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100days100bookcovers no93 93日目関川夏央・谷口ジロー「坊ちゃんの時代-凛冽たり近代 なお生彩あり明治人」(双葉社・全5冊) KOBAYASIさんの小田嶋隆の追悼レビューがアップされたとき、ちょっとびっくりしてしまいました。私もたまたま彼の著作を3冊、図書館で借りていたんです。実はその前のSODEOKAさんの『アイヌの世界に生きる』のときにも、偶然、石村博子著『ピリカ・チカッポ(美しい鳥)―知里幸恵と「アイヌ神謡集」』を読みかけていたこともあって、アップされる本と同じような本を手にしているという偶然が続いたことにまた驚いてしまいました。ただ、手元にあった本はほとんど読み終えないうちに図書館の返却期限がきてしまい、感想をあらためてコメントさせてもらおうと思っていたのに、できないままこんなに時間が経ってしまいました。すみません。 遅れに遅れた言い訳です。このところの体力不足対策にはウォーキングしかないかと、せっせと歩いているのですが、そのせいで毎日クタクタで、本を開いても5行も読まないうちに居眠りタイムになっています。 その上、この3月で仕事が終わって、職場から私物を引き上げてきたため、ますます散らかってしまった家の中の片付けもあって、このブックレビューに手を付けられずにいました。 小田嶋隆をKOBATASIさんが「異端」と評されたのを読んで、「異端といえばこれ」と思う好きな本があってぜひ紹介したいのですが、その本を再読しようと思っているだけで、やはり読めないまま、時が経ってしまいました。言い訳以上。 早くとりかからないと思いつつ机まわりだけでも片付けていたら、しまい込んでいた本に偶然行き当たりました。で、今回は偶然が重なって、「偶然出てきた本」と、かなり苦しい付け方にします。久しぶりに出てきた大事な本です。 関川夏央・谷口ジロー『坊ちゃんの時代-凛冽たり近代 なお生彩あり明治人』(双葉社) この漫画は有名で、このブックレビューの中でも何度か話題にも上がったのではないでしょうか。詳しくご存じだったり、敬愛されている方も多いと思い、何を今さらと思われれるかと、おそるおそる書いていくことにします。 この漫画を買ったのは、8年ほど前かと思います。同僚が持っていた文庫版を借りたのですが、これはしょっちゅう見たい、自分で持っとかなきゃと、アマゾンで即買いです。 Wikipediaによると、「1987年から1996年まで漫画アクション(双葉社)で連載され」、「第2回手塚治虫文化賞マンガ大賞」を受賞していたらしいです。今回調べながら書いてみます。 全5巻、その構成(所持本の発行日付) 第一部 「坊ちゃん」の時代 1987年7月9日第1刷発行 1984年4月17日 第12刷発行・漱石の著作『坊ちゃん』の登場人物のモデルとなるような人物やできごとの実話を元にしたとする内容。第二部 秋の舞姫 1989年10月28日第1刷発行 1992年10月10日第4刷発行・森鴎外の『舞姫』を下敷きに、来日したエリスと長谷川辰之助(二葉亭四迷)が交流する。『普請中』など、鴎外の他の作品も取り入れている。第三部 かの蒼空(あをぞら)に 1992年1月12日第1刷発行 1997年10月22日第5刷発行・石川啄木の生涯第四部 明治流星群 1995年5月26日第1刷発行 1998年9月7日第7刷発行・大逆事件と称される事象とその後の処刑弾圧第五部 不機嫌亭漱石 1997年8月28日 1998年7月24日第5刷発行・漱石の修善寺の大患と生死の境を越えた夢 関川夏央といえば、『ソウルの練習問題』は、絶対読んどかなきゃというくらい有名になったので、当時、入手はしたのですが、まだ読まないままで、あきらめて、かなり以前に処分してしまいました。ほとんど読んだことがないと思っていたけれど、こんな形で出会っていたのかと今さら思いました。 『「坊ちゃん」の時代』を読んでて、司馬遼太郎を思い出すと思ったら、『司馬遼太郎の「かたち」』、『二葉亭四迷の明治四十一年』という著作で司馬遼太郎賞を受賞したらしい。 谷口 ジロー(男性、1947年8月14日 – 2017年2月11日)もとても高名な漫画家だが、日本以上に海外、特にフランスでの評価が高いとのこと。関川夏央ら漫画原作者と組み、青年向け漫画においてハードボイルドや動物もの、冒険、格闘、文芸、SFと多彩な分野の作品を手がける。TVでおなじみの『孤独のグルメ』の原作漫画もこの人だったんだあ。 第一部の関川夏央の「わたしたちは いかにして 『坊ちゃんの時代』を 創作することになったのか」より引用します。 「わたしはつねづね「坊ちゃん」ほど哀しい小説はないと考えていた。この作品が映像化されるとき、なぜこっけい味を主調に演出されるのか理解に苦しんでした。そしてそれらの作品はことごとくわたしの期待を裏切って娯楽とはいいがたかった。同時に、明治がおだやかで抒情的な時代であるという通俗的でとおりいっぺんな解釈にもうんざりしていた。 明治は激動の時代であった。明治人は現代人よりもある意味では多忙であったはずだ。明治末期に日本では近代の感性が形成され、それはいくつかの激震を経ても現代人のなかに抜きがたく残っている。われわれの悩みの大半をすでに明治人は味わっている。つまりわれわれはほとんど(その本質的な部分では少しも)新しくない。それを知らないのはただ不勉強のゆえである、というのがわたしの考えであり、見通しであった。また、ナショナリズム、徳目、人品、「恥を知る」など、本来日本文化の核心をなしていたはずの言葉を惜しみ、それらがまだ機能していた時代を描き出したいという強い欲望にもかられた。 そこでわたしは「坊ちゃん」を素材として選び、それがどのように発想され、構築され、制作されたかを虚構の土台として、国家と個人の目的が急速に乖離しはじめた明治末年を、そして悩みつつも毅然たる明治人を描こうと試みた。」 以上、引用です。 感想をおもいついたまま書いてみます。第一部の作り方が一番凝っているような気がする。漱石の周りの虚実ないまぜのできごとが『坊ちゃん』を構想させたようなつくりです。「堀紫郎」というの人物(青森斗南出身だが、親の代までは会津らしい)がラフカディオ・ハーンと知り合いで、漱石にハーン先生の話をするところもいいなあ。 二葉亭四迷の描き方も気にいりました。周囲が懸念するのにも関わらず、なぜかロシアに旅立ち、過酷な状況で体調を悪化させて帰国する船で亡くなった人。仕事とはいえ、なぜそこまで無理を押して渡露したのか。ここは、西木正明の『間諜二葉亭四迷』を思い浮かべた。 鴎外を追って渡日したエリーゼ・ヴィ―ゲルトと二葉亭四迷を絡ませた刃傷沙汰も愉快。 大逆事件と称される事象とその後の経緯は事件が事件だけに、ちょっと筆が進んでいないように思えた。私は個人的には以前から特に大石誠之助氏のことが気になっていたので、彼のことにも触れてはいるがもう少し欲しかった。 最後の第五部で、漱石が此岸と彼岸のよくわからない夢を見続けるが、ここは絵という漫画の強みがとても生きていると思った。 ほかに気になったのが、鳥、猫、犬がいい案配に描かれていること。煮詰まった時や、言葉にならない気持ちやらが伝わるような気がする。漱石に猫はまあ当然だけど、鴎外は犬、そういえば、樋口一葉が貧乏で飼えなくなったからと、二葉亭四迷に犬を譲るという場面もうまくはめたなあと思ったところ。 漱石以外の人物の周りは犬ばかりだったような。あとで、また確かめないと。でも、鴎外は猫を寄せ付けないような気がするのは私だけかしら。 とりとめなく思いついたままのブックレビューで、作品には申し訳ありませんが、これで終わります。関川夏央も谷口ジローもSIMAKUMAさんはすいぶん読まれているかと思います。どうかこのあとよろしくお願いいたします。E・DEGUTI・2023・04・07追記2024・04・05 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2023.12.27
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ウェイン・ワン「スモーク」元町映画館 2023年の12月になったころ、元町映画館から持ち帰ったチラシの束から一枚のチラシを引っ張り出してチッチキ夫人が叫びました。「わたしは、これ!」 というわけで、我が家の2023年のクリスマスは元町映画館のクリスマス3日間限定上映「スモーク」同伴鑑賞に決定しました(笑)。 で、問題は、上のチラシの頬を寄せ合っていらっしゃるお二人が、男と女なのか、男同士なのかでした。 で、見終えて確認しました。ブルックリンの煙草屋の親父と、赤の他人の黒人の盲目の老婆、というわけで、男と女でした。 モノクロで、セリフなし、ただ、ただ、この二人がクリスマスの夜に出会い、こうして抱き合っているシーンが、この映画のすばらしさを、ほどんど歴史的事件のように表現していて、見終えたチッチキ夫人は映画館を出るなり、もう一度叫びました。「今年のベストワン!サイコー!」 2023年のクリスマスの午後を二人で、この映画を見て過ごした老夫婦は、ため息しきりだったのですが、実は、二人ともこの作品を見るのは初めてではなかったにもかかわらず、「男同士」だったのか、「男と女」だったのか、まったく忘れ果てて盛り上がっていたのですから、まあ、いい加減な話です(笑)。 お話に興味がおありの方にはポール・オースターの原作小説「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」(柴田元幸訳・新潮文庫)をお読みなることをお勧めしますが、題名の「スモーク」は、たばこの煙ですね、あの煙には重さがあるかどうかを、ちょっと困った顔で抱き合っている男オギー・レン(ハーベイ・カイテル)の煙草屋にたむろしているヒマな男たちが喋くりあうシーンで語られるアホ話に出てくるのですが、映画の話が「タバコの煙」だというわけですね。実によくできた題名なのです。 今回、見ていて、ハッと、心を打たれたのは最初のシーンでした。ニューヨークの地下鉄とかが走っている街の俯瞰シーンで始まるのですが、少し遠景に、あのツィン・タワーが映るのですね。1995年の映画ですから当然ですが、あのタワー・ビルが崩落していくシーンを、ほぼ、実況で目にしたことがあるわけですから、映画が「スモーク」と題されている、もう一つの意味をしみじみと受け取ることになったわけです。 ちょっと大げさとお考えになるかもしれませんが、主人公の煙草屋の親爺は、抱き合った、見ず知らずのバーさんの部屋から、盗品に違いないとはいえ、キャノンだかの一眼レフを拝借して、自分の店の前の風景を4000日にわたって、同じ時間に撮り続けていて、そのコレクションされた写真、あの日から10年分の一枚一枚が写しとっている、その時、その時の人や町の姿が、この映画の底に流れているメイン・テーマだと、ボクは感じたのですが、二十年以上前に、この映画を見たときには何も感じなかった、ニューヨークの風景のなかに、まあ、映画の中で作家のポール・ベンジャミン(ウィリアム・ハート)が体験する不幸な偶然と同じように、映画そのものが現実化していることに対する驚きですね。 まあ、それにしても、納得の作品でしたね。クリスマス特集でこの作品を選んだ元町映画館に拍手!でした。いや、ホント、思い出にのこるクリスマスになりましたよ(笑)。 監督 ウェイン・ワン脚本 ポール・オースター撮影 アダム・ホレンダー美術 カリナ・イワノフ編集 メイジー・ホイ音楽 レイチェル・ポートマンキャストハーベイ・カイテル(オーギー・レン煙草屋)ウィリアム・ハート(ポール・ベンジャミン作家)ストッカード・チャニング(ルビー・マクナット煙草屋の元妻)ハロルド・ペリノー(ラシード・コール黒人の少年)フォレスト・ウィテカー(サイラス・コール少年の父)アシュレイ・ジャッド(フェリシティ元妻の娘)1995年・113分・PG12・アメリカ・日本合作原題「Smoke」2023・12・25・no160・元町映画館no218 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑) !
2023.12.26
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「三宮にええ景色ありました!」 徘徊日記 2023年12月23日(土) 団地から三宮あたり 久しぶりにJR三宮で降りましてん。 で、チョット歩道橋わたりながら、ようやく気付きましてん。懐かしい垂れ幕でんな。阪神タイガース日本一! でっせ。 仕事さぼって家でテレビ見てたら長崎が満塁ホームラン打ちましてん。長崎って知ってます?あれから38年でっせ。 こんなん、また、30年ありまへんねん。まあ、生きてるうちには見られへんゆうことですな。そんなん、ホンモンのダメトラファンはよう知ってまっせ。 で、その垂れ幕が下がってんのが阪急デパートって、これいかに! でんな。 そごうチャイまっせ、阪急でっせ(笑)。新しいなったけど。阪急はこっちやと思いまんねんけど。 神戸に出てきて50年がたつシマクマ君ですが、歩道橋の上で、わけわからんまんま、しみじみしてしまいました。半世紀でんな。すごいことです。 で、今日は、50年前に出会ったお友達と同窓会(?)でんねん。今から阪急六甲行きまんねん。じゃあね。ボタン押してね!
2023.12.25
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ケリー・ライカート「オールド ジョイ」元町映画館 2021年の11月に元町映画館でやっていたケリー・ライカート監督の特集の感想が書きかけでお蔵入りしていたので、引っ張り出して、何とか書き上げて載せました。 見た映画は「オールド ジョイ」です。 見終えて、しばらく座っていて思いました。この、座り心地の悪さというか、落ち着かなさというのはいったい何なんかなあ? もちろん、映画には納得しているし、だから、映画の筋とか展開についてではなくて、ここに座っているボク自身の、今の気分についてですよ(笑)。 題名の「オールド ジョイ」というのは、たぶん「昔なじみ」とか「旧友」とかいう意味だと思うのですがマークという既婚で妊娠中の妻がいる青年(?)が、カートという、まあ、昔なじみのヒッピー暮らしの男とキャンプに出掛けて、帰ってくるだけのお話なのですが、なんというか、ぼくは見ていて落ち着きませんでした。 車は山の中にはいって行って、何年か前に来たことがあるというカートが道を間違えるというか、わからなくなって、結局ゴミ捨て場のようなところでキャンプすることになります。カートは犬を連れていて、マークはずっと訝しそうです。 翌朝、ようやく道を発見して、目的地(?)の温泉(?)にたどり着きますが、マークを見ていて感じるのは充足感でも安心でもありません。苛立ちと言うほどハッキリしたものでもない、ここにいることの理由ははっきりしていて、マークがカートを誘ったときの妻の表情か語っていましたね。あの生活から、ひと時逃げ出したかった、まあ、そんな感じでしょう。 で、こういう場合、すぐに男同士の愛情とか、妻である女性の微妙な立場が話題にあがるのですが、それ以前の「友達」ということについて、もう一度考えるべきなのじゃないでしょうかね。 この映画作家が、所謂、世間的な「大人」とか「女」とか「男」とかいうステロタイプ思考に、「そうかしら?!」 っていう問いを、実にビビッドに映像化していて、だからどうとか、あれこれいう前に、まあ、うまくいえないのですが、ホントウノコト! をきっぱり!と描いていらっしゃると思います。でも、まあ、たとえば今回は実に頼りない男の二人連れだったわけで、身につまされることしきりで、且つ、チクチクするのですね。だから、まあ、適当なところで妥協(?)して、安穏と暮らしている老人は見終えてへたり込んでしまうのですが、でも、まあ、恐る恐る(笑)拍手!ですね。監督 ケリー・ライカート脚本 ケリー・ライカート ジョナサン・レイモンド撮影 ピーター・シレン編集 ケリー・ライカート音楽 ヨ・ラ・テンゴ グレゴリー・“スモーキー”・ホーメルキャストダニエル・ロンドンウィル・オールドハムタニヤ・スミス2006年・73分・アメリカ原題「Old Joy」2021・11・29‐no117・元町映画館no219(132-3) !
2023.12.25
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ブラッドリー・クーパー「マエストロ」シネ・リーブル神戸 記事を投稿した後でこのチラシが手に入りました。このチラシの方、ホンモノ?ニセモノ? と、まあ、そのあたりがとても面白い映画でしたね。せっかくなので、冒頭に貼りなおしました(笑)。いかがでしょう。 SCC(シマクマ・シネマ・クラブ)の第14回例会です。シネ・リーブル神戸でブラッドリー・クーパー監督・主演の「マエストロ」をご一緒しました。 レナード・バーンスタインという、まあ、20世紀アメリカ音楽を象徴するような天才音楽家を主人公にして描いた作品でした。ナットクでした(笑)。 面白かったのはこの映画の監督でもあるブラッドリー・クーパーという俳優さんがバーンスタインを演じていたのですが、異様に似ていたことですね。 バーンスタインの生前の姿はネットの、たとえばYouTubeとかで見ることができます。ファンを称するほどバーンスタインの音楽に関心があるわけではありませんが、小沢征爾とかの師匠だったとかいわれていることもあって彼の作曲した音楽や演奏、指揮の様子を耳にし、目にしたことはありますから、映画のシーン、シーンでの姿が、特にモノクロの回想シーンとかでは「実写?」 と思うほど似ていると思いました。アップの表情もとても似ていて、まあ、それだけでも面白いですね。 二つ目は音楽ですね。どこかで、この夏だったかに見た「ター」と比較して見ているとことがありましたが、こっちの演奏シーンは納得でしたね。実物の映像的な記録がありますし、もともと、かなりヤンチャな指揮ぶりですから真似やすいということがあったのかもしれませんが、こっちの映像はシラケませんでした。メインはマーラーの「復活」だったと思いますが納得でした。まあ、音はバーンスタインの実音でしょうからね(笑)。だから、演技で指揮をしているクーパーさんが邪魔にならなかったということですね。 三つめは、妻のフェリシア(キャリー・マリガン)との「愛憎」の描き方ですね。夫バーンスタインの、男女を問わない、まあ、ある種でたらめな性的・人間的志向のインチキを見破り、糾弾するシーン、にもかかわらずバーンスタインを愛さずにはいられないという、自らの愛のかたちを吐露する場面には胸打たれました。 最後に、夫バーンスタインが死に瀕した妻フェリシアを抱きしめる夫妻の美しいシーンがあります。このシーンが音楽家バーンスタインの、思想としての「愛のかたち」の崇高さを、まあ、天才のなせる業と感じさせて、実に感動的なのですが、少々薹が立った老人の目にはまあ、ねぇー、よくやるね、ホント! というふうな感慨の浮かぶシーンの一面もあるわけで、なんともまあ・・・ でしたね(笑)。要するに勝手な男としての主人公を見ながら、まあ、天才のありさまに自分などを重ねるのは不遜の極み(笑)ではあるのですが、で、そういうこと(笑)は何にもないにもかかわらず、夫婦の片一方としてあれこれ振り返らせていただいたというわけですね(笑) 映画は「彼女が愛したバーンスタイン」 という趣で、恋人であり、妻であったフェリシアの目から見た天才の夫の姿を実に哀切にとらえていて納得でしたね。音楽のシーンにも納得でした。拍手! 監督 ブラッドリー・クーパー脚本 ブラッドリー・クーパー ジョシュ・シンガー撮影 マシュー・リバティーク美術 ケビン・トンプソン衣装 マーク・ブリッジス編集 ミシェル・テゾーロ音楽 レナード・バーンスタイン特殊メイク カズ・ヒロキャストキャリー・マリガン(フェリシア・モンテアレグレ・コーン・バーンスタイン)ブラッドリー・クーパー(レナード・バーンスタイン)マット・ボマーマヤ・ホークサラ・シルバーマンジョシュ・ハミルトンスコット・エリスサム・ニボラアレクサ・スウィントンミリアム・ショア2023年・129分・PG12・アメリカ原題「Maestro」2023・12・11・no152 ・シネ・リーブル神戸no209・SSCno14 !
