不乱。疾風怒濤。すばらしい黎明のような牢獄の夢。自分で言っていて―――ちょっと胡散臭いが。「蝉は今日も元気だなあ・・・」お、そろそろ合唱コンクールの季節なのかな、と軽くポエムる。何かをすることがないと人は怠惰に暮らす。けれど夏休みは終わりのないものを想起させて、まるで無限に窓が続いているみたいに、時々は怖いような気持ちにさせる。体感時間は時計の通りだと思っている、でもひょっとして、眼を瞑った瞬間から、瓢箪なりの池みたいな別の時間の感覚が、スッと流れてくるような、そんなことを想像して肝が冷えたりする。あるいはそういうのって、平和とか、毎日が同じように続くという前提がそもそもの麻痺であることを、無意識は知っているために起こる一種の補正なのかも知れない。―――まあ、僕だけかも知れないが。「市民プールとか海へ子供達は行くんだろうなあ・・・」毎年、溺れる子供達がいる。どげんかせんといかん、夏は高速道路のサービスエリアみたいな雰囲気で、自動販売機が根を下ろしたようだからな、まったく、とその同じ年頃の癖に父親フェイス。コロコロ表情が変わって、見ようによってはこの人間の多面性で、面白いのだが、いわずもがな、―――男にはあまり需要はない。晴耕雨読、やり場のない不満が心の中を駆け巡る・・。「デパートは人が多いんだろうなあ・・・・・・」そしてファイナル、ラスト―――だ。定年を迎えたオジサンみたいなことをぼやきながら、居間のテーブルで夏休みの宿題に勤しむ。扇風機の音がして、風鈴が鳴っている。そして何かの目的を持っていて不意にぼんやりすると、日々の営みが世界であるというピントがズレて、けれど、元々ブレていたんじゃないかと気付いて、生まれてはじめて眼の前のものをちゃんと見れたような、そんな気がす―――る。テーブルの上には、丸型のコースターと麦茶。背後には桐の箪笥。しばらくすると、玄関の引き戸が開く音と、板張りの廊下を走ってくる足音が聞こえ―――。タッタッ、という、スプリンターさながらのうるさい足音はいうまでもなく、一歳年下の従姉妹だ。そしてどうもこの従姉妹、何故か僕のことが好きらしいのだ。いや、いまだったら自意識過剰と言われたあとで、まあ、アンタが好きっていうことにしといてやるわ、とか、生意気言われるのかも知れないツンデレに育ちました。もっと彼女が幼い頃、直接言われたことは幾度となくある、従姉妹と家が近かったこともあり、たまにお守りした。それはきっと誰でもそうだったような気がするのだが、たまたまそれが―――僕だった。醒めてると誰かに言われそうだが、僕は神様をシバきたい、できるならトイレの大便器で顔を洗わせてやりたい、僕は年上とか、年下に何故か好かれる。三十とか四十ならいいだろ―――う、あのすみません、まだ、十代なんですが・・。―――同学年にモテたい人生でした(?)「どう似合ってる? 褒めてくれてもいいんだよぉー?」夏にぴったりの涼しげで可愛らしい青が基調の、フラワープリントの、肩出しのワンピース姿。髪にはキラキラした髪留めもある。ガキのファッションなど気にもならないが、彼女は顔の輪郭もまだ子供らしい固い線を見せているものの、パッチリした眼のヴィジュアルもさることながらスレンダー体型で、その中にも健康ではちきれるような肉体の喫水線のようなものがあり、独特のモテオーラを放っている。五年後はもっと美人になっているだろ―――う。だからぶっちゃけて言えば、別にジャージ姿でも、彼女にはよく似合う。実際その格好で駅前をうろうろしたとしてもナンパされそうだ。でも催促して来る。あのさ、似合ってるって思うならそれでいいじゃん、どうして俺が褒めなくちゃいけないわけ?「ああ、はいはい、似合ってるよ、馬子にも衣装だな。今世紀最高の衝撃を感じた、プリチー!」「はっ倒すよ」お前だって俺に褒めろと言ったくせに。でも雑な褒め方は許せないお年頃、あるいは主義―――。「やめてください。あと、ナイフは血が出るんで、銃はやめて、毒薬はちょっと、首吊り偽装はあの・・・」「言ってないのに、この死にたがり!」冗談もここまでくると、漫才になる。いや、漫才なう!一緒に帰って来た姉貴が言う。