2023.12.24
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ヴィム・ヴェンダース「PERFECT DAYS」キノシネマ神戸国際 ヴィム・ヴェンダース監督の「PERFECT DAYS」を見ました。神戸では、本日、2023年12月22日封切だったのですが、前評判が高いらしく、いつものシネリーブルの予約欄を見て引きました。調べると、旧国際松竹でもやっているようで、そちらの方が少しゆったりだったので、久しぶりにそっちの映画館を選びましたが、行ってみると、やっぱり人が多くて、結局前から3列目で、これまた久しぶりにスクリーンを見上げながら見ました。 朝焼けの遠景が映って、落ち葉を掃いている人がいて、その音で男が目覚めて、起き上がって布団をあげて、八畳一間かなと思っていると、服を着て部屋を出て、階段を下りて台所で歯を磨いて、玄関を出て、そのアパートの駐車場にある自動販売機で缶コーヒーを買って、駐めてあった軽のバンに乗り込んで、カセットテープを探して、挿入して、出発です。暫くして、スイッチを入れると「あっ!」と思う音が流れてきて、映画は始まりました。最初に聞こえてきたのが、多分アニマルズだったと思うのですが、その時点で、ボクは泣いていました。「ヴェンダースなら、きっと、何にも起きないはずだしなんにも起きなくていいよ、このままでいいよ。」 そのまま、最後まで続きました。さすがですね。何もいうことはありません。ある日の仕事帰り、軽自動車のカーステレオからルー・リードという人の「PERFECT DAY」という歌のさわりだけ聞こえてきました。 聞こえてこなかったサビはこんな歌詞です。Oh it’s such a perfect day なんて完璧な一日なんだI’m glad I spent it with you一緒に過ごせて本当によかったOh such a perfect day本当に完璧な一日だったYou just keep me hanging on君のおかげで、ボクはこうやって生にしがみついてるYou just keep me hanging on君のおかげで、ボクはこうやって生にしがみついてる まあ、こんな歌なのですが、この映画のすべてが下に貼ったこの歌詞の中にあります。缶コーヒーはサンガリアなのかどうかわかりませんし、動物園じゃなくて公衆便所だったり、一杯飲み屋やお風呂屋さんだったりしますが、「君」はホームレスのおじさんや、トイレで泣いている坊や、調子ばかりのいい無責任な同僚や、家出娘や、余命宣告されたおっさんだったりするわけですが、「生にしがみついている」過去を捨てた平山正木(役所広司)さんをkeep him hanging onし続けてくれるのです。 ラストは、役所広司、圧巻の一人芝居です。見ごたえありました。見入りながら、役所広司の到達地点に唸りました。いわゆる、くさい芝居という言い方があって、映画の出だし、彼の芸達者ぶりにふとそんな感じを持ったのですが、ラストの一人芝居には唸りました。拍手!ですね。 何の事件も、サスペンスも描くことなくここまで引き付ける作品を作った監督ヴィム・ベンダースも凄いですね。拍手! 余談ですが、「パリ・テキサス」で母子の体面の部屋を道路から見上げて去っていったトラヴィス(ハリー・ディーン・スタントン)の姿を思い出しました。彼はあれから、何処で、どんなふうに暮らしているのでしょうね。 Perfect DayJust a perfect dayDrink sangria in the parkAnd then later when it gets dark we go homeJust a perfect dayFeed animals in the zooAnd then later, a movie too and then homeOh it’s such a perfect day I’m glad I spent it with youOh such a perfect dayYou just keep me hanging onYou just keep me hanging onJust a perfect dayProblems all left aloneWeekenders on our ownIt’s such funJust a perfect dayYou make me forget myselfI thought I was someone elseSomeone goodOh it’s such a perfect dayI’m glad I spent it with youOh such a perfect dayYou just keep me hanging onYou just keep me hanging onYou’re going to reapJust what you sowYou’re going to reapJust what you sowYou’re going to reapJust what you sowYou’re going to reapJust what you sow監督 ビム・ベンダース脚本 ビム・ベンダース 高崎卓馬撮影 フランツ・ラスティグ美術 桑島十和子編集トニ・フロッシュハマーリレコーディングミキサーマティアス・ランパートキャスト役所広司(平山正木)柄本時生(タカシ・同僚)中野有紗(ニコ・姪)アオイヤマダ(アヤ・タカシの恋人)麻生祐未(平山の妹)石川さゆり(居酒屋の女将)三浦友和(女将の元亭主)田中泯(踊っている街角の老人)2023年・124分・G・日本2023・12・22・no157・キノシネマ神戸国際 !
2023.12.23
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ギャスパー・ノエ「VORTEX ヴォルテックス」シネ・リーブル神戸 今日見たのは 、アルゼンチン出身らしいギャスパー・ノエという監督のフランス映画「VORTEX ヴォルテックス」です。 1940年生まれのジーさんと、1944年生まれのバーさんの老老二人生活と、これでオシマイ! の映画でした。 主人公の一人、ジーさんの方は映画評論かなんかの本を書いている、まあ、所謂、インテリの物書きですが、心臓手術の経験者です。もう一人の主役のバーさんは精神科の医者だったらしい、しっかり者のインテリで、家じゅう本で埋まっています。 息子が一人いますが、どうも、元ヤク中だったらしく、一応社会復帰はしていますが子連れの大麻売りです。経済的にも社会的にも、頼りになる感じではありません。そんな息子がシングル・ファーザーとして育てている孫のキキちゃんも、母親の不在と、見るからに不安定な父親という環境にやっとのことで耐えてる様子で、ジジ、ババの家に来ていても、落ち着かなくてシンドそうです。問題はしっかり者だったはずのバーさんがボケたことです。 老夫婦がベッドで寝ているシーンから始まって、バーさんが先に起きだします。トイレに行って、それからパジャマの上に、そのまま普段着を着込んで、台所に行って薬缶を火にかけて、部屋に戻って何かメモして、それをポケットに入れると、そのまま上着を着てドアを開けて外に出ていきます。もちろん火はつけっぱなしです。通りに降りて来て雑貨屋に入って、・・・・。 ジーさんが目覚めて、トイレに行って、沸き立っている薬缶の火を止めて、お湯をカップに注いで、自分の部屋に帰ってタイプライターをちょっと叩いて、ようやく、バーさんの不在に気付きます。で、あわてて上着を着こんで、よろけながら部屋を出て行って・・・・。 若い方が、ここまでのシーンをご覧になってどう思われるのか、チョット想像がつきませんが、目の前のシーンが他人ごとではないボクには、異様な実感と不安が沸き起こってきました。行って、しまえば、それがこの映画のすべてでした。笑えません。 老々介護の中で、まあ、当然起こるであろう出来事で映画は展開しますが、まだらボケが戻った時には捨ててほしい・・・・ と呟くバーさんと、心のどこかで現実から逃避したい本音を隠せないジーさん、世話する能力を端から持っていない息子、落ち着かない孫、哀しいとか、切ないとかいう以前に、ワラワラと湧いてくるあんなー・・・・ と、まあ、言葉にならない実感にとらわれ続けた2時間でした。題名の「ヴォルテックス」は「渦」という意味だそうですが、バーさんがやたらとごみを捨てたものですから流れないくなった水洗トイレの「渦」にならないシーンだけが記憶に残りました(笑)。 「老い」をめぐって「生」と「死」を真摯にとらえようとする努力というか、態度というかの表明のように、人生は夢の中の夢だとかフランソワーズ・アルディのMon Amie la Rose「バラのほほえみ」の絶唱であるとか、画面二分割の工夫だとか手を尽くしていらっしゃるのですが、かえって、こざかしい屁理屈というか、言わずもがなの講釈というかで、老人二人の演技のリアル! で十分でした。 いや、それにしても老夫婦を演じたお二人、ダリオ・アルジェント(夫)フランソワーズ・ルブラン(妻)には、まあ、だからといって、やっぱり笑えるわけではありませんが拍手!拍手!でした。 監督ギャスパー・ノエの真摯はしっかり受け止めましたが、たしかに、人生は夢の中の夢なのかもしれませんが、「老い」は「現実」 ですよ(笑)。ハハハ、ようやく笑えました(笑)。監督・脚本 ギャスパー・ノエ撮影 ブノワ・デビエ美術 ジャン・ラバッセ衣装 コリーヌ・ブリュアン編集 ドゥニ・ベドロウ ギャスパー・ノエ音楽 ケン・ヤスモトキャストダリオ・アルジェント(夫)フランソワーズ・ルブラン(妻)アレックス・ルッツ(息子)キリアン・デレ(孫)2021年・148分・PG12・フランス原題「Vortex」2023・12・18・no156・シネ・リーブル神戸no210 !
2023.12.22
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ジャン=ピエール・アメリス「ショータイム」シネ・リーブル神戸 予告編を見ていて思いました。「これって、好きかも?!」 まあ、そう閃いて見に来ました。で、好きなパターンでした(笑)。こういう、人情喜劇というのでしょうか、いろいろあるのですが、まあ、なんとなくハッピィ―・エンドというようなお話好きですね(笑)。 チラシにあるとおり、ロープにぶら下がってダンス(?)する、エアリアル・ポール・ダンスのシーンが、なかなかな迫力で、ダンサーのボニーという女性を演じているサブリナ・ウアザニという女優さんは、きっと、その道の人なんだろうと思いましたね。まあ、ポール・ダンスはともかく、エアリアルとかいうダンスの名を初めて聞いて、初めて見る人間のいうことですからあてにはなりませんがね(笑)。あのー、一応、お断りしておきますが、なかなかセクシーというあたりに惹かれて言っているのではありませんよ(笑)。全然ないというわけでもありませんけど。 映画の筋書きは、経営に行き詰った、チョット世間ずれした農場主が牧場の納屋でキャバレーを開くというお話でした。その発想が、まあ、突拍子もなくて面白いのですが、展開は案外ありきたりというか、王道というか、そうなればそういう山あり谷ありになるだろうというお話でした。 で、ボクに面白かったのはフランスの農村風景、ゴロゴロしている牛たちの姿とか、そうそう、牛の出産の実写、ボニーさんのダンス、それから、牛とかニワトリの物まねのおじさんの演技でしたね。こういう、のんびり楽しい映画を久しぶりに見ましたね。 で、エンドロールまでやって来て、笑いました。実話なのでした。フランスのお百姓さんがチャレンジして成功したお話だったのですね。キャバレーに挑んだ、牛飼いのダビッドさんは実在する! のです(笑)。どっちかというと、本物のダビッドさんに拍手!でした(笑)。 まあ、それにしても、何処の国でも、真面目に農業をやっていらっしゃる方たちは、とんでもなく苦労なさっているというわけで、そのあたりでしみじみしてしまいました。監督 ジャン=ピエール・アメリス脚本 ジャン=ピエール・アメリス マリオン・ミショー ジャン・リュック・ガジェ ミュリエル・マジェラン撮影 ビルジニー・サン=マルタン編集 アン・スリオ音楽 カンタン・シリャックキャストアルバン・イワノフ(ダヴィッド)サブリナ・ウアザニ(ボニー)ミシェル・ベルニエ(ミレーユ)ベランジェール・クリエフ(レティシア)ギイ・マルシャン(レオ)ムーサ・マースクリリュドビック・ベルティロ2022年・109分・G・フランス原題「Les Folies fermieres」2023・12・19・no157・シネ・リーブル神戸no211 !
2023.12.21
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長谷川櫂「震災句集」(中央公論新社) 先だって「震災歌集」(中央公論新社)を案内した長谷川櫂の、まあ、いわば本業「震災句集」(中央公論新社)です。収められている百句ほどの句を、ボソボソ呟くように読んで、十句ほど選びました。あの年、みちのくの海辺に立ち尽くしていたかの長谷川櫂の姿 が浮かびました。二〇一一年新年正月のくる道のある渚かな古年は吹雪となって歩み去る幾万の雛わだつみを漂へる 雛は雛人形焼け焦げの原発ならぶ彼岸かな天地変いのちのかぎり咲く桜滅びゆく国のまほらに初蕨 「まほら」は「まほろば」列なして歩む民あり死やかくもあまたの者を滅ぼさんとは ダンテ「神曲」迎え火や海の底ゆく死者の列怖ろしきものを見てゐる兎の目からからと鬼の笑へる寒さかな二〇一二年新年龍の目の動くがごとく去年今年みちのくや氷の闇に鳴く千鳥鬼やらひ手負いの鬼の恐ろしき 巻末に「一年後」という、いわば、あとがきを載せておられます。「震災歌集」で、「俳人の私がなぜ短歌なのか」 という、自らに対する問いを発しておられた俳人による、答えの一文でしたが、この句集ができる成り行きが書かれている部分を引きます。 大震災ののち十日あまりすぎると、短歌は鳴りをひそめ、代わって俳句が生まれはじめた。しかし、「震災句集」をつくるのに一年近くかかったのは私の怠け心を別にすれば、俳句のもつ「悠然たる時間の流れ」を句集に映したかったからである。また句集の初めと終わりに二つの新年の句を置いたのもこれとかかわりがある。どんな悲惨な状況にあっても人間は食事もすれば恋もする。それと同じように古い年は去り、新しい年が来る。(P154) 俳句という表現形式が「悠然たる時間の流れ」に支えられるものだという長谷川櫂の俳句観が、妥当なものであるのか判断する見識はボクにはありませんが、短歌という表現が、どこかで語りたがっている主体を意識させる、まあ、よくもわるくも押しつけがましさを感じるのに対して、俳句という表現が詠んでいる人の存在以前に、フッと浮かんでくる場や時が浮かんでくるような気はしますね。 まあ、あてにならない感想ですが、同じ震災という事件を前にして、長谷川櫂がどんな場所にいたのか、「震災歌集」、「震災句集」という二つの表現集で、実に、正直にさらけ出していらっっしゃることに感動しますね。 句集とか歌集とか、とりあえず読むことには苦労しませんからね。いかがでしょう。 ちなみに、この句集も、ここの所いじっている池澤夏樹本に出てきた本です。
2023.12.20
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リチャード・リンクレイター「バーナデット ママは行方不明」 パルシネマ 今回は「妻って何?母って何?私って何?」ということかなと、勝手にテーマをつけてやってきたパルシネマの2本立て、1本目はケイト・ブランシェット主演のコメディ、「バーナデット ママは行方不明」でした。監督はリチャード・リンクレイターという人で、名前に聞き覚えがあるのですが、作品は知りませんね。 実は、この2本立てのお目当ては、この作品に出ているケイト・ブランシェットという女優さんでした。 今年の夏に「ター」という作品で、クラッシクのオーケストラのマエストロ、女性指揮者を演じていらっしゃったのを見たのですが、なんだかなというか、辟易するというか、とても印象が悪かったのですが、それを口にすると、知り合いの映画好きの皆さんから「????」の反応で、結局、ボクの中では「?????」の方になってしまったでした。 で、この上映企画です。「ター」の前に撮られた作品のようですから、見ないわけにはいきませんね(笑)。 というわけで、やってきたというわけですね(笑)。ああ、もう1本は「エリザベート1878」で、そっちの感想はもうアップしています。 で、ケイト・ブランシェットさんですが、見終えてどうだったかですよね。ナルホド、お上手ですね! というのが、まあ、二度目の印象ですね。「妻って!母って!私って!」 という、役柄の素直な演技が好印象で、楽しい作品でした。でもね、ボクには新しい疑問が湧いてきちゃったんですね。あの、リディア・ターの印象は何だったんだろう? ですね(笑)。 女優としての振幅の広さということなのでしょうかね。2つの作品に共通しているのは「天才的な才能の持ち主」という人物を演じるということなのですが、この作品で彼女は「妻」、「母」、「私」という、内実が定かでない「空虚」を演じながら、それを充填していくための足掻き、まあ、それが、普通の人生なわけですが、それを実に真摯に表現していて、笑えるし、泣けるし、思わず拍手したくなったわけです。だって、天才が凡庸な「世間」相手に苦労しているんですからね(笑)。 ところで、あの作品で、彼女が演じていたのは天才的音楽家だったのですね。つまり、「音楽」に対する「空虚」が、映画の物語の前提として充填されているという設定でした。で、彼女が演じなければならなかったのは、「音楽」を天才として体現する人の「空虚」への転落だったわけですが、ボクが引っかかったのは、その音楽の天才の演技だったんですね。あまりに通俗! しかし、今考えてみれば、それは女優ケイト・ブランシェットの罪ではないかもしれませんね。彼女は、腹立たしいほどなインチキぶりを実に見事に演じていたともいえるわけで、お上手だから、よけいに引っかかったんでしょうね。 でも、まあ、今回の印象を加えても、大好き、二重丸! とは、まだいきませんね。というわけで、結局、また、出ていらっしゃると聞けば見に行くしかなさそうですね(笑)監督 リチャード・リンクレイター原作 マリア・センプル脚本 リチャード・リンクレイター ホリー・ジェント ビンス・パルモ撮影 シェーン・ケリー美術 ブルース・カーティス衣装 カリ・パーキンス編集 サンドラ・エイデアー音楽 グレアム・レイノルズキャストケイト・ブランシェット(バーナデット・フォックス・主婦)ビリー・クラダップ(エルジー・夫)エマ・ネルソン(ビー・中学生の娘)クリステン・ウィグ(オードリー)ゾーイ・チャオ(スーリン)ジュディ・グリア(カーツ先生)ローレンス・フィッシュバーン(ポール・ジェネリク)ジェームズ・アーバニアク(ストラング捜査官)トローヤン・ベリサリオ(ベッキー)2019年・108分・G・アメリカ原題「Where'd You Go, Bernadette」2023・12・12・no153 ・パルシネマno77 !
2023.12.19
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「今日はおばーちゃんの一周忌でした。」 徘徊日記 2023年12月16日(土) 西脇あたり おばーちゃんが倒れて一年たちました。今日はお寺で一周忌の集まりです。トラキチクンに載せてもらって、チビラくんたちと一緒に西脇徘徊でした。 おばーちゃんがいなくなった庭に南天が一枝だけ実をつけていました。 南天の赤い実は、なんだか寂しい時の流れを感じさせますね。おばーちゃんは一人で暮らしていた自宅で倒れたのですが、ガラス戸越しに、この南天の実を見たのかなあとか、やっぱり思い浮かべますね。 雨の予報でしたが、まあ、今にも降りそうな空模様でしたが、何とか持ちました。観音寺さんという御寺の遠景です。何かだ立派ですね(笑)。 お寺の庭には、樹齢400年だかの榧の大木が聳えています。なかなか壮観です。これまた立派ですね。茅葺(カヤブキ)とかいうのはこの皮だったっけとか訳の分からないことをチッチキ夫人に口走って、首を傾げられましたが、茅葺はススキですね。桧皮葺(ヒワダブキ)というのは檜の皮ですね。榧の木というのは碁盤とか将棋盤ですね(笑)。 で、本堂でのお経の後のお墓参りです。墓場にはススキですね(笑)。何ごともむかしとなりしススキかな 久保田万太郎折りとりてはらりとおもきススキかな 飯田蛇笏 で、帰り道です。 西脇の山手町あたりの町並みのなかですが、家の裏の小さな畑の柿の実を食べる人も、あまりいないのでしょうね。うれ柿をカラスもちさる時雨かな 中勘助 カラスの食べ残しですね(笑)。 柿の木の庭には、やっぱり、南天もありますね。とやかくの家相を払ふ実南天 能村登四郎まあ、そういうものなのでしょうね。 近所には神社もあります。秋葉神社というそうです。まあ、だあれもいませんけど。 そのあたりのお家の庭には。どこもかしこも南天です。赤い色がよく目立つ季節だからでしょうか、余計に眼につきますね。 南天の實をこぼしたる目白かな 正岡子規 スズメやメジロが寄ってくるのは、もう少し寒くなって、雪がちらつくようになってからでしょうかね。で、まあ、最後はこの句ですね。億年のなかの今生実南天 森澄雄 寂しいことですが、西脇にくることも減ってしまいそうですね。ボタン押してね!