従姉妹の様子を見れば一目瞭然だが、補足すると、服屋の紙袋を持っているので、姉貴が従姉妹に買ってやったのだろ―――う。あんまり高い服はやめときなよ、自分のことに使いなよと正直言って思うが、面倒見のいい姉貴は夏のボーナスを、従姉妹に課金するつもりらし―――い。姉貴は僕と違って出来が良く、すごい研究所で働いているらしい。親父の眼ん玉ぶっとぶような給料で、この人も家庭のため、頑張って何とか課長にまでなったわけだけど、初任給の時点で姉貴に給料を抜かれてしまったらし―――い。まあ、世の中そんなものさ。ただ、複雑だけど、父親にとっても、もちろん俺にとっても、もっと身近に尊敬できる人間だ。お金が人の価値を決めるみたいな言い方だけど、違う、彼女が人知れず努力を、生活の基本的なルーティンにして、本当に何気ないことのように積み上げてきた姿を見てきたからだ。自分は出来損ないだってひがむわけじゃないが、シスコンとか比較対象の鏡として、引き摺られる所まで引き摺ってゆかれた、それでも姉貴が出た偏差値ヤバすぎる高校はどう頑張っても無理だった。―――という、拒否する意志の働くのを断念する・・・傾き。むしろ、お金のように正体のわからない、イメージだけの紙切れならまだ対処のしようはあ―――る、でも、能力とか有能さとか姿勢っていうのはもっと彼女を言い表す。その原因をあれこれと指摘するのは無様だ、真実の姿を素直に肯定したい、卑屈もある、日和見主義もある、臆病な苦労もある、だけれど、いまの倍の時間勉強しても前例のない花は咲かな―――い。ふっと、停車する停留所名を、バスの録音テープ合成音声が順番に告げるみたいに声が響いた。「あ、やっぱり、女の子はいいよねえ、洋服じゃなくて、水着とか髪留めとか選んでるだけで楽しいもの」多分姉貴、買ったな、と思った。でも思うに、従姉妹は、姉貴の理想形なのかも知れないな。姉貴はボーイッシュな髪形で吊り目、弟だからという贔屓目は抜きにして、顔は整っている方だが、いかんせん、可愛らしさが足りない。少女の心の乱れというのを同じ屋根の下で感じるのは難しいが、思うに一番残念なのは女ながら百七十八センチもあり、スラーッとしているところ。宝塚に電撃入団できそうなのだ。カッコいいと言われて嬉しい女性ならそれもよかったのだろうけど、姉貴は自分がそう見られることに、コンプレックスを感じていたようなのは知ってる。ただ、それが勉強に跳ね返っているのかも知れないわけだが。対して従姉妹は百五十三センチ、アイドルといっても通りそうな顔立ちで愛嬌が凄い。そういう姉貴にとって、女性らしさっていうのは、一種の、手が届かない、反面の憧れのようなものがあったのではないか、と思う。顔は化粧や整形をすれば変えられるかも知れないけど、スタイルや性格は変えられるものじゃない。声だってそう―――だ。あと、妹が欲しかったというのも本音だろ―――う。「着せ替え人形か、リカちゃんハウスで満たされなかった亡霊の仕業か」などと言ったのは従姉妹を甘やかすな、という意図以外は本当ないのだが・・・・・・。「何て言った? はっ倒すよ」うちにいる女は、やたらと好戦的だ。「でも、アンタなんて、買い物へ行っても、『ああ』とか『うん』しか言わないじゃない」「あのね、それは―――照れ」「照れ?」二人は繰り返した。見事にピッタリだ。宇宙的な流れと反復を導くための、ビックリハウス――白い被覆材・・。「多分、それは―――はにかみ」「はにかみ?」二人は繰り返した。しかし、なんでこの二人、こんなに息ピッタリなんだろう。ナイアガラの滝の暗い洞窟に棲む蝙蝠みたいなもの――。笑い、風刺、パロディー、スラップスティック。あまりの肩身の狭さに、何だか女系家族を持った父親の気分になる。とはいえ、今年もやっぱりこんな夏休みを過ごすのかも知れない。高校一年生の従姉妹は、僕の家へと入り浸り。従姉妹が入り浸るので、もしかしたら姉貴が入り浸る。そしてそれを僕だけが知らぬ存ぜぬできないので入り浸る。悪循環のような―――けれど、確かにそこには僕の居場所がある・・。宙に浮いた亀裂のように――煙が漂うようにも見えた、陽射しの屈折した、夏の窓の向こうを見ながら姉貴が言った。空は水のように晴れてい―――た。ちなみにそれは提案ではなく、決定事項であったりする。抑圧の開放、それが夏休み。そしてそのヴァリエーションもアイディアも、そしてもとになるイメージも、尽きることはないのだ・・。―――彼女はそして、ひそかに車の免許を取得している。「今年はみんなで海でも行きたいね」