2023.12.18
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ロバート・ウェストール「水深五尋」(金原瑞人・野沢佳織訳 宮崎駿絵・岩波書店) 池澤夏樹の「いつだって読むのは目の前の一冊なのだ」(作品社)という、週刊文春に連載していた「私の読書日記」を2003年から2019年までの16年間分集めた書評・ブックレビュー集があります。700ページほどの分厚さで、誰がこんな本を読むのか!? と訝しく思われるような見かけの本ですが、まあ、物好きなゴジラ老人は、最初、図書館で借りていたのですが、結局、買い込んでパラパラやっています。ハイ、ヒマなんですね(笑)。 で、その中で見つけたのが、岩波書店の児童書、まあ、児童書といっても、主人公たちも16歳だし、所謂、ヤング・アダルト、高校生くらい向けかなというのが読み終えた印象ですが、ロバート・ウェストールという、イギリスの作家の「水深五尋」でした。 第二次大戦末期のイギリスの北部の港町を舞台にしたお話です。ナチスのUボートに襲われる貨物船とか、主人公たちが住んでいる港町にもぐりこんだスパイをめぐって、男女、それぞれ二人づつの4人の中学生、16歳が活躍する戦争ものの冒険小説です。で、題名がちょっと意味わかんないという感じなのですが、実は、本文ではお話の終わりころになって出てきて、こんな訳になっている「詩」の一節です。水深五尋の海底にそなたの父は横たわる白い骨は珊瑚になったふたつの目は真珠になった体はすべてそのままで、海に姿を変えられて、美しく珍しいものになる ゴジラ老人には、読んでいて、この詩が出てきても、やっぱり、なんだこれは? だったのですが、シェイクスピアのテンペストという戯曲にあるらしい詩の一節だということが、主人公によって語られます。で、イギリスの中学生は、これを、学校で暗唱させられるらしいのですね。だから、誰でも、みんな知っているらしいのです。だから、イギリスでこの作品を手に取るであろう中学生たちには、なんだこれは?じゃないのですね(笑)。 悔しいので、ちょっと調べました。で、松岡和子の翻訳のシェイクスピア「テンペスト」(ちくま文庫)ではエリアルという妖精が歌う歌、その詩句で、こんな訳です。水底深く父は眠る。その骨は今は珊瑚両の目は今は真珠その身はどこも消え果てず海の力に変えられて今は貴い宝物。(「テンペスト」ちくま文庫P43~P44) まあ、くらべてみて、何かがわかるという知恵もないのですが、向こうの児童文学というのは、題のつけ方からしてシャレてますね(笑) で、上記の書評ですが、池澤夏樹は、小説のあらすじをあらかた語った上(笑)で、最後にこうまとめています。 これはイギリス式の小説の書きかたのとてもよくできた例である。まず読者の共感を誘う主人公がいて、軸となるストーリーがあり、謎につぐ謎があり、ち密で具体的な生き生きとした細部があり、作者の倫理観・人間観という大きな枠がある。(P251) 絶賛ですね(笑)。で、トドメがこうです。 訳はいいし、宮崎駿の絵もいい。それ以上に、一見とっつきにくいタイトルを直訳した訳者たちの判断を高く買いたい。本屋の店頭ではそそらないかもしれないが、読み終わったら絶対に忘れない。出展がシェイクスピアだけに、短くて印象的。 ね、読まないわけにいかないでしょう(笑)。ボクは宮崎駿が、この作品にほれ込んだという話を、どこか別のところで聴いたことがあるような気がしましたが、上の表紙で分からるように、装丁も彼の絵なのですよ。 まあ、池澤の絶賛ほどの読み応えかどうかは、人によるでしょうが、子供向けだとなめてかかると、少々手間取るかもしれませんね。もちろん、読後感は悪くないですよ(笑)。
2023.12.17
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ガリー・キーン アンドリュー・マコーネル「ガザ 素顔の日常」元町映画館 元町映画館が緊急上映として企画したガリー・キーン、アンドリュー・マコーネルという二人の監督が撮った、原題「Gaza」、邦題が「ガザ 素顔の日常」というドキュメンタリーの上映が2023年12月15日の金曜日、最終日になりました。「どうしようかなあ・・・」と逡巡していたのですが、結局出かけました。 で、やっぱり、辛い映画でした。2023年12月現在の今、もう、どうしようもない状況になっていると、何も判っていないボクは思うのですが、映画は2018年頃の、パレスチナ自治区、ガザ地区の日常風景をドキュメントしていて、出だしは、ちょっとホッとするのですが、結局は空爆や狙撃の標的として撃たれたり、瓦礫に埋まったりして、大けがをしたり、命を失っていく人たちの姿を見ないわけにはいきませんでした。 映画の中には、チェロを弾く少女や漁師になる夢を語る少年、民族衣装のファッションショーをするおばさんや、妻が三人いて子どもは40人いるとおっしゃる、まあ、どう見てもお父さんというより、おじいさん、冗談のお好きなタクシーの運転手さん、さまざまな方が出ていらっしゃいます。 で、どの方も、自分自身の人生や、家族の未来を語ろうとすると、最後は俯くしかない様子で映っていらっしゃったこと。 瀕死の重傷者の治療を終えたばかりの救急隊のおじさんが「パレスチナ人以外の、全世界の人間を憎む。」 と呟かれたこと。 家族の死を語ったファッション・ショーのおばさんが「そのとき、大人になったら、兵士になろうと思っていたわ。でもね、気付いたの、暴力では何も解決しないって。」 と涙を流しならおっしゃったこと。おそらく、ボクの記憶に、まあ、それがいつまでなのか予想はつきませんが、残りますね。 海が好きだというチェロを弾く少女が爆煙がただよう海岸に佇み、漁師になりたい少年が小さなボートを操りながら沖に出ていくシーンで映画話終わりました。 エンドロールをボーっと見ながら、涙がこぼれるのは、まあ、そうなのですが、こんなに胸が塞がる気分になるドキュメンタリーはそうないのではないでしょうか。今、この時の、現実を想像したりしたら、とても見ていられないのですが、それでも、やはり、見てよかったですね。ここには生きている人間の普通の姿あるんですよね。 普通に生きていらっしゃる、この人たちを殺したり傷つけたりするのは、いかなる理由があろうとも「戦争犯罪」だとボクは思いました。監督 ガリー・キーン アンドリュー・マコーネル撮影 アンドリュー・マコーネル編集 ミック・マホン音楽 レイ・ファビ2019年・92分・アイルランド・カナダ・ドイツ合作原題「Gaza」2023・12・15・no155 ・元町映画館no217 !
2023.12.16
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マリー・クロイツァー「エリザベート 1878」パルシネマ 今日のパルシネマは、まあ、なんというか、妻って何?母って何?私って何? という感じの2本立てで、1本はケイト・ブランシェット熱演のコメディ「バーナデット ママは行方不明」で、もう1本がこの作品でマリー・クロイツァーというオーストリアの、多分、女性の監督で「エリザベート1978」でした。ハプスブルク帝国の最後から二人目の皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世の皇后さんが主人公のお話でした。 原題は「Corsage」で、普通、髪なんかを飾る花飾りのことだと思うのですが、この映画の場合は、女性の胴体を締める「コルセット」のことらしいですね。 で、邦題にくっついている「1878」というのは、映画の中でもスーパーが流れるのですが、エリザベートさんが40歳になったのが西暦1878年というわけで、その一年間の顛末が映画のお話でした。 40歳に、どんな意味があるかというと、当時の女性の平均寿命が、まあ、この映画の場合、史実かどうかは疑わしいのですが、その年だという設定ですね。ちなみに、エリザベート皇妃という方は、その「美貌」で歴史に名を残している人らしくて、映画や、マンガ、それから宝塚の主人公とかで有名な方らしいのですが、ボクは知りませんでした。 で、映画の主人公であるエリザベートさんが何をするのかというと、まあ、ボクの見立てにすぎませんが、逃走! でしたね。上のチラシのエリザベートさんは「かかってきなさい!」 のポーズを決めているようですが、ボクの目にはひたすら逃げまくったように見えましたね。まあ、いってしまえば彼女をコルセットで縛るあらゆるものからの逃走映画だと感じましたですね。 風呂桶に沈み込んで、侍女に時間を測らせているシーンから映画は始まりました。このシーンの映像水にただよう女! まあ、そんなイメージが、唐突に焼き付けられる印象ですね。水の女というコンセプトが、その昔ありましたね(笑)。風呂好きの女性の湯あみシーンでのお遊びではありませんよ(笑)。 歴史が彼女をいかに美貌の皇后として物語り、宮廷画家が皇妃としてふさわしい姿に描き、王宮の人々が、宮廷の主人公らしさを求め続けるとしても、それらはすべて幻影であって、エリザベート自身は、彼女自身の変幻自在の生を生きるほかはありません。 で、この作品の女主人公はコルセットで締めあげられた、押し付けられた「物語」からあくなき闘争の女を生きるのですよ。幻影としての現実から真実の生へ、どうやって逃げ延びるか、これは、それを映し出した作品ですよ! まあ、そういうふうに監督自身が最初に宣言したシーンが、あのシーンだったんだなというのが、最後の最後に、美しい海原に向かって見事に跳躍し、コルセットの人生の幕を閉じるラストシーンを見ながら気付いたことでした(ホンマかいな?)。 というわけで、水のイメージを随所に織り込みながら、主人公に死と再生、あるいは、自由への逃走のドラマを生きさせようとするマリー・クロイツァー監督のアイデアに拍手!でした。 映画の中のエリザベートは41歳になることを拒否して青い海原に跳躍します。そのシーンは、桎梏の現実から再生の夢への飛翔であるかのごとく美しく描かれているわけですが、再生した現実のエリザベートは60歳まで生き延びて、なんと、暗殺というか、所謂、暴漢に襲われて、不慮の死を死んでしまうという歴史的現実があるわけですから、ままなりませんね(笑)。 しかし、まあ、白い豪華客船の舳先から海原に向けて飛翔するまでのエリザベートを執拗に描いた監督マリー・クロイツァーの意図は、まあ、ボクが勝手に想像したにすぎませんが、とても面白いと思いましたね。拍手! 最後に、ちょっと余計なことですが、チラシの作り方とか、キャッチ・コピーとか、フェミニズムを、商品のネタとして、薄っぺらく煽っているかの宣伝の仕方はやめた方がいいと思いますね。 ああ、それから、最後に映された豪華客船が、どう見ても現代の船であったのは何故なのでしょうね。一応、歴史映画の体裁で作られていたはずなのですがね(笑)。監督・脚本 マリー・クロイツァー撮影 ジュディス・カウフマン美術 マーティン・ライター衣装 モニカ・バッティンガー編集 ウルリケ・コフラー音楽 カミーユキャストビッキー・クリープス(エリザベート・皇后)フロリアン・タイヒトマイスター(フランツ・ヨーゼフ・皇帝)カタリーナ・ローレンツ(マリー・フェシュテティチカ)ジャンヌ・ウェルナー(イーダ・フェレンツィ)アルマ・ハスーン(フランツィスカ・フェイファリク)マヌエル・ルバイ(ルートヴィヒ 2 世・バイエルン王)フィネガン・オールドフィールド(ルイ・ル・プランス)アーロン・フリース(ルドルフ)ローザ・ハジャージュ(ヴァレリー)リリー・マリー・チェルトナー(マリー・両シチリア王妃)コリン・モーガン(ベイ・ミドルトン)2022年・114分・PG12・オーストリア・ルクセンブルク・ドイツ・フランス合作原題「Corsage」2023・12・12・no154 ・パルシネマno78 !
2023.12.15
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マーク・トウェイン「ジム・スマイリーの跳び蛙-マーク・トウェイン傑作選」(柴田元幸訳・ 新潮文庫) ひょっとした、この人くらいは読まれているのではあるまいかと淡い期待を寄せているマーク・トウェインでしたが、20歳くらいの方には、今や縁遠いようですね。 1835年生まれで1910年に亡くなったらしいですから、日本でいえば江戸時代の終わりから、明治の終わりくらいの方です。 「最初のアメリカ文学だ」と「武器よさらば」のヘミングウェイがいったとか、「最初のアメリカの作家だ!」と「八月の光」のフォークナーは いったとか、まあ、お二人ともノーベル文学賞ですから大変なのですが、一方で、たとえば「マーク・トウェイン」という筆名は、ミシシッピ川をさかのぼる汽船のための水深二尋の標識のことだとかいうわけで、真面目なんだかおふざけなんだかわからない人なのです(笑)。 以前、このブログで柴田元幸訳の「ハックルベリー・フィンの冒けん」を案内したことがあって、その時に、この文庫の話をチョット出したのですが、ほったらかしていました。 というわけで、今回の案内は「ジム・スマイリーの跳び蛙-マーク・トウェイン傑作選」(新潮文庫)です。 短編集というか、これは小説なの? と尋ねたくなるような超短編も載っていて、なんなんだよこれは? と引っかかるのですが、柴田元幸が巻末で解説しているのを読んで、膝を打つというか、ウフフフと笑うというかの作品群なのですが、きいたふうなことを言っても仕方がないので実例です。 開巻第1作が「石化人間」ですが、以下のとおりです。 しばらく前に、石化した男性がグラヴリー・フォードの南の山中で見つかった。石になったミイラは四肢も目鼻も完璧に残っていて、生前は明らかに義足だったと思われる左脚すら例外ではなかった。ちなみにその生前とは、故人を詳しく調べた学者の意見では一世紀近く前に終わったとのことである。 その体は椅子に座った姿勢で、露出した地層に寄りかかり、物思いにふけるような風情、右手の親指を鼻の側面にあてている。左の親指はあごを軽く支え、人差指は左の目頭を押して、目は半ば開けている。右目は閉じていて、右手の指残り四本は大きく広げられている。この奇妙な自然の変種は近隣で大いに話題となり、情報筋によればハンボルト・シティの判事スーエルだかソーエルだかが要請を受けてただちに現場へ赴き、死因審問を行った。陪審の評決は「死因は長時間の放置だと思われる」云々というものであった。 近所の人々がこの気の毒な人物の埋葬を買って出、実際やる気満々の様子であったが、遺体を動かそうとしたところ、頭上の岩から長年にわたり水が垂れていて、それが背中を伝って流れ、体の下に石灰の沈殿物が築盛されて、これが糊として機能し、椅子の役を果たしている岩に体が堅固無比に接着されており、慈悲深い市民たちは火薬を用いて故人をこの位置から引き剥がそうとしたがS判事はこれを禁じた。そのような手段は冒瀆に等しいという判事の意見は誠に正当にして適切といえよう。 誰もが石男を見にくる。過去五、六週間のあいだに三百人ほどがこの硬化した人物の許を訪れた。(一八六二年十月四日)(P10~11) ね、短いでしょ。本文は改行なしの1パラグラフですが、ちょっと読みにくいので引用する時に勝ってに改しましたこ。で、これを読んで、まあ、ボク程度に鈍い人はいきなり笑いはじめることができませんよね。冗談というかユーモアというか、コラムというべきか小説だというべきか、わかります?で、巻末にある解説がこれです。「石化人間」(Ptrified Man) 一八六二年十月四日、「マーク・トウェイン」の筆名を使い始める以前、本名の「サミュエル・クレメンズ」の名で「テリトリアル・エンタプライズ」紙に掲載された。 トウェイン自身が後に述懐したところによれば、当時、「石化物」をはじめとする自然の驚異の発見譚が流行していて、その過熱ぶりを茶化すためと、ハンボルト・カウンティの判事スーアルをからかうためにこの文章は書かれた。石化した人物の採っている「あっかんべえ」のポーズから見て悪ふざけのデッチ上げあることは明白だが、トウェインによれば当時本気にした人は多く、イギリスの医学雑誌「ランセット」にも採り上げられと本人は称している。が、実のところ「ランセット」にそのような記述は見あたらない。(P243) ね、笑えるでしょ。下に目次を貼りましたけど、まあ、長さはこの作品がとりわけ短いのですが、面白さはよく似ていて、柴田元幸の解説とセットで楽しんでいただきたというわけです。若い方のためのマーク・トウェイン入門に、というより、子どもころ「トム・ソーヤーの冒険」で読んだけど、っていうお暇な方の暇つぶしにぴったりかもですね(笑)。 目次石化人間風邪を治すにはスミス対ジョーンズ事件の証拠ジム・スマイリーの跳び蛙ワシントン将軍の黒人従者―伝記的素描私の農業新聞作り経済学本当の話―一語一句聞いたとおり盗まれた白い象失敗に終わった行軍の個人史フェニモア・クーパーの文学的犯罪物語の語り方夢の恋人 で、実はこの本はここの所いじっている池澤夏樹の「いつだって読むのは目の前の一冊なのだ」(作品社)のなかで2014年10月9日の日記に紹介されていますね。 フリオ・コルタサルという南米アルゼンチン出身の作家の短編作品と絡めて、この短編集の最後の作品「夢の恋人」が話題にしていますが、おぼつかなくて切ない夢の描写がコルタサルに実によく似ている。 と評しています。ちなみにコルタサルは1914年生まれで1984年に亡くなっています。
2023.12.14
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リドリー・スコット「ナポレオン」109ハット 御年86歳のリドリー・スコット監督の新作「ナポレオン」を見ました。 先日、御年76歳の北野武監督の新作「首」を見て、ボク的には「中世的世界最後の大タワケ」だと思っている信長をどうなさるのかと興味津々だったのですが、まあ、なんだかなあ??? という具合で、首を傾げたわけなのですが、こちらは、もう10歳、年上の方なわけで、ご老体、さて、「馬上の世界精神」(ヘーゲル)をどうなさるのだろうと興味津々でやってきました。で、納得! でした(笑)。ボクは、このタイプの歴史映画、やっぱり好きですね(笑)。 映画としての興味の一つは、まあ、ナポレオンといえば、の「アウステルリッツ」、「ワーテルロー」の二大会戦のスペクタクル・シーンを大スクリーンで! と期待していたのですが、大劇場での上映時間を勘違いして109ハットの中では、小劇場上映の鑑賞になってしまったので、チケット購入時点では、ちょっとがっかり! だったのですが、実際は、たった一人の客のための特別上映会(ウソですよ。)で、小なりと言えど、劇場のど真ん中で社長試写会状態での鑑賞で大満足でした(笑)。 二つ目の興味は年上の妻ジョセフィーヌをどうするのだろう?だったのですが、おばさんが出ていらっしゃると思いきや、結構、お若い女優(バネッサ・カービー)さんで、あれ?そうなの? だったのですが、この映画のナポレオンには、まあ、あれはあれでよかったんだろうね(笑) という感想でした。 で、三つめはナポレオンご当人です。映画は「ジョーカー」のホアキン・フェニックスの一人芝居でした。これが、すごかったですね(笑) コルシカ出身の、だから、まあ、田舎者で、大砲を撃つことしか知らない砲兵大尉ナポレオン・ボナパルトがマリー・アントワネットの首が、断頭台ギロチンから転がり落ちるシーンを狂喜する民衆の中を歩いているシーンから始まります。ああ、また、首ですか?! まあ、そんな気分で見ていたのですが、刑場を通りかかったナポレオンは何の反応も見せません。マリー・アントワネットが斬首されたのは1793年です。ナポレオンがその広場に、実際にいたかどうかは、ちょっと怪しい気がしましたが、王妃の首がギロチンから転がり落ちた、まさに、その時、大騒ぎする民衆の中に、一介の砲兵大尉ナポレオンを無感動な「時代精神」として登場させた演出はなかなかな見ごたえでしたね。 で、彼は、ここから、無感動に「大砲」をブッ放し続けます。ピラミッドを破壊し、敵前逃亡を疑われたパリでは民衆相手にブッ放し、アウステルリッツでは氷上の三帝会戦を制し、冬のモスクワを焼き払いますが、要するに「旧世界」に向けてブッ放し続けるわけです。 で、エルバ島への最初の幽閉があって、復活するも、ワーテルローで、ナポレオンのおかげ(?)でナショナリズムに目覚めたウィーン会議の連合軍に敗れ、戦いに付き従ったフランス国民兵の10万を越える命とともにすべてを失い、大西洋の果ての島、セント・ヘレナ島で崩れ落ちる影として最後を迎えます。映画はホアキン・フェニクスの後ろ姿が画面から消えて終わりました。 大砲をブッ放しつづけることで、王妃の首に大騒ぎする民衆に「フランス」をあたえ、「オレたちの国フランス」=国民国家=ナショナリズムを作り出した「英雄」(ベートーヴェン)ナポレオンが、故郷と母親を恋しがる、ただのマザコンであり、ただの砲兵大尉でしかなかったという「空虚」を、何を考えているのかわからない存在として演じたホアキン・フェニックスの、あの眼に拍手!でした。 長いといえば長い映画ですが、ボクには面白かったですね。老いたりといえども、リドリー・スコット、さすがですね。拍手! ああ、それから、ボク一人のために映写してくれた技師さんに拍手!アリガトウ、ご苦労様でした! でしたね(笑)。 ハハハ、ボクは、まあ子どものころから好きですが、それにしても、ナポレオンなんて、今時はやらないんでしょうかね(笑)。監督 リドリー・スコット製作 ケビン・J・ウォルシュ マーク・ハフマン ホアキン・フェニックス リドリー・スコット脚本 デビッド・スカルパ撮影 ダリウス・ウォルスキー美術 アーサー・マックス衣装 ジャンティ・イェーツ デビッド・クロスマンキャストホアキン・フェニックス(ナポレオン)バネッサ・カービー(ジョゼフィーヌ)タハール・ラヒム(ポール・バラス)マーク・ボナールパート・エベレットユーセフ・カーコア2023年・158分・PG12アメリカ原題「Napoleon」2023・12・06・149 ・109ハットno36 !
2023.12.13
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「うちの楓は満開(?)です。」 ベランダだより 2023年12月10日(日)ベランダあたり 棟の玄関に出てきました。これが、うちの楓!! (笑) 実は、隣の棟の庭の楓は散ってしまったんですよね。で、こちらがうちの棟の前の庭に2本ある楓の1本。 今が、満開(?)です。 その隣のアメリカ・フーはご覧の通り、見事に散ってしまいましたが、こういうシルエットも実はいいなあ! と思うんですよね。 ついでです。今年はススキを見かけませんでしたが、すぐそこにありました。なんだか、いいでしょう。 何の脈絡もありませんが、南天もありました。まあ、そういう季節なのですよね。 実は棟のすぐ前にもあるのですが、実がなっていないんですよね。だから、チョット向うの南天に登場していただきました(笑) で、これが、先日来のわが家の楓の、もう1本です。 何だか、色が、しっかりと「紅」になってくれない、なーんちゃって(笑)、なのですが、こちらも今、紅葉の盛りです。まあ、どちらにしても、もう、冬ですね(笑)。ボタン押してね!
2023.12.12
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「裏庭も冬かな?」 ベランダだより 2023年12月10日(日) ベランダあたり 裏庭です。昔はゆかいな仲間たちのあそび場でしたが、今では日曜日の今日も子どもは居ません。ちょっと寂しいですね(笑)。 立ち木の葉っぱが黄色くなったり赤くなったり、みんな散ってしまったり、なかなか、晩秋の雰囲気ですが、松の木とカイズカイブキは緑です。 向うに見える、多分、ドングリの木の、チッチキ夫人がそういうのですが、確かめたわけではありませんが、まあ、その木のアップです。 こちらは、葉っぱが落ちてしまってハダカンボウになったアメリカフーです。 ベランダには唐辛子と風船カズラです。やっぱり、もう、冬ですねえ(笑)。ボタン押してね!
2023.12.11
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長谷川櫂「震災歌集」(中央公論新社) 今日の案内は俳人として知られている長谷川櫂の「震災歌集」(中央公論新社)という短歌集です。くりかえしになりますが長谷川櫂は俳人として知られている人ですが、これは短歌集です。そのあたりの事情が「はじめに」の中にこう記されています。 はじめに この「震災歌集」は二〇一一年三月十一日午後、東日本一帯を襲った巨大な地震と津波、続いて起こった東京電力の福島第一原子力発電所の事故からはじまった混乱と不安の十二日間の記録である。 そのとき、わたしは有楽町の山手線ホームにいた。高架のプラットホームは暴れ馬の背中のように震動し、周囲のビルは暴風にもまれる椰子の木のように軋んだ。 その夜からである。荒々しいリズムで短歌が次々に湧きあがってきたのは。わたしは俳人だが、なぜ俳句ではなく短歌だったのか、理由はまだよくわからない。「やむにやまれぬ思い」というしかない。(P1) ボクはこの歌集の存在を池澤夏樹の「いつだって読むのは目の前の1冊なのだ」(作品社)の2017年4月20日の日記の紹介で知りました。 人々の嘆きみちみつるみちのくを心してゆけ桜前線という1首を引き、池澤夏樹はこういっています。 あの春、ぼくは長谷川櫂のこの歌を知らなかった。六年後の今になって出会って、また別の思いを抱く。「心してゆけ」という自然現象への命令が後鳥羽院の「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」を引き出す。自然に命令してそれが叶えばどんないいいことだろう。 福島について言うならば 青く澄む水をたたえて大いなる瞳のごとく原子炉ありき が「かつて」であり、「されど」として 見しことはゆめなけれどもあかあかと核燃料棒の爛れるをみゆ が隣に並ぶ。前の歌は河野裕子の「たっぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江といへり」を連想させるけれども、あとの歌に続く歌はない。 句集の方では 千万の子の供養とや鯉幟 にぼくはあの年の五月五日、花巻から遠野に向かう途中で、猿ヶ石川の水面の風に泳いでいた無数の鯉幟を思い出す。まさにこの句のとおりの思いで見たのだ。詩歌の喚起力である。(P585) ぼくが、この歌集と出会ったのは2023年の秋です。数えてみると東北の震災から12年たっていました。一首づつ読み進めてるボクの中に呼び起こされたのは1995年、1月17日の早朝に始まったあの記憶でした。あれからボクには、生きているということは信じられないと呟くしかないような出来事に出会うことだという思いがありますが、その思いを揺さぶるかのように記されている歌の中から10首選びました。 二〇一一年三月十一日津波とは波かとばかり思ひしがさにあらず横ざまにたけりくるふ瀑布乳飲み子を抱きしめしまま溺れたる若き母みつ昼のうつつにかりそめに死者二万などといふなかれ親あり子ありはらからあるを新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやけし吉事大伴家持新年をかかる年とは知らざりきあはれ廃墟に春の雪ふるヒデリノトキハナミダヲナガシサムサノナツハオロオロアルキ 宮沢賢治「雨ニモマケズ」たれもかも津波のあとをオロオロと歩くほかなきか宮沢賢治避難所に久々にして足湯して「こんなときに笑っていいのかしら」被災せし老婆の口をもれいづる「ご迷惑をおかけして申しわけありません」身一つで放り出された被災者のあなたがそんなこといはなくていい黒々と怒りのごとく昂りし津波のあとの海のさざなみ復旧とはけなげな言葉さはあれど喪ひしものつひに帰らず 長谷川櫂には「震災句集」もあるようです。読むことができたときには、また案内したいと思います。
2023.12.11
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瀬々敬久「春に散る」パルシネマ 2023年の夏に封切られた瀬々敬久監督の「春に散る」を見ました。封切のときから佐藤浩市の白髪頭の写真が気にかかっていました。チラシを見れば、ボクシング映画だとわかりますが、トレーナー役の佐藤の姿勢が、まあ、ボクがそう思うだけかもしれませんが、不自然で、なんとなく見ないまま終わったのですが、パルシネマが「ダンサー・イン・パリ」との組み合わせで上映していたのですが、ボクは「夜パル」の「ションベン・ライダー」との2本立てで見ました。「ションベン・ライダー」が本命だったので、封切で見た「ダンサー」はパスしました。三本立ては、もう無理ですからね(笑)。 「ションベン・ライダー」の、いわば前座で見たのですが、まあ、こっちの方は、納得でしたね。「日本映画史上最強の胸熱ドラマ」というコピーですが、「極熱」ってどう読むねん! と突っ込みたくなりますが、それ以前に、チョット持ち上げすぎでしょうね(笑)。佐藤浩市くんを見ようと思って行ったのですが、よかったのは片岡鶴太郎の動きと、窪田正孝の眼つき、それとボクシングの試合シーンの横浜流星でした。 沢木耕太郎の原作ですから、所謂、「人間ドラマ」は予想していましたが、そっちでウルウルはしませんでした(笑)。それよりも、クロス・カウンター!でしたね(笑)。 元ボクサーの老人、広岡仁一(佐藤浩市)とやさぐれているボクサーくずれのチンピラ青年、黒木翔吾(横浜流星)の出会いのシーンで一度。黒木と東洋チャンピオン大塚俊(坂東龍汰)のスパーリングと、タイトルマッチで、それぞれ一度づつ。黒木と世界チャンピオン中西利男(窪田正孝)のタイトルマッチの試合の中で、多分二度、最後には黒木が中西相手に決めますが、もう、目が離せませんでしたね。 そうなんです、ボクは「明日のジョー」でボクシングを知って、それしか知りませんからね。ボクシングといえばクロス・カウンターなのです(笑)。 いやあ、もう、最初に広岡仁一が黒木青年にかました、そのシーンから、もう、ドキドキ、ワクワクでした。 沢木流の人間ドラマを支えた広岡佳菜子(橋本環奈)、真田令子(山口智子)、黒木の母(坂井真紀)の女性陣も悪くなかったですが、元ボクサー佐瀬を演じた片岡鶴太郎の動きにはしびれましたね。彼はボクサーとしてプロだったと思いますが、トレーナーとしての練習場での、なにげない動きはさすがだと思いました。ズブの素人目でいうことですからあてにはなりませんが、リング上での窪田君の動きとともに目を瞠る思いでしたね。まあ、横浜君と佐藤君は、ボクシングについては素人なのでしょうね。 で、窪田正孝という俳優さんですが、「愛にイナズマ」という作品で佐藤浩市と共演していて、ヘンな奴やな?! だったのですが、今回は、所謂、敵役だったのですが二重丸でした。拍手!でしたね。地味なのですが面白い役者になりそうですね。 で、久しぶりに「あしたのジョー」を思い出さてくれた監督瀬々敬久に拍手!でしたね。最後の試合、まあ、黒木君びいきで見てしまうわけですが、ホントにどうなるのか、ドキドキでしたね。映画の試合でドキドキしてどうすんねん! いやあ、ホント、ドキドキしましたよ。もう一度、拍手!監督 瀬々敬久原作 沢木耕太郎脚本 瀬々敬久 星航撮影 加藤航平照明 水瀬貴寛編集 早野亮音楽 田中拓人主題歌 AIキャスト佐藤浩市(広岡仁一・元ボクサー)横浜流星(黒木翔吾・ボクサーくずれ)橋本環奈(広岡佳菜子・広岡の姪)坂東龍汰(大塚俊・東洋チャンピオン)窪田正孝(中西利男・世界チャンピオン)片岡鶴太郎(佐瀬健三・元ボクサー)哀川翔(藤原次郎・元ボクサー)山口智子(真田令子・真拳ボクシングジムオーナー)松浦慎一郎尚玄奥野瑛太坂井真紀(黒木の母)小澤征悦2023年・133分・G・日本2023・12・08・no150・パルシネマno75 !
2023.12.10
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相米慎二「ションベンライダー」パルシネマ 先日、京都まで出かけて見た相米慎二「台風クラブ」がワッチャー?! だったので、神戸のパルシネマでやり返してやろうと勇んで出かけてきたのが相米慎二「ションベン・ライダー」です。 パルシネマという映画館は通常2本立ての名画座です。で、朝と夜に1本立ての「夜パル」「朝パル」という、なかなかディープなというか、シブイというかのプログラムを上映しておられるのですが、先日まで「朝パル」だった、お目当ての「ションベン・ライダー」が、今週は「夜パル」、午後7時50分くらいに始まって、終わるのが10時くらいの番組に変わっていて、ちょっと怯んだのですが、「まあ、昼の2本立てプログラムの「春に散る」と2本見ればいいや。」 と、勝手な2本立てを計画して挑みました。もちろん別料金です。とほ・・・・。 で、あえなく返り討ちでした(笑)、トホホ・・・。 まあ、きいたふうなことはやめておこうと思いますが、この、やたらの、とっちらかり方には、やはり 、監督の意図があるのでしょうね。 かっこよく意味不明な言い方をすれば、語ってしまえばステロタイプ化する物語からの逃走! とでもいえばいいのでしょうが、40年前に衝撃だったしっちゃかめっちゃかが、今見ていると、なんだか、ただ、あほらしいだけというか、かえって、息苦しい感じさえするんですよね。 映画があの「時代」を上手に映しているとはとても言えないのですが、終わってしまった1980年代という時代の映画 ということを強烈に感じさせられた2作でした。 それにしても、主役らしき藤竜也こそ、最近、尾道の豆腐屋さんで見かけましたが、桑名正博とか財津一郎、ケシー高峰、ああ、それから前田武彦、今は亡きなつかしい方たちのお顔がなつかしいような、そうでもないような、で、中学生三人組の一人の辞書くんとかを演じているのが、今時では、バラエティの司会かなんかやっているインチキ臭いおっちゃんの坂上忍だったりするわけで、時がたちましたね(笑)。 イヤー、相米慎二監督は、もういいですね。ノックアウトでした! 今のボクには歯が立ちません(笑)。監督 相米慎二脚本 西岡琢也 チエコ・シュレイダー原案 レナード・シュレイダー撮影 たむらまさき 伊藤昭裕美術 横尾嘉良音楽 星勝編集 鈴木晄キャスト藤竜也(厳兵ごんぺい・極竜会のヤクザ)河合美智子(ブルース・中学生)永瀬正敏(ジョジョ・中学生)坂上忍(辞書・中学生)デブナガ(鈴木吉和・誘拐された中学生)原日出子(アラレ・英語の教員)桑名正博(山・誘拐犯ヤクザのあんちゃん)木之元亮(政・誘拐犯ヤクザの兄貴分)財津一郎(島町・名古屋の組長)村上弘明(金太・島田組のヤクザ)寺田農(木村・すぐに夫婦で殺される)宮内志麻(木村の妻)伊武雅刀(横浜の巡査)きたむらあきこ(知子・ヤクザのあんちゃん山の姉)倍賞美津子(郁子)前田武彦(デブナガの父親)ケーシー高峰(金貸しの中年男)1983年・118分・日本配給:東宝劇場公開日:1983年2月11日2023・12・08・no151・パルシネマno76 !
2023.12.09
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原泰久「キングダム(69)」(集英社) 2023年、夏のマンガ便で届いていた原泰久「キングダム」(集英社)の69巻の感想が、なかなか書けませんでした。65巻から始まった秦対趙の戦いは67巻で「どうせ。最後はおれが勝つ!」とうそぶいた秦六将の雄であり、異能の嫌われ者、桓騎将軍が秦軍の総大将として戦ってきたわけですが、69巻に至り、宜司平野の決戦で趙将李牧の術策にはまり壮絶な最期を遂げてしまいます。 大群のぶつかり合いと、その中での個々の戦闘シーンを描いていくのは、さぞかしご苦労様なお仕事だろうと思いますが、この桓騎の最後のシーンは、実に感動的でした。「三年、秦攻赤麗・宜安。李牧率師、與戦肥下、却之。(幽繆(ゆうぼく)王三年、秦赤麗・宜安を攻む。李牧師を率い、興に肥下に戦い、之を却く。)」(史記)「李牧數破走秦軍、殺秦将桓騎。(李牧数々破り秦軍を走らしめ、秦将桓騎を殺す。)」(戦国策) 「史記」、「戦国策」に残されている記事が詞書されたこのシーンは、ボクの中では「キングダム名シーン」の一つとして記憶に残りそうです。 さて、69巻の後半では、総大将桓騎の死によって、総崩れとなった秦軍の中にあって、この作品の主人公である「信」こと、飛信隊隊長、李信と、彼のライバル楽華・蒙恬(もうてん)という二人の若武者は命からがら敗走し、秦都咸陽にたどり着きます。 帰り着いた都咸陽では、趙に大敗した秦の方針転換が始まっていました。戦い続けてきた趙との最終決戦を迂回し、もう一つの隣国、韓の王族である、あの韓非子の招聘という新展開です。 中国の思想史には老子、荘子で知られる道家、性善説を主張し、孔子の教えを信じる儒家、荀子の性悪説に従い、法治を目指す法家という三通りの流れがありますが、その中で、法家の天才として名高い韓非子の登場です。 法治による国家経営を目指している秦王政が、夢に見る統一王朝のブレーンとして、儒教国家である韓にはいどころのない、法家の思想者韓非子に目を付けたというわけです。 その、韓非子招聘使節団の警護が帰国した李信の初仕事でした。まあ、そこからの顛末は70巻に続きますが、まあ、なによりも韓非子登場! に唖然としました。作者である原泰久の気合というか、重層化して流れている歴史を、少年マンガと言えども、手抜きなし! で描こうとする意欲ですね、そこにカンドーしました(笑)。戦いに次ぐ戦いの中で69巻までやってきた「キングダム」ですが、統治の思想家韓非子がどう描かれるのか、ワクワクします。それでは次は70巻です。また覗いてくださいね(笑)。
2023.12.08
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鈴木清順「陽炎座」元町映画館 「SEIJUN RETURNS in4K」という特集の三本目です。見たのは、「陽炎座」です。泉鏡花の小説の映画化だそうですが、読んだことはあるはずですが忘れました。映画もほぼ忘れていたのですが、ラストシーンだけ覚えていました。 面白いものですね、「ツィゴイネルワイゼン」、「夢二」とポカーン2連発! だったのですが、これはドスン!ストライク! でした。 まあ、なにが、どうストライクなのかというと、判然とはしないのですが、たぶん「人形」ですね。浄瑠璃の人形、焼き物の人形、そのあたりと、なんだか濃すぎる登場人物たちとのギャップですね。 小野小町の歌がそこはかとなく響く中、ポコポコと湧いてくる魂の形象であるらしいオレンジ色のピンポン玉のような球体のリアリティが目に焼き付いていくかのラストは、やっぱり忘れられなくなりそうですね。 やっぱり気になって調べた鏡花の陽炎座にこんな一節がありました。 夢と言えば、これ、自分も何んだか夢を見ているようだ。やがて目が覚さめて、ああ、転寐(うたたね)だったと思えば夢だが、このまま、覚めなければ夢ではなかろう。何時いつか聞いた事がある、狂人と真人間は、唯時間の長短だけのもので、風が立つと時々波が荒れるように、誰でもちょいちょいは狂気だけれど、直ぐ、凪になって、のたりのたりかなで済む。もしそれが静まらないと、浮世の波に乗っかってる我々、ふらふらと脳が揺れる、木静まらんと欲すれども風やまずと来た日にゃ、船に酔う、その浮世の波に浮んだ船に酔うのが、たちどころに狂人なんだと。 危険々々けんのんけんのん。 鏡花の主人公は出家ですが、映画では劇作家松崎春狐を演じた松田優作もよかったですね。早く亡くなったこともあって、伝説のように語られる俳優です。ただ、ボク自身は松田優作がそれほどいいと思っていたわけではないのですが、この作品のあやふやな存在感というか、夢に取り込まれていく人形ぶりというか、バランスの悪いニーチャンぶりというかが、中村嘉葎雄や原田芳雄のインチキぶり、とどのつまりは大友柳太郎ですが、まあ、それはそれで拍手!なのですが、その、お三人とのせめぎ合いを、見事にしのいでいましたね。拍手!拍手!でした。 で、このシリーズは、これまたなつかしいのですがタイトルロールが最初に流れるのです。で、そこに沖山秀子を発見してドキドキしましたね。ボクの生涯で、口をきいたことのある唯一の女優さんです。70年代の半ばですが、バイト先のピアノ・バーに、足を引きずりながら出没して、時には歌っていらっしゃったんですね。あのころ、とてつもない存在感でしたが10年ほど前にお亡くなりだったようです。で、この映画のどこにいらっしゃったかというと、最後の方にちらっとだったと思いますね。うたたねに恋しき人を見てしより夢てふ物はたのみそめてき 映画で、繰り返し口ずさまれる歌ですが、ボクにとっては、時の流れの遠い向うにある、恋しきものが、まあ、その正体は映画そのものではなかったのかもしれませんが、ポコポコと浮かび出てくるかのような作品でした。ためらった3本目でしたが、見てよかったですね(笑)。監督:鈴木清順原作:泉鏡花脚本:田中陽造撮影:永塚一栄美術:池谷仙克音楽:河内紀キャスト松田優作(松崎春狐)大楠道代(玉脇品子)加賀まりこ(みお)楠田枝里子(イレーネ:イネ)中村嘉葎雄(玉脇男爵)大友柳太朗(師匠)麿赤児(乞食)原田芳雄(和田)沖山秀子(着物の女)江角英(執事)東恵美子(老婆)玉川伊佐男(番頭)佐野浅夫(院長)佐藤B作(駅員)1981年・139分・日本公開1981年8月21日2023・12・04・no148・元町映画館no216 !
2023.12.07
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相米慎二「台風クラブ」 烏丸・御池アップリンク 若くして亡くなった相米慎二監督の懐かしい作品が、11月の末から12月にかけて2本、「台風クラブ」がシネリーブル神戸で、「ションベンライダー」がパルシネマでかかっていて、ちょうど同じ時期に鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」「夢二」の3本が元町映画館で特集されていて、どれから見るのかはともかく、80年代へんてこ邦画特集の趣で、まあ、何はともあれ、とりあえず、みんな見るか! とか思っていたら、シネリーブル神戸の「台風クラブ」が終わっていて出鼻をくじかれました💦 あれ、あれ、と思って調べると、京都ではまだやっているらしいことを発見して、なんだか費用ばかりかかる映画鑑賞を思いつく自分に、我ながら呆れながら、烏丸御池アップリンクという映画館にやって来ました。 声をかけると、ちょうどお休みだとおっしゃる愉快な仲間ピーチ姫と同伴鑑賞でした。相米慎二「台風クラブ」です。「どう?なつかしかった?」「いや、なつかしない。バービーボーイズとか、ダサいなあ。あれで、踊ったんやね。当時の人は(笑)。それで、なんか、とっちらかった映画やったな(笑)」「やっぱり、そう思う?」「そう思うやろ。で、お帰り、ただ今、のあの子って、何?」「ウーン、アブナイなあ、いう感じかな?シャイニングみたいやったやん。」「シャイニングは覗くだけやろ。だいたい、この町どこ?何で、信越本線土砂崩れやのに、東京から昼には帰ってこれんの?で、窓からとんだ男の子、あれ、死んだん?」「いや、動いてたやん、突き刺さったまま。」「もう、八墓村やん?」「イヤ、あっちは死んでる。こっちは、ぴくぴくしてた(笑)。そこがこの映画のええとこかもな。なんか、起こりそうで、起こらへんねん。そやから、撮りたいシーン撮ったになったんちゃうの(笑)」「そういえば、友情出演とかに名前あったけど、佐藤浩市おった?」「わからん。佐藤允はおったけど。」「わからんといえば、最後、グラウンドが池になってはいたけど、水浸しの校舎を見て金閣寺みたいって、何、あれ?」 まあ、中学生のガキたちの「台風!」 なんですけど、そういうと、身もふたもない気もするのですが、ボクの目には、出来事はみんな未遂! なのですよね。だから、とっちらかっちゃってるんですね。 で、まあ、そこが、今時とちがうんでしょうね。いろいろ起こって、なんか、すごそうで、実は、すごくない。で、それを、スゴイ!と言ってた時代があったことが、今となってはスゴイ! まあ、何といっていいかのかわからないので、ことば遊びしてますが、相米慎二という監督の中にわだかまっているものは、素直に共感はできないけれど、わかる気はするというわけです。 というわけで、やっぱり「ションベンライダー」も見ておこうかな、でした(笑)。監督 相米慎二脚本 加藤祐司撮影 伊藤昭裕美術 池谷仙克音楽 三枝成彰編集 冨田功キャスト三上祐一(三上恭一・優等生)紅林茂(清水健「おかえり・ただいま」)松永敏行(山田明・プールで溺れる)工藤夕貴(高見理恵・三上君の近所)大西結花(大町美智子・優等生)会沢朋子(宮田泰子・演劇部)天童龍子(毛利由美・演劇部)渕崎ゆり子(森崎みどり・演劇部)佐藤允(英夫・順子のおじ)寺田農(清水留造・清水健の家の人)伊達三郎(岡部・用務員)小林かおり(八木沢順子・梅宮の彼女)きたむらあきこ(保健室)石井トミコ(八木沢勝江・順子の母)鶴見辰吾(三上敬士・兄)尾美としのり(小林・大学生)三浦友和(梅宮安・数学の教員)1985年・115分・日本1985年8月31日(日本初公開)2023・12・01・no146・烏丸御池アップリンクno1!