2024年11月04日
ワープ航法あっ、と彼女が立ち止まる。うわっ、な、なに・・・。むお~っ、とか乙女らしからぬ奇声をあげる。そんな発声器官だったのか、お前の声帯・・。たとえるのならば、服の袖の下から寄生虫が入って、彼女の頭へと行き、精神を則ったのではないか―――。と、考えるのは無理があるな。あるね・・応じてくれる―――。(侵入していく回路で、)(そう確かに侵入していく回路で、)隣を歩いていた彼女の変調。彼女の耳の産毛や、ピアスの穴――を見て・・る。そうすることで高架線の下を歩いているような気持ちがする。あるいは、哀川翔とカブトムシ。織田裕二とホモセクシャルな見方をする世界陸上。人それぞれ、そんな風に精神の安定のさせ方がある。それから―――。「ネ・・・・・・ネネネ・・・・・・」「ネギ」「マグロ」それは違うとわかりながら、ノリがいい。でもしりとりはしてくれない。「―――ニャコォーッ♪」ヒャッホ~みたいな言い方だ。あと、ニャコというとシャコみたいだが―――。あのね、マサハルフクヤマが芸人に真似された時じゃないけど、ね・こ、ちゃんと言おう。けどね、ロケットスタートでバビュン・・。ウオッ、足が速いというもんじゃない、ないったらニャい、もう、世界記録叩き出しているんじゃないかというすさまじさ。スピードもそうだけど、土煙が、アスファルトだけど。あの、土煙が。エフェクトのある世界なんです、ここ。女子陸上の世界記録を出すにはゴール地点までに随所に猫を置くのがいい、と進言しよう―――か。この特級脳内トリップアドバイザーにお任せいただければ、ディズニーランドさながらの誘導視線で、最短タイムを叩き出してみせましょう。詐欺師の物言い。普通なら鼻で笑われる、自分でもそんな話など一笑に付す。だが、彼女を見て俺は女の子には、男にはうかがい知れない、性による様々な隔たり、違いがあるように、いま、間違いなく猫エネルギーなるものが存在すること―――を、知った(めっちゃ、知りたくなかったけど、)あるいは、ワープ航法を信じられるレヴェル。(ばちくそ、知りたくなかったけど、)マイナンバーカードみたいな糞みたいなものと、保険証廃止―――この一連のやりとり、ワープ航法(?)ディジタル言ってる国民なめてる政治家、それに反発して不信感募らせる国民、デモする医者、それらをして不当とか、強制執行とはいわず、これはあくまでも任意だと言い張る面の皮の国。会社型導入手法、免許を人質にとりながらの再三再四のお役所仕事、未練など即身成仏となるがごとしよ。―――すげーぜ旦那方奥方様方、うやむやな話、何だかよくわからない話で、電波何本よ、ネットに上手く接続できない時、それは、思うにアメリカに命令されたんだろう、対立や、干渉や、共振の間を・・転換――する、属国マーケットの見晴らし。違っていてもあっていても知ったこっちゃない、操り人形の国、日本なんてたかだか、そんな国。笑っちゃうよね、めっちゃ困ってるよ、いやその、ワープ航法(?)「(あなたの知らない世界・・・)」ともあれ彼女、道端を歩く野良猫を発見して走り出した。突進である。擬音があるとすれば、ぬおおおお、である。猪突猛進ってどう書くんだっけと考えながら、もはや、線でも引かれているよねフォーリン・ラァヴ、ふんがーといわんばかりの勢いで、猫まっしぐら。ラブずっきゅん、それが彼女を走らせているまぎれもなき原動力。恋は盲目、その類の奇行。その姿はさながら獲物を見つけた動物の先天的な行動であり、反応速度が違う、さすがの人懐っこい感じに見える野良猫も面食らい、行動が全停止。ダンプーカ―とどっちが怖いかって、それはもちろん、―――こっちだよね、わかる・・よ。車の前で身動きが取れなくなる猫は最後蹲ってなすがまま。アルマジロ的防衛本能。自転車で轢きそうになって止めた時、目撃した。だが、車ではなく人。あるいは、捕食者? 化け物?猫なりに表情で色々語っているが、その無防備の隙を狙ってスルッと抱きかかえ、その場に座り込んだ。