2023.12.06
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鈴木清順「夢二」元町映画館 「SEIJUN RETURNS in4K」という特集の二本目です。見たのは「夢二」でした。竹久夢二の、あの夢二です。沢田研二が夢二を演っています。映画館にやって来てびっくりです。コロナ騒ぎ以後の元町映画館では、ついぞ見たことのない入場待ちの行列です。といっても、まあ、60席のミニシアターですから30人ほどのことなのですが、めでたい!ことです(笑)。案外、若い方もいらっしゃいます。ウーン、大丈夫??? まあ、そんな心配も浮かんできますが、何はともあれメデタイ!ことです(笑)。で、入場して後方の端っこのいつもの席に座ると、前に、若い女性の二人連れがお座りになって、実に姿勢がよくていらっしゃる。元町映画館は初めてのご様子で、おしゃべりも、なかなかお元気です。この映画館の欠点は、姿勢のいい人が前に座るとスクリーンの邪魔になることなのですが、深く座る気はなさそうで、前が見えません💦💦。仕方がないので、前から2列に開いていた端の席に移動です。やれやれ・・・ で、紙風船がフワフワと飛び交うシーンで映画は始まりました。なつかしい! 先日見た「ツィゴイネルワイゼン」よりも話にまとまりがありましたが、やっぱり、はあ?、そうですか?!という感じで終わりました。 ついでというか、どうでもいいような話ですが、「ツィゴイネルワイゼン」では今は亡き藤田敏八でしたが、この映画では、生きていらっしゃるはずの長谷川和彦が最後には首をくくってしまう役で出ていて、感無量でした(笑)。そういえば、長谷川和彦の「太陽を盗んだ男」で、話は忘れましたが、主役だったのは沢田研二でしたね。 まあ、思い込みかもしれませんが、あの頃、鈴木清順自身もほかの監督の映画によく出ていた気がしますが、監督が出るのが流行だったのでしょうかね。 というわけで、清順美学、2本めもポカーンでした。こうなったら、あと1本、「陽炎座」にチャレンジですね。実は、一番好きだったような気がしてますが,さて、どうなることやら(笑)。監督 鈴木清順製作 荒戸源次郎脚本 田中陽造撮影 藤澤順一音楽 河内紀 梅林茂キャスト沢田研二(竹久夢二)坂東玉三郎・5代目(稲村御舟)毬谷友子(脇屋巴代)宮崎ますみ(彦乃)広田レオナ(お葉)大楠道代(女将)原田芳雄(脇屋)長谷川和彦(鬼松)麿赤兒(巡査)1991年・128分・日本2023・12・02・no147・元町映画館no215!
2023.12.05
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北原白秋「からたちの花」(小池昌代「通勤電車でよむ詩集」より) からたちの花 北原白秋からたちの花が咲いたよ。白い白い花が咲いたよ。からたちのとげはいたいよ。青い青い針のとげだよ。からたちは畑の垣根よ。いつもいつもとおる道だよ。からたちも秋はみのるよ。まろいまろい金のたまだよ。からたちのそばで泣いたよ。みんなみんなやさしかつたよ。からたちの花が咲いたよ。白い白い花が咲いたよ。 小池昌代さんが編集した「通勤電車でよむ詩集」(NHK生活人新書)の「朝の電車」の章の最後に載せられていました。 北原白秋といえば、たとえば、「あめあめふれふれかーさんが♪」の「あめふり」とか、上に載せた「からたちの花」とか、ボクたちの世代ならだれでも鼻歌で歌える童謡の歌詞の人ですね。 で、小池さんは童謡の歌詞であるこの詩を、詩として読んで「からたち」の白い花のそばで泣いている人の「泣いた理由は何だったんだろう?」 と問いかけていらっしゃるわけですが、とがめだてるわけではもちろんありませんが、そんなことを朝から考え始めると、次の駅で降りそこねてしまうんじゃないでしょうか(笑)。 で、まあ、繰り返しになりますが、北原白秋といえば、短歌で出発した人というのが、高校の国語のパターンです。下に引用した「春の鳥」の歌が教科書の定番で、「桐の花」という白秋の最初の歌集の冒頭の歌です。引用した作品は最初期の歌が多いですが、確認し忘れていますから、そのあたりはご容赦ください。春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕かなしきは人間のみち牢獄(ひとや)みち馬車の軋みてゆく礫道(こいしみち)ひなげしのあかき五月にせめてわれ君刺し殺し死ぬるべかりき病める子はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑ばたの黄なる月の出石崖に 子ども七人こしかけて河豚をつりおり 夕焼け小焼け草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり秋の色 いまか極まる聲もなき 人豆のごと橋わたる見ゆ。君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ まあ、興味の方向は人それぞれですが、獄中歌らしきところに目がいってしまうのは、個人的な傾向にすぎませんのであしからず(笑)。
2023.12.04
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小池昌代(編)「通勤電車でよむ詩集」(NHK生活人新書) 今日の案内は、時々出逢っている女子大生さんたちに小池昌代という詩人の詩を紹介したこともあって、なんとなくネットで見つけて読み始めたアンソロジー詩集、小池昌代編集「通勤電車でよむ詩集」(NHK生活人新書)です。 多くの人と乗り合わせながら、孤独で自由なひとりの人間にもどれるのが通勤電車。 表紙の裏に、そんなうたい文句が書いてあるのを読みながら、朝、夕の電車通勤をしなくなって30年以上の歳月がたったことに気付きました。 ボクにとって通勤電車の思い出は、勤め始めたのころにJRの西明石駅から六甲道駅の間を通っていたころに始まって、神戸の地震があったころ、市営地下鉄の学園都市から上沢駅まで通っていたころまでの十数年間です。 その後、仕事をやめるまでの二十年ほどは原付通勤でしたから、通勤電車の「孤独と自由」の中で、スポーツ新聞やコミック週刊誌を読んだり、仕事とは関係ない読みかけの本を開くという体験は、40代の終わりころに終わっていたのだというのは、なんだか、ちょっとショックでした。そういえば週刊のマンガ雑誌を読まなくなったのも、その頃でしたね(笑)。 表紙にはこんなキャッチコピーも貼られています。「次の駅までもう1篇。足りないのは、詩情だった。」 ウーン、詩情ねえ(笑)。でも、まあ、ボクの場合、詩集を読んだりしたことはいちどもなかったような気がしますけどね(笑)。 それにしても、電車で運ばれるという経験は、改めて考えると、実に面白い。わたしたちは、どこかへ行くためにその途上の時間を、見知らぬ人と共に運ばれる。電車が走っている途中は無力であり、降りたいと思っても簡単には降りられない。あがいても、次の駅まで運ばれていくだけだ。 移動あるいは途上の時間は、目的地に着いてしまえば、消えてなくなる。それはこの世のどこにも根を下ろさない、不思議な間(ま)としか言えない時間である、しかもその時乗り合わせた人々とは、おそらく再び会うことはないだろう。そんな人々とひととき、運命を共にする。 このことには、どこか人間の生涯を、圧縮したような感覚がある。(P15) まあ、週休1日、ある時期から週休2日のお勤めでしたから、1年間に、600回くらいの電車の旅があったわけで、サンデー毎日の徘徊老人には、ちょっと目が眩みそうな記憶ですが、詩ですか?読まなかったなあ。でも、なるほどなあ、という気もしますね。 とはいうものの、出かけることのない老人には、座りこんでボンヤリする某所での読書にうってつけでした。まあ、詩情が必要な場所でもないのですが、所用時間が適当なのでしょうね(笑)。で、どんな詩が載っているのかということですが、目次を載せてみますね。目次朝の電車「うたを うたうとき」(まど・みちお)「フェルナンデス」(石原吉郎)「イタカ」(コンスタンディノス・ペトルゥ・カヴァフィス)「少女と雨」(中原中也)「緑」(豊原清明)「胸の泉に」(塔和子)「宇宙を隠す野良犬」(村上昭夫)「森の奥」(ジュール・ショペルヴィエル)「いつ立ち去ってもいい場所」(谷川俊太郎)「ばらあど」(ガブリエラ・ミストラル)「春の芝生の上に」(趙明煕)「九才」(川田絢音)「言語ジャック」(四元康祐)「からたちの花」(北原白秋)午後の電車「アドルストロップ」(エドワード・トマス)「川が見たくて 盛岡・中津川」(高橋睦郎)「四十五歳」(ヘイデン・カルース)「見えない木」(エドワード・トマス)「洛東江」(崔華國)「滝のある山」(中本道代)「緑の導火線を通して花を駆り立てる力」(ディラン・トマス)「孤独な泳ぎ手」(衣更着信)「ぼくの娘に聞かせる小さい物語」(ウンベルト・サバ)「しずかな夫婦」(天野忠)「母の死」(草野心平)「賀状」(長田弘)「雪、nobody」(藤井貞和) 夜の電車「駅へ行く道」(山本沖子)「池(pond)」(白石かずこ)「昨日いらつしつて下さい」(室生犀星)「犬を喰う」(金時鍾)「眼にて云ふ」(宮沢賢治)「家」(石垣りん)「ぼくは聞いた」(パウル・ツェラン)「記憶」(小池昌代)「会話」(ルーシー・タパホンソ)「遺伝」(萩原朔太郎)「ひとつでいい」(トーマ・ヒロコ)「踊りの輪」(永瀬清子)「週電車の風景」(鈴木志郎康)「わたしは死のために止まれなかったので」(エミリー・ディキンソン) これで、全部です。41篇ですね。ボクでも知っていた詩が3割程度、ほかの詩ですが、読んだことのある詩人が6割くらい、だから、詩としては、ほぼ、知らない詩ばかりでしたが、読んで意味不明の作品はありませんでした。ページの終わりに記されている小池さんの一言紹介で、ふーん、そうか、という場合もありましたが、おおむね、誰にでも理解可能な詩篇でした。 ああ、それから、この詩集は池澤夏樹の「いつだって読むのは目の前の1冊なのだ」(作品社)の2009年10月15日の読書日記で紹介されています。 編者のセンスをそのまま反映するいいアンソロジー、通勤電車でよむという仕掛けも気が利いている。まず立ち読みで四元康祐の言語ジャック1新幹線・車内案内という1篇でも読んでみるといい。これはすごいよ。 まあ、こんな紹介ですが、四元康祐さんの詩、気になるでしょ。まあ、それはおいおい紹介しますが、今日は小池さん自身の詩を引用してみますね。 記憶 小池昌代オーバーをぬいで壁にかけた十年以上前に錦糸町で買ったものだわたしよりさらに孤独にさらに疲れ果てて袖口には毛玉すそにはほころび知らなかったひとはこんなふうに孤独をこんなふうに年月を脱ぐことがあるのか朝ひどい、急ぎ足で駅へ向かうこのオーバーを見たことがあるおかえりそれにしてもかなしみのおかしな形状をオーバーはいつ記憶したのかわたし自身が気づくより前に このオーバーとは長い付き合いだった。いよいよだめになって捨てるとき、古い自分を捨てるようにすっきりした。感傷なんか、まるでなかった。冬の朝晩は、これを着て通勤。電車のなかで、よく詩集をよんだ。(P150~P153) やっぱり、電車で、詩を読む人だったんですね。
2023.12.03
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「京都まで映画見に行きましてん!」 徘徊日記 2023年12月1日(金)京都・御池あたり 木曜日の夜、突如、思いつきました。梅田の阪急です。阪神では京都には行けまへん。そうだ京都に行こう! で、到着したのが烏丸河原町です。いいお天気ですが、もう、お昼過ぎです。京都はいくつになってもなつかしい街です。 烏丸通を北に歩きました。途中に六角堂の鐘つき堂とかあります。50年前にこの北の突き当り、北大路烏丸あたりに住んでいたこともあります。まあ1年だけでしたが。でも、町の雰囲気は変わってしまったようですね。 今日の、とりあえずの目的地はここです。烏丸御池アップリンク京都とかいう、映画館です。神戸のシネリーブルで見損じた相米慎二という監督の「台風クラブ」という1985年のガキの映画を、京都で見よう! という費用ばかりかかる、訳の分からない思いつきです。 京都には、愉快な仲間の最年少メンバー、ピーチ姫が住んでいますが、今日は金曜日、仕事なら不在なわけで、まあ、とりあえず出発前にラインとかをしてみると、偶然お休みのようです。「行けたら、行くわ。」 というお返事をいただいて、ここまでやって来て、もう一度ラインしてみると現地集合で、動き出しているようです。 というわけで、懐かしの相米慎二を同伴鑑賞しました。なんか、とっ散らかった映画やったね(笑) なんとも、ピーチ姫らしい感想に、そう!そう! とうなづいて、寺町から新京極あたりをアベック徘徊です。 南に歩いている途中に、こんなレンガ造りもありました。「なあ、スマホのカメラやけど、こういう暗い時に明るく撮りたかったらどうしたらええの?」「こうかな?」 ナルホド、夕闇迫る京都文化博物館も、お昼の明るさで撮れました。 で、まあ、今日は、お久しぶりの再会です。なんか、ビールでも飲んで、食べようかというわけで、たどり着いた居酒屋に驚きのメニューを見つけて感動です。 日清のチキンラーメンに温泉卵が乗っていました。これって、まあ、もちろんピーチ姫は食べませんでしたが、お腹の空いたビールのおつまみにサイコーですね。 というわけで、親子でいうのも変ですが、久しぶりの再会を果たし、無事帰途につきました。とことん名所旧跡関係なしの京都徘徊でした。それにしても、京都って、人多いですね(笑)。ボタン押してね!
2023.12.02
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今日の狙いは紅葉です! 徘徊日記 2023年11月29日(水)団地あたり 見上げて撮ると、空が光って青く撮れませんが、隣の棟の紅葉です。もう少しで、美しさのピークという所でしょうか。 日光の光に赤い色が透けて見えるのが、遠くから見ていても美しいのですが、ボクのスマホ写真ではうまく撮れませんね(笑)。 こちらはまだ若い木ですが、緑から赤へのグラデーションが爽やかです。 同じ棟の前に3本の楓がありますが、どれもいい色になってきました。 こちらが3本目ですね。午前中は棟の日陰になっていて、いい色に写りません。ザンネン! 我が棟の前にもあります。 ついでに残念なのは、我が棟の前の楓です。まだ少し時間がかかりそうな様子です。気分は隣の芝生ならぬ、隣の楓! ですね(笑)。 さて、今日はお天気もいいので、チョット、団地をウロウロしてきますね。あります、あります。 一棟、一棟の前庭には、それぞれ、1本、あるいは2本の楓が植わっています。駐車場の桜並木といい、これらの楓といい、最初に住み始めた40年ほど前の方たちの心が伝わって来ますね。 もう少しウロウロするつもりです、で、今日の徘徊はその2を覗いてくださいね。じゃあ、ね(笑)。ボタン押してね!
2023.12.01
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グレゴル・ボジッチ「栗の森のものがたり」元町映画館 予告編に惹かれて見ました。スロベニアという国の若い監督グレゴル・ボジッチという人の「栗の森のものがたり」です。 イタリア半島が地中海に突き出ていて、その東の海がアドリア海ですね。で、その海に面しているヨーロッパが、かつてはユーゴスラビアでした。で、今は北の端がスロベニア、海に面している国がクロアチア、そして、その東方にボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、コソヴォ、モンテ・ネグロ、の国々のようですが、まあ、よくわかりません。イタリア半島の付け根に接しているスロベニアですが、北はアルプスを隔ててオーストリアに接している。まあ、そういう地域のようですが、映画の舞台はスロベニアの山のなかでした。 時代は1940年代の後半くらいでしょうか、栗拾いの女性マルタの境遇が、夫は戦争に行ったまま帰ってこない寡婦という設定でしたから、多分その頃です。 黄葉した林のシーンに雪が風に流されながら舞い落ちてきて、落ち葉が積もった平地に、墓穴と思しき長方形の穴が口を開けていています。やがて、その穴に栗のイガのようなものが埋められて、その上からたくさんの落ち葉で覆うというシーンが、何の音もないまま映し出されて映画は始まりました。 棺桶だけではなく家具も作っているようですから、指物師ということでしょうね。主人公らしき老人マリオには具合の悪い妻ドーラがいて、あてにならない医者とのやり取りもありますが、眠り込んでいる妻の寸法、棺桶のでしょうね、を測ったりするシーンが折り込まれ、やがて、妻が亡くなり、再び、あの四角い穴のシーンがあって、一人になります。家を出てしまった息子がベルギーあたりにいるようで、出されなかった手紙が声に出してが読み上げられるシーンがあります。 どういう経緯でそうなったのか思い出せないのですが、胸に迫って涙がこぼれたりしました。 で、一人になった老人マリオは何処かへ出発するのですが、その途中、収穫した栗を川に流して困っている栗拾いの女マルタと出会います。栗拾いの女も、おそらく、行く方が知れない夫を探す旅に出発しようとしていますが、旅費がありません。で、老人マリオは持ち合わせていた金を女マルタにやってしまうのです。女は出発し、残された老人は死んでしまいます。 まあ、かなり端折りましたが、そういう映画でした。で、まず、森とか落ち葉とか、雪とかのシーンが美しくて印象的です。 その次に部屋のなかのシーンです。これが暗いのですが、室内の光の作り方が独特で、多分、意図的なのですが、いかにも、その時代のヨーロッパの田舎の村を思わせて、「自然」なのです。ただ、暗さに弱い老人には、ちょっときつかったのでした(笑)。 それから、部屋の中に置いてある水差しの撮り方なんて、たしかにフェルメールで、そういう映像処理の面白さにに唸ったのですが、もっと、おおーっと思ったことがありました。 ボクが、子どもころラジオから流れていた、フランスのポップスで、あの、シルヴィ・バルタンの、多分、60年代のヒット曲「アイドルを探せ」だったかが流れてきたことでした。 まあ、よく考えてみれば、この映画の物語の、時代的にも、筋書き的にも、何の必然性もないと思うのですが、「えー?なにぃー?」 とうろたえながら、結局、この曲のメロディが、この作品の記憶として残るに違いないところがふしぎですねえ(笑)。 好き勝手に、のびのび映画を作っている、若い才能という印象ですが、栗林の落ち葉の降り積もった中に、ポッカリ開いていた四角い穴と、風に舞うように降る雪のシーンは、スロベニアという国に生きる人間の「今」 を象徴的に 表しているかのようで、この監督を支えている現実認識、あるいは歴史観の深さを感じさせる映像でした。 映画の中で、死んでしまった二人の老人に拍手! それから、グレゴル・ボジッチという若い監督に期待込めて拍手!でした。監督 グレゴル・ボジッチ脚本 グレゴル・ボジッチ マリーナ・グムジ撮影 フェラン・パラデス編集 グレゴル・ボジッチ ベンジャミン・ミルゲ ジュゼッペ・レオネッティ音楽 ヘクラ・マグヌスドッティル ヤン・ビソツキーキャストマッシモ・デ・フランコビッチ(指物師マリオ)ジュジ・メルリ(マリオの妻ドーラ)イバナ・ロスチ(栗拾いの女マルタ)トミ・ヤネジッチ(村の医者)2019年・82分・スロベニア原題「Zgodbe iz kostanjevih gozdov」2023・11・24 ・no143・元町映画館no213<img!
2023.11.30
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北野武「首」109シネマズハット 一月ぶりのSCC、シマクマ・シネマ・クラブの例会は世界の北野武が、まあ、ボクにはビート・タケシですが、監督、脚本、原作で、満を持して作った(?)らしい、作品「首」でした。 本能寺の変を描いた時代劇でしたが、まあ、北野映画ですから、殺伐としたグロテクス・リアリズムだと予想して見ましたが、さほどグロテスクというわけでもありませんでした。 SCCでご一緒するM氏の提案された作品の一つだったのですが、北野映画は見たことがないとおっしゃっていたので、そのあたりのことを少し心配しながら見終えました。「いかがでしたか?」「いや、結構、面白かったですよ。」「残酷シーン、非人間シーンがありましたが、そのあたりは?」「いや、様式化しての繰り返しですから、気にならなかったですよ。」 というわけで、心配は杞憂に終わったのですが、ボク自身は、M氏がおっしゃる様式化というか、残酷シーンのパターン化と、登場人物たちのキャラクター設定、信長にだけ方言(尾張弁?)をデフォルメして喋らせながら、ほかの登場人物たちに、音声的なアクセントとしても、少し不自然な標準語(?)を喋らせるセリフ構成、浅薄とでもいうしかない男色描写、どれ一つとっても、今までに見た北野映画を越える要素どころか、ある種の衰弱を感じるばかりで、ダレてしまいました(笑)。 グロテスク・コメディーというジャンルがあるのかないのか知りませんが、暴力的なグロテスクが、同じパターンで繰り返される中で、見ているボクに弛緩現象をおこしたからでしょうか、本来、あっけにとられるべきドタバタ喜劇的シーンも緩んでしまい、笑えない笑いが宙に浮いて、出来の悪いというか、描線の粗雑な劇画マンガを読まされていう感じでしたね。 信長、秀吉、光秀、家康という、本能寺の変を構成する4人の登場人物の性格描写のデフォルメ化に、現代社会の人間類型を重ねた社会批評性を読み取るような見方もあるのかもしれませんが、そういう、社会観、大衆性とは切れたところに北野映画の徹底した暴力性の魅力を感じていたシマクマ君には、チョット、トホホな作品でしたね。 というわけで、SCC第13回は主宰者がずっこけて終わりでした(笑)。いや、ホント、二人して拍手!の映画って、ホントないものですね(笑)。監督・脚本・原作 北野武撮影監督 浜田毅編集 北野武 太田義則音楽 岩代太郎キャストビートたけし(羽柴秀吉)西島秀俊(明智光秀)加瀬亮(織田信長)中村獅童(難波茂助)木村祐一(曽呂利新左衛門)遠藤憲一(荒木村重)勝村政信(斎藤利三)寺島進(般若の佐兵衛)桐谷健太(服部半蔵)浅野忠信(黒田官兵衛)大森南朋(羽柴秀長)六平直政(安国寺恵瓊)大竹まこと(間宮無聊)津田寛治(為三)小林薫(徳川家康)岸部一徳(千利休)2023年・131分・R15+・日本配給 東宝・KADOKAWA2023・11・27・no145・109シネマズハットno35・SCCno⒔!
2023.11.29
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天野忠「しずかな夫婦」(小池昌代「通勤電車でよむ詩集」より) しずかな夫婦 天野 忠結婚よりも私は「夫婦」が好きだった。とくに静かな夫婦が好きだった。結婚をひとまたぎして直ぐ しずかな夫婦になれぬものかと思っていた。おせっかいで心のあたたかな人がいて 私に結婚しろといった。キモノの裾をパッパッと勇敢に蹴って歩く娘を連れて ある日 突然やってきた。昼飯代りにした東京ポテトの残りを新聞紙の上に置き昨日入れたままの番茶にあわてて湯を注いだ。下宿の鼻垂れ息子が窓から顔を出し お見合だ お見合だ とはやして逃げた。それから遠い電車道まで初めての娘と私は ふわふわ歩いた。―ニシンそばでもたべませんか と私は 云った。―ニシンはきらいです と娘は答えた。そして私たちは結婚した。おお そしていちばん感動したのはいつもあの暗い部屋に私の帰ってくるころポッと電灯の点(つ)いていることだった―戦争がはじまっていた。祇園まつりの囃子(はやし)がかすかに流れてくる晩 子供がうまれた。次の子供がよだれを垂らしながらはい出したころ徴用にとられた。便所で泣いた。子供たちが手をかえ品をかえ病気をした。 ひもじさで口喧嘩(くちげんか)も出来ず 女房はいびきをたててねた。戦争は終った。転々と職業をかえた。ひもじさはつづいた。貯金はつかい果たした。いつでも私たちはしずかな夫婦ではなかった。貧乏と病気は律義な奴で年中私たちにへばりついてきた。にもかかわらず貧乏と病気が仲良く手助けして 私たちをにぎやかなそして相性でない夫婦にした。子供たちは大きくなり(何をたべて育ったやら)思い思いに デモクラチックに遠くへ行ってしまった。どこからか赤いチャンチャンコを呉れる年になって夫婦はやっともとの二人になった。三十年前夢見たしずかな夫婦ができ上がった。―久しぶりに街へ出て と私は云った。 ニシンソバでも喰ってこようか。―ニシンは嫌いです。と 私の古い女房は答えた。 小池昌代さんの「通勤電車でよむ詩集」(NHK生活人新書)を読んでいて、心に残った詩の一つです。 編者の小池さんは詩の後ろに載せられた短い解説で「詩のなかに、いびきをかく女房が出てくる。いや女房とは、いびきをかく者のことを言うのだ。」 と喝破しておられるのですが、その「女房はいびきをかいてねた」の一行が心に残りました。「あのな、トイレに置いてる詩集やけどな、天野忠っていう詩人な、鶴見俊輔がどこかで話題にしてたような気がするけど、京都の人やねんな。その人のしずかな夫婦というのがエエねんな。」「どこが?」「女房はいびきをかいてねたっていうねん。詩のなかで。」「それで?」「あんた、自分がいびきをかいてるかもしれんって思うことある?」「いびきうるさいのんは自分でしょ。」「いや、それは知ってるけど、自分はどうなん?」「寝言は気づいたことあるけど、いびきかいてるの?」「うん、まあ、絶無ではないな(笑)。」「なに、それがいいたいの?」「いや、ちゃうちゃう」「そしたら、なにがどうなん?」「いや、あそこ置いてるから読んでみ。ええ詩や思うで。」「わたし、トイレでは読みません!」「風呂では読むやん。まあ、ええけど、その奥さんなニシン蕎麦いうか、みがきニシンな、京都の蕎麦にはいってるあれな、嫌いなんやて。」「あっ、わかる。わたしもニシン蕎麦きらいやわ。」 と、まあ、こんな会話になったしというわけです(笑)。天野忠のほかの詩については、またいずれ紹介しますね。ご本人は1993年に亡くなっておられるようですが、編集工房ノアという所から詩集がたくさん出ています。思潮社の現代詩人文庫にもあります。まあ、また、ですね(笑)。
2023.11.28
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「これって、栴檀?」徘徊日記 2023年11月26日(日) 王子公園あたり 一月ぶりの王子公園です。約束より早く来たのでフラフラしています。動物園の園内にある旧ハンター邸当たりの通路にいます。目的地はここの少し東にある登山研修所ですが、黄葉、紅葉がうれしくて徘徊中です。 メタセコイアの並木ですが、動物園の駐車場なので自動車がいっぱいです。すぐ隣が、競技場のサブ・グラウンドでしたが、今は駐車場です。 こちらは緑の立ち木と公孫樹の黄色が美しいです。グランドの東の端に、何やら実をいっぱいつけた木がありました。 これって、「双葉よりかんばし」の栴檀ですかね? 夏の終わりころに、すぐ、この上の、上野道というハイキング道を歩いたときには、摩耶山の山中で緑だった実を見かけたのですが、王子公園にもあるのですね。 もうちょっとアップすると、こんな実です。たわわになっています。 ちょっと、齧ってみればよかったですね。まあ、どうせ、苦いか、渋いかでしょうけど、だって、こんなに実がついているのに鳥の影が、ただの一羽もないのですよ(笑)。 帰り道に、アメフトのスタジアムの裏で、こんな実も見つけましたよ。多分、ウバメガシとかの一種だと思いますが、こちらは実に手が届きません。 今日、王子公園にやってきたのは、お昼の1時過ぎだったのですが、用事を終えて帰るころには日が暮れてきて、月が出ていました! 今日は満月のようです。 ああ、そう、そう、JRの灘駅から歩いてくる途中に、こんなお地蔵さんがありました。 どうも、頭がないようなのですが、赤い帽子(?)で覆ってあるのでよくわかりません。阪急の王子公園駅のすぐ南の交差点です。このあたりは、学生時代に暮らした町なので、大概、知っているつもりでしたが、今日初めて気づきました。あてにならないものですね(笑)。ボタン押してね!
2023.11.27
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島田裕巳「日本人の神道」(ちくま新書) とりあえず、日々の徘徊のお供とでもいう興味で手に取りましたが、いや、なになに、なかなか読みでのある1冊でした。 日本に土着の宗教が「神道」である。 神道がいったいいつ生まれたのか、その起源は分かっていない。分からないほど、その歴史は古いとも言える。(P7) 「はじめに」の冒頭です。 仏教が来て、儒教が来て、道教が来て、キリスト教が来て、まあ、近世以前に思いつくだけでも、外から来たのがその四つ、その四つの「外来」と「土着」の関係はどうなっているの? 古い古いというけれど、どれくらい古いの? 実際、一番古いのはどこの神社? 八百万の神とかいって、ポコポコ神さん産まれるけど、結局、神社に行って何を拝んでんの? 八幡大菩薩とか、神宮寺とか、本地垂迹とか、廃仏毀釈とか言うけど、あれってなに? 伊勢対出雲の対決の真相は? 実際、信心とかいうこととは一切かかわりたくない徘徊老人なのですが、興味はある訳です。で、この本は、とりあえず、徘徊か老人が思いつくことのできる、まあ、その程度の質問には、ほぼ全部答えてくれました。 中でも面白いのは第5章 出雲大社の「生き神」・国造の謎解きあたりでしたね。出雲大社が、超巨大な高層建築だったのではないかとかいう話は生噛りで聴いたことがあったのですが、「生き神」さまですよ。伊勢神宮が天皇家の祖先神だとかいう話は、まあ、「物語」としては知っていたわけで、さほど驚かなかったのですが、出雲はスゴイですね(笑)。本物の生き神様登場ですからね。興味津々です。解説を読み始めて、それで?それで? の連発で、どうも、この本で終わりそうもありません。 で、まあ、この本自体は、靖国の話あたりで締めくくって、最後は神道についての「信仰」についてでした。ちょっと、あとがきのあたりから引用してみますね。 神道は、私たちの身近にあり、ごく自然なものである。宗教には、それをわざわざ選び、それだけを信仰するというイメージがあるが、神道にはそれがない。 それも、神道には開祖も教えも聖典も存在しないからだ。そこで私は神道を「ない宗教」と呼んできた。そこには神道は宗教ではないという含みもある。 教えがない以上、私たちは神道に縛られることはない。また自分を救ってくれるよう強く願うこともない。宗教には救済の手立てがあり、それが決定的に重要だが、神道にはそれもないのだ。 神道がそうした性格を持っている以上、神道の神についても、私たちはあえて信じるかどうか問題にしない。(P233) 結論のカギは「自然」だとおっしゃっているのですが、納得ですね。ここの所、手を打つ回数とか、頭を下げる姿勢とか、意味ありげに吹聴する世相がありますが、あれって、きっとウソだろう! とか、勝手に思っている徘徊老人には納得の結論ですね。 で、まあ、姓も同じということもありますから、島田裕巳先生の宗教解説、もう少し追いかけてみようかなと思いますね。新しいのを読んだら、また紹介しますね。なかなか、すっきりしていていいですよ(笑)。 ついでですので、目次を載せておきますね。目次第1章 神とは何か第2章 祭祀に現れる神第3章 神はいつから神社に鎮座しているのか第4章 神宮の式年遷宮はいつはじまったのか第5章 出雲大社の生き神・国造第6章 神道と仏教の戦い第7章 社殿のない神社、
2023.11.26
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鈴木清順「ツィゴイネルワイゼン」元町映画館 「SEIJUN RETURNS in4K」という特集を元町映画館が上映し始めました。鈴木清順生誕100年の記念特集のようです。 これは、まあ、見ないわけにはいかない! そういう気分で、初日、駆けつけたのが「ツィゴイネルワイゼン」です。1980年の封切ですが、その当時、とても評判になった作品です。定期購読していたキネマ旬報の、その年のランキングは日本映画ベスト1で、ベルリン映画祭でも評判がよかったらしく、当時、ボクは、まだ、大学生だったのですが、かなりな映画狂いで、周りに大勢いた映画好きのお友達たちが、口をそろえて絶賛!する中、まあ、ボクも尻馬に乗ってあれこれ言っていたような記憶ががありますが、何を言っていたのか、まるで、覚えていません(笑)。その作品を、久しぶりに見ました。 見終えて、仰天、嘆息でした。どうしたことでしょう? あの頃、あんなに面白がっていたはずなのに、なにをおもしろがって騒いでいたのか全く見当がつかないのでした。 一応、お断りしますが、この作品が駄作だとかいうことをいいたいのではありません。ただ、1980年に20代の終わりにさしかかっていた映画青年があっけにとられた衝撃の正体が一体何だったのかが、40年後に、同じ映画を見ている69歳の老人に全くイメージできないのです。 原田芳雄、藤田敏八、大谷直子、大楠道代、麿赤児、樹木希林、みんな覚えています。夢が夢を呼び出し、幻想が幻想と重なり、正体不明の不安が映画を覆っていく様を、ボンヤリとした既視感をかみしめるように、ため息をつきながら見入っているのですが、見ているボクの意識はどんどん醒めていく、そんな感じです。 あの頃、その境界線を越えれば、おそらく、ズブズブ深みに引きずり込まれるような場所に沈み込むことができた、その境界線をこっち側からじっと見ている老人が、今、ここにボンヤリへたり込んでいる。そんな感じでした。40年の歳月が奪って行ったものが、あのころ、そこにあった!はずの空っぽになった場所を覗きこんでいるような体験でした。 まあ、それにしても、大谷直子も大楠道代も美しいハダカでしたよ(笑)。まあ、今の自分の空っぽさに対する詮索はともかくとして、あと二本、試してみようと思います。 監督の鈴木清順、原田芳雄、藤田敏八、みんないなくなってしまったと、やはり、ため息だったのですが、怪人麿赤児と美女のお二人はご存命のようで、ちょっと嬉しくなりました(笑)。監督 鈴木清順原作 内田百間脚本 田中陽造撮影 永塚一栄照明 大西美津男美術 木村威夫 多田佳人録音岩田広一編集 神谷信武音楽 河内紀記録 内田絢子スチール 荒木経惟キャスト原田芳雄(中砂糺)大谷直子(芸者小稲・中砂の妻 園)藤田敏八(青地豊二郎)大楠道代(周子・青地の妻)麿赤兒樹木希林真喜志きさ子1980年・144分・日本2023・11・25・no144・元町映画館no214!
2023.11.25
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「銀杏並木が、今、見頃ですよ!」 徘徊日記 2023年11月21日(火) 朝霧あたり 季節が季節なので、黄葉の話ばっかりです(笑)。とりあえず、黄色くなった葉っぱの話が続きます。ここはJR朝霧駅の山手、北向きに行くと神陵台から伊川谷に向かう道路のイチョウ並木です。 右が神戸市垂水区狩口台、左が明石市松ヶ丘です。 神戸市の垂水あたりの、まあ、舞子あたりのともいえますが、山手、地下鉄の学園都市という駅とJRの垂水駅、舞子駅の中間に住んでいますから、明石の図書館とかに行くときには通る道の一つです。素晴らしい黄葉並木ですね。 こうやって、写真を撮っても、誰も人が写らないのが、まあ、何というか、このあたりの町の特徴です。50年ほど前には明舞団地の東の一角で、名を知られていた街ですが、今はお年寄りの町です。 今日は、お天気が良いので並木が、余計に美しいですね。まだ、緑が残っている木もありますが、おおむね黄葉しています。一本、一本、とても風情があるので、一本、一本写真を撮ればいいのですが、実は原付、スーパー・カブ号で明石に行った帰り道なので、所々ということになります(笑)。 狩口台の団地です。多分、植えられたころから、並木の世話が丁寧だったんでしょうね。 いかがでしょうかね、イチョウの並木は、兵庫区とか、長田区、まあ、あちらこちらにありますが、これだけ樹木の高さが揃っていて、葉っぱが茂っている並木には、なかなか出会えませんね。 見上げると、やはり見事なものです。お暇な方は、一度、歩かれたらいいんじゃないかなあ、という気持ちです。まあ、他には何もありませんが、南に下ると朝霧駅あたりから明石の海と明石大橋を眺めることはできますよ(笑)。ボタン押してね!
2023.11.24
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「実家が、喫茶店?!」 徘徊日記 2023年11月22日(水) 和田山あたり あのォー、今日は2023年の11月22日です。で、シマクマ君は朝5時に起きて、始発の市バスに乗って、JR舞子駅から姫路駅、姫路駅から播但線で帰省でした。 よく考えたら、明日は休日ですが、今日は普段の日です。早起きしたつもりでしたが、加古川あたりから学生さんや通勤の方で満員です。7時過ぎの播但線も、通学列車のようで、立ちんぼうです。寺前までやって来て、和田山行に乗り継いでようやく一息つきましたが、いやはやなんとも、久しぶりの学生軍団にヘトヘトです(笑)。 帰省先は朝来市の和田山という町で、町はずれのド田舎の村です。駅には午前9時過ぎに到着しました。で、たどりついた実家の近所には、何というか晩秋から冬の気配が満ちていました。 まずは山茶花です。もう満開を通り越して、写真写りのいい花を探すのが大変です。 こちらはユズです。皆さん庭先とか、畑の隅に植えておられます。たくさん実をつけています。 こちらは南天の赤い実です。白い実は咳止めとかで煎じて飲まされた記憶がありますが、赤い実は縁起物で、お正月とかのお飾り用ですね。 で、実家の玄関にたどり着いて「びっくり!」でした(笑)。「あんカフェ」とかいう暖簾が下がっているではありませんか。 住む人がいなくなっていた田舎家が喫茶店になっていましたよ!家の中も少し改築されたようで、元気なおばちゃんが二人で出迎えてくれました。 朝の食事も食べないままたどり着いたシマクマ君にはこんな食事も用意されていましたよ。ベジタブルなおいしいカレーでした。 ちょっと、立ち寄ったら、人と出会える場所が作りたくて! いい話ですね。名物は「牡丹餅」にするそうです。「牡丹餅を食べてコーヒーを飲む!」 もう、その組み合わせで笑えますが、みんなが集まってくる場ですが、なんとなく、老人憩いの場の雰囲気です。今日は店開きの練習会でした。 但馬は、これから、寒くなりますが、近所の方も、お家にとじ込もらないで、ちょっと覗いてみましょうか! というふうな場所になるといいですね。 お店の、だから、まあ、実家の駐車場には以前住んでいた老人、だから、まあ、亡くなった父ですが、が植えたミカンが鈴なりでした。今日のお土産はミカンです(笑)。 但馬の冬の味覚にミカン!とはこれいかに! ですが、案外、甘くてナットク!でした(笑)。暑かった夏のせいでしょうかね。まあ、その代わり、お米の出来は今ひとつだったそうで、それはそれで残念でした。ああ、それから、カメムシは、但馬でも大群だそうです。 朝の暗いうちに出かけたのですが、夜、暗くなって帰ってきた団地のバス停の公孫樹はライトアップされていました(ウソですけど)。 上に見えるのお月さんです。くたくたでしたが、最後にこれでした。ちょっといいですね(笑)。ボタン押してね!
2023.11.23
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タナダユキ「百万円と苦虫女」パルシネマ どなたかと結婚されて、お子さんもいらっしゃるらしい、女優の蒼井優さんの15年前の映画です。新開地のパルシネマが「朝パル」でやってました。最終日だと知ってあわてて出かけました。タナダユキという、多分、女性の監督の作品です。題名は「百万円と苦虫女」です。 多分、未決犯で拘留されていただけですから、刑務所じゃなくて、拘置所だと思いますが、若かりし日の蒼井優ちゃんが、まあ、刑務所風の門から出てきて、「シャバダバダー♪♪、シャバダバダー♪♪」 と歌いながら塀に沿って歩くシーンから始まりました。 で、まあ、ケーキと手巻き寿司の出所祝いを用意して待っている、明らかにウザイ両親と、コマッシャクレタ小学生の弟と暮らしている「家」に帰ってきます が、まあ、そこでブチギレて宣言します。「百万円貯まったら出ていきます!」 で、そこから、今いる場所を出ていくために、短大を出たばかりの佐藤鈴子(蒼井優)さんが、くりかえし、奮闘努力し、百万円貯めては、その町を出ていく映画でした。今いる場所を出ていく! なかなか、いい響きですね(笑)。出ていく先はあの世しかないのではないかという老人には懐かしい響きですね。でもね、足止めされる理由があれこれ、ポコポコわいてきちゃうんですよね、そこで暮らしちゃうと。で、そのポコポコが映画のお話になっているというわけです。まあ、ある種のロード・ムービーなのでした。 見ていて楽しかったのは、なんといっても、困ったような顔しかできない蒼井優でした。まあ、それが見たくて朝一番にやってきたわけですからね(笑)。で、思ったのですが、彼女の表情のポイントは「泣かない」でしょうね。 映画の結末ですが、これまた若き日の森山未来くんがバイト先の大学生中島くんとして、足止めの定番、恋の相手役で登場します。なかなか、いいヤツで、「オッ、これはどうやって終わるのかな?」 と危惧したのですが、結局、ホッポラカシて、やっぱり、次の町へ流れていく鈴子さんに拍手!でした(笑)。 前科者(?)の姉のためにイジメられる弟拓也(齋藤隆成)くんとの、虐げられた者同士の絆とか、桃農家の跡取り春男(ピエール瀧)さんの不思議な存在感とか、ポコポコ出てくるエピソードも悪くありません。しかし、まあ、蒼井優のあの表情なしにはあり得ない作品でしたね(笑)。ナットク!でした。監督・脚本 タナダユキ撮影 安田圭音楽 櫻井映子 平野航主題歌 原田郁子キャスト蒼井優(佐藤鈴子・姉)齋藤隆成(佐藤拓也・弟)森山未來(ホームセンターの中島くん)ピエール瀧(桃農家の春男)竹財輝之助(海辺のユウキくん)笹野高史(喫茶店の白石さん)佐々木すみ江(桃農家の絹さん)2008年・121分・日本配給 日活2023・11・20・no142・パルシネマ74!