足を斜めにするいわゆる、女の子座りで。女の子の綺麗好きは知られた話だけど、もう、綺麗好き云々より猫が好き。これに対抗するには苺パフェとか、ケーキ食べ放題みたいな、超パワーワードが必要になる。「きゃー♪ なにこのモフモフ具合、気持ちいぃー♪」傍目にはウヒョウヒョしているうえ、随分だらしない顔をしている。いや―――きっと一定数には、こういう女の子の顔を好きという人もいるが、アヘ顔っていうの、あるいは一周廻って気持ち悪いものも可愛く見える顔っていうの、美人って得だねっていうけど美人ほど落差が大きいという向きもある、でも若い頃は痩せてモテていた女が年を経て太ってもモテるというのも、やっぱり遺伝子の戦略なんじゃないか、―――とはいえ、世間体とかをかなぐり棄てさせてしまう、もうポイッと棄ててたからね、躊躇なんか一切なかったからね、それ、レフトフライを万歳しながら、何故か一周廻っていた外野手だからね、何してるのよ、でもね、表情が明らかに何かを諦めていながらにしてウケを取ろうとして、―――もうね、俺はネコウィルスを疑ったね、もうね、何だろうね、これ。前脚をぷにぷにしたり、頭をつつくみたいに優しく触ったり、某アイドルみたいに食べようとしていたからね、わかるよ、人間誰でも羽目を外しちゃうことがある、箍が外れちゃうこと、ね。殺人にせよ、車で人を轢くにせよ、そりゃ理由があるじゃん、あっちゃいけないよ、こんな軽いノリで言っちゃいけないよ、でも、起こりうることが想定できる限りは自然に確率論的に起こる、悲しいよね、でも、まだ、理由があるじゃん。けど、ネコウィルスにはそれがない、何で感染したの、半狂乱になるしかないよね。けど可愛いものを見てハイテンションになっている内が花、もう認識を改めなくちゃね、猫はいつから麻薬とか、脱法ハーブのような扱いになったのだろう。ここまで脳っていうのはやられちまうのか。おそるべしだぜ―――キャット様。いまとなっては無知を呪う他ないのだよ、改まって言うようじゃもう俺も長くないね、あのね、それは指定麻薬となってしまった動く草。あるいはモフモフの悲劇。―――などと、馬鹿なことばっかり考えてないで、やっぱり、彼女も年頃の女の子なのだよ。「はぅー、猫さん可愛すぎるよぉ~、ぬふふ、ずっと触っていたいよぉ~。連れて帰りたいよぉ~、名前教えてよぉ~、近頃楽しいこと、ベスト3教えてよぉ~」ラリっている。ラリっている。明らか、ラリアット喰らっている、ほんの二分三十秒前まで、普通だった女。「ネ・・・・・・ネネネ・・・・・・」「ネクロマンサー」「サーチライトピンクパンサー」それはズルだよ。でもしりとり、してくれた。欲しいものが手に入った後ではおおらかになる。お金持ちが寄付するのは、おおらかだからだよ。名誉欲でも何でもいいよ、おおらかで救われる命があるならね。空が綺麗、ようやく天気予報も視野に入る。でも、ノリがいい。猫は僕を見つめて、お前の相方どないかしてくれへんか、もっとソフトな触り方とかあるんやないやろか、という眼を一瞬した。何で猫と話せるかって、それは俺が昔、猫を飼っていたから―――だ。飼うと喋れる、ナーゴナーゴ、ニャーゴニャーゴ、じゃなくて、テレパシイ、その一択。女性が血に強く、ちょっと道を踏み間違えると、ヤンデレ気質になったり、リストカッターになったりするのは、まあ大体その為です。嘘だけど。でもね、猫さん、弱者は強者に従うのみ、ワープ航法のようにね、全身まさぐられてやってください、もみほぐしもみほぐし魂とりだし、―――キャット様、グッドバイ!その内、国の医療システムに変更があったり、政治に対するテコ入れが行われるだろ―――う。俺はあれは本当に大きなニュースで、もし廃止撤回できないようならこの国は終わりだぐらいに思ってる。そうでなければお前の頭の中は猫なのか?お前は猫なのか?「―――ニャコォーッ♪」と嬉しそうに叫んでがっつり抱き締めている彼女を見ながら、女の子は猫になりたいのかも知れないなと本当に思った。―――それと、ワープ航法。
2024年11月04日
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