2023.11.22
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「金毘羅さん、定休日!だそうです(笑)」 徘徊日記 2023年11月20日(月)新開地あたり 11月の月曜日の朝の9時過ぎに、なぜか、こんなところを歩いています。で、「おや、こんなところに金比羅さん!」 正面からの写真を撮って、境内にはいろうとすると鳥居の下にこんな張り紙があって、入り口が閉じられています。 本日定休日! だそうです。ここは、神戸のピンクゾーンといえばここ!という、新開地は福原の桜筋です。まあ、往年の勢いはまるでありませんが、その街筋に讃岐の金毘羅さんの神戸分社という神社を初めて見つけたのですが、定休日だそうで、笑いました。神社の定休日って、初めて見ましたよ(笑)、あるんですね。ウーン、どなたがお休みなのでしょうね? 歩いてきた道筋を振り返るとこんな感じです。 ここが、あの「桜筋か!?」という雰囲気です。まあ、時間が朝の9時過ぎで、曜日が月曜ですから、こういうことなのでしょうが、さすがですね、驚いたことに、なんちゃらクィーンとかのお店は営業中でした。 まあ、ボクには縁がなさそうなので、湊川公園に向かいます。 秋晴れの、いや、もう冬晴れかも?の楠公さんです。ちょっとそのあたりで一休みして、持参のサンドイッチを頬ばりながらパンくずを投げると、あっというまに集まってきました。 どこにいたのか、最初は鳩が2羽だけいたのですが???。スゴイモンですね(笑)。で、これからどうするかなのですが、まあ、天気はいいのですが、チョット映画でも見ようかなですね。 蒼井優ちゃんです。朝から新開地をウロウロしていた目的はこれですね。それでは、そろそろ始まりそうなので行ってきます。 感想は、また書きますから、また覗いてくださいね、じゃあ。ボタン押してね!
2023.11.21
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「団地も黄葉です!」 徘徊日記 2023年11月20日(月)団地あたり 今日は11月21日、火曜日。朝から快晴です。明るい日ざしのなかで、イチョウの黄葉が美しい季節になりました。住んでいる棟の前の公孫樹です。向うに見えるのは廃校になった小学校の校舎です。 小学校の前の歩道沿いの公孫樹です。学校に子どもがいなくなって半年たちました。静けさが淋しかったのですが、慣れました。歩道に人がいないのはいつものことです。 団地の中にもどって、集会所の近くにある公孫樹です。どの公孫樹も、あざやかに黄葉しています。 集会所から少し南にのぼると欅の林があります。落葉が始まっていますが、今が黄葉です。林の全景を撮ればよかったのですが、下から見上げた青空です。こういう風景というか、景色が好きです。 ああ、今、ちょうど、こういう桜(?)も咲いています。十月桜というのですかね、小粒の八重の花で、地味なのですが、寒くなっても咲き続けます。葉っぱが一枚もないのが、ちょっと凄いですね。 で、オシマイは、団地の正門のバス停の前にある公孫樹です。それほど大きな樹ではないのですが、一年中、ここに立っている姿を見るので、こうして黄葉すると、何とはなしに時の流れを感じます。 まだ、11月なのですが、「また、一年がたちましたね。」 まあ、そういう気分です(笑)。ボタン押してね!
2023.11.20
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三原光尋「高野豆腐店の春」パルシネマ パルシネマが企画した「父娘映画」2本立ての1本が「658km、陽子の旅」、で、もう1本が、この「高野豆腐店の春」でした。監督は三原光尋という方です。「陽子の旅」の熊切和嘉監督のちょうど10歳年長で、同じ大阪芸大出身のかたのようです。 映画の冒頭に、まず、紺のジャンパーに白い前掛けの高野辰雄さん(藤竜也)が水に浸けた大豆の水を切りながら、おそらく、蒸して豆摺りをする機械に入れる作業をしているところに、同じく白い作業着の娘の春さん(麻生久美子)が入ってきて「お早うございます。今日もよろしくお願いします。」 と挨拶をするシーンから映画が始まりました。このシーンがとてもいいなあと思ったんですね。で、その様子を見ていて、普段なら、あくびが出そうなホームドラマなのですが、なんとなく納得して、終始、寛ぎながらノンビリと映画を見終えました。まあ、そういう映画でした(笑)。 そろそろ、本気で体にガタがき始めてはいるのですが、相変わらず、頑固一徹な豆腐屋と、所謂「出戻り」で、父の仕事を律儀に手伝う看板娘、とはいえ、しかし、まあ、さすがに40歳は超えているだろうという娘の、父と娘の物語でした。で、舞台は、あの尾道です。なかなかな設定ですよね。 尾道を舞台に、頑固ジジイの辰雄の老いらくの恋と、春の再婚話がコメディタッチで重ねられて話は進み、無事、ハッピーエンドを迎えますが、ノンビリ見ていて驚いたことは、実はこの映画は「ヒロシマ」を描いた作品だったということでした。 映画の中で、辰雄は「あの雲を疎開先で見た。」という言葉を口にしますが、そうであるならば、2015年くらいがこの映画の現在であるとして、主人公の辰雄とその恋人は優に80歳を超えている年齢なわけで、さすがに、そのことに気づいて驚きましたが、同時に、三原光尋という、1964年生まれの監督が、2023年の、今、「ヒロシマ」を描くという勇気にも驚きました。 ただ、その結果、映画の筋運びが冗長になったことは確かで、いろいろ盛りすぎて、且つ、コテコテの笑いが、ノンビリ見ているボクでさえだるいのが難点でしたね(笑)。 辰雄と春が、毎朝、作業を終えて豆乳を飲むシーン、二人で体操をするシーン、ラストシーンで、もう一度、朝の豆腐作りが繰り返され、そこで、辰雄が口にするセリフ、まあ、ありきたりといえばありきたりなのですが、生活するということが「ありきたり」を繰り返すことだという真実を描いているともいえるとボクは思いました。 藤竜也を主人公として見るのは、なんと、あの「愛のコリーダ」とか、「愛の亡霊」とか以来ですが、彼は今年、なんと、82歳なのですね。だから、実年齢通りの役を演じていらっしゃったわけで、ちょっとびっくりでした。アクションまであるのですよ(笑)。もちろん、拍手!ですね。 相手役の中村久美さんも、春役の麻生久美子さんも素直な演技で拍手!でしたね。監督・脚本 三原光尋撮影 鈴木周一郎編集 村上雅樹音楽 谷口尚久エンディングテーマ エディ藩キャスト藤竜也(高野辰雄)麻生久美子(高野春)中村久美(中野ふみえ)徳井優(金森繁)山田雅人(横山健介)日向丈(山田寛太)竹内都子(金森早苗)菅原大吉(鈴木一歩)桂やまと(西田道夫)黒河内りく(田代奈緒)小林且弥(村上ショーン務)赤間麻里子(坂下美野里)宮坂ひろし(坂下豪志)2023年・120分・G・日本配給 東京テアトル2023・11・17・no141・パルシネマ73!
2023.11.19
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熊切和嘉「658km、陽子の旅」 パルシネマ 熊切和嘉監督の最新作、「658km、陽子の旅」を見ました。パルシネマが企画した「父娘映画」2本立ての1本でした。もう1本が「高野豆腐店の春」です。 両方とも、シネ・リーブルでの封切りが今年(2023年)の夏でした。その時、どうしようかなと考えたのですが、なんとなくパスしました。特に「陽子の旅」は、チョット贔屓にしている熊切監督の作品なので、かなり惹かれましたが、予告編を見て、「なんだかめんどくさそう・・・」 だったので躊躇しました。で、秋になって、早速のパルシネマ企画です。これは見ないわけにはいきませんというわけで、ホイホイやって来ました。 で、映画は始まりました。カーテンを閉めた暗い部屋で、パソコンのトラブルに舌打ちしたり、通販の荷物を受け取り、部屋に運び込みながらスマホを壊したり、ベッドでユー・チューブか何か見ながら寝てしまったりの女性が映っていました。この方が陽子(菊地凛子)さんらしいですね。 なんとなく、どこかで見覚えのあるお顔なんですが、よく知りません。で、なぜだかわかりませんが、ボクは、そのシーンで、白けてしまったのですね。 そこから従弟の竹原ピストルくんがやって来て、父親の死を知らせ、まずは彼の自動車で東京から青森に向かう、まあ、ロード・ムービーが始まるのですが、なんとなくノレませんでしたね。 見ながらよかったのは、たぶん弘前の山とか、おそらく、福島でしょうね、その堤防から見える海とか、時々俯瞰で挿入される高速道路とか被災地の風景、それから登場人物では、ヒッチハイクをしている、まあ、陽子と行きずりで出逢う少女見上愛が、その身の上について「いってもなあ・・・」 と言い切った、時の表情とその一言とか、被災地の老夫婦を演じた風吹ジュンの笑顔でしたね。まあ、ボクの好みですが。 菊地凛子さんが陽子を熱演していたことは認めますが、いいと感じたのは寝顔だけでした。結局、彼女自身に心情を語らせないと映画が成り立っていないのが、熱演を帳消しにしてしまった印象が残りました。 彼女が波をかぶる海辺のシーンも、時々登場する彼女の父親、オダギリジョーくんの幻影も、インチキ野郎との濡れ場も、上滑りしている印象しか残りませんでしたね。 物語を語るために、何が必要なのかというところで、ボクがズレているのかもしれませんが、映画の作り手は、現実の社会と、そこで生きている陽子の内面(?)について、リアル(?)な行為のシーンや、象徴的な夢や幻覚のシーンが必要だと考えておられるのだということが、透けて見えてしまうのがこの映画のつまらなさだと感じました。 たとえば、老夫婦との別れのシーンで、陽子が二人と手を握り合う美しいシーンがあるのですが、その後、やっとのことでたどり着くはずの葬儀場で、彼女がどんなふうに父親の遺体と出会うのかということを、あのシーンで暗示しているつもりで映画が作られているとすれば、陽子の「父との葛藤(?)」の深さに映画は届いていないとボクは考えますが、さすが熊切和嘉ですね、出会わせませんでした。語れないことは語らない! まあ、そういう覚悟のようなものを失って「わかりやすい」ことを求めているかの様相を呈している、今の日本映画を覆っている退廃現象の、なんとか、一歩手前で、ラスト・シーンになって、ようやく、踏みとどまったかに見える熊切和嘉には、「まあ、ぎりぎり、こらえたろ(笑)」 の拍手!でしたね(笑)。 ボクは、この監督に、わけのわからない無言のシーンや風景描写の美しさを期待しているのですが、むずかしいようですね(笑)。監督 熊切和嘉原案 室井孝介脚本 室井孝介 浪子想撮影 小林拓編集 堀善介音楽 ジム・オルークキャスト菊地凛子(工藤陽子)竹原ピストル(工藤茂・従弟)黒沢あすか(立花久美子・最初に乗せてくれた人)見上愛(小野田リサ・行きずりの少女)浜野謙太(若宮修・インチキ野郎)仁村紗和(八尾麻衣子・被災地で暮らす姫路の女性)篠原篤(水野隆太・黙って乗せてくれた人)吉澤健(木下登・被災地の老人)風吹ジュン(木下静江・登の妻)オダギリジョー(工藤昭政・父の幻影)2022年・113分・G・日本2023・11・17・no140・パルシネマ72まt!
2023.11.18
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司馬遼太郎・林屋辰三郎「歴史の夜咄(よばなし)」(小学館文庫) 作家の司馬遼太郎(1923年生~1996年没)と歴史家の林屋辰三郎(1914年生~1998年没)の対談です。司馬 あの狛(こま)というあたりに、黄文(きぶみ)の絵師なんかがたくさん住んでいますね。だから黄文とか、黄色い色を出すというのは、新羅や百済のイメージよりは高句麗のイメージですね。林屋 そうですね。黄色というのはほんとうに大事にされてきたのですね。要するに東・西・南・北は四神といって、青龍・朱雀・玄武・白虎とある、そのまん中はどんな色かと、これが黄色なんですな。司馬 神聖色が黄色というわけですかね。林屋 やっぱりこれは道教じゃないでしょうか。司馬 道教でしょうね。あるいは道教以前から黄色信仰はあったかもしれませんが、道教が吸い上げた。道教では決定的に黄色ですね。林屋 これはびっくりしましたな。かれこれもう十年近く前のことになりますが、伊勢神社の式年遷宮の時に、内宮の中まで開放しましたでしょう。そこで見たんですが、ちゃんと黄色が使われています。そういえば四神では黄色がないですものね。五色と言ったら黄色が入るのです。気がつかないのがふしぎなくらいで、その場合黄色をまん中に置くのですね。ちゃんと内宮と下宮の高欄に、その玉が入っています。 全部白木の中で、あそこだけ五色の極彩色がパーッと見えるんです。司馬 そうですね。私も物見高いものですから、その時の式年遷宮にも、そのまえのときも行ったのですが、あれは鮮やかな印象です。私が親しくなった宮司さんがおりまして、そのときはもう退役して老人になっておられましたが、要するにこれは中国のまねでしょう、と言ったらいやがりましてね。(笑)「思想としては道教じみていて、礼儀は儒教によったわけでしょう?」と言っても「うん。」と言わないのですよ。(笑)伊勢神宮のえらい人としては、やはりこれが惟神(かんながら)の道といいたいものですから。 ところが伊勢神宮が単に神聖な場所というのではなくて、ある程度は国家鎮護のにおいがあって、効きめということでは道教でしょうね。林屋 そうでしょうね。(古代出雲と東アジアP105~106) ちょうど読んでいたところからの引用です。いかがでしょうか、面白いですね。 司馬遼太郎については、さすがに説明はいらないでしょうが、林屋辰三郎というと、「誰?それ?」となりそうです。 金沢のお茶屋の御曹司で、京都帝大の史学科を出て、戦後、長く立命館史学の看板教授でしたが、ボクが学生の頃は、70年の大学紛争で立命館をやめて、京大の人文研の所長とかしておられた日本中世史の第一人者でした。「町衆」とか、「お茶」、「お花」というような京都文化の世界を学問として説いてくれた人です。 まあ、そのお二人が1970年ころに新聞紙上で連載対談なさったのが、1982年に単行本になって、その後、小学館ライブラリーに入っていたらしいのですが、2006年に小学館文庫で再刊されたのがこの本です。 今、思えば、司馬遼太郎という人は、1980年代から90年代の、所謂、「日本論ブーム」の火付け役にして、あれこれ薪を足しつづけることで、「歴史的視点」の広がりや客観性を支えた人だったと思いますが、もし、今、生きていらっしゃって、昨今の妙な歴史観の横行をなんとおっしゃるのか、チョット興味がありますね。 対談のお相手である林屋辰三郎さんの、日本中世史についての著作も、もう一度読み直すべき基本図書だと思うのですが、忘れられているようですね。 手に取ると、あれこれ興味の尽きない、超博識の老人二人の「夜咄(よばなし)」でしたが、元町の古本屋さんで100円でした(笑)。 一応、目次をあげておきます。寂しいことですが、対談をなさっているお二人も解説を書いていらっしゃる陳舜臣さんも、もう、いらっしゃいません。古代史から、江戸、西から東を縦横にしゃべっておられる、在りし日のお二人をなつかしいと感じられたり、まあ、日本がどっちを向いているとかいう方面に興味のある方には、きっと、楽しい本です(笑)。参考までに、一応、目次を載せておきます。 目次遠近の感想―まえがき―司馬遼太郎日本人はどこから来たか まず「古代」を半分にしてみる~古代日本はアジアの標本蔵日本人はいかに形成されたか 日本的律令制のスタート~中世に終止符をうった秀吉古代出雲と東アジア イリュージョンの国・出雲~平和のデモンストレーション花開いた古代吉備 高い生産力を誇る~秀才官僚を産むフロンティアとしての東国 勿来関(なこそのせき)の向う~商業の原点は京都・中京(なかぎょう)中世瀬戸内の風景 生きるのが難儀な時代~津山は投馬(とうま)国か日本人のこころの底流 諦めの浄土と活力の法華~芸術ショックに弱い日本人世界のなかの日本文化 日本の中華思想~世界の文化の事務局にあとがき―林屋辰三郎解説 陳舜臣
2023.11.17
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山崎貴「ゴジラ−1.0」109シネマズハット 見ちゃいましたよ(笑)。山崎貴監督の「ゴジラ−1.0」です。ゴジラ映画70周年なのだそうです。 東宝映画の初代ゴジラと同い年なのを理由にゴジラ老人を自称しているシマクマ君としては、「ゴジラ」と題がつけば見ないわけにはいかないわけで、なんだか評判らしくて、少し億劫だったのですが出かけました。ハット神戸の109シネマですが、やっぱりいい映画館ですね。500人ほど座れそうなホールに20人ほどのお客が座っての鑑賞で、もちろん、ゴジラを見るには、画面も音響もデカイですし、鑑賞環境はサイコー!でしたね(笑)。 で、映画ですが、1945年、敗戦直後の東京を踏み潰す陸のゴジラ、不思議なことに大海原で立ち上がったかに見える海のゴジラ、大きな画面に納得の姿で登場していて堪能しました。 題名は「ゴジラ・マイナス・ワン」と読むそうです。なんで、そういう題なのかは、まあ、わかったような、わからなかったようなですが、久しぶりの和製ゴジラの雄姿には心躍りました。もっと暴れろ!もっと踏みつぶせ! まあ、そんなふうな気分が盛り上がってしまうのがゴジラ映画を見るときの常なのですが、何だか、ずっと怒っているゴジラの表情が笑えましたが、青い放射火炎のエネルギーを充填する新しいアイデアのシーンも、それなりに面白く見ました。 1945年以前、まだ戦争中だった南の島の海軍基地に「原ゴジラ」というべき、チョット小ぶりのゴジラを登場させたのが、まあ、このゴジラ映画の新機軸で、その島で日本人としては最初の「ゴジラ体験」をした特攻帰りの青年にまだ、終わってない戦争 をいかに清算させるかというのが、人間側のメインプロットでしたが、青年を演じた神木隆之介君といい、ヒロインとして登場する浜辺美波ちゃんといい、ゴジラ駆除!(映画の中で、実際に口にされた言葉ですが駆除!ですよ、駆除!ゴキブリじゃあるまいし! の計画を立てる元帝国海軍の技術将校を演じた吉岡秀隆君といい、大根の王様のよう俳優さんたちと、子どもも夫も喪った戦災未亡人を演じた安藤サクラさんや、吉岡君とゴジラ駆除作戦のコンビを務める元海軍将校を演じた佐々木蔵之介君という、どっちかというと達者な俳優との激突で、チョットのけぞりました。 最後の最後に、大日本帝国海軍、最後の切り札、幻の戦闘機「震電」とかが登場して飛ぶところなんて、特撮得意の監督さんとしては、飛ばして撮りたかったんでしょうねえ(笑)、という感じでしたが、結局、体当たりなのですね。それって、脱出シート付きならいいんですかね。何とも、まあ、安易というか、アホか! と言いたくなるような、意味の分からないマンガ的ご都合主義ですよね。 で、頭が吹き飛んでしまって、水没していくゴジラに、作戦に参加した元帝国海軍士官だった復員兵たちが最敬礼するシーンを、結構、長々と入れたのはどういう意図だったのでしょうね。 南方の戦場で無念の戦死で亡くなった日本兵の荒魂(あらみたま)の化身とかいうゴジラ論も読んだことがあるような気がしますが、復員兵たちの「オレたちが日本を守る!」というセリフには、ドン引きのゴジラ老人でした(笑)。 吉岡君に「一人の死者も出さない駆除作戦!」 と叫ばせはするのですが、日本とか、日の丸とか、なんとなくクローズアップされる筋立てと、自衛隊が登場する以前の、戦後社会の描き方に、ちょっと違和感の残るストーリーでした。 しかし、まあ、お堅い話はさておき、ゴジラのあの足音! あの咆哮! で締めたラスト・シーンには拍手!拍手!でした。ゴジラは永遠に不滅!でした(笑)。監督・脚本 山崎貴撮影 柴崎幸三照明 上田なりゆき録音 竹内久史特機 奥田悟音響効果 井上奈津子VFX 山崎貴編集 宮島竜治音楽 佐藤直紀キャスト神木隆之介(敷島浩一)浜辺美波(大石典子)山田裕貴(水島四郎)青木崇高(橘宗作)吉岡秀隆(野田健治)安藤サクラ(太田澄子)佐々木蔵之介(秋津清治)2023年・125分・G・日本配給 東宝2023・11・14・no139・109シネマズハット35!
2023.11.16
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「焼き物の砥部の山の中です!」 徘徊日記 2023年11月12日(日)松山あたり さて、今回の松山徘徊、目的地はこの美しい噴水池でした。松山市から少し南の山沿いにある砥部という焼き物の里の、もう少し奥にある結婚式場ですね。 10年ほど昔、勤めていた高校の図書館で出逢った、当時、高校生だった、だから、今は青年の一人が「11月12日に松山で結婚式をするけど来ない?」 と声をかけてくれてやってきたわけです。 というわけで、到着した11日の夜は、まあ、このブログではおなじみの肴薫というお店で、彼の同級生だった青年たちと合流し、それから、新郎・新婦までお呼びしての宴会でした。 ちょっとはしゃぎすぎたようですが、青年たちのお世話になりながらお泊りしたのがこのホテルです。 久しぶりに式服なんぞというものに身を包み、食べるだけ食べ、飲むだけ飲み、笑いすぎをたしなめられるほどに楽しかった式も終わって、マイクロバスに送っていただいて、帰ってきた大街道です。 一泊二日、同行、同宿で、いろいろ世話を焼いてくれた青年たちは松山空港から飛行機とかで、東京とかへ帰ってしまって、いきなり寂しいだけの徘徊老人にもどって、大街道から銀天街とかをウロウロしながら、やってきたのが松山市駅です。伊予鉄の発着駅で、チンチン電車や市バスの駅ですあ、ここには高速バスのターミナルもあります。 ベンチとか、待合室とか、まあ、いろいろあるのですが、結婚式帰りの徘徊老人は道端に座り込んで電車を眺めながら、17歳で出逢った、担任でも、クラブの顧問でもない図書館の老人を10年もたっているにもかかわらず、彼が出会ったセンセー代表のように呼んでくれた青年夫婦と、相変わらず楽しく世話を焼いてくれた青年たちの、なんともいえない暖かい気持ちを思い浮かべながら煙草をふかし、チンチン電車の写真を撮ったのでした(笑)。 青年たちの一人が、お別れの握手をしながらいってくれた言葉が浮かんできます。「今度、東京で式を挙げるんですが、来てくれますか?」「( ̄∇ ̄;)ハッハッハ、行く、行く、もちろん行くよ(笑)」 まあ、東京徘徊が実現するかどうかはわかりませんが、うれしい別れの言葉、楽しい松山徘徊でした。 帰りの高速バスは、徳島道で事故だとかいうことで、高松道に迂回しました。所要時間に大差はありません。折角ですから、新しい休憩地、高松のどこかのサービスエリアで讃岐うどんを買いました。 今回の徘徊のお土産は、松山銘菓「山田屋饅頭」と讃岐うどん、それから、さかなクンが焼き立てを買ってくれていた松山のパン(お店の名前がわかりません)でした。ボタン押してね!
2023.11.15
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池澤夏樹「十六段の階段」(大岡昇平全集6・月報5・筑摩書房) 作家の池澤夏樹が「いつだって読むのは目の前の一冊なのだ」(作品社)の中で、大岡昇平の「事件」という作品について紹介しています。 その紹介をめぐっては、別に案内しようともくろんでいますが、その目論見のために「事件」が所収されている「大岡昇平全集6」(筑摩書房)を引っ張り出してきて見つけたのがこの「十六段の階段」というエッセイでした。読み直してみると、面白いので案内しておこうと思いつきました。 今回は、本文を写すのではなくて、写真を載せてみようと思います。 いかがでしょうか。引用とは関係ありませんが、今回、久しぶりに大岡昇平全集とか引っ張り出して思い出したことをちょっと書きます。 ボクの、大岡昇平びいきが始まったのは浪人暮らしの1年間を過ごした19歳くらいからですが、大岡昇平全集というのは、1988年の大岡昇平の死後出版された決定版全集で、手元にある第6巻は1995年の初版です。価格は8200円、別巻の対談集を数えれば全24巻です。1995年というのは神戸の地震の年で、ボク自身は40歳を過ぎていて、すでに4人の子どもがいる家庭を営んでいたわけです。その中で1冊8200円の全集を、新刊で揃えたわけですから、まあ、よっぽど好きだったんですね。ちなみに、長男の名前には、彼の名前をそのままいただいています(笑)。 それから30年近くたつわけですが、箱装の箱だけではなく、中身もタバコのヤニで黄ばみかけていますが、読んだ形跡はほとんどありません。作家の生前、単行本で出された本は必ず購入して読んだわけですから、全集を買ったりしたのは読むためではなかったのでしょうね。「欲しい!」 ただ、それだけの気持ちで買い込んだとしか思えません。どうするのでしょうね(笑)。
2023.11.14
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「高速舞子バス乗り場です!」 徘徊日記 2023年11月11日(土)徳島道あたり 今日は2023年11月11日(土曜日)です。朝から高速バス舞子停留所にやってきています。二月ぶりの松山行きですが、今回は高速バスです。 お天気は曇りです。風が少し冷たいですね。六角堂が明石大橋の橋脚の下に見えています。いつものことながら、写真が下手です(笑)。 明石大橋のたもとのバス停に登る長いエスカレーターです。この下でタバコを吸っていて外人さんに叱られたことがあります。マジというか、本気だったので、ちょっとビビりました。誰もいないのに、なんでタバコを吸ったらいけないのか、よくわかりませんでした。 このバス停まで登って来るのは久しぶりなので、うれしくてトンネルの方の写真を撮りました。このトンネルの上に、昔の職場とかあることを考えると不思議です。 バスは、定刻通りやって来て、出発です。松山まで4時間くらいバスに乗りっぱなしですが、途中、淡路島と、徳島道の吉野川のサービスエリア休憩があります。 吉野川のサービスエリアから見える吉野川です。 乗ってきたJRバスです。三列シートで、カーテンで回りを覆うことができる座席です。トイレもついています。 到着しました。松山です。大街道の西の入口あたりにいるタヌキくんです。今年の9月に見つけてから気に入っています。 今日は、ホテルにチェックインして、夜は飲み会です。で、明日は?ですね。続きがあります。また覗いてくださいね。じゃあ、これで。ボタン押してね!
2023.11.13
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小野智美編「女川一中生の句 あの日から」(はとり文庫) どこで知ったのかよく覚えていませんが、注文して届いた本をその場で広げて、読み始めて,絶句しました。落ち着いて読めば、2時間もあれば読み終えることができる内容ですが、なかなかそうはいきませんでした。小野智美編集「女川一中生の句 あの日から」(はとり文庫)です。 2012年、東北の震災の翌年だされた本です。ページを開くと目次の次のページにこんな言葉が載っています。 東日本大震災の後、女川町の女川第一中学校の全生徒約200人が俳句を作った。2011年5月と11月に行われた2回の授業。津波で家族を、家を、故郷の景色を失った生徒たちが、季語にこだわらず、五七五に心の内を織り込んだ。時と共に深まる思いをたどる。 小野智美という女性記者が、俳句を作った中学生一人一人と会って取材し、朝日新聞の宮城版に連載された記事を書籍化した本です。 ページを繰ると俳句のページがはじまります。○○○○さん(3年生)グランドに 光り輝く 笑顔と絆(5月) 3年生の友里さんが津波から2カ月後の5月の授業で詠んだ。被災の現実を感じさせない。学校ではソフトボール部の主将だ。「中総体に向けて燃えていた時なので」と笑いながら言った。 大会を終えた11月、こう書いた。空の上 見てくれたかな 中総体 あの日、友里さんは、山の上の中学校にいた。地震の後、高校から下校途中の姉が中学校に来た。やがて母も駆けつけてくれた。「お姉ちゃんと一緒にいなさいよ」。母は、山の下の自宅へ祖母を迎えに行った。それが最後の言葉ととなった。 あの日に限って朝、『行ってきます』を言わなかった。7月、葬儀を行った。父が手を尽くして集めた写真を袈裟に包んで荼毘に付した。その時だけ、父の前で涙を見せた。母と祖母に今ひと言だけ伝えられるなら、何を? そう問うと、笑顔をつくりながら、声にならない声で答えてくれた。その言葉は、11月に書いた句の中にある。今伝える 今まで本当に ありがとう(11月) いかがでしょうか、ボクが絶句したのは、例えばこの記事だと、父が手を尽くして集めた写真を袈裟に包んで荼毘に付した。その時だけ、父の前で涙を見せた。 というあたりです。7月になっても、友里さんのおかあさんとおばあちゃんは見つからなかったんですね。葬儀の場で声をあげて泣いている少女の姿が浮かびます。 そこから、ありがとうまでを思うと、ページを繰る手は止まってしまうのでした。 まあ、こういう俳句と、それを紹介する記事をまとめた本です。出版されて10年たって、ようやく読み終えましたが、ここに出てくる、この中学生たちはどうしているのだろう?、そんな気持ちになる本でした。乞う、ご一読ですね(笑)。 参考までに目次と著者のプロフィールを貼っておきます。[目次]はしがき003(生徒たち22名の句の紹介)*当サイトではお名前をふせています俳句で鍛え上げられた言葉083佐藤敏郎教諭「十五の心 国語科つぶやき通信」089大内俊吾校長の式辞093阿部航児さんの答辞103付記世界を駆けめぐった108最後の教材「レモン哀歌」116父と娘の15カ月1222度目の春 共振共鳴した日々を刻む135すべては五七五の中に 佐藤敏郎149編者あとがき小野智美(オノサトミ)朝日新聞記者。1965年名古屋市生まれ。88年、早稲田大学第一文学部を卒業後、朝日新聞社に入社。静岡支局、長野支局、政治部、アエラ編集部などを経て、2005年に新潟総局、07年に佐渡支局。08年から東京本社。2011年9月から仙台総局。宮城県女川町などを担当
2023.11.12
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セルゲイ・ロズニツァ「破壊の自然史 戦争と正義Ⅰ」元町映画館 元町映画館がやっているセルゲイ・ロズニツァ特集、題して「戦争と正義Ⅰ・Ⅱ」、「破壊の自然史」と「キエフ裁判」を、Ⅱ,Ⅰの順番で続けてみました。堪えましたが、今回は「破壊の自然史」の感想です。 この「破壊の自然史」は、いわゆるロズニツァ流アーカイヴァル・ドキュメンタリーの手法で作られているドキュメンタリー映画でしたが、今までに見てきた彼の作品とは、「これは、ちょっと?」 と感じる、すこし違った手法が取り入れられていて唸りました。 ナレーションによる解説、あるいは、地名、歴史的時間を表示する字幕が、一切ないのがロズニツァ流です。彼が扱う映像は、撮影主体が誰なのか、ひょっとしたらどこかに表示されているのかもしれませんが、ボクのような観客にはわかりませんが、その時代、その事件を何者かが撮影し、「記録」として保管されてきた白黒で、おそらく無音のフィルムです。 その、音のないフィルムに映し出されている登場人物、例えば演説する人間や叫ぶ人、裁判であれば弁明する被告や木槌を打つ裁判官、ざわめく聴衆、戦争シーンであれば爆音や爆発音が、単なる効果音としてではなく、あたかも「歴史的事実」を描いていくため加えられていくというのがロズニツァの手法です。 当然ですが、そこには制作者による「映画的作為」が働いていて、表現の意図が込められているはずです。それは、ここまでに見てきた「粛清裁判」や「国葬」という作品を見ていて気付いたことでしたが、この作品では、新たに「色」が使われていました。ボクが「これは?」と思ったのはそこでした。 映画の途中から、カラー映像が使用されるのです。それだけなら気づかないのですが、冒頭のシーンで空に浮かぶ雲のシーンが出てくるのですが、後半に差し掛かったころ、そのシーンがもう一度出てきます。で、二度目には色が付いているのです。これは意図的ですね。しかし、その意図がボクには分からないのです。 この映画では第二次大戦末期の英独双方による空襲戦・空爆戦のありさまが繰り返し映し出されています。闇の中から浮かび上がるように襲われる都市の街灯りが映り、次々と落下していく爆弾の影、爆音、閃光、見ていて、何が起こっているのか分からないシーンが続き、瓦礫の山、横たえられた死体、そこを無言で通り過ぎる人々の姿、そういう悪い夢でも見ているようなシーンが重ねられていくのです。連合国による、ベルリン、ドレスデンに対する対ドイツ無差別爆撃だけではなく、ナチスによる対ロンドン空襲のシーンも出てきます。 しかし、まあ、ヨーロッパに限りませんが、明らかなランド・マークでもあれば別ですが、ヨーロッパの都市を上空からの暗い映像や、瓦礫の街並みの写真ではとても見分けられないボクには、それぞれの街が、いったいどこであるのかは、被災地を視察するのがチャーチルであったり、ナチスの将校ゲーリングであることでしかわかりません。 イギリスの将軍、たぶん、モンゴメリー元帥が爆弾工場を慰問して演説したり、なんと、あの、フルトヴェングラーが、多分、兵器工場でワグナーを指揮している、音楽付き映像があったりしますが、そういう、ボクでも知っている特徴的な人物が出てくれば、そこがどこなのかわかるのですが、映像がどんどん重ねられていくと、路上に並べられている死体がどちらの国の国民のものなのかはわかりません。その混乱のなかで、フト「破壊の自然史」という題名が浮かんできたのです。この編集の仕方にこそ、制作者、ロズニツァの意図が込められている違いありません。 そんなふうに、少し落ち着きを取り戻してみていると、カメラが廃墟の街に残った塔を映し出し、その先端に天使の像が現れるのを見てエッ?と思いました。ヴェンダースです。「ここは、ベルリン?」 何だか、突如の訝しさのまま、実はボンヤリしながら、映像に色が付き始めたことに気づきました。別に、映されていることが平和的に変わったわけではありません。相変わらず大量生産されていく爆弾が、今度はカラーになっただけです。瓦礫の山の向うの空が青空になっただけです。 ボクは、この作品を見終えてから1週間たった今、この映画のラストシーンを思い出すことができませんが、空中を落ちていく無数の爆弾が、あたかも水に落ちた石のように、微妙にカーブしながら落ちていく様子を上からとったシーンが繰り返し思い浮かぶばかりです。地上には人間がいるのですが、映画に降臨した天使はどこに行ったのでしょう。 見終えた会場で、渋谷哲也というドイツ映画の研究者のレクチャーを聴きました。ゼーバルトというドイツの作家の「空襲と文学」(白水社・ゼーバルトコレクション)という作品への応答としてこの作品を見るという、なかなか、刺激的なお話だったと思いますが、レクチャーの中で、ヴェンダース映画との関連も出てきたのですが、天使の行方については聴き洩らしたようです。 まあ、それにしても、ロズニツァの映画は疲れますね。今回は「戦争と正義」という組み合わせでしたが、「国家と正義」、「民族と正義」、「宗教と正義」、個人的には「教育と正義」あたりも浮かびますが、「正義」が問い直されるべき時代 そういう時代がすでに到来していることを、ロズニツァは叫び続けているとボクは思います。誰か、後に続く人つづく人を期待しますが、かなり無理そうですね。 まあ、ボクには、とりあえず、ゼーバルト再読が課題の作品でした。イヤ、それにしても、2本続けてロズニツァは草臥れますね(笑)。監督 セルゲイ・ロズニツァ製作 レギーナ・ブヘーリ グンナル・デディオ ウリヤナ・キム セルゲイ・ロズニツァ マリア・シュストバ編集 ダニエリュス・コカナウスキス2022年・105分・ドイツ・オランダ・リトアニア合作原題「The Natural History of Destruction」2023・11・04・no136・元町映画館no212!
2023.11.11
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四元康祐「日本語の虜囚」(思潮社) 洗面鏡の前のコギト 四元康祐眼を開けて鏡のなかの自分を見る眼を閉じてその自分を闇に流そう(マバタキは 慌しくも無言の舞台の暗転息殺す黒子らの汗の臭いよ)眼を開けると 自分はまだそこにいてだがその自分がさっき見たあの自分だという保証はあるのかしらん(あれはあれ これはこれただひたすらに流れるだけの3Dハイヴィジョン)どれだけ覗きこんでも睨みつけても笑いかけても眼は口どころか手ほどにも物を言わんねまるで塀の節穴の向うからきょろきょろとこっちを見ている赤の他人の目玉のよう沐浴するスザンナ もう何世紀にもわたって物陰に屈みこんでその裸身を視姦している二人組の老人たちお尻ふりふり逃げだす対象を視線はしつこく追いかけて景色はめくるめくメリーゴーラウンド意識は続くよどこまでも君はどっちだ 見る人それとも見られる人?目の前に我が手をかざして振ってみる(仰向けのザムザの視野の辺境で これが俺かよコガネムシ風にたなびく脚脚脚脚脚脚・・・・・)可哀相なグレゴール 部屋には鏡ひとつなかったのかねカフカが Die Verwandlung(変身)を書いていたちょうどそのころリルケはWendung(転向)という詩を書いたおなじプラハ生まれのふたりは題名同士の語根も同じ「もはや眼の仕事はなされた/いまや 心の仕事をするがいい・・・・・・内部の男よ 見るがいい お前の内部の少女を」ってリルケは言うけどどんなに眼を閉じたって内部なんか見えるもんか瞼の裏でも目玉親爺は直立不動 律儀に寝ずの番をしているからね夢現を問わず形なし色めくものを片っ端から指差してはあの甲高い声でものの名前を喚き続けるおかげで鬼太郎の大きすぎる頭のなかには名辞の卒塔婆がぎっしりだ虚空に浮かぶ閉鎖系としてのソラマメひと粒からだは殻だ からだは空だ(闇に薔薇 籠に虫の音 胸にひと・・・・・・我は悲しき卓上ビーマー)眼の穴 鼻の穴 耳の穴 そして皮膚のぽつぽつそこから奔流する感覚のことごとくをデカルトは虚空として退けたすえに「そう考えているこのわたし」がそこに存在することだけは揺るがしがたい真理として認めるに至ったがその瞬間の〈わたし〉に自画像を描かせたとしたら一体どんな姿が現れただろう彼は幾何学が好きだったそうだから単純明快な三角形でも描いてみせただろうかだが光学を研究し光の屈折や虹の論文まで書いている人にその頂点近くに丸い孔を描きこむ誘惑に抗うことができたかどうか?丸窓に額押し付けたままなすすべもなく冷たい炎に包まれてゆくアストロボーイラグビーボールひとつ小脇に抱えていろは坂駆け下りる首なし男の気楽な足取り操る者と操られる者の凭れ合い癒着の構造もの言わざれば腹膨るるというその腹をば切り裂いて覗いてみたいな未だ発せられざる言語なるものあえいうえあお「浮かべる脂の如くして水母なる漂へる」粥状なりしややゆぇいゆゆぇやよどこから湧いてくるのかわうぇうぃううぇうぁうぉ文字は干からびきった言葉の吐瀉物そこに己の唾を垂らしてオートミールのごとく素手で掻き混ぜ舌の先ぴんと尖らせて「こをろこをろに掻き鳴ら」す物書く人の姿こそおぞましけれ反吐が出そう「我思う」とは「我言語する」、いやもっと正確に訳すなら「我推敲す、故に我あり空高く我が脳髄を蹴り上げたまえこちら、カモメ」やまとうたは、人のこころをたねとして、よろずのことのはとぞなれりけるって貫之くんは言ったんだ、ならば言葉の蔓をザイルに縒って意識の深層へ降りてゆこうか か、 か、 かるた、たいよう、 うみ、 みる、 る、 る、 るーびっくきゅーぶ、 ぶんしこうぞううぞうむぞう、うくれれれもんみかんぽんかんちかんはあかん?歯ブラシ片手に鏡の前でぽっかり口を開ければ地獄岳暖簾くぐって喉ちんこ ちぎれて揺れる蜘蛛の糸その先どろりと澱む生あったかい闇の奥から立ち昇るのは匂えど無色響けど透明 あれぞ言霊?いいえ、あれはポエムのシャボン玉 星影に誑かされて宇宙を目指し脳天に当たって砕けて消えた 現代詩なんて、長いこと読んだことがなかったのですが、だから、四元康祐なんて言う詩人の名前も知りませんでした。知ったのは池澤夏樹「いつだって読むのは目の前の一冊なのだ」(作品社)に載せられている2011年11月15日の読書日記「デカメロン、きだみのる、陰部(ほと)の紐」(池澤本P395) によってです。 池澤夏樹はこんなふうに紹介しています。×月×日 まいったな、と詩集を手に座り込む。いや、四元康祐の「日本語の虜囚」(思潮社)のことだ。テーマは日本語の歴史、主人公は日本語そのもの、比喩はすべて性交がらみ、 やったわな、やったわな、 大陸渡来の帰化人と 稲作欲しさにやったわな 仏像抱えた鑑真と 漢字貰ってやったわな って、この卑俗きわまる七五調が効き過ぎて痛いほど。 やったわな、やったわな どんな客とも寝てしまう 軽業並みの膠着語 融通無碍のてにをはは アメノウズメの陰部(ほと)の紐 なでしこジャパンの処女性は 万世一系不滅です」これだけのところに注を付ければ何十行になるだろう。こういう圧倒的表現の技術を詩というのだ。 いかがでしょうか、池澤本に引用されているのは「旅物語 日本語の娘」という詩の一節です。下に詩集の目次を写しました。参考にしていただければと思いますが、後ろの数字は所収ページです。一つ、一つの作品が、結構、長くて読みでがあります。若いのかと思っていたら、ボクが知らなかっただけで詩人は1959年生まれで、まあ、もう、お若いというお歳ではありません。長くミュンヘンに暮らした人のようです。詩は日本語で発表されているらしく、思潮社の現代詩文庫179に「四元康祐詩集」があります。いずれ読むことになりそうです。目次日本語の虜囚 009洗面鏡の前のコギト 017多言語話者のカント 025歌物語 他人の言葉 035旅物語 日本語の娘 045島への道順 063マダガスカル紀行 069新伊呂波歌 079ことばうた 109こえのぬけがら 113うたのなか 117 われはあわ 121うみへのららばい 125みずのれくいえむ 129虚無の歌 133日本語の虜囚―あとがきに代えて140
2023.11.10
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